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《しかし懐疑の精神を自己自身にも向けて、自分のやっていることが固執的であり権威的であり先天的なのだということに気づけば、はたしてどうなるか。どの仮説的真理を採用するのかがまったく不決定に陥ってしまうのだ。それゆえ相対主義者たちは、建前としては、絶対の真理などはありえない、真理なんぞはものの見方によって様々である、といっておきながら、どれか1つの仮説をとらなければならないとなったときには、結局のところ、現在自分のやっている専門分野における常套(じょうとう)のやり方を信仰して、あるいは信仰したことにして、それ以外のものを無視するのである。
相対主義というのは、表立った言い分としては、懐疑を過剰に膨らませ、真理などは存在しないのだという虚無主義に流れがちとなる。しかし裏面では、自分がたまたまかかわった専門的なやり方を過剰に信仰する、つまり軽信してしまう。こうした、表裏それぞれに極端な態度を折衷(せっちゅう)することによって何とか言説を紡(つむ)いでいるわけである。
表では相対化の過剰としての相対主義を振りかざし、裏では専門にたいする絶対化の過剰としての絶対主義をひそかに導入することによって生きながらえているのが、今日の相対主義者の姿なのである》(西部邁『新学問論』(講談社現代新書)、 pp. 95ff )
☆
《 宮台 もし「ナショナルなもの」「全体性」への帰属を訴えるのが自称右翼だとするなら、自称左翼というのは実は右翼なのではないかと言えるところがあります。というのは…近代国家が成立したあと、「ナショナルなもの」への帰属が当然の前提としてまずあって、そのうえで一国内で弱者への再分配を行なおうとするのが左翼だったからです》(神保哲生・宮台真司他『天皇と日本のナショナリズム』(春秋社)、 pp. 240f )
何をもって「右」とするのか「左」とするのかがまず問われなければならない。この宮台氏の発言からすれば、「ナショナルなもの」への帰属を前提とするのは「右」ということになるが、それは言い換えれば、現実を肯定するかどうかということである。
今ある現実の良き部分を保守しようとするのが「右」であり、今ある現実の悪しき部分を改革しようとするのが「左」ということだ。が、十把一絡(じっぱひとから)げに現実を肯定するのはすべて「右」としてしまうと、「左」は地に足の着かぬ観念論となってしまう。
《それに対して自称右翼は、自称左翼が持ちだす「全体性」や「超越性」が、“マルクス主義”であっても“伝統”じゃないので間違っているということで、正しい「全体性」や「超越性」への帰属を主張するだけだったような気がします。あるいは、間違った「全体性」や「超越性」への帰属が持ちだされることで、正しい帰属意識が薄れていくことを恐れる立場が、自称右翼だったように思います。ネオコンが右翼か左翼かが話題になりましたけど、自称右翼も自称左翼も、僕にいわせれば「目くそ鼻くそ」ということです》(同、 p. 241 )
自分だけは、超越しておられるようである。
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