PR
Free Space
Comments
Calendar
Keyword Search
《一見するに「資本主義の精神」の発達は、合理主義の総括的な発展の部分的な現象としてみるのがもっとも簡明であり、また究極的な人生問題にたいする合理主義の原理的立場にまでさかのぼらねばならぬかのようである。もしそうだとすれば、プロテスタンティズムは、それが合理主義の人生観の「早生(わせ)果」としての役割を演じた範囲内で、はじめて歴史的観察の研究対象となってくるのである。
しかしながら、この方向にしたがって観察をすすめるとき、ただちに明らかになるのは、このような単純な問題のたてかたが、次の点からみて不可能だということである。すなわち、歴史的にみるとき合理主義の進行は、決して人間生活の個々の領域において並行的に発展したものではないということである。
たとえば私法の合理化についてみても、これを法素材の概念上の単純化と編制とみるならば、こんにちまでにその最高の形態に達したのは古代末期のローマ法であるが、しかもそれは南欧のカソリック諸国では支配的位置を保持しつづけてきたのに反して、経済的にもっとも合理化された若干の国々では、このような私法の合理化は逆にもっともおくれており、とりわけイギリスでは、当時の相当有力な法律家ギルドの力をもってしてもローマ法の復興が失敗におわっている。
18世紀の純粋に現世的な合理主義哲学が隆盛をきわめたのは、資本主義が最高度に発達した国ぐにだけではなく、またときにそうした国ぐにであったわけでもない》(マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」阿部行蔵訳:『世界の大思想 29
ウェーバー 政治・社会論集』(河出書房新社)、 p. 160
)
ところで、合理性には次のような問題もある。
《合理性というのは、つねにある歴史的な個性によって支えられています。だから、ある合理性というのは、他の歴史的な個性をもった合理性を犠牲にしてしか成り立たないのです》(山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)、 pp. 71f )
合理不合理の判断は、歴史的個性に依存している。だから、歴史的個性が異なれば、合理不合理の判断もまた異なってくるということだ。
《ヴェーバーは、生活に関わる価値的態度にはいくつかの種類があって、それぞれの種類ごとに合理化があるし、そのような合理化を押し進めていく倫理的態度も、他の価値的態度からすれば、はなはだしく非合理なものとならざるを得ない、ということを指摘します》(同、 p. 72 )
だとすれば、まず問うべきは、合理か不合理かということではなく、合理不合理を判断する前提となる理論の優劣の方であろう。
ナショナリズムとは何か(165)【最終回】… 2024.08.26
ナショナリズムとは何か(164)「天皇を掲… 2024.08.25
ナショナリズムとは何か(163)天皇という… 2024.08.24