JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.12.22
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カテゴリ: 国内旅行
函館山展望台からの絶景を「二人占め」した後は、車に戻り400mほど坂道を下り

実は、写真正面の坂道を更に上って行き、「千畳敷戦闘指令所跡」を訪ねたかったのであるが
「進入禁止」でゲートが閉まっていた為、諦めてこの駐車場に。



ゲートの手前左側にあった2体の石仏像。
左手が
西国三十三所観音霊場・「第二十番 山城國乙訓郡西山 善峯寺 千手観世音
のおもすぎ やまじにむかう あめのそら よしみねよりも はるるゆうだち」・(御詠歌)
右手が

のをもすぎ さとをも ゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため」・(御詠歌)



函館山山頂を振り返る。



「御殿山第2砲台跡」案内板。
注意事項
■砲台跡内には立ち入り禁止箇所が多数ありますので、現地の表示に従ってください。
 急な階段がありますので、足元に気をつけて通行してください。
■千畳敷コースは一般車両の通行禁止のため、冬季間以外はゲートを閉めております。
 徒歩での通行は可能ですので、ゲートの隙間をお通り下さい。
 現在地から砲台跡までは約5分で着きます。



上記案内「徒歩での通行は可能ですので、ゲートの隙間をお通り下さい。
現在地から砲台跡までは約5分で着きます。」とのことで、「御殿山第2砲台跡」に歩いて




道標に従い、狭い山道を上って行った。



数分で「御殿山第2砲台跡」に到着。
日清戦争終結後、函館港などの防衛を目的に明治31年(1898)から4年余りをかけて築かれた
5カ所の函館要塞跡が残る。函館山山頂下の「御殿山第2砲台跡」は、当時の面影のまま
現存している希少なもので、平成13年(2001)年10月、北海道遺産に選定された。




「砲台」前の通路。



「函館山の地質
函館山は、おおよそ100万年前に活動していた火山で、溶岩等の火山噴出物が積み重なって
できています。
すでに活動していた頃の姿は残っていませんが、旧登山道や尾根の一部、海岸の切り立った
崖などに見られる岩石にその跡を見ることができます。
函館山をつくる火山岩は、最初に噴出した立待岬溶岩、その次に堆積した千畳敷集塊岩、
さらに溶岩の噴出によって形成された高龍寺山溶岩、最後の噴火により流し出された千畳敷溶岩と御殿山溶岩に区分されていて、いずれもディサイト(流紋岩と安山岩の中間の岩石)と呼ばれる
岩質のものです。」



函館山展望台にも同じものがあったが
「函館山の自然
函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂で亀田半島とつながった
陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲約9mとなっており、
別名「臥牛山」とも呼ばれています。
函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20年(1945年)まで約半世紀に
わたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵まれた
自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と
同種のものといわれています。
さらに、四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として
重要な役割を果たしており約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区に
指定されています。」



こちらも同様に函館山展望台にも同じものがあったが
「函館要塞について
函館要塞は明治35年(1902年)の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の
防衛強化を目的に明治31年(1898年)から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に
砲台が建設されました。
他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を
守るために建設されました。
日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であった
ため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館港は
攻撃されることはありませんでした。
その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から
函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として
再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な
被害を受けました。
函館要塞建設直後の明治32年(1899年)に要塞地帯法が制定され、昭和21年(1946年)に
開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。」



大正11年に撮影された「御殿山第2砲台」。



砲台から一段上にある「つつじ山広場」に向かう。
「御殿山第2砲台見取り図」
1901(明治34)年2月、遠方から侵入する敵艦船を攻撃する砲戦砲台として、28センチ榴弾砲
6門が配置された。着弾地観測(兼見張所)には砲座跡が、その周りを囲むように石垣がある。
ちなみにこの大砲は演習用で、ロシアの艦隊が津軽海峡を通過した時も、第二次世界大戦で函館が
空襲を受けた時も、実戦で使われたことは一度もなかったとのこと。
2門の砲台の間には3つの「地下砲側庫」があり、右側には「砲具・弾薬庫・士官詰所」が
あったようだ。



2台の砲台跡を「つつじ山広場」より見下ろす。



ネットからの写真。
「米軍が撮影した御殿山第二砲台  写真提供:工藤洋三 様
米軍(戦略爆撃調査団)が1945(昭和20)年10月14日に撮影した御殿山第二砲台の様子。
第一・第二砲座にあった4門の28cm榴弾砲はすべて砲身が切断された状態となっている。
写真奥には観測所が、通路には、調査団が使用したものと考えられるジープ
写りこんでおり、撮影時点ではまだ、砲台のトンネルや掩蔽部などが破壊されて
いないことが分かる。」と。


   【​ https://japanese-fortifications.com/tsugaru/gotenyama2_p1.html ​】より転載


再び函館山山頂の電波塔群を見る。



最奥の砲台跡。



更に奥から「御殿山第2砲台跡」を振り返る。



「地下砲側庫」への石段が見えた。



そして「御殿山第2砲台跡」からの帰路に。



「北海道駒ヶ岳」を望む。



そして「つつじ山駐車場」に戻り、函館山を下り、一方通行の分岐手前で車を駐める。
左手にあったのが「青函連絡船殉難者慰霊碑」。



石段を上っていくと正面にあったのが「慰霊碑」。
碑の正面?には梵字の釈迦如来を意味する「バク」が刻まれているのだと。



太平洋戦争で撃沈された青函連絡船とその乗員の慰霊のため、1953年(昭和28年)に、
青函連絡船殉職者功績顕彰会(青函連絡船の船員を中心とする国鉄職員らによる会)により
建立された慰霊碑。
しかし、奇しくもその翌年に洞爺丸台風海難事故が発生し、その殉職者も合祀された。
建立当時は、悲惨な戦争への回顧の念を持つための目的であったものが、よもや日本最大の
海難事故殉職者までもが祀られるとは・・・。
手前に「台風十五号青函連絡船船員遭難者遺族会」と刻まれた石碑が。



そして奥の袖垣の内側には殉難者の氏名を刻んだ真鍮のプレートが嵌め込まれていた。
1954年(昭和29年)には、15号台風(洞爺丸台風)によって洞爺丸、北見丸、日高丸、
十勝丸、第十一青函丸の青函連絡船5隻が沈没する日本海難史上最大の事故が発生し
多くの死者がでたが、その時に殉職した職員もこの碑に合祀されているのであった。



慰霊碑の右奥には「殉難船碑」が建てられていた。



近づくといろいろな石碑が。



右手には洞爺丸台風で沈没し、復旧されることなく廃船となった「洞爺丸」「第十一青函丸」の
文字が彫られ(第十一青函丸の文字は裏側)ていた。



碑の表側には、「北見丸の船底の一部」が切り出され、はめ込まれているのだと。



その左手の石碑。



「国鉄青函連絡船の航跡
●1908年(明治41年)3月7日 航路開設 比羅夫・田村丸就航
●1924年(大正13年)5月 翔凰丸、客貸船として建造、貨車航送開始
●1945年(昭和20年)2月7日 第九青函丸 浦賀ドック建造 函館港に廻航中、
 千葉県勝浦沖で座礁沈没 殉職者13名
●1945年(昭和20年)3月6日 第五青函丸 青森港北防波堤西側に猛吹雪のため接触沈没
 殉職者74名
●1945年(昭和20年)7月14・15日 翔凰丸、飛鸞丸、津軽丸、松前丸、第一青函丸、第二青函丸
 第三青函丸、第四青函丸、第六青函丸、第十青函丸、第二次大戦空爆により函館港、津軽海峡
 青森港などで殉職者364名
●1945年(昭和20年)8月9日 亜庭丸 第二次大戦空爆により青森県茂浦港で沈没
●1945年(昭和20年)9月26日 洞爺丸、北見丸、十勝丸、日高丸、第十一青函丸、
 台風十五号により沈没 殉職者379名
●1988年(昭和63年)3月13日 青函トンネル開業により国鉄青函連絡船航路80年の
 歴史を終えた。
星霜80年、国鉄青函連絡船船員として、光輝ある航跡は、津軽海峡とともに不滅であります。
霊の永遠の安らぎをお祈りします。」



「比羅夫丸(ひらふまる)」碑。
比羅夫丸は日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、
1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・
ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の
海峡渡船の第1船である。



「羊蹄丸(ようていまる)」碑。
羊蹄丸は、1965年(昭和40年)から1988年(昭和63年)まで日本国有鉄道(国鉄)および
北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函航路で運航された客載車両渡船で、同航路における
羊蹄丸という船名は2代目であった。



次に訪ねたのが「妙福寺」。
北海道函館市元町3−31。
函館山山頂を見上げる。



この「妙福寺」は、日蓮宗の最上(さいじょう)稲荷教という教派の施設であると。
明治の神仏分離令の際、他の神社仏閣とは違い「神仏習合」の祭祀形式が許された。
よって鳥居や大注連縄もあり、神宮形式の本殿なのであると。
朱の鳥居の扁額は「真如山 妙福寺」。



入口には「最上稲荷総本山函館分院」の表札がかかっていた。



そしてぐるっと廻って進むとこちらが「本殿」であろう。



本殿には注連縄も。



大小の朱の鳥居が。



「久遠稲荷大明神」。



「春日大明神」。



「南無妙法蓮華経 八大龍王」と刻まれた石碑。



小さな社が4社。



本堂を奥から見る。



扁額「妙福寺」。



「最上稲荷総本山函館分院」
こちらが正式な入口なのであろう。



「真如山 妙福寺」掲示板。




                              ・・・もどる・・・

                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2020.12.22 18:27:55
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Re:「はるばる来たぜGoto函館」(その40):御殿山第2砲台跡~青函連絡船殉難者慰霊碑~妙福寺(12/22)  
電波塔郡?「群」 (2020.12.22 09:35:30)

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