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1912年6月。 横浜市内の教会で、菊とアレクシスは両家の家族に見守られながら、結婚式を挙げた。彼女は、母が遺してくれた純白のウェディングドレスを纏い、アレクシスと腕を組みながら真紅の絨毯の上を歩いた。「菊さん、結婚おめでとう。末永くお幸せにね。」「有難う、梨沙子さん。」 親友である梨沙子から祝福の言葉を受けた菊は、彼女にブーケを手渡した。「今度は貴方が幸せになる番よ。」「菊さん、有難う。」 結婚式を挙げた菊とアレクシスは、船上で披露宴を行った。 楽団がワルツを奏でると、花嫁の菊とその父親であるルドルフが最初にダンスを踊った。『そのドレスは、タマキが・・』『お母様は、素敵な贈り物を遺してくださったの。お父様、わたくしアレクシス様と幸せになるわ。』『お前達なら、きっと幸せになれるさ。』ルドルフはそう言うと、水平線の彼方を眺めた。かつて海を渡り、環とこの異国の土を踏んだ記憶が、不意にルドルフの脳裏に甦った。『お父様、どうなさったの?』『いや・・昔、お母様と共に海を渡った時の事を思い出してね。あれから、随分と長い時が過ぎてしまった・・』『もう、そんな事をおっしゃらないで。もう終わった事ではないの。』『あぁ、そうだな。過去よりも、未来の事に目を向けなくてはいけないな。』 アレクシスと結婚した菊は、暫く横浜の実家で過ごした後、ウィーンへと戻った。「お姉様、また会える?」「ええ。お母様、お父様と弟の事を宜しくお願いします。」「解っているわ。菊さん、体調を崩さないように為さいね。」「はい、解りました。」「キク、これをお前に。」 横浜港で娘夫婦を見送りに来たルドルフは、菊に環の形見である琥珀のブローチネックレスを渡した。「身体に気をつけるんだぞ。」「ええ、お父様もお身体をご自愛為さってね。」菊は船が出航し、港から離れるまで、両親と弟に向かって手を振った。それが、父と娘が最後に日本で過ごした日になった。1916年11月22日。 ルドルフの父であるオーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝・フランツ=カール=ヨーゼフ一世は、第一次世界大戦の最中、病に倒れ86歳で没した。その翌日、ルドルフも肺炎に罹り、二番目の妻・瑠美子と長男・誠、そして娘夫婦に見守られながら、58年の生涯を終えた。 ルドルフの遺体は生前の遺言に従って火葬され、その遺灰を持って菊とアレクシスは亡き母の故郷である会津若松・猪苗代湖へと向かった。「この素晴らしい景色を、お父様はお母様と一緒にご覧になったのね。」「ああ。」 ルドルフの遺灰を菊とアレクシスが湖に撒くと、天から射した光の中で、環とルドルフが仲良く手を取り合って天へと向かってゆく姿を、二人は見た。(お父様、どうかお母様と天国で幸せになってください・・)-完-にほんブログ村
2016年01月29日
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アレクシスと菊が、両親の待つ居間に入ると、ソファに座っていたルドルフと瑠美子が二人の姿を見て立ち上がった。『お父様、お母様、わたくしの婚約者の、アレクシス様よ。』『初めまして、アレクシス=ミューラーと申します。』『ルドルフ=フランツと申します。君の事は娘からの手紙で色々と知っているよ。長旅で疲れただろうから、話をする前にまず食事でもしないか?』『はい、喜んで頂きます。』 ダイニングルームへと移動したルドルフ達は、楽しく昼食の時間を過ごした。『結婚式は、いつ挙げるつもりなの?』『6月を予定しております。結婚式を挙げてから、僕たちはウィーンに戻ることになりますが、宜しいでしょうか?』『ああ、構わないさ。キク、お前には心配を掛けてしまって済まなかったな。』『いいえ。お父様、お身体の具合はどうなの?』『もう大丈夫だ。余り根詰めると身体が壊れる。』ルドルフはそう言うと、菊のグラスにワインを注いだ。『勉強は捗っているか?』『ええ。お父様、ウィーンではお母様はちょっとした有名人だって知って、わたくし驚いてしまったわ。』『それは誰から聞いたんだ?』『アレクシス様からです。』『わたしの父は、貴方の奥様のファンだったのです。まさか、キクさんのお母様だったなんて、驚きです。』『わたしもだ。これからお互い、仲良く出来そうだな。』『ええ。』 結婚式までの間、ルドルフとアレクシスはいつの間にか意気投合し、遠乗りに出掛けたり狩猟へ行ったりして親交を深めた。「菊さんがウィーンへ留学してから、ルドルフさんはいつも貴方の事ばかり心配していたのよ。まぁ、可愛い一人娘を海外へやるということは、男親にとっては不安になるのも仕方がない事でしょうね。」「お義母様、誠は元気にしているの?」「ええ。あの子はもう少ししたら学校から帰って来るわ。」瑠美子がそう言って菊の部屋で彼女と共に彼女の荷物を解いていると、一階から賑やかな足音が聞こえた。「お母様、ただいま!」「お帰りなさい、誠。この人が誰だかわかる?」「菊お姉様でしょう!初めまして、誠です。」 居間に入って来た誠は、そう言って菊に笑顔を浮かべると彼女に抱きついた。「誠君ね、こちらこそ初めまして。」「誠、わたしはお姉様と大事な話があるから、お部屋に行っていなさい。」「はい、解りましたお母様。」 誠は菊と瑠美子に一礼すると、ランドセルを背負ったまま居間から出て行った。「大切な話って何かしら、お義母様?」「貴方を連れて行きたいところがあるの、わたくしについていらっしゃい。」 瑠美子に連れられた場所は、かつて母が経営していた洋装店だった。「お義母様、どうしてこんな所にわたくしを連れて来たの?」「貴方に、結婚祝いのプレゼントがあるのよ。」「プレゼント?」瑠美子は奥の裁断室から、美しい刺繍を施され、レースと真珠を縫い付けられた純白のウェディングドレスを持って来た。「まぁ、素敵なウェディングドレス。」「このドレスは、貴方の亡くなられたお母様・・環さんが、生前最後の仕事として縫った物なのよ。」「亡くなられたお母様が、このドレスを?」瑠美子の言葉を聞いた菊の脳裏に、環と生前交わした約束の事を思い出した。“貴方が結婚するときは、貴方のウェディングドレスを縫ってあげるわね。” 環はその約束を無事に果たし、菊に最高の贈り物を遺してくれたのだ。にほんブログ村
2016年01月29日
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14日の初回から観ているドラマ。原作小説は未読なのですが、カナコの夫のような人間は、身近にいると思います。DV(家庭内暴力)・モラル=ハラスメント(精神的暴力)は、「家庭」という密室で行われているもので、表面化しにくい。学校の「教室」という密室で行われているスクールカーストやいじめと同じようなものです。ナオミはカナコを夫から自由にさせる為、カナコの夫の殺害計画を練ります。ナオミは、幼少期に父親が母親に暴力をふるっている光景を見て来ました。ドラマの中にはカナコが夫から暴力をふるわれているシーンがあって・・それが痛々しくて、カナコが可哀想でなりませんでした。最終回まで見逃せないドラマです。
2016年01月28日
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イオンシネマの試写会が当ったので、母と二人でアカデミー賞ノミネート作品「オデッセイ」を観に行きました。3D映像で観る火星と宇宙の映像は圧巻の一言に尽きます。火星に一人取り残され、様々な知恵を絞って火星で暮らす主人公・ワトニー。彼の不屈の精神にエールを送りながら、宇宙船のクルーと再会するシーンに拍手を送りたくなりました。これから観られる方、3D吹替えで絶対観ることをお勧めします。
2016年01月28日
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『キクさん、来てくださったのですね。』『アレクシス様・・』菊が握り締めている手紙と指輪の存在に気づいたアレクシスは、彼女を抱き締めた。『キクさん、姉からわたしの母について色々と話を聞いたでしょう?』『はい。アレクシス様、貴方がわたしに嘘を吐いた事を知った時、わたしは貴方に対する怒りよりも驚きました。そして、貴方がお母様に嘘を吐かざるおえなくなったことに理解しました。』『理解?』『ええ。人には誰にも言えない秘密を抱えている。わたしだって、貴方に言えない秘密を抱えているんです。』『そうですか・・』アレクシスはそう言うと、溜息を吐いた後天を仰いだ。『貴方にその手紙を出したのは、一種の賭けでした。』『賭け、ですか?』菊の言葉に、アレクシスは静かに頷いた。『わたしが嘘を吐いて、貴方が失望してしまうのか、そうではないかを、賭けていました。最低ですよね、そんな事を考えてしまうなんて・・』『いいえ。』菊はそう言うと、アレクシスに抱きついた。『キクさん?』『わたしは、貴方の事を好きです。』突然、菊から告白され、アレクシスは驚愕の表情を浮かべた。『申し訳ありません、いきなり抱きついたりして・・』頬を羞恥で赤く染めた菊がそう言って慌ててアレクシスから離れると、彼は菊の手を握った。『いいえ。キクさん、わたしの妻となってください。』『はい、喜んで。』 菊は、アレクシスに嵌めて貰ったエメラルドの指輪を嬉しそうに何度も見つめた。『その指輪、誰から?』『アレクシス様からよ。昨夜、彼からプロポーズされたの。』『まぁ、それは本当なの?』『ええ。今日、彼の家族と会うことになっているの。緊張してしまうわ。』『大丈夫よ、きっとうまくいくわ。』 アレクシスからプロポーズされた翌日、菊は彼と共に彼の家族と会った。『貴方が、アレクシスの婚約者だね?』『初めまして、キク=ハセガワと申します。お目に掛かれて光栄です、伯爵。』『そんな堅苦しい呼び方は止してくれ。これから君はわたしの義理の娘となるのだから。』ミューラー伯爵は、そう言うと菊に微笑んだ。『これから息子の事を宜しく頼む。』『解りました、お義父様。こちらこそ宜しくお願いいたします。』 アレクシスの家族と会った後、菊は日本の両親宛てにアレクシスと結婚することになったという内容の手紙を書いた。 すると数日後、すぐさま婚約者を連れて日本に帰国するようにとの内容の手紙が届いた。『アレクシス様、お忙しいのに突然呼び出してしまって申し訳ありません。』『いいえ。それよりもキクさん、お話とは何ですか?』 シュテファン寺院の近くにあるカフェにアレクシスを呼び出した菊は、両親の手紙を彼に見せた。『アレクシス様、わたしと一緒に日本へ行ってくださいませんか?』『貴方の為なら、地の果てまで行きましょう。』 1912年2月、菊は婚約者・アレクシスと共に、5年ぶりに祖国の土を踏んだ。『君のご両親の話は何度も聞いたけれど、実際に会うとなると何だか緊張してしまうな。』『大丈夫よ、さぁ行きましょう。』 菊がアレクシスと腕を組みながら自宅の玄関ホールに入ると、静が笑顔を浮かべながら二人を出迎えた。「ただいま、静さん。お父様達は?」「旦那様と奥様なら、居間でお待ちしておりますよ。」にほんブログ村
2016年01月28日
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『さっきはどうしてあんなに急いで何処に向かおうとしていたのですか?』『郵便局へ手紙を出しに・・横浜の義母から、父が過労で倒れたという手紙が届きまして、すぐに戻るという返事を書いて、その手紙を郵便局に出すつもりでした。』『お父様の事が心配で堪らないのは解りますが、急いで貴方が事故にでも遭ったという事を知ったら、貴方のご両親は心配なさるはずです。』『助けてくださって有難うございます、アレクシス様。』『いえ、わたしは当然の事をしたまでです。郵便局までお送りいたしましょう。』アレクシスはそう言うと、菊を郵便局まで送った。『では、わたしはこれで失礼いたします。』『さようなら、アレクシス様。』 日本宛ての手紙を送った菊が郵便局から出ようとした時、長身の女性が自分の方へとやって来るのが見えた。『貴方が、キクさん?』『はい、そうですが・・貴方は?』『初めまして。わたしはアレクシスの姉の、リザーと申します。ここで立ち話も何ですから、何処かでお話しませんか?』『はい、解りました。』 郵便局から出た菊は、アレクシスの姉・リザーと共に近くのカフェへと入った。『弟から、貴方のお話は聞いておりますわ。何でも貴方のお父様は、横浜で貿易商をなさっておられるとか?』『ええ。』『アレクシスは、自分の母親の事をどう貴方に話されたのですか?』『噂では母親はインドの王女だと言われているけれど、本当はロマ出身で、アレクシス様を出産されて亡くなったという話を聞きました。』『そうですか。あの子の母親の事は、我が家の禁句となっておりますから、あの子もそのような作り話を貴方に為さったのですね。』『それは一体、どういう意味ですか?』『あの子の母親は、あの子を産んですぐに精神を病んでしまって、今は精神病院に居るの。』『精神病院に?』リザーは溜息を吐き、コーヒーを一口飲んだ後、菊を見た。『あの子の母親は、産後鬱になってしまったようなの。それをあの子とわたしが知ったのは、つい最近の事よ。』『そんな大事な話を、何故わたしに為さるのです?』『弟が人生の伴侶と決めた女性に、真実を告げることは姉であるわたしの務めだと思ったからよ。』リザーは磨き上げられた美しいアメジストのような瞳で菊を見た。『アレクシス様のお母様は、どちらに入院されていらっしゃるのですか?』『申し訳ないけれど、それはわたしも知らないの。わたしはこれで失礼するわ。』リザーは颯爽と椅子から立ち上がり、伝票を掴むとカフェから出て行った。 その日の夜、菊の元に一通の手紙が届いた。『差出人の名前がないわね。一体誰からかしら?』『さぁ・・開けて御覧なさいよ。』マリアにそう促され、菊が手紙を開けてみると、中にはエメラルドの指輪が入っていた。“この手紙を持って、学生会館へ来て欲しい ―A―” 一行だけの短い手紙―それだけで、菊は誰が手紙の差出人なのか解った。『マリア、少し出掛けて来るわ。』『こんな時間に何処へ行くのよ?』『すぐに帰るから、心配しないで。』 菊が手紙と指輪を掴んで部屋から出ると、学生会館へと向かった。そこには、誰も居なかった。(来るのが遅かったかしら・・) 菊がそう思って寮の部屋へと戻ろうとした時、彼女は誰かに肩を叩かれた。にほんブログ村
2016年01月28日
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これも気になっていたので業務スーパーで買いました。コーヒーの上で数分温めると、中のキャラメルが溶けてワッフル生地との相性が良くて美味しかったです。
2016年01月27日
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イオンの輸入食品店で買ったポテトチップス。薄切りでとても食べやすくて美味しかったです。
2016年01月27日
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業務スーパーで前から気になっていたので買いました。濃厚で、チョコソースが口の中で蕩けて美味しかったです。
2016年01月27日
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パーティーの後、アレクシスが菊を連れて来たのは、オペラ座の近くにあるカフェだった。『パーティーは好きですが、騒がしくて貴方とゆっくり話が出来ないので、このカフェに貴方をお連れしました。』『そうでしたの。わたくしの為に気を遣ってくださって有難うございます。』菊はそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。『貴方のお話を聞いたのですから、今度はわたくしの両親の話をしますわね。』『キクさん、貴方のご両親はどのような方なのですか?』『わたしの母は日本人で、母は行方不明になった伯父を探すために渡欧しました。色々と大変な目に遭って、その時母を助けてくれたのが父だったのです。』『もしや、貴方のお母様はあの“東洋の舞姫”と呼ばれた方ではありませんでしたか?』『ええ、そうですわ。母をご存知でいらっしゃるの?』『貴方のお母様は、ウィーンやプラハ、ブタペストでは有名ですよ。前の皇太子殿下も、貴方のお母様の事を大層気に入られていたという話を父から聞いたことがあります。』『わたくし、余り母がウィーンに住んでいた頃の話を聞きませんでしたの。いつか聞こうと思った時には、もうすでに母は病で没した後でした。』菊はそう言うと、急に環の事が恋しくなって涙を流した。『申し訳ありません、わたくし・・』『誰にだって、泣きたい時はあります。わたしも、母を想って泣く時があります。』アレクシスは菊にハンカチを手渡した後、少し冷めてしまったコーヒーを飲んだ。『そろそろ寮に戻らないと、みんなが心配しますね。』『えぇ、そうですね。』 菊とアレクシスが学生寮に戻ると、学生会館の方からパーティーの騒がしい音楽がまだ聞こえて来た。『どうやら、パーティーは夜通し続きそうですね。』『ええ。わたくし、夜更かしするのが嫌いなので寮の部屋で休みますわ。貴方は?』『わたしも同感です。部屋まで送りましょう。』『まぁ、有難うございます。』 菊はアレクシスに女子寮まで送って貰う途中、彼と互いの家族の事や趣味の事などを話した。『送ってくださって有難うございました、アレクシス様。』『いいえ。キクさん、貴方と楽しい時間を過ごせて良かったです。良い夢を。』アレクシスはそう言った後、菊の額に唇を落とした。 翌朝、菊が眠い目を擦りながら寮の食堂に入ると、数人の女子学生達が彼女の元に駆け寄って来た。『貴方、昨夜王子様と一夜を過ごしたんですってね?』『抜け駆けなんて、ずるいわ!』『王子様と一体何を話したの、わたし達に教えなさいよ!』 彼女達からそう詰め寄られた菊は、溜息を吐いた後こう彼女達に言い放った。『確かにわたしは昨夜アレクシス様と楽しい時間を過ごしたけれど、貴方達が思っているような疚(やま)しいものではないわ。それに、わたしとアレクシス様が何を話したのかを、貴方達に話す義務でもあって?』菊の言葉を聞いた彼女達は、そのまま黙り込んでしまった。『キク、あんな人達は放っておきなさいよ。』『ええ、解っているわ。』『貴方に今朝、手紙が届いていたわよ。』『有難う。』マリアから手紙を受け取った菊は、朝食を取った後寮の部屋でそれを読んだ。 手紙は横浜の義母からで、そこにはルドルフが過労で倒れてしまったことが書かれていた。手紙を読んだ菊は、すぐさま義母宛ての手紙を書き、それを出す為に郵便局へと向かった。 その途中で、彼女は一台の馬車と危うく衝突しそうになった。『危ない!』馬の嘶きと通行人達の悲鳴が聞こえる中、アレクシスの澄んだ声が菊の耳元で響いたかと思うと、次の瞬間彼の逞しい両腕に彼女は抱かれていた。『お怪我はありませんか?』『はい、大丈夫です。』にほんブログ村
2016年01月27日
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学生会館で開かれているパーティーには、音楽院の学生達やその友人達が集まり、賑わっていた。『かなり賑わっているわね。』『そりゃぁそうよ、こんな所でないと日頃溜まっていたストレスを発散できないでしょう。』そう言ったマリアは、長いブロンドの髪を結い上げている菊の方を見て溜息を吐いた。『どうしたの、溜息なんて吐いて?』『貴方って、本当に綺麗だなって思ってね。同じ白人でも、どうしてあたしはこんなに太っているのかしら?』マリアは赤いドレスの上から腹の贅肉を少し摘まんで再び溜息を吐いた。『あら、マリアだって可愛いじゃない。もっと自分に自信を持ちなさいよ。』『それ、嫌味にしか聞こえないわ。そのネックレス、素敵ね?』『あぁ、これ?これは亡くなったお母様の形見なの。』菊がそう言って首に提げているアメジストのネックレスを指先で触れた時、突然周囲がざわめきだした。『何かあったのかしら?』『今夜の主役、王子様の登場よ!』菊とマリアが入り口の方を見ると、艶やかな黒髪を靡かせながら、濃紺のスーツを着た長身の青年が友人達を連れて入ってくるところだった。『あれが、ミューラー伯爵の息子さん?』『そうよ。彼はここではちょっとした有名人なのよ。彼の事を知らないのは貴方だけよ。』『肌が褐色だけれど、彼は何処の出身なのかしら?』『父親の伯爵は生粋のハンガリー人だけれど、母親の方はジャイプル藩王国の王女だそうよ。』『そうなの。』マリアと菊がそんな話をしていると、“王子様”ことアレクシスと菊は一瞬目が合った。アレクシスの瞳は、磨き上げられたエメラルドのような美しい翠だった。『どうした、アレクシス?』『いや・・あちらの麗しいお嬢さんたちが、僕の事を噂していたので、少し気になってしまったんだよ。』そう言ったアレクシスは菊の前に立つと、優雅に彼女に右手を差し出した。『わたしと踊ってくださいませんか?』『わたくし、知らない方と踊るつもりはありませんわ。』『これは失敬。わたしはアレクシス=ミューラーです。』『わたくしはキク=ハセガワですわ。』菊はアレクシスに微笑んだ後、彼の右手を取って踊りの輪へと加わった。『随分とダンスがお上手でいらっしゃるのですね?』『子供の頃に、両親からダンスを習っていましたの。両親は昔、ウィーンに暮らしていましたから。』『そうなのですか。わたしの両親の事を、お友達から色々と聞いていたでしょう?』『えぇ、まぁ・・』『ここだけの話ですが、わたしの母はインドの王女ではなく、ハンガリーのロマなのです。ブタペストの街角で歌っていた母を見初め、父が親族の反対を押し切って結婚したのです。』『まぁ、ロマンティックなお話ですわね。』『物語の世界だと身分違いの恋をした男女はハッピーエンドを迎えますが、現実はそんなにうまくはいきませんでした。わたしの母は、わたしを産んで直ぐに亡くなりました。』『御免なさい、辛いことを聞いてしまって・・』『いいえ、いいんです。母は命と引き換えに、わたしを産んでくれた。母が居たから、こうしてわたしは貴方と出逢えたのです。』 アレクシスはそう言うと、菊に微笑んだ。 二人のワルツが終わると、招待客達は温かい拍手を彼らに送った。『パーティーが終わったら、二人で何処かに出掛けませんか?』『ええ、喜んで。』にほんブログ村
2016年01月27日
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1904年8月21日、ルドルフの誕生パーティーが横浜市内の自宅で開かれた。「お父様、お誕生日おめでとう。」「有難う、キク。このケーキ、お前が作ったのかい?」「そうよ。お母様のお料理本を見ながら作ったのよ。このチョコレートの飾りは、お義母様と二人で作ったの。」 ダイニングテーブルの中央に置かれているケーキを眺めながら、ルドルフが菊とそんな話をしていると、そこへ瑠美子が現れた。「貴方、お誕生日おめでとうございます。」「有難う、ルミコ。」「ねぇ貴方、このケーキ、菊さんが作ったんですのよ。」「さっきキクから聞いたよ。今日のパーティーの飾りつけは、君がしてくれたのかい?」「いいえお父様、わたしがお義母様と二人で飾りつけをしたのよ。ねぇお父様、少し目を閉じていてくださらない?」「解ったよ。」ルドルフがそう言って目を閉じると、手首に冷たい感触がしたことに気づいた。「もう開けてもいいわよ、お父様。」ルドルフが目を開けると、自分の左手にペリドットのブレスレットがつけられている事に気づいた。「これは?」「わたしがお義母様と一緒に選んだ物なの。気に入ったかしら?」「ああ、とても気に入ったよ。有難う、キク。」「お父様が喜んでくださって良かったわ。」仲睦まじい様子のルドルフと菊の姿を瑠美子が少し離れた所で見ていると、静が彼女の肩を叩いた。「どうしたの、静さん?」「あの方が、奥様にお会いしたいと・・」「そう。」 瑠美子は厨房から塩が入った壜を掴み、玄関ホールへと向かうと、そこには憤怒の表情を浮かべたあの時の女性が立っていた。「貴方の所為で、うちは滅茶苦茶よ!」「それは賭博に手を出した貴方のご主人の自業自得じゃない。よくも菊を吉原に売ろうとしたわね!」瑠美子は女性を睨みつけると、壜の中に入っていた塩を彼女の頭に振りかけた。「貴方を夫のパーティーに招待した覚えはないわ。さっさとお帰りなさい!」女性は悔しそうに唇を噛んだ後、そのまま玄関ホールから外へと出て行った。「お義母様、あの人から何もされなかった?」「大丈夫よ、菊さん。パーティーに戻りましょう、お父様がわたし達の事を待っているわ。」「ええ。」 ルドルフの誕生パーティーから二ヶ月後、菊は瑠美子とルドルフに見送られながら、横浜港から船に乗り、ウィーンへと旅立っていった。「これから寂しくなりますわね、貴方。」「そうでもないさ。」 ルドルフはそう言うと、まだ目立たない瑠美子の下腹をそっと撫でた。 ウィーンに留学してから半年後、菊は義理の弟の誕生を父の手紙で知った。『キク、どうしたの?何だか嬉しそうね?』『そうかしら?』『それよりも貴方、今度の公演で主役を務めるんですって?まだこの学院に入学して間もないのに、凄いわね。』『そんな事ないわよ。ねぇ、今夜のパーティーに、あのミューラー伯爵の息子が来るって、本当なの?』『本当よ。貴方もいらっしゃいよ。』 その日の夜、菊はウィーン音楽院の同級生で学生寮のルームメイトであるマリアと、学生会館で開催されるパーティーに出席した。そこで彼女は、運命の人と出逢った。にほんブログ村
2016年01月26日
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菊が同級生と喧嘩した後、彼女に対する嫌がらせや陰口といったものはなくなった。「只今戻りました。」「お帰りなさい、菊さん。今静さんと二人でケーキを作ったのよ。」「頂くわ、お義母様。」菊はソファに鞄を置くと、瑠美子と共に厨房へと入った。厨房に入ると、焼き立てのケーキのいい匂いがした。「お義母様、何か手伝う事はありませんか?」「まぁ、学校から帰って来て疲れているのに、手伝わせてしまって済まないわね。」「いいえ。美味しそうなケーキですね。」「ベリータルトよ。貴方のお母様の書斎に置いてあったお料理の本を見て作ったの。」「コーヒー、淹れますね。」菊がマグカップに淹れ立てのコーヒーを淹れると、瑠美子は何かを考えているような顔をしていた。「お義母様、どうかなさったの?」「いいえ、何でもないわ。さぁ、コーヒーが冷めないうちにいただきましょう。」「ええ。」 菊と瑠美子が居間でコーヒーを飲みながらベリータルトに舌鼓を打っていると、玄関の方から物音がした。「何かしら?」「わたくしが見て参ります、奥様。」静がそう言って居間から出て行った直後、玄関ホールから彼女の悲鳴が聞こえた。「静さん、何があったの?」「お前が、長谷川の娘か?」 玄関ホールに菊が駆けつけると、そこには垢に塗れた絣(かすり)を着た男が立っていた。「貴方はどなたです?」「俺は女衒(ぜげん)から頼まれて、あんたを吉原に連れて行くようにと言われてね。さあ、俺と一緒に来るんだ。」「嫌よ、離して!汚い手でわたしに触らないで!」男と菊が激しく揉み合っていると、突然男が両手を頭で抱えて苦しみだした。「菊さん、大丈夫?怪我はない?」「お義母様!」 菊は男から自分を救ってくれた瑠美子に抱きついた。「静さん、早く警察を呼んで頂戴!」「かしこまりました!」 数分後、男は通報を受けた警察官によって逮捕された。「ルミコ、キク、無事か!?」「お父様、お義母様がわたしの事を助けてくださったのよ。」「そうか。」「貴方、菊さんを襲った男は、誰かに頼まれて菊さんを吉原に連れて行こうとしたのですって。」「誰が菊を吉原へ売ろうとしているんだ?」「さぁ、解らないわ。」 謎の男が長谷川家に乱入し、菊を拉致しようとして失敗した事件から数日が経った。「奥様、警察の方がお見えになっております。」「通して頂戴。」 居間に入った大宮刑事は、ソファに座ると一枚の書類を瑠美子と菊の前に置いた。「それは何ですの、刑事さん?」「これは、ある女性が書いた借用書です。ここには、借金の担保として貴方のお嬢さんを吉原に売ると書かれてあります。」「少し見せてくださいな。」「解りました。」 瑠美子は借用書を手に取り、そこにサインをしたのは自分に金の無心に来た女性だと気づき、怒りに震えた。「どうかなさいましたか?」「この借用書にサインした女性は、わたしの親族にあたる女性ですわ。」にほんブログ村
2016年01月26日
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「さっきわたしと会っていた人は、わたしの遠縁の親族なの。あの人のご主人は大層賭博が好きで、借金で首が回らないのよ。」「まぁ、そんな方がどうしてお義母様にお会いになられたのですか?」「わたしが金持ちの旦那を見つけて羨ましい反面妬ましいから、お金の無心に来たのでしょう。ああいう連中に一度金を渡したら、金蔓の人間に死ぬまで付き纏うのよ。」瑠美子は吐き捨てるような口調でそう言うと、女が触れたティーカップをハンカチ越しに触れ、それを厨房へと持って行った。「この世の中には、善人ばかりじゃないわ。表面上いい人の振りをして貴方に近づく人も居るかもしれないわ、用心なさい。」「解ったわ、お義母様。」 女学校へと戻った菊が教室に入ると、既に午後の授業は始まっていた。「申し訳ありません、家に忘れ物を取りに行って、遅くなりました。」「早く席にお着き為さい、長谷川さん。」「はい・・」放課後、菊が帰り支度をしていると、彼女は誰かに肩を叩かれた。「貴方、少し調子に乗っていない?」「あら、どうしてそう思うのかしら?」「貴方、校長先生から推薦を受けてこの女学校に入学して、先週の音楽発表会を観に来ていた方から留学を推薦されたから、いい気になっているのではなくて?」「それは貴方の捻くれた考えからくるものではなくて?」菊はそう言うと、いつも自分に絡んでくる女学生を見た。「何ですって!」「あら、図星だったようね。」菊は椅子から立ち上がると、鞄を持ってそのまま教室から出て行こうとした。「貴方、不倫の末に生まれた子なんですって?そんな汚らわしい方と一緒に机を並べていると思うと、ゾッとするわ。」 菊は彼女の言葉を聞いた途端、怒りで視界が赤く染まった。「この度は、本当に申し訳ありませんでした。」「全く、お宅は一体どういう教育を為さっておられるのですか!嫁入り前の娘の顔に傷をつけるなんて・・」 学校から連絡を受け、瑠美子とルドルフが駆けつけると、そこには顔に包帯を巻いた菊の同級生と、怒りの感情を二人にぶつける彼女の母親の姿があった。「一体、何があったのですか?」「貴方のお嬢さんが、うちの娘に暴力を振るったのですよ!」「お言葉ですが、菊は理由もなく人に暴力を振るうような子ではありません。何か理由があったのではないですか?例えば、お宅のお嬢さんが娘に何か言ったとか・・」「馬鹿な事を言わないでください!義理の娘を庇いたい気持ちは解りますけれどね、娘は被害者なのですよ!」 母親の言葉に、ルドルフは少し苛立ちを覚えた。 その時、菊が職員室から出て来た。「とにかく、慰謝料と治療費はきっちりと請求しますからね!」母親は菊を睨みつけ、娘の肩を抱いてルドルフ達の前から立ち去ろうとした。立ち去り際、彼女はボソリとこう呟いた。「親が道徳的じゃないから、娘があんな乱暴な子に育つのだわ。」「それでは貴方は、他人を平気で傷つけるような娘さんを育てているのですか?」 ルドルフは堪らず母親の肩を掴んで無理矢理彼女に自分の方を振り向かせると、そんな言葉を彼女に投げつけた。「自分の子供だけが可愛いと思うのは、親にありがちなものです。ですが、喧嘩の原因を作ったのは貴方の娘さんの無神経で残酷な言葉だということを、どうか憶えていてください。」 ルドルフはそう言って母親から離れると、瑠美子と菊を連れて学校から出た。にほんブログ村
2016年01月25日
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1904年6月、ルドルフと瑠美子は横浜市内の教会で結婚式を挙げた。「結婚おめでとう、お父様。」「有難う、キク。」「菊さん、これからも宜しくね。」「はい、お義母様。」 瑠美子が新しい家族の一員となり、菊は以前よりも彼女と仲良くなった。「ねぇお義母様、ひとつ聞いてもいいかしら?」「なぁに?」「お義母様はどうして、お父様と結婚為さろうと思ったの?」「特に大きな理由はないわ。わたしが貴方のお父様と結婚したいと思ったのは、この人となら一緒に歩んでゆけると思ったからよ。」「いつかわたしも、その人に会えるかしら?」「ええ、きっと会えるわよ。」 瑠美子はそう言うと、菊に微笑んだ。「ねぇ、もうすぐお父様の誕生日だけれど、パーティーを開こうと思っているの。」「それはいい考えね。菊さんは、ルドルフさんにプレゼントを贈る物は、考えているの?」「まだ考えていないわ。それよりもお義母様、お義母様は何処の出身なの?」「貴方の亡くなられたお母様と同じ、会津よ。貴方のお母様の家と、わたしの家は親戚同士なのよ。」「知らなかったわ。ねぇお義母様、わたし一度もお母様から会津の話を聞いていなかったの。お母様は、小さい時に故郷を失ったと話されていたから・・」「それは無理もないわね。戊辰の戦は、貴方のお母様にとっても、わたしにとっても思い出したくないものだから。」瑠美子はそう言って寂しげに笑った。「御免なさい、嫌な話をしてしまったわね。」「いいえ、いいのよ。それよりも菊さん、ウィーンに留学するのは秋なのね。」「ええ。色々と忙しくなるわ。留学するまで、わたしに家事を教えてね、お義母様。」「勿論よ。」 菊はウィーンへ留学するまでに、瑠美子から家事を教わった。「今日の夕食は美味しいね。」「そう?わたしが作ったのよ、お父様。瑠美子さんから、お料理を教わったの。」「菊さんは呑み込みが早くて、料理や裁縫の腕がめきめきと上達しているのですよ。」「それはお義母様の教え方が上手いからです。」「ねぇお父様、ウィーンへ留学したら、毎日手紙を出すわね。」「ああ、楽しみにしているよ。」 翌日、菊が忘れ物を取りに帰宅すると、居間の方から人の話し声がした。「貴方は一体何を考えているの?異人と結婚するなんて・・」「わたし個人の事を、貴方にあれこれ指図されたくないわ。わたしに対して文句を言いに来たのなら、今すぐお帰り下さい。」 菊が階段を上がる前、ちらりと居間の中の様子を窺うと、ソファには瑠美子と一人の女性が向かい合わせに座っていた。「まぁ、裕福そうな旦那さんを見つけて良かったわね。」「またお金の無心?また貴方のご主人が賭博で負けでもしたのかしら?」そう女性に言い放った瑠美子の口調は、冷たく刺々しいものだった。菊が暫く手摺の隙間から居間の様子を窺っていると、ドアが大きな音を立てて開き、中から女性が飛び出してきた。 菊は慌てて二階の部屋へと駆け上がって中に入った。下から誰かが言い争うような声が暫くした後、今度は玄関ホールのドアが大きな音を立てて閉まった。「菊さん、こんな時間にお帰りになるなんて、どうなさったの?」「ちょっと、忘れ物を取りに・・」「居間でのわたし達の話を、聞いていたのでしょう?」「御免なさい、お義母様、わたし・・」「謝らなくてもいいのよ。」瑠美子はそう言って菊に微笑むと、彼女の肩を優しく叩いた。にほんブログ村
2016年01月25日
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「マツコの知らない世界」で紹介されたアイス。ブルーベリーの果肉がぎっしりと詰まっていて食べ応えがあって美味しかったです。
2016年01月24日
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音楽発表会の会場となっている講堂は、保護者達でひしめき合っていた。「次は菊さんの番ですね。」「ああ。」ルドルフはそう言うと、舞台の方を見た。やがて舞台に、深緑のドレスを着てアメジストの首飾りをつけた菊が現れた。オーケストラピットが音楽を奏で始めると、菊は美しい声で夜の女王のアリアを歌い始めた。「まぁ、何て美しい歌声かしら・・」「まるで天使のような歌声だわ・・」菊の歌声に聞き惚れた観客がそんな声を漏らすのを、ルドルフは密かに聞いていた。菊が歌い終わると、観客達は総立ちとなって彼女に拍手を送った。「お父様、来てくださったの?」「娘の晴れ舞台を見に行かない訳がないだろう?」「菊さん、とても素晴らしい歌声だったわ。」「有難うございます、瑠美子さん。」 菊は瑠美子と抱き合うと、彼女に微笑んだ。「その首飾り、亡くなったお母様の形見ね?」「はい。お父様、どうしてわたしにこの首飾りを渡してくださったの?」「お前はきっと緊張していると思ってな、この首飾りを渡して、タマキがお前の事を応援してくれているというメッセージをお前に送りたかったんだ。」「まぁ、そうだったの。お父様のお蔭で緊張せずに歌えたわ。」 音楽発表会の後、菊はルドルフ達と三人で行きつけのレストランで昼食を取った。「二人とも、お式はいつお挙げになるの?」「そうねぇ、半年後には挙げたいと思っているの。菊さん、ウィーンへ留学するのはいつになるの?」「それはまだ解らないわ。ウィーンへ留学することが決まっても、お父様には瑠美子さんがいらっしゃるから安心してわたしは安心してウィーンへ行けるわ。」菊がそう言ってコーヒーを飲むと、ルドルフは激しく咳込んだ。「どうなさったの、お父様?」「お前も、随分と大人びた事を言えるようになったものだと驚いてしまってな。」「まぁ、ルドルフさんったら、そんな事で驚いてしまうなんて。」瑠美子はそう言うと、鈴を転がすような声で笑った。 翌朝菊が登校すると、彼女はヘァツォルト教授に呼ばれた。『お話とは何でしょうか、ヘァツォルト先生?』『そこへお座りなさい、キクさん。』『はい・・』『昨日の音楽発表会で貴方の歌声を聴いた高名な音楽家の方が、貴方を是非弟子にしたいとわたしにおっしゃいました。』『先生、それはわたしにウィーンへ行けとおっしゃっていらっしゃるのですか?』『ええ、そうですよ。貴方の実力ならば、大丈夫です。帰ってお父様とよく相談為さい。』『はい、解りました。』 夕食の席で菊からウィーン留学の話を聞いたルドルフと瑠美子は、まるで自分の事のように喜んでくれた。「良かったわね、菊さん。これから色々と忙しくなるわね。」「ええ。」 翌日、菊は瑠美子と共に女学校に行き、ウィーン留学に関する書類を事務局で受け取った。「貴方がウィーンへ行かれる前に、ルドルフさんと結婚式を挙げようかしら?」「是非そうなさって、瑠美子さん。ねぇ、今日から貴方の事を、“お義母様”と呼んでも宜しいかしら?」「ええ、良いわよ。わたしは貴方の事を実の娘だと思っているもの。」「じゃぁお義母様、これから何処かお茶でも飲まない事?」「いいわね、行きましょう。」 仲良く連れ立って歩く菊と瑠美子の姿を、西田は運転する車の窓から見ていた。にほんブログ村
2016年01月22日
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『ナイン(だめ)、何度言ったらわかるの!』『申し訳ありません、ヘァツォルト先生。』翌日、声楽の授業で菊は再び同じ箇所を教師から注意された。『その部分のアリアはもっと力強く歌うのですよ!』『解りました・・』菊の背後に立っている級友たちは、彼女が教師から叱られている姿を見てクスクスと笑っていた。 校長から推薦を受けて藤枝女学校に入学した菊だったが、その事が級友達の嫉妬を買ってしまい、入学してから一ヶ月が経つが、菊は未だに友人が出来ずにいた。声楽の授業が終わり、級友たちが次々と音楽室から出て行っても、菊はヘァツォルト教授の個人指導を受ける為に音楽室に残っていた。『さぁキクさん、最初から歌って御覧なさい。』『はい、先生。』 ヘァツォルト教授による個人レッスンが終わった菊が昼食を取りに食堂へと向かうと、丁度昼時で、席はほぼ埋まっていた。来る時間が遅かったかと思いながら菊が食堂を後にしようとした時、誰かが彼女の肩を叩いた。「長谷川さん、向こうから席が空いているよ。」菊が振り向くと、そこには筝曲部の顧問をしている西岡だった。「有難うございます、西岡先生。」「毎日食堂が混むのは困りものだね。」西岡はそう言うと、菊がテーブルの上にギンガムチェックの包みを置いた。「それは?」「父が作ってくださったお弁当です。」「君の家は、早くにお母様を亡くされたんだってね?」「ええ。家事は父と分担しておりますし、うちには家政婦が居ますから、苦労していません。」「そうか。僕は男の寂しい一人暮らしでね。親からは時々嫁を早く貰えと催促されてうんざりしているよ。」「まぁ、そうなのですか。」西岡と他愛のない話をしながら菊が昼食を食べていると、声楽の授業で一緒だった女学生達が彼女の方をチラリと見た。「どうかしたのかい?」「いいえ、何でもありません。」 放課後、菊が帰宅して居間に入ると、そこではルドルフと例の女性が談笑していた。「お父様、只今戻りました。」「お帰り、キク。紹介するよ。この人は山田瑠美子さんといって、お父様のお友達だよ。」「お友達ですって?昨日、そのお友達とお父様が抱き合っている姿をわたくし見てしまったわ。」「それは誤解ですよ。急に立ちくらみがしたので、お父様に抱き留められただけなのです。」「まぁ、そうですか。ご無礼な態度を取ってしまって申し訳ありませんでした。」菊はそう言って瑠美子に頭を下げると、彼女はクスクス笑った。「わたくしこそ、貴方に誤解を招くような事をしてしまって、申し訳ないですわ。」「キク、今日ここに瑠美子さんを招いたのは、お前に聞いて貰いたい話があるからだ。」「聞いて貰いたい話、ですか?」「ああ。急だが、わたしと瑠美子さんは再婚することになった。」「まぁ、急な話ですわね。お父様、瑠美子さん、おめでとうございます。」「有難う、キク。」 父の突然の再婚に驚いた菊だったが、自分の新しい母親となる瑠美子を、彼女は歓迎した。 数日後、藤枝女学校で音楽発表会が開かれた。「何だか緊張するわ・・」『大丈夫よ、自分を信じなさい、キク。』 自分の出番が近づくたび、菊の胸は緊張で高鳴った。『さぁ、出番よ。ああそうだ、先程貴方のお父様がいらして、これを貴方に手渡して欲しいと言われたの。』 ヘァツォルト教授は、そう言うと長方形のベルベットの箱を菊に手渡した。『これは何ですか?』『開けて御覧なさい。』 菊が箱の蓋を開けると、そこには母が生前愛用していたアメジストの首飾りが入っていた。にほんブログ村
2016年01月22日
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「梨沙子さん、お久しぶりね。貴方はいつからここへ通っているの?」「七つの時からよ。菊さんは?」「箏は六つの時から習っているけれど、わたしはピアノの方が好きなの。亡くなったお母様は箏や三味線の名手だったから、同じ親子でも好みが違うものだなってお父様からよく言われるわ。」「そう。藤枝は音楽教育に力を入れているから、貴方にとっては良い環境みたいね。」梨沙子はそう言うと、菊を羨ましそうな目で見た。「梨沙子さん、貴方はどちらの女学校に通われているの?」「瑞泉女学校よ。瑞泉では毎日お茶やお花の授業があるの。」「そう。藤枝でもあるけれど、毎日お花やお茶の授業はないわ。毎日あるのは声楽とダンス、テーブルマナーの授業かしら。」「テーブルマナーは、いずれ留学される貴方には必要不可欠なものとなるわ。菊さんは夢に向かって生きていらっしゃって羨ましいわ。」「そんな事ないわ。」 梨沙子と菊がそんな話をしていると、稽古場に先生が入って来た。「先生、今日も有難うございました。」「菊さん、今日も良い音色を出していましたね。ウィーンへ留学されても、お稽古を忘れずに励んでくださいね。」「はい、先生。ではこれで失礼いたします。」「菊さん、最近出来た甘味処へ行かない事?あそこは美味しいアイスクリンが評判なのよ?」「ええ、行くわ!」 梨沙子と菊が港近くにある甘味処へと向かうと、店内は女性客でごった返していた。「凄い人ね。」「そりゃぁ、女性の口コミはあっという間に広まりますからね。アイスクリンというものを食べてみたいと、わざわざ田舎から出て来るお方も居るのよ。」「まぁ、そうなの。」 店に入って数分後、菊と梨沙子は店員に漸く窓際の席に案内された。「アイスクリンを二つお願いします。」「かしこまりました。」 店員が奥へと消えていった後、菊は持っていた鞄の中から楽譜を取り出した。「それは?」「今度の発表会で歌う曲なの。声楽の先生はとても厳しくて、練習の時になるとわたしばかり注意されて嫌になってしまうわ。」「その先生は、貴方の才能を認めているからこそ貴方に厳しくしているのではなくて?才能がない人なら、最初から相手にしないわ。」「そう。梨沙子さん、貴方とお話していると、何だか元気が湧いてくるわ。」「こんなわたしでも、貴方のお役に立てると思ったら嬉しいわ。わたしのお父様は精神科医を為さっておられるから、どうしてもお父様の真似をしたくなってしまうのよ。」「そう。ねぇ梨沙子さん、今度うちにいらっしゃらない?」「あら、いいのかしら?」「いいに決まっているじゃないの。」 甘味処でアイスクリンを堪能した菊は、梨沙子と甘味処の前で別れると、家路を急いだ。(すっかり遅くなってしまったわ。) 空が曇り始めるのを見た菊がそんな事を思いながら早足で歩いていると、ルドルフが見知らぬ女性と並んで歩いている姿を見た。 一瞬ルドルフに声を掛けようとした菊だったが、女性が急に彼に抱きついたのを見て声を掛けるのを止めた。(お父様、あの方はどなたなの?)「どうしたんだい、キク?余り食べていないじゃないか?」「ええ、今度の発表会の事で色々と心配な事があって・・」「そうか。余り根詰めては駄目だよ。」 夕食の席で、菊はルドルフに女性の事を尋ねようとしたが、出来なかった。にほんブログ村
2016年01月22日
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「はい、これから撮りますので、そのまま動かないでくださいね。」「写真を撮るのって、疲れるわね。」 藤枝女学校に晴れて入学し、入学式に出席したルドルフと菊は、その足で横浜市内の写真館で家族写真を撮っていた。「良く似合っているぞ、その袴。」「これ、亡くなったお母様がご自分で仕立てた物なのでしょう?」「ああ、そうだよ。まさか、お前が女学校に入るときにこの袴を穿くことになるとは思わなかったよ。」ルドルフはそう言うと、目を細めて娘の袴姿を見た。「はい、撮りますよ~!」「お父様、笑わないと駄目よ。」「ああ、解っているさ。」 写真館を出た二人が帰宅すると、静が笑顔で彼らを玄関ホールで出迎えた。「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様。菊お嬢様、女学校ご入学おめでとうございます。」「有難う、静さん。静さんが勉強を教えてくださったお蔭よ。」「いいえ、滅相もございません。菊お嬢様、これから色々と忙しくなりますね。」「ええ。」 長谷川家では菊の女学校入学に向けた準備で忙しい日々を送っている一方、女学校受験に失敗した梨沙子は、毎日母親の富貴子から責められていた。「あんな簡単な問題が解けないなんて、お前の頭はどんな構造をしているの?」「ごめんなさい、お母様・・」「もう止さないか、富貴子。梨沙子だって落ちて悔しい筈だ。」 居間で母親から責められている梨沙子を見かねて、富貴子の夫である直忠(なおただ)がそう言って妻を窘(たしな)めた。「貴方はあの女の娘にうちの娘が負けて悔しくないのですか?」「わたしは君と、亡くなった環さんとの間に何があったのかは知らないし、知りたくもない。だが、環さんへの憎しみを梨沙子に植え付けて、梨沙子を復讐の道具にするのはやめてくれ。」「貴方・・」「梨沙子、お部屋に戻りなさい。」「はい、お父様。」梨沙子は涙を袖口で拭いながら、居間を出た。「貴方は梨沙子に甘すぎますわ。あの子には、もっとしっかりして貰わないと困るのです!だから、わたくしが厳しくしているんじゃありませんか!」「厳し過ぎると、子供は委縮してしまう。少し頭を冷やせ、富貴子。梨沙子が藤枝女学校に落ちたからといって、あの子の人生が終わった訳じゃない。」「貴方はそんな呑気な事をおっしゃっているから、あの子はいつまで経っても成長しないのです。わたくしの教育方針に口を出さないでくださいな!」富貴子はそう言って夫を睨むと、そのまま居間から出て行った。「梨沙子、居るの?」「はい、お母様。」 梨沙子の部屋に富貴子が入ると、梨沙子は机の前に座っていた。「さっきは言い過ぎたわ。ねぇ梨沙子、藤枝に落ちたからといって、落ち込むことはないわ。」「そうね。」 藤枝女学校に入学し、菊は女学校で声楽やピアノの授業を受け、更に和楽器や日本舞踊を習い始め、忙しい毎日を送っていた。「ただいま。」「お帰りなさい、菊お嬢様。」「お父様は?」「旦那様は、今夜会合があって帰りが遅くなると先ほどお電話がありました。」「そう。静さん、わたしこれから箏の稽古に行くから、お留守番お願いするわね。」「お一人で行かれて大丈夫ですか?」「ええ、大丈夫よ。それじゃぁ、行ってくるわね。」 菊が箏の稽古場に行くと、そこには梨沙子の姿があった。「あら、貴方もこちらに通っていらしたのね。」梨沙子はそう言うと、菊に微笑んだ。にほんブログ村
2016年01月22日
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「この子が、僕の未来の花嫁ですって?馬鹿を言わないでください姉さん、この子はまだ子供ではありませんか!」 姉の言葉に驚きで目を丸くした梨津子の弟・典史は、そう叫ぶと菊を見た。「お父様、この方がわたしに手紙を渡した方です。」「そうか。どうやら君は、この二人と違って話が通じるみたいだ。」ルドルフはそう言うと、典史を見た。「実はこの二人が、一方的にわたしの娘と君を結婚させようとしているみたいなんだ。わたしはそんな事には当然承諾できないし、いずれ娘はウィーンに留学させるつもりだ。だから、君の方からあの二人を説得してくれないか?」 ルドルフの言葉を聞いた典史は、憤怒の表情を浮かべながら姉と義兄を見た。「僕の知らない所で勝手に結婚話を進めないでください、義兄さん!いくら跡継ぎが居ないからって、昔の婚約者の娘と僕を結婚させ、長谷川家の財産をあてにするなど間違っています!」「典史、いつからお前は俺に生意気な口を利くようになったんだ?お前の学費は誰が出していると思っている!」「お言葉ですがお義兄さん、貴方が経営する会社の資金はわたしの父が出している事をお忘れですか?社長といっても、貴方は所詮お飾りで、経営はわたしの父と兄がしているのです。そういった事を忘れて今後偉そうな口を僕に利かないで頂きたい!」 典史に反撃され、信孝はぐうの音も出なかった。「この度は、姉達が貴方達にご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。」「いいえ。では、わたし達はこれで失礼いたします。」 信孝夫婦の家を辞したルドルフと菊は、自動車で藤枝女学校へと向かった。「娘と話しましたが、ウィーン留学は貴校に入学してすぐでは不安がありますし、入学して数年間は貴校で娘を勉強させてからでもいいと思っております。」「そうですか。お父様がそうおっしゃるのなら、わたくし達もそうしたいと思っております。入学式の日にお二人に再び会える日を楽しみにしておりますよ。」 伊勢崎はそう言うと、ルドルフと菊に微笑んだ。 藤枝女学校入学を控え、菊はルドルフや彼が雇った家庭教師に勉強を教えて貰いながら入学試験に備えた。「いよいよ明日が女学校の入学試験だな。緊張しているか?」「ええ。お父様、わたし絶対合格してみせるわ!」「頑張れ、キク。」「はい、お父様。」 入学試験の日、ルドルフが菊を女学校まで車で送ると、校門の前に楢崎富貴子の姿があった。「おや、またお会い致しましたね、ナラサキさん。この女学校に何のご用です?」「あらルドルフさん、貴方とお会いするなんて奇遇だこと。わたしの娘も、この女学校を受験するのよ。ねぇ梨沙子?」「ええ、お母様。」校門の前に停めてあった自動車から、黒髪の利発そうな少女が降りて来た。「じゃぁお父様、行って参ります。」「頑張るんだよ、キク。」「梨沙子、あの子にだけは負けては駄目よ。」「解っているわ、お母様。」娘を送り出した富貴子は、ルドルフを見た。「貴方の娘とわたしの娘、どちらが合格するのか楽しみですわ。」「そうですね。ではわたしはこれで失礼します。」 藤枝女学校の入学試験を終えた菊は、合格発表の日にルドルフと自動車で女学校へ向かうまで、不安で胸が一杯になった。「大丈夫、お前ならきっと合格しているよ。」 ルドルフはそう言って不安がる菊の手を優しく握った。 藤枝女学校の中庭に、合格者の氏名と番号が書かれた紙が貼りだされた。その中に菊の名前はあったが、富貴子の娘・梨沙子の名はなかった。「おめでとうキク。」「有難うお父様。」にほんブログ村
2016年01月22日
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ルドルフはピアノの前に座ると、ベートーベンの『月光』を弾いた。「ねぇお父様、今日学校が終わって友達と家に帰る前に、知らない小父さんから声を掛けられたの。」「どんな人だ?」「黒い外套を着て、学帽を被った人だったわ。この手紙をお父様に渡してくださいって頼まれたの。」菊はそう言うと、父に一通の手紙を手渡した。父は暫く手紙に目を通すと、険しい表情を浮かべた。「キク、お前にまだ話していないことがあるんだ。」「話していないこと?」「ああ。お前の母親が、亡くなったお母様の親友だという話は聞いたよな?その母親の元婚約者だった方は、孝君の実の父親なんだよ。」「その方、どんな方なの?」「人の親にはなってはいけないような方だった。自己中心的で、自分の思い通りにいかないと暴力を振るう様な男だ。」ルドルフはそう言うと、ピアノの蓋を閉めた。「今日の昼、お父様の会社にその男の奥さんが来たんだ。お前を、養女に欲しいという話をわたしに持ち掛けてきた。わたしはにべもなく断ったよ。」「どうして、その方はわたしを養女に欲しいの?」「それは直接本人に聞いてみないと解らないね。キク、明日この手紙の送り主に書かれている住所へ行こう。」「解ったわ、お父様。」 翌日、ルドルフと菊は信孝の自宅を訪れた。「いらっしゃいませ。旦那様と奥様は、リビングでお待ちになっております。」 玄関先で出迎えた女中に案内され、二人がリビングルームに入ると、ソファに梨津子と信孝が座りながら何かを話していた。「あら、いらしてくださったのですね。」梨津子の方が先に二人の姿に気づき、笑顔で彼らを出迎えた。「何かお飲みになるかしら?」「いいえ、すぐに失礼するので結構です。キク、こちらがノブタカさんとリツコさんだ。」「初めまして、長谷川菊です。」「礼儀正しい子ね。貴方、お幾つになられるの?」「12歳になります。」「そう・・それなら、まだ結婚には早いわね。」「何をおっしゃっているのですか?」「実はね、貴方のお嬢さんを、わたくしの弟と結婚させようという話を夫と先ほど話していたところでしたの。」「貴方達の事情は解りませんが、わたしは娘を見ず知らずの他人に嫁がせるつもりはありません。」ルドルフがそう言って梨津子を睨むと、彼女は溜息を吐いた。「菊さんと仰ったわね?貴方のお気持ちを聞かせてくださらないかしら?」「わたしは、貴方達が決めた相手と結婚するつもりはありません。お話は済みましたから、もう失礼しても宜しいでしょうか?」菊はそう言うと、ルドルフを見た。「さっきから黙って聞いていれば、勝手な事ばかり言いやがって。俺はお前の娘に良縁を見つけたというのに、感謝の言葉くらい俺達に掛けてくれたっていいだろう?」「感謝の言葉ですって?貴方の自己中心的な暴君ぶりは、全く変わっておりませんね。孝君があのまま貴方の元で育てられていたら、彼は死んでいたかもしれません。」「何だと、貴様!」ルドルフと孝が睨み合っていると、リビングルームに黒い外套を纏い、学帽を被った青年が入ってきた。「義兄さん、一体この騒ぎは何ですか?そちらの方達はどなたです?」「まぁ典史(のりふみ)、良い所に来てくださったわ。こちらが、あなたの未来の花嫁となる、菊さんですよ。」にほんブログ村
2016年01月22日
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「こんな時間に誰かしら?」「お嬢様はこちらに居てくださいませ、わたしが様子を見て参ります。」 静はそう言うと、ダイニングルームから出て玄関ホールへと向かった。「どちら様ですか?」「おい、早くここを開けないか!火急の用なんだ!」「失礼ですが、名を名乗らぬ者を家にお入れするなと旦那様からきつく命ぜられているものでして・・申し訳ありませんが、お引き取り下さいませ。」静はドアを叩いている者に向かって冷淡な口調でそう言うと、ダイニングルームへと戻った。「誰だったの?」「さぁ、わたくしは存じ上げません。」 一方、出勤したルドルフが会社で仕事をしていると、社長室に秘書の山岸が何やら慌てた様子で入って来た。「どうした、何かあったのか?」「社長に会わせろと、ご婦人が・・」「貴方が、ルドルフ=フランツ様ですの?」 山岸を押し退けて社長室に入った洋装姿の女性は、そう言うとルドルフを睨んだ。「ええ、そうですが・・貴方は?」「失礼、自己紹介が遅れましたわ。わたくしは、松阪梨津子と申します。本日貴方の元へ伺ったのは、貴方のお嬢さんの事でお話があるからです。」「娘の事で話があるのなら、あんな男を我が家に差し向けずとも、こうしてわたしと直接会いに行けば宜しかったのに。」「夫が貴方に無礼な事をしてしまったことを、妻として詫びますわ。」「山岸、コーヒーを淹れて来てくれ。」「かしこまりました。」 山岸が部屋から出て行った後、梨津子とルドルフは向かい合うかのようにソファの上に腰を下ろした。「それで、お話とは何でしょうか?」「噂に聞きましたけれど、貴方のお嬢さんは、夫の元婚約者であった藤宮幸様と、貴方の子である事をわたくしは最近になって知りましたわ。そこで、貴方にお願いがございますの。」「お願い、ですか?」「ええ。是非そのお嬢さんを、我が家にくださらないこと?」「まるで犬や猫の子のように言うのですね。我が子を虐待するような酷い貴方のご主人に、12年間手塩にかけて育てた娘をやることは出来ません。」「まぁ、そうおっしゃると思いましたわ。それではいくらで貴方のお嬢さんをわたくしにくださるのかしら?」「人を馬鹿にするのもいい加減にして頂きたいですね。わたしは、金で娘を売るような人非人ではありませんよ。そんなにお子さんが欲しいのなら、ご自分でお産みになられてはいかがです?」 ルドルフの言葉に、梨津子の眦がつり上がった。「貴方は男だから、そんな軽々しく無神経な言葉を吐けるのですわ!」梨津子はソファから勢いよく立ち上がり、バッグを掴むと社長室から出て行った。「お客様はもうお帰りですか?」「ああ。コーヒーはお前が飲んでいい。」「有難うございます。それよりも社長、お嬢さんを近々ウィーンへご留学させるというのは、本当ですか?」「ああ、本当だ。山岸、今度あのご婦人が来たら適当な嘘を吐いて追い払ってくれ。」「かしこまりました。」 信孝の妻・梨津子の突然の来訪をルドルフが静に話すと、彼女は目を丸くして驚いた。「まぁ、そのような事を梨津子様がおっしゃるなんて・・頭がおかしいとしか言いようがありませんわ。」「まったくだ。あんな乱暴者の男に菊を預けられるか!」ルドルフはそう怒鳴ると、マグカップを乱暴にダイニングテーブルの上に置いた。「お父様、どうなさったの?」「キク、何でもないよ。まだ起きていたのかい?」「ええ。中々眠れなくて・・お父様、何か一曲ピアノを弾いてくださらない?」「解った。」にほんブログ村
2016年01月22日
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「わたしの本当のお母様が亡くなったのだと、お父様はおっしゃったけれど、わたしの本当のお父様は誰なの?」「わたしだ。」「静さん、本当なの?今お父様がお話しした事は・・」「申し訳ありません、菊お嬢様。奥様と旦那様から、時期が来たらお嬢様にお話しするよう口止めされておりました。」静は申し訳なさそうな顔をしてそう言うと、俯いた。「お父様、話の続きを聞かせて。」「ああ、解った。」ルドルフは、菊の実母と一夜の過ちで彼女と関係を持ってしまい、それが原因で彼女が死んでしまった事を話した。「どうだ、これでお前の両親が血も涙もない鬼畜だということが解ったろう?」自分の首筋にナイフを押し当てた男は、そう言うと勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた。「お前は、俺と一緒に来い。お前の本当の両親に会わせてやるよ。」「わたしを馬鹿にしないで!」菊はそう叫ぶと、男の足の甲を踏みつけた。男が悲鳴を上げ、自分から離れた隙に、菊はルドルフの胸元へと飛び込んだ。「キク、怪我はないか?」「ええ。お父様、警察を呼んで。」「ああ。」「畜生、警察なんか呼ばれて堪るか!」男はそう怒鳴ってルドルフを睨みつけ、彼に襲い掛かった。その時、静が暖炉の傍に置かれていた火掻き棒を掴んで男の脛を強かに打った。「旦那様とお嬢様に手を出したら、このわだしが許さねぇ!」「やりやがったな、このアマ!」激昂した男が血走った目で静を睨みつけた時、居間に数人の警察官達がなだれ込んできた。「お巡りさん、この男を捕まえてください!」「何をしやがる、離せ!」「大人しくしろ!」「俺はこいつに警告しようとしただけだ!」「警告だと?」ルドルフがそう言って男を睨むと、男もルドルフを睨み返してきた。「お前の会社は、いずれ倒産する。その時は路頭に迷わないようにするんだな。」「お前の警告を聞く迄もなかったな。さっさと失せろ。」 嵐のように男が警察官達に連れられて居間から出て行った後、菊と静は放心したような様子でソファに座り込んだ。「二人とも、大丈夫か?」「ええ。お父様、わたしは真実を知っても、お父様から離れたりはしないわ。」菊はそう言うと、ルドルフに抱きついた。「有難う、キク。お前はわたしの、大切な娘だよ。」 新聞で長谷川商会と政界の癒着問題が報じられてから数日が経ち、社長の直樹が癒着疑惑は事実無根である事を記者に話し、癒着を裏付ける証拠もないことから、長谷川商会の癒着疑惑は晴れた。「良かったですね、疑惑が晴れて。一時はどうなることかと思いました。」「ああ、そうだな。静さん、うちに押し入って来た男の正体は判ったかい?」「ええ。彼の名前は山田邦昭といって、あの家に雇われた者でした。」「あの家?」「幸様を死においやった、信孝様が山田の雇い主だったのです。」「あいつが、何故今更になってわたし達を狙うんだ?」「さぁ・・用心しておいた方がよさそうです。」「そうだな。キクはまだ部屋で寝ているのか?」「はい。あんな騒ぎがあった後ですから、暫く学校はお休みさせた方が宜しいのではないでしょうか?」「解った。学校にはわたしから連絡をしよう。では静さん、留守を頼むよ。」「行ってらっしゃいませ。」 玄関ホールで出勤するルドルフを見送った静は、菊の部屋へと向かった。「おはよう、静さん。お父様はもう会社の方へ行かれたの?」「はい。お嬢様、朝食はどうなさいますか?」「一緒にいただきましょう。」 ダイニングルームで菊が静と共に朝食を食べていると、玄関のドアが誰かに荒々しく叩かれた。にほんブログ村
2016年01月22日
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「お見合い、お疲れ様でした。旦那様、お相手の方はどのような方でした?」「相手は梶谷さんの知人のお嬢さんで、今年女学校を卒業した伯爵令嬢だった。」「まぁ、華族のお嬢様でしたか。その方はどのような方ですか?」「部屋を取っているので、話だけでも聞こうと思ったら、わたしが部屋に入った途端、彼女はわたしに抱きついてきて帯紐を解き始めた。世間知らずなお嬢さんかと思ったら、大胆な行動に出て呆れてしまったよ。」「華族のお嬢様でも、色んな方がいらっしゃいますからねぇ。その点、菊お嬢様はしっかりしていらっしゃいます。」「ああ。あいつには、良い嫁ぎ先を見つけてやらないとな。」ルドルフがそう言ってコーヒーを飲んだ時、居間に菊が入って来た。「お父様、縁談はお断りになったの?」「ああ。お前が留学するまで、お前と二人きりの時間を過ごしたいからね。」「まぁ、そうなの。」 ルドルフは菊に、見合い相手に迫られたことは話さなかった。「ねえお父様、もしわたしが結婚したら寂しい?」「それはその時にならないと解らないな。」「そう。ねぇ、お父様も一緒にウィーンへ行くの?」「そうだね。何年も帰って居ないから、今ウィーンがどんな街になっているのか、知りたいね・・」 ルドルフはそう言うと、目を閉じて環と青春時代を過ごした頃のウィーンの街並みを思い出した。「それよりも菊、いくら伊勢崎さんが推薦してくださっていると言っても、女学校に入学するには試験があるんだから、ちゃんと勉強しないと入れないぞ。」「解っているわ、そんな事。」菊のブロンドの髪を撫で、ルドルフは二階の寝室へと上がった。寝室に入ったルドルフは、寝台のサイドテーブルの上に置かれている写真立てを手に取った。そこには、結婚式の時に、環とルドルフが写真館で撮った写真が入っていた。「タマキ、わたしがお前の元に逝けるまで、わたしとキクの事を見守ってくれよ。」ルドルフはそう言って写真の中の環に向かって投げキスすると、そのまま朝まで眠った。 翌朝、ルドルフがダイニングルームで菊と朝食を食べていると、静が何やら慌てた様子でダイニングルームに入って来た。「どうした、静さん?何かあったのか?」「旦那様、大変です!」静がそう言ってルドルフに手渡したのは、今朝の朝刊だった。 その一面記事には、長谷川商会と政界との癒着があったという内容の記事が掲載されていた。「一体誰が、こんな出鱈目な記事を書いたんだ?」「旦那様、外に記者の方が・・」突然家の外から荒々しいノックの音が響き、菊は恐怖で身を竦ませた。「お父様、怖いわ!」「キク、自分の部屋に行きなさい。」「解ったわ。」 菊がダイニングルームから出て、二階の部屋へと向かおうとした時、突然玄関のドアが開いて一人の男が彼女の口を塞いだ。「お前が、あの女の娘だな?」「貴様、何者だ!娘から手を離せ!」菊の悲鳴を聞いたルドルフがそう言って侵入者に銃口を向けると、彼は菊の首筋に持っていたナイフを押し当てた。「動くな!大事な娘が死にたくなければ、俺の言う通りにしろ!」「お前の望みは何だ?」「この子の前で、真実を話せ。そうすれば、娘の命は助けてやる。」「真実って何なの、お父様?彼は一体何を言っているの?」「キク、落ち着いて話を聞いてくれ。お前は、お父様と亡くなったお母様の実の娘ではないんだ。お前の本当のお母様は、お母様の親友だった方だ。その方は、ある事件に巻き込まれて亡くなり、生まれたばかりのお前をわたし達が引き取ったんだ。」「そんな・・」 菊は自分の出生に関する真実をルドルフから聞かされ、激しく動揺した。にほんブログ村
2016年01月22日
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「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様。」「ただいま、静さん。わたし達が留守の間、何もなかったかい?」「客間にお客様がいらっしゃっております。」「わかった、すぐに行こう。」 ルドルフが客間に入ると、そこには環と生前親交があった梶谷夫人がソファに座っていた。「ルドルフさん、ご無沙汰しておりますわ。」「おや梶谷さん、お久しぶりです。どうしました、我が家にいらっしゃるなんて。」「実は、貴方に良いお話がありますの。」「梶谷さん、申し訳ありませんが、わたしは妻の喪が明けるまで再婚はしないつもりです。」「まぁ、そのような事はおっしゃらずに、こちらだけでも見てくださいな。」梶谷夫人はそう言うと、風呂敷を解いてある物をルドルフに見せた。そこには、振り袖姿の女性が映っている写真と、その女性の釣書だった。「環さんもお亡くなりになられて5年経ちますし、お嬢さんも多感な時期を迎えますから、やはり男親だけでは色々と大変でしょう?それに貴方、まだお若いのだから独身を貫くなどとつまらないことをおっしゃっては駄目よ?」 畳み掛けるかのように梶谷夫人からそう言われたルドルフは、彼女が勧める縁談相手に一度会うことになった。「お父様、再婚されるというのは本当なの?」「キク、誰に聞いたんだい?」「さっき、梶谷の小母様がうちにいらしたのを見たわ。」菊はそう言うと、ルドルフを見た。「わたしは、お父様が再婚されたいのなら、お父様に反対しないわ。」「そうか。そう言って有難う、キク。」 梶谷夫人とともに、ルドルフが縁談相手と会う事になったのは、梶谷夫人が彼に縁談を持って来た数日後の事だった。「あちらのお嬢さんよ。」梶谷夫人が指し示した先に、薄紅色の振袖を着た少女が立っていた。「あら梶谷さん、貴方もいらしていたのね?」「ええ。紹介致しますわ、こちらはわたくしの娘の、富有子です。」「富有子です、初めまして。」そう言って梶谷夫人とルドルフに自己紹介した少女は、少しはにかみながらルドルフの方を見た。「ルドルフ=フランツです。お会いして嬉しいです。」「まぁ、こちらこそ。ねぇ梶谷さん、わたくし達席を外さない事?」「ええ、そうね。確か、このホテルの近くにいいお店を見つけたのよ、一緒に行きましょう。」「そう致しましょう。」 待ち合わせ場所のホテルのティールームでいきなり富有子と二人きりになったルドルフは、どうすればいいのか解らなかった。「富有子様、あの・・」「ルドルフ様、ここは人目がありますから、何処か静かな場所でお話し致しませんか?」「静かな場所、ですか?」「はい・・実は、このホテルに部屋を取っているのです。」富有子の言葉に、ルドルフは衝撃を受けた。「解りました、お話をするだけでいいのですね?」 ルドルフの言葉を聞いた富有子は、頬を赤らめながら彼と手を繋いだ。 部屋にルドルフが入るなり、富有子は彼に抱きついて来た。「富有子様、一体何をなさっておられるのです?」「ルドルフ様、わたくしずっと貴方の事をお慕い申し上げておりました。」富有子はそう言ってルドルフから離れ、帯紐を解き始めた。「慣れない事はするものではありませんよ、富有子さん。」ルドルフは富有子をそう言って止めると、そのまま部屋から出た。「旦那様、お帰りなさいませ。」「キクは?」「お嬢様でしたら、お部屋でお休みになっておりますよ。旦那様、お水を差し上げましょうか?」「有難う、静さん。」 居間のソファに腰を下ろしたルドルフは、溜息を吐きながらネクタイを緩めた。にほんブログ村
2016年01月22日
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「全く、あの方も諦めが悪いですね。」「ああ。菊はどうした?」「菊お嬢様なら、今お部屋で休んでおります。」 ルドルフが菊の部屋のドアをノックすると、中から返事がなかった。「キク、入るぞ?」「嫌よ、来ないで!」ドア越しに聞こえる菊の声が何やら切迫した様子だったので、ルドルフはドアを開けて部屋の中に入ると、菊は寝台の傍ですすり泣いていた。「どうした、何があったんだい?」「さっきから、血が止まらないの・・」ルドルフはすすり泣く菊を見ると、彼女の太腿から温かい血が流れだし、振り袖に赤い染みを作っていることに気づいた。「大丈夫、お前は死なないよ。大人の仲間入りをしたんだよ。」「大人の仲間入り?」「ああ、そうだ。」「まぁ、お嬢様が初潮を迎えられたのですか?」「静さん、こういった事にはわたしは疎くてね。男親というものは、こんな時には役立たずだな。」「そのような事をおっしゃらないでください。わたくしがお嬢様にきちんとそういった事を教えて差し上げますので、ご心配為さらないでください。」「頼むよ、静さん。」 静が書斎から出て行った後、一人になったルドルフは溜息を吐いた。今まで散々浮名を流してきたルドルフであったが、実の娘が初潮を迎えた事を知り、彼は激しく動揺していた。「お父様、入っても宜しいかしら?」「入っておいで、キク。」「失礼いたします、お父様。」 書斎に入って来た菊は、何処か嬉しそうな様子でルドルフに抱きついた。「お父様、さっき静さんから色々とお話を聞いたの。血が出るのは怖い事じゃないって。」「そうか。済まない菊、わたしが役立たずな所為で、お前を混乱させてしまった。」「普通、殿方はそのような事はご存知ないと、静さんは言っていたわ。女同士の秘め事なのですって。ねぇお父様、わたしは本当にお母様とお父様の娘なの?」「何故、そういう事を聞くんだい?」「だって、女の方が大人の仲間入りをしたら、赤ちゃんを産む事が出来ると静さんは言っていたわ。でもお母様は、わたしが妹と弟が欲しいと言っても、悲しい顔をするばかりで何もおっしゃらなかったわ。」「キク、タマキはお前を産んだ時に、子供が産めない身体になってしまったんだ。」ルドルフは菊にそんな嘘を吐きながら、罪悪感に苛まれた。いつかこの子が真実を知る日が、必ず来るだろう。その日まで、いつまで菊の出生に関する秘密を隠し通せることが出来るのかールドルフはそう思いながら、溜息を吐いた。「お父様、どうなさったの?」「いや、何でもない。それよりもキク、今日伊勢崎さんとお前の入学について話をしたよ。何でも伊勢崎さんは、お前をウィーンに留学させたいみたいなんだ。」「ウィーンにわたしが行けるの?お父様の故郷に?」「でも、お前はまだ子供だし、伊勢崎さんは暫く経ってからお前をウィーンへ行かせたいと話していた。お前の気持ちはどうなんだ?」「わたし、ウィーンに行きたい!」「そうか。」翌朝、ルドルフは菊と共に藤枝女学校へと向かった。「わざわざお忙しい所、こちらに来てくださって有難うございます。」二人が校長室に入ると、藤枝は座っていた椅子から立ち上がって彼らを出迎えた。「娘のウィーン留学の件ですが、娘がどうしてもウィーンへ行きたいと申しておりますので、ウィーン留学をさせることを決めました。」「そうですか。では、こちらにどうぞお掛け下さい。」「はい。」 数時間後、女学校から出たルドルフは、菊と手を繋ぎながら表に待たせていた自動車に乗った。にほんブログ村
2016年01月22日
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環がこの世を去ってから5年もの歳月が経った。「菊、12歳の誕生日おめでとう。」「有難う、お父様。」 この日、菊の12歳の誕生パーティーが自宅で華やかに開かれた。「菊さん、すっかり美人になったわね。」「ええ。」凛子は孝の伴奏に合せて歌っている菊の姿を見ながらルドルフとそんな事を話していると、そこへ静がやって来た。「旦那様、楢崎様という方がお外にいらっしゃいますが、どうなさいますか?」「またあの女か・・」ルドルフはそう言って舌打ちすると、静に富貴子を大広間に通さないように命じた。「楢崎さんという方、確か環さんの女学校時代の同窓生ではなくて?」「ええ。ですが妻とは別に親しくもない間柄でした。寧ろ、敵対していたと言ってもいいでしょう。」「まぁ、そんな方が何故貴方に会いに来られたのかしら?」「さぁ・楢崎家は最近慣れない商売に手を出して破産寸前だという噂を聞きました。それで、金の無心にでも来たんでしょう。」 菊がアリアを歌い終わると、招待客達は盛大な拍手を彼女達に送った。「菊、とても上手だったよ。」「有難う、お父様。」「菊ちゃん、小学校を卒業したらどうするの?」「まだ考えていません。でも、もっと歌を勉強したいです。」「そう。貴方なら、ウィーンにすぐ留学できると思うわ。」凛子がそう言って菊に優しく微笑んだ時、一人の男が二人に近づいて来た。「初めまして。わたくし、藤枝女学校の校長をしております、伊勢崎と申します。貴方の素晴らしい歌声を拝聴し、是非我が校に入学して貰いたいと思いまして、お声を掛けた次第でございます。」「初めまして、長谷川環と申します。父を呼んで参ります。」 菊は伊勢崎に挨拶して彼に一礼すると、そのままルドルフの元へと向かった。「お父様、あちらの方がお父様とお話ししたいって。」「解った、すぐ行くよ。」 ルドルフが菊に連れられて伊勢崎の元へと向かうと、彼は凛子と談笑していた。「初めまして、ルドルフ=フランツと申します。」「貴方が、菊さんのお父様ですね?わたくしは藤枝女学校の校長を務めております、伊勢崎と申します。貴方のお嬢さんの歌声を拝聴し、是非お嬢さんを我が校に入学して貰いたいと先ほどお願いした次第でございます。」「そうですか、今は娘を貴校にご入学させるのかどうかは即決できませんので、暫く時間を貰えないでしょうか?」「解りました。ではまた日を改めてお会い致しましょう。」 数日後、ルドルフと伊勢崎は新橋にある料亭の一室で会食した。「娘を、ウィーンへ留学させると?」「ええ。貴方のお嬢さんは素晴らしい才能を秘めています。クラッシック音楽の本場である欧州にお嬢さんを留学させ、そこでプロの音楽家から基礎を教えて貰ったら、お嬢さんの才能は開花するに違いありません。」「そのお話は嬉しいのですが、娘はまだ12になったばかりです。単身ウィーンへ留学させるとなると、親として色々と心配で・・」「貴方のお気持ちは充分に解ります。今すぐにお嬢さんをウィーン留学させるとは申し上げておりません。」伊勢崎はそう言って茶を一口飲むと、ルドルフに微笑んだ。 伊勢崎との会食を終えてルドルフが車から降りて自宅へと入ろうとした時、彼の前に富貴子が現れた。「やっとお会いできましたわね、ルドルフ様。」「しつこい方ですね。何度訪ねて来られても、貴方に貸すお金はありませんよ。」ルドルフは冷たい視線を富貴子に向けてそう言うと、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。「旦那様、どうかなさいましたか?」「静さん、警察を呼んでくれ。不審者が庭に入り込んだと。」「かしこまりました。」「酷いですわルドルフ様、困った友人にお金を貸すのが親切というものではありませんか?」「お言葉ですが、貴方とは一度も友人だと思ったことはありません。警察が来る前にどうぞお引き取り下さい。」 ルドルフは富貴子の鼻先でドアを閉めた。にほんブログ村
2016年01月22日
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環の葬儀は、横浜市内のカトリック教会で粛々と行われた。 葬儀の参列者は、環の顧客と、女学校時代の友人達、そして神谷一家だけだった。家族や友人だけの葬儀にしたいという環の希望通りに喪主としてルドルフは葬儀を取り仕切った。「ルドルフさん、貴方はもう休んで居て頂戴。」「お義母様、喪主のわたしが席を外しては・・」「貴方、今まで眠っていないじゃないの。余り無理をしてはいけないわ。」「解りました。お義母様のお言葉に甘えさせて頂きます。」ルドルフがそう言って育に頭を下げ、二階の寝室へと引き上げようとした時、ドアが誰かに激しくノックされる音が聞こえた。「誰かしら、こんな遅くに?」「わたしが出ます。」ルドルフが玄関ホールへと出ると、そこには環の菊水女学校の同窓生であった楢崎富貴子の姿があった。「おや、貴方が妻の弔問に来られるなど珍しいですね。」「あら、来てはいけないのかしら?」富貴子はそう言ってルドルフを睨んだ。「いいえ。」「環さん、あの根性だと長生きすると思っていたのに、こうもあっさりとお亡くなりになられたなんて信じられないわ。美人薄命というものは本当にあるのね。」「富貴子さんは、その分長生きしてそうですね。お父様はご健在でいらっしゃいますか?」 客間に富貴子を通したルドルフは、彼女の嫌味を軽く聞き流し、チクリと棘を刺すように彼女に嫌味を返した。富貴子の眦が微かにつり上がるのを見たルドルフは薄ら笑いを口元に浮かべながら、他の弔問客の方へと向かった。「ルドルフさん、この度は御愁傷様でございました。」「リンコさん、良く来てくださいました。」「ルドルフさん、これからどうなさるおつもりなの?」「さぁ、先の事はまだ考えておりません。妻の四十九日が明けたら、妻の故郷へ行くつもりです。」「会津に?」「ええ。タマキが亡くなる前、家族三人で会津を旅行しました。その時、妻はわたしにある頼み事をしたのです。その頼みを聞く為に、会津へ一人で行きます。」「そうですか。」 四十九日が明け、ルドルフは環と、涼介、そして優駿の遺灰が入った骨壺を抱いて会津へと赴いた。 ルドルフは会津に着くと、猪苗代湖まで馬車で行った。「少しここで待っていてくれないか?」「かしこまりました。」 馬車から降りたルドルフは、猪苗代湖の変わらぬ姿を眺めながら、ボートを湖面に浮かべた。「タマキ、約束通り来たよ。」ルドルフは骨壺の蓋を開くと、ゆっくりと環達の遺灰を湖に撒いた。“ルドルフ様、さようなら。” 環の優しい声が聞こえたような気がしてルドルフが振り向くと、そこには誰も居なかった。ふと天を仰ぐと、雲の隙間から光が射していた。その光の中に、天女のように羽衣を纏った環が静かに天へと昇ってゆく姿を、ルドルフははっきりと見た。「お帰りなさい、お父様。」「ただいま、菊。わたしが帰るまで、良い子にしていたかい?」「ええ。」 環が亡くなり、ルドルフと菊は、親子二人で暮らした。 菊は環が亡くなってから寂しさで泣くばかりの日が続いたが、ルドルフの優しい愛情に包まれて悲しみから徐々に立ち直っていった。にほんブログ村
2016年01月21日
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「残念ですが、奥様の容態はかなり危ないものとなっております。恐らく、今夜が峠でしょう。」「そんな・・」 今まで覚悟してきたつもりであったが、医師の口から環の命の灯火が消えることを知らされると、ルドルフはその衝撃のあまり床に頽(くずお)れそうになったのを必死に堪えた。「妻に、会えますか?」「ええ。お会いになられた方が宜しいでしょう。」 ルドルフは医師に頭を下げると、環の病室に入った。「貴方・・」「まだ寝ていろ。さっき沢山血を吐いていたんだ、無理をするな。」 ベッドから起き上がり、自分を見つめている環の顔は蒼褪めていた。「菊は、何処に居るのですか?」「菊なら、静さんと家に帰らせたよ。お前が血を吐いてしまったところを見て、激しく動揺してしまったから・・」「そうですか。」 環はそう言うと、ルドルフにハンカチを差し出した。「これを、菊にあげてください。」「ああ、必ず渡すよ。タマキ、今から菊を呼んでこようか?」「そうしてください。」 数分後、菊と静を乗せた車が病院の前に停まった。「お父様、お母様は?」「こっちだ、早く来なさい!」 ルドルフに案内され、菊と静が病室に入ると、環はベッドの上で苦しそうに喘いでいた。「お母様、しっかりして!」「奥様、菊お嬢様がいらっしゃいましたよ!」菊と静の呼びかけに応えるように、環はゆっくりと目を開けて二人を見た。「菊、来てくれたのね。」「お母様、死んじゃ嫌!まだわたしの傍に居てよ、お母様!」そう言って菊は、環の胸に顔を埋めて泣き崩れた。「菊、泣くのはおやめなさい。貴方は武士の娘です、いつも毅然としていなさい。」「でも・・」「静さん、菊の事をどうか頼みます。」「解りました、奥様。奥様の代わりに、わたしが菊お嬢様を立派にお育て致します。」「菊、いつかまた縁があれば、必ず会えますよ。それまで、わたくしの代わりまで立派に生きて頂戴。」「解ったわ、お母様。」「お嬢様、奥様と旦那様を二人きりにさせましょう。」静が気を利かせて菊と共に環の病室から出ると、ルドルフは環を抱き締めた。「タマキ、お前が居なくなったら、わたしはどうすればいいんだ?」「ルドルフ様、貴方と出逢えて、こうして夫婦になれて幸せでした。」環はそう言うと、ルドルフの涙をそっと手の甲で拭った。「どうか忘れないでください、わたしの魂は、ずっと貴方と共にあります。」環はルドルフに微笑み、兄の形見である懐剣を渡した。「これを、わたしの代わりに持っていてください。」「ああ、解った。」 もう少しルドルフの姿を見ていたいのに、周りの景色が黒く歪んでゆくのを環は感じた。「ルドルフ様、愛しています。」環はそう言ってルドルフの手を握ると、ゆっくりと目を閉じた。“環、やっと会えたな。” 環が目を開けると、そこには涼介と優駿が自分の前に立っていた。“行こう。” 環は自分の前に差し出された兄の手を、しっかりと握った。 かつて東洋の舞姫と謳われた環は、40年の短い生涯を終えた。にほんブログ村
2016年01月21日
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1900年元旦。 この日、環は病院から一時帰宅と外泊を許され、ルドルフ達と共に横浜の自宅で正月を迎えた。「新年明けましておめでとうございます、ルドルフ様。」「今年も宜しくな、環。」「ええ。」「お父様、お母様、新年明けましておめでとうございます。」 振り袖姿の菊がそう言って環達の元へと駆け寄って来た。「菊、良く似合っているわね。」環はそう言うと、かつて自分が着ていた振袖を纏う菊を見た。 家族三人で過ごす正月は今年で最後かもしれない―そんな事を思いながらルドルフは、環達と共に新年の食卓を囲んだ。「お母様、寒くない?」「ええ。それよりも菊、昨夜は夜遅くまで寝ていたのだから、早くお休みなさい。」「はい。」 菊は自分の部屋に入り、ベッドに横になると、今まで堪えていた涙を流した。母が亡くなってしまうことを、菊は薄々と気づいていた。その事を、両親が黙って居る事も彼女は知っていた。菊は涙を流しながら、環が自分の前から居なくなることが想像できなかった。「キク、入ってもいいかい?」「いいわよ、お父様。」 ルドルフが菊の部屋に入ると、彼女は泣き腫らした目でルドルフを見た。「今まで、泣いていたのかい?」「はい。だって、お母様がもうじき居なくなると思ったら、悲しくて堪らないの。」 娘の言葉に、ルドルフは彼女の気持ちが痛いほど解った。最愛の伴侶である環がこの世を去ってしまうことを、ルドルフは未だに信じられなかった。ルドルフはいつまでもともに白髪が生えるまで、環と添い遂げられると思っていたからだ。「キク、お父様も、お母様が居なくなってしまうことが悲しいんだ。今晩はお父様と一緒に寝よう。悲しい事は、二つで分け合うと辛くないよ。」ルドルフの言葉を聞いた菊は彼の胸に顔を埋めると、静かに寝息を立て始めた。「そうですか、菊がそんなことを・・」「あの子はあの子なりに、お前の事を感じ取っている。今までお前の事を誤魔化そうとしてきたが、もうお前の病気の事を隠さない事にしたよ。」「その方がいいです。あの子にとっては辛いことでしょうけれど・・」 翌日、ルドルフから菊の事を聞いた環は、そう言うと俯いた。「わたしだって、怖くて堪らないんです。いつ自分の呼吸が停まってしまうのかが解らないし、いつまで貴方と菊と三人で暮らせるのか、わたしが死んだら貴方達はどうなってしまうのか・・それが不安で堪らないんです。」環はそう言葉を切った後、激しく咳込んだ。「先生を呼んでこようか?」「大丈夫です。それよりもルドルフ様、菊の傍に居てあげてください。あの子は、貴方しか甘えられる人間が居ないのですから。」「解った。」 ルドルフは、菊と過ごす時間を増やした。環が死ぬことを知り、精神的に不安定な状態になっていた菊だったが、ルドルフと共に過ごすことで次第に落ち着いていった。「ねぇお父様、お母様に明日会いに行ってもいい?」「いいよ。」 翌日、ルドルフと菊が環の見舞いに行こうとした時、何やら病院の様子が慌ただしい事にルドルフは気づいた。「何かあったのですか?」「ルドルフさん、直ぐに奥様の病室に行ってください!」看護婦からそう怒鳴られ、ルドルフが菊を連れて環の病室へと入った。環はベッドの上で荒い呼吸を繰り返し、苦しそうに咳込んでいた。「お母様!」「菊、来ては駄目!」「お父様、お母様は助かるの?どうしてお母様はあんなに苦しそうなの?」にほんブログ村
2016年01月20日
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「おや、大杉弁護士、何故こちらに?」「少し野暮用で来たものでね。それよりも、奥様はお元気ですか?」「ええ、元気ですよ。」 ルドルフは環の病の事を大杉には話さずに、彼と短い会話を交わすと、そのまま病院から出て行った。「お帰りなさい、お父様。」「菊、お母様が明日退院することになったよ。」「本当?」「ああ。明日お父様と一緒にお母様を迎えに行って、そのまま駅へ行こう。」「何処かへ行くの?」「三人で会津へ旅行に行くんだよ。」「やったぁ~!」そう叫んではしゃぐ菊の姿を、ルドルフは嬉しそうに見ていた。 翌朝、ルドルフと菊は退院する環を迎えに馬車で病院へと向かった。「お母様、お帰りなさい!」「ただいま、菊。長い間家を留守にしてしまってごめんなさいね。」環はそう言うと、菊を抱き締めた。「お母様、これから会津に行くのでしょう?」「ええ、そうよ。さぁ菊、汽車に乗り遅れないように急ぎましょう。」 環は夫と娘と三人で、汽車で会津へと向かった。 夏の会津は、爽やかな風が吹いていた。「ここはね、お母様が生まれた所なのよ。」「そうなの?」「ええ、そうよ。でも、子供の時にお母様は会津を離れたから、ここでの記憶がないの。」環はそう言うと、日傘を差しながら会津の町を歩いた。こうして歩いていると、記憶の片隅にしまっていた幼い頃の記憶が徐々に蘇って来た。 まだ会津が戦火に包まれる前、兄の涼介と優駿と共にこの道を歩いていたことや、冬に雪遊びをしたことなどが、今頃になって走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。「タマキ、どうした?」「こうして道を歩いていると、昔の事を思い出しました。不思議ですね、今まで故郷の記憶など思い出せなかったのに、会津に来てから急に思い出しました。」「きっと、故郷の空気に触れて、お前の中で眠っていた記憶が目を覚ましたんだろう。」「そうですね・・」「お父様、お母様、大きな湖があるわ!」 環はルドルフと並んで歩きながらそんな話をしていると、菊が突然そう叫んで猪苗代湖の方を指差した。「昔、バイエルンのシュタルンベルク湖でボート遊びをした時、いつか猪苗代湖に一緒に行きたいとわたしが言った事を憶えていますか?」「あぁ、憶えているさ。こうして、お前と共にお前の故郷の湖に行けて嬉しいよ。」「わたしもです、ルドルフ様。」環はそう言うと、ルドルフを見た。「ルドルフ様、ひとつお願いしたいことがあるのです。もしわたしが死んだら、わたしの遺灰を兄上と優駿さんの遺灰と共に湖へ撒いてください。」「解った、そうしよう。漸く故郷に戻ったんだ、そうしないとな。」「有難うございます。」 会津での楽しい日々はあっという間に過ぎていった。 一時は安定していた環の容態が悪化したのは、会津から横浜に戻った頃だった。 喀血してから、環は起き上がることもままならず、寝たきりの生活を送っていた。「お母様、死んじゃうの?」「菊、ごめんね。お母様は貴方の花嫁姿を見られないかもしれないわ。」「嫌よ、お母様、わたしを置いて逝かないで!」「菊、お父様のいう事を良く聞くのですよ。」「解ったわ・・」環は、菊の頭を優しく撫でた。「ねぇお父様、お母様は・・」「菊、命あるものはいつかその命を終える時が来る。でもそれは、ちっとも悲しい事じゃないんだよ。」「どうして?」「お母様の肉体は死んでも、その魂はわたし達と共にあるからだよ。」 ルドルフの言葉の意味が解らず、菊は首を傾げていた。にほんブログ村
2016年01月20日
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業務スーパーで買ったチーズスナック。味としてはナビスコのチーズクラッカーと似たような味でした。
2016年01月19日
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「もしドラ」シリーズ第2弾。結構前作より読みやすくて面白かったです。幼馴染で共に芸能界入りしても、売れるのは片方だけー華やかな芸能界の裏を描いた作品でした。面白くて一気読みしてしまいました。
2016年01月18日
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「先生、妻の様子は・・」「奥様は、以前から血を吐かれるようなことはありましたか?」「いいえ。本人は、単なる風邪だと言っていました。」「奥様は、ずっと我慢していらしたのでしょうね。あの様子からすると、半月前から胸の痛みと咳に苦しまれていたのではないかと思います。」「先生、妻の病名は何ですか?」「大変申し上げにくい事ですが・・奥様は肺結核です。もう手の施しようがありません。余命は長くても一年、短くて半年といったところでしょう。」「そんな・・」 医師から告げられた残酷な真実に、ルドルフは絶句した。「妻と二人きりで話がしたいのですが、いいですか?」「どうぞ。」 病室に入ったルドルフは、ベッドの上で眠っている環の手をそっと握った。「貴方、どうしてここに?」「お前が倒れたと静さんから聞いて、会社から駆けつけてきたんだ。タマキ、どうして手遅れになる前にわたしに言ってくれなかったんだ?」「御免なさい、貴方に心配を掛けたくなくて・・」環はそう言うと、ルドルフを見た。「タマキ、わたしはお前が死んだら生きていけない。」「ルドルフ様・・」 ルドルフは、環の胸に顔を埋めて暫く泣いた。「お母様!」 環が自宅で倒れたと聞いて、菊は凛子と共に環の病室へとやって来た。「菊、病院では静かになさい。」「ごめんなさい、お母様。お母様、さっきお父様から聞いたけれど、暫く入院するのでしょう?」「ええ、そうよ。わたしが家を留守にしている間、静さんの言う事をよく聞いて、お勉強頑張りなさいね。」「はい、お母様。」 菊はその時まだ、環が肺結核に罹っていることを知らなかった。「お父様、お母様はいつ帰って来るの?」「それはまだ判らないよ、病院の先生もまだお母様がいつ退院できるのかどうかをお話ししてくださらないからね。」 夕食の後、ルドルフはそう言って菊を誤魔化すと、紅茶を一口飲んだ。「お母様、今頃どうなさっているのかしら?」「菊、宿題はやったのかい?やっていないのなら、お父様が見てあげよう。」「有難う、お父様。」 菊の宿題を見ながら、ルドルフは入院している環の事を想った。 同じ頃環は、夕食を食べた後ベッドの上で菊のハンカチに刺繍を施していた。「まぁ、まだ起きていらっしゃったのですか?」「入院してから、何もすることがなくて、夜もなかなか眠れなかったものですから・・」「夜に針仕事はいけませんよ。今はゆっくりと体を休めてくださいね。」看護婦はそう言って溜息を吐くと、環の病室から出て行った。 彼女が出て行った後、針箱をしまってベッドに横になった環は、久しぶりに熟睡した。「タマキ、調子はどうだい?」「少し良くなりました。昨夜は良く眠れましたし・・」「今まで忙しく働いてばかりいたからね。きっと神様がお前に休暇を与えたのだと思えばいいさ。」「そうですね。もうすぐ夏休みでしょう?今年は会津に行きたいのです。」「会津へ?」「記憶はなくても、わたしの故郷ですし、一度は行ってみたいと思っていたので、菊と親子三人で旅行にでも行きたいなと思っているのですが、駄目ですか?」「大丈夫だ、先生の許可はわたしが貰っておくから。」 ルドルフは環の額にキスすると、病室を出て彼の主治医の元へと向かった。「妻が旅行をしたいと言うのですが、旅行は出来ますか?」「大丈夫です、今の奥様ならば旅行することは可能でしょう。余り無理をさせずに、こまめに休憩を取らせてくださいね。」「解りました。」 ルドルフが病院を後にしようとした時、廊下の向こうから大杉弁護士がやって来た。にほんブログ村
2016年01月18日
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「いつから血を吐くようになったんだ?」「咳が数週間続いて、暫く治まったかと思ったら、急にまたぶり返してきて・・」環はそう言うと、再び咳込んだ。「病院で一度診て貰おう。」「大丈夫です、すぐに治りますから。」「大丈夫な訳があるか!こんなに血を吐いて・・」「ルドルフ様、この事は父上や母上には言わないでください。二人を心配させたくないのです。」「解った。」ルドルフは朝まで、咳込んでいる環の背を擦り続けた。「お母様、今日は授業参観日よ。学校に来てくださるのでしょう?」「まぁ、今日だったのね。最近忙しくてすっかり忘れていたわ。」「五時間目の授業には必ず来てね、約束よ。」「ええ、解ったわ。」 午前中環は読書や刺繍をして時間を潰し、昼食を食べた後環は菊が居る学校へと向かった。「うわぁ、可愛いお弁当!」「これ、今日の為にお母様が作ってくれたのよ。」 昼休み、菊は教室で環が作ってくれた弁当を頬張っていた。「孝君のお弁当も美味しそうね。」「お母様が早起きして僕の為に作ってくれたんだ。」「二人は良いわねぇ、優しいお母様が居て。あたしん家の母さんなんて、いつもあたしに怒鳴ってばかりよ。」菊の友人はそう二人にこぼすと、握り飯を頬張った。 午後の授業が始まり、菊は落ち着かなさそうに時折教室の後ろを見ていた。「どうしたの、菊?」「お母様、来てくれるかなぁ?」「大丈夫だ、来てくれるさ。」孝がそう言った時、教室に環が入って来た。 彼は、美しい訪問着姿だった。「お母様。」菊がそう言って環を見ると、彼は人差し指を口の前に立てた。「お母様、来てくださったのね。」「菊、良くお勉強していたわね。」 放課後、環がそう言って菊に微笑むと、彼女は環に抱きついた。「お弁当有難う、お母様。これから、孝君のお家に遊びに行ってもいい?」「いいわよ。余り遅くならないでね。」「わかったわ、お母様!」菊が孝達と教室から出て行くのを見送った環は、帰宅してすぐに居間のソファに座り込んだ。「奥様、お帰りなさいませ。」「静さん、熱いお茶を淹れて頂戴。」「かしこまりました。」 静が厨房で茶を淹れていると、居間の方で大きな音がした。「奥様?」 彼女が居間に入ると、環が胸を押さえて苦しそうに咳込んでいた。「奥様、しっかりしてください!」「大丈夫、すぐに治まるから・・誰にも、言わないで。」そう言った環は、意識を失った。「静さん、タマキが倒れたって、どういうことなんだ?」「菊お嬢様の授業参観からお帰りになられた時、急に苦しそうに咳込まれて・・お茶を淹れに厨房へわたくしが行った際、大きな音がして居間に入ったら、奥様が・・」静はそう言うと、両手で顔を覆って泣き出した。「わたくしがもっと奥様の異変に気づいていれば、こんな事にはならなかったのに・・」「自分を責めては駄目だ。」 病室の前でルドルフと静がそんな話をしていると、中から医師が出てきた。「貴方が、環さんのご主人ですか?」にほんブログ村
2016年01月18日
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「父上、お久しぶりでございます。」「久しいな、環。少し痩せたか?」「ええ。仕事が忙しくて、少し体調を崩しておりました。」「お前は仕事熱心なところがあるが、寝食を忘れてしまうところが玉に瑕(きず)だ。余り根詰めないようにしなさい。」「解りました、父上。」「ルドルフ君は何処だ?」「ルドルフ様なら、今会社に居ります。そろそろ帰って来る時間だと思います。」「そうか。」「お母様、ただいま!」 玄関の方から元気な声がしたかと思うと、居間に菊が入って来た。「まぁ菊、すっかり大きくなったわね。」「お祖父様、お祖母様、お久しぶりです。」孫娘がそう言って礼儀正しく自分達に挨拶をする姿を見た育と重正は嬉しそうな顔をした。「お祖母様、お父様とお母様の結婚式の時、わたし振袖を着ることになっているのよ!」「まぁ、そうなの。今から楽しみね。」「ええ。」 ルドルフと環の結婚式は、横浜市内の神社で行われた。「お母様、とても綺麗。」「有難う、菊。」「良く似合いますよ、環。これからもルドルフさんとお幸せにね。」「はい、母上。」菊と共に花嫁の支度部屋に入った育は、髪を文金高島田に結い上げた環に鼈甲(べっこう)の簪が入った箱を手渡した。「これは、貴方のお祖母様の代から伝わっているものですよ。」「有難うございます、母上。」 白無垢を纏い、文金高島田の髪に鼈甲の簪を挿した環が祭壇の前へと向かうと、そこには羽織袴姿のルドルフが立っていた。「良く似合っているぞ、タマキ。」「有難うございます。」結婚式は恙(つつが)なく終わり、帰宅した環達は横浜市内の写真館で家族写真を撮った。「わたしもいつか、お母様みたいに綺麗な花嫁さんになれるかな?」「なれるわよ。その時は、お母様が貴方のウェディングドレスを作ってあげるわ。」環がそう言って菊を抱き寄せようとすると、環は激しく咳込んだ。「お母様、大丈夫?」「大丈夫よ、少し風邪をひいてしまっただけ。菊、今日はもう遅いからお休みなさい。」「お休みなさい、お母様。」「お休みなさい、菊。」 菊が自分の部屋へと上がってゆくのを見た環が夫婦の寝室に入ると、寝台に横たわったルドルフが欠伸を噛み殺しながら読書をしていた。「ルドルフ様、まだ起きていらしていたのですか?」「ああ。お前と一緒に寝たかったから。」「そうですか。お休みなさい、ルドルフ様。」「お休み、タマキ。」 深夜二時過ぎ、ルドルフは、喉が渇いて目を覚ますと、隣で寝ていた環が苦しそうに咳込んでいた。「タマキ、どうした?」ルドルフがそう言って環の背を擦りながら彼に呼びかけると、環は呼吸を整えた後ルドルフを見た。その顔は蒼褪め、口元からは血が滴り落ちていた。「ルドルフ様・・」「大丈夫だ、タマキ。ゆっくり呼吸しろ。」「すいません、起こしてしまって・・」「謝るな。」にほんブログ村
2016年01月18日
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東京でのドレス発表会は大成功を収め、環の元にはドレスの注文が殺到した。 環は毎日職場に泊まり、寝食を忘れて仕事に打ち込む日々を送った。「タマキ、まだ帰らないのか?」「ええ。このドレスを仕上げるまで・・」「ここのところ、働きづめだろう?食事と睡眠をしっかりとらないと、倒れるぞ?」「そうですね・・」環はミシンの前から立ち上がると、ルドルフと共に店じまいをして帰宅した。「お帰りなさいませ、奥様。ご夕飯は今温めて参ります。」「菊は?」「菊お嬢様は、お部屋でお休みになっています。」「そう。」「奥様、差し出がましいようですが、余り無理を為さらないでくださいませ。菊お嬢様は、奥様がお仕事をし過ぎて身体を壊されるのではないかと心配されていらっしゃいますよ。」「解ったわ。」静からそう言われ、環は暫く仕事を休んで菊を過ごす時間を増やすことを決めた。「お母様、肩を揉んでもいい?」「いいわよ。」菊に肩を揉まれると、強張った筋肉が解れていった。「最近同じ姿勢を取って長時間仕事ばかりしているから、肩こりが酷かったのよ。」「お母様、いつかわたしがお嫁に行く時は、ウェディングドレスを作ってね。」「ええ、解ったわ。」「そうか・・菊がそんなことを・・」「いつかあの子がお嫁に行く日が来るのかと思うと、何だか寂しい気持ちになります。」「気が早いな、タマキ。今からそんなことを思っていてどうするんだ?」 その日の夜、環が菊と交わした約束の事をルドルフに話すと、彼はそう言って苦笑した。「あいつが嫁に行く日まで、お互い長生きしないとな。」「ええ。」環はルドルフにそう言って微笑んだ時、彼は軽く咳込んだ。「どうした、風邪か?」「季節の変わり目になると、風邪をひきやすくなるんです。」「暫く働きづめだったから、疲れが溜まっているんだろう。」「そうですね。」 その時、環は咳の発作が単なる風邪によるものだと思い込み、対して気にも留めなかった。しかし、咳の発作は数週間経っても治まることはなかった。「ねえ、お父様とお母様は何処で結婚式を挙げたの?」「菊、何故そんな事を聞くんだい?」 夕食の時、菊が突然そう尋ねてきたので、ルドルフがそう言って彼女を見ると、菊はこう答えた。「この前孝の家に行ったら、孝のお父様とお母様の結婚式の写真が暖炉の前に飾ってあったの。ねぇ、どうしてうちにはお父様とお母様の結婚式の写真がないの?」「それはね、お父様とお母様は結婚式を挙げていないからだよ。いつかは挙げようと思っていたのだけれど、生活をするのに精一杯で、いつの間にか忘れてしまっていたんだ。」「じゃぁ、今挙げればいいじゃないの。わたし、お母様の花嫁姿が見たいわ。」娘の言葉を受け、ルドルフと環は結婚式を挙げる事にした。「貴方達が祝言を挙げるなんて・・」「もう祝言を挙げるには遅いと思っているのですが、菊がどうしてもわたしの花嫁姿を見たいと言って聞かないもので・・」「まぁ、いいではありませんか。」 結婚式の打ち合わせの為、長崎から環の両親がやって来た。環が結婚式を挙げる経緯を育に話すと、彼女は苦笑してそう言うと紅茶を飲んだ。「父上は、今どちらに?」「旦那様なら、ホテルの部屋で休んでおりますよ。長旅で疲れてしまって・・」「確かに、長崎から横浜までは遠いですからね。お二人に無理を言ってしまって申し訳ありません。」「何を言うのです、環。子供の祝言を見たくない親が何処に居ますか。」 育がそう言って環に微笑むと、ドアを誰かがノックした。「どちら様ですか?」「環、わたしだ。」にほんブログ村
2016年01月18日
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中にホイップしたショコラが入っていて、サクサクとした味わいで美味しかったです。
2016年01月15日
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『ブリジット様、遅くなってしまってごめんなさい。』『いえ、いいのよ。今日はお忙しい所を来てくださって有難う、タマキさん。』 パーティーが終わり、環が横濱ホテルのロビーへと向かうと、ブリジットは笑顔で彼を迎えた。 環はブリジットと共に、彼女が宿泊している部屋に入った。『ブリジット様、お話とは何かしら?』『タマキさん、貴方にお話したい事は、エリザベスの事なの。これから、貴方にとって辛い事実をお話ししないといけないわ。』ブリジットはそう言うと、ベッドの端に腰を下ろした。『実は、エリザベスは昨年の夏に亡くなったの。』『エリザベスさんが、亡くなった?一体どうして・・』『家族で旅行に向かう途中で、乗った船が沈没して・・事故で生き残ったのは、あの子一人だけだったわ。エリザベスは、死に間際に貴方に会ったら友情の証を渡してくれとわたしに頼んだわ。』 ブリジットの口から語られた衝撃的な事実に、環は打ちのめされた。『そうでしたの・・エリザベスさんが・・』 環の脳裏に、エルンストと結婚式を挙げたエリザベスの笑顔が浮かんだ。彼女の笑顔が二度と見られないことが、環には信じられなかった。『タマキさん、どうかエリザベスの事を忘れないであげて。』『はい、ブリジット様。』 環はブリジットに抱き寄せられ、彼女の胸に顔を埋めて嗚咽した。「只今戻りました。」「お帰り、タマキ。どうした、何かあったのか?」「ええ。さっき横濱ホテルでブリジット様とお会いして・・エリザベスさんがお亡くなりになったと・・」環はしゃくりあげながら、ルドルフにエリザベスとその家族が事故で亡くなった事を話した。「エルンストは、良い奴だった。少し優柔不断で、頼りない所があったが、あいつは真面目で、優しい奴だった。あいつと二度と会えないなんて、残念だ・・」そう言ったルドルフの目に、涙が光った。 パーティーから数日後、環はブリジットと共に東京へと向かった。『ここが、発表会の会場よ。』ブリジットがそう言って馬車から降りた所は、9年前に開業した帝国ホテルだった。『こんな素敵な所で、発表会をするなんて・・』『ドレスは持って来たの?』『ええ。』環は旅行鞄の中から蒼いドレスを取り出してブリジットを見せると、彼女は嬉しそうに笑った。『素敵ね。』『有難う。』 ホテルのロビーで環とブリジットがアフタヌーンティーを楽しんでいると、二人の前を大杉弁護士が通り過ぎた。(あの人が、どうしてここに?)『タマキさん、どうかなさったの?』『いいえ、何でもないわ。』 ドレスの発表会は、ホテル内の宴会場を貸し切って盛大に行われた。 環が作った蒼いドレスは、欧州の貴族達から評判が良かった。『貴方が作ったドレスは、まるで宝石のようだわ。』『有難う、ブリジット様。貴方からそう言って頂けるなんて嬉しいわ。』 東京でのドレスの発表会で成功を収めた環は横浜に戻り、ますます仕事に打ち込んだ。日々の忙しさの中で、環は自分に忍び寄る病魔の存在に気づかずにいた。にほんブログ村
2016年01月15日
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娘達とお茶をした後、環と凛子はパーティーの準備について話し合った。「パーティーの準備って、大変ね。」「ええ。お料理は近所のレストランに頼んで、飾りつけは専門の業者の方にお願い致しましょう。」「そうね。後は、何か出し物が必要ね。」「出し物ねぇ・・」環がそう言って何かいい考えがないかと頭を悩ませていると、菊と孝が彼の前にやって来た。「環様、もしよろしければ僕がパーティーでピアノを弾きましょうか?」「わたしもヴァイオリンも弾くわ、お母様。それで、パーティーに華が添えられるでしょう?」「有難う、二人とも。じゃぁわたしも、久しぶりに箏(こと)でも弾こうかしら?」「お箏って、お父様がお母様に昔贈られたっていう、素敵なお箏のこと?」「ええ。長い間忙しくて箏を弾いていなかったから、パーティーまでに練習しないとね。」「それじゃぁ、わたし達も練習しないと!」 それから環達は、パーティーの準備に追われた。毎日が目まぐるしく過ぎてゆき、あっという間にパーティー当日の朝を迎えた。「おはよう、お父様。」「おはよう、菊。昨夜は良く眠れたかい?」「ええ。お母様はどちらにいらっしゃるの?」「お母様なら、まだお部屋で寝ているよ。今日までパーティーの準備と東京でのドレス発表会の準備で忙しくて休む暇がなかったからね。」「解ったわ。」 朝食を食べた菊は、居間でヴァイオリンの練習を始めた。「菊、おはよう。」「おはようございます、お母様。」「上手になったわね。いつから練習していたの?」「半年前からヴァイオリンを習っていたの。パーティーの日までに上手くなって、お母様を驚かせたくて。」「そう。今日が貴方の晴れ舞台になるのね。」環がそう言って菊の頭を撫でると、彼女は照れくさそうに笑った。「パーティーまでまだ時間があるから、しっかり練習為さい。」「はい、お母様。」「貴方が練習しているのだから、わたしも練習しないとね。」環は二階から持って来た箏を琴台(きんだい)の上に載せ、静かにそれを奏でた。環が奏でる箏の音と、菊が奏でるヴァイオリンの音が美しいハーモニーを生み出した。「綺麗な音色がすると思ったら、二人ともそこに居たのか?」「あら貴方、拙いものを聞かせてしまってすいません。」「何を言うんだ、タマキ。お前が奏でる箏の音色は、あの頃からずっと変わっていない。」「有難うございます。」「さてと、わたしも二人を見習って、ピアノの練習でもしようかな。」ルドルフはそう言って笑うと、音楽室を出て居間のピアノの前に座り、ピアノを弾き始めた。 余りにもピアノに熱中していたので、ルドルフは来客に気づくのが遅れてしまった。「すいません、郵便です。」「申し訳ございません、ピアノを弾いていて気づきませんでした。」ルドルフはそう言って郵便宅配夫に詫びると、彼から自分宛の手紙を受け取った。 その手紙には、見慣れぬ紋章の蜜蝋が捺されていた。「貴方、どうなさったの?」「さっきこんな手紙が届いたんだ。」「まぁ、ブリジット様からだわ。」 ルドルフから手紙を受け取った環がブリジットの手紙に目を通した。「何て書いてあったんだ?」「今日の夜七時に、横濱ホテルで待っておりますと書いてあったわ。パーティーが始まるのは昼の二時、終わるのは夕方の五時だから、充分間に合うわね。」「そうだな。準備はもう整っているか?」「ええ。」 長谷川家で開かれたパーティーに出席した招待客達は、美味しい料理に舌鼓を打ち、環達が奏でる箏とピアノ、ヴァイオリンの音色に聞き惚れた。「環様、素晴らしいパーティーだったわ。」「有難う、皆さん。」にほんブログ村
2016年01月15日
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※BGMと共にお楽しみください。「環さん、お邪魔するわね。」「あら凛子様、いらっしゃい。今忙しくて・・」 環が裁縫室でドレスを作っていると、凛子が中に入って来た。「今日は孝を連れて来たのよ。あの子、菊ちゃんと一緒になって人形遊びをしているわ。」「まぁ、そうなの。あと少しで終わるから、暫く待っていてくださらない?」「ええ、わかったわ。」 凛子が居間へと戻ると、孝が女の子達と一緒になって人形遊びをしていた。「菊ちゃん、この子は菊ちゃんのお友達なの?」「ええ、孝っていうのよ。孝はピアノが上手なのよ。」「そうなの?孝君のピアノ、聞きたいわ。」菊の友人である朱里がそう言って孝を見ると、彼は暖炉の近くに置いてあるグランドピアノの前に座った。「何か弾いて欲しい曲はある?」「そうねぇ・・孝君が好きな曲を弾いて!」「解った。」孝は鍵盤を軽く叩いた後、ショパンのエチュード『木枯らし』を弾いた。彼の指の動きは、10歳の子供とは思えぬほど華麗で、正確なものだった。彼の演奏が終わった後、菊達は暫く開いた口が塞がらなかった。その時、乾いた拍手とともにルドルフが居間に入って来た。「菊から君が、ピアノが上手いと聞いていたが、まさかショパンの難曲を弾きこなせるとは、感心したよ。」「お父様、お帰りなさい。今日はお早いのね?」「ただいま、菊。今日は会議が早めに終わってね。お前達にお土産を買って来たよ。」 ルドルフがそう言って娘が好きな洋菓子店の紙袋を掲げて彼女に見せると、彼女は歓声を上げた。「初めまして、神谷孝と申します。」「9月から菊と同じ学校に通うそうだね?これからも菊と仲良くしてくれよ。」「はい。あの、ルドルフ様は、ピアノはお弾きになられるのですか?」「子供の頃から習っていたから、弾けることは弾けるが、今は仕事が忙しくて弾く機会がなくてね。君と会った記念に、何か一曲弾いてあげよう。何がいいかな?」「ルドルフ様がお好きな曲を弾いてください。」「わかった、そうしよう。」 ルドルフはグランドピアノの前に座ると、シューベルトの『アヴェ・マリア』を弾いた。「どうだったかな?久しぶりに弾いたから、聞くに堪えないものだったと思うけれど・・」「いいえ、とても素敵でした!ルドルフ様は、どうしてこの曲がお好きなのですか?」「わたしが好き、というよりも、わたしの母親が、シューベルトが好きだったんだ。」そう言ったルドルフの横顔が、何処か悲しそうに孝の目には見えた。「さてと、君も菊達と一緒にお菓子を頂きなさい。」「解りました。」 裁縫室から出た環が仕事を終えて居間に入ると、そこではルドルフ達が和気藹々とした様子でチーズタルトを食べていた。「まぁ、皆さんわたしを除け者にして美味しい物を食べていらしたのね?狡いわ。」「環、お前の分はちゃんと残しておいてある。だから拗ねないでくれ。」「まぁ貴方、わたしは拗ねてなどいませんわ。」 凛子の隣に腰を下ろした環は、ルドルフ達と共に楽しい時間を過ごした。「今週末のパーティーに、孝君もいらっしゃい。9月に編入する前に、お友達を作っておいた方がいいでしょう?」「はい、そうします。でも、僕は周りのみんなとは違うから、仲良くなれるかどうか不安です。」 孝は自分が特殊な環境下で育ったことを、子供なりに感じているのだと、環は思った。「貴方の事について、口さがない噂をする人もいるだろうけれど、貴方はそんな雑音を気にしなくてもいいのよ。」「そうよ、孝。貴方にはお父様とお母様がついているじゃないの。」 孝は環と凛子から励まされ、笑顔を浮かべた。にほんブログ村
2016年01月14日
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「皆さん、今度の週末に家でパーティーを開こうと思っているのですけれど、もしよろしければいらしてくださいな。」「まぁ、是非ご出席させて頂きますわ。」「環様が主催なさるパーティーですもの、さぞや素敵なパーティーになるのでしょうね。」 母親達の言葉に、環は何処か彼女達に試されているのではないのかと感じていた。 菊が小学校に入学し、彼女達と付き合いを始めてからまだ日が浅いものの、専業主婦である彼女達は、夫婦共働きで充実した毎日を過ごしている自分に対して内心嫉妬していることくらい、環は薄々気づいていた。「ええ。凛子様、わたし一人では準備が満足に出来ないから、もしよかったら手伝ってくださらない事?」「まぁ、わたしが環様のお手伝いなどしても宜しいのかしら?」「いいに決まっているじゃないの。」突然環から名指しされ、凛子は戸惑いながらもパーティーの準備をすることになった。「あら、こんな時間だわ。わたくし達、これで失礼いたしますわ。」「皆様、ご機嫌よう。」 レストランの前で母親達と別れた環は、溜息を吐きながら帰宅した。「どうした、溜息なんか吐いて?」「さっき保護者会の延長で、親しくなったお母様達と昼食をしたんですけれど、いつまで経ってもあんな集まりには慣れません。まるで、密かに値踏みされているような気がしてならないのです。」 ソファに腰を下ろした環が、そう言って昼食会の事をルドルフに愚痴ると、彼はクスクスと笑った。「女という生き物は、密かに互いを値踏みし合い、格付けし合うものだからな。自分だけではなく、相手の夫の職業や収入、子供の進学先などで色々と自分よりも格上、格下と認定するらしい。」「外の世界も、宮廷と変わりないものですね。宮廷の方が、こちらの世界の方よりも恐ろしいですけれど。」 長年言葉も文化も違う、異国の宮廷で勤めて来た環の言葉を聞いたルドルフは苦笑した。「初めて会った時は始終他人の視線に怯え、まるで幼子のようにわたしの傍をついて離れなかったお前が、そのような事を言えるまでに成長したとは・・」「あの頃はまだ10代の多感な時期に異国に渡って不安ばかりでしたから、ルドルフ様に少し甘えていたところがあったんです。」「そうか。お前と出逢って、わたしも少しは丸くなったかな?」ルドルフは読んでいた本から顔を上げて環の方を見ると、彼は肩を震わせて笑っていた。「何かおかしなことを言ったか?」「いいえ・・それよりも、孝君が9月に菊が通う小学校に編入する事になったそうで、凛子様が保護者会に挨拶にいらしていました。」「そうか。孝君が学校に行くと言い出したのかな?」「さぁ、それは凛子様にお聞きしないと解りません。今週末のパーティーの手伝いを凛子様にして貰うことになりましたので、その時に聞いてみます。」「パーティーの準備なら、わたしも手伝おう。」「有難うございます。」「東京でのドレスの発表会に、お前のドレスも出すんだろう?余り無理をするなよ。」「はい。」 一方、神谷家では凛子と眞一郎、孝が食卓を囲んで夕食を取っていた。「孝、どうして急に学校に行きたいなんて言い出したの?」「家の中は退屈で仕方がないもの。それに、菊と毎日学校に行けば会えるし・・」「そう。貴方がそんなことを言うなんて、初めてね。」凛子はそう言うと、孝が神谷家に来た頃の事を思い出した。 実父・信孝から酷い虐待を受け、蔵の中に監禁されて育った孝は、凛子や眞一郎のベッドに毎晩忍び込んでは、おねしょをしたり、二人の気を引こうと火遊びをしたりしていた。 その度に二人は孝の事を叱り、彼が悪夢を見て魘(うな)された夜は交代で彼の小さな身体を彼が眠るまで抱き締めたりしていた。「お母様、僕、学校で友達が出来るかな?」「出来るわよ。そうだ、明日環様のお宅に伺うのだけれど、貴方も一緒に来ない?」「行くよ。」 翌日、凛子が孝を連れて長谷川家を訪れると、居間には菊が友人達と人形遊びをしていた。「凛子様、ご機嫌よう。」「菊ちゃん、御機嫌よう。お友達と遊んでいる最中にお邪魔してしまって悪いわね。」「お母様なら、裁縫室にいらっしゃいますわ。」にほんブログ村
2016年01月14日
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「まぁ、何かしら?」 環がそう言って周囲を見渡すと、藤田の前に一人の青年が立ちはだかっていることに気づいた。 学帽と外套姿の青年は、二言三言藤田と何か話をした後、持っていたナイフを彼の腹部に突き刺した。 惨劇を目の当たりにした芸妓達は悲鳴を上げながら三々五々逃げ惑い、周囲に居た客達もパニックに陥り、会場は騒然となった。『ブリジットさん、早くここから出ましょう。』『えぇ、解ったわ。』ブリジットは芝生の上に倒れている藤田をちらりと見やると、吐き気を堪えるかのように口元をハンカチで覆った。『ルドルフ様、ブリジット様を屋敷の中へ案内してください。』環はそう言ってルドルフ達に背を向け、藤田の元へと向かった。 芝生の上に倒れた彼の腹には、ナイフが突き立てられ、彼は苦しそうに呻いていた。「誰か、助けてくれ・・」「しっかりなさってください。」環は持参していた襷(たすき)で藤田の患部を止血すると、女中に医者を呼ぶように命じた。「環、彼の容態はどうだった?」 事件の後、大広間へと避難したルドルフがそう言って環を見ると、彼は静かに首を横に振った。「藤田様は、お医者様が来られる前に、息を引き取られました。」「あの青年は、一体何者なんだ?」「さぁ、それはわたしにも解りません。それよりも、皆さんに怪我がなくて良かったです。」「ああ・・」 華やかなパーティーが惨劇へと変わった後、パーティーの主催者である池上侯爵は客達に向かって、警察が事情聴取をするので暫く屋敷に居て欲しいという旨を告げた。「面倒な事に巻き込まれてしまったな。」「困ったわ、これから友達と銀座で会う約束があるのに。」「藤田さんは色々と阿漕(あこぎ)な事をしていたからねぇ・・彼を恨んでいた人間は沢山居るんじゃないかねぇ?」「そうだねぇ。彼を刺した青年も、そのうちの一人じゃないか?」 事件から数日後、藤田を殺害した青年が警察に自首してきた。「藤田さん、あの青年の家族に執拗な取り立てをして、彼のご両親は無理心中為さったのですってよ。」「ご両親の仇をお討ちになられたのね。何だか歌舞伎のお芝居のような事件でしたわね。」「ええ、本当に。」 娘が通っている小学校の保護者会に出席した環は、娘の同級生の母親達が事件の噂話をしていることに気づいた。「長谷川さん、貴方もその場にいらっしゃったのでしょう?」「ええ。人が刺される血腥(ちなまぐさ)い現場を見てしまって、その日の夜は目が冴えてしまってなかなか眠れませんでしたわ。」「大変な目に遭いましたわね。」 母親達が急に話を振って来たので、環がそう言って彼女達を適当にあしらっていると、教室に凛子が入って来た。「凛子さん、どうしてこちらにいらっしゃったの?」「実は、孝が9月からこの学校に編入する事になったの。」「まぁ、そうなの。これから宜しくね。」「ええ、こちらこそ。皆さん、こちらは9月から編入される神谷孝君のお母様の、凛子様ですわ。」「神谷凛子と申します。何卒宜しくお願いいたします。」 凛子がそう母親達に向かって挨拶を述べると、彼女達は盛大な拍手を凛子に送った。 保護者会が終わり、凛子は環達と共に学校の近くにあるレストランで昼食を取った。「環様、今度東京へ行かれるのですって?」「ええ。友人のドレスの発表会に招待されたので、暫くお店は休ませて頂きますわ。」「環様はお仕事もされて、優しい旦那様もいらっしゃって羨ましいわ。」「あら、そんな事ないわよ。」「凛子様の旦那様は、居留地の病院でお医者様として働いていらっしゃるのでしょう?お二人とも、お優しくて高収入な旦那様に恵まれて羨ましいわぁ。」にほんブログ村
2016年01月13日
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金曜日、環はルドルフと共に彼の仕事関係の集まりに出席した。「この方が、貴方の麗しい奥様ですか?」「初めまして、環と申します。いつも夫がお世話になっております。」この日、環はいつもの洋装姿ではなく、藤色の訪問着に淡い金色の帯を締めていた。「お召しになられているお着物、素敵ですね。」「有難うございます。」「洋装姿の奥様もお美しいですが、着物をお召しになられている奥様の方が格段とお美しいですなぁ。」 フロックコート姿の太った男がそう言うと、馴れ馴れしく環の手を握ってきた。「あら藤田様、貴方の美しい奥様はどちらにいらっしゃるの?」「わたしのワイフは、今頃若い男と洒落込んでいるよ。両方とも惚れこんで結婚したというのに、愛が冷めるのは早いものだよ!」「あらまぁ、そうでございましたか。それはお辛いですわね。」当たり障りのない言葉で藤田の手をさり気なく環が払い除けると、彼は少しムッとした顔をした後、屋敷の中へと入って行ってしまった。『さっきは災難でしたわね?』 環が溜息を吐きながら庭の薔薇を眺めていると、背後から澄んだ声が聞こえて来た。振り向くと、そこにはウィーンに居た頃親しくしていたブリジット=フォースリーの姿があった。『まぁブリジット様、お久しぶりですわね。妹さんはお元気かしら?』『ええ。ああそうだ、エリザベスからこれを預かったわ。』 ブリジットがそう言って環に手渡したのは、包装紙に包まれた長方形の箱だった。 環が箱の中身を見ると、そこにはダイヤモンドが鏤(ちりば)められたブローチネックレスが入っていた。 そのブローチネックレスは、ウィーンに居た頃環が友情の証としてエリザベスに贈った物だった。『妹が、わたしが日本に行くことを知って、貴方にこれを渡して欲しいと頼まれたのよ。』『どうして、このブローチネックレスをエリザベスさんがわたしに渡して欲しいとおっしゃったの?』『それは、話せば長くなるわ。それよりもタマキさん、貴方の着物姿、初めて見たわ。』『ウィーンに居た頃は、いつもドレスを着ていたから。ブリジット様はどうして日本にいらっしゃったの?』『東京でわたしのドレスの発表会を開くことになったから、来日したの。貴方とこうして会えるなんて思いもしなかったわ。』『わたしもよ。ドレスの発表会を開くなんて凄いわね。わたしも洋装店を営んでいるけれど、ブリジット様の足元にも及ばないわ。』『あら、そんな事ないわよ。貴方がデザインしたドレス、何度か雑誌で拝見したけれど、どれも素敵なものじゃないの。』『有難う、ブリジット様からそんな言葉を頂けて嬉しいわ。』環とブリジットが、互いがデザインしたドレスの話をして盛り上がっていると、そこへルドルフがやって来た。『ブリジットさん、久しいね。元気そうで何よりだ。』『まぁルドルフ様、こちらこそお久しぶりでございます。』『暫く会わない内に、貴方は益々美しくなられたようだ。』『まぁ、ルドルフ様は相変わらずお世辞がお上手ですのね。』ブリジットがそう言って笑った時、屋敷の中からけたたましい笑い声が聞こえた。『あら、何かしら?』環達が笑い声の聞こえた方を向くと、そこには先ほど環に絡んできた藤田が、黒紋付の正装姿の芸妓数人を引き連れて庭へと戻って来た。『下品な方ね。』『ああいう輩は無視して、再会を祝して乾杯致しましょう。』『ええ。』 環とルドルフがブリジットとの再会を祝して彼女と乾杯しようとした時、何処からかグラスが割れる音がした。にほんブログ村
2016年01月13日
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業務スーパーで買ったポテチ。あっさりとしていてしつこくなく、美味しかったです。
2016年01月12日
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ネットで美味しいと紹介されていた、業務スーパーのプレーンクッキー。クッキーが花の形になっていて可愛いです。しっとりとした味わいで、コーヒーと良く合います。
2016年01月12日
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「孝、ご挨拶なさい。この方は長谷川環さんといって、お父様の古いご友人ですよ。」「初めまして、環様。神谷孝と申します。」 ピアノから降りた孝がそう環に挨拶すると、環は彼に優しく微笑んだ。「貴方、ピアノがお上手ね。」「ええ。家の中に居ると何もすることがないので、楽器を弾いたりして暇を潰しております。環様は、何か楽器をされますか?」「まぁ、楽器を弾くといってもわたしが弾くのは専ら和楽器だけれどね。夫の方が洋楽器を嗜んでいるのよ。孝君、今度お家にいらっしゃい。」「はい。お母様、菊と環様を玄関までお送りしても宜しいでしょうか?」「いいわよ。」 玄関ホールまで環と菊を案内した孝は、暫く環の凛とした美しさに見惚れていた。「貴方、お母様に惚れているわね?」「馬鹿な事を言うな。」「あら、わたしに嘘を吐いても無駄よ。」「孝君、また会える日を楽しみにしているわ。」「僕もです、環様。お気をつけてお帰り下さい。」「ええ。」環はそう言って孝の額にキスすると、彼は顔を赤く染めて俯いた。「あの子ったら、耳まで赤くなっていたわ。生意気な子だけれど、初心なのね。」「菊、年上の子を揶揄うのはおやめなさい。」「解りました、お母様。ねぇ、お外で何をお話ししていらしたの?」「それは、子供の貴方には難しい話よ。」「何よ、少しは教えてくださってもいいじゃないの。」そう言って頬を膨らませた菊を見た環は、思わず噴き出してしまった。「どうして笑うの?」「御免なさい。余りも貴方の顔がおかしくてつい・・」「お母様の意地悪!」 神谷邸から馬車で自宅に戻るまで、菊の機嫌は直らなかった。「お父様、お母様ったら酷いのよ。神谷の小父様達と内緒話をして、その話をわたしに話してくださらないのよ!」 夕食後のデザートに出されたアップルパイを頬張りながら、菊が環に対する不満をそうルドルフに打ち明けていると、彼はクスクス笑った。「菊はまだ甘えん坊のようだね。」「お父様も、わたしを子供扱いなさるの!?」「それをお前が言うのかい?」ルドルフにそうやり込められ、菊は黙ってアップルパイを食べた。「タマキ、タカシはどんな子だった?」「年の割には聡明で、礼儀正しい子でした。菊も少しは彼を見習って欲しいものだわ。」環が呆れたような口調でそう言って菊の方を見ると、彼女は二切れ目のアップルパイを頬張っていた。「菊、それを食べたら歯を磨いて寝なさい。」「解ったわ。」菊が居間から出たのを確認した環は、ルドルフの方へと向き直った。『今日、眞一郎様から孝君の出生に関する話を聞きました。孝君の父親は、あの信孝さんだそうです。信孝さんは、自分の家の女中が孝君を孕んだと知った時、闇医者に始末させようとして失敗したので、その腹いせに孝君を産んだ女中を縊(くび)り殺してしまったそうです。』『まともな神経の持ち主とは思えんな。奴は今どうしている?』『結婚して、幸せな家庭を築いているそうですよ。』『あいつのような人間は、いつか自分がした行いの報いを受けることになる。それまで甘い新婚生活とやらを満喫していればいいさ。』 ルドルフは吐き捨てるような口調でそう言うと、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。『貴方、お仕事の方は順調なのですか?』『ああ。タマキ、今度の週末は仕事関係の集まりがあるから、空けておいてくれるか?』『はい、解りました。』にほんブログ村
2016年01月12日
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大人達が深刻な話をしている頃、菊は神谷邸にある薔薇園で色とりどりの薔薇を見ていた。 長崎で暮らしていた家の庭にも、祖父が育てた薔薇が咲き誇っていたが、世話が大変だと彼が一度、自分に零していたことがあった。 だが、薔薇の世話をしている時の祖父の顔は、何処か楽しそうだった。『菊、人は夢中になるものを見つけると、時間を忘れてしまうものなんだよ。』自分にもそんな物が見つかるのかと祖父に尋ねると、彼は笑顔を浮かべながらこう言った。『きっとお前にも見つかるさ。』あの時の祖父の言葉の意味はまだ解らないが、いつか自分にも夢中になれるものがあるのかもしれないと、菊はそう思いながら薔薇園の中で遊んでいた。 その時、彼女は薔薇のアーチの前に立っている一人の少年の姿に気づいた。彼は仕立ての良い洋服を着ており、使用人の子供ではなく、この家の子供だということが一目でわかった。「お前、誰?」血のように赤く美しい唇から発せられた声は、氷のように冷たいものだった。「わたしは菊、この家にお母様と招かれたのよ。」「菊っていうの?外人なのに日本人の名前なんだな。」少年の侮蔑に混じった言葉に少しムッとしながら、菊は胸を反らして彼を睨みつけた。「あら、貴方のお名前は何というのかしら?人の名前を馬鹿にしておいて、自分から名乗らないなんて紳士のする事ではなくてよ。」「孝だ。菊、お前は西洋人とのあいの子なのか?」「ええ、そうよ。それがどうかして?横浜には、西洋人とのあいの子くらい、星の数ほど居るし、珍しい事じゃないわ。」少年―孝は、自分よりも年下だというのに物怖じしない態度をしている菊に興味を持った。 彼女の髪と瞳は、初夏の太陽に照らされて時折美しい光を放っていた。「お前、学校には行っているのか?」「ええ。貴方は?」「僕は学校には行っていない。家庭教師の先生に家に来て貰っているんだ。」「そう。わたしのお父様も、子供の頃には学校には行かずに家でお勉強していらしたのですって。お父様の周りには、いつも自分のお世話をするメイドや使用人達が沢山居たのですって。」「お前の話を聞いていると、お前の父親は相当金持ちのお坊ちゃんらしいな?」「さあ、解らないわ。だって、お父様は余り昔の事を話してくださらないもの。きっと、思い出したくない事があるんだわ。」菊はそう言って空を仰ぐと、孝の方へと向き直った。「貴方、家に居る時は何をしているの?」「読書をしたり、楽器を弾いたりしているよ。菊は?」「わたしは、友達と外で遊んだり、アイリスと遊んだりしているわ。」「アイリス?お前、犬を飼っているのか?」「アイリスは狼よ。学校の帰りにわたしが拾って、お父様達と一緒に育てているの。一度貴方に会わせてあげるわ。」「変わっているな、お前。この僕を怖がらない奴なんて、初めてだ。」「わたしはよく貴方の事を知らないもの。」菊がそう言って孝の方を見ると、彼は突然大声で笑い出した。「どうしたの?」「いや、何でもない。それよりも菊、ここは暑いから家の中に入らないか?」「ええ。」 孝に誘われ、菊が彼と共に神谷邸の中へと入ると、居間には美しいマホガニー色の輝きを放っているグランドピアノが置いてあった。「菊との出会いを記念して、僕が何か一曲弾いてやろう。何がいい?」「そうねぇ・・お父様が良く蓄音機で聴いていたシュトラウスの『春の声』がいいわ。」「わかった。」 孝がピアノの蓋を開けると、中から象牙色の鍵盤が姿を現した。彼がピアノを弾き始めると、菊はうっとりとした表情を浮かべながら、その音色に聞き惚れていた。「あら、家の中からピアノの音色がするわ。」「様子を見に行こう。」 環達が居間に入ると、そこにはピアノを一心不乱に弾く孝の姿と、それに聞き入っている菊の姿があった。「お母様、黙って家の中に入ってしまって御免なさい。」「貴方が、孝君ね?」 環はそう言うと、ピアノの前に座っている孝を見た。にほんブログ村
2016年01月12日
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1月12日は父の誕生日です。親孝行しようと思ってもなかなか出来ません。
2016年01月11日
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