JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.01.15
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カテゴリ: 国内旅行
「足助の町並み(豊田市足助伝統的建造物群保存地区)」をさらに北方向に進むと左手に
あったのが「 かね三茶舗 」。
昭和28年(1953)創業、無添加のお茶を販売する茶舗に併設された喫茶スペース。
店頭で石臼挽する抹茶を小さな菓子付き600円で味わえる店。



店頭にあった、「 昔懐かしい機械 」で焙じられるほうじ茶は優しい味 と。



さらに「足助の町並み(豊田市足助伝統的建造物群保存地区)」を進むと前方に目的地の、
第二の香嵐渓とも呼ばれる、足助の隠れたもみじの名所「観音山」 の姿が現れた。



藤屋 」。



藤屋
この建物は安永五年に建てられた物です。江戸末期にこの場所で油屋を始めました。当時は
御灯明用に菜種油を絞めていて大勢の奉公人が働いていたそうです。今でも店には当時の
”椿油” と書かれた古い看板があります。その後、昭和四十三年に別の場所でガソリンスタンドを
始めここは店舗ではなくなりました。」



右手その先に「 足助牛乳 」。
安政4年(1857年)建てられた建屋で営む牛乳屋 さん。
はじめは薬屋として使われていた店舗を先代が買い取り、昭和47年から牛乳販売店として営業。
数年前に改修はしましたが、骨組みは残してあるので、当時の建築技術は一見の価値ありと。

あすけさいだあを片手に当時の雰囲気を味わえる と。



名古屋牛乳 足助販売所 」。



足助牛乳 名古屋牛乳 足助販売所

建築、足助は安政四年に大火があり、現在の建物はそれ以降建てられた物が多い。当店は当初、
薬屋「藤屋」として営業した後、昭和四十七年から「名古屋牛乳足助販売所」として営業して
おります。昭和26年より「足助牛乳に改名」

ぶらり旅 その2足助牛乳 @ 愛知県豊田市足助町 | ばらりゅういち

あすけさいだあ 」。



足助牛乳 」の向かいにあったのが「 テルミ美容院 」。

テルミ美容院|店舗紹介|足助中央商店街協同組合

テルミ美容院
初代のおばあさん、通称『まあさん』は日本髪を結って50数年。明治11年生まれの
『まあさん』は、髪を結うのが三度の飯より好きで当時50人近く足助にいた芸姑さんの
髪をほとんど結っていたそうです。その当時、西盛座で日本髪を結う大会があって、
まあさんは舞台の上で芸姑さんをモデルに奮闘した写真も残っています。現在の店主で三代目。
写真は昭和20年頃裏通りの慶安寺前で営業していた頃のテルミ美容室。」



豊田市足助地区の「マンホール蓋」
「あすけ」と大きな文字 が入っていて、 中央に香嵐渓にかかる待月橋、紅葉 があり、 左端には
五平餅、右上には和紙と竹籠で作られた行灯のたんころりん が描かれていた。
足助の観光PR満載のマンホール蓋。



そして右側にあったのが現「 足助中馬館 」で、白壁に覆われた建物。



愛知県指定有形文化財  旧稲橋銀行足助支店    
   指定 昭和59年2月27日
   社屋、金庫室、金庫室前室
切妻平入りの木造2階建で、外壁に漆喰を塗って耐火性能を高めています。1階は客溜を土間とし、
カウンターから内側の営業室はすべて板張の床となっています。
客溜とカウンターの上部は吹き抜けとなり、周囲にはギャラリーが廻っています。外観は日本の
伝統的な町屋の形態としながら、内部は当時の典型的な銀行建築の形態となっており、1階奥には
昭和29年(1954)に増築された金庫があります。
住民による昭和50年代の町並み保存運動によって保存された象徴的な建物は、昭和57年(1982)
には足助中馬館として開館しました。」



内部
外観とは対照的に、館内の吹き抜けやカウンターなどに洋風建築らしさを感じられたのであった。

画像

1階奥には1954年に増築された金庫室が残る。
現在は「足助中馬館」として公開中。見どころの多い建物なのであった。

画像

その先、右手にあったのが「 莨屋・塩座 (たばこや・しおざ) 」。
足助の塩は、江戸時代より各地の海から運ばれてきた塩を、品質及び量を均一化する為に
混ぜ合わせた合わせ塩です。この塩を合わせる行為を「塩直し」、「塩ふみ」と呼んでいました。
そして足助の塩「足助直し」として信州は塩尻まで運びました。
これが三河湾の塩も、瀬戸内海の塩も信州に運んだ塩の道です。
当店は、江戸時代からの塩問屋です。【塩の道 足助直し】は、莨屋9代目が江戸時代の塩を
復元した合わせ塩です。
忠臣蔵では、吉良と赤穂のお殿様が喧嘩両成敗で無かった事で、赤穂浪士四十七士の仇打ちが
あった事は有名なお話ですが、足助の塩 ・足助直しは両者を合わせた仲良し塩です。
その他の各地の塩もそれを応援しているかの様に融合しています とネットから。

莨屋塩座|店舗紹介|足助中央商店街協同組合

二十、たばこ屋
江戸末期から明治にかけて塩問屋として知られているたばこ屋です。ここで塩ふみし、
「足助なおし」と改められ、信州へ馬の背で送られたので、今でも庭から塩がふき晴雨が
わかるということです。なお屋号が示すように塩の他にも雑貨なども売られておりました。
                         足助町文化財保護委員会」



茶碗や竹籠を売る店の前にあった「 鬼瓦 」。



昭和30年代の足助の芸者さんたち 」。



近づいて。
「塩の道」、「中馬街道」と呼ばれ江戸時代から物資の輸送路として栄えてきた足助の町。
明治末期から芸者が存在していたと言われ、昭和20年代には70名ほどがいたと記録されている。
そして昭和30年代になると、足助全体で30人ほどの芸者がいた と。



その先「 JAあいち豊田足助支店 」の横にあったのが 大きな朱の稲荷鳥居



名所 お釜稲荷 」と。



一段高い場所に社殿が姿を現した。



お釜稲荷 」を見上げて。



正一位足助お釜稲荷大社 」。



二十二、お釜稲荷
足助領主本多家(天和元年=1681~)の守護神であった御陣屋稲荷を昭和三十年にお釜稲荷として
ここにまつりました。伝説によれば平八老人の一升釜一と炊きでどれだけ多くの人でも用が
足せたといいます。祠をまつる釜は直径二Mでこの大きさの釜は大へん珍らしいといわれて
おります。(本殿は百M)
                       足助町文化財保護委員会」



内陣 を覗き見て。



扁額は「 足助稲荷大明社 」と。







狐様(左)。



内陣



直径2mはあると思われる巨大なお釜が横にされて祀られており、その中に祠が鎮座。



足助山稲荷大明神 」と。



奉納
明治四十年亡あもん儀家◯不和の為ニ児を相連れ實家に戻るべくその中途たる浜名湖畔瀬戸まで
やうやく・・・・」



ここにも 狛狐(右) が。



狛狐(左)。



足助山稲荷道 」碑。



さらに、「お釜稲荷」横の坂道を上って行った。




                                 ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ ​つづく ​​・・・








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Last updated  2025.01.16 05:19:42
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Re:小牧山城跡・明治村・香嵐渓への2泊3日の旅(その28):香嵐渓へ-2(01/15)  
オジン0523  さん
「もどる」、「つづく」は時々リンクしていませんね(笑)
余計ですが、最初の「過去の記事」をクリックすると戻れるので不要では
(2025.01.15 10:58:42)

Re[1]:小牧山城跡・明治村・香嵐渓への2泊3日の旅(その28):香嵐渓へ-2(01/15)  
jinsan0716  さん
オジン0523さんへ

リンクは、「つづく」がリンクできる翌日に操作しています。

読み終わった後、最初まで戻し、リンク操作するのは
面倒という複数の愛読者からメールがありましたので。
(2025.01.15 13:58:27)

Re[2]:小牧山城跡・明治村・香嵐渓への2泊3日の旅(その28):香嵐渓へ-2(01/15)  
OZIN0523 さん
jinsan0716さんへ
なるほど!ですね (2025.01.15 14:16:52)

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