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窃盗事件から1ヶ月が過ぎ、聖マリア小学校ではPTA主催のバザーが行われていた。保護者達は食べ物の屋台を出したり、手作りの工芸品を売ったりしていた。子ども達は乗り物やゲームを楽しんだりしていた。遼太郎達も、この日だけに出るローラコースターに乗る為に順番待ちの列に並んでいた。「ねぇ、あのコースター怖いらしいよ。さっきあのグスタフがベソかいてたよ。」「グスタフって、あの餓鬼大将の!?」遼太郎の脳裡に、いつも威張っては自分達からお菓子を奪って得意げな顔をしている小太りの少年の顔が浮かんだ。「そんなに怖いのかなぁ?」「さぁねぇ。乗ってみないと分からないよ。」遼太郎達がぺちゃくちゃとおしゃべりしている間、あっという間に彼らの順番になった。 ローラコースターの座席はテントウムシを模したもので、前と後ろに座れるようになっている。遼太郎達はシートベルトを着用すると、係の者が安全バーを下ろした。発車ベルが鳴り、遼太郎達を乗せたコースターはゆっくりと動き出した。「何か気持ちいいねぇ。」「うん!」やがてコースターはカーヴにさしかかると、一気に加速した。遼太郎達はコースターがカーヴを曲がる度に悲鳴を上げた。「楽しかったね。」「うん!」コースターから降りた遼太郎達は嬉しそうに歓声を上げながらアイスの屋台へと向かった。「リョータロウ、コースターは楽しかった?」瑞姫はそう言って遼太郎達を見た。「うん、とっても楽しかったよ!」「そう、良かったわね。アイスは何にする?」「う~んとね、チョコミント!」「僕はチーズケーキ!」「僕はチョコチップ!」「わかったわ、少し時間がかかるから待っていてね。」瑞姫はアイスクリームサーバーから3人が注文したアイスをそれぞれ容器に可愛く盛り付けると、笑顔で彼らに渡した。「1人で1ユーロ(約110円)頂くわね。バザー、楽しんでね。」友人たちとアイスを食べながらはしゃぐ息子の背中を見送ると、瑞姫は額の汗を素早く拭って溜息を吐いた。「今日は暑いわね。」もう10月だというのに、6月下旬に欧州を襲った熱波の勢いは衰えず、旱魃(かんばつ)などを引き起こし、農作物の被害は甚大だった。(このまま暑さが続くと、みんな死んでしまうわ。)「義姉上様。」顔を上げると、そこには娘達を連れたフランツ=サルヴァトールとマリア=ヴァレリーが立っていた。「フラン、ヴァレリー、お久しぶり。今日も暑いわね。」「ええ。こんなに暑さが続くなんて、思いもしませんでしたよ。」「本当ね。」2人と話していると、客がやって来た。「またね、2人とも。」「ええ、また後で。」瑞姫はヴァレリー達に手を振ると、その後は次々とやって来る客達に笑顔で接した。 バザーは大盛況に終わり、瑞姫のアイスの屋台はその中で売り上げが一番多かった。「お疲れ様、ミズキ。」「ありがとう、あなた。」「明日は筋肉痛になりそうだな。」「ええ。」夜になり、暑さが少し和らいだかのように、瑞姫は感じた。Photo by ...Chocon*にほんブログ村
2011年01月31日
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「この度は本当に申し訳ありませんでした!」香帆子はそう言って校長に頭を下げたが、隣で車椅子に座っている隼は憮然とした表情を浮かべていた。(どうして僕が謝らないといけないんだ。悪いのは、あいつらなのに!)「シュン君、どうしてお友達の物を盗んだの?」「別に。退屈だったからです。」「退屈だからといって、人の物を盗んでは駄目でしょう?」校長はそう優しく隼に言い聞かせようとしたが、彼は聞く耳を持たなかった。「だって僕が悪いんじゃないもん、悪いのはあいつらだもん!」「隼、いい加減にしなさい!」母の鋭い声が聞こえたかと思うと、頬に鋭い痛みが走った。「嫌だ、僕は絶対謝ったりするもんか、絶対に嫌だ~!」それからどんなに校長と香帆子が謝罪するように説得しても、隼は頑なにそれを拒否した。「お母様、お母様はどっちの味方なの? どうして僕が謝らなければならないの?」「隼、あなたは悪い事をしたのよ。どうしてそれが解らないの!」「だから僕が悪いんじゃないって言ってるじゃないか!」廊下での彼らの諍いを聞いていた生徒達が、ジロジロと2人を見ていた。皆、隼を冷たい目で見た。(僕をそんな目で見るな!)隼は恐怖と怒りの余り意味のわからないことを喚き泣いた。 窃盗事件は犯人不明のまま解決し、盗品は全て持ち主の元に戻った。しかし香帆子は息子が犯した罪を思うとこのまま学校に居られないと思い、学校に退学届を出した。「お母様、勝手に退学届出さないでよ! 僕は何も悪くないのに!」「隼、あなたはまだそんな事を言っているの?」うんざりした口調で香帆子はそう言うと、隼を見た。「もうわたし、あなたには付き合っていられないわ。」「お母様は僕を愛していないんだ!」癇癪を起こした隼は、手当たり次第に物を掴んでは香帆子に投げつけた。「もうあなたを育てるのに疲れたわ・・」香帆子は溜息を吐くと、癇癪を起こして泣き喚く息子を家に残して外へと出た。その夜、彼女は家に戻ってこなかった。「ねぇ聞いた? あの子の母さん、昨夜家に帰ってこなかったんだって。」「本当なの、それ?」「本当だよ。母さんが近所のおばさんと話しているの聞いたんだもん。」遼太郎はヤンネとフランクの話を聞きながら、ちらりと隼が座っていた席を見た。そこには当然のように隼の姿はなかったが、何故か先程彼がそこに座っていたかのような錯覚を遼太郎は感じた。(気の所為だよね。)気を取り直した遼太郎がふと窓の外を見ると、何かが上から落ちて来るのを見た。“それ”は、人形のようで、床にドスンという大きな音がした。「どうしたんだろう?」「さぁ・・」遼太郎達が顔を見合わせていると、外からシスターの悲鳴が聞こえた。「誰か、誰か救急車を! 人が屋上から落ちてきたわ!」遼太郎達が窓の方へと向かおうとした時、担任が入って来て慌てて彼らを止めた。「見るんじゃない!」その後、隼の母親・香帆子が学校の屋上から飛び降り自殺をしたことがわかり、屋上から彼女の遺書が見つかった。そこには、こう書かれてあった。“息子がとんでもない事をしてしまいました。息子に代わってわたしがお詫びいたします。”隼は祖父とともに母の骨壷を持って日本へと帰国した。突然の母の死は、彼の幼い心に暗い影を落とした。(お母様は僕を捨てたんだ・・僕を愛していないから自殺したんだ・・)隼は母が自分を愛していなかったから自殺したのだと思い込むようになっていった。にほんブログ村
2011年01月31日
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シュタイナー伯爵夫人はぐるりと会議室に集まった役員達の顔を見た。「今回の窃盗事件は、生徒達が学校にいる間に起きました。余り子ども達を疑いたくありませんが、明日から全員の持ち物検査を実施しようと思っております。」「持ち物検査ですって? 会長、それははなから子ども達を疑っているようじゃありませんか!」役員の1人が抗議すると、シュタイナー夫人は溜息を吐いた。「わたくしだって、子ども達を疑いたくはありませんよ。ですがこのまま犯人が捕まらずに事件が続いたら、我が校の評判は地に落ちますし、子ども達だって互いを疑いあいながら学校生活を送らなければなりません。」こうして全校生徒に対して翌日から持ち物検査を実施する事になった。「ミズキ、役員会の間中、カホコさんの様子がどこかおかしかったことに気づいたか?」「カホコさんって・・シュン君のママですか?」帰りの車の中で、瑞姫はそう言ってルドルフを見ると、彼は低く唸ってこう言った。「もしかして彼女、何か隠しているんじゃないかな? 今回の事件のことについて。」「まさか。カホコさんはそんな事をする人じゃ・・」「わたしは彼女が犯人だとは思っていない。問題なのはむしろ、息子の方だ。」(もしかして、わたしが疑われているのかしら!?)役員会から戻った香帆子は、不安で胸が押しつぶされそうになりながら、ベッドの端に腰掛けた。他人の物を盗むなんてこと、自分には出来ない。だがあの子は―隼はどうなのだろう?「若奥様、少し宜しいですか?」「どうしたの?」ノックの音とともに、家政婦が躊躇いがちにドア越しに声をかけてきた。香帆子はドアを開け、彼女を中へと入れると、彼女は白いビニール袋を腕に提げていた。「それはなに?」「先ほど、隼ぼっちゃまのお部屋をお掃除していたら本棚の陰に隠されていたのを見つけまして・・中を見たら、ゲーム機や腕時計が入っていて・・」「そう。わたくしにも見せて頂戴。」香帆子が家政婦からビニール袋を受け取り、中身を確認すると、そこには小型ゲーム機と腕時計、ペンケース、ノートなどが入っており、それらは全て今回の事件で盗まれたものばかりだった。(隼・・あなたなの?)「隼は、隼は何処に?」「だ、旦那様とお食事に出かけております。」「そう・・ありがとう。」まさか息子が窃盗犯だったなんて、香帆子は信じたくはなかった。だがこのまま息子がした事を見逃してはいけないと思い、香帆子は隼と舅が帰宅するのを待った。「ただいま。」「お帰りなさい。隼、あなたに話があるの、ちょっといいかしら?」母親の顔に浮かぶ険しい表情を見て、隼は嫌な予感がした。「話ってなに、お母様?」「隼、あなたお友達の物を盗んだでしょう?」香帆子はそう言って隼にビニール袋の中身を見せると、彼は激しく狼狽した。「どうして、どうしてあなたはこんな事をしたの? 他人様の物を盗んだらいけないと言い聞かせていたのに!」「お、お母様・・ごめんなさい・・」「わたしに謝っても何もなりませんよ、隼。明日お母様と学校に行きましょう。行って、みんなに謝るんです。」「嫌だ、それだけは嫌だ!」隼は香帆子の言葉に激しく頭を振った。「悪い事をして謝るのは当たり前です。」「お母様、それだけはやめて、それだけは!」隼の叫びを香帆子は無視し、彼女は初めて息子を冷たく突き放した。「隼、お前は悪い事をしたのよ。」 翌朝、香帆子は嫌がる隼を引き摺りながら学校へと向かうと、校長室へと向かった。にほんブログ村
2011年01月31日
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9月下旬、遼太郎達はいつも元気良く学校で遊んでいた。しかし隼は相変わらずクラスで孤立しており、皆彼のことを気に留めることもしなかった。そんなある日の事、遼太郎はルドルフから腕時計をプレゼントされた。「これ、前から欲しかったやつなんだ、ありがとう父上!」「失くさないようにするんだぞ。」遼太郎は右腕に腕時計を巻くと、それを嬉しそうに何度も飽きずに眺めていた。 翌日、彼は学校にその腕時計をつけて登校した。「ねぇ、それどうしたの?」「父上がくれたんだ。前から欲しかったやつ。」「へぇいいなぁ~、僕の父さんはケチだから買ってくれないんだ。」ヤンネは羨ましそうに言うと、溜息を吐いた。「ねぇヤンネ、お誕生日にゲーム機買って貰ったって言ってたじゃない? あれ、どうしたの?」ヤンネが父親から買って貰った小型ゲーム機を自慢げに遼太郎達に見せたのは、先週月曜日の事だった。「ああ、あれ、誰かに盗まれちゃったんだ。放課後ゲーム機を置いてトイレに行って戻ったらなくなってたんだ。」「そう・・出てくるといいね。」「うん・・一応先生達にも話したし、紛失届も出したんだ。早く見つかるといいなぁ。」そんな2人の会話を、隼が密かに聞き耳を立てていた。 体育の授業の後、遼太郎が更衣室へと入ってロッカーを開けると、そこには置いておいた筈の腕時計がなかった。もしかしてうっかり何処かに置き忘れたのかもしれないと思い、彼は体育館やトイレまで探したが、腕時計は見つからなかった。「リョータロウ、どうしたの?」「腕時計が・・ロッカーに入れてあった腕時計がないんだ!」すぐさまロッカーに教師達がやって来て、遼太郎達から事情を聞いた。「本当にここに置いたのね?」「はい、間違いありません。でも授業が終わってロッカーを見たらなくて・・」「そう。じゃぁお家の方に連絡しますから、あなたは教室で待っていなさい。」「はい、シスター。」 放課後、遼太郎は心細い思いで教室で両親が迎えに来るのを待っていた。(父上に腕時計失くしたことを何て言おう・・)1日しか経っていないのに、腕時計を失くしたなんて知られたら、父は怒るに違いない。遼太郎が溜息を吐いていると、廊下でシスターと父の話し声が聞こえた。「リョータロウ、遅くなってごめんね。」「父上、わたし・・」遼太郎はルドルフに腕時計を紛失したことを謝ろうとした時、彼はぎゅっと遼太郎を抱きしめた。「シスターから全部聞いたよ。リョータロウは何も悪くない、悪いのは腕時計を盗んだ犯人だ。」「父上・・」ルドルフに抱き締められ、遼太郎は堰を切ったように泣き始めた。「そうですか・・そんな事が・・」「ああ。窃盗事件の犯人はまだ目星がついていないそうだ。」その夜、ルドルフは瑞姫に事件の事を話した。「一体誰なんでしょうね?」「さぁ・・せめて犯人が罪の意識を感じて、盗品を元の持ち主に返してくれるといいがね。」ルドルフはそう言って溜息を吐いた。 隼はベッドの上に寝転がりながら、ヤンネのゲーム機で遊んでいた。まだ学校の奴らは自分が犯人だと気づいていない。遼太郎も今頃泣いているだろう。人の物を盗んだのに、何故か隼は罪の意識を感じなかった。誰も自分を疑わないのだと、彼はたかをくくっていた。(みんな苦しめばいいんだ。) 窃盗事件が2件も立て続けに起きたので、緊急の役員会が開かれることとなり、瑞姫とルドルフを含む役員が出席した。そこには、香帆子の姿があった。「今回の事件は由々しきことです。一刻も早く犯人を捕まえなければなりません。」にほんブログ村
2011年01月30日
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聖マリア小学校を出た早瀬香帆子は、その足で近所のスーパーへと向かった。店内に入り籠とカートを持つと、彼女は真っ直ぐにある場所へとカートを押した。そこは、キャンディやクッキーなどが陳列されている菓子コーナーだった。彼女は手当たり次第にクッキーの箱を何箱か籠の中に放り込むと、レジへと向かった。精算をしてスーパーを出ようとした時、PTA役員の1人と出くわしそうになり、香帆子は慌てて物陰に隠れた。ただ気軽に挨拶をして、世間話をして別れればいいのに、彼女はそれが出来なかった。彼女達と、何を話せというのだろう。自分とまるで路上にあふれた生ごみを見るかのような目で見つめる連中と仲良くしろと言われても無理だ。「ただいま帰りました。」ドアを開けて香帆子がそう言っても、返事が部屋の中に返ってこない。「お帰りなさいませ、若奥様。お荷物をお持ちいたします。」「いいわ、これは。」クッキーが入った袋に手を伸ばそうとする家政婦を睨み付けると、香帆子は自分の部屋へと向かった。ベッドの端に腰を下ろしてふと鏡を見ると、そこには30代だというのに目尻や頬骨、目蓋に深い皺が刻まれている女の顔が映っていた。早瀬家に嫁ぎ、2人の子どもを産んで何不自由ない暮らしを送っているというのに、香帆子はちっとも幸せではなかった。後継者に固執する舅と、日本を離れるまで自分に冷淡だった姑、そして家庭の事は一切自分に丸投げして仕事に没頭する夫―幸せな花嫁だった香帆子は、今や苦悶に満ちた顔をして毎日を過ごしている。唯一の救いは、義弟の準が何かと自分を労わってくれることだけだったが、その彼と離ればなれとなり、慣れぬ異国で病弱な息子と姑同様冷淡な舅に囲まれて暮らしてゆくうちに、香帆子はますます孤独にさいなまれるようになった。彼女は堪らずに鏡から顔を背けると、袋からクッキーの箱を取り出して中身を開けると、大きく口を開けてそれを飲み込むようにして食べ始めた。こうして何かを食べていると、気が紛れた。この5年間で贅肉が下半身についていることに気づいていたが、ダイエットを試みても失敗に終わるだけだったから、もう諦めた。ひとしきりクッキーの箱を空にすると、香帆子はトイレへと駆け込み胃の中の物を便器の中に吐きだした。(またやってしまった・・)便器から顔を上げる時はいつも罪悪感にさいなまれるが、クッキーの箱へと再度手を伸ばすとそれはもうなくなってしまった。「若奥様、旦那様がお帰りになられました。」ドアの向こうで家政婦の声がすると、香帆子は慌てて袋にクッキーの箱を戻した。「お帰りなさいませ、お義父様。」「香帆子さん、隼は?」「あの子でしたらお部屋におりますわ。お食事はどうなさいますか?」「いらん。それよりも香帆子さん、日本から連絡はあったか?」「いいえ、ありませんが・・」「そうか。全く、慶一郎も困った者だ。隼の事を何も気に掛けないとはな。」慶一郎はそう言うと、自室へと入っていった。「あれ、お祖父様は?」「会合ですって。それよりも隼、学校はどうだった?」「別に。」隼はぶすっとした顔をしながらそう言うと、ステーキを頬張った。暫く気まずい沈黙が流れた後、隼は夕食を食べ終えると香帆子の方を見もせずにさっさと自室へと引き上げていった。香帆子は溜息を吐きながら、汚れた皿を洗い始めた。冷たい水が、彼女の抱えている孤独が若干薄れたように思えた。「若奥様、わたくしがやります。」「そう・・宜しくね。」再び自室に入った香帆子は、ベッドに顔を埋めて目を閉じた。泣きたくないのに、涙がどんどん溢れ出てきた。にほんブログ村
2011年01月30日
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聖マリア小学校PTA役員会は、朗らかな笑い声とともに始まった。「それでは来月末に開催されるバザーの出し物を決めましょう。」PTA会長のシュタイナー伯爵夫人がそう言って役員達を見渡すと、彼女達は静かに頷いた。「バザーは毎年各ご家庭でご不要になったものをお持ちになり、手作りのお菓子や手芸品などを売って、その収益金は福祉団体や病院などに寄付いたします。毎年恒例の行事ですが、今年は聖マリア小学校創立150周年という節目の年を迎えますので、気を引き締めて準備を行ってくださいね。」シュタイナー伯爵夫人はそこで言葉を切ると、バッグから1枚のファイルを取り出した。「最近この学校で窃盗事件が多発しているとのことですが、不審者を見つけ次第わたくしか、校長に連絡してください。」連絡事項が済み役員会が終わっても、会長と数人の役員達は賑やかに談笑していた。 その中心に居るのはシュタイナー夫人と瑞姫だった。「それにしても、皇太子妃様は皇太子様を仲睦まじいですわね。羨ましい限りですわ。」「あら、たまにルドルフ様とは喧嘩をしますよ。」「喧嘩するほど仲がいいと言うじゃありませんか。皇太子様と皇太子妃様はお幸せそうで本当に良かったですわ。シュティファニー様とだったら、皇太子様はとことん不幸でしたもの。」シュタイナー夫人はそう言うと、紅茶を飲んだ。彼女はルドルフと前妻・シュティファニーとの不幸な結婚生活を送っている頃に、王宮で女官として働いていたので、シュティファニーがどれ程高慢な女だったのかを嫌というほど知っている為か、シュティファニーに対しては悪く言ってしまう。「皇太子妃様とシュティファニー様とでは比べ物にならないほどですわ。いくら政略結婚とはいえ、皇太子様はあんな女と結婚してお可哀想でしたわ。まぁ、エルジィ様が皇太子様に似たのが唯一の救いでしたわね。」「シュタイナーさん、止しましょう、そんなお話は。もう昔の事ですわ。」瑞姫はそう言うと、やんわりとした口調でシュタイナー夫人を制した。「そうでしたわね。それにしても窃盗事件の犯人は一体誰なのかしら? 盗まれたものは文房具やキーホルダーといった高価な物ではないけれど、窃盗は窃盗よね。ちゃんと警察に捜査して貰わないと困るわ。」「ええ、そうですわね。まさかこの学校関係者が犯人、ということではないわよね?」「まさか、そんな事あり得ませんわ。この学校はちゃんとした学校ですもの。子ども達もそうですわ。」「そうですわよねぇ。」役員達がちらちらと隅のテーブルで縮こまって座っている女性を見ていたが、やがて興味を失ったかのように、瑞姫達の方へと向き直り、取り留めのないことをまた喋り出した。「ねぇアンナさん、シュン君のママ、来ていなかったわね。どうしたのかしら?」帰り道、瑞姫がそうアンナに尋ねたら、彼女は苦笑した。「あらぁ、役員会に居ましたよ、シュン君のママ。でも目立たない方だから、誰も気づかなかったんですよ。」「そう・・」瑞姫の脳裡に、5年前病室で泣きながら隼の手を握り締める香帆子の顔が浮かんだ。あれから時が過ぎたが、まだ彼女は30代だというのに、老けこんでいるように見えた。最後に病室で会った時から、今まで何があったのだろうか。「お母様、どうしたの?」はっと我に返ると、遼太郎が怪訝そうに瑞姫を見つめていた。「いいえ、何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけ。」「そう・・バザー、もうすぐだもんね。」「ええ。ねぇリョータロウ、シュン君のことだけど・・」「う~ん、あの子余り好きじゃない。だって何だか人をどこか見下してるっていうか・・」「そうそう、やけに偉そうにしてたよね!」蓉は遼太郎の言葉に相槌を打ちながら、スープを飲んだ。にほんブログ村
2011年01月30日
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昼食を終えた早瀬隼はそっと教室を出て薔薇園へと向かった。この学校に編入する前、母と共に見学に来た事があったから、場所は知っていた。そこは19世紀末から人の手によって植えられ、赤・黄・白と色とりどりの薔薇が咲いており、隼のささくれた心が少し癒された。 日本に居た頃、両親は泣いてばかりいたし、2歳年上の姉の涼香はいつも両親の愛情を独り占めしている自分を恨めしそうに見ていた。ウィーンでいつ終わるかわからない入院生活を始めた時、隼は漸く姉の視線から逃れる事ができ、また両親と祖父の言い争いを聞く事もなく安心した。両親は自分をこの世に送り出してくれた存在だったが、彼らを一度たりとも隼は尊敬できなかった。政略結婚で結ばれ、表面上は仲の良い夫婦を演じながらも、彼らの結婚生活がとうに壊れていることなど、隼や姉は知っていた。母が早瀬の家から出る事が出来ないのは、後継者である自分が成人になるまで離婚は認めないという祖父が勝手に決めたルールがあるからだった。隼は祖父が大嫌いだった。病弱な自分に向かって、「もっと丈夫に産まれていれば金がかからずに済んだ」、「待望の跡継ぎが病弱だなんて冗談じゃない」と、平気で酷い言葉を口にし、早瀬という家を守ることに固執する祖父が。家族の誰とも繋がっていない絆―毎日母と祖父との間に流れる冷たくも重苦しい空気で食べる料理は、ゴムの味しかしない。だから、遼太郎が―両親と兄妹達との間で笑顔を振りまく彼が妬ましく憎かった。あんな事をわざと聞いて彼の怒った顔が見たかった。(誰かに好かれるなんて面倒なだけだ。どうせ僕は独りなんだ。)この世に産まれ落ちた瞬間から、何故神は自分を天国へ連れて行ってくださらなかったのだろうと、隼は毎日思っていた。こんな冷たい家庭の中で育つよりも、母の腹の中で死んでいれば良かったのに。自分は生まれてはいけない子どもだったのだ。(僕は死ぬまで、あの人達の言いなりにはならない。)隼が薔薇園を出ようとした時、不意にドアが開いて遼太郎が中へと入ってきた。「何だよ、何か用?」「別に。これを探しに来ただけ。」遼太郎はそう言うと、床に落ちていたロザリオを拾い上げ、それを首に提げた。「ドイツ語、喋れるんだね?」「まぁね。5年も居てたら嫌でも喋れるようになるさ。じゃぁ、僕はこれで。」隼は冷たい口調で遼太郎にそう言うと、薔薇園から出て行った。(なんか、嫌な奴・・仲良くしようと思ったけど、やめようかな。)放課後になり、遼太郎はヤンネとともに校門を出ると、瑞姫とアンネがそこに立っていた。「お母様、どうしたの?」「今日は役員会があるでしょう? これからバザーの出し物についてお母様達は話し合いがあるから、あなた達は先に帰っていなさい。」瑞姫はそう言って2人に微笑んだ。「うん、わかった。アンネさん、さようなら。」「さようなら。」アンネと瑞姫は元気良く駆けてゆく遼太郎とヤンネに手を振り、校門をくぐった。「ミズキ様、役員会に出てもよろしいんですか? 下のお子さんはまだ産まれたばかりなのに・・」「乳母に搾乳したおっぱいが入った哺乳瓶を渡してますし、彼女に世話を任せてありますので大丈夫です。それよりも今日から新しい方が入ってきたのですって?」「ええ。シュン君のお母様ですよ。でもあの人、さっきすれ違っても挨拶もしないんですよ。感じが悪いったら。」アンネと瑞姫が取り留めのないことを話しながら会議室へと入ると、底には既に数人の役員達が集まっていた。「皇太子妃様、この度はご出産おめでとうございます。」「ありがとう。」「家族に旅行でスペインに行きましたの。皆さんと仲良く召し上がってくださると嬉しいのですが。」そう言って役員の1人がクッキーの箱を差し出すと、瑞姫は朗らかに笑ってそれを受け取った。にほんブログ村
2011年01月30日
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ルドルフは自分を見つめている少年にいまいち好感が持てずにいた。「あなたとあなたのお孫さんとはお会いしたくありませんと、5年前に申し上げた筈です。それなのにあなた方はしつこく誕生パーティーまで押し掛けてくるとは・・その無神経さにほとほとあきれてしまいますね。」毒を含む言葉を聡一郎達に放つと、ルドルフは彼らから背を向けて歩き出した。「父上、あいつを知ってるの?」ルドルフの後を慌てて追いかけて来た遼太郎は、そう言って聡一郎達の方を振り返った。「ああ。でも余り彼らとは親しくしない方が良い。」「うん。蓉はあいつのこととても嫌ってるよ。」 やがて楽しかった夏休みが終わり、エルジィはフランスへと戻っていった。「エルジィ姉さん、帰っちゃったね。」「そうだね。でもクリスマス休暇には会えるじゃないか。それにメールだってくれるし。」エルジィが帰ったことでしょぼくれた蓉を、遼太郎はそう言って励ました。「今日兄さんは学校だろう?」「うん。放課後は一緒に遊んでやるから、それまで待っててね。」「わかった。」宿題を入れた通学用のリュックを背負った遼太郎は、女官と共に王宮を出ると、母が待機しているリムジンへと乗り込んだ。「お母様、樹(いつき)は大丈夫なの?」「大丈夫よ、ローザがちゃんと面倒を見てくれているわ。それよりも忘れものはない?」「うん、ないよ。」遼太郎が宿題をリュックの中から出して母に見せると、彼女は微笑んだ。やがて2人を乗せたリムジンは王宮を出て、遼太郎が通っている小学校へと向かった。 数分後、白亜の天使像が左右に置かれた鋼鉄の門が見えてくると、遼太郎はリムジンから勢いよく降りた。「じゃぁね、お母様。」「今日もお勉強、頑張るのよ。」瑞姫は息子の頬にキスをすると、リムジンへと戻った。 遼太郎が通う小学校は、上級階級の子息達が通う私立校であるが、児童達の個性を伸ばすという教育方針の下、遼太郎を含む児童達はのびのびとした学校生活を送っていた。本来ハプスブルク家の皇子として生まれた遼太郎は、父・ルドルフと同じように王宮内で40人もの家庭教師について授業を受けるのがしきたりであったが、少しでも多くの人々を関わって欲しいというルドルフと瑞姫の願いから、遼太郎は小学校に通うようになった。「リョータロウ、おはよう!」「おはよう、ヤンネ。宿題やった?」「うん。それにしてもキャンプ、楽しかったね。湖で競争したのも楽しかったねぇ。」「湖で泳ぐのなんて初めてだから、興奮しちゃったよ。」ヤンネと遼太郎がキャンプの話で盛り上がっていると、担任が教室へと入って来た。「皆さん、おはようございます。夏休みは楽しく過ごせましたか?」教師の問いかけに、遼太郎達は元気に返事をした。「今日は皆さんに新しいお友達が出来ます。」教師がそう言ってドアを開けると、中にあの車椅子の少年が入って来た。「あ、あいつでしょう? 君に失礼な事言ったの?」ヤンネの問いに遼太郎が静かに頷くと、教師が少年を彼らに紹介した。「シュン=ハヤセくんです。シュン君は心臓に病気があって、今まで入院していましたが、2学期からこの教室で一緒にお勉強できるようになりました。皆さん、仲良くしてくださいね。」(絶対仲良くなんかしてやるもんか!)遼太郎は誕生パーティーで少年に失礼な質問をされた事にまだ怒っていた。 昼休みになり、遼太郎はヤンネとともに昼食を取っていた。「ねぇリョータロウ、あの子ひとりだね。」ちらりと少年の方を見ると、数人でグループとして固まり昼食を取っている中で、彼はぽつねんと自分の席で昼食を食べていた。「どうする?」「別に誘わなくていいんじゃないかな? 向こうは僕らと余り親しくしたくないようだし。」学級委員長のフランクがそう言って遼太郎達の方へと近寄って来た。「そうだね。」にほんブログ村
2011年01月30日
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「お父様、早く早く~!」 一週間後の日曜日、遼太郎達は友人のヤンネ一家とともにザンクト・ヴォルフガンク近辺のキャンプ場へと来ていた。彼らの前には、太陽に照らされて美しく輝く湖面が広がっていた。「待ちなさい、リョータロウ。そんなに走ったら転ぶぞ!」車から降りるなり蓉とともに走り出した遼太郎と蓉の後を、ルドルフは慌てて追いかけた。「わぁ~、綺麗!」遼太郎と蓉は湖を眺めながらそう言って溜息を吐いた。生まれてから今までホーフブルクの外を知らなかった2人にとって、目の前に広がる雄大な自然は刺激的なものだった。「2人とも、走るのはやいって。」ヤンネは息切れをしながら漸く遼太郎達の元へと駆け寄って来た。「湖ってまだ泳げるかな?」「さぁ、どうだろうね。それよりもママ達が呼んでるよ。」3人はバンガローの方へと移動すると、そこにはルドルフとヤンネの両親が車から荷物を下ろしていた。「やっと戻って来たね。荷物を下ろすのを手伝ってくれないか?」「わかった。」遼太郎達が荷物を車から下ろし、バンガローの中にそれぞれ運び終わると、昼食の時間となった。「自然の中で食べるごはんって美味しいね!」焼き立てのとうもろこしを頬張りながら、遼太郎はそう言ってルドルフを見た。「そうだね。たまにはこういう所に来るのもいいかな。」ルドルフは煌めく湖面を見つめながら、蒼い瞳を細めた。今まで公務で忙しく、息抜きする時間など全くなかったが、何とか息子達と過ごす時間を過ごそうと、スケジュールを調整して妻に携帯を預けてこのキャンプ場へと来た。「ねぇお父様、湖で泳いでいい?」昼食を平らげた蓉はそう言うとルドルフを見た。「いいよ。けど余り遠くには行かないようにね。」「わかった。」2人の息子達はそう言うと、後片付けをヤンネとともに始めた。「皇太子様、わざわざスケジュールを調整していただいてすいません。」ヤンネの母親がルドルフに申し訳なさそうな顔をしながら言った。「別にそんな顔しなくてもいいんですよ。わたしだってこのキャンプを楽しみにしていたのですから。」「ですが・・」「いい加減にしないか、アンネ。すいませんねルドルフ様。」尚も言い募ろうとする妻を制し、ヤンネの父親・ハンスはそう言ってルドルフに微笑んだ。「いや、気にするな。それよりもハンス、お前こそ仕事が忙しいんじゃないのか?」ハンスは新聞記者で、多忙を極めていたが、家族と過ごす時間を何よりも大切にする男だった。「いいえ。今回のキャンプはわたしが計画したんですよ。」「そうか。」こうして瞬く間に楽しい時は過ぎ、ルドルフとヤンネ達はキャンプで楽しい思い出と時間を作った。「また来年も行こうね、お父様!」帰りの車の中で、蓉はそう言ってルドルフを見た。「ああ。」 ウィーンに戻ったルドルフ達親子は、ホーフブルクで聡一郎とその孫・隼に会った。「どうして彼らがここに居るんだ?」そう言って瑞姫を見ると、彼女は溜息を吐いた。「それは・・急におしかけてきて・・」「ソウイチロウさん、何の用ですか? もうお話しすることはないでしょう?」ルドルフが聡一郎を睨むと、彼は物怖じせずに睨み返してきた。「うちの孫が君の息子に失礼な事を言ったようだね? わたしに免じて孫を許して貰えないだろうか?」ルドルフはちらりと車椅子に座っている少年を見ると、彼は憮然とした表情を浮かべてルドルフを見た。にほんブログ村
2011年01月30日
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ルドルフ達が駆けつける数分前、ユナは姉のアイリス、兄の蓉と遊んでいた。 その間にユナが抱いていた飼い猫が逃げ出してしまい、それは木の上をするすると上って下りてこなくなってしまった。「ねぇ、下りてきてよ~!」「アリス、こっちにおいで~!」アイリスとユナが木の上から猫に呼びかけても、白猫は木の上からじっと彼女達を見つめているだけで、なかなか下りようとしない。「もう、仕方無いなぁ。」ユナはそう言うと、木を登り始めた。「ユナ、危ないから止めなさい!」「だってアリスが下りてこないだもん。あたしが行って捕まえるもん。」「駄目だろ、ユナ。今兄さんを呼んでくるから、早く降りろ!」兄と姉の制止を振り切り、ユナは器用に木の上まで登り、アリスへと近づいた。「そのままじっとしててよ、アリス。」ユナがアリスに近づくと、彼女は嬉しそうに鳴くとユナの胸に飛び込んできた。「さてと、降りないとお兄ちゃんとお姉ちゃんに叱られちゃう。」ユナがそっと太い木の幹に足をつけたその時、バキッという音がしたかと思うと彼女はそのまま地面に叩きつけられ、意識を失った。―ユナ・・ふと彼女が目を開けると、そこはホーフブルクの庭園ではなかった。周囲には荒涼とした草原が広がっており、遠くから赤く染まった村が見えた。―ユナ・・(誰? どうしてわたしの名前を知っているの?)―それはわたしが君の・・「ユナ!」突然大きな声で名前を呼ばれ、ユナが目を開くと、そこには安堵した表情を浮かべる父と姉達がいた。「良かった、ユナ。」「お父さん・・」「木に登るのは危ないからって言ったのに、ユナの馬鹿!」隣で姉が泣きじゃくりながらユナを責めたが、何処か安心したかのような表情を彼女は浮かべていた。「ごめんなさい。」「とにかく無事で良かった。お医者様に診て貰おうね。」ルドルフはそう言うと、ユナを抱き上げた。 病院でユナは脳の検査をしたが、どこにも異常は見られなかった。「ユナ、気分は悪くないかい?」「うん。お兄ちゃん達は?」「家でお前の帰りを待ってるよ。さ、帰ろうか。」「うん!」夕食の席で蓉は元気な妹を見てほっとしたような顔をしてこう言った。「全く、心臓が止まるかと思ったよ。」「ごめんなさい、お兄ちゃん。ねぇ、今度の日曜日にお父さんとキャンプに行くんでしょう?」「そうだよ。でも男同士のキャンプになるから連れてってあげない。」「ふんだ、いいもん。わたしはお姉ちゃんとお母さん達と女同士で楽しむもん!」頬を膨らませながらユナがそう言うと、瑞姫はくすくすと笑った。「ねぇ兄さん、昼間変な子に会ったって?」「うん。あいつじぃっと僕の顔を見たかと思うと、“君白人だよね?”だってさ!」「何それ~、初対面の相手に失礼過ぎるだろ!」蓉は遼太郎の隣で寝転がりながら、彼から昼間会った少年の話を聞いて憤慨した。「まぁ、二度と会う事はないだろうけどね。」「忘れちゃいなよ、そんな奴。じゃぁ、僕行くね。」「うん、お休み。」蓉が部屋を出て真っ暗になると、遼太郎はゆっくりと目を閉じて眠りに就いた。 翌朝、フランスの寄宿学校に行っていた義理の姉・エルジィがウィーンに休暇で帰って来た。「エルジィ姉様、お久しぶりです。」「リョータロウ、誕生日おめでとう。パーティーに来られなくてごめんね。」そう言って自分の頬にキスする彼女の蒼い瞳は、父と良く似ていた。12歳になろうとしている彼女が、少し大人びいて見えた。にほんブログ村
2011年01月30日
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(何、こいつ?)遼太郎は自分をじろじろと見つめる少年を睨み返すと、ルナが低い唸り声を発して威嚇した。「君、誰?」『君、白人だよね?』日本語でそう尋ねられ、遼太郎は少しムッとした。初対面の相手に対してこんな失礼な質問をするなんて、無礼な奴だ。遼太郎は少年の質問に答えずに、両親の元へと駆けていった。「どうした、リョータロウ?」「さっきあそこの奴に嫌な事聞かれた。“お前白人か?”だってさ! アジア系がそんなに悪い訳!?」遼太郎の言葉を聞き、ルドルフはちらりと車椅子に座っている少年を見た。初めてあの少年に会ったのは入院先の病室であったが、その頃はまだ儚げな印象を彼に抱いていたが、5年の歳月が経つとそれも変わった。「あの礼儀知らずな子は無視していいんだよ、リョータロウ。それよりも犬の名前は決まったかい?」「うん。蓉がつけてくれたんだ。ルナっていうの。父上、蓉の誕生日に必ずトイプードル買ってよね! あいつと犬の名前付けるって約束したんだから。」「わかった、わかった。」ルドルフは少し困ったような顔をしながらも、遼太郎の頭を撫でた。「ヨウとアイリス達は?」「向こうで遊んでいるよ。ねぇ父上、さっきの人達誰だったの? 何か言い争ってたでしょう?」「少しね。それよりもリョータロウ、夏休みももう終わりだけど・・」「宿題はもう済ませたよ。明日ね、ヤンネからキャンプに誘われたんだ。」ヤンネは遼太郎の級友で、小学校に遼太郎が入学してから何故か遼太郎と気が合った。「キャンプ? 子ども達だけでかい?」「ううん、ヤンネのパパとママが居るよ。蓉も一緒に行こうって誘ってくれたんだけど、行ってもいいかなぁ?」遼太郎はそう言うと、父の返事を待った。皇太子として多忙を極める彼が公務を休めない事は知っていたが、たまには弟と自分と男同士で遼太郎は過ごしたかった。「何処のキャンプ場に行くんだい?」「確かザンクト・ヴォルフガンク辺りだと思うけど。ねぇ、行ってもいいでしょう?」「いいよ。いつ行くんだい?」「来週の日曜日。」「そうか、じゃぁスケジュールを調整するよ。多分3人で行けると思うから。」「やったぁ!」遼太郎の笑顔を見ると、ルドルフは心から癒された。彼が赤ん坊の時から、その笑顔を見ると心が安らいだ。「ミズキ、そういう訳だから・・」「わかりました。たまには男同士で楽しんできてくださいね。」隣でルドルフ達の会話を聞いていた瑞姫は、そう言って夫に微笑んだ。彼女の腕には、女の赤ん坊が甲高い声を上げながら母親の髪を引っ張っていた。「いたた・・この子は髪を引っ張るのが好きなんだから。」瑞姫は苦笑しながらも、娘を愛おしそうに見つめていた。「身体の方は大丈夫か? お前付きの女官から、髪が少し抜けたと聞いたが?」「髪が抜けるのはもう慣れっこです。それにしてもこんなに幸せでいいのかしら?」「いいじゃないか、別に。誰にも迷惑をかけていないんだから。」両親が人目を憚らずにのろけ始めるのを、遼太郎は呆れた顔で見ていた。「兄さん!」蓉が息を切って遼太郎の元へと駆けて来た。「どうしたの、蓉?」「ユナが・・ユナが木から落ちた!」弟の言葉を聞いた遼太郎は、さぁっと顔から血がひいていくのがわかった。「ヨウ、リョータロウ、一緒にユナの所に行こう。」「はい、父上・・」蓉と遼太郎、ルドルフがユナの元へと行くと、大木の下に倒れてぐったりしているユナと、彼女に取り縋って泣くアイリスの姿があった。「お父様、ユナが目を覚まさないよう!」アイリスはしゃくり上げながら、ルドルフに駆け寄って来た。「大丈夫だよ、ユナはきっと助かるよ。」写真素材(c)NOION にほんブログ村
2011年01月30日
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燦々と照りつける夏の太陽の下、ルドルフと遼太郎の誕生パーティーは滞りなく行われていた。そこにはルドルフの姉・ジゼルや、妹・マリア=ヴァレリーも出席していた。「お誕生日おめでとう、お兄様。義姉上様とは相変わらず仲が良いようね?」「ありがとう、ヴァレリー。ミズキと結婚して良かったと、これ程までに思ったことはないよ。今までこんなに幸せを感じたのは、初めてだ。」「お兄様・・」ヴァレリーは兄の言葉を聞き、悲しそうな顔をした。今まで兄がどれ程歯を食い縛り、孤独に耐えて皇太子として生きてきたのかを、ヴァレリーは知っている。シュティファニーとの結婚は、兄を幸せをするどころか、彼の心を崩壊寸前まで追い込まれ、不幸にした。彼女はルドルフの妻には相応しくなかった。彼女とは離婚した後、兄は失踪した。もしかして彼はもう二度と戻って来ないのではないかと―冷たい骸となって何処かで眠っているのではないのかとヴァレリーは何度も不安に駆られた。 だが、兄は自分の子を宿した新しい妻を連れて自分達の元に戻ってきた。その姿を見た時、ヴァレリーは心から安堵した。「お兄様がお幸せそうで良かった。わたし、お兄様の心からの笑顔、初めて見たわ。」「そうか。じゃぁ、ミズキのところに行くよ。」「そう。」ヴァレリーは妻と仲良く寄り添う兄の様子を見ながら、ジゼルとともに微笑んだ。「ルドルフって、変わったわね。」「ええ。義姉上様の・・ミズキのお蔭よ。」遼太郎は弟と妹達とともに、父からプレゼントされたシベリアンハスキーの子犬と戯れていた。「名前、何にする?」「まだ決めてない。」「兄さん、僕が名前付けていいかな?」蓉はそう言って遼太郎を見た。「いいよ。」「この子は雌だから、どんな名前がいいかなぁ? ルナとか?」「ルナ・・月の女神か。この子、毛の色が綺麗だな。」遼太郎は子犬の頭を撫でながら、そっと名を呼んだ。「ルナ。」子犬がピンと耳を立て、遼太郎の声に反応した。「気に入ったみたいだ。蓉、素敵な名前をありがとう。」「いいよ、兄さん。ねぇ、僕の誕生日には僕の犬に名前を付けてね。」「解ったよ、約束だ。」「うん、男同士の約束だからね。」遼太郎と蓉は互いの顔を見合わせて笑った。賑やかな笑い声が急に止んだのは、その時だった。「何だろう?」2人がちらりと庭園の入口を見ると、そこには車椅子に座る少年と、その母親と思しき女性が立っており、その傍らには白髪姿の老人が立っていた。「あの人、誰?」「さぁ・・」暫く遼太郎と蓉が様子を見ていると、彼らは両親の元へと向かった。それまで笑顔を浮かべていた両親は、彼らの顔を見るなり硬い表情になった。「あの人達とお母様達、仲が悪そうだね。」「うん・・」遼太郎がちらちらと両親の方を見ると、彼らは3人と何か言い争っていた。(父上のあんなに怒っている顔、見た事ないや・・)蒼い瞳に冷たい光を湛えながら何かを老人に向かって捲し立てるルドルフの怒った顔を見て、遼太郎は只事ではないと感じた。「ねぇ、あの人達帰っていくよ。一体何しに来たんだろうね?」「さぁ・・でも、お父様があんなに怒るんだから、きっと嫌な事言いに来たんじゃない? 誕生日に悪口言いに来るなんて、最低だね。」蓉は吐き捨てるような口調で言うと、妹達とともに遊び始めた。遼太郎は暫くルナの頭を撫でていたが、不意に背後から視線を感じて振り向くと、そこには車椅子に座った少年がじっと自分を見ていた。にほんブログ村
2011年01月30日
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瑞姫は数日前に女児を産んだが、産後間も無い身体を労わりつつも、赤ん坊に乳をやったり、おむつ替えをしたりした。「お母様、わたしがやるよ。」遼太郎はそう言うと、ぐずる赤ん坊を抱いてベビーベッドの上に寝かせると、慣れた手つきでおむつを替えた。 まだ2歳だった時から、遼太郎は生まれたばかりのアイリスと椰娜のおむつを替えていた。始めたばかりの頃は慣れなかったが、母が根気よくおむつ替えやミルクのあげ方を教えてくれたので、今となっては赤ん坊の世話など朝飯前になっている。「ありがとう、遼太郎。助かるわ。」「ううん。お母様はまだ疲れているから、お兄ちゃんが頑張らないと。」「遼太郎、誕生日おめでとう。もう7歳になるのね。」「うん。誕生パーティーまでまだ時間があるから・・」「遼太郎、猫はどうしたの?」「あの子ならアイリスとユナが飼って面倒を見ているよ。お父様にもお祝いの言葉を言ってくるね。」遼太郎は瑞姫に微笑むと、瑞姫の部屋から出て行った。「遼太郎お兄様、お誕生日おめでとう!」「おめでとう!」廊下を歩いていた時、遼太郎は妹達から祝福のメッセージを受け、2人に微笑んだ。ユナの腕には、数日前に助けた白猫が抱かれていた。「お兄様、わたしたちプレゼント作ったのよ!」「そう・・パーティーが楽しみだな。」遼太郎はうきうきとした気分で、ルドルフの部屋のドアをノックした。「父上、遼太郎です。」「入れ。」「失礼します。」遼太郎がルドルフの部屋に入ると、彼は溜息を吐いて窓の外を見ていた。「どうしたの?」「少し困った事があってね。それよりリョータロウ、誕生日プレゼントのことだけど・・」「父上、誕生日おめでとうございます。プレゼント用意できなくてごめんなさい。」「謝る事はないよ、リョータロウ。そろそろパーティーの時間だから、部屋で着替えて来なさい。」 ハプスブルク帝国皇太子・ルドルフの37歳の誕生日と、その息子・遼太郎の7歳の誕生パーティーが王宮庭園で青天の下行われた。「ルドルフ様、リョータロウ様、お誕生日おめでとうございます。」「ありがとう。」招待客達に笑顔を振りまくルドルフと遼太郎の横顔を、瑞姫は微笑ましげに見ていた。「遼太郎兄様、父様、わたし達からプレゼントよ!」アイリスとユナがそう言って包装紙に包まれたレースのハンカチをルドルフと遼太郎にそれぞれ手渡した。「ありがとう。大切に使わせていただくよ。」「兄さん、父さん、誕生日おめでとう。」蓉は蒼い瞳を煌めかせながら、そう言うとルドルフと遼太郎の頬にそれぞれキスをした。「ありがとう、ヨウ。さてと、リョータロウ、お前犬が欲しいって言っただろう?」「うん。」ルドルフが侍従に目配せすると、彼は1匹の子犬を連れて歩いて来た。「これが誕生日プレゼントなの?」「嬉しくなかったかい?」「ううん、とっても嬉しい!」遼太郎はそう叫ぶと、ルドルフに抱きついた。「父さん、僕も犬が欲しいな。」少しムッとしたような顔をしながら、蓉はルドルフを見た。「解った、犬種は?」「トイプードルがいいな。ふわふわしてて可愛いから。」ルドルフは子ども達に平等に接しているのだが、蓉にとって父が兄ばかり可愛がるのが少し気に食わないらしかった。にほんブログ村
2011年01月30日
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「あ、兄様!」双子の片割れであるアイリスは、そう叫ぶと遼太郎の方へと駆け寄った。「アイリス、元気そうだね。」遼太郎はそう言って、2歳離れた妹の頭を撫でた。「兄様、もうすぐお誕生日よね? プレゼント何がいいのか、ユナと話しあっていたの。ね、ユナ?」アイリスは隣に立っている双子の妹を見た。「うん。リョータロウ兄様は、何が欲しいの?」「お前達がパーティーに居てくれるだけで嬉しいんだ。プレゼントは何でもいいから手作りのものがいいな。」「そう、わかったわ。じゃぁ、またね!」双子の姉妹は声を揃えてそう言うと、パタパタと元気良く廊下を駆けていった。「賑やかな笑い声が聞こえたかと思ったら、アイリス達に会っていたんだな?」ドアが開き、ルドルフは遼太郎を見た。「うん。誕生日プレゼント何がいいかって聞いてきたんだ。父上、アイリスとユナって本当にそっくりだね。」「双子だから当たり前だろう。さてとリョータロウ、子猫が降りられなくなった木まで案内してくれないか?」「うん、わかった。」遼太郎はそう言って、嬉しそうに廊下を走って行った。「こら、危ないだろう。」ルドルフは慌てて遼太郎の後を追った。 一方、アイリスと椰娜(ユナ)は、母・瑞姫の部屋を訪ねていた。「お母様、何してるの?」瑞姫がレース編みをしている姿を、アイリス達は興味深げに見ていた。「レース編みよ。お腹の赤ちゃんが履く靴下を編んでるの。」「ねぇお母様、赤ちゃんいつ出てくるの?」アイリスは母の膨らんだ下腹を見つめながら言った。「もうすぐ産まれてくると思うわ。アイリス、あなたお姉ちゃんになるのが嬉しい?」「うん。ユナもそうよね?」「わかんない。お母様、赤ちゃんのお世話って大変なの?」「大変だけど、楽しいわよ。それよりもお兄様達は何処?」「リョータロウ兄様はお父様とお庭に行ったわ。ヨウお兄様はヴァイオリンのお稽古よ。ねぇお母様、レース編み教えてくれる? リョータロウお兄様のプレゼントを作りたいの。」「そう。じゃぁ2人とも、こちらにいらっしゃい。お母様が編み方を教えてあげるわ。」「やったぁ~!」母の指導の下、アイリスと椰娜はレースのハンカチを編んだ。「どう、お母様? 上手に出来てる?」「うん、とても上手に出来てるわよ、2人とも。お兄様、喜んでくれると思うわ。」瑞姫は娘達の銀髪を撫でると、彼女達は屈託のない笑みを浮かべた。「アイリス様、ユナ様、ピアノのレッスンの時間ですよ。」2人を探していた女官が、そう言って瑞姫の部屋に入って来た。「ピアノのお稽古、したくない~」「わたしも~」「アイリス、ユナ、めんどくさがっては駄目よ。」「だってお母様と遊べないもん。つまんない~」アイリスがそう言ってごねると、瑞姫は溜息を吐いた。「あなた達がピアノのお稽古をやってから遊んであげるわ。それでいい?」「わかった。ユナ、行こう。」「うん。」姉妹は女官の後に続いて瑞姫の部屋から出て行った。「全く、困った子達だこと。」廊下を駆けていく2人分の足音を聞きながら、瑞姫は苦笑した。 銀髪金眼の姉妹は、その愛らしさ故に“銀髪の天使”とウィーン宮廷で呼ばれていた。 ピアノの稽古が終わり、姉妹は瑞姫の部屋へと向かうと、そこは立ち入り禁止になっていた。「ねぇ、お母様どうしたの?」「お母様は今、赤ちゃんを産んでいらっしゃるんですよ。」女官がそう言って彼女達を見た時、部屋の中から力強い産声が聞こえて来た。アイリスとユナが部屋に入ると、そこには産まれたばかりの赤ん坊に乳をやっている瑞姫の姿があった。にほんブログ村
2011年01月29日
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英国で療養していた瑞姫が夫と息子と共にウィーン宮廷に戻って来た。寒さが厳しくなりつつある真冬の中、彼女は家族と共にクリスマスを過ごした。「ここに、赤ちゃんがいるの?」遼太郎と蓉は好奇心を剥き出しにしながら、母の膨らんだ下腹を擦った。「そうよ。ここにはね、あなた達の妹が居るのよ。」「はやくあいたいなぁ。」「まだ会えないけど、産まれたら可愛がってあげてね。」クリスマスの賑やかな晩餐を終え、瑞姫はルドルフの寝室を訪れた。「触ってもいいか?」ルドルフはそっと妻の膨らんだ下腹を触ると、彼の手に反応して腹の中の胎児が内側から彼の掌を蹴って来た。「お転婆になりそうだな、この子達は。」「そうですね。双子を産んで育てたりするのは初めてだから、ちゃんと出来るかどうか・・」「大丈夫だ、わたしが居る。お前は何も心配する事はない。」「ええ・・」 瞬く間に新年を迎え、臨月を迎えた瑞姫は自室でカレンダーを見ながら下腹を擦っていた。出産予定日は奇しくも自分の誕生日である聖ヴァレンタインデー、2月14日だったが、龍之助によれば出産予定日に生まれる赤ん坊は20人に1人くらいで、いつ生まれるかは神が知っているという。 遼太郎と蓉の時はルドルフに出産を立ち会って貰ったが、今回は双子で、しかも強力な妖気を持っているという特殊なケースなので瑞姫1人で産んだ方がいいだろうと龍之助から言われた。だが瑞姫は、今回もルドルフに出産を立ち会って貰いたかった。もしこの命を失うことになっても、命が産まれる瞬間を彼と分かち合いたいと思っていた。「ミズキ、入るぞ?」ノックの音がして、ルドルフがドアの隙間から顔をのぞかせた。「ルドルフ様、今回も立ち会ってくれますか?」「当たり前だろう。わたしとお前の子だ、元気に産まれてくるさ。」「そうですよね・・」 3週間後、瑞姫は産気づいてルドルフに励まされ、難産の末に双子の女児を出産した。「2人とも元気な赤ちゃんだよ、おめでとう。」「良かった・・」瑞姫は安堵の笑みを浮かべると、ルドルフを見た。「可愛いな。どうしてあの時、わたしはこの子達を殺そうと思っていたんだろう?」双子を交互に抱きながら、ルドルフはぽつりとつぶやいた。母親と同じ誕生日に生まれた双子の女児は、黄金色の瞳を持った玉のような可愛い赤ん坊だった。「かわいい、かわいい。」兄となった蓉は病室で産まれたばかりの妹達の頬を突きながら何度もそう言うと笑った。周囲の祝福を受けて生を享けた双つの命は、姉はアイリス、妹は椰娜(ユナ)と名付けられた。瑞姫はアイリスに母乳を与えながら、溜息を吐いた。「どうした?」「いえ・・双子を育てるのって大変ですね。」「ああ。だが喜びも2倍だろう?」「そうですね。」 やがて5年の歳月が経ち、遼太郎は7歳の誕生日を迎えようとしていた。「父上!」「リョータロウ、また来たのかい。お仕事中は来てはいけないって言っているだろう?」「ごめんなさい・・でも、困った事があって・・」「困った事?」「子猫が、木から降りられなくて泣いているの。」遼太郎はそう言ってルドルフを見ると、彼は苦笑しながら椅子から立ち上がった。「わかった、お父様が子猫を助けるから、リョータロウは部屋で待っていなさい。」「うん!」遼太郎がルドルフの部屋から出ると、丁度双子の妹達が廊下を歩いてくるところだった。にほんブログ村
2011年01月29日
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「英国に?」「はい、父上。暫くミズキと話し合いたいことがありまして。」フランツは溜息を吐いて自分の前に立つルドルフを見た。「ルドルフ、お前がミズキのことを愛していることはわたしも解っているが、こんな忙しい時期にウィーンを離れるというのは・・」「公務の方はご心配なく、父上。わたしはわたしの義務を果たします。」「・・そうか、解った。」フランツはそう言って、ルドルフの休暇届けを受理した。 父の部屋を出たルドルフは、英国行きの為に荷造りをしていた。「ててうえ。」「リョータロウ、どうしたんだい?」「ててうえ、かあさまのところに行くの?」「ああ。暫く留守にするから、良い子にしているんだよ。」「わたしもいく。」遼太郎がただをこね始めたのを見て、ルドルフは溜息を吐いた。彼はこうなったら誰も止められない。「そうか。ねぇリョータロウ、わたしとかあさま、どっちが好きだい?」「どっちもすき。ててうえはかあさまがいなくなってさびしい?」「ああ、とっても寂しいよ。」遼太郎は幼いながらも両親の不和を感じ取っているらしく、更に母親が英国に行ってしまったことに薄々気づいているようだった。「そうか・・じゃぁ、一緒に行こうね。」遼太郎を抱き締めながら、ルドルフはそう言って彼に微笑んだ。 数日後、ルドルフは遼太郎と共に龍之助の別荘へと向かった。「やぁ、来たんだね。」「リュウ、息子のリョータロウだ。リョータロウ、お父様のお友達の、リューノスケさんだよ、ご挨拶は?」「はじめまして。」遼太郎はそう言って龍之助を見た。「ミズキは?」「彼女なら湖だよ。」ルドルフ達が湖へと向かうと、瑞姫は湖畔で湖を眺めていた。「かあさま!」遼太郎は瑞姫の姿を見つけるなり、嬉しそうに彼女に駆け寄った。「遼太郎、大きくなったわね。」遼太郎を抱きしめ、彼の頭を撫でた瑞姫がゆっくりと顔を上げると、ルドルフと目が合った。 暫し2人は見つめ合った。「遼太郎君、お父様とお母様は少しお話ししたいことがあるから、おじさんと遊ぼうか?」「うん。ててうえ、かあさま、けんかしないでね。」龍之助に手をひかれながら、遼太郎はそう言うと両親を湖に残して別荘へと向かった。「元気にしていたか?」「ええ。」瑞姫はそう言うと、ルドルフの目の下に黒い隈が出来ていることに気づいた。「少しおやせになられましたね。」「ああ。お前が居ない日々はまるで地獄の炎に生きながら焼かれているようだった。ミズキ、お前の方は?」「つわりも治まりましたし、龍之助さんのお話しでは、もう大丈夫ですって。」「そうか。じゃぁ、ウィーンに戻ってこれるんだな?」「ええ。」ルドルフは瑞姫を優しく抱き締めた。 その夜、久しぶりに会った夫婦は湖面に輝く月を眺めながら息子と友人を挟んで楽しく語り合った。「ルドルフ様、わたしは英国に来てから、いつもこの月を眺めてはあなたや子ども達がどうしているのか心配になって、眠れない夜を過ごしました。あなたから離れて暮らすなんて無理です。」瑞姫はそう言うと、ルドルフに抱きついた。「わたしは、お前が二度とわたしの元に戻ってこないのではないのかと思ったんだ。もうお前を傷つけたりはしない。」月明かりの下で、ルドルフと瑞姫はキスをした。彼女が夫と息子とともに英国からウィーンに帰って来たのは、約2ヶ月ぶりだった。にほんブログ村
2011年01月29日
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ルドルフは何度も寝返りを打ちながら目を閉じて眠ろうとしたが、何分経っても眠たくならない。いつもは瑞姫と激しく愛し合い、その内彼女を抱きしめて眠ってしまうのに。(ミズキが隣に居ないだけでこんなにも心細くなるだなんて・・)思えば瑞姫と結婚し、遼太郎や蓉を妊娠している時でさえも、彼女とは一緒に寝ていた。だが今隣には瑞姫が居ない。ルドルフはいつも目で瑞姫の姿を探し、耳では瑞姫の声を探し、手は瑞姫の柔らかい乳房の感触や艶やかな黒髪の感触を求めてしまう。もし彼女が戻って来てくれるのならば、彼女を傷つけてしまったことを素直に詫びよう。そしてあの男の子どもでも産んで欲しいと跪こう。瑞姫が―最愛の人の笑顔が見られるならどんなことだってするつもりだった。込み上げて来くる寂寥感を紛らわす為、ルドルフは瑞姫が使っていた枕を抱き締めながら目を閉じた。微かに彼女が使っていたシャンプーの残り香を嗅ぎながら、ルドルフは漸く眠りに就いた。 翌朝、ルドルフが寝台から起き上がり手鏡で自分の顔を見ると、目の下に隈が出来ている事に気づいた。「ルドルフ、昨夜は眠れなかったのか?」「はい・・色々と考え事をしていたので・・」ルドルフはそう言うと、コーヒーを飲んだ。「何だかお兄様、最近元気ないわね。」マリア=ヴァレリーは夫にそう言いながら庭園を歩くルドルフを窓から見下ろした。「ルドルフ兄様の隣には、いつもミズキ義姉様がいたからね。男っていうのは、寂しい生き物だからなぁ。」「まぁ、フランったら。もしわたしが居なくなったらどう思うの?」「そりゃぁ悲しむだろうね、きっと。」「・・その言い方、ちょっとムカつくわね。」 ルドルフは今日も瑞姫を想いながらも彼女と毎日歩いた庭園を独りで歩いていた。いつも自分に寄り添うように歩いている瑞姫の姿を見ながら、ルドルフはまるで母の愛に包まれているような安心感を抱いていた。だが今は、美しい芝生の緑も、色とりどりの花々の美しさも目に入って来ない。全てが灰色の世界だ。(ミズキ・・)このまま彼女は自分の元から離れていってしまうのではないだろうか。(嫌だ・・ミズキ!)胸を焦がすような焦燥感と、瑞姫が隣に居ない事に耐えきれなくなりますます込み上げてくる寂寥感に心をグシャグシャにされそうになりながらも、ルドルフは涙を見せまいと必死に歩いた。(ミズキ・・わたしの元に帰ってきてくれ、ミズキ!)視界が白く霞んできた。ここで泣いてはいけないと思いながらも、勝手に涙が溢れ出て来た。(どうして・・こんなにもわたしは弱いんだ!)ルドルフは乱暴に袖口で涙を拭いながら、人気のない所まで歩くと蹲った。(ミズキ・・会いたい!)ふと後方が暗くなったかと思うと、誰かが後ろから自分を抱き締めて来た。「な・・」咄嗟の事で、護身用の銃を取り出すことが出来ず、ルドルフは舌打ちした。自分を拘束している者の顔をちらりと見ると、紫紺の宝玉のような瞳と目が合った。『ルドルフ様。』『リーシャ殿、離してくれないか?』『嫌です。』リーシャはそう言うと、ルドルフの金髪を撫でた。『わたしに触れるな!』ルドルフは邪険にリーシャの手を振り払うと、庭園を後にした。『手強いな、ルドルフ様は・・』リーシャはそう言うと、ルドルフの背中を見つめながらニヤリと笑った。(漸く会えた、わたしの天使・・)にほんブログ村
2011年01月28日
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ミヒャエル門の前に1台のリムジンが停まり、その中から1人の青年が下りてくると、スタンバイしていた鼓笛隊が歓迎のマーチを演奏し始めた。『リーシャ様、ようこそオーストリアへ。お会いできて光栄です。』ルドルフは完璧な上級英語でそう言うと、ラシャール王国の第一皇子・リーシャに向かって右手を差し出した。『こちらこそ、こんなに歓迎して下さってありがとうございます。』紫の瞳を美しく輝かせながら、リーシャはそう言うとルドルフの右手を握った。『ラシャール王国のことは度々ニュースで聞いておりますが、情勢が不安定な中欧州をご訪問される暇はないのでは?』「無礼ですぞ、ルドルフ様! 皇子がいくら妾腹の出だからといって・・」ルドルフの言葉に真っ先に反応したのは、リーシャの傍に控えていた中年の男だった。「黙れ、ハーディー。ルドルフ殿は決してわたしを侮辱しようと言った訳ではない。」「しかし、皇子・・」「わたしの言う事が聞こえないのか?」鞭のようにピシャリとリーシャが男に向かってアラビア語でそう言うと、男は渋々と後ろに下がった。『その質問にお答え致しましょう、ルドルフ殿。国を離れ、わざわざ欧州へ視察へと向かったのは、国の為です。』『国の為?』『ええ。我が国はやがて破滅するでしょう。荒廃が進む国を救うには、外の世界に目を向け、新しい知識を吸収することに意味があると思っています。』リーシャの真摯な光を放つ紫の瞳に、ルドルフは思わず瑞姫の瞳を重ねてしまった。紫と黒―全く違う色だというのに、リーシャと瑞姫はいつも真っ直ぐに物事を見つめている。『どうかされましたか?』『いいえ。あなたの瞳を見ていると妻を思い出しまして。』ルドルフはそう言って笑った。『そういえば奥様は双子をご懐妊されておられましたね?』『今は英国にある友人の別荘で静養中です。少し事情がありまして・・』ルドルフはそこで言葉を切り、紅茶を飲んだ。 その夜、リーシャ一行を歓迎する舞踏会が開かれ、白い軍服を纏った長身の彼はウィーン宮廷の令嬢や貴婦人達のハートを瞬く間に奪った。―ルドルフ様も素敵だけど、リーシャ様も素敵よね。―浅黒い肌に白い軍服がよく映えること・・―ああ、どちらでもいいから、一夜限りの恋をしたいわ。女達の会話を聞きながら、ルドルフは苦笑してバルコニーから月を眺めていた。瑞姫は今、英国で何をしているのだろうか。(ミズキ、早く帰って来い。わたしはいつでもお前を待っている・・)『どうしました、楽しいパーティーの中でそんな寂しげな顔をなさって。』肩を叩かれ振り向くと、そこにはリーシャが立っていた。『妻を思っていたのですよ。わたしは彼女を愛しているのに、彼女を傷つけてばかりいる。』『愛しているのですね、彼女を。』『ええ、この命に賭けても。リーシャ殿はハンサムだし遣り手でいらっしゃるから、そんな方がいらっしゃるのでは?』『いいえ、全くといっていいほどおりません。異性を愛することができないので。』リーシャの言葉に少し引っかかったルドルフだったが、それには気を留めない振りをして彼に微笑んだ。『そうですか。』『踊りませんか?』楽団が奏でるワルツを聞いたリーシャは、ルドルフの返事を待たずに彼の手を掴み、踊りの輪に加わった。突然男同士で踊り出した2人の皇子に、周囲はどよめいた。シャンデリアの輝きの下で、彼らの瞳が美しく煌めいた。『またダンスのお相手をしてくださいますか?』『さぁ、考えておきましょう。』ルドルフはそう言うと、大広間から出て行った。その夜、彼は寝台に入って眠ろうとしたが、目が冴えてなかなか眠る事が出来なかった。にほんブログ村
2011年01月28日
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オリーヴ色の肌に、日の光に照らされた黒髪を持った青年は、宝石のような紫の瞳で瑞姫の裸を見ていた。長い黒髪で乳房は辛うじて隠れていたが、下半身が青年に丸見えだということに気づいた瑞姫は、慌てて彼に背を向けた。『ここで何をしているのですか?』不意に背後から英語で話しかけられ、瑞姫はちらりと青年の方へと振り向いた。『水浴びです。 あなたは?』『わたしはこの地に観光で来ました。』『そうですか。』瑞姫は湖畔の方へと泳ぎ岸から上がると、スポーツバッグから大判のタオルを取り出して濡れた身体を拭いた。その間も青年はじっと瑞姫を見ていた。何だかじろじろ見られて感じが悪かったので、青年とは目を合わせないまま瑞姫はさっさと服を着て湖を後にした。『皇子、こちらにいらしたのですか!』次第に小さくなっていく瑞姫の背中を青年が見送っていると、湖畔に小太りの男が荒い息を吐きながらやって来た。『なんだ、見つかってしまったか。』『途中でいなくなったのかと思ったら、こんな所にいらっしゃったなんて! 早く車にお戻りください、スケジュールが詰まっているのですよ!』『わかった、わかった。全く、観光に来たというのにゆっくり出来ないな。』青年は鬱陶しそうに前髪をかきあげると、先ほど湖で泳いでいた黒髪の人魚に想いを馳せた。「湖で泳いでいるところを人に見られた?」「ええ。観光で来たとか言っていたけれど、何か怪しかったです。」夕食を食べながら、瑞姫はそう言って湖での事を龍之助に話した。「そうか・・外見は?」「黒髪にオリーヴ色の肌をしていました。瞳は紫。」「中東系の顔立ちか・・もしかしたら・・」龍之助はそう言うと、マガジンラックから今日の新聞を取り出した。「もしかして、この人じゃない?」龍之助が指したのは、湖で会った青年の顔写真だった。「ええ、そうですけど・・この人は?」「ラシャール王国の皇太子・リーシャ様だよ。」「ラシャール王国って、確か昨年5月に大規模な暴動があった?」「ああ。なんでもリーシャ様率いる皇太子派と、現国王派が対立していてテロや暴動が相次いでいるらしい。」「そのリーシャ様がどうして英国に? 観光なんてする暇がないでしょうに。」「さぁね。多分視察旅行か何かじゃないかな? リーシャ様は英国訪問の後、オーストリアもご訪問されるようだし。」「オーストリアに?」 同じ頃ウィーンでは、ルドルフが異国で静養している妻・瑞姫のことを思いながら執務室の椅子に座り、頬杖をついていた。彼の前には未決済の書類が溜まっていたが、今日はそれらを処理する気分にはルドルフは到底なれなかった。半年後に帰って来ると言っていたが、いつも隣に居た妻が急に居なくなってしまい、彼女が英国へと発って数日も経たぬ内に、ルドルフは全てを放り出して英国へ行きたいと思い始めていた。(ミズキ・・)机の上に置かれてある写真立てを見つめながら、ルドルフはまた大きな溜息を吐いた。そこには教会の前で幸せそうに微笑む瑞姫とルドルフが映っていた。彼女が英国へと発つ前、彼女に酷い言葉を吐いてしまった。瑞姫が居ない世界なんて耐えられない。今すぐに英国へ行こう―ルドルフは椅子から立ち上がり執務室から出ようとした時、ロシェクが入って来た。「ロシェク、どうした?」「ルドルフ様、ラシャール王国のリーシャ様がご到着されました。」「リーシャ様が?」確かラシャール王国の一行がウィーンに到着するのは明日ではなかっただろうか。恐らく向こうにも事情があり、予定を早めたのだろう。「解った、すぐ行く。」執務室を出たルドルフは、こつこつと靴音を響かせながら異国の来賓を出迎える為に王宮から出た。にほんブログ村
2011年01月28日
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ウィーンで女官達がルドルフと遼太郎の誕生パーティーの準備に追われている頃、瑞姫はイギリスの湖北地方にある別荘で静養していた。その別荘は瑞姫やルドルフ、ハプスブルク家名義ではなく、瑞姫の主治医である龍之助が所有するものであった。龍之助もその父親も医師であったが、母親の実家が英国貴族だった為、龍之助は母親の別荘を莫大な遺産とともに数年前に相続したのだった。「瑞姫さん、コーヒーは?」「飲みたいわ。」瑞姫はロッキングチェアに座りながら、時折夏の陽光を受けて煌めく湖面を眺めていた。「本当に、ルドルフさんと別居するつもりなのかい?」「ええ。別に一生って訳じゃないのよ。半年間だけよ。」瑞姫はそう言うと、龍之助を見た。いつも人当たりが良い笑顔を浮かべている彼が、今日に限っては気難しい顔をしていた。「瑞姫さん、母親としての君の気持ちは良く解るよ。たとえ父親が犯罪者でも、この子を産みたいという気持ちが。でもね瑞姫さん・・」「ルドルフ様がわたしの事を愛してくれているのは解ります。ルドルフ様はわたしにこの子を産んで欲しくないっていうことくらい解ります。だってこの子の父親は・・」瑞姫はそっと下腹を撫でた。「龍之助さん、わたしの母は、わたしを身籠った時、どんな反応をしましたか?」「黒羽根様は君を身籠った時、随分と迷っていらしたよ。何せまだ彼女は若くて、その上実家から勘当されて頼る者もいなかったし、君の父親は多忙な人で殆ど家に居なかったからね。姑や小姑にも色々と嫌味を言われたらしいよ。駆け落ち同然に結婚したから、歓迎されないというのは解っていたのかもしれないけどね。黒羽根様は君を堕胎することを決意して、病院に訪ねてきたんだ。」「それで?」龍之助はコーヒーが入ったマグカップを持ち、瑞姫の前に置いてあるロッキングチェアに腰掛けて話を続けた。「父に本当は産みたいけれど周りがそれを許してくれないから堕ろすしかないと言った黒羽根様に、超音波エコーを見せ、君の心音を聞かせたんだ。それまで母親としての実感が湧かなかった彼女は、画面の中で元気に動いている君を見て、産む決意をしたらしい。彼女は結局、君を産んでその顔を見られなかったけど。瑞姫さん、きっと黒羽根様は自分が死ぬとわかっていても君を産みたかったんだよ。今の君のように。」「そうですか・・」瑞姫は溜息を吐いてコーヒーを一口飲んだ。「わたしは、今まで自分がどうして生まれてきたのかが解らなかったんです。母無し子として生まれて、家族にも疎外されて生きてきたから、どうしても生きる意味が解りませんでした。」「ルドルフさんと出逢って、彼と愛し合い夫婦になってから変わったんだろう?」「ええ。あの人と夫婦になれて良かったと・・母親になって良かったと思ったんです。」「そう。きっとルドルフさんは、君と同じ事を思っているよ。」夏の陽射しの中で、瑞姫がどんな表情を浮かべているのか龍之助には分からなかったが、きっと彼女は泣いているのだと彼は思った。「少し暑くなったんで、湖で水浴びしていきます。」「そうか。余り長居しては駄目だよ。妊婦にとって冷えは大敵だからね。」「はい。」ロッキングチェアから下りた瑞姫は、身体を拭くタオルと着替えが入ったスポーツバッグのストラップを握ると、別荘から出て行き湖へと向かった。 英国の夏は内陸部のウィーンとは違い、若干暑さが和らいでいるものの、熱波の影響を受けている所為か、瑞姫が湖へと着いた時には全身から汗が噴き出し、それが纏わりついて気持ちが悪かった。素早く服を脱いで裸になった彼女は、人気のない湖の中へと入った。冷たい水が全身の神経を研ぎ澄まし、自分の内に宿る妖気さえも浄化していくのではないかと瑞姫がそう思いながら裸で泳いでいると、近くの草叢の中から物音がした。(何だろう?)草叢に動物でも潜んでいるのかと思ったら、そこが一段と大きく揺れて1人の長身の青年が湖畔に現れた。にほんブログ村
2011年01月28日
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「ルドルフ様、お話があります。」瑞姫はそう言うと、ルドルフを見た。「どうしても産むつもりなのか? 父親は・・お前を凌辱した男だぞ?」「それでも、わたしは産みたいんです。」瑞姫はそっと下腹を擦った。その姿を見ていると、ルドルフは何故か苛々した。遼太郎と蓉を身籠っていた時、彼女がそうしている姿を見ていても、そんなことはなかったのに。それは自分の子だからだろう。だが彼女はあの男を―凌辱した男の子を身籠り、愛おしそうに下腹を擦っている。「わたしは、お前の事を愛している。だが、あいつを許す訳にはいかない。そして、その男の血を受け継いだ子どももな。」蒼い瞳で射るように瑞姫を見つめながら、ルドルフは下腹を擦っている瑞姫の手を掴んだ。「どうしても産みたいというのなら、わたしとその子、どちらかを選べ。」「そんな・・」突然夫に突き付けられた残酷な選択肢に、瑞姫は動揺した。「それは・・離婚しろということですか、あなたと?」「ああ。お前は腹の子とともに何処へでも行けばいい。」「そんな・・子ども達は、子ども達はどうすれば・・」「それはわたしが決める。息子達はわたしの・・ハプスブルクの血をひいているからな。」「嫌です、どちらかを選ぶだなんて・・」「ではわたしにその子どもを受け入れろというのか!?」ルドルフの怒鳴り声で、空気が振動した。「リュウから今回の出産は命に関わるものだと知っていながら、どうして罪の子を・・穢れた血の子を産もうとする?」「では、わたしが産まれなければ良かったと言いたいんですか?」俯いていた瑞姫はそう言って顔を上げ、ルドルフを睨んだ。「わたしは母の命と引き換えに生まれました。半妖という忌まわしく穢れた血を受け継いで。そんなわたしの存在を、あなたは否定するというんですか?」「違う、そうじゃない。わたしはお前を愛しているから・・」「いいです。」瑞姫はそう言うと、ソファから立ち上がりルドルフに背を向けた。「何処へ行く?」「暫く距離を置きましょう、ルドルフ様。今までわたし達は近過ぎたんです、距離が。その所為で互いのことが見えなくなっている。」「待て、ミズキ!」瑞姫を抱き締めようとした手は、虚空を彷徨った。 その夜、瑞姫は自分の部屋で荷物を纏めていた。暫くルドルフと距離を置き、腹の子を産むかどうかを考えなければ。いつでもここから出て行く事が出来るように、瑞姫は荷物を纏めたスーツケースをクローゼットの中に仕舞うと、寝台に寝転がって眠りに就いた。(ルドルフ様・・わたしはあなたの事を愛しています。それは今でも変わりません。けれど、けれど・・) 遼太郎とルドルフの誕生日を数日後に控え、王宮内はそれを祝うパーティーの準備で忙しくなった。しかしその準備に、ルドルフの最愛の妻である瑞姫が加わる事はなかった。「皇太子妃様は体調を崩されておいでだそうよ。」「もしかして、ご懐妊かしら?」「有り得るわね。だって皇太子様とは仲睦まじい様子でいらっしゃるし・・それに皇太子妃様の喘ぎ声が皇太子様のお部屋から毎晩のように聞こえてくるんですってよ。」「皇太子様はシュティファニー様とご結婚なさっていた時よりも少し性格が円くなったとは思わなくて?」「そりゃぁね、皇太子妃様とシュティファニー様は全然違うから。皇太子妃様は何かと皇太子様をお支えになっておられるし、皇太子様も皇太子妃様のことを慈しんでいらっしゃって、お子様も可愛がっていらっしゃるようだし・・」女官達の話を聞きながら、ルドルフは溜息を吐いた。(仲睦まじい、か・・昨夜まではそうだった。だが今は違う。)仲睦まじい皇太子妃夫妻との間に亀裂が入ったことなど、周囲はまだ知る由もなかった。にほんブログ村
2011年01月28日
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「陛下、この男が王宮に入ってこようとしていたので・・」ハプスブルク帝国皇帝・フランツ=カール=ヨーゼフは右手を上げて警備兵の言葉を遮った。「君は?」「わたしは医師のリュウノスケ=アオギリと申します。先ほど皇太子様からお電話を頂き、皇太子妃様を診察に参りました。」「ミズキの知り合いか?」「はい。皇太子妃様の主治医として、彼女に物心ついた時よりお傍に仕えておりました。」「そうか。入りなさい。」フランツはそう言うと、青年を見た。「リュウ、来てくれたのか。」皇太子妃夫妻の部屋があるスイス宮へと向かっていた時、龍之助の元にルドルフが駆け寄って来た。「お久しぶりです、皇太子様。皇太子妃様は?」「わたしの部屋で休んでいるんだが・・どうも様子がおかしいんだ。」「わかりました。」龍之助がルドルフとともに彼の寝室に入ると、そこには瑞姫が寝台の上で苦しそうに呻いていた。「いつからこのようなご様子に?」「朝食の席でシュティファニーが訪ねて来て・・というよりも押し掛けてきた後に、ミズキが突然頭を押さえて床に蹲って・・」「失礼。」龍之助は鞄から聴診器を取り出すと、瑞姫のワンピースの胸元を開いてそれを当てた。「その時の状況を詳しく話して・・」龍之助がルドルフに向き直ろうとした時、瑞姫の全身からまた黒い靄が出て来た。「こ、これは?」「・・恐らく、今まで瑞姫さんの内側に抑え込まれていた妖気だろう。」「妖気はミズキの母親によって完全に封じられたんじゃなかったのか?」「それはそうだけど、半永久的に封じ込める事は出来ないよ。子どもを産んで妖気が少し弱まったけれど、多分サラエボで起きた事に原因が・・」「龍之助・・先生?」瑞姫が苦しそうに息を吐きながら、ゆっくりと目を開けて龍之助の手を握った。「瑞姫さん、久しぶりだね。大丈夫?」「ええ・・少しマシになりました。」「これから注射するからね。」 龍之助とルドルフは寝室を出て、ソファに座った。「ミズキはあのままなのか?」「いいや。妖気が出てきたのは、サラエボで起きた事が原因だと言っただろう? そこで瑞姫さんはあの男に酷い事をされたんじゃないかい?」「ああ。その犯人は未だ捕まらない。出来る事なら、わたしがあいつを八つ裂きにしてやりたいくらいだ!」ルドルフはそう言って拳を固めた。「さっき瑞姫さんに触れた時、彼女の子宮に微かに胎動を感じたんだ。」「彼女があいつの子を妊娠していると?」ルドルフの言葉に、龍之助は静かに頷いた。「1人じゃなくて、双子だ。恐らく瑞姫さんにとって今回の出産は命を落としかねないものとなるよ。」「ミズキにはわたしから話をして、腹の子を・・」「こういう時は、第三者の僕が話した方がいい。」龍之助はルドルフに背を向けると、寝室に入った。「この子を堕ろせとおっしゃるんですか?」龍之助から双子の妊娠を聞かされ、瑞姫はそう言って彼を見た。「そうしなければ、あなたの命は助かりません。」「わたしは、この子達を産みたいんです。」瑞姫は下腹を擦った。「本気で言っているのか? その子達の父親は・・」「父親が誰であろうと、わたしの子です。わたしは・・」「産む事はわたしが許さない。」寝室に入ったルドルフが、そう言って瑞姫を睨むと、彼女は俯いた。「ミズキ、お前を失いたくないんだ。」「ルドルフ様・・」瑞姫はルドルフに抱き締められながらも、黒い靄に精神が侵されてゆく感覚がして恐怖に震えた。にほんブログ村
2011年01月28日
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「ミズキ、どうした!?」 突然両手で頭を抱えて床に蹲った瑞姫を見たルドルフが慌てて彼女の方へと駆け寄ろうとすると、彼女はゆっくりと黄金色の瞳でルドルフを見た。「来ないで!」「ミズキ?」ルドルフが瑞姫に触れようとした時、彼女は額から脂汗を流しながら啜り泣いた。「わたしは・・そんな事したくない・・」「ミズキ、大丈夫か!?」(何かがおかしい・・一体何が・・)「取り敢えず医者を・・」ルドルフが瑞姫から離れようとした時、彼女がゆっくりと顔を上げたかと思うと、ルドルフの向う脛を蹴り、彼の上に馬乗りになった。「ミズキ?」瑞姫の全身から黒い靄のようなものが出ていることにルドルフは気づいた。「食わせろ・・お前の肝を・・」瑞姫が発した声は、彼女のものではなかった。「お前は誰だ!? ミズキに何をしようとしている!?」瑞姫は黄金色の瞳をカッと見開いたかと思うと、美しく纏められていた彼女の黒髪が解け、それはやがて白銀へと変わった。「寄越せ・・」ルドルフは瑞姫を退かそうとしたが、女とも思えぬ強い力で身体を押さえつけられ、ビクともしなかった。「ミズキ、目を覚ませ!」ルドルフは瑞姫の頬を平手で思い切り張った。「ルドルフ・・様・・?」瑞姫はルドルフを信じられないような顔で見た。その瞳は禍々しい黄金色から、優しい黒へと戻っていた。白銀の髪も、元の色へと戻っている。「ミズキ、大丈夫か?」「ええ・・」瑞姫はそう言うと、ルドルフの胸へと倒れ込んだ。「ミズキ、しっかりしろ、ミズキ!」ルドルフは瑞姫を抱き上げると、ダイニングを飛び出した。 寝台に横たえると、瑞姫は寝息を立ててゆっくりと眠り始めた。ルドルフが優しく彼女の頬を擦ると、瑞姫は低く呻いた。(さっき彼女に何があったんだ?)ルドルフは携帯をポケットから取り出すと、瑞姫の主治医である龍之助の番号に掛けた。『もしもし?』「リュウか? ミズキの様子が急におかしくなった。」『瑞姫さんの様子が? 丁度学会でウィーンに滞在していてね、すぐ行くよ。』「済まない。」通話ボタンを押し、携帯のフラップを閉じたルドルフは、寝台に横たわる妻の手を握った。「ミズキ、リュウが来てくれるから、大丈夫だ。」ルドルフの言葉に、瑞姫は微かに頷いたように見えた。 数分後、蒼霧病院院長の龍之助は、宿泊先のホテルを出てミヒャエル門の前に立った。先程のルドルフの様子からは、切迫した様子が感じられた。瑞姫とは彼女がオーストリアへと旅立つ時に見送りに行って以来、約1年半ぶりの再会となるが、それを喜んでもいられない状況のようだ。「さてと、行くか。」龍之助は仕事用具が詰まった愛用の鞄を持ち直すと、ミヒャエル門の中へと入ろうとした。「失礼、こちらに何かご用ですか?」警備兵がいかにも爆発物を隠しているかのような大きい鞄を持った東洋人が王宮の中へと入ろうとしていることに気づき、彼の前に立ち塞がった。「すいません、わたしは皇太子妃様の知人で、医者です。皇太子妃様を診察したいので、そこを通して貰えないでしょうか?」龍之助がそう言って笑みを浮かべても、警備兵の表情は変わらなかった。(困ったなぁ、こっちは急いでいるというのに・・)「どうした、何かあったのか?」「へ、陛下!」突然事で訳が判らない龍之助だったが、慌てふためいた警備兵の背後に、1人の老人が立っていて、彼が只者ではないことに龍之助は気づいた。にほんブログ村
2011年01月28日
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シリルはゴシップ誌の表紙を暫く眺めた後、それを開いた。 表紙をめくると、そこには世界中のセレブ達の結婚や醜聞を取りあげた様々な記事が書かれており、例の記事はページの中ほどにあった。 その記事にはシュティファニーがいかにウィーン宮廷で高慢で嫌な女だったかが書き連ねてあり、いくら政略結婚とはいえルドルフが彼女と結婚したのは間違いだったと結ばれてあった。(この記事をシュティファニー様が読まれたら、怒り狂うに違いないな・・)シリルは溜息を吐きながら、ゴシップ誌をゴミ箱に捨てた。「ルドルフ、ここに書かれてあることは事実なのか?」朝食の席でフランツはゴシップ誌の記事をルドルフに見せた。「半分事実です。わたしはシュティファニーに新婚時代からうんざりしていました。」ルドルフはそう言ってコーヒーを飲むと、次の言葉を継いだ。「父上、わたしはシュティファニーと離婚して良かったと思っております。出来る事ならあなたから彼女との結婚を持ちかけられた時、ミズキと出逢っていれば良かった。」ルドルフの言葉に、フランツの眦が上がった。「シュティファニーとは、会うのか?」「いいえ。それよりも昨日の彼女がここでどんな事をしでかしたか、あなたもご存知でしょう?」「ああ。もう彼女はうちの人間ではない。」フランツがそう言葉を切った時、侍従がダイニングへと駆けこんで来た。「陛下、大変です! シュティファニー様が・・」「退きなさいよ!」侍従がフランツにシュティファニーが来たことを言い終わらない内に、彼はシュティファニーに突き飛ばされた。「よくもわたしを侮辱したわね!」怒りに滾った瞳で瑞姫を睨みつけたシュティファニーはそう叫ぶと、彼女へと突進した。「わたくしをどこまで不幸にするつもりなの!」シュティファニーが振り下ろした手は、瑞姫によって掴まれた。「シュティファニー様、お帰り下さい。」「嫌よ、帰らないわよ! エルジィを・・娘を取り返すまではここから梃子でも動くものですか!」口角泡を撒き散らし、怒りで顔を歪めながらシュティファニーは血走った目で娘の姿を探した。「エルジィ様はここにはいらっしゃいません。お引き取り下さい。」「嘘よ、お前が隠しているのでしょう?」「いいえ、隠してなどいませんわ。シュティファニー様、ひとつよろしいかしら?」こんな緊迫した空気の中でも、瑞姫は涼しい顔をしている。「何かしら?」「本当に心からエルジィ様を愛していらっしゃるのなら、もうわたくし達に構わないでいただきたいのです。実の娘を取り戻したい気持ちは解りますけれど、あなたがそうすればそうするほどエルジィ様はあなたから離れていきますわ。今わたくしがお話ししていること、お解りかしら?」瑞姫はそう言ってシュティファニーに笑ったが、その目は笑っていなかった。「な、なによ・・良い気になっているんじゃないわよ!」シュティファニーは少し怖じ気づきながらも瑞姫にそう怒鳴ると、彼女はふっと笑った。「良い気なんかなっておりませんわ。もうあなたとお話しすることはない、と申し上げているのです。」瑞姫はシュティファニーから漸く手を離すと、アルカイックスマイルを崩さずに彼女を見下ろした。「あなたももう解っていらっしゃるでしょう? もうここにご自分の居場所がないことを。」彼女はゆっくりと腰を屈めると、シュティファニーの耳元にこう囁いた。「わたくしに八つ裂きにされる前に、ここを出てゆくのね。」シュティファニーが恐怖で凍りついた目で瑞姫を見ると、いつも慈愛の光を湛えていた黒い瞳の代わりに、黄金色の双眸が冷たい光を放っていた。彼女は何も言わず、ダイニングから出て行った。「もう彼女はここには来ないと思います。」 瑞姫がそう言ってルドルフを見ようとした時、突然頭が割れんばかりの激痛に襲われ、彼女は床に蹲った。にほんブログ村
2011年01月27日
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「お母様、変なおばさんがわたしに抱きついて来た!」エルジィは恐怖に顔を歪ませながら、瑞姫に抱きついた。「エルジィ様、あの人はエルジィ様を産んだお母様ですよ。」瑞姫はエルジィを優しく宥めると、そう言ってシュティファニーを見た。彼女は実の娘に拒絶されたショックの余り、呆然と立ち尽くしていた。「あんな人、お母様じゃないもん!」エルジィはそう叫ぶと、瑞姫から離れてシュティファニーを睨みつけた。「もう帰ってよ、おばさん! お母様をこれ以上いじめたら許さないんだから!」「エ、エルジィ・・」シュティファニーが一歩エルジィに近づこうとすると、エルジィはルドルフの後ろに隠れた。「わたしに二度と触らないで!」「あなたね? あなたがエルジィに変な事をこの女と一緒に吹き込んだのね? どこまでわたくしを不幸にすれば気が済む訳!?」シュティファニーはそう言ってルドルフに殴りかかろうとしたが、彼はシュティファニーの腕を掴んだ。「シュティファニー、もうここにはお前の居場所はない。それが解ったなら新しい家族のところへ帰れ。」「エルジィ、お母様と一緒に帰るのよ! お母様のこと愛しているわよね? 一緒に帰りましょう!」シュティファニーはエルジィを何としてでも自分の元に連れて行こうとしたが、彼女はルドルフにしがみついたまま梃子でもその場から動こうとしなかった。「来ないで~!」(どうして・・どうしてなの、エルジィ?)腹を痛めて産んだたった一人の娘に拒絶されたショックで、シュティファニーは正気を失いかけていた。(あの女の所為だわ・・あの女が・・)シュティファニーは瑞姫にゆっくりと近づくと、彼女に馬乗りになって首を絞めた。「あなたの所為よ、あなたの所為で!」エルジィの泣き叫ぶ声と、ルドルフや警備兵達の怒号が廊下に響き渡り、女官や侍従達が騒ぎを聞きつけて彼らの元へと駆けつけてきた。「どうしてあなたが幸せになるのよ! 一生許さないんだからね~!」警備兵に引き摺られながらも、シュティファニーは瑞姫に向かって恨み言を吐いた。瑞姫は荒い息をしながら、先ほど彼女に首を絞められた箇所を触った。「大丈夫か?」「ええ。エルジィ様は?」「エルジィは大丈夫だ。さ、手当てをするから来い。」「は、はい・・」ルドルフに連れられ、瑞姫は彼の執務室へと入った。「酷いな・・手形がはっきりと残っている。」ルドルフは瑞姫の首に残るシュティファニーの手形を見ながら、溜息を吐いた。「シュティファニーは正気じゃない。エルジィが殺されるような事になる前に、彼女に接近禁止令を出さないと。」「ルドルフ様、シュティファニー様は再婚なさったんですよね?」「ああ。その所為で王女の身分を剥奪されたというのに、あいつはまだ自分が王女であると信じて疑わないし、エルジィは自分を愛していると思い込み隙あらばわたしから奪おうとする。全く、執念深い女だ。」 その日の夕食の席で、フランツは瑞姫の首に赤黒い痣があるのを見つけた。「ミズキ、その痣はどうした?」「シュティファニーが今日、ここを訪ねて来ました。エルジィを自分に渡せと迫ったので、拒否したらいきなりミズキに襲い掛かって来て・・」「なんということだ、シュティファニーとはもうとっくに縁が切れているというのに・・」フランツは溜息を吐くと、ワインを飲んだ。「父上、シュティファニーとは必ず決着を着けます。」「そうか。なるべく穏便に済ませることだな。」翌日、シリルは本屋の前で一冊のゴシップ誌を発見し、それを手に取った。その表紙にはルドルフと瑞姫の仲睦まじい写真と、恨めしそうな顔をしたシュティファニーが映っていた。タイトルには、こんなフレーズが打たれていた。“良妻と悪妻~皇太子妃ミズキとシュティファニー~”にほんブログ村
2011年01月27日
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ルドルフが執務室で仕事を済ませ、シュティファニーが待っている部屋へと向かうと、憮然とした表情を浮かべた彼女がルドルフの姿を見つけるなり、ソファから立ち上がった。「あなた、エルジィをこちらで引き取らせてくださいな。」「今更何を言う、シュティファニー。お前とはもう離婚して、もう夫婦ではなくなった筈だ。それに、エルジィはお前の事を忘れている。」「嘘よ、そんなの嘘に決まっているわ! あの女―ミズキが、エルジィに変な事を吹き込んでいるのよ!」シュティファニーはそう一方的にルドルフに捲し立てながら、元から醜い顔を更に醜く歪めた。「あなたはわたくしからエルジィを奪うつもりなの? わたくしはあの子を産む時に苦しんだのに、それなのにあの子がわたくしを忘れるなんて、許さない!」「いい加減にしろ、シュティファニー。お前がエルジィを産んでくれたことは感謝している。だが、お前との結婚は間違いだった。」ルドルフはそう言うと、これ以上シュティファニーと同じ空気を吸うのが耐えられなくなり、部屋から出ようとした。「間違いだったですって? あなたがわたくしを傷つけたのよ! わたくしはあなたの事を愛していたのに、あなたはちっともわたくしの事を愛して下さらなかった!」「愛なんて最初から存在しなかった。わたしたちの意志よりも、お前の父親と父上が勝手に決めた結婚だったんだ。」冷たい光を宿した蒼い瞳でシュティファニーを見ながらルドルフはそう言うと、彼女に背を向けて部屋から出て行った。「ルドルフ様。」部屋を出ると、瑞姫が心配そうにルドルフを見た。「シュティファニー様に、お会いしたのですね?」「ああ。全く話し合いにならなかったよ。あいつはわたしを愛していたのにちっとも自分を愛してくれなかった、エルジィまで取りあげてと、恨み言ばかり・・」ルドルフの言葉を聞き、瑞姫は溜息を吐いた。「ルドルフ様、わたしシュティファニー様とお会いになりました。」ルドルフは驚愕の表情を浮かべながら、瑞姫を見た。「いつ、あいつと会った?」「昨年、プラハ城で。あなたが気分が優れずに休んでいた時、シュティファニー様が突然怒鳴りこんで来たんです。」「何もされなかったか?」「ええ。わたしが毅然な態度を取って彼女を追い返しましたから。ルドルフ様、実は・・」瑞姫がルドルフに次の言葉を継ごうとした時、ドアが勢いよく開いたかと思うとシュティファニーが彼女に飛びかかって来た。「この泥棒猫、お前がわたくしの幸せを壊したのよ!」彼女は瑞姫の髪を掴むと、激しく彼女を打擲した。「シュティファニー、彼女から離れろ!」ルドルフは瑞姫とシュティファニーとの間に割って入り、彼女を乱暴に突き飛ばした。「早くこの女を摘みだせ!」「何するのよ、離しなさいよ! わたしはベルギー王女なのよ、こんな事をしてタダで許されると思っているの!?」金切り声を上げながらシュティファニーは駆けつけて来た警備兵の頬を殴ったりしていた。「大丈夫か、ミズキ?」「ええ。」瑞姫はよろよろと立ち上がったが、シュティファニーに打たれた頬はみみず腫れになっていた。「お母様、どうしたの?」騒ぎを聞きつけたエルジィが、心配そうに瑞姫とルドルフ、そして警備兵に取り押さえられながらも暴れているシュティファニーを見た。「エルジィ、何でもないよ。」ルドルフはそう言ってエルジィを自分の部屋に連れて行こうとした時、シュティファニーが彼女に抱きついた。「エルジィ、お母様よ! こんなに大きくなって・・わたしの可愛いエルジィ!」「離して、わたしに触らないで!」エルジィは悲鳴を上げて身を捩りシュティファニーの腕から逃れると、瑞姫の方へと駆け寄った。にほんブログ村
2011年01月27日
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ハプスブルク帝国初の事業仕分けは、大成功で終わり、これまで国民の血税を無駄遣いして甘い汁を吸っていた閣僚たちを宮廷から追い出せた。「これでやっと一段落出来るな。」ルドルフは溜息を吐きながら、寝台の淵に腰を下ろした。「ええ、お疲れ様でした。」瑞姫はそう言うと、夫に水が入ったグラスを手渡した。「今年の夏は夜になっても暑いな。まぁ、湿気がない分マシだが。」ルドルフは水を一気に飲み干すと、瑞姫を見た。「何だかあっという間でしたね。もう1年の半分が過ぎ去るだなんて・・もう気づいたらわたしはおばあちゃんになるのかしら?」「そんな冗談を言うもんじゃない。わたしはお前が年を取ろうとも愛しているよ。もっとも、わたしもその頃はお爺さんだけどね。」ルドルフは瑞姫を抱き寄せると、彼女の頬にキスし、空いた手でそっと彼女の下腹を撫でた。「まだ、妊娠の兆候はないのか?」「数日前にしてすぐに、なんてありえませんよ。ねぇルドルフ様、どうしてそんなに子どもが欲しいんですか?」「お前を愛しているからに決まっているだろう。それに、リョータロウとヨウが産まれて、初めて父親としての自覚が持てた気がするんだ。家族に囲まれて過ごす毎日が、こんなに幸せだったなんて初めて実感した。」「ルドルフ様・・」ルドルフの言葉を聞き、瑞姫の胸がずきりと痛んだ。「わたしはお前に出逢うまでは、孤独だった。父上は多忙な人だし、あの人は自分勝手に生きている人だった。祖母は高慢でやたら王族としての誇りと権力ばかりを振りかざしていた女だったし、シュティファニーも彼女と同じだった。シュティファニーとの結婚が決まった時、わたしは彼女と結婚しない方が良かったのかもしれない。」「そんな事、おっしゃらないでください。もしシュティファニー様と結婚なさっていなければ、エルジィ様はお生まれにならなかったではありませんか?」瑞姫はそう言うと、ルドルフに抱きついた。「エルジィは容姿だけでなく、性格もわたしに似てくれて助かったよ。もしシュティファニーのように王族としての誇りに拘り、身分で人間の価値を決める女に育っていくだなんて、考えるだけでもぞっとする。」瑞姫はルドルフの話を聞きながら、シュティファニーと会ったことは彼に話さなくてよかったと思った。 シュティファニーとルドルフの結婚が不幸な結果になったことは、周知の事実だ。ベルギー王国王女としての誇りと矜持に拘り、ハプスブルク帝国という大国をやがて統べる美貌の皇子と結婚した彼女だったが、その夫とは心が通わないまま、自分が産んだ唯一人の娘も取りあげられ、挙句の果てには何よりも大事にしていた王女の地位まで剥奪された彼女が、何の後ろ盾もなく、王族でもない瑞姫が自分の後釜にすわるなど、耐え難いものだったに違いない。そういえば、エルジィから一度もシュティファニーを恋しがったりするような事を聞いていない事に、瑞姫は気づいた。「エルジィ様は、シュティファニー様のことどうお思いになられているのでしょう?」「さぁな。わたしにとって悪妻だった女でも、エルジィにとっては母親だ。ミズキ、お前はどう思っているんだ?」「エルジィ様のことを、ですか?」「そうだ。血が繋がらない娘と血が繋がっている息子を育てるのは、骨が折れるだろう?」「いいえ、ちっとも。エルジィ様は実の母親のようにわたしを慕ってくれてますし、何よりも兄弟が出来て嬉しいようで、息子達と良く遊んでくれています。」「そうか・・ならば、シュティファニーとわたしが結婚して少し良かったと思えるようになったかな・・」ルドルフはそう言うと、下腹を撫でていた手をキャミソールの裾の中に入れた。瑞姫はゆっくりと夫に身を委ねながら、彼とシュティファニーとの間に深い溝と蟠りがあることに気づいた。そしてそれは、簡単に埋まるものではないと知った。「皇太子様、シュティファニー様がお見えになりました。」「シュティファニーが?」ルドルフが執務室で仕事をしていると、ロシェクの口からシュティファニーの名が出た途端、彼は顔を顰(しか)めた。にほんブログ村
2011年01月27日
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「小父様、父を巻き込んで何故こんな事をなさったのですか!? 移植待ちの患者さんを後回しにして、隼君を優先的にこの病院に入れるようにしただなんて・・」「まぁ、落ち着き給え。隼は早瀬家の待望の跡継ぎだ。彼の病気を治したいと思うのは祖父として当然のことだろう?」「そうでしょうか? あなたは可愛い孫の為というよりも、家の事しか頭にないのでは?」シリルはそう言って聡一郎を見た。「あなた方の我が儘に付き合う程、わたし達は暇ではありません。ソウイチロウさん、カホコさんは何処に?」「彼女なら、隼の病室だ。」「行きましょうか。」「ああ。」瑞姫達が隼の病室に入ると、そこには全身を管で繋がれ、生気のない目で天井を見つめている男児がベッドに横たわり、その小さな手を香帆子が涙を流しながら握っていた。「隼、ごめんね・・丈夫に産んであげられなくてごめんね・・」香帆子はそう何度も呟きながら、苦しそうに息をする息子を見た。ルドルフは隼を驚愕の表情を浮かべながら見ていた。心臓病を患っていると聞いていたが、こんなに酷い状態だとは知らなかった。「皇太子様、来てくださったんですね。」香帆子がゆっくりと俯いていた顔を上げ、泣き腫らした目でルドルフと瑞姫を見た。「この子は、何歳になるの?」「2歳になります・・でも、来年3歳の誕生日を迎えられるかどうか解らないって・・」香帆子はそう言うと、嗚咽を漏らした。瑞姫はそっと、彼女の肩に触れた。「わたしが代わってやりたい・・どうしてこの子だけがこんなに苦しまなければならないの!」 病院からの帰り道、瑞姫はやせ細った隼の姿が何度も脳裡に浮かんだ。「どうした、ミズキ?」「あの子の為に、わたし達に何かできる事はないでしょうか?」「わからないな・・」ルドルフはそう言って溜息を吐いた。「お父様、お母様、お帰りなさい!」リムジンから降りたルドルフと瑞姫の姿を見つけたエルジィと遼太郎が元気良く彼らの方へと駆けてきた。「ただいま、エルジィ、遼太郎。」「あのねお父様、今日は遼太郎と追いかけっこしたのよ!」「そうかい、楽しかったかい?」「うん!」エルジィはルドルフに抱っこされ、笑顔を浮かべた。「ててうえ、りょうもだっこ~」「はいはい、わかったよ。リョータロウは甘えん坊さんだなぁ。」ルドルフはそう言って笑いながらも、遼太郎を抱っこすると、彼はきゃっきゃっと笑いながらルドルフの髪を引っ張った。そんな光景を傍で見ながら、瑞姫は香帆子が今までどんな思いでこの2年間を過ごしてきたのだろうかと思った。今この瞬間にも、隼は一分一秒病と闘っていると思うと、瑞姫は胸が痛んだ。「かあさま、どこかいたいの?」我に返ると、遼太郎が怪訝そうな顔をして自分を見ていた。「遼太郎、もし目の前に困っている人が居たらどうする?」「たすけてあげる。みてみぬふりしちゃだめだってててうえがおしえてくれたもん。」「そう、そうよね・・」 数日後、ハプスブルク帝国初の試みとなる市民公開型の事業仕分けが行われた。瑞姫はルドルフとともに、手際良く無駄な事業を廃止、または経費削減していった。「では次に・・」ルドルフが今日最後となる事業名を見て、思わず書類を捲る手が止まった。「ルドルフ様?」「いや、何でもない・・」ルドルフはそう言うと、この事業の担当者を見つめた。にほんブログ村
2011年01月26日
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「そこへお掛けなさい。」シリルはそう言って、侵入してきた男に微笑むと、彼の顔が強張った。「あなたが何故こちらに来たのか、もうわたしは知っておりますよ。」シリルはさっと夜着のポケットからUSBメモリを取り出した。男がそれを奪おうとした時、シリルはさっとUSBメモリをポケットに入れた。「あなたはどなたです?」「お、俺は頼まれただけだ! お願いだから見逃してくれ!」「そうですか。あなたのお話、詳しく聞かせてくださいませんか?」シリルの琥珀色の瞳が、月光を受けてきらりと光った。 翌朝、瑞姫はルドルフに抱かれたまま目を開けた。「ルドルフ様・・」「ん・・おはよう、ミズキ。腰は大丈夫か?」ルドルフはそう言って瑞姫の華奢な腰を擦った。「ええ、大丈夫です。」瑞姫は頬を赤く染めながら、ルドルフを見た。「昨夜はとても激しくしたからな。お前がいけないんだぞ、わたしを焦らすから。」「そんな・・」ルドルフの手が瑞姫の腰から夜着の裾を割る感触がした。「あの、またするつもりですか?」「当たり前だろう。」「こんな明るい内から・・」瑞姫は身を捩ってルドルフから逃れようとしたが、彼は彼女の腰を掴んで離さない。やがて彼の指が瑞姫の蜜壺へと入っていった。「あぁ!」瑞姫が甘い喘ぎを漏らした時、誰かがこの部屋へと向かってくる気配がした。「良い所で邪魔が入ったな。」ルドルフが舌打ちした時、執務室のドアがノックされる音がした。「皇太子様、シュテファンの司教様がお会いしたいとのことです。」「わかった。」 数分後、シリルは黒服の男を連れてルドルフと瑞姫の前に立った。「ルドルフ様、昨夜うちにこんな鼠が入り込んできました。狙いはやはりこれでした。」シリルはそう言うと、ルドルフから預けられていたUSBメモリを彼に渡した。「御苦労さまだったな、シリル。そいつはやはり、ソウイチロウの部下か?」「ええ、そのようです。それにソウイチロウの嫁・・たしかカホコさんと言いましたっけ? 彼女も妙な動きをしているらしいので、その理由も彼から話して貰いましたよ。」シリルはちらりと黒服の男を見ると、彼は怯えた顔をして俯いた。「そうか。ではわたし達もゆっくりと話を聞くとしよう。」「だそうです。さぁ、もう一度この方達にわたしに話した事をお伝えしなさい。」口調こそ穏やかなものの、シリルの目は笑っていなかった。「実は・・」黒服の男は観念したかのように、ぼそぼそと話し始めた。「まさか、ソウイチロウがそこまで考えていたとはな。裏帳簿を作り、金を闇のブローカーに流していたとは・・」「全く、とんだ悪党ですよ。その悪党が日本警察のトップに居るというのですから、呆れたものです。」シリルはそう言うと、鞄の中からクリアケースファイルを取り出した。「それは?」「ソウイチロウの悪事に加担している男の情報です。」シリルからファイルを受け取り、中を見ると、そこには見覚えのある名前があった。「お父様・・?」ルドルフとともにファイルを覗きこんでいた瑞姫の目が、驚きで見開かれた。「まさか、お父様が・・」「ミズキ、大丈夫か?」「ええ・・」 朝食の後、瑞姫とルドルフ、シリルは、聡一郎の孫・隼が入院している病院へと向かった。「瑞姫さん、来てくれたんだね。」そう言って笑う聡一郎を、瑞姫は冷たい目で睨むと、彼にファイルを見せた。「小父様、これは一体どういうことですか?」「瑞姫さん、君はもう知ってしまったんだね。」聡一郎はふっと口元を歪めて笑った。にほんブログ村
2011年01月26日
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その夜、瑞姫はルドルフの寝室に呼ばれた。「ルドルフ様、瑞姫です。」「入れ。」寝室に入ると、そこには素肌にシャツ一枚しか羽織っていないルドルフが寝台の淵に腰掛けていた。「どうしたんです、そんな格好をなさって?」「暑くてな。それに・・」ルドルフはそっと寝台から立ち上がると、瑞姫を抱き締めた。「ここのところ最近忙しくて、夜の営みが無かっただろう?」「ル、ルドルフ様・・」瑞姫の頬が赤く染まった。「来月でリョータロウも2歳だ。そろそろ3人目が欲しくなった。」「でも・・」「前にも言っただろう? わたしはお前との子どもを何人でも欲しいと。お前は、違うのか?」「わたしも・・出来れば・・」「そうか。」ルドルフは瑞姫のキャミソールの裾を捲ると、パンティの上から瑞姫の秘所を触った。「こんなに濡れてるじゃないか。」「いやぁ、言わないで・・」ルドルフは瑞姫をそっと寝台に横たえると、キスの雨を彼女の全身に浴びせた。瑞姫はルドルフの腕の中で何度も絶頂に達した。「大丈夫か?」「ええ・・ひさしぶりでしたから・・」ルドルフは自分の隣で眠る瑞姫の髪を梳いた。「皇太子妃様、皇太子様。」ドアの向こうから、ロシェクの声が聞こえた。「どうした、ロシェク?」「あの・・どうしてもお二人にお会いしたいという方が・・」「こんな時間にか?」ルドルフはそう言って舌打ちすると、ガウンを羽織って寝台から降りた。瑞姫もそれに倣ってガウンを羽織った。「誰でしょうね、わたし達にお会いしたい方って?」「さぁな。」寝室を出た2人の前に立っていたのは、聡一郎の嫁・香帆子だった。「まぁ、あなたとはお会いしたくないと言ったではないの? それに、こんな時間に人を訪問なさるなんて余程の礼儀知らずだわ。」瑞姫はそう言うと、じろりと香帆子を睨んだ。「申し訳ありません、皇太子妃様。ですが、最後のお願いにこうしてわたくしが参りました。」「最後のお願いですって?」香帆子は瑞姫とルドルフの前で土下座した。「どうか、息子に会っていただけないでしょうか?」「あなたの息子に? 何故わたくし達が会わなくてはならないのかしら? その理由を述べてくれないこと?」「もうわたし達夫婦はあの子を育てる事が出来ません。ですから・・」「わたくしたちが、あなたの息子を養子にしろと? 真夜中に訪問してきただけでも非常識極まりないというのに、自分が産んだ子を捨てるですって? あなたはそれでも母親ですか?」瑞姫の刺々しい言葉を受けながら、香帆子は俯いた。「今日はもう遅いですからお帰り下さいな。それと、あなたのお義父様はこの事をご存知なのかしら?」「い、いいえ・・」「そう。ではあなたから聞いたお話をお義父様にしなければね。」瑞姫はそう言うと、香帆子に背を向けて寝室へと戻って行った。ルドルフも無言でその後を追った。香帆子は呆然と、閉ざされた扉の前で立ち尽くしていた。「全く、小父様といいあの人といい、何を考えているのやら・・」「自分を産んだ子を捨てるなんて、一体何を考えているんだろうな?」ルドルフは溜息を吐くと、瑞姫を抱き締めたまま眠りに就いた。 同じ頃、シリルは外から物音がしてベッドからゆっくりと起き上がった。「誰か、居るのですか?」リビングの電気をつけると、そこにはソファの傍に蹲っている男の姿があった。にほんブログ村
2011年01月26日
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「あなたは席を外して頂戴。」「は、はい・・」女官はちらりと聡一郎と瑞姫達を見ると、部屋から出て行った。「今更何の用ですか、小父様? 遼太郎の事はもう諦めて下さい。」瑞姫はそう言って聡一郎を睨むと、彼はにこりと彼女に微笑んだ。「そんな事、もう思っていないよ。それより、君も随分と偉くなったものだねぇ。」「どういう、意味ですか?」瑞姫の顔が一瞬険しくなった。「まさかルドルフさんがオーストリアの皇太子だなんて吃驚だよ。そこで皇太子妃となった瑞姫さんにお願いしたい事があるんだ。」聡一郎はそう言うと、1枚の写真を2人に見せた。そこには虚ろな目をした男児が映っていた。「この子は隼といってね、わたしの孫だよ。心臓に大きな病気を抱えてね、何度も手術を繰り返しているんだ。」「それは香帆子さんから聞きましたわ。」「オーストリアに心臓外科専門の病院があってね、そこで入院しているんだが、暫くの間上の孫を預かってくれないか?」「上の孫、というと?」瑞姫はそう言うと、聡一郎を見た。「香帆子さんと上の息子は暫く隼にかかりきりで、わたし達夫婦は孫の世話などする暇がないんだよ。」どこまで厚かましいのだろう、この男は―ルドルフはそう思いながら、聡一郎を睨みつけた。「お断りいたしますわ、小父様。そういう事は他の方にお頼み下さいな。」瑞姫はそう言うと、ドアを開けた。「お客様のお帰りです。」「は、はい・・」ドアの近くに控えていた女官が慌てて瑞姫の言葉を聞いて頭を下げた。「もうお会いしない事を祈りますわ、永遠に。」聡一郎に向けられた瑞姫の声は、氷のように冷たいものだった。「お義父様、どうでしたか?」「駄目だったよ。それにしても瑞姫さんがあんな冷たい目でわたしを見るなんて、思いもしなかったよ。」リムジンに乗り込みながら、聡一郎がそう言って嫁の香帆子を見た。「涼香はどうしている?」「あの子なら、準さんが見てくれていますわ。準さんは子ども好きなのに、子どもが出来ない身体なんてお気の毒ですわ。」香帆子は溜息を吐くと、聡一郎を見た。「それにしても、皇太子妃様とわたくし達は相性が悪いようですわね。」「ああ、最悪だよ。」 ルドルフと瑞姫達は国の変革に乗り出すことになり、フランツとともに閣議に出席する事になった。「事業仕分けをするだと?」「ええ。昨夜ざっと現在行われている事業リストを見ましたが、税金の無駄遣いだと思うようなものが多すぎます。」「それは良い考えだと思うが・・今からでは・・」「市民とともに、事業仕分けを行います。国民には自分達が納めた税金がどのように使われているのか知る権利がありますから。」ルドルフの言葉に、数日前瑞姫を非難していた閣僚たちの顔が蒼褪めた。「開催の日時は後日発表いたします。」「ルドルフ、最近お前の周りを嗅ぎまわっている連中が居ると聞くが、大丈夫なのか?」「大丈夫です、それにわたしとお話ししたい方の見当はついておりますから。」閣議室を出たルドルフは、王宮を出てシュテファンへと向かった。「ルドルフ様。」「彼はここに来なかったか?」「いいえ。それよりも、わたしに渡したいものとは?」ルドルフは上着のポケットの中から、USBメモリを取り出してシリルに手渡した。「これを誰にも見つからない場所に隠しておけ。敵はこれを狙ってやがてこちらに来るだろうからな。」「餌で誘き寄せるのですね・・解りました。」天使のような笑みを浮かべると、シリルはルドルフに背を向けて歩き出した。にほんブログ村
2011年01月25日
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「こうたいしさま、ご本読んで~!」「だめぇ、おれたちと遊ぶの~!」「やだ、ご本読んでもらうんだもんっ!」救護院に入るなり、ルドルフは数十人の子ども達に取り囲まれ、髪や服を引っ張られた。(な、なんなんだ・・)いつも遼太郎やエルジィとは公務の合間に遊んではいるが、こんな風に大勢の子ども達に囲まれたことはルドルフにとって初めてのことだった。「こうたいしさま、あそんで~!」「わかった、わかったから・・」戸惑いながらも、ルドルフは子ども達と遊び始めた。「おいかけっこしよう!」「こうたいしさまが鬼ね!」「ちょっ、勝手に決めるな!」だがルドルフの声は子ども達に届かず、彼らは勝手に走り出していた。 数十分後、彼は息も絶え絶えになりながらも子ども達を追い掛けていった。(全く、すばしっこい奴らめ・・)肩で息をするほどに体力を消耗しながら、ルドルフは再び走り出そうと呼吸を整えた。その時、少女の悲鳴が路地に響き渡った。(どうした?)悲鳴が聞こえた方へとルドルフが走ると、そこには黒服の男達が1人の少女を車の中へと押し込もうとしているところだった。「そこで何をしている!」ルドルフは男達を睨み付けると、銃口を彼らに向けた。「その子から手を離せ!」「チッ、行くぞ!」男達は少女を突き飛ばし、車に乗って路地から去っていった。「大丈夫か?」「は、はい・・」「ルドルフ様、どうかなさいましたか?」少女と共に救護院へと戻ったルドルフは、瑞姫に先程の事を話した。「そんな事が・・最近近辺で人攫いが増えていると聞きました。何でも身寄りのない子どもを攫っては売春組織に売りつけたりするとか・・」シリルはそう言ってルドルフの背後で震える少女を見た。「シリル様、こわかった・・」「もう大丈夫だよ。」シリルは少女の頭を撫でながら、ルドルフへと向き直った。「ルドルフ様、この子はわたしが。」「ああ、任せた。」救護院から出たルドルフと瑞姫は、王宮へと向かいながら溜息を吐いていた。「陛下とは昨日、何をお話ししたんですか?」「父上は、わたしに国政を任せると言ってくれた。わたしは漸く、あの人と親子らしいまともな会話をしたような気がしたよ。」「そうですか・・わたしは、今まで誰とも打ち解けませんでした。血が繋がっている実の父でさえも。」「会いたくないのか、実の父親に?」「別に。わたしは父を何とも思っていません。父にとってわたしは、愛した女を殺した憎い娘としか思っていませんから。今頃わたしがいなくなって嬉しいんでしょうね、きっと。」「ミズキ、そんな風に思うんじゃない・・」「わたしだって、思いたくはありませんよ。でもしょうがないじゃないですか。」 王宮へと戻った2人の元に、女官が駆けつけてきた。「皇太子妃様、皇太子様にお客様です。」「わたし達に、お客様?」怪訝そうな表情を浮かべながら女官を見つめる瑞姫に、彼女は慌てて客人を待たせてある部屋へと彼女達を案内した。『皇太子妃様と皇太子様がお見えになりました。』女官が部屋のドアを開けると、ソファに座っていた男性がゆっくりと立ち上がり、瑞姫達に微笑んだ。「久しぶりだね、瑞姫さん。」「お、小父様・・」そこに立っていたのは、もう二度と会わないだろうと瑞姫達が思っていた早瀬聡一郎、その人だった。にほんブログ村
2011年01月25日
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「ん・・」瑞姫が目を開けると、甲高い機械音が生きている事を彼女に知らせた。「ミズキ、大丈夫か?」ちらりと隣を見ると、そこにはルドルフが涙を流しながら立っていた。「ルドルフ様、あの子は・・」「あいつはわたしが倒した。喉渇いてないか?」「ええ、少し。それよりもルドルフ様、いつからわたしはここに?」「3日前からだ。幸い急所から逸れていたから、大事には至らなかったから良かったが・・」ルドルフはそう言葉を切ると、瑞姫の髪を梳いた。「わたしは一瞬、あのマイヤーリンクの夜の事を思い出してパニックになりかけた。またお前を失ってしまうのではないのかという恐怖に駆られて・・」「でもわたしは生きているでしょう?」瑞姫はルドルフに微笑むと、ゆっくりとベッドから起き上がった。「ルドルフ様、わたしとともにこの国を変えましょう。」「ああ。」瑞姫が暴漢に刺されたことは、すぐさま皇帝の耳にも入った。「ルドルフと話がしたい、ルドルフを呼べ。」フランツは、息子が何を思っているのかを知る必要があった。皇帝ではなく、父親として。「父上、失礼致します。」ルドルフがフランツの私室に入ると、彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。「ルドルフ、単刀直入に聞くが、お前はわたしの事をどう思っているんだ?」「父上の事は今も尊敬しておりますよ。皇帝として為すべき事を為され、この国をよりよいものにしようと努力なさっている父上が、わたしにとって誇りです。」「それは皇帝としてのわたしだ。父親としてのわたしは、お前が尊敬するに値するか?」一瞬、2人の間に気まずい沈黙が流れた。「わたしはいつも、女官達の下らない陰口に傷ついていました。わたしはあなたの子どもなのかと、疑っておりました。でもそんな事はもう昔のことですから、どうでもいいんです。」ルドルフはそう言ってフランツを見た。「わたしが見据えなければならないのは将来のこと・・子どもたちの事です。彼らが成人を迎えた時、この帝国が新しい姿に生まれ変わっているのか否か。」「だからこそ、変革が必要だと?」「ええ、そうです。このままではこの国は滅びます。わたしを息子として信じていただけないでしょうか、父上?」蒼い瞳で見つめられ、フランツは少したじろいだ。 この世に生まれてから彼は初めて、息子と腹を割って話せたのだとこの時気づいた。今まで何度かルドルフと話し、幼いながらにその聡明さに舌を巻いていたが、それは皇太子としての彼の姿であって、息子としての彼を一度も自分は気にかけずにいたことにも、彼はこの時気づいてしまった。(わたしは一体、何をしていたのだろう?)自分の子どもとまともに向き合おうとせずに、良い国づくりが出来る訳がないではないか。ここはひとつ、ルドルフに国政を任せてみてはどうだろうか―そんな考えが、フランツの頭の中でもたげた。「わたしはもう年だ、それにそろそろお前達若い世代に国政を任せても良いだろうと考えていたところだ。お前とは何かと対立していたが、ここはもういがみ合う事を忘れようじゃないか?」「ええ、父上。」ルドルフはそう言って、フランツに手を差し出した。フランツはルドルフに笑顔を浮かべると、その手を握った。その瞬間、彼は父と息子との間に出来た深い溝が、少しずつ埋まっていくような気がした。 翌日、ルドルフは瑞姫とともに救護院へと向かった。突然の皇太子の訪問に、皆一様に驚いていたが、国民の人気者である彼はたちまちその場に馴染んだ。「あんなに子ども達に囲まれていらっしゃるルドルフ様のお姿を見るのは、初めてです。」「ええ、本当に・・」瑞姫はシリルとともに、救護院の子ども達に囲まれて戸惑っているルドルフを微笑ましげに見ていた。にほんブログ村
2011年01月25日
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「皇太子様、相席しても宜しいですか?」先程ルドルフに話しかけて来た男がそう言って彼を見た。「ああ、構わないさ。グスタフ、こちらはわたしの妻の、ミズキだ。」「は、初めまして・・」瑞姫がそう言って男に手を差し出すと、彼はその手を握り締めた。「初めまして皇太子妃様、グスタフと申します。いやぁ、お噂には聞いていましたが、お美しいですなぁ!」男は満面の笑みを瑞姫に浮かべながらそう言うと、ワインを一気に飲んだ。「グスタフ、向こうの者達はどうしている?」「今の所動きはありませんね。でも皇太子様の発言に揺らいでいる連中がいるそうで、色々とここら辺で嗅ぎまわっている輩を見かけましたよ。」人の良い親父の顔から一変して、男―グスタフは真顔になってそうルドルフに報告すると、彼は溜息を吐いた。「それだけ今まで甘い汁を吸って生きてきたということだろうな。どうやら変革には時間がかかりそうだ。」皇帝陛下に瑞姫が進言した時から、自分達の動きを妨害する連中が出てくると思っていたが、まさかこんなに早くも現れるとは。「ルドルフ様、やはり無理なのでしょうか・・この国を変えることは・・」瑞姫はそう言って俯くと、ルドルフは彼女を抱きしめた。「やる前から諦めるな。やってみるしか判らないことだってあるだろう?」「ええ、そうですけれど・・もしわたし達が居なくなったら、子ども達が・・」「大丈夫、わたし達は誰にも殺されないよ。子ども達にとっての未来が少しでも明るくなるように、わたし達は行動するべきなんだ。」ルドルフの蒼い瞳で見つめられた瑞姫は、ゆっくりと顔を上げた。「わたし、あなたと共に頑張ります。この国を、よりよい形に変える為に。」「良く言った、ミズキ。それでこそわたしの妻だ。」居酒屋でグスタフ達と議論を交わしたルドルフと瑞姫は、彼らと別れてホーフブルクへと戻る最中、誰かが自分達を尾けていることに気づいた。「ルドルフ様・・」恐怖で身を強張らせた瑞姫を、ルドルフはそっと抱き締めた。「心配するな、わたしが居る。」尾行者の正体を暴こうと、ルドルフは瑞姫とともに街灯のある所まで歩いた。「居るのはわかっているんだぞ。」「やはり主は手強いのう。」(この声、まさか・・) 街灯に照らされ、ポニーテールにした銀髪が熱を孕んだ夏風に吹かれてそよと揺れ、1人の少年が黄金色の瞳で瑞姫とルドルフを睨んだ。「あなた・・紅禄(ひろく)? マイヤーリンクで死んだ筈じゃ・・」「あれ位の傷でわしは死なぬ。それよりもあの夜での決着を着けようか、黒羽根の子・瑞姫!」少年はそう叫ぶと、鉈を構えて瑞姫へと突進した。寸でのところで鉈の刃先をかわした瑞姫は、紅禄を睨みつけた。「今あなたとは戦っている暇はないの、そこをどきなさい!」「黙れ、忌まわしい半妖めが!」紅禄は瑞姫の懐に飛び込むと、鉈を振るった。 鮮血がルドルフの前で飛び散り、瑞姫が石畳の地面に倒れた。「ミズキ、ミズキ!」「大丈夫・・わたしは大丈夫ですから・・」自分の手を握り締めて泣きじゃくるルドルフの頬を優しく撫で、瑞姫はゆっくりと目を閉じた。「愚かな女よのう。まぁよいわ、そなたも冥土へと送ってやろうぞ。」「よくも、ミズキを・・」全身の血液が逆流し、ぐつぐつと煮えたぎるような感覚がする。目の前が激しい殺意と怒り、憎しみを孕んだ緋に染まる。気づけばルドルフは、紅禄の首を片手で掴んでいた。「な・・」驚きと恐怖で見開かれる黄金色の瞳を冷たく見下ろしたルドルフは、躊躇い無くそのまま彼の首の骨を折った。脳を支える頸椎が粉砕する音が路地に響き、紅禄は糸が切れた操り人形のように地面に倒れた。ルドルフは胸を赤く染めている瑞姫を抱き上げると、家路を急いだ。まるであの夜の―マイヤーリンクでの夜の時のようだ。 無力で瑞姫を救えず、彼女を失うかもしれないという恐怖に怯えていたあの頃の自分はもういない。にほんブログ村
2011年01月25日
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パーティーでの瑞姫の発言は、一夜明けてから世界中に流れることとなり、ウィーン宮廷は上へ下への大騒ぎだった。「ミズキ、過去の事を今更蒸し返すとはどういうことだ!?」フランツはそう言ってルドルフととともに自分を見つめる瑞姫を睨んだ。「蒸し返すも何も、わたくしはルドルフ様とこの帝国の膿を出そうと思っております。」瑞姫はまっすぐにフランツを見つめながらそう答えると、彼は溜息を吐いた。「お前は・・お前達は、わたしに反旗を翻すというのか?」「いいえ陛下、その逆ですわ。わたくしは陛下を助けたいのです。」「訳が判らない・・何故、お前達は・・」フランツはそう言葉を切ると、突然胸を押さえた。「陛下、どうなさいましたか!?」慌てて侍従達がフランツの元へと駆け寄って来たが、彼はゆっくりと玉座から立ち上がった。「今日は気分が悪い。少し休ませて貰う。」「陛下、お待ちください!」瑞姫はフランツを引き留めようとしたが、彼は瑞姫と目を合わせずに謁見の間から出て行った。「陛下!」扉へと駆けてゆく瑞姫だったが、非情にもそれは彼女の目の前で閉まった。「皇太子妃様、陛下は最近お加減が優れないのですよ。それなのに陛下に追い討ちをかけるようなことをおっしゃって・・」「もう少しご自分のお立場を弁えられたらいかがです?」閣僚たちが次々とそう言いながら瑞姫を冷たい目で見た。「ミズキは陛下に意見したまでのことだ。」ルドルフが咄嗟に瑞姫を庇ったが、彼らは怯む気配すらない。「皇太子様は自由主義におかぶれのようですなぁ。」「大体、ブタペストでの事は皇太子様が油断なさったから起きたのでは?」閣僚たちの誹りを受けても、ルドルフは涼しい笑みを浮かべていた。「確かにわたしは自由主義にかぶれているし、ブタペストとの事は自分の油断が招いた事件かもしれない。だが、あなた方はあの時もしわたしの立場だったらどういう行動を取る?」ルドルフの言葉に、それまで彼の足元を掬おうとにやにやと下卑た笑みを口元に浮かべていた閣僚たちの顔に狼狽の色が浮かんだ。「そ、それは・・」「恐らくあなた方は我が身可愛さの余り、他の人質を犠牲にしてまでも助かろうとするだろうなぁ。現に、あなた方は私利私欲の為に国益だと言いながら無駄な事業に金をつぎ込み、その金を己の懐に入れているのだから。」「ぶ、無礼ですぞ、皇太子様! わたし達は国の為に・・」「そうですよ、わたし達が動かなければ誰がこの国を・・」閣僚たちは慌ててルドルフに言い返そうとしたが、その時隣に立っていた瑞姫が冷たい言葉で彼らの言葉を遮った。「お黙りなさい! この国はあなた方が動かしているのではありません、国民が動かしているのです! 彼らの納めている血税であなた方は無駄な事をばかりをしているではありませんか!」瑞姫の言葉に、閣僚たちはぐうの音も出なかった。「さっきの言葉、素晴らしかったぞ。まぁあれであいつらが大人しくするわけがないと思うが。」廊下を歩きながら、ルドルフはそう言って瑞姫を見た。「ええ。でもさっきは我慢できなくて言ってしまいました。それよりも陛下はわたしの言葉をどんな思いで聞いていらしたのでしょう・・何だか辛そうなお顔をしていました。」「父上は、突然の事で戸惑っているんだろうよ。ミズキ、今夜面白い場所にお前を連れて行ってやる。」「面白い場所、ですか?」その夜、瑞姫はルドルフに連れられて王宮を抜け出し、ウィーン市内の居酒屋へと向かった。「ここが、面白い場所なのですか? 普通の居酒屋さんですけれど・・」「店自体はね。面白いのはここに集まる人達だよ。」ルドルフがそう言ってワインを飲んでいると、ドアベルが鳴り、数人の男達が店に入って来た。「ルドルフ皇太子ではありませんか、お久しぶりです!」男達がルドルフと瑞姫に気づき、笑顔を浮かべながら彼らに手を振った。「あの方達は?」「まぁ、話せばわかる。」そう言ってルドルフは笑った。にほんブログ村
2011年01月24日
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犯人グループによって左膝を撃ち抜かれたルドルフは、ブタペスト市内の病院に緊急搬送され、一命を取り留めた。ルドルフが事件現場から脱出した数分後、軍隊が強行突入し、ナジャリスタを含む犯人グループ5人は全員射殺され、事件は終結した。「ルドルフ様、ルドルフ様!」瑞姫がブタペスト市内の病院でルドルフとの面会を許可されたのは、彼が緊急搬送されて1週間後のことだった。「ミズキ、漸くお前と会えた・・」「良かった・・あなたが無事で良かった!」瑞姫は夫の無事を確かめるかのようにルドルフの髪や頬を撫でると、彼に抱きつき滂沱の涙を流した。「かあさま、ててうえがぼくのことまもってくれたよ。」遼太郎はそう言うと、ベッドに寝ているルドルフの元へと駆け寄った。「そう。遼太郎、怖くなかった。」「うん。ててうえがずっとまもってくれた。」ルドルフの撃ち抜かれた左膝の傷は、大した後遺症もなく、彼は無事退院の日を迎えた。「ミズキ、やっと終わったな。」「ええ・・でも、シャルルさん達は今までずっと苦しんできたんですよね。」ウィーンへと帰るリムジンの中、瑞姫はぽつりとそう言って俯いた。「ミズキ・・」「戦争は悲しみと憎しみしか生まないんですね・・ルドルフ様、わたし彼の言葉がいつまで経っても忘れられない気がするんです。」「あいつに何を言われたんだ?」瑞姫はゆっくりとルドルフの方を見ると、口を開いた。「彼は、“わたしはあの戦争が始まる前まで神を信じていた。けれども神はわたし達を、愛しいエレーナを救ってはくれなかった。今わたしはこの怒りと悲しみを与えた神が憎い”と言ったんです。」敬虔な信者であったシャルルが、戦争によって傷つき、神にさえ怒りを抱くようになってしまうまでに変わってしまった。「ミズキ、わたしが無事だったのは、シャルルの妹がわたしとリョータロウを逃がしてくれたからなんだよ。」ルドルフはそう言うと、瑞姫の手を握った。「彼女は根っからの悪人ではなかった。わたしを逃がしたのは、もうすぐ自分達が殺されると解っていたからだろう。だからわたし達を巻き込まぬように逃がしたんだ。」「そうだったんですか。」瑞姫はシャルルの、あの悲しげな笑みを思い出した。彼は今何処で何をしているのだろうか。妹の形見である指輪を握り締めながら、彼は戦争で失った家族に想いを馳せているのだろうか。「ルドルフ様、事件は終わりましたけれど、何だかすっきりしないんです。」「わたしもだよ、ミズキ。」シャルル達の国で戦争を勝手に始め、罪なき人々の命を奪ったのは自分達だというのに、何の罪にも問われずにのうのうと暮らしている。こんなに不条理で理不尽なことがあっていいのだろうか。「ミズキ、わたしはこのままではいけないと思っているんだ。お前は、どう思う?」蒼い瞳でルドルフが妻を見つめると、彼女はじっと自分を見つめ返してきた。「わたしも、そう思います。」「そうか・・お前なら、そう言うと思ったよ。」ルドルフはそう言うと、そっと瑞姫を抱き締めた。 その夜、事件終結と瑞姫とルドルフの結婚2周年を兼ねたパーティーがホーフブルクで開かれた。「皆さま、お忙しい中集まっていただきありがとうございます。皆さまに、わたくし達から重要なお知らせがあります。」瑞姫は客達に挨拶をした後、ルドルフと目配せした。「この度起きた事件で、わたくし達はバルカン内戦におけるハプスブルク帝国軍の蛮行を認め、追及いたします。」瑞姫が発した言葉を聞き、客達は一斉にどよめいた。ハプスブルク帝国の皇太子妃が、自国軍の犯罪を認め追及するということは、前代未聞の出来事であった。彼女の発言は、すぐさま波紋を呼んだ。にほんブログ村
2011年01月24日
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ルドルフと遼太郎が武装した犯人グループによって貴族の邸に軟禁されてから1ヶ月が経った。 父・フランツから妻・瑞姫の無事を知り安堵していたルドルフだったが、未だ自分は犯人達に軟禁されている上、一向に解放される兆しもない。このままだと膠着状態に陥り、最悪の結果を生むかもしれないとルドルフは危惧し始めていた。そんな中、グループのリーダー・シャルルの妹であるナジャリスタがルドルフを外へと呼び出した。「話とはなんだ?」「他の奴らに気づかれないよう、息子を連れて逃げな。」ナジャリスタはそう言うと、煙草を吸った。「どういうつもりだ? 君達はわたしが憎いんじゃなかったのか?」ルドルフは彼女の言葉を疑いながらも、その真意を測りかねていた。「兄さんはもう、あんたの奥さんを逃がしたことで意気消沈してるし、他の奴らも次第に苛々してきている。今が逃げ出す機会だと思ってね。」「本気で、そう言っているのか? わたし達に逃げろと?」「じゃぁあたしが逆に聞くけど、あんたは生きてウィーンに戻りたくはないのかい?」ナジャリスタの言葉に、ルドルフは即座に答えた。「戻りたいさ。」「こっちへ来な。」ナジャリスタの後に続いたルドルフは、邸の裏口の前で足を止めた。「ここだとすぐ通りに出るから大丈夫だ。」「ありがとう、恩に着る。」ルドルフは自分の腕に抱かれながら眠っている遼太郎を見た。彼が一歩裏口から外へと出ようとした時、間の悪いことに携帯が鳴った。(こんな時に!)舌打ちしながらも、ルドルフが携帯を開くと、そこには『ミズキ』と着信者の名前が表示されていた。「もしもし?」『ルドルフ様、瑞姫です。無事なんですか?』「ああ、リョータロウも元気だ。」『そうですか・・いつ解放されるんですか?』「多分・・明後日辺りに・・」早く会話を切り上げようと、ルドルフは適当な嘘を吐くと周囲を見渡した。徐々にこちらへと向かってくる数人分の足音が聞こえる。早くここから逃げなくては。「おい、見つけたぞ!」「あいつ、逃げようとしてやがる!」「殺せ、殺しちまえ!」男達は一斉にルドルフに銃口を向け、躊躇い無く引き金を引いた。銃弾がルドルフの左膝を撃ち抜き、彼は苦悶の悲鳴を上げた。(ここで死んでなるものか!)ルドルフは遼太郎を抱きかかえながら、咄嗟に撃鉄を起こして男に発砲した。男は額を撃ち抜かれ、地面にどうと倒れた。「ここはあたしに任せな!」ナジャリスタが邸の陰から身を乗り出し、仲間に向かって発砲した。 ルドルフは激痛に耐えながら裏口から外へと逃げた。撃たれた左膝からは激痛が走り、一歩一歩歩く度に額から脂汗が流れ落ちてくる。「ててうえぇ・・」遼太郎が心配そうにルドルフの顔を見ながら今にも泣き出しそうな顔になっていた。「大丈夫、大丈夫だからね。」息子を励まし、彼の黒髪を撫でたルドルフは漸く警察署の前まで来ると力尽きて倒れた。ナジャリスタ―敵でありながらも自分を助けてくれた女は今頃どうしているのだろうかと、ルドルフは薄れゆく意識の中で思った。「誰か、救急車を!」「ててうぇ、しんじゃやだ~!」遼太郎が自分の耳元で泣き叫ぶ声がした。その瞬間、自分は助かったのだとルドルフは安堵した。にほんブログ村
2011年01月24日
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「失礼致します。」司祭の後に続いて司教の執務室に入った瑞姫は、椅子から立ち上がって彼女に向かって微笑むシュテファンの新しい司教を見た。艶やかな黒髪に、琥珀色の瞳。「あなたは・・」「お久しぶりです、皇太子妃様。」そう言ってシュテファンの新しい司教―シリルは瑞姫に頭を下げた。「まさかあなたがヴァチカンから来た新しい司教様だったとはね。蒼霧病院に居たのかと思ったわ。」「わたしもずっと日本で色々と学びたいことがあったのですが、ヴァチカンから手紙が来ましたので・・皇太子妃様、お茶でも戴きながらお話でもされませんか? 先程デーメルの方で美味しい苺のタルトを買いましたので・・」「ええ、そうするわ。」それから瑞姫とシリルは、苺のタルトを食べながら談笑した。「ルドルフ様は、まだ解放されていないのですか?」「ええ。遼太郎とルドルフ様が無事だといいけれど・・」瑞姫はそう言って溜息を吐くと、紅茶を飲んだ。「わたしね、昨夜陛下からルドルフ様と別れてくれと言われたの。でもわたしはルドルフ様と別れるつもりはないわ。」「そうですか。あなたならそうおっしゃると思いましたよ。」シリルは瑞姫に微笑むと、タルトを一口大に切って食べた。「わたしは過去にあなたとルドルフ様との間を引き裂こうとしました。けれどもその事で自分の命を奪われてしまいました。自業自得だと、あの事を想い返すたびにそう思います。わたしは自分勝手だったんですよ。わたしはルドルフ様のことを勝手に想って、勝手にあなたに嫉妬して・・」「シリルさん、あなたはもう変わったじゃないの。」そう言って瑞姫はシリルの手を握った。「わたしね、あなたには色々と助けて貰ったわ。ルドルフ様との子を流産した時、悲しみに沈んでいたわたしを励ましてくれたわよね? あの時、あなたの言葉ひとつひとつに救われたのよ。」「ミズキさん・・」「わたしと出逢う前も、ルドルフ様はいつもあなたに救われていたんだと思うわ。あの方はいつだって、人前で弱みを見せない方だから。」瑞姫はそう言ってソファから立ち上がると、窓の外に広がる空を見つめた。「ルドルフ様はきっと無事よ。遼太郎もルドルフ様が守ってくれていると思う。わたしはルドルフ様のことを信じているわ。」「ミズキさん、強いですね。わたしもあなたのようになれたなら、あんな事をしなかったでしょうに。」シリルは溜息を吐き、マイヤーリンクのあの夜の事を思い出した。「わたしはあなたと出逢って、色々と学びました。人を愛する事や想う事がどれ程尊く、大変なものかを。」「それはこちらの方よ、シリルさん。」瑞姫はそう言うと、シリルの方へと振り向いた。「これからも、いい友達で居てくれる?」「ええ。」瑞姫とシリルは、互いの手をしっかりと握り合った。「今日はあなたとお話しできて嬉しかったわ。」「わたしもです。お時間さえあればまたお話ししたいですね。」「じゃぁ、またね。」シュテファンの正門前でシリルと別れた瑞姫は、その足でホーフブルクへと戻った。「皇太子妃様、お帰りなさいませ。」「ハンナ、蓉は?」「先ほどお眠りになられました。それと、ルドルフ様からご連絡が。」「ルドルフ様から?」バッグの中から携帯を取り出して開くと、ルドルフからの着信があった。リダイヤルすると、ルドルフの声がした。『もしもし?』「ルドルフ様、瑞姫です。無事ですか?」『ああ。リョータロウも元気にしてるよ。』「そうですか・・いつ解放されるんですか?」『多分、明後日辺りに・・』そこで激しい銃撃音がしたかと思うと、怒号が聞こえた。「ルドルフ様、ルドルフ様!?」Photo by ミントBlueにほんブログ村
2011年01月23日
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夜が明け、瑞姫は呻きながら寝台から起き上がった。「ん・・」いつ隣に眠っている夫の姿を探そうとした時、彼はここには居ないのだと気づき、彼女は苦笑した。(ルドルフ様は、わたしの所為で・・)そうではないと言い聞かせながらも、瑞姫は心のどこかでルドルフが軟禁されてしまったのは自分の所為だと思い始めていた。シャルルと会ってから、ルドルフは一時的に精神が不安定になったりしていた。(わたしは、ルドルフ様と共に生きる資格があるのだろうか?)彼と出逢い、愛を育み、紆余曲折を経て夫婦となり、彼との間に一時は絶望視されていた子どもを2人も授かった。これほどまでに幸せな人生はないと、瑞姫は思っていた。それなのに、今度の事件で瑞姫は彼とこれ以上一緒に居ていいのかと迷い始めていた。(わたしは、どうすれば・・)悶々としていると、ドアがノックされて女官の声が聞こえた。「皇太子妃様、朝食をお持ち致しました。」「入って頂戴。」「失礼致します。」ドアが開き、朝食のトレイを載せたワゴンを押した女官が部屋に入って来た。「お加減はいかがですか?」「もう大丈夫よ。それよりも陛下のお加減は? 最近風邪気味でいらっしゃるとか・・」「ええ。」瑞姫は朝食を食べ終えると、厨房へと向かった。「こ、皇太子妃様! お身体の方はもうよろしいんですか?」瑞姫に気づいた料理長が、そう言うと慌てて彼女に頭を下げた。「ええ。少し厨房を貸していただけないかと思って。陛下に滋養のある物を作りたいの。」「わたし達は構いませんが・・」 フランツは自室の寝台に横たわりながら、激しく咳き込んでいた。脳裡に何度も浮かぶのは、ルドルフと別れて欲しいと告げた時に驚愕した表情を浮かべた瑞姫の顔だった。(わたしは一体、どうすればいいんだ?)ルドルフと別れて欲しいと瑞姫に告げたのは、本心からではなかった。あの時―ブタペストでルドルフが遼太郎とともに武装グループに軟禁されたと聞いた時、頭がショックで真っ白になってしまったのだ。あの時自分は、ルドルフと帝国の未来を懸念してしまい、瑞姫と彼をすぐに引き離さなければとフランツは思ってしまった。瑞姫とルドルフの気持ちを全く考えずに、あんな酷い言葉を瑞姫に投げつけてしまった。「陛下、失礼致します。」ノックの音でフランツが我に返ると、部屋に瑞姫が入って来た。「ミズキ、どうした?」「お粥を作って参りました。お風邪を召していらっしゃるとお聞きしましたので・・」「そうか。すまないな。」「お口に合うかどうかわかりませんけれど、どうぞ。」瑞姫がそう言って自分に頭を下げて部屋から出て行こうとするのを、フランツは止めた。「ミズキ、昨日の事だが・・」「わたしは、ルドルフ様とは離婚致しません。」「そうか。昨日は酷い事を言ってしまったな。」「いえ・・ルドルフ様は、わたしが無事だということはご存知ですか?」「ああ、昨夜あいつにはお前の無事を知らせた。それよりもミズキ、身体の調子はもういいのか?」「ええ。これからシュテファンの新しい司教様の元に挨拶に行ってまいります。」「そうか。」皇帝の私室から出た瑞姫は、その足でシュテファン寺院へと向かった。「司教様にお会いしたいのだけれど・・」「こちらへどうぞ。」司祭とともに瑞姫は司教の部屋へと向かった。「司教様、皇太子妃様がお見えです。」「入っていただきなさい。」部屋の中から、聞き覚えがある声がした。にほんブログ村
2011年01月23日
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シュティファニーに殴られた瑞姫は、悲鳴を上げる間もなく床に倒れた。「お前の所為よ、お前の所為であの人が危険な目に!」シュティファニーは憎しみに満ちた瞳で瑞姫を睨み付けると、もう一発彼女を殴ろうと腕を振り上げた。「義姉上様に何をなさるの!?」ヴァレリーは咄嗟にシュティファニーと瑞姫との間に割って入ると、シュティファニーを睨んだ。「そこをおどきなさい、わたしはその女に話があるの!」「いいえ、どきません!あなたに心配される程、お兄様はすぐに死ぬような方ではないわ!」「許さないわよ、あの人に何かあったら絶対にわたしはお前を許さないわよ!」シュティファニーはそう瑞姫に怒鳴ると、部屋から出て行った。「皇太子妃様、大丈夫ですか?」女官が慌てて瑞姫を助け起こした。「あの人は、ルドルフ様のことを本当は愛していらっしゃるのね・・」瑞姫は溜息を吐きながら、ソファに腰を下ろした。「そんな・・あの人はもう、お兄様と関係ありませんわ。それよりも義姉上様はどう思っていらっしゃるの?」「ルドルフ様とは別れません。ヴァレリー、話を聞いてくれてありがとう。少し落ち着いたわ。」瑞姫はヴァレリーにそう微笑むと、彼女の部屋から出て行った。「本当に、陛下が義姉上様にそんな事を?」フランはそう言うと、妻を見た。「ええ、そうなのよ。お兄様は絶対に義姉上様と別れないと思うわ。お兄様の隣には義姉上様以外の女性が立っている姿なんて考えられないもの。お父様は一体何をお考えなのかしら?」ヴァレリーは深い溜息を吐きながら、サラエボで軟禁されているルドルフの事を想った。一方、犯人グループによって軟禁されているルドルフと遼太郎は、ナジャリスタと向かい合って椅子に座っていた。「ててうえ、おなかすいた~」遼太郎はそう言ってルドルフの髪を引っ張った。ここに軟禁されてから数日が過ぎたが、口にしたのは水とコーヒーだけで、まともな食事を摂ったのはいつだったか覚えていない。「ナジャリスタ、息子に何か食べる物をくれ。」「わかった。」ナジャリスタはそう言うと、黒のトートバッグの中からビスケットが詰まった袋を取り出した。「ありがとう、おねえたん。」遼太郎はビスケットを嬉しそうに頬張り始めた。「子どもには優しいんだな?」「あたしは自分より弱い者はいじめない主義なんだ。兄さんにはこれから・・」“ナジャリスタ、ナジャリスタ!”画面から何やら切迫したシャルルの声が聞こえ、ナジャリスタは急いでそちらに振り向いた。「どうしたの、兄さん?」“あの女が逃げた!”(ミズキ・・一体何処に逃げたんだ!?)瑞姫逃亡の報せを受けたルドルフは、一瞬最悪の事態を考えてしまった。だが、ルドルフの携帯が鳴ったことでその想像は中断された。「出ろ。」銃口をつきつけられ、ルドルフは携帯を開いた。『ルドルフか?』「父上、ミズキは何処に?」『ミズキは無事で、ウィーンに居る。』妻の無事を知ったルドルフはほっと胸をなでおろした。「そうですか・・良かった。」『ルドルフ、お前は無事なのか?』「ええ。」『そうか、ならいい。』フランツとの通話を終えたルドルフは、ふと窓の外に浮かぶ月を見た。優しい月光に照らされた彼は、ゆっくりと目を閉じて眠った。「ててうえ、おねんねしてるの?」遼太郎がそう言ってルドルフの髪を引っ張ると、彼は微かに呻いて息子を抱き締めた。にほんブログ村
2011年01月23日
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瑞姫がサラエボ郊外の森でアルバニア人トラック運転手に発見され、ブタペストで保護されたことは、皇帝の耳にも届いた。「ミズキ、無事で良かった。」「この度はご心配とご迷惑をおかけいたしました、陛下。」そう言って自分を漆黒の瞳で見つめ、優雅に礼をする瑞姫の顔には暴行の痕跡である赤紫色の痣が残っていたが、それも薄くなりつつあった。「ルドルフとリョータロウは未だブタペストで軟禁されている。犯人グループとの接触がなくなってしまった今、2人が今どうなっているのかが判らない・・そこでミズキ、お前と話したいことがある。」皇帝フランツ=カール=ヨーゼフは、瑞姫を玉座から見下ろした。「ルドルフと別れて欲しい。」「え・・」フランツの言葉を聞いた瑞姫は瞠目し、玉座に座る舅を見上げた。「ルドルフは帝国の後継者だ。お前はルドルフとの間に男児を2人もうけてくれたし、その働きには感謝する。だが今回の事件の原因は、お前にあるのではないか?」「わたくしに、ですか?」「犯人グループのリーダー、シャルルと密かにお前は会っていたのではないか?」遠回しに自分がシャルルと不倫をしていて、それが今回の事件に繋がったのではないかというフランツの言葉に、瑞姫は眉を顰めた。「そんな事、わたくしは一度もしておりません! 夫を裏切ったことなど、一度もありません!」「お前はルドルフを支えてくれたし、愛してくれた。だがもうこれ以上、お前とルドルフを夫婦のままにしたら、いつか必ず国が滅びてしまう。」「だからルドルフ様と・・夫と離婚しろと? わたしは、ルドルフ様を、この国を愛しているのです、陛下! ルドルフ様だってわたくしを・・」「お前はまだ若い、ミズキ。皇室の一員としてではなく、1人の女性としてこれからは生きて欲しい。」フランツは一方的に会話を終わらせると、謁見の間から去った。 しんと静まり返った主なき部屋に、瑞姫は呆然と佇んでいた。“ルドルフと別れて欲しい”フランツの言葉が、頭の中をぐるぐると回ってゆく。フランツとは、良い嫁と舅の関係を築いたつもりだった。だが今回の事件で、その関係にフランツは疑問を持ったのだ。だから彼はあんな事を・・「義姉上様、どうかなさったの?」不意に背後から声がして振り向くと、そこには心配そうに自分を見つめるマリア=ヴァレリーが立っていた。「ヴァレリー・・」瑞姫は涙を潤ませながら、義妹に抱きつき、初めて感情を露わにして泣きじゃくった。「義姉上様?」突然自分に抱きつき泣きじゃくる義姉の姿に、ヴァレリーはただただ驚くばかりだった。「どうかなさったの?」「わたし、ルドルフ様と別れたくない・・」「落ち着いてください、義姉上様。ここではなんですから、わたしの部屋でお話しいたしましょう?」そっとヴァレリーが瑞姫の肩を叩くと、彼女はゆっくりと頷いた。 数分後、少し平静を取り戻した瑞姫は、ヴァレリーの部屋で力無くソファに座った。「お父様が、そんな事を?」「ええ・・」ヴァレリーは父が義姉に兄と離婚して欲しいと切りだされた事を知り、驚愕の表情を浮かべた。「どうしてお父様はそんな事をおっしゃったの?」「犯人グループのリーダーとわたしが不倫しているんじゃないかって・・だから、あんな事件が起きたんじゃないかって、陛下は・・」「そんな、義姉上様は何も悪くないのに!」ヴァレリーが憤然とした口調でそう吐き捨てるように言った時、女官が入って来た。「皇太子妃様、シュティファニー様が・・」「おどきなさい!」シュティファニーが女官を突き飛ばして部屋に入るなり、瑞姫の頬を張った。にほんブログ村
2011年01月23日
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部屋を出て廊下を走り出した瑞姫の髪を、シャルルが掴もうとしたので、彼女は頭を揺すって彼の手から逃れた。やがて彼女は邸の正面玄関から飛び出すと、サラエボの大通りを半裸で走った。道行く人々は何事かと彼女をちらちらと好奇の目で見たが、瑞姫はひたすらシャルルから逃れたかった。息が上がり、脇腹が痛くなってきた。だが瑞姫は止まる訳にはいかなった。止まったら全てが終わる。またシャルルに酷い事をされてしまう。(ルドルフ様・・)愛しい夫の笑顔を思い出しながら、瑞姫はひたすら走った。 瑞姫は一旦走るのを止めて背後を振り返ると、シャルルの姿は何処にも見当たらなかった。もう彼に捕まえられないと思った瞬間、瑞姫は近くの木に寄りかかって安堵の溜息を吐いた。突然身体が寒くなってきて、ガチガチと瑞姫は歯を鳴らせると気絶した。 数分後、アルバニア人のトラック運転手・ヤコブはサラエボ郊外の山道を走っていた。彼は仕事でブタペストへと向かっており、口笛を吹きながら山道を越えようとしていた。その時、地面にマネキンのようなものが倒れていることに彼は気づき、トラックを停めた。(なんだ・・)ヤコブはトラックを降り、マネキンのようなものへと近づいた。それはマネキンではなく、生きた女であった。艶やかな長い黒髪を覆っている滑らかな肌にはところどころ赤紫色の痣があり、形の良い唇からは時折荒い息が聞こえて来た。女をこのまま置いてはおけないと思ったヤコブは、彼女をトラックの助手席に座らせて山道を越えた。「ん・・」瑞姫がゆっくりと目を開けると、そこはふかふかの白いシーツの上だった。そっと胸を触ると、コットンの感触がした。『気がついたかい?』辺りを見渡すと、そこには顎鬚が逞しい黒髪の男が立っていた。『ここは、何処ですか?』ロシア語で瑞姫が男に尋ねると、彼はそっと彼女の額に触れた。『ここはブタペストさ。どうやら熱が下がったようだな。俺はヤコブ、あんたは?』『ミズキです。』『ミズキ・・ミズキだって!?』ヤコブの蒼い瞳が驚きで大きく見開かれたかと思うと、彼は携帯を開いた。(まさか、この人がオーストリアの皇太子妃だっただなんて!)偶然山道で見かけ、助けた女の正体がオーストリアの皇太子妃だったとは、ヤコブは震える手で警察の番号を押した。『もしもし。』『す、すいません。今ブタペスト市内のホテルに居るんですが・・オーストリアの皇太子妃様をこちらで保護しています。住所は・・』バスローブ姿の瑞姫を見ながら、ヤコブはホテルの住所を警察に知らせた。 数分後、ホーフブルク宮にブタペストから瑞姫が警察に保護されたという報せが入った。「フラン、義姉上様が・・」「良かったね、ヴァレリー。」フランとヴァレリーはひしと抱き合った。瑞姫はブタペストで無事に保護された。「皇太子妃様、ご無事で良かった。」蓉の乳母・ハンナはそう言うと瑞姫に抱きついた。「ハンナ、心配かけてごめんなさい。」「本当に、ご無事で良かった!」「ええ、良かった・・」瑞姫はハンナを抱き締めると、彼女に微笑んだ。「ヨウ様、お母様ですよ。」ハンナは揺り籠の中で泣き叫ぶ蓉を抱き上げると、瑞姫に抱かせた。「ごめんね、蓉。」瑞姫は我が子に乳を与え、安堵の涙を流した。だがルドルフと遼太郎は未だに軟禁されている。あとがき半裸で逃走する瑞姫はちょっと滅茶苦茶過ぎたでしょうか?瑞姫は保護されましたが、ルドルフ様達は囚われの身。にほんブログ村
2011年01月22日
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“サラエボで闇に沈んだ真実を、全世界に配信できてよかった・・”シャルルはそう言うと、首に提げた指輪を握り締めた。彼は何処か寂しそうな表情を浮かべていた。「お前は、わたしに一体何を望んでいるんだ?」“望むだと? 馬鹿な事を!”シャルルは瑞姫の髪を引っ張ると、自分の方へと引き寄せた。“いや、やめて・・”半裸に剥かれながら、瑞姫はそう言ってシャルルに許しを乞うた。“皇太子妃様、わたしはずっとあなたをお慕い申し上げておりました。それと同時に、わたしはあなたに亡くなった妹の姿を重ねておりました。”シャルルは瑞姫の下腹をそっと撫で、彼女に微笑んだ。“もしあの戦争がなかったら、妹は普通に結婚して幸せな家庭を持っていただろうかと、時折思うのですよ。もしもあの時、わたしが彼女を助けてやれたらと、後悔ばかりしています。”シャルルの胸元で時折光る指輪が、まるで若くして死んだ彼の妹の魂が彷徨っているようだった。“シャルルさん、もう止めましょう。こんな事をしても、妹さんは喜ばない・・”“煩い、黙れ!”シャルルは拳を振り上げ、何度も瑞姫を殴った。「やめろ、もうやめてくれ! もうミズキを傷つけないでくれ!」ルドルフは画面に向かって何度もそう叫んだが、その声はシャルルには届かなかった。「良い気味だねぇ、皇太子様。愛する者を目の前で凌辱されても何も出来ない苦しみを味わっているなんて。」ルドルフに銃を突き付けているナジャリスタはそう言うと低い声で笑った。「お前達はこれで妹が喜ぶとでも思っているのか? 無駄な事はもう・・」「だったら、今すぐ妹を・・エレーナを返しておくれ!」ナジャリスタはルドルフの胸倉を掴むと、そう叫んで彼を睨んだ。「あの子は何人もの男に凌辱された末に殺されたんだ! あの子だけじゃない、父さんも母さんも、あんた達が勝手に始めた戦争の所為で死んだ! あんた達があたし達の国を・・家族を滅茶苦茶にしたんだ! けれどあんた達はその事を忘れて平和ボケして笑顔で暮らしてる! それが憎くて憎くて堪らないんだよ!」ナジャリスタは涙を流しながら、ルドルフの額に銃口を押しつけた。 同じ頃、ウィーンのホーフブルクではフランツが閣議室のスクリーンで籠城事件の犯人グループが配信した映像を観ていた。そこには半裸の瑞姫が男に何度も殴られ、啜り泣きながらも男に許しを乞う姿が映っていた。「何てことだ・・」「陛下、ブタペストに兵をお送り下さい! せめて皇太子様とリョータロウ様だけでも救出しなければ・・」「黙れ!」フランツはそう叫ぶと兵士を睨みつけた。「わたしは3人とも助ける! ミズキも皇室の一員だということを・・ハプスブルク家の者だということを忘れるな!」皇帝の剣幕に兵士は己の失言を恥じ、閣議室からそそくさと出て行った。「ミズキ、必ず助けるから、待っていろ。」ブタペストとサラエボで起こった事件の映像は瞬く間に全世界に配信され、人々はパソコンの前から釘づけになった。それと同時に、バルカン内戦によるハプスブルク帝国軍の残虐行為がネット上で明らかとなった。二つの異なる地で起きた事件は、世界中に大きな波紋を広げることとなった。「ルドルフ兄様は、どうするつもりなんだろう?」フランツ=サルヴァトールはそう言ってヴァレリーを見ると、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。「どうして義姉上様やお兄様がこんな目に遭わなくてはいけないの? 義姉上様が可哀想・・」「大丈夫だよ、ヴァレリー。3人はきっと無事に帰ってくるよ。」フランツはそっと妻の震える肩を抱くと、彼女は自分の腕の中で激しくしゃくり上げた。 その頃瑞姫は、全身の痛みで呻きながら目を開けると、そこにはシャルルが自分の顔を心配そうに覗きこんでいた。「傷の手当てを致します。」彼はそう言うと、瑞姫の両手首を縛めていた手錠を外した。 その隙を狙った瑞姫は、彼の股間に見事な膝蹴りを食らわせ、彼が悲鳴を上げて痛みに悶えている隙に脱兎の如く部屋から飛び出した。にほんブログ村
2011年01月22日
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「な、なんなの!?」 突然自分を床に組み敷いた大男をエレーナが見上げると、彼はにやりと笑い舌なめずりをしながら、白衣に包まれた彼女の身体を見た。男の顔を見た瞬間、彼が自分に何をしようとするのかが判った。「止めて、離して!」『静かにしろ、殺されたいのか!』男はドイツ語でそう叫ぶと、エレーナを平手で殴った。彼女の口端が切れ、そこから血が滲んだ。男の手がエレーナの白衣を容赦なく引き裂いた。(助けて、兄さん・・)潤んだエメラルドの瞳の端から、涙が一筋流れた。「エレーナ、エレーナ!」目の前で敵兵に凌辱される親友を見ながらも、ナターシャは別の敵兵に羽交い絞めにされ、為す術もなかった。(ごめんねエレーナ、わたしがもっと強ければこいつらをこの場で殺せるのに!)ナターシャは俯き、自分の不甲斐なさに涙を流した。 悪夢のような時間が過ぎ去り、エレーナは虚ろな目で病院の白い天井を見上げた。一体何人もの男に凌辱されただろうか?もう涙も出ない程、自分の心は壊れてしまった。まだ神がこんな状態の自分に生きろというのなら、いっそこの場で殺して欲しいとエレーナは思った。視線の端に、ナイフの刃が煌めいたかと思うと、腹部に激痛が走った。『ここはもう制圧したな。』『ああ。』ハプスブルク帝国軍兵士達数人はそう言うと、病院から立ち去った。そこには、罪なき市民達の死体が散らばっていた。「エレーナ、エレーナ、何処だ!?」ハプスブルク帝国軍が砲撃を開始し、シャルルとナジャリスタが市街戦を繰り広げていた時、エレーナが居る病院が敵の砲撃を受けたと聞いたシャルルが病院へと向かうと、そこには瓦礫の残骸と死体が散らばっていた。「エレーナ、何処だ!?」半狂乱になりながらも、シャルルは瓦礫を掻き分けて必死に妹を探した。 彼女は、待合室の近くで倒れていた。「エレーナ、しっかりしろ!」シャルルはエレーナの白衣を緋に染めている血を見ると、彼女を激しく揺さ振った。「兄さん・・ごめんね・・」朦朧とした意識の中で、エレーナはエメラルドの瞳を涙で潤ませながらそう言うと、シャルルを見つめた。「絶対に助けてやるからな! だから死ぬな!」「わたし、幸せだった・・」エレーナはシャルルの頬を撫でると、シャルルは彼女の手を握り締めた。「いつも守ってくれてありがとう兄さん・・愛してるわ・・」エレーナはそう言って笑顔を浮かべると、静かに息を引き取った。「エレーナ?」シャルルはまだ妹の死が信じられず、何度も彼女の手を握った。それはまだ温かいのに、自分の手を握り返してはくれない。シャルルはじっと彼女が目を開けるのを待ったが、いつまで経っても彼女は起きなかった。もう二度と、あの宝石のような瞳を開くことはなかった。「嘘だ・・」シャルルは傷ついた獣のような叫び声を上げ、エレーナの遺体を抱き締めた。(許さない・・妹を、この国を滅茶苦茶にした奴らを、わたしは絶対に許さない!)琥珀色の瞳に憎しみを滾らせながら、シャルルは復讐の鬼と化した。1999年7月―7年半もバルカン半島で繰り広げられた紛争は、漸く幕を閉じた。この紛争の死者は約40万人にものぼり、その大半は民間人だった。その中にはエレーナと彼女の両親、ナターシャも含まれていた。(エレーナ、見ていておくれ・・絶対にお前の仇を討つからね・・) 妹の形見となった金鎖の先に繋がれた指輪を握り締めながら、緋に染まりゆく空をシャルルは見つめた。にほんブログ村
2011年01月22日
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「エレーナ、本当にあんたはここに残る気なのかい?」「ええ。」シャルルとナジャリスタ、両親は国外亡命を決意した日の夜、サラエボに残ると決意したエレーナに、シャルルはそう言って彼女を見た。「わたしは、ここで傷ついた人達を置き去りにして逃げたくはないの。ごめんなさい、兄さん。」「謝るな、エレーナ。お前がそうしたいのなら、わたしや姉さんは反対しない。ただ、なるべく早くスウェーデンに来るんだぞ、いいな?」「解ってるわ。」シャルルは、いつもお守り代わりに首に提げていたトパーズのペンダントをエレーナに渡した。「これをわたしだと思って大切にしてくれ。」「ありがとう、兄さん。」エレーナはそう言うと、シャルルからペンダントを受け取った。「わたしも、兄さんに渡したいものがあるの。」彼女は宝石箱の中からそっと金の指輪を取り出すと、それをシャルルに渡した。「これは、お祖母ちゃんの形見じゃないか。」「ええ。母さんがいつかわたしに大切な人が出来たら渡してって、誕生日パーティーの後で言われたの。でも当分は兄さんがこれを持っていて。」「エレーナ・・」「いつかまた会う日まで、これを持っていましょう。再会した時に交換しましょうね、兄さん。」「ああ。」 シャルル達は数日後にスウェーデンへと発つことになった。「じゃぁ、行ってくるわね。」「ああ、気をつけて行けよ。」シャルルとナジャリスタはいつものように病院へと向かうエレーナの背中を見送った。 その姿が、もう二度と見ることが出来ない日が来るなんて、彼らは全く思いもしなかった。エレーナはその日も病院で負傷者の治療や看病をしながら、病院内を走り回っていた。日に日に戦況は悪化し、死傷者はますます増えるばかりで、病院内は病室のみならず廊下にまで負傷者が溢れていた。「一体いつになったら、この戦争は終わるのかしら?」隣でエレーナの親友・ナターシャがそう呟いて溜息を吐いた。「もう子どもが死ぬところは見たくないわ。」「ええ・・」「2人とも、そこでおしゃべりしている暇があったら仕事なさい!」看護師長の険しい声を聞いて飛び上がった2人は、慌てて廊下を走っていった。彼女達はその瞬間から看護師としての顔となっていた。 食事をする間もなく、2人は独楽鼠のように働き、漸く一息吐けるようになったのは、黄昏がサラエボの街を包み込もうとする頃だった。「そのペンダント、どうしたの?」ナターシャがそう言ってエレーナのペンダントに目を留めた。「ああ、これ? 兄さんから貰ったのよ。」「そう。兄さん達、明後日ここを離れるのよね? 寂しくはないの?」「ええ。わたしはここで多くの人達を救いたいの。それに、兄さん達とは二度と会えなくなるわけじゃないから・・」エレーナがそう言った時、外で爆音が響いた。「何、さっきのは!?」ナターシャとエレーナが血相を変えて爆音がした方へと向かうと、そこには破壊された病院の待合室の残骸が転がっていた。「酷い・・」肉が焼けるような臭いに吐き気を催しながらも、2人は怪我人が居ないかどうか確認を始めた。「誰か居ませんか~!」「居たら返事をしてください~!」歩く度に嫌な臭いがますます強くなり、エレーナはもうこれ以上ここに痛くないと思い始めた時、突然背後から誰かに羽交い絞めにされた。「エレーナ!」ナターシャに助けを呼ぼうと口を開こうとしたエレーナだったが、その前にチクチクとした顎鬚が彼女の唇に突き刺さったかと思うと、彼女は熊のような御男に組み敷かれた。にほんブログ村
2011年01月22日
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翌朝、エレーナは笑顔を家族に浮かべると、コーヒーを飲んだ。「エレーナ、気をつけて行くんだよ。」「わかったわ、姉さん。」「大丈夫か、エレーナ? 昨夜は啜り泣きが聞こえたぞ。」シャルルはそう言ってエレーナの肩を叩いた。「大丈夫と言えば嘘になるわ。でも、泣いてなんかいられないじゃない。患者さん達の前で弱気になんかなれないわ。」「お前は強いね、エレーナ。」「ありがとう、兄さん。」エレーナはそう言うと、シャルルの頬にキスをした。「じゃぁ、行ってくるわね。」エレーナはコートを羽織り、シャルルとナジャリスタに向かって微笑むとリビングから出て行った。「今日は遅くなるだろうけど、必ず帰ってくるわ。特別な日だから。」彼女はドアの前でゆっくりと兄達と両親に振り向くと、再度微笑んでそう言って家から出て行った。「さてと、あたしはシャワーを浴びて寝るとするかね。筋肉が強張っちまって痛いのなんのって。」ナジャリスタは首を回しながら浴室へと向かった。 シャルルは少し妹が心配で、彼女の実習先の病院へと向かうことにした。外は凍えるような寒さで、前日まで降っていた雪がサラエボの街を白く染めていた。白い息を吐きながら、シャルルは何だか嫌な予感がした。石畳の路地を歩くと、壁に夥しい弾痕が残り、罪なき市民達が命を落とした場所には、真紅の薔薇が咲いていた。(いつまで続くんだ、この無益な戦争は!)民族対立と宗教対立という、複雑な問題により勃発した内戦。そのゴールは、戦争という闇の果てには光が見えるのか。いつになったら、砲弾や銃弾に怯えずに済む日々が来るのか。(わたし達は、これからどうすればいいんだ?)物思いに耽りながらシャルルがエレーナの病院がある地区へと差しかかった時、ゴシック様式の大聖堂の鐘楼から鐘の音が鳴り響いた。(エレーナ、今朝は何も食べていなかったな。)エレーナの為に作ったサンドイッチが入った紙袋を握り締めながら、シャルルは病院が見えて来たのでほっとして歩を緩めた。 その時、大聖堂から突如轟音が響いた。天地がひっくり返るかのような激しい揺れと、熱を孕んだ爆風がシャルルに襲い掛かり、彼は咄嗟に地面に蹲った。(なんだ・・?)シャルルが背後を振り向くと、そこには壮麗な大聖堂が瓦礫の塊と化していた。その中には、人の形すらしていない死者達の肉片が散らばり、黒煙が上がっていた。「エレーナ!」病院へと向かうと、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。白衣の医師や看護師が慌ただしく砲撃の被害者に対して治療を施していた。その中には、額の汗を拭う間もなく忙しく動き回っているエレーナの姿があった。彼女が無事だと判ったシャルルは、ほっと安堵の表情を浮かべながら病院から出て行った。「シャルル、病院の近くの大聖堂が・・」「知ってる。エレーナは無事だ、ナジャリスタ。」「そうか、良かった。それにしてもハプスブルクとセルビアの野郎、ふざけた真似しやがって!」ナジャリスタは苛立ちをぶつけるかのように、壁を殴った。「もうここには住めない。確かスウェーデンに父さんの親戚が居るよな?」「ああ。ここからさっさと避難しないと、あたしら殺されちまう!」その夜、シャルル達は両親とエレーナに海外へ亡命することを話した。「出来るだけ早い方がいい。ここで無駄死にするよりはマシだろう?」シャルルの意見に両親は賛成したが、エレーナだけは首を縦に振らなかった。「わたしはここで多くの傷ついた人達を助けたいの! わたし1人だけ逃げるなんて卑怯な事、出来ないわ!」そう叫んだエレーナの瞳には、真摯な光が宿っていた。にほんブログ村
2011年01月21日
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1999年2月、サラエボ。 バルカン半島はセルビア人、クロアチア人、アルバニア人との間に民族対立による内戦が1993年に勃発し、セルビア人勢力はサラエボ市内を空爆し、市民に対して迫撃砲などによる無差別攻撃を開始した。シャルル達兄妹と両親は、常に命の危険に晒されながらも必死に生きていた。19歳のシャルルは、1つ下の妹・ナジャリスタとともに反セルビア勢力のメンバーとなり、日々家族を守る為に敵と戦っていた。そんな中で、末の妹で16歳であったエレーナがいつも戦火の中で暗く沈みがちな家を照らす唯一の太陽だった。輝くような金髪と、宝石のようなエメラルドの瞳を持った彼女は、笑顔が素敵な、優しい少女だった。「兄さん、姉さん、今日は大丈夫だった?」いつものように家族の人数分のパンを買って帰って来たシャルルとナジャリスタに向かってエレーナはそう言って彼らを見た。「ああ、大丈夫だったよ。狙撃手に気づかれないように買ってきたよ。」シャルルは紙袋にぱんぱんに詰まったパンをエレーナに見せると、彼女は歓声を上げた。「どうしたの、それ?」「パン屋の親父が余分に持ってけってさ。あたし達の勇姿に感激したってさ。」ナジャリスタはそう言ってポニーテールに結んだ黒髪をなびかせながら笑った。「へぇ、そうなの。母さん達はもうすぐ市場から帰って来るから、今日は久しぶりにご馳走が食べられそうね。」エレーナはシャルルから紙袋を受け取ると、口笛を吹きながらキッチンへと向かった。 数分後、両親が肉や野菜が入った紙袋を両手に抱えながら帰宅した。「今日は裏道を通ってきたよ。」3兄妹の父・ヤコブはそう言うと、ダイニングテーブルの上に紙袋を置いた。「そう。それじゃぁもうご飯にしましょうか?」「そうしておくれ。買い物で腹ペコさ。」「はいはい、わかったわ。」母・アニタとともにキッチンで夕飯の支度を始めるエレーナの姿を、シャルルは目を細めながら見ていた。「エレーナはもう16か・・これからますます綺麗になるだろうな。」「そりゃぁあの子は母さん似だもの。変な虫が付かないようにあたし達が監視しないとね。」アッシュ・モーヴの瞳で愛おしそうに妹を見つめながら、ナジャリスタはそう言って柱にもたれかかった。「お前とシャルルがいちゃぁ、エレーナは行き遅れてしまうな。お願いだから、妹の恋路を邪魔しないでくれよ。」「わかってるよ。でも兄さんは違うみたいだよ。」「突然話を振るな、ナジャリスタ。全くお前っていう奴は・・」シャルルとナジャリスタが言い争う気配を見せた時、エレーナがシチューの入った鍋を持って2人の間に割って入ってきた。「2人とも、喧嘩しないで。」「はいはい、解ったよ。」「全く、エレーナには敵わないな。」食卓に笑い声が響き、3兄妹は両親を囲んで賑やかな夕食を始めた。「ねぇ母さん、いつ戦争は終わるのかしら? もう誰かが死ぬのを見るのはうんざりよ。」エレーナはそう言ってシチューを食べる手を止めた。「エレーナ、病院で何かあったのかい?」「ええ。今日10歳の男の子が砲撃を受けて全身火傷の状態で病院に運び込まれたの。助けてあげたかったけれど・・駄目だった・・」エメラルドの瞳を涙で潤ませながら、エレーナは俯いた。「エレーナ・・」看護学生としてエレーナは病院で戦火の犠牲となった人々を毎日目の当たりにしてきた。優しくて繊細な性格の彼女が今どんなに傷ついているのか、シャルルとナジャリスタは彼女の気持ちが痛い程わかった。「大丈夫だよ、エレーナ。もうすぐ終わるよ。だから一緒に頑張ろう。」ナジャリスタはそう言ってエレーナを抱き締めた。「うん、姉さん・・わたし、頑張るわ。」エレーナは姉に慰められ、涙を拭って笑顔を見せた。にほんブログ村
2011年01月21日
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(わたしに全てを奪われただと? 一体こいつは何を言っているんだ?)ルドルフは画面に映るシャルル=ド=ラニエの言葉の意味が判らず、首を傾げた。「わたしに全てを奪われただと?」“ええ、そうですよ。あなたはその事は全く憶えていらっしゃらないだろうと思いますけどね。”シャルルの琥珀色の瞳がきらりと光ったかと思うと、瑞姫の乳房を掴んだ。“わたしはずっと復讐の機会を待っていましたよ。今日を迎えるにあたって色々と計画を綿密に練りに練ってね。そしてわたしは今、あなたの妻を世界中が見ている前で凌辱する!”びりびりと瑞姫の瑠璃色のキャミソールが切り裂かれ、豊満な乳房が露わとなり彼女は悲鳴を上げた。「やめろ、ミズキに手を出したら殺すぞ!」“どうやって? 何も出来ない癖に。そこであなたは愛する妻が凌辱される姿そこで見ているがいい。”耳障りな笑い声を上げながら、シャルルは抵抗する瑞姫を殴り、凌辱した。画面からは瑞姫の泣き声とシャルルの呻き声が聞こえ、瑞姫の顔は苦痛に歪んでいた。(あの男、殺してやる・・!)遠く離れたところで妻が凌辱され、ルドルフはこれ程までに他人に対して激しい憎悪と殺意を抱くことなど、生まれて初めてだった。それと同時に、自分の無力さを感じたのは―何も出来ない自分の姿に歯痒さを感じたのも初めてだった。“ルドルフ様、どうです? 何も出来ぬ悔しさ、無力さにさぞや胸が焼かれる思いだったでしょう? わたしもねぇ、あなたと同じような思いを抱いたことがありましたよ。”「同じような・・思いだと?」絞り出すような声を出しながら、ルドルフはそう言って画面に映るシャルルを睨みつけた。“ええ。憶えておられますか、皇太子殿下・・今から12年前のことを?”「12年前?」“ええ。その頃わたし達兄妹が住んでいたサラエボは、戦火の只中にありました。クロアチア人とセルビア人、アルバニア人・・それまで友人のように親しくしていた者達が突然いがみ合うようになり、血を血で洗うような惨劇が起こりました。いつ命を落としてもおかしくないような状況の中で、わたしと妹は必死に生きてきた。あなた達ハプスブルク帝国が勝手に始めた戦争の中を!”シャルルはそう叫ぶと、瑞姫の首を絞めた。「やめろ、ミズキに手を出すな!」“わたしはあなたが羨ましくもあり、妬ましくもあり、憎んでいました。美しい妻と可愛い子ども達、幸福な家庭・・わたしが全て失ったものばかり持っているあなたが。”シャルルはそっと瑞姫から首を離すと、彼女の髪を梳いた。“殿下、全てを奪われたわたしの気持ちは一生あなたには解らないでしょうね? 戦火の中で生きた人間の気持ちなど・・”「一体お前は何がしたいんだ? 何が望みだ?」苛々したルドルフはそうきつい口調でシャルルに問い詰めると、彼は溜息を吐いてルドルフに向かって微笑んだ。“今からお話しするのは、闇に沈んだ真実・・12年前、わたし達兄妹に何があったのかを・・あの戦火の下で何が起こったのかを・・”突然画面が切り替わり、1枚の写真が映った。 そこには金髪に琥珀色の瞳を煌めかせたシャルルが立っており、その隣には腰下までの黒髪をなびかせたナジャリスタが立ち、その間には金髪を波打たせエメラルドの瞳を煌めかせている少女が映っていた。“わたしには2人の愛する妹が居ました。1人はブタペストであなたを監視している冷徹な女戦士・ナジャリスタ、そしてもう1人は12年前にあなた方に殺されたわたしが愛した無垢なる天使・エレーナ。”シャルルはそう言って言葉を切ると、静かに語り始めた。 12年前―バルカン半島で起きた紛争下のサラエボで、ハプスブルク帝国軍が何をしたのかを。何故、無垢なる天使が殺されなければなかったのかを。にほんブログ村
2011年01月21日
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「済まないね、この男が無体を働こうとしたので、つい・・」ルドルフはそう言って女に笑うと、彼女はフンと鼻を鳴らした。ショートボブにして綺麗にセットしたブルネットの髪は、肩先で揺れていた。ダイヤを鏤めた黒のドレスの下には、均整のとれた筋肉が見え、白い腕には蝶と狼のタトゥーが彫られていた。「君達の目的は一体何だい? 金品目的だったら貴金属類を客達から奪ってここからおさらばするだけだ。しかし君達はそうせずに、外部との連絡をわたし達に絶たせ、人質にして籠城する。こんな手が込んだ事をする目的は・・」「ふん、勘の鋭い奴だ。貴族の道楽息子にしては、頭が切れるな。」「お褒めの言葉ありがとう。それで、わたしの推測は当たっていたのかな?」「まぁな。それよりもそいつはお前の息子か?」女がちらりと遼太郎を見ると、彼はにっこりと彼女に微笑んだ。「ああ。まだ1歳10ヶ月でね。わたしの事が大好きで、離れようとしないんだ。」「ててうえ、ねぇさまとようにあいたい。」遼太郎はルドルフの服の袖をひっぱりながらそう言うと欠伸をした。「もう寝る時間だったね。やっぱり家に置いてきた方が良かったかな?」ルドルフは遼太郎の黒髪を撫でながらそう彼に聞くと、彼は首を横に振った。「やだ、ててうえといっしょにいるもん。かあさまとやくそくしたんだもん、ててうえのことおねがいねって。」遼太郎はじっと黒い瞳でルドルフを見つめると、彼に抱きついた。「そうか・・」(こんなに人質が多いと犠牲者が出るのは確実だ。事態を最悪な者にしない為には・・)ルドルフの脳裡に、ある考えが浮かんだ。一か八か、やってみるしかない。ルドルフは自分の腕の中で眠る遼太郎の寝顔を見た。この子の為にも、ここで死ぬわけにはいかない。ルドルフはゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと深呼吸した。「動くなと言っているだろう! 殺されたいのか!」すかさず男の1人がルドルフにマシンガンを向けたが、彼はそれに臆することなくこう言った。「わたしの名はルドルフ=フランツ=カール=ヨーゼフ=フォン=オーストリア=ハプスブルク。ハプスブルク帝国皇太子だ。君達の目的は判らないが、わたしとこの子以外の人質は全員解放して貰おうか?」『ルドルフ・・ルドルフだと?』マシンガンを持った男はそう言って女を見た。『どうする、ナジャリスタ? 皇太子とあの子どもだけを人質に取って公開処刑するっていうのは?』『悪い考えではないが、賢明じゃないな。あいつが何を考えているのかは解らんが、そうすることにしよう。』黒いドレスの裾を翻しながら、女―ナジャリスタはそう言うとルドルフを見た。「わかった、お前の提案を呑むことにしよう。但しひとつ条件がある。」「条件?」ナジャリスタはボストンバッグの底からノートパソコンを取り出すと、それを円形テーブルの上に置いた。「ここで起こった事は全て公にすることだ。まぁ、今はネットを使えばこの瞬間も全世界に流れているし、秘密には出来ないな。」彼女はノートパソコンを開くと、クラッチバッグからデジタルカメラを取り出してパソコンに接続した。すると画面上には、独房のような部屋が映し出され、錆びた水道管の先には黒髪の女が手首を手錠で拘束されて俯いていた。「あの女が誰か、判るか?」「さぁな。」やがて部屋の中に一筋の光が射し込み、女がゆっくりと顔を上げた。その顔を見た途端、余裕綽綽な笑みを浮かべていたルドルフの顔が凍りついた。(ミズキ!)形の良い口端には血が滲み、陶磁器のような美しい肌には誰かに殴られたかのような赤い痣が出来ていた。「お前・・ミズキに、妻に何をした!?」“そんなに興奮なさらないでくださいよ、皇太子殿下。”画面に突然ぬぅっと1人の男が現れたかと思うと、彼は瑞姫の黒髪を優しく撫でた。“初めまして、皇太子殿下。わたしはシャルル=ド=ラニエ。かつてあなたに全てを奪われた男ですよ。”にほんブログ村
2011年01月20日
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「ん・・」 瑞姫がゆっくりと目を開けると、そこには病室の白い天井も、ホーフブルクの見慣れた美しい天井でもないものが広がっていた。遠くから微かに水道管から水が漏れる音が聞こえる。(一体、ここは何処なの?)辺りを見回すと、壁には弾痕のような穴が数か所開いており、崩れた壁から見慣れぬ異国の街が見渡せた。『漸くお目覚めか、皇太子妃様。』不意に耳障りな男の声が背後からしたかと思うと、瑞姫は髪を引っ張られて床に叩きつけられた。視界が一瞬白く染まり、口端が切れて血が茶褐色に汚れた床に飛び散った。瑞姫は痛みに呻きながらゆっくりと顔を上げると、そこには顎鬚にサングラスをかけ、屈強な肉体を迷彩服に包んだ男が立っていた。「あなた方は何者です? わたくしをどうするつもりですか?」『なぁに、悪いようにはしねぇ。ただちょっと、痛い目に遭って貰うけどな。』ドイツ語で話しかけた瑞姫に対し、男はセルビア語でそう言うと、口端を歪めて笑った。この男が一体何者なのかは判らないが、早くここから逃げなくては―瑞姫はそう思い、立ち上がろうとした。だが、自分の手首をふと見ると、そこに手錠が嵌められていることに気づいた。『逃げると思ってあんたが気絶している時に付けたんだ。』「ここは何処ですか?」『いずれ、わかるさ。暫くそこで休んでな。』男は瑞姫に投げキスすると、部屋から出て行った。「皇太子妃様のご様子はどうだ?」「異常ありません。」男が高価なペルシャ絨毯が敷かれている部屋に入ると、暖炉の前に置いてあるソファに座っていたシャルルがゆっくりと立ち上がった。「そうか・・今頃ブタペストでは、阿呆面をした連中が恐怖に震えていることだろう。」 一方ブタペストでは、パーティーに乱入してきた武装した数人の男女によって大広間は占拠されてしまった。「妙な動きをしたら殺す。全員携帯をこちらに渡せ!」客達は恐怖に慄きながら、バッグや夜会服の胸ポケットから携帯を取り出し、犯人グループが用意した紙袋の中へと次々と入れた。(こいつらの狙いは何だ? 金品目的なら金目のものを要求する筈だが・・)ルドルフが犯人グループの目的を探っている時、遼太郎の姿がないことに気づいた。犯人グループに気づかれないようにルドルフがテーブルの陰に隠れながら移動していると、遼太郎は黒いボストンバッグの中を覗き込んでいた。「リョータロウ、何をしている?」「ててうえ、これなに?」そう言って遼太郎がバッグの中から取り出したのは、スタンガンだった。「これは危ないから、お父様に渡しなさい。」「うん。」遼太郎からスタンガンを受け取ったルドルフは、それを内ポケットに隠した。「リョータロウ、お父様の傍を離れるんじゃないよ、いいね?」「うん。」「良い子だ。」遼太郎を抱えてテーブルの下にもぐろうとした時、甲高い悲鳴が窓の方から聞こえた。ちらりとルドルフがそちらを見ると、パーティーの主催者とその妻と思しき女性が犯人グループに命乞いをしていた。「妙な動きをしたら殺すと言っただろう!?」「お、お願いです、命だけはどうか・・」「うるさい、黙れ!」犯人グループの男が夫妻に銃口を向け、引き金を引こうと隙を見せたのを狙って、ルドルフは男の首筋にスタンガンを押し当てた。男が悲鳴を上げようと口を開こうとしたのでルドルフは間髪入れずにもう一度スタンガンを彼の喉笛に押し当て、拳銃を奪った。(何とかしてここから出なければ・・)ルドルフが扉へと目を向けた時、自分の頭に銃口が押し当てられる感触がした。「動くなと言った筈だ。」ふと顔を上げると、そこには冷酷な光を湛えたアッシュモーヴの瞳で自分を見下ろす女が立っていた。にほんブログ村
2011年01月20日
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