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【大和市の神社仏閣を巡る】目次真宗大谷派(京都 東本願寺派)の「聞稱寺(もんしょうじ)」に到着。大和市南林間6丁目9番11号。狭い参道を進んでい行く。正面に「親鸞聖人像」。お顔をズームで。掲示板。「精一杯咲くとどんな花も美しい」。残酷な現実だが、人もまた花である。 いつまでも若く美しく咲き続ける花はない。しかしだからこそ花は美しい。精一杯生きる人はやはり花のごとく美しい と最近しみじみと感じる自分がいるのだ。「本堂」浄土真宗大谷派妙香山聞称寺の支院として、平成22年2月に建立。「蓮如上人像」。お顔をズームで。小田急江ノ島線に向けて東に進む。「大和学園前」交差点角の「聖セシリア小学校・幼稚園」の校門。「大和学園前」交差点を渡った角にあった「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の校門。1929年 伊東静江により大和学園を創立。大和学園女学校開校。1930年 大和学園高等女学校に改称。1947年 大和学園中学校開校。1948年 大和学園高等女学校を大和学園女子高等学校と改称。1980年 聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校と改称。2013年 高等学校からの生徒募集を停止し、完全中高一貫校化。2020年 高等学校からの生徒募集を再開。 とウィキペディアより。交差点の名前「大和学園前」は歴史を残すためにそのままになっているのであろうか?更に進むと「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の脇門。そして小田急線の「中央林間4号踏切」を渡る。踏切を渡りながら「中央林間駅」方面を見る。「南林間駅」方面を見る。踏切を渡り左折し線路沿いの道を「中央林間駅」方面に進む。歩道には「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」のタイルが埋め込まれていた。「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」は深見神社境内にあった。「市の花 野ぎく」。「たぶの木」、「市の木 山さくら」。「天然記念物 けやき」。大津家の敷地内にあるケヤキ、特に目につく巨木(樹高25m、胸高周囲4.2m、樹齢約500年)。大和市の重要文化財(天然記念物)に指定され、「かながわの名木100選」にも選定されている。道路脇にあった「大和市の古地名」案内板。「大和という地名の起こりは、明治22年4月に下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村の4村が合併して鶴見村となったものの村名などについて紛糾し、明治24年9月に大和村と改名されたことに起因します。明治22年の市町村制の実施により、一般的には江戸時代の村名が大字となり、検地帳などに小名、一筆書きなどといわれた耕地名が小字となりました。しかし、市域では江戸時代にっくられた絵図がほとんどないことや、古くからの区画整理などの実施や近年の住居表示の実施などにより、しだいに小字が用いられなくなり、失われつつあります。聞き取り調査により地名やその他の名称を掘り起こしてみたのが右の図です。朱色が小字、黄色が地域に伝承された名称で、おおよその位置に示しています。大和市教育委員会」そして県道50号線・座間大和線下を潜る。そして150m程進むと右手角にあった「正一位伏見稲荷神社」。「稲荷大神の御神徳伏見稲荷大社は、今を遠く千ニ百七十余年の昔、稲荷大神が稲荷山の三ケ峯に御鎮座せられたのにはじまると、伝えられております。稲荷大神とは宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦木神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四之大神(しのおおかみ)の五柱を総称した御名であり、正一位稲荷五社大明神ともたたえられております。その御神徳は、世の人々からそれぞれの精神(こころ)、生命(いのち)、生活(くらし)生業(つとめ)、生産(つくり)の守護神として篤く信じられ、御神威は、心身健全、五穀豊穣、商売繁昌、福徳円満、交通安全等々に極めて著しいのであります。」朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」。「社殿」。近づいて。後にして振り返る。更に「中央林間駅」方面に進み右折し住宅街を右に折れ進む。汚水管マンホールの蓋大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。 そして「本道宣布会 皇神乃宮(はんどうせんぷかい すめかみのみや)」の一の鳥居に到着。直線的なデザインが特徴の「神明鳥居」大和市中央林間4丁目19-12。参道を進むと二の鳥居が現れた。木が鬱蒼としていたが、狛犬は無し。「境内」の「案内板」。「神明造」の「拝殿」。天照大御神をご神体とする神社。「拝殿」に近づいて。「中央林間東急スクエア」前の道を西に進む。そして「中央林間駅」東口のロータリーに到着。「大和の文化財 中央林間駅周辺」。昭和初期の林間都市林間都市は、スホーツ都市の機能を備えたものとして計画されました。クラブハウスを中心とした四面の野球グラウンドやテニスコート、ホッケー場、ラグビー場が整備されました。この企画運営には、雑誌「べースボール」の編集に携わっていた鷲沢與四ニ(衆議院議員)や田中清隆(画家)が参加しました。また、昭和初期の林間都市には吉井勇(歌人)、高木蒼梧(徘人・俳文学者)、唐木順三(文芸評論家)、龍瞻寺雄(作家)らが移り住んでいます。檀一雄作家 明治45年~昭和51年昭和26年に「真説石川五右衛門」で直木賞を、昭和51年の没後には、連作長篇「火宅の人」で読売文学賞と日本文学賞を受賞しています。昭和35年、檀の母とみは練馬区南田中の家ーー檀が昭和23年から25年まで住んでいた家ーーに、檀の長男太郎を預かっていました。ですが、太郎の通う玉川学園には遠かったことから、南田中の家を売却し、中央林間(一丁目)に家を購入、移り住みました。とみと太郎が暮らしたこの家を、檀もたいへん気に入り、よく友人たちゃ編集者を案内しては、夜おそくまでの酒宴をひらいたといいます。龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)作家 明治34年~平成4年昭和3年、雑誌「改造」創刊十周年記念の懸賞小説に「放浪時代」が当選。昭和初頭のモダンライフの反映ともいえるモダニズム文学流行の波に乗り、一躍文壇に登場。反プロレタリア文学を標傍する新興芸術派倶楽部の結成に奔走し、その中心的存在でした。また、シャボテンの栽培、研究で国際的に知られています。鷲沢興四ニに奨められ、昭和10年に中央林間(二丁目)に転居。滝山街道【古道】--------- 戦国時代の滝山城(八王子市)と玉縄城(鎌市)を短距離で結び、小田原北条氏の 領国支配上重要な道でした。巡見使道【古道】---------- 巡見使は将重の代替わりに府が派遣する調査団。天保9年、十ニ代将重家に就任の 際の巡見使が通ったといわれる。矢倉沢往遠【古道】--------- 江戸時代東海道の脇往還。港区青山なら、南足柄市矢沢一足柄峠へ至る。 大山道ともいい参詣に利用されました。「林間都市計画と小田急江ノ島線」小田原急行鉄道株式会社は、昭和2律に小田原線を開通、同4年には江ノ島線を開通しました。この鉄道建設と平行して江ノ島線沿いの約80万坪に、「林間都市」と称する都市計画がたてられ、「中央林間都市」・「南林間都市」として具体化されました。昭和16年、駅名にあった「都市」の文字がなくなり今日に至っています。都市デサインは、格子状の街路を基調とし、駅前広場を配置しています。現在も、当初のデザインは大さく改変されることなく残されています。「つきみの駅」周辺の遺跡。正面に東急東横線「中央林間駅」表示板「中央林間駅」2Fの「大阪王将」で腹こしらえ。「餃子」も。そして小田急線を利用してこの日の大和市散策を終え、「大和市の神社仏閣を巡る」を延べ3日間で完遂し帰宅の途についたのであった。この日の歩数は「23,411歩」であった。明日から再び「古都「鎌倉」を巡る」をアップさせていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・大和市 完・・・
2021.09.14
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「大和市郷土民家園」の「旧北島家主屋」そして「笹山稲荷大明神」を後にして、さらに「泉の森」を国道246号・大和厚木バイパス方面に歩を進める。そして正面に「国道246号・大和厚木バイパス」の「笹山高架橋」が現れた。手前には「上草柳第3地点東遺跡」案内板があった。「この説明板の後方の台地上には、旧石器時代を始めとして縄文時代・中世の遺跡が広がっています。現在、一般国道246号線が完成していますが、昭衵55年に発掘調査が実施され市域では数の少ない縄文時代中期の竪穴住居址3軒と多量の土器が発見されています。第2号住居址は径4.3 m程の不整形な六角形の平面形で、当時の地表面から40cm程掘り込み、関東ローム層を床にしています。屋根や柱等は腐ってなくなっていますが、深さ70cm程の柱穴が4箇所、石で丸く囲った中に深鉢形土器のロ縁部を利用した石囲埋甕炉1箇所が設けられました。また、食料の保存容器や盛る器である深鉢形土器・浅鉢形土器、狩猟具である石鏃、土掘り具である打製石斧、加工具である削器が出土しており、BC3,000 ~2,000年頃の縄文時代人の生活を彷彿とさせるものでした。 大和市教育委員会」「笹山高架橋」下を通過。写真の玉石は遺跡からの発掘物とは関係ないようであった。「泉の森」の「こもれび広場」に入り, 「山野草の小径」を往く。林の遠い所から各種の鳥の啼声が聞こえて来た。沿道の木々には名札がつけてあるのもあり、解りやすかったのであった。そしてその先右側には「野鳥観察デッキ」が設置されていた。「野鳥観察デッキ」は壁が設置され、観察場所だけが開口となっていた。この場所から観察できる野鳥の姿、説明が丁寧にされていた。そしてこの「野鳥観察デッキ」の下には「大池」の水面が確認できた。この「大池」の端部に「引地川」の水源の水が湧き出す場所があるとのことであった。「万葉集」・「丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)」の詠んだ三首の恋歌のうちのひとつ。「味酒(うまさけ)を 三輪(みわ)の祝(はふり)が いはふ杉 手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき」「祝(はふり)」は、神主、禰宜(ねぎ)に次ぐ身分の神官。「味酒(うまさけ)」は三輪にかかる枕詞で、「味酒三輪」はこの場合は奈良の三輪山と、三輪山を奉る大神神社のこと。「味酒の三輪の神官が奉る神杉にふれるようなことをした罰でしょうか。なかなかあなたに逢うことが出来ません。」と。杉林の中をさらに進む。「アセビの道」、「野鳥観察デッキ」、「山野草の小径」の案内表示版。「現在地」を後にして「アセビの道」方面に向かう。ここまで来ると人の姿は殆どなし。右手には「大和配水池(災害用指定配水池)」案内表示板。構造 鉄筋コンクリート造大きさ 51.4mX51.9mx高さ10.65m有効水深 8 . 0 m満水時水位 標高63.5m容量 20,000m3この配水池は、綾瀬浄水場から送られてきた水を貯えて、大和市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されております。」奥の広場の地下に20,000m3の水がコンクリート水槽に貯留されていると。そして右手に進むと「アセビの道」。「アセビ(馬酔木)」の白い花。枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含んでいる。馬が食べると酔って足がなえることから 「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして 「あせび」となった と。漢字の「馬酔木」もその由来による。そして「泉の森」を出て進むと、鶴間方面から相模大塚方面を繋ぐ道路に出た。「大和斎場入口」交差点を渡る。この道は昔「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」と呼ばれたらしい。「江戸青山(港区)から瀬田(渋谷区)・長津田(横浜市)・伊勢原(伊勢原市)を通過し、矢倉沢(南足柄市)に至る江戸時代の古道。大山街道・青山街道とも呼ばれていました。江戸時代には県内の東西を結ぶ、政治・経済上重要な街道でした。」「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」の矢倉沢(南足柄市)方面を見る。「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」碑の横にあったのが「西鶴寺」。大和市西鶴間8-10-9。「本堂」の扁額「西鶴寺」。「本堂」。日蓮宗の寺。そしてこの寺の横が広域大和斎場組合 「大和斎場」の入口。「大和斎場」。そして「西鶴寺前」バス停を通過し北東方面に進む。大和市西鶴間の「住居表示街区案内図」。ここは大和市西鶴間8丁目。名前の由来はかつて鶴が飛来したという「鶴舞の里」から と。「西鶴間八丁目」交差点で左折し住宅街を進む。左手に「こもれびの森 南鶴間自治会」と書かれた木柱があった。路端にはムラサキハナナ(紫花菜)が。別名「花大根」路肩や畑の空き地、土手などにも一面に咲いている青紫の美しい草花。伝説では蜀漢の軍師、諸葛 亮孔明がこよなく愛した花と言われているのだ。よって「諸葛菜(ショカツサイ)」と呼ばれるている花。さらに住宅街を進む。左手の並木の間は駐車スペースとなっていた。そして左手にあったのが「やまと防災パーク」。大和市は2019年3月10日、大和市南林間六丁目の農林水産省横浜防疫所大和圃場跡地(1.22㌶)に、防災機能を備えた公園としてこの「やまと防災パーク」を開園した と。「やまと防災パーク 案内図」<主な防災施設>1. 「防災四阿(あずまや)、防災パーゴラ、防災対応型複合遊具」 公園内を避難スペースとして活用し、災害時にテントを張って使用できる 四阿やパーゴラ、大型複合遊具を配置。2. 「公園外周の土手・防火樹」 火災延焼防止のため、公園外周に土手(北側高さ1.5メートル、南側高さ 2メートル)と防火樹を配置。3. 「地下式雨水調整池」 集中豪雨などの水害対策のため、14,100立法メートル(25メートルプール 約39杯分)の雨水を溜めることができる市内最大の地下貯留施設を整備。4. 「大型防災備蓄倉庫」 避難生活に必要となる資機材や非常食料を備蓄するため、ゆとりの森大型備蓄倉庫 に次ぐ市内で2番目に大きな防災備蓄倉庫を整備。5. 「スタンドパイプ消火資機材、消火栓、防火水槽(地下)」 火災の延焼を防止するためのスタンドパイプ消火資機材を公園内に18基、 消火栓を18か所設置。地下に防火水槽(200t)を整備アパートの如き「防災備蓄倉庫」前には工事車両が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.13
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」を後にして再び「緑のかけ橋」を見る。そして次の訪問場所の「大和市郷土民家園」に向かって進む。正面に「大和市郷土民家園」の入口が前方に現れた。「大和市郷土民家園当民家園には市指定の重要有形文化財「旧北島家主屋」・「旧小川家主屋」が移築復元されています。わたしたちの往時の生活を偲んでください。■開園時間 午前9時~午後4時30分 (7月21日から8月31日の夏季期間は午後5時まで)■休園日 毎週月曜日 (月曜日が休日に当たる場合はその翌日)■行事 年末年始 季節に応じた行事を行っています。 詳しくは係員にお尋ねください。■入園料 無料■利用上の注意 1 .火災防止のため、園内はすべて禁煙です。 2 .園内での飲食はできません。 3 .ペット類を伴っての入園はできません。■その他 1 .大和市の文化財関係の本を販売しています。」「旧小川家主屋江戸時代中期に建てられた大和市最古の民家。もとは上和田の久田集落の一軒として現存していましたが、昭和59年に解体保存しました。民家そのものの外観や内部の間取り、梁組など建集空間をご覧ください。」「旧北島家主屋江戸時代末期に建てられた代表的な養蚕民家。もとは下鶴間の公所集落の一軒として現存していましたが、昭和61年に解体保存しました。建物の構造にみられる養蚕に備えての工夫(通風と採光)をご覧ください。」「大和市郷土民家園」の山門。開園時間は当面の間午後4時までと。案山子がマスク姿で「マスクの着用をおねがいします。」と。山門?の扁額?は「大和市郷土民家園」。「配置案内図」。「管理事務所」。民家園ができて以来初となる旧小川家の屋根の葺き替え工事を行っていた。2月23日(火)~7月31日(土)まで、旧小川家屋根の葺き替え工事を行う予定。これに伴い、一部区間が立ち入り禁止となっていたのであった。「旧小川家」の主屋の茅葺きの屋根は新たな茅での屋根造りが始まっていた。「旧北島家」への案内板。新しい茅が既に屋根の最下部に並べられていた。新しい茅が積まれていた。そしてこちらが工事前の「旧小川家」。「旧小川家」の内部。2021.6.24付けのネットからの写真です。この時点で旧小川家の屋根の葺き替え工事が、ほぼ終了しているようです。 【https://mobile.twitter.com/kyoudominkaen/status/1402425571645149186】よりオオヤマザクラ(大山桜)であろう。「旧北島家」の主屋の東面を見る。南側の正面に廻る。コロナ禍の影響で建物の中には入れなかった。「大戸口と敷居この出入口を"大戸口"といいます。大和市内では「トバグチ」「トンボグチ」「トンブグチ」などとも呼ばれていました。大戸口の敷居は「主人の額(ひたい)」ともいわれ、敷居を踏むことはその家の主人を踏むことになるとして避けられていました。みなさまも、どうぞ敷居をまたいでお入り下さいますようお願いいたします。」「大戸口」から内部を見る。正面から。「大和市の民家と養蚕大和市では、かって養蚕が営まれていました。最も古い記録は文政9 (1826 )年で、近隣地域の状況も考慮すると、江戸時代後期にはすでに始まっていたと考えられます。養蚕は民家に影響を及ぼした代表的な生業で、各地に独特の形式の民家が形成されました。江戸時代末期創建と推測される旧北島家も養蚕に利用するために屋根裏が2層になっており、通風や採光のための窓を設けるため、妻(建物の短辺)側の軒を高く切リ上げています。横浜開港に伴う生糸輸出を背景に、明治に入リ養蚕は市域に急速に普及していきました。農作物よりはるかに収入を得る養蚕は、農家の生活の糧でした。市域民家への影響も顕著となり、屋根部分のみならず、養蚕を考慮した問取りや養蚕専用の蚕室を備えるなど、明治以降の大和市の民家は養蚕を主眼に造られたと言えます。市域の養蚕は昭和初期まで隆盛しますが、その後衰退していきました。戦争中に蚕の餌である桑畑が食料増産のために開墾されたこと、戦後は高度経済成長期により産業構造が変化したこと、都市化が進んだことなどが原因です。平成6 (1994 )年に最後となった養蚕農家がやめ、大和市の養蚕は幕を下ろしました。養蚕が営まれなくなるにつれて、養蚕に対応して造られた民家も改築、建て替えがなされ、姿を変えていきました。養蚕の痕跡が失われていく中、旧北島家は、養蚕が営まれていた頃の大和市の姿を今に伝えています。」「ザシキ(座敷)」と「オク(奥)」を見る。「屋根裏」。「屋根裏旧北島家の屋根裏では、養蚕が行われていました。そのため、構造的特徴として、又首(さす)(屋根の骨組み)を受ける梁が1階の天井面よリ6尺(約1 .8 m )ほど上方にかけてあり、屋根裏が2層になっています。また、養蚕に不可欠の通風や採光のため、屋根は幹を高く切り上げ窓を設けています。後に蚕の飼育法の変化に伴い、旧北島家でも家屋の随所に増改築がなされますが、創建当初は養蚕の影響は屋根裏や屋根形態に限られていました。」「ザシキ(座敷)」「ザシキザシキは家族生活の中心の場所です。イロリの周りには家族が集まリ食事をするなど、家族団らんの場でした。また、接客の場でもあリました。イロリの座席は決まっておリ、一般的に家長の座にヨコザ、主婦の座はカカザ、客の間はキャクザと呼ばれました。のちにザシキは分割して、後方に家族空間の性格が強いカッテという部屋ができるようになります。」「オク(奥)」。「オクここは最も上格の部屋で、接客室です。古くはデエとも呼ばれました。旧小川家住宅ではオクにあたるデエとへヤにあたるナンドは閉鎖的でしたが、旧北島家住宅ではオクとナンドの外回りに開口部が多く見られ、縁側もあリ、さわめて開放的です。また、旧小川家住宅には見られなかった床の間が設けられています。」「ナンド(納戸)」。「ナンドナンドは寝室のことです。隣のオクとは襖で仕切られており、襖を開けると2室つづさのザシキとして使えるようになっています。土壁で閉ざされた閉鎖的な旧小川家宅のヘヤ(寝室)と比べると、開放的になっています。旧小川家と旧北島家の住宅の変化にみられるように、時代が卞るにつれて寝室部分は開放性を強めていきます。」「便所」の外側。排泄物は屋外に貯留されていたようだ。「カッテ」には「機織機」が展示されていた。「カッテ」の「カマド」。「カマドこのカマドの位置および形式は聞き取りにより復元しました。材料、エ法は、旧小川家住宅と共通です。芯に大谷石(栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される軽石凝灰岩の一種)を積み、外周を愛知県小牧市産の中塗土を粉土にしたものと上佐漆喰を一対一で混ぜ合わせたもので塗り、仕上げにさらに中塗土で上塗りをしました。」「カッテザシキから家族の食事や団らんの場として、接客の場と切り難されてできた部屋です。旧北島家の段階では、ザシキに対してカッテが狭く、喰違四間取型と呼はれる平面形式になっています。力ッテがザシキと同じくらになると、整形四間取型と呼ばれる平面形式になります。」src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/1610204536ffe40f6d9fd70cbc55c636aeaed429.15.9.9.3.jpeg" border="0" name="insertImg" />北側から「ダイドコロ」を見る。東側から「ダイドコロ」を見る。明治時代に中国から伝えられた「唐箕(とうみ)」も展示されていた。作業中の屋根職人の姿が。次に直ぐ近くにあった「笹山稲荷大明神」に向かう。途中、路端にはピンクのシバザクラ(芝桜)が美しく。「笹山稲荷大明神」の「石鳥居」。参道横の壁には「笹山稲荷大明神 鳥居寄付金芳名」が。「中村」の名字の多さに驚いたのであった。「社殿」。扁額「正一位稲荷大明神」。内陣には紅白の社が鎮座していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.12
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次さらに「泉の森」の散策を続ける。前方の「緑のかけ橋」が大きくなって来た。「緑のかけ橋」は、貴重な緑を未来に残していこうという願いを込めて、泉の森のシンボルとして造られたもので、周辺の自然環境と調和するように、木材を使用した斜張橋である。全長53m、幅2m。材料には米マツの集成材が用いられ、平成3年に完成した。湿生植物園の上をまたぐように東西にかけられており、橋の上からは園内を一望することができたのであった。「緑のかけ橋」下を通過。「泉の滝」碑前で引き返す。そして「水車小屋」。「遊びの小川」横にある「水車小屋」は平成元年から平成2年にかけて造られた。湿生植物園の園路から見上げる水車小屋は季節や天気によってその表情を変えるのだと。水草が生えている直径3.5mの水車から流れ落ちる水しぶきは3月の季節外れの暑さを忘れさせてくれるのであった。一角がロープで仕切られて。「だだ今経過観察中・・・以前、この場所には「タコノアシ」という水辺の希少植物が生えていました。しかしこの植物は、河川の氾濫で土がさらわれて草が無くなったような環境を好むので、ヨシなどが茂った今はほとんど見られなくなっています。ロープ内の区画は、耕やしてヨシの地下茎を取り去りました。今後、発芽するものを観察していきます。」再び「緑のかけ橋」を潜る。橋長:53m、 支間:13+27+13m、幅員:2.0m。「遊びの小川」を見ながら進む。反対側には「ショウブ田」が。そして斜面を上った場所にあったのが「泉の森 緑のかけ橋」碑。ここが「緑のかけ橋」の入口部。竣工は平成三年(1991)三月。「緑のかけ橋」を渡り森の中に進むと山口家の墓地の中にあったのが「東舟翁の碑」。「東舟翁の碑」「東舟翁の碑山口家の墓地の中央には、大正十年に建てられた「東舟翁之碑」という頌徳碑があります。その碑文により東舟翁の人となりをうかがうことができます。山口寛一は天保7年(1836)大和の上草柳村の生まれで、号を東舟といいました。家は代々名主を務めるほどの素封家で、幼少より学問を好み、嘉永6年(1853)18歳の時に、江戸に遊学し、長井岷峨(ながいみんが)の漢学塾に学び、さらに幕府の最高学府である昌平坂学問所に学びました。安政4年(1857)22歳の時に、村に帰り、父の職を継いで名主となり、その後明治6年から12年にかけて神奈川県学区取締の要職につき、この間、政治面でも戸長として活躍していました。」「緑のかけ橋」を再び渡り戻って渡って来た橋を望む。そして「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」を訪ねた。公園の中心施設である「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」では、身近な植物・昆虫・野鳥などの生き物や、自然環境の大切さを学ぶことができる場所なのであった。入口左には「顔出しパネル」が置いてあった。「館内1F」の様子。「生き物展示」、「自然情報コーナー」等が設置されていた。まずは「生き物展示」へ。今はあまり見かけなくなった「アメリカザリガニ」。子供の頃は「マッカチン」と呼んだ記憶があるが。大きな「オタマジャクシ」。「ウシガエル」であっただろうか。「ドンコ」?「キイロスズメバチ」の巣。「泉の森で見られる水鳥一覧表」。「大和市内で見られる蝶」。「泉の森 サクラMAP」。ソメイヨシノを中心に様々な種類のサクラが植えられ楽しめるようであった。「泉の森・花の見頃情報~早春編~」。「ハイタカ」。「ハイタカ 学名:Accipiter nisusオオタカに似てていますが小さく、オスはハトくらいの大きさです。くちばしの先から尾の先までオスは32cmなのに対して、メスは39cmもあります。猛禽類(ワシ・タカ・ハヤブサの仲間)は、ふつうメスのほうが体が大きいのが特徴です。オスの上面は暗い青灰色、メスは灰掲色。オスの腹面には白地に着赤褐色の横じまがあり、メスは褐色で細い横じまです。オス・メスともに尾に黒い帯があります。キーッ、キッキッキッとよく泣き、ツグミくらいの大きさの鳥を食べますが、ときにはネズミやヒミズ(モグラの仲間)なども食べます。低地から亜高山帯にかけての森林や都市部に生息し、針葉樹の枝を使ったお椀型の巣を樹上に造ります。1回に4~5個の卵を産み、主にメスが抱卵しますが、オスも転卵します。30~35日で孵化し、4週間で巣立ちます。」そして「カワセミ」。「カワセミ 学名:Alcedo atthis頭から翼、尾にかけて、緑~コバルト色に輝き、胸から腹はオレンジ色が目立ちます。その美しさから、「水辺の宝石」と言われますオスのくちばしは上下とも黒く、下のくちばしの基部が赤ければメスです。水面近くを自転車のプレーキ音に似た鳴き声で一直線に飛び、小魚や工ビ、などをつかまえて食べます。ときには目の前を飛ぶトンボを食べることもあります.雨が直接当らない土手に、深さ0.5 ~ 1.0mの穴を第掘って巣穴にし、ここで3 ~ 4個の卵を育てます。横穴は一番奥だけを修理して、3~4回使用します。プロポーズするときは枝の上で小魚をプレゼントします。また、ひなを巣立たせるときは巣の外で餌を持って呼び出します。」「オナガ」。「オナガ 学名:Cyanopica cyanus頭と体の大きさはキジバトよりひと回り大きいくらいですが、尾羽が20ー23cmと長いのが特徴的で、それが名前の由来にもなっています。飛んでいると、つばさや尾の水色が目立ちます。頭は黒く、ほおから喉は白く、首から胸・腹は、褐色味のある灰色をしています。オナガはカラスの仲間であるため、グエーイ・グエーイ、ギューイ・ギューイと姿に似合わぬ声で鳴きます。本州の中部以北に住む留鳥で、雑木林や松林に群れで住み、市地の公園や庭にも飛来します。樹上で昆虫や木の実を食べますが、地上で餌を探すこともあります。オナガは大和市の鳥です。市内で多く観察され、色や姿が優美で、尾を広げて飛び立つ姿が未来へ向け飛翔する大和を象徴することから選ばれました。」「アオサギ」。「アオサギ 学名:Ardea cinerea日本のサギ科では最大級で、翼を広げると150-170cmになります。頭は白く、目の上から冠羽にかけて、眉のように黒い模様があります。目の虹彩やくちばしは黄色、足は黄褐色です。また、体の上面は青灰色で、翼の大部分は灰色、喉から胸にかけては黒い点線のような模様が入っています。河川や湖沼・湿原・干潟・水田などで獲物を待ちぶせるほか、浅瀬を徘徊しながら獲物を探します。食べるのは、魚類、両生類、は虫類、昆虫などで、ときには鳥類のひなや小型ほ乳類を食べることもあります。獲物を見つけると、首を縮めて狙いを定め、すばやく首を伸ばしてつかまえます。集団で木の上に巣を作り、繁殖します。」「ハシブトガラス」。「モツゴ」の幼魚であろうか。「泉の森の魚たちここに展示しているのは泉の森の池や小川にいた魚たちです。泉の森にはたくさんの種類の魚が暮らしています。」「オイカワ」、「ギンブナ」、「モツゴ」、「ドジョウ」、「アブラハヤ」の水槽。「シマヘビ」もいてカメラに収めたが・・・・。そしてパネル展示コーナー。様々な活動が紹介されていた。「環境管理部会」「野鳥部会」。大きな亀も。この後に訪ねた「郷土民家園 旧小川家」の「茅葺き屋根に生えたコケ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.11
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「善徳寺」を後にして東名高速道路沿いの道を、下り方面に進むと右手に地下道が。「地下道」を進み、東名高速道路を潜り直ぐに歩行者専用の小路を左折する。珍しく地下道には落書きが全く無かったのであった。「引地川」に架かる「縁橋(ゆかりばし)」を渡る。上空には海上自衛隊の航空機が飛来。引地川には純白の「コサギ」が。首が長く、脚、くちばしも長いサギの仲間。全身白色で、繁殖期であろうか、2本の長い飾り羽を頭に持っていた。カワセミ(翡翠)を発見。ここにも「カルガモ」が。「川にすんでいる生物 きれいな川はみんなの願い 大和市」。「引地川」を振り返る。「泉の森」を横断する道路沿いには「草柳圓 釣り堀」入口が。大和市上草柳1021。自然公園「泉の森」に隣接する釣堀。四季折々の美しい表情を見せる自然の中、鯉・ニジマス・金魚と、上級者から小さな子供まで、腕前や世代に関係なく楽しめるのだと。「泉の森」と書かれた看板。上部に「大和市章」と大和市イベントキャラクター「ヤマトン」の姿も。左手に「くらやみ坂」の案内に従って進む。山の中の遊歩道を歩いて行く。この付近は秋には「彼岸花」を楽しめると。坂名「くらやみ坂」の由来は不明とのことだが、木々が生い茂り昼でも薄暗かった事が容易に想像出来たのであった。「くらやみ坂」の出口まで歩き、そのまま引き返す。この近くが「くらやみ坂」の名前の由来の場所か?「ムラサキケマン」。ピンクの花が背伸びしているみたいに咲いていた「ムラサキケマン」。そして道路を渡った場所にも「泉の森」案内板が。大和市コミュニティバス「やまとんGO」の「泉の森」バス停。右手に「しらかしの池」の溢流堰。「泉の森」案内図。「神奈川県指定天然記念物大和のシラカシ林昭和四十ニ年七月ニ十一日指定シラカシ林は昔、相摸原台地のほどんどの地域をおおっていたが、人間がこの地に住むようになってからだんだんど後退し、現在ては人の手の入らないわずかな斜面や、ガケの部分および屋敷林の中の一部、社寺林の一部にわずがに見られる程度てある。この大和のシラカシ林は田に面した(指定期の現况による)比較的浅い斜面に帯状に存在している。広さは一、五八八平方メートルでシラカシの純琳を形成しており、保存するに好都合な立地茶件にある。なおこれほどに集中してシラカシが群生している自然林は、県下の他の地域てはほどんど見られなくなってしまった。昔の相摸原台地の面影を残す意味からも、又学術上からもきわめて貴重なものである。」「手づくり郷土賞記念碑上草柳多目的利用調整池は、平成五年度建設省主催の手づくり郷土賞「自然とふれあう水辺づくり」において多くの市民が水と緑豊かな自然とふれあえる場を評価され、認定されました。平成七年ニ月 大和市」「しらかしの池」を見る。「しらかしの池」の先には「しらかし広場」と「ふれあいステージ」が見えた。「しらかしの池」の廻りのソメイヨシノは満開に近かった。ソメイヨシノを見上げる。多くの野鳥も。「泉の森」案内板。「美しし水の湧き出る引地川の源、大和水源地一帯の森は生きものたちの楽園です。水源を守るために保全されたクヌギ、コナラ等の繁る雑木林には、ドングリが葉陰から顔をのぞかせ、マユミ、ゴンズイ、ムラサキシキブの実が優美な色をたたえています。また、相模野台地の昔の景観を今に残す県指定天然記念物「シラカシ林」、そして幹の美しいスギ、ヒノキの針葉樹林、その林の下には四季おリおリの貴重な植物が数多くみられます。イチリンソウ、キツリフネ、ウバユリの群生、水辺にはガマ、タコノアシ等の湿性植物がみられ、淸澄な水辺と豊かな緑は生物たちのオアシスです。そこにはギンヤンマ、アゲハチョウ等多くの昆虫が生息し、カワセミをはじめ50種以上の野鳥を観察できます。大和市では、水と緑の豊かな泉の森( 42ha )自然を保全するため、この地域を、法によって守られる「緑地保全地区」と、市民が自らの手で守る「トラスト緑地」に指定し、市と市民が一体となり泉の森の保全に取リ組んでいます。」「上草柳調整池の沿革ここはかって、引地川に沿って谷戸田がならび、稲作が行われている土地でした。しかし、流域の都市化が急速に進んだため、雨水などの流人量が多くなリ、水害が発生するようになってしまいました。そこで昭和57年に、貯水池の機能をもたせてつくられたのが、上草柳調整池です。この調整池の治水機能はそのままに、湿地の特性や、周辺樹林地とが一体となった水辺空間を活かし、多くの市民が生きた自然の姿をさまきまに学べる場、あるいは自然への親しみを生活にとりもどす場とし利用できるよう、整備しました。平成3年3月 大和市」大きな鯉も悠々と。これも「コサギ」であろうか。「展望デッキ」から「ふれあいステージ」を見る。歩いて来た「溢流堰」方面を振り返る。右の鳥は「ヒドリガモ」か。頭はずんぐりと大きく首は短め。頭の色は茶色で額のあたりが白っぽいが・・・。水辺にも遊歩道が出来ていた。「ふれあいステージ」を横から見る。キブシ(木五倍子)の花このキブシ(木五倍子)は日本固有種で、キブシ科の落葉低木で北海道から九州まで自生し、春に黄色の穂状の花をつける。実も花と同じように房状に垂れさがってつく。実は黒色の染料にも利用されている。秋になると葉は紅葉し、その後落葉するのだ。ズームして。このキブシの花は、早春の山菜でもある。おひたし、天ぷらにして食べることができる。キブシの花には,雄花、雌花、両性花があるそうだが、これは雄花のようだ。「しらかしの池」碑。シラカシ(白樫・白橿)は、ブナ科コナラ属の常緑高木、いわゆるカシ類の一種である。名前は、材が白色であることから。樹皮の黒さから「くろかし」の名もあるのだと。ソメイヨシノを振り返る。前方に見えて来たのが「緑のかけ橋」。地元のボランティア?の方々が「ショウブ田」の手入れをされていた。木道も整備されて。6月になれば。 【https://blog.goo.ne.jp/masa1128tarou/e/c12cfe6badf4adf005c7fb3869f446ab】より水路へは、ここから流れ込んでいる。ここの暗渠の上流は、「引地川」の水源地のはず。「湿性植物園」の周囲にも桜の花が。多くのメダカも。「湿生植物園」の周辺は、集中豪雨時には「調整池」として利用されるので水位が2m以上上がるから注意が必要と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.10
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして「善徳寺」に到着。大和市上草柳3-10-5寺号標石「真言東本願寺 休息霊場 草柳山善徳寺」。真宗大谷派の寺院なのであった。「市指定重要有形文化財(有第十ニ号)銅造誕生釈迦仏立像指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高 10cm生まれるとすぐ七歩歩み、「天上天下、唯我独尊」(この世界の中で、自分より尊い者はない)と言ったと伝えられる釈迦の像です。左手の肘から先と、両足の膝から下あたりが欠失し、肌も荒いですが、量感たくましく、きわめて力強い仏像です室町時代(十五世紀)の鋳造と考えられます。言い伝えによれば、善徳寺本堂を建立するために村人総出で山をくずし、地ならししていると土の中からこの仏像が堀り出されたと伝えられています。平成九年三月 大和市教育委員会」広い境内の奥に「善徳寺六道殿」と見事に手入れされた「カイヅカイブキ(貝塚伊吹)」の生垣。ズームして。誰かのお腹の如し。「善徳寺六道殿」を正面から。蟇股の後ろに扁額。蟇股とは横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになったと。念の為扁額「善徳寺六道殿」を斜めから。「内陣」を見る。見事な精細な「欄間彫刻」。見事な精細な「欄間彫刻」。そして見事な組造りの詰組(つめぐみ)構造の「鐘楼」。そして寛政8年(1796年)作の「梵鐘」。太平洋戦争当時、多くの寺は金属不足の為に梵鐘を国に供出した。その殆どは帰って来なかったが、善徳寺の梵鐘は潰されずに無事に帰って来たのだと。中央には「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の文字が。「人知を越えた智慧の光明をそなえた阿弥陀如来に帰命し奉る」の意。阿弥陀仏の特に光明のすぐれていることを表す名号で、九字名号と言われると。こちらには「南无阿弥陀佛」「手水舎」。「鐘楼」の見事な詰組(つめぐみ)。「水盤」には「浄水」と。「手水舎」の先に広い「墓地」が広がっていた。「戦没台湾少年之慰霊碑」「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」。「戦没台湾少年之慰霊碑太平洋戦争の末期この地に「高座海軍工廠」👈リンク 在り十三才より二十才までの台湾本島少年八千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の悪環境を克服し困苦缺乏に耐え連日の空襲に悩みつつも良くその責務を完うせりされど病床に斃れ或いは爆撃により最期を遂げたる者数多し 遺骨は故郷に還れと夢に描きし故郷の土を踏み懐かしの肉親との再会をも叶わず異郷に散華せる少年を想ふ時十八年後の今日涙また新なり。これ等の霊魂に対し安らかなるご冥福とかかる悲惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ 昭和三十八年十一月 神奈川県平塚市富士見町十番十八号 元 高座海軍工廠 海軍技手 早川金次 坂本光吉 謹書」「本堂」を背景に石仏を。台座には「戦没者 檀信徒 慰霊位」と。「本堂」。本尊は阿弥陀如来像。慶長18年( 1613 )正慶坊善徳により開山されたという浄土真宗の寺。「本堂」正面の見事な龍の欄間彫刻。木鼻(右)。 「木鼻」の出現は、「平重衡の南都焼打ち」にあって荒廃した「東大寺」を見事に再建した高僧「俊乗坊重源」が、中国から持ち帰った建築技法の「貫」が採用された鎌倉時代から。貫という技法は建築を格段強固にし構造そのものが大きく変革を遂げた。木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたもの。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいうとネットから。木鼻(左)。「本堂」の見事な詰組(つめぐみ)。斜めから。「本堂 内陣」。本尊の阿弥陀如来像であろうか。本堂の外柱の下にも見事な金属彫刻が。「本堂」前から「善徳寺六道殿」を見る。横壁には花頭窓が並んでいた。「本堂」と墓地を仕切る壁には「沢柳山善徳寺之由来沿革史」石版が。ひたすら漢字のみの長文で。こちらは「善徳寺本堂沿革歴」。ひたすら漢字のみの長文で。丸に横向きの三本線をあしらった「横三引両」紋が寺紋なのであろうか。墓地の珍しい赤い墓石。赤色御影石であろうか?巨大な「本堂の屋根」。そして巨大な「善徳寺六道殿の屋根」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.09
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次色彩豊かなそして美術館の如き「台湾亭」を後にし、1km以上離れた「櫻森稲荷神社」を目指して進む。広い道路に出ると、左手にあったのが「大和墓苑 ふれあいの郷」。大和市上草柳207-1。西に進んで行くと右手にあったのが「(株)ナンセイスチール 大和第一工場」。工場・建物の解体や、廃家電製品などから排出される鉄、アルミ、ステンレス、銅などの鉄・非鉄金属スクラップの回収・選別・加工を生業としている工場。特に鉄スクラップは製鋼原料として、国内メーカーのみならず、アジアを中心とした各国に輸出していると、ネットから。この日の「鉄・非鉄スクラップ現金買取」価格案内。Kg当たりの円価格であろう。鉄は30円/kg、ステンレス140円/kg、アルミ145円/kg。F線とは内部は銅線である被覆フラットケーブルのことであろうか?310円/kg。そして「東名大和3号橋」交差点を右に曲がる。そして橋の下には「東名高速道路」が。東京方面を見る。この日は3月24日(水)、時間は9:30前であったが下り車線は大混雑の渋滞手前であった。上り車線は空いていたが。「東名大和3号橋」を渡り左折して進むと左手に「バーミヤン 相模大塚店」が。そして「相模大塚駅北口」交差点の角に「櫻森稲荷神社」を発見。案内板に従い右に進むと左手に「櫻森稲荷神社」が現れた。大和市上草柳121-16。「櫻森稲荷神社」の石鳥居。正面から。石鳥居の扁額は「正一位櫻森稲荷神社」。「手水舎」。「社務所」。「櫻森稲荷神社」碑。鎮座地 大和市桜森三ノ五御祭神 宇迦之御魂神 ( うかのみたまのかみ)(倉稲魂命(うかのみたまのみこと)) 三峯山神社大神 菅原道真 「由緒沿革当神社の創建は不詳であるが、弘化三年二月当時上草柳村であった当地の氏神熊野神社が御祭神を勧遷した祭熊野神社の 鬼門除けとしてこの地に桜木を植樹して稲荷社を奉斉し五穀蚕繭豊穣を祈願したと古老が伝えている 更に嘉永六年四月 火難除の守護神三峯産大神 勤労の祖 菅原道真公を奉斉して村民の生活の安穏を祈願した 以来当神社は産業繁栄・除災招福・家内安全・長寿延命の守護神として御神徳を敬仰され 昭和三十二年二月八日宗教法人桜森稲荷神社として独立社 となった社殿は明治四年十一月十八日新たに造営し、明治二十年二月昭和二十七年三月にそれぞれ改築されたが昭和五十五年社殿 再建を決意し氏子の総意を結集して直ち着工、翌五十六年七月完成した。同年十月三日改めて各御祭神総社の御分霊を勧遷して 古式に則り御遷座式を斉行 翌四日造営遷座奉祝の大典を盛大に挙行した」社号標石「正一位櫻森稲荷社」を写したつもりであったが・・・。境内の桜は二分咲き程度であった。狛狐・阿形も赤いマスクを。狛狐・吽形も同じ。「櫻森稲荷神社」造営紀念碑。「神殿」。態野神社の末社で下草柳の鎮守。境内には桜が多く、かって源頼朝が合戦の途中で休んだ際に馬をつないだという巨木があったと伝えられてをいると。「神殿」横のソメイショシノ。二の鳥居から神殿に入ろうとすると、神社の方から声をかけられた。最初は、今日は「神殿」への参拝はご遠慮下さいと。しかしその後、今作業の休憩中であるので参拝は可能であると。そして掲示板にきがついたのであった。「参拝者の皆様へ来る三月二十四日神殿脇樹木枝下ろし作業が行われます。ご迷惑をお掛け致します。ご理解くださるようにお願いいたします。」そしてこの日はその「三月二十四日」。「枝下ろし中の樹木を見上げる。「枝下ろし」された枝が「神殿」横に。「神殿」の扁額も「正一位櫻森稲荷神社」と。「櫻森稲荷神社」とシャッターに書かれた「神楽殿」?「神殿」を横から。手前には酒樽が。そして再びソメイヨシノを見上げて「櫻森稲荷神社」を後にしたのであった。途中、大和市の「雨水管マンホール蓋」。中央マークは不明だが、その周囲に大和市の木・ヤマザクラが描かれていた。 「やまとし」「あめ」の表記で穴あきタイプ。そして「オリンピック相模大塚店」横を通過。次の目的地の「善徳寺」に向けて東名高速道路の側道を進む。途中左手に「三浦王佑大明神」と刻まれた石碑を発見。更に右側に東名高速道路のある側道を進む。左手には「泉の森」内にある「草柳園フィッシングセンター」が木々の合間から見えた。そしてこの先の右の一方通行の道路をUターンの如くに廻り込み、東名高速道路に架かる橋に向かって進む。左手前方に目的地の「善徳寺」の建物の大きな屋根が姿を現した。そして東名高速道路に架かる橋を渡る。相変わらず下り方面は混雑していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.08
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「熊野神社」を後にして、「ふれあいの森」の散策道を「泉の森」方面に向かって歩を進める。途中、「ふれあい広場」の入口には「ふれあいの森の「ふれあい広場」は、ゴミの不法投棄や騒音等の問題が続いたため、令和3年2月1日よりバーベキューは禁止となりますので、ご了承ください。その後につきましては、他施設をこ利用ください。」と。「ふれあいの森」の中の「上草柳4号橋」を渡る。下を流れる川は「引地川」。「引地川」はこの後に訪ねたこの先の「泉の森」を水源とするのだと。そして前方のフェンスの奥に朱の建物が現れた。これが「台湾亭」。「利用時間のお知らせ開園時間 午前9時~午後4時月曜日及び年末年始(12/29~1/3)は休園となリます。(なお、月曜日が祝祭日の場合はその翌日とします)」入口右には紅そして白の案内板が2つ。「台湾亭先の大戦中、将来の航空技師を夢見て、台湾少年工8,400名が高座海軍工廠で戦闘機「雷電」の製作に従事しました。工廠は、現在の座間市栗原にあり、寄宿舎は、大和市上草柳にありました。敗戦により夢破れて帰国した少年工は、その高い技術と精神力により台湾工業化の中核として活躍、1993年6月9日、彼らが「第2の故郷」と呼ぶ大和市を50年ぶりに訪れました。この台湾亭は、その時、台湾少年工の同窓組織である台湾高座会から日台の友好親善と世界平和を祈念し、大和市へ寄贈されたものです。大和市公園管理者」「台湾亭の柱に書かれている漢詩を訳しました。臺高迎日早 湾廻徳春先高歌舒浩氣 座亭看煙雲會心堅松柏 志節勵冰霜高台に登って東の空を眺めば遮るものなくいち早く日の出を迎えることが出来声高らかに歌えば自ずと心は晴れ亭に座して白雲の流れを見青々と茂った逞しい松を見れば自分もまたくじけない潔い志を抱ける」よく見ると漢詩の最初の漢字を右から読むと「臺湾高座會志」と。「台湾亭」を石碑が正面に見える方向から。一見、竜宮城の門を思わせる造りで、鉄筋コンクリート製の6角形をしており、高さは基壇部を含めると約10mになると。6本の柱やはり部は朱色、屋根かわらは濃緑色、天井部は黄色に塗られていたのであった。この場所は少年工達の寄宿舎があった近くで、昭和20年7月30日、宿舎に帰る途中の少年工6人が爆撃にあって死亡する悲劇が起きた引地川公園の「ふれあい広場」の一角なのであった。正面の「台湾亭志」碑の上には「台湾」の国の形状が。そして、このブログを書いていると、背中のテレビのニュースでは台湾での列車事故で現状50人が死亡したと報じているのであった。正面の「台湾亭志」碑には「台湾亭志碑第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため青少年約八千四百余名がこの大和市に新設された高座海軍工蔽に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた。その間米軍による本土空襲により 多数の犠牲者も出 戦後そのまま在留したもの以外大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え落ち着きを取り戻した時 若き日の夢を托した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた。一九八七年台湾高座会が発足 一九九三年日本高座会による五十周年記念大会に一千三百余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった。ここに両地の親善交流を 記念するとともに 世界平和への祈願をこめて 台湾亭を大和市に寄贈し変わらざる友好のシンボルとする台湾高座会一九九七年九月六日」こちらが正面であろうか。石段が四ヶ所に。石段を斜めから。台湾亭の階段には「海軍高座工廠」のシンボルマークが彫られているのだと。このマークは「碇」と、前面から見た「飛行機」の姿を組み合わせたものであると。のちに、このシンボルマークを身につけていた者たち(台湾少年工たち)は「高座帰り」と言われ敬われていたとのこと。「台湾𠅘」の文字が。6面の欄間には絵柄陶器(1面に16枚)がはめ込まれていた。欄間の下部の内外面は色鮮やかな山水・花鳥画で飾られていた。まずは、欄間の下部の「外面」の色鮮やかな花鳥画を追いかける。また広さは約30m2で、床には台湾の誇る観音石(かんのんせき)が使用され、石製の長いすが4基置かれていた。左側の柱には漢詩の発句「臺高迎日早」が、右側には結句の「志節勵冰霜」が。よって反時計回りに漢詩が柱に書かれていた。反時計回りに「湾廻徳春先」、「高歌舒浩氣」 と。反時計回りに「座亭看煙雲」、「會心堅松柏」 と。2本の柱の撮り方を間違えた事に今気がつきましたが・・・。そして文字の向きはどの様に決めたのだろうか。階段を上がって来る人を配慮してか。「台湾亭」の中心部にそれぞれ向ければ、体を回転するだけではっきり見えるのだが。そして次に内部に掲げられた、これも色鮮やかな山水画を追いかける。そして天上を見る。カメラの画面に入り切らない為、2面に分けて。内部の山水画を2枚ずつ撮影。咲き始めた桜を背景に。そして園内を後にして外側のネット越しに最後の1枚を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.07
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「相鉄本線」の歩道専用の地下道を潜った先にあったのが「ふれあいの森」。右手の斜面にはシバザクラが開花中であったが、残念ながら斜面の所々に。昔は斜面一面に見事に開花していたようであるが。2006年の写真をネットから。 【https://heiwa-ga-ichiban.jp/yamato/photo/yama282.html】よりこの日に咲いている場所をズームで。この辺りは昔の面影が僅かに。上空には「海上自衛隊 厚木航空基地」から離陸し、旋回して相模湾方面に向かう日の丸の印のある自衛隊機の姿が。輸送機、C-130であろうか。右手に「グリーンアップセンター入口」が。大和市グリーンアップセンターは、ふれあいの森にある大和市の花とみどりの拠点施設で、さまざまな園芸に関する教室や展示会を行っていると。施設内には、みどりの相談コーナー、みどりの図書コーナー、グリーンギャラリー、研修室がある。また大和市コミュニティセンター草柳会館との複合施設となっていると。そして丘の下には、風に吹かれてカタカタ回る風車の姿が。揚水風車のようであった。実際に地下水槽の水の汲み上げに使っている と。ズームして。この風車は「イエローテイル」というオーストラリア製風車。イエローテイルとはオーストラリアのシンボルであるワラビー(小型カンガルー)の愛称。「ふれあいの森」、「泉の森」の「ガイドマップ」「ふれあいの森」。「泉の森」。「親水広場」の池。「カルガモ」黄茶色でくちばしは黒く先は黄色。足は赤色。大きく口を開けて。河川や湖沼・湿地・干潟・水田などに生息する。渡りは行わないが、北部個体群は冬季になると南下するのだと。親水広場右岸に咲く菜の花が見ごろを迎えていた。「カルガモ」のツガイであろうか。池を出て、仲良くお散歩に。この場所には普段なら滝があるのだろうか。ネットで調べてみるとやはり。落差およそ4m。毎分2~5m3の水が流れているとのことだが。 【http://www.yamato-zaidan.or.jp/fureai/distinction】よりそして「あとみ坂」を訪ねた。「あとみ坂」碑。「旧原蓼川村から旧草柳村を経て深見神社北側へ至る平安古道の坂。薄暗く狭い急坂のため,通行人が登りきるまで跡を振り返ることができなかったと伝えられています。 平成二年三月 大和市教育委員会」「あとみ坂」を上りきり振り返る。薄暗く狭い急坂のため登りきるまで跡を振り返ることができなかったため。(標識より)かつては、坂下にずっと続く坂道だったと思われるが、現在は「ふれあいの森」の公園内遊歩道に取り込まれて消滅しているのであった。そして再び「揚水風車」の見る。風車の下には売店もあるようだがまだ早いので開店前であった。「ほうき性花桃」と「揚水風車」。「花桃」は「照手姫」であろうか?そして道路下のトンネルを越えるとその先は「泉の森」。そして地下道を潜り「ふれあいの森」を進む。右手が「緑の見本園」。パンジーが円筒状のタワー仕立てに。「緑の見本園」の中を進む。パンジー、ビオラ、チューリップ等が。こちらのチューリップはこれから。コブシ(辛夷)はエピローグに。黄色のレンギョウ(連翹)。様々な花が植えられていた。「チューリップ花壇」。近くから。そして右手にあったのが「熊野神社」。大和市上草柳905。「石鳥居」と「イチョウ」の大木を見る。社号標「熊野神社」。「石鳥居」と「イチョウ」の大木に近づいて。「石鳥居」の扁額は「熊野社」。「イチョウ」の大木を見上げる。「記念樹 いちょう私達は、昭和十六年徴兵(大正十年生)により現役兵として入隊するに当り、高橋大吉氏の御厚意によりいちょう樹二本を戴き、同年十二月、九名の手によって境内に植樹し、それぞれの任地に赴いた。此の度熊野神社の御造営に当りこれを記す。昭和五十三年九月吉日」階段下の右手にあったのが「ふれあいの森 東ヶ里緑地」碑。境内に向かって石段を上って行った。そして「熊野神社」の境内に。「手水舎」。「熊野神社」と書かれたシャッターの建物は「神楽殿」か。「特別寄付者」碑。「熊野神社造営紀念碑」。「納札所」。「社務所」。「熊野神社一、鎮座地 大和市上草柳九〇五番地 一、御祭神 素盞嗚尊 (すさのおのみこと) 速玉之男尊 (はやたまのおのみこと) 伊邪那岐尊 (いざなぎのみこと) 事解之男尊 (ことさかのおのみこと) 一、由緒沿革 新編相模風土記及び古文書によれば往古は沢柳村と称し安土、桃山時代の末期慶長年中迄は 深見村に属し正保年中に於て深見村を離れて草柳村と改めらる。 当熊野神社は創立年代不詳なるも、江戸時代の初期地頭戸田五助その御神徳の偉大さに 感銘し草柳村総氏子の赤誠により総鎮守として宮を再建、熊野三社大権現宮の名も一層 庶民に知られ、江戸時代末期弘化二年二月、名主彦右衛門村民の総意を得、改めて 熊野三社大権現を勧遷。盛大な五穀豊穣祭・祈雨祭等執行し其の御加護を乞い愈々崇敬も 高まる。 尚嘉永六年十一月五日、神祗伯資訓王により再び熊野三社大権現を勧遷奉斉して以来五穀 豊穣守護縁結び交通安全、除災招福の守護神として広く世に知れ亘り庶民の崇敬一層篤く なれりと言い伝わる。 昭和五十三年九月、氏子の総意結集し宮を再建。改めて熊野本宮の御分霊を勧遷奉斉して 同年同月二十二日、盛大に御遷座の神事を執行。翌二十三日、造営遷座奉祝の大典を 執行せり。一、祭事 元旦祭 一月一日、 祈年祭 二月十七日、 例 祭 九月二十三日、 勤労感謝祭 十一月二十三日 一、社名の変更 熊野三宮大権現(元禄年間) 熊野社(昭和十八年まで) 熊野神社(昭和十九年五月一日) 一、社格 明治四十一年七月、村社に列せらる。 大正十一年五月三日、指定村社に列せらる。 昭和二十七年七月、宗教法人熊野神社となる。一、末社 桜森稲荷神社一、御神徳 長寿延命家内安全 除災招福 縁結び 生産守護 万物生みの祖神」「石灯籠」。美しい透かし彫り。「狛犬・阿形像」。「狛犬・吽形像」。「社殿」。「社殿」の扁額「熊野神社」。「社殿」前から境内を見る。そして石段を下り「石鳥居」手前から。「熊野神社」を後にして右に進むと桜が開花していた。木によって開花に微妙な差が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.06
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「下草柳公園」の角を左折し下り坂を進むと右手にあったのが天台宗の寺「極楽寺」。大和市下草柳1184-1。門前にあった「六地蔵」。寺号標「天台宗 極楽寺」。境内への階段を正面から。左手に「難転地蔵尊 天綾山極楽寺」と刻まれた石碑。「難転」とは、その言葉通り「難を転じる」こと。石段を上りきると境内は狭かったが、良く手入れされた樹木に囲まれ右手には「鐘楼」があった。「梵鐘」。「諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」の文字が写真中央に。「あらゆる悪を為さず、あらゆる善を行いなさい」という言葉で、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)と言われていると。法句経という釈迦直説の教えに一番近い古いお経にも出てくる有名な言葉であると。「手水場」。「本堂」。開山:暁海。本堂の扁額は「圓」。モミジの新緑が美しかった。ズームして。こちらは「客殿」か。扁額「慈菩薩」か。「子安地蔵菩薩像」であろうか、その後方に「石造九重塔」。左手で赤子を抱き、足下にも幼子の姿が。「「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされますが、特に子供の守護尊とされています。幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされています。その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも呼ばれています。」とネットから。こちらにも小さな地蔵尊が。ピンクの「あせび(馬酔木)」の花。花が落ちて「珠」の如くに。そして「極楽寺」を後にして右手に坂を下っていくと「下草柳2号ちびっこ広場」にあった椿の花。八重咲き・紅白の斑入りの椿。斑がない花も。紅白の模様も花ごとに微妙に変化して同じものがない。紅白は日本イメージのめでたい配色でもあるので、和風で且つ華やかに見えるのであったそして「下草柳2号ちびっこ広場」の角を右折して進むと前方に「相鉄本線」の線路が現れた。この狭い、高さのない歩行者専用の地下道を進んで行ったのであった。今日は、区切りが良いのでここまでとします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.05
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しばらくの間、「古都「鎌倉」を巡る」のアップで、隣接市の「大和市の神社仏閣を巡る」が中断していましたが、本日から再度完歩まで、続きをアップさせていただきます。【大和市の神社仏閣を巡る】目次この日・3月24日(水)は「大和市の神社仏閣を巡る」の2回目。1回目は相鉄本線の南側に位置する神社仏閣を訪ねたが、最初に前回訪ねなかった大和駅南側そして小田急線の西側に位置する神社仏閣を最初に訪ね、その後北上し相鉄線を越えて「ふれあいの森」、「いずみの森」を縦断し小田急線の「中央林間」まで歩くことを計画したのであった。この後に訪ねた「泉の森・ふれあいの森ガイドマップ」が駅前に。最初に、相鉄本線の南側、小田急線の西側にある「山神社(さんじんじゃ)」に向かった。「山神社」入口に到着。大和市中央5丁目6-3。社号標石「山神社」。「社務所」。参道の先に「二の鳥居」と「社殿」。「二の鳥居」と手前の漸く咲き始めた桜。「二の鳥居」の扁額「山神社」.狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「おみくじ掛け」と「手水舎」、「手水石」が左手に。「手水石の由来この手水石は厚木航空隊基地内に建立された厚木空神社のものであったが昭和、ニ十年ハ月十五日終戦により基地が米軍の接収となったので破壊の危惧を深刻にうけとめた当時の大和町長ハ木保隆・地元有力者とが協議しアメリカ軍に厚木空神社の下附を要請したところ建物はすべて町に下附となったもので、その内から当神社は、手水石を譲り受け再建して現在に至っているものである。」「厚木空神社起昭和十九年三月三〇ニ航空隊(厚木航空隊)司令であった小園大佐が本土防衛の第一戦で殉職した将兵の御霊を祀り空の守り神として武運長久と勇戦を誓うため厚木航空隊基地内に建立したもので、報国の熱烈なるに感動した国幣中社寒川神社宮地宮司が、洗心の揮毫を贈ったもので同年秋には荘厳に完成したものである。」「納札所」。「社殿」。社殿扁額「山神社」。「内陣」。「本殿」を見る。御祭神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )。隣りにあった「正一位稲荷神社」。境内右手にあった石塔群。左から、以下詳細は『大和市の石仏』👈リンク から転載させて頂きました。「石祠」 寛政元年(1789):正面:山口喜一郎の名札あり 右面:寛政元酉五月 宮本七郎左ェ門 左面:惣氏子 九軒持「文字庚申供養塔」 延享四年(1747) 正面:《三猿》 庚申供養塔 延享四丁卯天十一月吉日 小菅伝兵衛 同平右衛門 同 勝右衛門 同 太郎兵衛 同 吉兵衛 小菅治 兵衛 右面:西 右 ほしのや道 東 左 ぶみやうし道 田辺□左衛門 田辺[ ] □七「堅牢地神塔」 嘉永五年(1852) 正面:堅牢地神 正面(台座部分):草柳村 □□次郎左衛門 小菅定六 同 □五右衛門 下田伝右 衛門 小菅金右衛門 同 此右衛門 同 彦右衛門 山口清泉 戸井田宇平次 下田半右衛門 山口権左衛門 小菅伝蔵 右面:相州高座郡下草柳字六軒村 右面(台座部分):山先達 長圓坊 左面:嘉永五壬子年仲春吉辰「出羽三山供養塔」 天明元年(1781) 正面:《梵字》 月山 湯殿山 羽黒 三所大権現 東叡山御持 御本坊講中 右面:天明元辛丑歳 東 神奈川 南 藤沢 左面:霜月吉日 西 厚木道 北 八王子道更に、左から「堅牢地神塔」 嘉永二年(1849) 正面:堅牢地神 講中 右面:五行受王歴成□道 左面:嘉永弐己酉年二月社日相州高座郡中草柳邑「文字庚申供養塔」 宝暦九年(1759) 正面:《三猿》 庚申供養塔 講中 右面:宝暦九卯八月吉日 南かまくら道 西大山みち 草柳村 施主 小菅長兵衛 □ 弥右衛門 □ 八郎兵衛 左面:北八王子道 東神奈川道 小菅源左衛門 同 善兵衛 同 半左衛門「一猿庚申塔」 寛文七年(1667) 正面:《猿》 市内最古の庚申塔。塔身の途中が二つに折れている。「文字庚申塔」。 天明四年(1784) 正面:庚申塔 天明四甲辰年十一月吉祥日 左面:東 かな川 北 八王子 道前述の「文字庚申塔」から右に「兜巾型文字道祖神」 安政五年(1858) 正面:道祖神 右面:安政五午年正月十四日 左面:下草柳村郷 中村講中「五輪塔」 安政三年(1856) 正面:正月吉日 右面:安政三丙辰年 左面:下草柳講中「双体神祇道祖神」 宝暦七年(1757) 正面:《双体立像》 [ ]神守 宝暦七丑六月吉日 草柳六軒村中更に右手から「単体道祖神 」 寛延四年(1751) 正面:《単体立像》 寛延四未年十二月吉日 下草柳村「石祠」 昭和十三年(1938) 右面:昭和十三年二月建 左面:施主 田辺利徳「文字庚申供養塔」 安永九年(1780) 正面:《三猿》 庚申供養塔 安永九庚子十二月吉日 右面:中草柳村 六兵衛 安兵衛 善右ェ門 左面:世話人 吉兵衛 定右ェ門「単体(または双体)道祖神の下部断片」 年代不明 正面:《双体道祖神》 中沢柳村 甚兵□ 佐五兵□ □五兵衛 太左衛門 藤左衛門 [ ] 孫 兵衛 □三郎 [ ]「石祠」「奉納稲荷大明神御宝□」。 文化十二年(1815) 正面:奉納稲荷大明神御宝□ 右面:文化十二乙亥年九月吉日 左面:施主 小菅重郎左衛門そして次に訪ねたのが「法深寺」。大和市中央5丁目7-9。寺号標「本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう) 法深寺(ほうしんじ)」。本門佛立宗寺院、妙深寺大和別院の「照山法深寺」。本門佛立宗は慶長5年(1600)に日蓮聖人が苦悶の果てに悟りを開いた「南無妙法蓮華教」の御題目を口唱することで救われるという日蓮宗の始まり(源)である。寺紋であろうか。「掲示板」。境内の石灯籠。境内には源平桃が咲いていた。。ズームで。ソメイヨシノも開花が進んでいた。正面が「本堂」。「本堂」前に「開基 日博上人 銅像」が。門徒会館の「清照會館」。「本堂」入口。こちらが「裏門」。「本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう) 法深寺(ほうしんじ)」。「法深寺」前の厚木街道沿いのソメイヨシノも開花が始まっていた。厚木街道を西に進み右折すると左手にあったのが「下草柳公園」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.04
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次更に大和駅東側プロムナードを駅に向かって進むと左側にあったのが「文化複合施設」の「SiRiUS(シリウス)」。文化創造拠点シリウスは、図書館、芸術文化ホール、生涯学習センター、屋内こども広場など、複数の機能が融合した新しいタイプの公共施設。平成28年11月3日(祝)、大和駅の東側に誕生した と。「SiRiUS(シリウス)」という名称は、夜空のどの星よりも明るく輝く星の名・「シリウス」からで、「文化創造拠点が未来にわたって光り輝き、市民に愛される施設となるように」という想いを込めて名付けられたのだと。住所 神奈川県大和市大和南 1-8-1用途 図書館、ホール、生涯学習施設規模 地上6階、地下1階延床面積 26,003m2備考 蔵書数 570,000冊 客席数 大1,007席、小272席ホール前、プロムナード横に手形のモニュメントが。第154回直木三十五賞受賞青山文平大和市に居住し、小説家として活動。2011年を初めての時代小説『白樫の樹の下で』で第18回松本清張賞受賞。2015年『鬼はもとより』で第17回大薮春彦賞を受賞。2016年『つまをめとらば』で第154回直木三十五賞を受賞した。主な受賞歴 1992 第18回中央公論新人賞 2011、第18回松本清張賞 2015 第17回大藪春彦賞 2016 第154回直木三十五賞ローザンヌ国際バレエコンクール1位菅井円加小学校1年生から大和市で開設している佐々木三夏バレエアカデミ—lこ所属し、スイスで開催された世界的な若手バレエダンサーの登竜門「第40回ローザンヌ国際バレーコンクール」で1位となった。主な受賞歴 2012ローザンヌ国際バレエコンクール1位ノーベル化学賞 受賞名誉市民根岸英一大和町大和国民学校(現大和市立大和小学校)・大和町立大和中学校(現大和市立大和中学校)を卒業し、高校及び大学を卒業するまで大和市に居住。2010年「クロスカップリング」の研究においてノーベル化学賞を受賞し、その功績を称えられ同年11月1日に名誉市民として顧彰された。主な受賞歴 1997 日本化学会賞 1998 アメリカ化学会有機金属化学賞 2010 アメリカ化学会有機合成化学賞 2010 ノーベル化学賞 2010 文化勲章そして、「SiRiUS(シリウス)」内に入り、2階屋上デッキにある「大和天満宮」を訪ねた。正面に朱の鳥居が。扁額「大和天満宮」。社号標石「大和天満宮」「大和天満宮本殿建設紀念碑」。手水舎。水盤の文字は「天道」であると力強い学友から。龍の水口。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「社殿」。「大和天滿宮の由緒に就いて開闢以来外國との戰鬪を交え、始めて敗戰を知った昭和貮拾年八月拾五日其の時、人々が心の奥深く悩んだのは、敗戰の混亂の中に於て、武運長久を祈願した唯一の神社、即ち厚木空神社(祭神は天照大神並びに戰死者の靈)の事に就いてゞあった。人々が一夜熟慮に熟慮を重ねた結果、翌十六日の早朝「敗戰に依り人心が動揺してゐる此の際、社殿を有難く頂戴して大和の何れかの場所に安置祭神しようではないか」と考え、而も最近の大和驛附近の人口の増加は急激に増大し百八拾餘軒になりつゝある現在大和の綠地帶を他に移し、其の場所に神社を建立せしと、主だった人々と馬力車壹臺、リヤカ壹臺を率いて、即ち昭和貮拾年八月貮拾日厚木海軍航空隊に赴き社殿(前述の如く厚木空神社には天照大神を祀る社殿一と戰死者の靈を祀る社殿一の計二社殿あり、其の一の天照大神を祭神とした社殿を譲り受けたのである)を受領し、現在地(大和驛東方參百米)に安置奉齋したものである。」とネットから。社殿扁額「大和天満宮」「大和天滿宮と命名した理由に就いて全役員協議の結果、厚木海軍航空隊に奉齋しありし時は、厚木空神社でありしも敗戰に依り軍隊も消滅解散した現在、學問の神として知られる菅原道真公を祭神として「日本復興の道標にすべし」と滿場一致で決定、九州の太宰府より天滿宮を勸請し奉り、茲に「南大和天滿宮」と命名する。宮司役員氏子と延々列をなし現在地(大和驛東方參百米)に奉祀したるもの也。のち「大和天滿宮」と改名したるもの也」とこれもネット情報から。「酒樽」「内陣」。「大和天満宮 催事掲示板」。「御札、破魔矢、絵馬、俵宝船」等授与品も展示。ガラスケース内には祭り用の太鼓や神輿、提灯等が展示されていた。「神輿」。「大和天満宮」境内から「SiRiUS(シリウス)」の建物を見上げる。境内から「社殿」を見る。そして右手のスロープで「大和天満宮」を後にし、「SiRiUS(シリウス)」を振り返る。そして「大和駅」に駅ビルの「PROSS(プロス)」が正面に。そして小田急線での帰路に、徒歩では距離のあった2社の神社に立ち寄るため「桜ヶ丘駅」で途中下車して向かう。西口に出ると「桜ヶ丘駅」周辺の街区案内図が。そして最初に訪ねたのが「福田神社」。大和市福田8丁目8−6。「市指定無形民俗文化財(民無第一号)福田神社囃子獅子舞獅子舞は獅子を演じる人数により「一人立ち」と「二人立ち」の二系統に分類されますが、福田神社囃子獅子舞はこのうちの「二人立ち」に属する獅子舞です。囃子方は、笛一・締太鼓二・大太鼓一・鉦一の五人囃子を伴奏とし、踊りは二人立ちの獅子・おかめ・ひょっとこが登場します。曲目は屋台・鎌倉・四丁目・岡崎が伝承されています。お囃子と獅子舞は毎年福田神社の祭礼で上演され、また、正月には災難除けを願って氏子の家々を回って門付をしています。福田神社は昭和41年に、境橋の日枝神社と山下の子之社が合併してできた神社ですが、この囃子獅子舞は子之社氏子中に伝承されてきたものです。」「市定重要有形文化財(有第十三号)旧子ノ社鰐ロ(個人蔵)鯱ロとは神社仏閣の堂前の軒にかけた金属製の打器のことで、その前に鉦の緒という太い緒をたらし、礼拝のときこの緒を振って打ち鳴らしました。横から見た形が鰐のロに似ていることからその名がついたものです。この鰐ロは銅鋳製で、撞座は表のみで八葉複弁、中心に三ッ柏紋を線刻しています。松木谷都(上福田地区)の旧家である山下家の血縁的な氏神を祀った子ノ社に奉納されたもので天文十四年の刻銘があります。子ノ社の創建年代を知ることができる資料としても貴重なものです。」「神輿舎」。内部の御神輿を隙間から。右手の狭い石段の上には「稲荷舎」が。「稲荷社殿」。社殿への石段を上って行く。「社殿」。昭和41年に大和市福田の境橋地区にあった日枝社と、山下地区にあった子ノ社を合祀した。もともと子ノ社が大国主命(おおくにぬしのみこと)、日枝社が大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っており、また子ノ社に伝わる神輿がもともと八坂神社のものであったため、八坂神社の祭神である須佐之男命も一緒に祀っているとのことです。大己貴命は、大国主命の別名でもあり、子ノ社・日枝社ともに祭神が同じであるため、近年は大国主命で統一しているとのこと。御祭神:大国主命 ( おおくにぬしのみこと )例大祭:7月14日扁額「福田神社」。「内陣」。脇にあった石碑。「福田神社」碑。そしてこの日の最後の訪問となる「金比羅神社」に向けて小田急線の「大和5号踏切」を渡る。そして「金比羅神社」に到着。大和市上和田959。社号標「金比羅神社」。境内の「桜ヶ丘自治会館」。「手水舎」。そして「社殿」。天保二年(一八三一)十一月二十八日、神祇伯雅寿王勧遷の金毘羅大権現、並に素盞男命を奉斎し一般庶民の崇敬も厚い。往古は境内地を初め付近は桜樹多く、未だに当地名を桜株と称し、小田急線の開通以来桜丘と改めらる と。扁額「金比羅神社」。御祭神:金山彦命(かなやまひこのみこと)、素盞男命((すさのおのみこと)。「金毘羅神社昭和ニ十一年(一九四六年)、神社本庁に申請し、昭和ニ十八年(一九五三年)に登録神社となった。主祭神は金山彦命(かなやまびこのみこと)である。相殿は須佐之男命(すさのおのみこと)を御神体どしている。例大祭は七月十四日で、近年はこの日に近い土日に行われている。上和田字宮久保の神谷家の先祖が四国にお参りに行き、金毘羅様の分霊をいただいてきたのが発祥とされ、法戸時代末期の天保ニ年(一八三一年)十一月ころ、宮久保の裏山に金毘羅大権現として祀られていたと伝わる。桜株(現在の桜ヶ丘)に移住した人たちが自分たちの氏神を希望し、明治ニ十年(一八八七年)四月に現在地へ移設した。社殿は明治ニ十八年(一八九五年)の火災て焼失したか、十五年後に新築して境内を拡充した。さらに昭和十六年( 一九四一年)、深見神社が社殿を建て替えた際に、古い定物を譲り受けて現在の社殿を建てた。当初は葺屋根だったが、昭和四十四年( 一九六九年)にトタン板、昭和五十九年(一九八四年)に銅板にそれぞれ替わり、現在に至っている。御神体を収める本殿は、正面の柱いニ本て間口が一つである一間社流造・(いっけんしゃながれづくり) である。天保三年(一八三ニ年)に建築されたが、明治の火災で運び出されて被害を免れたのてはないかと推定される。原型を良く保っており貴重な遺構である。」社殿の横には保存が良い「庚申塔」があった。唐破風笠付角柱庚申塔月日・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿・道標宝永7年(1710)9月29日右側面「宝永七庚寅天 八王子ミち」・6人の名左側面「九月廿九日 大山ミち」・7人の名そしてこの日の散策をすべて終え、小田急線「桜ヶ丘駅」からの帰途についたのであった。帰宅して歩数を見てみると何と40049歩の表示に驚いたのであった。明日からは、「大和市の神社仏閣を巡る」の続きは一旦中断し、同期間に併行して行っている、同じく隣接市の鎌倉を歩く・『古都「鎌倉」を巡る』👈リンク を暫くの間アップいたしますのでアクセスをお願いいたします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.23
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして次に訪ねたのが「深見神社」の隣りにあった浄土宗の寺・「親縁山 一心院 佛導寺」。「親縁山 一心院」。「浄土宗 佛導寺」。徳本念佛塔。「南無阿弥陀仏 徳本(花押)」市指定重要有形文化財(有第六号)徳本念仏塔指定年月日 昭和四十七年ニ月ニ十五日形状 尖頭角柱型 高さ 一七四cm 幅 三五cm 奥行 三三cm年代 文政元年(一八一八)徳本行者は宝暦八年(一七五八)に紀伊国(和歌山県)で生まれ、江戸に一行院を創設し、近畿から関東地方にかけて念仏を広めた浄土宗の僧侶です。この徳本行者に帰依した人々が建立したものが徳本念仏塔です。碑面には、行者独特の書体で「南無阿弥陀仏」と刻み込まれています。この念仏塔は文政元年(一八一八)の造立ですが、文政元年といえば、徳本行者が相模国各地を巡錫(じゅんしゃく)した翌年にあたり、深見、瀬谷、鶴間などのニ百余名を数える人々が造立銘に名を連ねており、当時の民衆の信仰の一端を知ることができます。なお、市内には上和田薬王院境内に、もう一塔残されています。平成九年三月 大和市教育委員会」「山門」を見上げて。「山門」の扁額「親縁山」。「仏導寺所在の市指定重要文化財仏導寺は、によると天文年間( 1532 ~ 1555 )に称念上人が開山したといわれています。現在、本寺には大和市指定重要文化財が4件あります。坂本家の墓、梵鐘、慶長年間の墓徳本念仏塔です。坂本家は江戸時代の旗本であり、深見村を所領していました。坂本家の募は3基あり、板碑型のもので、被葬者は4代重安の弟の貞俊、3代貞吉、一3代貞吉の夫人の3人です。4代坂本重安は村内にあった1200坪の屋敷ガら大坂の合戦の時に出陣したといわています。梵鐘は元禄11年( 1698 )に江戸鋳物師木村将監・木村三郎の手で製作された梵鐘で市内では最も古い梵鐘です。慶長年間の墓は慶長3年(1598)の銘が刻まれた墓で、板碑型の形式で、雄大な石碑です。市域を含む近隣地では石塔を建てて故人を供養するという行為は1650年頃はまだ少数であり、貴重です。1650年頃から急激に増加し、以降50年を経過しないうちに、石塔を建てて供養するという行為が定着したといいます。徳本念仏塔は文政元年( 1818 )に建立された石塔で、尖塔角柱型の形式です。 大和市教育委員会」「徳本念仏塔」を別の角度から。「南無阿弥陀仏」碑。「月かげの いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」法然上人 御作。「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」と。「幼年時代の法然上人 勢至丸(せいしまる)さま」像。ニ体の地蔵尊。「香炉」とその先に「本堂」。「平和観音」像。近づいて。「平和観音」碑。「本堂」。「称念庵」は客殿か。本堂横の「墓地」を見る。「慶長年間の墓」、大和市指定重要文化財。慶長3(1598)年の銘が刻まれた板碑型の墓。大和市近郊では、故人供養のために石塔が多く建てられるようになるのは17世紀に入ってからなので、これはたいへん初期のものであると位置づけられる。また、この墓碑は一般の墓地に多く見られる七沢石ではなく、伊豆地方のものと推定される石を使っており、そういう点から見ても珍しいものと。「坂本家の墓」、大和市指定重要文化財。江戸時代、深見村の領主であった坂本家の墓。坂本家は、はじめ甲斐国武田氏の家臣でしたが、後に徳川氏に仕えた旗本。三基の墓は板碑型で、向かって右から四代重安の弟貞俊、三代貞吉、三代貞吉夫人のものと。それぞれ、承応2(1653)年、慶長11(1606)年、寛永13(1636)年の建立と。「十三重塔」。「水子地蔵尊」。「水子の霊」。「水子の霊」。「鐘楼」。「梵鐘」。「市指定重要文化財(有第十四号)仏導寺梵鐘指定年月日 昭和五十六年八月一日総高 一一七cm口径 六六cm形姿は直線的て、笠形は低く、乳の間は丈長く、乳は五段五列に配置され、縦帯の上部にも一段ニ個の乳が付けられています。撞座(つきざ)はニ箇所で、下帯に蓮唐草を施しています。銘文は池の間と縦帯に鏨(たがね)て陰刻されていて、本寺の開山が「称念上人」てあることがわかります。また「心覚道春居士」(坂本家三代目貞吉)や「花岳栄心光姉」(貞吉夫ん)、「常玄院日意士」(五代目重治)の名も刻まれています。この鐘の鋳工は江戸の鋳物師(いもじ)木村将監安継、同三郎兵衛安信て、元禄十一年(一六九八)に鋳造されたものてす。市内に残る梵鐘としては最吉のものです。平成ニ十三年三月 大和市教育委員会」「掲示板」。「境内」から「山門」を見る。「南無阿弥陀仏」碑の裏には昭和五十三年十月中平和友好条約締結、仝年四月日本中国農業農民交流神奈川県協会設立サレ五十五年九月訪中団ニ参加 東北地方旧満州國視察維持高祖善導寺大師千三百年御達忌宗祖法然上人御降誕八百五十年ニ相當為先亡戦死諸精霊併先祖代々諸霊菩薩 建立 合掌」と。そして「佛導寺」を後にし相鉄本線沿いに出て西に進む。左手に「深見神社」の案内板が。そして「相鉄本線」の踏切を渡る。民家の庭には木瓜(ボケ)の真っ赤な花が。道路の三角地帯にあった石塔群。大和市深見台3丁目5付近。「地神塔」。そして訪ねたのが道路脇の近くにあった小さな「社」。工事中で正面には入れなかったが。そして再び踏切を渡り元の道に戻り、相鉄線大和駅に向かって進む。途中から美しいプロムナードが出来ていた。大和駅の東西に伸びるプロムナードは、平成6年相鉄線大和駅の地下化の完成に合わせ整備された歩行者専用道路で、相模鉄道線と小田急江ノ島線が立体交差する駅舎を中心に、東に大和歩行者専用道7号線、西に大和歩行者専用道8号線が展開している。東端は4号線と接し、西端からは親水公園・泉の森方面へと散策路のアプローチが続いているのであった。自宅の近くを通ってこの場所を通過している国道467号を渡る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.22
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「境川」に沿って暫く北上し、その後北西に向かい「浄照院跡」に到着した。「じょうしょういんあと。浄土宗親緑山一心院仏導寺の末寺。開山・開基は不明。昔は清浄院といい、遊行寺に属した寺で本尊は阿弥陀如来でした。」「昭和九年 南無涅槃釈迦年尼佛」(左)と右の塔婆には「施餓鬼会 為釈迦堂諸精霊追善菩提」と。「深見村傳兵衛 青木氏歴代諸霊之霊位」と刻まれた墓石。「青木家之墓」。そしてその先にあったのが「深見神社」の東参道の石鳥居(明治29年10月建立)。社号標石「郷社 深見神社」。「深見神社」の南側に廻り境内へ。正面に「拝殿」が見えた。大和市深見3367。「御由緒深見神社(旧社格郷社)御祭神 闇龗神 (くらおかみのかみ) 武甕槌神 ( たけみかずちのかみ ) 建御名方神 ( たけみなかたのかみ )例祭日 九月十五日我国の神社総覧とでもいう記録で最も古いものは延長五年(九二七)に奉進された「延喜式」神名帳であるこれに記載されている神社を延喜式内社と呼びならわし古社であることを意味し当神社も延喜式内社で相模国に十三座ある内の一座である創建年代と御祭神は「総国風土記」によれば「相模国深見神社雄略天皇二十二年三月(約一千五百年前)に祭るところ闇龗神なり」と記されている神社縁起によれば「武甕槌神東国鎮撫のため常陸鹿島に在られしとき船師を率いてここに進軍され伊弉諾神の御子の倉稲魂神と闇龗神(雨神)は美田を拓き土人を撫して郷を開かれた」とある 即ち深見の名の起こった所以である後世徳川時代になると深見は旗本坂本家の知行地となり坂本家の崇敬する鹿島神宮(武甕槌神)から分霊を受けて従来から祀られていた闇闇龗神は境内にある御倉稲荷神社に合祀された以来深見神社の祭神は武甕槌神(武運長久)となった平成二十四年三月に現社殿再建七十年を節目として 創建時の御祭神の闇霞神を本殿に合祀した明治九年 火災により社殿工作物などを悉く消失明治四十二年 末社の諏訪神社(建御名方神)合祀昭和十七年三月 現在の社殿再建」「手水舎」。「社殿・拝殿」。近づいて。深見神社の創建年代は不詳ですが、雄略天皇22年(485)の創建と伝えられ、延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳に明記された延喜式内社の一社。江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿には「鹿島社」として見え、明治6年には郷社に列格したとのこと。社殿前の両脇には五色の吹き流しが。真榊(まさかき)と呼ばれるものであろうか。真榊(まさかき)とは、神事の場で祭壇の左右に立てる祭具。 緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟(のぼり)の先端に榊(さかき)を立て、三種の神器を掛けたもの。「五色」(ごしき)は、古代中国の「五行説」(ごぎょうせつ)に由来している。万物は、木・火・土・金・水の五つの要素で形成されているとの考え方であると。木は青・火は赤・土は黄・金は白・水は黒を表現しているのだと。社殿の見事な龍の彫刻。社殿横の建物は?ハルニレ(なんじゃもんじゃの木)「かながわの名木100選 深見神社のハルニレ和名:ハルニレ(ニレ科)幹はまっすぐに高く伸び、県内でも屈指のハルニレの巨木である。当神社の御神木で、樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれてきた。大和市の天然記念物に指定されている。樹高30m 胸高周囲4.0m 樹齢 約400年(推定)」ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45m、胸高周囲8m、樹齢約600年に達するものもあると言われている。」「市指定史跡名勝天然記念物(記第ニ号) ハルニレ指定年月日 昭和四十七年ニ月ニ十五日樹種 落葉高木(ニレ科)形状 樹高30m胸高周囲 4m推定樹齢 約五〇〇年ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の一〇〇〇m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったため「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。葉は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。四、五月、葉の開く前に小さな花を七、十五個ほど束状につけます。六月には扁平な広い翼を持った果実が熟して落ちます。大和市教育委員会」「なんじゃもんじゃの木」の白い花をネットから。 【https://twitter.com/hiroshisj/status/1122266900367417345】より「靖國社」碑。「靖國社(厚木空神社)」。厚木空神社は、昭和19年11月に海軍厚木飛行場の敷地内に、首都防衛の任に就いていた第302航空隊の殉職将士を祭神とする天照大神を祭る社殿が鎮祭建立されたもの。終戦時、進駐してくる米軍が社殿を破壊することを恐れた若手将校により、祭神103柱の霊璽簿と鎮祭の時賜った宝剣(靖國神社宮司鈴木孝雄陸軍大将から奉納された靖國刀)とともに深見神社境内に奉遷された。その後、昭和26年4月7日、新たに祭神として深見集落出身で明治10年の役以来の戦没者を合祀し、厚木空神社を宝剣靖國刀に因み靖國社と改め、毎年4月第1日曜日を例大祭の日と定め祭事が行われている と。後方の石碑には「雄飛」の2文字が刻まれていた。「靖國社(厚木空神社) 内陣」。その横には「御倉稲荷社」。境内社であり、以前は闇龗神と倉稲魂神がお祀りされていた「御倉稲荷神社」。現在は闇龗神が本殿へ合祀されたため、倉稲魂神のみがお祀りされているのだと。深見神社の古社地と云われ、かつてはこの辺りに深見神社の拝殿が東向きにあったとされると。「御倉稲荷神社 内陣」。「御倉稲荷神社」の横にあった石碑「敬龍」ではないかと先生から。「社務所」。「神楽殿」。再び「深見神社」の東参道の石鳥居(明治29年10月建立)。扁額「深見神社」。そして石鳥居を潜り境内へ。右手に「社務所」。「靖國社(厚木空神社)」と「御倉稲荷社」を見る。こちらが「深見神社」の西参道の石鳥居、社号標「延喜式内 深見神社」。ちなみにこの地の名称「深見」は、『和名抄』に「布加美郷」と記されている古くから伝わる呼び名で、太古(どのくらい昔のことを指すのかは不明)この一帯は相模湾が湾入していて、古くは「深海」あるいは「深水」(どちらも読みはふかみですね)として相模原の東岸一帯のことを指していたと云われています。神社がある場所は境川によって削られなかった台地上に当たります と。「相模國十三座の内郷社深見神社碑」。尖頭角柱型(せんとうかくちゅうがた)の石碑で、高さ146cm×幅31cm×奥行25cm。寛政3(1791)年の銘があり、深見村の領主である旗本坂本家が造立したと伝えられている。正面には「相模国十三座之内深見神社」と刻まれ、延喜式内社であることがうたわれている。※延喜式内社…「延喜式」神名帳に載っている神社。神衹官のまつる官弊社と、国司のまつる国弊社に分類され、さらに大社と小社にわけられる。西参道の鳥居の横にあった「富澤稲荷神社」。大和市深見3367。「社殿」。「相武郷土熱愛之碑」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.21
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「瀬谷左馬神社」を後にし、北側近くにあった「西福寺」を訪ねた。「西福寺」参道入口より境内に入る。横浜市瀬谷区橋戸3丁目21-2。「西福寺」と刻まれた石碑。「横浜瀬谷 八福神 西福寺 布袋尊」と書かれた幟が。この石碑の文字は?「花下祖神現手身 水透尊者匿頭御」ではないかと先生より。左手に「六地蔵尊」。その横に「子育地蔵尊」。「六地蔵尊」を正面近くから。宝永4年( 1707 )の富士山大噴火の災害供養のため、宝永7年(1710 )に建てられたといわれ、身代わり地蔵尊として信仰された。前面の六地蔵像は昭和51年( 1976 )に奉納された。後ろには、お顔のない先代の?六地蔵様が並んでいた。「・自利利他の精神とは、利は仕合せという意味とされ相手の幸せを思いやるままが自分の 幸せとなるというそれが大乗仏教の理想とされています。 おもいやりがめぐってゆきますように。 ・あなたにも私にもありがとう ・信じて行けばあなただけの道となる。 ・疲れたら休め平常心が戻るから ・今月の花 匂い椿:港の曙(みなとのあけぼの)」「本堂」。猿王山本性院西福寺、本尊は不動明王、真言宗豊山派で奈良県の長谷寺の末寺。記録によると、善海和尚が天文3年(1534 )に創建、中興開山は江戸時代初期「円仲和尚たち」と伝えられています。関東大震災で倒壊した本堂は昭和5年(1930 )に新築、昭和57年(1982 )に増改築が行われて現在に至っています。かつては、極楽浄土があるとされる西を正面として、境内の地形が扇状に広がっていたことから、西福寺と名付けられたのだと。「本堂」の扁額は「猿王山」。「内陣」。写真での「西福寺」紹介書。「本堂」前には江戸時代(明和7年)の「宝筺印塔」が。中には陀羅尼経が収めらていると。「本堂改修浄業記念」碑。「南無大師遍照金剛」 の文字と空海の姿が描かれていた。「茶筅塚」。今まで色々な塚を見たが、茶筅の塚は初めてではなかろうか。古くなり使わなくなった茶道具を供養する茶筅(ちゃせん)供養を執り行うと。「水を運び 薪をとり 湯をわかし 茶をたてて 佛にそなへ 人にもほどこし 吾ものむ」千利休の名言であると。「水を運び、薪をとってきて湯をわかし、茶をたてます。 たてた茶を仏様にお供えし、客に飲ませ、自分も飲みます。 それが茶の湯です。」と。「山王堂」。「当山鎮守 吉縁守護 山王堂」と刻まれた石碑。裏面には「さびさびと 心静もる西福寺の 千年椎のかえに 佇て生(たてば)」「山王堂」正面。「千年椎」樹齢約800年と推定される大霊木で、幹の周囲は6メートル余り、市の名木古木指定を受けている。「名木古木指定 スダジイ」。小僧さんが座っている柱には、『とわのひじりに まもられて つきぬいのちの ひとしさは みのりのさけび きよらかに すくいのみちぞ かぎりなし』と刻まれていた。「小僧さん」をズームで。「寺務所」。「さいふくじ ほてい堂」と刻まれた石碑を斜めから。「法悦も かく日當れる 花の寺」(小林三青)の句碑。「ほてい堂」を正面から。近づいて。「内陣」。背伸びをする布袋様の姿も。「布袋尊」大きなお腹に思わず顔がほこ ろんでしまう布袋様は、唐の時代に実在したお坊さんがモデルであると。福徳円満の神様。「瀬谷八福神」が描かれた絵皿。「仏足石」。「光明 真言 佛足跡」と刻まれた石碑。根府川石の自然石に刻したという「筆塚」。裏面には「ふるき筆 きりぎりすとや 成りぬらん 土の中にぞ ふみはをさめし」の舟芳自作の歌が刻されていた。「横浜市瀬谷区橋戸、閑静な住宅地の一角に樹々の美しい寺がある。天文3年(1584)に創建された猿王山本性院西福寺(現住・備前恭忍師)である。静かな参道行くと、境内中央には樹齢約八百年といわれる「千年椎」(横浜市名木古木指定)が姿を現し、幽玄な風情がただよう。本堂前には江戸時代(明和7年)の宝筺印塔があり、中には陀羅尼経が収めらている。西福寺には、参道の寺号碑をはじめ、水川舟芳揮毫の石碑が11基もあり、小林三青の句碑などとともに、「いしぶみの寺」としての風韻を漂わせる。寺の玄関には、「諸法無我」の衝立、・「愛幽棲」の扁額が飾られ、本堂や庫裏には20点を超える舟芳作品が収蔵、展示されている。本堂にある山号を刻した「猿王山」の額も舟芳の揮毫で、玄関前の庭には三連の漢字かな交じり文の「得度式記念三碑」が立てられている。本堂前には「本堂改修浄業記念碑」、「茶筅塚」。布袋堂前には、「ほてい堂碑」、「千年椎」を挟んで山王堂前には「山王堂碑」、その横の仏足石に並んで「仏足石碑」。墓地に近い裏手には、根府川石の自然石に刻した「筆塚」がある。彫りが深く「筆塚」の文字が雄渾に響く。碑陰には、「ふるき筆きりぎりすとや成りぬらん土の中にぞふみはをさめし」の舟芳自作の歌を刻している。台座を含め3 メートルを起えるこの筆塚は、舟芳書業30年、芳林書道院20周年を記念してたてられたもので、住職とともに根府川まで足を運び石を選んだと言い毎年11月3日(文化の日)に、この前で供供養のお燹き上げが挙行されている。」「西福寺」を後にして、橋戸第122号線を北西に進むと県道40号線・厚木街道の合流地点の手前の右側の高台にも神社があった。横浜市瀬谷区橋戸3丁目5-12。石鳥居の扁額「稲荷神社」。新しい小さな社殿。近づいて。そして県道40号線・厚木街道を境川方面に西に進む。そして前方に境川に架かる橋が。前方の尖塔がある建物をズームで。「末日聖徒イエス・キリスト教会日本藤沢ステーク大和ワート」。「末日聖徒イエス・キリスト教会(まつじつせいと イエス・キリストきょうかい、英: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 略称: LDS)は、1830年にアメリカ合衆国で宗教家ジョセフ・スミス・ジュニアによって回復されたキリスト教系の新宗教。通称のモルモン教は教典の一つである『モルモン書』に由来する。ただし教会の指導部は「モルモン教」という呼称について、信徒に対し「使用を推奨していない」」とウィキペディアより。そして「境川」を渡り再び大和市に戻った。橋の名は「境橋」と。境橋を渡り、川に沿って上流方向に進むと、「境川」のコンクリート製の堤防の擁壁には「水位計」が取り付けられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.20
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「宗川寺」を後にして寺の横の「橋戸197号線」を北上する。直ぐ右手、石段の上ににあったのが「新道稲荷神社」。横浜市瀬谷区北新26-20付近。石段の途中から「社殿」を見る。住所は北新(きたしん)であるが、名前には「新道」と近くの地名が。北新は、「昭和57年の 町界町名地番整理事業の施行にともない、瀬谷町の一部から新設した町。町名は、「北村」、「新道」の字名があり、 通称の「北新」を地元の要望により採った」と。昭和14年に瀬谷村が横浜市に編入合併され戸塚区の一部となり 昭和44年に旧村域が瀬谷区に分区しているようであった。「内陣」。そして更に進むと民家の塀に濃いピンクの「アセビ」の花。更に住宅街を北上する。「左馬神社」の手前の三叉路の中央が三角形状のロータリーの如くになっており、そこには石碑が並んでいた。瀬谷区橋戸3-20-6付近。向かって左から、石祠、庚申塔、地神塔、道祖神の4基。一番左の「石祠」。「青面金剛刻像」。上部に梵字。青面金剛が餓鬼をふみつけ、その下に三猿。元禄十年(1697年)と古い建立。「文字型地神塔」。明治四十三年(1910年)の文字が。「文字型道祖神」。明治四十四年(1911年)四月建立。左側面には「橋戸講中」と刻まれていた。その先に「瀬谷左馬神社」の石鳥居が。大正七年九月十日 建立と刻まれていた。横浜市瀬谷区橋戸3丁目20-1。扁額は朱の文字で「左馬社」と。「鐘楼」。「梵鐘」。「左馬社と梵鐘その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民族信仰が盛んでした。(七サバ参り)当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は佐馬頭源義朝です。隣接の真言宗西福寺が、この社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことです。梵鐘は江戸時代の文久元年(1861年)に鋳造されましたが、太平洋戦争の際供出したため、昭和32年(1957年)氏子の協力によって新たに現在の鐘がつくられました。」「神輿舎」。「手水舎」。「神楽殿」。「社務所」。狛犬・阿形像(右)。狛犬・吽形像(左)。そして「拝殿」。扁額「左馬神社」。「内陣」。「境内社」の石鳥居。境内社(右から豊受大神、稲荷社、天満宮、古峯神社)。豊受大神。稲荷社。瀬谷天満宮。古峯神社。新しい石の方に「文塚」と。「文塚」とは詩文などの草稿を埋めて供養や記念のために建てた塚とネットにはあるが。そして次の目的地「西福寺」に向けて進む。満開のこの桜の種類は?既に散り始めていたが。椿の花も豪華に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.19
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線」に戻り北東に進む。「新道大橋(しんみちおおはし)」交差点の先に「境川」に架かる青い橋が見えて来た。「境川」に架かる「新道大橋」は、江戸時代中原街道の開通とともに開発されたと考えられている。江戸の繁栄とともに、街道の改修が実施されたときに、旧来の道に対し新道の呼称が定着し、今でも橋の両岸の字名として新道等の地名が残っている。境川は、横浜市瀬谷区と大和市との市境である。街路灯に特徴がある「新道大橋」を渡り再び大和市から横浜市瀬谷区に入る。「境川」の下流側を見る。橋名板(きょうめいばん)「新道大橋(しんみちおおはし)」。多くの橋名板での、記載事項の設置位置は次のようになっているのだと。・道路起点側から見て左側に「漢字表記の橋名」・道路起点側から見て右側に「交差する河川(鉄道)などの地物名」・道路終点側から見て左側に「竣工年月」・道路終点側から見て右側に「ひらがな表記の橋名」しかし、この「新道大橋」はそうなっていなかった。理由は??真ん中に市境がある為か?左手には「横浜瀬谷西郵便局」があったが外で順番に並ぶ人の姿が。横断歩道を渡り道路の反対側を進む。そして路地の左側奥にあった神社。これも「稲荷社」であろう。暫く進むと左手にあったのが日蓮宗の寺・「白東山 宗川寺」。横浜市瀬谷区北新26-13。寺号標「日蓮宗 白東山 宗川寺」。正面に立派な山門。横浜市名木古木指定宗川寺(そうせんじ)の夫婦銀杏(北新26番地13 )宗川寺は、寛永2年(1625年)北山本門寺第12世日賢上人が開山、開基は瀬谷の住人で篤い信仰心のあった石川宗川であり、その名から宗川寺と名づけられました。山門脇の2本の銀杏は、横浜市名木古木の指定を受けた夫婦銀杏で、昔から多くの方が安産・育児を祈願するために参詣に訪れています。中原往還と瀬谷問屋場跡中原往還(中原街道)は、小田原北条氏が支配していた頃の道を、徳川家康か平塚(中原)に御殿を建て、そこへ通う道として整備した江戸柴口から瀬谷を経て平塚御殿町に至る新道です。瀬谷問屋場は、江戸と平塚(中原)間5駅の中宿で、徳川家康の江戸開府により、駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を託され、江戸時代270年にわたり、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継送の役割を果したところです。(これより東方80km付近がその跡だと言われています)。山門の扁額「白東山」。「横浜瀬谷 八福神 福禄寿」。「観音像」か。お顔をズームで。題目碑「南無妙法蓮華経」。「福禄寿尊堂」。扁額「福禄寿尊堂」。「福禄寿尊」。「福禄寿尊」は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国、道教の長寿神。南極老人星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人である。長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴である。招徳人望の神様として信仰されている。宗川寺の大樹夫婦銀杏宗川寺は寛永二乙丑年(一六二五)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川である。山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。中原街道瀬谷問屋場跡中原街道瀬谷問屋場は天正六戌寅年(一五七八年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代二七〇年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方八〇米、桧林がその跡である。)横浜市の「名木古木 イチョウ」そして綺麗に玉砂利が敷き詰められた境内の桜の大樹。「手水舎」。「鐘楼」。「梵鐘」。「日蓮聖人像」か、それとも開祖の駿河重須本門寺第十二日賢上人像か。境内の桜の大樹を見上げる。桜の花も咲きでして。「本堂」正面。香炉には見事な狛犬に似た彫刻が。「本堂」の扁額「宗川寺」。「本堂内陣」には日蓮のお姿が。「本堂」から境内を見る。「寺務所」。この建物は?「本堂」前から桜の大樹を再び。「殉国勇士之墓」。「歌碑」。「聖棲む 御会式桜に 祖が蹟を まつりいのらむ 千代之後」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.18
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「徳善寺別院 全通院」を後にし、「環状4号線」の歩道橋を渡る。「環状4号線」の相鉄線「瀬谷駅」方面を見る。「相沢川」を渡る。「相沢川」の下流側を見る。この先で1500m程で「境川」に合流するのだ。橋の名は「東橋(あずまはし)」。「下瀬谷公民館前」交差点を左折し「さくら小学校北側」交差点を渡る。「横浜市立瀬谷さくら」小学校。入口付近の非常用階段?の壁も桜色。そして「境川」を渡る。橋の名は「宮久保橋(みやくぼばし)」。「境川」。「境川」の上流側。白き流れ。オオバン(大鷭)であろうか?そして「境川」沿いを上流側に向かって歩き、「宮久保1号公園」の手前を左に折れると前方に神社が。「渡邉組稲荷神社」。「三貫目稲荷」とも呼ぶようであった。大和市上和田2390付近。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「社殿」の狐様。「社殿内陣」。境内には「水神 地神塔」が。「渡邉組稲荷神社」の名前の「渡邉組」が何故か気になったのであったが、ネットからは明らかにならなかったのであった。そして「宮久保1号公園」裏側を通過。進行方向左側の林は「久田緑地(くでんりょくち)」「かながわのナショナル・トラスト2号緑地」久田緑地についてこの緑地は線地東部を流れる境川のゆるやかな河岸段丘に沿って約1キロ伸びる樹林地で、近代以前から人々の生活に必要な燃料や木材なとを供給するために大切に扱われてきました。現在では土地所有者の協力により雑木林や人工林、竹林なと様々な環境の中で、多種多様な動植物が生息する自然生態系の保全が図られ、樹林地と周辺の畑や屋林が織りなす農村景観が雅持されています。」。様々な樹木が生い茂っていた。キクザキリュウキンカ(菊咲立金花)に似ているが。薄いピンクの八重椿。そして「神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線」を小田急江ノ島線方面に向かって坂道を進む。左手奥にあった小さな社。「内陣」。「豊川閣寚牘守護攸」と書かれた豊川神社の御札が中に。道路の拡張工事が行われていた。「県道45号(丸子中山茅ヶ崎)事業案内」。幅員 27.0m 、事業延長 約1.0km の4車線化工事のようだ。そして左に折れ進むと「上和田左馬神社」入口手前にあった石碑群。「念佛供養塔」。「庚申塔」文政六年(1823)正面:《青面金剛立像(合掌六臂》《日》《月》《三猿》左面:相州高座郡上和田村 施主 神谷平兵衛右面:文政六癸未十一月吉日地蔵尊?「文字庚申塔」。「山王大権現」碑。「地神塔」お顔は損傷しているが、両手で盛り花を持っていると。「地神右面に供養 相州和田村久田村中」左面に「寛政三辛亥十月吉日」と彫られていた。角柱? 「□田彦大神」・道標 造立年不明 11月右側面「□□・・年十一月吉日 上和田 講中」左側面「西あつぎ 東ほしのや 道」「青面金剛立像(合掌六臂》 《三猿》」安永八年(1779)。左面:安永八亥年九月吉日 庚申供養。右面:右 ほしのや道 久田村中。反対側から再び。そして「上和田左馬神社」入口。社号標「左馬神社」。「左馬神社一、御祭神 左馬頭義朝一、鎮座地 大和市上和田一一六八一、例祭日 九月二十四日由緒宝暦十四年三月、桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・小川清右門この地に宮を建立。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神道場となるや漸次庶民の崇敬の的となり文化三年四月三日、上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与う。以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬者多し。尚、境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斉し、国土安穏氏子崇敬者の安泰(疫病、痘瘉、厄除)守護を念ずる参拝者今尚多し。境内三社殿御祭神 天照皇大神(中央) 神武天皇(向かって右側) 須佐之男命(向かって左側)」「鐘楼堂」。「鐘楼堂」は昔からの藁葺で破損も進み見苦しくなったため、昭和四十七年九月二十四日改築され現在に至る。「梵鐘」。庶民の平和を願う神鐘は、文政十一年九月上句の作と伝えられている。この神鐘は昭和十八年第二次世界大戦の際に軍部の命令により供出を余儀なくされた。そして終戦後、昭和二十八年頃社会情勢が落ち着く頃、昔懐かしき平和の鐘の音を取り戻したい氏子の願いにより、昭和二十九年春に現在の神鐘が鋳造されたのだと。神鐘の局さ 120cm直径 60cm重量 301. 5kgなお、文政十一年九月作の神鐘の彫字は戦中供出する時点に書写され原文は次のように記されているのだと。掛畏左馬大明神者相陽鎌倉高座之鏡平流川遷左右仁宮柱太メン敷立七箇所之内に鎮り坐すー側の御神と而霊験殊に新たに然往右当社有之所鐘中津猶今般氏子致円情御当主御武運切中蒼生子々孫まで安全祈耳千早振神遷綿娯民分双方琉馬斯安占廼丹戻稲之甫苔細<挃夫>楼徳門神楽殿と神輿殿(八坂神社お仮屋)。「鐘楼堂改築紀念碑」。「手水舎」。「社殿」。周辺12箇所のサバ神社のうち、上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、瀬谷の7つのサバ神社に参拝すると厄除けとなるという、「七サバ参り」という信仰があり、この神社もその7社のうちの一つ。この地区には数えで13または14歳の男子が地区内の家々を回り、無病息災を祈願しながら鉦を鳴らす「ジャンジャン講」という伝統行事が今も残っており、この神社はその出発点となる。屋根の「社紋」は「笹竜胆」。扁額「左馬社」。「社殿」から境内を見る。「八坂神社」(三社殿)。境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命の三神を奉斎したもので、国上安穏と氏子崇敬者の安泰(疫病、痘癒、厄除)の守護神として崇敬されてきている。この社殿は昭和五十一年に改築されている。社殿は三神をそれぞれ分けて奉斎しており向かって向かって右側が神武天皇、中央が天照皇大神、向かって左側が須佐之男命 が祀られている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.17
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「宮前橋」を渡り西に進み坂を上って行き急な左カーブの先にあったのが「宮沢神明社」。「宮前橋」の「宮」は「神明社」のことなのであろう。横浜市瀬谷区宮沢3-21-7。石段を上ったところにあったのが「一の鳥居」。「手水場」。「二の鳥居」。「狛犬・阿形像」。「狛犬・吽形像」。「拝殿」。祭神は天照大神。その創建年代は明らかではないが、江戸時代の寛永年中(1625年~1635年)旗本石川六左衛門重勝支配下の上矢部村民が荒地を開墾して宮沢に集落をつくったと言われ、承応元年(1652年)に検地が行われていることから、建立はその前後と思われる。当時より諸人の崇敬を集め今日に至っている。社殿の左には「農耕の神」と「養蚕の神」が祭られており、9月の最終土曜日に祭礼を行う。現在の社殿は昭和63年(1988年)1月23日に氏子の寄進により再建された。「拝殿」の龍の彫刻。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。「本殿」を横から。境内の大樹。「奉祝 平成御大典記念植樹」と書かれた札が。よって樹齢32年になる大樹。「神楽殿」。「神明社新築落慶紀念碑」。「境内社」。「三峯神社」(右)。扁額「三峯神社」。「内陣」。「白姫神社」。扁額「白姫神社」。「内陣」。「花桃(ホウキ桃)」であろうか。「赤堰子供の遊び場」近くを過ぎ、山道を上って行った。民家の塀から垂れ下がっていた「黄梅(おうばい)」枝垂れた線色の枝から、葉の出る前に黄色い六弁の小さい花を咲かせていた。そして次に訪ねたのが「徳善寺別院 全通院」。裏口から入って行った。赤い屋根が特徴的な、勢至堂(せしどう)。「本堂」。全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っている。相模国深見村の中丸佐源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し、全国に巡礼し喜捨を請け、徳善寺に納めた。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられている。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年(1797年)に現在の堂が建立されたと書かれていた。地元では、「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれている。扁額「全通院」。「本陣」。「子育地蔵尊」の祠。近づいて。多くの墓石が並んでいたが・・・。「下瀬谷分教場跡(勢至堂(せいしどう)と大藤(おおふじ)明治22年(1889年)の市町村制の実施により瀬谷村、ニッ橋村、宮沢村が合併、一村となりました。この合併により瀬谷小学校の通学区域カ昿くなったため、低学年児童の通学の便を考慮して、明治23年(1890年) 11月に分教場をこの全通院勢至堂境内に設けました。この分教場は昭和18年(1943年)の学区改正によって廃校になるまで、50年にわたり数多くの児童が通学しました。また、この境内には「横浜市の名木古木」に指定されている藤の大樹があり、その花の咲く頃は誠にみごとなものです。全通院勢至堂は曹洞宗瀬谷山徳善寺別院として、勢至菩薩を本尊として祀っています。相模国深見村の中丸佐源太が、一夜霊夢に導かれ鹿島神社の旧跡から勢至菩薩の像を発掘し全国を巡礼し喜捨を請け、徳善寺に納めました。その後、この全通院阿弥陀堂に遷座したと伝えられています。屋根の改修時に発見された棟札には江戸時代の寛政9年( 1797年)に現在のお堂が建立されたと書かれていました。地元では、「お勢至様(おせっさま)」「勢至堂(せしどう)」とも呼ばれ親しまれています。12年に1回、午年の8月23日に開帳されます。」「藤棚」。「フジ(藤)」の老木。「祈願皇軍必勝東亜新秩序建設完遂」碑。右手に「稲荷大明神」。真っ赤な「社殿」。「内陣」。「奉納・鮮麗のふじ・工作物の建立昭和62年6月吉日仙田隆」と書かれた木札が。「藤棚」を振り返る。そして本来の参道の石段を降りて行くと、前には横浜市主要地方道18号・「環状4号線」が。階段の途中にあった社号標「全通院 勢至堂」と「地神塔」や「庚申塔群」が。「単体道祖神」。「堅牢地神塔」。「文字庚申塔」碑他の庚申塔群。「参道入口」。「全通院勢至堂」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.16
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「和泉川」に向かって細い農道を下って行った。下りの坂道の途中左手にあったのが「山王稲荷神社」。階段横の薄いピンクの「馬酔木(あせび)」の花が鈴なりに。朱の鳥居が2基。社殿も2基。左が「山王社」右が「稲荷社」よって「山王稲荷社」。納得!!「山王社」。「内陣」。「稲荷社の祭神」。「稲荷社」。「内陣」。「山王社の祭神」。そして「和泉川」に架かる「山王橋」に到着。「さんのうはし(山王橋)」。「和泉川」の上流を見る。そして目的の「宮沢遊水地」に架かる「めがね橋」に。「めがねはし」。「溢流堰」の上から「めがね橋」を見る。Google mapから。青線---が「溢流堰」の部分。宮沢遊水地は、和泉川の洪水を貯留する施設で貯水量は約5万m3である。そして「溢流堰」の先には「河津桜」?「おかめ桜」?が満開。その先には花のピークを過ぎた辛夷(こぶし)?モクレン?の花が。「和泉川水緑のウォーク」案内板。「めがね橋」を上流側正面から。「めがね橋」下から下流側を見る。手前に「飛び石橋」。数日前の大雨の影響で水位が高くなっていて渡れなかった。めがね橋の下を通過。そして反対・下流側から。「和泉川宮沢遊水地」案内図。「めがね橋」を反対側から。路面が微妙に盛り上がって。左手が「和泉川」からの「溢流堰」部分。そしてベンチでコンビニのおにぎりで昼食。セキレイが近くまで来た。おにぎりを食べながら、青空に映える桜の花見。そして上流側にある橋に向かう。橋の名は「宮前橋」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.15
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「薬王院」を後にして「境川」に向かって歩を進める。左手にあったのが「日枝社」。大和市上和田2439付近。「社殿」。かつて中島と呼ばれた土地で、昭和7年に火事にあって立直したときは大字上和田で寄付を募ったが、以後は中島部落で 修理して来ているという。左側は青面金剛庚申塔で、元文4年の建立。右側は「為奉献御 覚 前」の文字が。背面を。そして前方に「境川」が姿を現した。右側に拡がる大きな団地・「上和田団地案内図」。前方に「下分橋」を見る。「境川」の上流側に沿って歩いて行く。ここは境川沿いのサイクリング道路にもなっていた。「境川」の川原の石の上で大きな亀が夫婦で?日向ぼっこをしていた。左手にあったのが、「内田稲荷大明神」。鳥居の扁額「内田稲荷大明神」。「社殿」。石塔には嘉永の年号が。そして「上和田城山遺跡」に建つ「神奈川県立大和南高等学校」の前を通過する。「上和田城山遺跡」案内板。「上和田城山遺跡神奈川県立大和南高校建設に先立ち埋蔵文化財の発掘調査が昭和52年・53年に実施され、この一帯は旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡であることがわかりました。旧石器時代の狩人たちが残した石器は赤土(関東ローム層)の中から発見されていますが、最も深いところでは、地表面下約3.5mのところから狩猟具、加工具、調理具等の石器が出土しています。境川流域を狩猟対象地域としていた集団が、何回かにわたり残していったものと考えられます。特質されるものとしては、旧石器時代最終末に細石刃を主な狩猟具として使う時期があリますが、本遺跡からはその細石刃を大量生産するための製作技術を復元できる資料が発見されています。円礫を分割して複数の細石刃石核(石器をつくるための元になる石器)を作リ、その細石刃石核から細石刃を製作するという一連の製作工程が明らかになリました。(本選跡の出土資料は神奈川県指定第要文化財の指定を受けています。)大和市教育委員会」更に杉林の中を歩いて行く。そして再び「境川」に辿り着く。「上和田二号橋」を渡る。右手に「宮久保スポーツ広場」。大和市上和田2152−1。左手に「大和市 宮久保公園」。大和市上和田1320-1。この先にも橋があった。「境川」に流れ込む「相沢川」。「準用河川 相沢川」。「準用河川」とは一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」のうち、市町村長が指定し管理する河川のことである。「相沢川」を渡ると「大和市」から「横浜市泉区」に入る。そして住宅街の坂道を東に向かって上って行った。突き当りを左折して進む。100mほどで右に折れ進むと右手にあったのが「神奈川県立横浜ひなたやま支援学校」。横浜市瀬谷区南瀬谷2丁目20。畑道の脇にはツクシ(土筆)の群落が。林に沿った細い道を進んで行った。そして目的地の「宮沢六道の辻」に到着。横浜市瀬谷区宮沢4-20。一面に農耕地の拡がる中の六叉路。六道の辻とは仏教でいう地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への分かれ道のこと。昔は宮沢新田から藤沢道、弘明寺観音から座間星の谷観音への信仰の道として利用されていたと。「奉造立地蔵菩薩」碑。「六道の辻 改修記念碑」。赤い布で覆われた小さな地蔵菩薩さまが置かれていた。「宮沢六道の辻江戸時代の承応元年( 1652年)に行われた検地に先だち、旗本石川六左衛門重勝が領地内の米の取高の不足を補うために、支配下の上矢部村の村民数人をここに入植させ、開墾したと推測されています。六堂の辻とは仏教でいう地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への別れ道ということで、地蔵尊がその道を示され、当時の農民はこの地に自分達の終生末代の安楽を求め願いました。この6本の道のうち、1本は宮沢新田よリ藤沢道、1本は横浜弘明寺観音よリ座間星の谷観音への信仰の道として残リ、今でも星の谷道と呼ばれています。地蔵吾薩の坐像と正徳5年( 171 5年)建立の石碑があり道標を兼ねています。現在の辻は、平成6 (1994年) 9月に改修されたものです。」小さな塚になっていた「宮沢六道の辻」。そして次の「山王稲荷社」に向けて畑道を歩いて行った。左手には濃いピンクの桜の花が八分ざきに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.14
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次小田急線「高座渋谷駅」前から国道467号に出る。このあたりは道路脇には桜並木が続いているが、1週間以上先のようであった。国道467号を渡り東に進むとあったのが「南大和病院」。周囲には大きな駐車場が。ここから「左馬神社」へと向かう。「南大和病院」のすぐ側の雑木林の中に「左馬神社」の境内が石段の上にあった。石段を上り石鳥居を潜り境内へ。「鐘楼」が右手に。「梵鐘」。「左馬神社」の「拝殿」が正面に。その奥に「本殿」が。「本殿」前にも参拝が可能であった。「本殿 内陣」。無人の「社務所」?の壁には「左馬神社」の案内書が貼られていた。「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~はじめに南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。.今回、この珍しい神社について、サバの名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと思います※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。1 左馬と源義朝 源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまいました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと思われます。更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。ただ「左馬」という名称を用いる前の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。この「鯖」は一体どういうことでしょうか。※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を 使って崇徳上皇を破った戦い。※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が 殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い※6尾張国 ・・・現在の愛知県。2 「鯖」の字について病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は「鯖明神社」と記録されています。この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖がたくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが結局のところ何も見出せませんでした。では「サバ」とは一体何なのでしようか。※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、 書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。3 では「サバ」とは魚の「サバ」の説はともかく、このサバ神社の「サバ」について様々な考察が行なわれていました。まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという説です。東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かなようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や現在の住宅地が拡がっていました。沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れていたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。 見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。 男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい4 七サバ参り今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋②境川沿いに両岸を下るルート 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのではないかと思われます。「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしかなどの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。おわりに境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。(文責桜井)みなみやまと平成17年1月25日の記事を再録したものです。」なんとか転記しました。またまた勉強になりました。文責桜井さん、ありがとうございます。「こんなにあった左馬神社」「境川流域 サバ神社分布図」。そして、再び「南大和病院」の前を通り新幹線の跨線橋を渡る。右手の梅林?にはすみれのような鮮やかな紫の花・オオアラセイトウ(大紫羅欄花)が一面に。別名「ダイコンバナ」、ハナダイコン(花大根)。そして見事な手入れの「カイズカイブキ(貝塚伊吹)」の生垣。その先、路地の角、左手のフェンスの奥にあった2基の石碑。大和市上和田3409 付近。「南無阿彌陀佛」碑。「駒型庚申塔」。天保7年(1836)8月月日(陰刻)・「庚申塔」・三猿・道標右側面「天保七申年 相刕高座郡 八月吉日 上和田村 四ッ谷講中 世話人藤左エ門」「上和田団地西」交差点の先、ローソンLTF大和上和田団地店」裏にあった小さな神社。更に「大瀬戸稲荷神社」に向けて北に進む。「大和上和田団地」の前の路地の角にあった石仏。そして「大瀬戸稲荷神社」の鳥居の前に着いたが、参道は工事中であった。別の道を廻り込んで「大瀬戸稲荷神社」の社殿に着く。稲荷神社のようであった。次に訪ねたのが浄土宗の寺・「生養山 薬王院 信法寺」。正面に「山門」。大和市上和田2710。寺号標「浄土宗 信法寺」。「市指定文化財(有第22号)木造何弥沱如来立像指定年月日 平成十六年七月ニ十九日法量 像高四十九・五センチメートル寄木造で玉眼嵌人、肉身部は漆箔、着衣部は金泥で仕上げられています。その造形には、南北朝から室町期にかけて全国的に流行した宋風の衣文表現や人間味あふれる面相などを留めています。仏教彫刻史の観点からも注目される市内屈指の貴重な古仏といえます。大和市教育委員会」「山門」を潜り境内に。「本堂」。今から400年以上前の天正19年(1591年)、徳川家康から上和田の地(現在地)を拝領した石川永正公が開基となり存蓮社源譽空閑上人によって開山された。墓地には上和田村の地領、石川家歴代の墓所があり大和市指定重要文化財に指定されている。またご本尊である阿弥陀如来立像も同じく市指定文化財に指定されている。唐破風(からはふ)。破風の先のむくり屋根の先に曲線を連ねた形状の破風板がつけられたもの。境内の「阿弥陀如来坐像」。お顔をズームで。扁額「信法寺」。「本堂 内陣」。「本堂」前の「十三重塔」。手を合わせる稚児僧もマスク姿で。「なむなむ」の文字が。歴代上人墓地。法然上人幼名「勢至丸さま」像。次に直ぐ近くにあった「上和田信法寺別院薬王院」を訪ねた。寺号標「生養山 薬王院」。「大和市指定重要無形民族文化財(民無第3号) 薬王院の双盤念仏念仏にあわせて演奏される仏法音楽で、太鼓と鉦で行われます。その音は単純ですが、それを聞けば正念増上するといわれ、今昔物語にも阿弥陀の聖が金鼓を打って念仏したとされています。この信法寺の別院薬王院の双盤念仏は鎌倉光明寺の流れと伝えられています。「亨保元丙申稔極月吉日 粉河市正作」の銘が陰刻されている鉦があるので、この頃には(1716年)既に演奏されていたことがわかります。この念仏を9月8日の薬王院縁日に行えば、無病息災・家運隆昌の利益を授けられるとされています。また、農耕行事の虫送り、風祭り、氷祭りにもこれを唱えて、豊穣を祈って今日に至っているといいます。また、南西方向にある信法寺には市指定重要文化財の旧石川家墓地があります。石川家は江戸時代に上和田村を知行地としていた家の旗本で、村内に屋敷を構えていて、付近は御蔵屋敷と呼ばれています。大和教育委員会」同様な内容の別の「案内板」。境内への石段を上る。境内ではゲートボールを楽しむ老人の姿があった。「本堂」。扁額「薬王院」。「本堂」横には多くの庚申塔が並んでいた。後ろの列の右側は笠塔婆の付いた大型の阿弥陀如来立像庚申塔。三猿は正面と両側面に彫られていた。正面に「延宝」と。中央も笠塔婆のついた大型の庚申塔。宝永元年の帝釈天立像庚申塔とのこと。左は馬頭観音。「藥師如来縁起抑當山に安置し奉る薬師如来は行基大士の御作と稱し往古より靈驗あらたなること世人のすべてに能く知る所なり 夫れ藥師如來は諸病悉除の願あリ中古三浦大助のニ男和田小太郎義盛は当村の地頭なりし時眼疾を患ひて尊像を祈る事一七日ついに平癒する事を得たり其後誓って云わく「若し擁護を蒙りて待所の別當たるを得ば一院を創せん」恚と志願空しかずし其職に任ずる事を得たり因って一院を創建す即ち藥王院是なり亦元和年中石川家祖先の内室眼病にて醫藥効なきを以て乃ち尊像に祈念する事一七日晝夜速やかにに明眼を得たり故に再建す今の伽藍是なり夫れより以来毎年九月八日をトしイ会日とし寅年を以て開扇し普く平等大悲に結綠せしむる事となり大正十ニ年九月一日の大震災は關東一圓の堂塔佛寺の大半はは倒潰せしも當藥王院の伽藍は幸にも其難を免ることを得たり之偏へに藥師如來の諸難悉除の靈險なり此のあらたなる尊像を安置し奉る是藥師如来の縁起なり神奈川縣髙座郡澁谷村上和田 藥王院信徒一同」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.13
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「引地川」に沿った大和市福田の住宅街の道を北に進むj。ミツマタの花そしてその後ろにミツバツツジのピンクの花が。青空を背景にこれぞ「自然の美」。これは花の色から「アカバナミツマタ」であろうか。こちらは他の木々に先駆けて白い花を梢いっぱいに咲かせる「コブシ」。そして「若宮八幡宮」に到着。大和市福田509-1。社号標「若宮八幡宮」。「石鳥居」。扁額「若宮八幡宮」。参道の石段を上って行った。「鐘楼」。「梵鐘」。正面に「社殿」。神額「若宮八幡宮」。「平和祈念碑」。「若宮八幡宮 由緒書一 御社名 若宮八幡営一 御祭神 仁徳天皇一 鎮座地 和市福田五0九番地一 境内坪 四六三坪由緒書明治二十四年十二月十五日時の宮総代人某氏宅の火災に依り保存せし若宮八幡宮の重要書類も尽く消失しに見舞われた。今は亡き古老の證明する所でであり神社の創建等詳細不明である。新編相模国風土記第三集(明治十八年五月三十日刊行)によれば地頭中根氏に依り元禄十一年再興の棟札ありと記され又この神社には第十五代應神天皇の皇子大鶴鷯尊即ち第十六代仁徳天皇と伝えられる御神像が祭られている。よって若宮八幡宮と言ふ。衣冠束帯腰に太刀を佩き棒状の持物を両手に持った像高ニ三.二cmの坐像である。上畳裏の銘文に延享三年二月吉日江戸の仏師法橋助教が像を作り文化九年に吉見兵部が修理をした事が墨書されている所から察するに俸祀の始めは相当に古いものと伺える丁重に安置され守護神として有難く崇めております。」拝殿に向かって左手に石塔が並んでいた。「猿田彦大神」の「庚申塔」。天保12年(1841)の建立。「文字道祖神」が二基並んでいた。共に安政6年(1859)のもの。最後に「双体道祖神」?その横に「正一位稲荷大明神?」碑。その横にも??ワンカップが奉納されていたが・・・。「狛犬・阿形像」。「狛犬・吽形像」。「神楽殿」。そして階段を下りながら石鳥居を見る。「若宮八幡宮」を後にして「引地川」に架かる橋を渡る。「若宮橋(わかみやばし)」。欄干には「若宮八幡宮」の「社殿」の姿が。「引地川」の下流側を見る。「引地川」の文字の下には「鳥居」の姿が。「若宮橋」を渡り左に曲がると、民家の庭には真っ黄色な「ミモザ」が満開中。そして急カーブして細い急な坂道を上って行った。道路面にはスリップ防止の仕上げが行われていた。欅の大木の伐採中か、長いアルミ梯子と安全ロープ等が設置されていたがこの日は作業が行われていなかった。急な坂を上り終えると、小田急線「高座渋谷駅」に繋がる大きな道路に出た。この近くに花の寺「常泉寺」👈リンク があったがこれまでに何回か訪ねており桜も開花していないのでこの日は立ち寄らなかった。そして新幹線の跨線橋・42K007Mを渡る。新幹線は「高座渋谷駅」のホームの下を通っているのであった。そして小田急線の「高座渋谷駅」上り手前の踏切を渡る。左手に小田急線「高座渋谷駅」を見る。「高座渋谷駅」駅前東口を見ながら進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.12
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして漸く「藤沢市」と「大和市」の市境・「大和市」側に建つ曹洞宗の寺「雲栄山 宗昌寺」に到着。ここから漸く「大和市」に入ったのであった。大和市福田1544。寺号標「曹洞宗 宗昌寺」。「本堂」。本尊は元禄14年( 1701年)銘の釈辺如来座像。慶安元年(1648年)に北条氏直の家臣・鈴木宗昌によって建立された寺。扁額「宗昌寺」。「本堂 内陣」。「萬霊殿」、永代供養塔であろうか。「地蔵堂」。大小の地蔵尊が。そして「宗昌寺」を後にすると「大和市」の「汚水マンホール蓋」に気がつく。大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。「宗昌寺」の裏手を北に向かって進んで行くと「飯都社奮趾(飯戸明神跡)」👈リンク と刻まれた石碑(左)があった。明治四十二年(1909)、正面:飯都社奮趾 明治四十二年 一月建立「飯都社」とは廃寺となった「飯戸明神」のことであるとのこと。そして庚申塔(右)天明三年(1783)正面:庚申塔 右面:維時天明三癸卯□ 左面:[ ]久保邑講中更に北上し左折して西に進み「引地川」に架かる「福田橋」を渡る。途中、農道横にあった産直野菜販売所。現在はイチゴを販売しているようであったが、店頭には日向ぼっこのオバチャン達の姿が。民家の庭の桜も咲きだして。そして前方に見えて来たのが「福田山 蓮慶寺(れんけいじ)」。大和市福田1279。「山門」。寺号標石「福田山 蓮慶寺」。「本堂」。真言宗大覚寺派の寺。「福田開拓九人衆の一人で、修験者とも医者ともいわれる小林大玄は、諸国を出歩き、やがて帰宅しなくなった。大玄の妻・イトはこれを悲しみ、山に籠って村人に危害を加えるようになる。困った村人は花見の宴を催してイトに毒酒を飲ませ、亡き者としたが、やがてイトの怨霊に悩まされるようになる。そこでイトの霊を慰めるため村人は鎌倉の建長寺から姥像を勧請し、一堂を建立してこれを安置したと伝えられる。その後この像は子供の百日咳などに霊験あらたかであるとして崇敬されるようになった。」とウィキペディアより。「寺務所」。境内の隅には石仏が。二体の石仏が仲良く並んでいた。左側に「唐破風笠付角柱 庚申塔」寛文9年(1669)9月地蔵菩薩(合掌)・一猿?(痕跡)右側面「爲庚申供養之也 寛文九己酉天 九月吉日」左側面「請願成就皆領満足 願主 廿[五人]」そして右側には「文字庚申塔」。裏側から見る。「市指定重要文化財(有第十号 木造優婆尊尼(うばそんに)坐像 案内板指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高四〇・八cm構造は寄木造で、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)、肉身部は漆箔(しつぱく)、衣部は彩色となっています。髪を中央で左右に分けて長くたらし、ロ・両眼とも大きく開く一種の憤怒相(ふんどそう)であり、歯や舌も克明に刻んでいます。露出した胸部には肋骨と、しなびて垂れさがった乳房が写実的に表現され、面部とともに妖しげな老婆の雰囲気を巧みに表しています。右手は膝上で握り第二指のみ伸ばし、左手はスカーフのような布を持っています。造像時期を示す銘文などは残されていませんが、作風から室町時代後期に造像されたものと考えられます。また、福田地区にはこの像にまつわる「姥山」(うばやま)伝説が残されています。平成九年三月 大和市教育委員会」「木造優婆尊尼坐像」をネットより。 【http://www.city.yamato.lg.jp/bunnka/hyakka/art_archives_bunkazai_18.html】より「慰霊五輪塔」👈リンク正面から右塔より「海軍二相空特幹普通科練習生殉職者諸霊」「海軍六期飛整予備学生戦死者二十七名之霊」「昭和十八年二月八日遭難龍田丸一四八一名之霊」裏面:「施主 名誉住職 渡辺全龍 平成十二年三月吉日」「篤志者 高橋和殿(檀家) 金拾万円也 六期追浜会有志殿」「施主 渡辺全龍(龍田丸船長 木村庄平 次男)」大東亜戦争で戦没、殉職された方々の慰霊のための五輪塔であり、平成12年3月に建立された。・右手の五輪塔は、第二相模野海軍航空隊における普通科練習生殉職者の慰霊塔である。 この航空隊は昭和18年に開隊した航空整備員の教育訓練部隊である。なお、刻字中、特幹と あるがこれは陸軍の特別幹部候補生のことと思われる。なぜここに書かれているか不明である。 蓮慶寺の住職によって建立された。・中央は、飛行機整備予備学生の戦没者の方々の慰霊塔である。第六期は、追浜海軍航空隊 に昭和18年頃に入隊されたものと思われる。・左手は、昭和18年2月8日に沈没した龍田丸の乗員の慰霊塔である。龍田丸は昭和5年に就役した 日本郵船の遠洋客船で、太平洋戦争中は海軍に徴用され、トラック島への兵員輸送中、米潜水艦 ターポンの魚雷攻撃により撃沈され、乗組員198名、乗船員1283名の計1481名全員が死亡した。 碑文から判断すると、住職は龍田丸船長の次男であると ネットより。塔高175cm、台石10cm。「本堂」を斜めから。そして「蓮慶寺」の横にあったのが「山王社」。ここも「蓮慶寺」の境内なのであろう。大和市福田1279.小さな「社殿」。「内陣」。「石祠」。「山王社」の社殿前から「蓮慶寺」の屋根、墓地を見る。更に北に向かって進むと、民家の屋敷の中にも神社が。子供の頃は、我が実家の屋敷内にも神社があったことを想い出したのであった。そして東海道新幹線のガード下を通過。「第2引地Bv 42K718M」の表示プレート。 Bvとは「架道橋」のこと。BはBridgeの略。鉄道が道路を渡る橋である。高架式の鉄道でよく見られるほか、地平を走る鉄道でも道路が線路の下を通っている場合は、架道橋と呼ばれるのだと。逆に道路が鉄道を渡る橋は跨線橋(Bo)であるが、これは道路橋の範疇である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.11
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「長後 天満宮」。藤沢市長後1412。一の石鳥居の前に狛犬と石灯籠が。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。階段途中の右にあったのが藤沢市の「文化財ハイキングコース案内板」。「縣下名勝史跡四十五佳選當選記念 天満宮」碑。一の鳥居の先に二の鳥居も見えた。一の鳥居の扁額は「天満宮」。「天満宮鳥居再建記念碑」。「菅公千百年記念碑」。祭神 菅原道真公は宇多天皇にお仕えして御信任厚く醍醐天皇の御時右大臣に任ぜられ然るに 左大臣藤原時平の讒言により延暦元年九月太宰府権師として、流配され同三年二月 二十五日(九〇三年)五十九歳にて没す。古来勉学の神として弘法大師小野道風と ともに三聖と仰がれ御神徳厚く宏く世人の崇敬を受ける由緒 渋谷庄司重国の祖父秩父六郎基家は鳥羽帝永久三年(一一一五)武州秩父を去り相州 渋谷庄長後邑に築城して茲に居住し城内に廟を建立し菅公を崇祀して天満宮と称した。 其の後戦国時代を経て(一五九〇年)徳川の版図となり旗本朝岡氏は家康秀忠に仕え 寛永七年(一六三〇年)神殿を造営し国考、朝泰、朝宗、国豊、の代を経て天明七年 (一七八七年)左京豊興が神殿を再興し(現代本殿)山王権現(大山咋命)と神明宮 (天照皇大神宮)を合祀して現在に至る。」「鐘楼」と石碑。石碑は「奉納 梵鐘記念碑」。「鐘楼」。「梵鐘」をズームで。「渋谷町長後」の文字が。昭和二十九年九月二十五日 と刻まれていた。戦後に再興されたもの。「梵鐘」の名前をネットから。「梵鐘」の表面上部にある小さなデコボコの名前が「乳(ち・にゅう)」と言う事を知ったのであった。この梵鐘の表面上方の「乳」が並んでいる部分は「乳の間(ちのま)」「乳の町(ちのまち)」とも呼ばれ、煩悩の数と同じく「乳」が108個並べられたものが多いのだと。 【https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%28%E6%A5%BD%E5%99%A8%29-1518307】より左手にも石碑が。「忠魂碑 陸軍大将男爵荒木貞夫謹書」。日露戦争、日支事変及び大東亜戦争で戰病没された65柱の英霊の忠魂碑。昭和12年5月5日に長後青年会によって建立された。当初は、日露戦役戦没者の忠魂碑として建立され、その後、日支事変と大東亜戦争の戦没者を追加合祀したと。碑高210cm、幅92cm、厚さ15cm、台石40cm。「征清凱旋紀年碑」。日清戦争(一八九四‐九五)の記念碑。そして「二の鳥居」。「天満宮 御由緒」一、鎮座地 藤沢市長後一四一ニ番地一、祭神 菅原道真・天照大神・大山咋命 祭神菅原道真公は平安時代に宇多天皇にお仕えして御信仰厚く醍醐天皇の御時、右大臣に任ぜ らるるも左大臣藤原時平の讒言により延喜元年九月太宰府権師として流布され同三年二月 二十五日(九◯三年)五十九才にて歿す。古来勉学の神として弘法大師小野道風とともに 三聖と仰がれ御神徳厚く宏く世人の崇拝を受ける。一、由緒 鳥羽帝永久三年(1115年)渋谷重国の祖父秩父六郎基家が此の地に築城し城内に廟を建立し 菅公を崇祀して天満宮と称した。建保元年渋谷氏は和田義貞の乱に興して滅亡し更に戦国時代 を経て廟も亦頽廃したと言われる。 天正十八年徳川氏の版㘝となるや徳川氏は長後を二分し下長後地区を旗本朝岡氏の知行地となし 天満宮の神域も亦朝岡氏の知行地となる。朝岡氏は直ちに村内の鎮守天満宮の神殿を造営し その後もしばしば社殿を再建し特に天明七年九月宮廟を再建し山王脇鎮座の山王権現 (大山咋命)と伊勢山鎮座の神明宮(天照大神)を合祀した。朝岡氏は明治維新まで世襲的に 下長後村を知行し天満宮の維持については積極的であり信仰厚かりし由なり。明治元年九月 上長後下長後を合併して長後村となり天満宮は村社に列し長後総鎮守となる。昭和七年 指定村社となり神饌幣帛料を供進せらる。 昭和五十三年社廟を修復し同五十七年拝殿を改築した。一、祭日 例大祭 九月二十五日 其の他諸祈願際随時執行一、境内社 八坂神社 白峯神社」(なんとか転写しました!!)「手水舎」。「絵馬掛所(えまかけどころ)」「拝殿建築紀念碑」。「拝殿」正面。扁額「天満宮」。境内の「石灯籠」は、徳川家の旗本朝岡丑之助がこの地の地頭として寛永19年(1642)に造立奉納したもので、当時の姿をそのまま伝えており、市の重要文化財に指定。藤沢市の重要文化財「石灯籠」。「市指定重要文化財(建造物)寛永十九年(一六四ニ)石灯籠総高一三〇センチメートル竿石に「相州長後天神 寛永十九年十一月日 朝岡丑之助」と造立銘がある。朝岡氏は徳川家に三河以来歴任した旗本で、天正十八年(一五九0〇)徳川家康の関東入国ののちにこの地を知行地として与えられ、代々それを受け継ぎ幕末におよんた。朝岡丑之助は地頭として、長後の鎮守である天満宮にこの石灯籠を奉納したものと思われる。この石燈籠は、いわゆる宮立型燈籠に属するもので、宝珠から笠、火袋、中台、竿、基礎にいたるまで完全に奉納された当時の姿を伝えている貴重な例である。昭和五十ニ年四月十三日指定」拝殿前の「狛犬、阿像」。拝殿前の「狛犬、吽像」。「市指定重要文化財(有形民俗文化財)石造狛犬 一対狛犬は社前に悪魔除けのような意味で奉納され一対阿吽の形をとる勇猛な風貌のものが多い。このニ体の背には貞享(じょうきょう)三年(一六八六)三月ニ五日、胸に中村氏の女おち世・支むらの銘が見られる。一般には男子氏子・講中などの奉納が多いなかで注目すべきものである。両の手に乗る程に小型で、奉納者の愛玩用、また分身として、無病息災を祈願する等守護神的な思いを込めて奉納したのではないかと考えられる。おち世・支むらは姉妹、或いは双子であったのかも知れす、石像の表情から愛くるしい姿を彷彿することができる貴重な文相財てある。平成四年ニ月一日指定藤沢市教育会」こちら右手にも石灯籠?が。句碑もあり、『山里・・・・』 と刻まれていたが読めなかった。「奉献 観世音菩薩」碑。「文化十二巳亥十一月吉日」の文字が。「拝殿」の奥に「本殿」。そして右側に境内社。「白蚕神社(右)」。「八坂神社(左)」。「神楽殿」。「拝殿」、「本殿」を横から見る。近くの「高座渋谷」駅は旧高座郡渋谷村に由来し、渋谷氏の本貫地として渋谷荘が存在していた事の名残りとなっていることを理解したのであった。「長後 天満宮」を後にして「山王神社」に向かって進む。「引地川」に架かる「大山橋」を渡る。「引地川」の上流側を見る。そして長後上合にある「山王神社」に到着。藤沢市長後2305。山王神社山王神社は滋賀県大津市坂本の日一の仰に基づき建立されました。主祭神は「大山昨神」~岩第山岳信仰にをの源流を発しています。天台宗の開祖・最が延皐」建立したとき、比叡山の麓にあった山王権現を延暦寺一護神夫台宗の隆盛とともに山王物飛とげ、明治初年の神仏分離の実施により、山王権現は山王神社または日吉神社と改称し、瞬く間に全国へと広がっていきました。この上合地域は長後の北西部に位置し、長後の守護神ともいわれる長後天満宮(天神様)、の後方にあるため、この地域独自の守護神として祀ったのが山王神社の始まりと言われています。その後、月治一一年により再建されています。この地域の字名は山王添ですが、弓土月、(一ハ六・)に、時同し谷村蘢あ0だ福田の第大寺派・福田山慶寺(鎌倉市手広の「鎖帋」で鮪な真宗青寺の末社)岸地域の字名、天神添(長後天満宮は菅原道真公を祀る)と共に地域内の神社に因んだ字名が付けられました。~嚼る一なお、山王神社は天明七又一化人~ )に伊勢山(現・伊勢廸准.に合祀されましまを~域のk々ま今でもにの社を守護神薊丁などを行い、信仰の対象としとして祀り、-改築言、長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会令和ニ年(ニ〇ニ〇年)十ニ月吉日竹林の先にある小さな神社。親子のように並んでいた。「山王神社」社殿。隣には更に小さい境内社が二社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.10
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして訪ねたのが境川の手前にあった「高倉諏訪神社」。藤沢市高倉2674。「石鳥居」の扁額は「諏訪神社」。境内への階段。「諏訪神社」案内板。藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)(建御名方富命(たけみなかたとみのみこと) 八坂刀売神(やさかとめのかみ)境内社 天神社 八幡社 稲荷社 その他境内にはニ十六夜講中造立の石祠をはじめ、 数基の祠が点在します。例祭 七月ニ十七日(現在は、九月ニ十七日に近い土曜日に実施) 上高倉(旧千束村)地域の鎮守です。この高倉の諏訪神社は、江戸時代初期の寛永ニ年(一六ニ五年)、信濃国一ノ宮諏訪大社から勧請、創建されたと伝えられています。祭神の建御名方神は記紀神話によれば、大国主命の御子で事代主命(えびす様)の弟に当る神様で、諏訪湖の水の神として諏訪大社の祭神となりました。農耕の神、漁業の神、養蚕の神など御神徳の多い神様です。八坂刀売神は坂(峠)や道の神で、縁結びの神でもあり建御名方神の妃神でか、地方神話にのみ登場する神様です。拝殿正面に掲げる「諏訪神社」の奉納額は、元警視総監・法務大臣を務められた上高倉出身の秦野章氏の揮毫によるものです。また、拝殿内には江戸時代の末期、千束村で「箭泉堂(笋泉堂とも)」という筆学所を設け、周辺各村の農家の子弟に「読み・書き・算盤」に加え、「絵画」の指導もしていた師匠の矢沢保光(絵師でもあり雅号を玉秀と称した)が描き、文久三年(一ハ六三年)にこの神社に奉納した役者絵の「絵馬」五点が残されています。令和ニ年(ニ〇ニ〇年三月吉日長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会」社号標「諏訪神社」。「諏訪神社神奈川県藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地建御名方富命第一この大神様の御神徳は人間に強い力、強い身体を御与下さる神様だということが出来るのであります。「健全なる精神は健全なる身に宿る」と申しますが悲観的な気持ちを一掃してしまって強い精神、強い肉体そして強い力をもう一度振るい起し日常生活に精出す必要がありますこの人間に生きていく強さを与え下さるのがこの大神様の第一の御神徳であります。第二の御神徳は「御名方(みなかた)」から来る御神徳であります。即ちこの水の恵みがこの大神様の第二の御神徳であります。第三の御神徳はこの御名の最後の富命の富の御神徳であります。この神様は祈るものに富と仕合せを与えて下さる御神徳を持って居られます且つその祈りに叶ふだけの富を必ず与えて下さいます。第四の御神徳は開拓開墾の神徳は御父の大国主神の国造りのお働きを受けつがれたもので古事記の最初にある「この漂える国を修理固成せよ」とある祖神の最初のお言葉で心の眼を開くことそれが信仰の第一主義である正しい意味の国造りとなる。第五の御神徳は諏訪のもう一柱である八坂刀売神についての御神徳であります。この神は坂(峠)の守の神で今日の言葉でいえば交通安全の守り神だといえます。人々の希望に応えてくれる神であります。以上諏訪大神様について五つの御神徳を申し上げたのでありますがこれをつめて申しますと根本の御神徳は生命の親神様であり人々に仕合せ健康交通安全を与え下さる神様だと言えるのであります。私達は強く生きて行くために真剣に誠心をこめて祈ることです。皆様と一緒にタケミナカタトミノミコト様とヤサカトメノ神さまの御名を称えまつりその御徳にあずかるようにつとめましょう。 以上 神社庁文献より神 天神様 八幡 稲荷 境内の四方に小祠が点在している。 祭り 九月二十七日由緒 千束村寛永二年(一六ニ五年)此の地に御創建されたと伝えられる。徳川二代将軍秀忠公の頃か三代将軍家光公の時代に七ッ木村より分村当時の戸数はさだかでないが二十戸位と推定される。此の時の領主は遠藤善九郎憲次でありその知行高は七十五石であり元禄十五年(一七〇ニ年)の村高を調べると八十五石であった。村高によってみると千束村は江戸時代の村落規模としてきわめて小さかったか尚ちなみに全国の平均は四百石といわれることからいかに小さかったかが理解できる。諏訪社、村の鎮守トス、例祭七月二十七日、村持、鐘楼 寛政八年ノ鋳鐘ヲカク、一七九六年新編 相模国風土記並他の文献より」境内。「狛犬、阿像」。「狛犬、吽像」。「鐘楼」。「梵鐘」。「諏訪大明神」と。反対側には「昭和50年秋」の文字も。「梵鐘」は、戦時中に供出して長いこと堂だけであったが昭和50年に新しい梵鐘が奉納されたのだと。「神楽殿」。「拝殿」。鉄筋コンクリート製の頑丈な賽銭箱。扁額は「諏訪神社」。「拝殿 内陣」。「本殿」への扉は閉じられていた。「拝殿」前から境内を見る。「本殿」を横から。境内社の「稲荷社」。「八幡社」。「天神社」。「本殿」の左に祀られていた社。「諏訪神社」の御札が内部に。お祭りがあったのだろうか。境内の銀杏の大木。御神木なのであろう。そして「諏訪神社」を後にし、旧町田街道に向けて引き返すと、左手には「藤沢市消防団 第二十ニ分団」。その角にあった石碑。近づいて。「双体道祖神」を正面から。「双体道祖神双体道祖神像(和合ニ神像)は男女ニ神を並祀しています。日本には古来から男女ニ神や、性の象徴を具現した石像を村の境界に置くことにより、村の繁栄、豊穣を祈ると共に、外部からの邪霊、悪鬼、疫病神などが村内へ侵入することを防という呪術がありました。そのため道祖神は古くは、「塞の神」(侵入を防ぐ神)とも呼ばれていました。双体道祖神は長野県の諏訪、松本、佐久などが発祥の地とされ、江戸時代、関東地方を中心に各地に広がって行きました。現在、長野県内には四千基近い双体道祖神像が残されていると言われています。次に多いのは群馬県で約三千五百基、神奈川県は第三位で約ニ千八百基あるそうです。因みに関西方面では殆ど確認されていないとのことです。この双体道祖神は寛政七年(一七九五年)に造立されたもので、塔身の左右側面それぞれに「寛政七乙卯」・「霜月吉日」と刻まれています。なお、この道祖神像のある道は「元柏尾通大山道」と言われる道で戸塚区柏尾町から境川を「千束橋」(廃橋)で渡り、この道祖神像の横を抜け、長後天満宮の前を通り、伊勢原、大山方面へ向かう道で、江戸時代中期の宝永四年(一七〇七年)に起きた富士山の噴火(宝永噴火)以前の大山道と言われています。平成三十一年(ニ〇一九年)三月吉日長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会」その先右手にも石碑が一段高い場所に。高倉の庚申塔道標が二基。「笠付角柱型 日月 青面金剛立像(痕跡) 三猿(痕跡)」延享五年七月(1744)の銘があったようだ。「唐破風笠付角柱型 「奉供養庚申」 三猿(三面)」。正面に「干時延宝三乙卯天」(1675)「千束村」の文字右側面 「現世安穏」/「具一切功徳 慈眼視衆生」左側面 「福聚海無量 是故應頂礼」/「後生善處」 そして国道467号交差点を渡る。そして旧藤沢街道(八王子街道)を右に折れて進む。この先を左に曲がる。小田急線のガード下を通過。そして正面に見えて来たのが「長後 天満宮」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.09
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次私の住む藤沢市は、海岸から反時計回りに鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの小さい、屋外の散歩としてマスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。これまでに、横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」そして綾瀬市の神社仏閣を歩いたが、この日は、北部で隣接する「大和市」の神社仏閣を訪ねる目的で散策に向かったのであった。この日は3月18日(木)。まずは藤沢市内の小田急線「長後駅」で下車。長後駅東口の人の姿は少なかった。大和市内にある小田急線「高座渋谷駅」まで行き下車しても良かったが、引き返す形になるため「長後駅」で下車し、以前に訪ねている藤沢市内の神社仏閣を再度訪ねながら、小田急線に沿って「大和市」に向かって「旧藤沢街道(八王子街道。滝山街道とも)」・現「長後湘南台線」を北に向かって進む。そして最初に訪ねたのが「泉龍寺」。長後駅から約800mのところにある、旧藤沢街道(八王子街道。滝山街道とも)に面した浄土宗の寺。藤沢市長後968。境内の銀杏の老木。正面にコンクリート製の「本堂」。「本堂」。「本堂 内陣」。ズームして。ご本尊は阿弥陀如来。境内の「石灯籠」。「六地蔵」。境内墓地。そして「泉龍寺」の隣りにあったのが「藤沢市消防団第二十五分団」。三つある長後分団の一つ。「旧藤沢街道(八王子街道)」の左手にあった石碑。正面から。「道祖神」。「宿上分道祖神講中」、「昭和六十二年一月十四日」 の文字が。藤沢市長後1027。「青面金剛庚申塔」。笠付角柱型 日月 三猿。左側面には「寛延四未天十月吉日」(1751)、右側面には「かしをみち」と。 「三猿庚申塔」。唐破風笠付角柱型 「奉供養山王廿一社」。右側面には「延宝元年」(1673)と。 そして「道祖神」に突き当たる道を入り東に向かうと左前方に朱の鳥居が。「正一位稲荷大明神」。藤沢市長後1034。「社殿」。稲荷社であろう。「社殿内陣」には狛狐が。そして住宅街を更に東に向かって進む。道路にあった「藤沢市消防本部 防火用水槽 マンホール蓋」。黄色地に水玉模様、はしご車と放水中の消防士、市章と 「防火用水槽」「藤沢市消防本部」の表記があり、受枠に広幅の斜線?が入っている。「汚水管マンホール蓋」市の木クロマツをデザイン。中央の丸の中に藤沢市の市章とその上下に「車道」、「おすい」の文字が入っていた。「雨水管マンホール蓋」蓋全面に市の花「ふじ」をデザイン。 中央の市章の上下に「車道」、「あめ」の文字。穴が2個開いていた。2個の穴は、大雨時の圧力抜きであろう。内圧でマンホール蓋が飛び出さないように。「神奈川県営水道の消火栓マンホール蓋」。県の花ヤマユリ、県の木イチョウの葉、県の鳥カモメをデザイン。 ・・・つづく・・・
2021.04.08
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