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出発点が同じでも、分岐点でずっと右ばかり選択した場合と左ばかり選択した場合では、進化の系統樹みたいに、みな海綿生物からスタートしたはずが、最終地点では軟体動物と人類みたいにまったくの別物になってしまう。
人生においても、分岐点に来るたびに、この選択によって自分が将来タコになるのかヒトになるのを決定付ける可能性を思うと、迷いが生じて1つ1つの選択に神経質になってしまいがちである。
子どもの頃、単に道を歩いていた時、「この道を選択したのは間違いではないか」という強迫観念に駆られ、行きかけた道を引き返して別の道にしたことが何度となくあったが、あれは分岐点における選択の重大性、不可逆性を、子供ながらぼんやりと察していたからかも知れない。
実は、もうすぐ60歳にならんという年齢になる今でも、道を歩いていて「こっちを選択したのは間違いではないか」というあの頃と同じ妄念が頭に浮かぶことがたま〜にある。しかし今では先が短い自覚があるので「どの道を行こうが今さら終着点はほとんど変わらんよ」と、妄念はその場で打ち消され、道を引き返す気も起きない。
60歳と言えばもはや系統樹の末端にいるわけで、ここまで来れば今更どんな極端な選択をしたところで、最終的にタコがイカになるか、チンパンジーがボノボになるか、といった程度の違いしか生じないのは分かっている。決断に真剣さが伴わなくなってくるのだ。言い換えると、人生がお気楽になる、ということだ。
とは言え、ここままのコースだとゴールはタコだ、というのが見えてくると、チクショー、ここでいっちょイカを目指してやろうか!…といった程度の元気はまだ残っているような気はする。残る数回の分岐点でことごとくハンドルを一方向に切り続ければ、まだイカに着地する程度の余地は残っていそうだ。タコでもイカでも傍目にはもはや変わりないのだが、死ぬ時に、タコになったほかの仲間を見ながら少しは自己満足できそうな気はするのである。
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