PR
Free Space
Comments
Calendar
Keyword Search
《 宮台 ところが、グローバライゼーションが進んだ結果、国家とは別の、ローカリティを越えた「われわれ」意識が、少しずつ拡がってきました。それは多国籍企業だったり、宗教的・疑似宗教的な結社だったり、エリート・コネクションだったりする可能性があります。そういう新しい「われわれ」が、国家を草刈り場とする権益争奪戦にいそしむなかで、国家によってローカルな「われわれ」を纂奪(さんだつ)された日本国民が、やせ細った役立たずの国家に忠誠を誓うという、「つくる会」的な哀れで滑稽な図式が展開しています》(神保哲生・宮台真司他『天皇と日本のナショナリズム』(春秋社)、p. 247)
エンゲルスは言った。
《国家は「廃止」されるのではない、死滅するのである》(反デューリング論)
が、これは共産社会を夢見る者たちの希望的観念論、すなわち、「妄想」に過ぎなかったことは言うまでもない。20世紀は「マルクスの予言」が本気で信じられる世紀であった。が、それは、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦が瓦解(がかい)することで終焉(しゅうえん)を迎えた。にもかかわらず、相変わらず、何ら反省するでもなく、国家を攻撃し続けても非現実的である。
《それは、単一の法共同体に依存するしかない受動的な存在と、複数の法共同体を利用することができる能動的な存在との、二極分化でもあります。国際政治にしても経済活動にしても、いまだに国民国家内のルール(=法共同体的なもの)と、国民国家を主体とするとり決め(=国際条約や国際法的なもの)がなければ回らないことは、事実です。でも、単一の法共同体に依存するしかない存在は自分が所属する国家を守ろうとするでしょうが、複数の法共同体を利用できるエリート的プレイヤーはそうした志向から自由になります》(同、 pp. 247f )
〈エリート的プレイヤー〉とは、「国家」に縛られることのない「グローバリスト」ということなのか。成程、こういった人達は、利に目敏(めざと)く「国家」を渡り歩くのであろう。そして、経済的利益を得て、それなりの名誉も獲得するのであろう。が、私は、そのような人達を「エリート」と称することに少なからず抵抗がある。何故なら、そのような人達は自利にしか興味がないだろうからである。
それでは、「草刈り場」が国際舞台へ移っただけの話である。「国家」を超えた利益の争奪戦に参加するのが「エリート」なのか。それは、ただの「拝金主義者」( mammonist )ではないかの。
《そういうエリート的プレイヤーは、国家をどう利用すれば、自分たちに最も都合のいい内外のルールができ、自分たちの活動に正当性が与えられるだろうか、と強く意識しています。アメリカ政府が、グローバライゼーションを名目として、自分にとって都合のいいルールをつくろうとするときも、形式的な主体はアメリカ政府であっても、実質的にはいま申しあげたような脱国家的なエリート的プレイヤーが動いているわけですね》(同、 p. 248 )
ナショナリズムとは何か(165)【最終回】… 2024.08.26
ナショナリズムとは何か(164)「天皇を掲… 2024.08.25
ナショナリズムとは何か(163)天皇という… 2024.08.24