JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.03.24
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カテゴリ: JINさんの農園
「第15回あたみ桜糸川桜まつり」を大いに楽しんだ後は、熱海の社寺、名所を訪ねることに。
湯汲坂(ゆくみざか) 」を上って行った。
熱海ニューフジヤホテル北の角から、湯前神社前まで長さ80mのやや急坂が「 湯汲坂 」。
北西に向って少し左右に曲がりながら上って行った。

熱海の湯汲坂を散歩⇒熱海温泉ホテル 夢いろは宿泊: 珍安ホテル深掘り

湯汲坂
温泉通の角~湯前神社
80m
湯前神社
大湯間歇泉
オールコックの碑と愛犬トビーの墓
日本初の公衆電話(明治22年)
湯汲道中(秋)
献湯祭(春・秋)」

湯汲坂 - Monumento(モニュメント)

そして「 小沢の湯(平左衛門の湯)
熱海の街を歩くと、坂道のところどころから湧き出す湯気が発見できるのだ。

街中に源泉が!熱海の情緒感じる「七湯めぐり」の楽しみ方 | たびらい観光情報

「熱海七湯」といわれる源泉
。源泉を巡り、長い歴史と温泉情緒に触れることが
出来るのであった。
熱海七湯の一つ、「小沢の湯 」。
この「小沢の湯」では、吹き出す蒸気で温泉卵を作って食べることができます。地元の人も旨いと
太鼓判を押す、熱海のちょっとした名所なのであった。
2023年7/1リニューアル完了。蒸し釜が2つになり、ベンチも新設されていたのであった。



蒸し釜に近づいて。



高温注意
蒸気が高温のためご利用の際は火傷をしないようご注意ください。
たまご以外のものを温めたり、調理するこをしないでください。
天然温泉のため、蒸気が出ない場合があります。」と。



折しも、卵を茹でている家族連れが。

自分で出来る!温泉でつくるゆで卵♡ | こどもとあたみ

ゆで卵の写真を撮らせていただきました。

衝撃のおいしさ!熱海の無料スポット「小沢の湯」で温泉卵を作って食べてみた | TABIZINE~人生に旅心を~



小沢の湯(平左衛門の湯)
沢ロ弥左衛門、前井文次郎、米倉三左衛門の立の湯を「平左衛門の湯」と称してい
ました。また、土地の人は小沢にあったので「小沢の場」とも称しました。
「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いにき、小さな声てべば小さく湧き出たと
いわれています。」



そして「ニューフジヤホテル」の角まで進むと「 大湯間歇泉(おおゆかんけつせん) 」案内板が
あった。



そして「 湯汲坂 」の途中、左手にあったのが「 大湯間歇泉(おおゆかんけつせん)
電話ボックス 」。

npa72IMG_3646.jpg

こちらが「 大湯間歇泉 」。



大湯間歇泉と 噏滊館
熱海温泉には、江戸幕府を開いた徳川家康が二度、熱海に来ています。最初はまだ天下をとる前の
慶長2年(1597)二度目は征夷大将軍となったあと慶長9年 (1604) 3月で、この時には義直
(のち初代尾張藩主)と頼宜(のちの初代紀伊藩主)の二人の息子を連れて今井半太夫の本陣を
訪れ、大湯で7日間の湯治を行いました。家康はこの湯をたいへん気に入り、同年7月には伏見城に
参勤にきた周防の古川広家のために熱海から大湯5桶を取り寄せています。 4代将軍家継の
時代には、江戸の将軍家にこの大湯を献上する「御汲湯(もくみゆ)」が始まり、8代将軍
吉宗や10代将軍家治の時代にも多くの湯が運ばれました。
当時、大湯は昼夜6回、ほぼ同じ時刻に蒸気と熱湯の噴出を繰り返し、その様子を江戸後期の
戯作者(げさくしゃ)山東京山(さんとうきょうざん)は「石龍熱湯を吐くがごとく 湯気
雲のごとくたち昇り泉声雷(せんせいらい)のごとし。本朝第一の名湯なり。」
(『熱海温泉図彙』)と記しています。 また、およそ一か月に一度、「長湧き」といわれる
昼夜続けざまの噴出があったといわれています。 
「明治に入り、維新で活躍した政治家や実業家らが熱海温泉に続々と訪れるようになると、
明治18年(1885)、この地に日本の近代的な温泉療養医学センターともいうべき「噏滊館」が
建設されました。これは地元から土地の献納を受けてつくられた宮内省直轄の施設で、規則
正しく噴出する大湯間歇泉からの蒸気を患者が吸入し胸部疾患治療を施すというものでした。
さらに館内には、体重計、身長計、肺活量計、寒暖計、温度計、 気圧計、雨量計など医療及び
測候に必要な当時の最新機器も備え、別に浴室を設けて入浴療法などもおこなわれました。
また、明治22年(1889)噏滊館内に日本最初の市外電話 (東京一熱海間) が設けられ、
大日本帝国憲法発布の報道も全国で熱海にだけ電話で通報されたといわれています。
明治24年(1891)、噏滊館は宮内省から温泉業者一同に払い下げとなりましたが、昭和9年
(1934) に焼失するまで、 熱海の名所の一つとなっていました。
 噏滊館に噴出する蒸気を提供していた大湯は、明治以降、周辺で新たな源泉が開発されると
しだいに湯量や噴出回数が減少し、大正12年(1923) 関東大震災で一時的に噴出量が増した
ものの、再び衰え、とうとう休止してしまいました。
 現在は、昭和37年(1962)の工事により人工的に湯を噴出させ、往年の大湯噴出の様子を
再現しています。
昭和52年(1977))4月25日、 史跡 「大湯間歌泉跡」として、 熱海市指定有形文化財に指定
されました。」



「オールコック」関連の石碑 が並ぶ。
初代駐日英国公使
サー・ラザフォード・オールコック
Sir Rutherford Alcock
熱海ライオンズクラブ60周年記念事業
          23th JAN.2018」

オールコックの碑 - 32人の訪問者

右の石碑は「 南無阿弥陀仏 徳本〔花押〕 」 
むかしこの噴出口に甲虫が群がり、熱湯に吹かれて死ぬ様が哀れであった。たまたまこの地に
巡錫された徳本上人が梵法をおこないこの名号石を建てたところ、ふたたび虫は来なくなったと
いう。文化12年(1815)のことであろう(『あたみの碑と像とレリーフ』熱海市観光施設課編、
発行年不明)。

オールコックの愛犬トビーの墓 クチコミ・アクセス・営業時間|熱海【フォートラベル】

左:オールコックの碑
 碑文は「 予奉國命寫日本荏土府十有六月公暇無事茲萬延元年
                庚申七月十八日發江都廿六日登冨士山廿九日到豆州
       RA(September 1860)
                羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留
                浴熱海温泉十有四日愛玩山海奇勝之餘建此石使後人
                知英人遊干此自吾輩始矣羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留」と。
碑文の内容はchatGPTから
 予、國命に奉じて日本荏土(えど)に寫(うつ)る。十有六月、公暇無事なり。
 茲(ここ)に万延元年庚申(かのえさる)七月十八日、江都(えど)を発し、
 廿六日富士山に登り、廿九日豆州(伊豆)に到る。
 羅多保津斗安有留古津久(ラザフォード・アルコック)英國美仁須登留(イギリス・
 ミニスター)熱海温泉に浴すこと十有四日。山海の奇勝を愛玩するの餘(かたわら)、
 此の石を建て、後人をして英人の此に遊びしこと吾輩より始まるを知ることを使む。
現代語訳
 私は、国(イギリス)の命を受けて日本の江戸に駐在している。
 1860年(万延元年)の7月18日に江戸を出発し、7月26日に富士山に登り、7月29日に
 伊豆に到着した。
 その後、熱海温泉に14日間滞在し、山や海の美しい景色を楽しんだ。
 これを記念してこの石碑を建て、後の人々に、ここを訪れた最初のイギリス人が私である
 ことを伝えたい。
右:愛犬トビーの墓
 「 Poor Toby! 
  23 Sept. 1860
  この墓石はいちど行方不明になったので、大正7~8年の大湯改修工事のとき、熱海館主の
  岡野さだ氏が寄贈した2代目らしい とネットから。



オールコック滞在記念碑とトビーの墓碑
初代駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコック (1809~1897) は万延元年(1860) 7月、
外国人として初めて富士登山をした際、帰路熱海に立ち寄り、本陣今井半太夫方に2週間ほど
滞在しました。
この滞在記念碑には「熱海温泉に浴し、山海奇勝(自然)を愛するあまりこの石碑を建て、
後の人に熱海に遊んだ英国人は自分が最初であることを知らせる」ということが漢文で刻まれて
います。
また、本国から連れてきた愛犬トビー(スコッチ・テリア)が、噴出した大湯に触れて大火傷を
負い死んでしまった際、里人は人の死を悼むのと変わらない葬儀を行い、丁重に弔いました。
オールコックは江戸に戻った後、自らの滞在記念碑とともに、「Poor Toby (かわいそうな
トビー)」と刻んだ墓碑をこの地に送り届けました。
攘夷派による外国人襲撃事件がたびたび起こり、日本人への印象が悪化していたこの時期に、
オールコックは愛犬の死への里人の懇切な対応に心を動かされ、帰国後に執筆した著書
「大君の都」 (1863年発刊)の中で 「日本人はまことに親切な国民である」と記し、英国世論が
親日的となるきっかけをもたらしました。」



現在は人工的に、定期的に噴出させているとのこと。



人工間歇泉・「 大湯間歇泉 」をカメラで追う。











大湯
古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであった
といいます。明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき
再び噴出しました。しかし、その後も噴出回数は減少しつづけ、昭和のはじめついに止まって
しまいました。
昭和3 7年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に
至ってます。」と人工的な間歇泉であることが書かれていました。



熱海温泉湯源沸湧之図(大湯) 」。

大湯間歇泉(熱海七湯) | 熱海ロマン紀行

左にも石碑があった。



市外電話創始の地
明治22年(1889年)1月1日 この場所にあった内務省の 噏滊館と 東京木挽町の東京電信局との
間に わが国で初めて公衆用の市外通話が行われました。
これはアメリカのアレクサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明してから 13年後のことで
あります。
   昭和37年3月   日本電信電話公社」。



復元された「 日本初の電話ポックス(白ぬり六角形) 」。



市外通話発祥の地 熱海
温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明治の頃、多くの政治家や政府高官が保養や
会談のため来遊し、東京との連絡が頻繁に必要であったことから、東京~熱海間に電話回線が
敷かれ 明治22年(1889)1月1日に開通 しました。
電話器は、東京側では木挽町の東京電信局に、熱海側では宮内省の噏滊館内に設置され、
通話料と呼出手数料をとって公衆電話の取扱いが開始され、これが日本で最初の市外通話と
なりました。
東京~横浜間で電話交換業務が始まったのは、この2年後の明治23年(1890)の12月 のことです。
この電話ボックスは、熱海市が市外電話にゆかりの深いことから、明治33年(1900)に東京の
京橋のたもとに設置された日本初の電話ポックス(白ぬり六角形)を模して復元したもの で、
昭和43年(1968) 10月に「明治百年」を記念してつくられ、その後、2度にわたり改装して
います。
                         平成31年4月 熱海市」




                                   ・・・​ もどる ​・・・



                   ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2025.03.28 06:45:18
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