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桜宮高校の問題はいまだに収束していない。というよりも混迷度を増しているような気がする。教育問題というのは、社会保障制度改革や金融制度についての問題といった内容に比べて専門性が低く、だれでも一家言もっているので、かまびすしい議論が百出する傾向がある。基本的に正解がない、というのも問題をややこしくする。もちろん、暴力ともいえる体罰がよくないことに議論の余地はないが、ではどうしてそんなことが教育現場にはびこっているのか、どうしたらなくすことができるのか、という話になると途端にまとまらなくなるのが常だ。おそらく、体罰を場合によっては容認するという人もいるだろう。現に、橋下市長はこの問題について当初は「体罰をふるうこともあっていいのでは」とコメントしていた。そのすぐあとに問題の大きさに気付いたのか、自分の発言の軽薄さに気付いたのか撤回したが、少なくとも自分の中では体罰を容認する部分もあったということだろう。にもかかわらず、最近では自分の考えが正しいから教育委員会も高校側も俺の言うとおりにしろ、と言わんばかりに次から次へと上からの改革を指示するのは、その内容は別にして傲慢と言われても仕方がなかろう。いっそ、「場合によっては体罰も必要だが、今回のケースは体罰ではなく、暴力だ、犯罪だ」とはっきり言えばわかりやすいと思う。説得力も出てこよう。東電の問題でもそうだが、ひとたび問題が起こると、「自分は前から反対していたのに」とか「自分は関係ない」といった態度で議論をする人が増えるのがどうにも解せない。当事者をスケープゴートにして溜飲を下げているようにしか思えない。いつから日本人はそのような定見の感じられない軽薄な思考をするようになったのだろうか。で、産経新聞だが、今日のfromEditorというコラムの中で大野敏明氏が、一定条件下での体罰は必要だ、と述べていた。このひと月ほどのマスコミの報道を見る限り、そうした意見は専門家からも、専門外の人たちからのコメントからも聞かれたことはない。こうした状況下で体罰を条件付きとはいえ容認するような意見を公にするということはかなり勇気がいることだったと思う。下手をすれば総スカンを食らうところだ。体裁を繕ってお茶を濁すようなことはしない産経新聞らしい。敬意を表したいと思う。前記したように、本音でいえば条件付きでの体罰を容認する人はかなりいると思う。そうした意見もきちんと踏まえたうえで議論を進めないと、本当の意味で教師の暴力、そして体罰をなくすことはできない。表面化した問題だけを取り上げて、見かけだけの改革をしたところで問題の再発を防ぐことは難しいだろう。もちろん、大野氏の意見にも賛否両論あると思う。いや、否のほうが多いかもしれない。少なくとも今の新聞、テレビでの報道を見る限り、どんな場合でも体罰はいけない、という意見のほうが多いような気がする。しかし、現実に立ち戻って考えてみると、本当にどんな場合でも体罰はいけない、と考えている人が圧倒的に多ければ、そして多少部活動での成績が良くなろうとも体罰は絶対にいけないと考えている人が圧倒的に多ければ今回のような問題は起きなかったはずだ。そうではないから、日常的に生徒に対して暴力がふるわれ、今回のような痛ましい結果に至ったのではないか。私は個人的には体罰はどんな条件下でもするべきではないと思う。特に親子、教師と生徒という、上下関係のある場合は何も意味がないと思う。手や足で相手を攻撃するというのは、自分の身を守るときや、何らかの意図をもって相手にダメージを与えたい(たとえば喧嘩)という時しかありえないだろう。大野氏は、生徒が故意に卑怯なことや犯罪行為を行った時、暴力をふるった時は、体罰をもってその行いを正すことも必要だ、とコラムに書いている。そうかもしれないとも思う。しかし、その体罰が体罰として一定の効果を上げるには、さらに、その教師が常に生徒に対し愛情をもって接しているか、つまり、体罰を与えられた生徒があの先生からなら、と納得できるかどうかという条件も必要ではないか。そして、そうした条件下でその生徒が体罰を与えられたことで本当に改心した時、初めてその体罰は効果があった、と認められるわけで、前もってある条件下でなら体罰は許される、と規定することは難しいのではないだろうか。ある条件下での体罰なら容認される、という考え方の是非は別にして、そうした視点からの議論もしていかなくてはこの問題の解決にはならないことは確かだと思う。
2013年01月27日
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昨年のクリスマスの特番で、小田和正が「夕陽を追いかけて」を歌っていた。よかった。その時も見たのだが、今日、改めて見てみていいと思った。私はこの曲は、リリースされた時はあまり好きではなかった。理由はチューリップらしくなかったから。財津和夫は当初より、自分の生活を題材にするような私小説風の歌詞は好まないと公言していたし、チューリップの、いや、財津和夫の詞の言葉はとても洗練されているという印象があった。曲もスリー・コードで単調なメロディを延々と歌い続けるようなフォークと違って、セブンスやサスフォーといったちょっとしゃれたコードをうまく使い、カッコ良かった。しかし、この曲はラウンド・コードで、同じメロディが繰り返し歌われ、歌詞の内容もまさに自分たちの故郷を題材にしたという点で、私小説といわれても仕方がない。といったことから、あまり好きではなかった。しかし、やはり名曲は名曲だった。改めて小田和正の歌うのを聞いて、しみじみと曲としての完成度の高さを思い知った。「マイ・フェイバリット・チューリップ」といったプレイリストはよく作るが、今度「以前あまり好きではなかったチューリップ」というプレイリストを作ってiPodに入れてみようか。
2013年01月16日
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先日発表された、「教育再生実行会議」のメンバーがおもしろい。あれ、この人どんな人だろうと思う人も結構いるが、一目で安倍さん好みの人たちだな、とわかる。だいたい、企業の経営者や地方自治体の首長をやっている人たちは、自分の仕事に責任を持っているので考え方もしっかりしていて安心できる。全日本教職員連盟委員長の河野達信さんは、私はよく知らなかったが、日教組の姿勢に疑問を持った人たちで作った組織のトップだからまあ、大丈夫だろう。日教組の考え方には賛同できる点もあるのだが、あまりにもおかしな言動、行動が多すぎる。機関誌に「かしこく病休を取る方法」などという記事を載せることに何の疑問も感じないのだろうか。その記事を読んだ教職員は何の疑問も感じず、「ああこれであまり周りを気にせず休めるぞ、これはいい記事だ」などと思ったのだろうか。インフルエンザで出勤できずにいる3日間(実はおとといから熱があるので今日病院に行ったらインフルエンザですと言われた)の授業はいったいどうなるのかと気が気でない私から見ればいったい何を考えてるの、といいたくなる。そんなことをしているから日教組はせっかくいいことを言っても評価されないのだと思う。これからの同会議の提言に期待したい。
2013年01月15日
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この問題もだいぶ収斂されてきた感がある。教育評論家の石井昌浩氏の「戦績を上げるための強制的な暴力」だという指摘、「『指導死』親の会」の大貫隆志氏の「子どもを利用して指導者が自分の地位や名誉を築くようなことが安易に行われているのではないか」という指摘は的を得ているように思う。で、石井昌浩氏について少し調べてみたら、おもしろいブログに出会った。猪野亨という弁護士らしい人のブログだ。ある場面において「国旗国歌はイデオロギー抜きで尊重することが当たり前だ。」と石井氏が指摘したことに対し、猪野氏は「本当に石井氏はそう考えているのだろうか。もしインターナショナルが国歌に変更されたとしても尊重せよというのでしょうか。そうではないでしょう。」と疑問を投げかけている。私は石井氏とも猪野氏とも面識はないが、おそらく石井氏は日本の国家がインターナショナルになったら、尊重しろ、というだろう。国歌を尊重するということは、その国歌が何であるかとは関係ないからである。国歌だから尊重するのだ。おそらく石井氏はそのように主張するに違いない。もっとも、国家がインターナショナルになろうが、星条旗になろうが、ラ・マルセイエーズになろうが、それは日本という国が主権を放棄したことになるので、体を張ってそうならないように行動すると思うが。それにしてもなぜ弁護士といわれる人たちは皆(もちろん例外はあるだろうが)、日の丸、君が代を嫌うのだろう。私は日の丸も君が代も特に好きでも嫌いでもない。日の丸はまあ、いいデザインだと思う。イギリスが500万円で買おうとした、というエピソード(まあ、事実とは異なると思うが)もある。君が代は、どちらというと好きではない。特に、あの暗い感じが。高校の時に吹奏楽部でしょっちゅう演奏したが、まず、演奏していて面白くない。ゆっくりとしたメロディで、他の楽器とのハーモニーの具合を確認するのにはよかったが。しかし、だからといって日の丸や君が代を公の場で排除するようなことは考えない。国旗、国歌を尊重することは国民としてごく普通の感覚だと思うからだ。よく、君が代に反対する人は「主権在民の現行憲法のもとでは大日本帝国憲法下でできた天皇礼賛の歌は容認できない」といったことを言うが、それこそ、歴史を考えない暴論だと思う。今の価値観で歴史を考えることの無意味さに関してはいまさら言うまでもないが、こうした主張をする人たちは常に、今の人権の感覚で歴史を都合よく歪曲させる。一例は天皇制だ。天皇制は、今の感覚で考えると必要はないように思われる。なぜ、国民主権、自由、平等と謳った現憲法で、一番最初に天皇制がくるのだろう。確かに疑問ではある。しかし、私は、当時の日本国民の天皇に対する感情(是非は別にして)、昭和天皇がマッカーサーと会見した時に、出迎えには出なかったマッカーサーだが、帰りは思わず出口まで見送った、というエピソードなどから、天皇制を堅持するように考えた心情も理解できる。すると、次の一手として、「国旗、国歌はいいとして強制するから問題なのだ」という。またまた問題をすり替えている。つまり、「国旗、国歌を尊重するのはいい。しかし、強制するのが悪い」というのなら、国旗や国歌を強制しなくても皆が尊重するような世の中を作ることに精力を傾けるべきだ。強制が悪いと言っておきながら、尊重するための議論をすることなく国旗、国歌をないがしろにする姿勢はとても片手落ちな気がする。私も強制することは基本的には反対だが、公務員である教師が意図的に国旗、国歌を冒涜するような行動に出ることにはある程度強制力を持って対応するべきであろう。
2013年01月13日
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引き続き大阪・桜宮高校。昨日、フジテレビの「とくダネ!」で、あるコメンテーターが「学生スポーツのあり方を考え直すべきです」といった内容のことをしゃべっていた。あたかも自分たちは何も関係していないし、何も悪くない、悪いのは行き過ぎた指導を行った教師だ、と言っているようだった。もちろん、第一義的はそうだろうが、こうした問題は当事者である教師やその地域の教育委員会に任せておけばいい問題だろうか。そうではないから、同じような問題が絶えないのではないか。社会全体の問題としてとらえるなら、こうした紋切り型のコメントは出てこないと思う。フジテレビは「春高バレー」という呼び名で高校生のバレーボール大会を主催し、大々的に宣伝もしている。あれだけテレビや新聞で取り上げられれば、当然、バレー部の部員、顧問の先生たちはいい成績を上げようと部活動に熱心になる。私立高校などは生徒集めのためという理由であちこちから生徒を集めたり、実績のある指導者を呼んできたりもするだろう。場合によっては熱心さのあまり今回のような行き過ぎた指導に至ることも容易に想像できる。メディアの側に、そうした行き過ぎた部活を助長しているという反省はないのだろうか。高校生スポーツといえば、代表は野球だろう。春夏の甲子園大会に向けての過熱ぶりは以前からいろいろと問題視されてきた。しかし、そうした場合でも不思議と主催する側からの反省のコメントは聞かれない。相変わらず大騒ぎして報道し、活躍した選手をクローズアップし、優勝した高校の指導者をほめそやす。おそらくメディアは「読者が、視聴者が望んでいるから」と言うだろう。しかし、どう見てもそうは思えない場合もある。野球の場合はある程度自然発生的に人気が出てきて、それを追いかけているマスコミといった印象も受けるが、春高バレーにいたっては、フジテレビや産経新聞が、バレーボールを野球やサッカーのような人気スポーツにしよう、と考えていることが明らかにわかる。野球にしても、バレーにしてもサッカーにしても高校生のスポーツに対する報道は行き過ぎている。ほかのスポーツが冷遇されているといってもいいかもしれない。どのスポーツであっても基本は、普通に結果を淡々と伝えるだけでいい。もし、そこに感動するようなエピソードでもあれば、自分たちが主催しているスポーツだけでなく、様々なスポーツから紹介すべきであろう。自分たちは商業ベースで高校生スポーツをあおっておきながら、部活の顧問が行き過ぎた指導を行っている、と糾弾するのは片手落ちというものだ。顧問の先生のやり方、高校側の対応、教育委員会の対応などについては徹底的に検証し、やり方を改める方向に進んでほしいし、マスコミはそれを確認する役目を持っているだろう。しかし、社会全体からそうした問題をなくしていこうと思うなら、自分たちのやっていることをまず見直す姿勢も必要ではないだろうか。
2013年01月11日
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大阪・桜宮高校2年の男子生徒が自殺した事件は、本当に痛ましい、あってはならない出来事だった。原因は何であれ、高校生が自殺するなどということがあっていいはずがない。体罰を加えていたという顧問の教師が責を負うべきであることは言を待たない。しかし、同時に何か違和感を感じる。今回の教師の行動は、男子生徒が自殺したから非難されているのだろうか。それとも、体罰が常態化していたことが非難されているのだろうか。もちろん、後者であろう。もし、自殺したことが悪いということになれば、自殺していなければいいということになってしまう。そうではあるまい。教育に体罰を持ち込むことが問題なのであり、それを見過ごしていたことから最悪の事態になってしまったことが問題なのであろう。であるならばなぜ今までこの教師は教師として仕事をしてこられたのだろう。報道を見る限りにおいては、体罰は常態化しており、それを熱血指導として肯定する見方もあったように思える。かなり遠方からこの教師にバスケットボールを指導してもらいたくて通っていた生徒もいたらしい。そういった人たちは今、この出来事を、報道をどう思っているのだろうか。もし、これまでこの教師のやり方を是として受け入れていたのなら、男子生徒の自殺をすべてこの教師のせいにしていいはずがない。自殺に至った過程は詳細に検証すべきだし、道徳的にも倫理的にも、また場合によっては経済的にも責任の所在ははっきりさせるべきだが、この教師の指導にもいい点があった、ということも同時にきちんと報告してほしい。「熱血指導の仮面をかぶった体罰容認教師が困ったことをしてくれた」という結論では、なぜこうした痛ましい事件が起きてしまったのかの本質が見えてこない。困ったことにマスコミの報道にこうした紋切り型のコメントが目立つ。原発事故を起こした途端に東電を目の敵にする一般大衆、民主党が総選挙で惨敗した途端にこれまでの3年半に及ぶ政治が皆無駄だったのかのように報道する新聞…。第3者というのはそういうものだろうし、他人事として傍観しているのならそれでもいいだろうが、当事者として積極的に問題を解決していこうと思ったら物事を多角的に見て、その場の雰囲気に流されない思考が持つことが必要だと思う。
2013年01月09日
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正月休みが終わり、冬期講習が終わり、今日から平常通りの生活が始まる。昨年12月に51歳になった。この年になると、何も特別なことをしなくても何とか生活はできるし、何かをしなければならないということもない。しかし、それでは何のために生きているのかわからない。思えば、もっと若いときは何のために生きるのか、といったことを常に考えていたような気がする。そこには何かを考え、行動していけば何か新しい人生が見えてくるという期待があった。しかし、よくよく考えてみれば、年齢と何か新しいことをやるということには何も相関関係がないことに気付く。20歳の時にできたことがなぜ50歳でできないのだろうか。いや、できないはずはない。と、思い、新しいことをやることを今年は心がけていきたいと思う。手始めに、数か月ごとにしか更新していなかったブログを改めて書いていこうと考えた。ブログを始めた当初はチューリップの曲を紹介するというはっきりとした目的もあったし、ブログそのものが珍しかったので毎日書いていた。その時は100%の記入率だった。そのせいか、数か月おきにしか書いていないにもかかわらず、記入率はいまだに30%を超えている。そこに何の意味もないが、やってきたことが形として残っていたような気がしてちょっとうれしく感じた。誰のためでもない自分のための日記を書きたいと思う。
2013年01月08日
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