2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
1月
2月
3月
4月
5月
6月
全19件 (19件中 1-19件目)
1
今年も残すところあと一日となった。最近10年間の中で、最も出会いの多い一年間だったと思う。出会ったからといって、全ての人やものと長続きする訳ではない。長続きするものよりも、むしろその場限りとなってしまうものの方が多い。出会いは運命であり、どんな出会いにも何らかの意味があるのではないか、と実感した一年でもあった。社会人になって、初めて屈辱を味あわされた2年前の出会いについても、その場では相手のことが大嫌いだったし、自分の運命を呪ったりもした。しかし、その出会いのおかげで、自分なりに試行錯誤した結果、一回り大きな自分になれたような気がしている。波が大きければ大きい程、そこから得るものも大きい。楽天のホームページ上でも、たくさんの方と出会えたことは、とても励みになったし、生きる楽しみにもなりました。明日から4日間、パソコンができない環境になるので、日記の更新ができなくなりますが、その後また続けていきますので、どうかよろしくお願いします。よいお年をお迎えくださいまし。
2003年12月30日
コメント(0)
「まじめ」とは、本気である、嘘や冗談ではない、誠実である、などの意味がある。このような意味においては、「かっこいい」と思うのだが、「まじめな人」がかっこいいと思われるかどうかについては疑問がある。「まじめな人=つまらない人?」まじめ過ぎる人は融通がきかない。冗談が通用しない。まじめな考え方で生きてきているから、価値観が固定されているのか?考え方を理解しようとしない。近寄り難くなる。「まじめにコツコツとやっているだけでは、儲からない」仕事を一つ一つ確実にこなす。他の人に任せられない。自分でやらなければ気がすまない。自分の仕事ばかり増えていく。自分の首が締まっていくように感じる。まわりの人が遊んでいるように見える。「まじめだと、利用される」人から仕事を押し付けられる。まじめにコツコツと授業に出て、書いたノートが利用される。利用した人の方が点数が良かったりする。ノートを貸してあげないと人格が疑われる。まじめにやっても、いいことないじゃん。って、思うかもしれない。ただ、前の例には、なにかしら誇張された部分があったり、物事の表面しか見ていない部分があったり、まじめな人に欠けているかもしれない部分があったりする。私は、「まじめ」プラス「何らかの付加価値」があればかっこいい、と思う。今日の格言「まじめだけでは儲からないが、まじめなくしては真の儲けは得られない」
2003年12月29日
コメント(0)
最近欲しいモノ、ある?1.食料2.洋服3.住宅他にも選択肢はあると思うけど、基本が衣食住だとすると、そんなものか?よりよいモノが欲しいなあ、とは思うけど。友人に聞いてみた。「私が欲しいのはモノじゃなくて、自信です。だれにも負けない趣味や特技を身につけたいです。」ときた。このことについて、三日間くらいボーっと考えていた。「自信って、楽しいことをしているという自覚があれば、あんまり考えることもないのかな?」中学のとき、三田誠広さんの「高校時代」という本を読んで、主人公の真が「自信を持てなかった」というフレーズに妙に共感していた。そして、2年前、理論派の同期に叩きのめされたときにも、やっぱり「自分に自信」がなかった。自信を持ちたいな、と思って勉強した。が、続かなかった。俺はダメなやつだ。と自分を責めた。ますます自信がなくなった。このことをどう打破していくか?まずは自分を認めること。私が試した方法は、1.自己啓発本を読む。2.セミナー等に行き、志が同じ仲間と出会い、話す。3.どうして、自信がないかを考え、記録する。書くたびに進歩するのが望ましいが、進歩しない場合も気長に待つ。私には効果がありましたが、状況によりできることとできないことがあり、それぞれ感性も違うので、但し書きしておきます。
2003年12月28日
コメント(1)
例えば、直線は一次元、平面は二次元、空間の三方向のひろがりを表すときはは三次元というよね。次元とは物事を考える立場とか、着目している面のことで、これが人によって「違う」。「とある有名ミュージカル」の話をしていたときのこと。(名前は忘れた)演劇が好きかの話をしていて、私は友達が趣味でやっている劇団の公演くらいしか見ていなかったことと、その劇も十分に面白かったことを話すと、このお言葉を頂戴した。どうも釈然としないものを感じた。そりゃあ、東京ドームとか、東京国際フォーラムのホールAを一杯にするのは凄いことだと思うし、その舞台にかかわる人の努力は並大抵のものではないことも分かる。得られる感動も相当なものだろう。言葉どおりに理解すれば全くそのとおりだ。「次元が違う」。何気ない一言であるが、感情が言うことを聞いてくれない。「馬鹿にされたように感じた」から?しかし私も、何気なく人を怒らせてしまう一言をときどき口走ってしまうらしい。悪気はありません。反省しています。ごめんなさい。
2003年12月27日
コメント(2)
今日は多少偏見が入っている。(いつもか?)私自身が2年前冬の時代であったとき、理論派の奴と一緒に仕事をしていた。こいつは常に正論を吐く。私は何も言い返せなくなってしまう。いつも「こいつには勝てないな」と思っていた。私が言うことはいつもお見通しで、必ずと言っていいほど、覆された。負けたくない一心から、本を読んで勉強した。その頃ちょうど、論理力のトレーニングの本がはやっていた。何冊か持っていたが、結局読破できていない。どうも性にあわなかった。結局負け続けた後、別の部署に異動となった。最近また、別の理論派と仕事をすることになった。理論で戦ったら、また勝つのは困難だ。しかし、こいつに勝つ方法を見つけた。スピードである。こいつは何かあると、いつも考え続け、いろんな場面を想定し、悩んでしまうようだ。その結果、行動するのが遅くなるか、行動しないことに気がついた。いまの時代、どんなに理論で負けたって、行動したものの勝ちである。裏目にでることもあるけれど。また、行動したほうが楽しいことに気がついた。ただ、理論派兼行動派にはかなわないかな。
2003年12月26日
コメント(0)
理想をもって学校、もしくは会社、集団に入り、そしてそこで現実との乖離を感じた人もいるだろう。私は成長の過程で、たくさんの挫折をしてきたせいか、14,5歳の頃から理想をもつことをやめた。いわゆる、いつもゼロからの出発である。そうすると、たとえ面白くない出来事があっても、世の中はこんなものだ、とあきらめがつくし、逆にいいことがあると、生きていればいいことがあるものだ、と思うことが出来る。ただ、いつものようにゼロベースで物事を見ていたとき、ふと進歩をしていない自分に気がついた。ゼロベースっていうのは、例えて言えば、天動説だ。自分は動かないで、周りの景色だけが動いていく。自分が何かをしなくても世界は動いていく。進歩があるということは、とにかく何かが良くなるように絶えず自分から動いているということ。ただ、こっちは自分が動くという意味では地動説とも言えるが、自分から意思をもって動くということなので地動説の発展形なのかな、と思ってしまった。これからどんな現実があるかは分からないけど、絶えず理想をもって動いていたい。
2003年12月25日
コメント(0)
痛いよね。給料は減るし、税金は増えるし、職を失うかもしれないし、今までと同じ生活ができなくなるかもしれないし。「改革には痛みを伴う。」この言葉を何度聞かされただろうか?潜在意識に刷り込まれてしまっている。「改革」って痛いんだ。そういえば、手術だって痛いもんね。最近、この呪縛からやっと逃れつつある。逆に「改革」って楽しいもんだよ、なんて言ったら、どういう批判を浴びるか?「ちっとも楽しいことなんかないじゃないか!」と言われるかな?仕方ないよね。人にはそれぞれ価値観があるし、立場っていうものもある。苦労して今の地位を築いてきた人には酷ってもんだ。ただ、今までの歴史を見ると、永久に安定することなんかない。長年安定していると、なぜか借金が膨らんでいる。金が足りないなと思うと、年貢を重くする。重くすると、払うほうは面白くない。面白くないと暴動がおきる。やばい。悪循環だ。改革だ。徳政令だ。混乱する。というわけで、再び「改革」。どうやって痛くない、いや楽しい改革ができるんだ?みんなが幸せになる改革。信じられる誰かがたくさんいること。お祭りのようにその場限りではなく、幸せを長時間維持できること。そんな方法はないのだろうか?
2003年12月24日
コメント(0)
もうすぐ新年ってことで、大掃除をした。7年間不動のベッドを動かして、本格的にやった。ベッドの下に、50円玉2つ、10円玉1つでてきた。ラッキーだと思いつつ、お金は大切にしないとなあとも思った。その他、買ったことを覚えていない本が出てきたり、探していたビデオテープが出てきたりで、少し嬉しかった。本は1999年発行となっているので、今から4年前の話だ。この本に限らず、買ったことを覚えていない本や、買ったことを覚えているが買った場所を覚えていない本は多い。いらない情報かもしれないが、その本を買った場所や、どういう思いでその本を買ったのかくらいは、書き留めて置くべきかもしれない。最近どうも忘れっぽいのだが、小学校卒業の時に埋めたタイムカプセルに書いたことは覚えている。私の勝手な思い込みだが、普通であれば大人になったときを思い浮かべて、「野球選手になる」とか、「芸術家になる」とか楽しいことを書くのかなと思うし、実際楽しんで書きたかった。しかし、卒業を目の前にして、式の練習でふざけていてこっぴどく怒られ、さらし者にされた。「身から出た錆」ではあるが、あんなに怒ることはないんじゃないか、と今でも思う。傷ついた私は、「ふざけていて怒られた」と怒りをこめて書いた。ということで、タイムカプセルを開けずとも書いたことを覚えているのである。先生にも先生なりの考え方があったのかもしれないが、卒業するときくらい、もう少し心に余裕をもって、気持ちよく送り出してもらいたかったな、と思った。もし、先生が「怒り」という感情に任せて怒ったのであれば(幼い私には感情で怒っていたようにしか見えなかった)、それは「最低」だと思う。怒るっていうのは、そいつのことを本当に考えて怒るもんだろ!それに怒るのに晒し者にすることはないだろ!もうタイムカプセルは開いているのだろうか・・・?育ったところを離れているので、知る由もない。
2003年12月23日
コメント(0)
リーダーという言葉で何を思い浮かべるだろうか?大統領、首相、都道府県知事、州知事、市町村長、校長、社長、委員長、会長、議長、キャプテン、部長、課長、など、いろいろある。絶対なりたいと思う人もいるだろうし、面倒だからいやだという人もいるだろう。私はどちらかというと、「面倒だからいやだ」タイプであった。なぜそう思ったのか、と考えたら、それはその集団の目指す方向は既に決まっていて、その方向と自分のやりたい方向が一致してなかったからじゃないか、と気づいた。小学生の頃の話であるが、クラスで「遠足にゲームを持っていって良いかどうか」の決議をしたことがあった。答えは決まっていた。「ダメ」である。それを決議役の私が「なるべく持ってこないようにしてくださーい」なんて言ったものだから、すぐさまクラスメートからの反発を食った。このことは後々苦い思い出となった。自分の意思とは反して、そのような失敗をいくつか経験した。不特定の集団というのは、いろいろな価値観を持っているので、一致することは難しい。ただ、だから面白いこともあるのかもしれない。失敗談は追々書いていくとして、今日書き残したいのは、誰でもリーダーになれるし、チャンスもあるということだ。そしてその訓練をすることはいつでも始められる。さて、どうするか?私もそうだけれど、生活をしている中で、起きる、食べる、飲む、着る、学校・会社へ行く、などの行動を漠然としている。ルーティンになっていると、流されている感じで日常がつまらなく感じる。例えば、自分で「何時に起きる」と決めて起きる、自分で「これが食べたい」から食べる、自分で「これが着たい」から着る、等、自分の行動に対する意思決定を「意識的に」やっていると、リーダー養成の訓練になる。
2003年12月22日
コメント(0)
私は月に1回散髪に行く。今日は起きるのが遅くなったのでいつもの散髪店に行ったら待合の席がないくらい混んでいた。遅く起きたことを後悔しつつ、他の店をあたることにした。以前行ったことがあるが、あまり満足のできなかった店に行くことにした。店が少しでも良くなっていればいいなあという期待をこめて。店に入ると、お客はいたが待つことなく散髪してもらうことができた。しかし、かかっている時間が長かった。いつも行っている店で15分くらいで終わるところが、その店では30分以上かかっていた。しかも、切り過ぎで出来映えもいまいち。値段こそいつものところと変わらなかったけれども。お客さんが少ないから時間がかかったのかもしれない。しかし技術的にはそんなに違いはないはずだ。やはり、いつも行っている店のほうがいいなあ、と思いながらその店をあとにした。その店が繁盛するにはどうしたらよいか。立地条件は他の店より良好である。住人も多い。うちからはいつもの店よりも、その店の方が近いくらいなので店の質がよければ間違いなくその店に行く。その店は儲けようと思っていないのだろうか?技術的な差が顕著でないならば、何を選ぶかと言うと、速い、安い、人の良さだろう。上手さと速さは努力するとして、そのほかに付加価値をつけるとしたら何がいいのかな。マッサージをつける、体に良いシャンプーを売る、リラックスできる音楽を流す、散髪店に期待しないものが思いがけなくあったら、いいのになあ。と、不満とか改善するところとかを考えながら、ふと、自分は何をしているのだろう、と思った。少なくとも、今日行った店では、散髪という技術をもち、サービスを提供している。仕事はしているものの、私にはサービスを提供しているという実感がないし、時間に忙殺されている感じである。ただ、今のこの生活を続けていくつもりはない。今日の出来事を通して、パズルの「ひとかけら」が埋まったような気がした。
2003年12月21日
コメント(1)
「それじゃあ、やめたら」勉強、部活、学校、仕事、友達づきあい等・・・。もう一人の自分が囁き続けてきた言葉である。そいつが出てくるのは決まって、つらいとき、苦しいとき、悩んだとき、疲れたとき、つまらないとき、絶望し先が見えなくなったときである。だれでもそうだと思うけど、つらい時をたくさん乗り越えてきているのではないか?いま乗り越えているときかもしれないな。そいつが囁いてきた時、必ずしも「やめない」という選択肢を選ぶ必要はない。やめることも勇気がいる。ただ、そいつと真剣に向き合って戦えば戦うほど、得るものは大きかった。戦うためには戦略がいる。攻めて、攻めて、攻めまくるということでもいいが、そいつと折り合いをつけるとか、一旦引き上げ、いろいろな場面を想定してから再度戦うとか戦い方はいろいろある。戦うといっても、血を流すこともないし、傷つけることもない。今の自分にとって、そいつと戦うことが最近では楽しくなってきた。戦ってみて、最終的に「やめる」と判断するときの基準は何か?それは、そのことを続けることによって、自分の未来が本当に豊かになるのか、っていうことだと思う。何が起こるが分からないので、そのときに判断したことが必ずしも良いことではないかもしれないが、自分で真剣に考えたうえのことであれば納得もいくだろう。
2003年12月20日
コメント(0)
「あなたはなぜこの会社を選んだのですか」「あなたは今まで何をしてきたのですか?」「この会社に入ってどんなことをやりたいですか?」面接をしたときやされたときに、聞いたり聞かれたりした質問である。この問いに熱く、明確に、裏づけをもって答えられる人を強者とする。おそらく強者は望むところどの会社にでも入ることができる。あれ?本当か?この文章を書いていて疑問が湧いた。その面接官、その会社の求める社員像というのもあるから、一概には言えないか。一昔前は強い会社に入れば安定した人生を送れると思っていた。それが常識だった。しかし、高成長時代が終わり、固定金利から変動金利へ移行し、固定相場制が崩れたころから常識と言えなくなってきた。上場していた会社が潰れる、ヒット商品が在庫の山となる、お堅い職業の人が罪を犯すなんてことは日常茶飯事になった。何かが狂っている。歯車がずれている。あくまでも個人的なイメージであるが、一般的には強者になると権力をふりかざす、偉そうにする、逆に強者に対してはお願いの営業をする、ひざまづくと思う。もっとも強者であっても精神的に豊かであれば、このようなことはないけれど。また、強者に対しては同じようなお願い事をするとりまきが多い。最初はお願い事をされることが楽しかったが、それが日常化すると退屈になり、変わったものを探す方に動く。どうせ同じお願い事をするのであれば、その相手がお願い事をされるようになる前からその持てる力を引き出し、お願い事をされることが嬉しいと感じられるレベルになったとき頃にまた違う対象を探す、なんていう流れが最良なのかなあ、と思った。
2003年12月19日
コメント(0)
電車で隣り合わせた学生が、「集合」の勉強をしていた。私の学生の頃はこの授業のことをあんまり好きではなかった。空集合とか、交わりとか、そんな言葉ばかり覚えていたような気がする。集合の図をチラっと見たとき、一つの円を自分の考え方、もう一つの円を誰かの考え方と見たらどうかなあ、とふと思った。円と円が交わっていないときは、お互いに出会っていないか、考え方がかみ合っていないときなのかな。円と円が交わって、共感したときは、友情や愛情が生まれるのだろうか?交わりが多くなってくると、親友とか恋人になってくるのではないか?また、その場その場で考えたことを、本やCDなどに残した場合、円は円柱となり、その人間がこの世から消えても時を越えて交わることもできるのだとも考えた。現にこの世に存在がない人の思想や生き方などに触れ、共感することがある。人生は人それぞれであるので、自分の円を広げないで生きる人もいれば、あくなき探究心・好奇心によりどんどん円を広げようとする人もいる。私は今でこそ後者の生き方が楽しいと思っているが、5年位前までは、生きていることって本当に楽しいのか、生まれてきた意味は何かあるのかと考えていた。ただ、その時の自分がいて今の自分がいることは間違いないので、後悔はしていない。
2003年12月18日
コメント(0)
約10年振りにかなり年上の先輩と再会した。その先輩は感情表現が豊かで、筋を通すタイプ、叩き上げでありながら元気で優しい人である。尊敬しているうちの一人でもある。その人が私のことを「面白いやつ」として覚えていてくれた。嬉しいことである。面白いとは、何かにひかれ、続けてみたい、とか、おかしいことや嬉しいことがあって笑いがとまらない様子を言うらしいが、私は「普通とは変わったところがあり、続けてつきあったりして内容をつきとめたい感じだ」という意味であってほしい。残念ながら詳しくは聞くことができなかった。そういえば何を考えているのか分からない、とも言われたこともある。それは全く別のことを考えていたり、本当に何も考えていなかったりするからなのである。当たり前のことだ。「あなたはどう思っているの?どうしたいの?」と問い詰められ、真剣に考えても答えが出ないので、もっと真剣に考えたため悩みが悩みを産み、パニック状態に陥ってしまったこともある。マイナススパイラルとでも言おうか。そんな環境のときは(自分が作り出した環境ともいえるが)本当につまらないものだ。さきのストレートな質問から外れ、特に考えたりしないで楽しいと思う方向にすすんでいる時に、「ああ、私はこう思っていたんだ、こうしたかったんだ」なんて気づくことの方が多い気がする。今は、枠組みにとらわれない考え方から、新たな成功を収める時代である。このことは引き続き気をつけていきたいと思う。
2003年12月17日
コメント(0)
「無責任だ」と言われた。カチンときた。内容はというと、私の管轄していないことについて、現在の状態をありのままに述べただけであった。「知らねえよ、そんなこと。あんたに無責任呼ばわりされる覚えはねえよ。」と心の中で叫んでいた。実際、自分は責任のある仕事をしているつもりだ。ただ、どうしても失敗をすることもある、間違えることもある。そんなときに「どうしてくれるんだ、どう責任を取ってくれるんだ、すみませんじゃすまねえよ」と言ってくる人がいる。相手のことを考えて言ってくれるのであれば良いのだが、だいたいは感情に任せて怒っている。感情で怒られた方はどうするか?それを真摯に受けとめるか、逆ギレするか、他で当たり散らすか、のどれかになると思う。私はおとなしい性格からかかなり我慢強くなっており、余程のことがないかぎりは受けとめるようにしている。「責任をとれ」と言われて嬉しいのは、相手が自分の尊敬している人とか、自分の好きな人である場合だろう。嫌いな人、見ず知らずの人から言われても面白くないだけだ。また、言う人に限って自分は責任をとらない、いわゆる逃げる人が多い。誇りのかけらもない。ただ、生きていくためには必要な事なんだろうな、とも思うが。これまで書いたようなことを考えると、責任とは重いもの、辛いものである。今の常識では、役職が上がると責任がさらに重くなる。それで給料が上がった、地位が上がったからといって、楽しいか?今の私には良く分からない。タイトルを「楽しさの視点でみる」としたのは、いろいろと考えた末のことだ。ただ、どういう視点で見ことが出来るかか残念ながらまとまりがつかない。自分の考え方に共感する人でなければ、そもそも責任をとりきれないのではないか。接してくれる相手のことを幸せにするように努めていれば、責任を果たすのは楽しいのではないか。自己責任の時代だ、とも言われる。このことを不安にとるか、楽しいととるか、自分次第である。うーん、結局まとまらなかった。
2003年12月16日
コメント(0)
鼻かぜがやっと治ったと思ったら、今度は腹にきた。腹にくると、必ず絶食をする。とはいっても、長くて二日間くらいだけど。いつもは食べたいものを食べたいときに食べられる自由があるので、このときばかりは抑圧を感じる。食欲がないときはまだいいけれど、食欲がでてくるとあれも食べたい、これも食べたい、と食べ物がぐるぐるまわる。元気になったら絶対に食べてやると思うけれど、元気になる頃には忘れている。忘れないためには、自ら抑圧された状態を作り出すしかない。また抑圧された状態のなかで、何を食べたかったのかを書きとめるしかない。そして、それをなぜ食べたかったのかを分析してみる。そこに何かが見えるかもしれない????
2003年12月15日
コメント(0)
「今日、頭を刈ったので、寒くてしょうがない。おまけに頭が段々になってしまった。」私の中学生の頃は、丸坊主が当然だった。地元から離れているので、今どうなっているのかは分からないが、多分長髪が当然になっているのだろう。今の人たちからは考えられないことかもしれない。今の常識で考えたら、丸坊主は抑圧以外のなにものでもないと思うかもしれない。そのころ、もし抑圧に対して考えていたら、思い悩み、反発し、必死でもがいただろう。いや、もがいて反発した人がいたから、今の常識が造られたのかもしれない。私は「坊主はいやだな」と思いつつも、「みんながしているから仕方ないか」とあきらめていた。考え方はいろいろあるだろう。1.反発し、必死でもがく姿はかっこいいのではないか?2.逆に、おかしいのではないか?異常ではないか?3.とりあえず、少し我慢すれば自由になるから、やり過ごそう。4.他にも楽しいことがあるから、別にどうでもいいや。5.一緒になって、徹底的に戦おう。
2003年12月14日
コメント(0)
楽天市場を散歩していて、中学生が多いことに驚き、またホームページ作成スキルや創造性の高さにまた驚きました。日本にもまだ希望はあるな、っと勝手に思いました。この日記を見てくれている中学生で、元気な人はより元気に、元気のない人にもそれなりになって欲しいなあと思って勝手に3つのアドバイス。1.人生はうまくいくこともあるし、挫折することもある。うまくいっているときは、気分も乗っているだろうから、まあ走りすぎに注意するくらいだろうと思う。大切なのは挫折したり、落ち込んだときだね。自分はだめだ、と責めたり、目の前が真っ暗になったりしがちだと思う。しかしそのときには、「試練がきた」と楽しんで迎えて欲しいと思う。そのことがバネになり、一番成長できるときだと思うから。2.やらされていること、は面白くない。たぶん、勉強は面白くない、って思っている人は多いのではないかな。そりゃあ、自分の性格と合わない分野とかもあるでしょうが、「勉強はやらなければいけないものだ」という潜在意識があるから面白くないんだと思う。ホームページを作るのだって、一種の勉強だよね。違いは、「やらされている」が「自分でやっている」か、だと思う。勉強も自主的にやっている、と思えば、自分でどんどん先にすすむものだと思うし、先にすすんでいれば、理解度もアップするだろうし。どうせやるなら、興味をもってやりたいものだね。3.どうしたら社会がよくなるか、という視点で考える。人間っていうのは、まず自分があって、そのあとに他人がある、と考えるのが一般的かな。少し先入観があるかもしれないけれど。私自身、自分を救えるのは自分自身だけだと思って生きてきた。たぶん、その考え方もある意味正しいのだろうと今でも思っている。ただ、周りの人も楽しいほうが、自分も楽しいと思うようになってきた。これは難しいかな?ただ、今の社会を見ていると、自分の保身に走りすぎて、どうしたら社会がよくなるか、という視点が欠けているように思えてならない。このような社会を見ていたらやる気をなくすのも分かる気がする。ただ、社会を変えていくのも一人一人の考え方次第だ。だから、この視点を忘れないで欲しいな、と思う。
2003年12月13日
コメント(1)
自分のやりたいことはなにか?自分の好きなことは何か?自分は何を提供できるのか?目標はどうやって見つけるんだ?ただいま試行錯誤中。
2003年12月12日
コメント(1)
全19件 (19件中 1-19件目)
1


