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《日清戦争は、外相陸奥と参謀本部次長の川上操六が、首相伊藤博文らの反対を押し切って始めた戦争といわれます。長い雌伏(しふく)の時代から、密(ひそ)かに「朝鮮問題」を研究していた小村もまた、その解決は「対清戦争しかない」と見て取っていました。それゆえ、駐清臨時代理公使になってからは、「開戦やむなし」の進言を本省に繰り返し訴えつづけました。
「朝鮮問題」とは、清国が朝鮮を属国として従属させる立場をとり、これに対して日本が朝鮮の独立を強く求め、両国が対峙(たいじ)したことを指しますが、ことはもう少し複雑でもありました。
地政学的にみると、朝鮮半島は中国大陸と日本列島の間に存在する「堀にかかる跳ね橋」といえます。元寇(げんこう)が示したように大陸から日本列島を攻めるときは、必ず朝鮮を通る。逆に、豊臣秀吉の朝鮮出兵のように、日本から大陸へ進むときも朝鮮を通る。自らの安全保障を考えれば、日清両国とも、この「跳ね橋」を自らの影響下に確保しておきたい――というわけです。
ただ、朝鮮問題で日本が「主敵」と考えていたのは、実は清国ではありませんでした。強大な力をもって東アジアに進出してくる欧州列強、とりわけロシアだったのです。嘉永6年(1853)にプチャーチンが長崎に来航する前から、すでに何十年にもわたり、ロシアは樺太や千島列島で日本人への襲撃を繰り返していました。幕末にはロシアは対馬の占領さえ企てていました。これはイギリスの干渉で阻止できましたが、明治維新後もロシアは日本にとって潜在的な敵国・ナンバーワンでありつづけたのです。
そして、そのロシアがシベリア鉄道の建設に着手したのは、明治24年(1891)のことでした。シベリア鉄道が開通すれば、ロシアは数日のうちにヨーロッパから極東へ大軍を送り込めます。これは日本にとって恐るべき事態でした。そこで日本は、シベリア鉄道が完成するまでに、何とかしてロシアに対抗する「基盤」を整えておく必要がありました。そのためには、朝鮮半島という大陸との「跳ね橋」を、腐敗した老大国である清国の支配に任せておくわけにはいかなかったのです。
こうした信念のもと、清国との「早期開戦」を訴える小村は、明治27年(1894)7月31日、「開戦必至」と見て、もはや本国からの訓令を待たずに独断で清国との国交を断絶、北京公使館の引き揚げを断行しました。日清両国が宣戦布告をする前日のことです。しかし、それは小村の信念に基づく行動でした。当然、厳罰を覚悟して帰国した小村を、しかし、陸奥はひと言も咎(とが)めなかったといわれます》(中西輝政『日本人として知っておきたい近代史 明治編』(PHP新書)、 pp. 161ff )
日清戦争前の状況が簡潔明瞭にまとめられており、特に付け足すべきことはない。
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