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2013.11.26
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カテゴリ: その他
先日のblogのつづき。

「教える専門家」から「学びの専門家」へ。

11月14日(金)に開催された茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会に参加した私の一番の学びである。その研究会後、家に帰ってに真っ先に手にした本がある。それは、佐藤学先生(学習院大学)の「教師花伝書」(小学館 2009)である。

その中で、「専門家として育つ」として次のように書かれている。

・・・・・

 教師の実践を外から見ると「職人」としての性格が顕著だが、実践者の内側から見ると「専門家」としての性格が中心であることが知られるだろう。授業のデザインにおいて何を教材の核として設定し、どのような資料を準備し、どのような活動を組織するのか、その授業の遂行において、どの子どもの発言を取り上げて、それらの発言のどれとどれをつなぎ、どのような探究発動を促進するのか・・・。これらすべてが教師の認識と思考と判断によって遂行されている。その意味で、教師の実践は外からは「見えない実践(invisiblepractice)」である。
 最近、学校を訪問し、教室で授業を参観して痛感することの一つが、授業の形式は整っていても内容がない授業が多いことである。
 文学的な意味で言葉が豊かにならない授業、算数の技能は形成されても数学的意味が衰弱している授業、会話の技能は訓練されていても英語としての言語教育が貧しい授業、実験は行われているが科学的探究が成立していない授業、資料による事項の認識は成立しているが社会事象のつながりや対立が消されている授業などである。これらの教室では授業の形は成立していても学びは成立していない。(当然、教師の関心は、子ども一人ひとりの学びよりも、もっぱら授業の形式や進め方にある。どうする?どうする?の世界である。)

 ・・・(中略)・・・



・・・・・

先日のblogでも書いたが、浜之郷小学校ではどの授業も「地味」であった。授業の形式や進め方より、子ども一人ひとりの学びを大切にされているのである。だからこそ授業をみる浜之郷小学校の先生方も子どもたちの発言を「よい」「悪い」で評価するのではなく、子どものことばにならない「ことば」に耳を傾け一人ひとりの学びを見取ることができるのだろう。

最近の私の関心は「もっぱら」授業の形式や進め方だったのである。

(つづく)





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最終更新日  2013.11.26 16:14:05
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