曹操閣下の食卓

PR

×

Profile

曹操閣下の食卓

曹操閣下の食卓

2007.09.22
XML
テーマ: お勧めの本(8163)
カテゴリ: 芸術
    □謹告□

 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。
 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。


曹操3a.jpg}.jpg

作画・Ms.KANZAKI


■第7回■

     ★「晩学」だった曹操★
 このイラストは、青年時代に父親の書斎にこもって、猛烈な濫読にふけっていた時期の青年・曹操を初期仏像になぞらえたものである。

 この時代の高級官吏の師弟は、だいたい15才程度で学問の基礎を身に着け、20才まで父親の傍や元官吏の師匠の下で実務教育を受けた。
 20才前後になると、地方政府から召喚の命令があり、郡太守や各州刺史などの推挙という形で中央政府に推薦された。

 【蜀志・前主】つまり正史・三国志の劉備の伝記によると、劉備もまた、少年時代に基礎教育を受け、郷里出身の蘆植が、琢郡太守だったときに、私塾の弟子の一人として座を連ねたとしている。
 しかし、劉備は実はシングル・マザーに育てられ、そのために少年時代は貧乏暮らしをしていたのであり、各地に遊学したりしたのは、富裕な同姓の劉氏の金銭的支援によるものだったとされている。
 私はこうした正史の諸伝には最初から疑問を持っている。
 蘆植のような人物に教えを受けたならば、自分で兵書の一つは考えが及ぶはずであり、帝王になっても代筆やら公文書の発給に苦労をしないはずだが、そもそも彼はそんな知識は持たなかった。

 彼は故郷を離れ、自分の近縁にあたる劉氏からは一人も人材を採用していない。
 同じような学歴を持った他人に「なりすまし」をすることで、自分を誤魔化していたのが「劉備」の実像だったのではないか。

 それに比べると、曹操が官吏(郎官・宮廷内のパシリ小僧)になったとき、彼は必要な知識を何一つもっていなかった。
 父親の曹嵩が、曹姓に養子縁組したことで高官になってから、郷里にいた曹操を首都・洛陽に呼び寄せたのである。
 簡単にいえば、開成・灘・桐蔭学園の卒業生がそろって入学する名門大学に、甲子園出場の名門野球部のキャプテンが同級生として投げ込まれたようなものである。
 曹操本人も相当にショックだったであろう。

 曹操は荒れた。

 精神的にドロップアウトした曹操は、一方では洛陽きっての少女歌手トップのベンちゃんと自由恋愛に走る一方で、最高権力者の宦官の庭に殴り込みをかけるという事件を起こした。
 この事件は不問にふされたが、曹操は一切の外出を禁じられたに違いない。

 そして。
 彼は父、曹嵩が収集していた図書館のような蔵書室の書籍をすべて濫読しつくしたのである。


 曹操の「晩学」は、さまざまな言行にあらわれている。
 孫権が若い呂蒙に学問をすすめたとき、「孟徳(曹操)は老いてますます学問が好きになったと言っている」と忠告した有名なエピソードもあるが、
 曹操自身も、「年長になって学問をしてから成功したのは、彼と私だけだな」と友人を賞賛した言葉をのこしているからである。

 曹操の「晩学」というのは、当時でいえば20才前後の話だが、今日でいえば大学を卒業して社会人経験が二年ほど、要するに25才ごろと考えていい。
 しっかりした職業について、それから学び始めると、大きな違いが出るのは、社会人大学院で起きているさまざまに好ましい効果である。

 学校生活で迷いながらテスト生活を送っていた時代と比べて、社会人大学院生には「自分に必要なもの」がわかっている。
 問われなくても、促されなくても、自分から文献の読解に挑戦している。

曹操は「社会人大学院生」だったのである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007.10.01 22:59:08


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: