PR
Free Space
Comments
Calendar
Keyword Search
《一方で、エリート層が、国民をナショナルなものに縛りつけることでナショナルなものからのアガリを増やそうとする。他方で、こうした状況から国民を守ろうとすると、エリート層がナショナルなものをトランス・ナショナルに簒奪(さんだつ)していることを批判して、ナショナルを国民の手にとり戻さなければいけなくなる。その意味で「ナショナルはいけない」というような、昔ながらの左右対立図式で考えられてきた左翼的議論では不十分です》(神保哲生・宮台真司他『天皇と日本のナショナリズム』(春秋社)、p. 248)
前者のような「我利我利亡者」(がりがりもうじゃ)を〈エリート層〉と呼ぶことに、私は抵抗がある。「エリート」とは単に能力の高い人間を意味するのではないだろう。国家を統治し、国民を指導する役割を担ってこその「選ばれし民」である。後者のように、〈ナショナルなもの〉、そして国民を擁護してこその「エリート」なのではないのだろうか。
《ネオリベとは痛みを忘れさせるためにナショナリズムのスパイスを使うものだとするようなエリートや、トランス・ナショナルな見地からナショナルなものをどう利用するかを考えるようなエリートが現に出てきた以上、彼らの視線を前提にして「つくる会」の教科書採択問題を議論できないといけない。そうすれば、「まさにナショナルな見地から」ナショナルを簒奪するエリートを批判し、彼らが纂奪に利用する「つくる会」的教科書を批判することもできます》(同、 p. 249 )
※ネオリベ:ネオリベラリズム(新自由主義)
私は、「つくる会」の教科書問題を新自由主義( neoliberalism )や世界主義( globalism )に関連付けて語るべきではないと思う。彼らが 「つくる会」の教科書採択問題を利用しているという見方は、無きにしも非(あら)ずなのではあろうが、それが本質というわけではない。「つくる会」は、戦後の「自虐史観」を改めようと立ち上がった人達の集まりであって、ここには金銭的損得勘定があるわけでもなければ観念論的思惑があるわけでもない。あるのは、「愛国心」( patriotism )、あるいは、日本人としての「矜持(きょうじ)」( pride )といったものであろうと思われる。
「つくる会」の教科書を直接批判するのではなく、新自由主義者や世界主義者が「簒奪」に利用するからということで間接的に批判するというのは、批判の仕方としてはやはり邪道である。「愛国心」に発する教科書作りが危険だというのならそう言えばよい。たとえ教科書の執筆者がいけ好かないというのであったとしても、新自由主義だの世界主義だのを持ち出して、「つくる会」の教科書に難癖を付けるのは見苦しい。
ナショナリズムとは何か(165)【最終回】… 2024.08.26
ナショナリズムとは何か(164)「天皇を掲… 2024.08.25
ナショナリズムとは何か(163)天皇という… 2024.08.24