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「オランダ風車「リーフデ」」と水上花火とのコラボ。実況放送では「音・光・色の特大スターマインです」👈️リンク と。夜空を彩る大輪の花火が風車の後ろで次々と打ち上げられた。金色や赤、青、緑といったカラフルな扇形の花火が、風車を照らし、風車のシルエットが美しく際立って。上空から見れば、花火の光が水面に映り、幻想的な雰囲気を醸し出しているのであろう。ズームして。パソコンでAIイラストを作って遊んでみました。そして特大スターマインが2箇所同時に。高圧線鉄塔も赤く染まって。そして今年の花火の総仕上げ、特大スターマインの3発連続。そしてフィナーレには特大2尺玉3発連続打ち上げ。「是非、シャッターチャンスを逃さないようにしてくださいね!!」との放送。2尺玉(20号)は60cm径の巨大花火、打ち上げ高さは500m、開いた時の直径は約480mとのこと。この写真はネットから。2尺玉の花を追う。地上に火の粉が舞い降りるのであった。そして最後の3発目。お見事!!2尺玉の3発連続打ち上げ!!多くの子供たちから「玉屋!!」の声が一斉に放たれたのであった。そして空砲・4号信号玉が放たれ、「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」が終了したのであった。時間は20:30前。帰路の混雑を避ける為、30分ほど席で待機、そして京成臼井駅まで向かったのであった。「佐倉花火フェスタ2024」は、市制70周年を祝うにふさわしい壮大なイベントであった。美しい夜空に打ち上げられた花火は、まさに圧巻の一言。今年のフェスタでは、例年に増して多彩なプログラムが用意されており、どれも素晴らしい演出であった。特に印象に残ったのは、市制70周年をテーマにした記念花火。時間とともに変化する色と形、そしてそれに合わせた音楽が一体となり、佐倉市の歴史と未来を感じさせる感動的な瞬間を作り上げていた。空高く上がった花火が大輪を咲かせ、その火の粉が夜空を彩りながら舞い散る様子は、観客全員の心に強く刻まれたこと間違いなし。また、フェスタ全体を通して感じたのは、地元の人々の一体感と温かさ。訪れる人々に対するおもてなしの心が感じられ、佐倉市が70年にわたって築いてきた絆を改めて実感。この花火フェスタは、ただの花火大会ではなく、佐倉市の歴史と未来、そして市民の誇りを象徴する素晴らしいイベントになっているのであった。佐倉市制70周年を記念する「花火フェスタ2024」は、多くの人々にとって忘れられないこの夏の想い出となり、佐倉市のさらなる発展と繁栄を祈る良い機会となったと感じたのであった。そして京成臼井駅に孫たちも一生懸命歩き何とか辿り着き、来年のフェスタも、今回以上に素晴らしいものになることを期待し、1年後両家全員での再会を約束してそれぞれの宿への帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.09.09
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水上花火が続く。2尺玉(20号玉)が打ち上がる。そして、開花の後には。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.08
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19:00 から開始された「手筒花火」を堪能した後は、19:20 打上げ開始までしばしの休憩。時間は19:17。「オランダ風車「リーフデ」」も内部が点灯され、打ち上げを待っていた。左手には、「跳ね橋」の姿が。最も多く見られる跳ね橋は蝶番を備えた木製の橋桁を、城壁面に取り付けられたロープや鎖で反対側へと跳ね上げるタイプのものである。 単純な構造の跳ね橋は川幅の狭い運河でよく見られた。 その構造は橋脚脇を回転軸として釣り合い重りを利用して、橋桁をハの字に跳ね上げるものである と。遠く手印旛沼の先に花火が上がっていたのでズームして。この日に行われていた手賀沼または松戸の花火大会が見えたのであろうか?「オランダ風車「リーフデ」」をズームして。そして19:20になり、カウントダウンが始まり打ち上げ花火の開始。スターマイン4号玉が連続して打ち上げられたのであった。ズームして。花火が暗闇に広がり、一瞬で消える美しい模様が、まるで空をキャンバスにしたアートの如くに見えたのであった。赤や金、緑や青など、多様な色が鮮やかに輝き、星型やハート型、しだれ柳のような形が次々と夜空に広がるのであった。暗い夜空に広がる多彩な色、様々な形やパターンで広がる光を暫し楽しんだのであった。轟音と共に広がる光の波が、五感に訴える美しさをもたらすのであった。巨大な花火が夜空一面に広がる時、そのスケールの大きさと迫力が圧倒的な美しさを感じさせるのであった。多くの人々が一斉に拍手をし、共に感動を共有する瞬間の美しさ。様々な形やパターンで広がる光が、それぞれ異なる美しさを演出。次々と打ち上がる花火が、色や形を変えながら継続する美しさを表現。花火が頭上で花開く度に、周りから「ウォー」の歓声が一斉に、そして拍手が。花火が弾ける瞬間、光が放たれ、刹那の美しさが印象的。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.06
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そして時間は18:58、手筒花火のカウントダウン。そして、「手筒花火」👈リンク のスタート。関東内でも珍しい、迫力ある手筒花火を間近で見ることができたのであった。手筒花火は人が小脇に抱えたまま燃焼させる手持ち花火で、竹筒に火薬を詰めて荒縄を巻いた手筒から豪快な火柱が十数メートルも上がる。全身に火の粉を浴びながらの演舞は、圧巻!!全身に火の粉を浴びながらの演舞。手筒花火は、その瞬間的な美しさと迫力で見る者を魅了するのであった。手筒から打ち上げられる炎の滝は、まるで夜空に咲く巨大な花の如くに。オランダ風車を背景に3本の共演。これぞ火の粉のカオス。両側に2本ずつ。そして5本に。手筒花火は18歳になれば誰でも揚げることができると。ただし、自分が揚げる手筒は自分で作ることがルールと。流儀は場所によって多少の違いはあるが、黒色火薬と鉄粉に焼酎を加えて練り合わせるのが基本。竹筒はまっすぐで真円であること。長さは約1㍍、直径は10㌢㍍程度が標準と。ズームして。手筒花火は、日本文化において、技術と精神、そして人々の絆が一体となった象徴的な存在であり、これからもその伝統は未来へと受け継がれていくのであろう。観客の向かって火の粉を放つ。まさに職人技と精神力が融合した伝統芸能の極み。手筒を抱える勇者の手元から、黄金色の火花が荒々しく噴き上がり、その一筋一筋が夜空に描く光の曲線は、まるで一瞬の夢の如し。火花が放つ明るい光と、そこに漂う煙が混じり合い、幻想的な雰囲気を作り出す。手筒を支える人々の無言の決意と、火花が爆ぜる音の力強さが相まって、その場にいる全ての人々の胸を打つのであった。火花が一度に噴き出し、輝きが絶頂に達する瞬間、手筒花火はまるで夜空を燃やすかのように、その美しさを最大限に表現するのだ。この一瞬のために、長い時間をかけて準備される手筒花火。その手間暇が結晶となって、観客に忘れがたい光景を見せてくれたのだ。手で抱えた筒から勢いよく噴き出す火花は、鮮やかな光の筋となって空へと広がり、見る者の心に深い感動を与えるのであった。その炎は熱く、音は力強く、夜の闇を切り裂いて光り輝く一瞬を生み出す。手筒花火の美しさは、その儚さとともに、生命の力強さを感じさせるのであった!!二人がかりで。白の世界のスタート。炎は10㍍もの高さに立ち上がり、大量の火の粉が降り注ぐ。最後は轟音とともに竹筒の底から炎が一気にドカーン!と噴き出す。これをハネという と。ドッカ~ン!再び、一斉に手筒花火を観衆に向けて火花を放つ。この手筒花火は、ただ見た目の美しさだけでなく、日本人が持つ「和」「絆」「勇気」といった価値観を具現化していること間違いなし。地域社会の団結や、先祖への感謝、自然への畏敬といった、伝統的な日本の精神がこの手筒花火に込められていることを実感。火花の色が再び白に変わる。日本文化の「一期一会」や「無常観」といった価値観を、これぞ象徴。その一瞬の美しさと儚さは、人生の一瞬一瞬を大切にする心を教えてくれるのであった。手筒花火を担う者たちは、自らの身体をリスクにさらしながらも、その危険を乗り越えることで、地域社会との結びつきを強めている、その信仰や伝統への深い敬意を。美しくも儚いその輝きは、見る者に一瞬一瞬を大切にする心を思い出させてくれる、まさに日本の文化が誇る美の象徴なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.05
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この日は8月3日(土)、今年も、長女のパートナーのご両親から、この日に開催の「佐倉花火フェスタ 2024」へのご招待をいただきました。千葉県佐倉市で開催される花火大会。コロナの影響で一昨年は打上げ場所を複数箇所に分散した「分散花火大会」として開催されてきたが、昨年2023年は4年ぶりに印旛沼湖畔で開催。そして今年2024年は、市制70周年にちなんで過去最大発数の2万+尺玉大玉70発を打ち上げたのであった。印旛沼の広大な敷地を活かし、開花時直径約500メートルの大輪が上空500メートルで咲く佐倉名物・2尺玉花火が合計4発打ち上った。また、大好評のビッグ・プレミアム・スターマインは今年も実施。「音楽と連動して打ち上げるワイドスターマイン」が、約10分間で8000連発以上が打ち上げられたのであった。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。人気があり予約するのが遅れたためか、禁煙ツインは満室とのことで喫煙可を2部屋予約。そして横須賀線、京成本線を乗り継ぎホテルにチェックイン。「ユウカリが丘」駅に隣接したホテル。部屋の窓から「山万ユーカリが丘線 ユーカリが丘駅」を見下ろす。花火会場の印旛沼方面を見る。そしてそして、チェックイン後部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅へ。待ち合わせ場所の隣の駅の「京成臼井駅」まで向かう。長女家族4人、長男家族4人とも京成臼井駅で17時過ぎに待ち合わせ・合流し、佐倉のご両親とも合流し、花火会場の『佐倉ふるさと広場』に徒歩で向かう。今年のポスター「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」発数増量 2万発+70発18:50~20:30印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場)」と。こちらにも。佐倉のご両親が準備して下さったビール、ジュース類、お弁当等を2台のキャリーカート台車に載せこれを引っ張って、京成本線の線路沿いを進む。既に、無料の場所である水田沿いの畦道には多くの見物客がブルーシートを敷いて花火の打ち上げを待っていた。時間は17:20前、まだまだ日射が強いため、皆さん日除けの傘を。途中の田んぼ沿いの道には模擬店が既に営業中であった。25分ほど歩くと、前方に「オランダ風車「リーフデ」」の姿が現れたのでズームして。歩いたのは緑Cのルート、徒歩約40分のコースと。会場に近づくにつれて次第に混雑してきた。まだ車両規制は始まっていなかった。そして、花火会場の入口に到着。時間は17:40前。「オランダ風車「リーフデ」」に向かって、我々の座席を探しながら歩く。我々の座席は「オランダ風車「リーフデ」」前の「有料観覧S会場」。私のチケット。「Gブロック 87番」と。「有料観覧S会場」は3席+2席=5席/ブロック。ブルーシートが見事に敷かれた会場。有料観覧S会場座席表。我々の席は◯。印旛沼はやや左手下部方向であるので打ち上げ花火は真正面に。座席を見つけた後は「管理棟」を振り返る。その右手には仮設トイレが並ぶ。こちらは、椅子4席+円形テーブルの「有料観覧かしま会場(ファミリーシート・駐車場あり)」。写真はネットから。そして、花火の打ち上げ前の、準備いただいた弁当、ビールを楽しむ。そして印旛沼の夕景をカメラで追う。2本のプラタナス?の巨木に向かって夕日が傾く。時間は18:15。「オランダ風車「リーフデ」」も夕陽を浴びて。次第に席が埋まって来た。時間は18:25。西の空は真っ赤に染まって。「管理棟」方向を振り返って。夕陽が印旛沼の水面に向かって。再び。高圧鉄塔と「オランダ風車「リーフデ」」のコラボ。「佐倉市の夏の風物詩「佐倉花火フェスタ2024」が8月3日(土)に開催!今年も県内最大級のニ尺玉を4発打ち上げるほか、関東では珍しい手筒花火など豪華なプログラムで観客を魅了する。また、音楽に連動して花火を打ち上げるビッグプレミアムスターマインが、今年は10分間に8千連発!県内最大規模となるビッグスターマインの迫力と音楽とのコラボレーションを楽しもう!市制70周年を記念して今年は合計で2万+ 70発の花火が佐倉の夜空を染め上げる!ケーブルネット296では、打ち上げの模様を地デジ11chにて生中継でお届けするほか、8月10日(土) ~ 18日(日)に当日の感動をプレイバック放映します!ぜひご自宅のテレビで佐倉花火フェスタの模様をお楽しみください。」と。こちらは「花火カード」と。クラウドファンディングを行い、返礼品に有料観覧席を選んだ方に、数量限定・花火カードをプレゼントしま!と。そして18:50を過ぎ、開会セレモニーの開始。大会実行委員長?の挨拶が始まった。佐倉市市長:西田三十五氏の挨拶。上空には成田空港を離陸したナイトフライト(夜間飛行)の旅客機の姿が。線路向こうの住宅の2Fベランダには多くの人が集まっていた。これぞ特等席!!こちらの家では窓を開けて打ち上げを待っていた。 ・・・つづく・・・
2024.09.04
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この日は8月30日(金)、雨の中、仕事で群馬県高崎市に行って来ました。新幹線の「高崎駅」の中央通路で「上野三碑(こうずけさんぴ)」の紹介展示が行われていました。「上野三碑とは 👈️リンク上野三碑とは、群馬県(古代の上野国(こうずけのくに))高崎市南部の山名町・吉井町にある飛鳥・奈良時代に建てられた3つの石碑(山上碑・多胡碑・金井沢碑)の総称です。いずれも古代の多胡郡の範囲に建てられました。上野三碑は特別史跡日本国内にわずか18例しかない平安時代以前の石碑・石塔が、古代の多胡郡に3つも集中することは、歴史的に特筆されます。その重要度の高さから、三碑は国宝と同じ価値が認められた特別史跡に指定されています。上野三碑からわかること上野三碑は、今から1300年前頃の地方行政制度のあり方、豪族間の婚姻関係、古代の家族意識、仏教思想の広がりなど、実に多くのことを現代のわたしたちに伝えてくれます。上野三碑の存在は、アジア大陸を起源とする政治制度・漢教化・仏教が、その東端である日本列島に到達し、さらに東へ遠く離れた国に伝来して、受け人れられたことを示しています。また、古代多胡郡域の地域経営には、渡来人などの知識層が関わっていたと考えられ、この地域に異なる文化をもつ人々が共に生活する「多民族共生社会」がはぐくまれていたと考えられます。地域が守ってきた歴史遺産約1300年前に建てられた上野三碑は、戦争や社会の混乱をくぐりぬけ、保存されてきました。地域の人々の努力がなければ、現在の私たちはこうした貴重な歴史遺産を見ることができなかったでしよう。今後は私たちが上野三碑を後世に伝えていかなければなりません。「古代の石碑・石塔の位置」。「上野三碑1300年前の東アジアの文化交流を記す日本最大の石碑群」「多胡碑(たごひ)」笠石 幅95cm 奥行90cm 中央厚さ27cm 裏面にホゾ穴あり碑身 高さ129cm (台石を含まない) 幅69cm 厚さ62cm 上面にホゾあり石材 牛伏砂岩(うしぶせさがん、多胡石)銘文 縦書き6行80字〔解説〕碑文には、中央政府からの命令で、上野国の隣接する片岡郡・緑野郡・甘良郡の3つの郡から300戸を分けて、新たに多胡郡を設置したとの経緯が記されている。本碑は、新郡の首長(大領(たいりょう))に任命された「羊」によって建立されたと見ることができる。特筆されるのは、碑文の内容が8世紀の正史である『続日本紀』和銅4年(711年) 3月辛亥(6日)条に記載される多胡郡設置の記事と一致していることである。まうんれいひ方柱形に整えた碑身に笠石を載せる形状は、新羅の真興王が巡行の地に建てた磨雲嶺碑(568年)・北漢山碑(568年頃)や、日本の那須国造諢(700年)などに類似する。また、碑文の文字が大きく見やすく刻まれていること「尊」の用字法などから単に見せるだけでなく、人々に読み聞かせることを意図したものと考えられる。石材は地元で産出する牛伏砂岩(石質ワッケ)で、コンクリートと同等の強度がある。碑文に建立の年月日は記されていないが、『続日本紀』の記事からも711年頃に建てられたと推定できる。碑文の書体は中国南北朝時代の摩崖碑に通じるものがあるとされるが、字体は完成された階書であり、山上碑に較べて新しい要素が認められる。碑の存在を示すものは、連歌師の柴屋軒宗長の旅日記である『東路のつと』(1511年)に「上野国多胡郡弁官符碑」と見えるのが最初である。」〔記憶情報〕碑文の書風は完成された楷書体で丸彫りされている。1756年(宝暦6年)の沢田東江著・高橋道斎校 訂『上毛多胡郡碑帖』に碑文が掲載されているが、この文献は1764年(宝暦14年)に徳川家治の10代将軍就任に際して訪れた朝鮮通信使の書記であった成大中らに寄贈された。さらに燕行使(朝鮮国が中国に送った使節)によって清国の清風四大書家の一人である翁方綱へと伝えられた。そして、1880年(明治13年)に来日した清国の学者である楊守敬は、自著『楷法溯源』を日本の書家たちに頒布したが、ここに多胡碑文の39文字が収録されていたことから、多胡碑の書道史上での貴重さが広く認識されるようになった。多胡碑は、書道の世界において18世紀から今日に至るまで、日本・朝鮮半島・中国の文化交流に寄与し続けている。」「多胡碑(たごひ)ー新しい郡をつくった記念の碑ー所在地 群馬県高崎市吉井町池字御門1095指定年月日 史跡 大正10年(1921) 3月3日 特別史跡 昭和29年( 1954 ) 3月20日多胡碑は、711 (和銅4 )年に多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。日本の正史である『続日本紀』にも多胡郡建郡についての記事があり、多胡碑の内容を裏付けています。碑文中の「羊(ひつじ)」の文字については人名と考える説が有力で、「羊」は多胡郡の初代長官であり、渡来系の人物であった可能性があります。多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯とみられています。この地は、かっての緑野屯倉(みどののみやけ)や佐野屯倉の領域を含むと考えられ、先進的な渡来系技術が導入され、窯業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地帯になっていました。これらのことから、多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられます。」多湖碑に刻まれた銘文の拓本。「碑文弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊「読み方弁官符[おお]す。上野国の片岡郡[こおり]、緑野[みどの]郡、甘良[から]郡并せて三郡[みつのこおり]の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡[たごのこおり]と成せ。和銅四年三月九日甲寅[きのえとら(こういん)]に宣[の]る。左中弁・正五位下多治比真人[たじひのまひと]。太政官・二品穂積親王[にほんほづみのみこ]、左太臣・正二位石上尊[いそのかみのみこと]、右太臣・正二位藤原尊[ふじわらのみこと]」「現代語訳朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(七一一)年三月九日甲寅に命令が伝えられた。左中弁・正五位下多治比真人(三宅麻呂)から送られた天皇の命令書である。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上(麻呂)尊、右太臣・正二位藤原(不比等[ふひと])尊。」裏側に廻って。正面右に「山上碑」、左に「金井沢碑」。「山上碑高さ111cm 幅47cm 厚さ52cm石材 輝石安山岩銘文 縦書き4行53字 」。[解説]碑文には、三家子ロの一族が祖先供養のために仏教によって結縁し、天地に誓願したことが書かれている。自然石をあまり加工せずに使った形状は、新羅の蔚珍鳳坪碑(524年)・丹陽赤城碑(545年頃)・昌寧碑(561年)などに類似し、石材と形状は山上碑( 681年)と同類である。碑文の書体は山上碑と共通するところが多く、隷書体の特色をもつなど古い特徴を備えている。碑文の第1行目にある「上野国群馬郡下賛郷高田里」の表記は、717年(霊亀3年)~ 740年(天平12年)に施行された国郡郷里制による地方行政単位に一致しており、この制度が上野国においても実施されたことを示す資料である。また、「次(人名)、次(人名)・・・」という一族の系譜の書き方や「鍛師礒部君身麻呂」という職名と姓名を合わせた表記は、702年(大宝2年)に作成された「御野(美濃)国戸籍」での記載方法と同様で、上野国でも課税や兵士の徴発のための戸籍づくりが行われていたことを示す最古の実例である。〔記憶情報〕碑文にある「七世父母」という用語は、中国の仏教的碑文に例が多く、5 ~ 7世紀の朝鮮半島の石碑・石像では釜山市の東亜大学校博物館所蔵の三尊石仏像銘(489年)を最古として、国立公州博物館所蔵の三尊千仏碑銘(673年)などの4例が確認されている。日本でも7世紀後半の仏像銘などに見ることができる。また、「誓願」という語句も仏教的な性格を持っており用例も多い。東国でこれらの語句が用いられたことは、古代の地域社会で在来信仰を下地としながら仏教が定着していく過程を物語っている。東アジアに広がる仏教信仰の受容のあり方とその地域性を示す原資料として貴重である。「山上碑 ー完全な形で残る日本最古の石碑ー所在地 群馬県高崎市山名町山神谷2104指定年月日 史跡 大正10年(1921) 3月3日 特別史跡 昭和29年(1954) 3月20日山上碑は、681年に長利という名の放光寺の僧が、母親の供養のために建てた石碑です。碑文には、長利の系譜が刻まれています。長利の母親である黒売刀自(くろめとじ)は佐野三家(高崎市佐野地区にあったヤマト政権の直轄地)の管理者の子孫であり、父親の大児臣は上野国東部の豪族の子孫です。自然石を使用した山上碑の形状は、朝鮮半島新羅の石碑に類似しており、渡来人が碑の建立に関わっていたことを示しています。山上碑は、地方における古墳文化から仏教文化への変遷、渡来文化の影響、古代の家族制度などをうかがい知ることのできる貴重な石碑です。山上(やまのうえ)古墳石碑の憐にある山上古墳は、7世紀前半から中頃につくられたと考えられています。黒売刀自の父親のためにつくられ、後に黒売刀自が追葬されたと推定されています。」「解説山上碑は、完全な形で残るものとしては日本で最古の石碑である。碑文は、6世紀から7世紀前半にかけてヤマト王権が置いた軍事・経済的地域拠点である佐野三家( =屯倉)を管掌した豪族の子孫である放光寺僧の長利が、母の黒売刀自のために、その墳墓である山上古墳の傍に建立したものである。自然石をあまり加工せずに使った形状は、朝鮮半島の新羅の蔚珍鳳坪碑(524年)・丹陽赤城碑(545年頃)・真興王昌寧碑(561年)・南山新城碑(591年)などに類似する。碑文の第1行目の「ロ年ロ月ロ日記」の表記形式は7世紀代の金石文や木簡に共通するもので、書体には隷書体の特色もつなど古い特徴を備えている。地元の伝承では、東側に隣接してある山上古墳の側にあった、あるいは丘陵の下に移されていたと伝えられるが、1875年(明治8年)頃には現在地に近い場所に建っていたとされる。〔記憶情報〕碑文はすべて漢字で書かれているが、日本語の語順のとおりに読むことができ、現在につながる日本独自の漢字の使用法の原形が示されている。同じ漢字文化圏の中国、韓国、さらにベトナムにとっても貴重な歴史資料であり、それぞれ地域性を示す原資料として国際的に共有されるべきものである。」「長利の家系図」。長利の母親である黒売刀自(くろめとじ)は佐野三家(高崎市佐野地区にあったヤマト政権の直轄地)の管理者の子孫であり、父親の大児臣は上野国東部の豪族の子孫です。山上碑に刻まれた銘文の拓本。「碑文辛己歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也放光寺僧」「読み方辛巳歳集月[かのとみ(しんし)としじゅうがつ]三日に記す。佐野三家[さののみやけ]を定め賜える健守命[たけもりのみこと]の孫の黒売刀自[くろめとじ]、此れ新川臣[にいかわのおみ]の児の斯多々弥足尼[したたみのすくね]の孫の大児臣[おおごのおみ]に娶[とつ]ぎて生める児の長利僧[ちょうりのほうし]が、母の為に記し定むる文也。放光寺[ほうこうじ]僧」「現代語訳辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。」「山上(やまのうえ)古墳山上古墳は、山上碑の東隣にある直径15mの円墳です。中心には南に開いた横穴式石室(奥行き7.4m)があり、地元産の凝灰岩[ぎょうかいがん]の切石を組み、仕上げてあります。こうした切石積み石室は、飛鳥時代(7世紀)につくられたもので、碑に近接することから黒売刀自の墓所と推定されます。ただし、本古墳は7世紀前半から中頃のもので、山上碑が建てられた時期(681年)よりも数十年古いと考えられます。このことから、もともとは黒売刀自の親の墓として造られ、後に黒売刀自が追葬[ついそう]されたのでしょう。」そして「金井沢碑」高さ110cm 幅70cm 厚さ65cm石材 輝石安山岩銘文 縦書き9行112字」「金井沢碑 ー仏教の教えで結ばれた一族が建てた石碑ー所在地 群馬県高崎市山名町金井沢2334指定年月日 史跡 大正10年( 1921 ) 3月3日 特別史跡 昭和29年( 1954 ) 3月20日」726 (神亀3 )年に、三家(みやけ)氏を名乗る豪族が仏の教えにもとづいて先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑です。三家氏は、かって佐野三家を管理し、山上碑を建てた豪族の子孫であると考えられます。碑文には、三家氏一族の6人と、同族とみられる3人、あわせて9人の名が刻まれています。碑文中の女性が、結婚後も実家の姓で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることから、現代とは違う家族意識を読みとることができます。ちなみに、碑文に出てくる「群馬」の文字は、県内では最古の事例であり、群馬県の名前のルーツを知る上で非常に重要な資料です。このように、金井沢碑からは、古代東国での仏教の広がり、家族関係などを知ることができます。」「三家一族の家族関係」碑文には、三家氏を中心とした9人の名前が記されています。碑を建てたのは三家子□(□は欠字)という人物で、上野国群馬郡下賛郷高田里[こうずけのくにくるまのこおりしもさぬのさとたかだのこざと](現在の高崎市上佐野町・下佐野町周辺か)に住んでいたようです。続いて、三家子□の妻と娘[物部君[もののべのきみ]氏に嫁ぐ]、孫3人の名前が登場します(グループ1)。この6人ほか、同族とみられる三家毛人[みやけのえみし]・知万呂[ちまろ]の兄弟と礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の3人の名がでてきます(グループ2)。碑文からは、女性が結婚後も実家の氏の名で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることがわかり、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていたと考えられます。さらに、地名の表記などからは、当時の行政制度(国郡郷里[こくぐんごうり]制)の整備状況が分かります。ちなみに、碑文に出てくる「群馬」の文字は、県内では最古の事例であり、群馬県の名前のルーツを知る上で非常に重要な資料です。このように、金井沢碑からは、古代東国での仏教の広がり、家族関係、行政制度の実態などを知ることができます。」と。金井沢碑に刻まれた銘文の拓本。「碑文上野國羣馬郡下賛郷高田里三家子□為七世父母現在父母現在侍家刀自(他田)君目(頬)刀自又児(加)那刀自孫物部君午足次※刀自次(若)※刀自合六ロ又知識所結人三家毛人次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三ロ如是知識結而天地誓願仕奉石文神亀三年丙寅二月廾九日」「読み方上野国[こうずけのくに]群馬郡[くるまのこおり]下賛郷[しもさぬのさと]高田里[たかだのこざと]の三家子□が、七世[しちせい]父母と現在父母の為に、現在侍[はべ]る家刀自[いえとじ]の他田君目頬刀自[おさだのきみめづらとじ]、又児[こ]の加那刀自[かなとじ]、孫の物部君午足[もののべのきみうまたり]、次に※刀自[ひづめとじ]、次に若※刀自[わかひづめとじ]の合せて六口、又知識を結びし所の人、三家毛人[みやけのえみし]、次に知万呂、鍛師[かぬち]の礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の合せて三口、是の如く知識を結び而[しこう]して天地に誓願し仕え奉[たてまつ]る石文[いしぶみ]神亀[じんき]三年丙寅[ひのえとら(へいいん)]二月二十九日※は「ひづめ」(馬偏に爪)」「現代語訳上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子□が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀三(七二六)年丙寅二月二十九日*用語家刀自―家を統括する女性の位。主婦。知識―仏教の教え。鍛師―製鉄や金属加工に携わる職。」そして、現在、上記の「上野三碑」を巡るバス・「上野三碑めぐりバス」を運行していると。バス時刻表。吉井駅⇆金井沢碑を往復運転中と。駅⇆「上野三碑めぐりバス 巡回ルート」図。「上野三碑めぐりバス」。「chatGPT」に纏めてもらいました。上野三碑(こうずけさんぴ)は、群馬県高崎市にある3つの古碑の総称で、日本の歴史や文化を深く知る上で非常に貴重な遺産です。これらの碑は、7世紀末から8世紀初頭にかけてのものであり、古代日本における文化交流や国家形成のプロセスを示す重要な証拠となっています。魅力と評価 1.歴史的価値: 上野三碑は、日本国内に現存する最古級の石碑であり、古代日本の文字文化や 官僚制度の発展を示す貴重な資料です。これらの碑は、奈良時代以前に日本で文字が どのように使われていたかを直接的に伝えています。 2. 文化的意義: 上野三碑は、古代の日本がどのように仏教や中国文化の影響を受け、それを 受け入れつつも独自の文化を形成していったかを示すものです。これにより、地域の文化や 信仰の変遷を理解する手がかりとなります。 3. 学術的評価: 上野三碑は日本国内外の歴史学者や考古学者からも高く評価されています。 これらの碑文を通じて、古代日本の政治、宗教、社会構造についての新たな知見が得られる ため、研究対象としての重要性が非常に高いです。 4. 世界遺産への登録: 上野三碑は、2017年にユネスコの「世界の記憶」に登録されました。 これは、上野三碑が世界的に見ても歴史的価値があると認められた証です。この登録により、 国内外からの観光客が増加し、地域の魅力がさらに高まっています。 5. 観光地としての魅力: 上野三碑は歴史的価値だけでなく、自然豊かな環境の中に位置しており、 訪れる人々に心地よい散策の場を提供しています。また、周辺には温泉地やその他の 観光名所も多く、地域全体での観光の魅力が高まっています。結論 上野三碑は、古代日本の文化や歴史を理解する上で非常に重要な存在です。その歴史的・ 文化的価値は国内外で高く評価されており、世界遺産登録によってその魅力はさらに広く 知られるようになりました。また、観光地としても訪れる価値があり、群馬県高崎市の 観光資源としても重要な役割を果たしています。 ・・・おわり・・・
2024.09.03
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この日の最後に訪ねたのが「浄土宗 大蓮寺」。川越市元町2丁目8−25。「大蓮寺」の「山門」。「来迎山 大蓮寺」。境内の開運出世 稲荷大明神・「拂稲荷社」。内陣。龍の切り絵。「災厄(さいやく) 拂(ふつ)稲荷社」と。正面に本堂。石仏群。左側の石仏群。石仏の台座には「四國八十八箇所 西國三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、日本百八十八箇所」と刻まれていた。「瑞?信」碑。「南無阿弥陀仏」碑。奥にあったこの石仏は?六地蔵。左から地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天の六道。本堂に近づいて。両側に「阿弥陀如来像」か?右側。左側。本堂にさらに近づいて。扁額「大蓮寺」。碑の上部、蓮の花の上に「阿弥陀如来」を表す梵字であるキリークが。その下にも文字が??「聖観音菩薩」像であろうか?ズームして。「靈均巡招之誌」か。「子育延命地蔵堂」。「子育延命地蔵尊」と書かれた赤い幟が参道両脇に並んでいた。近づいて。「子育延命地蔵堂」。扁額「子育延命地蔵尊」。「子育延命地蔵尊」。大蓮寺二十三世玄譽存龍上人が、富士山での三年間の荒行に酬い大正2年、大本山増上寺より賜ったお地蔵様。「掲示板」。「寺宝紹介 釈迦三尊像釈尊は、初夜・中夜・第三夜と瞑想思惟して十二月八日の明けの明星が輝く頃、ついに真理を得て成道(悟りを開くこと)し仏陀となりました。シッダールタ三十五歳の時と伝えられています。仏陀となった釈尊が悟の境地を楽しんでいところ、インドの神代表格であるグラフマー(梵天)が仏陀の悟りを賛嘆し、人々に教えを説くように説得します。しかし、真理は難解であり、貪りにふける人々には理解できないといって、二度目までは断りました。そして三度目にして説法を決意し、立ち上がったといいます。此の説話を「梵天勧請」といいます。釈尊は、サールナート(鹿野園)にかっての修行仲間の五人がいると知り、そこへ向かって歩き始めます。釈尊が悟りを開いたブッダガヤからサールナートまでは、200km以上あります。サールナートには、カウンジンヤ、マハーナーマン、ワシュゥパ、アシュワジット、バドリカの五人の比丘がいて、彼らは釈尊の姿を見て、あれは苦行を捨て、娘スジャータの差し出した乳粥を飲んでしまった、本当になさけない奴だ。皆で無視をしよう。そう決めていました。しかし、裸足で歩いてくる釈尊の姿を見て、無視することを忘れ、思わず立ち上がって迎えることになってしましました。ここで、釈尊は「中道」「四諦」「八正道」の教えを説いたと伝えられています。是を「初転法輪」と言います。この五人は釈尊の初めての弟子(五比丘)となり、悟りを開きました。バーラーナシーン国にクリカラ(倶梨迦)長者がいました。その子にヤシャ(耶舎)がいます。ヤシャは、ある日、サールナートに来て、釈尊の説法を聞きただちに出家したのでした。ヤシャに続いて、ヤシャの父母、その妻も釈尊に帰依しました。これが優婆塞(在家の男性の信者)優婆夷(在家の女性の信者)のはじまりをいわれています。釈尊はサールナートを出て、ラージャグリハに向かおうとします。それは、釈尊がシッダールタだった時代、ラージャグリハで、ビンビサーラ王と約束したことを実行に移すためでした。もしもシッダルタが、悟りを開いたならい必ずや自分にその法を解き明かして欲しいしかし、ラージャグリハへ向かう途中で雨季に入ってしまいます。雨季になると、外を歩くことが難しいとともに、その頃は草木が芽をふき、虫たちが卵からかえる時期と重なります。そのため修行僧たちは外出して草木を踏みつけ、虫を殺すよりは、その間一カ所に集まり「安居」といって、その一年間の行いを反省し、戒律を確認する期間を持っことになっていました。その期間は、陰暦五月十六日より陰暦八月十五日までの三ヶ月となっています。安居を終えた釈尊は、五百人の弟子を持つ、ウルビラ・カーシャパをたずね、事火バラモンの、火を礼拝するなどという誤った教えを指摘しました。そして、ウルビラ・カーシャパは、五百人の弟子とともに釈尊に帰依していきます。ウルビラ・カーシャパには、ナディー・カーシャパとガーヤ・カーシャパの二人の弟がいました。ました。兄のウルビラ・カシャパが釈尊に帰依したので、ナディー・カーシャパは、三百人の弟子と、ガーヤ・カーシャバは、二百人の弟子と共に釈尊に帰依します。この時、釈尊の弟子はすでに千二百余名になっていました。」「阿弥陀三尊座像(二尺五寸)」。向かって右が慈悲の力によって人々を救って下さる観音菩薩様、左が智慧の力によって人々を救う勢至菩薩様です。ふくよかで穏和な表情をし、西方浄土を願う衆生を遍く救い取ろうとされる慈悲の広さ大きさを表しています。結跏跌坐をされ手は阿弥陀の定印を結ばれています。大蓮寺八世鏡譽上人(正徳3年《1713》寂)代に安置されたもの と。「大蓮寺」の墓地。「本堂」を振り返って。そして山門を出て右側奥にあったのが「高澤不動尊」。「川越文教会 高澤不動尊」。本尊:不動明王。ここにもラッピングされた自販機があった。「小江戸川越春の舟遊」。「時の鐘」。そしてこの日の全ての観光予定を終了し帰路に。圏央道川島ICから八王子方面に向かう。圏央道鶴ヶ島JCTまで500mの場所を通過。そして「海老名JCT」にて「圏央道」から「東名高速道路」に入り、「綾瀬スマートIC」にて一般道に降り、予定の時間に地元に到着したのであった。そして駅前にて6人でこの日の反省会を2時間ほど。そして徒歩にて美しくライトアップされた黄色のカサブランカを見ながら帰宅したのであった。この日の移動ルート図。 ・・・つづく・・・ ・・・完・・・
2024.07.16
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「川越・蔵造りの街並み」を戻り、出発点の「札の辻」交差点まで戻る。「札の辻」交差点を左折し、「高澤通り」を西に進み、「菓子屋横丁」を目指す。先ほど訪ねた「川越まつり会館」案内板。ここが「川越まつり会館」の駐車場入口のようであった。駐車場入口にあった「旧高澤町碑」。「旧高澤町 現 元町ニ丁目札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒をならべていた。文化十五年(一八一八)にかれた絵図には、石置屋根・板屋根のニ階造りの町並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。」「川越・蔵造りの街並み」の雰囲気を感じさせる自販機のラッピング。「元町珈琲店」の先の駐車場にあったチンパンジーと犬の像。川越市在住の発泡スチロールアーティスト・ヤジマキミオさんの、発泡スチロール製のチンパンジー「パン君」と犬「ジェームス」。チンパンジー「パン君」。犬「ジェームス」。そして「高澤通り」に面した「菓子屋横丁」の東側入口に到着。正面に「駄菓子江戸屋 川越本店」。川越市元町2丁目7−1。「キツネ面 800円」が様々な顔で並ぶ。「ここより菓子屋横丁」と。江戸時代から続く歴史的街並みが広がる「菓子屋横丁」は明治時代初期に活躍した菓子職人、鈴木藤左衛門が川越で和菓子屋さんを開いたことが誕生のきっかけと言われています。江戸っ子好みの気取らない菓子が好評で、周辺に数々の菓子屋さんが暖簾分けをする形で増加。最盛期である昭和初期には70店舗が軒を連ねたそうです。色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道など、江戸時代から続く歴史ある佇まいは今も変わりません。昔ながら手法で作られる飴菓子やカルメ焼き、醤油の匂いが香ばしい焼き煎餅など、伝統的な手作りの味が楽しめる菓子屋さんが並んでいます とネットから。近づいて。雪塚稲荷神社には「江戸の昔、迷いあらわれた白狐を殺した挙句、食べてしまった若い衆が祟られ、町の人の前に火の玉が現れたことから、狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称した」という言い伝えがあり、それをもとにこのキツネ面が伝えられているのであろうか?「駄菓子江戸屋 川越本店」の角にあった小さな木製の社。「菓子屋横丁マップ」。「駄菓子江戸屋 川越本店」の内部にも一面に「キツネ面」が。昔ながらの駄菓子屋という感じで、昭和な感じのおもちゃなんかもありました。これぞ駄菓子屋という どれも懐かしい物のオンパレード!引き戸の入口、手作り感のある木製の棚に種類が豊富な駄菓子が沢山並び、昭和にタイムスリップ!!。お菓子以外に懐かしいオモチャもありテンション上がる私でした。 「菓子屋横丁」の「寺町通り」を進む。手焼きせんべい体験のできる「十人十色」👈️リンク。川越市元町2丁目3−17。さらに「寺町通り」を進む。この先を進むと「門前横丁」に繋がっていると。右に曲がって進むと左にあったのが「菓匠右門」👈️リンク名物「いも恋」をネットから。その先、右手にあったのが「玉力製菓」。創業約100年。菓子屋横丁に店を構える手づくり飴の老舗 と。川越市元町2丁目7−7。昔懐かしい菓子作りの店が立ち並ぶ川越の「菓子屋横丁」。昔は「飴屋横丁」とも呼ばれ飴づくりが盛んに行われていた と。そんな昔ながらの製法でつくられて飴を今に伝えている と。市松飴(ハッカ飴)と。和菓子店「よしおかYA」👈️リンク。木の匂いが広がる店内に並べられた駄菓子の数々。観光客や地元の客でにぎわう様子からは、どこか懐かしい温かみを感じられる。駄菓子屋の隣では川越の名産「さつま芋」で作られたお土産菓子の販売も。その先にあったのが日本食材店「三代目彩香」👈️リンク。漬物や駄菓子を売っている店。「菓子屋横丁」を西に向かって進む。正面にあったのが和菓子屋「松陸製菓」。江戸寛政8年創業の老舗飴屋。職人の手造り 生いちご飴 生ぶどう飴も好評。日本一長い黒糖ふ菓子、フードコートでは生芋ようかんソフト、たこマヨせんも人気の店 と。「ふ菓子」。さらに「高澤通り」に向かって進む。駄菓子屋「森徳製菓」の店頭には「モンゴル岩塩」が。川越市元町2丁目7−6。その先にあった和菓子屋「龜屋」。2月9日(金)「龜屋菓子屋横丁店」が開店。菓子屋横丁店では、毎朝ついたお餅での上に大根おろしをのせた「からみ餅」を販売。からみ餅の他にも人気の生菓子「豆大福」や、季節の生菓子、龜屋の代表銘菓「亀の最中」や「こがね芋」も販売中とのこと。人気の「からみ餅」と。 「高澤通り・児玉往還」に向かって進む。右手に「うなぎ 大穀」👈️リンク。「絶品 うな重」。「うな重(松) 4,500円」と。大穀誉 だいこくほまれ 4,400円(税込)と。そして「菓子屋横丁」の散策を終え、「高澤通り」に出る。「高澤橋」に向かって進むと左側にあったのが「山王 山車蔵」。「山王 山車」をネットから。そして右手にあったのが「六塚稲荷神社」。川越市元町2丁目8−12。正面から。石鳥居の右側には、「八紘一宇」と刻まれた主塔と、「紀元二千六百年記念」と記された支柱が立っていた。「八紘一宇(はっこういちう)」碑。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。 一つの家とは、つまり「八紘一宇」とは、人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願った意味合いである。ここに「八紘一宇」碑を立てた経緯は?「元町二丁目六塚稲荷神社本殿付 文政二年棟札(市指定・建造物)元町二丁目はかつて高沢町と呼ばれ、本町とならぶ繁華なところでした。当社は赤間川(現新河岸川)を背にして、札の辻から西に延びる東西道の高沢橋東詰の小高いところに立地し、ランドマークになっています。本殿は、高い石積基壇上にたつ中規模の一間社流造で、屋根は銅板の瓦棒葺です。身舎の架構は出組を組んで中備に彫物を飾り、妻飾は虹梁を一手持ち出して大瓶束と笈形で化粧棟木を支えます。縁の腰組は三手先です。架構はそれほど複雑ではなく、彫刻も所狭しと飾り立てるほどではありません。板支輪・笈形にはとぢらものびやかな渦紋が彫られ、気品が感じられます。身舎背面の縁下板壁に狐の出入りする穴があけられ、基壇の中に続いています。庇は几帳面取の角柱を虹梁型の頭貫でつなぎ、柱上に出三斗を組んで中備に竜の彫物を飾ります。身舎とは海老虹梁でつなぎ、手挟で納めています。手挟は波と渦の籠彫で、亀が泳いでいます。身舎の壁面に江戸彫の彫刻がはめこまれていますが、右側面のものは盗難にあい、失われています。背面は亀を助ける浦島太郎、左側面は武士と唐子で、脇障子は狐、扉の左右脇壁は鯉の滝登りとなっています。本殿内に脇札があって建立年代が判明します。棟札によれば、文政二年三月の再建で、遷宮導師は教育院弁宣法印でした。文政二年(一八一九)という造営年代は、川越の江戸彫を用いた本殿の中では早い時期に属します。川越において江戸彫を用いた本殿は、天保期以降に流行し、嘉永・安政期の一八五〇年代に最盛期をむかえます。当本殿は最盛期の三十年程前に造営されており、最盛期のものに比べると、建築の架構があまり複雑でないこと、彫刻の用い方がまだ控えめであること、などの特徴が指摘できます。直接風雨にさらされており、風蝕が進んでいますが、当本殿は幕末の川越を飾る江戸彫を用いた本殿の最初期の遺構であり、景観上もランドマークとして重要でその価値は高いといえます。 平成十九年八月十日指定 川越市教育委員会」本殿正面の写真。棟札の写真。「手水舎」。石灯籠越しに社殿を見る。この建物は本殿ではないようだ。扁額「六塚稲荷神社」。「六塚神社 改築落成之碑」。そしてこちらが「六塚稲荷神社」の「本殿」。正面から。近づいて。廻り込んで。見事な彫刻。左側面:武内宿禰が龍神(龍王)より宝珠を献上された場面 と。背面:浦島太郎の姿と。キツネの姿が。こちらにも。そして「境内社」。近づいて。3つの末社は明治初期まで約200年以上大蓮寺に祀られていましたが、明治時代に発令された神仏分離令により「六塚稲荷神社」に合祀され現在に至る と。右:八幡神社。中央:三峯神社。左:琴平神社。小さな社「四塚稲荷神社」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.15
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「長喜院」に向かってなかなか趣のある路地を進むと、奥にも立派な蔵が。「やまわ蔵部」👈️リンクとあり、「陶芸教室」がこの蔵で行われているようであった。「長喜院」は、NHK朝の連ドラ「つばさ」の重要ロケ地ともなったとのこと、この「陶芸教室」の蔵はやまわの角を曲がって小路に入った所の突き当たり右にあった。川越市幸町7−1。そしてその先に「長喜院」の山門が現れた。曹洞宗・「長喜院」は、大道寺政繁の甥、権内長喜の居所だったところを寺院として建てたとのこと。 川越の仏教には、大道寺政繁が大いに貢献したようです。大道寺政繁は北条氏康・氏政・氏直の三代に仕え、終焉の地はここ川越であったと。また、徳川家が浄土宗の信徒であったことも、繁栄振りに影響したのかもしれないとネットから。山門の扁額は「冷月山」。立派な「本堂」に向かって参道を進む。ズームして。巨大な屋根には、黄金色に輝く鴟尾(しび)があったが・・・。扁額は「長寿禅院」と。参道左手にあったのが「萬霊」塔。合掌観音立像であっただろうか?お顔をズームして。六地蔵尊。「六地蔵(ろくじぞう)大地のような広い心で私たらを包みこんてくれる仏さま。いつでも私たちのどころに駆けつけられるよう、頭を丸めて杖を持ち、旅の修行僧のおすがたをしています。お地蔵さんは、夏の暑い日でも、冬の寒い日でも、いつもしずかに徴笑みながら私たらを見守っています。」そして目に入ったのは、「苦行釈迦像」のレプリカ。本物は、インドのインドラホール美術館にあるとのこと。「苦行の釈迦像お悟りを開くために精進するおすがた。苦行によりやせ細った身体とは対照的に、目は凛然としています。のちに苦行から離れたお釈迦さまは、菩提樹の下で結跏趺坐(けっかふざ・坐禅)してお悟り(成就得導・じょうじゅとくどう)にいたりました。ラホール美術館所蔵の原寸大レプリカインド・ソーマパーラ氏 一九八六年制作」。近づいて。釈迦如来像は 誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像に造形化されると。その内、苦行像と呼ばれる像である。出家後、6年間苦行生活を送っていたときの像と。目は落ちくぼみながらもしっかりと前を見ている。ガリガリに痩せて鬼気迫る姿。柔和で穏やかな姿をしている普通の釈迦如来像とは違った感動を与えてくれるのであった。 苦行では悟りを開かれず菩提樹の下で瞑想することになり、そこで悟りを得ることになったと。「沙羅樹(さらじゅ)」「沙羅樹(さらじゅ)👈️リンクお釈迦さまがクシナガラにおいて、八十歳で涅槃に入った時、臥床(がしょう)にそびえていた樹。入減の際に、枯死して臼い鶴のような色を呈したので、「鶴林(かくりん)」ともいいます。◇涅槃会(お釈迦さまのご命日)二月十五日涅槃の夜 静かに開く 沙羅の花」「サラソウジュ(沙羅双樹、娑羅双樹、学名: Shorea robusta)は、フタバガキ科サラノキ属の常緑高木。シャラソウジュ、サラノキ、シャラノキともいう。ただし、これらの名で呼ばれ、日本の寺院に聖樹として植わっている木のほとんどは、本種ではなくナツツバキである。」とウィキペディアより。そして「長喜院」の山門の北側にあったのが「雪塚稲荷神社」。川越市幸町5−8。石鳥居の扁額「䨮塚神社」。参道を見る。「雪塚稲荷略縁起当社は城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的な商業地であった。神社の創始は、口碑に、「江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。明治二十六年の川越大火によって本殿、拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天、同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。文政六年(一八一三)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。祭神 雪塚稲荷大明神祭礼 元朝祭 正月元旦 例大祭 四月十二日 一万度祭 六月一日 月次祭 毎月十二日 三社講 年 一回社宝 国選定「川越市伝統的建造物保存地区」特定物件 国指定重要無形民俗文化財「川越氷川祭の山車行事」 埼玉県指定有形民俗文化財「翁の山車」 川越市指定有形民俗文化財「踊り屋台」 川越市指定有形民俗文化財「旧南町保有文書」 原 舟月作 雲形太鼓芸能 堤崎流幸町囃子」「雪塚稲荷神社」の社殿。祭神:豊受姫命(とようけひめのみこと) 穀物の神 =別称:豊受大神※雪塚稲荷略縁起には、祭神は「雪塚稲荷大明神」と記載 と。正面から。祭神 雪塚稲荷大明神。「幸町山車「翁」「小狐丸」平成修復記念」と。 「幸町山車「翁」「小狐丸」平成修復記念「翁」雪塚会(旧南町)明治三年九月制作製典型的な江戸型の山車、江戸人形師随一「法橋都粱斎仲秀英」の作である。「小狐丸」金山会(旧鍛冶町)江戸時代の名匠「法橋原舟月」の作と伝えられている。天保六年修補の記録あり。共に昭和四十三年埼玉県指定文化財。明治・大正・昭和と過去数回の改装、改修を経て現在の壮麗優雅な姿を維持している。しかし経年の傷みが激しく、幸町自治会長原正次、雪塚会服部光太郎・金山会西川一郎と相諮り、文化財保護に関わる国・県・市の理解、特に幸町自治会々員及び山車関係者、並びに有縁の方々の協力を得て、平成の修復を成し遂げた。ここに完成を祝い永くその志を伝える。幸町自治会(順不同・敬称略)・・・・以下略・・・」こちらは境内社「三峰神社」。境内の紫陽花の花を追う。そして再び「川越・蔵造りの街並み」まで戻る。理容店「銀巴里」👈️リンク。その隣は、以前「㈲本の店太陽堂」があったが、現在は洋品店になっていた。そして「抹茶スイーツ処 茶和々 川越店」👈️リンク。川越市幸町7−5。。和菓子屋「龜屋」👈️リンク。さらに「川越・蔵造りの街並み」を北に進む。自転車屋「津久井商店」。「門前横丁」入口。「門前横丁」は、菓子屋横丁に通じる、ちょっと風肩のある石畳みの小路で、その先にいくつかお寺がある為、門前横丁と言われているとのこと。その道の先には、ガラスが散りばめられた石畳の道が特徴の「菓子屋横丁」があった。やきいも屋「小江戸横丁 芋川」👈️リンク。川越市元町2丁目1−3。「焼き芋 COEDO HACHI 川越」👈️リンク。川越市元町2丁目1−6。そして「川越まつり会館」👈️リンク。約370年の伝統を誇る川越まつりをいつ訪れても体感できる施設。館内には本物の山車2台を展示。また、3面スクリーン(4.7m×8.7m)による、まつり当日の映像を約8分間上映している(20分毎に上映)と。川越市元町2丁目1−10。「展示中の山車川越市 猩猩の山車」。「猩猩の山車」。お面「ひょっとこ」。お面「おかめ」。お面「狐(きつね)」。「仙波町 仙波二郎安家の山車」👈️リンク。「元町二丁目 山王の山車」。横から。「川越まつり会館」の北側の路地の先に像があった。「まごころ」佐藤健次郎作。「まごころ 船橋功一書」と。「みなさんの幸せを祈って 認証三十周年記念 国際ソロプチミスト埼玉」そして道路の反対側は「稲荷小路」と。会席・懐石料理店「えぷろん亭」。「四季の膳・さつまいも料理」。その先にうどん屋「えびす庵」👈️リンク。テイクアウトでだし巻き玉子串を提供。店内ではのどごしの良いうどん、揚げたての天ぷらをセットにした、食事を提供。たまごとうどんをメインにした和食店であるとのこと。そして「川越元町郵便局」。通常の郵便局ですが、川越一番街にあるこの郵便局の外観は一風変わっていた。この郵便局の建物は蔵造り風に作られており、一番街の景色に溶け込む雰囲気大!!。観光スポットとしても見応えがあり。川越市元町2丁目2−3。ポストもシックな色合い。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.14
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さらに「川越・蔵造りの街並み」の散策を続ける。左手にあったのが金物店・「徳町荻野銅鐵店」。正面から。蔵造りの町並み幸町にある町家造り建物の金物店。明治時代創業の老舗金物店で、店内には実用品から美術工芸品まで鉄・銅製品が並んでいた。ショーウインドーには仏具が、店内入口には風鈴が吊り下げられていた。何より店正面の屋根上中央の看板に風情があったのであった。 ふたたび、道路の反対側の仏具販売店「上州屋」の店頭にカメラを向けた。「上州屋」は、仏壇・神棚・寺院用具の専門店として大正8年の創業。「布袋尊」狸(タヌキ)の置物。駐車場「タイムズ川越幸町第2」前を進む。川越市幸町2。左:「川越プリン」中央:和菓子屋「kashichi」右:スイーツ店「川越チーズケーキ」。川越市幸町1−133種のプリンの写真をネットから。その先にあったのが「川越ショコラ ブロマージェ」。35年以上チョコレート菓子を作ってきたセイワ食品が蔵造りの町並みが小江戸の雰囲気を醸し出す人気の観光地・川越に初のチョコレート専門店をオープンしたと。川越市幸町1-9。その隣にうなぎ料理店「うなぎ 傳米」👈️リンク。「築150年以上の古民家をリノベーションした「うなぎ傳米」。厳選された鰻を備長炭でじっくりと焼く鰻の蒲焼きと月替わりの旬の逸品をノスタルジックな空間の中でお楽しみください。当店では、最高峰のブランド鰻「うなぎ坂東太郎」を取り扱っております。身の厚み、脂の質、旨味、どれをとっても最高の鰻です。ぜひ一度お試しください。」と。店頭には長い列が出来ていた。食べたかったがカメラに食べさせて?・・・。その先にあったのが着物販売店「呉服かんだ」。その先には、蔵造りの街並みが続いていたのであった。和雑貨商・ギフト雑貨ショップ「川越 椿の蔵」。川越市幸町3−2。観光客の姿も多くなって。手前に「つけもの小江戸」。車のない時を狙って。「つけもの小江戸」の先の路地を左に折れて進む。目的地はこの先にあった「日蓮宗 行伝寺」。左手に熟成焼き芋専門店・「芋ぴっぴ 川越店」。「熟成焼き芋」。1mm絹糸の紫芋とアイス「芋ピッピ」。そして正面に「日蓮宗 行伝寺」の山門。山門「日蓮宗 行傳寺」。題目碑(塔)「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗 行傳寺徳治元年(一三〇六)に開かれた法華道場の小庵を前身とし「大本山池上本門寺」「本山鎌倉妙本寺」の両山第四世大鷲妙泉阿闍梨日山上人の教化を受けた豪族上田氏一門の丹精で、永和元年(一三七五)【朝田山行傳寺】と号し開創、開基日山上人の後継には両山第八世の大運阿闍梨日調上人、以後も代々名僧知識が住職になり、法燈連綿と今日に至る。創建の地は諸説あり、天文年間に川越城一郭の松郷に所在、元和五年(一六一九)地域の大火で類焼に及び堂宇伽藍悉く烏有に帰し現在地へ移転、文化九年(一八一二)現本堂建立『良質な欅材を用いた見事な建造物』と寺院建築の諸氏も称賛、由緒伝統を示す什宝あまた格護《通常非公開》」「日蓮宗 行傳寺」。境内の参道を本堂に向かって進む。正面に「本堂」。約700年の歴史がある行傳寺。広々とした伽藍と目を奪われる本堂の意匠が眼の前に。現在の本堂は、文化9年(1812/江戸時代)に建てられてたもので、「見事に調和のとれた県内屈指のケヤキ造り建築」として、専門家も絶賛する程であると。また、飾り彫物も素晴らしく、向拝には龍や鳥などのモチーフを始めとした様々な彫物で飾られ、これらの意匠は、川越城内の建物や川越祭の山車にも同様のデザインが使われる程であると。江戸時代、まさに「建築」「飾り彫物」両方のトップデザインであった行傳寺本堂は一見の価値ありなのであった。扁額「行傳寺」。木鼻(右)。木鼻(左)。中央:「南無妙法蓮華経 宗祖日蓮大菩薩」左:「朝田山 行傳寺 歴代上人覚位」右:「南無妙法蓮華経 法・・・・」と。「浄行菩薩」像。「浄行菩薩法華経のみ教え「従地涌出品」には、大地から出現したとされる四大菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)中の浄行菩薩は『あらゆる煩悩を自他ともに除くことに力を尽くす』との誓いを立てられたと説き示されてます。私たちは目につく汚れや埃を洗い落としますが、目に映らない煩悩(心身を煩わし悩ませる一切の妄念)も確かに払い除けることが肝心です。お題目を唱えながら浄行さまの石像を清水で洗うことによって《当病平癒身体健全》の願いが叶うとして、古来から法華経信者に崇められています。六根清浄にして息災安穏なる日々をお過ごしください。南無妙法蓮華経 合掌」掲示板。「宗祖六百遠忌(弘化四年二月作 日蓮聖人御一代記絵図 復刻!)」。「日蓮上人御一代記」は、日蓮大聖人の六百遠忌を記念して、明治期の編輯人として活躍した羽田富次郎こと泉竜亭是正(せんりゅうていこれまさ)が明治十四年(1881年)に著述し、歌川芳春(うたがわよしはる・文政十一年・1828~明治二十一年・1888)が挿入絵図を担当している。境内の石庭も見事。石庭越しに本堂を見る。本堂前から境内の南側を見る。そして県道12号線・川越栗橋線まで戻り、再び「埼玉りそな銀行 川越支店 蔵の街出張所」を見る。復路で歩いて来た「川越・蔵造りの街並み」を振り返る。左にお香・和雑貨専門店「やまとごころ川越」👈️リンク右に「かつおぶし中市本店」👈️リンク。日本人には馴染み深いかつお節を中心に、昆布や煮干などの海産物などの様々な乾物と、スーパーなどの大型店舗にはあまり見られないような珍しい品物を各種取り揃えていると。左から「創作漬物 河村屋 川越店」次に「手作り箸工房 きっちん遊膳 川越店」さらに「川越・蔵造りの街並み」が続く。この商店街一帯は電柱も無いため当時の様子に近い雰囲気を味わう事ができるのであった。和菓子屋「亀屋栄泉」👈️リンク。川越蔵造りの町並みの中心地で時の鐘にも近い辺りにお店がある。創業は明治時代らしいが、木造瓦葺きの2階建ての堂々たる建物。柱や梁、格子戸等は茶色く変色し歴史を感じさせる。この辺りの建物は明治26年の大火で全焼してしまいその後に耐火力のある蔵造りで再建され現在に至っているとのこと。陶器専門店「陶舗 やまわ」1893年建築の重厚な蔵造りの陶器店!川越の陶芸作家の作品から、普段使いの容器まで幅広く提供している と。「陶舗 やまわ」の手前の路地に入ると左手の壁には「川越の歳時記」の写真が展示されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.13
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「時の鐘」を後にして「かねつき通り」を県道12号線・「蔵造りの街並み」方向に歩く。豆腐店「近長 細田長兵衛商店」を県道12号線・「蔵造りの街並み」側から見る。左手角に在ったのが「武蔵川越之図」。さらに「仲町」交差点方向に進むとあったのが「服部民俗資料館」。明治26年の川越大火後に建てられた服部家(元、照降業(履物や傘の販売)や薬種業(薬の調剤、販売など)を営んでいた商家)の建物をそのまま使用し、江戸時代以降の川越の商いと暮らしにかかわる史料を展示している資料館です。建物は市指定有形文化財に登録されています。季節ごとに展示が変わり、3月と5月には歴史的価値のある雛人形と五月人形が展示されます。蔵造りの町並みに面しており、館内は無料で見学することができます と。川越市幸町6−8。「服部民俗資料館」の内部。明治時代に薬屋と履物屋を営んでいたようです。薬の看板など当時の貴重な資料を無料で見学でき、川越の歴史を垣間見ることができたのであった。川越を描いた絵葉書や写真等も展示されていた。貴重な鉄道遺産も展示されていた。「甘味茶房 かすが」👈️リンク。小江戸川越の名物「芋そうめん」はさつまいもをつなぎに使用した川越芋そうめん。つるんとした口当たりとコシが魅力であると。ここにも客待ちの人力車が。「埼玉りそな銀行 川越支店」。川越には蔵造りの建物と共に、明治・大正時代の洋風建築も多く残っているのだ。その代表的が、この「埼玉りそな銀行 川越支店」の建物。大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けている。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていないようであった。旧国立八十五銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され八十五番目にできた銀行。現在の建物は大正7年(1918年)に建設。なんと埼玉県で初めて設立された銀行なのだと。ズームして。菓子屋「くらづくり本舗 一番街店」。「埼玉りそな銀行 川越支店」とのコラボ。ファッション アクセサリー店「玉屋 川越」👈️リンク。小江戸川越のレトロな町並みで天然石、ガラスアクセサリー、雑貨を販売。とんぼ玉にねこ玉は大変人気と。そして左手奥に在った「法善寺」を訪ねた。川越市幸町2−14。寺号標石「真宗大谷派 自然山法善寺」。「真宗大谷派 法善寺」。「本堂」を正面に見る。真宗大谷派寺院の法善寺は、自然山寳林院と号す。法善寺の創建年代等は不詳ながら、真言宗寺院として丹波国氷上郡にあったといい、寛正元年(1460)に法印良應が当地へ移したといいます。その後祐惠・良海が京へ上京し浄土真宗を教えを受け、永正三年に祐惠は住職を良海に譲り、祐惠は京で専修専念の行者となり往生、良海は真言・浄土真宗の兼学を図ったものの、天文六年川越合戦に巻き込まれ、良海は麻布善福寺に入山し、麻布善福寺の源能と云僧を後住とし、浄土真宗に改めたといいます。なお源能は、一條右衛門太夫信龍(甲斐武田氏一族)の叔父だといいます。本尊:阿弥陀如来像。墓地。墓地の入口にあった人物は誰?ネットで調べてみると「法善寺の槍持ち奴瀬川嘉右衛門のお墓は片手に盃を持つこんな形。虫まで肴にして大酒を飲んだので「虫食い奴」と言われたそうです。」と。本堂を再び。扁額「浄華臺」。龍の彫刻。立派な木造の本堂と唐破風がある庫裡が特徴の寺。寺務所。そして再び「蔵造りの街並み」まで戻る。「武州無双工匠具 白石藤兵衛」一番街にある職人御用達の道具屋。店の中には、鉋(かんな)、鑿(のみ)、天然砥石(てんねんといし)、ナイフ、包丁が整然と並べられていて、迫力があるとネットには。しかし、この日は店頭に、川越の姿をペン書きした絵画が並んでいた。道路の反対側にあったのが「菓匠 右門」。「いも恋」。「「いも恋」は、さつまいもとつぶ餡をもち粉の生地でやさしく包み、昔なつかしい風味に仕上げたまんじゅう。さつまいもとつぶ餡の取り合わせ、もちもち感のある生地の妙が「いも恋」のおいしさ。しっとりとした味わいが大好評いただいております。埼玉県からは「彩の国認定優良ブランド品」としても認定され、小さなお子様からお年寄りまで、幅広い層のお客様に愛されています。大切な方へのご贈答にもたいへん喜ばれています。「菓匠右門」のいも恋は、ほくほくのさつまいもと粒あんがもっちりとした生地で包まれた、手のひらサイズのまんじゅう。店頭で蒸かしているので、熱々が食べられます。どうぞ素朴な「いも恋」をご賞味下さい と。そして左側に見えたのが「大型駐車場」。「「歌姫」橋本次郎作」。近づいて。「歌姫 1994年(平成6年) 橋本次郎 1919~1997」と。川越出身の彫刻家、東京学芸大学名誉教授。(旧制川越中学35回)と。現在地はここ。名所案内。川越城本丸御殿、時の鐘、仙波東照宮、川越祭り会館、市立美術館・博物館喜多院(七福神)、氷川神社、菓子屋横丁。「旧鍛冶町」の石碑があった。「旧鍛冶町 現幸町鍛冶町は古くから川越城の刀匠などがいたところで「三芳野名勝図絵」によれば「小田原属城時代天文・弘治の頃鍛冶平井某・相州より来りてここに住す」と記され、この頃に鍛冶・刀匠などが集ったのでついに町名となったと言われる。天正年間になると平井の弟子十余人がこの町に住んでいた。従って鍛冶の祭神である金山神社があり、毎年三月十五日にはふいご祭りのため川越町近郷の鍛冶工が集って祭りをしたと言う。この様な関係から川越祭りの山車の人形は三条小鍛冶宗近が選ばれている。」「イシイの甘栗 川越店」👈️リンク甘栗を店内の釜で丹念に焼き上げ、選りすぐりの甘栗を販売。和服姿の女性が歩く。仏壇販売店「上州屋」👈️リンク。「鍛冶町広場」。「鍛冶町広場由来この広場のある場所は、現在の町名である仲町になる以前は、『鍛冶町』という町名でした。室町時代後期、鍛冶 職人の平井某が相州(現在の神奈川県)から移り住み、その後弟子たちもこの町に住んでいたことにより、『鍛冶町』と言われるようになったと、江戸時代に書かれた「武蔵三芳野名勝図会」に記されています。」現在の仲町になる以前は鍛冶職人とその弟子が多く住んでいたことから鍛冶町と言われるようになったと伝えられています。観光客や近隣住民の憩いスポットとして重宝され、そのまま仲町観光案内所に抜けることも可能です と。左の蔵のある建物の前には多くの「ガチャガチャマシーン」が並んでいた。その隣は川越・化粧品店「蒟蒻しゃぼん」👈️リンク。「蒟蒻はダイエットの味方となる蒟蒻マンナン、保湿に欠かせないセラミドの両方を兼ねそなえた国民的ビューティフードです。蒟蒻のもと、蒟蒻芋の発見は、数千年前にもさかのぼるといわれています。庶民の食卓に登場するようになったのは鎌倉時代。それまでは、貴族や僧侶しか口にできない、貴重な食材だったといわれています。蒟蒻を石けんにしようと思い立ったきっかけは、「もしも蒟蒻の”ぷるぷる”が石けんだったら、気持ちよさそうだなぁ」という好奇心からでした。さっそく、研究所を開設。はやる気持ちを抑えて開発に取り組むも、蒟蒻のようなぷるぷるの感触で、なおかつ洗浄力と保湿力のある石けんを作るのは、そう簡単ではありませんでした。ぷるぷるの手ざわりも、天然の素材による鮮やかな色も、正直いうと、すべて偶然、奇跡の産物でした。蒟蒻とにらめっこの毎日のなか、ただひたすら”ぷるぷる”の手ざわりで、蒟蒻の良い成分を含んだ石けんを作りたいという想いで研究を続けていたら、ある日ある瞬間、”ぷるぷる”で、”天然のキレイ色”で、”蒟蒻がもつ美肌のもと”をあわせ持つ石けん、名付けて『蒟蒻しゃぼん』が誕生したのです」と。そして「仲町」交差点に到着。交差点の向かいの角にあったのが「小江戸 まめ屋」👈️リンク。「旧志義町」碑。川越市仲町4−3。「旧志義町 現 仲町志義町は昔鴨善吉という刀鍛冶が開いたので鴨町といった。この町から北の方にかけて昔は馬場があって城中の士が調馬した所と伝えている。その後明治年間には志義学校が開かれ、さらに穀問屋が軒を並べていて川越穀市の旺盛だった頃には志義町の穀市の初荷は関東でも有名なものであった。」「蔵造りの街並み重厚な蔵造りは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれました。その伝統的な町家群に加え、近代洋風建築など永きにわたる多様な様式の建物が連なる町並みは、江戸時代から現代へ至る変遷を示し、特色ある歴史的景観を伝えています。現在の東京では見られなくなった、江戸のたたずまいを彷彿させる町並みは、次代に伝える貴重な文化財として国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定されました。 文化庁 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会」「国選定川越市川越伝統的建造物群保存地区●都市計画決定/平成11年4月9日(1999)●重要伝統的建造物群保存地区選定/平成11年12月1日●所在地/幸町の全部及び元町1丁目、元町2丁目、仲町の各一部●面積/約7.8ha」左側奥にあったのが「公益財団法人 山崎美術館」。川越市仲町4−4−13。昭和57年(1982)に開館した山崎美術館は、蔵造りの町並みに面する老舗和菓子屋「龜屋」本店の一角に建つ蔵を利用しています。館内では、川越藩お抱えの絵師である橋本雅邦の作品を中心に、山崎家に代々伝わる美術工芸品の数々が季節に合わせて展示されています。入館者には、老舗の和菓子とお茶のサービスがあります と。川越藩お抱えの絵師である橋本雅邦の作品写真をネットから。そして、時間の関係上、ここまでとし「川越・蔵造りの街並み」を引き返す。再び建物の前に「ガチャガチャマシーン」が並ぶ蔵を。帰路は、川越・蔵造りの街並みの往路とは反対側をカメラで追う。先程の「ガチャガチャマシーン」の蔵の屋根瓦をズームして。「松」の文字が確認できた。屋号の一部であろうか。創作和雑貨店「創作ちりめん 布遊舎」。ちりめんの品物を中心に和風の小物が販売されていた。川越市仲町6−3。その隣りにあったのがアートカフェ・「CAFE ELEVATO」。川越市の仲町、亀屋の筋向いにある洋風の建物は、大正4年(1915)建築の土蔵造り、川越市指定文化財の田中家住宅。2007年3月までは「田中家住宅」「田中屋美術館」であった。川越出身の芸術家の作品や川越唐桟(かわごえとうざん)など、田中利明氏が収集したコレクションを展示していた。今は道路沿いの1階・2階部分が川越アートカフェ「Cafe Elevato(カフェ エレバート)」、住宅部分は和創菜と四季のすし「風凛(ふうりん)」としてオープンしていた。川越のさつま芋を使用した生ビール「COEDO」も全5種類あるようだ。その先の建物は史跡「山吉ビル」。「山吉ビルの歴史年 表 1923 (大正12年) 店蔵の裏に木造3階建ての洋館を建設1936 (昭和11年) 店蔵を取り壊し山吉デパート建設 呉服・洋服の他、洋品雑貨・玩具・文具・漆器・箪笥・食料品等を扱い、 屋上には庭園を設けるなど川越名所として有名なデパートでした。1941 (昭和16年) 金属類回収令により、エントランス上部銅製鍛金庇など供出1950 (昭和25年) 丸木百貨店(丸広百貨店前身)1956 (昭和31年) 丸広百貨店1964 (昭和39年) 丸広百貨店移転....... パチンコ店・キャバレー「鈴人草」・「月世界」 この頃に正面北側のショーウィンドウ部分などが改変1983 (昭和56年) 奥の木造3階建ての洋館取り壊し....... 駐車場2006 (平成18年) 復元及び耐震補強工事2008 (平成20年) 竣工建 物 概 要 建物規模 階 数 : 地上3階 建築面積 : 92.5 ㎡ 延床面積 : 277.5㎡ 最高高さ : 14.2m構造種別 鉄筋コンクリート造 (耐震壁付きラーメン構造)基礎形式 直接基礎形式 (布基礎)建設年度 昭和11年(1936年) (73年前) 平成16年~平成18年(復元・耐震補強工事)」と ネットから。1階部分の窓の上には、ステンドグラスが。色の鮮やかな写真をネットから。現在は「保刈歯科醫院」になっているようであった。以下も、ネットからの写真を交えて。夜に歩くと、ステンドグラスの美しい色彩を楽しむことが出来るのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.12
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埼玉県道12号線・川越栗橋線の「札の辻」交差点近くの大型バス駐車場にバスは駐まる。「川越・蔵造りの街並み」に向かって散策開始。川越には「蔵造りの町並み」が今も残っているのだ。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したもの。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめている。平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されたのだ。「札の辻」交差点を通過し南に進む。「川越・蔵造りの街並み」近くのマップ。「札の辻」交差点を通過し、南に向かって散策したのであった。客待ちする人力車。「札の辻」交差点。「蔵造りの街並み」と川越市役所前の道がクロスする交差点が札の辻。札の辻は、川越城下町の中心として、高札場(こうさつば)があった場所。高札場とは、幕府が決めた法度(はっと)や掟書きなどを木の板(高札)に書き、人目を引くように高く掲げる場所のこと。全国的にも各地に「札の辻」地名は残っているのだ。江戸時代の川越城と札の辻周辺図。交通量、人出も多かった。往路は「仲町」交差点に向かって左側の「川越・蔵造りの街並み」をカメラで追う。左手に「お菓子の紋蔵庵 - 蔵の街店」👈️リンク。川越市元町1-15-5。屋根の上には3匹の豚のオブジェ、食欲をそそるにおいがただよう「ミオ・カザロ(Mio Casalo)蔵のまち店」👈️リンク。大野農場直営のハム・ソーセージ工房。川越市元町1-15-3。「重要文化財 大澤家住宅」。大沢家住宅は、呉服太物商、西村半右衛門(屋号「近江屋」)が建てたもので、間口6間奥行4間の規模の大きな町家である。明治26年(1893)の大火に焼け残った貴重な建築であり、棟木に打ち付けてある祈祷札及び神棚の墨書から寛政4年(1792)に建設されたことがわかっている。建物は、切妻造桟瓦葺屋根の総二階で、前面に奥行4尺の下屋庇が付く。軒は出桁で支えるが、明治大火後の店蔵と異なり軒蛇腹はなく、2階正面の窓も土塗りの親子格子で構成されており、土蔵造というよりも塗家造の町家といえよう。建築当初は、庇正面だけではなく南面まで廻っていたが、現在は撤去されている。正面の庇は中央間が開放され、左右脇間が腰壁で創建時は庇柱内側に防火戸を立てる構えであった。1階は手前半間通りを土間とし、奥を床上部分とする一室空間で、背面側中央に間口3間奥行半間の神棚を設け、2階へは東南隅の箱階段で登った。1階の戸締まりは、庇との境に入った摺揚戸で行われ、背面は、観音開きの土扉が神棚の両脇に2箇所設けられ、火災の際には住居部分と完全に分離できるようになっている。2階は5室からなり、棟通りで二つに分かれ、正面北側の14畳間には床の間と地袋付きの床脇が備えられている。大沢家住宅は、明治大火後に毅然とした姿で川越商人たちの目前に現出し、土蔵造建築の防火性を実証させた町家であり、川越における土蔵造の町並みが誕生するきっかけをつくった貴重な建築といえる と。「民芸品 小松屋」👈️リンク と書かれた暖簾。1893年の大火の際に蔵造りの大沢家住宅が焼けずに残ったことから、次々と蔵が建てられるようになったと。その街並みは埼玉県で唯一、国の重要伝統的建築物群保存地区。「重要文化財・建造物 大沢家住宅桟瓦葺、切妻造、二階建、間口六間、奥行四間半の店蔵造りである。一階は店舗で二階前面には土格子があり、外観は全体的に簡素であって壮重な感がある。この建造物は、川越城下町の中心部である札の辻の傍らにあって、呉服太物の豪商近江屋半右衛門が寛政四年(一七九二)に店舗として建てたものである。防火を目的とする土蔵造りの故にその後数度の大火にも類焼をまぬがれた。関東地方の町家の蔵造り、商家の古い例として、もっとも重要な建造物である。なお、平成元年より平成四年にわたり、大規模な修理が行なわれ、寛政四年当時の姿に復元された。」店の中に入って。1792年築造。川越最古の商家(国指定重要文化財) 店内は江戸時代の呉服屋のおもむきを残していた。 落ち着いた和小物を中心に山車のミニチュア、時の鐘ストラップ等 川越の民芸品が多数販売されていた。「稲荷小路」の先にあったのが本格自家製うどん屋「金笛うんとん処春夏秋冬」。金笛醤油が提供するこだわり醤油を生かした豊富なメニューを用意。明治以降に建てられた蔵造り建物の窓は重厚な観音開扉。その隣に「杉養蜂園 川越店」👈️リンク。蜂蜜の専門店。自社で育てたミツバチで国産蜜を採っているとのこと。店内では話題のマヌカ蜜をはじめ、ローヤルゼリー、プロポリスといった健康食品や、蜂蜜やローヤルゼリーを使った化粧品などもあった。蜂の巣ソフトクリームやハチミツドリンクも人気。同じ通りに2店舗を構えていた。「巣みつ」も並んでいた。働き蜂により、蜜の濃縮が完了し、ミツバチが自ら分泌する蜜ろうで巣房に蓋をして、白い蜜蓋で覆われた蜂蜜の巣枠を、そのまま切り出した「巣みつ」。「巣みつ」。キャラクターショップ「どんぐり共和国 川越店」。日本にとどまらず、世界にファンがひろがるスタジオジブリのキャラクターたち。そんなキャラクター商品を川越でも購入できる店。目じるしは、おなじみトトロの巨大看板。ポニョやキキも勢ぞろい。川越市幸町10-12明文堂 101。ここにも「杉養蜂園」。こちらが川越2号店。閉ざされたシャッターには「明治二十六年頃此処に在った土蔵です」と。右手に「古美術 まちかん」と書かれた大きな表札が掲げられていたが。アンティークショップであったのだろうか。ベーカリー「みっふぃー蔵のきっちん&べーかりー 川越店」👈️リンク。左に豆菓子「豆吉本舗」。豆吉本舗は、たくさんの種類の豆菓子を取り揃えた豆菓子専門店。きなこ豆、いわし豆、梅干豆、みそがらめ、小豆ミルク豆、抹茶青大豆...その他にも多くの豆菓子を揃えているとのこと。右に「菓寮 花小路 川越時の鐘店」。「焼きかりんとう」や「早川ポテト」、色々な味の「一口ようかん」など、ほっこりしたお菓子は老若男女楽しめます。「黒糖のゴーフレット」や「焼かりんとう」には季節毎のフレーバーも登場し、通年お楽しみいただけます。」と。その先にも蔵造りの店舗「川越酒店」が。蔵造りをズームして。「時の鐘」に向かって左折して「鐘つき通り」を進むと右側に在った「近長 細田長兵衛商店」は閉まっていたが。「近長」と書かれた絵画看板が2枚。そして史跡「時の鐘」に到着。川越市指定文化財「時の鐘」は、寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に川越城主酒井忠勝が、多賀町(いまの幸町)の現在の場所に建てたものが最初といわれています。創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。3層構造で、高さ約16メートル。平成8年に、時の鐘は環境庁主催の「残したい“日本の音風景100選”」に選ばれました と。鐘つき時間👈️リンク1日に4回、自動鐘打機により鐘つきを行っています。午前6時・正午・午後3時・午後6時「川越の時の鐘」。「残したい日本の音風景百選 平成八年七月一日環境庁認定川越の時の鐘私たちは、日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音に囲まれて生活しています。環境庁は、全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」として認定しました。川越市では、江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」が認定されました。いつまでも人々の心に響く、鐘の音と蔵造りの町並みがっくり出す音風景を大切にしていきたいと思います。 川越市」「ときのかねひろば城下町のたたずまいが色濃く残る街並みのなか、ひときわ高い「時の鐘」は、いつの時代も川越のまちのシンボルです。「ときのかねひろば」は、時の鐘耐震化工事で出土した受玉石(うけたまいし)などを公開・活用するために設置しました。」「時の鐘」は全高:17.5m と。「時の鐘」の下を潜り、振り返って見上げると「鐘突き棒」の姿が確認できた。ズームして。平時は、「鐘突き棒」は油圧?電動?シリンダーで作られた、自動鐘打機にて時を鳴らしているのであろうか?「時の鐘」の鐘の写真をネットから。市指定文化財「時の鐘」は、江戸時代中期の享保5年(1720)に鋳造された銅鐘。もとは、その49年前の寛文11年(1671)に当時の岩槻城主阿部正春が鋳造させたものでしたが、ひびにより鐘の音に不具合が生じたため、改鋳された。それが、現在の鐘であると。時の鐘の表面には、116文字が刻まれています。鐘を鋳物で造り上げ、表面の磨きなどを行って仕上げた後、タガネなどの工具を使って文字を刻み込んだものです。116文字で記された文章は次のようなものです。縦書きの漢文体で、漢字のみで記されています。最初に原文(横書きにして、句読点を補ってあります、下段におおまかな内容を掲げます。原文武州埼玉郡岩槻城下鳴時鐘者則寛文十一年辛亥、城主予州刺史阿部正春、所令冶工渡辺近江掾正次新鋳也。至今五十年、釁郄稍多而音響不調也。於是因仍旧制、使江都良冶小幡内匠勝行改造焉。冀夫声聞遠大於不朽也。 享保五歳次庚子八月日 岩槻城主伊豆守大江姓永井氏直信誌大意武州埼玉郡の岩槻城下に鳴る時の鐘は、寛文十一年辛亥の年に時の城主伊予守阿部正春が、鋳物職人の渡辺近江掾正次に命じて新鋳したものです。その後今まで五十年を経る中で、ひびが次第に多く生じてしまい、音響にも不具合が出てきました。そこで、以前と同じように、江戸の名工の小幡内匠勝行に改鋳させました。その鐘の音がいつまでも、遠くまで鳴り響くことを願います。 享保五年庚子八月日 岩槻城主伊豆守大江姓永井氏の直信がこの鐘の鐘の文章を書きました と。「時の鐘」への急な階段は昇降禁止措置が施されていた。奥に在ったのが「薬師神社」。「薬師神社」横から、史跡「時の鐘」を振り返る。「時の鐘・薬師神社時の鐘時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは約16メートルあります。平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。薬師神社の由来薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。」「川越小唄西條八十作詞、町田嘉章作曲春はうらうら 多賀町あたり鐘も霞の ヤンレヤレコノ 中で鳴る鐘もかすみの中で 鳴る 昭和四十五年一月十二日 旧多賀町薬師講 桃林書 山崎石材刻」手水舎。「薬師神社の由来について当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺という寺であったが明治維新の折薬師神社となった。明治二十六年川越大火により時の鐘と共に消失翌年再建された御本尊は薬師如来の立像で高さ六十糎行基菩薩の作という。五穀豊穣・家運隆昌。特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果がある。尚、向かって右奥の稲荷社は出世開運合格に著しいご利益がある。」「半夏生(はんげしょう)」も花を咲かせていた。水辺に群生する白の斑がたいへん美しい涼しげな植物。「半夏生」の名は、夏至から11日目を半夏生と呼び、その頃に花を付けることから名付けられたそうです。葉っぱの半分ほどが真っ白な白粉を塗ったような様子から「半化粧」とも呼ばれます。開花と同時に花穂のすぐ下の葉が白く変わります。白くなる面積は個体差がありますが、半分くらい~9割ほどで、葉っぱ全体が真っ白くなることはありません。花が終わる頃には葉っぱは緑に戻ります。なんとも不思議で神秘的です。半夏生は虫媒花であるため、葉を白くして虫に花のありかを知らせるためではないかと言われているそうです とネットから。扁額「川越薬師如来」。「絵馬掛け処」。「め」を鏡文字にした絵馬が飾られていた。眼病に特化した薬師さまであるとのこと。「古来各地から「薬師様は目の神様」と信仰され底翳(そこひ)を患う者の参拝があり、お礼に描かれた向かい目の絵馬が数多く見られる。(P202)」と記載ありとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.11
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再び「喜多院」の境内から「水屋」そして「喜多院 慈恵堂」を見る。ズームして。人の数は少なかった。正面から。県指定有形文化財・建造物。慈恵堂は、境内中央で東に面して建つ入母屋造銅板葺屋根の大建築である。延暦寺第18代座主慈恵大師良源(元三大師)をまつり、大師堂、潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれ、いわば根本中堂の役割を果たしている御堂である。建築年代は、『星野山御建立記』から、寛永15年の大火後の翌16年(1639)に造営されたことがわかっており、携わった大工は、山本若狭守吉重、長左衛門、加右衛門の3名である。柱間9間側面6間で四周に縁・高欄が回り、正面と両側面に1間幅の畳廊下(入側)を設け、その奥に正面7間側面3間の外陣、正面7間側面2間の内陣が配されている。また、内外陣境は引違いの格子戸を入れて結界を設けるなど、延暦寺根本中堂を典型とする天台宗の仏堂形式と同一の形式が採用されている。寺院で見られる五色の旗は、主に仏教に関連しています。これらの旗の色は、それぞれ異なる意味を持ち、仏教の教義や象徴と結びついています。具体的には以下のような意味があります。青色 (Nīla):意味: 平安、慈悲、無限象徴: 仏陀の知恵を象徴し、特に慈悲の心を表します。黄色 (Pīta):意味: 中道、聡明、調和象徴: 仏陀の教えそのものを象徴し、中庸の精神を表します。赤色 (Lohita):意味: 精力、意志、情熱象徴: 仏陀の実践を象徴し、修行や自己改善の意志を表します。白色 (Avadāta):意味: 清浄、純粋、正義象徴: 仏陀の心の純粋さと清浄さを表し、煩悩からの解脱を意味します。橙色 (Mañjiṣṭha):意味: 智慧、知識、霊性象徴: 仏陀の悟りと智慧を象徴し、特に知識と洞察力を表します。5色の色の並びは宗派や地域によって若干の変化が見られることもあります と。石段を上り「喜多院 慈恵堂」に近づいて。正面と両側面に1間幅の畳廊下(入側)を設けていた。扁額「潮音殿」喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。喜多院を中心とした古地図をネットから。五百羅漢像の並ぶ場所を訪ねた。川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。繰り返しになるが「日本三大羅漢の一つに数えられている。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。」と。再び中央のお釈迦様を。旅立ちの姿。ヒソヒソ話をする五百羅漢を。寝ている羅漢様。まぁまぁ 一杯!!仲良く!!五百羅漢場の十二支 羅漢像の中には、十二支の動物を持つ羅漢さんがいるとのことで、探してみました。 十二支の子・丑・寅。十二支の卯・辰・巳。十二支の午・未・申。十二支の酉・戌・亥。これも十二支の「寅」だと言われたが・・・・。この碑は??「喜多院 慈恵堂」を振り返って。写真中央が「太子堂喜多院太子堂縁起山門本年は聖徳太子御忌一千三百五十五年に当ります申すまでもなく聖徳太子はわが日本の文化史上における代表的偉人でその政治上の功績は云ふまでもなく学問著述教育宗教音楽芸能工芸築建医療養護社会施設その他諸道の祖として信仰されております 特に室町の時代末には仏教宗派にとらはれず太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ大工左官屋根職等の仕事師の絶対的信仰をあつめたのであります当山の太子堂は弘化四年三月当山末寺混合院境内地に創建され明治以後廃寺にともない日枝神社境内に移し更に明治四十二年三月現在の多宝塔建立地に移築しそして昭和四十七年十一月この地に立派な六角太子堂として再興したものであります この度慈恵堂多宝塔大修繕の勝縁を記念して太子堂再興新太子像奉刻木遣塚石垣など建設と共に川越鳶職組合(代表西村甚平氏)が中心となり喜多院太子講の結成を見まして十方有縁の篤信徒に太子のお■を戴けることはまことに佛天の恵み千載一偶の法縁でありますこゝに畧縁を誌し記念とする次第であります 昭和五十一年二月二十二日 星岳亮善 識左側の石塔が「木遣塚木遣(きやり)塚建設の碑昭和五十年四月吉日木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった我々の先祖はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが現今では、木遣と云えば 木遣音頭を以て代表され 諸々の行事に広く歌われるようになったこの度川越鳶組合は 近隣鳶組合と計り ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し その由来を記し先祖の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである塚建設に当り多数の御賛助を得たので ご芳名を刻み永く伝えたい」。売店「川越大師 厄除けだんご」と。「喜多院」について「ChatGPT」に纏めてもらいました。川越にある喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市に位置する歴史的な寺院で、天台宗に属しています。正式名称は「星野山無量寿寺喜多院」といい、川越大師としても知られています。以下に喜多院の主な特徴と歴史について説明します。歴史創建:喜多院の創建は830年(天長3年)で、慈覚大師円仁によって建立されました。円仁は平安時代の僧侶で、天台宗を日本に広めるのに貢献しました。重要人物:江戸時代に入ってから、徳川家康に深く信任された天海僧正が住職を務めました。天海僧正は、徳川幕府の重要な僧侶であり、江戸時代の仏教界に大きな影響を与えました。火災と再建:1638年(寛永15年)に大火災に見舞われましたが、江戸幕府の援助により再建されました。その際、江戸城紅葉山御殿から移築された建物も含まれており、現在もその一部を見ることができます。見どころ五百羅漢像:喜多院の五百羅漢像は、国内でも有名な見どころの一つです。約540体の羅漢像があり、一体一体が異なる表情や姿をしているため、訪れる人々に感銘を与えます。徳川家光誕生の間:江戸城から移築された建物の中には、徳川家光が誕生したとされる「家光公誕生の間」があります。歴史的価値が高い場所として、多くの観光客が訪れます。庭園:喜多院の庭園は四季折々の美しさを楽しむことができる場所で、特に春の桜や秋の紅葉が美しいことで知られています。行事:毎年2月には「だるま市」が開催され、多くの参拝者で賑わいます。この行事は、無病息災や家内安全を祈るために行われています。アクセス喜多院は川越市の中心部に位置しており、公共交通機関を利用して簡単に訪れることができます。川越駅から徒歩約20分、またはバスを利用することができます。喜多院はその歴史的価値と美しい建造物、庭園、そして興味深い仏教遺産により、多くの観光客や参拝者を引きつけています。そして「喜多院」の山門を出ると左側にあったのが「白山権現」。「白山権現830 (天長7年)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、この守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。右道路向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山ふもとの日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。天台宗では、神仏習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し人々の幸せをお折りします。* 修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法」その先にあったのが「天皇陛下・皇后陛下 スウェーデン国王陛下王妃陛下 行幸啓記念」碑と「天海大僧正」像。「天海大僧正」像。天海大僧正(慈眼大師)とは 徳川家康公、秀忠公、 家光公の3将軍に仕え日光山第53世貫主を務め、一時衰えた日光山を 立て直しました。その大きな功績は日光再興の恩人と今に伝えられています。銅像は彫刻家・倉沢実氏作。「天海大僧正(1536~1643)喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。108歳で遷化(亡くなる)後、朝延より「慈眼大師」の称号を賜りました。」「天皇陛下・皇后陛下 スウェーデン国王陛下王妃陛下 行幸啓記念」👈️リンク 碑平成19年3月28日、 当時の天皇、皇后両陛下とスウェーデン国王、王妃両陛下が川越をご訪問。一番街、市立美術館などを視察されました。 時の鐘入口交差点では「曳(ひ)っかわせ(山車どうしによる囃子(はやし) の競演 )」が行われ、 ご一行は川越まつりの雰囲気を満喫したご様子でした と。「行幸啓記念碑2007年3月28日(平成19年)、天皇・皇后両陛下におかれましては、スウェーデン国王陛下・王妃陛下と共に多喜院をご訪問ご視察されました。左側には、1977年11月10日(昭和52年)に、両陛下が皇太子殿下・同妃殿下として行啓ご訪国下さいました時の記念碑があります。」道路の先にあったのが「重要文化財 日枝神社(ひえじんじゃ)」。「仙波日枝神社古墳」もあるようであった。墳丘にさり気無く案内板が建てられているくらいで、古墳として認識している人は少ないかもしれません。それもそのはず!元々は、前方後円墳だったこの古墳は、大正13年の県道工事で古墳のほとんどを壊してしまい、現状は前方部分が残るのみとなっているとのこと。「日枝神社(ひえじんじゃ)」。「日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群の日枝神社古墳(多宝塔古墳)という前方後円墳の一部を削平して喜多院門前に移転した。歴史円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。祭神祭神は僧形の大山咋神(おおやまくいのかみ)・大己貴命(おおくにぬし)。」とウィキペディアより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.10
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「豊洲 千客万来」を後にして、次の目的地の「川越」に向かう。都道484号線に向かって進むと、左手に見えたのが「豊洲大橋」。晴海運河をまたぎ、東京都中央区晴海5丁目(晴海埠頭)と江東区豊洲6丁目(豊洲埠頭)を結ぶ道路橋である。東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)が通る。「豊洲大橋」を渡り、「レインボーブリッジ」方向を見る。「レインボーブリッジ」をズームして。4月1日に通行が可能になった豊洲市場の船着場方向を車窓から振り返る。この船着場は漁船用なので一般の船は利用できないようだ。奥に見える設備はエレベーターで、豊洲市場・水産仲卸売場棟の屋上緑化広場へと行くことができる。誰でも利用可能だが、利用には時間が限られていると。豊洲市場が開場してから利用できると。「晴海ふ頭H-Jバース」付近に停泊中の「水産庁」所属の「照洋丸」。漁業取締本部配属の漁業取締船で、我が国周辺水域等において、違法な操業及び漁具の設置を行う外国漁船等の指導・取締を行うことを目的にした船。87.6m長☓14m幅☓2183総トン と。東京二十三区清掃一部事務組合 「中央清掃工場」の巨大煙突。三角形の煙突の高さは177.5m と。「中央清掃工場」を左手奥に見ながら環二通りを進む。「黎明大橋」を渡る。左手に見えたのが人道橋「黎明小橋」。2018年に暫定開通した東京のこの環状2号線の豊洲~築地区間では透明の防音壁を全面的に採用。一部はトンネル状になっているのであった。防音壁メーカーのひとつ積水樹脂(大阪市北区)によると、透明の防音壁は平成の初め頃から登場し、徐々に増えているといいます。やはりメリットは「光が差す」ことだそう。透明にすることで、たとえば高架下にできる影の範囲を小さくできるほか、一般道では特に「店の看板が防音壁で見えなくなるので透明にしてほしい」といった要望も多いそうです。新規道路の建設にあたり、当初は鋼製の防音壁で計画したものの、住民説明会の結果で透明に変更するケースも、ままあるといいます。透明の防音壁の多くはポリカーボネート(自動車のヘッドライトカバーなどに使われる)製で、一部、アクリル製もあるといいます。ガラスなどは割れた場合の安全性に問題があるため、「NEXCOの厳しい安全基準を満たすうえでも、(耐衝撃性に優れる)ポリカーボネートが現実的な素材」(積水樹脂)だそうです。しかし、鋼製の防音壁は内側に吸音材があり、音を吸収する一方で、透明の防音壁は音を反射してしまうのだそう。このため、仮に透明板を全面的に使用する場合は壁が高くなるケースがあるうえ、材質としてもコストは高くなるといいます。そこで、前出した「鋼製板と透明板の組み合わせ」が使われるほか、道路の片側は鋼製壁、もう片側は透明壁を使うケースもあります。たとえば、東京と千葉を東西に結ぶ京葉道路がこの方式で、上り線側は鋼製壁、下り線側は透明壁で主に構成されています とネットから。「築地大橋」を渡りながら、「竹芝客船ターミナル」方向を見る。右手に「東京タワー」左に「JR東日本四季劇場 [春] / [秋]」の屋根が確認できた。「東京タワー」をズームして。「築地大橋」を渡り進むと左に「浜離宮恩賜公園」を見る。車窓の反対側には「東京スカイツリー」の姿も。右折して「新大橋通り」を進むと左手にあったのが「朝日新聞東京本社」。東京都中央区築地5丁目3−2。「国立がんセンター中央病院」。東京都中央区築地5丁目1−1。そして「市場橋」交差点の手前右手に「築地 場外市場」の看板が姿を現した。「市場橋」交差点の角の駐車場にバスは駐まる。「4月25.26.27 築地春まつり」が行われたようであった。バスから降りて「市場橋」交差点の角から「築地場外市場」👈️リンク入口を見る。昼食会場に向けて築地四丁目を歩く。「つきじ すしざんまい 新館」案内。すし店「すしざんまい」を展開する喜代村の社長、木村清氏の人形が迎えてくれた。「喜代村 すしざんまい 本陣」案内。昼食会場の「喜代村 すしざんまい 本陣」に到着。「にぎり」寿司セットをビール片手に楽しんだのであった。そして、「千客万来」で目で楽しんだ「インバウン丼!!」とはいかなかったが、昼食を口で楽しみ、バスに戻り「川越」に向かって進む。「荒川」を渡る。「美女木JCT」を経由して「東北縦貫自動車道」に入り、「幸魂大橋」を渡りながら「彩湖(荒川貯水池)」を見る。「大泉JCT」から「関越自動車道」へ。「新座料金所」を通過。「川越IC」で「関越自動車道」を降りる。そして川越市街に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.08
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食楽棟 ・3階フードコート内にあった枯山水の如きオブジェ。3階から「時の鐘広場」を見下ろす。食楽棟のランドマークの「時の鐘」の下に広がる多くの人が集う広場。10時、12時、15時、18時、21時には実際に鐘が鳴るとのことであったが、タイミングが合わず聞くことは出来なかった。3階の連絡通路から、2階外の「豊洲目抜き大通り」を。3階にあった焼肉・肉料理「好ちゃん」。飯田橋の大人気焼肉店が豊洲に上陸!絶品ホルモンと黒毛和牛焼肉を是非お楽しみください と。「焼肉・塩ホルモン 好(よし)ちゃん」。「ランチメニュー」。3階 寿司・海鮮丼・海鮮 うに専門店「築地 うに虎」。豪華&高価メニュー。「海鮮丼」。「雅 10,000円」。「皇帝 18,000円」これぞ「インバウン丼!!」「厳選生うに6種(130g)・本鮪大トロ・本鮪中トロ・いくら」おいしかった!!と言いたかった!!「豊洲 先客万来 2024年2月1日(木) グランドオープン」。築地の伝統を継ぎ、新たな賑わいを目指す 「豊洲 千客万来」のアンバサダーに、 伝統と革新を体現する表現者、 「中村獅童」👈️リンク さんが就任した と。2階に戻って土産店「豊洲えんぎもの」内にあった日本包丁専門店「貴和美」👈️リンク を訪ねた。様々な種類、様々な大きさの包丁が。近づいて。プロ用から家庭用まで様々な種類の包丁を取り扱っているのであった。「目利き横丁」左に「芋松」豊洲市場内の青果仲卸 芋松が運営する飲食、物販店舗。日採れの湘南野菜、産直の有機野菜、加工品、焼いも、ソフトクリーム、日本酒など店主セレクト商品を用意 と。天井には「大漁旗」が並ぶ。右手に「Seafood Burger 豊洲 島童子」.「濱風茶房」。「濱風茶房」。「抹茶(八女茶)モンブラン」1,000円 と。前方に「築地銀だこ」。「築地銀だこ」。「うにいくら山芋乗せのお出汁付きたこ焼き」。「たまごや新海」。日本全国のこだわり卵を厳選して常時10種類以上販売。TKGに合う醤油やトッピング、卵料理に合う調味料を多種ご用意 と。TKG:「卵かけご飯」のこと。 「Tamago Kake Gohan」の頭文字をとった略称。「セルフTKG作りませんか!①パックごはん+ TKGセットを購入する②レンチンする③おすすめ卵の中から1個選ぶ④お好きな調味料でTKGをめしあがれ」「セルフTKG 500円~」。「映画「二宮金次郎」豊洲 先客万来 上映会」案内ポスター。「豊洲市場ぐるめ場所」👈️リンク 案内。「先客万来」の他にも「ぐるめ場所」はいっぱいありますよ!!と。「先客万来」の「木戸門前広場」を最後に。「お客様へのお願い各店舗でご購入いただい商品は必す施設内でお召し上がりください豊洲市場へのお持ち込みはご遠慮くださいお客様のご協力お願い申し上げます 千客万来」巨大な真紅の唐傘は日除け用にも。「豊島市場」👈️リンク 用二次元コード。そして駐車場のバスに戻る。「◯◯地区自治会連合会様」と。出発時間は11:10。駐車場出口には、「千客万来」の「万葉倶楽部」👈️リンク へ、古来より名湯として知られる「箱根温泉」と「湯河原温泉」の源泉を運んだタンクローリーが戻る姿が確認できた。2024.2.1にグランドオープンした「東京豊洲 万葉倶楽部」案内をネットから。そして、「千客万来」👈️リンクを訪ねて、これぞ「インバウン丼!!」と思われる多くのメニューを目でのみ楽しみ、カメラで撮りまくった後は、我々の昼食の場・「築地場外市場」の近くの店へとバスで向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.07
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さらに「豊洲 千客万来」の散策を続ける。「大手門広場」側にあった土産店「豊洲えんぎもの」の「ぬいぐるみ マグロくじ」 一回1,000円(税込)コーナー。「漁火」👈️リンク。創業150年近い歴史を誇る豊洲市場の老舗水産仲卸が、隣接した市場から目利きされた新鮮な魚介類を中心に、海鮮炉端焼を展開していた。店頭での「海鮮炉端焼」。大海老、ニジマス、???土産店「豊洲えんぎもの」の入口を再び。「豊洲 千客万来」内に当社がオープンしている店舗は、江戸の街並みを再現した食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」の豊洲目抜き大通りの最奥にあり、「江戸遊楽座」という芝居小屋をモチーフにした外観が特徴。「新板大江戸名所双六」👈️リンク。右下の振り出しから左上の上がりまで順番に進んでいく「回り双六」(出た目によって次の場所が決まるタイプを「飛び双六」というと)。さいころを振って駒を進めるつもりで、登場する江戸の甘味をたどってみることが出来るのであった。土産店「豊洲えんぎもの」の店内を散策。「歌舞伎醤油皿」。お皿に醤油を注ぐと、「隈取」が浮き上がるユニークな商品。「筋隈」や「むきみ隈」など、柄は全6種類あるようだ。隈取は顔の血管や筋肉を誇張するために描かれたもので、役柄によってデザインが異なるが、「歌舞伎醤油」6種類の隈取がモチーフになっているのであった。「都市の温泉郷 万葉の湯」案内板。7Fにあるようであった。「露天風呂」をネットから。「足湯」をネットから。再び「2F 豊洲場外 江戸前市場」案内板。「目利き横丁」を歩く。「水長水産」の店「漁火」。巨大な蟹であったが・・・ピンボケ。「たらば蟹 一肩 ¥18,500」と。「地方発送もできます!!」と。「熟成之 だしスープ」コーナー。私も試飲させていただきました。「豊洲物産」。全国各地の乾物、瓶詰、各種調味料等を中心に幅広い食材を提供。「松茸」。「山内フーズ」👈️リンク。「うなぎ弁当 2,500円」。「蟹・いくら弁当 2,200円」。カニのちらし寿司や函館の海鮮がたっぷりの弁当。この店ではとうもろこし、スイカを。「富士山」の勇姿。「3F 豊洲場外 江戸前市場」案内板。こちらにも。「築地 うに虎」。豪華&高価メニュー。「海鮮丼」。「大江戸うどん さくら」👈️リンク。「フードコートのよりどり町屋」内の「十割そば たかはし」👈️リンク。「フードコートのよりどり町屋」内の「ポキボウル カナロア(Kanaloa)」👈️リンク。「江戸辻屋」。「海鮮バイキング いろは」👈️リンク。厳選された鮮魚を含め約50種のバイキングメニューをご用意 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.06
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大型バス駐車場にてバスを降りて「豊洲 千客万来」の散策開始。豊洲市場に隣接する「豊洲 千客万来」は、食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」と温浴棟「東京豊洲 万葉俱楽部」から成ります。2024年2月1日にオープン。食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」では、築地の伝統を引き継いで、豊洲ならではの新鮮な食材などを活かした飲食・物販店舗を展開いたします。江戸の古い街並みを再現したオープンモールで、食べ歩きやお買い 物をお楽しみください。温浴棟「東京豊洲 万葉俱楽部」では、専用トレーラーにて、箱根・湯河原の温泉を毎日運搬して、豊洲の地に“東京都心の温泉郷”を実現します と。「1F 豊洲場外 江戸前市場」案内。「1F~3F案内板」。・日本最大規模の木造耐火商業施設。・1階 鉄骨造、2~3階 木造の立面混構造。・2~3階の木造部の柱と梁に、“東京の木 多摩産材”を活用した木質耐火部材 「COOL WOOD(1時間耐火仕様)」 を採用。・御影石や淡路瓦などの伝統的な建築素材を用い、江戸の風情ある街並みを現代に再現。そして最初に2Fを訪ねた。「2F 豊洲場外 江戸前市場」案内図。「木戸門前広場」。「逸品屋えどこ」👈️リンク 前には多くの外国人観光客の姿が。ブルーのお揃いのTシャツを来た外国人観光客。「目利き横丁」の入口。仲卸が目利きした新鮮な旬の食材や珍味を、食べ歩きやカウンターで楽しむことができ、各店舗から食欲をそそる香りが漂う食の賑わいを体感いただけるエリア。「木戸門」から入り「豊洲目抜き大通り」を訪ねた。右手最初にあったのが「つきぢ神楽寿司」👈️リンク「豊洲目抜き大通り」を進む。寿司やうなぎなど、江戸前の食が楽しめる飲食店街や地元江東区で人気の店舗が並ぶエリア。東京の⾷の魅力の新たな発信源としての役割を担っている と。その先に、左手にあったのが「江戸 深川屋」👈️リンク。江戸時代の防火用水を再現。その先、右手にあったのが「千客万来屋台店」👈️リンク。3階の連絡通路下を進む。「玉子焼 力武-Premium-」👈️リンク。大正末期創業、玉子焼専門店。特選卵を使用した新しい出汁巻き玉子、プリン、ソフトクリーム等スイーツや、休市日限定メニューも豊洲場外でしか味わえません。築地で大人気焼たて食べ切りサイズもご賞味ください と。人気の「厚焼玉子」も店頭で焼いて。これぞ「厚焼玉子」!!。丸武のプレミアムたまごやき 300円。「うなぎ 北鎌倉 名月川」👈️リンク。「炭火焼 うなぎ 北鎌倉 名月川」。「うな重 松(うなぎ一尾半) 5,910(6,500)円」「うなぎ一品料理」。ウナギの香りが写真からも溢れ出て来るが如くに。食べたかった!!!!・・・・。右側に「十割そばと江戸前天ぷら 囲炉裏」👈️リンク、左側「軽食・スイーツ・ドリンク かねす」👈️リンク。「ふわふわサクサク まんじゅうの天ぷら」。「当店限定の 『まんじゅうの天ぷら』 は、「酒まんじゅう」・「黒糖まんじゅう」・「紫芋まんじゅう」 の3種で、まんじゅうに衣をつけてサクッと揚げたオリジナル天ぷらです。まんじゅうを天ぷらにする(熱を加える)ことで、より一層中身の “餡の甘み“ を感じていただける商品となっております。豊洲千客万来店ならではの “食べ歩きグルメ” としてぜひお楽しみください! 」と。さらに進む。「月島もんじゃ 十五夜」👈️リンク。「しらすもんじゃ」。「あんバターたい焼き」。「あんバターたい焼き 400円」。大きなバターを口に咥えた「あんバターたい焼き」。「肉好き 大黒天」👈️リンク。「九州産黒毛和牛 黒火乃牛と岩中豚のメンチカツ」。卸ならではの厳選した牛肉、豚肉、鶏肉を使用し、大きな肉の串焼きや、肉の煮込み、豪快な肉炒め、揚げたての肉惣菜をご用意しています と。「大黒天甘辛すき焼豆腐」。そして右手には「時の鐘広場」が現れた。「豊洲 千客万来」のランドマーク、時の鐘。時の鐘とは、江戸時代に時を告げる役割に使われていた。時の鐘の下には時の鐘広場があり、多くの人が集う空間となります。定期的にイベントなども開催しています と。このあと、川越にある「時の鐘」を訪ねたのであった。「時の鐘広場」のベンチにて多くの観光客が買った食べ物を楽しんでいた。「千客万来 大入」と。和カフェ「豊洲 ふくらすずめ」。芝居小屋「江戸遊楽座」の中に、“見てよし、食べてよし、飲んでよし! 縁起物を取り揃えて、みなさまに福をもたらす場所に”を合言葉に、食品や雑貨を扱う土産店「豊洲えんぎもの」、素材にもビジュアルにもこだわった和カフェ「豊洲ふくらすずめ」、約30種の日本酒を楽しめる「豊洲のみよし」の3店舗がオープン と。歌舞伎役者の錦絵が。「花飾駒道中双六 うかい勘作 中村芝翫」豊原国周 画 。 「女房お傳 大谷友右衛門」豊原国周 画 。「役者絵 すごろく」。「三芝居三言音雙六(さんしばいこわねすごろく)」👈️リンク と古文字の師匠から。「豊洲市場 相馬水産」には長い列が。“創業60年 豊洲まぐろ仲卸し”相馬水産のファーストフード店。王道の刺身、仲卸しだからこその希少部位、前代未聞のまぐろ料理等、“とにかく旨いまぐろを食べてもらいたい”との一心で創り上げたメニューの数々をご賞味ください と。「まぐろ串」。「江戸有楽座」の北西側、土産物屋「豊洲えんぎもの」の入口の上にあった「鼠小僧次郎吉」、「鳴神」、「毛抜」の歌舞伎の題目が書かれた看板。中央に「優長市川系譜」👈️リンク。右「一世一代 吃の段中村歌右衛門 豊国画 けいせい反魂香」左「女房お徳 中村大吉 豊国画 けいせい反魂香」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.05
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この日は6月6日(木)、今年も私がボランティアとして参加している、わが町の自治会連合会の親睦旅行に参加。駅前に8時集合とのことで自宅を7:40過ぎに徒歩にて出発。ご近所の白の「カシワバアジサイ」。ビワ(枇杷)の実がたわわに。赤のタチアオイ(立葵)。当初は中国原産と考えられていたが、現在はビロードアオイ属(Althaea)のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種(Althaea setosa ×Althaea pallida)とする説が有力である。日本には、古くから薬用として渡来したといわれている。花がきれいなので、園芸用に様々な品種改良がなされた。草丈は1~3mで茎は直立する。花期は6~8月で、花は垂直に伸びた花茎の下から上に咲き上っていく。ちょうど梅雨入りの頃に咲き始め、梅雨明けと共に花期が終わる(花茎の頭頂部まで開花が進む)ことになぞらえて、「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名も冠されている。花は一重や八重のもあり、色は赤、ピンク、白、紫、黄色など多彩である。花の直径は品種によるが大きなものでは10cmくらいである。本来は宿根性の多年草であるが、品種によっては一年草でもある。アオイの名から会津若松市と静岡市が市花に制定している。チロリアンランプ。提灯のような特徴的な花が開花する、つる性植物。和名のウキツリボクで呼ばれることもよくあルと。駅までの民家の庭の花を追う。大きく花びらを広げた黄色いユリ。まぶしいほど色鮮やか。そして、定刻の8:15に約30名が大型観光バスに乗り込み、最初の訪問地の「豊洲 千客万来」に向かってスタート。見送って下さったセンター職員の◯岡さん。国道467号を進み、白旗神社手前から藤沢バイパスへ。先日訪ねた境川に架かる鷹匠橋を見る。「藤沢市 大清水浄化センター」。そして、その先直ぐに横浜市に入る。国道1号を進み、横浜新道に向かう。横浜新道・戸塚料金所を通過。新保土ケ谷ICを通過し、横浜横須賀道路に進む。新保土ケ谷ICから横浜新道方向を見る。横浜横須賀道路方面に進む。狩場ICを通過し、首都高速神奈川3号狩場線に入り「狩場本線料金所」を通過。「横浜マリンタワー」を左手に見る。そして前方左手に「横浜ベイブリッジ」が姿を現した。横浜港のメインターミナルとなる大さん橋ふ頭の長さは、450mある。そのため長さの面だけで見れば、たとえば全長300m超えの客船であっても、港に着けること自体は可能。ただし、大きな船は、その分高さもある。大さん橋ふ頭に着く以前に、この横浜ベイブリッジの下を通過することができないという問題が立ちはだかるのだ。海上から橋まで約56mですので、それ以上の高さの船は、ベイブリッジの下を通過できない。過去には、高さ56.6mのキュナード社の大型客船『クイーン・エリザベス』が大さん橋に寄港したこともあるが、干潮時、海面が低くなる時間帯を狙っての寄港あった。以前に横浜港に寄港した『クァンタム・オブ・ザ・シーズ』のような客船は、たとえ干潮時でも、大さん橋ふ頭まで入ることはできないのであった現存する船で、ベイブリッジを通過できないであろう超大型客船は、ほかにも多数ある。「シンフォニー・オブ・ザ・シーズ」の姉妹船で、全長362.12mを誇る「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」をはじめ、「オアシス・オブ・ザ・シーズ」、「MSCメラビリア」などだ。いずれも全長300m超え、総重量は20万トン近い。しかし、横浜港ではこうした超大型客船を受け入れる対応策がすでにある。横浜ベイブリッジをくぐれない船を迎え入れる際は、大さん橋ふ頭ではなく、大黒ふ頭を利用しているのだ。横浜ベイブリッジよりも手前(東京湾側)にあるため、橋をくぐる必要がない。大黒ふ頭は、主に自動車専用船のために利用されてきたが、現在では、超大型客船の受け入れにも利用されているのである。横浜ベイブリッジをズームして。本牧JCT手前から「横浜ランドマークタワー」方向を見る。「横浜ランドマークタワー」をズームして。「横浜ベイブリッジ」の橋脚。1981年着工、1989年開通。橋長860m、塔高172m、海面上175m。横浜ベイブリッジから横浜港を見る。「横浜ランドマークタワー」、風をはらんだヨットの帆の形が特徴の「ヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル」を見る。「日産自動車 横浜工場 第2地区」その手前の「太平洋製糖株式会社」を見る。「大黒JCT」手前から「東京電力パワーグリッド(株) 横浜大黒変電所」の巨大煙突を。1996年に建設した高さ約 200mのスレンダーな煙突。外筒は、糸巻型の鉄筋コンクリー卜構造であり、スリップフォーム工法にて施工された。「人と環境の調和を目指した都市型発電所」のシンボルとしての景観を担っている と。大黒パーキングでトイレ休憩のため急カーブを下りながら、横浜ベイブリッジを見る。「大黒パーキングエリア」の上空からの写真をネットから。手前が「ベイブリッジ」、前方が「鶴見つばさ橋」。「大黒JCT」の急カーブの下り坂をバスの車窓から見上げて。大黒PAパーキングエリアのシンボル「照明塔」。以前に夜に撮った写真を。そしてバスを降り、トイレに向かう。花壇も美しく管理されていた。バスは出発し、「鶴見つばさ橋」を通過。左手に「扇島パワーステーション」を見る。東京ガスと昭和シェル石油 (現 : 出光興産)の共同出資により設立された企業。東京ガス扇島LNG基地に隣接した東亜石油貯油地跡地にて、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせたガスタービンコンバインドサイクルによる火力発電を行う と。羽田空港横を通過し進むと、左手に見えて来たのがホテル「グランドニッコー東京 台場」。ゆりかもめ「台場駅」方向を。「フジテレビ本社ビル」。「台場」交差点の角にはキリンの姿が。レゴ「しあわせのキリン」(レゴランド・ディスカバリー・センター東京)と。レゴランド®・ディスカバリー・センター東京(運営:マーリン・エンターテインメンツ・ジャパン)は2022年12月20日、高さ6メートルにおよぶ、約50,000個のレゴ®ブロックを使用した「しあわせのキリン」モニュメントの完成お披露目イベントを開催したとのこと。そして「有明西運河」に架かる「のぞみ橋」を渡る。「有明テニスの森」交差点を左折して進む。倉庫「ユニクロ有明流通センター」は、緑化や周辺緑地整備など環境配慮を施した、最先端の物流センターなのであろう。「豊洲有明線」の「富士見橋」からの光景。右手に「レインボーブリッジ」が見えた。「レインボーブリッジ」は芝浦地区と臨海副都心を結ぶ首都最大級の橋。1987年着工、1993年竣工、同年8月26日開通。 全長約800メートルの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央に新交通システム「ゆりかもめ」、その両側には一般道路と歩道が通っているのだ。手前の高架が「首都高速11号台場線」その下が「ゆりかもめ」線。そして目的地・「豊洲 千客万来」近くの「豊洲市場前」交差点に到着。 ・・・つづく・・・
2024.07.04
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県207号線の左側に、鐙摺城址としての史跡でもあり、町指定文化財にもなっている「旗立山」への鉄製の階段があった。「葉山町指定文化財第四十三号史跡 旗立山👈️リンク平成四年三月二十七日指定高さ25mほどの頂上が平らな丸い小山で、鐙摺(あぶずり)山、軍見山とも呼ばれています。『源平盛衰記』によれば、石橋山(小田原市)で旗揚げした源頼朝に呼応した三浦党は、鐙摺城北側の小浜の入江から援軍として出陣します。石橋山の合戦で頼朝軍が敗走したことを酒匂川の畔で聞いた三浦党は引き返しますが、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇、対峙します。その後、お互いの誤解から合戦になりますが、このとき鐙摺城にいた三浦党の総帥三浦義澄は、この山に旗を立てて気勢をあげたことから、旗立山と呼ばれるようになったといわれています。また、『新編相模国風土記稿』によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた頼朝が、治承元年(1177)に密かに三浦を訪れ鐙摺山に登った際、馬の鐙が擦れたことからこの名が付いたとされます。 葉山町教育委員会」鉄骨製の階段を上って行った。この木柱には??鉄骨製の階段の後は、岩を刳り貫いた石段が。そして平らな頂上に到着。「葉山町指定 史跡 旗立山(鐙摺山) 「伊東祐親入道供養塚」伊東祐親には、娘が四人あった。長女は相模の三浦義澄の妻になり、次女は、はじめ工藤祐経に嫁いだが、のち取り帰されて、土肥遠平に再縁した。三女と四女は、まだ父のもとにいた。源頼朝は既に十三歳のとき、伊豆の国へ流されたが、伊東・北条の両人を頼みに暮らしていた。三女は美人の名が高かったので、頼朝はそれを知って、つれづれのなぐさめとして、ひそかに通ううち、男子が生れた。頼朝はおおいに喜んで、その男子に千鶴御前という名をつけた。伊豆は、源氏にとっては祖先が往来した地であり、かつて部下が住んだ国である。平家全盛の世に、雌伏している頼朝ではあったが、このたび男子が生れたことは、流人の身に、ひとしおうれしく感じられた。千鶴御前・三歳の春、伊東祐親入道は、大番勤めを終って、京から伊東へかえった。しばらくは千鶴御前の事を知らされませんでした。ある夕方、庭苑の築山で遊んでいた、千鶴御前の姿を見て、妻に尋ねた。頼朝が通った三女にとっては継母だったので、いい機会とばかりに愚かしい言い方で、伊東祐親入道に頼朝と三女との間の子で、貴方の孫御前ですと告げた。伊藤祐親入道は大いに腹を立て、「娘が多すぎて置き場がなければ、乞食にでもやるが、源氏の流人を婿にするなどは、まっぴらだ。もし平家におとがめられたら、なんとしよう。毒虫は頭をくだけ、かたきの子は殺してしまえ、とは古語にもいっていることだ」こうして郎党をよびよせ、千鶴御前を誘い出し、伊東の松川の上流の溜りに芝漬けにしてしずめた。しかも、その三女を奪って、同じ伊豆の江間の小四郎に嫁がせた。さらにそのうえ、頼朝を夜討ちにしようとして、郎党どもをあつめた。しかし、伊東祐親入道の二男・九郎祐清が事情を話し、ひそかに北条の方に逃れるよう進言した。源氏の時代になってから、伊東祐親入道は、かって頼朝に不信をはたらいたかどで、ついに生けどりになって、婿の三浦介義澄にあずけられた。三浦介義澄は、伊東祐親入道の長女を、妻にしていたのである。前の罪をのがれがたく、伊東祐親入道は、三浦の鐙摺というところで、首をはねられた。」と。植え込みに囲まれ、こんもりと盛り上がった所に「伊東祐親入道供養塚」があった。その塚には塔婆も。現在地はここ●。供養塚の近くから見える景色は極上、「江ノ島」をズームして。鐙摺山、軍見山の山頂の広場を振り返って。伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(1177)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登るとき、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる。源平盛衰記では、石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている。この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の絵師三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした。鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである と。そして上って来た鉄骨製階段を降りた。道路面にあったマンホール蓋。「ヨット」、「ウグイス」、「クロマツ」、「ツツジ」がデザインされた葉山町の汚水マンホール蓋。明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡るヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています とネットから。旗立山・鐙摺山を下って、海宝寺の先まで戻り、「あぶずり港(鐙摺港)」に向かって歩く。「あぶずり港(鐙摺港)」手前の丘に上がって停泊中の葉山マリーナのヨット群。全てのヨットが台車に載せられて。「HAYAMA MARINA」と。その先にあったのが「葉山港 日本ヨット発祥の地碑」。葉山港は、「日本ヨット発祥の地」としても知られている。日本にヨットが伝えられたのは、横浜港(現・山下公園)に外国人ヨットクラブが造られたのが最初とされていますが、日本人では、明治15(1882)年、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが始まりとされています。葉山港の入口には帆の形をした記念碑が建立されています。三浦郡葉山町堀内。「葉山港 港湾管理事務所」を見る。三浦郡葉山町堀内50。「葉山港」・「あぶずり港(鐙摺港)」。葉山港は、三浦半島の相模湾側に位置し、鈿朝港とも呼ばれ、古くから澄業が営まれているとともに「日本ヨット発祥の地」として知られています。昭和30年の神奈川国体では、ヨット観技の会場として、また、昭和39年の東京オリンピックでは、湘南港のサブハーバーとして重要な役割を果たしました.その後、平成6年に再整備に手し、平成10年9月には国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)の成年女子ヨット競技会場として利用されました。また、平成17年から18年にかけて、港湾管理事務所の建て替えを行い、平成19年4月から供用を開始しています.現在は、ヨット、モーターポートを約250隻、漁船を約40隻収容しています と。この日の漁を終えた漁船が並ぶ。右手にあったのが「明治大学体育会ヨット部合宿場」。再び葉山港を見る。「長三郎丸」と書かれた漁船が並ぶ。葉山あぶずり港の入口には数件の船宿が立ち並んでいて、向かって一番左にあるのが「長三朗丸」の宿。その先のT字路の角にあったのが葉山港改築「船溜竣工紀年」碑。記念碑には、「大正十ニ年九月一日ノ大震災ニ因リ海岸ノ隆起甚シク船舶ノ碇繋避難ノ利便ヲ喪《うしな》ヒ」とあり、葉山港の船溜(ふなだまり)が隆起し使えなくなったことが書かれています。また、漁船の係留は砂浜に引き上げるしかなく、一旦天候が悪化すると大破する船が多かったことも書かれています。さらに震災後、魚介類への需要は増大し、漁船の増加・大型化が進み、復興工事を願う漁民の「痛嘆」(ひどく嘆き悲しむこと。痛切な嘆き)が長かったこと、この窮状を打開し新たな発展拡大を目指し組合役員・組合員が一丸となって、鐙摺(あぶずり)船溜の再建を遂行したことが書かれています。地震によって地盤が隆起した様子や、総工事費十二万余円(現在の貨幣価値で約6億円)にものぼった工事が、有力篤志家(味の素本舗の鈴木商店)の資金援助のほか、多くの方々の協力で実現したことが確認できます とネットから。「逗子市新宿5丁目」にある「披露山」を望む。「旧石原慎太郎別荘」も中央に確認できた。「あぶずり港内駐車場」の岸壁上にはブルーシートを敷いて何かを待っている家族の姿が。最初は釣人家族かと思っていたが。「第67回逗子海岸花火大会」がこの日2024年5月30日(木)午後7時30分より開催されると。逗子海岸の有料席図、車両通行止め(交通規制)案内図。外海側の岸壁に様々なシートが敷かれ場所取りが。近くにいたご主人に何が始まるのかと訪ねたら逗子の花火大会が今晩開催されると。ここは無料の特等席なのであろう。時間はまだ、16時前、開催まで3時間半近く!!逗子海岸沖の花火の打ち上げ台船(船台)をズームして。「あぶずり港内駐車場」から1Fに、旬の地の食材を使用したフランス風創作海辺料理店「レストラン ラ・マーレ」のある建物を見る。そして「小浜海岸」を見る。「旗立山」の北側の道路沿いにあったのが「旗立山麓の丸石神」。「手前に置いてある石は、条が残されていることから縄か綱が巻かれた跡のようで、漁網(ぎょもう)か錨綱(イカリづな)に使われたのではないでしょうか。そう考えると丸石も元は船を安定させるバラストだったのかも。かつて三浦半島の西側や相模湾一帯は、通船の便があったと考えられています。」とネットから。「小浜海岸」の先に見えたのが「逗子市浄水管理センター」。逗子市内唯一の下水道終末処理施設。逗子市桜山9-2448-4。「小浜海岸」から国道134号沿いの「葛が浜海岸」、「大崎公園 展望台」方向を望む。「鐙摺葉山港入口」交差点。花火打ち上げ船台を再び見る。県道207号・森戸海岸線を北に進む。この先から、逗子市が始まるのであった。三浦郡葉山町堀内。次に訪ねたのが「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園は逗子市にある住宅街のコンパクトな公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園です。」とネットから。「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園」内にあった「岩ケ谷遺跡」。そしてここは「平田東助別荘跡」であると。平田 東助👈️リンク(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任した。山縣有朋の側近として知られる。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。出羽国米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。爵位を継いだ長男の平田栄二(松堂)は日本画家、その次男の松下正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。次男の平田昇は海軍中将となった。大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子のこの場所にあった別荘に於いて薨去された とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.02
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「神奈川県立近代美術館 葉山館」の屋外展示作品を楽しんだの後は、県道207号線・森戸海岸線を横断し振り返る。そして、道路沿いにあった案内板。「趣きのある美術館と日本庭園山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)記念館国登録有形文化財この先右折」と。案内に従い、狭い坂道を上って行った。山口 蓬春(1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。この道は「蓬春こみち」と。細い坂道・「蓬春こみち」を上って行った。大きな石垣、そこに槙の新緑の生け垣が。そして「山口蓬春記念館」前に到着。鉄骨製の入口にガラス製ドアが。鉄骨製はややこの場所には不似合い。「山口蓬春記念館」👈️リンク 館案内板。料金:一般 600円。「生きものを愛でた蓬春」が開期:2024年4月6日(土) ~ 6月2日(日)【前期】で開催中であった。花や鳥、魚や小動物など「生きもの」を描くことは、古くから東洋では花鳥画として知られ、その多くの作例は時代を越えて人々を魅了し続けています。山口蓬春(1893-1971)は、そのような伝統的な画題を学びながらも新しい日本画の創造に邁進しました。昭和9年(1934)に野鳥の保護や調査を目的とした「日本野鳥の会」が創設されますが、蓬春はその発起人に名を連ねており、彼の野鳥や自然に対する造詣の深さがうかがえます。「花鳥畫の、作品の優劣は、その作家の自然への愛の深さと、観察のカの如何とのみが決定すると謂っていい。」(山口蓬春「花島去を描く心」「邦畫リ4月号、昭和10年〔1935〕)と述べていた蓬春。愛犬をわが子同然にかわいがる彼の作品には、生命への愛情をも実感できるほか、数多くのスケッチからは制作に対する真摯な姿勢が伝わってきます。本展ては、蓬春の日本画作品及びスケッチ・模写、ならびに彼が蒐集したコレクションを展示し、蓬春と「生きもの」という観点からその画業を探ります とネットから。その先左手にあった美しい健仁寺垣(けんにんじがき)風の竹垣。この日は、時間の関係上、入館はパス。道路から「山口蓬春記念館」の建物を見る。以下の「山口蓬春記念館」👈️リンク の写真3枚はネットから。1階の和室。庭園が見下ろせる大きな窓が開放感いっぱいの画室。山口蓬春「新宮殿杉戸楓杉板習作」昭和43年(1968) をネットから。「山口蓬春記念館」の生け垣の前を西に進む。右手には別の建物の木製の脇門があった。数寄屋門風の簡易引き戸の門。そして左手にあったのが「旧金子堅太郎葉山別邸 恩賜松荘」。この建物は一般公開されていないようであった。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治から昭和にかけて活躍した政治家金子堅太郎の別邸として、葉山御用邸に近い三ヶ岡の山を背負い正面に海を望む斜面地に所在します。金子堅太郎(1853~1942)は、福岡藩の修猷館で学んだ後、明治4年(1871)、私費留学生として岩倉使節団に藩主とともに随行し渡米、ハーバード大学で法律学を修めました。帰国後は明治憲法の草案起草に参画し、後には伊藤博文の下で農商務相や司法相、枢密顧問官などを歴任した人物です。金子堅太郎は明治20年代から現在の葉山一色公園付近に別荘を構えましたが、大正8年の御用邸付属邸建設に伴い、大正11年頃、現在の地に転出しています。関東大震災後には、葉山別邸はほぼ常住の住宅として使用されたことが記録に残っています。現在地への移転に伴い、建物の一部が移築されたと伝えられ、照憲皇太后が訪問された「松の間」がそれに当たるとされますが、明治期創建の移築は部材の一部など限定的であったようです。戦後、所有者が変わり、昭和30年頃に改修が行われていると考えられますが、皇太后訪問時に使用された「松の間」の記憶を継承するべく、大正期の金子堅太郎別邸時代の意匠を強く意識していたことがうかがわれます。平成19年にも改修が行われていますが、現在に至るまで由緒ある別荘建築として大切に住み継がれています。「松の間」には、変木の床柱や琵琶棚をもつ床の間と床脇を設け、部屋境の欄間は銅板に梅花のすかし模様と竹をあしらった質の高い意匠が施されています。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘は、明治20年代に海岸沿いに設けていた別荘が、御用邸付属邸建設に際し、大正11年頃に移転するという歴史を継承しており、御用邸とともに歩んできた葉山の歴史を反映する重要な建物です。以下の2枚の写真はネットから。旧金子堅太郎葉山別邸恩賜松荘の座敷8畳「松の間」。こちらは「旧金子堅太郎葉山別邸 米寿荘」。そして引き返して、再び「一色海岸」へ。「旧ベルンハルド・モーア邸」この美しい建物は、ドイツ人の建築家アルヌルフ・ペッツォルドが戦前に設計した。今ではペッツォルドの名前を知る人も少ないと思うが、彼の設計で現存するのは筆者はここしか知らない。ハーフティンバー様式で木材の部分は濃い青で綺麗に維持されているが、近くで見ると少し塗料の剥がれた木材が年季を感じさせる。戦前の所有者は日本シーメンス社長、ベルンハルド・モーアであった。シーメンスは当時からドイツ有数の大企業だ。ここは歴史的建造物等の指定を受けていないがその価値は十分にある。現オーナーの意向であろうか とネットから。「三ケ下海岸」方向を見る。葉山御用邸、長者ヶ崎方向を見る。そして再び県道207号線に戻り、右手の山の裾野に建っていた建物は「旧鹿島守之助別邸( 旧住友家麻布邸)」。1903(明治35)年、麻布に旧住友邸として建てられた。住友家15代吉左エ門友純邸宅。1935(昭和10)年葉山に移築。この建物も、一般公開されていないようであった。「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を振り返る。長者ヶ崎をズームして。潮の満ちた長者ヶ崎の割れ目からは三浦半島の先端方向も見えたのであった。「三ケ下海岸」バス停前のプール付き?の建物の入口。再び、「三ケ下海岸」と「一色海岸」の間にあった岩場を。岩場をズームして。大きなプール?のある建物。入口には「WATABE & CO.」と書かれていたが。岩場には海鳥?が2羽。右手の「はやま三ヶ岡山緑地」の斜面は緑に覆われていた。その先、左手にあったのが「鹿島 葉山研修センター(旧小田良治別邸)」。「鹿島 葉山研修センター」。鹿島建設の葉山研修センターは、明治から昭和にかけて活躍した、実業家・小田良治の元別荘建物。銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。しかし広い敷地にゆったりと建てられたその様は、実に存在感があった。照明や建具、ステンドグラスなど今では考えられないほど手の込んだものを使っていると。窓ガラスはドイツ製、床の大理石はイタリア製と建築材料は すべて外国から取り寄せたそうです。森戸海岸線からの写真をネットから。。銅葺き屋根の緑青が良い味を醸していますが、意外とシンプルな外観。「一色海岸」、「葉山御用邸」方向を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.23
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久能山東照宮の楼門を潜り振り返って。右手にあったのが「家康公御手形」。(i家康公三十八歳の時のもの)推定身長 一五五cm~一五九cm程度御手形を写した色紙は授与所にて一五〇〇円で頒布しております。」「家康公御手形天正八年(1580)辰十一月ニ日家康」と。自分の手を重ねてみると意外と小さいと感じたのであった。手形には知能線と感情線がつながった一本の線がはっきりと。これはますかけ線と呼ばれるもので、「天下取りの手相」としても知られているのだと。現代でもこの手相の持ち主は、天下を支配するほどの天運・強運の持ち主が多いとされていると ネットには。楼門の狛獅子(右)。お顔をズームして。楼門の狛犬(左)。お顔をズームして。楼門の先、左手にあった仮設の建物は何であっただろうか?売店?極彩色の楼門・右側を見上げて。極彩色の楼門・左側を見上げて。中央の蟇股の獏(ばく)の彫刻。右の蟇股。左の蟇股。「久能稲荷神社」と「厳島神社」は 合殿され楼門を入った右手に建っていた。朱の鳥居が並ぶ。久能稲荷神社(左)御祭神 保食神御例祭日 4月9日東照宮の創建前から 久能山頂近くに鎮座していたが 明治年代に暴風で社殿が倒壊し 現在地に遷座したという。厳島神社(右)御祭神 市杵島姫命御例祭日 6月17日明治期の神仏分離により 元辨財天が厳島神社になったという。「おもと」園。「おもと奉納 平成二十八年五月吉日」平成28年5月10日家康公を祀る久能山東照宮へおもとを奉納公益社団法人日本おもと協会名誉会長青木慶祐他日本おもと協会会員13名おもと品種44種、本数152株をお祓い所周辺に地植えしました。植え付けたおもとの品種は薩摩富士・外輪山・東天光・桜島・太陽殿の虎・雪中の松・残雪・五大州・駿河富士・福の光・錦秀の松・霧島・白峰・曙・阿賀野川・天光閣・聖光都の図・紫雲楽・他と。「久能山東照宮全景」「家康梅」。「家康梅 奉納 丸子梅園」。「家康梅奉納者 丸子梅園静岡県駿河区丸子徳川家康公は“梅”をこよなく愛され、中でもこの「家康梅」は水戸の初代藩主頼房公(家康公第11男)の出産を祝い、無事成長を祈り家康公自らお手植えされたと伝わる。当初は浜松城内で栽培されていたが、後に水戸に移され、その後静岡の丸子梅園にて接ぎ木して育成したものを由緒深き久能山東照宮に植樹されたものである。」 「家康梅」の花。「手水舎」を正面から。近づいてそしてこちらは「河津桜」か?久能山東照宮「神厩(しんきゅう)」家康の愛馬を飼育するために建てられた厩舎。その昔、愛馬は夜になると家康の神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかり、その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。近づいて。「神馬 縁結び・子授け・安産・無病息災」と。金網越しに。金網の隙間から。名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと。「久能の唐椿(トウツバキ)」「久能の唐椿(トウツバキ)中国の雲南省、貴州省、江西省の原産でナンキンツバキ、カラツパキとも呼ばれる。延宝元年〈1673〉にわが国に渡来したと言われている。八重・濃赤色の花は四月頃開く。唐椿は日本の椿とは植物分類上全く別種であり、繁殖は極めて困難であるが長命・強健であるという。 奉納者 静崎園 川口厚夫 平成十ハ年三月」花が咲くと(ネットから)。石段の途中から「河津桜」越しに石鳥居を見る。石灯籠が並ぶ。「久能山東照宮 五重塔跡」。三代将軍家光の命により建立された五重塔は30mを超えるもので久能山のシンボルだったが、神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残るのみ。ここでも、明治の廃仏毀釈、神仏分離の影響を受けていたのであった。「五重之塔 舊跡」碑。「五重塔跡三代将軍家光公の建立て高さ約三十米輪奐(りんかん)美を極めたものである。明治六年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものてす。」正面から。残存する久能山五重塔の、明治維新直前・直後のカラー化写真をネットから。明治39年(1905)にカラー化 、大きさ : 26×38cm。「五重塔跡」横には奉納された酒樽が並ぶ。東照宮の参道に展示されているは、「菰(こもだる)」と呼ばれるもの。この酒はまこもという植物で編んだ「菰(こも)」と呼ばれるむしろのようなものをまとっているため、「菰」または「菰冠(こもかぶりだる)」と呼ばれます。ただし、現在はまこもをわらや別の素材で代用することが多くなっています。菰は、もともと、江戸時代に上方(大阪や京都など)から江戸に船で酒を運ぶ際、大きな酒樽が壊れないように巻いていたものであった。表面には他の銘柄と区別するために、それぞれの銘柄が特徴的な文字や絵を描いたのですが、そのデザインがユニークでインバクトが強いことから、店頭に並べられるなどして広告や装飾の役割も担いました と。石灯籠の奥の「鼓楼(ころう)」。創建以来、鐘楼として扱われて来たが、明治時代の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え、現在の「鼓楼」となったとのこと。石段上の「久能山東照宮 唐門と透塀」を見る。「八房梅」。「八房梅」案内板。「八房梅(紅梅)」の花。「唐門」を正面下から。「神楽殿」。久能山東照宮神楽殿は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、建物全体が朱色に彩色され、瓦と木組の端部、金物が金箔で彩られています。現在はサッシが嵌め込まれていますが当時は開放的な建物でした。東照宮に奉納される神楽が行われる施設でしたが、実際には行われず絵馬が奉納される絵馬殿のような扱いだったようです。久能山東照宮神楽殿は江戸時代初期に建てられた久能山東照宮の境内をとして大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。左に「実割梅(白梅)」。「実割梅(白梅)。「神楽殿」の内部。徳川家康公。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」絵画・家康公像。「葵の御紋」葵紋は徳川氏の家紋として有名。もともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だが、江戸時代は葵紋の使用が制限された。また徳川家康が天皇家から菊紋や桐紋の下賜を断って葵紋を使用し続けたことからより格を上げることとなった。徳川葵:徳川葵紋は、3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。 江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。日光市日光東照宮の神紋、東京増上寺の寺紋、 京都市清凉寺の寺紋徳川家康公:[三つ葉葵―みつばあおい] 二葉葵の変形紋。「丸に三つ葵」とも言う。俗に言う「徳川葵」。 徳川御三家では同じ「丸に三つ葵」を使用しているが、葉脈や芯の数など、細部に 微妙な違いが見られる。植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、 三つ葉葵は架空のもの。上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、 上賀茂神社の出身であったと言われる。家康は威厳を知らしめるために、三つ葉葵に 限らず「葵」を使用した紋の他家での使用を厳しく禁じた。岡崎二郎三郎信康公:徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の 姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を 務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った丸に三葉葵:三つ葉葵紋は、徳川家康が三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主だった頃に 出入りしていた呉服商人「後藤縫殿助」の御紋控書にも記録があり、徳川家康が 天下人になる前から家紋にしていたことが分かります。松平三葉葵:徳川将軍家の家紋である三つ葉葵の一種。徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」と呼ばれ、 徳川家康が江戸幕府を開いた際に家紋として用いました。水戸三葉葵:徳川家の家紋として知られる葵の一種で、葵の葉を3つ描いた家紋です。 微妙な違いがあり、種類が多いのが特徴です。尾州三葉葵:徳川御三家である尾張名古屋藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます。尾州三つ葵とも尾州中納言葵とも呼ばれます。紀州三葉葵:徳川御三家である紀伊和歌山藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます葵紋の移り変わり三つ葉葵紋は、徳川家一門だけが使うことを許されていました。徳川家一門とは、将軍家と家康公の子孫である4家…御三家(水戸・紀州・尾張)と会津松平家のことです。葵紋は将軍により少しずつ変化しています。葉の芯の数が減ったり増えたり、並び方が変わったり、茎の太さや形が変化したり。四代目以降の将軍たちが、家康、秀忠、家光の三代の将軍を崇敬し、同じデザインでは恐れ多いと変化させたそうです。そして、御三家と会津松平家も将軍家に対し遠慮して、少し図案を変えました とネットから。そして「神楽殿」の壁の手前にあった展示ケース。多くのプラモデルが展示されていた。「「プラモデル」のはじまりは静岡から静岡には『ガンダム』のプラモデルで有名なバンダイの工場をはじめ、青島文化教材社、タミヤ、ハセガワ、フジミ模型とい。た世界的に名を知られている模型メーカーがあります。その歴史をさかのぼると、徳川家康公が崇敬された静岡浅間神社の修繕や、久能山東照宮の造営に際し、日本各地から優秀な職人が集められた事につながります。職人達は工事が終わった後も温暖で風光明媚かっ、最大12万人の京、大坂、江戸に匹敵する大都市の駿府に残り、雛人形や竹細工などの木工製品の製作に携わりました。この技術が昭和に入り、木製の教育玩具や学習教材を生み出し、戦後の木製模型、プラスチック模型の発展につながったのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.03.10
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「熱海梅園」の紅葉を楽しんだ後は、イチョウ他の黄葉が美しいとネットで紹介されていた伊豆市堀切にある「益山寺(ましやまでら)」に向かって進む。走行ルートは数のごとく静岡県道11号熱海函南線~国道136号・伊豆中央道~修善寺道路を利用し進み山田川沿いの狭い山道を登って行った。そして「熱海梅園」から1時間強で「高野山真言宗 養伽山益山寺(ようかざん ましやまでら)」に到着。標高300mの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺。空海(弘法大師)の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。山中にある落ち着いた雰囲気で、お地蔵様、石仏など安置されていた。毎年1月の第3土曜・日曜に「星まつり」が行なわれ、護摩を焚いて1年間の幸福を祈り災いを除く真言密教の儀式が行われるとのこと。境内にある大楓は県指定の天然記念物で、根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほどで県下最大の楓と。木肌が美しく保存は良好で、瘤が多くあり盛り上がる力強さは、風雪に耐えた歴史を見せていた。市指定の大イチョウを従え、この時期・秋の紅葉は美しく、境内にある石仏群と調和してみごとな風物絵巻となっていた。本堂の右奥には延喜式内社である伊加麻志神社(いかましじんじゃ)があった。静岡県伊豆市堀切760。境内の庫裏前には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーの姿が。「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」への石段に向かって進む。「奉納 南無千手観世音菩薩」と赤地に白の文字で書かれた幟が並んでいた。石段の途中から見上げると、前方には黄色く色付いた巨木の姿が現れた。左手にはイチョウの葉が落ちて、一面黄色い絨毯のごとくに。そして石段の上・右側にあったのが、大きく傾き支柱で支えられている「大楓(オオカエデ)」。推定樹齢900年、県下最大の大きさといわれる「大楓(オオカエデ)」の紅葉。廻り込んで。見事な紅葉を見上げて。樹高約27m・根廻り約5m・目通り約4mのコブだからけのダイナミックな枝ぶりの大カエデがどっしりと構えていたのであった。「養伽山益山寺標高三百メートルの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺である。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っていると。境内並びに参道には百体の観音の石仏があり、県内でも珍しい石仏群集地である。又幕末の剣客「直指一刀流居士」の墓及び県指定の大楓、市指定の大銀杏がある。大楓(昭和30年2月25日静岡県 文化財指定) 根回り:五.四六メートル 目通り:四.〇五メートル 樹齢 :八百六十位の県下最大の楓大銀杏 (昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年 伊豆市教育委員会」「大楓」の周囲には千手観音の幟や、苔むした123体もの観音石仏像も安置されており、一般的な紅葉スポットと言うよりは歴史を感じる厳かな雰囲気が特に印象的なのであった。参道の両側に並ぶ「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟。近づいて。その奥にも観音石仏像が並んでいた。「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」。「養伽山益山寺」の名前は、一説によると、隣の神社の社号の「伊加麻志」から「伊加→養伽」、「麻志→益」となったらしい と。伊豆88遍路8番札所・養伽山益山寺。賽銭箱が何故か置かれていなかった。「本堂 内陣」を見る。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っているとのこと。ズームして。こちらが「大銀杏」(昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年「大銀杏」の周囲にも「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟が。再び「大楓」を振り返る。「益山寺」の「本堂」右の石段の先にあったのが「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」。参道を進む。狛狗(右)。狛狗(左)。「益山寺」境内の「観音石仏像」を振り返る。正面の石鳥居を潜って石段に。石段を上ると正面に「伊加麻志神社」の社殿。創祀年代は不詳とのこと。式内社・伊加麻志に比定されている古社。『伊豆國神階帳』に「従四位上 高山の明神」とある神社。社号の「伊加麻志」は、益山の近くに、加麻ガ洞という谷があることから付けられたとも駿河国の伊河麻神社を祀っていた人々が当地に移り住んで、氏神として祀ったとも考えられている。あるいは、「伊加」という語が「神聖な」という意味であるとも。また、益山の名は、猿山(ましやま)からの転訛であるという説もあるようで、結局、なにがなにやら、という感じだ。明治までは、三島神社と称していたことから現在の祭神は、事代主命 (ことしろぬしのかみ)だが、多くの資料では、祭神不詳と。『静岡縣神社誌』には三島大社の御子神とある。「疫病終息祈願 静岡県神社庁」と書かれた幟。社殿の扁額「式内伊加麻志神社」。「伊加麻志神社」社殿前から石段、石鳥居。狛狗を見下ろす。そして石段を降り再び「大銀杏」下に。「大銀杏」の上、下は一面の黄色の世界が拡がっていたのであった。陽光に照らされた、黄金の世界が拡がる。再び「大楓(オオカエデ)」に近づいて。廻り込んで。奥には無縫塔が並ぶ墓地があった。「益山寺」の歴代住職の墓地であろうか?「大銀杏」と「観音石仏像」を振り返って。近づいて。黄色の世界を追う。再び「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」を見る。「観音石仏像」に近づいて。本堂下広場の御地蔵様達。そして庫裏まで戻る。「星祭り(星供)」案内。「星祭りについてみなさんは自分の生まれ年、その年々によって、みなさまを導く三つの星があるのをご存じでしょうか?生まれ年による星は本命星(ほんみょうじょう)、元辰星(がんじんじょう)という北斗七星の中の星。年々により変わるのは當年星(とうねんじょう)という九種類の星(日曜星、月曜星、計都星等)があります。この星には吉星と凶星があり、私たちはこの星の導きにより、一年間(節分から翌年の節分まで)の吉凶があります。真言密教では、『宿曜経』などのお経に基づいて、みなさまのその年の星に対してお薦めし、吉星である方にはますますその益が増しますように、凶星の方には難事(災)を小さい難事(小災)で済むようにお勧めする修法があります。今からおよそ千二百年前の八〇四年、弘法大師空海が中国(唐)に渡り、インドから伝わった密教のすべてを授かって日本に帰りました。星供もその時に伝えられました。その後、村上天皇や白河天皇のご命令によって、当時の真言宗の高僧は、この星供を修法し、天皇のご健勝、また国家安穏をご祈願されました。このような伝統ある修法により、みなさまの一年間のご健勝をお祈りいたします。弘法大師が建立された当益山寺では、星供祈願のお印として、御札、祈願だるまをお分けいたします。特に凶星にあたる方には、この星供にてご祈願することをおすすめします。みなさまの本年のご健勝をお祈り申し上げます。高野山真言宗 養伽山益山寺小住合掌」寺の関係者の姿はなかったが。「だるま、招き猫」が並ぶ。「厄除開運 星祭護摩祈願」案内。「厄除開運 星祭護摩祈願」の様子。そして「益山寺」を後にして、往路と同じ路を引き返す。途中山の岩肌に丸く空いた穴が。何か仏の姿が陽刻されているように見えたが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.08
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次に訪ねたのが「東京理科大学 13号館」・「森戸記念館」。新宿区神楽坂4丁目4−4。ここ「森戸記念館」は東京理科大学の理学部第一部応用化学科の卒業生である森戸祐幸氏の寄付により建設されたもの。記念館利用目的は科学と人間の交流の場にふさわしく、東京理科大学神楽坂キャンパスに近接する交通の便に恵まれた場所にあります。国際会議、学会などを開催しております。また、地域住民が主催する文化的活動等(神楽坂まつり)においても、利用されております とネットから。内部には機器展示やカタログ展示が行われていた。また、昔の神楽坂の写真や版画、装着品などの歴史や文化に関する品も展示されていたのであった。玄関ホールには、宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の記念品や、ガラス工芸作家のジョジュ・シンプソン氏の宇宙をテーマにした作品など、森戸氏のコレクションが展示されていた。ガラス製の地球儀。ここにも。宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の言葉、「Earth is the site of our planet as beautiful and ever-changing sphere.」『地球は、美しく絶えず変化する球体としての私たちの惑星である。』と。大小様々な、ガラス球体が展示されていた。宇宙に想いをはせた美しい絵画も。1階には童話や絵本、子供向けに書かれた理科に関する図書など、約1000冊を収蔵すると。「坊っちゃんとマドンナちゃんのこども絵本館」も併設されていた。図書棚の上の壁には様々な展示物が。「神楽坂の歩み」-1。神楽坂は、東京都新宿区の北東部にある地区で、JR飯田橋駅付近の牛込見附から西方の山手台地に上る坂の名が町名になりました。神楽坂は、徳川家康の江戸入府前から町が形成されていたといわれています。江戸時代になると、坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展しました。神楽坂の歴史は次のとおりです。1628年頃、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領しました。3代将軍・徳川家光の時代に、牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で神楽坂通りが開通しました。明治期には、夏目漱石も通っていたという「地蔵坂」に寄席がありました。大正から昭和初期にかけては「山の手銀座」と呼ばれるようになり、東京の盛り場として賑わいました。神楽坂という名前は、この坂で神社が奏でる神楽の音が聞こえたことに由来します。どこの神社の神楽なのかは、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社など諸説あり定かではありません。「神楽坂の歩み」-2。「神楽坂文芸地図」👈拡大リンク。「五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵國牛込區神楽町近傍」👈拡大リンク。様々な地図やパンフレット。「神楽坂まっぷ 神楽坂あれこれ」👈拡大リンク。「地図が語る 神楽坂」。「地図が語る 神楽坂江戸時代の地図は、「切り図」で、版木を彫って刷られました。明治時代に、海外の測量法や印刷技術が導人されると、行政、陸軍、郵便など、目的に合わせた精緻な地図が作られるようになりました。大正・昭和になると地図は、より身近なものとなります。商店会、企業やお店が、工夫を凝らし、多様な表現を用いたことが見て取れます。今回は、明治初期の地図、関東大震災の災害地図、震災復興調査地図、戦後の再開発計画図のほか、神楽坂通り商店会、学校・銀行・お店などが、私的に作った様々な地図をご紹介します。ご注目いただきたいのは、神楽坂青年会が制作した地図。この地図が、「神楽坂情報系地図の元祖」です。情報と共に地図のデザインも変化してきました。よりシンプルに、或いは、より詳しく・判りやすく・より楽しく・魅力的に・多様性を持って。過去に創られた優れた地図から学ぶことで、神楽坂は、これからも様々な地図を生み出していくことでしょう。」「神楽坂情報系地図の元祖」👈詳細リンク と言われる地図。多くの芸者・芸妓さんのプロマイド写真が並んでいた。「昭和30年頃の神楽坂、1954年に作成された芸者番付で前頭に選ばれた夢太郎さんの艶すがた」近づいて。近づいて。「昭和初期の神楽坂芸者はプロマイドを作り、人気投票を行いました。」集合写真。「神楽坂通り」に出て、石畳の美しい「酔石(すいせき)横丁」を見る。「酔石横丁」沿いの建物の壁の美しいタイル模様。見事な石畳の先、右手には居酒屋「伊勢藤」。向かいには「ブレッツカフェクレープリー」。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.25
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「忍城」・「御三階櫓」からの景色。そして「御三階櫓」を後にして、「行田市郷土博物館」の南側の庭園を見る。「手水鉢(ちょうずばち)」。「手水鉢(ちょうずばち)高八〇センチ 幅五一センチ忍城三階櫓の石垣を用いて明治一九年五月に作られた手水鉢。正面に楓に鹿が陽刻され、頂上を穿って水をたたえて一匹の亀が陽刻されている。裏面に旧忍城三重櫓台石ヲ以テ明治十九年第五月造之 三田姓石工小林源次郎と陰刻してある。」手入れの行き届いた庭園。そして再び「行田市郷土博物館」の館内に戻る。「日本遺産 行田」コーナー。日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が平成29年4月28日に認定されてから、6周年を迎えた と。「認定証 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田埼玉県行田市日本遺産に認定する平成29年4月28日文部科学大臣 松野 博一」パネル(中央)。パネル(左)。「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち行田平成29年(2017年) 4月28日、行田市のストーリー「和文化の足元を支え続ける足蔵のまち行田」が日本遺産に認定されました。忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ波り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等なと歴史的建築物が残り、趣きある景観を形づくっている。」パネル(右)。「認定証最大の田んぼアート計測 17,195m2制作 日本国埼玉県行田市田んほアート米づくり体験事業推進協盟会2015年9月8日」「行田 足袋検定」コーナー。郷土博物館を見学して、足袋に関するクイズを解く検定。館内の展示や資料をヒントにしながら解答し、全問正解で合格となる。合格者には合格認定証を発行する と。主催:行田市日本遺産推進協議会。こぜにちゃんとフラべぇは、行田市のご当地グルメ「行田フライ」と「行田ゼリーフライ」の全国ブランド化に向けて活動中!「フライ」と言えば一般的に揚げ物というイメージがありますが、行田のフライは揚げ物ではなく、焼き物。行田でいう「フライ」とは、小麦粉を水でやわらかく溶き、鉄板の上で薄く焼きながら、ねぎ、肉、卵などの具を入れ、好みでソースまたは醤油だれをつけて食べるもの。クレープのようにふわりとした舌ざわりのお好み焼きのようなものです。「ゼリーフライ」とはフライと名前は似ていますが、「ゼリーフライ」は全く違う食べ物。お菓子のゼリーとも全く別物。衣のついていないコロッケといった風情のもので、そのルーツは、日露戦争の時、中国から伝わった「野菜まんじゅう」だということです。ジャガイモにねぎやにんじん、さらにたくさんおからが入っているのも特徴で、食物繊維が豊富でヘルシー。ソースの味と香りがとても利いていて、モチモチとした食感が大人にも子どもにも大人気。その名の由来は、小判形であることから「銭フライ」と言われていたものの、「銭」がなまって「ゼリーフライ」となったとか。「ミュージアム グッズ」コーナー。御城印やクリアーファイルも販売されていました。「御城印」をいただきました。そして「忍城」、「行田市郷土博物館」を後にして、「道の駅 はにゅう」に立ち寄り遅い昼食を楽しんだ。そしてこの日の最後に、「利根川」に建設されている「利根大堰」を訪ねた。「利根大堰」は、埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の県境、利根川本川・河口から154km地点に建設された、日本でも屈指の規模を誇る堰である。高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、1963年に利根導水路計画を立案した。元々、東京(江戸)を水害から守るという目的で利根川東遷事業を進めたという経緯があり、水利権の問題はあったが、時の建設大臣(池田内閣)河野一郎の政治的決断で計画されたといわれる。1964年、東京オリンピックを前にして、東京は未曾有の大渇水(通称・東京砂漠)が起こり、危機的状況に陥った。東京都の緊急要請により、建設省は朝霞水路を通して緊急取水を実施した。その後、1965年には荒川に秋ヶ瀬取水堰が建設され、朝霞浄水場へ導水するための整備を行った。こうした中で利根川は「水資源開発促進法」に基づく指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が「利根川・荒川水資源開発基本計画」に従い、利根川から水道用水を取水する為に見沼代用水元入がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に応えようとした。堰は1968年4月に完成した。「独立行政法人水資源機構 利根導水総合事業所」の駐車場の車を駐めて散策する。埼玉県道59号線の「須加大橋」から「利根導水路 須加樋管(すかひかん)」が正面に見えた。「樋管」とは、河川の堤防の中に水路(これが本体)が埋設された構造物のこと。利根大堰でせきとめられた水は、須加樋管を経由して利根川の堤防の外へと流れ出ているのだ。下流側を見る。この後見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路に分かれる水がこの時点では1本の川となっているため、水量が非常に多いのであった。「利根大堰」が見える「利根川」の右岸堤防に向かって進む。「利根導水路 須加樋管 水資源機構」の文字が。現在でも利根川上流ダム群の水は利根大堰・利根導水路 須加樋管を経て、東京都の上水道の40%、埼玉県の上水道の70%を供給している。この堰で取水された水は、荒川、秋ヶ瀬取水堰、朝霞浄水場を経由して東村山浄水場まで行く事もあるとのこと。「利根大堰」案内板。「利根大堰」の上空からの写真をネットから。利根大堰には、魚道(ぎょどう)が3ケ所に設けられている。(1号魚道:1号堰柱の脇、2号魚道:3号堰柱、3号魚道:6号堰柱)魚道とは、魚専用の通路のことで、利根大堰が魚の溯上(そじょう:魚が川上の方へ登ってゆくこと)の妨げにならないように設置されている。1号魚道には魚道観察室が付けられているので、水中の様子を覗ける と。堤防上から「利根大堰」を見る。堰の管理用道路は「武蔵大橋(むさしおおはし)」と呼ばれ、道路橋として供用されている。全長687.2m、有効幅員7m。鋼鈑桁橋の一等橋である。1968年(昭和43年)10月竣工。工費は7470万円であったと。武蔵大橋から上流は約13kmもの区間、刀水橋まで一般道の橋は架けられていない。12の水門機械室。場所を移動して。利根川河口から約154kmにある利根大堰は、長さ約500メートルで、12の水門から出来ている。 農業用水、都市用水、浄化用水の取水を行っている可動堰で、(1)取水口 (2)沈砂池 (3)分水工などの施設があります。利根大堰に係わる施設を管理する利根導水総合管理所が、埼玉県と東京都用水の50%に関わっているそうです。ズームして。「利根導水路 須加樋管」越しに埼玉県道59号線の「須加大橋」を見る。移動してに埼玉県道59号線の「須加大橋」越しに沈砂池そして見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路を見る。「利根導水路 須加樋管」直後の流れ。「施設見学案内図」。「利根導水のあらまし」。「利根導水路のあらまし」をネットから。「利根導水路用水系統模式図」。そしてこの日の全ての行程を終了し、往路と同じルートで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.10
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次に「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)」。「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)昭和32年9月、県下4番目の自動開式は電話数1,200でスタートしました。行田市が当時のお金で3千万円の債券をお客さまに代わって負担した上、かって病院だった土地を電話局へ提供し、開始時には町で提灯行列をして祝ってくれました。その後、昭和58年1 1月電子交換機に変わるまで26年間活躍しました。」「600号形自動式電話機昭和39年(1964)にわが国電話網の急速な発展にあわせ、通話性能と経済性に優れた電話機として誕生し、昭和46年(1971)からホワイト・グレー・グリーンのカラー電話機が登場しました。国産1号電話機の誕生からほぼ1世紀、通話性能においてほとんど申し分のない電話機の出現でした。【特徴】4号電話機に比べ3倍以上も感度が高く、電気回路にはプリント配線が導入されました。デサイン面では送受信器が自然に正しい位置に収まる様に工夫がされ、ダイヤルもボディに埋め込むなどキメ細かい配慮がされています。」「行田・東京間記念通話」。 「東京都と「自動電話」がつながった!明治42年 113年前 行田に電話がつながる140年くらい前(日本は明治時代のはじめごろ)、アメリカで電話機が発明されました。日本での最初の電話は明治23年(132年前)、東京と横浜の間で始まりました。行田につながったのは明治42年のことです。」「行田の夜が明るくなった!明治43年 112年前 行田電灯株式会社ができる。なんと、忍城のあと地に火力発電所をつくってしまった!(本丸のあと地 いまの博物館の駐車場)埼玉県のなかでも、川越につづいて2つめの電力会社。コークス(石炭からつくるねん料)をねん料とする最新式の発電機で、工場にも電気をおくれました。大正8年 103年前 火力発電をやめ、水力発電の電気を買うようになる。昭和16年 東京電灯(のちの東京電力)の一部になる。」「行田電灯株式会社をつくった人たち発起人(会社づくりの中心になった人)今津徳之助(いまづにくのすけ) 印刷を中心とした実業家 まちづくりに熱心に取り組み、 「行田の渋沢」と呼ばれました。社長 橋本 喜助(はしもときすけ) 大きな足袋屋のあるじ。 実業家てもあり、まちづくりに関わりました。」「足袋だけじゃない!洋服だってつくれるまちへ大正時代 100年くらい前 足袋工場がふえ電動化がすすむ。」「昭和10年代の被服工場」。「銀行とまちの発てん明治29年 126年前 忍商業銀行ができる。銀行とは、みんなからお金をあずかり、そのお金をひつような人や会社にかします。かしたお金はふやして返してもらい、銀行とあずけた人で分けます。」上:「忍商業銀行(創業当時)」下:「忍商業銀行本店 1935年(昭和10年)」「近代産業の発展忍城の城下町として発展した江戸時代から明治時代へと世の中はうつり、行田のまちも近代化への道を歩みはじめた。■交通手段の発展明治時代に入り、鉄道は旅客・貨物の輸送に重要な役割を担うようになった。明治16年(1883年)、日本鉄道が上野-熊谷駅間で開業(現在のJR高崎線)、また、明治34年(1901年)には上武鉄道が熊谷-寄居駅間で開業(現在の秩父鉄道)するなど、行田の周辺でも鉄道を中心とした交通網が整い始めた。■電灯会社の設立明治15年(1882年)、東京銀座に初めて電灯(アーク灯)が灯ったが、行田のまちに電灯が灯ったのは明治43年(1910年)のことだった。忍城址公園内(現在の郷土博物館駐車場部分)にコークスを燃料とした火力発電所がつくられ、行田電灯株式会社が設立された」■銀行の設立明治29年(1896年)、忍商業銀行が設立された。行田周辺の商人や地主などの資本によって設立した地元資本の銀行は、足袋産業と深く結びつき、その発展を支えていくことになった。足袋産業のあゆみー大正から昭和へー大正時代になると行田の足袋産業は大きな転機を迎えた。明治時代の中頃より始まったミシンによる縫製が全ての縫製工程に導入され、現在に続く分業の形が整った。関東大震災で京浜地方の足袋屋が大きな打撃を受けると、発注が行田に集中し震災特需となった。大正時代後期からは足袋に用いる生地もコール天や別珍、キャラコなどへと多様化していき、ファッション化も進み、女性用には赤や紫などの色足袋が流行した。また震災後の衣服の洋装化により、シャツやズボンなどを製造する足袋屋も現れた。やがて日中戦争が始まると忍町に陸軍被服廠行田出張所が開設され、統制経済のもと足袋生産第は減少し、軍需被服品の生産を担うようになった。」「馬車鉄道」。「馬車鉄道明治時代に行田周辺で始まった鉄道の整備だったが、足袋屋が集中するまちの中心部には鉄道が通らず、最寄駅の熊谷駅・吹上駅まで荷馬車などで足袋を運んでいた。■行田周辺の鉄道年表■明治16年(1883年) 日本鉄道が上野-熊谷駅間を開業明治33年(1900年) 忍馬車鉄道が行田-吹上駅間を開業明治34年(1901年) 上武鉄道が熊谷-寄居駅間を開業、翌年秩父鉄道となる。明治37年(1902年) 忍馬車鉄道の事業を行田馬車鉄道が継承、 自動車輸送も並行して行うようになる。大正10年(1921年) 北武鉄道が羽生-行田駅間を開業大正11年(1922年) 北武鉄道が熊谷-行田駅間を開業、 その年のうちに秩父鉄道に合併。大正12年(1923年)行田馬車鉄道が廃線」「馬車鉄道が通った道馬車鉄道は、吹上駅と長野村の間をつなぐ予定だったが、資金難などを理由に計画は変更された。明治33年(1900年)、忍馬車鉄道が吹上-佐間駅の間でひとまず開業、翌年に忍町まで延伸された。しかし、経営はなかなか軌道にのらず、明治38年(1905年)に行田馬車鉄道が事業を継承することになる。大正12年(1923年)、秩父鉄道の延伸をきっかけに廃線となるまで、馬車鉄道は行田の人々の大切な足となった。」「秩父線行田駅」の変遷写真。「埼玉縣北埼玉郡忍馬車鐵道株式會社線 吹上行田間 平面図」。「吹上村」周辺の地図。「成田町」周辺の地図。盤師 吉田寅義 氏。「二代目 吉田寅義 氏昭和2年(1927)、羽生市に生まれる。同25年、初代吉田寅義に師事し、基盤・将棋盤制作に従事、同29年、吉田流太刀盛り皆伝、二代目を襲名した。「太刀盛り」は、日本刀の刃に漆をつけて盤に線を引く日本古来の伝統技法である。作品は木性を生かし盤の個性を表現するため、特に足の彫り、線の流れを強調、裏面の「音ウケ」には物理的理論を基に工夫をこらし、実用面の利点を重視した。作品の多くが、本因坊戦、将棋名人戦などの著名な戦いに使用されている。平成24年(2012)に二代目と三代目吉田寅義氏の技法が「基盤製作技術吉田流太刀盛り」として市指定無形民族文化財に指定された。」吉田流太刀盛り皆伝・「二代目 吉田寅義 氏」。「靴を脱いで比べてみよう!」「足袋のサイズに実測とあるものは、洗濯後の足袋をこちらで測った数字であり、新品の足袋のサイズより1.5~2cmくらい縮んでおります。」力士の足の大きさ左から貴ノ花 29.0cm 若ノ花 28.0cm 小錦 34.0cm 舞の海 25.5cm力士の足袋上段左 曙 太郎(白足袋) 上段右 小錦八十吉下段左 貴ノ花光司 下段右 若ノ花 勝 左から鏡山親方(柏戸) 、大鵬親方(大鵬)、二子山親方(貴ノ花)。「行田市の誕生昭和24年5月3日、忍町は市制を施行し、行田市となった。昭和29年~ 32年までに周辺の8ヵ村、平成18年に南河原村が合併し、環在の市域が確定した。」「行田市の歴史」。「町のうつりかわり明治30年代の行田」。「町のうつりかわり行田市は、15世紀後半の忍城築城以来、忍城の城下町として発達してきた。以後江戸時代を通して、たびたび城下町の拡張整備が行なわれ現在の町並みが形づくられてきた。明治22年の忍城誕生から、昭和24年の行田市誕生までの60年間は、まさに行田足袋の全盛期から衰退期までの時代であった。町には、足袋屋の店先が軒を重ね、家々からは足袋内職のミンンの音が響き、足袋一色に包まれた時代であった。市政施行なら32年の太田村の合併までの行田市域の拡大、30年代以降には学校・公共施設の建設及び上下水道の完成など、町の近代化が進められてきた時代であった。現在は、21世紀に向けて、付加価値のある町づくりを目ざしている。」「炭火アイロン」、「蒸気式アイロン」。「学校のうつりかわり」「学校のうつりかわり天保7年(1836年)、忍城下では藩士の子弟を教育する機関として藩校進脩館が設立され、のちには培根堂・洋学館・国学館などが時代の流れに応じて開設された。また、庶民の子どもたちには手習師匠や寺子屋などが教育を施していた。明治時代を迎えると、明治5年の学制発布により、全国に小学校がつくられた。その後、町村合併や小学校令、学校教育法の整備により学校の統廃合新設などが進められることになる。戦後には中学校の整備、校舎の近代化、通学域の再編成などを経て今日の市内小学校13校・中学校8校が整えられている。」「小学校のうつりかわり明治19年の(1886年)第一次小学校令発布から明治22年(1889年)の「明治の大合併」と呼ばれる町村合併にかけて、1つの町や村ごと、または複数の村の連合によって設けられていた多くの学校は新しい村ごとに統合されていった。昭和24年(1949年)の市制施行を経て、昭和20年代後半~ 30年にかけての「昭和の大合併」期には、14校の行田市立小学校が誕生、昭和40年(1965年)の西小学校・大井小学校の統合により13校となる。昭和時代後半には、人口増加や市街地の拡大から泉小学校・桜ヶ丘小字校が新設、さらに平成19年(2007年)の南河原村合併により市内の小学校は16校となる。しかし、昭和60年代をピークとして行田市でも少子化が進行、適正な学校規模を維持するため、「学校再編」が進められることとなった。」「明治5年の学制発布明治5年(1872年) 8月、近代教育の始まりとして、小学・中学・大学を基本とする「学制」が発布された。のちに行田市となる地域でも、いちはやく小学校の開設が始まることとなり、明治9年段階で29校が開校していた。寺院の建物などを仮校舎としたこれらの小学校は、合併や閉校、新設などを経ながら現在の行田市立小学校へと続いている。」「大木商店足袋蔵・・模型 昭和20年に建てられた蔵です。昭和20年代は行田の足袋産業が復興しはじめ、このような石藏が多く建てられました。」「斎藤医院・・模型斎藤医院は、田山花袋の『田舎教師』に原田医院と出てくる病院で、明治の近代建築でしたが、昭和61年に取り壊されました。」「行田が舞台 田山花袋の小説『田舎教師』明治42年 113年前 小説「田舎教師」が書かれる『田舎教師』ってどんなお話?〇お話の場所 行田・熊谷・羽生(主人公が住んていたまちが行田)〇お話の時代 明治30年ごろ 120年くらい前◯書いた人 田山花袋(明治時代の小説家)〇主人公 小学校の先生になったばかりのまずしい若者 林清三くあらすじ> まずしくて勉強をあきらめ、小学校の先生になった清三てすが、 やりたかったことはほとんどうまくいきません。なやみながらも 先生として生きていくことを決めました。 しかし、しばらくして病気になり、何もてきないままに死んて しまうのてした。清三のモデルは本当にいた人て、かざらないありのままのてきごとをえがいた作品てす。」「斎藤医院」は、作品のなかで「原田医院」として出てきます。主人公の清三が病気になり、心配した友だちが「原田医院」に連れて行くのです。「行田の町の中程に西澤道のペンキ塗りの際立って目につく家があった。陶器の表札には医学博士原田龍太郎と鮮やかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。午前十時頃の晴れた日影は硝子を通した診察室の白いカアテンを明るく照らした。」『田舎教師』には、他にも本町通りや忍沼、今はもうない牧場やおふろやさんなどが出てます。「昭和30年代の行田忍川のさくら、行田市の10周年を記念して消防隊がパレード、行田の街並み」「戦争・防空訓練」、「戦争・出兵兵士」の写真。当時の「人力車」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.09
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「町と村」。「町と村忍城の城下町としての行田町は、かつて上、下、新町の3町で、のち八幡町が加わり4町となった。町の行政は、村の名主にあたる町年寄によって統括されており、のちには町年寄の下に、町年寄見習、町年寄格、表立などの役ができ、特に表立は、直接一般町民と接する役割を果たしていた。村の場合、忍藩においては、城周辺の村々を佐間組、持田組、皿尾組、 谷郷組の四組に分け割役名主を置いた。忍城の所領のうち、城周辺以外で最も大きなものは、秩父領であった。藩では大宮郷(現秩父南)に陣屋を置き、勘定奉行、郡奉行の指揮下に代官が民政全般に当たった。」「忍城建物入札番号記」。手前に「両替商看板」。むかしの銀行の看板。「忍城建物入札番号記」ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。「忍城入札結果」と「忍城の解体城郭の管理は明治政府の成立後も江戸城、大阪城といった江戸幕府直轄の城郭を除き各藩に委ねられていた。しかし、各藩とも財政の窮乏などから城郭の維持をあきらめ破却や修理取止めを明治政府に申し出た。忍藩も明治3年(1870) 8月に、忍城は破壊するに任せ修理を加えないことを申し出て認可された。明治4年(1871) 7月に廃藩置県が行われ、忍藩は忍県となるとニの丸御殿は忍県庁として利用された。しかし同年11月に埼玉県が成立するとニの丸御殿は政庁としての役割を終えた。明治4年(1871) 12月、城郭を管轄する兵部省は関東地方と甲斐国・駿河国の城郭の存廃調査報告書を提出させた。その中で忍城の評価は「城郭ノ四面悉ク沼地ニシテ水満テリ、土地極メテ卑湿往々水難アリ、其他城外高燥ノ地ナシ、廃シテハ如何」と記されている。明治5年(1872) 2月に陸軍省が設置されると同省は武官を各地に派遣し調査に当たらせ、翌6年(1873) 2月に城郭の存廃を決定し、不要な城郭は大蔵省へと引き継がれた。忍城も廃城と決まり城内の建物は競売に付されることとなった。ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。落札金額はニの丸御殿635円、三階櫓175円4銭余などで、これに別ロの建物を加えた総額は2,334円81銭であった。こうして忍城の建物は地上から姿を消していった。」「描かれた忍城下『増補忍名所図絵』は、洞季香斎の編述した『忍名所図絵』を、忍藩士岩崎長容か、藩主の命により増補を加え、天保6年( 1835 )完成したものである。もともとの『忍名所図絵』は、香斎が序文で明らかにしているように、『江戸名所図絵』にならって作ったもので、忍城下の名所・古跡・神社仏閣その他の由来や、物産なとを紹介し、ここに展示した風景画などを加えた地誌である。天保6年に岩崎により増補されたものが現在残されており、当時の忍城下を知る唯一の資料である。岩崎長容は、通称角兵衛といい、国学者であるが、絵を好んだ人である。」「増補忍名所図絵」。上記の繰り返しになるが「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6年 (1835)、 同11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。文政8年 (1825) 洞李香斎が「忍名所図会」を著作。 現在その所在は確認出来ていない。天保6年 (1835) 忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を増補。 天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。天保11年 (1840) 岩崎長容が2度目の増補版を作成。 名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑の類いを補足。 忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。 天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が確認できる。「増補忍名所図絵」に向かって右側から「荒川」。左上に「甲州山」そして「富士山」。ネットから(以下同じ)。次に「忍城眺望」。「荒川猟鮎」。「刀禰川(利根川)」。「刀弥(利根)の川原」。「小見村観音 岩窟之圖」。「蓬莱山熊谷寺」。「熊谷次郎直実」。「街道と交通」「街道と交通江戸時代の行田町は館林道と日光脇往週のニつの街道が城下町の手前の佐間ロで合流し、町の中心を貫けていたため、旅行者や物資が行き交う宿場町でもあった。新町と本町の境のT字路には高札場が設けられ、町年寄の家が集まっており、樋口家や加藤家が本陣、梅沢家が脇本陣を兼ねていた。物資の輸送を担う人馬も常備されており、安永5年(1776)には25人・25匹と定められたが、その費用は町民が家の間ロの広さに応じて負担していた。また、埼玉村から館林道に合流する騎西道や、持田村を経て熊谷宿へと向かう道、谷郷村から北上し利根川へと至る道などの間道もあり、城下町行田を中心に道路網が放射状に延びていた。」「忍御領分絵図忍城と周辺の村や道、水路などを記した絵図。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。利根川を右(北)、荒川を左(南)に配置し、ニつの大河に挟まれた藩領の道や水路の位置を一目で眺めることができる絵図である。」「忍御領分絵図」。ズームして。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。「木曽街道」。「木曽街道 上尾宿 加茂之社」作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引きいでいる。版元も当初の堂から錦樹堂に変わっている。この作品は、木曽街道のうち、日不橋から数えて5番目の上尾宿付近の農家が、風撲機で毀物を精選し俵詰めしている様子を描いている。農家の家屋内では、座繰りによる糸繰りが行われている。隣接する加茂神社は、当時大衆の信仰を隻めていた。「川舟」。「川舟行田市は北に利根川、南に荒川が流れ、その中心に位置する忍城のまわりにも大きな沼があり、かっては船をつかった往来が盛んでした。また、川での魚とりや利根川の洪水の時に避難するためにも使われたので、町中の商家でも持っていました。利根川の沿岸には、こうした川船を造る船大工がいました。この船は行田市下中条に住んでいた最後の船大工、中島徳ーさんが造ったものです。昔は「利根川の水が上から下に流れるあいだは、船大工の仕事はなくならない」といわれたそうです。しかし、鉄道や道路、橋ができてから船の仕事は減り、今では船大工は一人もいなくなってしまいました。」「駕籠(かご)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)この図は、江戸幕府が作成した五街道と脇往還の絵図集の一つで、館林道を描いたものである。城下町や宿場、街道の様子を俯瞰的かつ詳細に描いており、近世交通史の第一級の資料である。館林道は中山道を鴻巣宿北の箕田から分かれて堤根村、佐間村を通り、城下の手前の佐間ロで荒川を渡って吹上村からきた日光脇往還と合流し、行田町に入る。新町・本町・下町を通り長野村、小見村、荒木村を経て上新郷村(羽生市)から利根川を渡り、館林町を通って例幣使街道の天明宿(栃木県佐野市)に達する。八王子千人同心が日光東照宮の火の番に向かうのに通ったり、将軍の日光社参の際にはこれに従う御三家が日光街道の混雑を避けるために通行したいわば日光街道のバイパスである。特に天保14年(1843)の将軍徳川家慶の日光社参の際には、4月に御三家の尾張藩主徳川斉荘・紀州藩主徳川斉順・水戸藩主徳川斉昭が宿泊や通過、5月に御三卿の清水斉彊、一橋慶壽が通過した。」「岐阻街道 桶川宿 曠原之景(きそかいどう おけがわじゅく ひろはらのけい)」。木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引き継いでいる。版元も当初の保永堂から錦樹堂に変わっている。現在の埼玉県桶川市当時は日本有数の紅花の産地でした。軒下で乾燥仕事をしている女性に通りすがりの旅人がにこやかに話しかけている情景です。道中浮世絵では珍しい構図です。「岐阻街道 鴻巣 吹上富士遠望」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて7番目の宿の鴻巣と8番目の宿の熊谷の間にあたる吹上から、遠く望む富士山を背に広がる関東平野を行きかう旅人達を描いている。」「岐阻街道 熊谷宿 八丁堤ノ景」。この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて8番目の熊谷宿の茶屋付近のようすを描いている。あんころ、うんとん(うどん)の看板を掲けた茶屋では馬子が一服。供を連れた一行。道標には「右おしけうだ(忍行田)道」「左深谷ニ里廿丁」と記されている。「岐阻街道 深谷之驛」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて9番目の深谷宿の夜の遊郭のにぎわいを描いている。深谷宿は木曽街道最大の宿場の一つで、多くの旅籠のほか、本陣・脇本陣、遊郭もあった。「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 天保6- 8年(1835-1837年)宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている。)」「道標」。「道標 佐間・三軒茶屋左 ささい道 右 加うのす道」。「街道の風景石田堤は天正18年(1590)の忍城水攻めの際に石田三成が築いた堤防である。ー里塚は下忍村と佐間村、埼玉村の境に築かれた。もとは道の両側にあったが、西側は崩されて東側のみ現存している。川俣関所は上新郷村(羽生市)の利根川の堤防付近にあり忍藩が管理していた。現在は石碑を残すのみだが、住来する船や川を渡る人々の取締にあたった。」「県指定史跡石田堤昭和三十四年三月二十日指定この堤は、天正十八年(一五九十年)六月、石田三成によって、忍(おし)城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に一~二メートル程盛土をしたものです。こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下町より、下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿い樹えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。 石田堤を守る会 埼玉県教育委員会 行田市教育委員会」「川俣関所」。日光裏街道鴻巣から熊谷に出ないで、行田から上新郷を経て利根川を渡り、日光へ行くことができる。この道を日光街道といっていた。元和3年家康の遺骸は、ここを通って日光へ送られた。その時は八王子から川越に出て忍城にはいり、川俣で利根川に渡った。ここへは慶長年間から明治2年まで250余年間関所があった。昭和橋から約30メートル上流の上新郷別所地先の堤の中段に、高さ2.4メートルばかりの長方形の関所址の碑がたっている。江戸より両毛に通ずるこの要地は、忍藩の番士4人の内2人は帰農し、1人は不明だが、もう1人は横浜で医業にたずさわっていた。関所の所在地は利根改修で廃滅してしまったが、石碑から東北百間を去る堤外地であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.08
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さらに「行田市郷土博物館」の展示品を追う。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代」。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代この時代になると、律令を中心とした国家体制が整ってきます。行田もこの流れと無縁ではなく、武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれることになりました。武蔵国は、多摩群に国府が置かれ、各群には群衛があり、行政や租税の徴収などが行われていました。また、この時代の特色は、文字が一般に普及し、集落の中からも文字の書かれた土器や硯などが出土しました。」「武蔵国」。行田は、一番東の武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれました。「墨書土器 池上遺跡出土 奈良・平安時代墨書土器は、土師器や須恵器に墨などで文字が書かれている土器。漢字一時や符号などが記されている。」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営行田への仏教の伝播は、比較的早く、古墳時代の終わり頃には、古墳の副葬品の中に仏教的要素をもつ品々が含まれています。市内埼玉字下埼玉通にある旧盛徳寺は、大同年間(806~810)創建の寺伝をもち、市内で最も古く建立された寺と思われます。旧盛徳寺は、現在の聖徳寺のやや西方を中心とした寺で、数度の再建を経て、現在の寺城が残されたと考えられます。」「布目瓦 旧旧盛徳寺遺跡出土 奈良・平安時代布目瓦は、型と粘土の間に布を挟んだため、瓦の内側にも布目が付いている瓦。古代の瓦の一つ。」「万葉集 歌碑」👈リンク 案内。右:「万葉遺跡・防人藤原部等母麿遺跡(さきもりふじわらべのともまろいせき) 所在地 :行田市藤原町1-27-2 八幡山公園内 天平勝宝7年(755)に防人(さきもり)を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁 (そうてい:成年男子)が父母妻子と惜別の情を歌った短歌90余詩が「万葉集第20巻」に 載せられています。市内若小玉地区にある春日神社、大御田等の地名等から、この地を 藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年5月1日に八幡山古墳に隣接して歌碑が 建てられました。碑表には「藤原部等母麿」とその妻である「物部刀自売」の2首の歌が 刻まれています。 「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」(万葉集 二十巻 四四ニ三) 「色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む」(万葉集 二十巻 四四ニ四) 歌の大意は、「夫の等母麿が防人として西国に行く途中、足柄峠で袖を振ったならば、 家に残った妹(妻の意味)にも、はっきり見えるであろうか。」妻からは、「もっと色を 濃く背(夫)の衣を染めればよかった。それなら、足柄のみ坂を通ったら、はっきり 見えるであろうに。」と唱和したものです。地理的には行田から足柄峠は見えるわけがなく、 出発前に衣の色にことよせて、別れの悲しみを夫婦間で取り交わした歌です。中央:万葉遺跡・小埼沼(おさきぬま) 所在地:行田市埼玉2636-3 小埼沼は、現在では小さな池が残るだけですが、上代の東京湾の入江の名 「埼玉の津」 万葉集の遺跡とされています。宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)建てられた 万葉歌碑があり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした 文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られています。 碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた 理由だったようです」 「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 零り置ける霜を 掃ふとにあらし」 (万葉集 九巻 一七四四) この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い 冬の早朝の風景を歌ったものです。この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の 繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれています。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の 茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)といわれています。左:日本最古の『万葉集』歌碑、前玉神社「万葉燈籠」 所在地:埼玉県行田市埼玉5450 「埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね」(万葉集 十四巻 三三八〇) 歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風の ために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられています。 冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて 詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるものです。次に「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源」。「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源行田足袋の起源は、「真享年間(1684 ~ )に亀屋某が専門的に営業」したのが最初であると言い伝えられてきた。この亀屋については、実際にあったことが文化元年の資料により明らかになっています。明和2年(1765)の道中記に(忍のさし足袋名産なり」とあり、当時名産どいわれる程足袋が商品化していたことが知られます。こうした足袋の生産は、農家の農閇期の内職によって作られていたようです。」「革足袋(江戸時代)現在のような布製の足袋が普及したのは江戸時代で、それ以前は動物の革で作ったもの(革足袋)が主流でした。革足袋は野外で履くことを前提に作られ、耐久性と保温性に優れていましたが、通気性に乏しく蒸れやすいという欠点もありました。江戸時代になると、通気・吸湿性に優れて肌触りも良い素材として木綿布が広まり、庶民の衣料に使われるようになりました。こうした流れの中で、足袋の素材も革から木綿布へと移り変わっていったのです。また、明暦の大火(1657)により革の値段が高騰した影響もあったと考えられています。」「紐足袋(江戸時代)と肩紐足袋(明治時代)昔の足袋は、履きロ近くにある紐を足首で結んで留める形式(紐足袋)でした。幕末の忍藩士・尾崎石城が記した「石城日記」を見ると、汚してしまった衣服を井戸で洗おうとする場面で、脱いだ足袋に紐がついていることを確認できます。現在の足袋と同じく「こはぜ」という金具を用いて留める形式(こはぜ足袋)が登場したのは、明治時代の中頃以降だと言われています。」「足袋布用木綿生地機織り機」。「手縫い足袋工程」手前に裁断された布、奥に裁断用具が展示されていた。行田で足袋製造が発達した理由は色々説明されていますが、綿栽培の発達とその糸を使った「青縞」と呼ばれる小巾の綿布が特産であり、それが足袋用の布として利用できたこと、そして藍染が盛んであったことなどです。 次に「忍城の鐘」。「忍城の鐘亨保2年(1717)、伊勢国桑野で鋳造され桑名城の鐘として使用されたが、宝暦5年の桑名大火で破損したため、同14年(1764)に溶かして改鋳された。文政6年(1823)、転封により桑名藩主松平忠堯(ただたか)が忍藩主となったため、鐘も忍城に運ばれ、ニの丸にあった鐘楼に懸けられた。」形状:総高151センチメートル、口径79.5センチメートル、重さ600キログラムこの鐘は、松平忠雅(ただまさ)が山形から備後福山(広島県)を経て桑名へと三度の移封の後に安住出来たのを記念して、享保2年(1717)11月1日に造られました。それから38年後の宝暦5年(1755)1月12日の大火で、城の中外の300余軒を灰にし、鐘も火災で割れてしまいました。現存するこの鐘は、子の忠刻(ただとき)が、父の愛した鐘を失った事を嘆き、宝暦14年(1764年)に再鋳したもので、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い、忍城へ移されました。明治時代の郷土史家・清水雪翁が著した北武八志には「今現に忍城にありて日々時を報する者即ち是なり。曽て総州候が伊勢桑名治城の時、鋳造するものなり」と記されており、忍城に由緒深い名鐘です。鐘楼は、城内二の丸の東隅にありましたが、明治10年(1877)に取り崩され、当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていました。昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、現在は行田市郷土博物館に展示されていますとネットから。「忍城御三階櫓 縮尺1/50」。そして「忍城御三階櫓」への連絡廊下を進む。「忍城の瓦」。近づいて。「丸に三つ葉葵」の紋は1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)まで城番を勤めた東条松平氏と、1823年(文政6年)から1871年(明治4年)まで城主だった奥平松平氏の家紋。「忍城の鯱」。城の鯱は、海にいるシャチのことではなく、想像上の生き物。「鯱鉾(しゃちほこ)」ともよばれ、高い櫓の屋根や、大きな門の屋根に置かれた。火事になると口から水を吐き出すという言い伝えがあり、城を守ってくれると 考えられていた。「忍城の鯱この鯱は、昭和63年1月完成した新しい忍城御三階の屋根に乗せてある鯱と同寸法のもので、展示用に新しく製作したものである。記録によれは、江戸時代の三階櫓の鯱は、高さ6尺2寸で、行田町の町年奇吉羽惣太郎が藩命を受けて尾張国(愛知県)て作らせたものといわれている。忍城の主要な門は、ニ階建ての櫓門て、屋根に4尺ほとの鯱か乗せられ、3棟の櫓にも各々やや大きな鯱が乗せられていた。」「忍城図」ズームして。「忍城図文政6年(1823)松平家移封以後の忍城図。武家屋敷、本丸などの主要な曲輪、道、水路・堀、町屋、神社、寺院をそれぞれ茶、紫、黄色、水色、挑色、赤、灰色で色分けしてある。松平家では家臣の屋敷が不足したため、城内の矢場や馬場を屋敷に転用した。」「忍城二の丸御殿絵図」。「忍城二の丸御殿絵図忍城ニの丸曲輸とその中の屋敷や庭の平面図。当館常設展示室の「ニの丸復元模型」の原図となった資料であり、現在確認されている忍城内建造物の唯一の詳細な図面である。ニの丸は本丸や諏訪曲輪を南側から東側、北側にかけて取り囲むコの字型をしており、その南側部分に藩主の御殿がある。江戸時代初期を除いて本丸に主要な建物がなかった忍城では、ニの丸御殿が藩政の中心であるとともに、忍藩主の日常生活の場でもあった。」「ニの丸御殿は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪、畳の数755畳、部屋数72部屋、厠(トイレ) 11箇所、土間8箇所、湯段2簡所を数える。東側に玄関があり、敷台を上がると御広間、南へいくと三之間、ニ之間、御当院と続く。北側には中庭を挟んで御小姓頭や右筆、目付、御坊主等が詰める部屋がある。この部分が「表」になり御殿の公的な空間を形成している。その西側に御三之間、御ニ之間、御居間が続き、その奥に御神前之間、御居間、御寝所といった藩主が日常生活を過す奥向にあたる部屋があり、その北側には湯殿や台所などがある。御殿の最も奥まったところは女中部屋である。表門を入って右側の建物と東側から北側にかけてL字型に配置された長屋には、掃除方や御籠置場、御茶道、油方など御殿と曲輪を管理する者たちの部屋が並んでおり、その先には厩がある。御殿の西側には庭園があり、池の端には「奥」から突き出た御新屋敷がある。庭内には池のほか、東屋や神社、馬場や弓術場なども置かれている。」「忍城鳥瞰図」。「忍城鳥瞰図この鳥瞰図は、明治6 (1873)年に作成された原図を昭和10年(1935)に印刷・発行した城絵図である。忍城を南側から俯瞰しており中央やや左よりに三階櫓が描かれる。忍城の建造物は明治6年以後に解体されるので、その最後の姿を留めている絵図である。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。また、本丸や諏訪曲輪は鬱蒼とした森となっている。」ズームして。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。「くらしの道具」。「くらしの道具忍城下町は、行田町とよばれて栄えてきた町である。忍城下の特色は、城を囲むように武家屋敷が並び、町家は東にくちばしのように延びた4町からなる町並みだけであった。町明細図を見ると、町内の職種も多種類にわたり、その内容も時代により大きく変化しているようである。行田町内の人々は、その職種により、生活の仕方も、生活用具も異なったのであり、それぞれ特徴的な道具を今に残している。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.07
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「忍城復元模型」。忍城は、室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられている。城は南北を荒川と利根川とに挟まれ、周囲には広大な湿地帯が広がっていた。成田氏はこの湿地帯を、あえて埋め立てようとはしなかった。陸地同士に橋を渡し、沼を堀のように生かしたのだ。いわば自然堤防に守られた要害であり、まさに「攻めるに難く、守るに易い」堅城で、関東七名城のひとつに数えられた。場所を移動して。さらに。そして次に「近世の行田忍城は、阿部氏により整備されて以来、城下町の拡張はあるものの、基本的な形は幕末まで変わらなかったようである。本丸は、うっそうとした木立に囲まれていたが、現在の忍中学校あたりの二ノ丸には。城主の御殿が建てられていた。土塁とその上の土塀に囲まれた水辺には、三階櫓1棟、二重櫓2棟がそびえ、忍藩10万石の威容を誇っていた。」「松平忠吉」。「藩主とその時代 松平忠吉松平忠吉は徳川家康の4男として、浜松城に生まれた。母は西郷氏で2代将軍徳川秀忠の同母弟にあたる。(東条)松平氏の養子となり松平姓を称し、天正20年(1592)に忍城主となり10万石を領した。関ヶ原の合戦の後、尾張国清洲に転封となり62万石を領したが28歳で病死し、嫡子がなく(東条)松平氏は断絶となった。市内持田の正覚寺には、子供の梅貞童子の墓が残されている。」「梅貞童子御守筒(複製)松平忠吉が長男の無事生育を祈念して作らせた御守筒で、中にお経を入れて背負ったという。ところが、生まれて間もなく長男は亡くなり、梅貞童子という法名がつけられた。」「藩主とその時代 城番の時代慶長5年(1600)に松平忠吉が転封してから、寛永10年(1633)に老中松平信綱が城主となるまで、33年間忍城には城番が置かれ、周辺の領地は幕府領となった。この時期に、幕府によって周辺の河川工事が進められるとともに、伊奈氏や大河内氏らが幕府の代官による検知が行われ、年貢割付状が発行されるなど、農業政策の基盤が整えられた時代であった。」右にあったのが「酒巻村検知帳」と「忍領在々御普請役高辻帳」。天正18年(1590)に徳川家康が関東に入ると、江戸を洪水から守り、関東の肥沃(ひよく)な平野を穀倉地帯に変えていくため、大規模な治水対策が行われました。その要の一つが利根川と荒川に挟まれた忍城を中心とした、忍領の治水対策です。この地域は現在の行田市をはじめ、熊谷市や鴻巣市、羽生市の一部も含まれる広い範囲で、戦国時代には成田氏の支配領域となっていました。河川は多くの村々を通るため、治水対策は一村だけではく、流域の村々が共同で当たる必要があります。ところが、武蔵国の村々は幕府領・藩領・旗本領など領主が分散し、忍領もその例外ではありませんでした。したがって領主が違う村々を共同で治水に当たらせるには個別の領主権力を超えた、幕府主導による組合設置の必要がありました。寛永12年(1635)、幕府は忍領111村、合計10万8千石にも上る村々を対象とした利根川と荒川の維持管理に関する組合を設置しました。この村々の名前と石高を記したのがこの「忍領在々御普請役高辻帳(ごふしんやくたかつじちょう)」です。内訳は、幕府領が51村・4万7480石余、旗本領が50村・4万590石余、忍藩領が14村・1万9987石余となっています。村数の合計が合わないのは、一村に複数の領主がいる相給と呼ばれる村々があるためです。高辻帳に記載された各村の石高が、利根川や荒川の堤防工事や用悪水路などの維持管理に必要な人足や資材を負担する際の基準となりました。これに基づき、幕府代官が忍領内の普請などを実施することとなったのですが、寛永19年に組合の管理が忍藩に移管されました。今風に言うと、国が設置した組合を地方に移管して管理させたということになりますが、忍藩が幕府の権限を代行して執行することになったともいえます。この役割は文政6年(1823)の国替えにより一旦は幕府に戻りますが、同13年には再度忍藩が担当することとなり、幕末まで用水管理と普請を管掌し続けたのです。「大御所となり駿府城(現静岡県静岡市)に生活の拠点を移していた徳川家康は、ニ代将軍の秀忠がいる江戸や忍・川越・岩槻・越谷へも頻繁に訪れた。忍城の周辺には沼地が点在していたため、水草が茂り、鷹狩の獲物となる水鳥も多く生息していた。後の忍城主阿部家の事蹟をまとめた「公餘録」には「御本丸ハ権現様殿之御跡」と記されており、かって忍城の本丸に家康が宿泊するための御殿が建てられていたことが判明している。」「忍領在々御普請役高辻帳 中村家文書 寛永12年(1635) 貞享3年(1686)水害の絶えない利根川と荒川の堤・井堰・堀等の維持・管理に要する費用を負担する流域村々を定めた文書。「忍領」と言われる地域に広がっていたため、忍領御普請組合と呼ばれた。組合に属する村は忍藩領だけではなく、本来は江戸幕府の役人が管理を行う。ところが、幕府は近世を通じて忍領御普請組合の管理を忍藩に担当させた。全国的にも珍しい事例である。」「鯱(しゃち)これは”しゃち”とよばれる想像上の生きものです。おしろの屋根や門の上にいて、火事がおきたときには口から水をはき、火をけしてくれるとかんがえられていました。ここにおかれているのは、江戸時代に忍城の屋根にあった”しゃち”です。長いあいだ、おしろを見守っていたんですね。」「阿部忠秋自筆覚書」。「現代語意訳覚え一、徳川将軍家を中心とする幕府を重んじ、そこへ仕えるにあたってあなたは昼夜とも油断してはならない。このようなことはわざわざ口にすることではないが、私たちはこれまで将軍から特別に取り立てていただいてきた。その恩は非常に深いものでありながら、それに報いるほどの働きをしないことは大変に無念なことである。第一にあなたは冥加のためにするべきことは、私たちに対しては言うまでもなく、先祖たちへの孝行なのである。また、将軍家への奉公にあたっては周りの様子を窺うのではなく、たとえ身の丈に合わないことであっても勤めるよう心掛けることが大切なことである。一、家臣として仕える者については、私たちが取り立てて信頼して仕える者であっても、その者の不忠・不義・無作法はもちろん、あなたの意に背く場合は少しの用捨をすべきてはない。しかし、行儀作法を謹み、忠義を重んじ、悪事を行わない者については、家来の上下にかかわらず信頼して取り立て、慈悲深く召すとよい。私たちが取り立てて信頼し用いる者のうら、右のような者たちはニ代にわたる忠義が浅いものではないということをよく承知しておきなさい。一、世の中が泰平てあるので、武土は武道の鍛錬を怠り、武芸の稽古をする者も少ない。また、身の丈に合わない贅沢をして、家業ではない浪費をし、内々に欲深く百姓を困窮させ、家中の同輩に道理に合わない処罰をして、倹約の筋を誤り、武士道の嗜みを怠り、生活が乱れた者もいるようである。わざわざ口にすることではないのだが、あなた自身の慎みが第一のことなのである。もっとも、家臣の下々に至るまで武士の生き方を忘れ作法を取り乱さぬように心を配ることが肝要なことである。右のとおり油断なく心に留めるように。そのほかについては注意すべきことはないので、右の趣旨をもって自ら考えていくようにせよ。寞文十一年六月廿八日豊後守(花押)阿部播磨守殿」「武蔵国の忍藩領 正徳2年(1712)時点」忍藩領は忍城の城付領だけでなく、荒川流域の秩父領や柿かきのき木領、近畿地方の摂津国にまで及び、所領高は10万石を超えていた。「文政6年(1823)の三方領地替え文政6年3月下旬、3つの大名家を転封させる「三方領知替え」が発令されたこれによリ、白河藩の松平定永が桑名(伊勢国)に、桑名藩の松平忠堯が忍(武蔵国)に、忍藩の阿部正権が白河(陸奥国)に移ることとなった。転封の理由については様々に推測されているが、白河藩が房総半島で行っていた海岸警備が遠隔地で大きな負担となリ、松平定永が場所を移リたいという願いを幕府に上げていたこと、阿部正権が病弱で「奉公を勤められるという確認」である将軍への初めての「御目見」を果たせていなかったこと、これらのニ点が大きなものと考えられているこうして、3家が転封されたことによって現在の3市の縁が作られた。」「松平 忠堯 系譜」松平 忠堯(まつだいら ただたか)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩7代藩主、武蔵国忍藩主。官位は下総守。奥平松平家9代。享和元年(1801年)6月9日、桑名藩主・松平忠翼の長男として誕生。嫡出であったため、家祖・松平忠明の幼名である鶴松丸を名付けられた。文政4年(1821年)、父の死去に伴い藩主となり、文政6年(1823年)3月24日には三方領地替えにより、阿部正権の後の武蔵忍藩へ転封を命じられた。天保3年(1832年)、侍従に任官。天保9年(1838年)、弟・忠彦に家督を譲って隠居した。元治元年(1864年)8月14日、死去した。享年64。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿」。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿現在の忍中学校あたりは、かっての忍城二ノ丸にあたり、土塁、土塀に囲まれていた。この建物は、ニノ丸にあった城主の御殿であり、残されている絵図から再現したものである。そのおおよその規模は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪。室数72室。畳数755畳。廊下8ヶ所。厠11ヶ所。土間8ヶ所。湯殿2ヶ所である。周囲には、各係の詰める長屋が建てられていた。」軍服・甲冑が並ぶ。「軍服(複製)」 。忍藩士の鎧 「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」。本甲冑(鎧兜)は兜・面頬・胴に中八幡義一の銘が入った非常に状態の良い具足です。中八幡義一は阿波蜂須賀家御抱え甲冑師として伝わります。兜の吹返には金銅(こんどう:銅や青銅に金めっきした物)金具が付き、胴には金で「丸に三つ柏」の家紋が描かれています。縁起の良い伊多羅貝(いたらがい)の前立と品のある美女相の面頬が特徴的な具足です。浅葱色(あさぎいろ)の縅糸も鮮やかで非常に美しい甲冑(兜鎧)です。「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足」。「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足忍藩士柴田家伝来 江戸時代兜は鉄板16枚をつなぎ合わせて漆を塗った十六間筋兜。忍藩主(奥平)松平家の合印である釘貫紋の前立を立てる。しころは鉄板5枚を黒漆塗として紺色で素懸威とした日根野形。胴は鉄板を縦につなぎ合わせて漆を塗った縦矧桶側ニ枚胴で、前立挙と胸板を黒韋(くろがわ)で素懸威とする。草摺(くさずり)は煉革(ねりかわ)5枚を黒漆塗として黒韋で素懸威とした七間五段下り。袖は鉄板6枚を黒漆塗として縹色(薄い藍色)の糸で素懸威にする。籠手は鉄錆色漆塗の六枚筒籠手。佩盾(はいだて)は鎖に鉄製漆塗の骨牌金(かるたがね)を綴じる。」「近世の行田 城下町のくらし 町のようす」。「近世の行田 城下町のくらし 町のようす城下町行田は、阿部氏の整備によりその基礎が定まり、(奥平)松平氏の移對により拡張され、今日に至っている。城下町特有の間口が狭く、奥行が長い地割りは今でも残されている。江戸時代にはこの町もたびたび大火にあい、特に弘化3年(1846 )の大火では町の大半を焼失した。この時以来、土蔵造りの家は火に強いと、本町や新町に多く造られるようになったといわれる。」「日本遺産 足袋蔵のまち行田」。「足袋と行田」ゾーンでは、「行田における足袋製造の歴史」👈リンク を学ぶことができた。行田は近世より足袋の産地として知られた地域。明治中期にミシンや裁断機が導入され、大量生産が可能となり、最盛期の昭和戦前期には全国生産量の80%を占めていた。ここ行田市郷土博物館が開館以来、長年にわたり収集・整理を行ってきたもので、行田の地場産業として営まれてきた足袋製造に関する用具と、製品や販促品等の関係資料から構成されていた。製造用具は全工程を手作業で行っていた時代の用具から、分業に特化したミシンは裁断機等、機械化以降の用具までがあり、我が国における製造業が近代的な製造形態へと移行していく流れを読み取る上でも重要な資料です。関係資料には行田で製造された製品や付随する販促品、足袋屋の店舗で使用された様々な物品等が含まれています。資料を通じて、製造のみならず販売も自ら行う足袋屋が個々に併存し、地域総体の産業として発展したという行田足袋の地域的な特色が窺えたのであった。「裁断機」。「裁断機・・・・・?????足袋生地の上に裁断用の型を置いて、手動で上からハンドルで押し、抜き打ち裁断する機械」。底型 足袋の底の部分 親指と人差し指の間の 指の股にスリットが入っています。 人間の全体重を支えます。四ツ型 人差し指、中指、薬指、小指の四本の指が入る側、前に進む力を作るなど指が快適に包まれて いることが大切です。親型 親指が入る側 踏ん張ったり、バランスをとったりするのに指が自由に動かせることが重要です。「掛通しミシン」。掛糸通しという工程です。かかとで止め金(甲馳=コハゼ)を掛けるための糸(掛糸)を親型に一気に通します。甲馳に対して寸法を気をつけないと履き心地がよくない。二度通しをしないこと、よりの戻った糸は使わないことで、足の動きを快適にしています。「掛通しミシン甲馳(こはぜ)の掛け糸を付けるミシン。生地のカカト部分に針を刺して引き抜くことで糸を通す。布同士の縫い合わせに使われるミシンと比べて大きく異なる形が特徴。」「甲馳付けミシン」「甲馳付けミシン生地に甲馳を縫い付けるミシン。甲馳形のくぼみがついた専用の板を生地の上に置き、くぼみに甲馳を並べて、その上をまっすぐに一往復縫う。針は甲馳に開けられた3か所の穴を的確に通り、甲馳を傷つけない仕みになっている。」「爪縫いミシン」「爪縫いミシン爪先を縫うミシン。生地に均等な大きさのひだを寄せながら縫い、爪先を立体的に仕上げる複雑な動きをする。元は革靴を縫うために使われていたドイツ製のミシンを足袋製造用に改良したもので、通称「ドイツ八方」と呼ばれる。爪縫いは足袋の履き心地を左右する重要な工程であり、また非常に繊細な作業であるため、爪縫いミシンを扱うには熟練した技術が必要とされる。」「廻しミシン」。「廻しミシン爪先を縫った後、残りの部分を縫って底と甲とを縫い付けるミシン。」「仕上げをする職人」。横から。「仕上げをする職人(チャセンとツッコミボウを使う様子)縫い終えた足袋の形を整える一連の作業を「仕上げ」と呼ぶ。見た目以上に力が要るため、主に男性の職人が担う。」左:「紺紐足袋」右上:「刺し子の紺足袋」右下:「東海木曽両道中懐宝図鑑」「紺紐足袋紐足袋の一種。踵(かかと)側に穴が開いており、内側から紐を通して締め具合を調節できる」「刺し子の紺足袋爪先など、すりきれやすい部分に刺し子(補強用の刺繍)を施し、頑丈に作った足袋。「東海木曽両道中懐宝図鑑」に出てくる「忍のさし足袋」は、刺し子の足袋を示すと考えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.05
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そして「行田市郷土博物館」を訪ねた。「博物館総合案内」かって御三階櫓は、現在の水城公園の付近に建っていましたが、忍城の解体にともない破却されました。現在、忍城址に再建された御三階艪には、郷上博物館の渡り廊下から入ることができ、内部は「忍城と城下町」「近代・現代の行田」を紹介する展示室となっていた。●博物館展示室 ◆テーマ1『中世の行田』 成田氏の忍城築城から1590年の石田三成らによる水攻めにより開城するまで ◆テーマ2 『近世の行田』 江戸時代の忍城主のうつりかわりと忍藩の教育・文化遺産 ◆テーマ3 『足袋と行田』 江戸時代からの足袋製造の歴史と一つの足袋がてきるまての縫製工程 ◆テーマ4 『古代の行田』 古墳を中心とした古代のくらし●三階櫓展示室 (博物館と2階展示室とが連絡通路で結ばれています) 2階展示室 ◆テーマ5『忍城と城下町』 忍城・城下町のくらしと生活道具 3階展示室 ◆テーマ6『近代の行田』 明治以降から昭和30年代頃までの町並みとくらしのうつりかわり 4階展望室 晴れた日には筑波山から日光の山々、さらに群馬三山から富士山までの山並みが 360°の眺望により見ることができます。 入館料:200円/大人 と。「行田市郷土博物館」入口。「ブラタモリ」が7月15日(土)に放送されたのであった。入館料を支払い中に入る。忍城周辺のジオラマ模型。忍城は北に利根川、南に荒川が流れる扇状地に立地。沼地や自然堤防を巧みに利用している。浮き城や亀城とも呼ばれた と。こちらは「忍城」のジオラマ模型。ズームして。「このお城はマッチ棒3,800本を使用して制作したものです」と。「博物館内&御三階櫓」内略図。「歴代忍城主の家紋」が並ぶ。「歴代忍城主の家紋」右から●丸に三つ引き 《成田氏》 戦国時代前期から天正18年(1590) 7月まで 成田顕泰・成田親泰・成田長泰・成田氏長●丸に三蝶の内十六菊葉 《大河内松平氏》 寛永10年(1633) 5月から寛永16年(1639) 1月まで 松平信綱●丸に違い鷹の羽 《阿部氏》 寛永16年( 1639 ) 1月から文政6年( 1823 ) 9月まで 阿部忠秋・阿部正能・阿部正武・阿部正喬・阿部正允・ 阿部正敏・阿部正識・阿部正由・阿部正権●丸に三つ葉葵 《東条松平氏》 天正1 8年( 1590 ) 7月から慶長5年( 1600 ) 10月まで 松平忠吉 《奥平松平氏》 文政6年(1823) 9月から明治4年( 1870 ) 7月(廃置県)まで 松平忠堯・松平忠彦・松平忠国・松平忠誠・松平忠敬まずは第1展示室へ5世紀後半、忍城は忍川の流れ込む沼地に築城されました。展示室では、伝来した城絵図や忍城跡の発掘調査によって発見された資料の数々から、往時をしのぶことができます。天正18年(1590年)の忍城水攻めの経緯についても、戦国武将の書状や石田堤の想定図等から知ることができます。「はじめにわたしたちの郷土『行田』は、水と緑に恵まれた豊かな自然の中にあります。今日の行田を築き上げてきた、わたしたちの祖先は、豊かな自然の中にその歴史を深く刻み込み、また、多くの文化遺産を残してまいりました。長い行田の歴史と多彩な文化を通観すると、大きな三つの特色があります。ひとつは、忍城の栄枯盛衰と城下町の移り変わり。次に「足袋の行田か行田の足袋か」といわれた足袋製造の歴史。最後に埼玉古墳群を中心とする古代の歴史と文化です。常設展示では、この三つの特色を中心にして・行田の歴史と文化が理解できるように構成されています。」「中世の行田」。展示室を望む。「中世の行田 築城と水攻め 成田氏の台頭」天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻めの中で小田原北条氏に属していた成田氏の本城忍城(おしじょう、埼玉県行田市本丸)は石田三成の水攻めにも屈しなかったことで有名です。戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から崎西郡成田郷(きさいぐんなりたごう・現在の熊谷市上之)を出自とする成田氏が台頭し、忍城を築城します。文明11年(1479)、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)の書状に「忍城」「成田」と出てくるところから既に築城されていたと判断されます。当時の城主は成田顕泰(なりた・あきやす、1465?~1524)で、その後親泰、長泰、氏泰と4代に亘り約100年間忍城を支配していました。忍城が築城された地勢状況は北側に利根川、南側に荒川にはさまれた扇状地で小さな川が乱流し、伏流水が集まって広大な沼地となっている地形を背景に、小島や自然堤防を巧みに利用して造られています。永禄3年(1560)越後から上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際し成田氏はそれまでの小田原北条氏の「他国衆」の立場を離れ旧宗主に属したものの、鶴岡八幡宮に於ける関東管領就任式において辱めを受ける事態になりこれを機に輝虎(謙信)と敵対関係となり再び北条氏の傘下に入ります。天正18年(1590)いわゆる豊臣秀吉による小田原北条氏討伐に際しては、同氏に属している成田氏は城主氏長(うじなが、1542~1596)は精鋭の家臣を引き連れ、他の他国衆の城主と共に小田原城に籠城、忍城に残された士卒・兵・農民ら数千人は忍城に籠城します。秀吉の使命を受けて石田三成は忍城を攻めますが、堅城の忍城を攻めあぐね、ここで水攻めにより一挙に落城させ秀吉の期待に応えたいと考えます。ここで後世に名を残す約30Kmとなる「石田堤」を造りますが、忍城籠城兵による細工で堤防決壊、逆に石田側の将兵が水死することになり散々な状況に置かれます。最終的には忍城は落城回避されますが、小田原城籠城の成田氏長が秀吉方に内通し功を挙げたことで忍城城兵の助命を受け入れる形で結果開城することになります。「六条八幡宮造営注文建治元年(1275)に行なわれた京都の六条八幡宮造営に際して、その費用を負担した御家人の名前と額を書き記したもの。また成田入道や若児玉次郎、忍入道、津戸入道、久下権守、熊谷三郎入道、西條人々、別符左衛門尉、須賀入道など、行田や熊谷周辺の御家人の名がみえる。」展示品をさらに追う。「天正年間 武蔵忍城之圖」。ズームして。「忍城址発掘出土品」「馬の頭骨 戦国時代本丸東側、諏訪曲輪との間の堀底から見つかった。頭頂部を下にして、右側頭部を堀に架かる橋の橋足で貫かれており、工事の段階で意図的に置かれたものと考えられている。」「土師質土器」、「忍城出土の各地の陶磁器」。「板碑・大日種子板石塔婆(だいにちしゅじいたいしとうば)」鎌倉時代形状:高さ193cm、幅64cm、厚さ8cm。板石塔婆は、板碑(いたび)とも呼ばれ、鎌倉時代以降盛んに造られました。秩父青石(ちちぶあおいし)といわれる緑泥片岩(りょくでいへんがん)等を使った石碑の一種で、一般的に死者の霊を供養するために造立されました。「大日種子板碑 県指定 嘉禎(かてい)2年(1236)佐間大日塚古墳の墳上にあった市内最古の板碑。初期板碑特有の重厚さをもつ。主尊は金剛・胎蔵両界大日如来。造立者「左近将監」が、彼岸に際し、父母の現世と来世の冥福を祈り造立したものである。」「中世の行田 築城と水攻め 祈りの造形--板碑--板碑は、死者の冥福を析る追善供養のため、また生前に自らの死後の冥福を析る逆修供養のため造立されるもので、この地域では、秩父産の緑泥片岩を使用している。行田市には、現400基余りが確認されている。最も古い例は、嘉禎2年(1236)で、最も新しい例は、元亀2年(1571)である。」中央の大きな「板碑」。「阿弥陀種子板碑 市指定 建治元年(1275)市内最大の大型板碑。今はなき主君の冥福と生きとし生けるものへの功徳を願い造立したもので、供養者の「沙弥西念」は在地の領主層と目される。中断には六字名号と図案化した五輪塔を併刻。阿弥陀種子は三宝珠を伴う。」「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)」元は市内小針地区にあったものを、史料館に移動した。鎌倉時代形状 :高さ216cm、幅52cm、厚さ8cm。「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)阿弥陀3尊の主尊に梵字光明真言の組合わせという、典型的な武蔵型板碑の内容をもつ。銘文は文字不明の部分もあるか、春彼岸(「ニ月時正」)、故人の三十三回忌の追善供養のために造立されたことかわかる。」「いたび 板碑この大きな石の板は、板碑とよはれるものです。きざまれているもようには、なくなった人をなぐさめ、平和をねがう、いのりの心がこめられています。この板碑のざいりようは、緑泥片岩というしゆるいの石です。秩父の山からたくさんとれる石で、この板碑も秩父の石で作られたと考えられています。」「板碑の形態」。板碑の形態は、頭部を三角形にし、2条の溝が刻まれ、梵字(ぼんじ)(種子(しゅじ))や画像で主尊とする仏(阿弥陀(あみだ)、大日(だいにち)、釈迦(しゃか)、地蔵(じぞう)、観音(かんのん)など)を表現し、その下に銘文が刻まれているのが一般で、この形態の起源については諸説があるが、五輪塔の形態が転化したものとする説が現在もっとも有力である。「中世の行田 築城と水攻め 忍城水攻め天正18年(1590)6月、天下統一を進める豊臣秀吉は、成田氏一族や家臣が立て籠もる忍城を攻めるため、石田三成を大将とする2万の軍勢を派遣した。着陣した三成は水攻めを行うため、忍城の東側から南側にかけて長大な堤を築いた。これに浅野長吉らの武将が加わり、皿尾口などで成田軍と激しい戦いが行われた。しかし、小田原城が降伏したため、忍城を7月14日に開城した。」右に「豊臣軍関東進撃図/天正18年(1590)」と「石田堤想定図」。「豊臣秀吉朱印状(複製) 天正18年(1580)6月12日」「豊臣秀吉から石田三成に宛てた朱印状。三成に対して、水攻めを行う前の施策としてさまざまな指示を与えている。忍城内から命乞いが出されていることや、水攻めをすれば隣郷が荒地となるため、足弱(老人や婦女子)以下は端城に避難させ、岩付城(さいたま市)同様に鹿垣(第・木でつくった橋)内に留置すること、三成を信用しているので別の奉行は派道しないこと、城内の家財道具を散逸させないようにすべきことなどが命じられている。」「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐郷可成荒所候間相助、城内小田原ニ相籠者共足弱以下者端城片付、何茂請取候、岩付之城同前ニ鹿桓結廻入置、小田原一途之間者、扶持方可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城請取急与可申上候、城内家財物共不散様、政道以下堅可申付候也、 六月十二日 (秀吉朱印) 石田治部少輔とのへ」「読み下し忍の城の儀は、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せつけられ候といえど、命までの儀御助けなられ候ようと、たって色々歎き申すよし候、水責めに仰せ付けられ候は、城内の者ども、定めて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば憐郷荒所になるべく候間相助け、城内・小田原に相籠る者共・足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿垣結廻し、入れ置き、小田原一運の間は、扶持方申し付くべく候、其方御疑を成さるべきに非ず候間、別奉行はこれを遣わさるに及ばず候、城内家財物共、散らさざるよう、政道以下堅く申し付くべく候也6月12日(天正18年) (朱印) (豊臣秀吉) 石田治部少輔」大意)忍城を落としなさいと、きびしく命じました。しかし、命をお助け下さいと、歎願してきたとのことです。水攻めを命じたのは、城内に一万人はいるに違いないから、郷村が荒れる違いないので、それではあまりに気の毒で手を差し伸べようとしたからです。忍城内や小田原城に立て籠もっている者のうち、足軽以下は支城へ移動させ、忍城・小田原城を落城させるようにしなさい。岩付城は忍城と同様に鹿垣をめぐらせ、小田原北条のためと必死に立て籠もっている者へは、食糧をしっかり与えるよう命じ、籠絡しました。このまま落城できなければ、その方の非を疑うようになるでしょう。しかし、別の指揮官を派遣することはしません。忍城を落城させると必ず報告するようにしてください。落城の際城内が散らかっていることがないように、兵士への仕置を必ず行うよう、ここに命じます。■忍城水攻めの経過。忍城は要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つとなっており、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称されていました。「増補忍名所図会 明治16年(1883)2月23日写忍城周辺を東西南北に分け、それぞれ名所旧跡、伝承などを記した地誌。洞季香斎が文政8年(1825)に記した「忍名所図会」を忍藩士岩崎長容が天保6 (1835)、11年とニ度にわたり増補改訂した。全四巻からなる。第一巻に石田三成が丸墓山(麿墓山)に陣を張ったとの記載がある。「天正年中忍城水攻の時、石田三成此山に本陣をかまへ城中に石火矢を打入れんと窺いしに、城中さだかに見えず。誤て忍遍照院へ打込たりとかや。此山より城中まで路程ハ、九町もあるべし。山上より行田を望む風景よろ◯◯記るされている。」■忍城と城主のうつりかわりズームして。「天正年間武蔵国忍城之図」(1573年~1592年)。天明年間の「忍御城内外絵図」(1781年~1789年)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.04
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そしてこの日の次の目的地の「続日本100名城・忍城(おしじょう)」の「郷土博物館」の駐車場に到着。駐車場が本丸跡になっているのであった。1949年(昭和24年)10月にはここ本丸跡に行田市本丸球場が造られたが後に移転し、1988年(昭和63年)2月17日にはその跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。 埼玉県行田市本丸17−23。正面に「高麗門」。駐車場隅にあった「忍城御本丸跡」碑。「忍城」周辺の「行田市内 観光案内図」。ここ「忍城」は、以前にも2度ほど来ており、その時に頂いた「行田市郷土博物館」のパンフレットの写真。「忍城は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭です。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し石田三成らによる水攻めをうける中、小田原城の降伏後に開城しました。その後、松平家忠による城郭の修復が済んだのち、徳川家康の四男松平忠吉が城主となります。三代将軍家光の治世には、松平信絅、阿部忠秋が城主となり、以後185年間は阿部家の居城となります。文政6年( 1823 )には伊勢国桑名から国替えとなった(奥平)松平家が城主となり、明治維新、廃藩を迎えます。明治6年( 1873 )に忍城は解体されましたが、現在博物館の周辺にある本丸上塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石から当時を偲ぶことがぞきます。」と。「行田市郷土博物館」入口門。「行田の足袋製造用具及び関係資料」が「国重要有形民俗文化財」に2020年3月16日に指定されたと。「有形民俗文化財」とは日本の衣食住、生業、信仰、風俗慣習、民俗芸能、民俗技術といった無形の民俗文化財に用いられる衣服、器具、家屋など形のある資料のことであると。右手がこの後に訪ねた「行田市郷土博物館」入口。さらに奥に進む。「忍城址案内図」。「足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコース」案内板。「蔵めぐりモデルコース」。足袋蔵のまち行田へようこそ足袋蔵と行田市の近代化遺産行田市は江戸時代中頃なら足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和13年には年問約8500万足、全国シェアの約8割の足袋を生産する"日本一の足袋のまち"として繁栄していました。市中心部には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その栄華を伝える洋風足袋工場、北側~西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産な数多く残されています。近年行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められてあり、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵、彩々亭、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館などさまざまな形での再活用もおこなわれています。」左手前方に「忍城の鐘」。忍城の数少ない遺構として、時鐘(じしょう)があった。この鐘は、1717年(享保2年)に伊勢桑名藩主・松平忠雅によって鋳造され、1823年(文政6年)に松平氏が桑名藩から忍藩へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものであると。忍城の二ノ丸にあり、時の鐘として時刻を知らせていたと。「史跡 忍城の鐘」碑。末広がりの袴のようなクラッシックな造りの鐘楼であった。平安時代頃からはじまり、鎌倉時代に多く建てられたとされる「袴腰付き鐘楼」と呼ばれる様式であると。さいたま景観賞を平成8年に受賞し、これを記念した「都市景観大賞」の「受賞記念碑」。同年平成8年(1996年)、行田市長名で設置したようだ。『都市景観大賞』は、国土交通省が主催して平成3年(1991年)に始まり、景観に関する優れた地区・活動に対し表彰が行われているのだ と。「湧き水」が絶え間なく。更に進むと正面に「東門」が。「忍城の由来忍城(おしじょう)は文明十年(一四七八)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという寛永十六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手 孫の正武(まさたけ)の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門 土塀の修築などが完成し面目を一新したという文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった。」この付近は諏訪曲輪。東門は忍城のどこかの門であって、移築されたとのことだが元の場所は不明だと。様々な色彩の風車が竹製の和風格子状衝立に貼り付けられていた。近づいて。東門を潜ると堀には太鼓橋が現れた。「忍城址」碑。堀に架かる太鼓橋・あずま橋を渡る。太鼓橋から「模擬御三階櫓(もぎおさんがいやぐら)」を見る。堀には大きな鯉が。太鼓橋の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)越しに東門を振り返る。御三階櫓とは、日本の城における天守建築の呼称のひとつである。天守とは城を象徴する建物であり、3階建て、5階建てなどの域内でも最も高層の建築となることが多く、通常は城の主が指揮をとる場所である。しかし、江戸時代には天守建築の形状であっても、天守閣とは呼ばずに御三階櫓と称された物もあった。これは、江戸城の天守が明暦の大火によって焼失し、そののちは再建をしなかったことから、徳川家へ遠慮をして使われた呼称である。特に関東では、小田原城と沼田城を除き、3階建ての天守建築は御三階櫓とされた。石川県の金沢城のように、5階建ての構造でありながら御三階櫓と称された物もある。現存する御三階櫓では、ここ忍城や青森県の弘前城の物などが知られる。「模擬御三階櫓」と同じ時期の昭和63年(1988年)に復興された「東門」。かつての御三階櫓は、現在の水城公園付近にあたる位置に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却された。現在の御三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて昭和63年(1988年)に場所を移して再建され、内部は展示室として見学することができたのであった。「『陸王』ロケ地めぐり 忍城址」案内ボード。TBS日曜劇場『陸王』( 2017年10月~12月放送)宮沢紘一(役所広司)が試作ランニング足袋を履いて走るシーンや、宮沢大地(山﨑賢人)と友人が語りあうシーン、茂木裕人(竹内涼真)らダイワ食品選手が走るシーンなどが撮影されました。宮沢社長をはじめ、こはぜ屋のメンバーが何か考え事をする時によくここを訪れていました。」白塀の奥の「東小路」には様々な色の傘のアート展示が。展望ベンチに座り、「御三階櫓」を見上げる。この御三階櫓は実物より大きく外観も異なっており、分類としては模擬櫓になるとのこと。ベンチで暫し休憩して、来た道を引き返す。行田市のマンホール蓋は忍藩10万石の城下町を今に伝える忍城址のシンボル「御三階櫓」と、市の花「キク」を中央に配置し、周囲に市の木である「イチョウ」の葉を 並べたデザインとなっていた。「東門」入口から「御三階櫓」を再び見る。「模擬城門」の扉の光景。柱や扉などに、補強の金属が施され、「鉄門(くろがねもん)」のような光景。立派な石垣の上に建つ「御三階櫓」。「御三階櫓」を支える石垣。「忍城櫓の石垣」が下に並んでいた。「忍城櫓の石垣城内にあった櫓に使用された石垣。元禄十五年(一七〇ニ)に三階櫓一棟、ニ階櫓ニ棟が建てられたが明治六年(一八七三)の廃城により解体された。」この後歩いた「行田市郷土博物館」から「模擬御三階櫓」への連絡通路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.03
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「丸墓山古墳」を下り、古墳の周囲を時計回りに進む。古墳脇にある石仏群。元々は墳頂に建てられていたとのこと。全部で7基あり、手前は延宝元年(1673年)建立、岸海上人とある。隣は寛文七年(1667)の庚申塔(三猿の像:見ざる、聞かざる、云わざる、二鶏)。庚申塔としては古い部類だ。この周辺地域には、寛文年間建立の古い庚申塔が数多く分布しているのだ と。引き返して反時計回りに進み、下から「丸墓山古墳」を見上げる。発掘調査により、埼玉古墳群で唯一、葺石(古墳の外表面に貼られた石)をもつ可能性があることがわかりました。埋葬施設については未発掘のためわかっていません。前方に「稲荷山古墳」の全貌が現れた。前方後円墳の前方墳を見る。「稲荷山古墳全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんてニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。前方部は、1937年に土取りエ事て失われましたが、2004年に復原されました。1968年の発掘調査ては、後円部からニつの埋葬施設か発見されました。そのうち礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つてある鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会」「稲荷山古墳」。Googleマップから。前方墳の階段を上って行った。規模・形状墳丘長120.0メートル後円部径62.6メートル・高さ10.4メートル前方部幅82.4メートル・高さ9.4メートル(推定)後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。前方部長軸は富士山に向いている。墳丘は二段に築成されており、葺石が使用された形跡はない。方形をした二重の周濠を持ち、濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと推定されている。周濠は通常は空で、水位が上がったときに水が溜まったものと考えられている。「前方墳」から「後円墳」に向かって進む。この稲荷山古墳の円墳部頂上に立ち前方部を見ると、中心線の先に富士山が見えることは研究者の間では有名な話であるとのこと。同じ埼玉古墳群にある二子山古墳と、鉄砲山古墳も、規模こそ違うが大仙陵古墳と全くの同形である。また二子山古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である。埼玉古墳群の中で、稲荷山古墳と二子山古墳、鉄砲山古墳は、同じ形をして、斜め並列に並び、前方部を三基ともが富士に向けている。三つの古墳とも、後円部から西に突出部があることが特徴的である。稲荷山古墳は5世紀後半に築造され、二子山古墳は6世紀前半、鉄砲山古墳は6世紀後半築造である。稲荷山古墳が指す富士山への直線を、富士からさらに延長すると、前回も採り上げた富士山南山麓にある山宮浅間神社に繋がるようである。横にある二子山古墳の直線は、静岡市の静岡浅間神社の山宮である麓山(ふもと)神社に到達する。そして、鉄砲山古墳のものは、富士宮市の富士山本宮浅間大社を指している。さらに、稲荷山古墳の真北を見てみると、日光に栃木を代表する山である男体山が鎮座している。男体山は、およそ7000年前に噴火を起こし、その時の姿を円錐形のまま残す名山である。また北アルプスにそびえる乗鞍岳は稲荷山古墳の真西に位置しているのだと。後円墳の円頂に到着。後円部の円頂には埋葬施設の復元模型があった。ちなみに、埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。墳頂部の礫槨。「国宝 武蔵埼玉稲荷山古墳出土品115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。これらの資料は詳しい解説とともに博物館に展示しています。」「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」。「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の「金錯銘鉄剣」の展示品(レプリカ)。「剣は両刃」、「刀は片刃」を表します。この時代はまだ剣が主流であった。鉄剣に刻まれていた文字。表面「辛亥しんがいの年とし七月中しちがつちゅう記しるす。乎獲居臣おわけのおみ、上祖かみつおやの名なは意富比垝おとひこ…。」「辛亥しんがいの年とし」とは西暦471年のこと。裏面世々よよ、杖刀人じゅとうにんの首くびと為なり、奉事ほうじし来きたり今いまに至いたる。獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみの寺てら、斯鬼宮しきのみやに在ある時とき、吾われ、天下てんかを佐治さじし、此この百錬ひゃくれんの利刀りとうを作つくらしめ、吾わが奉事ほうじの根源こんげんを記しるす也なり。現代語訳代々大王の親衛隊長として朝廷に仕えてきた。ワカタケル大王の寺が斯鬼宮しきのみやにあったとき、私は大王おおきみを補佐したので、この立派な刀にその由来を書き残すことにした。表(おもて)面の拡大。裏面の拡大。史料の本文中に出てくる「獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみ」とは雄略天皇ゆうりゃくてんのうのこと。「稲荷山古墳 礫槨1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。舟の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。実物の礫槨は、地下1mに保存されています。」1968(昭和43)年の発掘調査で、後円部の頂上(地下)に埋葬施設が発見された。舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、そこに棺を置いたもので「礫槨(れきかく)」という。こちらからは金錯銘鉄剣や勾玉など多数の副葬品が出土したのだと。廻り込んで。「稲荷山古墳 粘土槨」。「稲荷山古墳 粘土槨この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。」後円墳の円頂から前方墳を見る。天気次第では、この先に富士山の勇姿が見られるのであったが。後円墳頂から、この日は時間の関係で訪ねなかった「将軍山古墳」👈リンク を見る。「稲荷山古墳」を後にして、「二子山古墳」方向に進む。「二子山古墳」を見る。「将軍山古墳」をズームして。「二子山古墳」。「二子山古墳」脇を南に進む。「鉄砲山古墳」案内板。「二子山古墳」を振り返る。「二子山古墳全長132mの前方後円墳です。かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。周囲には、長方形の堀が中堤をはさんでニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。 平成20年(2008年) 3月埼玉県教育委員会」「二子山古墳」平面図。「前方墳」をみる埼玉古墳群の古墳の大きさ「古墳通り」を右折して駐車場に向かって進む。左手にあったのが「行田はにわの館」。ここが「さきたま史跡の博物館」👈リンク 入口。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.02
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次に訪ねたのが、「さきたま古墳公園」。第2駐車場に車を駐め散策開始。「埼玉県発祥の地 行田」観光案内板。現在地を確認。「さきたま史跡の博物館」、「稲荷山古墳/丸墓山古墳」、「将軍山古墳展示館」案内。「さきたま古墳公園 案内図」。近づいて。「二子山古墳と祈りの器」展が7/15~8/31に開催されると。前方右手に寺の山門が。「天祥寺由来旧幕時代大名の数、ニ百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。九代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十ニ代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。現在松平家の墓所は行田市の交化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、加藍建立途上にあります。」「山門」を正面から。「臨済宗 妙心寺派 天祥寺」掲示板。「求める心のない奉仕がまことの布施である。」「聖観音像」。「ご案内この仏像は聖観音様です大きな御慈愛の仏様です当山では、聖観音様の足下に永代供養墓を造営しました以前の宗旨、宗派は問いませんお先軽にご相談ください臨済宗妙心寺派 海東山 天祥寺」歌人 濱梨花枝氏の歌碑。「東方より 光は射すと 玉の柩 現れて輝る 一ふりの剣」このうたの意味は、【日本の東の地方から 古代史の道を開くという 美しい柩 その中から現れて輝く 一振りの剣】即ち、【日本の東の地方(埼玉)から美しい一振りの剣が現れて、不明であった日本の歴史の一部を説明する希望の光が射した】という意味で「金錯銘鉄剣」を讃えたもであると。「歌人濱梨花枝先生は 行田市埼玉のご出身で 先生の歌碑建立の企ては 埼玉地区 全域の有志によって結成された当委員会によって昨年二月以来着々と進められました。埼玉県知事畑和先生をはじめ県内外の多数の方々のご協力をいたゞき多額の資金の拠出を賜り県立さきたま風土記の丘の中に建立の運びとなりました 建立の所以は濱先生の歌に託して 県名発祥の地とされる郷土の大地のこゝろを永くとゞめたいと念するところににあります 有形無形にご協力下さった多くの方々に満腔の感謝を捧げ 建立の概略を録して 雅見に供します。昭和五十八年三月十三日 濱梨花枝先生歌碑建立委員会」ここの「蓮池」には蓮の姿はなかった。ここにも「さきたま古墳公園案内図」。「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」入口の先の一段高い道の両脇には桜並木が。右手には「史跡埼玉村古墳群」碑。「丸墓山古墳」案内板と「さきたま古墳公園」案内板。「石田堤(いしだづつみ)この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命(めい)を受けた石田三成(いしだみつなり)が、忍城(おしじょう)を水攻めした際の堤(つつみ)の一部です。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川(とねがわ)と荒川(あらかわ)の水を流入(りゅうにゅう)させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳(まるはかやまこふん)の頂上に張られました。」長さ28kmにも及ぶ「石田堤想定図------」をネットから。さらに「石田堤」上を「丸墓山古墳」に向かって進む。「豊臣方の石田三成は城攻めが上手くいかないので近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いたと『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。しかしこれは明白な誤りであり、実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、そこから終始水攻めを望み、三成はそれを実行していたに過ぎないのである。さらに6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される」 とネットから。右斜め前方にはこの後訪ねた「稲荷山古墳」が見えた。「丸墓山古墳直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19 mあります。墳丘に使われた土の量はニ子山古墳より多かったという試算もあリます。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。平成19年(2007年)埼玉県教育委員会」「埼玉村古墳群」碑。「武蔵北部は隣国上野と共に古墳の遺存殊に多く夙に人煙稠密文運の発達熾なるを察せしむ 本村は実に其中枢を占めて埼玉郡名の基く所県名また此処に由来し百を以て算する大小の古墳 累々起伏するもの故なきに非ず 昭和十三年八月特に顕著なる丸墓山二子山等の九基は埼玉村古墳群として文部大臣より史蹟の指定を受けしが古墳群の指定は僅かに九州の一例のみにして未だ他に見ざる所なり 丸墓山は規模壮大の円墳として希有のものに属し天正十八年豊臣氏乃小田原征伐の際武将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると伝へられ今回保存の実を全ふせん為め挙村の協力に依り指定地域を村 有すると為すに当り建碑の議あり本史蹟の指定に関係すること前後久しき故を以て予に其記を嘱せらる のち一言を此処に叙す昭和十四年十月 柴田常恵篆並撰 稲村坦元書 」。そして正面に「丸墓山古墳」。99段の南側階段を上って行った。そして「丸墓山古墳」の頂上に到着。「丸墓山古墳と忍城天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km (ー説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。」「新編武蔵風土記稿 忍城の図(江戸時代末期)」上部に「忍城」、中央に「丸墓山古墳」、「将軍塚古墳」が描かれている。ズームして「忍城 御三階櫓」を確認。「丸墓山古墳登頂、お疲れ様でした。南側の階段は九十九段ありました。北側の階段は九十三段あります。お帰りの際も足元にご注意ください。」「丸墓山古墳」頂上から前方後円墳の「稲荷山古墳」の前方部を見る。「将軍山古墳」も見えた。埼玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され、多くの副葬品が出土した。石室には、遠方より運ばれた二種類の石材が使われていることがわかっている。墳丘の東側は削平され、崩落も進んでいたため、平成3年から古墳の復原整備工事を行いました。墳丘、周囲の堀の復原や、墳丘に埴輪のレプリカを並べるなど、古墳が造られた当時に近い形で整備している。古墳の内部には、複製の石室や遺物の置かれた状態を見学できる施設、「将軍山古墳展示館」が平成9年にオープンしている。99段の南側階段を下る。「蓮池」、「駐車場」方向を見る、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.01
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30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」を楽しんだ後は、この日最後の目的地の大月市にある日本酒醸造所「笹一酒造」に向かって進む。山梨県甲州市塩山下萩原404付近。静岡県道218号線・大菩薩初鹿野線の左手前方にJR中央本線が見えた。「景徳院」交差点から国道20号・甲州街道に入る。「日川渓谷竜門峡 湯の沢峠 大菩薩峠 方面」案内板があった。「日川(ひかわ/ にっかわ)」に架かる「丸林橋」を渡る。「日川」は、山梨県の甲州市などを流れる一級河川。笛吹川の支流。大菩薩嶺(だいぼさつれい)付近に源流をもち、断層線に沿って花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)地帯を南に流れ、JR中央本線甲斐大和(かいやまと)付近に達し、西に流れを転じ、日川扇状地を形成、笛吹市一宮(いちのみや)町田中付近で笛吹川に合流する。流域は甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区をはじめとするブドウの産地である。中流の田野(たの)から天目(てんもく)山にかけては武田勝頼(かつより)終焉(しゅうえん)の地として知られる。また嵯峨塩(さがしお)温泉、田野温泉などもあり、ハイキングコースとしても知られている。流路延長27.0km、流域面積108.3km2。「道の駅 甲斐大和」前を通過。山梨県甲州市大和町初鹿野2248。「ふれあい広場」周辺。そして国道20号・甲州街道の「新笹子トンネル」を通過。笹子峠を通る道路トンネルは、1938年に開通した山梨県道の笹子トンネル(笹子隧道、延長239m)、1958年に開通した国道20号の新笹子トンネル(2953m)、1977年に開通した中央道の笹子トンネル(下り4717m・上り4784m)がある。このうち国道の新笹子トンネルは、中央道とともに、クルマで笹子峠を通過する場合のルートとして機能している。中央自動車道・笹子トンネル事故2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしたのであった。そして国道20号・甲州街道沿いにあった日本酒醸造所「笹一酒造」に到着。山梨県大月市笹子町吉久保26番地。日本酒醸造所「笹一酒造」の係員の方がバスに乗り込み「笹一酒造」の説明を。笹一の笹は酒を意味し、一は酒の日本一を目指すという思いを込めて命名された。大正八年(一九一九年)から現在まで、笹一酒造の顔として使われ続けているマークは、『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。古来より神聖なものとされている八咫の鏡と酒を掛け合わせ、そして 大正八年の縁起の良い末広がりの〝八〟に因み、八咫の鏡をモチーフとして使用したとのこと。それは、草創期における酒の日本一たる笹一のこころを、八咫を後世に伝えたいという願いでもあるのだと。そして店内に。『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。「笹一」。「樽酒 笹一」。「笹一の祝酒」の「樽酒価格表」。「特選純米大吟醸 笹一」。純米大吟醸酒は、精米歩合50%以下の米を使用。「笹一 山廃純米大吟醸 甲州山田錦35山梨県産の特上認定された「純米の王様」山田錦を100%使用し、精米歩合35%まで磨き上げた、最上級の日本酒です。山梨県産山田錦を35%まで精米した米は、極上の透明感と、米の旨味、コクと酸味の絶妙なバランスをもたらします。「山梨の豊かな自然を日本酒として残したい」そんな想いが繋がって生まれた特別な日本酒です。山梨の雄大な自然から生み出される最高級の味わいをぜひ、体感してみてください。▶テイスティングコメント特上の山田錦で造った純米大吟醸酒は、繊細でありながらスッキリとした上品な味わいに仕上がっております。そして、上品な果実のような吟醸香も存分に楽しむことができます。山廃仕込みでじっくりと低温発酵で醸しておりますので、香りだけでなく、ふくらみある米の旨味長い余韻をバランスよく味わえます」。「にごりわいん笹一酒造が、1982年に販売スタートした“元祖”果実酒シリーズで、ブドウの果汁を発酵させる酵母をワインの中に残した“にごり”を愉しむワインです。アルコール度数も6%以下ながら濃厚な味わいで果実そのものを食べているかのような飲み口を味わえます。フルーティーで爽やかな甘味とフレッシュな酸味を感じられ、そのままはもちろん、氷を入れたり炭酸で割っても美味しくお召し上がりいただけます。」。2001年(平成13)、ギネスに認定される直径4.8mの世界最大の太鼓が置かれている建物のようであったがこの日は世界最大の太鼓の姿は無く・・。ネットから。ギネスに認定された直径4.8mの世界最大の太鼓。「笹一酒造」の店頭を振り返る。横の建物の脇にも歴史を感じさせる品々が展示されていた。「御前水」。「御前水ここにあふれ出ている水は昔から笹子峠に湧き出ているそのままの水です。江戸時代には多くの茶人たちが茶会のためにわざわざここまで水飛脚を立ててとり寄せたといわれる名水です。明治天皇が東京から京都へ行幸された際に道中で召しあがる「御前水」の水質調査が為され山梨県内の一つに選ばれた選ばれたことに由来して笹一酒造ではこの水を「御前水」と名付けました。現在でもこの天然水のミネラル成分を豊富に含んだおいしい水をお酒の仕込水として使用しています。どうぞ皆様方もこの昔ながらの笹子峠のおいしい湧き水をご賞味下さい。」巨大な釜と杉玉。「酒林(さかばやし)(杉玉)の由来元来は酒造りの神として知られる奈良の三輪神社の御神木である杉に由来したもので単に杉の葉を束ねた丈のものでした。後に球状にしつらえた杉玉となり造り酒屋の軒下に掲げられる様になりました。軒下の酒林が真新しい緑色のものに替る時が新酒が出来上がった証しです。良質の酒造りと神の御加護への祈りが込められた造り酒屋のお護りでもある神聖なものです。」「菰樽酒 笹一」。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。店の前を走るのが甲州街道・国道20号。そして店内での試飲も楽しみ、バスに戻り帰路へ。下を流れる「笹子川」を見ながら「甲州街道」を西に進む。若い頃、排水からの超純水製造プラントの納入でお世話になった現・「NECプラットフォームズ 大月事業所」を懐かしく見る。ズームして。NECは、昭和61年(1986)に光通信システム用デバイス専用工場であるNEC大月工場の操業を開始したのであった。私が現年齢の半分の歳であったのだ。「大月IC」から「中央自動車道」へ。「八王子JCT」に向けて進む。「上野原」を通過。「八王子JCT」で「圏央道」へ。「相模川」に架かる「新相模大橋」と「海老名」の街並みを見る。「圏央相模川橋」を渡る。車窓から「海老名運動公園」。そして東名高速道路に入り「海老名SA」でトイレ休憩。雨も止んで。SA内を散策。駐車場も満車に近く。多くの観光バスも並ぶ。そして予定時間より30分ほど早く到着できたののであった。今回も、富士山周辺にあった「東口本宮富士浅間神社」を訪ねたが、その他の富士山周辺の浅間神社を訪ねたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.11
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河口湖湖畔にあった「ふなつや」で昼食を済ませ、バスに戻る。バスは河口湖を左に見ながら、国道137号・御坂みちを反時計方向に進む。左手奥に「河口湖大橋」。再び雨がポツポツと。天気が良ければ、富士山の勇姿が見えてくる場所であったが。山梨県南都留郡富士河口湖町浅川127付近。「河口湖大橋」が近づいて来た。この付近が富士山のビューポイント。「河口湖大橋」からの静岡県道707号線と合流し、「河口湖大橋北」交差点を右折する。信号のポール上部には富士山の姿が。「追坂トンネル」、「谷坂トンネル」、「山宮トンネル」そして「新御坂トンネル」を通過。「新御坂トンネル」(延長2778m)は、甲府都市圏と富士北麓地域を連絡する国道137号にあり、昭和39年(1964年)工事に着手し、昭和42年(1967年)有料道路(平成6年11月から無料化)として整備されたもの。「新御坂トンネル」を過ぎると「河口湖町」から「笛吹市」へ。雨の下で新緑が美しかった。静岡県道34号線・白井甲州線に入る。笛吹市一宮町に入ると、車窓には「ぶどう畑」、「もも畑」が拡がっていた。左手に「見晴らし園」。桃の花が咲く時期は斜面一面がピンク色に染まる桃源郷として知られる笛吹市一宮町にある大規模な観光農園。6月下旬~8月中旬はもも狩り、7月下旬~11月下旬はぶどう狩り、10月中旬~11月下旬はりんご狩り、12月~5月はいちご狩りと1年を通してフルーツ狩りが楽しめる県内でも唯一の農園 と。シート屋根設置のための、巨大な鉄塔とワイヤーが設置されていた。北の「山梨市」方向の山々は雨雲に隠されて。「ぶどう畑」が広がる。「小沢葡萄園」。国道20号・勝沼バイパスからの山の斜面は一面のぶどう棚。「勝沼大橋」を渡り県道38号線・塩山勝沼線(旧甲州街道)に入る。そして「フルーツライン(東山東部広域農道)」を走る。左手奥に見えたのが「JR中央温泉 勝沼ぶどう郷駅」。山梨県甲州市勝沼町菱山。この付近から、大きなビニール屋根が施された果樹園が増えて来た。「さくらんぼ果樹園」であろう。甲府市塩山の街並みを見下ろす。「牛奥みはらしの丘」の見晴台にはベンチが。円山市内にはポツンと孤立した山の姿が。これが「塩ノ山」。「塩ノ山」はJR塩山駅北口から登山口まで徒歩で約15分、甲府盆地の東端にポツンと佇む低山で、甲州市のシンボルとして市民に親しまれているのだと。標高553m(山麓が標高約400mなので、山としての比高は約153m)、周囲約3.5km、周りが山などに囲まれていない平地にあり、ぐるっと一周まわることができる珍しい山。そのため「四方からよく見える山」「しほうのやま」から、「しおのやま」と名付けられた。地元の人は「えんざんやま」とも呼んでいると。“塩”の山ということで、「塩が取れるのでは!?」と思われているが、実際はとれないとのこと。また、山の南側にある向嶽寺の山号「塩山」として、「しお」に「塩」の字が充てられている。「塩山」という地名は、実は向嶽寺を指すものだったのであるとのこと。そして目的地の「さくらんぼ園」が近づいて来た。「歓迎 さくらんぼ」の幟も増えて来た。白いビニール屋根の下は全てさくらんぼ園。そしてバスを降り「さくらんぼ園」に向かう。説明を聞き、30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」のスタート。「さくらんぼ狩り」園では、サクランボ産地で有名な山形県で最高級品種とされている佐藤錦(さとうにしき)をはじめ、香夏錦(こうかにしき)、天香錦(てんこうにしき)、」高砂(たかさご)、そして南陽(なんよう)等々を栽培していた。こちらは「佐藤錦」。旅友の皆さんは会話もなく、ひたすらさくらんぼを口の中に。やはり、佐藤錦が一番の人気。100個を目標としたが、さすがに・・・・・。そして佐藤錦をお土産に2箱購入しバスに戻る。ブドウも収穫が間近か?「さくらんぼ狩り」、「ちぇり~ふぁ~む」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.10
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「冨士浅間神社」を後にして、「須走IC」から「東富士五湖道路」に入る。天気が良ければ、車窓から見事な富士山の勇姿が・・・。バスガイドさんが、「世界遺産になった富士山てどんな山なの?」を説明してくれた。「富士山はどのようにできたの?実は富士山は4つの火山から成っているといわれています。今から10万年以上前に小御岳火山が誕生し、その後、古富士火山、新富士火山の2世代にわたる噴火活動で、美しい円錐形をした現在の富士山ができあがりました。※最近の調査で、小御岳火山の地下に、より古い先小御岳火山があることが分かりました。」こちらはネットから。上の写真と異なり右側が北方向であるが。「富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。」白樺林の中を走る。そして「道の駅 富士吉田」に立ち寄った。名物の「吉田のうどん」の看板。富士吉田市が誇る郷土料理・「吉田のうどん」の最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。力一杯練られた「吉田のうどん」は、噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がりとのことだが私には・・・・・・。「富士山レーダードーム館」が見えた。「道の駅 富士吉田」の「農産物直売所」。道の駅「富士吉田」の正面。その右側。店内に入る。山梨県内の道の駅でも最大規模の野菜売り場で新鮮で安価な野菜が売られていた。そして手作りのお菓子類も。隣の部屋は「観光案内所・富士吉田織物コーナー」。多くの観光パンフレットが置かれていた。「山梨100選 選定証 吉田のうどん」、「山梨100選 選定証 吉田の火祭り」。「富士登山 7/1山開き」。そして再び「富士山レーダードーム館」を。「富士山レーダードーム館」は、富士山レーダーの歴史や気象観測について楽しく学べる施設として2004年に開館。1964年に富士山頂へと設置され、1999年まで日本中の気象を観測してきた富士山レーダードームの実物を展示しているのだ。2022年に展示内容をフルリニューアルし、従来の富士山レーダーの歴史や気象観測に加えて、新たに気象観測をより身近に感じていただけるよう防災の内容を追加。ご来光やブリザードを体感できる「富士山頂寒さ体験」は風×映像×音で臨場感がアップした。富士山のふもとで富士山レーダーの歴史、気象観測・防災の世界を十分に楽しめる と。「道の駅「富士吉田」市の紹介富士吉田市を含も富士北麓地域は、富士山の大自然と富士五湖なと優れた観光資源の調和が図れ、地域全体では2,100万人以上もの観光客か訪れる日本有数の観光地となっています。富士吉田市は河口湖と山中湖とを結ぶ中間に位置し、富士北麓地域の観光拠点であり、富主山の登山口、富士山信仰の北ロ本宮富士浅間神社、富士山から市内を一望できるビューポイントで有名な新倉山浅間公園などの数々の観光名所があります。富士吉田市ホームページアドレスhttp://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/」道の駅について道の駅「富士吉田」は、富士吉田市の申請に基づき、国土交通省より、県内第12番目の「道の駅」として登録されました。(平成14年8月13日)「道の駅」は、一般道路て安心して利用できる道路利用者のための休憩施設て、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ個性豊かなサービスを提供するものてす。道の駅「富士吉田」は、富士吉田市が、トイレ・休憩所・食堂・売店・駐車場、を整備し、国土交通省が道路情報施設を整備しており、地域の特色を生かした休憩施設を形成しています。」「富士山のめぐみ」碑。この水は、富士山に降った雨や雪が、数十年の年月と大自然のしくみによって浄化され、伏流水となったものを地下百メートルからくみ上げたものです。尚、溶岩層によってろ過されたこの水は、多量のミネラル分等を含み、特に「バナジウム」の含有量が高く、まさに富士山のめぐみです。オートキャンプ場「オートキャンプFUJICHU」も道の駅の裏側にあった。「道の駅 富士吉田」を後にして、「スマートIC入口」交差点を左折する。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居を左側車窓から。「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地の「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。これに従い大塚丘に鳥居が建てられ、加えて後の景行天皇50年には祠を建て浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。」とHPから。「造営の歴史」をHPから。機会があれば、ここも訪ねてみたいのである。「横町バイパス」を走り、右手に「富士急ハイランド」を見ながら走る。「スバルライン入口」交差点を右折し県道707号線・富士河口湖富士線に入り河口湖方面へ。走ってきた「横町バイパス」を下に見る。そして河口湖湖畔の駐車場に到着。残念ながら、雲が湖面近くまで降りて。そして昼食会場の「ふなつや」に向かう。 山梨県南都留郡富士河口湖町船津4041。1階が土産店、2~4階が団体客用の食事処になっていた。3階に案内され着席。この日の昼食は「すきやき御膳」。牛肉のすきやきであったが、他の一皿一皿の量がややこぶり。ビールを追加注文し、すきやきを楽しむ。昼食後は1階の土産物店を散策。精算する旅友が順番を待つ。駐車場に戻り湖岸から河口湖遊覧船乗り場を見る。駐車場には大型観光バスが並んでいた。「河口湖大橋」。「河口湖大橋」は湖畔の温泉街の渋滞解消を目的に1968年10月から工事が始まり、2年半後の1971年3月に完成し4月から利用が開始された。当時から2005年6月まで通行は有料で、南側の入口に料金所が設置されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。バスに向かって戻る。左手前方に「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈リンク が見えた。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。我が観光バス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.09
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「東口本宮 冨士浅間神社」の参道を「楼門」に向かって進む。「富士講狛犬」(右)。楼門前の前には、「富士塚」を模した岩の上に「狛犬」乗っていた。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬で、非常に珍しいもの。「東京 麻布 三元講社」と。「富士講狛犬」(右)をズームして。「富士講狛犬」(左)。「富士講狛犬」(左)をズームして。谷底へ落とした我が子。試練を与えて這い上がってきた強者だけを育てる。父獅子「強くなりたくばココまで這い上がってくるのだ!」子獅子「とうちゃん…!」と。「楼門ニ階建ての随神門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付きの縁を回らしている。御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随神として配神されている。貞享ニ(一六八五)年、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。しかし、宝永の大噴火(一七〇七年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。現在の楼門は、明和四(一七六七)年随神が寄進された当時のものと考えられる。」御門の神様である随神・櫛岩窓神(向かって右)随神・豊岩窓神(向かって左)。楼門の扁額「東口 本宮」。さらに「本殿」に向かって進む。右手に「神馬舎」。御神馬の白馬。「休憩所」。絵馬書き処と。内部。更に「本殿」に向かって進む。「末社・恵比須大国社」。境内末社の一社。御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、旧10月20に斎行する。「境内社祭神 事代主命(恵比寿さま) 大国主命(大黒さま)祭神は、七福神でおなじみの恵比寿・大黒様の2神で、福徳の神様です。社殿は、富士紡績株式会社(元・富士瓦斯紡績株式会社)小山工場の第1~第3工場の鎮守として、明治31年より、当神社の御分霊をお祭りされておりましたが、このたび諸種の事情により、当神社に寄進されたものです。」「内陣」。「本殿」前左側の池。「長壽亀石」。「長壽亀石古来、長壽の象徴とされる亀の形をした石。この亀石は当社氏子の家屋工事中に土中より発見されたもの。亀の甲羅によく似た形をしており、大変な吉兆物であるとし、当社に奉納された。以来、長壽亀石と名付けられ、健康長寿に肖ろう(あやかろう)との敬拝を受けている。」「末社・社護神社」当社の境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として境内に点在・御鎮座されていたが、現在は社護神社として合祀されている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。例祭は、毎年十五夜の日に斎行。 その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地域の高尾講により毎年12月1日に斎行する。そして「本殿」。扁額「冨士山東宮」。「境内末社この神社には、境内社として次の神社(神様)が祀られている。日枝神社 大山咋命 金山彦命 素戔鳴命 奥津彦命 奥津姫命山神社 大山祗命 火産霊命琴平神社 大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命霧島神社 邇邇杵命高尾神社 穂見命社護神社 大己貴命 月讀命く由緒〉古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社かそれそれ祀られてきた。そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。その中て、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃこつぁん」と称えられ、親しまれていた。毎年仲秋名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。」「小山町指定文化財(有形文化財・建造物)冨士浅間神社社殿」 平成十八年八月二十四日指定 所有者 東口本宮冨士浅間神社 静岡県駿東郡小山町須走一二六番地構造 木造・平屋・権現造り及び入り母屋造り 平面積 本殿 三二.一八一m2 幣殿 三五.八一九m2 拝殿 九五.七二八m2 寸法 奥行 二〇.一九六m 間口 一四.五八七m 高さ 九.五三三m特徴 冨士浅間神社は富士山登山道の浅間神社の一社であり、創建は大同ニ年(八〇七年)と伝えられています。宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火では当社は三メートル以上の降砂に埋もれ、大被客を受けました。その後亨保三年(一七一八年)に再建された社殿が一部現在まで残存しています。通常、神社の社殿は本殿・幣殿・拝殿の三棟に分けられますが、本社ではこれらが一体化した権現造り様式となっています。手前から拝殿、奥が本殿、そしてこのニつを幣殿が繋いでこの社を形成しております。 平成十八年十二月 小山町教育委員会」御神木の根本には那智黒石の黒玉砂利が敷き詰められていた。木彫りの干支の動物が並んでいた。牛の彫刻には「コロナ アッカンベー」と。こちらにも。そして「本殿」脇を駐車場に向けて進む。ここにも様々な石碑が並んでいた。御神木。2本のご神木が並んでいた。「子授け夫婦杉と貫通岩」。「子授け夫婦杉と貫通岩貫通石奉納 中日本高速道路株式会社根が連なる杉は夫婦杉と呼ばれ、良縁・夫婦和合のご利益があるとされる。当社の夫婦杉は御祭神・木花咲耶姫命の御神徳・子授けと安産を象ったが如き膨らみがあり、これに肖る祈りの場として根本に祠を設ける。祠は貫通石から成り、この石は新東名高速道路・谷ケ山トンネル工事にて生じたもの。貫通石は、神話の一幕・神功皇后の段より安産を導く縁起物とされる。」権現造りの拝殿・幣殿・本殿を横から。本殿をズームして。本殿屋根の破風拝飾(はふおがみかざり)をズームして。新緑溢れる空間。御神木の間から。冨士山登頂「記念碑」。「明治天皇御製萬代の 國乃鎮めと 大空に あふ久は 冨士の 高嶺なりけり」様々な石碑がここにも。中央の石碑。和歌山県にある講社は八百九十九度も富士登山されたと。切りのいい九百回にしないところに深い意味がありそうな感じがするのであった。そして駐車場まで戻り再び「麻布山三元講 講碑群」の前から。数え切れないほどの石碑が並んでいた。幹が養生された樹の姿も。そしてバスに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.08
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そしてバスを下りて散策開始。雨がポツポツと落ちていた。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東口本宮 須走口登山道 冨士浅間神社 境内案内図」。「境内案内図」に近づいて。別の「境内案内図」をネットから。「浅間神社」内の史跡名一覧。「冨士浅間神社鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走一二六御祭神 主祭神 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 相殿神 大己貴命(オオナムチノミコト) 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)御由緒 平安時代初頭、桓武天皇の時代・廷歴ニ十一(八〇ニ)年富士山東脚が噴火した。当時の朝廷は 逃げ惑う住人のため冨士山面に位置するこの須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。 すると、同年四月初申の日に噴火が収まった。 この御神威を畏み、報賽するべく、平城天皇の時代大同ニ(八〇七)年に鎮火祭の跡地・現在の 御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。 江戸時代・宝永の噴火では、神社と街は約三メートルの降灰の被害を受けるが、冨士登山と 交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めた灰の上に街を復興させ、神社は村民に より灰が除去されて現在に至る。 明治時杙、逸早く自動車化が進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護と しても一層の崇敬を集める。 平成十九(ニ〇〇七)年には、御鎮座一ニ〇〇年を迎え、記念式典大祭を斎行。 平成二十五(ニ〇一三)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして 登録された。富士山信仰 霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も 尊崇する山の一つてある。富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には 約一三〇〇社の浅間神社が鎮座する。 当社は、天正年間開道と伝えられる、かっての東ロ・いまの須走ロ登山道の起点として、 東ロ本宮と尊称される。 須走ロは、富士山項より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝する ことが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽て染まった縁起物の赤富士が見られる。境内末社(六社合祀) 日枝神社 高尾神社 山神社 霧島神社 琴平神社 社護神社 恵比須大国社(別祀)境外末社 須走ロ九合目鎮座・迎久須志之神社 須走ロ本六合目鎮座・胎内神社 須走ロ五合目鎮座・古御嶽神社 (御室浅間神社・雲霧神社合祀) 東富士演習場内鎮座・野中神社 (旧大日堂)祭礼神事 例大祭 五月五日 開山祭 七月一日 閉山祭 八月三十一日 紅葉祭 十一月上旬 「祈年祭・新嘗祭等の恒例祭」」「鎌倉往還」碑。「鎌倉往還(かまくらおうかん)鎌倉往還は、かつては 鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたことが明らかにされています。かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。当地の鎌倉往還は、まっすくに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。」「鎌倉往還」ルート図をネットから。「富士山付近の「鎌倉往還」は、鎌倉から相模(神奈川県)を通り足柄峠を越え、駿河(静岡県)に入って竹之下(小山町)に下り古沢(御殿場市)を通過して、須走(小山町)を登って籠坂峠を越えて甲斐(山梨県)に至る。名称に「鎌倉」と付いているため鎌倉時代に誕生した道のように思われがちだが、ルートそのものは古代から存在していた。人が自分の足で歩くしかなかった時代には、人の移動ルートつまり道は、地形によって制限されることが多かった。富士山周辺で見れば、(1)富士山とそれに連なる丹沢山地、(2)愛鷹山、(3)箱根の3つ山地は、移動するうえで制約になった。しかし、交易などのために内陸部と海(沿岸部)の間を移動する必要はあったため、困難な山越え(峠越え)を伴う移動がおこなわれてきた。甲斐から海に向かう道は古くから富士山と丹沢の山を越え、(現在の)小山町や御殿場市北部を通り、箱根北部の足柄峠を越えて相模に至るルートをとっていた。鎌倉往還のルートと重なる。つまり富士山周辺の鎌倉往還は、本質的には内陸と海を結ぶための道と言える」 と。「麻布山三元講 講碑群」。「麻布山三元講 講碑群江戸・麻布の町に栄えた山三元講は、江戸期の享和三年(一八〇三)山口左門が山吉講から分離独立させた富士講である。富士登拝には吉田口(北口)から登り、須走口(東口)へと下山し、須走を定宿とした。神門前の火山岩によって築かれた塚と一対の狛犬は昭和の初頭に山三元講の人々が築造し、奉納したものである。このように近年まで講と当社・須走との関わりは深い。同じ頃麻布永坂には富士塚か造られ頂上には当社より勧請された浅間社が祀られた。この富士塚は自然の傾斜地を利用して造られ、頂上部は富士山のクロボク(火山石)によって築かれている、浅間社の周囲には記念碑が次々と移され、また新たに造られた。この永坂富士塚も講の解散と共に解体され、昭和六十二年、大半の記念碑がこの地に移設された。これら講碑群は往時、栄えた講の姿を今に伝えている。※永坂富士塚の模型は当社、記念資料館に展示されている。」「麻布山三元講 講碑群」を見る。「裏鳥居」の石鳥居。他の神社では見られない「不二山」の扁額。二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山という意味 であると。写真右手に「富士浅間神社の根上りモミ」。近づいて。「小山町指定文化財 天然記念物 冨士浅間神社の根上りモミ一、所在地 駿東郡小山町須走一二七番地一、所有者 駿東郡小山町須走一二七番地 冨士浅間神社一、指定年月日 平成三年5月一日一、概要 根上り 四.六m 目通り 三.一m 樹高 二十七m 樹齢 約三〇〇年このモミは約一〇〇年間の降雨による火山灰土の流亡により根上りになったものと考えられます。国内でもとても希少であり、学術上価値が高いと言われています。また、モミの根上り群に寄生するブナ、イヌシデ等の樹木は、樹齢約一五〇年と伝わっています。 平成二十八年八月一日 小山町教育委員会」「冨士浅間神社の根上りモミ」を振り返る。「浅間縁結びの木宿り木(やどりぎ)というのは、普通他の樹木に寄生する木をいう。この結び木は、宿ったというよりもむしろ根がらみの状態で、もみの大木にぶな・かしがしっかりと結び合っている。その様は、男と女の結びつきを表象しているようである。当社の啣祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)様のご加護により、縁結び・安産・子育てのご幸運に恵まれるといわれている。」「東京 廿六夜」碑。「二十六夜講」とは、旧暦の1月と7月の26日の夜に月待をする講で、江戸時代に盛んに行われていたようです。「講」とは同一の信仰を持つグループのことで、ここでは「富士講」を指しています。「月待」とは、月の出を待ち、拝みながら酒を飲み交わすこと と。「富士講講碑群ここには、明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、三十三度、六十六度など数多く富士登山が成就された事を感謝し、先進や講名を高く揚げ信仰の証とした。」江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社の登拝記念の石碑が並ぶ。記念として建立されたものや、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもある。尚、富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。当社の位置や当時の東海道本線(現・JR御殿場線)の交通の便から、東京・神奈川にかけての講から崇敬を集めていた。「浅間の杜 はるにれの木」境内西側・浅間の杜の中に繁るハルニレの木。ハルニレの木は境内に数本が繁るが、もともとは北海道や寒冷地に繁る樹木であり、温暖な気候にある静岡県には珍しい樹木である。推定樹齢400年の大木であることから、昭和38年に静岡県天然記念物に指定された。境内西側隣に接して通る鎌倉往還道からは背面を見ることが出来、半分近くが根上がりしている様子が伺える。「ハルニレ(春楡)」の木を見上げて。「伊藤? 四谷講社」と。都内四谷にあった富士講・四谷丸参伊藤講社か?「新進講記念碑 男爵若槻禮次郞書」と。「富士講と講社碑富士山は、昔から信仰の山として登拝され、修行の場であった。人穴て修行を重ねた長谷川角行(かくぎょう)は江戸に出て、富士の信仰を説いた。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)がさらに教えを広め、富士山七合五勺に入滅の後、江戸では「八百八講」といわれる程、富士講が盛んになった。須走は富士信仰登山の登山口として、古くから栄えてきた。須走浅間神社には、講の人達によって奉納された石碑や石燈寵が多く、その一つ一つから登山する道者(行者)達の息づかいが聞こえてくる。」「三十五回 登山記念 権大教正 金澤徳行翁」と。台座の岩には「安産講社」と。「浅間教會一世 贈大教正 川口源次郎之碑」。緑溢れる「浅間の杜」が続く。石燈籠の先にも石碑が。ズームして。そして「東口本宮 冨士浅間大社」の社務所へ。銘板「東口本宮 冨士浅間神社社務所 御鎮座千二百年 記念資料館」と。御朱印帳も販売されていた。御朱印を頂きました。「浅間神社」案内書も頂きました。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東ロ本宮・須走ロ登山道冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町須走一ニ六番地 鎮座)御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)・ 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)由緒 大同ニ(八〇七)年、富士山の延暦ニ十一(八〇ニ)年の噴火に於ける鎮火祭跡地 (現在の社地)に創建。旧県社。 富士山登山道・東ロ=須走ロの本宮であり、起点となる。 須走ロ五合目・古御岳神社、六合目・胎内神社、九合目・迎久須志之神社は、 当社の境外末社である。 平成十九年には御鎮座千ニ百年の佳節を迎えた。 平成ニ十五年、世界文化遺産「富士山」構成資産に登録。主祭事 五月五日 例大祭 本殿祭・神幸祭(パレード) 七月一日~九月上旬 富士山須走ロ登山道開山等 関連祭典【不ニ山】・・・表烏居の不ニ山は、富士講の先達から寄贈された文字で、二つとない 素晴らしい山・富士山を意味する。」「太鼓橋」とその先右側には「道祖神」が。その先の参道には新緑のトンネルが。社号標石「縣社 冨士淺間神社」。左側にあったのが「信しげの滝」境内南、太鼓橋の左に位置する滝で、浅間の杜を走る水流が流れ出て滝となっている。名前の信しげの由来は不明。かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ないものである と。四季折々に違った景色を見ることが出来るとのこと。とくに冬場では、滝が凍り巨大な氷柱(つらら)を見れることがあるのだ と。再び太鼓橋を斜めから見る。石鳥居の扁額は「不二山」。「奉雷の杉」。見上げて。「奉雷の杉推定樹齢三五〇年で、境内の樹木で最も長寿の杉の一つ。平成三十年夏、この木か落雷を引き受けてくれた御蔭て、神社や地域に大きな被害を与えなかった。落雷による枯れか少ないことから、雷という圧倒的な偉力に抗ったのではなく、雷を奉り遵った=柔和に協和したと考えられ、奉雷の杉と呼ばれる。以来、その偉大さ・懐の深古に肖ろうと足を運ばれる方か多く見えられる。」鳥居のそばには、富士山噴火の際に飛んできた「火山弾」が。「富士山火山弾」。「富士山火山弾この火山弾は地中の岩奬(熔岩)が噴火のために空中へ吹き上げられ、落下の際に酸化・冷却して出来たものです。右の巨大なもの、左の形が整って大きいもの、いずれも大変貴重なものと言われています。」左手に「手水舎」。「龍口」を見る。「楼門」に向かって進む。ここにも「冨士浅間神社」案内板が。さらに「楼門」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.07
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この日は6月12日(月)、実兄に誘われて、「老人会」の懇親旅行に参加した。参加人数不足のために動員がかかったのであった。総勢44人で各地区の集合場所に集まった参加者を、バスが移動して拾って行ったのであった。これぞ「老人会」の旅行なのであった。参加者全員をバスに乗せ「秋葉台文化体育館前」を通過。そしてこの日も、小雨の降る中、「東名・綾瀬スマートIC」から「東名高速道路」へ。そして早くも「海老名SA(下り)」で最初のトイレ休憩。日本一混雑すると言われていた「海老名SA」。現在もそうなのであろうか? 下り方面では東名で最初のSAで、休日の利用者数は上下合わせて10万人を超えるとのこと。 それ自体が目的地となるSA・PAの先駆けともいえる「海老名SA(下り)」。「海老名SA(下り)」案内図。やはり、多くの観光バスが駐車していた。から揚げや肉巻きおにぎり、肉まんなど8店舗の屋台が並ぶテイクアウトコーナー「うまいもの横丁」。内部に入って見た。「レストラン・フードコート」。そして再び御殿場に向かって進む。神奈川県足柄上郡山北町谷ケの街並みを左手に見る。天気が良ければ、車窓左手前方に「富士山」の山頂下が見えるのであったがこの日は雨の為に・・・。左にカーブしながら「酒匂川」に架かる「酒匂川橋」を渡る。下を走る線路は「JR御殿場線」。「馬伏川橋」を渡り「東名足柄橋」を左手に見る。静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっている。よって、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっているのであった。「足柄SA」まで3kmと。左手奥の斜面には「HOTEL CLAD ホテル クラッド」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD』。アウトレットでのショッピング、富士山の絶景、自家源泉の温泉と、休日を心ゆくまで楽しめるリゾートホテルとのこと。そして「御殿場IC」で東名高速道路を下りる。「御殿場バイパス」に入り「山中湖」方面に向かって進む。「御殿場市役所」が左手に。横壁には「市章」が掲げられていた。御殿場市の「市章」をネットから。GOTEMBAの頭文字Gを図案化。中央に富士山を、外枠に箱根外輪山を表現し、美しい自然に囲まれた御殿場の伸びゆく市勢と市民の協和を表現している と。「須走道路」を進む。左手に「加藤学園 御殿場キャンパス」。現在はキャンパスとしては使用されていないようだ。「富士ざくらホテル」。「須走道路」を走る。「道の駅 すばしり 2km」と。「道の駅 すばしり 500m」と。ズームして。 ・・・つづく・・・
2023.07.06
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「足利織姫神社案内図」をネットから。「足利織姫神社」の「手水舎」が左手に。石造りの龍の口から手水が。龍が水を司る神様である事に由来していると。「足利織姫神社歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、宝永2年(1705)に天八千々姫命・天御鉾命のニ柱の神を勧請しました。明治12年に社殿が建立されましたが、翌年火災で焼失してしまいました。昭和9年舂に新社殿建立に着手し、昭和12年に現在の社殿が完成しました。朱塗りの社殿は緑に映えて美しく、足利のシンボルであり、平成1 6年には国登録有形文化財に登録されています。産業振興と縁結びの神社として、足利市民はもとより、全国から参詣者が訪れています。」「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。「社殿」👈リンク を正面から。ズームして。正面には、我々のバスガイドさんがご自分のスマホで撮影中。この神社は初めてであったのだろうか?「社務所」。「社務所」の御守り。こちらにも。「御朱印」を頂きました。七夕期間限定の御朱印も頂きました。「御神木」。この丸く剪定された御神木は「スダジイ」という種類の木で、「3本あると大きな森を形成する」といわれているとのこと。そして境内にあった塔。その後ろで「七色の吹き流し」がはためく。足利市の街並みを望む。「渡良瀬川」に架かる「渡良瀬橋」とその先に「男浅間神社(足利富士浅間神社)」のある「浅間山」がはっきりと見えた。「神楽殿」。再び社殿を見る。中央の「拝殿」をズームして。「拝殿」の「内陣」。「拝殿」の天井の「格子天井」。足利で織られた華やかな生地が使用されているとのこと。「拝殿」の両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼で結ぶ形に。日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたと。こちらが「平等院鳳凰堂」(ネットから)。「愛の鐘」二人で鐘を鳴らすと幸せになれると。「愛は限りなく広いそして深い」と。「鐘」をズームして。そして帰路は「本坂」の石段を下る。階段途中のポールに境内までの石段の数と語呂合わせ?文字があり楽しいので記録しておきます。境内まで229段:登れば叶う縁結び境内まで182段:いやにならずに一段一段境内まで153段:いこうみんなで織姫の社境内まで118段:いいわ眺望 関東平野境内まで75段:なごむ心で宮参り境内まで38段:宮に向かってもう一息境内まで19段:幾年までも縁結び「本坂」の石段を降りながら順番に撮影しました。「境内まで19段:幾年までも縁結び」「境内まで38段:宮に向かってもう一息」「境内まで75段:なごむ心で宮参り」「境内まで118段:いいわ眺望 関東平野」「境内まで153段:いこうみんなで織姫の社」。「境内まで182段:いやにならずに一段一段」。「境内まで229段:登れば叶う縁結び」。「二二九段登れば叶う縁結び」と。石段の左奥にあった石碑群。「籾山唯四郎君像」。「籾山唯四郎は、1861年(文久元年)に下都賀郡の間々田に生まれました。1884年(明治17年)に助戸村の籾山家の養子となりました。唯四郎は、1890年(明治23年)から、足利町議会議員となり、旧助戸小学校の建設に動きました。1903年(明治36年)には、郡会議員になり、郡立高等女学校の建設に努力しました。その後、足利が市になってからは、市議会議員となりました。また、1920年(大正9年)には、県会議員にも選ばれました。1910年(明治43年)に、「織物改良組」をつくり、よい物づくりに努力しました。足利織物協同組合・足利染色研究会の役員をしながら、自分の織物業のほかにも、たくさんの会社をつくったり、ほかの会社の相談も受けたりしていました。さらに、学習のためにひつようなお金をだし、学生を育てていこうと自分のお金を出して「財団法人・籾山育英団」をつくろうと文部大臣にお願いをしましたが、実現しませんでした。 1922年(大正11年)に、栃木県知事より公益事業功労者(多くの人に役立つ仕事をした人)として表彰されました。しかし、この年に唯四郎は62歳でなくなりました。お墓は、助戸の定年寺にあります」現在残っているのは台座のみで、像は戦時中に供出されたと。「足利氏の略系」碑と「足利と足利織物の歴史」碑。「足利氏の略系」碑「足利と足利織物の歴史足利は中世(鎌倉・室町時代)に活躍した源氏系の足利氏 の所領「足利荘 」です。古代末には藤原秀郷系 の足利氏も活躍しました。足利尊氏 は室町時代に京都に幕府を開き日本を治めました。幕府はまた「足利学校 」を興隆に導きました。古代の足利は各寺社の記録によれば、東大寺(奈良・平安時代)や伊勢宮(平安・鎌倉時代)へ織物を納めています。中世では『徒然草』ニー六段に足利氏三代目左馬頭義 氏が、鎌倉幕府執権北条時頼 に毎年「染物」を贈ったとあります。糸を草木等で染め、織ったもので、量は「三十反」女性着「小袖 」仕上げです。中世後半では足利織物の生産量は、鎌倉の関東公方家、三河国の足利一族、京都の足利将軍家などの需要を背景に高まったでしょう。輸送手段は川・海を利用した水運で、利根水系 には大きな水運業者もできました。綿織物の発達は近世足利藩時代で、糸つむぎ、染め・撚り、織り、仕上げの妙は、魅力的な「足利織 」を産み、江戸中期には全国に知れわたりました。近代には絹綿交織の発達を経、明治中期以降絹織物の生産が盛んとなり、世界に輸出されました。昭和戦前期、絹紡糸を入れた柄模様の素敵な「足利本銘仙 」が日本中の女性を魅了しました。国登録有形文化財 、織姫神社 の社殿はこの時期(1937 年)に建てられました」「頌徳碑」。「飯塚太郎頌徳碑織物整理業。大正・昭和期の足利織物業界指導者の一人。特に、昭和初期の織物同業組合第三部(国内向け)の「足利銘仙会」若手を支援、「足利本銘仙」の開発に貢献。碑は生前、一九三ニ年、同業組合第六部(当時織物整理業)有志により建立された。撰文は栃木県立足利工業学校長の高田義親。」さらにその奥に、トリコット工業協同組合の初代から3代までの理事長吉田孫三郎、殿岡利助、三田禧三郎の3人の胸像。「足利トリコットの歴史足利市は、昭和ニ十ニ年から四十年代後半に至る問、トリコット(軽メリヤス生地、および当初「足利ジャージー」、後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった歴史を持つ。戦後、国策を積極的に取り人れ、戦前の絹織物に代わりトリコット産業を完成させた。その象徴が四十一年完成の「足利トリコット工業団地」で、集団化による中小企業近代化のモデルであった。同産業の発展に寄与された代表的人物が胸像の初代~三代トリコット工業協同合理事長吉田孫三郎・殿岡利助・三田禧三郎氏である。昭和四十四年以降、日米間に「繊維摩擦」、「ドルショック」、「円高」などが発生し、トリコットの輸出は絶たれた。またこの頃から国内需要の主力であったスリップ・ネグリジェの需要か消えた。国や業界の諸改革にも拘わらず、トリコット産業は縮小を続けたが、現在ファッション産業の新たなる展開に向け鋭意努力する現状にある。 平成ニ十四年十一月 日下部高明 撰文」「視床 長重之」の作品。長は東京都出身。1942年に父の故郷である足利市に移り、60年代から地元のガス会社や病院に勤務しながら制作を始めた と。「創造のひろば足利トリコットの創製、発展に寄与された3人の銅像、その歴史碑とともに、現代美術家 長 重之氏の作品「視床ーthalamus」が対峙する創造の空間です。す誉をいの土間ぐす。「視床」は領域や境界に関わる作品で、時空を超えて感性に響くとき、思考の領域まで示唆する作品です。●黒丸の視点に立ち、足利トリコットの歴史とともに、「視床」を見つめてください。そして自身の領域を探求しましょう。人の思考の領域は無限の可能性を秘めて存在します。それに向かってチャレンジする次世代を担う方々へ、期待を込めたメッセージのひろばです。 K HAYAMA」「創造のひろば」の反対側にあったのが「八木節の碑チャッポコ、チャカポコと軽快なリズムを刻む八木節は、明治の終りから昭和の初めにかけて一世を風靡した正真正銘、我が市発祥の民謡であり、日本三大囃子の一つとされております。八木節の源流は、江戸時代例幣使街道八木宿に伝えられた越後の口説節だと言われていますが、これは叙事的でゆったりとした瞽女歌のようなものでした。これを足利市堀込町が生んだ逸材、堀込源太(本名渡辺源太郎 昭・18・12・8没)が、野州気質に合った高音で、はぎれの良い曲調に改変する等、心血を注いで作り上げた心の歌で、正に民衆の活力と確固たる執念から生れた結晶が日本屈指の民謡、八木節であります。初代源太は、幼少の頃から美声で、その素質は若くして四隣を圧したといわれております。このように、郷土の傑出した人物が創出した八木節を、しかりと保存し、後世に正しく伝承して事が、現代に生きる私達の責務と考え、昭和五十四年に足利地区愛好者の連携を図る目的で、市内三十有余のチームを集結、足利市八木節連合会を結成しました。本年発足三十年を迎えることを機に、一層結束を強め、初期の目的達成を念頭に、郷土を愛し足利気質から生まれた八木節を守り、更に躍進させることが私達の使命と信じ、会員一同粉骨砕身精進することを誓願し、この碑を建立するものであります。 平成二十年三月吉日 足利市八木節連合会」。更に、本坂の石段を下って行った。「229段」の石段を振り返る。そして「織姫ハイキングマップ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.28
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そして、次の訪問場所「足利織姫神社」の駐車場に到着し、バスを降り散策開始。栃木県足利市西宮町3889。栃木県道40号線・足利環状線の先にあったのが「足利織姫神社」。横断歩道の先に「足利織姫神社」の「大鳥居」が見えた。「足利織姫神社」。1200年余の歴史と伝統を誇る機業地・足利の産業の守護神である「足利織姫神社」。天照大神の絹の衣を織っていた天御鉾命と天八千々姫命の二柱を祀る神社。明治12(1879)年、機神山(はたがみやま・現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。翌年に火災に遭い、しばらくの間は仮宮のままであったが、再建に着手し昭和12年に現在の社殿が完成。京都府宇治市の平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれている。平成16年6月には、社殿・神楽殿・社務所・手水舎が国の「登録有形文化財」として登録された。足利織姫神社のご神紋が左側に。「かつて倭建命の御子・足鏡別王(あしかがみわけのきみ)が足利の地を統治していた」という伝承に基づいて、その神鏡の輪郭に、「足」の字を配したのが足利市の市章。それを、昭和12年の織姫神社遷宮に際してこの鏡の輪郭を使う許可を得て、図に用いたという。この鏡の輪郭に、足利氏の家紋である「丸に二」の二を縦に配し、それに織物の糸を組み合わせたのが織姫神社のご神紋。つまり、足利の町・足利氏・織物の三つのシンボルを取り込んだのがあのご神紋ということになるだろうか。「縁結びと産業振興の神社 足利織姫神社太古の昔より皇太神宮御料の神御衣づくりを司った天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱が御祭神でございます。」。御祭神の天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)「足利織姫神社」の「社殿」は、織姫山の中腹にあり、一の鳥居から始まる「本坂」は「社殿」前の境内まで229段の階段があった。階段中央にも手すりがある石段。一方、「縁結び坂」は、ゆるやかな山道だが、手すりがないので足腰に自信のない方は、本坂より上ってください と。左右の「階段手すり支柱」には「天御鉾命」(左)、「天八千々姫命」(右)と書かれた銘板が。「ようこそ 足利織姫神社 境内まで二二九段」と。「国登録有形文化財(建造物)織姫神社社殿・神楽殿・社務所・手水舎織姫神社は社殿(伝)によれば、宝永2年(1705)戸田忠利が足利藩主としてこの地に来た時に土民が創建した神社で、機織の守護神として「天ハ千々姫命」「天御鉾命」のニ神をお祀りしています。現在の社殿は、明治13年(1880)に焼失した社殿を昭和12年(1937)に再建したもので、中央に拝殿、その両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼て結ぶ形は、日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれています。当時の神社建築は木造が主流でしたが、設計者である小林福太郎(1882 ~ 1938)は、当時珍しい鉄筋コンクリートを用いて木造建築の意匠を再現しました。朱色に塗装された建物が、織姫山の山並みの緑と青空に映え、ひときわ鮮やかに眼に映り、美しい建築を作り上げています。織姫神社は織物を中心とした足利の産業を信仰面から支えてきた存在であり、本市の近代化を語る上でも欠かせない貴重な文化遺産です。近年は、産業振興と縁結びの神社として多くの参拝者に崇められています。」「足利の水道水」。蛇口は写真の裏側にあった。「足利の水道水足利の水道水は、すべて自然のろ過作用により浄化された天然のミネラル分を含む地下水を原水としています。ぜひ、足利のおいしい水道水をご賞味ください。平成2年7月 市制 70年記念 水道創設60周年記念 足利市」左方面に進む「縁結び坂」を利用して「社殿」に向かって進む。「縁結び坂」には「七色の鳥居」が奉納されているとのこと。朱の鳥居の扁額には左右に「天皇陛下 即位 皇太子殿下 即位」と書かれ、中央に「菊花紋章」が。「奉納 織姫の祈り 👈リンク作曲 中北利男作詞・唄 真氣足利の神社(かむやしろ)織姫に 絹(いと)を紡いだ先人の思いは続く渡良瀬の川流れるこの街に 朱い神殿浮き上がり 織姫山(おやま)を彩る二二九段の石段を上れば 願いは叶う そう信じ人は集う春にはさくらの花咲き誇り 秋には色づくもみじ谷 今日も移ろう織姫に祈りを捧げて 麗しき未来へ届け 神々に祈りを捧げて御空の下(した)縁(えにし)の元へ足利西ライオンズクラブ 結成五十周年記念事業 実行委員長 岩崎年春」「足利友愛義団の碑」「友愛」の文字が。「足利友愛義団の碑1891年(明治24年)12月26日、この地に建っていた「好養館」に、萩野萬太郎他4名が集い「友愛義団」結成の発起人会が開催され、翌92年1月6日、萩野萬太郎、磯部安次郎、木村初太郎等22名の青年実業家達により「足利友愛義団」が発足しました。その後、原田定助、足利武千代、横田千之助らも入団して団員も100名を超えたため、1904年(明治37年)には「好養館」を譲り受け、活動の拠点にしました。「足利友愛義団」は、「驚き交流と学び」を活動の主旨として、義援活動、社会教化(廃娼運動)、足利織物も振興、国際化に備え河合運吉・森田金之助両牧師の協力による英語教育の作興、また、岡島忠助、木村浅七、長谷川作七、川嶋長十郎による輸出織物の品質向上のための「五二会」足利支部結成等々・・・「足利友愛義団」の職業論理に基づいた、篤く広い視野の真摯な活動は、近代足利の発展、産業振興の大きな礎となりました。2006年(平成18年)2月、足利商工会議所は「足利友愛義団」の萩野萬太郎が初代頭取を務めた足利銀行の元本店を購入し、「街おこし」の拠点として再生、「友愛会館」と命名し、末永く「足利友愛義団」の精神を継承し、足利経済の発展に寄与することを誓い合いました。---------------------------------------------------------------------------足利友愛義団の碑は石垣の上の岩に嵌め込まれています。」と。隣には「織姫神社造營碑」。非常に巨大なもので大人2人分ほどの高さがあった。碑に書かれている言葉は古いものなので横に口語訳の説明板が立っていた。「足利織姫神社造営碑 碑文(口語訳)貴族院議員 伯爵 金子堅太郎貴族院議員 徳富猪一郎 撰文 (蘇峰)日本の国は、昔から神の国といわれています。万世一系の皇室があって世界に例のない国体です。そして日本独特の神社があります。神社は伊勢大神を始めとして、宮弊社、国弊社、府、県社、郷社、町、村社など格付けはさまざまですが、いずれも国民信仰の中心で、国体に即して国民生活と密接につながっています。昔 天祖 天照大神(あまてらすおおみかみ)が高天原(たかまがはら)を治めていたころ、天御鉾命(あめのみほこのみこと)を神々の衣服を織る役職につかせ、天八千千姫命(あめのやちちひめのみこと)を織女に命じて衣服を織らせました。足利に鎮座する織姫神社が産業振興の守護として、天御鉾命・天八千千姫命の二柱の神をお祭りしてあるのはこのことに由来しているのです。このように織姫神社の根源は、遠く神代の時代までさかのぼり由緒は奥深いものがあります。下野国(しもつけのくに)は、関東のだいじな所に位置し、文化は早くから開け、産業も大いに興り、織物の国として知られていました。なかでも足利は織物の生産地として平安朝のころは、絹織物を朝廷に献上するようになりました。このようなことは史実としてさまざまな形で伝えられています。以来数百年、時代によって栄枯盛衰はありましたが、祭祀は絶えることなく続いていました。明治維新、国運の隆昌と同時に産業もますます発達し、社殿を現在の地に移しました。しかし、明治13年11月、火災により社殿は一朝にして灰燼に帰してしまいました。その後50年余り、有志の人々がたびたび再建を企てましたが成就しませんでした。たまたま、昭和8年皇太子殿下(現天皇陛下)の御降誕を記念として、産業振興を祈願し社殿の造営を決定しました。奉賛会を、組織し、浄財を募り、工事に着工しました。造営主任技師小林福太郎、工事担当小川清次郎を責任者として、昭和9年工を起し、昭和12年竣工しました。4年間の歳月をかけて完成しましたが、神域の拡張は一千余坪、その経費は総額15万円、規模は広荘、金碧燦然として旧時の面目を一新しました。社殿は足利市の中央にあり、その他はさわやかな高台、背後には緑濃い松林の丘陵をめぐらせています。前方には渡良瀬川が容々として流れ、近くは秩父の連山を隔て、甲信の群山を霞がただよう彼方に臨むことができます。遠くは岳蓮(富士山) がひときわ高く青空にそびえ、絢爛たる眺望はみごとなものです。いわゆる朝日のきらめき、夕陰の情景、自然はさまざまに美しい変化を見せます。更にその上を願えば、春秋の大祭毎に多くの人々が集まり崇敬の念をいただいてくださること、それが市民振興の源となり、産業振興の活力ともなります。このことは太古より現在まで、現在より遠い将来まで変えることはありません。奉賛会長 殿岡利助、建築委員長 原田政七、社掌(神主) 日下部幸俊 三君は、これを後世に伝えるために碑の建立を計画しました。そしてその碑文を書いて欲しいと私のもとに来られました。私はそれを快くお引き受けして、その由来をこの一文にまとめました。これを石に彫って後世の人たちに末永くつたえてください。昭和16年5月6日 建石 足利 岩澤諒弌 書」 「縁結び坂」の石鳥居を潜ると、こちらも石段がスタート。石鳥居の扁額は解読不能。その先に紫の鳥居が姿を現した。「七色(なないろ)の鳥居足利織姫神社のご祭神は、男の機織師(はたおりし)と織女のニ柱の神様てす。織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女ニ人の神様をご祭神とする「縁結びの神社」と言われるようになりました。足利織姫神社は、縁結びの神社として「七つのご神徳(縁結び)」を大切にしております。」県立足利高等学校と県立足利女子高等学校が統合されることになり、その記念として、両校の同窓会が、ここ織姫神社に鳥居を奉納したと。最初に「紫色」の鳥居。その先にも「紫色」の鳥居が続いていた。「七色の鳥居 紫色 よき経営と縁結び」。その先に「若草色」の鳥居。「七色の鳥居 若草色 よき学業と縁結び」。つづいて「赤色」の鳥居。「七色の鳥居 赤色 よき人と縁結び」。「えんむすび広場」にあった「織姫神社造營二十周年記念」碑。多くの「寄附者連名」が刻まれていた。「えんむすび広場」は小さな広場。恋人が二人でたたずむ「しあわせの絆碑」(左)と御神徳碑(右手 黒石)が並んで設置してあった。「足利織姫神社御神徳碑 しあわせの絆碑産業振興と縁結びの神社である足利織姫神社の遷宮70年記念事業が多くの皆さまからの御寄進と御協力により目標以上の事業遂行ができましたことに心より感謝申し上げます。事業完工の記念として七つの御神徳の碑を建立いたしました。また、隣接の「しあわせの絆」碑は、人と人との篤き絆の大切さを願い御神徳成就の象徴として建立いたしました。足利織姫神社の興隆発展のために全身全霊を打ち込んであります、足利織姫神社奉賛会長 林 吉郎氏の寄進によるものであります。平成19年5月5日足利織姫神社遷宮70年記念事業実行委員会委員長 菊池 義治」「足利織姫神社 御神徳よき人と縁結びよき健康と縁結びよき知恵と縁結びよき人生と縁結びよきよき学業と縁結びよき仕事と縁結びよき経営と縁結び」その先には「緑色」の鳥居。「七色の鳥居 緑色 よき知恵と縁結び」。「黄色」の鳥居。「七色の鳥居 黄色 よき健康と縁結び」。「青色」の鳥居。「七色の鳥居 青色 よき人生と縁結び」。最後に「朱色」の鳥居。「七色の鳥居 朱色 よき仕事と縁結び」。そして「本坂」の石段と合流し社殿前の境内への最後の石段を上る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.27
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庫裡の前にあった「宥座の器(ゆうざのき)」傾いた器が吊り下がっています。器の下にある水を柄杓ですくい、器に注ぐと、やがて、傾いていた器が水平になります。さらに器へ水を注ぎ続けると、再び器が傾き、注がれた器の水が、全部下にこぼれてしまいました。「宥座之器」、「欹器図」案内板。「宥座之器針生清司作 銅製高さ ニ一〇・〇cm奥行 一ニ五・〇cm幅 八ニ・〇cm平成ニ四年(ニ〇一ニ)史跡足利学校所蔵の『欹器図』を参考にして群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し足利市に寄贈されたものです。「体験してみませんか」①この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。②傾いている器がだんだん水平になってきます。③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。この「宥座の器」は、孔子の説いた”中庸”ということを教えるものです。よく言う言葉に”腹八分目”というのがあります。人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。それを中庸といいます。入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。これを中庸というのです。「欹器図史跡足利学校蔵紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である。」「方丈、庫裡、書院等主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられました。屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。(宝暦年間の姿に復原)」「庫裡」の中に入ると「参観順路」案内が。入口直後には様々な紹介パネルが。「近世日本の教育遺産群とは」👈リンク。「扁額「杏壇」。「扁額「杏壇」天保14年(1843)徳川治宝 筆扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたものです。「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。」「扁額「學校」」。「扁額「學校」寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。」その横に展示されていたのが「上杉憲実像」。足利学校中興の偉人。ズームして。「上杉憲実の中興室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享11年(1439)に書籍及び領地を寄進し、学則を定め、鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(校長)にするなど、衰えていた学校を大いに整備し、後の発展の基礎を築きました。寄進の書籍には、『宋版尚書正義』『宋版礼記正義』『宋刊本附釈音毛詩註疏』『宋刊本附釈音春秋左傳註疏』などの儒学の経典、他に『宋版唐書』があります。これらは、中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に保管されています。また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。憲実は永享4年(1432)関東管領となりましたが、永享十年に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を起こしたので、持氏軍と戦うこととなり、翌11年これを破って持氏を自害させました。これを永享の乱と言います。足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、憲実の置かれた状況を考え合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。」「上杉氏系図」。「NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの雲洞庵と足利学校上杉憲実像の実物は、新潟県南魚沼市にある『雲洞庵』に安置されています。この『雲洞庵』は、足利学校中興の祖である憲実公が復興(応永二十七年(一四二〇) )に尽力した曹洞宗の名刹です。「天地人の主人公、直江兼続と上杉景勝は、少年期にこの『雲洞庵』で学びました。その直江兼続は、足利学校で学んだ「涸轍祖博(こてつそはく)」と「九山」の二人を抱えていました。「涸轍祖博」は、直江兼続に招かれ涸轍書院と号して、書籍の刊行にあたりました。また、「九山」は、下野国那須雲巖寺の僧でしたが、兼続が足利学校に学ばせ、帰国後、米沢に禅林寺を開かせたということです。 参考資料 「雲洞庵」公式ホームページ 「史跡足利学校研究紀要「学校」第二号」」「雲洞庵の縁起によると、養老年間(七一七~七ニ四)藤原房前(ふささき)の亡母のために比丘尼(びくに)寺を建立したのがはじまりとされる。雲洞庵のある南魚沼郡一帯は上田荘で、その一部が山内上杉氏の所領であった関係から、永享元年(一四ニ九)、兼実が禅僧の顕窓(けんそう)をまねき、雲洞庵を再興した。後年出家した憲実はここに隠遁し、「雲洞庵主」と号したという。同庵には、憲実愛用の品といわれる天目茶台や茶釜なども伝えられている。」左手にある廊下を進むと先に見た脇玄関になる。ここには賢者の像が5体鎮座されていた。左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャストその隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの玄関というのも珍しい。その先が広い「方丈」。主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在かもしれません。現在でも行われている儀式、行事があるようです。儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから行われていたとのこと。そしてその隣の間には足利学校のジオラマが置かれていた。「自由に挑戦してください。足利学校漢字試験」と。「足利学校漢字試験 初級」。「仏殿」を屋外から写した写真。手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子であると。仏殿の左隣が「尊碑室」で、歴代の徳川家将軍の位牌が納められていた。「徳川幕府歴代将軍の位牌第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。「徳川幕府歴代将軍の位牌大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)」有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)右から大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)右から有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)桂昌院殿仁誉興国光公大姉(5代徳川綱吉生母・桂昌院)こちらが東照大権現・家康の位牌。やはり扱いが違うのは当然。「鋳造葵紋燈籠」。「鋳造葵紋燈籠中台に「享和三年癸亥三月吉青享和三年癸亥三月吉青郊代工師佐野天明三木忠右衛門藤原敦造」、火袋部分に「御祈祷殿葵御紋銅燈籠一雙」「下野国足利学校」の刻銘がある。「方丈」の「縁側」から「南庭園」を見る。「牧野富太郎(牧野万太郎)が学んだ植物の本」『本草綱目』は、薬になる植物等を集成し、その作り方や効能、処方の仕方等について解説した本で、中国時代の李時珍(1518~93)が書き、万暦23年(1596)に南京で出版されました。日本へは、慶長9年(1604)頃までに伝来し、駿府(静岡) で晩年をすごした徳川家康(1543~1616)もこの本を読んで薬を作りました。すぐれた内容であったことから、何回も版を重ね、明治時代初明まで読み継がれました。朝ドラ「らんまん」でも牧野富太郎(万太郎)(1862~1957)が本書を読む場面がありました。『草木図説』は、飯沼慾齋(1782~1865)が安政3年(1856)に出版した植物図鑑です。それぞれの草花に、名称や特徴を記した解説文と写実的で一部彩色を施した植物画が付けられています。富太郎が学んだ幕末期では新しく詳細な図鑑でした。『新訂草木図説』は、『草本図説』の一を改訂し、明治8年(1875)に出版されました。『草図説』の版にローマ字で学名と科名を付けて再版したものです。編集は、博物館の父と言われる川中芳男(里中芳生)(1838~1916)と植物学者の小野職愨(野田基善) (1838 ~90)です。この2名は、朝ドラ「らんまん」で、はじめて上京した富太郎(万太郎)が意気投合し、わが朋(とも)と呼んで抱き合った植物学者です。『植物学』は、イギリス人のジョン・リンドレー(1799~1865)が書いた植物の解説書です。もとは英語ですが、清国(中国)の李善欄(1810~82)らが漢文とし、清国の咸豊8年(1858)に発刊されました。日本では幕未の慶応3年(1867)に『翻刻植物学』として発刊されています。全8巻で、植物の構造について図入りで詳しく述べられています。さらに植物や分類方法も書かれています。現代の植物研究で使われることばの多くが、本書を参考にしており、牧野富太郎も、日本値物学の糸口になったものとほめたたえたそうです。足利学校には、足利藩校の求道館から伝わった『翻知植物学』の版木が全55枚遺され、足利市の重要文化財に指定されています。幕末から昭和時代を生きた牧野富太郎は、植物に関するさまざまな本を学び、どん欲に知職を吸収して実践に活かしました。未知のものに対する強い関心とそれを解明しようとする努力は、現代に生きる私たちのよき手本であると思います。※( )内は、朝ドラ上の名前です。」『草木図説』安政3年(1856)刊(筆彩)飯沼長順(慾斎)著」易学を標榜する「天文図」とその前に「孔子像」。「天文図拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。」「釋奠」の儀式で使用する祭器。奥にある部屋・書院を見たが、立入禁止となっているのでここまで。「北庭園」を見る。「Ⅶ.足利学校の釋奠(せきてん)釋奠とは、孔子とその門弟を祀る儀式のことをいい、その歴史」は、古代中国にまでさかのぼります。足礼学校では、『足利学校記録』などの史料によると、毎月1日と1 5日に釋奠の略式である釋菜を孔子廟でおこなっていました。廃校なった後も、途中とぎれはしたものの、釋奠は行なわれました。現在では、毎年1 1月23日に孔子廟で執り行われています。儀式て使用する祭器は、古いもので江戸時代のものもあります。」主屋の裏手に小さな建造物があった。その一つが「木小屋」。「木小屋木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。(宝暦年間の姿に復原)」そして「土蔵」。「土蔵土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。(宝暦年間の姿に復原)」先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画が。中央が「第18代 青郊(せいこう)武蔵八王子 18年」 の墓石。「庠主(学長)の墓所足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた功績は大きい。庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、残りの9基は不明である。判明している基は次のとおりです。 世代 ・ 名 ・ 出身地 ・ 在籍期間 ・ 墓石の位置(右から)--------------------------------------------------------------------------------第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利 36年 (10番目)第15代 天叔(てんしゅく) 京 15年 (6番目)第16代 月江(げっこう) 武蔵八王子 31年 (12番目)第17代 千渓(せんけい) 下野足利 33年 (14番目)第18代 青郊(せいこう) 武蔵八王子 18年 (2番目)第19代 実巌(じつがん) 周防 19年 (3番目)第21代 太嶺(たいれい) 越後 21年 (9番目)第22代 松齢(しょうれい) 美濃 15年 (4番目)「庠主(しょうしゅ)のお墓ここにある庠主のお墓を無縫塔といいます.毎年3月には足利市内小中学校の新任または退任される校長先生がお参りにいらっしゃいます。史跡内は火気厳禁のため、お線香を上げることは出来ません。※庠主:現在の校長先生のこと。」「庠主の墓所」の前には同じように「元足利学校代官 茂木家累代の墓」があった。「元足利学校代官 茂木家累代の墓」。この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家のようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも知れません。足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのであろう。紅葉シーズンにも訪ねたいのであった。「学校門」に向かって戻る。そして竹林の中には大きな「井戸」があった。そして「史跡足利学校」を後にして、徒歩にて「太平記館」駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.26
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そして「孔子像」の前を通り抜けると、前方に深い緑に包まれて佇む「学校門」が見えて来た。「学校門」寛文八(一六六八)年の創建。足利学校のシンボルとして現代へ継承されていると。扁額「學校」。「学校門日本で唯一の「學校」の額がかけられた門です。寛文八年(一六六八)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継がれてきました。「学校」という言葉は儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉です。扁額「學校」は明の書家将竜渓(しょうりゅうけい)の書を江戸国士舘助教授の狛高庸(こまたかやす)が縮小したものです。」私たちが普段使う「学校」と言う言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉であるとのこと。知らず知らずの内に私たちの側にも儒学の1つが入っている事が分かるのであった。そして「学校門」を潜ると左側にあったのが「旧遺跡図書館」。「足利氏重要文化財 旧足利学校遺跡図書館(付属施設を含む)付新築竣工図この建物は、大正四年八月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で、基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。和風の屋根、洋風の外壁・内装など和様折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井などの造りや、飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建造物として貴重な存在です。足利学校保全事業の一環として平成六年度県の「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修しました。 足利市重要文化財(建造物) 平成六年三月二十二日指定 平成八年二月一日 (財)足利市民文化財団 足利市教育委員会」エントランスの右側が図書館の「来賓室」。「旧足利学校遺蹟図書館来賓室足利学校遺蹟図書館は、貴重な書籍の閲覧や来客接待等の場所として大正4年(1915)に建築されたものです。玄関を入って右側にあるこの部屋は、来賓室で接客用として使用されていました。周囲の壁は、腰あたりの高さまでを網代敷きで和風とし、その上は漆喰仕上げの後和紙を貼り、縦長の上げ下げ窓を等間隔に配置するなど和洋折衷としています。天井は約4.5mと高く、周囲に文様を施し高級感あふれる天井としています。全体的に、和風と洋風とが融合した大正時代建築の様相を良好に示しています。」左側が閲覧室のようで、今日は上杉憲実の生涯と題した展示が行われているのですが、写真はここまでですので後は雰囲気だけ。ここにこの足利学校に訪れた100名位の有名人リストが。室町時代から大正までの著名人ですから殆ど名前を聞いたことの無い人々ですが、幾人かピックアップしてみます。最も古い記録なのが、永正6年(1509)、宗長という人で連歌師だそうです。その後、寛永13年(1636):徳川義直 尾張藩主、承応2年(1653):林羅山 儒学者、天保2年(1831):渡辺崋山 画家、嘉永5年(1852):吉田松陰 志士、明治30年(1897):近衛篤麿 政治家、明治39年(1906);東郷平八郎 海軍軍人、明治41年(1908):大隈重信 政治家、徳富蘇峰 評論家、明治43年(1910):渋沢栄一 実業家、黒田清輝 洋画家、井上馨 政治家、明治45年(1912):乃木希典 陸軍大将、大正2年(1913):嘉納治五郎 講道館館長、大正4年(1915):新渡戸稲造 教育家、大正13年(1924):加藤高明 政治家、などなどで、そうそうたる人々が訪れているのだ。特に学問として名高い施設ですから、これだけ著名な人々が訪れるのももっともなこと。図書館を出ると目の前に大きな樹木があった。「ナンバンハゼ」の木だとのこと。「とちぎ 名木百選 足利学校跡のナンバンハゼ栃木県指定天然記念物櫂(かい)(櫂樹(かいじゅ))≪ナンバンハゼ≫ともいいます。大正4年(1915)に、孔子のお墓がある孔林(中国・山東省曲阜)から、初めて日本に種子がもたらされました。成長した株は、多久聖廟(佐賀県)、湯島聖堂(東京都)など、儒学ゆかりの地に植えられました。足利学校にある櫂の木は、大正11年(1922)に植えられたものです。」「栃木県指定天然記念物 ナンバンハゼ(櫂樹)一本この木は日本、特に東日本には自生しない珍しい木であり、別称「孔子の木」「楷」「トネリバハゼノキ」などがあるが、学名を「ピスタシア・シネンシズ」といってウルシ科に属する落葉樹である。現在目通りの太さ三.〇メートル、雌木だけであるから花は咲くが実は結ばない。寄贈者 白澤保美 林学博士年月日 大正十一年三月七日昭和三十一年六月一五日 栃木県指定 足利市教育委員会」「学問の神様 足利学校稲荷社 学業成就」の案内板がここにも。その先にあったのが「孔子廟」の門の「杏壇門」。孔子廟境内は白壁の築地塀で囲まれていた。「杏壇門」に近づいて。「杏壇門」の手前右手にあったのが「字降松(かなふりまつ)」。「字降松足利学校の七世庠主(校長)玉崗和尚は自ら九華老人と称したが、そのころ廟の前に一本の松があった。学生がよめない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを枝につけておくと和尚が見てふり仮名や注釈をつけてくれたので、誰れいうことなく字降松と呼ぶようになり、遂には町の人々までこの松に教えを受けたという。当時学問を志して足利学校に学んだ学生と訓導(先生)との交流を、いみじくも伝えた心温まる足利の伝説である。足利市」扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。2020年に「大成殿」の「平成・令和の大修理」が完了した。大成殿は1668年の創建以来、一度も火災や空襲などの被害に遭っておらず、現存する国内最古の孔子廟(びょう)。「大成殿」の様式は中国明代の聖廟を模したものと伝えられている。間口12.7m 奥行10.9m 建坪138.6平方メートル(42坪)「入徳門」「学校門」「杏壇門」「孔子廟」は国の史跡指定に含まれている。「大成殿」の屋根の鯱をズームして。扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王(そんちょうほっしんのう:1802~1852)の書。左右に「花頭窓(かとうまど)」花頭窓は、窓の形状による名称のひとつで、上部が尖頭アーチ状の窓のこと。花頭窓は、華頭、火頭、花灯、華灯、火灯、瓦灯、架灯などとも書かれる。花頭窓は、禅宗寺院の建築とともに中国から伝わり、唐様(からよう)建築に多く用いられている。「孔子廟孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。大成殿は、寛文8年(1668)に建てられました。正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁像、左に徳川家康の神位などを安置しています。杏壇門は、明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて5年後に再建されました。この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠(せきてん)という儀式が毎年行われます。」大成殿中央の「孔子座像」。ズームして。「県指定文化財 木像 孔子坐像寄木造 玉眼嵌入 室町時代 天文4年(1535)頭巾をかぶり、儒服を着けた像です。弟子たちの教育にあたるこの姿は「行教像」といわれます。像の背中と底の内部の内側の部分に墨書きの文字があり、当時の足利荘の代官長尾憲長など造像に関わった人の名や、当時の学校の様子が記されています。日本最古の孔子の彫像として、また、足利学校の歴史を語る資料としてたいへん貴重です。「文化財保護のため、孔子坐像は複製を展示しております。」「小野篁公(おののたかむらこう)像 」。 「孔子廟」は古くから「足利学校は小野篁の創建なり…」と伝えられるので創始者としてまつったとされているとのこと。「市指定文化財 木像 小野篁公像寄木造 玉眼嵌入 江戸時代中期 延享3年(1746)小野篁(802から852)は、平安時代の公家・歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人です。足利学校では江戸時代に、小野篁を創健者とする説がとられていました。本像の制作にあたり、小野篁の子孫という江戸時代の儒官人見活(号雪江)(1687から1759)が、金一封を学校に寄進したことが『足利学校記録』 (延享3年【1746】8月19日条)に記されています。」境内の「西階の不断梅」。花が散って実がなり、普通の実が黄色く熟して落ちる頃になっても青いまま木になっている、まさに「落ちない梅」なのだと。「海軍大将 東郷平八郎」の植えた「月桂樹」。こちらは「海軍中将 上村彦之丞手植」、「元帥 海軍大将 伊東祐亨手植」と。そして「孔子廟」を後にして「方丈」へ。「方丈」の向かい右側に「南庭園」。「南庭園足利学校には、方丈の北と南それぞれに池の庭があります。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水庭です。この庭は、湧き水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰をもつ築山は比較的高く、池の水面から3メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって修復しました。この整備の資料として用いた絵図は、精密で色彩も美しいものであり、庭の築山やそれぞれ植木などは絵図により復原したものです。(江戸時代中期の姿に復原)」「南庭園」の池の花菖蒲。孔子廟の東側にあった「方丈」を振り返る。「方丈」は寄棟造りで、屋根は茅葺きとなっています。内部を見学する事ができ、仏殿の間や尊牌の間があり、徳川家康を初めとする、歴代徳川将軍の位牌が安置されていた。梁間(はりま)11m、桁行(けたゆき)17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8m。また地上から大棟(おおむね)までの高さは13.8mと。方丈の入口には立派な唐破風、本瓦葺きの玄関があり、茅葺きの大きな屋根とマッチしていた。現在、ここからは入れなかったが、昔はここが玄関であったのだろう。一番東側にあったのが「衆寮」。「衆寮衆寮は、僧房または学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。桁行8間、梁間2間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は、6畳の間に、1間の土間がついて一部屋になります。それが四部屋続く長屋となっています。(宝暦年間の姿に復原)」衆寮は当時の学生寮として使われた。長屋の如き建物となっていたのであった。近くにあったのが「上杉憲実公碑」。「足利学校中興の祖」として平成2年(1990)中興550年祭を挙行し碑を建立したと。「裏門」を外側から(前回訪ねた時の写真)。奥には「方丈」の姿が見えた。学生や一般の人の通用門として使用されていたのだと。「裏門足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門が、この裏門でした。学校の裏に位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかにではありません。間口8尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。(宝暦年間の姿に復原)」。そして「方丈」への現在の入口まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.25
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昼食後、「足利学校跡」に向かって進むと「国宝 鑁阿寺(ばんなじ)」案内が。「大日大門通り」の先に以前訪ねた「鑁阿寺」👈リンクの「楼門(山門)」が見えたがこの日は訪ねることは出来なかった。「史跡足利学跡」に向かって進む。足利石畳通りの店頭に「足利のお土産」。珍しい色彩のガクアジサイ。「ここは足利市昌平町孔子のふるさと 昌平郷」と。孔子の生まれたとされる魯の国の昌平郷鄹邑、現在の山東省曲阜に、孔子の死後1年目に魯の哀公が孔子の旧宅を廟にしたとされ、そこに孔子廟が作られたのがそもそもの始まりであった と。「昌平郷」。灯籠なのであろうか。儒教の五徳の文字が。儒教には、人が常時守るべき5つの項目があり、この五徳を拡充していくことにより、人の道を全うすることが出来ると説いている。この5つの項目が、 「仁・義・礼・智・信」。 それぞれの意味は下記の通り。・ 仁 仁義、真実、誠。人を思いやり、優しさをもって接し、己の欲望を抑えて 慈悲の心で万人を愛す。・ 義 義理 筋。私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分の なすべきことをする、正しい生き方。・ 礼 礼儀。人間社会において、親子、夫婦、君臣、目上などの、社会秩序を 円滑に維持するために必要な礼儀作法。・ 智 智徳。学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。・ 信 確信。信頼、信用、正直など。約束を守り、常に誠実であること。ここでは「仁」、「信」、「義」の文字が確認できたが。70年以上慣れ親しんだ「仁」。そして、我が戒名にも!?。足利学校は、足利市「昌平町」にある名所旧跡。案内標識「心のみちしるべ」。「子曰、温故而知新、可以為師矣」と。『子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師と為るべし。』【孔子先生はおっしゃいました。昔の学問を究めそれらを基礎として、新しい道理を発明して、 今日の実際の役に立つように心がければ、始めて人の師となることができる】と。「史跡 足利學校跡」碑。「~生涯学習の時代~「自学自習」の精神を今に伝える教育の原点(日本最古の学校)足利学校の歴史足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説等がありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(しょうしゅ 学長)制度を設ける等して学校を再興したころからです。天文十八(一五四九)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。江戸時代になると、貴重で良質な漢籍を有する文庫として、多くの文人や学者を受け入れました。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治時代の初めに幕をおろしましたが、足利学校の自学自習の精神は現在に引き継がれています。昭和五十七年より「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成二年江戸中期の姿に甦りました。平成二十七年には、水戸弘道館、備前閑谷(しずたに)学校、日田咸宜園(かんぎえん)とともに「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定され、更に世界遺産を目指して取組んでいます。また、生涯学習の拠点として、論語素読体験等の各種事業を行っています。」と頂いたパンフレットより。「日本遺産 足利学校近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー平成27年度認定」「下記の日本遺産のロゴマークは日本を象徴する日の丸の下には、格子状のデザインが施されています。実はこの部分には「Japan Heritage(日本遺産)」と書かれており、点在する日本の文化遺産が、ストーリーによって線でつながり、さらに面となってその魅力を世界へ伝えていく、という意味が込められているそうです。まさに日本遺産が理想とする「面で日本をアピールする」という意図にぴったりのロゴマークではないでしょうか。線が入り組み、繊細に文字を形作っているというところも、日本の繊細な文化を象徴しているように見えます。」とネットから。「史跡 足利学校」マップ。そして正面に「入徳門」が。足利学校の入口にあるのが、この「入徳門」。「入徳門」は、足利学校に入る最初の門で「入徳」とは、「徳に入る」という意味で道徳心を習得する所、つまり学校に入るという意味になる と。 「入徳」の扁額は、天保11(1840)年に掲げられたもの、紀州徳川家第十一代藩主徳川斉順公の書。1831年に鑁阿寺の安養院の火災より焼失、1840年に修築され、現在の建物は「裏門」を移築したものといわれている。「日本遺産 近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ーストーリー(概要) Summary of Story我が国では、近代教育制度の導入前から、支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ、礼儀正しさを身に付けるなど、高い教育水準を示した。これは、藩校や郷学、私塾など、様々な階層を対象とした学校の普及による影響が大きく、明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれている。」右手の「受付」で「入学チケット」を購入。「参観料」は大人420円、高校生210円で、中学生以下は無料ってのがいかにも学校らしいし良心的!頂いたパンフレットの表紙。左側には「足利學校隠寮」と。ここでは足利学校についてのビデオが見られるのであった。奥には「史跡足利学校」のジオラマが展示されていた。足利学校の歴史が学べるのであった。「参観記念スタンプ」置き場。「足利学校入学証」と「學生証」を頂きました。「入学記念スタンプ」も頂きました。御朱印も頂きました。「史跡足利学校跡復元の碑史跡の復原は市民の願いであり 夢であった 指定地の東部分はかって東小学校となっていたが関係者の理解を得て移転したこれを機に整備構想を策定し 発掘調査や文献資料の調査検討を進め江戸中期宝暦年間の姿に復元工事設計をまとめることができた事業の推進には文化庁を始め 多くの関係機関の協力を得 方丈等建物七棟 庭園二箇所 土塁堀などの復原を主とした東部分の整備事業は十年の歳月を要しここに完成した」左手には「孔子立像」があった。足利学校の学問は儒学が中心であり、儒学の祖の孔子立像が学校門手前にあるというのも納得。台座には「至聖先師孔子像」と。その手前・「龍階石」には「昇り龍」が刻まれていた。2018年に訪ねた「中国・故宮(紫禁城)」👈リンク にも「雲龍階石」があったが。近づいて。製作は、足利氏の友好都市である中国・済寧市の人民政府に依頼したとのこと。嘉祥県武氏祠にある石彫工芸研究所で、同県産の天青石を用いて造られた。像の前にある龍階石と獅子の彫り物一対も、中国で造られたものとのこと。さらに。台座を含めると約4mもの高さに及ぶ「至聖先師孔子像」。温かいまなざしで迎えてくれたのであった。「獅子」左。「獅子」右。中国の御物らしく、「獅子」は阿吽ではなく、二匹とも口を開けていたのであった。その先、左にあったのが「稲荷社」。石鳥居、朱の鳥居が2基続けて並んでいた。朱の鳥居の扁額「正一位霊験稲荷社」。その先に社殿が。「正一位霊験稲荷社足利学校第七世庠主玉崗瑞(しょうしゅぎょっこうずいよ 九華(きゅうか))は天文ニ十三(一五五四)年九月、足利学校の鎮守である稲荷大明神の社殿を再建し、八幡大菩薩を合祀したとあることから、創建はこれよりさかのぼる。霊験あらたかで、江戸時代には足利の町をはじめ多くの人々の信仰をあつめた。伝えによれば、稲荷社の狐が異変を知らせてくれたことから、大切にされ、十一月には御供小豆飯(おそなえあずきめし)をわらにのせ、狐穴に供えたという。明和七(一七七〇)年第十六世庠主千渓元泉(せんけいげんせん)が、稲荷大明神を改め、正一位霊験稲荷社とした。参道左右の石灯籠は、元文ニ(一七三七)年と明治四〇(一九〇七)年、水屋の手水鉢は天明七(一七八七)年に、神前にある佐野天明鋳物の灯籠は、安政四(一八五七)年に寄進されたものである。もとは遺蹟図書館付近にあったが、天神などの諸神を合祀し、明治四十ニ(一九〇九)年に現在地に移された。現在は、学業成就の神として信仰されている。 令和ニ年三月吉日」正面に「正一位霊験稲荷社」の社殿。「稲荷社遷宮紀念之碑維時明治四十三年歳庚戌六月建之」。「内陣」。ズームして。社殿前から境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.24
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そして最初に訪ねたのが「栃木県道7号 & 西産業道路」沿いにあった「日本酒醸造所」の「第一酒造」。栃木県佐野市田島町488。古くから酒造りの町として知られているこの佐野市田島町で、創業延宝元年(1673年)と約350年の歴史を持つ、県内最古の蔵元であると。入口門の軒下に茶色い大きな「杉玉」が吊り下がっていた。貯蔵用の原酒やブレンド酒など、通常販売にない酒蔵ならではの蔵元限定酒を、店頭にてタンクから直接瓶詰め「量り売り」をしているとのこと。6月の量り売り開華 梅雨の田植え酒 ~純米吟醸 原酒 美山錦~「美山錦」100%使用の純米吟醸原酒。梨を主体に、メロンやリンゴ等が複雑に織りなす香味が楽しめます と。【開催日】6月10日(土)、11日(日)、24日(土)、25日(日)とのこと。杉玉はおおむね2月~3月に飾られ始めると。この時期と言えば新酒の季節。つまり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ!」という目印なのだ。しかし、最初の内の杉玉は茶色ではなく本来の緑色をしている。そして季節が過ぎ夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなる。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から旬の日本酒が何なのかを知ることができるのだと。緑色(2月~6月ごろ)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえる。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づく、というのはなんとも風情があるのであった。店内に入る。様々な「開華」ブランドの日本酒が並んでいた。平成10年より北関東3県では初めて全商品が特定名称酒に移行した と。日本酒全体の中で特定名称酒は約30%ですが、開華では100%であるとのこと。江戸時代、佐野の酒は渡良瀬川から利根川への河川流通によって「地廻りもの」として江戸へ運ばれ、関東の酒処として栄えた。現在でも江戸東京博物館で当時の様子が見られるのだと。長年にわたって愛飲いただいている地元の愛飲家の皆様が、どんな開華を呑んでも、美味しいお酒で楽しんでいただけるようにとの想いから、平成10年より全商品を特定名称酒(吟醸酒、純米酒、本醸造など)としたのだと。 香港向け輸出(平成5年)に始まり、現在では北米、欧州、香港、韓国、台湾、シンガポールなどの各国へ輸出されていますが、栃木県内への出荷が全出荷の約8割を占めていると。「特定名称酒」基本的に日本酒は「特定名称酒」と「普通酒」に分けられる。「特定名称酒」になるためには次の条件を満たしている必要がある。米、米麹、醸造アルコール以外の原料を使用せず、また醸造アルコールの使用量は 白米重量の10%以下であること3等以上に格付けされた玄米、またはそれに相当する玄米を精米して使用していること米麹の使用割合が15%以上であること精米歩合について、吟醸酒は60%以下、大吟醸酒は50%以下でなければ名乗れないという決まりがあるのだ。(※1)精米歩合とは、米の精米の程度を表したもの。数値が低いほど、雑味等の原因となる米の 外側部分を多く削っている。(※2)醸造アルコールとは、おもにサトウキビを原料として醸造・蒸留された食用アルコールで、 添加することにより軽快な味わいと華やかな香りが引き出される。 醸造アルコールを使用していないものが、「純米・・酒」である。(※3)吟醸造りとは、低温でゆっくりと発酵させ、特有の華やかな香り(吟醸香)を持つように 醸造すること。そして、上記のような定められた基準に該当しなかったものが「普通酒」となる。「特定名称酒」は法律に定められているが、「普通酒」は通称であり、正式な用語というわけではない。「一般酒」と表記される場合もある と。そして300円を払い試飲用自販機で6種類の日本酒を楽しんだのであった。1合ほどは楽しんだであろうか。売店の奥には酒蔵工場が。ここは工場見学の予約がないと入れないようであった。ズームして。とちぎ地酒「開華」と。仕込み用の琺瑯タンクが。6棟が国の登録有形文化財(建造物)に指定されている と。大きな酒徳利が並んでいた。そしてバスに戻り次の昼食会場に向かった。山の斜面に白い文字が。「大小」と。大小山は足利市の東部に位置する。低山ながら高展望の山として、地元ではなじみのある山である。崖に「大」「小」という大きな文字が掛けられている。シンボルと言える『大小』の文字板は、大小山麓の阿夫利神社(あぶりじんじゃ)に祭られている『大天狗』『小天狗』にちなみ、江戸末期の安政2年(1855年)、無病息災を祈願する周辺住民の手により掲げられたそうだ。現在のものはステンレス製文字板を用いた、一文字7メートル四方、総重量1トン強にもなると。大きい方のピーク(妙義山)の山頂は狭いが、360度の展望は素晴らしいとのこと。ヤクルトのコマーシャルポスター。「目標はまだ先にある。 プロ野球選手 村上宗隆」と。「足利学校跡」・周囲の堀を車窓から。藁葺き屋根の「方丈」が見えた。観光案内所「太平記館」の駐車場にバスが駐まり、昼食会場に徒歩で向かう。この後に訪ねた「日本一の藤のガーデン あしかがフラワーパーク」案内板。巨大な藤棚の写真をズームして。観光案内所「太平記館(たいへいきかん)」。太平記館では、足利のお土産品を多数揃えていた。また、館内には観光情報インフォメーションや喫茶コーナー、休憩スペースなどもあった。レンタサイクル(電動アシスト付有)の貸し出しも行っているようであった。そして5分ほど歩き昼食会場の「めん割烹 なか川」に到着。「「ここが私の出発点・・・大日大門通りと相田みつを」史跡足利学校(日本遺産)から日本100名城でもある鑁阿寺(国宝)を結ぶ大日大門通りは、書家「相田みつを」が「なか川」に通うために歩いていた道としても有名です。昭和20年代初頭、若き日の相田みつを作品を最初に購入した人物となる初代なか川女将が「今度から作品が出来る度にもってらっしゃい」とかけた言葉をきっかけに、代表作「人間だもの」をはじめとする数多くの作品が約50年近くにも渡りなか川に持ち込まれます。最後に訪れた際には「ここが私の出発点・・・」という言葉も残しています。」「生涯筆一筋 足利が生んだ孤高の書家相田みつを(あいだ みつを・1924~1991)相田みつを(本名光男)は、1924年(大正13年) 5月20日に足利市に生まれました。1942年(昭和17年)旧制栃木県立足利中学校を卒業し、歌人・山下陸奥に師事し、歌誌「一路」に参加しました。秋の歌会で生涯の師、曹洞宗高福寺の禅僧・武井晢應老師と出会い、在家のまま師事し、「正法眼蔵」を生涯学びました。1943年(昭和18年)、1 9歳の時には、書家・岩沢渓石に師事しました。1950年頃、旅館なか川(現・めん割烹なか川)の女将・中川光子に声を掛けてもらったことをきっかけに、旅館の看板、部屋札、著袋、ハンコ、マッチ箱のデサイン、さらにはろうけつ染めの座布団、御年賀用の手ぬぐいなど館のあらゆるもののデザインを任されました。このなか川での仕事をきっかけに、香雲堂本店や虎谷の包装紙のデザインを手掛けました。これらの作品は現在でも使用されています。1954年(昭和29年)、30歳で結婚しましたが、問借り生活の貧しい生活でした。しかし、みつをは副業を持たずに筆一本で生活することを貫きました。定収入があると筆に甘えが出てしまうという考えからでした。また、筆、墨、紙は一級品のものを使い、練習用や下書き用でも紙の質は落としませんでした。1954年(昭和29年)、第一回個展を足利市で開催し、以後、足利を中心に定期的に開催しました。また、この年、毎日書道展に入選し、1960年まで7回連続して入選しました。1984年「にんげんだもの」を出版し、後にミリオンセラーとなりました。1987年には「おかけさん」を、1990年(平成2年)には「一生感動一生青春」を出版しました。1991 (平成3年)年に「いのちいっぱい」を出版し、同年12月17日市内の病院で脳内出血のため亡くなりました。67歳でした。翌1992年には遺稿集「いちずに一本道いちずに一ツ事」を、1993年には遺作集「雨の日には・・・」を出版しました若くして病に倒れた広島カープの津田投手が「道」という詩を心の支えとしていたことや、阪神大震災の復興を目指す人々の精神的な支えになっていたエピソードがあるように、みつをの死後も人気は哀えることなく、1996年(平成8年) 9月には、東京・銀座に相田みつを美術館(館長・長男一人氏)が開館されました。 (監修:相田みつを美術館)」足利市のふるさと。足利尊氏の家紋「二つ引両」。そしてこの日の昼食相田みつを先生ゆかりの料理を当時のまま再現したと。先生がいつも食べていた想いで深い料理でもある『にしんの甘露煮』と一緒に、足利名物そば、天ぷらが一度に味わえる人気御膳 と。「ぅむぅ(σ・ε・。) 天ぬきって何??天ぬきがある蕎麦屋が「蕎麦屋文化」を知る店の証天ぷらそばで、そばの入っていないものを「天ぬき」といいます。日本酒を飲みながら天ぷらを食べ、残った汁でそばをつけて食べる・・・これが江戸時代で一番「粋」な食べ方でした。」生ビールをオーダーし『にしんの甘露煮』を楽しむ旅友。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.23
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そして左手前方に東名高速道路の「綾瀬スマートIC」が見えて来た。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。 有効なETCカードを所持し、所定の方法で取付・セットアップされたETC車載器を搭載した車両しか出入できないのである。「東名高速道路」を海老名JCTに向かって進む。「海老名JCT」から「圏央道(首都圏中央連絡自動車道)」へ。「海老名JCT」を車窓から。相模川越しに「厚木ガス 本社」のガスタンクが見えた。紅白に塗られた高圧線鉄塔の姿も。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」。ズームして。県道40号線・「相模大橋」とその隣に「あゆみ橋」👈リンク。相模川に架かる「圏央相模川橋」を渡り海老名市から厚木市に入る。「八王子JCT」手前を通過。左手奥に見えたのが「東京サマーランド」。ズームして。直径62mの大観覧車・「スターホイール」も見えた。「多摩川」を渡る。そして「狭山SA」にてトイレ休憩。売店を覗く。平日であったが車の数も多かった。この日の観光バス。「狭山日高IC」を通過。「菖蒲PA」横を通過。「白岡菖蒲IC」手前を通過。水田には水が張られ、田植えも行われていた。「久喜白岡JCT」で東北自動車道へ。「佐野藤岡IC」まで12km。「利根川橋」を渡る。「利根川」を渡り群馬県に入る。束の間の群馬県から「渡良瀬川」を渡り栃木県へ。「三毳山(みかもやま)」は、関東平野の北西端に位置し、南北約3.5 kmにわたって連なる細長い山である。最高峰は青竜ヶ岳と呼ばれ、標高は229 m。そして「佐野藤岡IC」で東北自動車道を下りる。佐野バイパスを進むと前方左手に見えて来たのが「佐野プレミアム・アウトレット」。栃木県佐野市越名町に所在するアウトレットモールである。2003年3月14日開業。三菱地所グループの三菱地所・サイモンが運営する。2003年3月14日開業。チェルシージャパン(現在の三菱地所・サイモン株式会社)のアウトレットモールとしては、御殿場プレミアム・アウトレット(PO)、りんくうプレミアム・アウトレットに次ぐ3番目の施設として開業した。PO事業は、佐野市出身の三菱地所専務(当時)島田勝久が、私的に米国を視察して、日本でも成功すると考えて進言し、誘致に積極的だった佐野市が関東第一号となった。佐野進出に当たっては、姉妹都市である米国ペンシルベニア州ランカスター市をモチーフとした。地域貢献として、名称は「佐野」を冠することや従業員は地元採用を優先することを掲げたほか、既存市街地の空洞化を避けるため、名物である佐野ラーメンはテナントにしない方針をとっているとウィキペディアより。さらに進むと「関東の三大師 佐野厄よけ大師」案内板が。栃木県佐野市にある関東三大師の一つ「佐野厄よけ大師」は、新年の厄よけ・方位よけを求めて、人々がこぞって訪れる名所。“春日岡(かすがおか)”とも呼ばれ、正式な名前は「春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかさんてんぽうりんいんそうしゅうかんじ)」。現在は通称の「佐野厄よけ大師」で有名になっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.22
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この日は6月7日(水)、今年も自治連合会の研修旅行で栃木県・足利市を訪ねて来ました。研修旅行と言っても、今年新規に自治会長・団体長に就任された方々との親睦が主目的。7:30に地元の小田急線の駅を出発する為に自宅を出て徒歩で向かう。途中、民家の庭には「カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)」の花が迎えてくれた。北アメリカ原産で、育てやすく、花の美しい園芸品種として導入された円錐形の花房が特徴のアジサイ。始め白い花が咲き、徐々にピンク、そして満開の頃は赤くなる品種もあるようだが、未だ見たことはないのであるが。深く切り込みの入った葉が、柏の葉っぱに似ているので「カシワバアジサイ」と呼ばれるのだ。そして地元の農家の畑に鎮座する小さな神社。社殿はなく石碑のみが。「白旗大明神」と。「白旗神社」の摂社なのであろうか?この日も道路脇の民家のアジサイを楽しみながら進む。ガクアジサイ。青そして紫に変化するアジサイ。黄色のユリの花。たわわに。白からピンクに変化。近づいて。地元のイチゴ園もランナーから次回用の苗を育てていた。外科医の入口にもアジサイが。植木鉢で育てられた様々な色のアジサイが並んでいた。そして定刻の7:30になり総勢22名で栃木県・足利市に向けてバスは出発。市民センターの事務局の方、そして観光バスの営業の方が見送ってくれました。国道467号を利用して湘南台方面に向かう。「湘南台大神線」を進む。左手に「リサイクルプラザ藤沢」を見る。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山を見る。ズームして。山頂付近の雪も残りわずかに。クリ(栗)の花も満開。とても特徴的な花なので一回見たらインパクトがあるので印象に残る花。栗の花には雌花と雄花があり実は写真に写っているのは雄花。白いクリーム色の花がたくさん咲いて遠くから見るとそれが一つの枝のように。また更に遠くからみても緑の中に白いクリーム色の花がさいているのでとても目立つのだ。雌花はこの穂花(雄花)の根元あたりにあってこちらが受粉して実が付くのである。この栗の花の匂いはよく言われますが、いい香りとは言えないのではないかと思います。独特なにおい!!でどう表現をしたらいいのか難しいのであるが・・・。左手にあったのが「綾瀬ふれあい大釜」。屋根付きの建物の下に巨大な鍋が鎮座。五右衛門風呂の如き異様な大きさ。「綾瀬ふれあい大釜一、容量・・・2160リットル(ドラム缶約12本分)一、寸法・・・内径1350mm一、深さ・・・1260mm一、重量・・・釜0.7トン 釜戸2.60トン一、材質・・・鋳鉄一、由来この大羽釜はまわし型という手法で型が鋳造されたもので、畜産をはじめ歴史ある綾瀬農業の発展を願い、市内畜産農家60名から寄せられた浄財をもとに、全国でニ番目の大きさを誇る大釜として、平成2年9月に完成したものです。同年10月のあやせ市民まつりにおいてこの大釜の名前を募集し農家の人々とのふれあいのシンボルとしての願いを込め「綾瀬ふれあい大釜」と命名されました。市氏まつりの日には、この大釜で綾瀬地場産の新鮮な豚肉や野菜をふんだんい使ったとん汁を作りまつりの名物として多くの人々に喜ばれました。」上空には海上自衛隊厚木航空基地から飛び立った飛行機が相模湾に向かって。海上自衛隊哨戒機P-3Cであっただろうか?前方に「綾瀬市役所」の建物が。「綾瀬市役所」入口。本庁舎を振り返る。 ・・・つづく・・・
2023.06.21
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「聖光寺」の「本堂」。蓼科湖周辺にあった中山開拓地の開拓民児童のために旧北山村時代に設置された茅野市立北山小学校蓼科分校(1963年閉校)跡地を転用して1970年、トヨタ自動車を始めとするトヨタグループが施主として建立した寺院である。同年7月9日に薬師寺より長老・橋本凝胤を迎え開眼法要を行った。「交通安全の祈願」「交通事故遭難者の慰霊」「負傷者の早期快復」を三大寺命としており、毎年7月の夏季大祭には必ずトヨタグループの首脳陣が集まり交通安全を祈願する。開 山 昭和45年(1970年)御 本 尊 救苦観世音菩薩(ぐくかんぜおんぼさつ)立像宗 派 法相宗(大本山 薬師寺)三大寺命 交通安全の祈願 交通事故犠牲者の供養 交通事故負傷者の早期社会復帰の祈願本堂の重層の屋根は錣葺(しころぶき)入母屋造に鴟尾(しび)がのる。二重の軒反(のきぞ)りのゆるやかな曲線が美しい。二層目の工夫されたデザインの高欄がキュッと引き締まった感じを与えており、全体のバランスに貢献している。また、正面の柱と桁で区画された方形は中央が正方形に近く、両端は柱間が短くなって下回りの安定感を増している。「本堂」の「鴟尾(しび)」。「本堂」の扁額は「大?通」と。ガラス越しに内陣を見る。写真右側に御本尊「救苦観世音菩薩立像」。御本尊「救苦観世音菩薩立像」。寺務所隣に「不動明王像」。近づいて。「寺務所」。「御朱印」を頂きました。奉納殿奥にある「道場」をネットから。桜並木に中にある「茶室」をネットから。「本堂」前から境内参道を見る。「奉納殿」を廻り込んで。「蓼科山」の扁額が。「奉納殿」では「杉江みどり切り絵展『余韻』2023年4月18日(火) ~ 5月6日(土)10時~16時(無料)」が開催されていた。「茅野市蓼科の聖光寺奉納殿で、人形浄瑠璃文楽をテーマにした切り絵作家杉江みどりさん(64)=大阪府=の個展「余韻」が開かれている。諏訪にゆかりのある八重垣姫など、繊細でシャープな切り絵17点が来場者の視線を集めている。展示作品は「ハ重垣姫乱舞」(本朝廿四孝)、「お三輪回想」(妹背山婦女庭訓)、「静と忠信」(義経千本桜)、「天満屋」(曽根崎心中)など。トレーシングペーパーに下絵を写し、胡粉染めの黒和紙に重ね、その上から切り出す。B1判の大作もあり、登場人物の心情が伝わるような躍動的な場面が目を引く。もう一つのテーマの猫の切り絵も並ぶ。」との新聞記事をネットから。もう一つのテーマの「ネコの切り絵」。「逆櫓 ーひらかな盛衰記ー」。「知盛 ー義経千本桜ー」。「丞和名残 ー菅原伝授手習鑑ー」。「勘助住家 ー本朝廿四考ー」。「十種香 ー本朝廿四考ー」。「八重垣乱舞 ー本朝廿四考ー」。「お三輪回想 ー妹背山婦女庭訓ー」。「八重垣姫」か?ズームして。「静と忠信 ー義経千本桜ー」。ズームして。「岡崎 ー伊賀越道中双六ー」。ズームして。「心中宵庚申」。ズームして。「天満屋 ー曽根崎心中ー」。ズームして。「二人三番叟」。「お七 ー伊達娘恋緋鹿子ー」。「文楽歌留多」。展示風景。「???」。展示風景。「杉江みどり切り絵展『余韻』」の鑑賞を終え、バスに戻る為に参道を引き返す。1週間前には・・・。ネットから。「廻逈功徳観音像」が左手奥に。そしてバスは県道192号線・ビーナスラインを中央高速道路・諏訪南ICに向かって進む。左手にはゴルフ場「蓼科高原カントリークラブ」。「八ヶ岳エコーライン」から「八ヶ岳」の山々を見る。ズームして。左手に「天狗岳」。中央に「赤岳」、その後ろに「横岳」。諏訪南ICから中央高速道路に入り、右から「赤岳」、「天狗岳」、左に「蓼科山」。富士山の山頂が姿を現した。中央自動車道から甲府盆地を見る。「談合坂PA」にてトイレ休憩。もっと混んでいると思っていたが・・・。「圏央道」を厚木方面へ。「相模原愛川IC」を通過。「海老名」の町並みを見る。「海老名IC」にて「圏央道」を降りる。神奈川県道22号線にて新幹線下を通過。そして湘南台駅に到着し、この日の「甲斐・信州日帰りの旅」を終わったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.29
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「ビーナスライン」を「蓼科湖」に向かって下っていった。枝垂れ桜が満開出迎えてくれた。「蓼科高原」、「北八ヶ岳ロープウェイ」案内板もあった。左側にあったのが「リゾートホテル蓼科」その先に「ヤマザキショップリゾートホテル蓼科店」。そして左手に「蓼科湖(たてしなこ)」が姿を現した。「蓼科湖」は、昭和27年5月、農業用温水ため池として、また観光のメッカとして誕生した人造湖。湖畔は白樺や落葉松の林にかこまれ、南側に立てば蓼科山の山容が湖面にくっきりと映し出されると。そして右手にあった「聖光寺(しょうこうじ)」駐車場に到着しバスを下車。「蓼科山聖光寺縁起蓼科山聖光寺は 交通安全 一路安穏を専一に祈祷する道場として 、昭和四十五年七月、トヨタ自動車販売株式会社及び関係会社の発願により、山紫明水山嶺神宿の地、蓼科の郷に創建された。本尊は救苦観世音菩薩の霊像にして 日本には稀有なる尊容を示し給い 左手に胡柳を捧持し 右手に花籠を提持し給う この尊体は遥かに天竺と中国を結ぶ天山北路の駅邑湧泉の郷の龕窟に祭祀されたる観世音菩薩なり タクラマカン沙漠を往来する求法僧をはじめキャラバン隊商たちの一路安穩・交通安全の祈りを千年にわたり 一身に受け給う 旅の安全を願うは人間の常なり境内に観世音菩薩の三十三身に化身し給いて慈悲を施し給う尊像を安置す奉斎せる薬師如来は密教蘊奥の浄利 ネパール国将来佛にして 三界所有の有情非情のすべてを安楽なさしめるために 七佛薬師放香報光四十四大願を発願し給い 身心健康の功徳を衆生に施し給う当寺は奈良薬師寺に千四百年の伝統ある唯識教学を伝承する一道場であり その教学は東洋的認識論を説き 世俗にあっては世情認識を正しく得るために正常な人格を養成する修行方法論なり親世音菩薩・薬師如来の脇待尊者として唯識教学を大成したアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)大士を祭祀し 両大士の完成し給うたる教学により衆生を純真寡悪の世界に導入あらんことを願う」「聖光寺」境内案内図。寺号標石「蓼科山 聖光寺」。「山門」の左前にあった石庭内にあったのは「毘沙門天」。「毘沙門天」をズームして。「観世音菩薩三十三應化身像‥‥‥‥・以下解読不能」正面に見事な「山門」。山門は平安時代の優美さを再現し、観音様の慈悲を示現給う應化身三十三身の中、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)、優姿塞身像(うばそくしんぞう)が山門に祀られていた。「山門」の扁額は「蓼科山」。「梵天」。「帝釈天」。「格子天井」と「一路安穏」と書かれた提灯が2個。「山門」を境内側から見る。「天大将軍身像」(左)。「優姿塞身像」(右)。「山門」の先にあったのが「旧灯籠」。近づいて。前方に「太鼓橋」。「修行僧」。左手に「放生池」。観世音菩薩の化身、三十三身があちこちに。「伽留羅」。「阿修羅」。「大自在天」。「旧灯籠」、「山門」を振り返る。「本堂」に向かって「太鼓橋」を渡って桜の参道を進む。標高1200mに咲くソメイヨシノの桜はピークは過ぎていたが。本州で最も遅い「ソメイヨシノ」が見られる桜の名所とのこと。1週間前の晴天であれば(ネットから)。この日の桜を見上げて。「本堂」に向かって。右手奥には「鐘楼」が見えた。正面に「灯籠」と「本堂」が。左手に「手水舎」。その先に藁葺き屋根の「奉納殿」。「鐘楼」。「鐘楼」の「軒廻り」をズームして。独特なデザインの「斗拱(ときょう)」。「斗栱」とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称。 基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されている。 斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称される。「梵鐘」。「灯籠」に近づいて。境内の「枝垂れ桜」も満開。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.28
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「横谷峡」の散策を終えて「横谷温泉旅館」まで戻る。「横谷温泉旅館」入口。我々のツアー「STEPトラベル様」の歓迎ボード。入口にあった湧水?の「水場」。フロントは奥のエスカレータで2階に上がって下さいと。生花に近づいて。エスカレーターから見下ろして。2階のロビーにも「水場」がった。「全館ご案内」。●最大収容人数:530名 と。山奥の旅館とは言えど、造りは旅館というよりも現代的なホテルといった感じ。こちらは増改築を繰り返しているであろう事を感じさせる、informationボード。●室数:80室 新館・仙峡亭 59室 (和室18畳16室/和室15畳20室/和室10畳15室/洋室ツイン8室) 本館・清流荘 21室 (和室9畳+9畳14室/和洋室9畳+ツインベッド7室)「フロント」。そして「大浴場」へ。源泉は湧き出した時には無色透明であるが、鉄分を多く含んでいるため空気にふれると、すぐに茶褐色に。鉄分が沈殿して黄金色の濁り湯となるのだ と。「横谷温泉旅館」には、渓流を臨む2つの露天風呂、渓谷を眺められる2つの内湯、さらに2つの貸切露天風呂があり、鉄分と炭酸ガスを多く含んだ自家源泉を堪能できるのであった。炭酸ガスが溶け込んだ温泉は、血液の循環がよくなり血圧を下げる効果があるといわれ、日本ではめずらしい泉質。また、含鉄泉のため酸素に触れると透明から茶褐色・黄金色に変化する温泉で、貧血や婦人病、神経痛、リウマチ、冷え性、アトピー性皮膚炎に効果があるといわれます。鉄分の多い茶褐色(黄金色)の温泉はややぬるめではありますが、湯上りのあともさめにくいと評判の天然温泉。なお、源泉温度が19℃と冷泉のため加温していると。加水等はおこなっていないとのこと。温泉浴槽の角にはライオンの姿も。「温泉の成分・禁忌症・適応症等」。「温泉」を楽しんだ後は、フロント前のソファで暫しの休憩。「土産物コーナー」を散策。そして「横谷温泉旅館」を」後にして「国道299号・メルヘン街道」を次の目的地の「蓼科湖」近くにある「聖光寺」を目指す。「県道192号線・ビーナスライン」に入り三つ星ホテル「B&B ノマの森」前を通過。ノマの森は 標高1,390m 長野県の蓼科高原のB&Bスタイルの宿。B&BはBed&Breakfastの略「一夜の休息と朝食」を意味すると。部屋は6つ、薪ストーブのあるラウンジ、別棟の貸切風呂のある小さな宿。この周辺の新緑の芽生えはこれから。洋食レストラン「the Switchback TATESHiNA」。北八ヶ岳ロープウェイ方面へ向かう途中、別荘地の蓼科ビレッジ一角に佇む薪窯料理店。長野県内の素材や高原野菜を薪窯で調理する、端まで美味しいピザをはじめとし、シンプルで素材の美味しさが際立つ野菜の窯焼きや蓼科牛Tボーンステーキなどが人気 と。車窓から「蓼科蕎麦・しもさか」入口の「枝垂れ桜」も満開。「ビーナスライン」を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.27
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「横谷渓谷」を右にみながら、横谷峡遊歩道を更に上って行った。横谷温泉から0.2km、乙女滝から0.6kmと。横谷峡入口にあった「横谷峡遊歩道案内図」を再び。新緑の芽生えもプロローグ。「横谷峡」は乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まで約3kmにわたってを横谷渓谷という。ここには、いくつかの滝や巨岩の名所があり、高さ50メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降の滝、一枚岩が赤渋をつけて約40メートルにつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られておりここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっているとのこと。至るところに小さな白い滝が。「霧降の滝」。落差はそれほどなく、横谷渓谷の他の滝に比べると地味である と。横から。落差は5mほどか。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃12月下旬~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」「屏風岩の氷瀑」。ズームして。手前には赤茶けた岩肌が。赤茶けたような川床の色は、水に含まれる鉄分が酸化した事による。渋川というだけあって非常に強い酸性があり、魚も住まないほど と。注連縄が飾られていた巨岩・「鷲岩・大岩の司」。巨岩の上にちょこんと石祠が鎮座し、 四隅にちゃんと渓谷に棲む「龍」が四つの願いを叶えたと伝えられる御柱があるのがこの地らしかったのであった。山の中にひっそりとたたずんでいる「炭焼窯の跡」。この近くに住居があったのであろうか。中をズームしたが・・・。この近くからは、川床の岩肌は更に赤茶けた色に染まって来ていた。ズームして。さらに。さらに進んで行った。川床全面に白き流れが拡がって。別の場所から。山の斜面には苔むした岩がゴロゴロと。巨木も岩の隙間に根を伸ばし、逞しく。この先に、「屏風岩」、「一枚岩」、「大滝」、「おしどり隠しの滝」があったが、時間が足りずここで引き返したのであった。「屏風岩」が奥に(ネットから)。賽の河原の如き沢山の石積。滑滝の如き「一枚岩」(ネットから)。「大滝」(ネットから)。「おしどり隠しの滝」(ネットから)。そして引き返しながら、赤茶けた川床上の白き流れを楽しみながらカメラで追ったのであった。再び「霧降の滝」をカメラで追う。木橋は壊れて通行不能。ズームして。ここを渡ると何処に行けたのであろうか。白き流れをひたすら追う。樹木の新緑、苔むした岩、キラキラと光る水面、渓流のせせらぎ、野鳥のさえずり…横谷峡はマイナスイオンに満ち溢れ、身も心も綺麗に洗われていくのであった。キラキラと光る水面を追う。マイナスイオンが皮膚で感じられるが如くに。急峻な岩肌には落石防止用の金属ネットが一面に施工されていた。そして「横谷温泉旅館」手前の「河鹿井戸」を再び。数筋の湧水が流れ落ちていた。その下に石仏が。そしてさらに赤茶けた川床と白き流れをひたすら追ったのであった。滝のマイナスイオンとは?滝や小川の近くなど水が激しくほとばしるところでは、マイナスイオンが多く発生する。というのも、元素にエネルギーが加わると不安定な状態となり、イオン化するから。 水が撥ねて急激に水滴が飛び散ると、大き目の水滴についてはプラス側に帯電して落下し、一方霧のように微粒化した極小の水の粒子はマイナス側に帯電するのだ。マイナスイオンはなぜ体にいいのか?マイナスイオンの体に良い作用とは… 血液を浄化させる作用がある。 血液中のガンマグロブリンを増やし、からだの抵抗力・免疫力を高めます。 細胞の新陳代謝を活発にし筋力の活性を高め、内臓を健康にするのだと。可憐なスミレの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.26
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