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嵐の中でも揺るがない筋金入りの「寛容」とは 人は不安になると、他者に対して不寛容になりがち。行き先の見えないコロナ禍で、改めて浮き彫りになった点でもある。神学者の森本あんり・東京女子大学学長は、寛容であるためには「確固たる信念を持つこと」が大切であると語る。近著『不寛容論』を巡り、その真意に迫った。(聞き手=萩本秀樹、村上進) インタビュー 東京女子大学 森本あんり 学長 憲法が保障する「信教の自由」―—神学者である森本学長は、宗教の価値について広く発信してこられました。元総理の銃撃事件(昨年7月)は許されるものではありませんが、それ以降、宗教のあり方や、信仰と社会の関係性が改めて問われている現状を、どのように見つめていますか。 事件を機に、反社会的な団体と一部の政治家との関係性が明るみに出ました。それまで蓋をされていた問題が顕在化したことは、よいことだったと思います。一方で、この問題とともに論じられがちな「宗教二世」を巡っては、少し注意が必要だと考えます。まず大前提は、宗教が関わろうと関わるまいと、子ども一人一人に人権があり、尊重されなくてはならないということ。ネグレクトや体罰、自由の侵害が許されてはなりません。それを前提に申し上げたいのは、人が自分の信仰を大事に思い、子々孫々に伝えたいと考えるのは、当然であるということです。かつそれは、憲法で保障された「信教の自由」に含まれると思います。子どもに何を教え、どう育てたいのか。教育には、常に価値観が含まれます。価値中立はありえない。とりわけ信仰に関しては、親の考えが子どもに影響を与えるのは自然ですし、子が幼い内は、そうであってしかるべきです。それを否定するのは、それこそ信仰の自由の侵害になります。「宗教二世」の切実な訴えは、次世代に侵攻を伝えという本来の目的が失敗していることを示しています。虐待や共生という方法では、信仰は伝わりません。彼らの親や教団は過ちを正さねばなりませんが、日本ではそれらの宗教をまるごと否定したり、危険視したりしがちです。これでは別の人権侵害を引き起こしてしまいます。 世界教育のスタンダード世界人権宣言には、「何人も、自己の私事、家族、家庭もしくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉および信用に対して攻撃を受けることはない」とあります。子どもの教育は、「自己の私事、家族、家庭」のことなので、親に優先的な権利があるということです。日本では、公教育が第一で、私教育はそれを補完するものと考えられがちです。しかし本来は、家庭をはじめとしたプライベートな教育がまずあるべきで、それが十分に行き届かない場合に、公教育がお手伝いする。まずは親が、自分の子どもの教育を担うのが、世界のスタンダードです。アメリカではしばしば、保守派のキリスト教の人たちが、公教育とぶつかります。例えば、聖書に書かれた「創造ものがたり」を信ずる親たちが、科学的な「進化論」を教える公教育を否定し、子どもを家庭で教えるか、自分の教派の学校に通わせます。私は進化論を否定する彼らの考えに賛同しません。それでも、その考えに従って子どもを育てるのは、親の優先的な権利なのです。人それぞれの「正しさ」や価値観が尊重される。そうした中で、人権感覚が養われていくのだと思います。 ―—世間の〝空気〟が正しさを規定するのではなく、人それぞれの価値観が尊重されるよう、人権意識を育むことは重要です。 アメリカ東部や中西部に、「アーミッシュ」と呼ばれる人々が住んでいます。キリスト教プロテスタントを信仰する保守的なグループで、公共電力も使わず、車やスマートフォンも持たず、自給自足に近い生活を送っています。彼らはアメリカ国民です。しかし例えば、アメリカの義務教育は高校までですが、アーミッシュでは、学校教育は14歳まで。公立学校ではなく、自分たちのコミュニティー内で教育を行います。こうした独自の教育方針が、連邦最高裁判所の判決において許可されているのです。世間一般と異なる考えを持つ人々の扱いに、その国の人権感覚の熟成度が現れていると感じます。あるいは、ユタ州を拠点に活動するモルモン教は、初期には一夫多妻制を教義としていました。しかし19世紀末、ユタ地域がアメリカの「州」になることが決まると、その教義を放棄して一夫一婦制になりました。社会に適合するために、宗教のほうが変容していったのですね。一方では社会の側が、多様な価値観を尊重し、他方では宗教の側が、社会に適応してかたちを変えていく。この相互作用が、社会と宗教の健全な関係性を保っていくのだと思います。長く生き延びて発展していく宗教は、現代に合わせて変容する知恵と柔軟性をもっている。それは歴史の常でしょう。 自らの幸福に責任を持つ―—近著『不寛容論』は、トランプしからば遺伝子へと、アメリカ大統領のバトンタッチが決まった2020年12月に出版されました。肝要でありたいと考える人が、なぜ、不寛容に陥ってしまうのか―—。コロナ禍の中でも重要なテーマを取り上げています。 例えばコロナ禍の中で、マスクをするのか、しないのか。これまでは政府の方針を示してきましたが、最近では個人判断が基本となりました。自分のことは自分で決める。そこには責任が伴います。自分で決めたことによる帰結を、引き受けていくということです。これを繰り返して、人も社会も成熟していくのだと私は思います。寛容とは、自分と異なる人や、自分が否定的に評価するものを、受け入れること。無関心なことに対しては、そもそも寛容にも不寛容にもなれません。日本人は、宗教に寛容でも不寛容でもなく、「無寛容」なのです。ところがこの無寛容は、時として、狂暴な不寛容に転じます。自分に無関係なうちは鷹揚にしていた人が、ひとたびそれを〝異物〟として認識するや否や、徹底的に排除しようとしていくように。そうならないためには、自分で決めて、その帰結を引き受ける覚悟を身につけることだと思います。自分の生き方を選び取っている人は、人をうらやんだりしません。反対に、自分の生き方に自身を持っていない人は、それができている人に対して、危機感や恐怖感を感じるものです。だから、〝宗教を信じている連中は……〟と不寛容を露にする。根本的には、自分の選択した人生に自身がないのでしょう。これは突き詰めれば、自らの幸福に責任を持つべきだということです。日本国憲法にも、アメリカの独立宣言にも、「生命・自由・幸福の追求」の権利を保証する、とあります。生命と自由はそれ自体を保証しているのに、幸福については、「追求する権利」だけを保証しているのですね。なぜか。幸福そのものは、保証できないからです。「これがあなたの幸福です」と、一様にいえるものではない。だから最終的には、自分自身で幸福になる道を選び取るしかない。憲法が保障しているのは、その選び取る権利のほうです。 立場や意見が異なる相手にも礼節を守り つながり続ける あらゆる人権に先立つ大原則―—『不寛容論』では、集会・結社・言論・出版などのあらゆる自由が、「信教の自由」に帰着することを、イギリスからアメリカにやってきたピューリタン(注)の群像を通して描かれています。 例えば「言論の自由」は、もともとは宗教的な言論の自由のことです。当時のイギリスでは、国家や教会が認めた特定の人だけが説教することを許されていた。これに反対し、「説教の自由(Freedom of speech)」の出発点となりました。あるいは、「集会の自由」。コロナ禍で、人が集まる場での〝人数制限〟が設けられましたが、17世紀のイギリスでは、ピューリタンの礼拝を禁止するために、「5人以上が集まってはいけない」といった法律が定められています。その弾圧に抵抗してピューリタンが掲げたのが、「集会の自由」です。同じように、「結社の自由」も「出版の自由」も、信仰活動を妨げようとする働きに対する、ピューリタンの抵抗から育まれたものでした。このように、今日の人権の基礎にあるのは、「信教の自由」なのです。このことが、日本ではあまり理解されていません。何かを信ずる・信じないという内面の自由は、他のいろいろな自由に先立つ大原則です。ですので〝宗教は自由を抑圧するものだ〟という考えは、一面的すぎると思います。(注)イギリス国教会体制に反発したキリスト教ピューリタンのグループ。その多くが17世紀、イギリスの植民地だったアメリカに移住した。 「不寛容」を理解してこそ―—「寛容論」ではなく、「不寛容論」をテーマにされた理由は、何でしょうか。 一般に、寛容は美徳であると思われています。「不寛容ですね」と言われて、喜ぶ人はあまりいないでしょう。でも考えてみれば、誰もが万人に対して、寛容であり続けることはできません。例えば、戦争や虐殺をする人間に寛容になれないし、なるべきでもありません。全ての文化で同じ価値観が共有されることはない以上、時と場合によっては、不寛容にならざるを得ないことはあります。そう考えると、私たちに必要なのは、寛容の理解や押し付けではなく、不寛容の理解だと思うのです。不寛容な人々にも、それなりの理由がある。それを何とかして理解しようと努力しない限り、互いに歩み寄ることはできません。それと、自分は寛容だと思っている人や国にも、不寛容なところは必ずあります。そのことに自分で気が付かないと、相手を責めるばかりで対話が成り立ちません。「不寛容という限界があってこそ寛容が生きる」という意味で、『不寛容論』を書きました。そこで紹介している、アメリカ植民地時代のピューリタンであるロジャー・ウイリアムズは、先住民や異教徒への寛容を実践しました。彼の寛容は、宗教への無関心からではなく、燃えるような信仰心から出ています。何かを信じることの尊さを知っているからこそ、自分とは異なる信仰を持つ人にも、尊さを見いだすことができたのです。無関心からくる寛容は、ひとたび自分の身に危険が迫ると、たちまち吹き飛んでしまいます。しかし、信ずるがゆえの寛容は強い。嵐の中でも揺るがない。「筋金入りの寛容」です。そうした寛容が、社会を根底から変える力となっていきます。 賛同しなくても受け入れる―—立場や意見の異なる人との出会いは、全てを分かり合えない場合もあります。不寛容に陥らないために、心がけるべき点は何でしょうか。 親しい人との間や、時には家族の中でも、全ての意見が一致することはないですよね。それでも一緒にやっていかざるを得ない。そうしたとき、両手を広げて、心の底から相手のすべてを受け入れなくてもいいのです。心掛けるべきは、「最低限の礼節」を守ることだと思います。小手先の対応だと思われるかもしれません。でも、これからの社会では、価値観や世界観の異なる人との出会いや交流がいっそう増えるでしょう。その中で共存するためには、どうするか。相手に賛同できなくても、それでも受け入れていくための現実的な知恵が、求められていると思うのです。礼節を守るということは、対話のチャンネルを開き続けるということ、分かり合えない相手や、自分を批判してくるような人に対しても、関係を切らないことです。忍耐です。礼節を保ち、つながり続けていく。するといつかは、それまで気づかなかったような、相手の一面が見えてきたりするのです。イエスの言葉に、「汝の敵を愛せよ」とあります。博愛を解いた言葉でもありますが、同時に、「敵」は必ずいるということです。それでも共存しなさい、と。この実践を貫ける人は、自分自身を肯定できる人でしょうね。他者に攻撃的な人は、自分が何かに脅かされていると感じているひとです。不安なのです。だから、どこかに誰かに、自分の存在を無条件に認めてもらうことが大切です。信仰とは、そういう無条件の肯定や是認が与えられることだと思います。そういう信仰を共有する人々が周囲にいれば、さらにそれが実践できるでしょう。そのつながりの中で幸福を見いだし、新の寛容を育んでいけるのだと思います。 もりもと・あんり 1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)卒。東京神学大学大学院を経て、アメリカ・プリンストン連合神学大学博士課程修了。同大学院客員教授、バークレー連合神学大学客員教授、ICU教授・学務副学長などを経て現職。専攻は神学・宗教学。『不寛容論』『反知性主義』『異端の時代』『キリスト教でたどるアメリカ史』など著書多数。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.4.15
June 23, 2024
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悩みもがき、それでも前へ進み続ければゴールに至るインタビュー 作家 宮本 輝さん「品性」めぐる家族の物語(『よきときを思う』では、冒頭、三沢兵馬という老人が東京に所有する、中国の伝統的な民家「四合院」が登場する。その一角を間借りする金井綾乃に、ある日、母から、祖母・徳子が自ら計画した、90歳の誕生日を祝う「晩餐会」の知らせが届く。一世一代の晩餐会に集う金井家の家族や、その周囲の広々に光を当てながら、幸せとは何かを問う物語だ) ―—コロナウイルスの感染が広がってから書き始められた作品ですね。四合院造りの家とは、方形の中庭を囲んで、東西南北の四つの辺に一棟ずつ建物がある造りです。それぞれが独立した家でありながら、同居しているような不思議な空間です。 朴が36歳の時、日本の作家代表団の一員として訪中させてもらいました。その時、北京の街を散策する機会があって、四合院造りの家が並んでいる地域に案内されました。四つの家が一つの壁に囲まれていて、一家一族がそれぞれの家に住んでいる。必ず中央に井戸があって、そこで洗濯したりしていました。中庭で子どもが遊び、花や木が植えられている。夕方になれば、それぞれの家に帰って、井戸だけがぽつんと残っている。あれから40年―—いつか舞台を日本にして書いてみようと思ってきました。 ―—家族は独立していながら、人はつながっている。コロナ禍の時代にこそ、こうしたつながりを大切にしたいですね。 4世帯という小さなつながりが、絶妙なんだと思います。だから、この三沢家でも、よその家には干渉しないけれども、何とはなしに気配でわかる。ああ、今帰ってきたなとか、無関心じゃないんです。いい距離感とでもいうのかな。きっと今の時代って、そういう距離感が大事なのかなと思います。2日ほど顔を見なかったら、あの人、元気かな、大丈夫かな、ちょっと様子を見に行こうかな、というように。 ―—作品に込められた思いやメッセージを、教えてください。 あえて一言で言うならば、「品性」という言葉になると思います。人それぞれにも、家族にも「品性」があり、それが生きていく上で大切だと思うんです。では、その「品性」とはどういうものか、どのように培われていくのか。最近の出来事を見聞きするにつけ、日本人が「品性」を失いかけているように感じていました。それは、日本が豊かになったとか、貧しくなったとかは、別の次元だと思います。もともとは、四合院造りの家が、主人公になるはずでした。四つの家族が織りなす物語を書く。ところが、その1棟に間借りする金井綾乃のもとに、滋賀の実家に住む祖母の徳子おばあちゃんから手紙が届いてから、小説が全く別物に変わっていました。〈京都の由緒ある家に16歳で嫁いだ徳子。2週間の結婚生活の後、出征した夫が戦死する。手紙には、自害を試みたが、生きることを選んだと。90歳のお祝いに、孫の綾乃が送った香水をつける日が来るとは思わなかったとともに、「よきときを思いました」とつづられる〉図らずも筆が動いて、徳子おばあちゃんの物語になってしまいました。でも書いていくうちに、何とも言えない境涯の深さみたいなものが、彼女の中から出てきたんです。そうであればと、徳子おばあちゃんを中心に、金井家一人一人の物語を書きました。金井家は、みんな品性があるんですね。それは、持って生まれたものなのか、それとも環境によるものなのか。裕福な家に生まれて、厳しくしつけられたからといって、持てるものではない。貧しい家に生まれて、品性のある人もいます。一人の人間の持って生まれたものでないとすれば、家族全員で、巧まずしてつくり上げていったものなのでしょう。そうした作為的でないもの、何かの企みによって出来上がったものではないものが、ぼくたちの周りには、いっぱいあるはずです。人間が持つ品性は、その一人にとどまらず、家庭をはじめ、企業や団体、国家にもつながっていく、そこにある品性のありようによって、その行く末が全部決まっていくということを、徳子おばあちゃんに語らせたかったんです。 ―—徳子おばあちゃんの品性が、「蘭室の友」に交わるように、家族や周囲に広がっていったようにも思えます。 そう読んでいただけたら、作者としてはうれしいですね。徳子おばあちゃんは、小学校の先生を長年務め、担任教師として教えた子供は1200人以上。蘭の香りが部屋に残るように、彼女の人徳の香りが何らかの形で、子どもたちに移っていったかもしれませんね。 一度に100文字は書けません。一文字、一文字。それしかない。 ささいなものに幸福を見いだす―—徳子おばあちゃんは来国俊の懐剣や端渓の硯、竹細工の花入れなど、大切にしてきたものを孫に分け与えていきます。「見ていると幸福な気持ちになる。それがやがて『もの』ではなく幸福そのものになる」という言葉は印象的です。 何億円もする絵画とか、何百万円もするブランドものでなくてもいい。たまたまどこかで出会ったもの、値段にすれば数千円しかしないようなものが、持っているうちに味が出てきて、眺めているだけで、幸せな気持ちにしてくれたりします。徳子おばあちゃんは、「わたしはそういうものを探して集めてきた。綾乃もそうしなさい。探せば見つかる。探さない人には見つからない」と言っています。幸せを集めて生きてきたわけですね。人は、どういうものが好きか、何を選んでいくのか。結局、そこには、その人の品性が現れると思います。そうすると、その人が歩んでいく人生もまた、その人の品性に従って、選び取られていくのではないでしょうか。確かに生きにくい時代です。何にでも値段が付けられて、多くの人が金勘定に血眼です。だからこそ、ささいなもの、身近なものに対して、美しいな、幸せだなと感じられる。それを見ていたら、何故だか知らないけれど一日の疲れが取れる。そんな幸福の感受性を、たくさんの人に持ってほしいですね。 ―—90歳を祝う晩餐会で料理に腕を振るった玉木シェフは、教え子の一人。重度の吃音のある彼の、終局の世話をしたのが徳子おばあちゃんです。 晩餐会であいさつをした玉木シェフは、かつて徳子おばあちゃんに教えられた法華経の一斉津を暗唱し、「徳子さまにおかれましては、少病少悩でありましょうか」という言葉を繰り返します。法華経には「少病少悩」と、仏も病気になることが説かれている。誰もが病気になるし、悩みがあるものです。しかし、どんな病や悩みであっても、それは「少病少悩」にすぎないだよ。そんなおおらかな心で生きることを、徳子さんは玉木少年に伝えたのではないでしょうか。この「少病少悩」という言葉を、僕は使いたかったんです。そこで、池田大作先生の『法華経の智慧』も読みながら、法華経に説かれる妙音菩薩を登場させました。さまざまな解釈があるでしょうが、妙音はサンスクリット語では「吃音」、つまり「聞きづらい声の人」を意味したともいわれています。美しく流麗に、仏の教えを伝えることができた妙音菩薩が吃音だった。なんだか深いな、と。それでも徳子さんに語らせたんです。〝妙音菩薩のことを、おとぎ話ではないと信じて読むのよ〟すべて真実と決めて読むのよと。 ほんの一言で動き出す関係性―—小説の終りでは、再び三沢兵馬が登場します。長年、関係を断絶した息子から、結婚合相手に会ってほしいと連絡があり、兵馬は、息子たちが暮らす広島県福山市の鞆の浦を訪れます。 四合院の主である兵馬のことを、忘れていたわけではないんです(笑)。あまりにも徳子おばあちゃんが活躍するもんだから、少し後回しになってしまった。でも、最後は鞆の浦を舞台にして終わろうと、決めていました。西からの海流と東からの海流が、鞆の浦でぶつかり合うんですね。瀬戸の海は穏やかなので、ぶつかり合った汐は、動かない。見ていると、あそこでせめぎ合っているなと分かるのに、波は立たない。せわしくせめぎ合っているんです。昔の船乗りたちは、潮が動き出すのを待つしかない。3日間か、1週間か、どれくらいかかるか分かりません。でも、何かのきっかけで、その均衡が崩れるときがきます。西からの汐が勝てば、その海流に乗って、舟は大阪がある東の方へと移動していくわけです。二十年ほど前、口も利いてない親子は、鞆の浦の汐のようだと思います。静かに押し合って、動かない。でも、ほんの一言の「ごめんね」で、汐が動き出すことがあるんです。僕が一番、書きたかったのはそのことです。だからひょっとすると、主人公は鞆の浦の潮流なのかもしれない。 ―—小説を文芸誌で連載している間に、大病を経験されました。 肺がんと、がん化した腸ポリープが見つかり、手術で摘出しました。すると腹部にも、二十数センチの脂肪種が見つかって、また手術で取り除きました。特に2回目の手術は、体にこたえました。入院中にベッドに寝転んでいたら、「既に生を受けて齢六旬に及ぶ。老また疑いなし。ただ残るところは病・死の二句なるか」(新1734㌻・全1317㌻)という、御書の一節がしょっちゅう浮かんでくるんですね。日蓮大聖人の年齢は60歳に近く、老いも疑いない。残すところは病と死のみ。でもそこに、無念さや悲痛さはない。悠々と、生老病死を大きく見下ろしている明るさ、強さを感じました。僕は70を超えて大病をした。でもこの一節を、何度の心の中でつぶやいていると、また病気をするかもしれないし、いずれは人生を終える、でも、「それが、どうした」と思えました。そのとき、西からの汐と東からの汐が、僕の目の前でぶつかり合っている気がしました。小説の最後の場面を執筆したのは、退院して後です。人生は生老病死との格闘ですが、そんな自分を、上からそっと眺めるような時も必要なんだと思いました。これから先、「もうええやろ」と思えるくらいまで書いて、小説家としての使命を果たし終えたら、それが僕の「よき時」です。みんなに感謝して、「ちょっとチャージしてきますわ」みたいに旅立てたら、それは最高の「よき時」ですよ。 シルクロードの旅から学んだ―—『よき時と思う』と並行して、昨年12月から、『ひとたびはポプラに臥す』全3巻を3カ月連続で発刊されました(集英社)。シルクロードの旅を記し、20年以上に刊行した紀行エッセーを文庫化したものです。 27歳の時、鳩摩羅什のことを知りました。膨大な仏教経典を漢訳したのに、自分のことは何も書き残していない。鳩摩羅什が歩いたシルクロードの道を、いつか歩いてみたいと思いながらも、20年くらいが過ぎました。でも、1995年に阪神・淡路大震災がありました。僕も家族も無事でしたが、家は壊れました。地震の瞬間、僕は富山市にいて助かりましたが、本当は家にいる確率が高かったんです。ああ、あの時自分は死んだんだ。そう考えたら、過酷なシルクロードの旅にも踏み出せました。ところが、行ってみたものの、ただただ、しんどい旅でした。どこを歩いても砂漠ばかり。鳩摩羅什がどんな人物で、何を考えていたのか、雲をつかむようで想像もつきません。これは書けないなと思いました。鳩摩羅什の小説を書く代わりに、紀行エッセーとして連載ことにしました。最初の出版から20年以上経っているので、現地の町並みはずいぶん変わりましたが、その変化も楽しんでいただけるよう、あえて当時の様子の描写のまま出版しました。 ―—厳しい自然や困難と対峙し続けたシルクロードの旅が、作家人生にもたらした影響は。 粘りですね。諦めないということ。諦めずに進み続ければ、前進していけるんだな、と。ゴビ砂漠の真ん中を、延々と伸びる1本の道。時速80㌔、100㌔くらいで走っても、全く景色が変わりません。やっとオアシスの町について、ホテルに泊まって、次の日はまた同じ景色です。気が狂いそうになりました。俺たち間違っているんじゃないか、知らぬ間にUターンして、逆戻りしているんじゃないかと疑いました。そしたら現地のガイドが、「ミヤモトサン、天山山脈がずっと右側にあるでしょ。反対に進んでいたら左側だよ」とかいうわけです(笑)。迷っても、疑いながらでも、前へ進むしかなかった。暑い暑いと言いながら、それでも進む。でも、こうして無事に帰ってこられた。旅を終えることができました。小説もそうです。いっぺんに100文字は書けません。一文字、一文字、書くしかない。全く書けない日もありますよ。何も浮かんでこない。明日の締め切り、どうしようかと。でも、そのときに、あの旅をふと思い出します。ここが火焔山、ここが何かという町だったな。ゴビ砂漠を一人で歩いていた青年は、今どこにいるのかなって。すると、一文字、また一文字、書ける。途中で止まることはあっても、〝きょうは、これだけ進んだ。もう少しでオアシスだ〟って思えます。前へ進むことしでしか、小説は書けないと分かったのは旅のおかげです。何とか書いていけば続けられる。今も、そうして毎日、書いています。 庶民の歴史を描きたい―—5行、10行と書き続けることで、〝書けないかもしれない〟という恐怖を消したとつづられているのが心に残りました。旅から学んだ粘りとあきらめない姿勢が、大長編である『流転の海』を完結させるだけの力になったとも言われています。 昔、井上靖さんに、「書けないときは、どうするんですか」って聞いたことがあります。井上さんは「書けないときは、書くんです」と言いました。そんな訳分からんことを、思い出しましたね(笑)。でも、「いつか分かりますよ。書けないときには書くんです。そしたらまた書けるようになります」って。井上さんが言った通りでした。『流転の海』も苦労しました。37年かかりました。調べてくれた人がいて、全9巻を通じた登場人物は、1200人を超えたようです。歴史上の人物は一人もおらず、出てくるのは庶民だけです。日本をつくってきたのは庶民です。戦争で庶民が死に、戦後を庶民が生きてきた。庶民が血と汗で築いてきたものを、横取りする悪い奴も山ほどいましたが、誰が何と言おうと、日本をつくってきたのは庶民ですよ。そんな「庶民の歴史」を描きたかった。人間の明るい部分だけではなく、暗い部分も含めてですね。先の見えない激動の時代にあっても、人とのつながり、人を大切にし、愛情をもって精いっぱい生きた人間がいる。そんな偉大な庶民の姿を、これからも書いていきたい。それも、一文字、一文字ずつですね。原稿用紙1枚をやっと書いて、1日の精力を使い果たして、また翌日、机に向かって、悩んでもがいて。それ以外に、1000枚にたどり着く方法は一つもない。どんな時代になろうと、そうしたやり抜いた仕事だけが、信用できる、最高の仕事だと僕は思います。 みやもと・てる 1947年、兵庫県生まれ。広告代理店勤務を経て、77年に『泥の河』で太宰治称、78年に『蛍川』で芥川賞を受賞。『道頓堀川』、『優駿』(吉川英治文学賞)、『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『骸骨ビルの壁』(司馬遼太郎賞)、『流転の海』シリーズ全9巻など著書多数。2010年秋に紫綬褒章、20年に旭日小綬章を受章。兵庫県伊丹市在住。文芸部員。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.28
June 10, 2024
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「声の届く」場所で「共に苦しむ」ことからインタビュー㊤ 小説家・劇作家 柳美里さん ゆう・みり 劇作家・小説家。1968年生まれ。高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。俳優を経て、劇団ユニット「青春五月党」を結成。97年、『家族シネマ』で第116回芥川賞を受賞。近著に『南相馬メドレー』(第三文明者)、『沈黙の作法』(河出書房新社)など。2015年に鎌倉市から福島県南相馬市に転居し、18年に「フルハウス」を開店。20年、『JR上野駅公園口』が全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞。 親密さの回復――東日本大震災から12年。震災による喪失と悲しみは、今もなお続いています。今という時を、どのように見つめていますか。 震災と、それに続く東京電力第一原発の事故によって、福島の皆さんは、長期にわたる避難生活を余儀なくされてきました。私が済む福島県南相馬市の小高区では現在、居住者は3800人ほどで、震災前の約3割です。65歳以上の方が50%近くに上り、避難生活の中で家族を亡くし、独り暮らしをしている高齢の方も多くいます。もともと地縁、血縁が強く、人が密接につながっていた地域ですが、震災後の長期避難で、そうしたつながりが断絶されてしまいました。そこに、コロナ禍が起こりました。震災で寸断されていたJR常磐線が、ついに全線開通したのが2020年3月。本当なら、多くのみなさんを迎えるはずでしたが、その後の緊急事態宣言で、次々とイベントが中止されました。もっとも来てもらいたい時に、感染症の流行が重なったのです。実は、コロナ禍での感染対策の防護服姿やマスクの着用は、2011年以来、見慣れたものです。避難の一時帰宅で自宅に入るのにも、放射線の防護服とマスクを着けなければならなかった方もいます。災害も感染症も、多くの人に影響を及ぼします。それが「皆、苦しい」といった言葉でまとめられると、苦しみが「並列化」され、一人一人の「固有の苦しみ」が見えづらくなってしまいます。「3密を避ける」「ソーシャル・ディスタンスをとる」は、感染症対策には必要。しかし、近所付き合いが深く、隣組も機能していた、この地域では、そうした言葉が残酷に響いた一面もあるんです。さらに21年2月、22年3月と続いた福島県沖地震は最大震度6強で、家屋の損壊など、報道されている以上に大きな被害がありました。それまでも、3・11が近づくと体調を崩したり、気持ちがふさいだりする方が多くいました。そうした時期に、2年続けて大きな地震があり、建物が壊れて営業ができなくなった店舗なども相次ぎました。昨年からは、ウクライナを巡る危機報道を見て、避難の記憶がよみがえって、過呼吸や涙が止まらなくなる人もいます。同じ事象であっても、一人一人の「苦しみ」は、さまざまです。地震、津波、原発事故によって人間関係がぶつ切りになれてしまった地域で、そうした苦しみを支える「親密さ」をどう取り戻すか。最も求められているのは、人と人のつながりだと思います。そのために、まずは「人の話を聴く」ことが必要ではないか。震災翌年から18年に閉局するまで、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で、「ふたりとひとり」というラジオ番組のパーソナリティーを務めました。番組では毎回、南相場の方を2人ずつインタビューし、600人の方々の話を聴いてきました。 暮らしの中に――言葉にならない悲しみを抱えた方も多くいらっしゃると思います。深い苦しみを前にして、そうした方の話を聞くときに、柳さんはどんなことを考えていたのでしょうか。 「聴く」ことは、受動的な行為と思われがちで、どこか軽んじられる気がします。でも実際は、すごく肉体的なやりとりです。聴くためには、「声が届く範囲」にいなければなりません。目の前の人の肺から息が上がってきて、声帯が震えて声を発する。その振動が、聴き手の耳に入って、鼓膜に届く。聴くことは、「あなたの苦しみを確かに受け取った」というレスポンス(返事)でもあります。震災以降、多くの方が被災地に来ましたが、メディアの中には「こういう話を取ってくるように」という前提をもって取材に来る人もいました。それでは「聴くこと」になりません。現代は、商品や情報など、あらゆるものに値段がついて「消費」の対象になります。けれど、私はずっと、悲しみや苦しみは「消費してはいけないもの」だと考えてきました。繊細で失ったのが大事なものであるほど、その人の悲しみも同じように大事にしなければならない、と。また、震災後に「頑張ろう」というメッセージも多く使われました。確かにその通りなのですが、前にそうした励ましは「先回りした言葉」のようにも感じました。胸が張り裂け、口に出すこともできない。そんな苦しみを抱えた人を前にした時、まずは「共苦」(共に苦しむこと)が必要ではないかと思います。私は、2000年に伴侶を亡くしました。あまりにつらく、悲しい経験をすると、記憶が「空白」になることもあるんです。実際、私も伴侶が亡くなった直後の記憶が抜け落ち、自分がどう行動していたのか、覚えていません。当時、一緒にいた人に、「あの時、自分はなにをしていたのか」と尋ねて回りました。そうした中で、自分の思いを聴いてくれる人がいて、その人を通して取り戻せた記憶もありました。「南相馬ひばりエフエム」のラジオ番組「ふたりとひとり」では、被災地の暮らしの悩みを多く聞きました。3月11日には過ぎておらず、日常の中にあると感じました。暮らしの中に、悲しみも苦しみもあります。「共苦」するためには、「共に暮らす」ことから始めなければ、私は聴き手になれない。そう思って、息子と一緒に15年に、神奈川から南相馬に引っ越しました。ある寒い日、復興住宅の縁側に、ポツンと座っている高齢の方がいました。私には、誰かを待っているように見えました。言葉にならない悲しみもある。そうした「沈黙」も含めて、聴くことが必要ではないか。無視せず、聞き流さず、「声が届く範囲」にいてくれる誰か。そうした存在が、求められるように感じます。 沈黙も含めて「聴く」今という「時」の共有 同じ場所にいる――沈黙さえも含めるとすると、聴くことは、大きな広がりがあると感じます。急に語りかけたり、励ましたりすることはできなくても、相手のそばに「一緒にいる」ことで、聴くこともできるのですね。 津波によって兄夫妻を亡くした、ある男性がいます。彼は震災後、夫婦でお兄さんの子どもたちを育ててきましたが、その一人を病気で亡くしたのです。お兄さん夫妻が命がけで津波から守った子が、弟夫婦が必死で育ててきた子が、幼くして命を落としてしまうなんて……。彼からのLINEでそれを知った時、何も言葉にならず、返事を送れませんでした。時間がたって、「春、小高川沿いの桜並木を歩きまわりませんか?」と、彼を誘いました。桜並木の下を歩いていると、彼は、亡くなった子は桜が好きだったと教えてくれました。最後は夏だったため、桜を見せてあげられなかったこと。けれど、その子をおぶって海に行った時、波打ち際で砕行ける白い泡を見て、背中越しに「海に桜が咲いている」と言われたこと。彼は「あれが最後の花見になった」と。私は何も言えないまま、並木道を1時間半、ただ聴いていました。しかし、彼は「誰にも話せなかった」と言いながら、たくさん話をしてくれました。話しても、気持ちのすべてを共有することはできないかもしれない。けれど、話されたことを聴くことで、その悲しみにそっと「手を当てる」ことができるのではないでしょうか。逆に相手が何も言えない時には、その沈黙も含めて聴く。言えない思いを抱えているのだとおもんぱかり、想像する。その痛みを代わって痛むことはできないけれど、痛みを共に悼むことはできます。言い換えれば、「今」という時を共有することです。人間である以上、死を避けることはできません。いずれ去りゆく者として、この場にいる。だからこそ、かけがえがない。今という「時の共有」、同じ場所にいるという「共有」。それが広い意味で「聴く」ことなのだと思います。 悲しみの水路――深い悲しみや苦しみを経験したとき、共有できる人がいることは、小さくとも確かな支えになると思います。 孤独の先に「孤絶」があります。原発事故の避難で、何台も可決つながってきた地域の人たちが散り散りになり、帰還しても、それまでとは一変した故郷しか残っていない。つながりがたたれ、居場所から引き抜かれてしまうと、絶縁と絶望の「孤絶」になります。そうなると、自分は生きている意味がない、価値のない人間だと思い込んでしまう。地に足がつかず、胃きりことが宙づりにされるのです。そんなとき、一人きりでいたら、悲しみの水位がどんどん上がって、おぼれてしまいます。心は、揺れる、震えるなどと表現しますが、動く余地のないほど固まってしまうと、何かの衝撃で折れてしまう。心を柔らかにほぐすには、人との「交流」が必要です。「交」じり「流」れると書くように、誰かが近くにいて、聴いてくれることで、「悲しみの水路」が流れ出します。南相馬に移住してから、そうした場所を造りたいと、書店をオープンしました。カフェも併設して、地域の皆さんからふらっと立ち寄れる居場所です。この地域で、私自身は「水道管のパルプ」のような役割だと思っています。流れる水は地元の方々で、私はそれをそっとつなぐ役目を果たせたらいいなと。ある雨の日、コインランドリーで一人の女性と出会いました。洗濯物が乾くのを待っていると「どこの人?」と聞かれました。震災後に来たことを伝えると、ぽつりぽつりお話されました。かつては小高区で畑仕事をしていて、手芸教室もやったが、今は仮設住宅暮らしで何もやることがない、と。復興住宅の縁側に座っていた高齢の方も、コインランドリーで話した方も、隣にふらっと来てくれる誰かを待っていたのではないでしょうか。大きな悲しみを経験した方を前にして、それと向かい合うことができなくても、隣で同じ方向を見つめながら話ができたら、流れ出す思いもある。後ろを向きながら、前に向かって歩んでいくことがあってもいい。私は、ここに暮らしながら、「あなたは私にとって大事な存在」と、声をかけていきたいのです。意志をもって、つながりの場をつくらないと、孤絶した人たちは、この世からこぼれてしまいます。創価学会の座談会も、時と場を共有して、それぞれの抱えている思いや話を聞く居場所になっているのではないでしょうか。そういう場をつくって、交流を重ねることで、「悲しみの水路」を通して、苦しさを流しだせるのだと思います。 ――柳さんは、2018年にブックカフェ「フルハウス」を開設し、いまは併設した劇場の準備を進めています。本との出会い、「生活者」であることと、信仰や祈ることについてなど、さらにお話を伺います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.11 答えがなくても「問」続けるその揺らぎを支える「祈り」 インタビュー㊦ 小説家・劇作家 柳 美里さん 「生活者」として――2020年に全米図書賞(翻訳文学部門)に選ばれ、世界中で反響を読んだ小説『JR上野駅公園口』の主人公は、南相馬出身でした。作品では、行き場をなくした人たちの苦しみが描かれています。 私は、自分のことを「表現者」というより、「生活者」だと思っています。「メイドイン南相馬」の小説を、ここで暮らし、書き、読んでもらっています。「もごいなぁ」「んだけんちょ」といった、極めてローカルな方言を随所に書いたので、英語への翻訳も容易ではなかったと思います。ですが、そうして描いた「痛み」は、不思議なことに、英訳を経てもたしかに伝わってきました。現在、十数か国語で翻訳されていますが、それだけ「居場所がない」と感じている人が多いのかもしれません。「何にも属せない」と感じる人が、手に取ってくれているとも思います。私自身、韓国籍だったことでいじめに遭い、日本にも韓国にも「所属館」を持てませんでした。けれど、「居場所がない」という痛みの共通点から、人はつながることができるのかもしれません。ブックカフェ「フルハウス」を開いたのも、住民同士の語らいの空間となる居場所をつくりたかったからです。 ――2018年に「フルハウス」をおーぷんされて、5年がたちます。このインタビュー中にも次々と人がやって来て、気さくにあいさつを交わされています。一人で来られる方もいれば、複数で来られる方もいて、気兼ねなく過ごせる印象を受けました。 人は、交流がないと窒息してしまいます。ちょっとしたあいさつや雑談から会話が弾むこともありますし、喫茶店や書店なら長居することもできます。もし誰も話せる人がいない時でも、本を通して〝人〟と会うことができます。本といっても、そこにいるのは〝人〟なんです。著者もいれば、登場人物もいます。もう生きていけないと思うような断崖絶壁に立たされた時、今、生きている場所のほかにも、「世界は無数にある」と気づかせてくれるのが、本ではないでしょうか。書店に並んでいる本は、どれも、別の世界に開かれた扉でもあるのです。私が本と出会ったのは、いじめに遭っていた時でした。しゃべる友達もいなかったので、いつも図書館に行って本を読んでいました。ともすると、子どもにとっては、学校と家の往復だけが、唯一の〝世界〟になりがちです。学校でいじめを受けると、世界は苦しみに満ちてします。けれども私は、本を読むことで、自分が生きる世界が一つではないことを知り、救われました。南相馬の工業高校の生徒が、フルハウスでの読書会を気に読書するようになって、その後、就職して初めての給料で本を買いに来てくれたこともありました。読書の入り口がひらけば、いろいろな世界につながっていける。フルハウスの存在が、そんな居場所になれたらいいなと思っています。 悲しみを照らす――柳さんの著作には、ありのままに自分の苦しみや悲しみをさらけ出したものもあります。柳さんにとって、苦しみ、悲しみは、どのような意味を持つでしょうか。 私は若い時、「なぜ私だけがこんな目に遭うんだろう」と、自分を不幸だと思ってきました。けれど、小説家になってからは、「確かに不幸だけれど、その不幸には不服はない」と思って書いたんです。ある意味で、開き直りといえるかもしれません。ただ、今になって思うのは、〝痛み〟のない人はいないということです。生きることは、いつか死ぬこと。どんなに大切な人がいても、最後は「さよなら」しなければならない。それがいつかは分からないけれど、死ななければいけないということを知っているというのは、それ自体が大きな悲しみ、根源的な苦しみではないでしょうか。一人一人、違うけれど、誰もが痛みや悲しみを経験している。「あなたの悲しみは分かる」などと安易には言えませんが、悲しみを自分の前に〝小さなともしび〟のように置くことで、人の悲しみを照らすことができると思います。 ――人がつながる場としてフルハウスを開かれ、併設された劇場も完成予定です。この夏には、常磐線を舞台にして芸術祭の開催も企画されています。柳さんの発想や著作には、苦しい思いをしている人の姿がいつもあるように感じます。 もともと近くに孝行もあって、下校時に寄り道できる場所がいないと感じていました。「私に何かできることは」って考えたら、書店しかいないと。それなら、お金を使わなくても長居することができますしね。思いついたことを形にするときは、地域の方の「喜ぶ顔」が浮かぶかどうかを基準にしています。具体的に喜んでくれる人の顔が浮かばなかったら、だめかなと思っているんです。喜ぶ顔が浮かぶなら、それはきっと実現できるという確信があります。それは、なぜか。「自分とは何か?」と問いかけると、結局、「他者でできている」と思うからです。親や友人、教師から始まって、何世代にもわたる先祖や、真苗も知らない膨大な過去の使者も含めて、一人でもかけたら今の自分はないじゃないですか。だから何かをする時に、それが他者の喜びや希望にかなっているかどうかは、いつも気にかけています。言い換えれば、自分は「他者」という「糸」で編まれていて、それをほどいて編み直すことも、さらに編み広げて、今までにない新しい模様を編み出すこともできる。「糸」に「泉」と書くと「千」になります。自分と他者の間には「線」があって、線は分け隔てるものがあるんですけど、人と人とをつなぎ、生きる道を示すものでもある。そうして線が結びつけられることで沸き起こるのが「泉」のように思えます。そこには生きている人との線だけでなく、「死者」との線もあります。私は、最愛の人を病で亡くす直前、「なんで泣いているの? 僕があなたをおいて死ぬはずないじゃない」といわれたことがあります。その時は、どう受け止めたらよいかわかりませんでしたが、その言葉は本当だったと今は感じます。彼が亡くなっても、その存在がなくなっていない。思いや視線、声は残っている。その人が生きていた響きは消えません。聴く耳さえあれば響きは聞こえるし、今の自分と共にあるのだと思います。書店も、劇場も、私の小説も、どれも「悲しみの器」だと思っています。震災と原発事故によって傷ついた地域だからこそ、その痛みを共にしながら、人がつながれる場所をつくりたい。どんな苦しみがあっても、「悲しみの器」があれば、聴いてくれる他者がいれば、そこに自分の悲しみを流すことができます。そうした場所を求めるのは、私自身が「流れ者」だからかもしれません。韓国籍であること、いじめられえて居場所がなかったこと、伴侶を亡くしたこと、移住者であること。ずっと流れてきたけれど、「流れ者でしか結べない縁」があるのではないかと思うんです。「流される」ということ、悪いこととかのようなイメージがあります。けれど、私は積極的に流されながら縁を結んできたから、今こうやって書店を開いて、劇場をつくろうとしています。流れの中で、自分の欲望や望みを手放して、誰かの喜ぶ顔が浮かぶことをやってきました。そうすると、他者とつながりやすく、その結びつきも強いものになります。移住した当初は、「すぐに神奈川に戻ってしまうだろう」と見られていたかと思います。でも、私は、ここで暮らし、ここで書き、ここで書店や劇場を開いて、人場結ばれる居場所をつくりたい。「もう死のう」と思っている人が、ふらっと立ち寄った時に、どうしたら引き留めることができるか――そんなことを、ずっと考え続けています。 美しい場所――人生における痛み、悲しみに向き合っていく上で、宗教の持つ力とは何でしょうか。 私は、キリスト教の信仰を持っています。今、宗教に対する偏見が大きくなっている中で、「信じる」というと、何か盲目的になったり、狭い世界に入ったりする、ネガティブなイメージを持たれがちです。けれど、私はそうではないと思うんです。「信じる」とは、「揺らがない」ことではなく、むしろ、「揺らぎ」の上に立っているのを自覚すること。それは、ある意味で、しんどい道です。心の宗教は「問」を手放さない。なぜ生きるか、なぜ死ぬのかといった、本当の問いは「答」がないものです。しかし、答えがなくても問い続ける。その不安定さを支えるのが「祈り」ではないでしょうか。その祈りの先には、自分のこと超えて、他者に開かれていく拡がりがあります。創価学会の皆さんも、「他者のために」ということを行動の動機にされている方が多いと感じます。他者という存在がなければ「自問自答のあい路(通行の難所)」に陥ってしまう。問いは「「他者からもたらされているもの」だからです。他者と出会わなければ、本当の意味で自分を知ることはできません。他者を視点にした真の問いは、より良く生きることを支えてくれるに違いありません。人は、痛みを分かち合い、苦しみを共有する中で、かけがえのない〝生涯の友〟になっていける。自分が決めたその場所で、誰かと共にあることで、生きる力を生み出していく。他者に向かって開いた分だけ、生きる意味や価値もまた、得られるのだと思います。人生の大半は、ありふれた暮らしの中に、小さいけれども、きらめく瞬間があってほしい。地震や原発事故で汚染されたというイメージをつけられてしまった地域だからこそ、私はここに美しい居場所をつくっていきたいのです。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.12
May 26, 2024
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相手の話を「聞く」ことは心の「荷物」を預かることインタビュー 臨床心理士 東畑 開人さん 対話できない時代――東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。 以前から、私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じました。そこにコロナ禍が起き、例えばワクチン接種やマスクの着用などを巡って、社会にさまざまな対立がうまれました。しかも、それは単に政治の世界での対立ではなく、友人や家族の間で、もめることすらあります。対話が大事なのはもちろんそうですが、このような状況で、「対話しなさい」と言っても、けんかして、傷つけ合うだけです。対話を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。ここで言っているのは、「聴く」ことではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れること。一方で「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聞く」の方が、ずっと難しいのです。例えば、「ちゃんときいてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知ってほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。あるいは「愛している」と言われて、「この人はなにが目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たちは、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた』と言われて、とっさに「でも、君にも問題が……」と、相手の言葉をはね返してしまうこともあります。相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされる機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。「聞く」ことができなくなって理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっているということ。給料が上がらなかったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人間が周りの話を聞けなくなります。二つ目は、価値観があまりに多様化し、相対化しているということ。〝正しさは人それぞれ〟という対話主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、根源的な難しさがあります。自分が思う〝正しさ〟に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果「聞く」ことができなくなるのだと思います。不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、なんとかして自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状況は、もはや「社会」とは呼びにくいものかもしれません。 「空きペース」――「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから提案されています。 「聞く」ことができないのは、自分の中の「空きスペース」の問題だと捉えられます。不安があふれて、聞けない状態は、自分の中に荷物が一杯に詰まっていて、人の話が入り込むための「空きスペース」がない状態である、と。そう考えると、「聞く」を再起動させるには、自分の中の荷物を、誰かに「預かってもらう」ことが必要です。それが「聞いてもらう」ということです。聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に〝余白〟が生まれる。すると、今度は自分が、人の話を聞けるようになるのだと思います。現代では、話すことは単なる情報交換のように思われがちです。けれど、そうなると「聞く」には無力感すら漂います。「聞いてもらっても、現実は変わらない」というように。そう考えると、「聞く」でも実は、聞いてもらうことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで、自分の中の重たいものが取れていきます。聞いてもらうということには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」という実感があり、それが人に安心を与えるということを、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。不安でいっぱいの人の横にいて、なかなか人に伝わらない複雑な話のまま聞いていく。特別な言葉をかけられなくても、「それはひどいよね」と言ってあげるだけで、その人の心は少し軽くなります。医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンは、全身やけどを負った少女の事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを伴いましたが、クラインマンは、その痛みを和らげる手立てが何もないことに絶望していました。しかし、彼がとっさに少女の手をつかみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができた、と。人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分のことを分かってくれる人はいないと感じるかもしれません。「聞く」ことには、現実をすぐに変える力はなくとも、孤独の痛みを癒す力があるのだと思います。 「完璧」ではなく「ほどよく」身近な人を〝気にかける〟 環境としての母親――「聞く」を取り戻す上で、心がける点は何でしょうか。 聞くことは本来、魔法のようなものではなく、日常の平凡なやりとりであるはずです。例えば、「行ってきます」と言われたら、「行ってらっしゃい」と返し、「ちょっと疲れた」と言われれば、「早めに寝なよ、食器は洗っておくから」と答えるように。こうしたごく当たり前のことを、あたり前にできているとき、「聞く」はうまくいっています。そういうときは、日常生活で交わされた言葉をいちいち覚えてないし、「聞いてくれてありがとう」と、わざわざ感謝もしないものです。でも時に、この「聞く」がうまく回らなくなることがあります。緊急事態がやってきて、それまでの日常が崩れていくと、私たちは不安になり、聞くことに失敗しはじめるわけです。これを考えるうえで参考になるのが、小児科医でもあった精神分析家のウィニコットが提唱した、「対象としての母親」は、私たちが今、思い浮かべている母親の姿のことであり、一人の人としてのお母さんを指します。これに対して、「環境としての母親」は、普段は意識されない母親のことです。例えば、子どもの頃、たんすを開けると、きれいにたたまれた洋服が入っていました。本当は母親が洗濯をし、たたんでくれたからそこにあるのですが、子どもの頃は、そんなことまで考えなかったはずです。このように、普段は気づかれない「環境としての母親」は、失敗したときにだけ、気づかれます。たんすに洋服が入ってないのを見て、「お母さんどうかしたのかな」と思い出すように。このとき、お母さんは初めて「対象としての母親」として意識されます。普段は母親の存在が忘れられているということは、子どものお世話がうまくいっているということです。でも成功し続ける「完璧(perfect)」な母親でいると、子どもは何もしなくてよいので、成長しません。母親が、自分の世話をしてくれていることにも気づかない。だからウィニコットは、よい子育ては完璧だけではなく、「ほどよい母親(good enough mother)によってなされると言っています。「環境としての母親」が、時々失敗するからこそ、子どもは「対象としての母親」を意識します。自分はお母さんに何かをやってもらっていたから、生活できていたのだと気づく。その繰り返しの中で、子どもは成長していきます。ここで紹介した「環境としての母親」じゃ、「聞く」ことに似ていると私は思います。普段はうまくいっていて、特に意識することなく自然に循環していますが、時々それは失敗する。自分のことでいっぱいになり、相手に考えが及ばなくなったりします。すると、家族や恋人から、「ちゃんと話を聞いてよ」と声が上がる。そうしたとき、私たちは改めて「聞く」を回復しなくてはなりません。でも、失敗したとしても、やり直せばいいわけです。母親が、今度は忘れずに、たんすに洋服を入れておくように、家族や恋人に「ごめんね」と伝えて、今度はまっすぐに話を聞く。この繰り返しが〝ほどよく〟聞けている状態なのだと思います。 責任が分担されている――相手の話を聞こうと思えば思うほど、「本当に聞けているのか」と不安にもなります。この点をどう捉えるべきでしょうか。 聞いてもらう側の視点で考えれば、誰かに「心配してもらっている」ということとか、一番大切なのだと思います。「ちゃんと聞いてもらえたのか」と考えると、ついつい完璧を目指して、せっかくそばにいてくれている人に対して厳しくなりがちです。でも、もっと単純に、自分が大変な事態に陥ったときに「ちょっと今、困っていて……」と言える人、それを心配してくれる人がいることで、「自分は一人じゃない」と思えます。それは、生きる力になります。聞く側にとっても、「心配する」「気にかける」くらいが、ほどよいと思います。「受け入れる」「寄り添う」だと、仰々しいかもしれません。もちろん、後から振り返って「あの人に寄り添えた」と思うことはあっても、最初から寄り添おうとすると、少し重い気もしますから。「心配する」「心配される」くらいであれば、対面であってもオンラインであっても、さまざまな手段でよいと思います。形式ではなく、聞いてくれる存在がいるかどうか。LINEのメッセージで「大丈夫?」と送るだけでも、自分がその人を心配していることは伝わりますし、それはそのまま、その人のことを支えることにもなります。大変な状況に陥ったときに、「あいつも心配してくれているはず」「一緒に考えてくれるだろう」と思える人、がいる。たとえ1%でも、自分の人生つらさを分け持ってくれる人がいる。その人たちは、孤立しません。時間がたつほど事態が悪化することもあれば、時間をかけることで事態がよくなることもあります。時間は毒にも薬にもなる。その分かれ道は、大変な時間を〝他者と共有しているかどうか〟だと思っています。孤立している人は、自分一人で何かしようとして、心配してくれる誰かとつながっている人は、時間の流れの中で、事態を好転させることができる。臨床心理士として高度な理論を学ぶほど、心は本当に複雑だと痛感します。しかし、人のつながりの有無というシンプルなことが、心にとって決定的に重要であるというのもまた、私の実感の一つです。誰かに心配してもらい、自分も誰かを気にかけるといった、身近で小さなことから、「聞く」が回復され、人生のサイクルが回っていくのだと感じています。感染症の拡大、度重なる自然災害、世界各地での紛争などによって、多くの人が不安を抱える時代だからこそ、「聞く」ことの意味を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。 ――インタビューの㊦(明16日付に掲載予定)では、臨床心理士としての考える「信じる」ことの価値、「シェア(共有)」と「イアンショ」という2種類の人のつながりなどについて、さらにお話を伺います。 とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。公認心理士。博士(教育学)。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄での精神科クリニック勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを開業し、主宰を務める。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。著書に『居るのはつらいよ』(医学書院)、『野の医者は笑う』(誠信書房)などがある。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.2.15 インタビュー㊦ 人の心が変わるのは「信頼感」があるとき。 「敵じゃない」――インタビューの前半では、誰かに「聞いてもらう」「心配してもらう」ことが、心の回復につながると語っていただきました。臨床心理士として、メンタルヘルスの不調を抱えた人たちと向き合ってきた経験から、心をどう捉えるかについて教えてください。 『野の医者は笑う』という本で、〝心の回復とは生き方の調整である〟ということを書きました。裏返す場、メンタルヘルスの不調は、今の環境でうまく生きられないという、〝生き方の不調〟でもあります。目には見えない心は、いかにして回復するか。科学の知だけでは、完全な答えを出すことができず、臨床の知が必要になります。そこに臨床心理士の仕事があるわけですが、宗教もまた、〝いかに生きるか〟を示すという意味では、共通点も多いと感じます。あるいは、歴史と伝統を踏まえれば、最初にこれを扱ってきたのが宗教で、その後に臨床心理学が出てきたというのが実情です。臨床心理学と宗教。二つに、共通するのは「信じる」ことを巡る営みである点です。カウンセリングに来られる多くの人たちの多くが、他者を信じられなくなっていて、自分のことも信じられなくなっています。人生に絶望していて、周りは「敵だらけ」と感じています。だから、彼らがもう一度、何かを信じられるようになるには、目の前の人を「的じゃない」と思えることが必要です。確かに、同じ空間で、すぐそばにいる他者は、危害を加えてくる可能性もあるわけですね。でも、そこで「この人は傷つけてこない」「この人なら話しても大丈夫そうだ」と思えるかどうか。あたり前のようですが、それが第一歩となって、少しずつ、「人を信じること」が回復していきます。多分、信じるというのは、希望を抱くということなのだと思います。エリクソンという心理学者は、人間の発達段階の最初の課題を「基本的信頼」と言っています。世界は善いものだという感覚を抱けるようになることは、心の発達にとって大事だということですね。だけど、それが課題にされているように、信頼をもつことは難しいというのも実情です。そのためには、安心できる他者が必要なんですね。 シェアとナイショ――人とのつながりの中で、傷つくことを恐れてしまう人もいると思います。 火とのつながりは本来、両義性を含みます。自分を癒してくれるものでもありますが、時に、自分を傷つけるものにもなりうる。そう捉えられるだけで、心の持ちようは変わってくると思います。他者とつながるときの二つの原理を、社会学では「共同性」と「親密性」と言いますが、私はこれらを「シェアのつながり」と「ナイショのつながり」と呼んでいます。「シェアのつながり」は、文字通り、みなとシェア(共有)することでつながる関係です。難しい仕事を一緒にやった同僚、子育てを共有したママ友、青春を共に過ごした友人などです。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、時間や場所、活動などを共有すると、私たちは自然に仲間、同志になります。一方で、「ナイショのつながり」は、例えば恋人やパートナーの関係といった、その人の内緒に一歩、深入りするようなつながりのことです。「シェアのつながり」の本質的な価値は、傷つきを共有することにあります。ママ友同士で子育ての大変さや、出産でキャリアを中断した悔しさなどを共有していれば、何かあった時に支え合い、励まし合う関係になります。誰かがつらい思いをしたとき、その人の代わりに怒ったり、愚痴を言ったりもします。互いに傷つきをシェアし、理解し合っているから、これ以上傷つかないように、さまざまな配慮が交わされます。つまり「傷つけない関係」をつくっているといえるのです。反対に、「ナイショのつながり」は、「傷つけ合う関係」といえます。互いの奥深くにふれようとするからこそ、時に摩擦が起きて、傷つけてしまう。でもそれは、接触を試み続け、信頼と理解を構築し続けていることの証しでもあるわけです。相手との間に摩擦が起こるのは、関係性を磨きあっていることでもある。私たちのほとんどは、「シェア」と「ナイショ」のどちらも経験しているはずです。でも、他者が踏み込んだり、踏み込まれたりするナイショのつながりには、傷つくリスクが伴う。だから最初は、シェアでつながる方がいい。何かあったときに、手助けし合える「シェアのつながり」の居場所づくりは、今、地域コミュニティーやインターネットでも、盛んに試みられています。皆で集まり、自分の傷つきを分かち合う。その場では、傷つけられることを心配せずに、安心していられる。こういうものが心を支えてくれます。その上で時々、より深いつながりを求めているのも人間です。普段は何でも相談していた仲間や友達と、時々、互いの気持ちや意見を激しくぶつけ合うこともあります。そんな時、私たちは「ナイショのつながり」で結ばれます。全ての人と、ナイショでつながる必要はありませんが、それでも時に、あえて危険に飛び込んで、他者に深入りすることも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれば傷つくこともある。そのときは、関係性を再構築していく。人間は未熟で不完全な存在だからこそ、その繰り返しなのだと思います。その中で「この人は信頼できる」「大丈夫だ」といった感覚が芽生えていく。シェアとナイショのつながりを行ったり来たりする中で、根拠はないけれども確実な、相手に対する信頼が育まれていくように思います。 「第三者」の価値――近著『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)では、対話をとおして問題を解決するのではなく、対話できること自体が最終目標である、と書かれています。その際に「第三者」がいることが重要といわれていますが、どういうことでしょうか。 『聞くこと』、「きいてもらう」ことがうまくいくためには、「第三者」がいることの意義は大きいと考えているんです。例えば、職場の上司との関係に悩んでいる時、その上司に直接話すのではなく、友人にそっと話してみる。自分の複雑な事情を聴いてもらい、苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みが詰まっていた苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みに詰まった心に空きスペースができます。第三者がいることで、当事者は助かるのです。仕事の悩みを、職場の異なる友人に話しても、現実的な問題解決にはならないかもしれません。でも、「それはひどいね」といってもらうだけでも、苦しかった心はケアされます。実際、私たちの悩みは複雑で、すぐに解決できることの方が少ないかもしれません。そうした悩みの中で、様子を見るように、時間がたつのを待つこともありますね。作家の帚木さんらが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)」という考え方があります。これはピオンという精神科医が取り入れた概念ですが、もともとは、赤ちゃんの世話をする母親の能力のことです。ギャーギャーと泣いているのを受け止めて、なぜ泣いているのだろうかと考える。答えは分からないけれど、考える。それ自体がネガティブ・ケイパビリティである、と。それはまさに「聞く力」でもあるのです。大切なのは、母親がネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのは、誰かのネガティブ・ケイパビリティによって支えられているから、ということです。「聞く人」の後ろに、また別の「聞く人」がいる。ケアする人がケアされるという連鎖が、大切なのだと思います。 「ミクロな親切」――第三者として身近な人の話を「聞く」ことなら、普段の生活の中で、私たちにも実践できると感じます。 臨床心理士に携わる中で、たどりついた一つの結論は、「心のケアは専門家ではなく、普通の人間同士の支え合いによるものだ」ということです。すでにお話したように、ケアに欠かせない「聞く」という行為は、日常の、ごく普通の営みです。多くの時間を共に過ごす家族や友人などが、傷ついた人の心を癒すのが、ケアの本質です。一方で、人のつながりは、時に傷つけるものである。そうした周囲の人同士の支え合いがうまく回らなくなったときに、「聞く」やケアを再開させていくのが、専門家の役割なのです。医療人類学者のクライマンは、それぞれの地域には人々の健康をケアするシステムがあると言いました。そこでは「専門職セクター」「民俗セクター」の三つが補い合いながら、私たちの心身の健康を保たせようとしています。専門職セクターは、医師や看護師、心理士などの専門家のこと。民俗セクターは、非公認の専門家という意味で、アロマセラピストや占い師などが含まれます。この二つの境界線は、時代や社会によって変わっていきます。大切なのは、最後の民間セクターです。これは、同僚や友人、家族といった、専門家ではない人が行うケアのこと。クライマンは、「ケアの主役」は民間セクターであると言います。例えば風邪をひいたときに、病院(=専門家)に行く前に、自分で治そうとする人も多いですよね。よく寝たり、栄養のあるものを食べたり。そこには、ご飯をつくってくれる家族や、自分の仕事を代わりに担ってくれる同僚など、周りの人によるケアのかなり多くの部分が、民間セクターでなされているんです。専門家の仕事は、そうした日常の支え合いがうまくできなくなった時に、普通の人間同士のケアを再開できるように手助けすることです。私たちの周りには、身近な人間同士でケアし合う、つながりがあります。誰かが自分をケアしてくれ、自分も誰かをケアしている。先ほど、臨床倫理氏は「しんじる」ことを巡る営みだとお話しました。絶望を感じている人を相手にしても、この信じる、臨床心理士としての楽観主義があります。日常生活の中で、身近な人を気にかけて話す、傷つけたり、傷つけられたりすることがあるとしても、それは、我慢が必要かもしれません。それでもなお「信じる」。それでも「ミクロ(微小)な親切」を重ねることが、より良い社会をつくることにつながるっていくと思います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.1.16
May 8, 2024
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「人間とは」「生きるとは」自身を見つめて問い直すインタビュー アメリカ実践哲学教会会長 ルー・マリノフ博士 行き詰まりの因――新しい一年が幕を開けました。長引くコロナ禍や気候変動、ウクライナ危機をはじめ、複雑かつ多様な問題を抱える世界を、どう見つめていますか。 皆さんに新年のご挨拶を申し上げます。危機が複雑する中、特に多くの人々が孤独に苦しんできたことに胸を痛めています。そして言うまでもなく、ウクライナでの戦争は悲惨な出来事であり、さまざまな緊張を引き起こしています。その最も大きな犠牲を払うのは、名もない庶民です。日本であれ、アメリカであれ、政治の安定と経済の繁栄を支える庶民が、守らなければなりません。今の状況を改善する最善の道を見いだせるよう、強く願っています。一方、パンデミック(世界的大流行)は、大乗仏教の大切な教えを思い出させてくれました。それは、あらゆる物事が関係性の中で生じると説く「縁起」の思想です。地球上のどこか一カ所で感染が起これば、それは瞬く間に広がることを私たちは目撃しました。パンデミック自体は望ましいことではありませんが、これは同時に、地球上のどこか一カ所で起こるポジティブな変化は、瞬く間に世界の隅々に影響を与えられることを意味しています。2023年の開幕に当たり、私たちは、希望は常に目の前にあることを、そして、決して希望を手放してはならないことを、心に期したいと思うのです。池田SGI(創価学会インターナショナル)会長と私は20年前、対談を始めるに当たり、現代社会の行き詰まりの原因は、「哲学の不在」にあるとの危機感を共有しました。今、残念はがら、不在の度合いはさらに大きなものになっているといえます。その結果、デジタル革命の高まりとともに、人々は物事の審議を見分けられなくなっています。大量の情報にアクセスできていることは、真実にたどりついていることを意味しません。アメリカでは、政治的なメディアの操作が分断を生み、世論を惑わし、対立を引き起こしているのです。対談の中で、池田会長は、哲学不在の社会は「柱のない建物」のようであり、ひとたび地震や嵐に遭えば、はかなく崩れてしまうと述べられました。会長と共有した危機感を、今また強くしています。 ――池田先生との対談の中でマリノフ博士は、哲学を民衆の手に取り戻すのが課題であると語られています。「取り戻す」という表現に、哲学とは本来、民衆の手の中にあったのだというメッセージを感じます。 その通りです。例えばソクラテスの時代に大学はなく、彼が談論の場としていたアゴラは、市民が交流する広場でした。あるいは、孔子も釈尊も、弟子との対話を重要視し、人々にとっての最善の生き方を説いてきました。哲学は、歴史においても、象牙の塔や修道院のためだけではなく、全ての人たちのものだったのです。しかし、20世紀の科学の大発展を受け、人々は「問う」ことをやめました。科学やテクノロジーが、答えを与えてくれると考えるからです。巨額のお金がSTEM(化学、技術、工学、数学)の発展に費やされ、人文系の分野に資金を奪われています。これは由々しき事態です。果たして科学技術は、人類のすべての課題に答えをもたらすのか。私はそうは思いません。「人間とは何か」「いかに生きるか」といった根源的な問いに答えるために、哲学が今こそ復権しなくてはならないのです。 互いが互いの「鏡」となって「自他供の幸福」築く実践を 草の根の始まり――そうした思いで、博士はアメリカ実践哲学教会を設立し、「哲学カウンセリング」という分野を開始されたのですね。 はい。しかしそれは、哲学者の側からではなく、市民の要請から始った「草の根」の活動でした。ある時、勤務していた研究所で電話が鳴りました。電話口の男性は、「哲学者と話がしたい」と言うのです。彼の話を聞く中で私は、〝哲学の助けを求めているのは、多くの人も同じではないか〟と思いました。そして、すぐにカナダ、アメリカ、ヨーロッパなどにいた哲学者たちと連絡を取り始めました。約30年まえの一本の電話が、私たちの活動の始まりとなったのです。カウンセリングを続ける中で、多くの人たちに、ある苦しみが共通していることに気づきました。「人生の目的を見つけたい」「生きる意味を見いだしたい」というものでした。この傾向は、残念ながら今も続いています。私たちはそれを、「意味の危機」と呼んでいます。 「内なる哲学者」――カウンセリングの必要性は、さらに高まっていると想像します。 間違いありません。多くの若い研究者たちが、理論としての哲学ではなく「実践としての哲学」を、生涯のキャリアとすべく準備を進めています。ヨーロッパやアジア、中南米など、各国に実践哲学に関する器官が設立されています。哲学に何ができるのか。その問いへの端的な答えは、「人生を見つめ直し、その目的や意味を見いだすためのスペースをつくる」ということでしょう。一例として、私がカウンセリングを行った女性の話を紹介します。彼女は仕事で成功を収めていましたが、どこか幸せそうではありませんでした。彼女は、もしかしたら自分は医師になりたいのかもしれないと考え、休日を返上して勉強に励み、医大に入る資格を得ました。入学するかどうか決断するのに、2,3週間が与えられましたが、選択できずにいたのです。彼女はジレンマ(板挟みの状態)に直面していました。今の仕事を続ければ、生活は安定するが幸せではない。しかし医大に進むには膨大な費用がかかり、この先6年か8年は、勉強と医師見習いの期間になります。加えて彼女には、結婚して家庭を持ちたいという願望もありました。哲学者の役割は決断を下すことではなく、決断を下す手助けをすることです。私たちは、心の内を見つめるよう促します。自分の中の「内なる哲学者」が引き出された時、その人は、その人は、自分の進むべき正しい道を知るからです。私はこう質問しました。〝あなたは、本当に医師になりたいのか、それとも、試験に通るかどうかを試すためだけに、医大を志したのですか〟と。その場で結論を出すことはありませんでしたが、その後、彼女は医大に進むことを決めたと連絡をくれました。相手の「鏡」となって、相手が自分を見つめ直す手助けをする。それが哲学の貢献であり、仏教にも共通する点でありましょう。誰もが心の内に無限の可能性を秘めています。しかしそれは、活性化されなければなりません。可能性を引き出すエンパワーメント(内発的な能力の開花)が大切なのです。 「特効薬」はない――博士は、仏教を「実践する哲学」と呼んで評価されています。 神を信じる宗教とは異なり、仏教は救済を自身の内に求めます。それはエンパワーメントそのものです。その上で、救済されるためには実践が必要です。実践そして反復が、内なる哲学者を目覚めさせます。私は『中道』という著書で、多くの仏教思想を紹介しています。極端な方向に引かれやすく、あらゆる場面で性急な決断、白か黒かを迫られる現代ですが、実際には、すぐには結論を出せない物事ばかりです。いかに「不確かさ」と付き合うか。中道の生き方が求められていると感じます。カウンセリングに来る人たちは、多種多様な悩みを抱えていますが、全てに効く「特効薬」などありません。そこで私が勧めているのが、中道という「徳」なのです。アリストテレスも、孔子も、中庸(穏健)の美徳を重要視しました。しかし、アリストテレスは集団よりも個人を優先し、それに比べて儒教には集団的な側面があります。一方、仏教はすべての行きとし生けるものの価値を主張しつつ、集団としての関係性も強調しています。仏教は、アリストテレスや儒教の長所を併せ持った、「中道の中の中道」であると思うのであります。 対等の立場から――博士自身も、池田先生との交流を通して、「自身の実践哲学を大いに高めることができた」と述懷されています。 とても多くのことを学びましたので、端的に伝えるのは難しいのですが、ここでは3点申し上げます。まず、私自身の「内なる哲学者」が引き出されたということです。池田会長から啓発を受け、私は、哲学カウンセリングとは何を指すべきで、どんな意味があるものなのか、改めて確信を強めることができました。2点目は、対話が持つ力です。SGIの活動においても、私どもの哲学カウンセリングにおいても、対話が何より大切であることを確認できました。そして3点目に、リーダーのあり方についてです。世間には多くのリーダーシップのモデルがありますが、そのほとんどで、リーダーはピラミッドの頂点に座りながら、下層部の人たちを高みへ導こうとします。しかし池田会長の姿が示すのは、ピラミッドを逆さにして、自分自身がその最底辺に身を置き、全ての重みに耐えながら、人々を持ち上げようとするリーダーのあり方です。この学びによって私自身も、皆の上に立つのではなく、皆を励まし、皆を支え、皆の力となることで、実践哲学教会を発展させていこうと思えるようになりました。誰に対しても、自分と対等な立場の人だと認められるかどうか。私の場合、カウンセリングに訪れる人を尊敬するところから始まります。まさしく、法華経に説かれる不軽菩薩の実践そのものなのです。理解し合えない人や、自分を攻撃するような人と出会うと、私たち合相手を否定したくなります。しかしそうした場合でも、相手のベストを引き出すことができるか。その人の「内なる哲学者」を目覚めさせることができるかどうかです。もちろんそれは、容易ではないからこそ、道徳的な力、度重なる実践を要します。自分の可能性を開花させる人は、実践に次ぐ実践を貫く人であると、私は思うのです。その過程においては、その人自身が自分を省みられるよう、「鏡」となる存在が必要です。その意味で、だれしも、一人では実践できません。一人一人が、互いの鏡となって支え合わなければならないのです。 環境ではなく心――互いが互いの「鏡」となって、支え合い、日々の活動に励む。学会員は、その実践に次ぐ実践で、より良い自己を築こうと挑戦しています。 創価学会は、偉大なコミュニティーを築いてきました。アメリカをみれば、まるで南北戦争(1861~65年)の時代のような分断が広がる現代社会にあって、学会の中には、調和の心が輝いています。全米各地やカナダ、イギリスなどでも会員の方々と交流する機会に恵まれましたが、どの都市でも、それは一目瞭然でした。誰もが、自分の幸福のためだけでなく、他者の幸福のために喜んで尽くそうとしていました。実はこれは、一般的に、西洋人には理解しがたい行動です。幸福とは「個人の幸福を指すことが多いからです。しかしSGIの皆さんは、〝人の幸福に尽くすことで自分の幸福も増す〟と捉えている。私もそれに完璧に同意します。だから私も、周囲の人々に言うのです。「仕事場や、家庭で、人の幸せのために行動してみましょう」と。それを実践した人たちが、以前よりもさらに幸福に見えたことは言うまでもありません。物理的に満たされることが幸福であるかのように錯覚してしまう時代です。しかしそうした幸福は、周囲の環境が変われば消え去ってしまう。真の幸福は、人でもなく、環境でもなく、自分自身の中から引き出されていくものなのです。心の内に幸福を築けば、それは何ものにも奪われません。だからこそ宗教が大切なのだと私は思います。 Lou Marinoff 1951年、カナダ生まれ。ダウソン大学卒業後、ロンドン大学で科学哲学の博士号を取得。ニューヨーク市立大学で哲学部学部長を務めた。古今東西の哲学を日常生活の問題に応用する。「哲学カウンセリング」の開拓者として、98年にアメリカ実践哲学教会を創設。セミナーやカウンセリング、執筆など精力的に活躍する。池田先生とは2003年2月に会見。そのごも語らいを重ね、対談集『哲学ルネサンスの対話』を発刊した。 【危機の時代を生きる 希望の哲学】聖教新聞2023.1.6
April 15, 2024
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第22回社会と調和する宗教の視点創価大学大学院文学研究科 准教授 大西 克明さん どこまでも眼前の他者のために差異乗り越える対話を メディアやインターネットで宗教を巡る議論が白熱しています。中には、すべての宗教を不安視するかのような、行き過ぎた言説も見受けられます。宗教とはより良い人生を送るためのものであり、本来、社会と対立するものではないはずです。それでは、宗教と社会の望ましい在り方とは何でしょうか。社会から離れ、閉じこもってしまう宗教家。それとも、社会と調和するひらかれた宗教でしょうか。社会の側からの関わり方もまた、時代とともに変遷してきました。前近代的な共同体では、宗教指導者が政治指導者と一致する社会も存在していました。あるいは主教が国家の統治の手段となり、国境として定められた宗教以外の信仰が認められない社会もありました。そうした伝統的社会と異なる近代社会の特徴の一つとして、複数の宗教が存在するという事実が挙げられます。17世紀のイギリスの思想家ジョン・ロックは、複雑化する社会における寛容の在り方について論じました。(『寛容についての手紙』)。そこで彼は、宗教的信念は外在的に操作されるものではなく、内在的に獲得されるものであり、強制性は正しい意味での宗教的信念を生み出さないと述べ、権力は宗教の内面性に干渉してはならないと訴えました。 自由に「ただ乗り」その後、宗教(新教)の自由という人権の理念は、近代社会を特徴づけるものとされ、今日の日本社会は、かつての宗教に対する抑圧的な体制への反省から、信教の自由に定着させてきました。しかし、リベラル(自由)な社会には、ある種のリスクが伴います。それは、自由に「ただ乗り」するフリーライダー(自由であるから何をしてもよいとする人々)の存在を許容してしまうことです。宗教社会学では、日本の新宗教(近代以降に誕生した宗教群)の特徴として現世主義が指摘されています。それは、現実世界を超えたところで救済を求めるのではなく、現実の諸課題を乗り越える側面に意義を見出します。例えば、人間関係の悩みがあれば、そこから逃避するのではなく、自己を変革し、人生を強く生きていくすべを仲間たちと切磋琢磨しながら、解決していくという姿です。 「善と悪」を現実化しかし、特に1970年代以降、現実主義が影を潜め、現実の諸課題から逃避することに重きを置く宗教が台頭してきました。現世を逃避する志向は、現実世界は「悪」に満ちているという思考と親和性を持ちます。その結果、現実社会との接点(地域社会や家族)を意図的に遮断する傾向を生んでいくのです。現実社会に違和感を持ち、人生に苦悩する若者は、そのような宗教団体と接点を持ち始めていきました。しかし、社会と接点を見失うと、社会への責任を放棄してしまう傾向があらわになるように思われます。1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、宗教の自由に「ただ乗り」し、社会への責任を忘却した結果であったといえましょう。宗教には、さまざまな世界観があります。信仰の内面性は誰も強制的に干渉できません。しかし一方で、宗教そのものは、社会の中で生かされ、社会と共に在るという自覚を、宗教者は特に持つべきであると考えます。では、なぜ宗教は暴走してしまうのでしょうか。私はその原因を、教義上の「善と悪」という象徴的な意味を、錯覚的に現実化してしまうところに見ています。精神における闘争として表現された「善と悪」が、現実の社会的葛藤の解消に直結しているのです。個人の苦悩の世界が困難へと直結し、解決の糸口を飛躍させ、時には暴力を持正当化する心理を醸成させます。本来、さまざまな葛藤は、多様性豊かな共同体において熟議・調整され解消していくものです。しかし、そのような過程に参画しなければ、あるいは参画を意図的に拒否するのであれば、宗教として自閉化していると言わざるを得ません。この事態は宗教が暴走する因子となります。では、暴走を抑制させるために、私たちは何を学ぶべきか。それが問われているように思えてなりません。今、宗教に何が求められているでしょうか。社会との関係の中で、宗教が自閉化せず、その役割を果たす条件について、四つの視点(社会性・倫理性・哲学性・神秘性)から考察してきたいと思います。 社会性・倫理性・哲学性・神秘性「開かれた宗教」の指標 温かいまなざし第一に「社会性」です。世俗社会をどのように評価しようとも、社会との調和の中で宗教が存続しているという感覚を持つことが重要だと考えます。反社会性な行動は、調和の感覚が乱れた時に起こるものでしょう。仏教は出家(脱世俗)という文化を形成してきましたが、決して世俗との調和を無視したものではありませんでした。初期仏教の律(教団のルール)には、過剰な布施(供養)に対する抑制が説かれています。信仰不快一族が、日常生活に必要な享受物までも布施として比丘僧団に与えていた自体を契機として、そのような布施は受けてはならないと規定されたのです(「提舎尼法」における「学家過受食戒」。『早川彰著作集 第17巻 二百五十戒の研究Ⅳ』を参考にした)。何のための布施なのかに対して、教団と信者の間で慎重なやりとりが交わされていると同時に、過剰な布施を受け取らないという教団側の配慮に着目すべきです。信仰のためなら何でも許されるとする考えを戒めているとともに、教団が社会の中で調和して存続しようとしている姿が見受けられます。仏教が長い時間を経て存続している理由は、このあたりにあるのではないでしょうか。宗教は、他者への温かいまなざしを有しているはずです。その根底に立ち返るならば、他者の尊厳をふみにじり、社会を「悪」と決めつけて暴力的な言動をするはずがありません。第二に「倫理性」という観点からみていきましょう。現代においては人権感覚、人としての道理の感覚ではないでしょうか。人権感覚には、自他共に幸福を追求しようとする姿勢を基礎とし、弱者の人権を守り抜こうとする意志が伴います。ここでいう弱者とは、劣位な立場ゆえに声を発することのできない人々、子どもを含めた弱い立場にある人々、子どもを戦闘員として育て、自爆テロ要員としているテロ組織は、倫理性のかけらもないと断じたい。弱者は声を上げられません。その声なき声に耳を傾け、吸い上げていく回路を社会的に構築しなければならないと考えます。倫理性豊かな市民社会を創造していきたいという願いは、宗教者に共通するものではないでしょうか。 純粋性と寛容性をつなぐ仏教の「中道」の在り方 理性を生かす第三に「哲学性」という観点からみていきましょう。それは理性との対話を拒まない姿勢ではないでしょうか。宗教のいき世界は理性を超えたところにあるのは確かです。しかし、それは理性を否定しているのではありません。理性と共に在り、時に理性を生かしていこうとする側面が宗教にはあります。ドイツの社会哲学者ハーバーマスは、「宗教知」と「世俗知」の翻訳可能性を探り、宗教と世俗との対話に期待を寄せています。宗教は「声なき声」に耳を傾ける特質があります。それを世俗社会に反映させることは宗教の重要な役割です。その際、世俗理性との対話の必要性が生じます。ここに私は、教育という家庭が大切だと考えています。理性的であることと宗教的であるあることは矛盾しません。むしろ、相互に高め合うことが期待されます。教育は両者を弁証法的に向上させていくものです。哲学性を欠如させた収去は教育の過程を軽視します。また、教育の側も宗教の特徴や役割について深く考えていくことが必要でしょう。宗教知と世俗知との相互の対話は、危機の時代を乗り越える重要な要件であると考えます。第四に「神秘性」です。宗教性の核には神秘性が伴います。ここでは健全な神秘性という観点から考えてみましょう。その神秘性は「人間性の向上」「人格の完成」に向けて生かされるものではないでしょうか。「宗教」とは究極的な意味にかかわる文化現象である、と宗教学では捉えます。その究極性は神秘的な感性と言葉で表出されます。例えば、大自然の神秘性と自らを関連付けることや、「現世の苦難」や「世界の悪」についての解釈はその典型です。そのような解釈は、宗教を構成する重要な要素ですが、あくまでも、目の前にいる具体的な他者を救うという営みの中で活用されるべきもので、人間性を疎外させるものであってはなりません。過去世や前世の因縁や業は、人間を良き方向に導くためのものであり、不安にさせるものであってはなりません。「人間のために宗教がある」という視点を持つ限り、神秘性を用いて人々を不安に陥れることはないでしょう。「宗教のための人間」に堕することなきよう、宗教者は自覚を新たにすべきだと考えます。 平和をもたらす潮流社会性・倫理性・哲学性・神秘性という四つの視点から、宗教に求められる要件を述べてきました。その上でさらに、宗教の「純粋性」について考えてみましょう。ここで注目されるのは、仏教における「中道」の在り方です。宗教には純粋性が伴います。自らの信仰によって救いがもたらせると思慮するのはむしろ当然です。一方で、宗教が社会に開かれることで、当の純粋性が損なわれるものではないかと危惧するのも、一面では理解裂きます。社会に開かれるとは、異なる宗教的信念に寛容になると言い換えてもいいでしょう。しかし純粋性と寛容性は単純に二分できるものでしょうか。仏教における「中道」は、対立する二つの考え方を認めた上で、その両者の極端な解釈の弊害を見抜き、正しい判断を導くための指標です。純粋性と寛容性は、中道の視点からみれば両立することが可能です。言い方を変えれば、社会から閉じようとする性質と、社会へ開こうとする性質は、矛盾するものではありません。宗教的信念を保ちつつ社会との調和を達成することは十分に可能です。先に挙げた四つの視点は、そのための指標であると私は考えています。創価学会の社会憲章には、「仏教の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく」「人権を擁護し促進する。誰一人差別せず、あらゆる形態の差別に対し反対する」とあります。これらの憲章は、池田大作先生の卓越したリーダーシップにより全世界に示された創価学会の根本理念です。苦しむ人々を救いつつ、世界に平和をもたらすための潮流をつくり上げるものといえましょう。宗教的信念を社会との調和が見事に示されています。対話という哲学的で教育的な価値を大切にすることにこそ、現代社会に求められている宗教のあるべき姿であると私は確信しています。人間のために宗教はあります。宗教のために人間を利用してはならないという強固な誓いを、全世界の宗教者が互いに確認し合い、深めていくことこそが、危機の時代の処方箋になるのではないでしょうか。私自身、学術部員の一人として、また東洋哲学研究所の研究員として、危機の時代に応戦すべく、学術の探求をしていきたいと誓いを新たにしています。 おおにし・かつあき 1972年生まれ。博士(社会学)日本宗教学会評議員。専門は宗教社会学、近代日本宗教史。創価大学を卒業後、東洋大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在は創価大学大学院文学研究科准教授。共著に『シリーズ日蓮第4巻 近現代の法華運動と在家教団」(春秋社)など。東洋哲学研究所研究員。創価学会学術部員。支部長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.11.23
March 15, 2024
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第21回植物に見る生命の形摂南大学農学部長 久保康之さん 皆さんは「生命」と聞き、何を思い浮かべるでしょうか。自分自身や家族、身近な人々……。それも生命ですし、動物園に行けば、ライオンやゾウ、キリンなど、多彩な生命の形に出会うこともできます。また昆虫も生命ですし、畑の土地を1㌘とれば、そこには20億もの微生物がいるとの報告があり、その一つ一つも生命です。そう考えると、この地球は生命にあふれています。私の専門は植物病理学ですが、植物も生命です。近年、生命科学の発展によって、植物がウイルスや細菌などの病原体に対し、どう立ち向かっているかのかが分子レベルで明らかになり、そうした研究を通し、私は植物が持つ生命の力を感じました。その一方、生命は知れば知るほど不可思議な存在であると感じずにはいられません。今回は、私が研究対象とする植物を中心に、生命とは、どのようなものかについて迫ってみたいと思います。 五感に通じる機能私たちが日々の生活で目にしないことはない植物。この植物には、さまざまな機能が備わっています。例えば、植物の一番の特徴は、細胞内に葉緑体を持ち、光合成をしてエネルギーを得ることですが、その光合成に欠かせない光や水、二酸化炭素の濃度を感じるセンサーがあります。それ以外にも、周囲の振動や圧力、磁場、化学物質なども感じ取っていることが分かってきました。光のセンサーを視覚、振動のセンサーを聴覚、また圧力を触覚、化学物質を味覚や嗅覚と考えれば、人間の五感にも通じる機能を備えているということです。また植物は、感じ取った情報をもとに、さまざまな反応を起こします。外注に食べられたときには化学物質を放出し、近くの仲間の天敵を呼び寄せたりして、自分や周囲を守ろうとします。病原体からの攻撃に対しては、動物とは違い、植物は動けないことや、動物のような循環器系がないことから、細胞単位のいわば局地戦で立ち向かいます。この時、植物は病原体の表面を形作る構造、例えば、細菌だと鞭毛、ウイルスだと粒子を構成するタンパク質を認識し、人や動物で言う炎症のような反応を起こして病原体を撃退します。じっとしていて優しそうな植物ですが、周囲の環境を認識して応戦する〝たくましい力〟は、人間と変わりません。 ウイルスなどの無生物も含めた複雑な絡み合いで成り立ってきた生物の進化 動物との曖昧な境こうした多彩な機能を備える植物ですが、動物に比べるとその動きは微笑で、植物と動物が、とても同じ生物とは思えない方もいるでしょう。しかし、この植物と動物の境界を突き詰めると、実はそこには、どちらともいえない〝曖昧な世界〟が広がっているのです。そもそも、現在のような植物と動物に進化する以前、少なくとも6億年前までは、単細胞生物である共通の祖先が存在し、そこに境界はなかったと考えられています。その後、植物の祖先は、後に葉緑体として機能するバクテリアを取り込み、光合成によってエネルギーを生み出せるようになりました。そのことで、〝活発に動いて〟食べなければエネルギーを得られない動物の祖先とは違って、〝動かない〟奉公に進化したと考えられています。その〝名残〟は、今日でも見ることができます。一例はユーグレナ(和名はミドリムシ)で、葉緑体を持ちながらも、鞭毛を使って動き回る単細胞生物として知られています。また、海に生息するウミウシにっしゅは、餌ともなる藻に含まれる葉緑体を自らの体に取り込み、光合成産物を利用しているということも分かっています。さて、多くの生物学者が認める生物の定義は、次の三つの条件を満たすものです。➀細胞を構成し、外界と「膜」で仕切られていること。②生命活動に必要なエネルギーを生み出す「代謝」を行うこと。③自ら分裂して自分の複製をつくること。つまり「増殖」することです。この三つを満たす植物や動物、また細菌や糸状菌(カビ)なども生物になります。一方、ウイルスは外界と仕切られているものの、感染する生物、つまり宿主がいなくては「代謝」「増殖」ができないので、生物ではありません。しかし、ウイルスは宿主の代謝能力などを使って自らの遺伝情報を複製し、ウイルス固有のタンパク質を合成して子孫を作ります。その意味では、〝極めて生物的な物質〟と言えるでしょう。近年、ウイルスの中にも、この生物と無生物の中間のようなのが見つかりました。その一つがミミウイルスです。このウイルスの持つゲノム(全遺伝情報)は120万塩基対で、昆虫に共有するカルソネラという細菌の持つ16万塩基対より、はるかに多いことが分かっています。また、このミミウイルスのゲノムには、生命活動に欠かせないタンパク質を合成する遺伝子が含まれています。つまり、他のウイルスにはできない「代謝」を行う可能性も有しているのです。 遺伝子の移動さらに近年、ウイルスは、生物の進化そのものに影響を与えていることが明らかになってきました。これはゲノム解析から判明しましたが、さまざまな生物のゲノムに、ウイルスしか持たないはずの遺伝が移動していたことが分かってきたのです。こうした遺伝子の移動は、1983年のノーベル生理学・医学賞を受賞した植物遺伝学者のバーバラ・マクリントック博士によって、1951年にトウモロコシの遺伝子の転移現象として、世界で初めて報告されています。そして、こうした現象が同種の生物だけでなく、異種の生物間でも見られることが、今ではよく知られています。実は、一部のウイルスには生物に感染した際、自らの遺伝子を生物遺伝子に組み込む働きがあります。それだけではありません。生物がもつ遺伝子の一部をコピーし、それを自らの遺伝子に組み込む働きも備えているのです。そのウイルスが感染を繰り返せば、Aという生物の遺伝子をコピーし、Bという生物の遺伝子に埋め込むことも可能となります。例えば、哺乳類の胎盤形成に重要な役割を果たすたんぱく質は、ウイルス由来の遺伝子を調べると、このウイルス由来の遺伝子由来の遺伝子とは別に、ウシやマウスといった動物の遺伝子も深く関与していることが分かっています。こうして見ていくと、生物の進化は、生物種のここが独立して成し遂げてきたのではなく、生物間で複雑に絡み合う中で成り立ってきたことが分かるでしょう。とともに、ウイルスが単に物質的な存在ではなく、生物界で重要な働きをしている姿が、植物と動物の境界ばかりでなく、生物と無生物の境界も、実は〝曖昧な世界〟であると言えるのではないでしょうか。 生命は関係性の中で存在仏法の縁起思想の先見性 支え合いの世界また生物と無生物は、臣下の観点でだけでなく、日頃から支え合いながら存在していることが分かっています。例えば、私が研究会で訪れたことのあるアメリカのイエローストーン国立公園では、過酷な環境で生きるイネ科の植物が見つかりました。この公演は、周期的に吹き上がる間欠泉が独特の景観をつくり出していますが、温泉が噴き出す周辺の地熱は、実に65度に達します。65度といえばタンパク質が編成し、温泉卵も作れる温度であり、本来なら植物は生きていけません。しかし、その植物に共生する糸状菌が耐熱性を与え、さらに驚くべきことに、その糸状菌を活性化させるウイルスが共生していることが分かったのです。ここには、生物と無生物の支え合いの世界があります。そもそも、支え合いがなければ、ほとんどの生物種は生きていくことができません。例えば、植物の祖先は、海にいたプランクトンのような存在で、菌根菌という糸状菌と共生することで、約5億年前に陸上で生活できるようになったと考えられています。この共生関係は、今も変わりません。植物が地中深く張る根には、菌根菌や細菌といった微生物が共生し、植物の成長に必要となる窒素やリンといった無機栄養分を渡し、逆に植物は光合成で得た栄養分を微生物に渡すことで、共生的に生きています。人間も例外ではありません。それは人間の腸に存在する多様な腸内細菌の働きを考えれば明らかでしょう。これまで見てきた通り、現代の科学によって、生物間の複雑な相互依存性が鮮やかに浮かび上がってきました。仏教では、あらゆる生命が、互いに独立したものではなく、関係性の中で存在しているという「縁起」の思想を説いています。これからは、生物と無生物を対比的に捉える西洋的な考えではなく、こうした東洋の先見的な思想が、〝生命の実像〟を理解する上での土台になるのではないかと思っています。 「妙」との表現生命は、実に不可思議な存在です。この「不可思議」ということを、仏法では「妙」と表現しますが、この「妙」の一字について、日蓮大聖人は次の三つの角度から教えられています。「妙と申すは、開ということなり」(新536・全943)「妙とは具の義なり。具とは円満の義なり」(新537・全944)「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すは、よみがえる義なり」(新541・全947)これらは「妙の三義」と呼ばれます。一つ目は「開の義」で、法華経こそが一切衆生の成仏の道を開くということ。二つ目は「具足・円満の義」で、妙法にはあらゆる功徳が円満に具わっているということ。三つ目は「蘇生の義」で、妙法には一切衆生を蘇生させる力があるということです。私は、この「妙」の一字こそ、〝生命の実像〟を表現していると思わずにはいられません。というのも、生命の営みをつぶさに観察するほど、「妙の三義」に通じるものを感じるからです。生命には、周囲と共生し、互いの生き抜く道を開いていく働き、つまり「開の義」に通じる要素があります。あらゆる環境に順応していく知恵が備わり、「具足・円満の義」に通じる要素があります。そして、実にしなやかに変化しながら新たな生の力を発揮したり、次の世界へと種を存続させようとしたりする力、つまり「蘇生の義」に通じる要素もあります。このような生命の本源的な力を、一人一人の生きる力として強めていくのが、私たちの信仰であると確信します。あらゆる人に開かれた対話や励ましの連帯。一人一人に無限の可能性がそなわっていることを教える哲学。生き抜く力を呼び覚ます祈り――ここには、「妙の三義」を包含する実践があります。池田先生は「生命を語る」の結びとして、「(仏法の)雄大な生命観をすべての人々の胸中に息づかせていくことこそが、やめる現代文明を蘇生させ、来るべき二十一世紀を、生命の躍動、生命勝利の世紀としていくカギになると確信し、今後もその至高なる作業をつらぬいてくことを誓い合っておきたい」と語られました。世間を見渡せば、生命軽視の流れが強まっていることを感じます。そうした時代だからこそ、生命尊厳の思想を語り抜くとともに、生命の根本原理を説き明かした仏法の偉大さを証明しゆく研究者でありたいと決意しています。 くぼ・やすゆき 1956年生まれ。農学博士。専門は植物病理学。創価高校5期。京都大学農学部卒業。京都府立大学教授などを経て、摂南大学農学部教授・農学部長。京都府立大学名誉教授。中国・雲南農業大学名誉教授。2018年から1年間、日本植物病理学会会長を務めた。編著に『農学概論』(朝倉書店)、共著に『植物病理学 第2版』(文永堂出版)、『植物たちの戦争』(講談社)などがある。創価学会関西総合学術部長。副県長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.10.15
February 19, 2024
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「宗教のための人間」か「人間のための宗教」かインタビュー ジャーナリスト 田原総一朗氏 排除の壁―気候変動、コロナ禍、ウクライナ危機と、人類的課題が相次いでいます。 非常に大きいのは地球環境問題でしょう。このままいけば、30~40年後には地球に住めなくなるかもしれない。パリ協定(産業革命以降の平均気温上昇を2度、理想的には1.5度未満に抑えることを目指す国際枠組)が結ばれ、できるだけ早く石炭や石油といった化石燃料の使用を減らすなど、エネルギー政策を見直していこうという動きがありますが、原子力発電をどうしていくかという一つをとっても、明快な答えが出しにくい難題です。そして、カーボンニュートラル(温室効果ガス排出実質ゼロ)に向けて世界が踏み出そうとした矢先のコロナ禍、今年のウクライナ危機です。常に変化を続ける時代にあって、私たちはどう生きていくべきか。本来、その生きる軸となるべきものが宗教であったはずです。そうした時に起きてしまったのが安倍晋三元首相の襲撃事件でした。容疑者は、母親が団体に家庭を破綻させるほどの献金をしたと供述しています。この母親にとっては、いわば生活を犠牲にすぐことが親交の強さを示すものとなっていった。まず言いたいのは、目的や手段を間違った宗教は、いつか深刻な事態を引き起こすという点です。極端な話ですが、宗教には、ともすればひとをあやめたりきずつけたりすることを正当化するような教義を持つものもある。また、信仰心が強いほど、多宗教を認めなかったり、排除しようとしたりすることもある。宗教には、そのような怖さや危険性があることを知っておかなければならない。こうした、いわば「排除の壁」というものに、宗教はどう向き合うのか。果たして宗教はこの壁を乗り越えていけるのか。そこに僕は注目してきました。 ――長年、創価学会を見てこられました。 僕は、戦後初期の創価学会も、この宗教における「排除の壁」という問題に陥っているのではないかと感じていました。信仰への確信ゆえに、自分達と異なる意見を認めることができない、だから民主主義とも相いれないと思っていた。公明党が誕生し、政界に進出した時も、この矛盾を解消していくのかを注目していたんです。まず、言論・出版問題(1970年ごろ)をきっかけに、それまでの在り方を見直して、機構改革などに取り組み、より近代的な組織として生まれ変わったこと、地域に根差し、親しまれる創価学会を目指して、社会との関係を構築していくようになりました。二つ目に、宗教的な寛容性の高まり。初期の創価学会では、他の宗教をときに「邪集」と言い切るなど、攻撃的、排他的な部分があったが、70年の本部総会で会長は、弘教において行き過ぎの絶対にないよう、道理を尽くした対話であるべきことを確認しています。「邪宗」という言葉も「他宗」へと変わっていきました。三つ目に、「人間あっての宗教」と言い切ったこと。池田会長は「仏教史観を語る」という講演(77年1月)で「〝宗教のための人間〟から〝人間のための宗教〟への大転回点が、実に仏教の発症だったのであります」と述べています。「人間あっての宗教」となれば、人間が宗教の手段になってしまい、やがては生活や人生、家族を破綻させかねません。その意味からも、この池田会長の言葉は、宗教の在り方を問う普遍性のある指摘です。僕は、よくぞ言ってくれたと思っています。この講演では「仏教はいかにあるべきか」について語っていますが、これは日蓮正宗、つまり宗門の激しい怒りを買い、第1次宗門問題のきっかけともなりました。やがて池田会長は辞任を余儀なくされ、名誉会長となります。部外者として見れば、会長辞任は敗北にも見える幕引きです。しかし名誉会長は、さらなる世界広宣流布へと踏み出す好機と捉えていきました。名誉会長は宗門問題以前から、宗教間の対話にも意欲的で、むしろ対立するような思想の人とも、忌憚なく本音で語り合うことを是としてきた。そうした対話もならなる広がりを見せていきます。振り返れば、言論・出版問題や宗門問題といった窮地に、創価学会は何度も直面してきた。そのたびに誰もが、創価学会は間違いなく衰退すると予測しました。僕もその一人です。でも創価学会は、その推測を見事に裏切り、その都度、驚くべきエネルギーをもってピンチをチャンスに変え、逆境を乗り越えてきた。この過程で、創価学会は「人間の為の宗教」として成熟し、宗教における「排除の壁」をも乗り越えた。これはとても大きい意義をもつし、僕の見る限り、他にはなしとげられなかったことだと思うんです。 信仰と理性―73年、初めて池田名誉会長を取材された時、「信仰と理性」の関係について話題になったそうですね。 この時の僕は、進行とは、理性をかなぐり捨てて、ひたすら祈りをささげることで成り立つものだと考えていました。ただ「理性には限界があるから、宗教が必要だ」という人も多く知っていた。それで「人間は理性だけじゃ生きられないですよね。だから宗教が必要なのでは?」と質問したのです。そると〝理性というのは非常に大事にすべきだ。理性に限界があるなんて言ってもらっては困る〟と、思いがけない答えが返ってきた。僕が大変に尊敬し、親しくしていた人に、哲学者の梅原猛さんがいます。彼はカント、デカルト、ニーチェを会った後に、釈迦の研究を始めた。「なぜ釈迦を?」と聞くと、「田原さん、人間っていうのは理性だけでは生きていけない」「心は理性だけじゃない。どうしても宗教が必要になる」と言うんです。理性を大事にする哲学者が宗教の重要性を語り、一方で、進行を大事にする宗教者が理性の重要性を語っている。名誉会長は〝人間がものを考える際の基本は理性です。だから理性をなくしてはいけません。理性があり、さらに進行がある。この二つは何ら矛盾していません〟とも言っていました。理性を最大限に働かせていく中に、信仰を位置付けていくことに驚きました。 ―今、求められる宗教の価値とは何でしょうか? 人生とは一体何なのか。そこを追及して、「生きる意味」を見出していけるのが宗教だと思います。僕も生きる意味について、必死に探した時期があります。答えを得るために、ある新興宗教の合宿に参加したこともある。そこでは因果応報を説いていました。現世が良くないのは、前世での行いが良くないから―というものです。多くの宗教で「救い」が説かれていますが、そのほとんどは、あくまで死後や来世での救いを言っている。一方で創価学会は、この世で「宿命転換」や「人間革命」ができるという。現世で成果が出るというのは、創価学会の新しさであり、強みですね。今、自分の人生に希望が持てる。ここが大きな特徴だと思います。僕が初めて創価学会を取材したのは、テレビディレクターをしていた64年のことです。「人間革命」という言葉を聞いて、疑問に思っていた。革命っていったい、権力者を打ち倒す改革じゃないか。人間を革命するなんて、どうやるのか。そんなことが果たしてできるのかって。 逆境に臆せず立ち向かうそこに創価学会の真価が 息づく母性原理―取材を女性から始められたそうですね。 日本の社会で弱い立場に立たされてきた女性が、創価学会の中でどのように活動しているのか。20人ほどの女性を取材しましたが、皆、例外なく、池田名誉会長への信頼を語ってくれました。宗教団体のリーダーだからというのではなく、身近な次元でつながっているという実感です。この絆、一体感が創価学会の強さなのだと思います。ここでつけ加えれば、創価学会の平和への思いは、女性の学会員の存在抜きには語れないものと感じています。なぜなら家、彼女たちの活動には、真に平和を願い、生命を慈しむ「母性原理」が息づいているから。僕は、競争や強権を旨とするような「男性原理」だけでは、本当の平和は訪れないと思っている。名誉会長のスピーチや著作からは、その平和の思想の根底に、母性原理が存在することが見て取れます。創価学会の女性が、さまざまな活動の担い手として立ち、公明党の支援にも全力を尽くせるのは、名誉会長のそうした信念と深く重なっていることを実感できているからなんでしょう。 ―平和への思いを、お聞かせください。 僕は戦争を知る最後の世代。それは、ある意味で幸せなことだと思っています。玉音放送を聞いたのは、小学5年の夏休みでした。終戦前、ラジオや新聞が、こぞって国民の英雄だと褒めたたえていた人が非難された。アジアの国々を独立させ、植民地を介抱する「正義の戦争」だと180度変わったんです。ところが高校に入学すると朝鮮戦争が始まり、そこで「戦争反対」と言ったら「お前はいつから共産党になったんだ」と叱られた。偉い人やマスコミは信用できない―これがジャーナリストになったきっかけです。電文や推定じゃなく、1次情報を自分でちゃんと確かめなきゃいけない。今、僕の生きる目的は三つあります。一つ目に、言論の自由を絶対に守る。二つ目に、日本に戦争をさせない。戦争を肯定するような人間には、断固、反対して、糾弾する。三つ目に、政治を活性化させたい。その3点ですね。 一期一会の絆―創価学会の海外における発展を、どうご覧になりますか。 いくら国内で大きくなったとはいっても、正直なところ、世界の壁は非常に厚いだろうと思っていました。鎌倉時代の歴史的背景がある純日本宗教だし、経典も題目も漢字で書かれています。日本の植民地支配によって、反日感情が根強く残っている国だってある。でも、創価学会は世界でも発展を続けている。それは数を見ても顕著です。仏教や日蓮のことを知らない、もともと別の宗教を信仰していた人たちが、なぜ創価学会を選ぶのか。海外の幹部にもインタビューしました。魅力や入会動機は千差万別でしたけれど、共通していたのは、進行したことで成長できたという自己変革体験、つまり「人間革命」の経験です。それをなしとげた歓喜が、信仰の手応えとなっているようでした。僕が注目しているのは、池田名誉会長の信仰観です。人間の幸福は、あくまで自身の強い生命力によって獲得できるものであり、その生命力を引き出すのが信仰であると考えられていますよね。反対に、困難に打ち勝とうとする闘争心をなえさせるなら、それは信仰ではないと見ている。海外にあっても、人間の内面を強くする信仰の在り方が鍵となってくるのではないかと感じています。 ―世界宗教への道程と挑戦にあって、何が重要でしょうか。 日本の宗教として前人未到の領域に踏み込むことであり、当然、困難は避けられないでしょう。ただ僕は、その答えはすでに示されていると思う。池田名誉会長が作家の松本清張と対談するため、京都を訪れた折のことです。車が赤信号で止まった時、オートバイに乗っていた2人の少年が、社内の名誉会長に手を振った。名誉会長も窓から手を出して振り返った。しかし、すぐに信号が青に変わり、車とオートバイはそれぞれ走りだしてしまう。そこで名誉会長は「あの2人の少年を何とか探せないか」と。その夜、なんと2人の名前と住所が判明します。名誉会長は手元にあった著書に署名して贈り、その後もあって激励を重ねています。一回、あった人を非常に大事にする。そのままにはしない。この「一期一会」のエピソードには、一人をどこまでも尊重し、大切に励まし、人間革命や宿命転換の挑戦を支える結びつきがある。それはどんな国や社会にあっても、根源的な価値と言えるでしょう。現に世界では、名誉会長と会ったことがない若い世代の学会員たちが、名誉会長の指針を学び、生きる希望を与え合いながら発展を続けていますよね。これからも、苦難や逆境にひるむことなく、励まし合って向かっていく。そこに創価学会の真価が発揮されていくのではないでしょうか。この時代の危機をどのように転換していけるのか、注目しています。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.9.24
February 5, 2024
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第14回 呼吸器の持つ可能性徳島大学大学院医歯薬学研究部教授 近藤 和也さん 空気に含まれるウイルスや細菌―病原体の侵入防ぐ前線基地 医学では、体内の各機関が互いに連携し、支え合いながら私たちの健康を守っている仕組みが明らかになってきている。まさに調和の世界であり、仏法の〝人体は小宇宙〟との思想が共鳴する。コロナ禍の中、身体の調和を保つために、医学的にどのような心掛けが大切で、仏法ではどう説いているのか。「危機の時代を生きる―創価学会ドクター部編」の第14回は、呼吸器下界で徳島大学大学院医歯薬学研究部教授を務める近藤和也さんの「呼吸器の持つ可能性」と題する寄稿を紹介する。 呼吸器の役割が、いかに大切か―コロナ禍の中、多くの人が、そのことを字関しているのではないでしょうか。新型コロナウイルスが流行した当初、このウイルスは肺で広がりやすいという特性を持っていました。例えば、重症患者には「ECMO(エクモ)」という医療機器が使用されましたが、これは「体外式膜型人工肺」おことで、肺の役割を代替するものです。それだけ、コロナが肺の機能にダメージを与えていたかということです。その上で、これまでオミクロン株は、それ以前に流行してデルタ株などに比べ、肺などの下気道ではなく、口から誓い上気道で感染が広がるため、肺炎による重症化は起きにくいと言われていました。しかし、変異が進むなか、最近のオミクロン株は、肺で増えやすい特性を獲得していると指摘されています。今後、重症肺炎が増える可能性もありますので、引き続き、換気や手洗いなど、感染対策には万全を期していただきたいと思います。 肺胞でガス交換私たちは日々、食事を通して栄養を取り入れますが、それだけでは、体内の活動を支えるエネルギーとはなりません。私たちが食べた栄養は、鼻や口から取り込んだ酸素と結び付くことで、初めてエネルギーとして使えるのです。だから、呼吸をしなければ、私たちは生きていけません。呼吸の数は、1日に2万回以上。それは、私たちが起きていることも寝ているときも続けられ、その中で、およそ1万4400㍑という膨大な空気を取り込んでいます。そして肺に届いた空気に含まれる酸素と、体内から回収した二酸化炭素を交換しています。呼吸器系は、鼻と口から始まり、のどや機関、気管支を経て肺へと続く部分で、その一番の役割は、肺胞が担っている酸素と二酸化炭素の「ガス交換」です。しかし、取り込んだ空気には、ウイルスや細菌などの病原体、ホコリや大気汚染物質、花粉、カビの胞子など、さまざまな遺物が含まれているので、呼吸器系は病気になりやすく、そこから様々な疾患につながっていくことが知られています。「風邪は万病のもと」と言われるゆえんです。その上、ガス交換を担う肺胞という組織は、とても繊細で壊れやすいのです。一方、そうした異物に対して、呼吸系は何もしていないわけではありません。特に私たちが生きていくために欠かせない肺胞を守るため、さまざまな働きがあります。今回は、その中の「喉」の役割を中心に見ていきましょう。 誤嚥性肺炎の原因まず喉には、食べ物が気道に入らないようにブロックする蓋(喉頭蓋)があります。この蓋は、空気が来た時には開いて機関に流しますが、食べ物が来た時には閉じ、食堂に送り出しています。これが正確にできていればいいのですが、加齢とともにうまく機能しなくなると、食べ物が来た時に蓋が閉じられず、雑菌などが気道に入ってしまうことがあるのです。そうして雑菌などが肺で繁殖して起こる誤嚥性肺炎は、高齢者の死因の一つです。そもそも、肺炎は近年、日本人の死因の3位と高い割合を占めていますが、入院した高齢者の肺炎の種類を調べた調査では、80代の肺炎患者の約8割が誤嚥性肺炎であったと報告されており、見過ごすことができない状況です。一方、喉で食べ物と空気を正しく分別できたとしても、まだリスクがあります。空気には、さまざまな異物が含まれているからです。そうしてものを取り込めば、肺に異常をきたす恐れがあることから、喉には、遺物の侵入を防ぐ仕組みもあります。例えば喉の咽頭やその手前の鼻や口には、ウイルスや細菌などの病原体と戦うための琳派装置が張り巡らされ、病原体を排除する前線基地になっています。発熱、咽頭痛、鼻汁、咳、たんといった風邪の症状は、そうした病原体とリンパ装置を流れる免疫細胞が戦っている状態です。また喉を含む気道の表面には、繊毛という小さな毛がびっしりと生えています。繊毛の毛先は粘液で覆われ、この粘液に異物が付着すると、繊毛の働きによって、エスカレーターのように異物を口の方へと運んでくれます。それとともに、この繊毛の動きと連動して咳が出ることで、一気に体外へ吐き出すのです。余談ですが、咳止めの薬は、咳や痰で排出されたはずの異物を体内に残してしまうことにつながります。咳が出て眠れないといった症状のある場合は別にして、咳にはそうした役割があるのだと理解した上で、使い過ぎには注意していただきたいと思います。また、異物排除のしくみは鼻にもあり、鼻では鼻毛が異物をキャッチし、くしゃみと一緒に体外に出しています。こうした役割をふまえれば、口呼吸ではなく、鼻呼吸をすることが、病気のリスクを低減する上で重要となります。このほか、喉を含む気道の役割として、温度や湿度にも敏感な肺胞を守るため、外気がたとえマイナスの温度でも、鼻から喉、そして肺胞に届くまでの間で人肌にまで温め、適度に保湿をして肺胞に送る役目もあります。そして、喉の役割で重要なのは、肺から排出される空気を使って喉の声帯を振動させることで、私たちに声をもたらしたことでしょう。 異物排除と密接な「喉」の筋肉声を出す習慣が鍛えに 学会活動は効果的このように、喉は肺を守るために欠かせない役割を果たしていますが、その機能を支える喉の筋肉は、年齢とともに衰えてきます。先ほど述べた咽頭蓋も、筋肉が衰えると、うまく機能しなくなり、むせることが多くなります。また咳の力も弱まり、異物を体外に排出しにくくなることが知られています。では、私たちが心掛けるべき点は何でしょうか。それは「喉の筋肉を鍛える」という点と、「喉を傷めない」という点を意識することです。喉を着て流転では、声を出すことが一番の方法です。話す行為は喉の筋肉を使うだけでなく、脳とも深く結びついているので、認知機能低下を防ぐことにもつながります。話す機会が少ないかたは、新聞を音読するなど、声を出す習慣を身につけるといいでしょう。そうした意味からも、創価ふぁっ会員が行う勤行・唱題や活動を通して行う座談会での発言、御書や書物の朗読などは、効果的な手段です。一方、喉を傷めないという観点で、最も避けたいのは喫煙です。たばこは、喉はもちろん、肺胞にもダメージを与える有害物質が約20種類も含まれています。特に肺胞は一度壊れると再生されませんので、禁煙をお勧めします。また、喉の感想も傷める原因です。小まめに水を飲み、のどを潤すことを心掛けてください。喉に潤いがなくなると、喉の繊毛の働きも弱まってしまうことが分かっています。加えて、そのうるおいは唾液も関係することから、食事の際には、唾液がしっかり出るよう、よくかんで食べることも大切です。 仏典が記す肺の病さて、ここまで喉を中心に呼吸器の役割を述べてきましたが、呼吸は私たちが生きていくことと密接に結びついているということもあり、その生涯は、さまざまな症状となって表れます。それは仏法でも着目されてきました。例えば天台大師の「魔訶止観」には、肺が病気になることで「顔いるが黒ずむ」という記述があります。現代医学からみれば、これは血液中の酸素が不足することで生じる症状と考えられます。またインドでは古来、人間の身体は「地」「水」「火」「風」という四つの要素が和合することで形づくられている、と捉えられてきました。「地」は骨や筋肉など、「水」は血液や体液、「火」は体温や生か左様、「風」は呼吸や新陳代謝を指しますが、天台大師は、その中の「風」が乱れることでも人体に影響が出ると指摘しています。それは「痛み」「咳」「身体の虚脱感」などです。さまざまな原因が想定されますが、「痛み」は気胸や肺梗塞、「咳」は肺疾患、「身体の虚脱感」は低酸素などの状態と考えられます。こうした仏典での症状の記述は、現代医学に照らしても説得力があります。 地域の同志と呼吸を合わせ周囲に励ましの言葉を! 「御義口伝」の仰せその上、「御義口伝」では、私たちの五体を「妙法蓮華経」の五字に配し、「喉は法なり」(新997・全716)と仰せです。私は「喉」が「法」となるのは、「喉」から生み出された声によって、「法」は広まっていくからだと考えます。まさに「超え、仏事をなす」(新1512・全1110等)です。また、「法」とは〝宇宙に遍満する永遠の真理〟とも捉えられていますが、それを踏まえて「喉」の機能を見ると、そこにも「法」のような広がりがあると思えてなりません。それは、喉の状態や使い方によって、その影響は私たちの身体はもちろん、周囲の人にも広がっていくという可能性を秘めているからです。喉は、私たちのエネルギーの源となる食べ物と空気が通る場所ですが、そこで正確に仕分けをしているから私たちは生きることができ、喉を含む気道が異物を排除しているから、私たちの健康は守られています。そもそも、大気中の酸素が体内の二酸化炭素を交換する呼吸は、地球の環境とのつながりの中で利益を得ることであり、そこにも広がりを感じます。それだけではありません。実は、喉仏の真下にある甲状腺が出す「甲状腺ホルモン」には、血液の流れに乗って全身の細胞に働きかけ、新陳代謝を活発にする役割があります。このホルモンは、脳の活性化や精神状態にも関係しており、こうした〝喉の働き〟によって、私たちは心身ともに健康で生きていけるのです。喉から生まれる「声」という要素も欠かせません。私たちは声を通して、周囲と円滑なコミュニケーションを取れるようになりました。ましてや、日蓮大聖人は、「題目を唱え奉る音(こえ)は、十方世界にとずかずという処なし」(新1121・全808)と仰せであり、私たちの喉は、まさに宇宙に遍満する妙法の力と結び付いているのです。 仏法に生命潤す力が甲状腺ホルモンは、バランスが重要で、多すぎても、少なすぎても、身体に異常が現れます。そして、バランスが乱れる大きな要因と考えられているのが、ストレスです。ストレスをためないためには、十分な睡眠や適度な運動など、リズム正しい生活が大切ですが、最も大きなストレスとなるのは、人間関係でしょう。この人間関係を良好に保っていく鍵も、「喉」の使い方にあると思います。大聖人が「言(ことば)と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(新713・全563)と述べられたとおり、良き人間関係を保つには、喉を使って心を込めた言葉を発することではないでしょうか。友の幸せを願い、真心から紡ぎ出された励ましの言葉は、友の心を穏やかにし、心身ともに健やかに生きる力を与えます。そもそも、友と語らうことは、互いの喉を鍛え、これも健康になっていくことにつながります。地域の安穏を祈り、悩んでいるともに声を掛け、積極的に人々と友情を結ぼうとする学会の同志が、健康で生き生きと人生を歩んでリル姿そのものが、「喉の力」の持つ可能性を証明しているように思えてなりません。法華経薬王品には「清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く」(法華経597㌻)と説かれています。法華経を「清く冷たい水をたたえた池」に譬え、池の水が〝人々の乾いたのどを潤す〟ように、法華経は人々の生命を潤し、ぼんのうの苦しみの熱を取り去る力がある、ということを伝える一節です。人々の孤立化が懸念される今こそ、この偉大な仏法に巡り合えた喜びを胸に、地域の同志と呼吸を合わせ、周囲に社会に真心の声を届けてまいります。 こんどう・かずや 1959年生まれ。徳島大学医学部位学科を卒業。医学博士。同大学大学院医歯薬学研究部臨床腫瘍医療学分野教授。呼吸器毛会として肺がん、胸腺腫などの胸部の悪性腫瘍の治療および研究に従事。日本呼吸器外科学会評議員、日本肺癌学会評議員、日本呼吸器内視鏡学会評議員、日本胸部外科学会評議員。創価学会四国総合ドクター部長。副圏長(本部長兼任)。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2022.9.10
January 29, 2024
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ぶれることなく大衆と共にいま求められる「中道」の姿勢インタビュー㊤ 政治学者 姜 尚中氏 歴史を俯瞰する――気候変動やコロナ禍、ウクライナ危機など、さまざまな課題が山積するこの時代を、どのように見つめてこられましたか。 歴史を俯瞰してみると、現代の危機の端緒は、半世紀以上にあったことに気付きます。ローマクラブが地球の有限性に警鐘を鳴らしたリポート「成長の限界」を発表したのは、1972年。その前年には、金と米ドルの兌換停止が宣言された「ニクソン・ショック」が世界経済に影響を与え、後に大半の国は通貨の変動相場制へと移行していきます。米ドルという一国の通貨が、金に変わって、世界の通貨の安定を託されるようになった。さらに、73年には第1次石油ショックが発生しました。世界経済が、アメリカ次第で右にも左にも揺れ動く時代が、70年代初頭に始まったということです。その経済活動のありようは、ものを生産・販売し、それに対価を支払うといった「実体経済」から、金融取引や為替相場の変動で富を増やすといった「金融経済」に変わっていきました。私はそれを〝虚の経済〟と呼んでいます。地球環境がグローバル経済の成長に耐えられないという状況が、すでに始まっていたにもかかわらず、資本は無制約で世界中に広がっていった。今日の気候危機は、不可避の事態として起こったといえるのです。一方で、ウクライナ危機をどう見るべきか。第1次世界大戦(1914~18)と第2次世界大戦(1939~45)の〝終戦〟の在り方を比較すると、浮かび上がることがあります。第1次世界大戦に終結を与えた「ベルサイユ条約」は、戦勝国である連合国と、敗戦国であるドイツとの間に調印されたものでした。新たな国際秩序が形成されるはずでしたが、この条約によってドイツは植民地や領土を失い、賠償支払いを課せられるなど、徹底的に圧迫されました。すると、条約を恨む気分がドイツ国内に強まっていった。それがナチスドイツによって利用されるようになり、政権掌握の一因となったと見ることができるのです。その歴史の教訓から、第2次世界大戦後、アメリカが推進した「マーシャルプラン」と呼ばれるヨーロッパの復興計画は、敗戦国であるドイツやイタリアを含む広域に適用されました。それによって、極右勢力が出てくる可能性が摘み取られたわけです。そうした経緯もあり、戦後の東西冷戦の時代は、国際社会で紛争や戦闘が繰り返される中でも、ある種の均衡を保っていました。高度経済成長に入った日本にとっても、ある意味で〝幸せな〟時代だったといえます。しかし、1989年の「ベルリンの壁」の崩壊に象徴されるように、その冷戦が終結すると、油井一の超大国として世界に君臨したのがアメリカです。そのアメリカと西欧諸国が構築していった安全保障の枠組みは、ロシアの地位を辞遺文に考慮したものではなかった。いわば、ロシアが冷戦の〝敗戦国〟であると位置付けられたとも捉えられるのです。一方でアメリカが、世界を〝一極支配〟したかのように振る舞い、他方ではロシアが、〝国土は大きくても軍事的には二流、三流の国家だ〟と、西側諸国から見下されるようになった。その屈辱を晴らし、国際社会での立ち位置を挽回したいと考えたのが、プーチン大統領だといえます。そうした背景が、現下のウクライナ危機につながっていると見ることができる。まさしく、第1次世界大戦のベルサイユ体制の時と同じ過ちを犯してしまったことといえるのです。冷戦後、ロシアが安全保障上で危機感を持たないような国際秩序を構築できていれば、今日のような戦禍は免れることができたのではないか――。そう考えざるを得ません。 苦悩を抱える人を救い上げ社会の極端化を防ぐ人間の絆 政治のありよう――20世紀に芽生えた危機が、さまざまな形で噴出する現代の世界のありようを、歴史の上からどう捉えるべきでしょうか。 歴史というのは、繰り返すのではなく、「韻を踏む」。アメリカの作家マーク・トウェインが言ったとされる言葉ですが、これに倣えば、現代は1930年代と似た様相を呈していると思います。1930年代は、ウォール街の大暴落(29年)などを背景に、自由主義と資本主義に対する不信感が高まった時代でした。政府が経済活動に介入しないといった、イデオロギーとしてのリベラリズムは神通力を失い、むしろ、国家が介入することが、社会秩序を保つ〝切り札〟であるとされていった。「小さな政府」から「大きな政府」への意向です。国民の、国家に対する期待値、国家との一体感を求める思いだ、強まる時代だったということもできます。一方で、現在起こっていることを見て見ると、例えば、コロナ禍が始まった一昨年、公明党が主導して実現した「一律10万円の特別定額給付金」は、それまでであれば、とうてい通らなかった提案だと思います。ところが、コロナ禍が長期化した今となってみれば、10万円の給付金は当然、なされるべきだったし、それでは到底足りないという話もある。財政規律をいったん棚上げしてでも、国が補助金や給付金を出さなければ、社会が回らない状況となっています。国家がどう動くかが、社会にとっても、個人にとっても命綱になっている。ここが30年代と似ています。しかし日本では、この数十年間、没政治家とさえいえる状況がかなり進んでしまったのが現実です。官僚主導で物事を進め、政治家は口を挟むなという空気があった。その中で、選挙で投票率も下がり続けた。今、日本の最大の問題は、経済の問題ではなく、国家の問題、政治の問題であると私は思います。政治がうまく機能するためには、やはり社会が強くなければいけない。そして社会が強いというのは、国家と国民を結ぶ中間集団が機能しているということなのです。 砂粒化する個人――個人でもない、国家でもない、それに位置する中間集団が、社会で果たす役割とは何でしょうか。 創価学会員のように、中間集団に自分の居場所を持つ人は、自分の考えを伝えるとともに、他にもさまざまな意見があることを知り、議論し合うこともできる。一方、そうした場を持たない人は、自分と社会の間に介在した多様な価値観に触れることなく、むき出しの形でメディアの洗礼を受けます。すると、自分の身の回りで起こっている現象について、流れてきた情報を鵜呑みにしたり、フェイクニース(虚偽報道)に侵されたりしてしまう。SNSが普及する現代においては、なおさらです。現代は、中間集団が痩せ細り、若者を中心に、社会関係の網の目から離脱する人が増えてきています。そうしていわば、〝砂粒化〟した個人が、極端な情報や言説に触れることで、バラバラだった状況から、一定の方向にマスとなって動き出してしまうことがあります。それはナショナリズムや全体主義の温床となる危険をはらんでいます。偏った情報や妄想を信じている個人が、マスとなって固まれば、極端な方向に向かうのは十分にあり得ることです。一方で、不断からいろいろな人と自由に、対等に交流し合える中間集団に足場を持っている人は、デマや妄想とは対極の、リアリティーと常に接点を持ち人たちです。その結果として、仮に極端な考えを持っていたとしても、リアリティーを伴う人間関係の中で、やがて均衡のある考えへと是正されていくのです。こうした身体的なつながりの価値は、ますます高まっています。現代では、さまざまな苦悩を抱えて暮らす人がいながらも、彼らを取り巻く社会の課題が、見えづらくなっています。苦悩をだれにも相談できないがゆえに、反社会的な行動を起こす人もいる。個人が、遠心分離器にかけられたように砂粒化し、極端な方向へと動いてしまう。それは、彼らを救い上げる中間集団がなくなってきているからだと思うのです。 よって立つ足場――砂粒化した大衆が、ナショナリズムといった極端な方向に向いてしまうような事態を、どのようにすれば防ぐことができるのでしょうか。 顕専なナショナリズム、あるいは愛国心というものは、「愛郷心」の延長線上にあるものだと私は思います。地域を愛することなくして国を愛そうというのは、非常に観念的であり、うつろなナショナリズムにほかならない。自分という存在が、「どこに錨を下すのか」が大切なのです。それは、「愛郷心亡きナショナリズム」に流されてしまう自分との、戦いであるともいえます。その点、創価学会の牧口初代会長が、「郷土民」というかんがえを、「国民」「世界民(世界市民)」に先立つ、個人によって立つ足場として、今日的な意味があると思います。昨今のグローバル化の流れのなかでは、地域に根差すことのないまま、「世界に羽ばたけ」といった言葉が広まった側面もあります。しかし今、ウクライナ危機のようなことが起こり、空気は一挙に反転しています。〝海外は怖い〟というように。(※協調は編集部)あらためて、「ぶれないことの大切さを思います。そして、極端にぶれないためには、自分が錨を下せる中間的な集団が必要になります。そこに、創価学会をはじめとする宗教団体の役割があるのではないでしょうか。 信仰が原動力に――現代のような危機の時代に、学会に期待することは何でしょうか。 仏法は「中道」(注)の思想を説きますね。よく、中道派〝足して2で割った真ん中〟という誤った認識がなされますが、私は、中道の実践ほど難しいものはないと理解しています。時代が変わっても変わらずにいて、同時に、変わらないために変わり続けるという中道の立ち位置――今まさに、社会で必要とされている姿勢だと思います。この非常に難しい立ち位置を、とりわけ政治において貫くのは、信仰的な基盤があってこそできることだと私は思います。思い起こすのは、キリスト教民主同盟を率いた、ドイツのメルケル前首相です。念心なキリスト教徒である彼女は、その信仰心を原動力として、中道の立場からの政治手腕を発揮しました。すでに述べたように、民主主義というのは、ある意味では大衆が過激化する危うさを備えています。国や社会は、国民や市㎡ンの思いが集積して成り立つものでなければならない。ゆえに国民を信頼することが大切である一方で、〝砂粒化〟した個人が群れとなって動くときは、民主主義とは似ても似つかないものに変わってしまう危険性もある。大衆が奔流となって誤った方向に向かうときは、命を懸けて止めなくてはならない。しかし、上から超然として大衆を見るのではなく、自分もその大衆の一人として、大衆の中に入っていくことが、できるかどうかです。大衆の大きな流れを受け止めながら、それに流されず、同時にまた、大衆の中にい続ける。私は、池田SGI(創価学会インターナショナル)会長が公明党の出発に際して訴えた「大衆とともに」という指針も、そのような意味ではなかったと思うのです。大衆の中にいながら迎合せず、外にいながら中にある――まさしく中道の立ち位置です。そうした中道をいざ実践するのは難題ですが、それに挑めるかが試されているのが、現代です。地域に根差して活動する、学会員一人一人が担う役割は大きいと思っています。 (注)相対立する両極端のどちらにも執着せず偏らない見識・行動 カン・サンジュン 1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治研究科博士課程修了、国際基督教大学准教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在は、東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長・鎮西学院大学学長。専攻は政治学、政治思想史。ミリオンセラーになった『悩む力』をはじめ、『心の力』『マックス・ウェーバーと近代』『在日』『オリエンタリズムの彼方へ』『朝鮮半島と日本の未来』など著書多数。小説作品に『母――オモニ』『心』がある。近著は『それでも生きていく――不安社会を読み解く知の言葉』(集英社)。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.9.3 インタビュー㊦ 人は誰でも、社会の中に生まれ、社会の中で育ちます。でも、ここで私が言う「社会」とは、大文字で語られるような観念的なものではなく、地域やボランティア団体といって、人間の顔が浮かぶ具体的な社会のことです。そうした中間集団を持たない人にとって、個人主義が至上の価値になっている現代社会は、非常に生きづらいと思うのです。現代の人たちは、「自由」という言葉を毎日、シャワーのように浴びて生きてきました。自由が与えられるということは、それだけ多くが自己責任化されているということでもあります。ただ、人は自己責任だけでは生きていけない。病気や災害があれば、誰かの力が必要であり、ネットワークの力ですくい上げられて、初めてまっとうに生きていける人が多くいます。そうした助けとなるのが、創価学会のような中間集団であるわけです。中間集団がいたるところに存在して、人々をすくい上げるようにしていくことが、社会の足腰を強くすることだと私は思います。しかし実際、長年、勤め上げた企業を定年退職した男性の高齢者などは、自分の居場所がないと感じている人が多いのではないでしょうか。一般に「アソシエーション」と呼ばれるような、共通の目的や関心を持つ人々同士が関わり合える空間が、もっと自発的に出てくれば良いと思います。中間集団が痩せ細ってしまうと、自分の悩みをだれにも言えない人たちが増えていきます。最近では、衝撃的な元首相の銃撃事件(7月8日)もありました。容疑者である青年が犯したことは決して許されることではありませんが、彼も孤独だったのではないか。社会の中に、彼のような人をすくい上げる余地がなくなってきていることの危険性を感じています。その上で心配なのは、今回の事件に関連して、あくまで「反社会的な団体」と一部の政治家のつながりが問題となっているわけですが、これを機に、「政治と宗教」の関わりを全般的に問題視する見方があるとしたら、これは全くの筋違いです。今、見つめなければならないのは、「政治と宗教」というより、「政治と反社会的な団体」の関係性を巡る問題であるからです。 大きな時間軸で――近著『それでも生きていく――不安社会を読み解く知の言葉』(集英社)をはじめ、危機の時代を乗り越えるための指針を多く発信してこられました。今、私たちは何を心がけて生きるべきでしょうか。 これは今、私自身がさまざまな人生経験を積んで、70代に入ったから感じることかもしれませんが、「時間軸を多くとること」が必要だと、最近改めて感じます。というのも、私たちは普段、小さな時間の単位でしか、人生を考えていないのですね。特に若者には、そうした傾向が強いのを、大学等の現場で感じています。その場その場で、受験に合格したら喜ぶし、どの大学に行くかで人生が決まるといった感覚に、吸い込まれてしまった人たちが多くいる。そんなことで人生は決まらないよといっても、若い人にはなかなか理解できません。『人生100年』といわれる時代にあって、日本は世界に誇る長寿社会であるのにもかかわらず、驚くほど短い時間で物事を考えていることを、私は憂慮しています。人生には、良い時も悪い時もあるわけですね。でも、その度に一喜一憂する必要はない。『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄著)ではないが、大きなサイズで時間を考えると。人生の出来事を違った視点から見ることができるように思います。そのような長い時間軸で人生を捉えられるようになるには、〝敗者復活戦〟が許される社会にならなければならないと思います。たとえ一度は失敗しても、やり直しができる社会です。例えば、新卒で一斉に採用するような仕組みではなく、いつどんな時でも、中途採用ができるような雇用形態に変えることなどです。アメリカでは、50歳で大学に入って学び直したり、弁護士事務所を開いていたりしても、何も珍しいことではなく、当然のように受け止められます。そうした社会の変革は、制度・慣行・生き方の三位一体で進んでいくのが望ましいです。しかし実際には、制度や慣行はすぐには変わらなかったりします。だからまずは、自分の生き方、考え方を「象の時間」に考えてみることです。今だけを考えてしまえば、つらいことは。つらいままでしかないかもしれない。しかし、人生あと数十年あると捉えて、今はダメでも敗者復活戦で逆転できると考えられれば、つらいことにも「意味」が伴っていくと思うのです。人生は選択の連続とも言えます。〝あれもこれも〟と何でも選べた高度経済成長期とは異なり、時代は、何かを選ぶことは、何かを失うこともある。仕事を切り上げて家族と時間を過ごすのも、地域貢献の活動に精を出すのも、選択ですね。〝あれもこれも〟は選べないかもしれないけれど、〝あれがだめならこれがある〟というふうに、選択肢を増やしていくという考え方が大切ではないでしょうか。人生を「複雑化」していくということかもしれません。 「自他共の幸福」目指す生き方が明るい未来を開く「希望」の源泉 幸も不幸も人生――長い時間軸で人生を見つめるからこそ、〝幸もあれば不幸もある〟現実を受け止めることができるようになる――近著では、ご自身の経験からそうつづられています。 2010年にご子息を亡くしたことは、私が、「幸せ」について深く考えるようになるきっかけでした。何の不自由もないことが幸せであり、それが人生の目的であると考えてしまえば、不幸に見舞われたときに、それを恨んだり、否定したりしてしまいます。そしてそれは、私たちが無意識に抱いている幸福感かもしれません。でも、今は悩みひとつない人生であっても、誰もが家族や親しい人を失うなどの場面に直面するでしょうし、いつかは自分にも病や死が訪れる。もしも、幸福と不幸が分断されたものであると捉えれば、〝いつか自分は不幸になるのではないか〟という不安は尽きません。しかし、長い時間軸で人生を見つめて、幸福と不幸は地続きであり、〝どちらもあるのが人生だ〟と考えると、私自身も完全に不安から解放されたわけではありませんが、だいぶ気持ちが楽になりました。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズは、「に度生まれ」という概念を提唱しています。人は苦痛や苦悩を引き受けることで、自分のなかの価値観を変え、「二度目の誕生」を経験する、と。私は、ジャームズがそう書いた背景には、宗教的な経験があったのではないかと思っています。人生には、知識や経験を増やすといった次元を超越して、人間が〝丸ごと〟変わる瞬間がある。それは侵攻に基づく経験である、と。そのときに、人は今まで知らなかった、自分の未知の領域を発見します。場合によっては、今まで依自分が幸せだと考えていた価値観が、崩れていくかもしれません。しかし人間は、現状に満足しているときよりも、幸せではないとき、幸せを求めるその過程にいるときのほうが、思索を重ね、自分を深めていけるという側面があるのではないかと、私は思うのです。だれの人生にも、1回や2回は訪れるであろう「二度生まれ」の経験は、生き方の転換を促すきっかけになります。池田SGI(創価学会インターナショナル)会長であれば、それを「人間革命」と呼ばれるのではないかと思います。この価値観の転換は、知恵の伝授では起こりえないものです。 「生みの苦しみ」――「不安社会」を生き抜く若者に、メッセージをお願いします。 最近、若者の口から「希望」という言葉を聞かなくなったと感じています。「幸せ」は、何か嬉しいことがあったなど、自分一人で感じられる喜びや満足を指すのだと思います。でも、「うれしいことがあったから希望を感じた」とは言わない。希望とは、「共に喜ぶ」ことであり、他者がいてこそ感じられるものだと思うのです。自由と自己責任をうたった新自由主義的な価値観のもとで、「幸せ」を実現する人はいるかもしれませんけれど、「希望がある」とはなかなか言えないのが現代です。誰かが幸福であれば誰かが不幸であるといった、〝ゼロサムゲーム〟のような社会であると考えることが多い。幸せそうな人に嫉妬したり、攻撃したりする人もいる。格差や不平等がまん延する社会にあって、ドイツの哲学者ニーチェが「ルサンチマン」と表題した、弱者が強者に対して抱く嫉妬・怨恨といった感情が、全世界的な傾向になってしまっているのではないでしょうか。だからこそ、希望を生み出すことが必要です。自分の未来に希望を抱いている人は、たとえ今不幸であったとしても、耐えられる。他者の不幸の上に自分の幸福を築くようなことは、しないはずです。牧口初代会長以来、創価学会が実践してきた、「他を益しつつ自己も益する」といった考え方が、多くの人々の生き方の軸になっていくことが、希望の源泉になっていくと思います。現代には、人を幸福にするはずだった自由が、かえって人を孤独にする時代であるとも言えます。しかしかといって、人は自由を求めずには生きられません。むずかしい時代ですが、同時に「生みの苦しみ」の時代でもあるのです。ここをくぐり抜けることができれば、必ず明るい未来が開けてくる――一人一人が、その希望を社会にともし続ける存在になっていただきたいと思います。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.9.5
January 24, 2024
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新型コロナの変異株が脅威感染拡大を抑えるためにインタビュー 大阪大学 宮坂 昌之名誉教授みやさか・まさゆき 大阪大学免疫学フロンティア千九センター招へい教授。1947年、長野県上田市生まれ。京都大学医学部卒業、オーストラリア国立大学大学院博士課程修了。医学博士。東京都臨床医学総合研究所等を経て、大阪大学医学部教授、同大学大学院医学系研究科教授を歴任。2007~08年に日本免疫学会会長。著書に『免疫力を強くする 最新科学が語るワクチンとの免疫のしくみ』(講談社)、『新型コロナ7つの謎 最新免疫学からわかった病原体の正体』(同)、『新型コロナワクチン本当の「真実」』(同)、『新型コロナの不安に答える』(同)など。 ――国内で新型コロナウイルスの変異株による感染が急増しています。これまでに比べ、現在のウイルスには、どのような特徴があるのかを教えてください。 現在流行しているオミクロン株には、免疫回避性といって、私たちの体内の免疫系の働きを逃れる力を持っていることが分かってきました。ウイルスの表面には、多数の目印があり、私たちの免疫系は、この目印によって「これが異物だ」と見極め、すぐにウイルスの働きを抑える抗体や免疫細胞を作ります。免疫系は通常、こうした目印をすぐに認識するのですが、ウイルスの変異が進むと、免疫系が認識しやすい目印が少しずつ消えていき、このために免疫が反応しにくくなってきます。だから、前にコロナに感染していても、再びコロナに感染するということが起こっているのです。こうした変異が起きるのは、免疫系とウイルスが常に戦っているからです。目印が減ったウイルスが生きの頃、広がっていくので、結果として免疫回避性のものが増えていくのです。日本では「BA・5」に続き、{BA・2・75}というオミクロン株の亜系統も広がり始めていますが、今後も、もっと感染力の強いものが出てくるかもしれません。 ワクチンの有効性――ウイルスの変異によって、ワクチンの効果が低下しているとの指摘がありますが。 確かに、ワクチンを打っても作られる抗体の量が時間とともに減るだけではなく、その効き方が減ってきています。玄奘のワクチンは接種し、体内に免疫ができても、それが一生にわたって続くのではなく、その効果が時間とともに下がります。さらに、ウイルスも目印の少ない方に変異しているので、抗体が効きにくくなっているのです。ただし、ワクチン接種によってできる抗体の方が、自然感染によってできる抗体よりも強く、変異ウイルスに対して高い防御力を持ち、重症化を防ぐことができます。また、ウイルスの目印が少なくなったとはいえ、残っているものもあるので、ワクチンを追加接種して免疫系を活性化させておけば、その少ない目印に気付いて、これに反応する抗体や免疫細胞が新たにできてきます。つまり、追加接種をすると、弱りつつあるワクチン効果が強くなるのです。東京都のデータでは、ワクチンを2回打つよりも3回打った方が中和抗体価が上がり、2回の摂取だと7ヶ月で100(AU/mL)を着るのですが、3回接種では7カ月後でも1000程度を保つなど、その効果が持続すること分かっています。1000くらいの値であれば、十分に感染防御に働きます。従ってオミクロンに対しては2回ではなく、3回接種しておかないといけません。では、4回打つと、どうなるか。まだ60~70代しかデータがありませんが、接種後に今までに見られなかったほど高い抗体が得られています。3回接種で7カ月続いているので、4回接種だと効果はもっと長く続くことが期待できます。ですので、現状のオミクロン株に対しては、3回接種以上、特に高齢者の場合は免疫が落ちやすいということを考えると4回接種が勧められています。その上で免疫の働きは、抗体だけではないということも大切です。 〝まだ戦いは続く〟との認識で日常的に対策行うニューノーマル(新常態)を 免疫機構は総合力――具体的には、どういうことでしょうか。 私たちの身体には、大きく分けて自然免疫と獲得免疫という二つの免疫機構があります。自然免疫とは、私たちが生まれつき、誰しもが持っているもので、獲得免疫とは、生後に獲得するものです。その上で、私たちがワクチンを接種すると、最初に活性化されるのが自然免疫で、血液の中でウイルスや細菌を食べる食細胞などの働きを強くします。これは新型コロナだけでなく、他のウイルスや細菌の増殖も抑えます。その後に起きるのが、コロナだけに働く獲得免疫を介した反応です。中でも、ヘルパーT細胞は、獲得免疫の司令塔のような存在で、この細胞がB細胞に命令を出すと、B細胞が抗体を作って、細胞の外にいるウイルスの働きを止めてくれます。一方で、ヘルパーT細胞は、感染した細胞をウイルスごと殺すキラーT細胞も活性化させます。こうした自然免疫・獲得免疫の両方が働くことで、ウイルスが排除されるのです。その上で大事なことは、➀自然免疫だけでも一程度、ウイルスを抑える②B細胞が作る抗体には、ウイルスを細胞内に入れないようにする働きがあり、初期防御に重要③T細胞の働きが重症化阻害に重要―ということです。実は、ワクチンは、こうした免疫全体の力を大きく高める効果があるので、抗体価だけを見て、それだけでワクチンの効果を判断することはできません。 重ねるほどに効果――私たちの感染対策はこれまで同様、ワクチン接種に加え、マスク着用や3密回避といったことに変わりはないのでしょうか。 ウイルスが変異したとはいえ、相変わらず飛沫による感染が主なので、基本的対策は変わらず、むしろもっと気をつけて取り組まなければいけなくなったこととも言えます。というのは免疫回避性が強まったことで、たとえワクチンを打っても、ウイルスを大量に浴びれば、重症化はしなくても、感染することがあるからです。さらに、感染症も上がっているので、これまで以上に微小な飛沫、空間を漂うようなエアロゾルでも感染しやすくなっています。ただし、感染が成立するためには、おそらく何千という粒子を吸い込むこむことが必要で、吸い込む数を10個や100個といった一定数以下に抑えれば、感染しません。特にマイクロ飛沫には、そこに含まれるウイルス量も少ないわけですから、これまでの感染対策に加え、送風・喚起をしっかりと行えば、感染するリスクも減らせます。その上で、これからは「感染対策は、重ねるほど強い効果を引き出せる」という考えをもつことが大切だと思います。一例として、次にそれぞれの対策による感染リスク低減の度合いを数字で示しました。これまでは、人と会った際、双方がマスク着用をすると、感染リスクは約10分の1になるといわれてきました。次に、対人距離を保つこと。これは何m離れるかで実際の数字は異なりますが、2㍍以上離れたら、2分の1になったとします。また、送風・喚起をすると感染リスクが約2分の1、双方がワクチン接種を受けることで約5分の1となると仮定します。ここで挙げた数字が厳密に正確であるかは別にして、大事なことは、これら4つの対策をお互いに独立事項なので、全て行えば、その効果は掛け算となるということです。つまり何も対策を講じない人に比べ、ウイルスを吸い込む量が200分の1になる可能性があるということです。もし、これら全ての対策が完璧にできなくても、重ねるほど高い防御効果を獲得できるので、たとえオミクロンのような感染症の高い者でも防げる可能性が出てくるのです。 感染症対策は重ねることで強い効果を引き出すことができる以下の数字が正しいことは別として、例として挙げる●双方のマスクの着用で、感染リスクが役10分の1●双方が対人距離を保つことで、感染リスクが約2分の1●室内では送風・換気を保つことで、感染のリスクが2分の1●双方のワクチン接種で、感染症リスクが薬分の1これらの対策を全て行うリスクの減少の程度は、掛け算となる(1/10)×(1/2)×(1/5)=(1/200)→何も対策を講じない人に比べ、約200分の1となる可能性がある 基本を知る大切さ――ウイルスが変異するたびに、さまざまなデマが出てきますが、宮坂名誉教授は、そうした背景には、どのようなものがあるのかとお考えですか。 多くの場合は、データを読み間違え、誤解しています。例えば、ワクチンを打つと、卵巣にワクチンが分布するというデータがあります。これは人間で使う量の約500倍を動物に投与した時のものです。実際に人間にうつワクチンは微量ですが、それだとどこに分布するのが見えないので、わざとたくさん入れ、分布を見やすくしているのです。たしかに、卵巣にも一時的に入りますが、濃度はすぐに下がり、動物実験でワクチン投与後に機能的な影響は見られていません。しかし、卵巣にたまったということだけに固執する人たちは、絶対に悪いことをするはずだと間違えてしまうのです。それだけの量を打てば、不断起こらないことは、いくらでも起こります。例えば、コーヒーも1日に数杯なら問題はありませんが、100杯も飲めば命に関わります。だからカフェインは劇薬に指定されています。これはワクチンも同じです。量を間違えたらだめです。こうした実験は、あくまで安全性や分布を調べるためなのですが、多くの誤解は、そうした知識を持たないことから生まれています。一方で、私は、全員が全てに関して深い知識を持つ必要はないと思っています。病原体の場合には、どのような経路で侵入し、どのような条件で感染が成立し、身を守るためには何が必要か、といった基本的なことだけを理解すればいいのです。そうすれば誤ったメッセージに惑わされることが少なくなります。また、疑わしい情報に触れた時は、周囲の友人などと意見を交わす場を持つことも大事でしょう。 絶対に甘く見ない――コロナ収束に向け、またサル痘などの新たな感染症に備えて、どのような心構えが必要でしょうか。 英医学誌ランセットで本年6月、新型コロナの抗体の陽性率から世界各国の感染率を推測したデータが掲載されました。これによれば、昨年11月までの段階で、世界の約半数(43.9%)の方が少なくとも1回は感染していたとのことです。また、論文発表時点で、感染による死者数は500万人程度とされてきましたが、こうした統計を踏まえると、実際には1500万人以上がコロナで亡くなっていた可能性があります。つまり、新型コロナの感染は、予想をはるかに超えて世界中に広がっているのです。そして、パンデミック(世界的大流行)はまだ続いています。日本だけが守られているという可能性は少なそうです。日本が収束しても、世界ではまだコロナとの戦いは続くでしょう。加えて、絶対に甘く見ないことが大切です。よく「コロナにかかっても、インフルエンザ程度だ」と楽観視する人がいます。確かに、若い人たちでは致死率や重症化は下がりました。しかし、一方で感染率が上がり、今までの何倍も感染者が増え、それに応じた数の重症者や死者が出ています。高齢者におけるオミクロンの致死率は今でもインフルエンザよりも高いです。また「ウイルスは弱毒化していく」ともいわれますが、こうした弱毒化は10~20年の単位でみられる現象です。むしろ、当面はウイルスが私たちの免疫をすり抜けるようになり、より厄介なものが残りつつあります。その事実のもとに、ここからはむしろ〝完全に元の世界に戻ることはない〟という認識のもと、何が起きても大丈夫な体制を構築することを考えるべきです。私たちが実行できるニューノーマル(新常態)をつくっていかなければなりません。こうした考え方は、新たなる感染症がきた時にも、とても重要だと思います。 利他的な心を持ち――ニューノーマルとは、どのようなものですか。 感染症との戦いは特別なものではなく、むしろ日常のこと、という前提で、行動していくことです。日本では今、行動制限を掛けずにオミクロンに対応しようとしています。行動制限によって感染を一時的に抑えても、解除すればすぐに再拡大します。経済も同時に動かしていく必要があることから、このやり方自体は仕方がないと思います。この点、大事なのは、感染が広がるのは個人を会してである、ということです。厳しい一律の行動制限を掛けない以上、一人一人が先ほどの掛け算のような考え方のもとで、これまで以上に感染リスクを低減する行動を心掛けることが求められています。その上で、今後は人に言われてからではなく、自らが感染対策を重ねることによって感染リスクを下げていくことが大事です。このウイルスは、私たちが予想するよりもずっと賢く、変異して、どんどん感染を広げています。その中では、特定の人だけが守られているということはありませんし、やはり、みんなで抑えないといけません。重症化しやすい高齢者や、さまざまな理由でワクチンを打てない方など、一人でも多くの人を守るためにも、一人一人が「自分さえよければいい」ということではなく、周囲を思う利他的な心をもって生きていきたいものです。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.8.5
December 24, 2023
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多様な人との関係性が人生強く豊かにするインタビュー 立命館大学 小川 さやか教授タンザニアの商人――小川教授は2001年から、タンザニアに通って商人たちの参与観察をしてこられました。タンザニアの人々は、コロナ禍にどのように向き合っているのでしょうか。 コロナ禍で起こった変化の一つが、ある種の働き方の改革だと思います。日本でも、宿泊客が激減したホテルの客室をテレワークのために貸し出すなど、これまではなかった異業種間の連携が増えました。ビジネスを柔軟に転換するよう迫られた結果、新しいネットワークへと視野を広げた。それが、事業が生き延びるために大切だという理解が広まったと思います。一方で、こうした多様なネットワークを、もともと持っていたのがタンザニアの人たちです。私は、タンザニア西北部の都市ムワンザで、マチンガ(※)と呼ばれる「零細商人」を調査対象にしてきました。ビニールシートで野菜や果物を売る人、簡素な露店で日用雑貨を販売する人、車の部品やおもちゃを携えて路地を練り歩く人など、零細な商業活動を展開する人たちです。彼らには、基本的に「その日暮らし」です。商品がたくさん売れる日もあれば、全然売れない日もある。それでも複数のビジネスを展開し、新しい仕事もすぐに始めるので、「一つ失敗しても、他の何かで食いつなぐ」「まずは試しにやってみて、ダメなら止める」といった生計多様化戦略で、毎日を切り抜けています。私たちはコロナ禍で、仕事を維持したり、働き方を変えたりすることに頭を悩ませてきたわけですが、タンザニアの人々にとってはそれが日常なのですね。だからコロナ禍のような危機にも、これまでと変わらず対応できています。(※)英語の「marching(行進する)」と「guy(男性)」を合わせた造語。もともとは「男性の行商人」を指していたが、現在は、零細商人の総称として使われる。 草の根のビジネス――毎日が〝綱渡り〟である彼らにとっては、コロナ禍でも、生き方が変わらないのですね。 そうなんです。私の友人はコロナ禍で、警備会社をつくると言いだしました。不安な社会で泥棒も増えるから、警備会社はもうかるだろう、と。それでも急に正規の会社をつくるのは難しいので、まずはインフォーマルにやるわけです。どこかの警備会社の警備会社の制服を写真で撮って、同じ色のシャツを買い、ワッペンをつければ完成です(笑い)。それを、仕立屋の友人に頼んで10着ほど用意して、コロナ禍で職にあぶれた若者たちに着せ、お店や家の留守を預かる警備員として派遣する。そしてお金をもらうという商売を、2週間ほどで始めてしまいました。いくら社会が物騒になっても、正規の警備会社と契約を結ぶ資金は、ほとんどの住民にはありません。でも考えてみれば、泥棒に、警備員が本物か偽物かの区別は尽きにくいですよね。店や家を守るためであれば、インフォーマルな警備で事足りるわけです。そうしてあっという間に草の根のビジネスを始めてしまうのが、面白いし、たくましいなあと思います。思い返せば、私がムワンザで調査していた時に、これらが流行しました。タンザニア政府の指示で、路上の総菜売りや料理店はお店を閉鎖しなければなりません。そこで彼らが何をしたかというと、それまでの〝ツケ〟を回収するんです。零細商人たちは普段から、困っている人がいればお金を貸したり、食べ物を振る舞ったりします。それを、いざ自分が非常事態に陥ったときに思い出すんですね。そして、〝私は今、ピンちなんだ〟〝助けてくれ〟と言って、ツケの回収に動いて回る。そうして手に入れたお金で、髪結やサンダル売りなど別の小商いを立ち上げ、これらが収束してお店を再開するまでの間を食いつないでいました。 「柔らかなつながり」を結び気負わず誰とでも助け合う 貯金は友人の所に――小川教授が発信してこられたマチンガの暮らしは、文化や風土が懸け離れた日本でも、大きな注目を浴びています。先行きが不安定な時代だからこそ、彼らの生き方に学ぶ人が多いのだと思います。 マチンガに、「あなたの貯金はどこにあるの」と聞くと、銀行ではなく「友人のところにある」と皆が言います。友人を助けたり、お金を貸したりしたことが、いつか自分を助けてくれる〝人生の保険〟だと捉えているんです。一方で彼らは、貸したお金は〝返ってこないこともある〟と分かっています。相手の商売が、うまくいくかどうかは不確実ですから、お金を貸すときは、ほとんど〝あげる〟感覚に近いので、いつ誰に、いくら貸したかは覚えていない。でもある日、道でばったり会うわけです。そこで、「実は今、私の方が困っていて……」と切り出すと、今度は自分が助けてもらえたりする。もちろん、偶然の出会いがなかったり、相手がまだ困窮していたりすることもありますが、そうした関係性を異なるたくさんのタイプの人と結んでいれば、どこかで誰かが花開いている可能性は高いんですね。 ――貸のある仲間を増やしていくことが、人生の保険を増やしていく、と。 そうですね。そしてお金を貸すということは、彼らにとって「時間を与える」ことなのだと思います。商売でもうけて、人生を挽回させるまでの時間とチャンスを与えているということです。付けを取り立てにいく側も同様で、今度は自分がピンチだからこそ、そうした時間やチャンスを返してほしいわけですね。「その日暮らし」の不安定な生活なのに、すぐに他者に分け与えて住まうマチンガの生き方は、人生を生き延びるチャンスを、互いに送り合っている生き方なのだと思います。こうした〝チャンスの恩〟〝チャンスの負債〟を互いに抱えているからこそ、自分が追い詰められたときも、生き延びる道が必ずあると皆が確信しています。 「ついで」の論理――そうしたマチンガの暮らしは、「共助」の役割を果たしている側面があるように感じます。 タンザニアには、住民票もなければ戸籍もありません。政府が社会保障を提供しようとしても、現実に、全ての個人に平等に行き渡らせるのは難しい。すると、公的な支援ではない草の根の助け合いが、生き抜くためにはどうしても不可欠となります。タンザニアのように、社会保障が十分に整ってない国では、社会ネットワークに依存した「共助」が、庶民の知恵から育まれていくのではないでしょうか。大事なのは「無理なく」助け合っていることです。何かを贈られたり、助けてもらったりした場合、それによって負い目を感じるのが一般的ですよね。ただタンザニアでは、負債を抱えてそれを返すといった、キャッチボール型のコミュニケーションは成り立たない。それでも負い目を感じないために、マチンガが生み出したシステムが「無理なく」「気軽な」助け合いなのだと思います。例えば、道で偶然、困っている人に出会えば助けるが、出会わなければそれっきり。食事の時間に居合わせれば、おごることもあるが、わざわざ気にかけて誘うようなことはしない。あるいは、案内してほしいという場所が目的地への通り路であれば、連れていく。このように、何かのついでにできることなら、気軽に引き受ける一方で、無理だと思う相談は軽やかに受け流してしまう。その際に題字なのは、多様な人に賭けるということ。そんな「ついで」の論理によって、助けられる側には過度な負い目が発生せず、助ける側も、即自的な返礼を気にしないでいられます。マチンガの、賢い知恵ですね。ついでの親切を提供し続けることで、誰とでも気軽につながり合っていける。だからこそピンチを切り抜けられる。そんな彼らの暮らしには、貧しくとも「ゆとり」を感じます。 社会に対する信頼――誰かが必ず助けてくれるという人への信頼が、そうしたゆとりの源ではないでしょうか。誰も置き去りにすることなく、苦しむ人に手を差し伸べる実践を、創価学会も大切にしています。 その点、タンザニアの人々は、特定の個人を信頼しているというよりも、集合体としての社会に信頼を置いています。「私があなたを助けたら、誰かが私を助けてくれる」というように。特定の一人を〝絶対に助けてくれる存在〟として頼ったら、リスクが高いですよね。そうではなく、もっといろいろな人に身を委ねてゆく「人間多様化戦略」を、彼らは採用しているんです。面白いのはマチンガが、相手に対する貸し借りを少し残そうとすることです。貸したお金の全てを取り立てようとしない。あえてすべてを生産しないことで、これまでのような多様な関係性が継続されていくからです。貸し借りの清算のために人間関係を利用するのではなく、豊かな人間関係を築くこと自体を、第一の目的にしているんですね。タンザニアでは、こうした贈与関係が草の根で展開されていて、「他者を助けることができる人は必ずいる」ことを、皆がよく分かっています。でも日本では、〝助ける側〟になることが難しい側面がありますよね。困った人に手を差し伸べることは〝お節介ではないか〟〝同情だと思われないか〟と考えてしまいがちです。だからこそ、そうした助け合いを仲介する場があると良い。その一つが宗教であると私は思います。知人や隣人に「助けて」と言えなくても、信仰でつながったコミュニティーだからこそ、欠け込めるときがあるのではないでしょうか。 弱い紐帯を保つ――つながりを断たず、いろいろな人とつながり続けるつづけることで、社会への信頼を築き、安心を心に育んでいけるのですね。タンザニアの人々の生き方に、私たちが学ぶべきことは何でしょうか。 苦手だなと思う人も含めて、普通の暮らしでは、あまりかかわらないような人とも、ほんの少しの〝貸し借り〟の関係性を、築いていけたらいいのかなと思います。近年、お歳暮やお中元、年賀状といった儀礼的な形での交流は減っていますよね。一方で、自分や親しい人への贈与は増えているといわれます。人間関係が、狭く、強固になっている時代であると思います。もちろん日常的には、気心知れた親しい人たちを、大事に思うのは当然です。でもコロナ禍で、異業種間の連携によって危機を切り抜けた人が多くいるように、突発的な事態において助けになるのは、普段は身近にいない人たちであったりします。自分とは縁遠い人であればあるほど、斬新なアイデアが得られたり、想定外の支援が得られたりするからです。その意味で、そうした「弱い紐帯」「柔らかなつながり」を、あまり重くない、気軽なかたちで、不断からと持ち続けていくことが大切ではないでしょうか。私たちの社会では、業績や能力が、均一的な物差しで測られ、同じ1時間の労働には同じ給料が支払われたりします。でもこれは、時に私たちの時間間隔とは異なります。体調が悪くて仕事が全然はかどらないときもあれば、逆に絶好調で、いつもの3倍くらいの勢いで仕事を片付けられるときもあるからです。人にはそれぞれ、谷間もあれば晴れの日もある。そういう変動を織り込んで、タンザニアの人たちは暮らしています。同じ商品であっても、谷間にいる人には安く売ったり、旨く行っている人には高く売ったりするように。もちろんこれは、インフォーマルな商売だからこそ可能なのですが、他者の必要性やリスクを敏感に察知する生き方には、学ぶ点もあると思います。タンザニアの商人は、多くの人々と緩やかにつながり、他者の多様性が生み出す「偶発的な応答」に、自分の可能性を賭けることで生きています。これは、コロナ禍のように、流動的で不確実な時代における合理的な戦略だともいえます。多様な人間関係の中で、リスクすらも背負い合いながら、他者の存在に身を委ねてみる。おおらかで、大胆なそんな生き方に、豊かさも楽しみもあることを、タンザニアの人々は教えてくれます。 おがわ・さやか 1978年、愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授を経て、現在、同研究科教授。『年を生き抜くための狡知』で2011年サントリー学芸員(社会・風俗部門)、『チョンキンマンションのボスは知っている』で第8回河合隼雄学芸員、第51回大矢壮一ノンフィクション賞を受賞。その他の著書に『「その日暮らし」の人類学』がある。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.7.16
December 7, 2023
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第13回心臓というエンジン東京大学大学院 医学系研究科 心臓外科教授 小野 稔さん 全身に休みなく血液を届け私たちを支える命の源新型コロナウイルスが流行して2年余。私の専門は心臓外科ですが、コロナ禍は少なからず心臓にも影響を及ぼしていることを感じます。一つは直接的影響で、心臓がコロナに感染し、心筋炎になりやすいということです。これは最悪の場合、命に及ぶことがありますが、欧米に比べ、日本では重症化した例は少ないようです。もう一つは、間接的影響です。コロナで重症化しやすいといわれる人、とくに糖尿病、高血圧の方は、感染しないように外出を控えるあまり、運動不足に陥ります。それが生活習慣病を悪化させ、結果として心不全や心筋梗塞のような病気につながってしまうのです。この間接的影響の方が大きいと難じます。日本人の死因のうち、心臓病などの心疾患は、がんなどの悪性疾患に次ぐ第2位ですが、その多くも運動不足などの生活習慣と深く結びついています。感染対策はしっかりとったうえで、身体を動かすことを習慣化し、運動する習慣がない方でも、若い人は1日に8000歩、足腰の悪い人でも5000歩を目標に歩いていただければと思います。 一つしかない臓器人間が生きていくうえで、どの臓器も不可欠ですが、二つある臓器の場合は、もし片方がなくなっても生きていけます。しかし、心臓は一つしかありません。心臓は、右心房、右心室、左心房、左心室という四つの部屋からできており、その一番の役割は、収縮と拡張で血液に酸素を乗せて全身に供給することでしょう。具体的には、右心室から押し出された血液が肺を通り、ここで体内から回収した二酸化炭素を捨て、酸素を取り国と、左心房へ送られ、ここから血液が押し出されて全身に酸素を送り、それぞれの臓器が出した二酸化炭素を受け取って、右心房に戻ってくるのです。雑木は、酸素なしには生きていけません。ですので、心臓の力が弱まり、全身に血液が行きわたらなくなると、酸素も減り、全身の臓器も機能しなくなってしまいます。例えば、心臓が止まると、5~10秒ほどで意識がなくなり、5~10で脳が死んでしまいます。その意味では、心臓は〝命の源〟であり、私たちの活動を支えるエンジンというべきものです。心臓の大きさは握りこぶしほどですが、私たちが寝ている時も休みなく動き、そこから1日而トンもの血液を全身に送り出しています。心臓の拍動は1分間に約60~80かい、1日に訳10万回。一生を80年と考えれば、約28億回も動き続けます。通常、人間は歩き続けると、筋肉に乳酸がたまり、いわゆる筋肉痛になってしまって動くことができなくなります。しかし、心臓を構成する心筋細胞は、筋肉痛を起こしません。それは、乳酸をもエネルギーとして使用できる特殊な能力を持っているからです。 自律神経との関係心拍をコントロールしているのは、自律神経です。自律神経は、交感神経と副交感神経という二つの柱から成り、交感神経は、人間を活動的にする働きで、心臓では拍動を早めるアクセルとして機能します。もう一方の副交感神経は、人間が休んでいる時に優位となるもので、精神的にリラックスさせ、心拍をゆっくりさせるブレーキとして作用します。このアクセルとブレーキのバランスで、各臓器や私たちの活動に必要なエネルギーを生み出しているのです。その上で、こころの健康という意味では副交感神経を優位にすることが重要です。副交感神経は血圧と心拍数を下げ、心臓への負担を減らすからです。心臓の健康は、私たちの生活習慣とも結びついています。例えば、睡眠は副交感神経を優位にしますが、その睡眠をしっかりとらないと交感神経が高ぶり、高血圧になって心臓に負担をかけてしまいます。また、食生活でも、塩分過多は血圧を上げることが分かっているので、やはり心臓に負担がかかります。もちろん、生活していくうえで、動かないというわけにはいきませんので、不断は心穏やかに、副交感神経を優位にしておきつつも、いざという時には交感神経を働かせ、パッと行動できるようしておくことが大事でしょう。 地域の強いきずなは心臓病を抑制学会活動は健康の王道 笑いと感動が大切心臓にいい生活とは、大きな変化のない穏やかな生活ですが、それは何もしないということではありません。例えば、人間関係を断って山の中にこもり、食事も質素にして暮らす。たしかに、これを続ければ長生きできるでしょう。なぜなら、生活習慣病にならない生活だからです。しかし、そうした生活は万人にできることではありません。万人にできることは、やはり人間の中で生きていくことです。そこには人間同士の葛藤やストレスがあるかもしれませんが、そうした中でも、人間は副交感神経を優位にできる力を備えています。その一つとして注目されているのは「笑い」です。実は、笑うことで脳から身体をリラックスさせるホルモンが分泌され、身体の緊張を取ってくれることが分かっています。もう一つ、「感動」も大切です。これは人の話を聞いたり、素晴らしい人に出会ったりすることで、心が動かされることです。そうすると副交感神経が働き、身体をリラックスさせてくれるホルモンが分泌されるのです。またアメリカの研究では、人間同士の強き絆が、心臓病の抑制につながっていることが明らかになりました。これは、ある町で、心臓疾患による死亡率が周囲の街と比べて半分以下だったことで注目されるようになったものです。調査をする中、その町の住民は、周囲の町の住民と比べて、飲酒や喫煙、食事、運動といった行動や健康意識は大して変わらなかったものの、「連帯感」や「助け合い」といった意識が非常に強いことが分かったのです。この結果も、日々の助け合い、関わり合いを通し、そこに暮らす人々に「笑い」と「感動」が生まれていたのだろうと考えられます。最近、日本では1人暮らしの方が増えていますが、その中で、学会員は自ら進んで地域の人々と友好を結んでいます。こうした活動は、自分も周囲も健康にしていく道だと実感します。しかし、そうした地域の絆があれば、暴飲暴食をしても、寝不足になってもいいわけではありません。あくまでも良識的な生活を心掛けることが重要です。加えて、身体を動かすことも大切です。心臓はかつて、単なる筋肉のポンプだと思われていましたが、近年では、この心臓から血管を柔らかくし、血液を流れやすくするホルモンが分泌されていることが分かりました。実は、そのホルモンを分泌する秘訣が運動なのです。血管が柔らかくなり、血液の循環が良くなれば、各臓器に血液が適切に流れ、臓器が守られることにもなります。ともあれ、学会活動には笑顔と歓喜があり、友のもとへ足を運ぶ実践もあります。皆さんは日々、健康の王道を進んでいるのだと、胸を張っていただきたいと思います。 「胸は蓮なり」心臓が元気であれば、全身の臓器も生き生きとし、私たちも活発に働くことができます。いわば、心臓は、人間の身体の「母なる大地」です。この心臓について、仏法では、椎増が二つの威に包まれた姿が、ちょうど蓮華がつぼんでいる形に似ていると説いています。そして「御義口伝」では私たちの五体に当てはめ、「胸は蓮なり」(新997・全716)と仰せです。「信像」を「蓮華」と見る。私は、ここに深い意義を感じます。それは、御書に「蓮華と申すは菓と華と同時なり」(新1913・全1580)とある通り、蓮華は、花という「原因」と、実という「結果」を同時に成長させることから、〝仏の生命を開く原因と結果も同時に具わる〟という「因果具時」の象徴とされているからです。私は、心臓は因果具時に通じる存在ではないかと考えています。というのも、心臓が休みなく働き続けることができるのは、左心室から全身に血液を送り出す大動脈から枝分かれした冠動脈を通って、心臓自身に血液が送り届けられているからです。では、その冠動脈に血液を送る出す力は、どこから生まれているかというと、それも心臓の拍動なのです。つまり、心臓は、自ら動くという「原因」によって、自らが動くための動力源という「結果」を得ており、それが同時に存在することで、働き続けることができるのです。 動いた分だけ生き生きと人生の好循環生み出す力は励まし運動に 本質に迫る思想余談ですが、冠動脈が動脈硬化を起こし、詰まりかかったり、詰まったりすること狭心症や心筋梗塞が起こります。こうした病が起きる時の症状について、みなさんの中には、胸が苦しくなって斃れるような場面を想像する方もいらっしゃるでしょう。しかし実際、動脈硬化が進んでいるのに症状がない人もいるなど、自分で判断することは、なかなか難しいのが実情です。実は心臓が悪くなった時、一番多く出るのは「息切れ」です。年のせいと思う方もいらっしゃるでしょうが、自分が同年代の方と歩いたり、階段を昇ったりという、同じような行動をした時、周囲の人に比べて息が切れやすいという方は注意が必要です。心臓は、私たちの行動を支えるエンジンですが、そのエンジンが弱っているために息切れしている可能性があるからです。また、すごい動悸がするという症状も、心臓からのサインかもしれません。ともあれ、そうした違和感があれば、すぐに受診していただくことをお勧めします。その上で、私が興味深いと思うのは、仏典でも、そうした症状について記述があることです。例えば、心臓の病に症状について、「天台小止観」では「身体が寒くなる」「口が乾く」といって事例が挙げられています。「身体が寒くなる」というのは、心不全の症状です。もともと寒がりな人は別にして、心不全が重くなると、多くの方が寒がることが分かっています。また、心臓が悪くなると、鼻でなく口で呼吸しがちになるので、「口が乾く」ということも起こります。さらに、「魔訶止観」では「顔色が青くむくむ」と記されています。実際、生まれつきの心臓病の子どもたちや、大人になって心不全が重くなると、こうした症状が出る方がいらっしゃいます。こうしたことから考えると、仏法には人間という者を深く見つめ、生命の本質に迫る思想が脈打っていると感じずにはいられません。 友情結ぶ一人に心臓は、私たちが生き生きと活動するための源ですが、その心臓は、人間同士の強いきずながあってこそ、健康に保たれます。私は、この強い絆を、いかに育めるかという点が大切であると感じます。強い絆を結ぼうとする「一人」がいなければ、育んでいくことなどできません。だからこそ、一人一人が、まさに心臓のように地域に希望を贈り続ける「一人」となっていく。それが自らの心臓を健康にし、自らがさらに生き生きと活動しるための源につながっていくと思うのです。この好循環を生み出していくのが、創価の励ましの運動であり、そうした活動によって、因果具時の法理のままに、自分自身の生命に仏界の大声明を涌現師弟蹴ると教えたのが、仏法の哲学なのではないでしょうか。日蓮大聖人は「浄きこと、蓮華にまさるべしや」(新1510・全1109)と仰せです。泥沼の中でも高潔な美しさを失わない蓮のように、現実社会の中で広布の使命に胸を張り、同志と共に動きに動いて、皆が健康で生き生きとこらせる社会を築いていきたいと決意しています。 おの・みのる 1961年生まれ。東京大学医学部を卒業。医学博士。米オハイオ州立大学心臓胸部外科臨床フェローなどを経て現職。東京大学臨床生命医工学連携研究機構教授。人工心臓などの分野で、東大病院の心臓外科を世界トップレベルに押し上げた立役者。創価学会東京副ドクター部長。副本部長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.7.8
November 25, 2023
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第20回植物の生存戦略に思う東京農業大学生命科学部教授 齊藤 宏昌さん今いる場所で大地に根を張り共に栄える道を探求 新型コロナワクチンの接種は、地域によっては、すでに3回目が始まりました。現在、国内で接種が進む主なワクチンは、mRNAワクチンと呼ばれるものです。このmRNAはウイルスの遺伝情報の一部、いわば設計図の一部を写し取ったもので、そのmRNAを脂肪の膜に包んだものが、mRNAワクチンです。私たちの細胞内では、その設計図をもとにウイルスのタンパク質が作られますが、接種するのは設計図の一部であるため、ウイルス粒子の表面にあるたんぱく質など、ウイルスタンパク質の一部しか作られません。これまでのワクチンでは、毒性を弱めた、または、なくした病原体や、病原体の一部などが使われてきましたが、こうした従来のワクチンに比べ、mRNAワクチンは、接種後、数日以内に分解され、細胞内で作られるタンパク質も接種後2週間で亡くなるといわれています。またmRNAワクチンは、喩え病原体が手元になくても、遺伝情報があれば作製可能で、ウイルスが変異しても、その変異した遺伝情報がわかれば迅速に新しいワクチンを作ることができます。科学技術が進歩し、設計図は簡単に作れるようになりましたが、実は試験管内などでタンパク質を合成することは、たった1種類であっても非常に時間と労力がかかる作業なのです。しかし、人間や植物をはじめ、ありとあらゆる細胞には、そうした複雑な作業であっても、設計図だけ提示すれば、多種多様なタンパク質を作る見事な仕組みがあります。 感染を防ぐ免疫機構なぜ、mRNAワクチンを接種し、体内でウイルスのタンパク質の一部を作らせる必要があるのか。それは、私たちの体内には、細胞内で作られたタンパク質をもとに敵か味方かを判断し、敵であれば、その働きを抑えるための物質などを作って戦闘態勢を整える免疫系があるからです。たとえ一部分であっても、この免疫系に新型コロナウイルスの特徴を覚えさせておくことで、いざ本物のウイルスが体内に侵入した際に、対抗できる備えをしておくのです。こうした病原体と戦う機能は、植物にもあります。例えば、植物は光合成を行うために、大気中の二酸化炭素を取り込んでいますが、葉っぱなどの表面には、その二酸化炭素を取り込むための入り口があります。そこから病原体が入ってしまうことがあるため、表面には病原体を感知センサーがあり、病原体が付着したことが分かると入り口を閉じるのです。このほか、センサーで感知した際に、病原体の働きを抑えたり、病原体を分解したりする物質を出し、感染から守っています。しかし、それでも病原体が侵入し、感染する場合があります。その時、感染した細胞は死に、それ以上、感染を広げないようにします。能く、葉っぱの上に小さな茶色い斑点を見ることがあるでしょう。それは細胞が死んだ結果である場合があり、こうした強力な防禦反応で病原体を斑点内部やその周辺にとどめることで、生命を守ろうとしているのです。このほか、ウイルスに特化した対策として、一度、ウイルスが侵入すると、そのウイルスが持つRNAを認識し、次に同じウイルスが入ってくると、増殖させないようにするため、そのウイルスのRNAを細かく切り刻んでしまうといった機構もあります。ただ、このように優れた植物のいくつかの免疫システムでも、それらの機能を阻害する物質を作りだし、侵入してくる病原菌やウイルスも存在します。 病原菌との攻防植物に感染しようとする病原菌やウイルスと、それを阻止しようとする植物。この攻防の中で、両者の遺伝子は変異し、植物は免疫システムを発展させ、一方の病原菌やウイルスも、そのシステムを突破する力を得てきました。これは、植物を人間に置き換えても同じで、そうした戦いの中で、人間の遺伝子は変異し、それが進化の力となったと考えられてきました。ただ、こうした捉え方は、互いの関係性を認めつつも、いわば「人間や植物側の進化」と「病原菌やウイルス側の進化」を、別々に考えるものです。しかし、近年の研究では、両者は互いの遺伝子をやりとりしながら、互いの生命を一体的に進化させてきたこと、その結果、人間や植物の進化を、むしろ細菌やウイルスが手助けしてきたことが分かってきました。例えば、「レトロウイルス」と呼ばれるウイルスには、自らの遺伝情報を、感染した細胞のDNAに埋め込む働きが備わっています。その働きと考えられているのが、人間に胎盤をもたらしたことです。もともと、人間をはじめとする哺乳類の祖先には、胎盤を形成する遺伝子はありませんでした。しかし、レトロウイルスが、私たちの祖先のDNAにウイルスの遺伝子を組み込んだことで、胎盤という安全地帯で子どもを育てるようになったのです。人間や植物の細胞に含まれる、細胞内小器官の「ミトコンドリア」も、もともとは、人間の祖先とは別に存在する細菌であるあったと考えられています。原始地球の生物は酸素を用いない生物で、ミトコンドリアになったことで、私たちは酸素を用いてエネルギーを生み出せるようになりました。また植物においては、光合成を行う細菌を細胞内に取り込んだことで、太陽エネルギーを利用して二酸化炭素と水から有機物を作り、その副産物として酸素を作り出すようになったと考えられています。まさにウイルスや細菌が存在しなければ、人間や植物の繁栄はありませんでした。細菌やウイルスが果たす役割については、まだまだ分からないことだらけですが、病気を引き起こすという悪い面だけでなく、良い方向に働くこともあるのです。 ウイルスや細菌の存在が支えた生物の多様な進化と繁栄 共生するメリットさて、植物の特徴の一つは「自らの力で動くことはできない」ことです。人間は、病原菌やウイルスが蔓延すれば、3密(密接・密集・密閉)を回避することで、そうしたものを遠ざけることができるでしょう。一方、土に根を張る植物は、近くに病原体がいても逃れることはできません。しかし、植物は動くことができない分、むしろ積極的に、良い菌類、細菌やウイルスと共生するという戦略をとってきたように感じます。例えば、大部分の作物を含む陸上植物種のおよそ90%の根に生息する菌根菌との関係です。近年の研究では、植物の側が根っこからホルモン物質を出し、菌根菌との共生を促していることが明らかになりました。菌根菌は、植物の成長に欠かせないリン酸を植物に渡し、植物は菌根菌が生きていくために不可欠な糖を与え、その関係を保っていますが、菌根菌の働きはそれだけではありません。植物自体の根だけでは栄養が不足してしまう場合にも、菌根菌が菌糸のネットワークを広げることで、土壌から栄養を得て、植物に渡しています。また、この菌糸が樹木同士をつなぎ、周囲の木々を守り合うネットワークを形成していることも分かってきました。ウイルスが植物病原菌に感染し、菌の病原性を弱めることで、植物の病気を減らした例もあります。また、いくつかの植物種では、ウイルス感染によって、乾燥や凍結といった環境への耐性を強化させていることが判明しました。このほか、植物は、ウイルスや病原菌だけでなく、害虫が来ると危険を察知した植物がシグナルを出し、ほかの植物に知らせるなど、周囲の植物同士とも協力関係を結んでいることが分かっています。陸上植物が地球に登場したのは、今から約5億年前。約700万年前に誕生した人類の祖先に比べ、はるか以前からこの地上で生き抜いてきた植物の戦略から、私たちが学べることはあるのではないでしょうか。そもそも、地球上の全ての生命は、アデニン、グアニン、シトシン、ミチンという四つの塩素の組み合わせの違いから生まれます。そう考えれば、さまざまな生命とのつながりを意識しながら、共に栄えゆく道を探っていくのが、生命本来の姿なのではないかと思うのです。一方、「自分の意思で動くことができる」人間を見た時、菌類、細菌やウイルスを過度に裂けることが原因で、ある問題が起きていることに気付きます。それは近年、日本を含む国々で増えるアレルギー疾患です。その理由の一つとして、衛生環境が良くなったこと、いわば〝ウイルスや細菌などに触れる機会が減った〟ことで、免疫機能が弱まってしまったと考えられているのです。もちろん、命に関わるような細菌が潜む可能性もあるので、除菌することのメリットもあるでしょう。しかしそれが過度になってしまえば、デメリットもあるということを踏まえつつ、科学的知見に基づきながら、地に足を付けた行動を貫いていくことが求められているのではないでしょうか。 心を結び力を合わせるここに生命本来の姿が 「自己」と「非自己」よく、免疫の働きは「自己」と「非自己」を認識し、「非自己」を排除するシステムと言われています。では、この「自己」を、免疫系は、どのように規定しているのでしょうか。実は、最近の研究で、この「自己」と「非自己」を区別する境界は、固定化されたものではなく、変化することが分かってきました。免疫系は、たえず外界を意識し、非自己を自己に組み込み、身体の調和を保っているというのです。その上で、私が興味深いのは、釈尊が「自己」について、こう述べていることです。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主人であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(『ブッダの真理のことば』中村元訳、岩波書店)ここでいう「自己」とは、利己心にとらわれた小さな自分、つまり「小我」ではなく、生命のさまざまな動きを発現させていく宇宙の根源的な力にのっとり、一切衆生の苦を我が苦とみなしゆく大きな自分、つまり「大我」を指します。そうした「大我」の生き方を現実社会で貫き、周囲とかかわり、周囲の悩みを包み込み、周囲と力を合わせて立ち上がっていくという抜苦与楽の挑戦の中で、〝自己〟は〝真の自己〟となるということを教えています。こうした捉え方は、免疫機能の働きや植物の生存戦略から見て、生命の本質を突くものではないでしょうか。 友情と信頼を広げ生命は、今いる場所で、互いに周囲と協力しながら、互いの生きる力を強めてきました。しかし、コロナ禍となって2年余り。人との交流や会話の機会が減少したことで、脳や心への影響が指摘され、世界に目を転じれば、社会の分断が深刻化しています。もちろん、新型コロナウイルスは、感染すれば重症化する可能性もありますが、避けるべきはウイルスであって、人間同士の関わりではありません。感染に関する蓄積も進み、どうすれば感染を抑えられるかということも分かってきました。それは、飛沫が飛ぶ「2メートル」という距離を意識することであり、近くで話す際には「互いにマスクをする」ということです。こうした感染対策に留意しつつ、人々の心を結んでゆくことが大切だと感じます。御書には、「法華経を信じ奉るは、根をつけたるがごとし」(新1151・全827)とあります。信心根本に友情と信頼の根を広げながら、思いを共有する方々と力を合わせ、共に栄えゆく社会を必ずや築いてまいります。 さいとう・ひろまさ 1971年生まれ。農学博士。大阪府立大学大学院農学研究科・博士後期課程単位取得満期退学。ドイツのマックス・プランク植物育種学研究所博士研究員、公益財団法人「岩手生物工学研究センター」ゲノム育種研究部主任研究員などを経て現職。日本植物病理学会会員。創価学会学術部員。副支部長(地区部長兼任)。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.7.2
November 14, 2023
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人道的競争の時代を開く「貢献的人間」の育成を!==牧口常三郎先生 生誕記念日に寄せて㊤==インタビュー 創価大学 伊藤 貴雄教授時代への警鐘――牧口先生の『人生地理学』が出版されたのは、日露戦争が勃発する4カ月前(1903年10月)のことでした。同書は地理学書という形式をとってはいますが、激動する時代状況を具体的に見据え、世界の中で日本がどうあるべきかを考察されています。人々の分断や対立など厳しい状況が続く現代の危機を前に、あらためて学ぶべき点は何でしょうか。 牧口先生が生きた時代は世界的に「帝国主義」が巻き起こった時代でした。一般的に帝国主義は、1870年代の列強諸国の植民地獲得競争から、1945年の大日本帝国の敗戦まで続いたとされています。牧口先生は1871年に生まれ、1944年に亡くなりました。つまり、その73年の生涯は帝国主義の歴史とほぼ重なっているのです。戦後、帝国主義は終わったかのように見えましたが、完全に姿を消したわけではありません。帝国主義は、「領土の膨張・拡大」や「国民の意思統一」という特徴を持っています。まさに今、私たちが著君面している状況は、帝国主義の残滓ともいえるのです。この負の遺産に再び世界が巻きこまれているといっても過言ではありません。思想家の幸徳秋水は『廿世紀之怪物 帝国主義』(1901年)の中で、帝国主義は「愛国心を縦糸に、軍国主義を横糸にして織りなした政策である」(趣意)と述べました。帝国主義は、国民の忠誠心を利用して武力増強を図るものだというのです。そして、こうした体制を下支えしていたのが当時の「教育」です。国民の意識統一を図ろうとする教育に対し、牧口先生は、一人一人が自分で物事を考え、幸せをつかむ「価値創造」の理念を掲げ、帝国主義の時流に対して異議申し立てを行ったのです。 ――19世紀後半から吹き荒れた帝国主義の嵐は、現代におっける排他的なナショナリズムや利益至上主義のグローバリズムへとつながっていくものでした。当時の教育において、帝国主義の影響はどのように現れたのでしょうか。 日本の教育が帝国主義の方向にかじを切ったのは、1890年の「教育勅語」発布からといえます。その前年の大日本帝国憲法発布によって、限定的ではありますがデモクラシーの制度的な設計が日本に入ってきました。しかし保守的な政治家たちは、革命が起きた国体が否定されることを危惧し、日本を万世一系の天皇中心の神の国とする国体思想を強めてきました。その結果、天皇と国家への「忠」(忠誠心)が教育の目的であるとうたわれ、教育勅語が生まれたのです。しかし、特定の国家を絶対的なものと位置付けることは、その国の子どもたちにほかの世界との関係性を断ち切らせることにつながります。もちろん、それは本来の意図ではなかったかもしれませんが、結果的に、子どもたちの視野を日本国内に閉じ込める風潮を生んだことは否定できません。 自他共に国が栄えるには郷土に立脚した世界認識を 教育史に残る偉業――戦線の学校教育では教育勅語の暗唱を求められ、希求の事態では「公に奉じ」るべきだと、命をなげうってでも国家への忠誠を果たすことが強いられました。牧口先生は、軍国主義への傾斜を強める教育勅語の誤りを厳しく非難されています。 教育勅語が当時どれほど絶対視されていたか、現代の私たちは想像することも難しいと思います。教育の現場では、神の教えのように、絶対に軽んじてはならない神聖なものとして徹底されていました。牧口先生は、その一番の肝である「忠誠原理」――つまり忠誠心を学ぶことが教育の目標であるという箇所の削除を求めたのです。これは帝国主義への強烈な抵抗です。牧口先生は晩年、不敬罪等の容疑で逮捕・投獄された獄中にあっても、追及を緩めてはいません。そのことは、牧口先生を逮捕した側の記録である『特高月報』にも明らかです。戦時中の日本で教育勅語を真正面から批判できた人はわずかしかいません。『特高月報』をはじめとする文書を収めた『昭和特高弾圧史』(全8巻)にも、牧口先生意外に教育勅語を批判したのは1事例にとどまり、その人も特高の尋問を受けて主張を取り下げています。それほどまでに教育勅語の権威は絶対的でした。しかし、牧口先生は最後まで批判の旗を振り続けました。これは近代教育史に残る偉業です。 ――日本が一国を挙げて帝国主義へと突き進み、教育機関が「皇国少年」「軍国少年」の育成に総動員される中、なぜ牧口先生は教育勅語の危険性を訴え続けられたのでしょうか。 牧口先生が北海道尋常師範学校で最初に学んだ教育理念は、ペスタロッチ主義などのリベラルな教育思想でした。一人一人が幸福になるために、しっかりと知性やリテラシー(情報を読み取る力)を鍛えていく。それが教育の目的だと学んでいたのです。ところが、牧口先生が教員になる頃から、教育の現場では教育勅語の奉読が義務付けられるなど、国家への帰属意識を育てることが重視されるようになりなります。それでも牧口先生は、〝一人一人の民衆が賢くなってはじめて、幸福な国家の基盤が築かれる〟との理想を諦めません。そこで牧口先生が着目したのが「郷土科」です。『教授の統合中心としての郷土科研究』(1912年)という牧口先生の著作があります。教員向けに郷土科の目的や実践方法を示したものですが、扱われているのは全ての国定教科書です。現場で使われる教科書を基にしながら、『人生地理学』で展開したような多角的な観察法、科学的な思考法を、子どもたちが会得できるための教授設計を実現しようとしたのです。日本で帝国主義的な教育が始まった時に、牧口先生は教育現場を無視したり、国定教科書を否定したりするのではなく、あくまでも、現場の中で自分が理想とする教育を作り上げるという離れ業を成し遂げたのです。牧口先生の教育哲学は、こうした、時代との厳しい緊張関係の中から生まれていきました。 身近な事柄から――郷土科という名称からは、現代でいう生活課やチリのような印象を受けますが、その基盤には「郷土を通じて世界を認識する」という眼目がありました。 身近な事柄に多角的に目を向けていくことで、世界から様々な恩恵を受けていることを認識できるという考え方です。『人生地理学』の例でいえば、赤ちゃんの肌着を見て灼熱のインドで綿花を紡ぐ人々の労苦を想像したり、乳製品を見てスイスの牧童の努力に思いを馳せたりすることです。郷土における自分の生活が世界中の人びとの恩恵を受けて成田ってことを自覚することで、「世界の共同生活舞台」に生きる一員として何に貢献できるかを考え、鼓動する「貢献的生活」が始まるということです。牧口先生は、教育勅語体制下の教育方針に抗い、世界とのネットワークを正当かつ公平に認識することを通して、帝国主義へと加速する時代の流れを巻き戻そうとしたのです。また、同じく郷土研究に力を注ぐ新渡戸稲造や柳田國男と「郷土会」に参加していたことも見逃せません。郷土会の中心者であった新渡戸は、のちに国際連盟事務次官になる、日本を代表するコスモポリタン(世界市民)の一人でした。その新渡戸が提唱したのが「地方学」です。また柳田は「郷土研究会」を開いていました。両者が中心となって郷土会が生まれ、そこに牧口先生は早い時期から参加しているのです。郷土会は日本における協働的なフィールド研究の草分けです。社会科学的な観点からも画期的なものでした。自分がいきる身近な現場を観察するために、最船体の知識人がチームワークを行ったのです。後年、新渡戸と柳田は、牧口先生の『創価教育学体系』(1930年)に序文を寄せています。混乱の時代に向き合うための展望を、牧口先生の思想に見いだしていたことを示唆するものでしょう。 競争から共同へ――『人生地理学』では「人間の三つの自覚」として、地域に根差した「郷民(郷土民)」、国家の中で社会生活を営む「国民」、世界との結びつきを意識して生きる「世界民(世界市民)」という複合的なアイデンティティーが示されています。 郷民・国民・世界市民という三つの自覚は、ともすると「同心円」の関係に思われがちですが、牧口先生によるとそうではなく、相互にオーバーラップするようなイメージになります。郷土から国家を通って世界に行くのではなく、郷民でありながら同時に国民でもあり世界民でもあるという可能性を説いているのです。観察の眼を磨いていけば、郷土に居ながらにして、世界とのつながりをダイレクトに意識できるということです。世界を抜きにして日本だけを考えることも、日本を抜きにして世界だけを考えることも、どちらも観念的です。世界と日本、両方をバランスよく見ながら、しかも観察の軸足を郷土に置いて、地に足のついた世界認識を得ることを重視しています。これは、忠誠心を植え付け、国家のために犠牲を強いる帝国主義とは対極に位置するものでした。 ――牧口先生は、他国の民衆の犠牲に植えに自国の安全と繁栄を追い求める生存競争から脱し、各国が「人道的競争」に踏みだすべきであると指摘されました。『人生地理学」では、人類は弱肉強食的な軍事的競争、経済的競争ではなく、人道的競争を目指すべきことが述べられ、人道的競争を可能にする鍵は、「他を益しつつ自己も益する方法選ぶにある。共同生活を意識的に行うことにある」と強調されています。 『人生地理学』『郷土科研究』『創価教育学体系』という著作群の根底には、人道的競争の理念が一貫してあったと思います。では、人道的競争を可能にする人間をどのように育てていくのか。その根本となる「人道」(ヒューマニティー)の意識を育むためには、郷土に立脚しながら、周囲との物質的・精神的なネットワークを理解し、日本と世界とを結んでいく人間を育てないといけないという考えがあったのではないでしょうか。〝他国の犠牲の上に自国の繁栄を築く〟という帝国主義の論理を克服するために、政治、経済、軍事といった現実世界の競争において、利己主義に陥らない人道の規範性を確立する――そのための教育を牧口先生は大事にしました。『特高月報』に収録されている尋問調書には、牧口先生が、獄中にあっても「人類行動の規範」を重視していたことが記録されています。人道的競争という視座が、牧口先生の最晩年まで思索の底流にあったことを示すものでしょう。自己の立脚地点を正当に自覚し、公平な世界認識をもって貢献的に生きる人間を育てていく。自他を共に輝かせていく重層的なアイデンティティーの広がりを掲げ、帝国主義に戦いを挑まれた牧口先生の理念と行動は、現代の危機に直面する私たちが学ぶべきものであると思います。 いとう・たかお 1973年生まれ。創価大学文学部教授・東洋哲学研究所研究員。博士(人文学)。専門は哲学・思想史。著書に『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学』など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.6.6 ==牧口常三郎先生 生誕記念日に寄せて㊦==人類の「根本病理」の克服へ「常住不変の人格」を信じ抜く 「信の確率」――インタビュー前半(6日付)では、帝国主義へと突き進む戦前の日本にあって、その思想的主柱である教育勅語を牧口先生が真っ向から批判されたこと、そして、人類が人道的競争に向かっていくために、「他を益しつつ自己も益する」「共同生活を意識的に行う」人間を育成する展望を述べていたことが紹介されました。どうした人間を育成するために、牧口先生はどう行動されたのでしょうか。 時代に抗って、一人一人の幸福を目的とする教育を追求した牧口先生が、当時の社会に見ていたのは、「人が人を信じることができない」という病理であったと思います。他者への不信が渦巻く世界にあっては、安心して共同生活を成すことはできません。そこでたどりついたのが、「信の確立」というテーマでした。晩年の著作『創価教育学体系梗概』(1935年)の中に、「信の確立」を論じた箇所があります。(「梗概」とはあらすじのこと。いか、引用は現代語訳に改めた)そこでは、「信用」といい、「信任」といい、日常生活のあらゆる面を支えているのが「信」であると述べられています。信じるということなしに、私たちの社会生活は成り立ちません。教育もそうです。牧口先生は、「信任のない教師の教育がいかに熱心であったとしても、無益であるどころか有害である」として、体罰問題を例に挙げています。そして、この問題の根源は、教師が子どもから信じられていないことではなく、むしろ教師が子どもを信じていないことにあると指摘します。すなわち、「自分が他人を信用できないのに、他人に自分を信用させようとするのは無理な注文である。こうして自他ともに互いに信じ会えなければ、赤の他人や道端の人と同様であり、共に提携し、結合できないのは当然である」と。他者を信じるから、自分も信じてもらえるのです。他者を信じたければ、自分も信じてもらえず、結局、互いに支え合うことはできません。要するに、「他者を益しつつ自己も益する」人間の育成といっても、まずは教師が子どもの可能性を信じ抜くとことから始まるということです。 共同生活の基礎――牧口先生にとって、人道的競争という大いなる理想を、力に頼らず着実に実現していくための場所が、教育現場だったわけですね。 子どもは教師に信じてもらうことで、教師を信じることができます。こうした信が基礎となって、子どもは「共同生活を意識的に行う」ようになります。現在の哲学や教育学でも「承認」というテーマが大きく注目されますが、他者から承認を受けることは、人間が成長する上で大事な出発点なのです。また牧口先生は、信の重要性を述べる一方で、信がない状況、すなわち不信が蔓延した先にある社会や未来についても論じています。そうした社会では、いつ敵対行動が生まれないとも限らないので、互いに警戒を解くことができません。「この種の人は、たえず自分が生み出す疑心暗鬼に襲われ、戦々恐々として、この世を過ごしつつあるのだ。このような種類の人々が集合して社会を組織すれば、嫉妬、軽蔑、誹謗闘争の修羅場にならざるを得ないのではないか」と、牧口先生は述べています。 ――他者への不信が渦巻けば、その先にあるのは「修羅場」。それは、どの次元においても当てはまることかもしれません。 不信がもたらすものは何か。それは、単に教育だけの問題にとどまりません。牧口先生は、「昼夜問わず生存競争に生活力の大部分を浪費して疲れ果てつつある」社会のすみずみに、不信が横たわっていると考えていました。この論文が書かれた時代背景に目を向けると、1931年に満州事変が起きて、以後、日中戦争を経て太平洋戦争に至る「十五年戦争」が始まっています。32年には5・15事件で犬養毅首相が青年将校に殺害されました。犬養は『創価教育学体系』第1巻に題字を寄せた、牧口先生の理解者の一人です。33年にプロレタリア作家の小林多喜二が、34年にはマルクス刑事学者の野呂栄太郎が特高警察の厳しい尋問の末、虐殺される事件が起きています。35年、主権は国民にあり、天皇は国家を代表する最高の期間にすぎないという「天皇機関説」を唱えた憲法学者の美濃部達吉が、賢治客の取り調べを受け、教育勅語批判を撤回させられています。このように、国内では国民の間に政治不信が蔓延するとともに、為政者が国民を信じることができず、思想や言論を統制していました。また国際的には、為政者が相手の国家を信じることができず、確たる外交関係を築くことができませんでした。 座談会を重視―—牧口先生がその晩年に、万人に仏性を見る日蓮仏法の実践に希望の光源を見いだした理由が見えてくるように思います。 牧口先生は、不信が蔓延した先に「修羅場」があると述べたあと、「それは何ゆえであるか。変転して移ろいゆく人々の表面的な姿にとらわれるだけで、その奥にある常住不変の人格を見抜くことができないからである」と指摘しています。この「常住不変の人格」という言葉は、牧口先生が傾倒したカント哲学の思想的系譜も踏まえながら、法華経の説く万人成仏思想を表現したものと考えられます。他の箇所では端的に「仏界」という言葉も使っています。注目すべきは、牧口先生がこうした自身の考えを伝える創価教育学会での活動の重点を、講演会形式から、座談会形式に移行していったことです。講演会では、演壇から聴衆へと垂直的な一方向の訴え掛けになりますが、座談会では牧口先生も含め、参加者全員が水平的な双方向の意見交換になります。これは、一人一人の「常住不変の人格」を平等に信じ抜こうとする姿勢の表れであったと思います。牧口先生は、戦時下の1943年に検挙されるまでの約2年間、240回以上も座談会を開くなど、最後まで一対一の対話を重視しました。 ――一人一人の中に信を確立することで、共存共栄の時代を築こうとされた牧口先生の思想と行動は、戸田先生、池田先生へと受け継がれました。戦後、仏法を基調とした創価学会の民衆教育運動として発展を遂げ、草の根の対話を基本としながら、世界192カ国・地域の人々に、自他供の幸福に生きる価値創造の理念を広げています。 まさに、人間に具わる「常住不変の人格」を信じ抜くという池田先生と学会員の振る舞いが、日本に、世界に、「信任」と「信頼」を獲得した証しといってよいでしょう。牧口先生が教育を徹底して見つめ洞察した「他者への不信」は、現代の政治にとっても世界にとっても無視できない根本原理であるといえます。今、ウクライナ危機を受けて、世界に「帝国主義」が復活しつつあるという指摘がなされています。相互不信が拡大し、対話が失われ、互いの「信頼」「信用」「信任」というものが、著しく損なわれました。もちろん、歴史的経緯もあっていつ買いに云えませんが、戦争は不信が一つの起因と言えます。かつての帝国主義もまた「他者への不信」という病理の表れでした。しかし他者を信じることのできない国家は、他国からも信じてもらえません。また最終的には自国民からも信頼を失います。そうした国家に恒久的な繁栄は望めません。20世紀の帝国主義がたどった運命からも、そのことは明らかです。また同時に、当事国以外の国にあっても、「信じる」ことが欠けてしまえば、同じ過ちを犯す可能性もあるわけです。そこでは、依然、帝国主義的な発想が克服されていないのです。私たち自身の中に不信感が残ってしまうならば、それは、ゆくゆくは形を変えて、次なる帝国主義を生み出す温床になりかねません。あらゆる方面での人道的競争の共同生活を実現させるために、牧口先生は、人間が人間の可能性を信じ抜くという「信の確立」を訴えているのだと考えます。この牧口先生のメッセージが、戸田先生の「地球民族主義」の理念に、そして池田先生の半世紀以上にわたる「民間外交」と「世界市民教育」の実践に継承され、万人の尊厳を守り、恒久平和を実現しゆく希望の源となって、全世界に波及しているのだと思います。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.6.7
October 21, 2023
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第12回腸がつくるネットワーク大野記念病院院長代行 中河 宏治さん 全身の臓器と密接に連携私たちの身体守る砦コロナ禍が続き、運動不足やストレス、食生活の偏りなどが原因で、便秘や下痢など、おなか回りのトラブルに悩む人が増えてきました。2021年に実施された調査では、〟おなかに不調を感じたことがある〟と答えた人は、約7割であったという結果もあります。一般に「おなか」というと、「胃腸」を思い浮かべるかもしれませんが、消化器官という意味では、その役割のほとんどを、胃ではなく、腸が担っています。もちろん、胃では、私たちが食べたものを押しつぶしたり、塩酸に浸したりすることで消化に貢献していますし、塩酸によって食べ物に付いた微生物を殺さなければ、人間の身体には、もっと多くの悪影響が出ているでしょう。しかし、私たちが食べたものを、体内に吸収できるレベルまで分解し、実際に吸収しているのは、腸です。また、栄養を取り入れる際に病原菌などが侵入しないように、腸には免疫細胞の7割が集中し、命を守る砦の役割を果たしています。その上で、「21世紀は腸の時代」といわれるほど、今世紀に入って、腸にまつわるさまざまな役割が解明され、腸が私たちの心身の健康と深く結びついていることが分かってきました。今回は、この腸の世界を見ていきましょう。 脳との相互関係「断腸の思い」「腸(はらわた)が煮え切り返る」「腸が見え透く」という慣用句に表れているように、日本では古来、腸は心や感情と結び付くものと捉えられてきました。「腸」は英語で「gut」と言いますが、複数形の「guts」になると「根性」という意味になり、「gut feeling(=腸の反応)」は「本能的反応」となるように、欧米でも〝腸には、心や感情を左右する本源的な何かがある〟と考えられてきたようです。こうした表現は、科学的に見ても、決して的外れではありません。近年、研究が進むにつれ、腸と脳が、相互に影響しているという「脳腸相関」の関係であることが分かってきたからです。脳と腸には、いくつかの共通点があります。その一つは、脳からの指令がなくても、腸は自らで判断して動く力を持つことです。それは脳に次いで、約1億個もの神経細胞が密集する器官だからかもしれません。また、腸では、さまざまな神経伝達物質を生成し、それを使って多彩な情報をやりとりしますが、腸でも脳と共通した神経伝達物質を生成し、それを使って腸の機能を支えていることが知られています。例えば、安心感や幸福感をもたらすセロトニンや、心身を興奮させるノルアドレナリン、ドーパミンなどは、腸でも生成されています。中でも、セロトニンが生成される割合は、脳では2%にすぎず9割が脳で作られています。皆さんも経験があると思いますが、強い緊張にさらされると、おなかを下してしまうことがあります。これは、脳で感じたストレス、より具体的には脳で神経伝達物質が作られたという情報が、自律神経を介して腸に伝わるからと考えられています。反対に、便秘が続くと、憂鬱な気分になることがあります。これは腸の異常が脳に伝わるからです。さらに、腸は、脳だけではなく、心臓、肺、胃など、ほかの臓器ともネットワークを作って連携していることが判明してきました。例えば、心臓は、腸の状態によって、心拍数が増減し、腸内の血流を変化させています。また深く呼吸すると、副交感神経が優位になり、腸の動きが促進されますが、これは肺が腸に影響していることを示唆しています。また便秘になると、腸内で腎臓に悪影響を及ぼす物質が生成され、腎臓病にかかりやすいことも明らかになっています。なぜ腸は、全身の器と密接なネットワークを形づくることができるのでしょうか。それは、腸が〝すべての臓器のもと〟ともいうべき存在だからです。実は、受精卵から胎児に巣立つ過程で、最初にできる器官は、脳や心臓ではなく、腸です。これは「原腸形成」と呼ばれ、多くの動物の発生段階において、初期に起こるものです。受精卵が分裂し、細胞を増殖していくためには、栄養が必要ですが、その栄養を吸収するためには、腸の存在が不可欠だからです。そして受精卵から原腸形成ができると、そこから肝臓、脾臓、膵臓、肺などの臓器、筋肉や骨、さらには脳や神経などを作る部分へと分れていきます。腸が最初にできるということは、生命の進化の歴史そのものです。単細胞生物が多細胞生物になる過程で、最初にできたのは腸、厳密にいえば口と腸、肛門がつながった〝一本の管〟でした。そして、ここから魚類や両生類、爬虫類と進化していく過程で、この一本の管が枝分かれし、よりさまざまな食べ物を消化し、吸収できるように、胃や小腸、大腸などが出現していったのです。また、その一本の管に張り巡らされた神経系が複雑化していく中で、精髄や脳が生まれました。もともと、腸から派生した臓器と考えれば、それらとネットワークを形づくっているのは、むしろ当然のことと言えるでしょう。 健康に影響を与える腸内フローラ多彩な食材をバランスよく 共生する細菌の力腸がつくるネットワークは、各臓器との間だけではありません。近年、腸内にいる細菌たちともネットワークを形づくっていることが分かってきました。腸内細菌は、いわば〝人間とは別の生き物〟ですが、その最近とも連携を取り合っているというのです。そもそも、なぜ、連携が必要なのでしょうか。それは、腸内細菌にしかできない役割があるからです。例えば、「健康を維持するためには、食物繊維を多くとることが大事」と言われますが、人間の身体には、食物繊維を分解できる力や機能はありません。その分会を担っているのは、腸内にすみ付く腸内細菌です。人間が体内で生成できる消化酵素は20種類ほどといわれますが、共生する細菌たちは、その500倍の1万種類もの消化酵素を生成すると考えられています。そうした共生する細菌たちが、私たちが食べ物を分解し、栄養素に変えてくれるおかげで、私たちは体内に取り込むことができるのです。腸には1000種類、100兆個ともいわれる腸内細菌が存在し、近の種類ごとにまとまって、腸の壁に張り付いています。この状態は、並んで咲く〝お花畑(フローラ) 〟に見えることから、「腸内フローラ」と呼ばれます。この腸内フローラが乱れると、下痢や便秘といった身体の不調となりますが、影響は、それだけではありません。一人一人の腸に、どんな種類の腸内細菌がいるかによって、大腸がんなどの腸の病気になったり、糖尿病や動脈硬化、アレルギー疾患などの原因になったりすることが分かってきました。そうしたことを踏まえ、最近では、潰瘍性大腸炎などの治療法として、正常な人が持つ腸内細菌を移植するという方法も試みられています。また、先ほど述べた「脳腸相関」には、腸内細菌も介在していることも明らかになり、近年では「脳—腸―腸内細菌相関」という新しい概念も注目されています。例えば、腸内細菌は、アミノ酸の一種である「GABA」という物質を作りますが、このGABAには、脳の興奮を抑える「抗ストレス作用」があります。腸内細菌は、そうした物質を作ることで、私たちの心の持ちようや性格にまで影響を与えていると考えられているのです。このほか、マラソン選手たちの腸内で共通して豊富に存在していた特定の腸内細菌をマウスに与えたところ、そのマウスの運動量が向上したことから、〝その腸内細菌が、人間の持久力をアップさせているのではないか〟と指摘する研究者もいます。まさに、腸内細菌の働きによって私たちは支えられ、その存在する種類によって、私たちの心身の状態は左右されるといっても過言ではありません。◆◇◆では、腸内細菌の状態を、私たちがコントロールすることはできないのでしょうか。一つ確かなことは、私たちの食べるもので、腸内にすむ細菌の種類や状態が変わるという点です。つまり、最も大事なのは、食事に気を付けることです。具体的には、野菜や海藻に含まれる食物繊維、バナナやはちみつなどに含まれるオリゴ糖、ヨーグルトやキムチ、納豆などの発酵食品を中心に、さまざまな食材をバランスよく取ることが、腸内細菌の状態を正常に保ち、多彩な腸内細菌を育てることにつながると考えられています。食事が私たちの健康と結び付いていることは、仏教でも説かれています。例えば、天台大師は「魔訶止観」で、良くない食べ物を食べると病気の原因となることから〝食べ物の性質を知る〟ことの重要性を教えました。また、温めた「蘇」を食べることには病気を治す効果がある、と記した仏典もあります。「蘇」とはミルクを発酵させたもので、現代でいうヨーグルトのようなものです。近年では、ヨーグルトを人肌に温めると、乳酸菌効果を効率よく吸収できることから、「腸活」の一つとして注目されています。仏典にも同じ教えがあることは、興味深い点ではないでしょうか。 未来の果は現在の因に自分自身の将来を開く今の決意と行動を 「胎は華なり」さて、これまで、腸は〝全ての臓器のもと〟であること。また、その腸は、全身の器官はもちろん、腸内細菌まで含めたネットワークを形成し、中でも腸内フローラの状態が心身の健康に大きな影響を与えることを述べてきました。それを踏まえて、御義口伝を読むと、絶妙な表現であると思わずにはいられません。それは、「妙法蓮華経」の五字を人間の身に配した「我らが頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり」(新997・全716)との仰せの中の、「胎は華なり」という言葉です。まず、おなかを表す「腹」ではなく、「胎」という字が使われている点です。もちろん、「胎」には「おなか」という意味もありますが、その多くが、母胎や胎児など、妊娠にまつわる字として用いられます。しかし、この「胎」は「始」に通じ、「物事のはじめ」という意味があり、「胎」を用いることで、私が述べた〝全ての臓器のもと〟という意味合いが強まるのです。そして、「華」はは、お花畑である腸内フローラを想起させ、「胎は華なり」とは、〝おなかの状態は、腸内フローラで決まる〟という意味にも取れるのです。その上で、私は、この御義口伝の仰せの直前で、「『因』とは、華なり」(同)とつづられていることにも注目しています。これは「一大事因縁」(仏がこの世に出現した根本目的)という意味を「妙法蓮華経」の五時に配したのですが、なぜ、「因」が「華」なのか。科学的に見れば、腸内フローラは私たちの心身の状態を左右する「因」となる存在は「華」となるのです。◆◇◆腸内フローラの状態は、心身の健康を支える「因」となります。しかし、その状態は、変えられないものではなく、私たちの日々の食生活で変えていけるものです。また最近の研究では、私たちが身体を動かしたり、心の持ち方を変えたりすることでも、その状態を変えていけることが分かってきました。つまり、私たちの行動を「因」とすることもできるのです。日蓮大聖人は「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」(新112・全231)と記されています。今の決意と行動が、将来、自分たちが住む場所をも変えていく「因」として生けると教えられています。宇宙と生命を調和へと導く妙法に巡り合えた喜びへと導く妙法に巡り合えた喜びを胸に、あふれる〝ガッツ〟0で対話の花を咲かせ、「健康の世紀」を地域と社会に切り開いてまいります。 なかがわ・ひろじ 1955年生まれ。大阪市立大学医学部を卒業。医学博士。日本消化器外科学会認定医。92年から1年間、オーストラリアのシドニー大学に留学し、肝移植ユニットで脳死肝移植の臨床手術に従事。大阪市立大学医学部臨床教授などを経て、大野記念病院院長代行(副院長、救急センター長兼任)。創価学会関西ドクター部長、総大阪ドクター部長。副区長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2022.4.29
September 3, 2023
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第19回生命の持つ底力中部大学名誉教授 大塚 健三さん 心身のストレスに負けない源は私たちの身体の中にあるコロナ禍の中、マスク着用や思うように人に会えないなど、さまざまな制約が続いています。昨年の調査では、感染症が流行してから「生活にストレスを感じるようになった」という方は、実に80%に上ることが明らかになりました。やはり、自粛生活による影響は大きいのでしょう。ストレスというと、世間的にはネガティブなイメージに捉えられます。ストレスを避けよう、ストレスのない人生を生きよう……。そう考える人もいるかもしれませんが、ストレスをネガティブに受け止める人は、心身に悪影響を及ぼす恐れがあります。例えば、成人を対象にしたアメリカの調査では、強度のストレスを感じている人のうち、「ストレスが身体に悪い」と思う人は、そうでない人に比べて死亡リスクが43%も上昇することが分かりました。逆にストレスや緊張を強いられることが多くても、勤勉に向上心を持って努力している人は、長寿傾向にあるという研究成果もあります。そもそも、ストレスと無縁な人はいません。たとえ安定した暮らしをしていても、明日には自然災害に巻きこまれてしまう可能性だってありますし、人間関係がうまくいかなくなる場合もあります。では、私たちは、これからを生き抜く上で、どうすれば、障害に遭っても負けず、むしろストレスを前向きにとらえていけるのでしょうか。私は長年、細胞生物学やストレス生物学の研究に取り組み、生物がストレスにどう立ち向かっているのかを探ってきました。その中で実感するのは、「ストレスに打ち勝つ力は私たちの生命に備わっており、その力を引き出す一番の方法が学会活動にある」ということです。今回はその理由について述べたいと思います。 生物の進化の歴史そもそも、生命はストレスの充満する中で進化してきました。ここでいうストレスは、恐怖や不安といった精神的ストレスではありません。生物学でいうストレスとは高熱、放射線、紫外線といった物理的ストレス、活性酸素といった科学的ストレス、そしてウイルスや細菌などの病原体によって引き起こされる生物的ストレスを指します。生物が誕生したのは、約38億年前と考えられています。当時の地球は火山活動が激しく、有毒ガスにあふれ、紫外線から生命を守るオゾン層もありませんでした。生存を脅かすストレスにさらされ続ける中、時には大量絶滅という事態も起こりましたが、それでも生き延びた生物が個体数を増やすという歴史を繰り返しながら、さまざまな物理的・科学的ストレスに立ち向かう仕組みを備えてきました。例えば、人間においていえば、紫外線は細胞を痛め、シミやシワの原因となります。しかし、その紫外線を使って、皮膚では生命の維持に欠かせないビタミンDを合成できるようになりました。また、生物的ストレスに立ち向かう仕組みも獲得してきました。その一つは、私たちの体内を守る免疫系です。免疫細胞には、病原体を食べてしまうものや、病原体の特徴を覚えるのも、その特徴に合わせて病原体の働きを抑える抗体を産生するものがいますが、その中には、これまで人類を苦しめてきた病原体はもちろん、まだこの地球上で見つかっていない病原体に対抗できるものまであります。ワクチンは、ある特定の病原体に対抗する免疫細胞を意図的に活性化させ、万が一、その病原体が体内に侵入しても抑え込めるようにするものですが、今回の新型コロナワクチンが劇的な効果をもたらしているのは、私たちの中に、あらゆる事態に対処できる免疫系という機能がもともと備わっているからです。私たちの身体は37兆個ともいう膨大な細胞で構成されていますが、ストレスに立ち向かう力は、その一つ一つの細胞に備わっています。通常、人間の体温は36℃前後に保たれており、そこから5~10℃ほど高い湿度に長時間置かれると、多くの細胞が死滅してしまうことが分かっています。こう言うと、細胞は弱いと思うかもしれませんが、そうではありません。いったんは死なない程度の時間、例えば15分くらいの間、高い温度というストレス条件下に置き、そこから元の温度に戻して、そのストレスから回復させた後、再び高い温度下に置くと、長時間置いても死なないようになるのです。これがストレス耐性です。理由はそれまで眠っていた遺伝子が働くことで、不断では合成されないタンパク質が生成され、細胞をダメージから守り、細胞の傷んだ部分を修復するからです。このたんぱく質は「ヒートショックプロテイン(HSP) 」と呼ばれ、HSPが増えると細胞が熱に強くなるのです。HSPは、大腸菌から人間に至るまで、ほとんどの生物が作り出せるものです。その後の研究で、HSPには100以上の種類があり、熱だけでなく、貴金属や活性酸素、ウイルス感染など、さまざまなストレスに応じて生成されることが解明されました。また近年、先進的ストレスを与えることでもHSPが増えることが報告されています。HSPが生成された分、細胞は強くなり、その後に遭遇する様々なストレスに打ち勝つことができるようになります。私は、このHSP発言に、ストレスに立ち向かうヒントがあると思うのです。 細胞一つ一つを強くする体内の仕組みその発現には「鍛錬の持続」が必要 ◆◇◆ ここで、HSPは、どのような条件で増やすことができるのかを紹介します。まず大切なのは、いきなり強いストレスを翔るのではなく、最初は耐えられるくらいのストレスから始め、徐々に負荷を上げていくことです。強い負荷から始めると、細胞はHSPが発現する前に死滅してしまうからです。また先ほど、温度とHSP生成の関係を述べましたが、HSPは細胞をいったん高い温度下に置き、そこから元の温度に戻した〝ストレス開発時〟に発現します。だからこそ、ストレスから回復させる時間を挟むことが大切です。その一方、このHSPは、ストレス状態から解放されれば、3~4日で細胞から無くなり、細胞のストレス耐性が失われてしまうことも分かっているので、ストレスから回復させるといっても、時間を空けすぎてはいけません。これらを〝私たち自身を鍛える〟という観点で考えれば、まず大事なのは「自分自身の状態を見極める目を持つ」ことです。勉強や運動などでも言えますが、いきなり高い負荷をかけると、集中力や体力が続きません。しかし、負荷が弱すぎても訓練にはなりません。そのバランスを見極め、〝ちょっと大変だな〟と思うくらいの適度な負荷をかけることが大切だということです。加えて、「負荷を自らに課し続ける忍耐」や、そこに安住せず、徐々に高い負荷を設定し、「自分自身を高める向上心」も不可欠でしょう。まさに「月々日々につより給え」(新1620・全1190)ということです。一方、そうした鍛錬の持続するためにも、「心を落ち着かせ、冷静になる時間を持つ」ことが必要です。こうした心身の鍛えが、一個一個の細胞レベルで見れば、ストレスに打ち勝つ力を伸ばし、ストレスからのレジリエンス(回復力)の強化につながっていくのです。 「月々日々に」の学会活動こそ強靭な自己を築く最高の道 「六波羅蜜」の実践さて仏教では、ストレスに立ち向かうという点を、どう捉えているのでしょうか。仏教では、この世を「堪忍世界」(新1073・全771)、つまり、あらゆる苦悩を〝耐え忍ばねばならない世界〟と説いていますが、そうしたストレスをかえって自己の成長の糧にし、希望と喜びに変えていくことができると教えています。その上で私は、この娑婆世界で大乗の菩薩が実践し獲得すべき六つの徳目である「六波羅蜜」に注目したいと思います。第一は「布施」。これは財物を与えたり、法を説き聞かせたりすることですが、現代的に言えば、「他者、特に弱い存在への扶助」ともいえましょう。第二は「持戒」で、戒律をきちんと守ることです。これは「自律、自己抑制」と言うことができるでしょう。第三は「忍辱」で、「苦難に対する忍耐」と考えられます。第四は「精進」で、「向上へのたゆみなき努力」です。第五は「禅定」で、心を定めて真理を追究すること。これは「精神の集中と安定」をはかるということです。第六は「智慧」で、誤った思想、見識を取り払って真実を正しく見極める智慧を得ること。いわば、「事態への賢明な判断と対処」といえるでしょう。その上で、この二つ目から五つ目で挙げた「自己抑制」「苦難に対する忍耐」「向上へのたゆみない努力」「精神の集中と安定」と、HSPを発現させる条件として私が取り上げた「自分自身の状態を見極める目を持つ」「負荷を自らに課し続ける忍耐」「自分自身を高めていく向上心」「心を落ち着かせ、冷静になる時間を持つ」という点は、見事に符合するのではないでしょうか。では、六波羅蜜の中で残った、「布施」と「智慧」についてはどうでしょうか。実は、細胞がHSPを発現する状況をつぶさに観察すると、「他者への扶助」ということを感じ取れる部分があります。これはモデル生物のショウジョウバエを使った実験ですが、ある細胞に軽いストレスをかけると、HSPが生成された細胞からシグナルが出て、別の細胞でもHSPの発現が誘導されることが分かってきました。残念ながら、このシグナルがどういうものかは、まだ突き止められていませんが、一つ一つの細胞にも周囲を守っていく働きが備わっているということは言えるのかもしれません。また、「事態への賢明な判断と対処」という点でも、一つ一つの細胞には、迫りくるストレスに応じ、さまざまなHSPを生みだして対処する能が備わっていると考えれば、生命には智慧を発現させる環境が整っていると捉えることもできるでしょう。まさに六波羅蜜は、細胞が持つ力をあらゆる側面から増強し、ストレスに立ち向かう力を強めていく実践であると感じずにはいられません。 全てを含む修行法その上で、日蓮大聖人は「いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜は自然に在前す」との経文を引き、妙法を持つ実践には六波羅蜜で得られるものが全て含まれていると教えられています(新343・全401、趣意)。まさしく妙法を受持し弘通している私たちの学会活動には、周囲の人々を思い、周囲に尽くす「布施」の要素があります。広宣流布という大願に向かって自らを鍛え、高めていく「持戒」と「精進」があります。いかなる困難にも怯まない「忍辱」、日々の勤行・唱題の中で自らを見つめる「禅定」があり、同志と共に祈り、切磋琢磨し合う中で生まれる「智慧」があります。また、見方を変えれば、相手の苦悩をわが苦悩として捉え、徹底して寄り添い、励ましを送る学会員の行動は、いわば、相手のストレスさえも自らのストレスとして受け止める作業をと言えるでしょう。そうした学会員の生き方こそ、いかなるストレスにも負けない強靭な自己を築く最高の道であると確信しますし、そうした日々の鍛えが自分自身の成長につながっていると実感するからこそ、ストレスを前向きに捕らえるようになるのではないでしょうか。◆◇◆時代は混沌としており、暗いニュースに心を痛める人もいるでしょう。しかし、そうした中で感じるストレスも、自らの前身の誓いに変えていくのが私たちの信仰です。そして、どこまでも自己を磨きながら、周囲の友と心を結び、一人一人が社会を守る力となっていくことが大切であると思います。私たちの細胞一つ一つには、さまざまなストレス環境に置かれても巧みに生き抜こうとする底力があります。その力を学会活動で育みながら、同志と共に世界広布という夢に向かって進んでいきたいと決意しています。【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.4.20
August 27, 2023
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全ての子どもの未来を守る国連児童基金(ユニセフ) ロベルト・べネス 東京事務所代表 ――ウクライナの子どもの人口は750万人とされますが、そのうち200万人が国外に避難し、250万人が国内で家を離れて避難することを余儀なくされています。(3月30日時点)。ユニセフではどのような支援を行っているのでしょうか。 ユニセフは今回の危機が起こる前からウクライナで活動を行っています。3月時点で同国には訳140人の職員に加えて他国からの応援のスタッフがおり事業所を首都のキーウ(キエフ)から西部のリヴィウに移して支援を続けています。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や市民団体などと協力し、緊急支援として医薬品、医療機器、子ども用冬服、衛生用キットなどの物資を届けています。これらの活動には、多くの支援が必要です。ドナー(寄付者)の皆さま、特に、ウクライナや周辺国の子どもと女性の命を守るための活動を拡大するために、世界的なリーダーシップの模範を示し、ユニセフをご支援くださった日本政府に心より御礼申し上げます。皆さまのご支援に、私個人としても、とても感謝しています。ウクライナ危機を受けて、ユニセフはあらゆる分野で人道支援を実施してきました。子どもや妊婦を支援するための病院や診療所への医療機器や物資の提供、必要不可欠な栄養物資の調達、新型コロナのワクチン接種の促進、暴力行為によってトラウマ(心的外傷)を負った子供たちの社会心理的支援、安全な飲料水や衛星キットの配布、保険ケア機関や学校での清潔な水と衛生施設の確保などです。さらに、移動教育センターを100カ所設立し、故郷を追われた子どもたちが教育を受け続けられるように支援しています。また、26万5000世帯のぜい弱な家族を対象に現金給付支援も行います。 ――子どもたちのケアに当たる上で、何が求められているのでしょうか。 子どもたちの中には、親を失ったり、避難の途上で離れ離れになったりした子がいます。戦闘の悲惨な現場を目の当たりにした子どもも数多くいるのです。そうした、つらく悲しい体験によるトラウマへの対応など、心理的なケアが喫緊の課題です。同時に、遊びや教育の機会を提供し、子どもたちの周りに〝日常〟を少しでも確保していく必要があります。私たちはUNHCRや周辺国の政府などと連携し、「ブルードット」など呼ばれる子どもたちと家族にとっても安全な場所を、周辺国の国境付近に設置しています。ここでは、子どもが安心して休み、遊ぶことができるほか、専門家による心理的ケアや法的な支援・情報の提供や、同伴者のいない子どもや親と離れ離れになった子どもを特定し、保護できるように努めています。すでに32カ国で展開しており、今後、規範を拡大していく予定です。 危機の克服には長い時間が必要草の根の支援が大きな力 家族の探索も――ウクライナ国内には、避難できずにいる子どもも多くいると報じられています。 その多くが、障がいのある子どもや、さまざまな事情で親と離れて暮らしていたり、児童養護施設にいたりした子どもたちです。ユニセフでは子どもたちに聞き取りを行い、家族の探求、時には一緒に避難してくれる身内に引き合わせる支援をしています。一方で、このような複雑な緊急時には、子どもたちが人身売買や児童労働、性的搾取などに遭遇する危険性が非常に高まります。ユニセフは、最優先課題の一つとして注意を払い、子どもたちの保護に努めています。 ――教育機会の喪失による影響も大きいと思います。 今の学年で学ぶべき内容を学ばなければ、取り返すことが困難になる場合もあり、教員の方々も懸念しています。ウクライナ国内では現在までに13の地域でオンラインを活用した遠隔教育が再開しており、ユニセフとしても約1万8000人が避難しているハリコフ市内の地下鉄駅に、アートセラピー(芸術療法)や遊び、読み聞かせ、学習、情緒的支援のための学習教材を備えた「子どもにやさしい空間」を設置。未就学児童や子どもたちに学習支援や心のケア支援を提供しています。 ――事態の終息が強く望まれるとともに、子どもたちがその後、どのような暮らしを送ることができるかが大きな課題です。 国外に避難した子どもたちの中には、親を失った子どももいれば、親が他国にとどまる決断をする家庭もあるでしょう。日本の皆さまからのご支援が示してくれたように、困難な状況に置かれた子どもたちと家族に最もよい選択肢を提供するためには、国際社会の協力が不可欠です。暴力を受けたりトラウマを負ったりした子どもたちにとって、この危機を乗り越えるには長い時間がかかるでしょう。私は2004年のインドネシアのアチェ州で復興支援に従事しましたが、この災害によって子どもたちが心に負った傷を乗り越えるには何年もの時間を要しました。その意味で、子どもたちに寄り添い、中長期に支援を続けていくことが大切であると思います。 青年たちの連帯――私たち一人一人には、どういった貢献ができるでしょうか。 創価学会の皆さんのように、ユニセフの活動を支援してくださることは大きな力になります。貴会が日頃から草の根のレベルで発信されているメッセージこそ、平和への貢献です。市民といっても、さまざまな職業、能力を持った方々がいます。一人一人が自分にできる支援をすることが大きな力になります。私たちユニセフはFBO(信仰を基盤とした団体)とも長い協力の歴史がありますが、平和や対話の文化を築くことによって国際機関や行政の支援を補完する力がFBOにはあります。何より貴会には素晴らしい青年たちの連帯があります。そうした若い人たちとも力を合わせながら、共に世界平和への連帯を広げていきたいと思っています。 Roberto Benes インドネシアやメキシコ事務所、中東・北アフリカ地域事務所での勤務を経て、モンゴル事務所とアルゼンチン事務所の代表を歴任。ユニセフがリードする若者のためのパートナーシップ「ジェネレーション・アンリミテッド(無限の可能性を秘めた世代)」のディレクターを務めた後、2021年4月より現職。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.4.13
August 17, 2023
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世界の難民は8400万人ウクライナの人道活動を打開への糸口に インタビュー 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) カレン・ファルカス駐日代表 多岐にわたる援助――UNHCRは1994年からウクライナで活動されています。情勢の深刻化を受けて、どのような取り組みをされていますか。 現在ウクライナ国内では116人の職員が支援活動に従事しており、周辺国の事務所と連携しながら対応に当たっています。国外へ避難した人が360万人を超える一方、さまざまな理由から国内にとどまり避難している人が650万人おり、1200万人が支援を必要とする状況になると推定されています。UNHCRではウクライ国内と周辺国で一時的な避難者の受け入れ場所を設置し、毛布や寝袋、防水シート、食料など、命を守るための支援物資を提供しているほか、トラウマ(心的外傷)を抱えた人へのカウンセリングや国際的な保護を求める人への法的な支援相談等も実施しています。また、避難してきた人の身元や、各人がどこに避難していきたいかを把握することも私たちの重要な活動の一つです。家族がバラバラに避難している事例も少なくありませんので、各受け入れ場所で身元を確認・照合することで家族の再会を後押ししています。国外を目指す人が多い場合には事前に周辺国の事務所などと連携し、受け入れに向けた備えを呼びかけることもしています。 ――物資に加えて、金銭的な支援も開始されるとのことですね。 従来は紛争等で大量の避難者が生まれた場合、いわゆる〝”難民キャンプが設けられ、そこに各国政府や諸団体等から寄付を活用して物資を届けることが一般的でした。しかし近年、都市部へ避難する人が増加し、必ずしもキャンプという形態をとらなくなっており、支援の在り方も変化しています。避難者が置かれている状況はさまざまで、避難先で親類と暮らしているため生活費はかからないが教育費は不要だが住む場所がなく、住居費が必要になるという人もいる。それぞれ必要とするものは異なっています。もう一つの理由は、多くの避難者が今まさに〝避難している最中である〟ということです。武力衝突が起きている地域から一刻も早く避難しようという時に、自力で移動しなければならないのに毛布や容器などを持ち運ぶことは大変な負担になります。その点、金銭的な支援は、避難者が必要なものを自ら〝選択する〟ことを可能にし、自立できるという点で「尊厳」を取り戻すことにもつながるのです。 国際社会の継続的な支援を教育や言語、健康、就労など幅広く 子どもを守る――ウクライナから避難している人の約9割は女性と子ども、高齢者です。 今回の人道危機で、多くの人が避難者に寄り添い、親切心をもって支援に応じてくださっています。しかし残念ながら、不安定な状況を利用しようとする人も確かに存在しています。私たちは両方の人間がいることに自覚的でなければなりません。避難している人々は土地勘もなく、国境を越えれば言葉がわからないことも多くあります。その状況を利用して、手助けを装った誘拐や人身売買、性的搾取が発生することも少なくありません。とりわけ、避難者のなかには身寄りのない子どもが多くいます。さまざまな理由で、どうしても自分は逃げられないけれども、せめて子どもだけは安全な場所にという思いで、親が避難させているのです。そうした子どもたちが被害に遭わないよう、UNHCRとしても避難者の特定と安全の確保に全力を挙げるとともに、周辺国の政府に対して安全な場所の提供や避難者の保護を働き掛けています。 ――創価学会としても、先日、人道支援の一環としてUNHCRに寄付を行いました。日本各地の市町村などもウクライナからの避難者の受け入れを検討していると報じられています。 最も困難なときにこれまでと変わらず手を差し伸べてくださった創価学会の皆さまに、改めて心から感謝申し上げます。これまで申し上げたような支援を続けることは、幅広い方々からの支えなしには不可能です。政府をはじめ市町村や企業、団体との日本で支援の輪が広がっていることは大変に心強いことであり、連帯が生まれていることに希望を感じます。残念ながらウクライナの避難者がすぐに元の生活に戻ることは困難な状況にあります。その意味で、現在のような緊急支援のみならず、避難者たちが日常生活を取り戻すことができるよう、教育や言語、健康、就労などの面でも国際社会の幅広い支援が続くよう願っています。 すべての主体に役割が――私たちは難民問題にどのように向かい合っていけばよいでしょうか。 紛争等で避難を余儀なくされた人は近年、増加する一方で、過去10年で倍となり、昨年6月時点で8400万人を超えてしまいました。難民として生まれた子どもは過去3年間で100万人に上ります。そうした背景を受けて2018年に国連で採択された「難民に関するグローバル・コンパクト」は、難民問題は特定の地域や政府、国連や政府、国連問題だけでなく、地方自治体や宗教団体を含む市民社会、メディアなど、あらゆる主体にそれぞれの役割があるとうたっています。一例を挙げれば、創価大学がシリアを含めた難民の学生を受け入れてくださっていることなどは、大変にありがたい取り組みです。今、難民・避難民が置かれる状況に多くの人が思いを巡らせ、子どものために家を離れ、生活を追われることがどういうことかを身近に感じ、協力しようとしてくださっています。難民問題について身近な人と話したり、日本でも難民が生活していることを学んだりすることを通して、自分にできる行動を起こす輪が広がることを期待したい。今回の危機が、世界の難民問題を打開する萌芽ともなることを願っています。 Karen Madeleine Farkas オーストラリア国籍。1982年からUNHCR勤務。スイス本部では監察官、人事管理局長、財務官/財務・総務局長などを歴任。コンゴ民主共和国、イラク、北マケドニア共和国、南アフリカ共和国等で、緊急対応などを担当し、2020年から現職。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.25
July 28, 2023
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SDGsは「未来のかたち」コロナ後の社会の道しるべインタビュー 慶應義塾大学大学院 蟹江憲史教授 日本の達成度は?――教授は『SDGs』の仮名で、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)からの「差異出発」に必要なのは、「SDGsの道しるべである」と述べていらす。 パンデミックによって、仕事が続けられない、学校が休校になる、流通が滞るなど、社会のあらゆる側面が抑制され、ストップがかかりました。「持続名能」とは、簡単に言えば、「止まらないで続けられる」ということです。パンデミックでさまざまなことがストップしてしまったこと自体、現代社会が持続可能ではなかった一つの証左といえます。いわばSDGsとは、〝止まらないで続けられるのはどういう状態か〟という逆算から掲げられた目標の集まりです。(17の目標と169のターゲット)。止めてしまうリスクがあるから、それを回避するための目標を設定する。例えば、気候変動や生物多様性の破壊など、そのまま放置しておくと、地球環境や国際社会が「続いていく」のが困難になる問題が山積しています。そうした問題に対処する際になすべきこと、達成すべき指標が書かれている。つまり「道しるべ」が記されているのがSDGsだといえます。パンデミックは、弱い立場に置かれた人がより大きな影響を受けるという、現代社会の脆弱性を改めて浮き彫りにしました。コロナ禍の先の世界に必要なのは、大きなダメージを受けた人を優先しながら経済の再生を図り、環境と共生も実現していく、持続名能な成長戦略です。SDGsは、そのためにやるべきことの〝チェックリスト〟であるともいえます。 ――SDGsの中で、日本が得に取り組むべき目標は何でしょうか。 ドイツのベルテルスマン財団と、世界的な研究機関のネットワークである「持続可能な開発ソリューションネットワーク(SDSN)」が発表している『持続可能な開発報告書』の中に、各国のSDGsの進捗状況を測る「SDGsインデックスとダッシュボード」があります(SDSN会長はコロンビア大学のジェフリー・サックス教授で蟹江教授が幹事としてSDSNジャパンを設立)。日本の達成度は79.85点で全体として18位(165カ国中)。特に課題が残るのが、目標5「ジェンダー平等を実現しよう」や目標13「気候変動に具体的な対策を」などです。つまり日本が遅れているのは、社会と環境の持続可能性です。ジェンダー平等や格差の問題に取り組むことによって、地域の課題解決にもつなげていけば、日本の表かは格段に上がるのではないでしょうか。 持続可能性への挑戦を「自分ごと」に「当たり前」を疑うことが始めの一歩 基本理念の背景――教授は、ジェンダー平等を実現することが、教育の平等や人間らしい仕事の実現など、他の目標の実現につながると指摘しています。 ジェンダー平等については、日本は非常に遅れていて、世界中でも下位のレベルですよね。例えば、地域の審議会などでも男性が多い。会長が男性だったら、少なくとも副会長は女性にすべきだと言うと、はじめて「確かにそうですね」となる。これが日本の現状だと考える。ジェンダー平等は、他の問題解決にもつながる軸となる課題です。例えば、夫婦が平等に仕事と育児ができるように、テレワーク(在宅勤務)を導入すれば、目標8「働きがいも 経済成長も」の達成につながる。こうした積み重ねが、社会の在り方を変えていきます。ジェンダー平等がほかの課題を横断的に解決していくように、一つの目標に取り組むことが他にも波及していく点が、SDGsの特徴であると考えます。 ――SDGsを掲げた国連決議「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の前文には、「我々はこの共同の旅路に乗り出すに当たり、だれ一人取り残さないことを誓う」とあります。SDGsはなぜ、「誰も置き去りにしない」ことに力点を置いているのでしょうか。 取り残される人がいてしまっては、その人にとって、今の世界は続かない方がいいことになります。自分が置き去りにされる世界が続いた方がいいと思う人はいないでしょうから、取り残される人がいる限り、決して持続可能とはいえない。ゆえに、持続可能な世界を実現するためには、だれも置き去りにしないことが重要な条件になる。シンプルかもしれませんが、そうした理念がSDGsの根底にあるように思います。SDGsにはそもそも、非常にシンプルなことしか書かれていません。だれもが「これは大事だ」と納得できる、小学生が学校で習うようなことばかりです。単純なだけに、それを実現できていない現実が、現代社会のいびつさを物語っています。実現できない理由の一つが、ここまで拡大した格差の問題です。一握りの大富豪が、全人類の大部分所有している現状はどう考えてもおかしい。それと向き合って解決しらければならないという注意喚起が、「誰も置き去りにしない」というSDGsの基本概念に込められているのでしょう。SDGsとは要するに、経済・社会・環境を調和させた、「資源の再分配」への挑戦です。地涌な資本主義が主流の現代社会にあって、193カ国もの国連の全加盟国がよく合意できたなと、今でも驚いています。目指すべき「未来の世界のかたち」を示したSDGsは、それだけで価値あるものですし、今の世界の在り方は、地球環境も国際社会も「止まらないで続けていく」のが困難になっている危機的状況の裏返しともいえます。 ――教授は、SDGs達成のために、「型にはめるのではなく、『自分なり』の個性を生かした行動をとること」が重要だと提唱しています。普段の生活で実践していくためのアドバイスがあれば教えてください。 他人に言われて行動するのではなく、「こういう方法があるんだ」と自分で発見していくことが大切ではないでしょうか。「他人ごと」から「自分ごと」にするためには、自分に関わること、自分が興味のあることから始めるのをお勧めします。私の場合は、家を建てる際に、環境に優しい「SDGハウス」にしようと決めたことで、17の目標がより具体的に、もっと身近に感じられるようになりました。持続可能な素材をあえて使うなど、コストをかければ環境を守ることはさまざまですが、経済的なバランスを考えないといけない。自分の財布に関わることですから、SDGsが一気に「自分ごと」になりました。自身の住居にSDGsを取り入れるのは、当初は考えてもいませんでした。ですが友人からヒントを得て、何もせず出来上がった住まいに入居するという「当たり前」のことを、ちょっと立ち止まって考えることができました。「当たり前」を疑ってみる、というのが重要なポイントだと考えます。例えば、外出中に喉が渇いたら、ペットボトルに入った飲み物を買うのが普通ですが、一度立ち止まって、「あれ、これ捨てたら、どうなるのかな?」と、「当たり前」を疑ってみる。するとやはり米ボトルを持ち歩くほうが環境に優しいし、経済的でもあることに気付きます。そして、「ペットボトルは使わないようにしよう」と「自分ごと」にすることが、最初のステップです。今の若い人たちは、SNSを使って、自身の取り組みを広く発信することに長けていますから、自分の行動からさらに共感の輪を広げていくこともできます。この点では、学生たちに、逆に教えられることばかりです。 信仰との親和性――現在の10代から20代の若者は、他の世代に比べて、SDGsに対する意識が高いといわれます。経団連が「企業行動憲章」を改定してSDGs達成への行動を呼びかけるなど、社会全体の雰囲気が変わっていることにも起因すると考えられますが、若者たちの意識の高さの理由はどこにあるとお考えですか。 学生たちと関わる中で実感するのは、彼ら、彼女らが育ってきた時代と環境が影響してきた時代と環境が影響しているのではないかということです。例えば21歳の人は、生まれた直後に9.11米同時多発テロ事件があって、世界が「テロとの戦い」の時代に入り、その後にリーマンショックによる金融危機で、経済が低迷する、そのわずか3年後には、東日本大震災が起こりました。やはりこの頃から、〝社会のためになることが、自分にとっても大事〟という考え方が広がってきたように感じます。そして、ここにきてコロナ禍です。今はウクライナでの戦火も目の当たりにしています。こうしためまぐるしい社会の変化の中で育った若者たちにとっても、もはや〝平常時〟は存在しないといえます。〝平常時〟がないからこそ、「社会のために」という感覚がないと。「自分がやりたいこと」もできない。こうした若者の意識が、SDGsへの関心の高まりにつながっているのではないでしょうか。 ――池田SGI会長は、SGIが国連経済社会理事会の協議資格を持つNGO(非政府組織)となった1983年から毎年、平和提言を発表し、今年で40回目を数えるに至りました。本年の提言では、SDGsの〝誰も置き去りにしない〟との理念に、「に名で〝生きる喜び〟を分かち合える社会」の建設というビジョンを重ね合わせ肉付けする重要性を訴えました。SDGs達成に向け、FBO(信仰を基盤とする団体)の役割をどうお考えですか。 日本ではあまり語られていませんが、世界では「持続可能性」と「信仰」には親和性があると捉えられています。持続可能な社会を目指して行動を起こしていくには、それを「自分ごと」にしていくことが肝要であり、その一番の言動力になるのが信仰だと考えられているからです。「だれ一人取り残されない」という理念を肉付けするためにも、今後、信仰が果たす役割がもっと注目されていいのではないかと考えます。価値観の変革が、今ほど求められている時はありません。SDGsが策定される際に、さまざまな議論がなされる中で、今までは大量生産・大量消費がよしとされた「量」の時代だったけれども、これからは「質の時代」にしていかなければならないと、よくいわれていました。何が本当に価値あることなのかを塾考し、「質」を重視する思考と行動への転換が必要とされています。FBOに寄せられている期待は、大きいのではないでしょうか。 かにえ・のりちか 1969年、東京生まれ。専門は国際関係論、サステナビリティ学。慶応義塾大学を卒業後、同大学大学院政策・メディア研究科博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。東京工業大学大学院准教授、パリ政治学院客員教授等を経て、現職。慶応義塾大学SFC研究所XSDG・ラボ代表を務める。国連持続可能な開発会議(リオ+20)日本政府代表団顧問、日本政府SDGs推進本部円卓会議委員など、SDGs関連を中心に政府委員を多数歴任してきた。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.24
July 22, 2023
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ウクライナから逃れた人々に速やかに支援を届けるNGO「ジャパン・プラットフォーム」 小美野 剛 共同代表理事 流動的な情勢――「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」では現在、ウクライナ危機に対して、どんな人道支援を行っていますか。 ウクライナで戦闘が始まった2月24日の翌25日に緊急の書道調査を行うことを決定し、26日にはJPFの加盟NGOのスタッフが隣国ポーランドへ。現地のパートナー団体と協力しながら、支援ニーズの把握を開始しました。現在までに、15のJPF加盟団体が、モルドバ、ポーランド、ルーマニアなどの周辺国で支援に当たっています。難民・避難民、その上で、〝アセス・テンド・デリバー(調査・評価と配布)〟が、人道支援の基本です。今回の危機では、巨大な人の流れがあり、情勢も刻々と変わっています。戦火から逃れてきた人が一つの地域にとどまらず、違う場所に移っていくことも少なくない。流動的な状況の中で、避難してきた人、また現地で支援する人が今、何を求め、必要としているかを正しく把握することが大切です。初動対応は、こうした支援ニーズの調査が主な目的ですが、目の前に苦しむ人がいれば、その都度、水や食料、衣服や医薬品等を配布することはもちろんです。 弱い立場の人々――ウクライナから国外に逃れた人の多くは女性や子ども、高齢者です。どのような支援が求められ、どんな点に留意が必要なのでしょうか。 私たちは今、「保護」の活動を重要な支援として位置付けています。とりわけ、弱い立場にある女性や子どもを、性的搾取や虐待、ハラスメントから守るという視点が不可欠です。今回の危機においては、教会などの宗教施設が支援の拠点になることもあります。核NGOは、自然災害も含めた数々の人道危機に際しての支援から、豊富な経験を蓄積しており、ハラスメント被害を未然に防ぐための方策を備えています。むろんスタッフ自身の安全確保も重要であり、JPFでは、知識を深めるために以前からセミナーを開催してきました。 苦しむ人が何を求め必要としているか周辺国の市民と緊急に連携して支える 平時からの努力――今回、戦闘が勃発してから、即座に初動を開始したことに敬服します。 JPFには現在、さまざまな専門性に有する42のNGOが加盟しています。例えば、加盟NGOであるピースウィンズ・ジャパンは、物質の調達はもとより、国境を越えるための法的手続き、輸送ルートの確保などの知見が豊富で、今回のウクライナ危機でもいち早く支援を届けています。ピースウィンズ・ジャパンはヘリコプターを使った緊急的な医療物資の供与など、平時から即時対応のためのトレーニングを重ねています。他のNGOも同時に、平時から努力を続けています。そして、書く団体の根底には〝困っている人がいるのに、支援しないのはありえない〟との心意気と、不可能を可能にしてみせるとの〝カルチャー(文化)〟が、流れ通っていることを感じます。だからこそ、緊急時にも素早く対応できるのでしょう。私たちJPFは、そのような覚NGOを結び、各組織の専門的な知識やノウハウを共有していくことを目指しています。また、JPFでは国内外の諸団体と信頼関係を醸成するために、平時からネットワークを大切にしています。現地のどんな組織と共同すれば最も効果的な支援を行えるかを的確に見極めることが、私たちJPFの役割だと考えています。創価学会とも防災の分野で協力していますが、平時に連携しているからこそ、いざ緊急時に共に支援を行うことが可能になるのだと思います。 心のケアも――JPFの発表によると現在の緊急支援の「初動対応」と位置づけられています。小美野さんご自身のアフガニスタンなどでの人道支援の経験を踏まえ、難民をめぐる環境やフェーズは今後どのように変化していくと想定されるでしょうか。 危機が長期化すればそれだけ苦しい状況が慢性的に続くわけで、精神的な影響は計り知れず、心のケアの必要性が高まっていくでしょう。医師や看護師不足も伝えられます。子どもたちについては、教育を継続して受けられる体制づくり、家族との別れ等に起因するトラウマ(心的外傷)のケアがすでに喫緊の課題となっています。また、仮に早期の停戦が実現し、人々がウクライナに帰還するにしても、荒れ果てた国土の回復という重い課題が残ることが想定されます。ともあれ、この危機が早く収束することを願うとともに、各段階での支援に尽力していきます。 現場主義の支援――JPFは、NGO、経済かい、日本政府が協働し、2000年に発足した緊急人道支援の仕組みです。小美野さんご自身も20年近く援助に従事されてきました。その中で、人道支援活動の分野やそれを取り巻く環境は、どう変化しているでしょうか。 私どもは「ローカライゼーション」と呼んでいますが、近年では現場主義の支援を心掛けています。難民・避難民を実際に保護するのは、外から来た団体ではなく現地の市民やNGOなどです。その事実を忘れてはなりません。そうした方々に敬意を払い〝一緒に考える姿勢〟があってこそ、現地で必要なことがらを誤りなく把握できると思います。 尊厳を守るために――先ほど小美野さんが想定として述べられたように、危機の長期化も懸念されます。息の長い支援のために、また、難民の方々の尊厳を守るために、私たちや国際社会は何人を大切にしなければならないでしょうか。一般の市民ができる支援はあるでしょうか。 JPFとして3月7日には、中長期的な支援策として「ウクライナ人道危機2022」支援プログラムを立ち上げました。政府による「ウクライナ及び周辺国における緊急人道支援」の決定を受け、日本の民間支援組織を代表してJPFに約15億円が供与されることになっています。ただし事態の深刻化を受け、より以上の計画も視野に入れ、広く寄付を募っています。私たちは現地でキャッシュ(現金)の提供も行っています。苦しんでいる人が、自分の必要な物やサービスを自分でお金を払って購入する――それが尊厳の確保につながると考えています。難民というと〝かわいそうな人〟というイメージを持たれるかもしれません。しかし、一人一人がさまざまな能力や個性を持ち、さらには将来の夢を抱いて人生を歩んでいます。こうした人々の可能性に敬意を払いながら、支援を進めていくべきではないでしょうか。とはいえ、私が知る範囲では困難が大変に多いのが実情です。支援とは、難民・避難民の方々が自分の力で人生を切り開いていくお手伝いをすることだと思います。その手目に、JPFは今後も幅広い授業に取り組んでいきます。 こみの・たけし 1980年、神奈川県生まれ。これまでアフガニスタン、パキスタン、ミャンマー、タイなどで支援業務に従事。東日本大震災への緊急支援を行うため、「CWS JAPAN」を設立し、現在、理事兼事務局長。ジャパン・プラットホーム(JPF)の共同代表理事、アジア防災・災害救援ネットワーク(ADRRN)理事兼事務局長などを兼務し、国内外の人道支援や防災のネットワーク構築のリーダーシップをとる。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.23
July 19, 2023
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ウクライナから逃れた人々に速やかに支援を届けるNGO「ジャパン・プラットフォーム」 小美野 剛 共同代表理事 流動的な情勢――「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」では現在、ウクライナ危機に対して、どんな人道支援を行っていますか。 ウクライナで戦闘が始まった2月24日の翌25日に緊急の書道調査を行うことを決定し、26日にはJPFの加盟NGOのスタッフが隣国ポーランドへ。現地のパートナー団体と協力しながら、支援ニーズの把握を開始しました。現在までに、15のJPF加盟団体が、モルドバ、ポーランド、ルーマニアなどの周辺国で支援に当たっています。難民・避難民、その上で、〝アセス・テンド・デリバー(調査・評価と配布)〟が、人道支援の基本です。今回の危機では、巨大な人の流れがあり、情勢も刻々と変わっています。戦火から逃れてきた人が一つの地域にとどまらず、違う場所に移っていくことも少なくない。流動的な状況の中で、避難してきた人、また現地で支援する人が今、何を求め、必要としているかを正しく把握することが大切です。初動対応は、こうした支援ニーズの調査が主な目的ですが、目の前に苦しむ人がいれば、その都度、水や食料、衣服や医薬品等を配布することはもちろんです。 弱い立場の人々――ウクライナから国外に逃れた人の多くは女性や子ども、高齢者です。どのような支援が求められ、どんな点に留意が必要なのでしょうか。 私たちは今、「保護」の活動を重要な支援として位置付けています。とりわけ、弱い立場にある女性や子どもを、性的搾取や虐待、ハラスメントから守るという視点が不可欠です。今回の危機においては、教会などの宗教施設が支援の拠点になることもあります。核NGOは、自然災害も含めた数々の人道危機に際しての支援から、豊富な経験を蓄積しており、ハラスメント被害を未然に防ぐための方策を備えています。むろんスタッフ自身の安全確保も重要であり、JPFでは、知識を深めるために以前からセミナーを開催してきました。 苦しむ人が何を求め必要としているか周辺国の市民と緊急に連携して支える 平時からの努力――今回、戦闘が勃発してから、即座に初動を開始したことに敬服します。 JPFには現在、さまざまな専門性に有する42のNGOが加盟しています。例えば、加盟NGOであるピースウィンズ・ジャパンは、物質の調達はもとより、国境を越えるための法的手続き、輸送ルートの確保などの知見が豊富で、今回のウクライナ危機でもいち早く支援を届けています。ピースウィンズ・ジャパンはヘリコプターを使った緊急的な医療物資の供与など、平時から即時対応のためのトレーニングを重ねています。他のNGOも同時に、平時から努力を続けています。そして、書く団体の根底には〝困っている人がいるのに、支援しないのはありえない〟との心意気と、不可能を可能にしてみせるとの〝カルチャー(文化)〟が、流れ通っていることを感じます。だからこそ、緊急時にも素早く対応できるのでしょう。私たちJPFは、そのような覚NGOを結び、各組織の専門的な知識やノウハウを共有していくことを目指しています。また、JPFでは国内外の諸団体と信頼関係を醸成するために、平時からネットワークを大切にしています。現地のどんな組織と共同すれば最も効果的な支援を行えるかを的確に見極めることが、私たちJPFの役割だと考えています。創価学会とも防災の分野で協力していますが、平時に連携しているからこそ、いざ緊急時に共に支援を行うことが可能になるのだと思います。 心のケアも――JPFの発表によると現在の緊急支援の「初動対応」と位置づけられています。小美野さんご自身のアフガニスタンなどでの人道支援の経験を踏まえ、難民をめぐる環境やフェーズは今後どのように変化していくと想定されるでしょうか。 危機が長期化すればそれだけ苦しい状況が慢性的に続くわけで、精神的な影響は計り知れず、心のケアの必要性が高まっていくでしょう。医師や看護師不足も伝えられます。子どもたちについては、教育を継続して受けられる体制づくり、家族との別れ等に起因するトラウマ(心的外傷)のケアがすでに喫緊の課題となっています。また、仮に早期の停戦が実現し、人々がウクライナに帰還するにしても、荒れ果てた国土の回復という重い課題が残ることが想定されます。ともあれ、この危機が早く収束することを願うとともに、各段階での支援に尽力していきます。 現場主義の支援――JPFは、NGO、経済かい、日本政府が協働し、2000年に発足した緊急人道支援の仕組みです。小美野さんご自身も20年近く援助に従事されてきました。その中で、人道支援活動の分野やそれを取り巻く環境は、どう変化しているでしょうか。 私どもは「ローカライゼーション」と呼んでいますが、近年では現場主義の支援を心掛けています。難民・避難民を実際に保護するのは、外から来た団体ではなく現地の市民やNGOなどです。その事実を忘れてはなりません。そうした方々に敬意を払い〝一緒に考える姿勢〟があってこそ、現地で必要なことがらを誤りなく把握できると思います。 尊厳を守るために――先ほど小美野さんが想定として述べられたように、危機の長期化も懸念されます。息の長い支援のために、また、難民の方々の尊厳を守るために、私たちや国際社会は何人を大切にしなければならないでしょうか。一般の市民ができる支援はあるでしょうか。 JPFとして3月7日には、中長期的な支援策として「ウクライナ人道危機2022」支援プログラムを立ち上げました。政府による「ウクライナ及び周辺国における緊急人道支援」の決定を受け、日本の民間支援組織を代表してJPFに約15億円が供与されることになっています。ただし事態の深刻化を受け、より以上の計画も視野に入れ、広く寄付を募っています。私たちは現地でキャッシュ(現金)の提供も行っています。苦しんでいる人が、自分の必要な物やサービスを自分でお金を払って購入する――それが尊厳の確保につながると考えています。難民というと〝かわいそうな人〟というイメージを持たれるかもしれません。しかし、一人一人がさまざまな能力や個性を持ち、さらには将来の夢を抱いて人生を歩んでいます。こうした人々の可能性に敬意を払いながら、支援を進めていくべきではないでしょうか。とはいえ、私が知る範囲では困難が大変に多いのが実情です。支援とは、難民・避難民の方々が自分の力で人生を切り開いていくお手伝いをすることだと思います。その手目に、JPFは今後も幅広い授業に取り組んでいきます。 こみの・たけし 1980年、神奈川県生まれ。これまでアフガニスタン、パキスタン、ミャンマー、タイなどで支援業務に従事。東日本大震災への緊急支援を行うため、「CWS JAPAN」を設立し、現在、理事兼事務局長。ジャパン・プラットホーム(JPF)の共同代表理事、アジア防災・災害救援ネットワーク(ADRRN)理事兼事務局長などを兼務し、国内外の人道支援や防災のネットワーク構築のリーダーシップをとる。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.23
July 19, 2023
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常識が崩れゆくその先により可能性のある世界をインタビュー 独立研究者 森田 真生さん価値観の転換――森田さんの近著『僕たちはどう生きるか』は、コロナ禍での思索や気付きが日記とともにつづられた一冊です。「僕の一日は、家にいる生き物たちの世話から始まる」という印象的な一文から始まります。 僕にとって、パンで見苦(世界的大流行)による変化の一つは、人間以外の生命と過ごす時間が増えたことでした。川で捕まえてきた生き物に餌をやり、植物や虫たちの様子を観察する。これが子どもたちとの日常になりました。以前の僕は、講演やトークライブを行うため、国内外を忙しく旅していました。研究に没頭し、新しい概念を生み出して、遠い世界の風景を切り開くことが価値だと思っていた。それがパンデミック以後はイベントが中止となり、今のような日常を始めてみると、自分がすでにいる場所に、喜びも楽しみもあることを再発見しました。本では、こうした価値観の転回を2020年3月から書き始めていますが、考えてみると、僕にとって重要な価値観の回転となったのは、16年に長男が誕生したことでした。かれは生まれた直後に大きな手術をして、病院のNICU(新生児集中治療室)には入りました。こちらが手を差し伸べない限り、生きられない生命を目の当たりにした時、前へ進もう、遠くに行こうと数rのではなく、目の前にある生命と向き合う以上に大切な時間はなかった。毎日病院に通いながら、僕が一番願っていたのは、いつか息子と一緒に空を見ることだったんです。彼は生れてから一回も、空を見たことがなかった。無事に退院できたら、空というのがあるんだよと教えてあげたいと思いました。だから今も、元気に成長した息子と一緒に空を見ると、喜びを感じます。空は誰でもみあげられるものかもしれません。でも、その当たり前がどれほどあり難いかを実感しています。 子どもの視点で――当たり前と思っていた日常が、さまざまな存在に支えられている。そのことを、コロナ禍で多くの人が感じてきたと思います。 順調に作動していたはずのものが突然止まった時に、違う感覚が開けてくることがありますよね。僕にとっては息子の誕生その最初の転回でしたし、今回のパンデミックもまた、似た経験になっています。最初に幼稚園が休園になった時、自宅を〝幼稚園状態〟にしました。生き物を飼い、植物を育てて、野菜を栽培するようになると、子供のまなざしに戻っている自分がいた。その視点で世界を見ていくと、例えば、理科の授業で学んだ「冬の大三角形」を、本当に空を見上げて探したことはあったか。植物の道管や師管(水や養分の通り道)を知識では知っていても、実際に根や茎を斬ってルーペで見たことはあったか。頭では知っている物事が、見えていなかった自分に気付きました。地球を何周もするくらい移動していた自分が、歩いて回れる小さな庭の範囲内で、今まで見落としていたものを見つけることに喜びを感じた。それはただ知識が増えていく喜びというよりも、一つ一つの事柄が、いかに相互に依存しているかを知る面白さでした。石垣のくぼみの水の流れに沿って苔の配列ができているように、一つのものが、いろいろなものとつながっています。身近なところから遠くまで、関係性の実感が広がっていく。その実感が、現在があることのありがたさに気づかせてくれるのだと思います。 多様な生命との関係性の自覚が一人一人の視野を無限に広げる 独立研究者として――森田さんの専門は数学ですが、「数学者」ではなく「独立研究者」として活動されています。 僕が数学の研究を志したきっかけは、数学者の岡潔(1901~78)との出会いです。岡先生は偉大な数学者ですが、最晩年は、人間をどう理解し、人間を取り巻く宇宙をどう描くかといった、数学の枠に閉じない研究をしていました。現代の数学はヨーロッパの哲学に根差しています。その哲学は「人間だけが知性を持っているから偉い」「草花や木々や鳥には声がない」といった、特殊な前提を持つものです。岡先生は、日本の思想や伝統に根差した形で、数学を研究することはできないかと考えた人でした。例えば短歌には、五七五七七という制約があります。人間が多くを語れない分、鳥や山の木々の〝声〟を引き出すんですね。「世界の語りの中心は人間ではない」といった、近代ヨーロッパの哲学とは別の発想に基づいて、岡先生は未来人間像や宇宙像を探究していた。僕はその姿に憧れて、独立研究者として歩み始めました。その中で、息子の誕生やパンデミックといった出来事があった。ある意味で必然的に、研究対象が数学から、人はどう生きていくのかといった方向にさらに広がってきています。 関心を寄せる――岡先生のお話は、数学に限らず学問全体に、そう向き合うべきかという点に通ずると感じます。 自分の頭で考えて、判断し、動いて見る。それが学問の前提であると僕は思います。間違えたり、失敗したりもするわけですが、そうして気付いて修正をしていくなかにこそ、学びがあるのではないでしょうか。パンデミックのような予想外の事態に直面すると、自分はどれだけ自分の頭で考えていたのかと考えさせられます。コロナについては誰も完全な知識を持ち合わせていない以上、自分で考えて動いて見て、間違えたら軌道修正していくといったことを、繰り返していくしかない側面もある。正解がない状況で僕たちができるのは、「関心を寄せる」ことだと思います。環境問題について、「熱帯雨林が大変だ」「二酸化炭素を減らさないと」と語るとき、僕たちは本当に、人間以外の生命に関心を寄せているのか。中傷化された数字の話にしていたり、ただ漠然と「環境を守らないと」と言っているだけになっていないか。問題に関心を寄せ、注意を向けていくと、正解というよりも、より「精緻な」認識が浮かび上がります。例えば、苦しんでいる人を前に、〝こうすれば解決しますよ〟という正解をパッと出すことは、ほとんどの場合できません。しかし背中をさすって、呼吸を合わせ、何が苦しいのか、悲しいのかと関心を寄せていくと、自分もその苦しみが共有できたりして、より精緻に、相手の感情や置かれた状況が理解できます。人間は限られた知能しか持たない以上、「正しさ」は簡単に望めない。でも関心を寄せ、注意を向けることで、理解の「精緻さ」を高めることは、いつでも可能であると思うんです。気候変動でもパンデミックも、問題の根っこは、人々が関心を寄せてこなかったことではないか。関心を寄せずにいたからこそ、不必要に木々を伐採し、生き物の住む場所を奪ってきた。そうして作りだした社会に適応する形で、感染が拡大しているわけです。 最後の自由では、何に関心を寄せるのか。僕は、それが僕たちの最後の自由じゃないかと思っています。ジェニー・オデルは著書「何もしない」の中で、地球の有限性が明らかになった現代は、資源を奪い合うのではなく、人間の意識を奪い合う時代だと述べています。ユーチューブを何秒間閲覧したとか、リンクを何回クリックしたという風に、注意をどれくらい搾取できるかが、資本主義の最前線になっている、と。しかし、人間は本来、異なる関心や注意の持ち方ができる生き物で、それは外部からコントロールするのは難しいものです。だからこそ、「自分が何に注意を向けるか」に、最後の自由があると考えています。僕が関心を寄せているのは、当たり前が崩れていってしまう危機を、新しい可能性が開けるという感動を伴う経験に、読み替えられないかということです。数学は、それを非常に中傷的な領域でやってきました。幾何学は乗義とかんパスでやると信じられていた時代に、デカルトが、数式でもできることを示した。1000年以上、常識とされていた数学の基盤が壊れたわけです。でもデカルトは、それはそれで数学であると正当化できるよう、新しい哲学を準備していた。だから数学は崩壊せずにより可能性のある世界が開けていったんです。デカルトの時代みたいなラジカル(急進的)な常識の転倒は、数学のような抽象的な世界でしか起きないと、僕は思っていました。ところが今、現実に、地球環境はとてつもない規模で変化していて、自分はこの先どう生きていくのか想像はつかない。数学の世界に特有だと思っていた未知の感覚が、実現できてしまう時代に入っています。 異なるスケール――そうした今を生き、不確実な未来を生きる私たちは、どんな思想や心構えを持つべきでしょうか。 人間は、ものを見るときに、一つの尺度に閉じ込めようとします。このウイルスは感染症を起すものだというふうに、人間にとっての意味で全て閉じ込めてしまう。しかしウイルスはウイルスのロジックを持っていますし、人間にとっては危機であるウイルスも、他のほとんどの生物には、何の脅威でもありません。同じことでも、異なる存在、異なるスケールにおいてはまったく別の意味を持つ。だから物事の意味を、一つの尺度に閉じ込めてしまうわけにはいかない。同じことが、別のスケールではどんな意味を盛るのか。これをつねに創造し続ける姿勢を、環境哲学者のティモシー・モートンは「エコロジカルな自覚」と呼びます。パンデミックは、複数のスケールを同時に考えることを私たちに求めてきます。ウイルス、人間、社会といった異なるスケールの問題が絡み合い、それらに同時に向き合わなければならない点に難しさがある。だからこそ、「エコロジカルな自覚」が大事になると思います。 ――創価学会の牧口初代会長は、身近な郷土観察から、瀬系へと視野を広げることを訴えた地理学者でした。目の前の「独り」「一つのものごと」に関心を寄せることから、その先の道を大きく広げていく実践を、私たちも大切にしています。 「無限大の宇宙」という概念が、かつてなき大きな衝撃を与えました。でも考えてみると、果てしなく広い宇宙のほとんどの場所で生命は存在できず、人間は、小さな惑星の表面にへばりついて生きているわけです。しかし、この閉じた地球の表面で、無数のスケールにわたって関係性がむすばれていることに気付くと、果てしない世界の広がりが現れてくる。外へ向けた拡張から、「関係性の網の目」へと広さの観念を変えることで、自分のいる場所がとても広く感じられます。僕たちはそうした感覚を獲得しなければいけないと思っていますし、目の前の「一人」「一つの物事」に関心を寄せる取り組みも、今いる場所の広さや豊かさを、より精緻に理解するためのものではないでしょうか。 失敗は共有財産――世界や社会が複雑化して正解が見つけにくいコロナ禍では、効率性や生産性ばかりに気を取られるのではなく、答えが出ない事態とも、付き合い続けていく重要性を感じています。 物事が、「はかどる」ことに重きが置かれていた価値観が、見直された2年だったと思います。日常は、御ムスを変えたり、掃除をしたり、ご飯を作ったりというような、少しも前に進まない反復的なケアの営みがあります。その上で、多くの仕事がはかどったり、はかどらなかったりするわけです。生産的だと信じるものの多くが、生産性で測られない営みによって支えられていることを、僕たちは学び始めています。「万物は揺れている」。これは科学における重要な世界像ですが、コロナ時代を生きる上でも鍵となる思想だと思っています。例えば、じっとしているように見える机も、ミクロのスケールでは激しく揺れています。あるいは、人間は呼吸をしますが、さっき吸ったと思ったら、次は履いている。二つの間で揺れているわけですね。同じように、あらゆる問題に対しても、一生懸命考えて答えを出し、ある状態に落ち着こうと思う必要はないのではないか。一つの結論に固定するよりも、振動して、行ったり来たりしていること自体が、思考が存在し、生きているあかしだといえるからです。「It depends」という英語の表現があります。「場合によりけり」という意味です。すごくいい言葉だと思います。登校を拒否する子供がいる。僕たちはすぐに「登校拒否」という枠にはめようとします。でも、どうやら昨日は学校に行ったようだ。「じゃあ、登校しているの?」「ううん、明日は行かない」。揺れていていいんです。その方が健全だと僕は思います。「depend」というのは「依存する」という意味です。何に依存するのかというと、状況です。いまはAだけど、時にはBかもしれない。状況によりけりだよ、と。それを一貫性がないと批判するのではなく、万物はそうやって動き続けているんだよと、理解し合えばそれでいいのではないでしょうか。ひとまず答えを出してみて、失敗や間違いがあれば共有し、修正する。そこから新しい認識が生まれていく。間違えたという「共有財産」が生まれるのは、素晴らしいことです。そうした挑戦や試行錯誤を、多様な形で許容し合える文化が、もっと社会に広がるといいですね。それが不確実な時代に対する根本的な対策であると、僕は思います。 もりた・まさお 1985年、東京生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」囲碁の言葉と生命の可能性を追求している。著書に『数学する身体』(2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』、『僕たちはどう生きるか』、絵本『アリになった数学者』(脇坂克二・絵)、随筆集『数学の贈り物』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.15
July 6, 2023
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動いては集まり、語る中で人類は共感を育んできたインタビュー㊤ 総合地球環境学研究所 所長 山極 寿一さん 奪われた自由――山際所長は霊長類研究の第一人者であり、ゴリラを主たる研究対象としながら、人類の歩みを解明してこられました。新しい生活様式が求められるこのコロナ禍を、どう見つめていますか。 人間は社会をつくる上で、三つの自由を手にしてきたと思います。「動く自由」「集まる自由」「語る自由」です。これらを制限したのがコロナ禍でした。ゴリラは、三つとも持っていません。歩き回る範囲は決まっているし、所属する集団は一つで、それもいったん出てしまえば、自分が元いた集団すら戻れないですから。出も人間は、集団をいくらでも渡り歩いていけるでしょう。特に現代は、世界中のどこへでも行ける。そうしてつながり合ってきた人間が、言葉を持っているわけです。これらの三つをセットにして、人間が手にしてきたのは「出会い」と「気付き」です。動いて、いろんな人や、海や川、森、動物、鳥、虫たちと出あい、そして集まり、対話して、新しい気付きを得てきた。この気付きが、人間の未来をつくってきたんですね。人間には、何十万年も変わらない暮らしをしてきた時代がありました。例えば最古の石器であるオルドワン石器は、何十万年も形が変わらなかった。つまり、生活は進歩せず、同じような暮らしを続けていたわけです。それがある時から、古い文化の上に新しい文化を積み重ねて、人間は変化するようになった。それは、出会いと気付きを繰り返すことによる変化でした。ところが、コロナ禍でそれが制約を受けた。特に、人間が手にした「食事」という文化が、対面でできなくなった自体はすごく深刻だと思います。というのも、サルやゴリラ、あるいはチンパンジーは、食物を分配することはめったにありません。サルはそもそもやらないし、ゴリラやチンパンジーも、時々しかやらない。しかも、要求されないと食物をわけません。出も人間は、わざわざ「さあ一緒に食べましょう」とやるわけです。現代の人々は不思議に思わないかもしれないけど、サルやゴリラからしたら、何でそんな奇妙なことをするんだと思うかもしれない。考えてみれば、食べ物は争いの源です。それを前にして、われわれは争いをすることなく、平和な関係が前提になっている。食事の籍を囲むというのは、そういうことです。だから私は、食事というのは人間が最初に始めた文化だと思うんです。毎日食事をするという点はサルも同じで、世仏学的なものですが、それを社会化して、皆で絆をつくる席にしたのが人間の最初の工夫なんですよ。コロナ禍で、食事をするにもさまざまな制約を設けなくてはなりません。対面を通しての身体的なつながりをつくりづらくなってしまいました。人間は、あらゆるコミュニケーションにおいて、五感で感じることで絆をつくってきた。特に音楽がそうです。身体の同町から共感と一体感を育んできた。それを抑制するということは、社会を壊してしまう危険すらあるんです。動いて集まって対話するという、われわれが作ってきた自由が奪われてしまったことの重みを、真剣に考えなければならないと思っています。 誤解や曖昧さを会ってもよい。差異も個性も認め合う社会を 言葉は不完全――コロナかでは、SNSを通してさまざまな発信がなされています。自分と近い思想や意見の人が集まるSNSは、結果的に人々を特定の世界に閉じ込め、分断が生まれるのが特徴といえます。 言葉というのは不完全なコミュニケーションだといえます。いくら言葉を尽くしても、自分の気持ちを伝えきれず、いらだったりする。それよりも、握手をして利抱き合ったり、あるいは一緒に歌ったり、スポーツをしたり、奉仕活動をしたりする方が、気持ちが伝わることがありますよね。言葉は、対面でこそ意味が伝わる部分がある。同じ言葉でも、どういう声や状況が発せられているか、相手がだれかで、伝わり方が違ってきます。にもかかわらず、言葉がどんどん「シンボル化」して、SNS上で文字が飛び交っても、相手は目の前にいないし、状況を共有できない。そういう状態で、ヘイトスピーチやフェイクニュースが押し寄せてきて、それに我々は脅かされている。こうした行き詰まりの背景には、言葉が不完全なコミュニケーションであることを、見失っている現実があると思います。人間の知性の源泉は、脳の大きさだと多くの人は考えていると思います。しかし、200万年前に脳が大きくなりはじめ、現代人の脳の大きさである1400ccに達したのは、60~40万年前。それ以降、人間の脳は大きくなっていません。得に1万年前に農耕牧畜をはじめてからは、急速に文明を発達させたにもかかわらず、脳は大きくなっていない。なぜか。能が大きくなったのは、仲間の数を増やしたからという仮説があります。実際に人間以外の霊長類では、脳の大きさと集団規模がぴったり対応しています。ゴリラは10~15等の集団で暮らしていますが、人間の集団も、それくらいの数であったとされています。では、現代の1400㏄という脳の大きさに最適な集団規模がどれくらいだというと、150人くらいです。60~40年前から脳が大きくなっていないということは、この最適な集団規模も大きくなっていません。ここで言う集団規模とは、定期的に触れ合ったりしながら、信頼し合える仲間の数のことです。科学技術で利便性が高まり、SVSで何百人、何千人と連絡を取り合っていたとしても、信頼できる仲間の数には入らないということが、仮説から考えられます。そうして増えたように見える集団規模は、情報として自分の外に出されていて、インターネットのような、外部化されたデータベースの中にいる。一方で私たちが、仲間の顔を浮かべようとすると、多くて150人くらいだったりする。この150人を、私は「社会関係資本」と捉えています。その数が、ずっと増えてこなかったということです。そのきっかけは、人間が言葉を持ったことだと思っています。言葉は知性源泉である一方で、記憶を外出しすることにもつながるわけです。忘れてしまっても、言葉があれば思いだせるからです。さらに今は、考えることさえ外部化して、データベースやAIで行おうとしている。だから実は、1万年前と比べて、現在の脳は10パーセントくらい縮んでいるという話もあります。このまま考えることをしなければ、もっと小さくなるかもしれない。「シンギュラリティ―(技術的特異点)」と言われるように、AIが人間の知性を乗っ取る時代が来るといわれています。そんなことはないと言う専門家もいますが、僕はあり得ると思っています。それは、人間には適応力があり、環境に合わせてしまうからです。AIが人間の知性に追付くこと花飼っても、人間が知性を低下させてAI的になる可能性があるということです。身体の中や頭の中にある人間の情緒が、使われないまま置き去りにされて、だんだん希薄になっている。すると人間は、情報に操られ、情報の塊になり、AIに乗っ取られてしまう。自分よりAIの方が、自分のことをよく知っているという事態になるかも知れない。150人を確かな社会関係資本として、その上を生活をデザインし、言葉だけでなく、身体を通してつながるコミュニティーを新たに作り直す必要があると思います。 ゴリラに学ぶ――コロナ禍をはじめ現代社会は、いくらAIを使っても、〝予測〟することのできない事態ばかりです。この道の時代に、私たちはどう立ち向かっていけばよいのでしょうか。 ゴリラの群れに入って暮らす中で、僕自身、何度も死にかけました。野生の世界は、何が起きるか分かりません。「行き当たりばったり」であることを予測して、どんな事態にも身構えていなければならない。こうした経験から学んだのは、「命を失わない程度の失敗はしてもいい」ということです。常に正解を導き出す必要はないし、そもそもそんなことはできません。あいまいさを許す余裕を持つことが大切です。今は言葉に頼りすぎてしまったせいで、皆が正解を求める。でも自然界に、100パーセントの正解はありません。それでも、命を失うほどの失敗をしなければいいというレベルで、人間以外の動植物は存在している。それでうまく調和がとれている。そこから二つのことが言えます。一つは、完璧な理解を相手に求める必要はないということ。人間同士、相手の心の仲間で地通せるわけがない以上、むしろ分からないものとして付き合うべきということです。例えば人間とネコや、人間とイヌだって、全然整理が違う動物なのに、うまく付き合っている。そこには誤解もあるわけですね。誤解も含んで共存できるという前提で、説きあっているとも言える。そしてもう一つは、あいまいなものはあいまいなままにして付き合えばいいということ。つまり論理ではなく、直感で付き合うということです。我々は、論理に重きを置きすぎていて、この人はこういう人間で、このように考えて、こういうことをするだろうと予測しようとする。あるいはAIに情報を与えて分析して、100パーセントの期待値を出そうとする。同じ人間なんていないはずなのに、今のICT(情報通信技術)は、人間を工業製品化して、同一労働、銅市賃金に体に考える。でも自然界で同じ能力を持った動物なんていないだから、同一のことができるわけがない。さまざまな差異を認めた上で個性がぶつかりあうから、面白いこと、新しいことが生まれるのであって、だから付き合う価値もある。社会でも大学でも、違う人間同士が刺激し合い、それぞれの能力や個性を磨き上げることで、新しい未来が開けると考えた方がいいのではないでしょうか。 新たな共生の道――性急に答えを出そうとせず、日々の現実に忍耐強く付き合い、あいまいさを許す生き方の中にこそ、共生の道が開かれていくのではないでしょうか。 そう思います。西洋に端を発する科学思想は、二元論ですね。この二元論の下、人間は環境を客体化し、切り離して、都合のよいようにつくり変えてきた。そうして起こったのが現在の環境危機です。あるいは病気に対しても、西洋では、病気の原因を突き止めて、病原菌を突き止めて、病原菌を断つための薬をつくるのが一般的です。ところが東洋では、原因が分からなくても、人間の免疫力を高めて、その病気と共存できるようになればそれでいいと捉えます。漢方が良い例ですね。つまり、あいまいなままでいい、共存すればいいという考えですね。そもそも、人類がこれまで使ってきた薬は、ウイルスと共存するためのものが、多かったのではないかと思います。人間の遺伝子の8パーセントはウイルス由来です。人類の進化を助けてきたウイルスを、悪者にする必要はない。植物の葉や根を使ってつくる薬がありますね。無視などが食べられない部分を、薬にしたのが人間です。自然界の作用をうまく取り込んで、身体を適応させるようにしてきたのが人間の歴史といえる。そうして中では、病原菌を絶滅させようという発想は長い間、なかったはずです。人間は単独で生きているのではなく、バクテリアやウイルスとの共生体であると思い直す方が自然だといえます。そもそも感染症が広範囲に広がったのは、人間が家畜を飼って、まん延する舞台ができたからです。そういった歴史をもいい地整理して、人間が地球で共生できる条件や環境を再構築しながら、新たな暮らしを組み立てる必要がある。それが、まさに今です。言葉に頼ったコミュニケーションや、常に正解を求めようとする、これまでの〝当たり前〟を見直し、異なる人々や地球環境と共生していく道を、身体性を通したつながりの中で育んでいかなくてはなりません。その意味で、私たちは文明の大転換期に立っていると、僕は思っています。 やまぎは・じゅいち 1952年、東京生まれ。霊長類学者・人類学者。京都大学理学部卒。同大学院理学研究科博士号機課程単位取得退学。理学博士。1975年からニホンザルやゴリラの野外研究に従事し、類人猿の生態研究をもとに人間社会の由来を探っている。㈶日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学大学院理学研究科教授、京都大学総長(2014年10月~2020年9月)等を経て、現在、総合地球環境学研究所所長。著書に『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』『スマホを捨てたい子どもたち』『人類の起源、宗教の誕生』(共著)など多数。 【危機の時代を生きる】2022.2.23 インタビュー㊦ 総合地球環境研究所 所長 山極 寿一さん 二元論を超えて――前回のインタビューでは、近代的な二元論の立場でウイルスを〝敵〟と見るのではなく、人類がウイルスと共生してきた歴史を見つめ直す必要性を語っていただきました。こうした視点を深めるために、大切な心構えは何でしょうか。 最近、西田幾多郎(1870~1945)の哲学を読み深めています。日本のオリジナルな哲学を打ち立てた最初の一人が西田だと思いますが、僕は、日本文化に流れる「あいだの思想」を、もう一度、復活させる必要があると思っています。是を理解するうえで根本となるのが、西洋近代の思想は二元論だということです。コンピューターは0と1だけで計算する「二進法」でできていますが、今のデジタル社会も、「0か1か」の発想でつくられています。デジタルは安定しているんです。面白いことに、静物の遺伝子、つまりDNAも、四つの塩基の組み合わせでシナリオができているという意味では、デジタルです。ところが、生物そのものは予測不能なアナログの生き物でしょう。つまり、デジタルとアナログが組み合わさっているのが、生物の世界といえます。アナログは、時間的に連続しているから、もし間違えたら、全然違う方向へ行ってしまう不安定さが伴います。だけどそれは時間の産物であり、直すこともできるわけです。しかしデジタルは、安定している一方で、いったん変更したり、壊れたりしたら、元通りにはできない。「あいだの思想」とは、ものごとをはっきりと区別し、分けようとする二元論に対して、分断することのできない物事の「あいだ」を認める論理のことです。西田哲学とは違う道を模索した山内得立は、インドの竜樹(注)が説いた「テトラレンマ」という論理を独自に体系化しました。レンマというのは「直接的な把握」を指す言葉で、西洋の「理性による分別」の対極に位置付けられます。相反する二つの選択肢の板挟みにある状態を「ジレンマ」と呼びますが、これは「ジ(二つの)」レンマという意味です。「ジ」だけだと、Aか非Aであるかの二元論。その間で板挟みになっているのが「ジレンマ」です。テトラレンマは「四つの」レンマのことで、➀AはAである②Aは非Aではない③Aでもなく非Aでもない④Aでもあるし非Aでもある、の四つです。➀か②しか認めない西洋の「排中律」の論理に対して、テトラレンマは、Aと非Aの「あいだ」を認める「溶中律」の概念であり、③と④が可能になるのです。もともと竜樹が伝えたテトラレンマは、③の両否定が最後だったのに対して、山内は、④の両肯定が、これからの世の中を救う思想だといったのです。(注)竜樹 150~250年ごろ。インドの仏教思想家。大乗仏教の「空」の思想に基づいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。 日本の良質な精神の価値を自覚し世界の文明を転換するきっかけに 「あいだ」の思想――二者の際を明確化して分断するのではなく、二者の「あいだ」に立ち、ありのままに包み込むのが、「レンマ」の立場であると捉えてよろしいのでしょうか。 その通りです。日本には、この「あいだの思想」のいろいろな例があります。例えば「三途の川」では、「彼岸」に先祖や神様がいて、お彼岸とお盆には「此岸」に帰ってくる。此岸と彼岸は地続きです。間に架かっている橋は、彼岸と此岸のどちらにも属していないともいえるし、どちらにも属しているともいえる。あるいは、日本家屋にあった縁側は、家の外でもあり、内でもあります。そこに客を招いて、碁や将棋をしたり、お茶を飲んだりするのが日本の習わしです。「あいだ」を許す構造が、日本の中にはいっぱいあるんですね。西田は、こうした思想を指して「述語の論理」と言いました。英語には必ず主語がありますが、日本語にはしばしば主語がありません。分かりやすい例は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という、川端康成の『雪国』の一節です。この主語は誰でしょうか。トンネルを抜けたのは汽車のようでもありますが、雪国だと気付くのは乗客ですね。汽車と乗客、どちらが守護でもいい。日本人はこのまま文章を読めるんですね。こうした日本人の情緒を、西田は「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という言葉で表現しました。ぼくも好きな言葉です。西洋にはないこの地続きの世界を、爆破パラレルワールド(並行世界)と呼んでいます。そうした世界観を含んだ日本の漫画やアニメが、今は欧米社会にものすごく浸透しています。日本の「述語の文化」やあいだを許すような情緒が、だんだんと受け入れられ始めているということだと思います。 物語をつくる力 ――人間が人間以外の霊長類と違う点について、山際所長は、「物語をつくる能力」に長けていることを挙げられています。コロナ禍や気候変動といった地球的な危機を乗り越える上で、物語はどのような役割を果たすと考えていますか。 人間は、世界のいろいろなものに名前を付けて、因果関係にしたり、起承転結にしたりする能力に長けているんですね。物語にすることで、過去の出来事や、現実にまだ起こっていないことさえも共有できるわけです。人類を大きく発展させた物語をつくる能力を、もう一度作り直さなければいけないと思っています。今はSNSで、誰もが物語を発信できる時代です。フェイクであるか、真実であるかを確かめることは容易ではない。国家は「創造の共同体」だと、ベネディクト・アンダーソン(アメリカの政治学者)は言いました。かつては、新聞、テレビ、ラジオといったメディアが信頼性の高い公共財として情報を発信し、人々はその受け取った情報から、世界を解釈して物語をつくってきた。ところが今、メディアに限らず誰もが、あらゆる物語を作って発信できてしまう。平気でうそもつけます。それが人々を不安にしているからこそ、ある意味で、我々が共有できる物語が亡くなっているともいえる。世界が共有できる物語を作るためには、文化の多様性を認め合って、文化をつなぐことが大事だと思います。それぞれの自然環境に息づいてきた文化や在来地、伝統地を尊重しつつ、文化同誌は対立せずにつながり合うことが大切です。2001年のユネスコ総会で、「文化的多様性に関する世界宣言」が採択されました。その第7条では、創造とは「他の複数の文化との接触により、開花するものである」とうたわれています。文化間の交流によって、イノベーションが生まれると書かれているんですね。文化の多様性の中で、人々が共有できる物語を作っていくべきです。この物語を作る能力は、「問いを立てる能力」であるともいえる。問いの立て方がまずいと、答えは見つかりません。だから僕がいつも言っているのは、長い問いを立ててよいということです。仲間と一緒に意見を交わしながら、面白い問い、答えが見つかる問いに行き着くというのが学問の面白さであって、それは社会でも、人生においても同じでしょう。問いがあって答えがあるということは、その間には物語がある。それを共有できるのが、我々が手にした本来の言葉の力なんです。 人々を結ぶ宗教――宗教の起源は「共存のための倫理」であったと山際所長は言われています。宗教が人類史において果たしてきた役割と、これからの可能性について、どのように考えていますか。 他者の心は読めないし、読めないからこそ付き合う必要があるのですが、そこには一定の倫理がなければいけません。第三者や、あるいは人間とは違う何者かが自分を見ているという感覚が必要なんですね。善悪を誰かが見守ってくれていると思えるから、行動を律することができる。過剰な欲をどこかで抑制しないと、人間は暴走します。科学技術は、暴走を止めるどころか拡大しようとしているわけですね。その暴走を防ぐのが宗教の役割ではないでしょうか。(インタビュー㊤で述べた「150人」という数の信頼できる仲間も、宗教の倫理によって暴走を防ぐから、信頼できる位置にとどまっているのだといえます。その上で、重要なのは、宗教は物語を作れるということです。物語を作り、共有することで、宗教は、150人以上を集めて、物語を共有し、皆の心を一つにしたわけです。イスラムも、仏教も、さまざまな宗教がそれをやってきた。超越的な存在や法などの規範のもとに自分たちはいる、という物語を共有することで、宗教は、国よりも大きな「創造の共同体」をつくってきたんです。物語を作り、共有することで人々を結ぶ宗教の役割は、いまだに変わっていないと僕は思います。ただし宗教は、内にとどまり、境界の外に広がっていきにくいという限界がある。だからこそ僕は、「あいだの思想」が重要だと思っているんです。19世紀の終わり頃、日本の扇子やうちわがきっかけとなって、浮世絵の魅力がヨーロッパに伝わりました。日本人にとっては生活必需品だったものが、ヨーロッパの人々には、寝室の装飾品にもなったのです。そこに描かれていた浮世絵は、西洋の絵師の常識に反していた。左右対称で煮なくてもいい。背景を描かなくてもいい。赤などの原色を使ってもいい。その新しい手法に、西洋の絵描きたちが目覚め、ゴッホやゴーギャン、マネやモネが誕生し、その画家たちに触発されて、ニーチェなどの思想家が目覚めたといわれます。日本の生活用品が触媒になって、西洋の思想を変えたわけですね。今度は、二元論にとらわれない、Aでもあるし非Aでもあるといった「あいだの思想」が、再び世界を変えるかもしれない。僕はそれを「第2のジャポニズム」と考えています。私たち日本人がささいなことだと思っている、生き方や考え方が触媒となって、文明を転換するきっかけとなるといえます。それは、これまでの宗教や文芸や文化が、ずっとやってきたものの延長でもあります。そうした精神や伝統が持つ価値を、改めて自覚し、後押ししていくべきだと僕は思います。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.2.24
June 9, 2023
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事実を冷静に見つめる姿勢と常識で科学の発展と向き合うインタビュー㊤ 東京大学名誉教授 村上 陽一郎さん ワクチン開発は画期的な成果――コロナ危機となって約2年。科学を取り巻く現状や課題に対して、どのように感じておられますか。 今回のコロナ禍において、科学の持つ可能性が鮮やかに表れたと思います。ワクチン開発について言えば、非常に短期間で有効なものが複数実用化され、感染抑制に一定の効果を上げました。21世紀に入って流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)も、新型コロナウイルスと同じ「コロナウイルス科」に属しますが、この二つに関しては、ワクチンが開発されていないまま収束しました。そう考えると、今回のワクチンは画期的な成果だと言えます。この背景形には、流行初期の段階で、中国の科学者らによって、新型コロナウイルスの遺伝子情報がインターネットに公開されたことが挙げられます。これにより、各地の研修所が早い段階で開発に着手でき、短期間での実用化にいたりました。感染拡大を防ぐために、世界中の科学者が手を取り合えたことは、大きな希望と言えるのではないでしょうか。 ――ウイルスに関連して、「永久凍土などに閉じ込められていたウイルスが、地球温暖化などの影響で融解することで、大気中に漏れ出す」といった言説も話題を呼びました。 そうですね。ここ数年で、地球温暖化についても次ぎ次と新たな事実が発見されています。例えば南極の氷ですが、温暖化で極圏の気温が上がれば、降雪量が増え、氷が増えるのが道理ですが、最近の研究では、氷の渉猟が急速に失われつつある実態が明らかになっています。北海道大学の杉山慎教授の『南極の氷に何が起きているか』(中公新書)によれば、年間約10ギガトンもの水(海水面が0.3㍉上昇)が失われ、その速度は近年加速している可能性が高いようです。(※)もちろん、現代の科学では、地球温暖化という現象については全体像を把握するには限界がありますし、また分からないことも多く存在します。しかし、全てが解明されていないから何もしないということではなく、分かったことを踏まえつつ、温暖化を防ぐために、今からできること、今できる対策をとっていくことが大切だと思います。 ――ワクチン接種についても同様のことが言えるのではないでしょうか。時間を置けば、感染メカニズムがより詳細に分かり、精度の高いワクチンが完成するかもしれませんが、早い段階でワクチン接種に踏み切ったからこそ、感染抑制につながった面もあります。 そうだと思いますが、私がコロナ対策において感じたのも、他国の発表や政策を横目にしつつも、これが最善という「ベスト」ではなく、むしろ「ベター」な解決策を選択する柔軟性が肝要だということでした。そもそも、現代の科学では、新型コロナウイルスの感染のメカニズムになどについて、全てが分かっているわけではありません。そうした中にあって、待てば待つほどベストな対策も出てくるでしょうし、さらに時間がたてば、もっと良い対策が生まれるでしょう。しかし、そうしたベストを待ち続けていれば、いつまでたっても何もできません。 (※)数年前までは、地球温暖化が進んでも南極の水は減らないという学説が一般的であった。温暖化によって海水が上昇し、大気中の水蒸気は増えるものの、その水蒸気は南極大陸に流れている中で冷やされ、雪となって降り積もると考えられていたからである。しかし、最近の調査では、海水温の上昇によって海水に接する部分の水の触解が急速に進んでおり、それは巷説によって増加する氷の量よりも多いことが明らかになった。 一方で、これがベストだと思い込んでしまうことも、別の新たな方法が見つかった際に受け入れられず、結果として事態を悪化させてしまう可能性もあります。大事なことは、今、分かっている事実から、ベターな解決策を地道に実践する姿勢です。その意味で、作家で精神科医の帚木蓬生氏が提唱する「ネガティブ・ケイパビリティ」(答えのない事態に対して耐える能力)は、コロナ禍にあって重要な概念であると考えています。これまでの社会では、ある問題に直面した際、原因を手際よく調べ、即座に解決を提示して実行する「ポジティブ・ケイパビリティ」が奨励されてきました。もちろん、時間をかけずに課題解決に臨む姿勢は欠かせません。その上で、私が危機感を抱くのは、社会全体がポジティブ・ケイパビリティ〝一本鎗〟で進んできてしまったという点です。しかし、現代社会には感染症に限らず、地球温暖化やエネルギー問題になど、単純に答えの出ない問題も多く存在しますし、そうした中にあって、ベストだけを求めていては、いつまでも問題解決には進みません。たとえベストでなかったとしても、ベターと思う解決策があれば、それを実行していく。よりベターが見つかれば直ちに切り替える。そうした柔軟な姿勢は、これからの時代を生きる上で希求されるものでしょう。 未知の事態にはデマがはびこる――単純に答えの出ない問題と向き合うには、忍耐が必要です。そこへの苛立ちからでしょうか。今回のコロナ禍においても、SNSには「これが答えだ」と言わんばかりのデマが横行しました。 私にも記憶があります。例えばSNSで一時期、「新型コロナウイルスは大年生がないから、26~27度のお湯を飲めば死ぬ」という言説が拡散しました。しかし、人間の体温は36度前後なので、ウイルスが体内に入って段階で死滅することになり、この理屈は破綻します。また「コロナは単なる風邪だ」と主張する国の指導者もいましたが、現在、〝単なる風邪〟に用うて500万人以上もの命が失われています。その指導者は、現状をどう説明するのでしょうか。ましてや感染症のような未知の事態にあっては、人々の不安が広がり、デマがはびこりやすい。そうした情報に翻弄されず、懸命な判断をするためには、専門家の提示する「科学的合理性」ととmに、個々人の健全な「常識」が肝要になってきます。今回も観戦抑止のため、手洗いの徹底や3密(密閉・密集・密接)の回避と言って「新しい生活様式」が提唱されましたが、こうした事項のいくつかは、もともと蓄積されてきた科学的常識を強調しただけであって、決して新しいものではありません。これは私の父親が医者だったこともありますが、私も子どもの頃から、お金や電車のつり革など、他人がふれるものを自分がふれた際には、帰宅後に必ず手洗いをするよう、父から言われてきました。それが当時の一般常識でしたし、感染症等から自分の身を守る知恵が、社会の中にも根付いていたと思います。ところが、現代社会は医療技術も発展し、衛生観念がなおざりにされるほど、私たちはそうした技術を信じ、切ってしまった。いわば技術ばかりを取り入れ、科学的な姿勢を重んじてこなかったということです。そうした中で常識の重要性が片隅に追いやられ、一人一人の判断力・警戒心も低減してしまったのではないかと考えています。 「科学振興」は持つべきではない――科学への妄信は危険ですね。 科学は常にベストを提供してくれると思う人もいるかもしれません。しかし、科学にも限界があります。もちろん、科学の発達とともに、その可能性は大きく広がっていますが、私は何もかもが科学で解決できるという「科学信仰」は持つべきではないと考えています。むしろ科学が進歩すればするほど、使用者である一人一人の科学的な姿勢や常識といったものが求められていくと思っています。ワクチン接種も、その一例でしょう。ワクチンの名称の由来は、雌牛を意味するラテン語の「Vacca」です。天然痘が猛威を振るっていた18世紀、イギリスの石であるジェンナーが「牛痘」を用いて予防接種を始めたことから、この名が付けられました。健康な人間に、あえて病原体を接種して免疫力を獲得させるのが、ワクチンの基本的な仕組みです。そのため、人によっては副反応が出てしまうのは避けられません。もちろん、技術も進歩しており、その副反応のリスクも低くなってきましたが、ゼロリスクにはなりません。その上で、今回のワクチン接種は、個々人の命を守る上で、相当の効果があったことは否定できない事実です。そうしたワクチンのデメリットとメリットを理解した上で、どう選択するかは、そうした事実を冷静に見つめる科学的な姿勢や、個人の判断、常識に委ねられているわけです。こうした姿勢や常識といったものを、いかに醸成していけるかが、科学と向き合う上での切実な課題であると思っています。 感染症を取り巻く現状日々変化常に〝ベターーより良いー〟な選択を ――科学的な姿勢を育む上で、どのようなことが必要と考えておられますか 先ほどSNSの話題になりましたが、デマやフェイクニュースが拡散された一方、有益な情報な広まったものも事実ですから、SNSそのものが一概に悪いとは思いません。むしろ社会に普及されたこの技術を通し、科学的な根拠に基づく議論が深まっていく可能性を模索していく方が価値的ではないでしょうか。一つの方向性として、インフルエンサーと呼ばれる拡散力のあるユーザーが、どのような発信をするかが問われてくると思います。教育の観点でいえば、現制度では、現行制度では、高校2年になると文系・理系にカリキュラムが分かれます。その段階から、文系を選択した学生は理科系科目を、理科系を選択した学生は文系科目を学ばないまま社会人になる場合が少なくありません。そうして制度にあっては、横断的な知識を体得することはなかなか難しいと考えています。「アクロス・ザ・カリキュラム」という言葉がありますが、たとえば英語の授業で理科教育を行うなど、教科の枠にとどまらない授業設計も必要でしょう。現在は、大学で教養教育ばかりでなく、大学院でも逍遥教育を導入する「後期教養教育」は広がりつつあります。専門家だからこそ、広い視野に立つ教養を培う方向が模索されているわけです。今度、日本の教育制度全体が、こうした方向にシフトしていくことを期待しています。 地域の人と意見交わす場が大切――科学的姿勢を育むために、個人レベルで、できることはあるのでしょうか。 一人一人が科学の基礎を学ぶことはもちろんのこととした上で、ここでは、その一つのヒントとして、ヨーロッパ諸国で導入された「コンセサス会議」を紹介します。それは社会的に影響のある議題が現出した時に、専門家だけでなく、非専門家も交えて行われる会議のことです。かつて、日本でも北海道が遺伝子組み換え作物(GMO)の研究を推進することに対し、訴訟になるほどの意見対立がありました。そこで北海道大学が主導してコンセサス会議が設置され、さまざまな年齢・立場の人が参画し、時間をかけて討論を行いました。また、この経過を地域住民も確認できるよう、一般にも公開されました。度重なる議論の末、GMOの栽培ルール等を定めた条例が成立し、厳しい条件付きではありますが、GMOを栽培できる圃場が確保できるようになりました。個人レベルにおいて、専門家が入って議論の場をつくることは難しいかもしれませんが、地域の人々と議論の場をつくったり、意見を交わしたりすることは、できるのではないでしょうか。そうした議論は、科学的な姿勢や常識を育んでいく上で大切だと思います。 ――創価学会ではコロナ禍以降、感染対策に関して、青年部と医学者との会議を定期的に開催してきました。そして、そこで語り合われた内容は聖教新聞でも紹介し、それを多くのメンバーが学び、地域の友とも共有してきました。 「コンセンサス会議」のポイントは、専門家と非専門家とが、それぞれの立場から一つの問題に協力して立ち向かうための基礎を確保することでした。こうした場の存在は、個々人の健全な常識を育む上でも非常に有効だともいます。今後も感嘆に応えの出ない問題は続いていきます。そうした中にあって、そのようなつながりのあるということ自体が一つの強みですし、そのつながりの価値は、ますます求められるのではないでしょうか。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.1.29 現代科学は宗教と決別して発展——私たちの生活に、密接にかかわる「科学」。その成立と発展について、宗教はどのように寄与してきたのでしょうか。 一見すると、科学と宗教は相いれない関係性のように思うかもしれません。しかし、歴史学者のリン・ホワイトが著書『機械と神』(みすず書房)の中で、「(キリスト)協会は西欧思想の〈母胎〉ではないにしろ、少なくとも〈子宮〉である」と述べたように、西欧に誕生した技術文明にはキリスト教の影響があります。彼は、むしろ、自然破壊の歴史的な源泉をそこに求めたのですが。キリスト教の世界観によると、自然界のすべては神によって造られており、中でも人間は「神に似た唯一の被造物」として特別に位置づけられています。この考えに立つ時、全ての自然現象には、もれなく神の意志や神の真理が内在していることになり、〝神の似姿〟である人間は、少なくとも、その一部を読み取れるという発想が芽生えていくわけです。そして人間は、その心理を理解しようと自然現象を観察し、そこから規則性を探求していくのです。こうした営みの蓄積が近代科学の基礎となりました。一方、現代科学は、宗教と決別することで発展しました。科学技術の力が増大し、その力によって現実の課題が一つ一つ解決されるようになると、人類はさまざまな苦悩から解放されていきます。それは、まさに宗教が提示してきた〝救い〟であり、それは科学技術による〝救い〟に置き換わっていきます。そして神を追いやり、自然界の主となった人間は、人間の都合のよい良いに自然を制御し、支配するという発想になっていくのです。もちろん科学技術が進歩したことで、私たちの暮らしが良くなったことは否定できない事実でしょう。しかし、宗教と決別したことで、人間の幸福やより良き人生などを追求してきた科学は、人間の欲望や好奇心を満たすための手段へと変幻していくのです。 〝何のため〟を問い直す時期に――科学技術の発展で、人類は便利で豊かな生活を手に入れた一方、その科学技術がもたらした核兵器などによって、脅威にさらされています。 最近では、人工知能(AI)を備えた(自立型致死兵器システム(LAWS))と呼ばれる殺人ロボットなども、問題になっていますね。LAWSの発展が進んだ要因として、自軍兵士の人命の保護が挙げられますが、これは軍事の責任者から見れば、自分の兵士は殺されたくないが、相手の兵士は殺したいという発想です。そのために殺人ロボットを開発するというのは、人命の尊重という点で、大きな矛盾をはらんでいることは明らかです。思えば、数ある哺乳類の中で、人類ほど同族を殺すために知恵と力の限りを尽くしてきた存在はいません。一体、どこで何を間違ってしまったのでしょうか。いずれにしても、地球的課題を克服し、持続可能な社会を築きていくためにも〝何のための科学科か〟を問い直す時期に来ていると思います。 ――最近では、おヤン希望に沿って、生まれる前のこの遺伝情報を編集する「デザイナーベビー」など、生命倫理に関わる問題も浮上しています。科学技術が発展するほど、その発停委の基盤となるべき哲学の必要性は、より高まっているのではないでしょうか。 私もそう思います。1995年、わが国の科学技術政策の方針を定めた「科学技術日本法」が制定された際、その「科学技術」の定義には「人文科学のみに係るものを除く」と明記されていました。人文科学というのは、まさに人間が生み出した科学技術をどのように使っていくのか、その中で人間社会をどのような方向にもっていくべきかなどについて探求する学問ですが、科学技術の発展を目指す上で、そうした学問は蚊帳の外だったわけです。現在の「科学技術・イノベーション基本法」では、そうした除外規定は削除され、日本においても、科学技術におけるELSI(倫理的・法的・社会的課題群)などが注目されつつあることは、一つの希望だと感じています。そうして流れは、まだ始まったばかりという段階ですが、人文科学も含めた多角的な視点から科学技術の影響を予測・検討する営みは、科学と社会との〝橋渡し〟という観点からも重要です。課題は山積していますが、〝何のための科学なのか〟を裏付ける哲学の重要性を主張し続け、技術開発の根底に根付かせていきたいと思っています。 科学技術の根底に哲学を信仰持つ人々の行動が鍵 「人間の拡大」が変革につながる――科学技術を生み出すのは人間であり、使うのも人間です。だからこそ、科学技術の発展とともに、人間自身が成長していくという視点も欠かせませんね。 その意味で、私は「人間の拡大」が重要であると考えています。先ほど、近代科学は人間が自然現象を観察し、そこから規則性を探求していく中で発展したことを述べましたが、その時、主体は人間であり、客体は自然という確固たる関係がありました。一方、現代科学は人間自身の心や身体も観察の提唱、つまり客体となったのです。その結果、心理学や医学などは飛躍的に進歩しましたが、客体の世界が拡大したことに伴い、主体であったはずの人間という概念が縮小されてしまったのです。加えて現代科学は、人間に欲望のままに生きることを促してきました。しかし、人間には、欲望を抑制する意志もありますし、より良い社会を築きたいという理想を持つこともできますし、喩え民族や文化は違っても結び合っていく力があります。そうした人間の可能性に目を向け、人間精神を高めていく。いわば「人間の拡大」が、科学技術の在り方を変え、社会全体の変革につながっていくと思うのです。 ――「人間の拡大」は、創価学会が目指す「人間革命」の運動とも共鳴すると感じます。人間とは、信仰を根本に一人一人が自分自身の変革に挑戦し、地域を変え、社会を変えていく運動です。 私自身もカトリック信仰を持っていますが、科学教育に携わってきた一人として、科学と併行して、人間の理性の限界を超えるものへの懼れがなければ、社会は破綻してしまうのではないかと憂慮しています。ただ難しいのは、特に日本社会においては、宗教に対する興味・関心は全体的に低いと言わざるを得ない状況にあることです。もちろん、個々人の心底には宗教真なるものは存在すると思います。しかし、葬儀や七五三といった宗教的儀礼を大切にするという程度で、宗教的な思想やエネルギーを社会の現出させるような力は、ほとんどないのが現状ではないでしょうか。 宗教心が根付くためには――そうした社会に宗教心を根付かせるためには、何が必要だとお考えですか。 宗教と縁遠い人がほとんどの中で、いきなり協議を理解してもらうのは難しいでしょう。キリスト教思想家の内村鑑三(※)は『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(岩波書店)についてつづっています。「回心」とは、心が百八十度ひっくり返るような転換を意味します。19世紀末、アメリカのアマースト大学に留学して内村は、シーリー学長との出会いを契機に回心に至ります。同書には、その時の心境がつづられています。私に最も大きな影響を与え私を変えたのは偉大な学長自身でありました」「貴重な教えを、偉大な学長はその言行を介して私に教えたのでありました」ここで重要なのは、内村が、学長からキリスト教の奥義を聞かされたわけではなく、「言行を介して」とあるように、学長の生き様や人間性に触れ、回心に至ったという点です。カトリックには「信徒使徒職」という考えがあります。聖職者だけではなく、世俗に生きる人々も、キリストの教えを伝え弘める使命を有しているということです。いわば信仰を持つ一つ一つが、その宗教の代表であるという自覚で生き、周囲の人々に影響を与えていくことです。これは、なかなか難しいことですが、信仰を持つ一人一人が、そうした生き方を貫いていく中で、宗教心も地域や社会に似月、ひいては科学技術を支える哲学になっていくのではないでしょうか。 ——信仰を持つ一人一人の振る舞いが、大切ということですね。 信仰者として生きることは、もちろん簡単なことではありません。私自身が、それをできているかと言えば、自信はありませんが、そういう信念で生きてきました。そうした信念で行動する人が一人でも増えれば、それが周囲に触発を与え、社会全体をより良い方向に導いていけると信じます。 (※)1861‐1930.近代日本を代表する宗教化・思想家・日本が誇る歴史的な人物を海外に紹介するために著した『代表的日本人』では、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹と共に日蓮大聖人を取り上げている。 むらかみ・よういちろう 1936年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学大学院先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学学長などを歴任。専門は科学史、科学哲学。著書に『ペスト大流行』『文明のなかの科学』『ウイルスとは何か』(共著)など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.1.30
May 27, 2023
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第18回心の負の連鎖を断つために昭和女子大学名誉教授 古川 真人さん 社会に閉塞感が漂う今こそ 希望の未来開く信念を2年を超えるコロナ禍によって、心にかくぁる諸課題が顕在化しています。一昨年、これまで減少傾向にあった年間自殺者数が11年ぶりに増加傾向に転じ、引きこもりや不登校、家庭内暴力(DV)なども増えています。先の見通せない不安が、影響しているのでしょう。ポジティブ心理学の創始者であるマーチン・セリグマン博士は、池田大作先生と対談した際、人生に希望が持てない人の心象を〝疫病〟と表現しました。新型コロナウイルスが日本で流行し始めた2020年春、日本赤十字社がウイルスは人に映るだけでなく、不安や恐れ、偏見や差別となって〝人々の心にも感染する〟と発表しましたが、心の閉塞感は徐々に広がり、社会全体にも影響を及ぼすものです。希望ある未来を開いていくためにも、今こそ、そうした心の〝負の連鎖〟を断ち切っていかなければならないと思うのです。 捉え方には個人差心に関わる対応を考慮するに当たって、まず確認しておきたいことがあります。それは、現実の捉え方には、個人差があるということです。コップに半分入った飲み物を見て、「まだ半分ある」と思う人と、「もう半分しかない」と思う人と、同じ状況も人によって捉え方が違うことは、心理学では、よく知られた事例です。そして、その捉え方で行動が変わるということです。――吹雪の中、馬に乗った旅人が湖に差し掛かりました。湖はこおり、その上を雪が覆っていたため、旅人は単なる雪原だと見て、馬に乗ったまま平気で湖を渡りました。そして、奇跡的にわたり終えたところで一人の農民に出会い、農民から雪原が湖であったことを告げられた旅人は、命を牛練ってもおかしくなかった自らの危険な行動を振り返り、気を失ってしまったというのです。この話で重要なのは、旅人が行動を決めたのは、事実・環境・条件といった客観的なものではなく、雪原と見た主観的な認知であったということです。則ち、私たちが今、自分の前の事象を〝どう見て、どう感じているのか〟によって、私たちは将来の行動を決めているのです。 健康な人の共通点主観的な認知によって将来湖行動が変わるとすれば、私たちの人生にも影響を与えます。では、宇井のない人生を送るために、認知をする際に心掛けていける点はあるのでしょうか。その参考として、米国のある心理学者は、精神的に健康で、生き生きと人生を歩んでいる人の共通点として、次の三つを掲げています。➀自己を良きものと考える傾向が強い。②外界に対する自己の統制力を強く感じる。③自己の未来を明るく描く傾向がある。これらを一言で表せば、「適度な楽観的なバイアスをもっている」ということです。私が専門とするポジティブ心理学が重視しているのは、人それぞれの強みですが、楽観性は、その強みの中でも中核と呼べるものです。私たちの行動は、行動の結果に対する期待によって、大きく左右されることが分かっていますが、楽観性の高い人は、将来によい結果が得られるという信念を持つゆえに、目標達成に向けて粘り強く挑戦し、簡単にはあきらめません。もちろん、そうした楽観性を持って努力しても、望み通りにはならないかもしれません。しかし、状況を良くしたいと思って努力した分、望ましい結果がもたらせる可能性が高まることも確かです。落款性は、とりわけ、生活の脅威となる状況や人生の転機となるような場面での行動、さらには身心の健康においては、ほとんど例外なく良い結果を示すことが科学的に実証されています。例えば、第2次世界大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を生き残った人の82%が、収容所で餓死寸前という絶望的な状況の中でも希望を捨てず、わずかな食料を分け合うなどして周囲を助けたいと思っていたことが分かっています。7万人近くの女性を対象に、楽観性と長寿の関係を調べた米国の研究では、楽観的な人ほど、平均して11~15%、生存率が高いことを明らかにしました。◆◇◆一方、楽観性が、必ずしも万人に効果的な結果をもたらすとは思わない人もいるでしょう。何ら努力もしないのに、自分の能力を過信し、よい結果だけを期待することも考えられます。目の前に差し迫った脅威や課題があるのに、そうした事態を楽観視するあまり、行動を先延ばししたり、その中で重要な情報を見落としてしまったりすることも考えられます。もちろん、ただ座っているだけで幸福を待つような態度では、結果がうまくいかないのは当然です。それは楽観的ではなく、能天気ということです。私が言う楽観的な人とは、より良い人生を送るために目標を掲げ、努力し続ける人のことであり、その達成に必要な自分の力を信じる人のことです。そうした人は、ネガティブな情報が多くても、その中から有用な情報をくみ取り、より建設的な行動をとることが知られています。例えば、健康面では、健康に無頓着どころか、健康を脅かす情報には敏感で、自らの健康に注意して予防的でさえあることが明らかにされています。また、たとえ、自分がコントロールできない状況に直面しても、その状況をプラスの方向に再解釈したり、現実を受け入れたりすることで、柔軟に対応する傾向が高いことも分かっています。 ポジティブ心理学 知力 人間力 対人力 統制力自分の強みを発揮できれば誰もが前向きになれる 少し視点を変える楽観性は現実の敵膜な認知につながり、それは思考や感情、行動にも影響を及ぼしますが、そう思おうとしても難しいと感じる人もいるのではないでしょうか。しかし、少し視点を変えるだけで、印象が変わることがあります。一例として、人にあったときに浮嗅ぐであろう、次のネガティブな印象を、できるだけ素早くポジティブな言葉に置き換えてみてください。 厚かましい→積極的執念深い→粘り強い臆病→慎重せっかち→エネルギッシュ頑固→意志が強い雑→おおらか 要人の悩みは9割は人間関係と言われますが、支援を変えれば、人への対応も変わるのではないでしょうか。落款性の高い人は、対人関係においても好まれることが分かっています。それは、そうして人は文ごとの良い面を見る傾向があるからで、それがより良い人間関係を維持する力につながっていることが考えられます。 良好なつながりをでは、こうした楽観的な視点や思考は、誰もが持てるのでしょうか。結論からいえば、それは誰でも持てるものであり、落款性をはじめとした強みを引き出し、伸ばしていくことを科学的・応用的アプローチで促してきたのが、ポジティブ心理学です。ポジティブ心理学で注目されているのは、先にも述べましたが、人間の持つ様々な好いところです。人それぞれの心の特性には、強みもあれば、弱みもあります。自分の弱みにばかり目を向けていては、自信を失い、結果的に強みもしぼんでしまう恐れがあります。そうではなく、その中で、結果としてポジティブな感情を引き出し、持続的幸福感を高めることを目指しています。もう一つ、ポジティブ心理学では、そうした幸福感を上げるための指標として、人間関係を重視します。いかなる人であれ、その人には家族との人間関係や社会とのつながりがあり、孤独の中で幸せを感じることは、なかなか難しいことです。人間は、自分ひとりで喜ぶ時より、周囲とともに喜ぶ時の方がその喜びも大きく感じられることが分かっています。また、前向きになりやすいことも明らかになっています。他者との関係性が、その人の人生に及ぼす影響は絶大です。困っている時に手を差し伸べ合う関係、互いに支え合えるような関係性を築き上げることが大切です。◆◇◆そうした点を踏まえつつ、ポジティブ心理学では、「知力」「人間力」「対人力」「統制力」という四つの領域で強みを発揮することが大切であるとしています。第一の知力とは、知的な働きが大きな役割を果たすことです。これは単に知識があるというというよりも、その知識を使って独創性を発揮したり、物事を見通したり、課題解決に向けて熱意をもって挑戦したりすることで、知恵にも近い者だと捉えてください。第二の人間力とは、一人一人からにじみ出る人格の輝きであり、周囲を引き付ける魅力です。例えば、親密性や親切心、忠誠心などが挙げられます。第三の対人力とは、対人関係の中で力を発揮するもので、具体的には、相手の良い面を見つける力や、感謝する心、ユーモアで周囲を明るくする力などをもつことです。第四の統制力とは、自分や社会の置かれている状況を的確に把握し、それをより良い状態へとまとめ上げていくことです。この中には、公平性や寛容性、検挙、思慮深さ、自己制御といった特性が含まれます。児に四つの領域の中には、自分に当てはならないものもあるかもしれませんが、このすべてを網羅的に発揮する必要はありません。この中で、自分が身近に感じるものを、どれか一つでも日頃の生活の中で意識し、とっておきの自分の強みを発揮する敬虔をすれば、どんな人でも人生を前向きに生きていけることを、ポジティブ心理学では主張しています。◆◇◆実は、こうした圧読みの全てを発揮できるのが、私たち学会員の生き方です。知力に関して言えば、例えば、御書は人生を生き抜く上での知恵に満ちています。「大悪おこれば大善きたる」(新2145・全1300)、「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」(新1696・全1253)といった御文を心に刻み、実践していくことは、人生を勝ち開く力になります。人間力、対人力は、人との関わりの中で磨かれるものですが、学会には、苦しい時に寄り添い、切磋琢磨し合う同志がおり、衆院人の幸せを願い、仏性を出そうとする対話の実践があります。また統制力は、一人一人の意見に耳を傾け、励ましを送る学会のリーダーが、日頃の結動を通して培っている力ではないでしょうか。何より、私たちに知恵を与え、人間力と対人力で包み、私たちを導く池田先生という模範がいることが、私たちの一番の支えかと思います。 苦しい時に寄り添い励まし合う学会の生き方は周囲を明るく 仏法は生命を変革その上で、日蓮大聖人は、同じ水を見ても、生命常態によって「餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る」(新1411・全1025)と仰せであり、その生命常態を変革していけるのが信心であると考えられています。心理学は、心的事象を個別に取り上げ、その一つ一つを意識して心の変革を探求する学問ですが、仏法は、そうした心の王手にある生命そのものの変革を目指す点において、より本質的な実践哲学だと言え得ます。また、変革するといっても画一的なものではなく、「桜梅桃李」という言葉がある通り、仏法には一人一人を自分らしく輝かせていく思想があります。私たちは、ここに、一人一人の心を前向きにし、心の〝負の連鎖〟を断ち切っていく力があると確信します。暗い世相だからこそ、地域の学会員はともに、座談会を中心とした学会活動を通し、社会を明るく包んでいきたいと決意しています。 ふるかわ・まさと 1948年生まれ。東北大学大学院博士後期単位取得中退。昭和女子大学教授、同大学図書館長を経て現職。著書に「ポジティブ教育心理学」(尚学社)、『最新・こころの科学』(同)など多数。創価学会総神奈川副学術部長。副区長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2022.1.22
May 14, 2023
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歴史の岐路に立つ人類。高原の見晴らしを切り開くインタビュー 社会学者 見田 宗介さん 現代社会はどこに向かうのか――「現代社会はどこに向かうのか」。見田さんは、この問いに長年向き合い、同タイトルの近著(岩波新書)でも未来への展望をつづられています。 わたしたちが生きている子の社会が、基本的にどういう方向に向かっているのかということは、以前は当たり前の児として決まっていました。たとえば、明治・大正・昭和期までの日本人にとって、社会は基本的に、無限に「近代化」してゆくものであり、世の中は物質的にどんどん豊かになっていくということが、安心して前提されていました。しかし、20世紀の終わりくらいから、この前提は根本から揺らぎ始めて、安心して依存することのできないものとなった。現代社会が「どこに向かうのか」というといが、せつじつな「もんだいとして問われるようになりました。このことは、日本だけでなく、地球上の人間の全体を見ても言えることです。人間が地球上に出現したのは何十万年か前ですが、1年前になってやっと、人口は500万人くらいになります。紀元前1000年には5000万人。紀元1年には2億人から3億人くらいと、この頃になって人間は爆発的な増殖を開始して、地球全体を覆います。ところがこの加速度的な人口増加は、20世紀の終わり近くなって、突然反転現象を開始します。 正確に言うと1970年前後ですが、世界の人口はそれ自体はまだしばらくは増加し続けますが、増加率は減少に反転するのです。これは、何十年もの人間の歴史の中で初めてのことであり、20世紀末の展開が、人間の歴史の中でどんな大きい曲がり角であったかが分かります。この突然の反転がなぜ起こったのか。この点には明快な理論的な説明があります。生物学でいう「ロジスティック曲線」というものです。ある環境によく適合した生物種、たとえばある森の環境条件によく適応した昆虫種は、森の環境条件が許す限り、どんどん増殖します。しかし、いつかは環境条件の限界に到達するので、この限界を無視して「征服」というモードに固執して増殖し続ける昆虫は、当然滅亡します。しかしここで、幽玄な環境条件との「共存」というモードへの切り替えに成功した昆虫類は、永続する生存の軌道に乗ることができます。ロジスティック曲線でいう、第Ⅲ局面への移行です。(略)つまり、環境上演に最も適応した生物種は、最初の穏やかな環境という第Ⅰ局面から加速的な(時に爆発的な)増殖という第Ⅱ局面を経て、環境との「共存」という、永続する幸福な高原である第Ⅲ局面に入ります。紀元前1000年以後の爆発的な増殖と繁栄によって、地球という環境条件の限界にまで到達した人間は、「ロジスティック」の法則に従って加速度的な増殖を停止しました。人間は今、地球という環境条件に対する「征服」と「搾取」という敵対的なモードを誇示し続けて、破滅して個々のいくつかの生物種の道をたどるか、あるいは、「共存」のモードに切り替えて永続的な生存の地平に入るか、という岐路に立っています。 地球環境の有限性に向き合い「征服」から「共存」へ転換を 軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱカール・ヤスパースが人間の「歴史の起源」として着目する〈軸の時代〉とは、世界の大思想、大宗教が相次いで出現した次代で、彼らはこれを紀元前800年から200年までとしていますが、ぼくの考えでは、〈軸の時代〉はヤスパースが考えるより200年新しく、紀元前600年から0年くらいまでです。この期間に、仏教、儒教、キリスト教という世界の大宗教と、古代ギリシャのアテネとエーゲ海をはさむその植民地ミレトス等を中心としての、世界に初めての「哲学」のさまざまの思想が一斉に出現します。紀元前600年ごろに出現し、急速に普及した貨幣経済システムが成熟し、それ以前の村々などの小さい共同体のうちに安住していた人々の人生は、この突然開かれた世界の「無限」という真実の前に戦慄し、「無限」という真実を理解して生きる思想を求めました。貨幣経済を機動力として、人々はこの「無限」と思われた世界を征服し搾取し続け、この宇宙の中で唯一であるかもしれない繁栄を謳歌しました。見てきたように、20世紀後半になってこの惑星の限界が明らかとなり、300年前にこの世界の「無限」という真実の前に恐怖し戦慄した人間は、今、この同じ世界の「有限」という真実の真に恐怖し戦慄しています。〈軸の時代Ⅱ〉というべき、21世紀の思想の根本課題は、世界の「有限」という真実への対応であるといえます。これが人間という生命種にとって、世界に対する征服と搾取のモードから、世界との「共存」と云への切り替えによる、ロジスティック曲線の第Ⅲ局面への移行という課題と同じものであるということは、いうまでもありません。 現代資本主義の輝きと矛盾――際限なく利潤を求める資本主義は近年、行き詰まりを見せています。見田さんは、資本主義の「光」と「病み」の両方を捉え、双方を「みはるかす」統合の視点をもって思考を紡いでこられました。 先ほど述べた、人間の歴史上得初めてとなる大きい転換の具体的な構造については、現代資本主義の輝きと矛盾ということで、きちんと押さえておこうと思います。20世紀の終わり近くまでの世界は、知られているとおり、「資本主義対社会主義」という東西に大陣営の「冷戦」の時代といわれています。この時代までの「古い資本主義」は、生産力の限りない発展に需要の方が追い付かず、ほぼ10年ごとの「恐慌」を繰り返し、この恐慌を割けようとすれば、「戦争」という非人道的な仕方で、大きい需要を作り出すほかはなかった。資本主義は「死の商人」として、社会主義の側面から非難されていました。しかし、20世紀後半の資本主義は、情報化と消費化の力によってこの「古い資本主義」の矛盾を乗り越えて、長く続く繁栄の時代を実現しました。「車は見かけで売れる」ことを信じたGMの、フォードに対する勝利は典型的なエピソードですが、デザインと広告とクレジットという「情報化」と「消費化」の連動する力によって人々の欲望を無限に開発することを通して、限りない需要を資本主義が自ら作り出し、恐慌を避け永続する繁栄のいく十年かを20世紀後半には実現し、社会主義との競合にも勝利して、幾十年もの資本主義的な繁栄の時代を実現しました。この「情報化」と「消費化」の連動による、欲望の繁栄という「資本主義のユートピア」は、無限であるように見えたのですが、実は矛盾がありました。このユートピアは、人間の欲望の無限の開発とこれに対応する生産の無限ということがその内容ですが、実はその起点における障害の無限ということは、現実には地球という惑星の資源という有限性の限界に到達してしまい、その消費の終点においても、地球環境の汚染と破壊を通してこの惑星の有限性に到達してしまった。3000年前、貨幣経済の力によって世界の「無限」の中に人生を投げ出され恐怖した人間は、この「無限」という現実に対応する思想と貨幣経済の力によって、惑星環境を征服し搾取し尽くした結果、最終的かつ現実的に、この惑星環境の「有限」性に到達し、この世界の「有限」性という現実を直視し、乗り越える思想とシステムの確立という、切実な課題の前に立たされている。欲望を押し進めて世界を征服し搾取するのではなく、欲望の方を世界に合わせるという「仏教的」な行き方に対しては、ぼくも子どものころは反発していたのですが(笑)、よく考えてみれば、世界の「有限」が明らかとなった第Ⅲ局面においては、この方がはるかに合理的なのです。学生運動をやっていた頃、「きみと世界との戦いでは、世界に支援せよ」(注)という言葉があって、かっこいいと思っていましたが(笑)。 〈幸福感受性〉というキーワード――コロナ禍や気候変動と言って地球規模の難局に直面する現代社会の先に広がる世界を、「高原の見晴らし」と表現されています。子の見晴らしを切り開くために、私たちが持つべき思想や心構えについて教えてください。 「史上空前の」「未だ経験されたこともない」という災害や異常気象の報道が、毎年のように見られるようになりました。つまり、人間という生命が幾十万年も前、安心して、その上で生を続けてきた安定した循環の軌道が壊れて、未知の不可逆的な解体の軌道へ、落ち込み始めているということです。人類がこれまで安心して前提し、依存してきた地球という惑星の、安定した循環という前提が解体しょうとしているということが、ロジスティック曲線の第Ⅱ局面の終わりに立っているということでした。人間の歴史のこの大きい岐路に、実際にこれからの歴史を担う世界の若い世代は、どのような価値観をもち、どのような生を選ぼうとしているのでしょうか。1980年代以来行われてきた大規模な「世界価値観調査」は、驚くべき結果を示しています。80年代に世界で最も早く経済成長課題を完了して、脱高度成長社会として成熟してきた西・北ヨーロッパ(フランス、イギリス、ドイツの旧西独地域、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)の地域では、若い世代の間で「非常に幸福」と感じている人々が、着実に一貫して増え続けてきたのです。この世代が、具体的にどのようなことに「非常に幸福」を感じているのか、2010年にフランスで行われた、若い世代の「非常に幸福」の内容を追求して問う調査は、さらに考えさせられる内容でした。その「非常に幸福」の具体的な内容は、カフェでの友人たちとの会話、波に飛び込む身体の感覚、背中に触れる恋人の指の感覚、樹々を渡る風の感触、夕食後の家族の会話、等。特に新しく「現代的」な幸福のかたちがあるのではなく、身近な人間との交流や、自然と身体の感覚など、人間の歴史の中で以前からよく知られている、〈幸福の原層〉ともいうべきものばかりでした。同時にそれらは、大規模な世界環境の搾取を必要とすることもなく、大規模な環境の汚染解体を帰結することもないものばかりでした。世界に対する限り内「征服」と「搾取」という第Ⅱ局面から、世界とその「共存」という第3鏡面への移行は、欲望の方を世界に合わせるというものですが、それは決して「禁欲的」「抑圧的」なものではなく、他者や世界との交流と交感のうちに敏感に克服を感じ取る、〈幸福感受性〉の獲得というべきものでした。この〈幸福感受性〉の解放と、〈単純な至福〉の実現ということが、世界との「共存」の局面への移行にとっての実践的なキーワードであると、ぼくは考えているのです。 注 チェコ出身の作家カフカ(1883~1924年)の言葉 みた・むねすけ 日本を代表する社会学者。1937年、東京生まれ。東京大学名誉教授。専門は現代社会論、比較社会学、文化の社会学。東京大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科教授、共立女子大学教授を歴任。主な著書に、『現代社会はどこに向かうか』『現代社会の理論』『宮沢賢治』『まなざしの地獄』ほか。真木悠介名義の著作に、『気流の鳴る音』『時間の比較社会学』『自我の起源』ほか。著作集として、『定本 見田宗介著作集』(全10巻)、『定本 真木悠介著作集』(全4巻)がある。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.1.7
May 1, 2023
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第17回環境問題と仏法創価大学理工学部教授 山本 修一さん 地球の破壊は全人類の苦悩菩薩の「慈悲」の実践を学会創立100周年である2030年は、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の目標達成に定められている年でもあります。また、SDGsの中でも喫緊の課題でもある気候変動対策においては、2030年までの10年間が「決定的な10年」と位置付けられています。その10年の〝初陣〟となって本年は、イギリス・グラスゴーで行われた国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)をはじめ、国際社会で、気候変動に関する議論や取り組みが活性化された1年でした。宗教の社会的使命を果たす上で、今日、気候変動は第一に向き合うべき課題です。ここでは、私たちが信奉する仏法が、いかに課題解決への哲理と生き方を示すことができるかについて考察したいと思います。 現代は「劫濁」まず、環境問題が深刻化するこの時代を、どう捉えるべきでしょうか。法華経方便品第2には、生命の濁りや劣化の様相を5種に分類したものとして、「五濁」が説かれています。(法華経124㌻)。「劫濁(時代の濁り)」「煩悩濁(煩悩に支配される)」「衆生(個々の衆生の濁り)」「見濁(思想の濁り)」「命濁(寿命が短くなる)」の五つです。天台大師の「法華文句」に「煩悩と見と根本と為す」とあるように、人間の「煩悩濁」「見濁」から「衆生濁」と「命濁」に至り、時代全体の濁りである「劫濁」が生ずると考えることができます。すると時代は、際限なく利潤を追求する人間の貪欲(=煩悩濁)や、それに応える大量生産・大量消費を良きこととする価値観や人生観の混乱(=見濁)が、自然を破壊し、気候危機を引き起こした「劫濁」の時代に相当するといえます。地球的問題の原因は欲望や思想の乱れ、すなわち、自己の内にあるとする仏法の捉え方なのです。次に、人間と環境の関係性について考えます。大乗仏教の「縁起」の思想は、あらゆる生命が関係性の中で存在していると説きます。私は「生命圏平等主義の立場を取っており、五陰仮和合〈注〉の概念で捉えれば、人間も、動物も、植物も、等しく尊重されるべき生命であると考えます。それらの多様な生命が、網の目のように、互いに関わり合って生きているのです。網の目の一部が切れたり、太い網が細くなったりすれば阿見全体が安定性を失うように、自然破壊による影響は、必ず生態系のどこかに現れてくることを自覚して、人間活動を行うことが大切だといえます。また、人間と環境は別々のように見えて、根源においては不可分であると捉える「依正不二」の概念があります。人間を主体の外界にある環境が「依報」に当たります。ここで、「正報」「依報」の関係性はあくまで相対的な概念であり、人間が正報で自然環境が依報といった、固定的な概念ではないことについても述べておきます。日蓮大聖人は、夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬えば依報は影のごとし・又正報をば依報をもって此れをつくる」(御書1140㌻)と仰せです。主体があるから環境があると仰せであるとともに、「正報をば依報をもって此れをつくる」——主体は環境との関わりの中でつくられていく、つまり、環境なくして人間はないと御指南されているのです。 注 ここの衆生は五陰(色・受・想・行・識という身心を構成する五つの要素)が仮に和合した存在(五陰仮和合)であると捉える概念 衆生濁とは、現代では無気力・無関心・無責任という面にも現れているといえるでしょう。一方で、地球環境に対するそうした姿勢を転じ、環境問題の解決に積極的に取り組むのが、「依正不二」や「縁起」の思想から導き出せる仏法者としての生き方だといえます。環境破壊は、人間を含めるあらゆる生命の存続を脅かすものであり、その苦悩を取り除くことが、菩薩道の「慈悲」の実践に通じるからです。その意味で、現代の危機である環境破壊や環境汚染そのものが、菩薩道を目指す仏法者にとっては、克服すべき対象であることができます。石に述べた通り、その環境問題の根本原因の一つは人間の際限なき欲望です。現代社会にはものがあふれ返り、絶えず人間の欲望を刺激し、煩悩を生み出し続けます。それが「因」となって環境を破壊し続け、者を手に入れられなければ苦しむといった「負の連鎖」に、多くの人たちが陥っているといえます。環境問題が事故の欲望を根本原因としているのであれば、その課題の根本的な解決にもまた、欲望の制御をはじめとする、自己の精神の変革が求められます。依正不二だからこそ、主体の業因を変革すれば、主体の「報(=報い)のみならず、環境世界の「報」の変革も可能になります。ここに、一人の変革が社会を変え、人類の宿命をも転換しゆくことを教える、日蓮仏法の現代的意義を見ることができるのです。 御聖訓「正報をば依報をもって此れをつくる」環境問題の解決は宗教の社会的使命 科学のあり方私が環境問題に関心をもち始めたのは、17歳の時でした。地元・岡山で行われた高等部の層階(1971年)で、環境問題について研究発表したのがきっかけです。当時、日本では、公害による被害が大きな問題になっていました。私が生まれ育った地域も大規模工業地帯に近接し、畑に流れる工場廃液の影響で、作物が育たないと評判になっていました。農家の人たちの話を直接聞き、発表した私は、「これからの環境問題はもっと深刻になる」と、17歳ながら実感したのを覚えています。その後、大学や大学院で環境問題について研究していくうちに、当時の実感はさらに強くなりました。原点から50年——。環境破壊は、地球がこの先も存続可能かを左右する深刻な問題へと発展してしまいました。危機克服の一翼を担いたいと、現在、創価大学では自然科学の立場から、東洋哲学研究所では仏法の社会貢献という視点から、環境問題の研究に取り組んでいます。◆◇◆この50年間で、世界は大きく変わりました。とりわけ科学技術の発展には、隔世の感があります。一方で、コロナ禍や気候変動に直面する現代は、科学のあり方の見直し、今まで以上に求められているのも事実です。従来の科学技術には、「ものをつくる」「物事を早く行う」「人間が楽をする」「思い通りに動かす」という四つの特徴があったと考えられることができます。どれも人間に恩恵をもたらした側面がある一方で、それらを過分に追い求めてきた帰結として、現代の危機があります。科学の発展が、そのまま人間の幸福につながるわけではありません。物質的な豊かさは、必ずしも幸福の指標ではないといえましょう。このことは、仏教を国教とするブータンが、経済規模では照国でありながらも、一時、世界一幸福度が高い国として知られるようになった事実が物語っています。全ての人が基本的ニーズを満たす少欲知足の暮らしの中で、経済成長よりも「国民総幸福量(GNH)」を増やすことを目指して、人間や自然との関係性の中に充足感と幸福を見出す国民の生き方に、学ぶべき点があります。こうして考えると、科学が進歩すればするほど、その果実を手にした人間自身も進歩しなければならないといえるでしょう。仏法は、その人間の進歩に貢献できると考えています。目に見えるものを扱う科学に対して、仏法は、心、生命、恩など、目に見えないものを大切にします。また、仏法では、苦労や悩みが何一つないような楽な人生ではなく、全てを価値へと転換しゆく「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の生き方を教えています。そして、機械のように思い通りにはいかないのが人間社会です。思い通りにいかない現実に耐え、そこに意味を見出していくのが人間らしさだといえますし、そこに、仏法者としての生き方もあります。こうした仏法の人間観、自然観は、今日の人類が進むべき方向性を指し示すものであると思います。 他者や自然との関係の中に真の幸福と充足を見いだす 「中道」の智慧菩薩道とは、環境問題を〝自分事〟として捉え、自然との調和の関係性を築いていく生き方であることを確認しました。その実践は即、環境問題の解決への実践であるいえるのです。ところが、現実には、「そうは言っても……」と立ち止まる場面が少なくないように思えます。たとえば、「ものと心のどちらが大切か」と問われれば、多くの人は「心」と答えるでしょう。しかし、ものを目の前に詰まれれば、欲しいと思うのが人間です。あるいは、自然環境を破壊するのは良くないことだと思いながらも、大方の人は、大量生産された洋服を着なければ生きていけません。欲に目がくらんではいけないと分かりつつも、完全に欲を立つことは可能なのが現実です。しかし実は、「そうは言っても……」と逡巡した時に其の葛藤から逃げない姿勢こそが、正解なき時代を生き抜くために不可欠な姿勢であると、私は思うのです。大切なことは、白か黒かの一方を突き付けられ、あるいは選択せざるを得ない状況に直面しても、〝そうであっても……〟と悩み、逡巡する姿勢を失わないことではないでしょうか。あえて葛藤に向き合うことで、〝環境開発も、生態系の回復力を破壊しない程度に抑えよう〟といった、具体的かつ現実的な対策が生まれるはずです。仏法の「中道」の智慧にも通ずる姿勢こそが、持続可能な地球の未来を築くために、私たちが心掛けるべきものであると思います。◆◇◆忘れてはいけないのは、こうした中道の生き方は、妥協を強いられるような、息苦しい生き方ではないということです。法華経に説かれる菩薩の生き方は、「忍辱」、つまり、煩悩と不断の葛藤に象徴されます。悟りの境地にとどまるのではなく、あえて自らも悩み、葛藤し、衆生の苦悩を取り除く「慈悲」を実践し抜くのです。法華経で、そうした菩薩の姿を生き生きと描かれているように、相対立する両極端のどちらにも執着せず、地球のため、未来のためという姿勢を貫いて偏らない中道の生き方が、自他供の幸福の世界をいり開く鍵であるといえるのではないでしょうか。コロナ禍で、すぐに答えの出ない事態はあまりにも多い。その中で、こうした「菩薩道」を日々、実践しているのが学会員です。自らが葛藤しながらも、そのありのままの姿で広布の活動を前に進めてきました。そして、社会が変化し続けるからこそ、「誰も置き去りにしない」と心に決め、より一層、励ましの声を届けてきました。こうした一人一人の生き方が、コロナ禍や気候変動などの危機を克服する力となると確信します。創価大学創立者の池田大作先生は、創価教育の父・牧口常三郎先生が、「人道的競争」を展望されていたことに触れながら、自己も他者も益する「貢献的生活」とは、利他行の実践者として説かれる菩薩の生き方にほかならないといわれています。課題が山積する現代は、まさに、他者に尽くすことで自らの生命力も増すような、『菩薩道』「人道的競争」の精神が輝く時代であると思いを強くします。創価教育の遠大な構想に連なる誇りを胸に、多くの人と切磋琢磨しながら、持続可能な未来のために研究を続けてまいります。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.12.23
April 20, 2023
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第10回脳がつなぐもの新潟脳外科病院副院長 宮川 照夫さん コロナ禍の中で進む人間の孤立化地域に心のネットワークを コロナ禍の中にあって、私たちが築いてきた人間関係やコミュニケーション方法は、この短期間で様変わりしています。感染防止の観点で人と人との接触機会が減る中、多くの人がSNSなどの通信技術を使って連絡を取り合うようになりました。心を通わせる機会が生まれたことは喜ばしいことかもしれませんが、そうした技術を使えない人の孤立化が進んでいることや、直接会えないことが与える影響もあります。各種調査では、20~30代の若年層の2人に1人が日常的に孤独を感じていることや、高齢であるほど社会的孤立に陥りやすいといった結果が明らかになり、心身の不調を訴える人が増えているのも現実です。これは心と孤独の関係を示したものですが、心と脳も密接につながっているということも分かっています。では、孤独は、脳にどのような影響を与えるのでしょうか。これについては、さまざまな研究が始まっており、ある学者は、一人でいる時間が増えたことで、過去の出来事を思い出したり、じっくり物事を考えたりする機会が多くなり、想像をつかさどる脳の機能が発達しているのではないかと指摘しています。一方、カナダの研究チームは、孤独を感じる人と感じていない人の脳を比べ、孤独を感じる人は認知症リスクが高いことを明らかにしました。孤独と脳の関係について、まだ詳しいことは分かっていないのが現状ですが、〝孤独を自分がどう感じるか〟が脳に影響を及ぼすのではないかと考えられます。一人でいても、孤独を感じる人もいれば、感じない人もいます。大事なことは、寂しい思いをする人や悩みを抱え込む人を置き去りにしないことであり、見守りネットワークや地域の絆を強めることではないでしょうか。 複雑性が生む思考さて、今回のテーマは「脳」ですが、まずはその仕組みを見ていきましょう。脳の75~85%は水分で、残りは脂肪とタンパク質からできています。ありふれた物質かもしれませんが、その三つが協力し合うことで、思考したり、記憶したりするといった驚きの機能を発揮することができます。人間は、脳がなければ生きていけません。例えば、私たちが寝ているときも、心臓は休むことなく働き、無意識に呼吸もしますが、その働きを支えているのは脳です。私たちが二本足で歩けるのも、置かれた状況や傾きなどを脳が感知し、手足の精巧な動きをコントロールしているからです。食べる時も口や舌をスムーズに動かし、飲み込んだ後もいや庁と連携をとって消化を助けます。このように前進の器官と連携しながら、生命活動全般を支えています。その働きの中核となるのは、脳にある神経細胞「ニューロン」です。人間の脳には、一説には860億個ともいわれるニューロンがあり、その一つ一つが軸索という線と、その軸索の先にあるシナプス(神経細胞間の接合部)を介してつながり、互いに情報をやり取りするのは電気信号であることから、そのネットワークは、よく電気回路に例えられますが、人間の脳はそう単純ではありません。例えば、一つのニューロンからは数千から数万という軸索が延びており、シナプスも状況によってつながったり、離れたりするのです。そのネットワークはダイナミックに変化するものですが、そうした複雑性がありから、私たちは膨大な情報を記憶したり、その情報をもとに深く物事を考えたり、感情をもったりすることができるのだと考えられています。脳は、全身の器官から贈られてくる情報を、単に処理するだけではありません。むしろ、脳が感じ方を決めている側面もあります。五感を例に挙げれば、目から入ってきた光の粒子や、鼻から入ってきたにおいの分子には、そもそも色やにおいなどありません。しかし、目や鼻で受け取った情報をもとに、脳が色やにおいを形づくるのです。また大勢の中で、たった一人の声を聞きとれるようにするのも脳の働きですし、だまし絵のように、視覚も脳も影響を受けることが知られています。目や鼻、口など、人間の感覚器は外界に接していますが、頭蓋骨に覆われた脳は外界に接していません。しかし、この世界を直接見ていない脳が、私たちの感じ方を決めているということは、不思議なことかもしれません。そしてまた、そう感じた方は、私たちの感情にも影響を与えます。感じ方によって、脳内では、さまざまなホルモン物質が分泌されますが、その種類によって、私たちはポジティブになったり、ネガティブになったりと、感情に違いが出ることが分かっているからです。 神経回路は使うほど発達未来は自在に変えられる 行動や意識次第でこうした話をすると、私たちは脳に支配され、その感覚から抜け出せないように思うかもしれません。しかし、脳外科医として働いてきた私の実感として、その感覚をも変えていけるのが、脳の素晴らしさだと思っています。例えば、脳は身体の司令塔なので、一部が損傷してしまうと、その部分に対応した身体の部位も動かせなくなってしまうはずですが、その後の訓練によって動かせるようになる人がいます。それは、脳に柔軟性があるからです。そのそも、人間の脳の重さは、体重の2%ほどですが、身体全体の25%ともいわれるエネルギーを使います。しかし、その分、使われない回路は積極的に刈込が行われ、エネルギー浪費を防ぐようにつくられています。逆を言えば、使われる回路はどんどん発達し、新しい回路を使って効率化しようとするのです。つまり、常に脳は変わろうとしているということです。脳科学の世界では、このことを証明する実験があります。それは、ロンドンのタクシードライバーの脳を測定したものです。巨大な道路網があるロンドンで仕事をしていくためには、2万本の道路、5万カ所もの場所を覚えなければなりません。それは膨大な記憶ですが、経験を重ねたドライバーほど、脳の中で記憶の中枢となる海馬という部分が発達していることが明らかになったのです。脳を変えるのは、行動や経験だけではありません。日頃の意欲や心の持ち方によって変化します。例えば、楽観的な生き方をする人の脳は、ネガティブな考え方にたどり着く回路を回避し、ポジティブな発想につながる通り道がつくられやすいと考えられています。つまり、私たちの脳は自在に変えていける可能性があるからこそ、〝こういう人生を生きたい〟と思って挑戦し続けることが必要なのです。 他者との共鳴現象脳の活性化は、私たちの生活とも結びついています。いくら高い理想を掲げても、日々の生活が乱れていれば、脳の健康は保たれず、新しい回路をつくることもできません。脳を活発に働かせるためには、睡眠はもちろん、エネルギーの元となるバランスの良い食事、また近年では運動も不可欠であることが明らかになっています。そうした生活習慣とともに、学び続けることや人付き合いを絶やさないことも大切です。中でも、新しい友人をつくろうと努力したり、これまで行ったことがない場所に足を運んだり、新しい目標を立てて挑戦したりするといった、新しいものとの出会いが、脳を特に活性化させることが分かっています。新しい回路を常に生みだそうとする脳——その本質は、「つながる」ことです。だからこそ、新しい人と会うといったら「つながろうとする努力」によって、脳も活発に働くのだと思います。実は、脳には周囲とつながりやすくするための仕組みも備わっています。20世紀後半に発見された「ミラーニューロン」です。ミラーニューロンは、他人が行動する姿を見て、それをまねる働きをする神経細胞で、ミラーという名の通り、鏡に映したように、他人の脳内と自分の脳内で、同じ部分が活発に働くのです。これは、他者の姿を見なくても、その経験を聞くだけで共鳴現象が起こることが分かっています。こうした機能が備わっているのは、脳が常に周囲とつながろうとしている証左ではないでしょうか。 仏法の「意」の功徳さて、これまで、私たちの行動や心次第で脳は変わること、そして脳には周囲の人の脳と共鳴する機能があることを医学的な立場から述べてきました。脳の働きが変われば感じ方も変わり、それは世の中の本質を捉えたり、自らの人生を変えられたりしていく力になります。また、周囲と共鳴する力を伸ばしていけば、あらゆる人の心を理解することもできます。一方、仏法の立場から深く捉え直した時、それらは、法華経で説かれた「意(心)」の功徳だということが分かります。法師功徳品には、経文の一偈、一句を聞いただけで「無量無辺の義」が分かるようになり、その説くところの法は「皆実相と相違背せじ」(法華経549㌻)とあります。また、「三千大千世界の六趣(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)の衆生の心の働きを、全て知ることができる」(同㌻、趣意)と説かれている通りです。私は、こうした力を育む要素は、全て学会活動に詰まっていると思います。なぜなら、学会活動には、まさに、あらゆる人びとと心を通わせて友情を育み、つながろうとする努力があるからです。また最近、心理学の分野では、自分自身を客観的に認識しる「メタ認知」が、人間の成長には欠かせないということで注目されています。これは、自分だけでは分からない自身の状態を、他者に見てもらってアドバイスを受けることですが、こうしたことも、学会の同志は、互いの成長を願い、励まし合う中で当たり前のように実践しています。 全宇宙を結ぶ題目このほか近年、脳科学の分野などでは、脳のもつ力を発揮させるためには、自分が置かれた状況や自分の目指すべきものを、冷静に見つめる時間を持つことが重要であると考えられています。そもそも、人間は1日に6万回も思考されるとされ、自分の意志と無関係に思考や感情が湧いてきます。それらに翻弄されてしまえば、自分が本当に目指したい人生を歩むことはできないからです。その頭の整理のためには、心を今に集中し、冷静に観察する状態をつくることが大切で、ハーバード大学の研究では、そうした状態の時に、脳の劣化を防ぎ、脳のあらゆる箇所で神経細胞が活性化することが明らかになりました。私は、この自分を見つめる時間が、日々の勤行・唱題の時間であると思います。私たちは日々、御本尊に向かい、勤行し題目を唱えますが、一点にじっと集中する行為が心を落ち着かせることは、科学的にも証明されています。ましてや、日蓮大聖人は、「一年の心・法界に徧満するを指して万法とは云うなり」(御書383㌻)、「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」(同808㌻)と仰せの通り、私たちの一念は、法界すなわち大宇宙とつながっており、その深き祈りは必ず周囲に伝わっていくことを教えられています。先ほど、脳の本質は、つながることと述べましたが、この全宇宙をもつなぐ祈りを根本にした時、一人一人の持つ可能性も自然と開かれていくと思えてなりません。この偉大な仏法に巡り合えた喜びを胸に、孤立化が進む今こそ、広宣流布への祈りを強め、地域・社会の〝心のネットワーク〟を広げる活動に力を尽くしてまいります。 みやかわ・てるお 専門は脳神経外科。1949年生まれ。新潟大学医学部卒業。84年から86年まで米ウェイン・ステート大学医学部回部専門に留学。創価学会信越ドクター部長。副総県長。総新潟副壮年部長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.12.18
April 14, 2023
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脆弱な立場に置かれた若者たちへの支援が急務インタビュー オックスフォード大学ロジャー・グッドマン教授 都市封鎖で教育格差——英国では、コロナ危機は子どもたちにどのような影響を与えているのでしょうか。日本では昨年度、小中学生の不登校が過去最多となり、文部科学省は〝コロナ禍が子どもの生活に変化を与えた〟と分析しています。 英国では日本世にもかなり長時間、ロックダウン(都市封鎖)で学校が休校だった点が大きな違いです。オンラインで授業を行いましたが、学校の資金力や教育力によって、子どもたちの状況に差が生まれたことは否めません。在宅勤務などで両親が家にいて、子どもたちと一緒に時間を過ごし、学校教育の手伝いをできた家庭は、比較的良い教育を受けられたと考えられます。一方、貧困地域などで、両親が友に外に出て働く必要があった家庭の子どもたちは、サポート体制の不足から、1年間にわたって十分な教育を受けられなかったのではないかと危惧されています。社会階級の差が、そのまま教育格差になってしまったのです。そうした子どもたちを支援するよう、教育・学術界から政府に強い要請がありました。政府の支援が足りないことを理由に、この分野の専門家が意思表示したため、政府の職を辞するといったこともありました。英国の子どもたちがコロナ禍によって払わされた最も大きな代償は、教育の機会の損失だと考えます。 ——子どもたち自身に変化はありましたか。 コロナ禍によって、子どもたちの不登校や自殺が増えたという確たる証拠は見当たりません。しかし、家庭内暴力が増加したのではないかという強い懸念はあります。一番深刻な問題は、すでに難しい家庭環境にいた子どもたちがロックダウンによって家から出られず、逃げ場を失ってしまったことです。これはどの国でも同じでしょうが、コロナ禍は、すでに存在していた問題を浮き彫りにしました。根本的な問題が、コロナ禍という危機に直面したからこそ明るみに出てきたのです。 児童虐待の〝発見〟――日本では昨年度、児童相談所が対応した児童虐待件数が初めて20万件を超え、コロナ禍による閉塞感と育児への不安が要因の一つになっていると指摘されています。 まず、児童虐待問題の深刻さを相談件数だけで計ることはできません。もうずいぶん前になりますが、日本政府が児童虐待の統計を取り始めた時、件数の多き地域が最も深刻だと語られていたのを思い起こします。例えば、新聞の見出しで〝大阪の相談件数が最多〟と、いかにも最も悪いように報じられていましたが、冷静に考えると、全く反対の意味にもとれます。大坂は児童虐待を最もよく把握できていた、ということです。おそらく、優れた児童相談所が最も多い地域であり、児童虐待に関する意識啓発と教育ができていたのではないでしょうか。相談件数が多いというのは、それだけ虐待についての意識が高いとうことです。件数がほとんどない地域ほど、むしろ危ない。子どもたちが直面する家庭内暴力のリスクが、住んでいる地域によって変わるとは考えにくいからです。日本はとても特殊です。〝わが国には、なぜ児童虐待が存在しないのか〟といった議論が行われたきわめてまれな国だからです。1980年代、日本の専門家は、健康保険制度や学校教育、警察などのシステムによって、日本には児童虐待問題がほとんど存在しないと語っていました。ところが、問題が〝発見〟され始めると、一種のパニック状態になりました。私の予測では、児童虐待は常に同じレベルで存在していて、変化したのは周囲の意識だけだったはずです。2020年の相談件数が20万件だったと、私はむしろ驚いています。前年度より5.8%増加していますが、コロナ禍という危機的な状況を鑑みれば、もっと増加していても不思議ではなかったはずです。もちろん一件一件の相談、児童虐待の問題そのものはとても悲しいことです。しかし相談件数が増えていることは、問題を把握できているということであり、日本にとっては前向きなことだと私は考えます。今年8月、大阪市摂津市で、3歳の男の子が虐待死するという極めて痛ましい事件がありました。こうした悲劇が教訓となって、児童虐待への意識がさらに高まり、今後も相談件数は増えていくのではないでしょうか。 ――英国にも同じような傾向にありますか。 英国はじめ欧米と日本では、問題を把握して対応していくシステムが違うため、単純に比較するのは難しい。大きな相違点は、児童虐待に特化した専門家の人数でしょう。日本の児童相談所に勤めている多くの人は、(専門の訓練を受けた)児童福祉司ではありません。私が日本の児童相談所で研究を進めていた時、そこで働く児童福祉司に話を聞くと、一人で100件以上の相談を担当していました。一方、英国では、一人の児童福祉司が担当する相談件数は15から20件です。しかも長年、経過を視察続けるのです。責任の所在も、その児童福祉司にあります。日本では一人当たりの件数は数多く、行性や地域間の連携がうまくいかず、責任の所在がはっきりしない場合があるのではないでしょうか。もう一つの違いは、歴史の長さでしょう。英国は1950年代から児童虐待の問題に取り組んできました。日本は90年代に入るまでは、児童虐待に対する意識があまりなかったわけですから、まだまだ歴史が浅いといえます。 苦しむ人が幸福になる社会へ教育と福祉の一帯かが重要に 日本の最大の資源――日本では「こども庁」の2023年度設置を目指して調整が進められています。英国では、子どもに関する政策は一元管理されているのでしょうか。 英国では2007年、「子ども・学校・家庭省」が設置されました。福祉と教育を別々に考えるのではなく、子どもに関する政策を一つの省で担当すべきだという発想からです。現在は「教育省」になりましたが、基本的には、同省が子どもの福祉政策を管轄し、20歳以上の福祉については「労働・年金省」の仕事です。これは、児童虐待問題を含む子どもの福祉政策は、教育政策と同じように重要だという問題意識の表れといえます。子どもの福祉と教育を別々に考えるのは非常に危険です。つまり、児童相談所や養護施設などの福祉施設と、教育機関の両方が、同じ行政機関で調査・管轄されることが重要なのです。なぜなら、対象とする子どもたちは、同一の子どもたちだからです。同じ子どもたちを守るために施策を考え、実行していくことが大事なポイントです。違う大人たちが対応すると、教育と福祉の政策を一体化させるのが困難になります。 ——教授は編著『若者問題の社会学』(井本由紀監訳、明石書店)の最終章で、「日本は若者以外に天然資源をほとんど持たない国であり、人口が高齢化し縮小すればするほど、若者が幸福な状態であることの重要性もますます高まってくる」と記されています。 私が日本の青少年について最も心配しているのは、家庭や地域から疎外されてしまうことです。日本の福祉政策は、「個人」よりも「家庭」をどう支えるかに力点が置かれている。家庭や地域を大事にするというという概念に縛られ過ぎています。例えば、家庭を持たず、就職もままならないような人は、セーフティーネット(安全網)から漏れてしまいます。その最たる例が、児童養護施設を出た若者たちです。彼ら、彼女らは、18歳でいきなり社会の荒波にさらされます。一般の若者は、20代まで家庭にいて、多くが大学卒業の学位を得て社会に出ます。これは決定的な違いです。養護施設を出た若者たちが、社会での安定した足場、良好な人間関係を築けずに、やがて、その子どもたちも養護施設に入るという、「負の連鎖」が起きています。日本の福祉システムは、いい地域に住み、いい家庭に恵まれ、より多くの恩恵を受けられるように見えます。しかし、その両方に恵まれない人は、恩恵を受けにくい。こうした社会の底辺にいるもっとも脆弱な人々、セーフティネットから除外されそうな子どもたち、若者たちへの支援こそ最も必要です。 ——創価学会の淵源は、小学校の校長だった初代会長の牧口常三郎先生が、〝教育の最大の目的は、子どもの幸福である〟との信念で「創価教育」を創始したことにあります。これまで3代会長の池田先生は、「社会のための教育」ではなく、「教育のための社会」の実現を主張し、生命尊厳の仏法を基調とした平和・文化・教育の運動を世界で展開してきました。 非常に興味深い視点です。「社会のための教育」とは、社会の一員として何をなすべきかを教えるのに対し、「教育のための社会」は、若者たち一人一人の可能性の開花に主眼を置くものといえるのではないでしょうか。育った環境によって社会での対場が決まり、限界が定められてしまうような教育ではなく、一人一人に生きる力と自身を与える教育という意味では、私は全面的に賛同します。共育こそ最も重要な聖業です。とくに、人材以外の天然資源が少ない日本にとってはなおさらです。若者が加速度を増して少なくなっている今だからこそ、教育に最大限の投資を行うべきです。最も苦しむ人鐚が幸福になってこそ、社会全体が幸福になっていくというのが、私の考えです。したがって、最も弱い立場にある若者への支援こそ、子どもや若者たち一人一人を守るために、彼ら、彼女らにかかわる政策が一元管理されていくことが重要なのです。日本の初等教育のレベルは世界最高峰です。幼児教育の質も素晴らしい。システムから脱落していく子どもたちをどう守るかが、今後ますます大切になっていきます。 Roger Goodman 1960年、英国生まれ。専門は日本の社会福祉政策、高等教育。ダーラム大学卒業後、オックスフォード大学で博士号(社会人類学)を取得。オセックス大学准教授などを経て、オックスフォード大学日産現代日本研究所教授に就任。同大学セント・アントニーズ・カレッジ学長、英国社会科学アカデミー会長を務める。著書に『帰国子女——新しい特権層の出現』『日本の児童養護——児童養護学への招待』などがあるほか、多数の共著・編著がある。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.12.15
April 10, 2023
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コロナ禍と「働き方の未来」インタビュー英「ホット・スポッツ・ムーブメント」社 アナ・グルン副所長 在宅勤務の普及——HSM社は世界中の企業のコンサルティングを行っています。コロナ禍において、どのような提案をしてきたのでしょうか。 パンデミックが始まって以来、多くの企業がテレワークを即座に取り入れ、本来なら何年もかかっていたであろう革新的な判断を、数日間もしくは数週間で下していました。例えていうなら、有事のため組織が〝解凍〟されて柔軟になったため、多くの変化が可能になり、人々も素早く反応できたということです。しかし現在、組織がまた〝凍結〟され、古い習慣に戻ろうとしています。ですから私たちは、各企業・団体が、働き方について、常に目的感を持って、意図的な判断ができるよう提案を重ねています。ほとんどの相談は、オフィス勤務とテレワークを組み合わせた「ハイブリット型」をどう効果的に導入できるかという内容です。私たちは、〝週何回は出勤〟といってルールで縛るのではなく、〝目指すべき成果を達成するためにはどうすべきか〟という、原理原則に基づく勤務体系にするようアドバイスしています。たとえば、同僚と協力しなければならないプロジェクトの場合は、オフィスでもっと一緒に時間を共有すべきです。一方、一人で集中すべき仕事の場合は、オフィス勤務である必要はなく、無駄な通勤時間を省いた方が効率的です。その企業が何を目指していて、何が重要なのかを明示し、そのために最も効果的な働き方を従業員に選ばせる。それが、ハイブリット型を成功させる鍵だと考えます。 ——もともとテレワークがむずかしい職種もありますし、ワクチン接種が進む国では、オフィス勤務に戻る企業が多いのではないでしょうか。 英国では、感染拡大のピーク時でも、全労働者の約半数しかテレワークができませんでした。ハイブリット型の勤務体系が普及することによって、社会に不公平感が広がる懸念あるのも課題です。テレワークの恩恵を受けた人々も、ワクチン接種で感染拡大が抑止された後、徐々に職場に戻ってきています。ロンドンの地下鉄では、朝の通勤時間は以前のように混雑するようになってきています。それでも、決してパンデミック前の状態には戻らないでしょう。なぜなら、テレワークでも生産的に仕事ができることを、大勢の人が知ってしまったからです。私たちが提携する企業経営者のほとんどが、〝テレワークでの生産性は変わらない〟と言っていました。また、多くの従業員が、家族との時間を長く過ごせ、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)の実現を後押しするテレワークの有効性について語っていました。企業にとっても、オフィスを維持する賃料や社員の通勤費を抑えられるメリットがあります。重要なのは、テレワークを求める声が、パンデミック前でもかなり強くなっていた点です。コロナ危機は、その流れを加速させただけです。柔軟な働き方への欲求は、たとえパンデミックが完全に収束したとしても、弱まることはありません。この抑えることのできない流れをチャンスと捉え、従業員が最も力を発揮する新しい働き方導入できるか、それとも、戻ることがより難しくなった以前の姿を目指すのか、各国の企業はその選択を迫られているといえます。 多様な人生設計——HSM社のCEO(最高経営責任者)であるリンダ・グラットン博士(ロンドン・ビジネス・スクール経営学教授)は、コロナ後の人生100年時代にあって、「無形資産」が重要になると指摘しています。 「無形資産」とは、良好な人間関係、知識、健康といった、豊かな人生を実現するための〝形のない資産〟を指します。コロナかという劇的な変化に対応する能力も、「無形資産」の一つといえます。長寿社会にあって、人生をより長く生きる私たちには、より多くの変化に対応する能力が求められています。そのためには、自身の役割を変化させ、新しい知識を習得し、自身の活力増強のために投資するといった、「無形資産」を増やす努力が欠かせません。貯蓄や株式といった「有形資産」を数値で表すのは難しい。しかし、私たちの行動次第で、「無形資産」が増えたり減ったりすることは確かです。 ――長寿社会で、〝より多くの変化に対応する力〟が必要とされる理由は何でしょうか。 これまで各国の平均寿命は驚異的なスピードで上昇してきました。今、先進国で生まれた子供は5割の確率で100歳以上まで生きます。現在の「教育・仕事・定年後」という3ステージの人生設計だと、定年後の人生が長くなりすぎるため、年金や貯蓄だけでは豊かな生活を送ることが難しくなります。そうした中では、若い頃だけに教育を集中的に受けるのではなく、人生のさまざまな事典に分散して教育を受け、新しい仕事に取り組んでいく方が賢明だということもできます。また、30代、40代は仕事を抑えて、家族のために時間を費やし、50年代以降に仕事を集中させるという判断もあります。40代で、〝定年〟してしまい、自身の「無形資産」を増やしてから、新しく仕事を始める方が、60代、70代でより生産的になれる可能性もあります。私たちはこうした新しい生き方を、「マルチステージの人生」と呼んでいます。皆が同じ時期に教育を受け、仕事を始め、結婚するということはなくなり、もっと多くの選択肢が目の前に現れるのです。可能性は広がりますが、自分で判断しなければならないことが増える分、負担も増えます。だからこそ、変化に対応する能力、つまり「無形資産」その中でも、「変身資産」がとりわけ重要になってくるのです。 宗教が羅針盤に——多様な生き方が求められる一方、今の社会には、生きるために仕事を続けるので精いっぱいという人もいます。人生が長くなっても、格差が広がっていることで、「何のために働くか分からない」「一生懸命働いても報われないのではないか」というシニシズム(冷笑主義)が広がる恐れも指摘されています。 そこが大きな問題です。人生のマルチステージ化には、より多くの選択肢が生まれる利点がある一方、長くなる人生を充実させるためには、より健康で生産的な生き方を追求し続けなければならないからです。しかし、マルチステージの人生では、〝充実感〟や〝生産性〟の意味がこれまでと変わる可能性もあります。人や地域とつながることの喜び、学び直すことで得られる充実感など、経済的な豊かさだけが全てではなくなるからです。多種多様なチャンスがある点と、働くこと以外にも意味を見いだしていこうとする点では、希望があるともいえます。人生のマルチステージ化を成功させるには、政府の役割がますます重要です。学び直しの機会を提供するとともに、新しい生き方、多様なライフスタイルを社会全体が受け入れるよう、実際のお手本になるような人を広く宣伝すべきです。社会の変革というのは、個人の行動の変化から始まり、それに企業や団体が呼応し、ようやく政府が反応して、徐々に起こってくるものです。だからこそ政府は、そうした個人の実例に光を当てていくべきではないでしょうか。 ――世界192カ国・地域に広がる創価学会では、様々な世代、仕事や家庭環境が違う会員が集い、互いに励まし合って、地域と社会の繁栄に尽くし、自他供の幸福を追求する人生を歩んでいます。マルチステージ化する人生にあって、宗教にどのような役割を期待されますか。 宗教心のある人、あるいは特定の宗教団体に所属している人には、多くの機会や利益があると考えます。より多くの人とつながりを築き、先の見えない人生を導くための羅針盤を持つことができるのは、とても幸福なことです。また「無形資産」を築く上で不可欠なのは、「自分は人生で何を成し遂げたいのか」「自分の人生にとって重要なことは何か」といった深い自己認識です。信仰は自分自身を見つめ直す手助けになるはずです。人間は年を取るごとに、自分と似たような人とばかり接するため、人的ネットワークが狭くなっていきます。自分とは全く違う環境にいる人との関わりは、新たな気づきを与えてくれます。多種多様な人とのつながりを促す宗教も、また自信を変革していく上で重要な役割を果たすのではないでしょうか。 ――日本は世界有数の長寿国で、2060年には65歳以上が人口の4割を占めると予測されています。世界は今、長寿社会の先頭を走る日本の背中を、他の国が追い掛けている状況です。前例がないというのは不安なことですが、新しい道を創造するチャンスでもあります。何が可能で、どう対応していけるのか、日本が世界の手本になることができるのです。「マルチステージの人生」と同じように、捉え方を変えれば、どういう未来を築いていくのか、全て自分たちで決められるということです。自分は未来に何をしたいのか。何を仕事から得たいのか、どういう人生を生きたいのかを、考え直すことができる心躍る機会を与えられているのだと、前向きに捉えてほしいと願っています。 Anna Gurun フランスのルーアン大学大学院で博士号(歴史学)を取得。2017年、「ホット・スポッツ・ムーブメント」社に入社した。19年から副所長として、同社CEOのリンダ・クラットン博士が主催する「働き方の未来コンソーシアム」の責任者を務め、クラットン博士と共に各国の企業経営者に提言を重ねている。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.12.9
April 3, 2023
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第9回皮膚の役割と可能性志村ヒフ科クリニック院長 佐藤 喜美子さん眼や耳でも覚知できぬ周囲の状況を読み取る人体の中で最大の器官コロナ禍の中、肌荒れで悩む患者さんが増えています。国内の調査では、実に2人に1人が昨年と比較し、何らかの肌のトラブルを感じていることが明らかになりました。一番多いのは、マスク着用によるものです。マスクの材質による湿疹、かぶれ、ニキビも多くなっています。マスクをつけると、口周りは保湿されると思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際には口周りが蒸れていることで毛穴が空きやすくなり、皮膚の水分蒸発が起こりやすくなるのです。加えて、マスク内に書いた汗によって細菌が繁殖し、肌荒れにつながる場合もあります。マスク着用中も小まめに汗をふくなど、雑菌が繁殖しないよう対策を講じていただければと思います。また、アルコール消毒の頻度が高まったことで、手荒れをきたす人も増えています。小まめにハンドクリームを使って手を保護してください。◆◇◆肌荒れは、他の要因でも起こります。皮膚の表面には、天然保湿因子を持つ角質細胞があり、さらにその上を、皮膚に潤いとツヤを与えるH氏膜が覆っていますが、入浴の際、ナイロンタオルなどで肌をゴシゴシこすってしまうと、皮脂膜や角質が取れ、水分が蒸発して皮膚が乾燥したり、ひび割れしたりしまうのです。古い角質は自然と剥がれ落ちますし、シャワーを浴びるだけでも取れます。しっかりと汚れを落としたい気持ちも分かりますが、そうした場合でも、ボディーソープを泡立てて洗うなど、肌を傷つけないようにしていただければと思います。その上で、乾燥から肌を守る基本は、保湿対策です。手洗いや洗顔、入浴後は、できるだけ速やかに化粧水、乳液、クリームで保湿することを心掛けてください。 五感が全て備わる皮膚は、単なる〝皮〟ではありません。表面積は畳1畳ほどの約1.6平方㍍あり、人間の身体の中で最大の器官です。命を守る防波堤として、その維持に欠かせない体内の水分蒸発を防ぐとともに、汗を流して体温調節にも努めています。また、絶えず外部からの刺激にさらされる皮膚には、免疫細胞も存在し、さまざまな病原菌の侵入を防いでいます。さらに皮膚には、周囲の状況を読み取るセンサーも存在します。具体的には〝自分がどんなものに触れているか〟を知る感覚で、主な機能には圧力や湿度、痛みの感覚があります。今年のノーベル医学生理学賞が、それらを感じるセンサーが細胞にあることを発見したアメリアの研究者2人に授与されたことは、記憶に新しいでしょう。それ以外にも近年、皮膚には光や色、音やにおい、味を感じ取りセンサーも存在し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚を含む五感すべてを持っていることがあら鹿になりました。さらには、目には見えない紫外線や、耳ではきこえない超音波なども感じ取る、優れた感覚器官ということが分かってきたのです。◆◇◆なぜ、皮膚には五感があるのでしょうか。それは、触覚が最も原始的な感覚であり、その他の感覚は、全て触覚から派生したものだからです。生物の進化で見ても、もともと原始生物の皮膚には五感の全てを感じる機能があり、それが眼や口などに分化していったと考えられています。その原始生物の時代に持っていた皮膚の機能が、人間にも残っているとすれば、五感があることは十分に推測できます。その上で、皮膚は脳とも近い存在です。人間の受精卵は、細胞分裂していく初期の段階で、外胚葉、中胚葉、内胚葉という三つの部分に分かれますが、皮膚と脳とは同じく外胚葉から生まれ、その後、内側に入ったものが脳となり、外側に露出したものが皮膚となります。皮膚には、脳で使われる情報伝達物質と同じものや、それらも受容体も存在していることも発見されています。そう考えれば、むしろ「露出した脳」と言うこともできるでしょう。私たちは、五感で得られた情報をもとに脳で考えていると思っているかもしれません。しかし五感を有する皮膚は、目や耳で感じられないものを感じ取りだけでなく、その情報を処理し、〝私がどう感じるか〟だけでなく〝私たちにどう感じさせるか〟にも影響を与えているのです。それは、よく「肌感覚」という言葉で表現されるものかもしれません。 皮膚は「自分」と「自分以外」の境界自己を形成し他者とのつながりを認識 心身の健康と触覚私は、この肌感覚は、人間が人間であるために欠かせないものだと思っています。なぜなら、皮膚は、「自分」と「自分以外」の境界に存在するからです。たとえば、皮膚は「自己」と「非自己」を認識する力が強いことが知られています。現在は、さまざまな臓器移植が行われますが、他人の皮膚を移植することは、現代の医療技術でも難しい状況です。では、この自分と自分以外の境界にある肌の感覚は、人間にどのような影響を与えるものなのでしょうか。これは二つの角度で考えることができると思っています。第一に、自分が自分であることを認識させる点です。例えば、肌を通した他者との触れ合い(スキンシップ)によって、愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンが分泌されますが、これは幼少期の成長に欠かせないもので、心の健康に良い影響を与えることが分かっています。一方、スキンシップが少ない環境で育った子どもは、成長する過程で、スキンシップが少なかったことを埋め合わせするかのように、自らの手で自らを身体を傷つける行為に走る傾向が高くなることも分かりました。また家庭でもスキンシップが多かった子どもは、少なかった子どもに比べて知能指数が高いとの調査もありますし、未熟児の赤ちゃんを比較した研究では、スキンシップの多い赤ちゃんの方が、体重が早く増加したという結果も出ています。つまり、触れ合いによる肌の感覚は、心身の成長を促し、自分というものを形づくる効果があるのです。第二に、周囲とのつながりを認識させることです。乳児期にスキンシップの多かった子どもは、他人に親近感を覚える傾向が高いのに対し、少なかった子どもは、他人に対し攻撃的になりやすいことが分かっています。アメリカの実験では、触角は、視覚・聴覚よりも親愛的な感覚を伝達することが明らかになりました。また、人間は感覚で得た情報を信頼するという研究成果もあります。周囲に対し、笑顔や真心の声掛けなど、視覚や聴覚に訴える努力も、もちろん大切ですが、それ以上に人間は、慈愛をこめて背中をさすった手のぬくもりや、期待を込めて強く握った手の感触などから周囲とのつながりの大切さを感じ取る生き物なのです。その意味で、「肌感覚」とは「生命感覚」とも言えるでしょう。 触れ合いなき現代二足歩行をするようになった人類の祖先が体毛を失ったのは、120万年前のことだと考えられています。以来、この肌の感覚を使いながら、いち早く周囲の危険を察知したり、触れ合いの中で互いの気持ちを感じ、支え合ったりしながら生きてきました。私は皮膚科医ですが、この長い時間をかけて培われてきた肌感覚が、危機的な状況にさらされているのが現代だと感じられてなりません。例えば自然の木々や土、昆虫などに触れる機会も減り、衛生環境が整ったことで、さまざまな病原体への抵抗力が低下し、逆に後天的なアレルギーなどに悩む人が増えています。アトピー性皮膚炎や食物アレルギー、花粉症などです。そうしたことから、現在では、幼少期には、なるべく自然環境に触れて育てるのがよいと考えられています。さらに、今回のコロナ禍によって、人との接触機会も激減しました。孤独を感じる人も増えており、今後、そうした人々の心身に悪影響が出る恐れもあります。ストレスによって血管が収縮することで、皮膚の温度が低下したり、栄養が行き渡らなくなったりして、肌トラブルにつながるのです。こうした中にあって、学会員は、オンラインでの集いなど、創意工夫を凝らしながら〝誰も置き去りにしない〟励ましに取り組んできました。実は、直接の触れ合いがなくても、近くにいると感じられるだけで、ストレスが軽減されることが報告されています。坂の下に連れて行き、その傾斜の感じ方を調べたアメリカの実験では、一人でいる人よりも友人と一緒にいる人の方が、坂の傾斜がゆるいと判断することが分かりました。そして、その度合いは、友人との親密度が高いほど顕著になり、それは重い荷物をもって階段を上がったり、痛みに耐えたりするという点においても同様の結果が得られました。他者とのつながりは、気持ちを前向きに変えます。だからこそ、大事なことは、あらゆる人に本来的に備わる〝万物一体の生命感覚〟を磨き、つながろうと努力することではないでしょうか。 御書「面にあらずば申しつくしがたし」親近感が肌感覚で伝わる交流を 身根清浄の功徳さて、ここまで皮膚の役割や可能性を見てきましたが、仏法ではどう捉えているのでしょうか。法華経の法師功徳品には、身(皮膚)が清らかになる功徳について、二つの視点で説かれています。一つ目は、「清浄の身の浄瑠璃の如くしにて、衆生を見るを喜ぶを得ん」(法華経546㌻)です。磨き抜かれた宝石のように清らかで、誰もが見たがるような、人々を引き付ける魅力ある姿になるというのです。人が魅力的と思う肌の条件の一つに、ツヤがあります。ツヤで人が受ける印象を調査したところ、ツヤの強度が高いほど、顔の魅力や笑顔、若々しさといった項目でも評価が高いことが分かりました。肌のツヤを保つためには、食事や睡眠も大切ですが、血流の良さ、表情筋の量の多さも不可欠です。これは、表情豊かで、よく話している人の特徴と深く関係します。人間関係も疎遠になりがちな現代ですが、そうした中でも、相手とつながろうと努力し、自分から笑顔で語りかける学会員の姿そのものではないでしょうか。まさに、そうした日々の活動が肌を清らかにし、より多く人々を引き付ける力となっていくのです。二つ目は、〝清らかな鑑に一切が映るように、十界のあらゆるものが、その身に映じる〟(同547㌻、趣意)という孤独で、パッとあっただけで相手の生命の傾向性が分かるというのです。皮膚には五感があり、相手の表情や雰囲気など、私たちが意識する以上にさまざまなものを感じ取っているので、これは科学的に見ても、十分に考えられることです。また近年、脳で学習や記憶に重要な役割を果たす受容体と同じものが、皮膚でも発見されました。つまり人との出会いを重ねることで、肌は相手の心をより深く感じ取り、理解している可能性があるのです。興味深いのは、この法華経の二つの角度に共通して、肌が「人を結びつける」ためにあるという観点で捉えられていることです。これは、触れ合いを重視した皮膚の本質を突くものだと思わずにはいられません。◆◇◆日蓮大聖人は、「面にあらずば申しつくしがたし」(御書1099㌻)等と仰せのように、直接会い、語ることを大切にされました。この肌感覚を大切にしていくところに、人間を人間たらしめ、より良い未来を開いていく道もあると確信します。コロナ禍になって、今後も、人と会う機会が制限されることもあるかもしれません。しかし、その中でも触れ合いを大事にしながら、知恵と工夫と情熱で、一人でも多くの人と心を通わせて生けるよう、地域の同志と共に歩んでまいります。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.12.4
March 20, 2023
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経済成長に依存しない本当に豊かな社会とはインタビュー 大阪市立大学大学院 准教授 経済思想家 斎藤 幸平さん 資本主義に挑む——昨年9月に出版された『人新世の「資本論」』(集英社)は、現在も版を重ね、多くの人に読まれています。同書の主題となっているのが、暴走する資本主義からの転換です。 資本主義を端的に表せば、「際限なく経済成長を追求するシステム」です。最終的にはこのシステムそのものを転換することを、私は提唱しています。そう提唱する理由は、現代の気候危機の原因をさかのぼると資本主義に行き着くからです。地球温暖化の原因である二酸化炭素の排出量は、資本主義が本格的に始動した産業革命(18世紀)以降に大きく増え始めたことが分かっています。資本主義の下で人類は、経済成長の代償を地球に押し付けてきました。今まではうまく回っていったように見えても、地球は有限です。ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、現代を、人類活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くした「人新世」の時代と名付けました。人間の経済活動によって、資源は使い尽くされようとしています。その帰結は自分たちに降りかかります。最たる例が気候変動です。また、感染症のパンデミック(世界的大流行)が、人間の森林伐採によって住処を追われた野生動物が感染源となったと指摘されているのも、人新世の時代における象徴的な出来事といえます。気候変動については、ようやく多くの人が危機感をもち、各国がさまざまな対策を進めていますが、今のペースでは、この危機はもう解決できません。そうした思いで私は、「脱成長社会」への転換を訴えています。もちろんそれは究極的な目標で、実際には、大きな変化は少しずつしか起きません。しかし、時間がかかるからこそ、すぐに行動しなければならないのです。 格差と向き合う——マルクス(1818~83年)を通して、資本主義の在り方を展望されています。研究の原点になっている出来事は? 大きなきっかけは、格差を目の当たりにしてきたことです。わたしは日本の大学に3カ月間在籍した後、アメリカの大学に入学しました。2005年のことですが、当時の日本では、後の年越し派遣村につながるような労働者の貧困問題がすでに進行していました。こうした問題への理解を深めるために、マルクスを学ぶようになりました。アメリカで目の当たりにした格差は、日本以上にひどかった。とりわけ転機となったのは、ハリケーン・カトリーナ(05年8月)の被災地でボランティアをした経験です。黒人や有色人種が住む地域は、住居がいつまでも壊れたままで、復興が全く進んでいませんでした。豊かなはずのアメリカでなぜ、これほど厳然たる格差があるのか。労働者や貧困者に非があるわけではない。資本主義というシステムの問題だと確信し、それを研究で裏付けようとドイツの大学院に進みました。その直後の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。このショックは大きかったですね。原発事故を機に、それまでは労働問題や経済格差を中心に詠んでいたマルクスを、環境という視点からも捉えるようになりました。実は、マルクスは、環境問題に大きな関心をもっていました。そうしたマルクスのエコロジカルな視点は事実、近年の研究でも明らかになっていますし、気候変動という私の研究の一つの柱につながっています。 ——私たちは資本主義を〝当たり前〟のものとして、受け入れて生きています。どのような視点で見つめ直すことが大切でしょうか。 先ほど資本主義は、際限なく利潤を生み続けるシステムであるといいましたが、そこでは利潤を生むために、あらゆるものが「商品化」されます。本来は共有であった土地や水などが、ゴルフ場や飲料水といった「商品」となって売られる。あふれる商品に消費意欲をかき立てられ、お金を稼ぐために長時間働く。こうして人間は、お金に振り回され、商品に振り回される——これがマルクスの根本的な洞察でした。経済成長の代償は、たいていの場合、恩恵を受ける者の目にふれることのない「外部」に押し付けられます。人間にとっての地球、あるいは一部の富裕層にとっての、劣悪な環境で働く発展途上国の人々も「外部」です。こうした外部化は、資本主義というシステムが成り立つための前提条件なのです。そうであるならば、地球も人も守るためにはシステムそのものに切り込んでいかないといけない。マルクスは、商品には「使用価値」と「価値」という二つの側面があると指摘しています。一方の「使用価値」とは、人間の役に立つこと、人間の欲求を満たす力のことです。喉の渇きを潤す水にも、空腹を満たす食料にも、使用価値があります。資本主義以外の社会では、「富」はこの使用価値を指していました。他方の「価値」は、お金で測られるものです。必要であるかどうかよりも、「売れるかどうか」が重視されています。資本主義の下では、この「価値」を増殖する、つまり、売れそうなものをどんどん生産するという考えが支配的になっていきます。現実に私たちの社会には、本当は必要ない商品が存在するように思えます。「使用価値」が低くても、売れさえすれば「価値」は増えるからです。例を挙げれば、洋服や食料品の大量生産・大量消費です。洋服も食べ物も、確かに必要です。しかし私たちの必要以上に加上に生産されているというのが、多くの人の実感ではないでしょうか。ましてや、それらの生産が地球に負荷をかけているのであれば、なおさら私たちは、今の生活を見直すべきです。身の回りの小品に対して、「本当に必要か」と問う。実際はなくても困らないものであれば、思い切ってなくしていく。そうすることで、より必要なものを、より少ない資源で生産する方向に切り替えることが「脱成長」です。 コモン(共有財産) ――脱成長は〝下り坂〟ではなく、そこに本質的な豊かさがあるといわれています。 「価値」を増殖し続ける資本主義の下で、人間は消費に駆り立てられます。そして自らも商品を生産するために、週に何十時間も働き続ける。そうした資本主義から脱することは、「短い労働時間で、そこそこの生活ができる」社会への転換でもあります。これは、人々の生活が貧しくなることを意味しません。働くプレッシャーから解放され、より自由時間を手に入れられます。生活が安定し、趣味に興じる時間や家族、友人と過ごす時間も増えます。すると健康状態も改善するでしょう。こうした生き方は、経済成長に依存しない、本質的に豊かな生き方といえるのではないでしょうか。もちろん、脱成長社会で経済はスケールはダウンします。そこで大切になるのが、商品化されていたものを「コモン=共有財産」として再生し、分かち合うことです。水や電力、住居、医療、教育といった最低限必要なものを、市民が民主的・水平的に共同管理していく社会が、私が提唱する脱成長社会の姿です。本来、土地や水は共有の富であり、コモンです。資本主義以前は、共同体の一員であればだれもが利用できた時代がありました。共有財産だからこそ、人々は自発的に手入れを行っていました。それらを囲い込み、商品化したのが資本主義です。資本主義の下で商品化された富を再びコモンとして開放し、皆で民主的に管理していく。マルクスは、こうした社会を「顧問をもとにした社会」、つまり「コミュニズム」として構想していました。私は、その意味での「脱成長コミュニズム」が大切だと考えます。いわゆるソ連型の共産主義とは全く違います。 ——あえて強い表現を使われている理由は? 「コミュニズム」という言葉には過激なイメージが付随します。私がこの言葉を「コモンの再生」の意味で使っていることは、私の著書(『人新世の「資本論」』)を読んでいただければお分かりになると思います。しかし、誤解されることを承知で私ははっきりさせておきたかったのは、資本主義に抜本的に切り込まなければいけないということです。気候変動を、今までの延長線上で解決することは、もうできないのではないか。時間をかければできるとしても、おそらくその時間は残されていないのではないか。その危機感を、ストレートに伝えたかったのです。私たちが自明と思っていた資本主義——それが問題の本質であると伝えることで、人々の心が、〝揺らぐ〟ことが必要であると考えました。この〝揺らぎ〟がないと、小手先の対策を講じるだけで結局だらだらと環境破壊や搾取を繰り返し、格差や不平等を広げてしまうからです。もちろん、解決策を講じる時間がたっぷりと残されているのであれば、脱成長という概念は必要ないかもしれない。しかし、それではもう間に合わないポイントに、私たちは立っています。最近もニューヨークで、大洪水のために多くの命が失われました。日本でも、いつ起きてもおかしくありません。そうした災害で犠牲になりやすいのは、生活基盤が弱い人たちです。危機感をもたらし格差を生みだしてきた社会のシステムに対して、声を上げていく決断が急務です。 「3.5%」から ——「3.5%」の人が立ち上がることで、社会は大きく変わると語られています。 「3.5%」の人たちが本気になれば、社会は大きく動き始める——これはハーバード大学の政治学者らによる研究ですが、私も著書で、世界各地の社会変革の事例を紹介しています。土の事例も、はじまりは少人数でした。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンべリさんの「気候のための学校ストライキ」についていえば、最初は、彼女一人だけでした。今、異常気象などが相次ぎ、多くの人は〝このままではいけない〟と、うすうす感じているはずです。しかし、どうして行動を起こしていいか分からずにいるのか、あるいは、自分自身の問題だと捉えて、エシカル消費(人や環境に配慮した消費行動)などの行動に励む人もいます。ただ、それでは足りません。気候危機は湖人のみならず、社会の問題であるからです。行動を古人で終わらせるのではなく、社会につなげていくことが大切です。問題に気付いた人がまず行動を起こし、それを声に出していく。たとえば、会社の食堂に(環境への負荷が大きい肉食をやめた)ベジタリアンのメニューがないのはおかしくないか。会社の脱炭素の方針を示すべきではないのか、等々。わたしは執筆をしますが、同じように、自分の考えを家族や同僚、地域の人と話すことは、小さくない力を持ちます。 ——創価学会もまた、個人の「人間革命」を軸とした、平和建設の民衆運動を展開しています。地球の未来に対する強い危機感を斎藤さんと共有し、今後も行動の連帯を広げてまいります。 「個人が変わること」と「システムを変えること」は、ペアであると私は思います。一方で、個人の努力だけでシステムは変わらないし、他方で、システムを変えていくうねりは個人から始まるのも事実です。個人においては、気候変動は社会全体の問題であると知ることが、まず大切であると思います。そう気が付けば、社会を動かすために行動を考えるようになる。それは「人間革命」にも通ずるものではないでしょうか。具体的には、クローゼットでも冷蔵庫の中でも、10必要であるものが、20や30も入っていないか。それを適正な「10」に戻すことが、地球の持続可能性という観点からも、豊かで充実した生活を取り戻すという意味からも大切です。今までの「当たり前」「普通」を見常なおせば、自分にできること、やらなければならないことは多く見つかります。そして、こうした個人の生き方を、社会というシステムにつなげていく制度や仕組みが必要になります。そうした存在として機能するのが、国家と個人の間にある中間団体であり、NGOやNPO、そして創価学会のような宗教団体も重要な役割を担います。既存の価値観を転換して、本当に豊かな人生とはどのような人生化を、多くの人が考え、行動していくことを願っています。気候変動は、今、地球で暮らす世代にしか解決できない問題です。私たちが何を望むか——それが人類の未来を決定するという事実を、受け止めなければなりません。 さいとう・こうへい 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想。KarlMarx’s Ecosocialism:Capital.Nature, and the Unfinished of Political Economy(邦訳『大洪水の前に』)よって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初、歴代最年少で受賞。その他の著書に『人新世の「資本論」』など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.11.16
March 2, 2023
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持続可能な未来を築く21世紀の地球倫理をインタビュー 米コロンビア大学 ジェフリー・サックス教授 歴史の転換点 ——サンクス教授は、8月の米誌への機構の中で、現在開催中のCOP26を始め、今秋、重要な国際会議が続くことに触れ、〝今年の年末までの各国政府による決断が、私たちの時代で最も重要なものになる〟と主張されました。 私たちは今、歴史の転換点ともいうべき決定的な瞬間を生きています。パリ協定(産業革命以降の平均気温上昇を2度、理想的には1.5度未満に抑えることを目指す国際枠組)をはじめ、生物多様性の保護、SDGsなど、国際社会は極めて重要な目標を掲げています。しかし、各国の協力はまだ不十分で、具体的な行動を起こせてはいません。国際協力を促進する努力に欠如によって、私たちは非常に危険な世界に足を踏み入れようとしています。水曜な生態系が崩壊し、21世紀から22世紀の間に海面が数メートルも上昇し、飢餓と貧困が拡大する絶望的な世界です。一方、国際社会が協調して行動すれば、これらの課題をすべて解決することができます。各国が年間生産の僅か2~3%を国際協力に拠出できれば、将来、甚大な被害をもたらす大災害を低いコストで未然に防ぐことができるのです。それによって、もっと安全で、もっと健康で、もっと持続可能で、もっと公正な地球社会を、私たちは築くことができます。 ——国際通貨基金(IMF)は、新型コロナウイルスのおパンデミック(世界的大流行)による啓勢的打撃は、先進国よりも途上国の方が大きく、中長期的にも多大な損失を及ぼすと分析しています。昨年からのコロナ危機に対する各国政府の対応を、どうご覧になっていますか。 これまでの対応には、主に二つの欠陥があります。一つ目は、公衆衛生対策が概して不十分であり、最善の措置をとるための国際協力があまりにも弱かった点です。一般的に、東アジア諸国の対応は、欧米より優れていました。他者への配慮を基盤として文化や慣習が、その要因でしょう。マスクの着用、身体的距離の確保、濃厚接触者の追跡と隔離などの対策が、東アジアでは欧米よりも広く受け入れられました。欧米では多くの人が、マスクを着用しない、もしくはワクチンを接種しない〝自由〟が自分たちにはあると信じています。これは歪んだ形の〝自由〟です。二つ目の欠陥は、貧困国への支援があまりにも手薄であるという点です。貧困国は、富裕国と同じような好条件で資金調達ができません。その結果、経済的困窮と飢餓は、貧困国の方がより深刻になりました。貧困国は十分なワクチンの確保もできていません。生産されたワクチンのほとんどが、裕福な国々によって独占されているからです。 人類は同じ惑星の運命共同体宗教が価値観の変革促す力に 遅れるSDGs ——コロナ危機は、SDGs達成のための取り組みを大幅に遅らせているとも危惧されています。 SDGsはパンデミックの前から、すでに達成までの道筋から外れていました。なぜなら、富裕国が貧困国の支援に注力してこなかったからです。最近は少し変化してきましたが、特にここ数年の米国がそうです。G20(主要20カ国・地域)は至急、貧困国への経済支援を増大させる必要があります。貧困国では今日においても、大勢の子どもたちが学校に通えていません。多くの人が十分な医療を受けられず、電力やデジタル機器にアクセスできずにいます。こうした問題を解決できる経済力がないからです。その他の重要なSDGsの目標を達成するために手段もありません。また貧困国は、気候変動による影響を最も強く受けています。その主な原因は、富裕国が大量に排出してきた温室効果ガスなのです。 ——教授は新著『グローバル化の初時代(仮訳)』で、人類史を七つのグローバル化の時代に区分され、2001年からは「デジタル時代」に突入していると分析しています。 人類は「デジタル時代」に入り、かつてない規範でデータを蓄積・伝達・処理できる能力を得ました。コンピューターや家電製品、ロボットなどの機会によって、私たちの生活は便利になりました。人工知能(AI) の分野など、「デジタル時代」の技術は驚くべきスピードで発達しています。余暇の増加、教育・健康・公共のサービスの向上など、新しい繁栄をもたらすという意味では、とてもいいニュースといえます。一方、「デジタル時代」には大きなリスクもひそんでいます。非熟練労働者の大量失業につながる可能性もありますし、デジタル技術を〝持つ人〟と〝持たない人〟の社会的・経済的な格差が大きくなることも懸念されます。サイバー攻撃をはじめとする新しい形での戦争、プライバシーの侵害、依存症やメンタルヘルスの問題など、さまざまなリスクが考えられます。これらの一部は、すでに深刻な問題として現れ始めています。 ――リスクを減らすために何が必要でしょうか。 「デジタル時代」の恩恵に、正しく、最大限にあずかるためには、各国政府が慎重に対策を考え、国際協力を推進していく必要があります。デジタル技術の軍事転用を防ぐために、新しい軍縮と国際安全保障の条約を結んでいかなくてはなりません。すべての市民がデジタル技術にアクセスできるようにし、ロボットや人工知能に仕事が奪われる可能性がある人々への社会保障や職業訓練など、効果的な戦略と寛容な社会政策が求められます。いずれも難しい課題であり、解決策はまだ見つかっていません。 ——教授は同書の冒頭、デジタル時代のグローバル化が進む現代において、「世界平和は実現可能な家。もし可能なら、どのような人間の共通理解・倫理をもとに実現できるのか」という問いを立てています。そして最期に、教授がリードした宗教間対話のプロジェクトで、「黄金のルール」にたどり着いたことを紹介しています。 「黄金のルール」とは、世界各地の宗教、文化的先人の知恵が共有する三つの考え方を指します。一つ目は、自分がしてもらいたいように人に対してすべきことだということ。儒教、キリスト教、ユダヤ教の聖人たちが、この考え方を擁護しています。二つ目は、世界は富裕層だけのものではなく、すべての人のものであるという考えです。貧しい人々も、健康な人生を送ることのできる物質的な基盤、そしてすべての人に備わる尊厳を認められるべきです。三つ目は、人間は地球の管理者であって、生物の支配者ではないという考えです。私たちは生物圏の一員であり、モラルや美学、経済的な理由からではなく、自らの生存のために地球を守らなければなりません。生態学や地球システムについて教育を受けていない人が多いため、この教訓はよく理解できていません。これら三つの「黄金のルール」は、人間の行動の規範、国際協力の倫理的支柱として認識されるべきです。国連の〝モラルの憲章〟とも呼ばれる、1948年の世界人権宣言は、この「黄金のルール」と「貧者の優先」を力強く表現しています。さらに現代においては、今を生きるすべての人々と将来の世代が、安全で持続可能な環境を享受する権利を加えた、〝21世紀版の世界人権宣言〟が求められています。各国政府、企業、市民社会は、これらの普遍的権利を擁護するために課された、それぞれの義務を認識しなければなりません。 SGIは平和と国際協力を推進 ——池田SGI会長は、1993年のハーバード大学での講演で、大乗仏教が21世紀文明に貢献しうる役割を「平和創出の源泉」「人間復権の基熟」「万物共生の大地」と提唱しました。SGIは、大乗仏教の精髄である法華経の万人の平等と生命尊厳の哲理を掲げるFBO(信仰を基盤とした団体)として、世界各地で平和と持続可能な発展のための活動に取り組んでいます。 世界平和、国際協力、相互理解を促進するSGIの働きは、巨大な道徳的力を持っています。私たちには、21世紀の地球倫理が必要です。普遍的な人間の尊厳、持続可能な発展、富裕層が果たすべき責任、貧困層と弱い立場におかれた人々への支援を、その基盤にしなければなりません。私たちの相互依存性と人類共通の運命こそ、新しい地球倫理構築のための最も重要な土台です。全世界の主要な宗教が、私たちの利益と地球を守るために、共通点を見つけられるはずです。核戦争によって人類が滅亡する寸前にまでに陥った62年の「キューバ危機」の翌年、米国のジョン・F・ケネディ大統領は平和創出のための傑出した努力を重ねました。「キューバ危機」の結果として、ケネディ大統領は、地球に生きる生命の脆弱性、そして人類共通の価値観と展望の必要性を深く認識しました。有名な63年6月の演説「平和戦略」で、ケネディ大統領が語った次の言葉は、現代の私たちにとっても、本質を突いたものであると確信します。「だからこそ、意見の違いから目をそらさず、共通の利益に目を向け、違いを解決できる手段を探しましょう。たとえ今すぐ解決できなくても、少なくとも多様性を受け入れる世界にできるよう、努力しようではありませんか。つきつめれば、私たちを結びつけている、何よりも基本的な共通のつながりは、誰もがこの小さな惑星に暮らしているということなのです。誰もが同じ空気を吸って生きています。誰もが子どもたちの将来を気にかけています。そして誰もが死すべき運命にあるのです」(ジェフリー・サックス著、櫻井祐子訳『世界を動かす ケネディが求めた平和への道』早川書房) Jeffrey D.Sachs 1954年、米国生まれ。ハーバード大学大学院で博士号(経済学)を取得に、28歳で教授に就任。20年間、同大学に所属し、国際開発センター所長を務めた後、コロンビア大学に移籍し、2002年から16年まで同大学地球研究所所長。歴代の国連事務総長、途上国政府、世界銀行のほか各国際機関のアドバイザーを歴任し、貧困の根絶、気候変動対策、SDGsの策定・推進など、地球規模の問題解決のため尽力してきた。04年、05年にはタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。現在、SDGs達成を目指す研究有機関の世界的ネットワークである国連「持続可能な開発ソリュ―ジョン・ネットワーク」の会長を務める。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.11.9
February 20, 2023
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第16回SDGsの理念と実践 創価女子短期大学准教授 青野 健作さん誰も置き去りにしない社会の実現へ「善の連帯」を広げる挑戦地球と人類の未来を守るために——気候変動地策は〝待ったなし〟の状況です。記録的な猛暑や大雨、台風の頻発など、近年、国内外で見られる異常気象によって、気候変動の深刻さを身近で感じるようになりました。こうした異常気象は、長期的な地球温暖化の傾向と一致しているといわれています。貝」故に、気候変動という危機に立ち向かうには、温室効果ガスの排出量を減らしていけるかが鍵となります。2016年に発効した「パリ協定]では、地球の気温上昇を、産業革命以前と比較して「2度より十分低く、可能であれば5度」に抑えることが、世界共通目標として掲げられました。各国は、温室効果ガスの排出削減目標を自ら設定し、5年ごとに自国の目標を更新することになっています。現在開かれているイギリス・グラスゴーでのCOPを前に、各国が削減目標を再提出しましたが、それらを含めても、「2度」の目標達成には届かないのが現実です。各国の努力をさらに加速していけるか。正解はイメ、ターニングポイント(転換点)を迎えています。◆◇◆ 経済活動が地球を覆う「人新世」時代気候変動対策は〝待ったなし〟 言うまでもなく、地球環境は有限です。にもかかわらず人類は、まるで地球の資源が無限であるかのように、環境を開発し続けてきました。エコロジカル・フットプリントという指標で見ると、現代の人類社会は、地球の再生能力の「1.69倍」に及ぶ資源を消費することで成り立っています。日本の生活レベルで計算すれば「2.76倍」です(南博・稲葉雅紀著『SDGs 危機の時代の羅針盤』岩波新書)。今までは、地球が「持続不能」であることは明らかです。述べる化学賞受賞者のパウル・クルッツェン氏は、地球学的に見て、今は「人新世(ひとしんせ)」という新しい時代区分であると提唱しました。人類の経済活動が、地球を覆い尽くす時代という意味です。これを裏付ける研究が、ヨーロッパを中心に発展していきました。一つが「グレート・アクセラレーション(大加速)」です。人口や実質GDP(国内総生産)、観光など12の「社会経済的な指標」と、大気中の二酸化炭素濃度や地表温度など12の「地球環境的な指標」が、1950年代後半以降に、急激に変化してることを示したものです。そしてもう一つは、「プラネタリー・パウンダリー(地球の限界)です。地球には本来、外部からの変化や衝撃を緩和する回復力が備わっています。温室効果ガス排出に起因する熱が海洋によって冷やされたり、人間が排出した二酸化炭素が自然生態系に吸収されたりするのも、回復力の例です。しかし地球環境に負荷がかかれば、こうした回復力は徐々に失われていきます。「地球の限界」は、気候変動や成層圏オゾン層の破壊など九つの指標で、安定的かつ回復可能な状態であり続けるための限界値を示しています。重要なことは、互いに変化を緩和することで、均衡を保っていた地球の生態系要素が、ある点を境に、変化を助長し合って不均衡を促す、正反対の方向へと変貌してしまうということです。地球に与える負荷が飽和点を超えたとき、「地球は突然、友人から敵に変わる」「ある均衡状態から別の均衡状態に不可逆的に移行する」のです(J・ロックストーム/M・クリム著『小さな地球の大きな世界』武内和彦・石井菜穂子監修、丸善出版)。九つの指標のうち、気候変動、生物多様性祖損失、土地利用の変化、そして窒素とリンの循環については、すでに限界値を超え、危険域に入っているといわれています。持続可能な地球の未来のために、人類の連帯と行動が求められています。その道しるべとなるのが、SDGs(持続可能な開発目標)です。SDGsは2015年9月に、国連で採択されました。2030年を目指して取り組む、17のゴールと169のターゲットを定めています。成立の背景には、SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)の反省がありました。MDGsでは、発展途上国の開発のための、8つのゴールと21のターゲットが定められました。貧困削減をはじめ大きく前進した分野がある一方で、進展は地域によって差があり、サハラ以南のアフリカでほとんどのターゲットが未完成でした。また、MDGsが発展途上国の問題を扱うにもかかわらず、一部の専門家によって決定されたことや、途上国の問題の多くが先進国の経済活動によって引き起こされたものであることなどに、不満や批判があったのも事実です。これらの反省を踏まえて、SDGsが、実に3年半に及ぶ交渉の末、先進国も途上国も含む、国連加盟国の合意によって成立したことは、画期的な出来事でした。地球問題に、人類全体で取り組んでいく。気候変動をはじめとする現代の危機を前に、こうした姿勢がSDGsという形になったのです。◆◇◆SDGsの〝生みの親〟は一人の外交官でした。南米コロンビアで、外務省の環境局長を務めていた女性です。2011年に行われた、翌12年の地球サミットに向けた準備会合において、彼女は、MDGsで抜け落ちていた地球環境問題についても、同様の目標を設けるべきだと語ったのです。これを端緒として、SDGsの議論が国際社会の潮流となっています。わたしが外務省で働いていた時、コロンビアとの経済交渉を担当したことがあります。同国は、世界で最も生物多様性に富む国の一つです。コロンビアなどの発展途上国では、自然も、伝統的知識や文化の多様性としての〝財産〟であると考えていることを学びました。環境を大切にするコロンビアの人たち——印象的だったかつての出来事を、数年後、SDGs成立の経緯を学ぶ中で思い出し、合点がいったのを覚えています。実際にSDGsは、環境を含む「社会・経済・環境」のお領域を柱として整理されました。17のゴール、169のターゲットと広範な指標を定めていますが、それぞれが個別に存在するのではなく、相互に依存し、影響し合っていることを前提とした、統合的なアプローチをとっています。 一人の幸福に尽くす生き方がSDGsを体現 対話によるエンパワーメント(内発的な力の開花)を変革の柱に 人間に立ち戻れSDGsの特徴の一つは、国家間の合意に基づいて権利・義務関係を定めた「条約」ではないという点です。公的拘束力を有した条約(ハードロー)に対して、共通のゴールをもって働き掛けるものであり、国際法では「ソフトロー」に位置付けられます。義務や罰則などを定めると、条約を「守る」「守らない」といった点に目が行き、容易に政治問題にもありえます。また、理念には賛同するが㊤屋には加わらない、といった国が増える可能性もあります。その点、SDGsでは共通の目標を掲げつつも、その手段はそれぞれの国や人々にゆだねています。一国、一市民の行動を、外からの発露によって促すものであり、それは遠回りのようであっても、究極の解決の方途であるといえます。政治では解決の難しい問題にも、国際協調という「全の連帯」で立ち向かうからです。◆◇◆169の多様なターゲットを定めたSDGsは、あらゆる企業や個人に参加の機会を提供しています。これは、民衆のエンパワーメント(内発的な力の開花)を促す取り組みであるといえます。地球的な課題に取り組む上で、大切なのは「人間」に帰着すること——これが現代の共通認識となっているといえるでしょう。1969年、池田大作先生は米コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで講演し、戦争や環境破壊、格差などの地球的問題群の底流にあるものは、「あらゆる分野において、『人間』を見失い、『人間の幸福』という根本の目的を忘れてきた失敗」であると語られました。そして、「『人間』こそ、私たちが立ち戻り、また新たな出発をすべき原典でなければなりません。人間革命が必要となっています」と。〝SDGs時代〟の到来を前に、人間に立ち返るべきであると断言されていることに感動を深くします。この講演を指針として、創価女子短期大学も、創立者のご期待に応えるべく、世界市民育成の教育に力を注いできました。 一点突破の大切さ本年、私は創価女子短大のSDGs推進担当を拝命しました。何から始めようか悩む中、学内関係者にもご協力いただき、まずは青のゼミの学生と一緒に取り組もうと考えました。取り上げたテーマは「整理「誰も置き去りにしない」という理念があります。行動する上では、この根本理念を繰り返し、の貧困」です。経済的な理由などから、生理用品の入手が困難な女性は多くいます。そうして人たちを取り巻く「生理の貧困」を解決することは、ゴール5の「ジェンダー平等」をはじめ、SDGsにも直結します。私たちの取り組みは、一人一人のゼミ生の思いが結実して達成されました。「生理の貧困」に向き合っていたいという彼女たちの強い思いが、学内に波及していったのです。稲で議論を重ね、生理用品を無料で提供する必要性を大学に訴えていきました。その結果、全国の大学に先駆けて、短大口内の女子トイレに、生理用品を無料で提供するディスペンサーが設置されることが決定したのです。学生が自ら考え、行動し、大学を動かす——ボトムアップで「生理の貧困」に取り組んだ大学は、私たちが初めてであると自負しています。「生理の貧困」の解決は、ジェンダー平等だけでなく、ゴール③「すべてに人に健康と福祉を」、ゴール6「安全な水とトイレを世界中に」の推進にも通じます。一人からゼミへ、そして大学全体へ。あるいは、SDGsの全体へ——。大きな変化を起こすためには「一点突破」が大切であることを、学生たちから教えてもらいました。◆◇◆SDGsの根底には、「誰も置き去りにしない」という理念があります。行動する上では、この根本理念を繰り返し、思い起こし、共有していくことが大切だと思います。たとえば、ゴール1「貧困をなくそう」には、1日1.25㌦未満で生活する「極度の貧困」を終わらせるといったターゲットがあります。日本では「極度の貧困」をイメージしにくい人もいるかもしれませんが、では、相対的貧困はどうでしょうか。ひとり親家庭の貧困、子どもの貧困、そして整理の貧困等々——どれも深刻な問題です。「誰も置き去りにしない」という理念に照らした時、解決に向かっているように映る課題の奥に、また別の課題があること気付きます。そうした姿勢は、個人にとっても重要だと考えます。エコバックの使用や節電など、個人にできることは多くありますが、それらはあくまでSDGsへの入り口であるからです。入口に立つだけでその先の行動を止めてしまっては、「SDGsウオッシュ」(=見せかけの取り組み)になりかねません。こうして考えると、SDGsとはどこかに終着点があるのではなく、「誰も置き去りにしない」社会の実現を目指し続けるといえるのではないでしょうか。そして、誰もが自分の足場を見つけて挑戦を重ねる、「生き方」そのものであるとも思うのです。 わが事と捉えるそれは、一人を大切にする私たち仏法者の生き方と深く響き合います。創価学会員が実践する「民衆のエンパワーメント」——その手法は対話であり、人間革命の運動です。眼前の一人の幸福を祈り、無限の可能性を信じて関わり続ける。そうして立ち上がった一人が、今度は他の誰かを励ます側となる。そして、相手に寄り添い、ともに歩む日々が、自分自身の人生にも大きな元気と活力を与えてくれている——。「善の連帯」を広げるこの挑戦に終わりはありません。自他供の幸福を目指す仏法者の生き方それ自体が、SDGsを体現する生き方であると強く実感します。「ますます相互依存が進む世界では(中略)世界の誰もが、ほかの誰かの『裏庭』に住んでいる」(前掲『小さな地球の大きな世界』)網の目のように結ばれた今日の世界にあって、SDGsは地球上の問題について想像力を働かせ、「わが事」としてとらえるよう呼びかけます。牧口常三郎先生が「人生地理学」でつづられ、戸田城聖先生が「地球民族主義」として構想され、そして池田先生が識者との対談や「SGIの日」記念提言などで訴えてこられた、世界市民としての自覚と生き方、それらを育む教育の大切さが、いかに先見の明に富んだものであったか。SDGsに生きる日々は、私にとって、学会員としての誇りを再確認する日々にほかなりません。一人の生きる姿勢が、誰も置き去りにしない社会をつくる原動力となる。このことを確信し、人間革命の哲学を胸に刻みながら、具体的な行動を起こしてまいります。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.11.4
February 12, 2023
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第8回耳と鼻の持つ可能性耳鼻咽喉科 田崎クリニック院長 田崎 洋さんにおいや音を通して状況を認識眼には見えぬ世界を感じ取る器官新型コロナウイルス感染症の症状の一つに、収穫・味覚の障害があることが知られています。日本耳鼻咽喉科学会と金沢医科大学の研究グループは本年2月から5月にかけ、感染者を対象に臭覚と味覚に関する調査を行い、感染者の約6割に臭覚障害が起こっていることが明らかになりました。また味覚の違和感を覚える方の多くが、味覚の違和感を覚える方の多くが、味覚の検査上では正常値を示しており、実は味覚障害ではなく、〝臭覚異常による風味障害〟の可能性が高いことも分かりました。臭覚異常は風邪などでも起こり、その主な原因は鼻の炎症などによる鼻詰まりです。しかし、新型コロナ感染者には、そうした症状がないのに臭覚障害となることが多く報告されています。6割以上の患者の臭覚は早期に改善していますが、感染から回復して数カ月たっても、臭覚障害が残る患者さんも少なくありません。ウイルスが直接、においを感じる嗅細胞や臭覚神経周辺に影響を及ぼしている可能性もあり、今後、さらなる調査や治療法の検討が求められています。現在、接種が進められているワクチンは重症化予防効果があり、鼻の機能を守る上でも効果が期待できます。そうした意味からも、一人でも多くの方に接種を前向きに考えていただければと思います。◆◇◆コロナによる影響は、耳にも及んでいます。それは自粛生活の長期化で、難聴の患者が増えていくのではないかと指摘されているたんです。最近、在宅による運動不足を解消しようと、イヤホンやヘッドホンをつけながらランニングする人も見掛けるようになりました。それらは〝自分の世界に入る〟には効果的ですが、音が直接耳に入るため、大音量で聞き続けると耳へのダメージが大きくなります。使用する際は、周囲と会話ができる程度の音量にし、聞こえにくいとか、耳鳴りがするといった違和感に気付いた場合は、早めに受診し、治療を受けていただくことをお勧めします。 それぞれの機能さて、今回のテーマは「鼻」と「耳」ですが、それぞれの機能を見ていきましょう。まず鼻についてですが、その役割は〝空気洗浄機〟の機能と、「におい」を感知することです。華は、私たちの呼吸の際、空気の通り道となりますが、単に空気を通過させているわけではありません。鼻毛や湿り気のある の汚れを取り除き、新鮮な空気にして体内に入れていきます。それとともに、その空気中に含まれる匂い物質を臭細胞が感知し、神経を通して脳に伝達しています。普段の生活で、この嗅覚が、味覚や資格などに比べて重要と感じるきかいは少ないかもしれません。しかし、その感覚がもし失われてしまったら、感じる世界は全く異なるものになるでしょう。例えば、食事は風味を重視しますが、臭覚がなくなってしまえば、感じる味が変わり、味そのものを感じられなくなることもあります。においの感じない景色も、その場にいるのに映像を見ているような感覚になるでしょう。実は五感の中で、臭覚には、ほかの感覚器官にはない特徴があります。それは認識された情報が、自律神経の調節を行う視床下部を経由せず、直接、記憶をつかさどる大脳辺縁系に送られることです。皆さんも、ある香に触れ、〝懐かしい〟などと過去の記憶が呼び起こされた経験があると思いますが、そうしたことも、この脳との関係が影響していると考えられます。この大脳辺縁系は本能や情緒とも深く関わっており、そこで情報が処理される鼻は、周囲の状況をもっとも直接的につかむ機関であると思います。次に耳の機能ですが、その主な役割は、空気の振動、つまり「音」を感知することです。耳は三つの部分からなり、外から見える耳、いわゆる普段、私たちが言う耳から鼓膜までは「外耳」と呼ばれ、ここは集音の役割があります。そして、鼓膜の内側は「中耳」と呼ばれ、そこにある骨が鼓膜に伝わった空気振動を約30倍に増幅し、さらに内側にある「内耳」と呼ばれる部分につなぎます。内耳には、液体で満たされた蝸牛という部分があり、そこにある毛のような細胞が振動することで電気信号に変換され、その信号が脳に伝わることで私たちは音を認識しています。また、私たちは耳が二つありますが、そこにも大切な意味があります。音の発生場所によって、左の耳と左の耳に入るタイミングには、わずかな差が生じます。加えて、左右の耳に入ることで、その発生源がどこにあるのかを立体的に捉えています。◆◇◆鼻と耳は、まったく別の機能のように思えますが、共通の特徴があります。それは、においや音を通して「周囲に触れることなく、その状況を認識できる」という点です。これは眼も同じで、「遠隔感覚」と呼ばれます。その上で、人間は、このえんかく感覚の中で、鼻よりも耳、そして耳よりも眼で得た情報を優先することが知られています。一説には、私たちは情報の8割以上を視覚に頼っているともいわれますが、眼では例えば、壁の向こう側は、回り込まなければ見ることができません。一方、鼻と耳は、たとえ距てるものがあっても、その先にあるものを感じ取ることができます。この鼻と耳の持つ可能性に目を向けていったとき、これまでとは違った世界を感じられるのではないかと思うのです。 心の変化を察知する嗅覚と聴覚この力を周囲の友のために 六根清浄の功徳では仏法では、鼻と耳のもつ特徴を、どう捉えているのでしょうか。法華経では、六根のうち、鼻が清らかになる功徳について、「香を聞(か)いで悉く能く知らん」(法華経538㌻)などと説かれており、あらゆる香りを嗅ぎ分け、それだけでなく、楚の香から相手の心や生命状態なども読み取ることができると教えています。あらゆる香りを嗅ぎ分ける——私たちの身近な存在で、嗅覚が秀でた動物にイヌがいます。犬の持つ嗅細胞は人間の40倍ともいわれそのイヌと比べれば、私たちは嗅ぎ分ける力は劣ると思うかもしれません。しかし、アメリカで興味深い実験が行われました。それは、ある香を人に嗅がせ、犬と同じように地面に鼻を近づけながら香の跡をたどる実験です。その結果、多くの被験者が正確にたどることができ、中には訓練を繰り返すうち、犬よりも早くこなせるようになった人もいたというのです。だからといって、犬よりも臭覚がいいということにはなりませんが、調香師が1万種類もの香りを嗅ぎ分けられるといわれるように、私たち一人一人の嗅覚も、訓練することで鋭くなるのです。その上で、仏教で教える心や生命の香も、感じられるようになるのでしょうか。これは、あくまで個人的な実感ですが、そうしたものも、神経を研ぎ澄ましていけば感じられるのではないかと思っています。私は、幼い頃から多彩な国々の人とふれあってきました。国によって食べるものや生活習慣も変わりますが、そうした違いが、人それぞれのもつ香りに影響することを感じてきました。また病院で診察する際も、どんな疾患を抱えているかによって、患者さんのにおいが変わることも難じてきました。あった瞬間、どんな疾患か分かったということも、一度や二度ではありません。実は嗅覚には、におい物質に慣れると、そのにおいを感じにくくなる特徴があります。自分のにおいを感じにくくなるという感覚は、だれもが持っているでしょう。それは、そのにおいに気をとられると、周囲の臭いに気付きにくくなってしまうからです。むしろ嗅覚は、周囲の変化を敏感に察知するために発達したとも言えます。その意味では、一人一人に寄り添い続ける中で、香りの変化から心の変化を感じられるようになることは、十分に考えられるのではないでしょうか。◆◇◆次に、耳の功徳について、法華経には「三千大千世界の全てのあらゆる声を、父母から生まれながら受けた、いまだ神通力を得ていない耳で、全てを聞き、知ることができるであろう」(同530㌻、通解)と説かれています。訓練を重ねた音楽家は、わずかな音の違いも、1000分の1秒の音のずれも聞き分けられるそうですが、聴覚も嗅覚と同じように、鍛えられることが分かっています。さらに人間の嗅覚は、雑音などで会話が聞きにくても脳が音を補正し、必要な音を聞き分けることができるのが特徴です。つまり、聞きたいと思って集中した分、それがきけるようになるのです。人それぞれ、声には、その時の微妙な心の変化があらわれますが、そうしたものも、感じ取れるようになっていくと思います。 御書「此の娑婆世界は耳根得道の国」今こそ希望の励ましを強く 動物に共通の感覚その上で、日蓮大聖人は「此の国の娑婆世界は耳根得道の国」(御書415㌻)と仰せです。先ほど、私たちは眼や鼻、耳と言って遠隔感覚の機能を使い、周囲の状況を認識していると述べましたが、逆を言えば、私たちが人々に影響を与えるには、周囲の人が持つこれらの感覚に訴えることが大切ということです。なぜ、大聖人は眼でも鼻でもなく、耳によって成仏すると仰せなのでしょうか。生物学の観点で言えば、この世には、眼を持つものや持たないものなど、多種多様な動物が存在しますが、実は地球上に生きる動物が、遠隔感覚の中で共通して持っている感覚器官があります。それが耳なのです。ここで言う耳とは、聞くということではなく、平衡感覚の機能を持った器官のことです。全ての動物が平衡感覚を持つ理由は、地球に重力があるからです。この重力に対する傾きを覚知することで、動物は前後左右、自分がどの方向に進んでいるのかを感じ取っています。そして人間などが持つ耳は、この平衡感覚器として生まれた耳に、進化の過程で音を覚知する力が加わったものです。もちろん、人間の耳にも平衡感覚器の役割があります。先ほど述べた通り、人間の耳にある蝸牛は液体で満たされていますが、その液体の傾きによって、私たちも耳で平衡を感じ取っています。地球上で暮らす動物たちに共通する耳によって成仏する——これは、興味深い点ではないでしょうか。その上で、人間の耳について言えば、例えば、生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声は、生まれた国の言語によって抑揚が微妙に違うことが分かっています。それは体内にいる時から、周囲の声を感じ取っているからだと考えられています。また、死ぬ介護の瞬間まで活動するのも、聴覚だと考えられています。こう見ると、「耳根得道の国」との仰せには、生命の心音を心で聴くという重要な意味があると感じずにはいられません。 会うことの大切さ多くの人が将来に不安を抱えるコロナ禍の中にあって、今こそ声にならない声に耳を傾け、一人一人の耳に希望の励ましを届けていくことが大切だと思っています。当に、耳の力が求められています。その上で、私は感染症対策に万全を期すことを前提として、対面で会えるなら、短時間であっても会っていくことが大切度と感じます。それは、鼻の持つ機能と関係します。嗅覚は記憶と密接に結び付いていますが、その嗅覚で感じた情報は、視覚で得られた情報よりも記憶に強く残ることが分かっているからです。つまり、孤独に悩む友がいるのなら、直接会った方が、相手の記憶に残る励ましを送ることができるのです。鼻と耳の持つ力は、眼だけでは決して分からない人々の微妙な心を感じ取り、人々の絆を結んでいくものだと思っています。この力を地域の同志と伸ばしながら、広布前進のために全力を尽くしていきたいと決意しています。 たざき・ひろし 1958年生まれ。医学博士。耳鼻咽喉科専門委。韓国・高麗大学医学部卒業。名古屋市立大学医学部耳鼻咽喉科勤務、米セントルイス大学医学部研究員などを経て、2000年に耳鼻咽喉科田崎クリニックを開院。創価学会中部ドクター部長。区副書記長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.10.15
January 17, 2023
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日本の新型コロナワクチン接種は想像以上に順調な進み方インタビュー 大阪大学 宮坂 昌之名誉教授 高い有効性・安産性——近著『新型コロナワクチン 本当の「真実」』には、ご自身が本然、ワクチン接種を受けようと決断するにいたった経緯が書かれています。今と違い、昨年の時点でワクチン接種に慎重な意見をお持ちだったそうですが……。 もちろん、接種の判断は一人一人の自由です。それを前提とした個人的な見解では、接種が可能ならば「打たないという選択肢はない」と、今は思っています。しかし、昨年までは、必ずしもそうではありませんでした。私は、いくつかの著作で、今、接種が進んでいる「mRNAワクチン(※注1)」というタイプのワクチンについて書きました。新型コロナウイルスに対しても、こうしたワクチンが強力な武器になりうると予想していました。ただ、mRNAワクチンはコロナ禍の前から「がんワクチン」などとして研究されていましたが臨床試験(治験)があまり進んでいなかった。また、エボラ出血熱などに対してもワクチンが使われていたものの、何十万人という単位でのデータはありませんでした。したがって、新型コロナワクチンがどれだけ有効でどれだけ副反応が出るのか、当初は予想するのが難しかったのです。昨年11月にはファイザー社やモデルな社から、ワクチン有効率(※注2)が90%をこえたという、臨床試験の結果が発表されました。インフルエンザ向けワクチンの友好率が40~60%程度なので、これは驚異的な数字です。しかしながら、その時点で「安全性」について具体的なデータは、まだ十分でないように感じました。それで私は、「接種については慎重に考えたい」という意見を述べていたのです。 ——しかし、その後、意見を大きく変えられています。 今年に入ってから、米国のCDC(疾病対策センター)が、約2300万人に及ぶコロナワクチン接種者の副反応データの分析結果を公表しました。「重篤な副反応の頻度は、従来のワクチンと同等」という結果でした。つまり、コロナワクチンが他のワクチンよりも危険ということはないと。90%を超える驚くべき有効性があり、「感染予防」の三つの働きが、そろって非常に高い。加えて「安全性」も明らかになったことで、私は「打たない選択肢はない」と確信するに至ったのです。 短時間での進展——コロナワクチンは短期間で開発が進み、人類が経験したことのない規模で実用化されました。その中では、何かと「リスク」ばかりが強調されがちですが、日本での接種はイメ、日本での接種は今、累計回数で世界第5位となっています。 日本の接種の進み方は、予想をはるかに超える、順調な伸び方です。今年の5月、政府が「1日に100万戒」との目標を示した時、私は、それはとてもできないだろう、そこまで行くにはかなり時間がかかるだろうと思いました。ところが関係者の皆さんが、やりましょうということで立ち上がって、力を合わせた。私も今、大阪市での接種をお手伝いしています。接種を担う医師や看護師、役所の方々、アルバイトの皆さん——ものすごく大きなチームが一丸となって、熱心に動いています。接種に関わり始めた当初、短時間でこれほどのチームの動きができるのかと、感動しました。デジタル化の遅れなどなどの課題もありますが、ワクチン接種の実施という点では、見事な進展だと思っています。また、私は、海外からのワクチン確保・供給が、そんなにスムーズに進むはずはないと思っていました。昨年の感染拡大の当初、ヨーロッパやアメリカには、人口比で見ると日本の50倍から100倍に及ぶ新規感染者がおり、そうした地域のワクチンの必要性が非常に高いと思われたからです。また、世界的なパンデミックで、どの国も有効率の高いワクチンを使いたいのは同じですから、ワクチンが日本に来るのが少し遅れてもやむを得ない状況でした。 免疫が働く仕組み——コロナワクチンの有効性の高さは、どんな仕組みで実施されているのですか。 ワクチンは、人の免疫に病原体の情報を覚え込ませておいて、実際に病原体が体内に侵入した時、その外敵から体を守る効果を発揮させるものです。私たちの免疫は「自然免疫」と「獲得免疫」の二段構えの機構になっています。「自然免疫」は、体内に入ってきた多様な病原体に素早く反応します。一方、「獲得免疫」は体内に入った病原体の特徴を〝記憶〟することができ、その病原体が再び体内に侵入してきた時、強く反応し、より多くの抗体(ウイルスなどの異物を体内から排除するたんぱく質)や免疫細胞をつくって体を守ります。コロナmRNAワクチンは、コロナウイルスの遺伝子(RNA)の一部だけを体の中に送り込んで働かせ、あたかもウイルスそのものの感染があったような反応を起こして、自然免疫・獲得免疫を活性化させる仕組みです。このワクチンには、実用化に当たって、多くの工夫がされています。例えば、ワクチンに含まれるコロナウイルスRNAを脂質膜で包み、「脂質ナノ粒子」と呼ばれる形にしたことも、素晴らしい工夫の一つです。自然免疫を働かせる細胞の一つで、獲得免疫を働かせる鍵となる「樹状細胞」や、獲得免疫の主役となる「リンパ球」は、「リンパ節」というところに集中して存在しています。脂質ナノ粒子は、そのリンパ節につながる「リンパ管」に入り込みやすいという特徴があります。インフルエンザの「ワクチンなどは、「水溶性」であり、筋肉注射すると、その個所から全身に散らばっていきます。そのため、リンパ節に入っていく量は、どうしても少なくなります。しかし、コロナのmRNAワクチンは、脂質ナノ粒子の形にしているため、血管に入らず、選択的にリンパ管に入り込むのです。そのため、ワクチンが直接的に、〝免疫の砦〟であるリンパ節に再び運び込まれ、非常に効果的に、強い免疫反応が起きるようになるのです。 ワクチンは人が持つ「戦う力」を何倍にも引き出してくれる ——ワクチンは人体にとって「異物」ですが、そうしたワクチンと免疫の関係は、仏教でいう「縁」と「因」の関係を想起させます。ワクチンが「縁」となり、人体が本来持つ力を引き出してくれるというイメージで……。 当に、そう考えていいと思います。私たちは、もともとコロナウイルスにも反応する力を持っていますが、その力は、そんなに多くない。そして、非常に大きな個人差もあります。しかし、ワクチンは、もともと人が持っている〝戦う力〟を十倍、百倍、千倍にしてくれる。そうして接種を受けた多くの人が、異物に対抗する大きな力を持てるようになる——そういうことだと思います。その上で、例えば「おたふくかぜ」のワクチンの効果が続くのは20年から30年ほど。破傷風、はしかなどは、高価が50年くらい続きます。ところが、インフルエンザはワクチンを打っても4カ月ほどで効果が半減します。つまり、ワクチンの中には、免疫を長期間、持続させてくれるものと、そうでないものがある。これは、ワクチンが悪いのではありません。病気亦ウイルスの中に、長期の免疫を付与するものと、そうでないものがあるのです。その違いの原因については残念ながら、まだメカニズムがよくわかっていません。免疫学者も、答えを見つけられないでいるのです。この問題を解決できたら、ノーベル賞ものだと思います。 ブレイクスルー感染——宮坂名誉教授は、「変異株」に対するワクチンの有効性についても、繰り返し語らえています。 変異といっても、その遺伝子の変化は非常に小さく、ワクチン接種による発症予防効果は以前、かなり大きいといえます。その上で、感染者の保有するウイルスが最も多くなる「デルタ株」の登場で、ワクチンの効果が少し下がりつつあることは事実です。ワクチン接種者が感染する、いわゆる「ブレイクスルー感染」もあります。ただし、例えばイギリスのデータを見ると、ファイザー社・モデルな社のmRNAワクチン、またアストラゼネカ社のウイルスベクターワクチン(※注3)ともデルタ株によって効果が少し下がっていますが、重症化率はどちらも10分の1ほどに抑えられています。また、ブレイクスルー感染による感染者は、ワクチン接種者の中の割合で見ると、非常に少ないです。では、社会に飛び交うウイルス量が変異株によって増えたこと、またワクチンの防御力が、何でも完全に防げるようなものではなかったことが考えられます。社会のウイルスの量を雨に例えるなら、私たちは当初、ワクチンを2回打った人というのは、どんな雨にも濡れない「厚い鎧」をまとったくらいの防御力を得ると思っていました。祖化し、実際にワクチンで得られるのは、「厚い鎧」ではなく「トレンチコート」「レインコート」くらいの防御力だった。すると、ある程度の雨を防ぐことはできても、世間にまだワクチン未接種者が多く、変異株によってウイルスの量も増えると、その「土砂降りの雨」は防ぐことができず、ぬれてしまう。つまり、感染する意図も出てくる。他国の例を見ると、ワクチン接種が6割くらいの状況で、マスク着用などの社会的制限を解除してしまえば、やはりブレイクスルー感染は増えるようです。一方、ワクチンを接種していない人は「裸」の状態といえますので、たとえ雨が少量だったとしても、当然ながらぬれてしまうことになる。やはり、ワクチンは接種した方がよいわけです。日本では、海外ほどブレイクスルー感染が起こっていません。「変異株=ワクチンの効果が落ちた!」とばかり強調する報道もありますが、マスク着用などの対策を社会的に行っていれば、そうした感染は抑えられるのです。そうした対策をとりながらワクチン接種を粛々と進めることで、社会にフルウイルスの『雨』の量を減らせば、トレンチコート・レインコートを着ている人なら基本的には大丈夫ということになるわけです。また、ウイルスの変異は感染者の体内で起こるので、感染者が減れば、新たな変異株が誕生する確率も減ることになります。 抗体カクテル療法——「抗体カクテル療法」(※注4)にも、コロナ禍を打開する上で、大きな期待が集まっています。 昨年、綿井は首相官邸で、コロナの今後の対策についてお話する機会がありました。そこで申し上げたのは、「ワクチン」とともにコロナ対策のゲームチェンジャーになるのは「抗体カクテル療法」だということでした。日本でも、国内製薬会社がこの治療薬を作っており、その効果は劇的です。東京都では、重症化リスクの高い人に治療薬を投与すると、2~3割の人は2日以内に症状が消え、残りのうち半数は、症状が出ないまま1週間以内に退院できています。まだ、世界的な供給量の不足や価格などの課題もありますが、この治療薬が広く実用化すれば、重症者が激減すると思います。 誤解を解きたい——ワクチンについては、玉石混交の情報、悪質なデマ情報も飛び交っています。 最近は、厚生労働省のホームページなども、情報発信の工夫を凝らしていますね。コロナワクチンのような「mRNAワクチン」については、がんワクチンなどの形で開発されてから、すでに10年がたっています。その間に、さまざまな実験も行われており、ワクチンのウイルス遺伝子が子孫に遺伝していかないことや、体内に注射したmRNAは2日以内に分解されましたが、その基幹的な研究には長い歴史があるのです。私が本を書いている一番大きな理由は、どうしたらワクチンに対する世間の誤解を解けるか、という思いがあったからです。〝免疫学の祖〟の一人は、北里柴三郎という人です。つまり、免疫学は日本人によって始まっている面もあるわけです。日本の免疫学は今、世界のトップクラスでしのぎを削っていますが、まだまだ、さまざまな謎が解けていません。日本の若い人にはぜひ、免疫学の分野で、ノーベル賞を受けるくらいの活躍をしてほしいと願っています。 注1 「メッセンジャー・アール・エヌ・エー・ワクチン」ウイルス遺伝子(RNA)の一部を含むワクチン。その遺伝情報をもとに体内でウイルスのタンパク質の一部が作られ、これに対して抗体などが産生されることで、ウイルスに対する免疫ができる。 注2 ワクチンが発症を減少させる割合。「ワクチン降下率=[1-〈接種者罹患率÷非接種者罹患率〉]×100」。例えば、摂取した100人のうち5人が発病し、摂取しなかった100人のうち50人が発病したなら、接種者罹患率5%、非接種者罹患率50%で、有効率は90%。 注3 発病性のない(コロナとは別の)ウイルスをベクター(運び屋)として利用するワクチン。 注4 2種類の抗体を組み合わせた薬を投与する治療法。軽症・中等症の治療に用いられ、日本では現在、点滴で投与されている。 みまさか・まさゆき 大阪大学免疫学フロンティア千九センター招へい教授。1947年、長野県生まれ。京都大学医学部卒業、オーストラリア国立大学大学院博士課程修了。医学博士。東京都臨床医学総合研究所等を経て、大阪大学医学部教授、同大学大学院医学系研究科教授を歴任。2007年~08年に日本免疫学会会長。著書に『免疫力を強くする 最新科学が語るワクチンと免疫の仕組み」(講談社)、『新型コロナ 7つの謎 最新免疫学からわかった病原体の正体』(同)など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.10.8
January 8, 2023
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第7回私たちが見ているもの富山大学眼科学教授 林篤 志さん視力低下を防ぐ心掛けをスマートフォン・タブレット端末などの普及に加えて、コロナ禍によって外出自粛が求められたことで、そうした危機を自宅で使う時間が大幅に増加し、私たちの目には重い負担がのしかかています。オーストラリアの研究機関は、2010年には20億人だった近視の人口が、50年には世界人口の半分に当たる50億になると試算。WHO(世界保健機構)は、このデータを引用した上で、近視の増加に伴って、失明する人の数も急増するか野性があると警告しています。◆◇◆なぜ、目は悪くなるのでしょうか。それはスマホなどを使う時間の長さではなく、同じ距離のものを見続けることが要因と考えられています。ものを見る際、その距離に応じて眼の筋肉はピントを合わせますが、この距離が変わらないと筋肉の緊張状態が続き、これが目の披露を蓄積させ、視力低下につながってしまうのです。最近では、眼精疲労やドライアイといった症状だけでなく、「手元が見えにくい」「夕方は物が見づらい」といった老眼の症状に悩む若年層も増えています。このほか、スマホの使い過ぎで片方の黒目が内側に向き、物が二重に見えてしまう急逝内斜視も増加傾向にあります。こうした眼の機能低下は、肩こりや頭痛といった症状につながることもあれば、心や脳に影響を及ぼすこともあります。強度の近視となった患者を対象にした調査では、打つ症状や不安障害となる方の率が高くなることが分かりました。また、視力低下で、認知症が疑われる割合が高くなるとの報告もあります。◆◇◆そもそも現代において、デジタル機器を使わないで暮らすことは難しいかもしれません。しかし、心がけ次第で視力低下を防ぐことはできます。例えば、近視は30㌢以内を見る時間が長くなると進行することが分かっているので、画面との距離を30㌢以上離して見ることが大切です。仕事などで長時間使わなければならない場合も、20分に1回、20秒程度、遠くを眺め見ることで、近視を防ぐ効果があります。今、近視予防として注目を集める一つに、1日2時間以上の屋外活動があります。実際、台湾では約10年前から小学校で2時間を目標にした屋外活動を実施しており、近視の子どもの割合を世界で唯一、減少させました。太陽光に含まれる紫の光に近視予防効果があることは、日本の研究でも証明されており、野外活動はデジタル機器に触れる時間そのものを減らすこともできます。最近、子どものスマホ利用やゲーム時間の増加が問題になっていますが、大事なのは大人が模範を示すことです。子どもたちの目を守るためにも、大人がスマホに熱中するのではなく、子どもと一緒に外へ出て体を動かしたり、会話の時間をもったりするなど、予防に努めてもらいたいと切に願うものです。 脳の働きに影響を受ける視覚人生経験や思考を重ね 本質見抜く眼を 見え方には多様性進化論を提唱したダーウィンは、眼を〝完璧にして複雑きわまりない器官〟と称していましたが、私もそう思います。例えば、水晶体はカメラのレンズに当たる部分で、遠くや近くを見る際、自然とピントを合わせます。又カメラのフィルムに阿他ある網膜には、光に反応する視細胞が片目だけで1億個以上も存在し、微妙な色の具合や明暗を識別します。視細胞では、赤、緑、青という三つの光を感知できます。これは光の三原色と同じで、それらの光が混ざり合うことで、多彩な色として認識できるのです。この資格に関して、多くのかたが、自分の見ている色と同じ色を、ほかの人も見えていると思っているかもしれません。しかし、研究では、この三つの色の感じ方について、人それぞれ、赤、緑、青の感度に微妙な違いがあることが分かってきました。それぞれの色の感度が変わるため、それらが混ざり合ってできた色の感じ方にも当然、違いが生まれています。いわば、色覚には多様性があり、その人にしか感じられない色の世界を見ているということです。◆◇◆さらに同じものを見ても、捉え方が違います。リンゴを見て、おいしそうと思う人もいれば、色鮮やかと感じる人もいます。生産者の苦労に思いをはせる人もいるかもしれません。それは、見る人のそれまでの人生経験が影響しているからです。その上、脳の働きにも影響を受けます。これを実感しやすいのは、だまし絵でしょう例えば、直線が曲がって見えたり、同じ長さの直線でも置く場所によって違う長さに見えたりすることは、皆が実感できることだと思います。そもそも私たちの眼は、脳と密接に結び付いています。というのも、目は細胞分裂の際、脳となっていく細胞から派生して誕生するからです。また近年、の研究では、〝私たちは、実際に眼の前に広がる世界とは違う世界を見ているのではないか〟ということが指摘され始めています。眼から入った情報は、神経を伝わって脳で認識されますが、この処理が行われるまでに、0.1秒ほどの時間がかかるのです。わずかな時間と思うかもしれませんが、それでも私たちの生活は成り立ちません。例えばキャッチボールをしようと思っても、認識したときには眼の前にあるということが起こり得るのです。しかし実際、私たちは、そうしたことを感じることがなくボールを受け止めたり、高速で車を走らせたりすることもできます。それを可能にしているのが眼と脳との連携で、眼から得た情報から脳が0.1秒先の未来を予測し、それを私たちに見せていると考えられているのです。この予測で重要な役割を果たしているのは、脳の前頭前野です。ここは、これまで学んできたことを踏まえて考えたり、感情をコントロールしたりする、いわば人間の知的作業をつかさどる部分です。だとすると、私たちがこれまで経験してきたことや、思ったり、意識したりしていることを踏まえて、私たちはこの世界を見ていることになるのです。 視線には人の心を動かす力温かな眼差しを周囲に 仏法が説く「五眼」さて、仏法では、眼根清浄を説き、眼が清らかになっていくことで、物事の本質を見抜けると教えています。また物事を認識する眼の能力について、肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の「五眼」という原理で示しています。肉眼は普通の人間の眼。天眼は神々の眼、いわば天界の眼で、昼夜遠近を問わず見え、肉眼には見えないものを見る能力です。慧眼は声聞・縁覚の眼で、見たものの奥にある心理や法則を洞察する眼です。そして、法眼は菩薩の眼で、衆生を救済するための智慧が見える眼です。仏眼は仏の眼で、一切の事物・事象を見通し、仏の智慧を発揮することができます。この五眼で興味深いのは、天界や声聞・縁覚界など、眼が境涯に結び付いていることです。先ほど、私たちの色覚には違いがあり、同じものを見ていても、他の人には見えていない違いを感じ取っていること、さらには人生経験などで見え方が変わることを述べましたが、そうしたことが、この五つの差を生むと考えることができるのではないでしょうか。その上で、五眼で注目したいのは、最初の二つ、その後の三つの違いです。肉眼・天眼には、視界に入ったものを単に認識するという、いわば「受動的」なものです。一方、慧眼・法眼・仏眼は、視界の情報から、その奥に隠されている法則や智慧を見いだそうという、いわば「能動的」なものに力点を置いていることです。何かをつかみたいと思って視線を向ける——こうした意識は、とても重要です。というのも、そうした意識で人生経験や思考、努力を積み重ねていくと、それが脳に影響を与え、たとえ微妙であっても見え方を変える可能性があるからです。例えば、事故を起こさないと強く意識し、過去の事故の例などを学んでいる人は、車を運転するなかで事故を予兆を見逃さないようになるかもしれません。また普段から周囲の幸福を願っている人であれば、表情や言葉の端々から微妙な心の変化も見分けられるようになるのです。加えて、「目は口ほどに物を言う」とのことわざにある通り、人間は、視線を使って相手に思いを伝えることもできます。近年、この眼差しの重要性が注目されており、例えば、見つめ合うだけで、脳ではストレス反応を弱め、情緒を安定させるオキシトシンというホルモンが分泌させることが分かっています。また、赤ちゃんは、親などの身近な人が視線を向けている人に対しても興味を持ち、好意を抱くことも明らかになっています。つまり、私たちがどこに眼差しを注ぐかによって、人の心を動かし、人々を幸福似ていく力にもなるのです。 「我日本の眼目と」こうして考えると、仏法の五眼の捉え方は、現代の科学に照らしても極めて説得力があり、人生を変える力になると思わずにはいられません。また、日蓮大聖人が、「法華経を持つ者は、この五眼が自然に具わる」(御書1144㌻、通解)と仰せの通り、地域の安穏や友の幸福を進んで祈り、温かな眼差しで周囲に励ましを送る学会活動には、眼のもつ力を最大に発揮できる要素が詰まっていると実感します。「我日本の眼目とならむ」[同32㌻]——それが、大聖人の誓いでした。現代、コロナ禍の中で、多くの人が不安を抱えています、しかし、そうした時代だからこそ、〝人々の眼〟となって光明を見いだし、現実に希望の社会を築いていくのが仏法者の使命ではないでしょうか。私自身、その誉れも高く、正邪を見抜き、民衆を幸福へと導く眼の力を養い、一人一人に寄り添い続けていきたいと思います。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.10.2
December 31, 2022
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気候変動で岐路に立つ世界コロナ後こそ行動への好機米ジョンズ・ポプキンス大学 高等国際問題研究大学院 ヨハネス・アーパライネン教授都市封鎖を50年!?——国連の気候変動の政府機関パネル(IPCC)が先月、最新の報告書を発表し、人間活動の影響で地球温暖化が進んでいることについて「疑う余地がない」と断定しました。グテーレス国連事務総長は、報告書は「人類への赤信号」だと警告し、COP26の成功を呼びかけています。 IPCCの報告書が明らかにしたのは、気候変動による衝撃が、私たちが当初予想していたよりも、はるかに速く、より深刻な被害をもたらしているという、まぎれもない現実です。米国の西海岸では、国書と乾燥によって山火事がたびたび発生し、膨大な面積の森林が焼失しています。農業で生計を立てる人が多い国では、気候変動がもたらす干ばつが深刻な問題です。例えばインドでは、耕作に適さなくなった土地から、すでに多くの人々が移住を強いられています。米国のマイアミやイタリアのベネチアなど、海面水位の上昇が重大な問題になっている都市もあります。国土の大半が低地のバングラデッシュでは、海面上昇と異常気象によって土地が失われ、〝気候難民〟が生まれています。次の20年から50年で、完全に海に沈むと予測されている小さな島国もあり、全人口の移住が実際に計画されています。二酸化炭素などの温室効果ガスを排出し続ければ、こうした問題が一層深刻化し、南極の氷床が溶け、海面が急上昇するという、取り返しのつかない「てぃっピングポイント(転換点)」を、人類は迎えることになります。水や食料などの資源が枯渇し、人々は生活できる場所を追われます。大規模な移民の発生によって、世界はより敵意に満ちたものになるでしょう。 ——昨年からコロナ禍によって世界の経済活動は停滞し、温室効果ガスの排出量は大きく減少しました。教授はコロナ後の気候・エネルギ―制作について分析した論考で、先ほど述べたような危機を防ぐには、同規模の経済停滞が今後50年間、定期多岐に繰り返される必要があると論じています。 昨年は一昨年と比べ、温室効果ガスの排出量が世界全体で4%から8%減少したと推測されています。これほど急激に減ったのは、戦後初めてのことです。科学者たちは、2070年までに温室効果ガスのネットゼロ(排出量から吸収量を差し引いて実質ゼロ)を実現すれば、3分の2の確率で、産業革命以降の地球の気候上昇を2度以内に抑えられるとしています。〝コロナ禍級〟の経済停滞を、半世紀にわたって何度も続ければ、この目標は達成できないのです。当然、ロックダウン(都市封鎖)を続けるのは非現実的であり、各校経済は通常に戻りつつあります。そうした中、21世紀の温室効果ガスの排出量は、コロナ危機前の19年よりも増えると予想されています。極端な経済停滞なしで気候変動を緩和するには、さまざまな方法が考えられます。一つは、再生可能エネルギー生産時の二酸化炭素の排出量を、可能な限り減らすことです。さらに、電気自動車など新しい技術を駆使して、産業を「脱炭素化」させる必要があります。そして、森林破壊を止めることです。しかし、これらすべてを実践しても、地球温暖化を2度以内に抑えることはできないでしょう。過去に排出された二酸化炭素を吸収する「ネガティブエミッション(負の排出)」が不可欠です。大気中の二酸化炭素を直接吸収して地中に埋める技術など後、それに当たります。 面目を保った日本——教授はどう論考で、「2019年が「気候変動の年」だったとすれば、2020年は、気候変動に関心が寄せられなかった『パンデミック(世界的大流行)の年』だ」と記しています。 私たちは一昨年、熱波や山火事など気候変動が与える深刻な影響を、実際に目の当たりにしました。また、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんから始まった抗議運動が全世界に広がり、気候変動への関心は、かつてないほど高まりました(一昨年9月のストライキは、160カ国以上で約400万人が参加)。一方、昨年は新型コロナのパンデミックが世界を襲い、人々の関心は〝コロナ一色〟になりました。ただ、私がその論考を執筆した昨年8月頃まではそうでしたが、驚くべきことに、気候変動への関心は決して衰えてはいませんでした。例えば、昨年9月、中国が2060年までにカーボンニュートラル(温室効果ガスの排出量から吸収量を差し引いてネットゼロにする「炭素中立」)の達成を目指すと宣言。続いて日本が10月、2050年までに、カーボンニュートラルを実現した脱炭素社会を目指すと表現しました。当時、発足したばかりの新政権が、脱炭素社会の生命を出していなければ、日本の面目は保たれなかったでしょう。韓国も同月、2050年カーボンニュートラルを宣言しました。米国では本年1月、バイデン大統領が就任初日にパリ協定に復帰する大統領令に署名し、2050年カーボンニュートラル目標を掲げました。これで、ほぼすべての主要経済国が2050年までのネットゼロ宣言をしたことになります。 ——教授は「パンデミック後の時代は、耐久性があって持続可能な世界経済を再構築するための非常に大きな機会を提供している」と論じています。その理由は何でしょうか。 コロナ危機によって世界経済は深刻なダメージを受けました。各国政府は経済回復のために巨額の資金を投入しますが、その投資先を再生可能エネルギーなど脱炭素の分野に向けることで、経済成長と気候変動対策の両方を追求することができます。さらに、二酸化炭素を排出する化石燃料業界も、コロナ禍によるエネルギー需要の縮小によって損失を被りました。これを機に、化石燃料中心のエネルギー供給システムに依存する「カーボンロックイン」を脱して、再生可能エネルギーを中心とする代替システムに移行できれば、気候変動を緩和できる可能性は飛躍的に高くなります。今のところ、脱炭素の未来を実現できる具体的な計画と予算を公表しているのは、欧州連合(EU)のみです。他の国々は、目標は設定しても、どうやってそれを実現するのか、そのために予算をいくら割くのかなど、具体的な行動をまだ公表できていません。 「脱炭素」が国際社会の潮流に市民の三角が未来開く鍵 ——そうした意味でも、今秋のCOP26が注目されているのですね。 気候変動という21世紀最大の「危機」を食い止めるために、私たちが残された時間はあまりにも限られています。コロナ禍という「危機」をチャンスに変えて、今すぐにでも、温室効果ガスの排出量を削減し始めなければなりません。新型コロナのパンデミック以来、初めて開催されるという点で、COP26は極めて重要です。今回の会議で、それぞれの締約国が、現状、どういった計画を持ち、実行しようとしているのかを確認し、目的達成のための新たな行動を約し合うことができなければ、人類の未来は暗いと言わざるを得ません。 目標だけでは不足——会議の一番のポイントは何でしょうか。 COP26を通し、各国がそれぞれ定める温室効果ガスの昨勉目標「国が決定する貢献(NDC)」を、どこまで引き上げられるかです。パリ協定の前身である京都議定書は1997年、第3回締約国会議(COP3)で採択されました。しかし〝トップダウン〟で、先進国にのみ削減目標を課したために不評でした。長年にわたる交渉の末、2015年の第21回締約国会議(COP21)で採択されたパリ協定は、途上国も含め、それぞれの国が削減目標を決めるNDCが基盤になっています。いわば、各国の主権を尊重する〝ボトムアップ〟の協定です。パリ協定では、世界における今世紀末の、産業革命以降の平均気温上昇を2度(理想的には1.5度)に抑える目標が決まりました。1.5度に抑えるには、2050年までに世界全体でカーボンニュートラルを達成しなければなりません。どれだけの締約国が、これと整合性のある目標と計画を示せるかどうかが、COP26成功のカギとなります。途上国への資金援助も焦点の一つです。先進国が約束した年間1000億㌦(約11兆円)にまだ達していないため、途上国は怒りを隠していません。ここが改善していなければ、交渉が難航する恐れもあります。 ——私たち一人一人の市民が、気候変動の緩和のためにできることは何でしょうか。 ガソリン車ではなく電気自動車に乗る、あるいは、なるべく公共交通機関を利用するなど、二酸化炭素の排出を削減する方法はたくさんあります。食生活で肉の量を減らすのも、大きな効果があります(肉の生産過程では、飼料の栽培や輸送などで大量の二酸化炭素が生まれる)。代わりに植物性食品を増やすのは、自身の健康にも、気候変動対策にも良いことです。しかし最も大事なのは、政治に参画することです。自分たちが選ぶ議員が、どうカーボンニュートラルを達成しようとしているのかを問うべきです。なぜなら、気候変動の問題は、エネルギー政策という社会全体のシステムを変えなければ、決して解決することができないからです。そうした意味で、日本政府が昨年10月に、2050年カーボンニュートラルを表明したことを私は高く評価しています。今後さらに重要なのは、目標ではなく具体的な行動です。2050年までではなく、2030年までに何をするかです。全ての主要経済国にとって、それが現在の焦点になっています。グレタさんをはじめ、世界中の若者が立ち上がる、大人たちに圧力をかけ、気候変動対策が世界的な潮流になりました。気候システムの崩壊は、今、私たちの目の前に現れてきています。未来の世代だけの問題ではないのです。目標を宣言するだけの期間は終わりました。私たちは、今すぐに行動しなければならないのです。 Johannes Urpelainen フィンランドのタンペレ大学で国際関係学の修士課程を終了後、米ミシガン大学で政治学の博士号を取得。米コロンビア大学の准教授等を経て、現職。ジョンズ・ポプキンス大学高等国際問題研究大学院で、エネルギー・資源・環境プログラムのディレクターとして研究と大学院生の指導に当たる。慧海トップレベルのエネルギー・環境政策のエキスパートとして、インドをはじめ新興経済国で大規模な研究プロジェクトを主導し、地方政府や国際機関にアドバイスを重ねてきた。共著に『再生可能エネルギー(仮訳)』など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.929
December 24, 2022
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地球の有限性に向き合い持続可能な発展を目指す㊤京都大学こころの未来研究センター 副センター長 広井 良典教授 ——人口減少社会やポスト資本主義への洞察など、広井教授が深めてこられたテーマは、コロナ禍でさらに重要性を増しています。現在の危機をどのように見つめていますか。 感染症とはそれだけで独立して存在する問題ではなく、世界の根本的な問題が一つの現象として生じたものであることが、あらためて明確になったと思います。具体的にはまず、人間と生態系の歩バランスが崩れた結果として、感染症が頻発していることが、たびたび指摘されています。社会や文明の在り方を根本から改革しない限りは、たとえ一度は感染拡大のパンデミックは繰り返すでしょう。もう一つ、コロナ禍によって顕在化した課題として、「一極集中型」社会の脆弱さを挙げたいと思います。東京のような大都市圏に人や企業が密集し、そこから地方に経済効果が波及するのが、今の日本社会の構造ですが、言うまでもなく〝3密〟が常態化し、感染症が容易に広がるのは、そうした大都市圏です。地方分散の必要性は、コロナ前から指摘されていたことでもあります。実際に、私たちの研究グループが2017年に公表した、日本社会の未来に関するAI(人工知能)を用いたシミュレーションでも、「地方分散型」への意向が持続可能な未来への分岐点になると結果が出ました。その内容が、コロナかっで浮き彫りになった課題と大きく重なったことは、私たちにとっても驚きでした。 生き方の分散——都市から地方へという側面にとどまらず、生き方全体を含む「包括的な分散型社会」への転換を提唱されています。 コロナ禍を踏まえて昨年からは、「ポストコロナ」の未来に向けてのシミュレーションも行い、本年2月に結果を公表しました。高齢人口や有効求人倍率といった従来の指標に、小規模拠点をつなぐ「サテライトオフィス」導入企業数のような、コロナ禍で社会的な価値が高まった指標を加えて、コロナ後の時代に望ましい社会の在り方を分析したものです。そこで示されたのが女性の活躍、男性の育児参加、テレワークやリモートワークの推進などの重要性でした。都市から地方といった「空間的」な意味での分散にとどまらず、働き方や住まい方、ひいては生き方を含む、人生のデザインともいえる「包括的」な分散型社会への意向が大切であることが分かりました。今、日本で最も出生率が低いのは東京です。東京に人が集まれば集まるほど、日本全体の出生率が下がってしまう現実があります。一方で地方は、出生率は比較的高くても、女性にとっての活躍の場が少ない。期待を抱いて東京にやってくると、東京では、仕事と家庭を両立させるような環境は非常に限られている。結果的に出生率も下がっていくという、ある種の悪循環の中に日本は置かれているのです。しかし、女性の活躍の場が増えれば、地方から東京に出でて行かなくてもよくなります。東京でも、仕事と家庭の両立が進めば、出生率も回復します。女性の活躍をきっかけに、ウィン・ウィン(相互利益)の好循環が築かれていきます。また、テレワークやリモートワーク、長期休暇もかねて地方で仕事をするわーケーションといった、多様な生き方が促進されることで、生活の質が高められます。都市と地方がたがいに栄え、日本の人口も回復していくというようなスケールの大きな未来を、シミュレーションは示したのです。山登りに譬えれば、戦後の日本は、経済成長や人口増加といった山頂に向かって、集団で1本の道を登っていた時代でした。いわば「単一ゴール・集中型」の社会です。しかし、多様な人生100年時代にあって、画一的な経済発展モデルはもう成り立ちません。ただ、山頂に立てば視界は360度開かれているように、包括的な分散型社会は、それぞれが自分の好きな道を選び、登り下りができる社会です。単一ゴール・集中型ではなく、多様な生き方を促進するということは、各人の創造性を発揮させ、結果通して、経済成長や持続可能性にもプラスになると思うのです。 「物質的価値」から「精神的価値」へ社会の転換期に宗教が担う役割 生命中心の経済——成長一辺倒の画一的な経済モデルに代わる、「生命中心」の経済を提唱されています。 17世紀にヨーロッパで科学革命がおこり、今日の私たちが「科学」と呼ぶものが生まれました。それ以降、「物質」「エネルギー」「情報」が普及していきましたが、それらはもう熟成段階に入っており、次なる社会コンセプトが見え始めている。それが「生命」であるというのが私の理解です。ここでいう姓毎は、生命科学という狭い意味にとどまらず、英語の「ライフ」のことです。ライフは、人生や生活を指します。また、地球の生態系や生物多様性のような広い意味での生命も含まれています。この生命を軸に、「生命関連産業」というものを考えると、少なくても五つ——➀健康・医療、②環境(再生エネルギーを含む)、③生活・福祉、④農業、⑤文化という分野があります。いずれも、生命に深く関連した経済活動の領域であり、こうした分野を発展させていくことが、ポストコロナの時代に重要になると考えます。生命関連事業は、比較的小規模で、地域に密着したローカルな性格が強いことに気が付くと思います。地域再生に寄与する効果が見込まれますが、一方で、そうした小規模でローカルな産業が、現実に経済を回せるのかという疑問が生じるのも、当然です。しかし、現実は、サービス業をはじめとする第3次産業が、雇用の70%を占めています。製造業などの第2次は25%、農業などの第1次は4、5%となっています。地方を活性化するというと、大きな工場ができて、何百人、何千人の雇用が一気に生まれるという製造業的なモデルで考えられがいですが、現実には、すでに第3次産業が大半を占め、小さな産業が積み重なって経済が回っているのです。そう言って視点や発想の転換が必要であると思います。コロナ禍の中で、国家の経済成長というマクロの原点だけでなく、生命の充実や幸福感を高めていくことを目指す、ミクロな視点に立った経済構造が求められているといえます。 創造性の発揮——生命関連産業への転換は、資本主義の暴走を食い止めるという視点もあると思います。現実に資本主義がいきわたった生活の中にあって、いかに生命中心の社会へと移行することができるでしょうか。 経済思想家の斎藤幸平さんが書いた『人世紀の「資本論」』が昨今、話題になっています。マルクスの思想の本質に立ち返り、資本主義に代わって「脱成長」を訴える内容ですが、こうした書籍が大反響を起こすこと自体、時代の変化を象徴する例だと思います。私自身の「ポスト資本主義」の構想には、三つの柱があります。市場経済、コミュニティー、政府であり、それぞれ、「私」「共」「公」という領域に言い換えられます。斉藤さんは「顧問=共」の再生を軸に論を展開していますが、私は「私」と「公」も合わせた三つがすべて重要で、どれ一つ欠けてもいけないと考えられています。私の理解では、市場経済そのものは古代から人間社会に存在した、つまり、資本主義の誕生よりはるか昔からあったものであり、二つはイコールではありません。むしろ、市場経済に「限りない拡大・成長への思考」がプラスされたものが資本主義であるとすれば、その拡大・成長路線が成り立たなくなっているのは、今日の気候変動を見ても明らかです。その意味で、私は大きくいえば「脱成長」の立場であるといえますが、ただ経済成長をやみくもに否定する必要はありません。たとえばGDP(国内総生産)といった量的拡大を唯一絶対の目標にするような在り方ではなく、「持続可能な発展」「定常化社会」を目指すという考えです。「一本道」を皆で登もではなく、一人一人が創造性を発揮する。そうすることで、結果的に、持続可能な発展ができることもあるのではないでしょうか。 死の意味を問う——近著『無と意識の人類史』では、そうした持続可能な発展、ポスト資本主義の人類史の未来について、『有限性』をテーマに論じられています。 現代は二つの有限性に、根本的なレベルで向き合っている時代だと考えます。一つは、すでに申し上げている「地球環境の有限性」です。環境や資源が有限性であるという事実を直視し、いかに生きていくかが人類に問われています。そしてもう一つは、「生の有限性」です。近年、人間の寿命は無限に延ばせるといった〝現代版「不老不死」〟ともいえるような議論や、脳内の情報をすべてコンピューターに入れ、移すことで意識を永続化できるといった議論がまじめに行われています。全てを否定するわけではないですが、私には、身体や意識を永続化させることが人間を本当に幸せにするかどうか、疑問です。そこには、資本主義のように無限の拡大を目指す思想が根底にあるように映るのですが、むしろ私は、人間の一生は有限であることを、積極的に捉えるべきだと考えています。一人一人の人生は有限であっても、無数の世代間のつながりの中で、人間が作る価値や文化などは無限に広がっていきます。むしろ、物質的な有限性を認識するからこそ、有限にとどまらない無限の価値を創造していくことができるとされています。人間は誰もがいつかは死ぬ一方で、死を受け入れることは簡単ではありません。だからこそ、「死」というものの意味を自分のものにできれば、生きていくことの意味やエネルギーにつなげていけるのではないでしょうか。そうして思いで、今も「生の有限性」というテーマの探求途上にいます。 第3の定常化——気候変動やコロナ禍の中で、私たちはまさに「地球環境の有限性」「生の有限性」に直面しています。広井教授は、人類が精神革命の中で、新たな発展と生存への転換を図ってきたと言われています。 人類は人口と経済の「拡大・成長」「熟成」「定常化」というサイクルを3度繰り返し、現代は「第3の定常化」へ移行期にいるというのが、私の考えです。第1のサイクルでは、約5万年前に起きた「心のビッグバン」を経て、「第1の定常化」に移行したと考えられています。この頃、洞窟壁画のような絵画や装飾品、芸術的な縄文土器などが一気に現れました。それらは生活に必要な実用性を超え、人間の〝心〟の充実に価値を見いだしたと見ることができ、自然信仰を軸として宗教の原初的な形態が大きく関わったと考えられます。また、第2サイクルにおいては、ドイツの哲学者ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊藤俊太郎が「精神革命」と呼んだ紀元前5世紀ごろが、「第2の定常化」への移行期となりました。この時期、インドでは釈尊の仏教、中国では儒教や老荘思想、ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学、中東ではキリスト教やイスラムの原型である旧ヤクシソウなど、現在に続く普遍宗教・思想が、〝同時多発的〟に怒りました。次いで、近代化によって第3のサイクルが始まります。市場化、産業化、情報化・金融化の中で、人類は、地球資源を際限なく大量消費してきました。そしていま、私たちは「第3の定常化」への移行期に立っていると考えています。第1、 第2サイクルを見てわかるのは、拡大・成長から熟成、そして定常化への移行は、進歩が止まったり停滞したりするのではなく、むしろ、文化的にも究めて創造的な「イノベーションの時代」であったということです。特に紀元前5世紀の「枢軸時代・精神革命」は、森林の減少といった地球環境や資源の限界にぶつかり、「物質的な量的拡大」から「精神的・文化的発展」へ、舵を切った時代であったといえます。資源が、枯渇する時代というのは、争いが起こりやすい状況です。その中で、生存のために発展の方向を切り替えたといえますし、それは何かを我慢するという消極的な転換ではかくて、新たな発展の在り方に、喜びやプラスの価値を見いだす転換であったのです。仏教をはじめとする普遍宗教・思想は、まさにそうした背景の中で生まれ、個人という領域を超越し、社会全体の文化的な発展と成熟を支えてきました。一方で、現代社会に至っては、既成の思想や宗教的価値観が対立し、分断を引き起こしていけることも事実です。その意味で、「第3の定常化」へ移行期である今こそ、「心のビッグバン」や「枢軸時代・精神革命」に匹敵するような、新しい思想が誕生する必要があるのではないでしょうか。既成の価値観の分断を超える新たな思想という観点で、私は「地球倫理」というものがキーワードになるのではないかと考えています。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.9.25
December 20, 2022
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第6回食べることと、話すこと歯科医師 永目 誠吾さん咀しゃくを助け 会話を楽しむ「歯」は豊かな人生の礎口腔衛星の分野で今、新型コロナウイルス感染症の重症化と歯周病との関連性が指摘されています。ヨーロッパ歯周病学会は本年2月、新型コロナウイルスに感染した568人を対象にした調査結果を発表しました。この報告によれば、歯周病にかかっている人は、そうでない人に比べて、感染症による死亡リスクが8.81倍、集中治療使途を要するケースが3.54倍、人工呼吸器などの補助を必要とするケースが4.57倍に及ぶという驚きの内容でした。以前から、歯周病がインフルエンザなどのウイルス感染症のリスクを高めることは知られていました。歯周病菌が出す酵素が歯肉などの粘膜を傷つけ、ウイルスを侵入しやすくしてしまうのです。 歯周病は万病の元歯周病は、最近の感染によって歯を支える骨や歯肉などが破壊されていく疾患です。本来、ヒトと共生関係にある口腔内の常在菌は、身体に悪影響を及ぼすことはありません。しかし、あまりにも数が多くなると歯周病となり、その歯周病が、循環器疾患などの全身疾患につながってしまうことが分かっています。古代ギリシャの医聖ヒポクラテスも、歯周病と全身疾患の関連性を指摘しています。歯周病は、万病の元といっても過言ではありません。誤嚥性肺炎も、その一つです。飲食物や唾液は飲み込むと、通常は食道を通って胃に運ばれますが、誤って気道に流れてしまうと、歯周病菌をはじめとする細菌が肺の中で繁殖し、炎症を起こしてしまうのです。特に免疫力が弱まった高齢者は、重症化しやすいことが分かっています。また歯周病が、アルツハイマー病や糖尿病、関節リュウマチなどにも関係しているとの調査もあります。歯周病は「サイレントキラー」との別名を持ちますが、その進行を放置してしまえば、ある日突然、命に関わる重大な疾患を引き起こす恐れがあるのです。何より、歯周病は、歯を失う一番の要因です。年齢の「齢」という字には「歯」が用いられているように、古来、人々は歯を命の象徴として大切にしてきました。それは、生きていく上で大切なものだからです。「歯の一本ぐらいなくても」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、奥歯1本の喪失で、噛む効率が40%も損なわれるというデータもあります。また、歯には単に食べ物を咀嚼するためだけではなく、会話を楽しむなど、豊かな人生を送るための基礎となります。だからこそ、歯の喪失は社会生活に支障をきたしてしまいかねないのです。一方、歯周病は、正しくケアをすれば予防できる疾患です。そのためにも、定期的に歯科に通うことが大切ですが、多くの人にとっては、歯が痛くならない限り、なかなか足を運ばないというのが現実ではないでしょうか。あるアンケートでは、歯にトラブルがなくても定期的に歯科に通院する割合は、アメリカが76%であったのに対し、日本はその半分にとどまっています。その結果、日本では、55歳から64歳で歯周病の有病者率が82.5%。そして、60歳代で半分の歯を失い、80年代では約半数の人がすべての歯を失っているのが現実です。そもそも、自然界の動物には、虫歯などの鹿疾患は、基本的にはありません。どうして、人間だけがこうした疾患に苦しむのでしょうか。それは、人間が自然界の者をそのまま食べるのではなく、火を使った加工食品を摂取するようになったからだと考えられています。日本においては、縄文時代から弥生時代にかけて虫歯が見られるようになり、江戸時代には欧州から砂糖が輸入されるようになったことで、虫歯になる人が増えたといわれています。では、歯科疾患を防ぐために、何を心掛ければよいのでしょうか。そもそも、現代に生きる私たちの食生活を、自然界のものだけに切り替えることは難しいでしょう。しかし、「間食を控える」「糖分を取り過ぎない」など、食習慣を見直すことはできます。また、よく噛んで食べることも大切です。咀嚼するほど唾液が分泌されますが、唾液には抗菌作用があるが知られています。噛むことで食べ物が細かくなるので消化にも良いですし、うま味も感じやすくなります。満腹中枢も刺激されるので、食べ過ぎを防ぐこともできます。その上で、最も重要なのは、歯磨きです。歯周病菌の生息場所は、歯と歯茎の間にあるポケットですので、そこを丁寧に磨き歯垢などを除去することが大切です。しかし、それだけでは完全には除去しきれませんので、やはり定期的に歯科に通っていただくことをお勧めします。◆◇◆実は、日本において、歯磨きの文かは、仏教に伝来とともに中国から伝わりました。それは「楊枝」です。これは現在使われている「つまようじ」ではなく、細い木の枝を噛んで繊維状にし、それで歯を磨くという、いわば歯ブラシのようなものです。これも仏教と関わりがあり、釈尊は、弟子たちに〝歯磨き〟を勧めるとともに、弟子たちが喉を突かないよう、楊枝の長さまで定めたと伝えられています。実際、仏典(四分律)には、口の中をきれいにする効果が記されています。➀口臭がなくなる。②味覚が良くなる③口の中の熱や痰を除く。④食欲が出る——等です。歯や口腔を清潔に保つことが、健康を守る上で重要だと分かっていたのでしょう。また大智度論には、仏の勝れた肉体的特徴として「歯がそろっている(歯斉相)」などが挙げられ、経典にも「脣舌[じゅんぜつ]は赤好[しゃくこう]にして丹華の若[ごと]く」(法華経14㌻)、「口の中より常に青蓮華の香を出しだ」(同601㌻)など、口に関係する記述が見られます。日蓮大聖人も、容色の一つとして「白歯」(御書395㌻)を挙げられていますが、こうした白い歯や、赤い舌、口臭に煩わされないことなどは、現代においても憧れではないでしょうか。 進化から見る役割そもそも生物にとって、口腔には、どのような役割があるのでしょうか。ここで生物の進化から、口腔の機能について考えたいと思います。もともと生物は、細胞の分裂を繰り返す中で多細胞となり、大型化していきました。そして大型化した身体を維持するためには、栄養補給が不可欠です。そこで細胞の一部が陥没して「口」ができ、ものを食べるようになりました。この食べるという行為は、常に危険が伴います。なぜなら自然界には、自らの身を守るために毒を持ったものも存在しており、それを取り込んでしまえば死んでしまうリスクもあるからです。そこで生物は、味覚器を発達させました。それが「舌」です。この舌は、動物が海から陸上に上がって生活するようになってから、さらなる進化を遂げたと考えられます。海の中では、泳ぎながら口を開ければ、水の流れとともに食べ物を口に入れることができましたが、陸上では、そうはいきません。当時は、すでにトンボなどの昆虫が陸上で暮らしており、そうした昆虫を捕らえるために従進化したと考えられているのです。これは、舌で獲物を捕まえるカエルやカメレオンなどを思い浮かべていただければ分かりやすいでしょう。そもそも舌は、発生学的には手や足地伊那路特徴をもっており、「第三の手」とも呼ばれます。そして、「歯」は、さまざまな食べ物をかみ砕くために発達しました。総じて考えれば、口も舌も歯も、生物が獲物を食べていくため、生きていくために獲得してきたものなのです。 生物で異なる味覚生物の下には、こうした進化の過程が詰まっています。人間が感じる味覚は、甘味、酸味、塩味、うま味ですが、この5種類とも水溶性で、逆に水に溶けないものの味は感じません。これは、人間の祖先が海で暮らしていたことが由来と考えられています。ちなみに、辛い物が好きという方もいらっしゃると思いますが、から見は水に溶けないため、味としてではなく、痛みとして感じています。また、この味覚は、静物によっても感じ方が異なることが知られており、ネコは甘味を感じません。それはササを好んで食べるパンダや、ユーカリの葉を食べるコアラなど、それぞれの置かれてきた環境や食習慣に合わせて、舌が進化してきたことを表しています。その上で、人間の舌は、他の生物にはない独特の進化を遂げました。それは、手のように器用な舌を使って口の中に多様な空間を作り、言葉を生みだしたことです。先ほど、舌は獲物を取るために発達したと述べましたが、人間はそうした使い方はなく、会話によって協力し合うことで、獲物をとることを選択したのです。こう考えると、会話とは、生きていくために必要不可欠なものだということが分かります。◆◇◆言葉を操る人間の口は、心とも密接に関係しています。例えば、心の持ち方で、一部の方に味覚障害があらわれることが分かっています。これは心が口に与える影響です。その逆もあります。最近はコロナ化で会話の機会が減少しており、心の健康への影響が指摘されています。その原因として、会えない孤独感などが想定されますが、そもそも口を動かさないことが心に与える影響もあるのです。能く野球の試合で、ガムを噛みながらプレーしている選手を見ますが、それは気持ちが落ち着くからです。実は、口をリズムカルに動かすことで、口内からは唾液が分泌されますが、脳では線形の興奮を静めてくれるセロトニンという物質が分泌されると考えられています。私たちが響唱える題目が精神の安定につながることは、口の動きからだけでも言えると思います。 人間の口は言葉を生みその力で協力してきた孤立進む今こそ心結ぶ対話を 六根の中の「舌」さて、仏法では外界を認識する感覚を、眼・鼻・舌・身・意の六つとしており、「六根」と呼ばれます。そして、この六つが清らかになっていくことで得られるものを、功徳と捉えています。その中で、舌の功徳について、法華経では次の2点が挙げられます。一つは、〝何を食べても、おいしく感じる〟という味覚に関することです。歯磨きなどの心掛けで口腔環境が良くなれば、一つ一つの味も鮮明に感じられますし、口は心とも関係するからこそ、心が清らかになれば、さらにおいしく感じるということは科学的にも考えられます。もう一つは、声についてで「この舌で、大衆の中で演説するならば、深く妙なる声を出して、聴く人の心によく届き、皆を歓喜させ、気持ちよく、楽しませるであろう」(法華経543㌻、通解)と記されています。大聖人も「声仏事」(御書708㌻)と仰せの通り、仏法では声を大切にします。その声とは、人々を思う慈愛の励ましであり、民衆を不幸に陥れる思想をたたき切る叫びであり、人類を結ぶ信念の対話ではないでしょうか。これは力を合わせて生きていくために舌があるという捉え方であり、まさに人間が進化の中で手に入れた口腔機能の本質を突くものでしょう。◆◇◆現在、猛威を振るう新型コロナウイルスは、口から出る飛沫が主な感染経路となっており、会話を避けなければならない状況にあります。しかし、その結果、世界は分断し、社会の中で孤立化が進みました。人間は今、声の力を使って、どう人々をつないでいけるかの岐路に立たされていると思わずにはいられません。そうした中にあって、創価学会員は、感染対策に留意しながら、オンラインなども使って励ましを広げ、声の力で地道に人々を結んできました。この学会の言論闘争こそ、人間が人間であるために必要なものであると思います。私自身、その誉れの一員です。声の力を磨きに磨き、地域の同志と共に、身近なところから励ましを広げていきたいと決意しています。 ながめ・せいご 1949年生まれ。歯学博士。大阪歯科大学四学部卒業。同大学で口腔衛生額を教える傍ら、虫歯菌を防ぐ化学物質の研究などに従事。その成果が認められ、2013~15年にハーバード大学で学会発表。梅花女子大学看護保健学部口腔保健学科教授などを歴任。日本口腔衛生学会元理事。創価学会関西副ドクター部長。副区長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.9.17
December 7, 2022
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第15回自然災害への備え九州大学名誉教授 小松 利光さん相次ぐ大雨、強大化する台風まず「自助」から始めようここ数年、西日本豪雨や令和2年7月豪雨など、広い範囲で大雨による被害が相次いでいます。今年8月の豪雨でいえば、佐賀県嬉野市では、半年分に相当する量の雨が、8日足らずで降ったことが分かっています。これだけの雨が局所的に降ったのは「線状降水帯」が発生したからです。この言葉は最近、気象ニュースなどでも耳にする機会が増えました。実体は積乱雲が連なったものです。積乱雲は、夕立などの局所的な強い雨をもたらすもので、一般的には1時間程度で消えてしまいます。しかし、その積乱雲が前線などの影響で断続的に発生し、同じ場所に流れ込んでしまうことで、バケツをひっくり返したような激しい雨が数時間も続いてしまうのです。 地球温暖化の影響線状降水帯は過去にも発生していましたが、近年、その頻度が増え、規模が大型化してきたのは、地球温暖化が関係していると考えられます。そもそも雨の主な材料は、海から供給される水蒸気です。温暖化によって海水温が上がれば、水面下によって海水温が上がれば、海水面に接する空気も温められ、それにより気温が上がれば、大気中の水蒸気量も増えます。特に日本近海の海水温は、地球上の前回用の平均よりも~3倍速いペースで上昇していることが分かっています。日本では年々、大型の線状降水帯が発生しやすい状況になっているのです。また地球温暖化の影響は、それだけではありません。台風も強大化する傾向にあります。これまで赤道付近で発生した台風は、日本に接近するまでに、近海で冷やされ、勢力が弱っていました。しかし、その近海の海水温が高くなったことで勢力が衰えずに接近し、上陸するようになったのです。こうした水災害に備えるため、各地では「流域治水」といった対策、防波堤の堤防の強化、ハザードマップの見直しなどが進んでいます。もちろん、そうした対策が進めば、安全性はある程度高まりますが、それを過信することは危険です。なぜならば、ハザードマップ一つ取っても、ある想定のもとに作られており、その想定を超える事態が起これば、災害に巻き込まれてしまう可能性があるからです。また過去の災害に耐え、今も残っている防災インフラや山の斜面、崖などでも、〝この先も大丈夫〟という保証はありません。ましてや現在は、地球温暖化が進行する真っただ中にあるので、想像を超える災害はこれからも十分に起こり得ます。それはそのまま、人命にかかわる問題となります。だからこそ、社会においても、一人一人においても、〝これで大丈夫なのか〟と常に考え、可能な限り準備をしておくことが肝要です。 防災地図(ハザードマップ)の確認をそうして中、人命を守る要となるのは、「自助」の準備です。1995年の阪神・淡路大震災の折、実に7割弱の方が自助で助かったという調査結果を踏まえれば、いかなる災害であっても「自分の命は自分で守る」ことが基本であることは、言うまでもありません。そのためにも、まずは各自治体が制作しているハザードマップを確認し、避難場所や、そこまでの経路を確認しておきましょう。避難場所については、自分のいる建物に倒壊などの心配がなく、津波や河川反乱、土砂災害の危険性が低い場所であれば、避難しない方が安全な場合もあります。なお、コロナウイルスの感染対策を十分に行った公的な避難所が不足する恐れもあるので、近くの知人宅に一時的に非難することも検討していただければと思います。最近の事例では、感染を恐れるあまり、避難所に行くべきなのに、避難を躊躇する人もいました。しかし、それで災害に巻き込まれてしまっては元も子もありません。自治体などの指示に従い、まずは目の前に迫る危機を回避する行動を優先してください。また避難所経路は、予期せぬ場所でがけ崩れや道路の冠水などが起こる恐れがあるので、複数のルートを想定しておいてください。このほか、非常持ち出し袋を準備しておくことなども大切です。 早めの避難こそ鍵ただ、たとえ準備していても、いざという時に行動できなければ意味がありません。水災害の場合は、発生の数日前に降水量や台風の進路など、多くのことが分かります。災害が迫っていることが分かったら、速やかに安全な所に避難してください。自宅にいる場合でも、危険が迫る前に2階や屋根の上など、早めに垂直方向に移動することが大切です。西日本豪雨で甚大な被害を受けた岡山県真備町では、2階建ての家に住んでいた方が1回でなくなるケースが多く見られました。これを受けて実施した調査では、1階に水が流れ込むと、家具が転倒したり、畳が浮いたり、停電が発生したりして、2階への避難が困難になることが明らかになりました。したがって、水災害の場合は、気象情報を小まめにチャックし、「早めの行動」をとることが命を守る鍵となります。このことを忘れないでいただきたいと思います。しかしながら、いざ災害に直面すると、そのような行動に移させない方向に力が働くのが人間の心理です。そうした特製の一つに「正常性バイアス」があります。異常な事態に直面した時、心の上程を保とうと、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、置かれた状況を過小評価したりして、楽観視してしまう心理作用のことです。例えば、河川反乱の危険が迫り、避難指示が出ていても、〝多分、大丈夫だろう〟と軽く考え、結果として逃げ遅れるケースです。さらに、いざという時、一人で動きだすのは不安ですし、それが正しいのかどうかも分からないので、周囲が動くのを待とうとする心理も働きます。「多数派同調バイアス」と呼ばれ、これも行動を遅らせてしまう原因となります。 「自分は大丈夫」の楽観主義は危険日頃から訓練し 地域で声掛けも では、こうした心理を乗り越えるため、何を心掛ければよいのでしょうか。一つ目に、自分にもそうして心理が働くことを十分に認識した上で、素早く行動に映せるよう、日頃から訓練しておくことです。今はコロナ禍ということもあり、なかなか避難訓練なども行われませんが、そうした機会があれば積極的に参加していただきたいと思います。また、過去に被害があった事例などを参考に、〝もし自分がその状況に置かれたら〟と考える癖をつけ、備えておくことも大切でしょう。二つ目に、そのときが来たら真っ先に動けるよう、一人一人が避難行動の基準を持っておくことです。気象庁は現在、住民が取るべき行動を直感的に理解できるよう、警戒レベルを5段階で発表しています。例えば、レベル3では避難に時間がかかる高齢者や障がいのある方などが避難、レベル4では危険な場所から全員が避難をするように呼び掛けています。各自治体もこれに殉じた警報を発表しますが、そうした情報を得た時点で、すぐに避難行動がとれるように意識しておいてください。特に水災害の対策では、真っ先に避難行動をとる「率先避難者」の存在を重視しており、そうして人がいれば、それを見た地域の人も続くことができます。そのタイミングが早いほど、多くの方も安全に避難できますので、有事の際はお勇気を出して率先避難者になって下さい。三つめは、近隣と声を掛け合うことです。実は、避難行動を遅らせてしまう人間の心理を最も効果的に解決できるのが、地域の声掛けなのです。震度5強の地震に襲われた地域の住民を対象とした調査では「どういう状態だったら逃げたか」という問いに対し、73%もの回答を得たのが「町内会の役員や近所の人からの避難の呼びかけがあったから」でした。その意味でも、日頃から声を掛け合える絆を築いておくことが大切ですし、それはそのまま、地域で支え合う「共助」の力となります。 前前の用心 勇気の行動 強き信心学会活動で鍛えた心はいざという時の力 命をどう守るかさて、日蓮大聖人は、門下の四条金吾に対して、繰り返し誡められておられたことがあります。それは「用心」という一点です。「かまへて・かまへて御用心候べし」(御書1133㌻)「よるは用心きびしく」(同1164㌻)「さきざきよりも百千万憶倍・ご用心あるべし」(同1169㌻)「心にふかき・えうじんあるべし」(1176㌻)御書をひもとくと、それは敵から命を狙われている時も、状況が好転した時も、変わることなく指導されていたことが分かります。その上で大聖人は、金吾がそうした中で命を落とさず、生き永らえることができた要因として、「前前の用心といい又けなげといひ又法華経の信心つよき故に」(同1192㌻)という三つを挙げられています。第一の「前前の用心」とは、普段からの備えを怠らないことです。第二の「けなげ」とは、いかなる時も臆せず、勇気をもって行動する心です。第三の「法華経の信心つよき」とは、広布への強盛な祈りです。それは、どんな状況にあっても決して希望を手放さないという信心であり、自他供の幸福のために尽くし抜く地界でもありましょう。もちろん、金吾の命を狙っていたのは人間であり、自然の脅威ではありません。しかし、「命をどう守るか」という意味では共通しており、この仰せは災害時の行動に関しても重要な点を示していると思えてなりません。◆◇◆その上で、私が思う学会員の強みは、普段の活動の中で、この三つを当たり前のように実践していることです。池田先生はこれまで、自己を起こさないために事細かな指導をされており、学会員は、それらを学び合いながら、折あるごとに無事故の重要性を確認しています。また会館運営や会合運営に携わる友は、そうした指導を心に刻み、〝災害が起こったら、どう行動すべきか〟を常に考えながら任務に当たっています。そうした訓練を重ねているからこそ、これまでも災害のたびに一時的な避難所として開放するなど、それぞれができることを探し、互いに協力し合いながら、勇敢に、迅速に、地域のために尽くしてきました。そして学会員一人一人は、日々の勤行の中で地域の安穏を祈り、地域の中で困っている人がいれば進んで声を掛け、絆を結んでいます。何より、こうした活動の中には、先ほど述べた避難行動を遅らせてしまう心理を乗り越える要素も、見事に含まれています。当に、日々の活動を通し、一人一人が災害時にあっても冷静に行動できる心を鍛えているのです。 さらに絆を強固に学会員一人一人が磨いてきた対応力や行動力は、コロナ禍、さらにコロナ禍のもとでの自然災害のかなでも生かされていると感じます。災害時は、さまざまな情報が飛び交い、どれが正しい情報七日、分からなくなることがあります。しかし、学会は聖教新聞を通して、感染症の専門家による感染予防対策や自然災害の研究者らのアドバイスなどを発信し、それを各地の同志が学んで地域の人々にも伝えてきました。また一人一人が人々の幸福を祈り、オンラインなどを活用して地域に励ましを送ってきました。こうした地域との絆を結ぶ運動は、今後の災害に備える上でも極めて重要です。これ等は、自然災害がさらに頻発化・激甚化する時代となります。これまで以上に「前前の用心」が大切です。決して油断せず、今できる準備を行ってください。その上で、近隣の絆をさらに強固にする取り組みを進めていただきたいと思います。その一歩一歩の努力を、必ずや自分の家族の命、そして地域の人々を守る力となるでしょう。今こそ、学会員一人一人の勇気ある活動が必要とされているのです。 こまつ・としみつ 1948年生まれ。工学博士。専門は防災工学、河川工学。九州大学工学部教授、同大学大学院工学研究員教授、特命教授、日本学術会議会員などを経て現職。防災学術連携体幹事。日本工学会副会長。創価学会九州副学術部長。副本部長。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.9.4
November 17, 2022
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第5回「老」と歩む人生関西福祉科大学 健康福祉学部教授 中村 敏子さんバランスの良い運動・睡眠・食事感染対策に留意し健康守る心掛けを人生100年時代といわれる昨今。医療の進歩などにより、日本人の寿命は、年々延びています。本年、WHO(世界保健機関)の統計では、「平均寿命」は84・3歳(男性は81・5歳、女性は86・9歳)と、世界で最も高いことが発表されました。平均寿命から寝たきりや認知症などの介護状態の期間を差し引いた「剣苦寿命」も伸びており、74・1歳(男性は72・6歳、女性は75・5歳)とこれもまた世界一です。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行によって自粛生活が続くことで、今後、この健康寿命に影響が及んでしまうことが、多くのの専門家から指摘されています。その中にあって、一人でも多くの方々が健康寿命の人生を歩んでいけるよう、どう「老い」と向き合うべきかについて考えたいと思います。 細胞レベルの老化まず、なぜ老化が起こるのかについて、細胞レベルから説明します。私たちの身体を構成する一つ一つの細胞は、さまざまな要因で傷つき、そのたびに新しく分裂した細胞と入れ替わっています。しかし、その分裂も50回以上を繰り返すと、それ以上、分裂できなくなることが知られています。若い頃は、細胞が頻繁に入れ替わるので、組織としての機能を保てるのですが、加齢とともに分裂が限界に達し、取り換えることができなくなると、組織の機能も低下してしまうのです。これが老化です。分裂のスピードには個人差があり、たとえ同じ日に生まれた人でも、年相応に見える人もいれば、年齢より若く見える人もいます。また、そのスピードは、臓器などによっても変わります。ですので、見た目は若くても、臓器の一部で老化が進んでいることもあるのです。そうして違いを生む要因の一つが、活性酸素の存在です。活性酸素は、細胞を酸化、つまりさびさせるものですが、その活性酸素が体内に蓄積してしまうと、細胞の入れ替わるスピードが速まってしまうのです。この活性酸素は、呼吸をした際に自ら酸素の一部から生じることもありますし、煙草や車の排気ガス、紫外線野心的ストレスなども活性酸素の蓄積を誘発することが分かっています。生きている以上、呼吸をやめることはできませんが、喫煙を控えたり、抗酸化成分が含まれる果物や野菜などを食べたり、軽めの運動で体内に備わる抗酸化作用を増進させたりと、私たちの生活次第で活性酸素を必要以上に生じさせないことはできます。 生活習慣との関係近年では、こうした生活習慣の違いで、一人一人の健康寿命に差が出ることも知られています。私は以前、国立循環器センターで高血圧や動脈硬化などの患者さんを診てきましたが、その中で感じたのも、そうした病態に一人一人の生活習慣が深く関係しているということでした。また、感染症や事故などで亡くなられる方を除いて、多くの方が死亡する要因となっているのは、喫煙や高血圧、低い身体活動、高血糖、高い食塩接種など、生活習慣と結びつくものが主であると考えられています。生活習慣は、老化や病を引き起こすだけでなく、死亡のリスクにも直結しているのです。だからこそ、コロナ禍による自粛生活の中でも、感染対策に留意しつつ、バランスの良い運動、睡眠、食事を心掛けていただきたいと思います。運動で言えば、「老化は足から」という言葉もあります。体内で最も大きな筋肉が脚にあるため、歩く速度の低下などで老いを感じやすいことが理由です。加えて自宅にこもりっぱなしだと、筋力はすぐに衰えてしまいます。その上、運動不足は睡眠にも影響を与えます。年を取り、寝つきが悪くなったという人がいますが、この原因の多くが日中の活動量の少なさに起因します。良質な眠りには、日中に太陽の光を浴びることで体内に作られるメラトニンや、運動による、ほどよい疲れが不可欠です。運動しない間に失ってしまった筋肉を元に戻すには、その3倍もの時間が必要という調査もありますので、日頃から定期的な運動を取り入れていただきたいと思います。また、私は現在、大学で食生活と健康に関する研究を行っていますが、減塩意識も大切だと感じます。塩分の取り過ぎは高血圧の原因となります。高齢になるほど塩味を感じにくくなることから、無意識のうちに塩分過多になりやすいのですが、調理の際は量って入れるなど、摂取量を調整することが健康長寿につながりますので、ぜひ、実践してみてください。 「生」の充実のためさて現在、メディアなどでは、健康長寿のための食事法や運動法などが盛んに取り上げられています。その一方、老化を防ぐ「アンチエイジング」という言葉が象徴するように、老いそのものをネガティブに捉える風潮もあると感じるのは、私だけでしょうか。そもそも、誰人であれ、老いを遅らせることはできたとしても、老いそのものからは逃れることはできません。歳を重ねれば、白髪やしわが増え、腰が曲がるなどの外見の変化が起きます。身体能力も衰え、走れなくなったり、目や耳が悪くなったりすることもあります。内臓機能の低下で、さまざまな疾患が生じることもあるでしょう。また、平均寿命の差が縮まって来ているとはいえ、現在でも10年ほどの差があります。「老」を含め、生老病死の四苦は、釈尊が出家するきっかけとなった出来事であり、人生の根本問題です。この「老いる苦しみ」に目を背けていては、最期まで充実した「生」を歩んでいくことはできないと思うのです。 いくつになっても新しい発見・新しい感動を老いを楽しみに変えるヒントは挑戦の心にあり 年齢を重ねる喜びなぜ、「老い」が「苦しみ」となってしまうのでしょうか。私はそこに、失う苦しみがあるからだと考えます。足腰が弱くなれば、行きたい場所があっても自由に行くことはできません。骨ももろくなるので、少しの段差であっても骨折する危険もあります。そうした中で、若い頃には〝できていた〟ことが〝できなくなってしまう〟という喪失感が、苦しみの原因となるのではないかと思うのです。しかし、目線を変えれば、失うものばかりでなく、実際には得られるものもあります。それは経験や知識、そして、そこから生まれる対応力です。私も医師になりたての頃は、今まで接したことがない症例の患者さんを診るたびにうろたえ、目の前のことに精いっぱいで、意見の異なる同僚と衝突することもありました。しかし、経験を重ねる中で心に余裕が生まれ、どんな患者さんでも冷静に診察でき、同僚の意見も受け入れられるようになっていきました。そうしたことから生まれる充実感は、年を重ねなければ、得られなかったと思います。年とともに、身体的な衰えという、いわば目に見える変化を感じる一方、人生経験や精神的な成長を重ねなければ見えないものもあります。そうした目には見えないものの中に、若いときには得られなかった新しい発見があり、感動がいくつもあるのです。だからこそ、いくつになっても挑戦の心を持ち、新しい発見や新たにできることを増やしていく。そこに「老い」を「苦しみ」ではなく、「楽しみ」にするヒントがあると感じるのです。幼い頃は、年を重ねることが楽しみだった人も多いと思います。それは年齢とともに成長を感じ、まさに、できることが増えていく喜びがあったからではないでしょうか。 脳は発達し続ける実は、人減には歳を重ねると衰えてしまう部分がある一方、心がけ次第で衰えないものもあります。それは脳です。よく老化によって物忘れが激しくなったという声を聞きますが、それは認知能力が低下したのではなく、不注意であることが往々にしてあります。人間の脳は、なるべく全体に負担を掛けないよう、無意識にできることは無意識に行うようつくられています。長い間、生きていれば、同じような動作も多くなるので、その分、無意識に行ってしまうのでしょう。厳密に言えば、脳細胞も老化を避けられないので、年とともに脳も委縮し、機能が衰えることも事実ですが、近年の研究では、そうした中でも脳は新しい神経回路をつくり、いくつになっても機能を高められることが分かってきました。脳は刺激を与えた分だけ、発達し続けるのです。だからこそ、いくつになっても、若々しい気持ちで、挑戦していく心を忘れないことが大切なのです。 地域とつながり友のために歩く学会活動に長寿の智慧が 後悔しない日々を挑戦する心は、幸福感を得ていくうえでも重要です。ある調査では、高齢期の幸福感を大きく左右するのは「後悔」であることが分かっています。これは、挑戦して失敗したという後悔ではなく、チャンスがあったのにやらなかったという後悔です。年齢を重ねるほど、やり直す機会も限られます。〝私は勉強が苦手だ〟とか、〝この資格を取得するには遅い〟とか、さまざまな感情もあると思いますが、やりたいことに挑戦できるチャンスがあるのなら、やってみることです。実は、こうした心の持ち方が、身体に変化を与えることが分かってきました。研究では、挑戦の息吹を失わず、やりがいを持っている人は、健康状態もう良いことが明らかになってきております。私自身、医療現場で患者さんを診ていても、将来に希望を抱いている人と、半ばあきらめの心を持つ人とでは、治療への取り組み方も、その結果も大きな違いが生まれると感じます。その上で、挑戦する内容の一つとして、地域とのつながりを築こうとする努力も入れていただきたいと思います。800人を70年間追い続けた研究では、高齢期の幸福感は「日とのつながり」と深く関わっていることが分かりました。また、地域や友人とのつながりの多い人は、認知症の発症リスクが低いことも知られています。友情を育むことは、幸福感を高めるだけでなく、健康にもつながるのです。 年は・わかうなりそうした点を踏まえると、創価学会には、健康長寿の智慧が詰まっていると思えてなりません。御書には「歳は・わかうなり」(1135㌻)、「月月日日につより給へ」(1190㌻)とある通り、学会員は、常に新しい目標を掲げ、挑戦の息吹にあふれています。細菌では、コロナ禍の中でオンラインの集いが行われるようになりました。家族や同志に教えてもらい、これまで苦手意識を持っていたスマートフォンの操作を学び、参加できるようになった方も多くいらっしゃいます。また、同志と励まし合いながら、地域とのつながりを築き、深める挑戦を続ける方もいます。地域のため、周囲の友のために歩くことは、筋力低下を防ぐ上で極めて有効です。話すことは、口腔機能や心肺機能を保つことにつながり、友の幸福を願って手紙を書くことは、認知機能の衰えを防ぎます。そして、学会には、老若男女が集う座談会があります。世間を見渡しても、生まれたばかりの赤ちゃんから高齢世代までが、一堂に会する機会などありません。そうした集いが定期的に行われ、高齢の方々にとっては、いつまでも若々しい気持ちでいることができます。何より、多宝会の大先輩は「長寿にして衆生を度せん」(法華経505㌻)との誓願のままに、いくつになっても笑顔を絶やさず、譬え足が悪くなっても口があると、どんな状況置かれても前を向いて広布に尽くされています。そうした姿は、〝釈尊を25歳の青年とすれば、まるで人生経験豊かな100歳の人のよう〟と記された「地涌の菩薩」そのものであり、個々匂いを楽しみに変える生き方があると痛感せずにいられません。心が老いなければ、人な永遠に向上していける——個の確信で、私自身、挑戦の心を失わず、同志と共に、老いを楽しんでいきたいと決意しています。 なかむら・さとこ 医学博士。大阪市立大学大学院修了。国立循環器病研究センター高血圧・腎臓科医長などを経て現職。日本高血圧学会評議員、日本未病システム学会評議員。創価学会関西副ドクター部長。支部副女性部長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.8.21
October 27, 2022
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第14回万人の幸福のための経済神戸学院大学教授 中村 亨さん際限なき利益の追求から「人間」に視点を置く発展へ新型コロナが経済に与える影響は、「100年に一度」の経済危機と呼ばれた、2008年のリーマン・ショックを上回るといわれています。こうして比較される二つの危機ですが、特徴は大きく異なります。リーマン・ショックによる世界的な金融危機は、まず野放図な経営をした銀行が危機発生源となり、そこから実体経済に長期にわたる深刻な影響を及ぼしました。一方で、コロナ禍による経済危機は、感染拡大で大打撃を受けた業界から、経済全体へと広がっていきました。一家の生計から地域の商店、はたまた国家予算や貿易まで、経済活動は広範囲に及びますが、身近かつ〝目に見える形〟で私たちの生活に影を落としているのがコロナ禍の経済危機であると言えます。「経済」の本義は「経世済民(世を治め民を救う)」。英語の「エコノミー」は、ギリシャ語で「家」を意味した「オイコス」などに由来します。人々が、より良い生活を送ることを可能にする経済——その在り方について考察したいと思います。◆◇◆コロナ禍で特に大きな打撃を受けているのが、飲食業など対面での接客が多いサービス業の従業員、非正規労働者、そして女性です。コロナ危機のような予期せぬ事態に陥り、個人の力で生活を送るのが艱難になった場合、社会的なセーフティネットが機能します。零れ落ちそうになった人を救う、ネット(網)のような公的な仕組みのことです。このセーフティネットは「雇用保険」「求職者支援制度」「公的扶助」の3層モデルと、コロナ禍で新たに導入された雇用維持策で考えられています。ここでは、雇用された状態からこぼれ落ちた(=職を失った)としても、第1層の「雇用保険」(失業給付金)によって支えられます。しかし、増加し続けている非正規労働者の多くは、雇用保険に加入していないのが実情です。また、二つ目の「求職者支援制度」のセーフティネットからも排除される人が多く、脆弱な制度なのです。さらに、生活保護制度をはじめとする、第3層の「公的扶助」のネットもまた、行政手続きの煩雑さなどのために、コロナ禍で十分に機能していない実態も浮き彫りになりました。このように、危機においては、生活基盤の弱い人たちがとりわけ大きな影響を受けます。その中で、昨年実施された、1人当たり一律10万円の「特別定額給付金」は、困窮世帯への家系への効果が大きかったとの研究成果を、早稲田大学のチームが発表しました。月々の資金繰りが逼迫している家庭は、そうでない家庭に比べて、振り込まれた給付金をすばやく引き出し、大部分を日常生活に関わる消費に充てた可能性が高いことが分かったのです。当初、コロナ禍で減収のあった世帯を中心に、30万円の支給が検討されていましたが、公明党の強い主張によって、給付の迅速性を最優先した「1人当たり10万円」が実現したのです。選別する膨大な時間と行政コストのかかる「1世帯当たり30万円」よりも大きな予算をつぎ込んだわけですが、それによってかなった迅速性による利得は、コストを大きく上回ったと私は評価しています。何より、セーフティネットから落ちこぼれてしまう非正規労働者を支えたことの重要性は、強調してもすぎることはありません。 危機に立ち向かう力は人類の協力と連帯「自他供の尊厳」の精神が人々を結ぶ 一律給付金という社会全体への働きかけは、とりわけ困窮家庭の人々に恩恵を与えたことが分かりました。では、弱い立場に置かれた人々を支えることが、社会全体を利するということもまた、言えるのでしょうか。これを考える上でヒントになるのは、限られた資源を活用して最大の価値を生む「効率性」と、平等性を求める「公平性」という、経済学の教科書でおなじみの主要命題です。経済学では長い間、これは二つのトレードオフ(二律背反)の関係であると考えられてきました。どちらかが一方を追求するとき、他方は犠牲にならざるを得ないという考え方です。たとえば、困窮する人々への支援は、公平性を重視した施策に当たります。すると、効率性は損なわれてしまう——従来の経済学では、そう考えます。しかし近年、そうした単純なトレードオフを新たな視点で捉え直すことが、主流になっているのです。一例として、ノーベル経済学賞受賞者のエステル・デュロフ氏(米マサチューセッツ工科大学教授)は、教育と健康の増進は、「それ自体に価値があると同時に経済成長の要因でもある」と述べています(峯陽一、コザ・アリーン訳『貧困と闘う知』みすず書房)。発展途上国での調査など踏まえて、十分な教育や医療を受けられない貧しい人々への開発支援が、国や地域全体の発展にもたらす影響を示したのです。教育と健康を取り戻した人々が、活躍の舞台を広げていけば、これまで行かされることのなかった発想が発揮され、新しい創造の源泉となります。それは社会の安定と繁栄につながり、内戦や政治の腐敗、さらにはテロリストの温床化を防ぐことにもなります。そうしたことの恩恵は、一国や周辺地域にとどまらず、グローバルに広がることは言うまでもありません。◆◇◆デュフロ氏は、教育や保健医療サービスを確保するためには、社会が積極的に奨励・介入すべきであるとしています。さらに、支援の仕組みを作って良しとするのではなく、支援をする人・される人がモチベーションを高めていける手段を見いだすことも、大事であると言います。人が何を考え、どう行動するのか。効率性のみを求めるのであれば、そこに感情やモチベーションが入る隙間はありません。しかし今、際限なく利益を追求する新自由主義が行き詰る中で、経済開発の在り方は、「人間」に視点を置いたものへと変貌しつつあります。最新の労働経済学は、労働力を「財」と同じではなく「人間」と見ることで、革新的な知見を得ています。つまり、〝需要と供給で賃金が決まる〟という単純な考え方ではなくなってきているのです。以前、アメリカの小売り大手の2社を比較的分析した論考が話題になりました。一方は、長時間労働、コスト重視の低賃金型。もう一方は短時間労働、高賃金型。企業の業績に何して、教科書的には前者に軍配が上がりそうですが、結果は後者でした。後者の従業員は、〝会社のために何ができるか〟を常に考えて行動していたと言います。そこで発信された生産性の高さが、賃金コストをはるかにカバーしたと報告されていたのです。利益ばかりを求めるのではなく、従業員の充実と満足を高めることが、長期的には企業の発展につながる。社会全体におきかえても、示唆するものが多い話であると感じます。 置き去りにしないもとより経済学は、幸福」「構成」を追求する学問でもあります。かつて、哲学者のペンサムとミルは、「最大多数の最大幸福」という考えに基づく功利主義を唱えました。しかし、この言葉は誤解を生みやすく、実際に、〝少数者を切り捨てる〟という批判が数多くなされてきました。ですが、彼らは、少数者を置き去りにして最大幸福を目指すとまでは言っていないと私は考えます。むしろ、唯一の目的とは幸福であり、個々人が幸福を追求する自由を得ることで、幸福の総和を最大化すべきであるというのが、彼らの主張の核心だと捉えています。一方で、ベンサムとミルが、個人と個人の幸福はぶつかりあう可能性があることを見落としていたという批評は、的を射ています。自身の幸福を追求する自由は、他人の幸福を侵害しない限りにおいては認められますが、現実には、個人同士が対立し、足を引っ張り合うことは多々ある。そこでは、「個人の幸福」の総和は、そのまま「社会全体の幸福」とはならないということです。そこで必要となるのが、個人同士の幸福のぶつかりあわずに〝調和〟するよう、調停する仕組みです。ドイツの哲学者ヘーゲルは、近代国家こそ、その調停役であるべきだと言いました。そして、世界の「空局の目的」というのは、個々人の幸福追求が、社会総体としての「善」と一体になることであると述べています(竹田青嗣著『哲学は資本主義を変えられるか』角川ソフィア文庫を参照)。一人ひとりが、他人の幸福を犠牲にすることなく、自らの幸福を実現していける社会。だれも置き去りにしない「すべての人の最大幸福」こそが、これからの時代の思潮になるのではないでしょうか。 調査が示した教育・医療の重要性貧困国の支援は全世界の繁栄に 異の苦を受くる私は、そうした社会の実現のためには、ヘーゲルが国家に期待した自由、幸福の〝調停役〟を、一人ひとりが担う覚悟と実践が重要であると考えます。具体的には、異なる価値観や生き方を持った人を、自分を大切に思うのと同じくらいに、尊敬し、信頼することではないでしょうか。その意味では、創価学会員の日々の活動や対話は、さらに互いを尊敬して励まし合う実践だと感じます。また、〝調停〟というと第三者の目線に思えますが、これをさらに当事者の目線で言い換えるならば、「協力」になるのではないでしょうか。異なる価値観や幸福感を持つ人と、いかに協力していけるのか。鍵となるのが、自分も相手も〝対等である〟ということを認めることです。当たり前のことに思えますが、そう簡単ではありません。実際に、例えば国家や組織の間の取り決めでは、自分たちが有利な立場に立てるよう、進めようとするのが常です。協力よりも競争が、前提となっているのが現実なのです。グローバル資本主義のもとで、世界は隅々まで、〝競争ゲーム〟と化し、万全な相互協力を約束する仕組みは、そう多くはありません。さまざまな人が知恵を出し合い、共に考えていかなければならない時代なのです。◆◇◆人々を結ぶ力となるのは、多くの人が賛同できるような普遍的な理念です。私は、法華経に説かれる自他共の尊厳、平等の精神こそが、そうした普遍性を具えていると考えます。現代は、「私たち」といった意識が細分化・希薄化し、自分以外の存在を「異」と捉える傾向が強い時代です。コロナ禍ではその風潮に拍車が掛かり、「異」なる人、組織、地域、国を差別し、誹謗する事例が後を絶ちません。しかし、世界のどこかで感染者の動きがわずかでもありかぎり、新型コロナは人類が一体となり、協力して立ち向かうべき相手です。他者を「異」と捉えている限りは、この厄災が終息することはないでしょう。日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758㌻)と仰せになられています。大聖人は「異の苦」——衆生のさまざまな苦しみを〝わが身に〟受け止められ、さらに「同一苦」——万人に共通する根本的な句に向き合いながら、民衆救済の闘争を貫かれました。他者を事故と切り離すことなく、尊重し、苦悩に寄り添われる大聖人の大慈大悲は、人と人、国と国とが協力し合う上での羅針盤となる精神です。池田大作先生は、本年の「SGIの日」記念提言の中で、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)に立ち向かう上での、グローバルな協力と連帯の重要性を訴えられました。また、釈尊を巡る逸話を通して、自分を大切に思う自然な感情を他者へと向かわしめることによって、「自他供の尊厳が輝く世界」が築かれていくこと。そして、創価の平和・文化・教育の運動こそ、「誰も排除されない社会」を実現する挑戦であることを教えてくださいました。コロナ禍で、互いの顔が見えにくいこの時代だからこそ、他者を思いやり、尊重する、仏法の精神をより一層、深化させながら、「万人の幸福のための経済」を探求し続けてまいります。 【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.8.14
October 15, 2022
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歴史の教訓から学び新たな社会の建設をインタビュー 英オックスフォード大学 マーガレット・マクミラン名誉教授現代人の思い込み——今回のコロナ禍と、ペストやスペイン風邪など過去の感染症パンデミック(世界的大流行)の違いについて、どのように考えておられますか。 まず申し上げたいのは、現代の私たちは、過去の人類に比べてリスクに不慣れになっていたということです。薬品や治療法の飛躍的発達によって、がんやエイズなど、かつては治療不可能と考えられていた病気も克服できるようになりました。私たちは、どんな医療的困難が訪れたとしても、それを克服できると思い込んでいたのです。これに対し、14世紀の欧州では、医療は未発達であり、病気で命を落とすことは日常の出来事でした。ペストに襲われた当時の人々にとって、「死」は決して特別なものではなかったのです。人々は、どんなに努力しても治療できないことを理解しており、突然の「死」に対して慣れていたわけです。スペイン風邪が猛威を振るった20世紀前半でも、現在と比べれば「死」はもっと身近な存在でした。腸チフスやコレラなどの疾病は一般的で、女性が出産で亡くなることも多くありました。若い人も老人と同じように突然亡くなりました。「死」は突然訪れるものであり、人間ができることは限られている——人々は、そう考えていたのだと思います。また、スペイン風邪が流行したのは、850万人が戦死した第1次世界大戦の終わりの頃です。当時のパンデミックに関する証言や文学作品が少ないのは、戦争、革命、飢餓など、命に関わる他の動乱があまりにも大きかったからでしょう。パンデミックは、複合的な危機の一つしかなかったのです。一方、医療が急速に発達した現代にあって、私たちは「死」を身近なものとして直視せず、リスクに対して不慣れになっていました。そうした中で新型コロナのパンデミックは、人間と社会の脆弱性を浮き彫りにしました。だからこそ、私たちは極めて大きな衝撃を受けたのだと思います。 ——コロナ禍と過去のパンデミックとの類似点については、どうでしょうか。 時間差はありましたが、これら過去の感染症も、欧州だけでなく中央アジアや中東など広範囲な地域に広がりました。また、人々の反応が多岐にわたったということも、大きな類似点であると思います。ペストに見舞われた中世欧州でも、病気の存在自体を否定する人からパニックを起こす人まで、さまざまでした。自分たちの身を守ることだけを考える人もいれば、ボランティアグループを結成して、互いに助け合う人々もいました。今回のコロナ禍でも、その危険性を疑問視する人から、懸命に感染抑止に協力する人など、さまざまな反応が見受けられます。陰謀論が流行した点も、当時と今で共通しています。中世欧州では、陰謀論者がユダヤ人などのマイノリティー(少数派)に責任を押し付けました。今日も、事実に基づかない偽情報が蔓延し、パンデミックの原因を巡って、大国同士が互いに非難を繰り返しています。700年たっても、人間の本質というのは、たいして変わっていないのです。 自己満足と油断——博士は論考「コロナ後の世界——歴史からの視点」の箇所で、第1次世界大戦など過去の危機とコロナ禍を比較し、三つの教訓を提示しています。➀現状に安心し油断する「自己満足」、②自分と違う意見を受け入れない「狭い視野」、③危機が過ぎるとすぐに以前の状態に戻ろうとする「経験から学ぼうとしない姿勢」です。 とりわけ警戒しなければならないのは、「自己満足」に陥って油断してしまうことです。その危険性は、第1次世界大戦が勃発する家庭が如実に表していて、コロナ禍に立ち向かう私たちも胆に銘じるべき点です。1914年に世界大戦が始まるまでの数年間、ボスニア危機(08年)、イタリア・トルコ戦争(11年)、バルカン戦争(12年と13年)と、いくつかの危機が続きました。列強諸国は、それぞれの危機をどうにか切り抜けることができましたが、〝軍事力の威嚇だけでも効果はあるし、たとえ局所的な戦争に至ったとしても最後の話は話し合いで解決できる〟という「油断」を生みました。第1次世界大戦の引き金となったオーストリア皇位継承者暗殺事件が起きた後でも、一般市民も含めた多くの人々が、〝今回の危機も結局、以前の危機のように平和裏に終わるだろう〟と考えていました。しかし武力をちらつかせた瀬戸際外交は、すでに脆弱だった欧州の国際秩序を突き崩し、自国の不利益を未然に防ぐための予防戦争へと駆り立てました。つまるところ、〝今回も以前のようにうまくいくだろう〟という「油断」が、かつてない規模の戦争へと人々を突き落とした要因の一つになりました。翻って、私たちが直面するコロナ禍はどうでしょうか。感染拡大初期に、〝どうにかできるだろう〟という「油断」が、死者数の多い各国政府にあったことは否めません。そしてワクチン接種が進んでいる今、私たちが懸念しなければならないのは、「結局のところ、すぐにワクチンが開発され、想像していたよりも犠牲者は少なかった。今回も何とかなった」と油断してしまうことです。私は易学者ではありませんが、次のパンデミックはほぼ確実に起こると考えた方がいい。例えば5年後に、私たちが「あの時は大変だったね。でも、もう大丈夫」と振り返っているだけのような状況は避けなければなりません。 ——博士は同論考で、戦争の歴史を振り返り、危機が社会の価値観を根本的に変革しうると論じています。コロナ禍にも、そうした可能性はあるのでしょうか。 パンデミックと戦争は別次元の話であり、安易に比較すべきではありませんが、ともに平時ではなく非常時であり、より大きな権力と独断的な措置が必要になる点は共通しています。そうした意味で、既成概念や社会の前提を変ええる要素をはらんでいるといえます。例えば先の大戦では、特定の職種に女性は就くべきではないという既成概念が覆りました。はっきりとは言えませんが、今回のコロナ危機においても、私たちが自分自身をどう捉えるのか、政府についてどういう考えるのか、そして政府と市民がいかに協力していけるのか、そうした意識に根本的な変化が起こるのではないでしょうか。ある特定の人種コミュニティーがより甚大な被害を受けていることが示すように、コロナ禍は、不平等、格差、分断といった問題を改めて浮き彫りにしました。加えて、私たちの目の前には、気候変動、各国で増幅する偏狭な国家主義など、人類の行方を左右する大きな課題が山積しています。これらにうまく対応し、安定した国際社会を築くためには、社会の価値観と一人一人の行動の改革が求められるはずです。 ——具体的に、どのような変革が望ましいと思われますか。 私たちはコロナ禍を通して、人間は「協力」なしで何もできないことを改めて知りました。政府がリーダーシップを発揮し、国民が「協力」できた社会は、死者数を少なく抑えられています。日本や韓国など東アジアの国々には、欧米諸国と比べ、強い共同体意識と社会的責任の感覚があります。政府の対応も効果的だったのでしょう。それが違いを生みだした。一つ確かなのは、「個人主義」が危機をもたらすことを、欧米諸国が学んでいる点です。自分と家族のことだけを考える傾向が強い初回は、より大きなリスクにさらされる。私たちは、「協力」や「団結力」といった価値の重要性を、コロナ危機から学んでいます。政府の役割がいかに重要であるかも、私たちは再確認しました。都市封鎖をはじめ、生活支援、経済刺激策、ワクチン接種など、政府による大規模な施策なくして、感染症とは戦えません。大きな政府は成長の生涯であり非効率的であるため、極力その役割を小さくすべきだという「新自由主義」の革命が、1980年代に始まりましたが、その潮流は終焉に向かいつつあります。危機に対応するには、「よい政府」が欠かせません。 問われる生き方——今月、広島と長崎は原爆投下から76周年を迎えます。第2次世界大戦後、日本は平和を希求し、さまざまな形で国際社会の発展に貢献してきました。 日本は、国際社会で非常に重要な役割を果たしています。私の国カナダと同じように、国際機関、多国間主義を力強く支持し、国際秩序の構築と維持に多大な貢献をしています。これまでと同じように、共々に国際秩序を信じ、守っていってほしいと願います。各国が「協力」できる世界を実現しなければ、人類の未来はありません。例えば、気候変動の問題一つとっても、全ての国が協力できなければ、人類全体が被害を受けることになります。気候変動はすでに紛争を生み、人々に苦渋を強い、多くの命を犠牲にしています。私たちが協力し、安定した世界を築く以外に、この問題を乗り越える道はないのです。 ——気候変動などの地球的問題に対して、〝普通の市民〟ができることは限られている、と言う人もいます。 〝自分には、どうせ何もできないし、行動しても意味がない〟と投げ出してしまうのは簡単です。しかし、危機に強い社会を築くために、私たちにできることが必ずあるはずです。地域の行事に関わること、気候変動のような社会問題の解決のために活動すること、あるいは政治に積極的に参画することなど、さまざまな方法があります。一人一人の市民が、それぞれの道で積極的にかかわっていかなければ、健全な社会は決して築けません。もちろん一人の力ですべての問題を解決できるわけではありません。だからといって、心のドアを閉めて、諦めてはいけないのです。他者に対する一人一人の姿勢は、その社会の特質の情勢に寄与します。第1次世界大戦後の荒廃した欧州社会にあって、人々は心を閉ざし、他者を責め、独善的な国家主義が台頭しました。そして多国間の人的・経済的交流が衰退していき、やがて2度目の政界大戦へと突入していったのです。第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦間期の教訓から学ぶべきは、〝自分たちさえ良ければいい〟という偏狭な国家主義にとらわれてしまえば、世界的な危機を解決できないどころか、危機が連鎖してしまうということです。コロナ危機から「良き変革」を生み出すのだとの希望を失わず、失敗からは謙虚に学び、決して油断せず次の危機に備える。冷戦後の新たな世界秩序がいまだ存在しない社会だからこそ、危機を乗り越えるための、私たち一人一人の生き方が問われているのではないでしょうか。 Margaret MacMillan カナダ・トロント出身。英首相ロイド・ジョージの曽孫。トロント大学で修士号を取得後、オックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジで博士号を取得。同大学の国際史教授、同カレッジ学長等を歴任し、名誉教授に就任した。現在は、トロント大学教授。ウェスタンオンタリオ大学など多数の大学から名誉学術称号を受賞し、2018年には、英王室からコンパニオンズ・オブ・オナー勲章を授与された。第1次世界大戦後のパロ講和会議を描いた代表作『ピースメイカーズ』など多数の著書がある。©Canadian War Museum 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.8.5
October 2, 2022
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仏教の〝柔らかな多様性〟が分断を超え「第三の道」開くインタビュー 一般財団法人日本総合研究所所長 寺島 実郎氏GDPの推移——近著『日本再生の基軸』やTOKYO MAXをはじめとするメディア出演を通して、世界における日本を展望してこられました。コロナ禍をどう見ていますか。 私は社会科学の世界で生きた人間ですから、まずは日本の経済をGDP(国内総生産)という視点で捉えると、日本がどれだけ〝埋没〟しているかが分かります。日本のGDPの世界におけるシェアは、平成が始まる前年の1988年には16%でした。日本を除くASEAN(東南アジア諸国連合)などを会わせても6%ですから、日本はアジアの中で段トツの経済国家として、平成の時代を迎えたわけです。2000年になっても、日本のGDPは世界14%を占め、その他のアジアは7%でした。それが2010年には、日本が7%まで急速に落ち込み、その他のアジアが17%です。この年は、中国が単独で日本を追い抜いた年でもあります。そして、コロナ禍の中の2020年のGDPは、日本のシェアが6%、日本の除くアジアは25%です。今後、コロナ禍のトンネルを抜けているであろう2030年には、日本のシェアは4%台に落ち込んでいるというのが、私の見立てです。「アジアの世紀」といわれる時代が確実に近づく中で、日本は明らかに存在感を失っているといえます。尺度としてGDPの正当性を問う声もあるでしょうが、GDPは付加価値の総和です。日本国民が額に汗して、知恵を出しながら経済産業活動を展開し、創出した価値の大きさが、世界中でこれほど〝埋没〟していると捉えることは重要だと考えます。この現実を多くの人が自覚できていないことに対して、「健全な危機感」を持つべきであると私は思います。 ——〝健全な〟危機感とは、悲壮感や諦めではなく、現実を直視しつつ、どうすれば打開できるかを模索する前向きさを生むものではないでしょうか。 日本が置かれた状況に対して、多くの人が危機感を抱いていないのは、急速な復興と成長を告げた戦後日本の残影を、今も引きずっているからです。産業力で外資を稼ぎ、国を豊かにするという「工業生産力モデル」が、まだ機能しているとの重大な錯覚の中にいます。株価の上昇などで、〝日本はうまくいっている〟との感覚を、日本人が抱いていた側面もあります。しかし、世界の有識者らと議論をする中でも、日本の〝埋没〟は、すでに常識になりつつあります。まずはその事実に対する認識を、これからの議論の基盤に据えていくことが、〝健全なる危機感〟であると考えます。その上で、GDPを押し上げることはもちろんですが、それに限らず、世界の中で存在感を放ち、重要な役割を果たしうるために、どうすればよいのか。コロナ禍は、日本がすでに抱え込んでいた問題を、目に見える危機としてあぶり出していると言えるでしょう。 ——これからの世界を、どのような視点で捉えるべきでしょうか。 前提として、二つの時代認識を持つことが重要であると考えます。第一に、現代は、二極化という構図の中で論じられやすい時代であること。そして第二に、日本は「宗教なき時代」を生きているという認識です。「二極化」を象徴するのが、西洋文明を代表するアメリカと、東洋文明の中核である中国との分断です。〝米中新冷戦の時代〟とまで言われる緊張高まる現代にあって、日本には、その二項対立に引き込まれない「第三の道」を模索する役割が求められます。次に「宗教なき時代」は今に始まったのではなく、戦後日本にあって、宗教の受け止められ方は希薄であり続けました。もちろん、日本人にまったく宗教心がないわけではなく、神社にお参りに行く、易や占いを信じるといった行動をとる人は一定いますが、「心の基軸」として宗教を持つ人は少ないのが、長年の特徴です。あえて言うならば、戦後日本人の心の基軸になったのは、松下電器の創業者・松下幸之助さんが提起した「PHPの思想」だったと思います。「Peace and Happiness through Prosperity(豊かさを通じた幸福と平和)」という言葉は、繁栄すなわち経済成長が、幸福と平和をもたらすという、ある種の〝希望〟を国民に与えるものでした。しかし今、豊かになれば幸福と平和が訪れるという方程式は、もはや成り立ちません。加えて「宗教なき時代」です。このままでは日本は、GDP上だけではなく、心まで埋没してしまう——そういう危機感を抱いています。 日蓮の時代——日本再生の基軸の一つとして、仏教に着目されています。 二項対立に分断されないよう視界を広げ、強い意思をもって「第三の道」を切り開くカギとなるのが、仏教にみられる、人間の苦悩や葛藤に迫りながら、深い精神性を追求する姿勢であると考えるからです。仏教の特徴は〝柔らかな多様性〟であると思いますが、それを理解するうえで大切なのが「加上」——一つの思想は真価を重ねて、後の世になるほど加えられていくという考え方です。例えば、釈迦が説いた仏教は、その弟子や後進の求道者によって、多様な解釈と思索が加えられました。そうして発展を遂げた大乗仏教が、日本をはじめ世界に広く受け入れられてきました。全てを固定化するのではなく、進化させ、さらには弟子が師匠をも超えていく。それが仏教の深みであると理解しています。その中でも、日蓮の時代と生き方を知ることは、現代にも有益だと思います。当時、年表に「飢饉」「疫病」「強訴」「群盗」等の言葉が目につくほどに国は荒れ、さらには蒙古の襲来が日本に迫ってきました。庶民の間に広まっていた仏教諸派は、鎮護国家(災難を鎮め国家を護ること)の思想でしたが、その内実は絶対的な存在に救済を求める〝他力本願〟であったわけです。それはそれで、〝信じればいいことがある〟と言った原始的な仏教思想のパラダイム(規範)を、庶民のためへと転換した意義はあります。しかし日蓮は、さらなるパラダイムの転換を図ったわけです。日蓮は、日本の危機は「国難」であると受け止め、法華経への帰依を訴えました。法華経では、人間の外に人智を超越した存在を置くのではなく、自己の内に仏を見ます。そして日蓮は、鎌倉幕府に対して「立正安国」の重要性を主張していきました。仏教が国や政治に挑むなど、それまではありえなかった状況の中で、日本の危機を語らずにはいられなかった、「法華経の行者」としての日蓮の深い自覚が感じられます。世の中を変えなければ、人間の幸福もないといった志向は、創価学会にも受け継がれています。日本が世界の二極分断に吸い込まれかねない状況の中、創価学会には、柔らかくとも強靭な多様性をもって、「第三の道」を切り開いていくことを期待します。二項対立へと誘惑するポピュリズムや国家主義が台頭する現代にあって、これまで日本人が丁寧に培ってきた民主主義を、持ちこたえさせる精神的役割を担っていただきたい。 全体知への接近——コロナ禍では、感染者数の推移といった部分的な数値ばかりが目に入りやすい現実があります。そうした「専門知」に対して、「全体知」を持つことの大切さを訴えられています。 物事を一部の視点からしか捉えられない「専門知」に埋没してもいけないし、それらを合わせた「総合知」に満足してもいけない。物事の全体像を見渡し、その本質を捉える「全体知」への接近を訴えています。全体知を理解するには、仏教の「空」の概念が分かりやすいと思います。「空」は「無」とは違います。むしろ、「空」は「ゼロ」に近いものです。インドにおけるゼロの発見が、近代科学の原点となっており、ゼロは無限大につながる概念です。同じように、あらゆる事物・事象を突き詰めると、その本質は、固定的な実態は存在しない「空」であることの真理が、般若経典などに説かれています。つまり「空」も、無限の広がりを持っているといえる。私が言う「全体知」もまた、ある一点から立体的、多面的に見極めるような完全なる英知を指します。コロナ禍で求められているのは、この全体知に立った構想力であると思います。戦後日本の成功体験を引きずり、〝何となくうまくいっている〟と錯覚し続けてきた結果、日本人には、目先の価値や損得を求めるのが当たり前になってしまいました。「イマ・ココ・ワタシ」だけに関心を持ち、クーポンやポイントを集めてばかりいるような、自分だけの〝小さな幸福〟に沈潜しているのではないでしょうか。もっと広い視界から世界と日本を展望し、どうすれば人々に大きな希望と方向性を与えていけるのかを、議論すべきでしょう。 創価の社会学——未来への希望を育む上で、宗教が果たすべき役割は何でしょうか。 未来を構想する上で基盤となるのは、「イマ・ココ・ワタシ」という価値観を超越する精神性です。そこに教育を通した人材育成の要点がありますし、広い意味で宗教が果たす役割があると思っています。戦後に経済至上主義が吹き荒れる中、創価学会は、競争にさらされる人々に希望を送りました。社会のなかで困難を極める人たちも、信仰に生き、努力することで、人生が開けるのを経験した。それは「創価学会の社会学」ともいえる現象でした。そうした希望があったから、創価学会は今日まで、大きな組織として生き続けてきたのでしょう。今、それだけ時代が変わり、目に見えにくい貧困や差別、かくさと言った、社会が抱える問題に向き合い、経穴していくような、エネルギーに満ちた宗教が求められています。経済的な価値の限界が露呈し、何を心のよりどころとしていいか分からない今日にあって、豊かな精神文化を支えるのが宗教です。創価学会に期待するのも、この点です。そして目先の状況に流されず、絶えながら、二項対立に陥らないという姿勢は、仏教の「中道」(注=相対する両極端のどちらにも執着せず偏らない見識・行動)の生き方に通じます。この生き方を確立するのは容易ではありません。だからこそ、立体的、多面的な視点から物事の本質を見極める全体知に立ったリーダーの存在が求められます。そんなに有能な野球選手でも、やはり監督がいるダッグアウトを振り返るものです。監督がどういう表情をして、どういう言葉を発するか。それが事態を動かしていくことは多くあります。そうした真のリーダーシップを発揮できる人を待望しつつ、私たち一人一人ができる行動を起こして、自分の周囲を踏み固めていくことが大切です。 てらしま・じつろう 1947年、北海道生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。三井物産入社後、ワシントン事務所長、常務執行役員、三井物産戦略研究所書著などを歴任して現在、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長。著書に『日本再生の基軸 平成の晩鐘と令和の本質的課題』『シルバー・デモクラシー』(以上、岩波書店)『ジェロントロジー宣言』(NHK出版新書)等がある。TBS系列「サンデーモーニング」、TOKYO MX「寺島実郎の世界を知る力」などメディア出演多数。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.8.1
September 28, 2022
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人生は今の身体で生きる偶然を必然に変える挑戦インタビュー東京工業大学 伊藤 亜紗教授 「未来の人類研究センター」センター長 個々の物語に光を——「身体論」の研究では、どのような視点を大切にされていますか。 人間の身体は不思議だなと思います。みな、一個の身体を持っていますが、それは自ら選択したものではなく、生まれた瞬間に一方的に与えられ、返品・交換することはできません。私たちは、この〝偶然〟与えられた身体を、一生、引き受けていく運命にあるといえます。自分の中で〝偶然を必然に変えて〟生きようとするからこそ、身体はさまざまな困難に出あい、その困難に向き合うための工夫を生み出していきます。一般に身体の研究というと、理工系のアプローチを指すことが多く、例えば心拍数や発汗量などの数値から、何がわかるかを研究する学問です。いわば身体を一般化して、普遍的なものとして扱います。一方で私は、一個一個の身体がもつ物語に妙味をもっています。自分が一度受け取った身体との付き合い方は人それぞれで、決して単純に数値化できるものではありません。人が一生で経験できるのは自分の身体だけですが、「この身体じゃなかったら、どんな世界が見えるのだろう」ということを、研究を通して想像していきたいと思っています。 ——これまで多くの障害者※をインタビューしてこられました。 もちろん障害の世界からも、「視力はこれくらい」等、一般化・数値化された側面はあります。ところが、たとえ数値は同じでも、一人一人が生きている世界は全然違います。同じ全盲の人でも、触角を頼りに生活している人もいれば、聴覚を重視している人もいるし、あまり感覚を使わずに、どんどん周囲の人に聞いていくタイプの人もいます。あるいは、資格を大事にする視覚障害者もいます。その人たちは、こうしてインタビューを受けながら、相手がどういう顔、どういう体形をしているかをすごく想像したりします。このように、同じ障害者だからと言って一般化すると〝消えて〟しまうような部分があり、そこを深めていきたいと考えています。 ※本日の記事では、個人が障りとなっているのではなく、社会にある障壁が障害という概念をつくり出してきたことを明確にする立場から、「障がい」「障碍」の表記ではなく、「障害」の表記を用いています。 自分なりの「解」——オリンピック・パラリンピックでは、アスリートたちが自らの身体と向き合い、競技に汗を流す物語を見ることができます。 スポーツで競争をする。つまり、本人の頑張り次第で結果が決まるということは、「身体はすべて同じ」であることを前提としているといえます。これはある意味で、「人間は皆が違う身体を持って生まれてくる」こととは正反対ですよね。本来、人が生まれ持った能力には差があって、単純な身体能力に限らず、たまたま裕福な家庭に生まれたなど、相当程度、運に左右されているわけです。それらを含めて、本当はそれぞれスタートラインが違うにもかかわらず、「よーい、どん」で競争する。その意味で、スポーツは、みんな平等である仮定のもとで行われるフィクショナル(虚構的)なものだと思います。とはいえ、トップの選手であればあるほど、そうした身体の差を実感しているはずです。一斉にスタートして、平等に見えても、選手たちは、自分なりの姿勢や走り方といった独自の「解」を持っています。特にパラリンピックには、「そもそも皆、同じではない」ことが、より前面化する面白さがあります。もとよりスポーツは、教相で言えば「線をはみ出さない」、サッカーで言えば「手を使わない」など、人の動きに制限を課すことで成立するものです。すると、障害も「条件が一つ増えた」と捉えることができます。視覚障碍者でいえば、「線をはみ出さない」「手を使わない」と同じように、「視覚を使わない」ことを新たな条件として、新たな「解」を見つけ出します。障害者スポーツは、とても創造性が高い競技であるといえます。 障害の捉え方——著書『目の見えないアスリートの身体論』の中で、伊藤教授がインタビューされた先天的全盲の競泳選手が、〝見えないことを悲しいとは思わない〟と言われたのが印象的です。 障害者に限らず、自分の身体に100%満足している人は、いないのではないでしょうか。みな、何かしらの難しさを抱えていて、それを何とかしながら生きているのだと思います。ところが、社会の仕組みが健常者向けに作られている以上、特定の身体は「基準と違う」ということになり、そこから障害という概念が生まれます。障害は身体にあるものと思われがちですが、本当は、社会と身体の間に存在するものなのです。そう考えると、社会が変われば障害の捉え方も変わるということが言えます。それが鮮明になったのが、コロナ禍だと思います。最近、視覚障害の友達が「これでみんな障害者になったね」と言っていました。外出することや人と会う言葉度、今までできていたことができなくなったコロナ禍は、ある意味で皆が〝障害者〟を生きた1年半だったと思います。一方で、オンラインで人と関わる機会が増えたことによる変化があります。数人で会話をするときの話者の切り替えは、ちょっとした表情やサインで「この人、話したいんだな」と視覚的に判断して、発言権をいたのがこれまででした。でもこれって、視覚障害者には分からないんですよね。ところが、オンラインではどうしても会話がかぶりやすいため、自然と進行役が生まれます。視覚障害者にはハードルが高かった、複数人での会話がしやすくなった側面もあります。会話がぶつかってしまう気まずさなどを、多くの人は今、初めて経験してしまいますが、障害者の方々は、とっくにそうした困難に向き合ってきた先輩なわけですね。思い通りにならないことが多いと、私たちはストレスを感じたり、不安になったりしますが、〝障害者の方々は、そんなことでは動じない〟ということを、私はあらためて学びました。 つながりを見る——昨年2月、東京工業に「未来の人類研究センター」が設立され、伊藤教授がセンター長として、利他に関する研究を進められています。なぜこのテーこの選んだのでしょうか。 利他的な関わりを使用とする人は、障害者や病気の人の周りに集まることが多いので、「利他」は切っても切り離すことができないテーマの一つでした。その上で、コロナ禍でエッセンシャルワーカーの存在が注目され、私たちの生活が成り立つ背景に、どれだけの人の支えや労働があるかに気付かされました。しかし、そうしたつながりはもともと存在していたわけで、私たちが見ていなかった、あるいは見ないようにしていた部分があると思うんです。環境問題にも同じ構図があり、例えば電気自動車は「環境にいい」と言われていますが、開発に必要な材料であるレアメタルを採掘するために、大量のCО₂が排出されます。環境にいいといわれる者の背後のつながりまで見ると、環境に対する負の側面がある。一例ですが、そういう複雑な事項のつながりを意識していくことが、これからの時代に重要だと思います。子のことと、本当に利他的なことは何かという視点は、つながっていると思っています。良かれと思ってやったことが、実はそうではなかったということが多くあるからです。背後のつながりにも目を向けながら、複雑な関係の中で、どのようにより良い行動をしていくのか。この問いを、時代から突きつけられている気がしました。科学技術も、社会の営みも、本来は利他的なものであったはずなのに、現代社会は多くの問題を抱えています。「利他主義が大切だ」と訴えるだけでなく、利他がもつ府のリスクも含めて考えながら、その本質に迫ることが大切であるとの思いから、研究を進めてきました。 支配せず委ねる——利他のリスクという点について、近著『「利他」とは何か』の中では、「利他的でない利他」について述べられています。 誰かのためを思ってのサポートが、必ずしも相手のためにはなっていないということが多くあります。例えば、認知症の方が、地域で開かれている家族会などの集いに行き、お弁当の時間になると、周りの人がすぐにお弁当を持ってきて、蓋を開け、割り箸を割り、「はい、どうぞ」となったりします。でも本人としては、自分でお弁当を取に行って、自分のところに持ってきたいわけですよね。途中で落としたり、戻ってきて全然違う席に座ったりしてしまうかもしれないけれど、自分で挑戦、失敗しても、それによって成長して成功体験をしたほうが、本人の自己肯定感は高まります。周囲の善意が、結果的に本人の自立を奪い、「押しつけの利他」になってしまうことがあるのです。反対に、自分が意図せずにした行為が、結果的に利他につながることもあります。私の教え子が、卒業して数年後に「あの時の先生の言葉が、自分の人生を変えてくれました」と言ってくれたことがあります。私は覚えていなかったのですが(笑い)、何げない言葉を、学生がキャッチして、私を利他的な人間にしてくれたんですね。 ——利他が「押し付け」にならないために、何を心掛ければいいのでしょうか。 利他の最大の敵は「相手をコントロールすること」だと思っています。自分の行為が「相手のためになるだろう」という思いは、あくまでも自分の思いでしかありません。その結果、相手がどう思うかはわからないということです。しかし、私たちはついつい、「喜ぶはずだ」と相手の反応を予測し、何かしら見返りを求めてしまいがちです。それは、自分がよかれと思ってした行為に相手を従わせようとする押し付けになってしまいます。そうならないためには、相手への「信頼」が必要です。自分の行為を相手がどう思うか分からないし、自分が不利益を被る可能性もある。不確実だけれども、それでもなお、「この人は大丈夫だろう」と任せて、委ねてみる。そうして信頼することで、相手の潜在的な能力や可能性に目が向き、引き出していけます。そういうことが結果的に利他につながっていくと思います。また、共感から利他が生まれるという発想にも注意が必要です。ともすれば、〝共感を得ないと助けてもらえない〟というプレッシャーにつながるからです。利他というのはどうしても上下関係を生みやすいものだけに、そうしたプレッシャーによって、サポートされる側の生き方が窮屈にならないよう、心掛けなくてはいけないと思います。 相手を受け入れ、自分も変わる。「うつわ」のような利他の社会を 入り込める余白——相手を受け止める利他のあり方を、「うつわ」にたとえられます。 自分の思いがコントロールにならないためには、相手に耳を傾ける以外にありません。こちらの思い込みを捨てて真摯に耳を傾けると、意外な反応があります。必ずこの「他者の発見」があります。相して相手の新たな面を発見したら、自分もまた変わろうと努力する。相手が「快く思っていない」と感じたら、自分の行為を調整すればいい。良き利他には「自分が変わる」ことも含まれるといえます。相手の反応を見てやり方を変えていくような柔軟性がとても大切で、その意味で、「完璧な利他」はないのではないでしょうか。そう考えていくと、利他についての「うつわ」のイメージが浮かびます。うつわは、さまざまな料理や品物を受け入れ、その可能性を引き出します。同じように、その人のために何かしている時であっても、相手が入り込めるような余白や、自分が変わるための余裕が必要です。例えば、「時間」も、うつわに入る大切な要素だと考えています。北九州を拠点にホームレス支援をしているNPO法人の理事長が、声を掛けたホームレスの方の中に、7年間、支援を拒み続けた方がいたそうです。サポートを申し出ても、「結構」と断り続けたその方が、ある時、ふと「じゃあ、お願いします」と。何か特別な出来事があったのではなく、7年間のやり取りの蓄積が、その方の気持ちを買えたんです。これはとても示唆的で、気持ちが変わるためには、時間が必要だったのだと思います。長年つながり続けたことで、時間がたまるためのうつわができたともいえるでしょう。うつわは、人間関係の中で育まれていくものでもあるのですね。相手を受け入れ、自分も変わる。うつわのような余白を持つ人たちの間には、一方通行ではない双方向の利他が生まれていくのではないでしょうか。ある時はサポートする側の人が、別の場面ではサポートされる側になったりもします。人々が完璧な利他を目指すのではなく、互いに「うつわ」を育みあえる社会。そんな社会を築いていくことが、これまで以上に大切であると感じています。 いとう・あさ 東京都生まれ。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次に文系過程へ。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。舞楽や現代アートを専門としながら、障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)、『もどる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)、『「利他」とは何か』(集英社、共著)など。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.7.30
September 16, 2022
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第4回託された「命のバトン」訪問診療医 松崎 泰憲さん故人に追善の祈りを捧げる時期人生を考えるきっかけに「〝生まれた者は必ず死ぬ〟という道理を、王から民まで、だれ一人知らない者はない。しかし実際に、このことを重大事と受け止め、このことを嘆く人間は、千万人に一人もいない」(御書474㌻、通解)——この日蓮大聖人の御教示は、「死を忘れた文明」といわれる現代において、ますます重みを増していると思います。新型コロナウイルスの感染症の拡大によって、誰もがいやおうなく「死」を身近な問題と直視せざるを得なくなりました。ワクチン接種が始まり、先の見えなかったパンデミック(世界的大流行)の終息に光が差してきたのは喜ばしいことですが、それで今回の経験を忘れてしまっては、元も子もありません。そもそも、死は誰人も逃れられない者であり、いつかは全員が向き合わなければならない人生の根本問題です。だからこそ、故人の冥福を祈るこの時期をきっかけとして、一人一人が、「死」をどう向き合い、どのような人生を歩むべきかを考えていただきたいと思うのです。◆◇◆私はこれまで、「命を守る」外科医、また「命を見送る」在宅医として、「死」の現場に立ち会ってきました。その中で感じることは、多くの人が、死を忌むべきものとして扱い、考えないようにしているという問題です。いざ死と向き合わなければならなくなった時に、死を直視できない方、あるいは、うろたえたり、人任せにして慕ったりする方など、さまざまな最後を見てきました。中には、臨終の場で、〝祖父母の死の姿を見せると子どものトラウマになってしまうから〟と、両親が子どもたちを立ち会わせない判断をした場面さえ目にしたことがあります。昔は、自宅で看取ることが当たり前でした。旅立つ人にとっては、次第に体の自由がきかなくなり、食べ物が喉を通らなくなり、体もやせ細っていきます。その中で、暮らしてきた家族に、自らが生きてきた証を残すように言葉を掛け、最後は自宅で死を迎えます。一方、残される家族にとっては、日々衰えゆく姿と向き合いながら、徐々に気持ちを整理していきます。そして最期は手を握り、声を掛け、やがて別れの時を迎えるのです。その過程は、とてもつらいものですが、死と向き合うための大切なプロセスです。ところが現代は、死の多くが病因内における出来事となり、人々が死を身近なものとして迎えることが少なくなっていきました。現代は、そうしたことを踏まえ、在宅医療が進んでいるものの、自宅で亡くなる方は、まだ13.6%にすぎません。加えて、コロナ禍が、死の実感を失わせている現実もあります。病院や介護施設では、感染対策のため、家族が思うように面会や付き添いがかなわずになくなる場面も少なくないからです。別れの時を共に過ごせないことは、旅立つ側と残された側の両方に大きな悲しみと喪失感をもたらします。面会の方針も施設によって異なるので、最後が近づいてきた時は「立ち合いは、どこまでできるのか」「どうしても会わせたい人がいる場合は、どうしたらよいか」など、積極的に相談やお願いをすることが必要だと思います。 なぜ人は死ぬのか人間の死は、臨床的に、呼吸停止、心臓停止、脳機能停止(瞳孔散大と対光反射の消失)の三兆候を判定基準としていますが、そもそも私たちは、なぜ死ななければならないのでしょうか。私たちの身体は、37兆2000億個ともいわれる細胞で構成されていますが、その一つ一つの細胞に「死」の仕組みが備わっているからです。実は、このプログラムがないと、私たちは生きながらえることができません。細胞は、さまざまなストレスにさらされ、傷つくことがあります。それを放置してしまえば、ウイルスや細菌などの外敵がそこから侵入し、身体全体に悪影響を及ぼしてしまうので、傷ついた細胞は死んで、新たに生まれた細胞と入れ替わっています。事実、こうした働きによって、胃腸の内壁細胞は数日、白血球は約3日、皮膚は約28日、赤血球は約120日というサイクルで、細胞が生死を繰り返しながら、私たちの身体は維持されています。ただ、それにも限界があります。細胞は分裂を繰り返すほど、遺伝子のコピーミスが起こり、がん細胞が生まれてしまうリスクが高まるからです。がん細胞も結果として私たちの身体の調和を壊してしまうことから、そうした細胞になってしまう前に、一つひとつの細胞には、アポトーシスといって、周囲を守るために自ら死を選ぶプログラムがあることが知られています。細胞レベルで死を免れることができない以上、その細胞で構成される私たちも、死から逃れることはできません。しかし、そうした細胞の〝利他的な働き〟があるからこそ、私たちの身体の「生」は守られているのです。 命懸けで種を残すそれは細胞レベルだけではなく、自然界にも見られます。ほとんどの生物にとっては、生きている以上、死は定められたものです。しかし、その限られた「生」の中で、生物たちは、自分の主を残していくために、それこそ命懸けで子孫を守ろうと戦っています。例えば、サケは産卵後に死に、その体をプランクトンに食べさせて、結果として稚魚の餌にさせます。また卵を産んだら自らの内臓を出し、子どもに食べさせるクモがいることも知られています。これらは過酷な生存競争に勝ち残っていくためですが、このように自らの命をも捧げるという利他的な行動で新しい生を残していくしゅもそんざいします。一方、人間はこのような死の選択をしません。種を守る、子孫を守るという利他的な行動があったから、ここまで生き残ることができました。そもそも人間は、子どもを未熟な状態で生み、社会のなかで育てますが、そこに利他の心がなければ、新しい命を守っていくことはできません。また、狩猟生活を中心としていた縄文時代以前の日本人の平均寿命は、13~15歳だったと考えられています。その後、稲作などによる共同作業によって栄養バランスが向上したことなどが寿命を延ばす力となりましたが、そこに互いを守り、支え合う心がなければ、今日のような結果にはなりませんでした。やはり、人間においても、祖先たちの心の根底に、利他の精神が脈打っていたからこそ、私たち人類の「生」は支えられてきたのです。 命を支え合った祖先たちがいて今の私たちがいる利他の心を次世代へ! 死と向き合う力私はこれまで約40年に渡り、私の両親を含めて1000人以上の臨終に立ち会ってきましたが、その中で、ある意味での法則のようなものを感じています。それは、ベッドの上で亡くなられる方のほとんどが、「生きたように死ぬ」ということです。最期まで「生」を全うされた方は、本当に晴れやかなお顔で旅立たれます。いつも笑顔を絶やさない方は、ほぼそのままのお顔で亡くなられます。そして、亡くなられたのに、まるで生きているように感じさせる方々には、共通点があります。それは生前、自分のことより他人の幸せを優先して考え、常に周囲に対して感謝の心で接しておられた方々であるという点です。まさに、生命が本然的に持つ利他の生き方を貫いてきた結果であると、私は思えてなりません。もちろん、人によって状況も違うので、大切な人、身近な人の臨終に立ち会えないこともあるでしょう。しかし、私たちは、こうした亡くなられた方々の生きていた姿、そして死んでいく姿を通し、自らの生きるべき道を確かめ、死と向き合う力を得ていくのだと思います。とは言っても、悲哀や切なさといった感情を持つ私たちには、周囲の死を容易に受け入れられるものではありません。しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、そうした方々が命懸けで受け継いできた「命のバトン」があったから、今の自分たちがいるという事実です。そしてまた、その「命のバトン」とは「利他のバトン」であるということです。だからこそ、残された人たちが、亡くなった方々の分まで、周囲のために尽くし、そのバトンを、さらに次の世代に託していこうとする心が重要だと考えます。 永遠に生死を繰り返す生命立正安国へあの友の分まで 確かな生死の哲学そうした生き方を貫いていくためにも、哲学や宗教が不可欠です。一般的に、多くの人は、「死」に対して、次の二つの考えを持っています。一つ目は、死ねば心身ともに一切が滅びるという考え。つまり、生命を「現在世だけのもの」とする考えです。二つ目は、死後も肉体とは別の霊魂のようなもので、それが続くという考え方です。しかし、一つ目の考え方では死への恐れを助長するだけで、「今さえよければいい」という刹那的な生き方や、「どうなってもいい」という自暴自棄の生き方につながっていく可能性があります。そして二つ目も、詩を受け入れることはできず、却って今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わってしまう恐れがあります。一方、仏法では、「三世の生命」「三世の因果」を説いています。生命の因果は現在世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるもので、過去世の行為が因となって現在世の行為が結果として現れ、現在世の行為が因となって未来世の結果をもたらすという思想です。すなわち、生と死は断絶したものではなく、永遠に生と死を繰り返していくという生命観です。この思想は、旅立つ側、見送る側の双方に力を与えるものだと痛感します。旅立つ側にとってみれば、現在世の終わり方が未来世のはじまりを決めるという意味で、最期まで「生」を全うすることができます。見送る側にとってみれば、亡くなられた人の「死」は敗北でも悲劇でもなく、次なる「生」への瑞々しい出発であると思うことができます。まさに仏法は、「生」を最も価値的にする道を指し示すと同時に、「死」の苦しみを乗り越えるためのよりどころとなる希望の哲理ではないでしょうか。もちろん、この世に生きている人にとって、死はだれも経験したことがありません。しかし、信心を貫いた結果として、微笑んでいるような安祥とした学会員の相を見るたびに、この哲理が単なる観念でなく、現実の上で証明されていることを確信せずにはいられないのです。 「臨終只今にあり」人は「死」と向き合うことで、自らの命の有限性に気付かされます。しかし、その限りある人生を意識するからこそ、「今」を大切にすることができます。大聖人は「臨終只今にあり」(御書1337㌻)と仰せです。「今、臨終を迎えても悔いがない」との覚悟で、現実に一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことが重要だと教えられています。大聖人は、この仰せの通り、最期まで立正安国の実現のために生き抜かれました。そして今、全国・全世界の学会員も、多くの方々の死を真正面から受け止め、あの人の分まで、この友の分までと、そうした方々が抱いてきた平和の夢をわが夢とし、力の限りに自他供の幸福のために尽くし抜いています。こうした学会員の生き方こそ、脈々と受け継がれてきた「命のバトン」「利他のバトン」を永遠ならしめる力となり、ひいては社会に「死」を正しく位置づけ、一人一人の「生」をさらに輝かせる力になっていくと確信します。 まつざき・やすのり 1955年生まれ。医学博士。胸部外科医。在宅医。宮崎大学医学部外科学の准教授等を歴任。ケアマネージャーの資格を取得し、現在、宮崎市内のクリニックで在宅医療にも取り組む。創価学会宮崎総県ドクター部書記長。本部長。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.7.21
September 9, 2022
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第3回「病」と向き合うためにコロナ禍は、「生老病死」という問題に、人類がいかに立ち向かうべきかを投げかけている。『危機の時代を生きる——創価学会ドクター部編』の第3回は、「生老病死」の「病」がテーマ。外科医で、30年以上の長きにわたって、がん治療に取り組んできた西崎隆さんが、「『病』と向き合うために」と題して執筆した気候を紹介する。 外科医 西崎 隆さんコロナ化で受診控え増手洗いやマスク着用、3密(密閉、密集、密接)回避の行動で、インフルエンザを含め、新型コロナウイルス以外の感染症は激減しました。その一方、感染を恐れての受診控えから、さまざまな問題が起こっています。なかでも、昨年のがん検診の受診率は、日本対がん協会によると、対前年比30.5%の大幅減と報告されています。これを反映してか、今年になって、早期がん、いわゆる治るがんが減り、逆に進行がんや、切除不能のがんの患者さんが、以前に比べて増えてきました。がんの種類によっても差はありますが、早期がんから、進行がん、切除不能がんへと進展していくのに、おおよそ3年かかるとされています。ゆっくりと進むようにも思えますが、検診を1年開けてしまうと、それだけ進行に、治る者も治らなくなる可能性があります。「今年ぐらい大丈夫だろう」と軽く考えてしまったり、あるいは何らかの症状があるのに、病院へ行くとコロナに感染するのではないかと考え、受診を控えてしまったりする方もおられます。医療機関では感染対策を徹底しており、そう簡単に感染するものではありません。放置して治療が遅れるリスクを考えれば、迷わず受診することをお勧めします。◇◆◇さて、がんは、日本人の2人に1人が、一生に一度はかかる国民病ですが、医療技術の進歩に伴い、がんに立ち向かう武器も増えました。これまでのがん治療では、手術による切除、抗がん剤の投与、放射線療法が行われてきましたが、現在は、免疫療法を加えて4本柱となりました。さらに抗がん剤の分野では、がんゲノム医療が導入され、今後、この分野は飛躍的に進歩する可能性があります。がんゲノム医療とは、一人一人のがんの個性を遺伝子レベルで明らかにし、患者さんに、より適した治療などを行う次世代のがん治療です。これによって、今まで肺がんや乳がんなど、がんの種類で標準的な治療薬が決まっていましたが、遺伝子を調べることで、がん遺伝子の異常に適合した薬が選ばれるようになったのです。現状では、がん治療にはガイドラインがあり、標準治療薬の投与が全て終了し、次の治療薬がない患者さんに限定して、がん遺伝子パネル検査(多数の遺伝子を同時に調べる検査)が保険診療として行われていますが、あと10年もすれば、がん遺伝子の検査を先に行い、最も効果の期待できる治療薬を選択していく時代になると思われます。 医療の進歩で「がん」は排除から共存へ負けずに生き抜く心を 変異が起こる原因そもそも、がん細胞は遺伝子のコピーの失敗から生まれるものです。1日約1兆個もの細胞が生まれ変わる人間の体で、将来、がん化する可能性のある異常な細胞は、毎日、数千個の単位で体内に発生していると考えられています。一方、私たちの体には、遺伝子の変異を修復するシステムが備わっています。この修復システムに異常が生じてしまうと、遺伝子の異変は体内に蓄積していき、がんの発生につながることがあります。がんの発生に深く関わるのは、特に細胞の分裂と増殖に関わる遺伝子で、この遺伝子に異常が生じると、分裂が止まらず、細胞が際限なく増殖してしまうのです。そして増えすぎた細胞は、やがて周囲の組織を圧迫したり、また別の臓器に飛んでいったりして、体を衰弱させ、やがて命を奪うのです。なぜ、遺伝子の変異はおこるのでしょうか。実は、長い生命の歴史の中で、変異があったから、私たちは存在しているとも言えるのです。生命は、さまざまな環境のなかで生き残っていくために遺伝子を変異させ、その中で多様な生物が生まれました。そして、環境に適応できた生物のみが生き残ってきました。しかし、この生命の進化を支えてきた変異によって、がんも生まれてしまうのです。そう考えると、がんは、生命の中に組み込まれた「宿命的存在」とも言えます。ただ、がん遺伝子を必要以上に発現させないことはできます。興味深い研究があります。それは一卵性双生児、つまり同じ遺伝子を持つ双子を調査した結果です。同じ遺伝子なら、発がんリスクも同じだと考えられますが、遺伝子要因は3割程度しかないないことが分かりました。残りの7割は、生活習慣などの環境的な要因で決まるということです。遺伝子の変異が起こる原因として、最も高いリスクは、たばこや食物に含まれる発がん物質を取り込んでしまうことです。特に日本の研究で、がんの原因は、男性が30%、女性で5%が「たばこ」だと考えられています。また、運動不足、肥満なども、がんの発生リスクを高めます。健康のためにも、禁煙はもちろん、バランスのとれた食事、適度な運動を心掛けたいものです。 日常の中で暮らすただ、いくら良い生活習慣を心掛けても、がんになってしまうことがあります。そうした場合でも、対応できる光が見えてきました。その一つは、抗がん剤の一つである「分子標的薬」です。従来型の抗がん剤が、がん細胞だけでなく正常な細胞も攻撃してしまうのに対して、分子標的薬は、がん細胞の増殖や遺伝子に関わる特定の分子(タンパク質や遺伝子)を狙い撃ちします。副作用が全くないわけではありませんが、従来のがんの治療薬に比べると、より患者さんの負担が少なくなりました。文指標訳単独、あるいは従来型の抗がん剤と組み合わせて用いることで、治療効果が得られます。また、「免疫チェックポイント阻害薬」も注目を集めています。免疫細胞は、体内に2兆個もあるといわれ、体の中の異常な細胞を検知し、排除します。ところが、がん細胞には、この免疫細胞にブレーキをかける仕組みがあるのです。この仕組みは、がん細胞が免疫細胞の攻撃をかわす〝透明マント〟に例えられます。この透明マントを取り除くのが「免疫チェックポイント阻害薬」で、それによって免疫細胞は本来の働きを取り戻し、がん細胞を認識して攻撃することができるようになるのです。この薬を使う方の中には、がんの縮小は見られないものの、長期にわたって大きくならず、上手に付き合いながら暮らせる人もいます。◇◆◇こうした医療の進歩の中で感じるのは、切除や抗がん剤の投与などによって「がんを完全に排除する」という考えではなく、宿命的存在である「がんとの共存」という発想が出てきたことです。糖尿病や高血圧症といって慢性の病気では、治癒ではなく、悪化させないで現状維持を目指すことが多くあります。がんの治療も同様に現状維持、いわば「がんとの共存」を目指すということです。ましてや、現代は超高齢社会です。長く生きれば、その分、発がん物質に触れる機会も多くなり、がんになるリスクも高まります。がんが体内に存在しても、それが大きくならなければ、日常の中で暮らしていけるのです。がんになることは特別なことではないのですから、たとえ、がんになったとしても、落胆したり、絶望したりするのではなく、「前を向いて生きる心」を持つことが、ますます大切になります。 今こそ宿命転換の時!苦難に意味を見いだす創価の哲学は希望 「仏の御計らい」がんが進行すると、身体的な強い痛みを起こすことが多く、前を向き、未来を思う余裕など、とても持てません。しかし、がん緩和医療が進歩し、末期がんの患者さんであっても、適切な鎮痛剤や睡眠導入剤の利用、精神科医師、臨床心理士、社会福祉士の助けによって、「身体的な苦痛」だけでなく、「不安や孤独感といった精神的な苦痛」にも対応することができるようになりました。もちろん、完全に苦痛が消えるわけではありませんが、病にあっても、これまでの人生や将来について、深く考えることができるようになったのです。仏法は本来、「生老病死」の四苦という、人間の根源的な苦悩と向き合うところから出発しており、「人生の価値が見いだされないスピリチャルな苦痛」の解決に対するヒントを与えてくれます。どうすれば「病む苦しみ」を乗り越え、「前を向いて生きる心」を持てるようになれるのでしょうか。日蓮大聖人は、女性門下に対し、「この病は仏の御計らいであろうか。そのわけは、浄明経、涅槃経には、病のある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(御書1480㌻、通解)と仰せです。病気になれば、もちろん落ち込みます。しかし、それによって命の尊さを知り、充実した人生を歩むきっかけにしていくこともできます。だからこそ、大聖人は、病を嘆かず、むしろ〝意味のあるもの〟と捉えて深い信心を奮い起こしていくよう、励まされています。そもそも、生きる力が弱くなれば、病に負けてしまいます。健康のためには、前を向き、生きようとする心を強くすることが大切です。ましたや、がんは逃れることはできない宿命的存在です。だからこそ目をそらすことのではなく、〝意味あるもの〟と捉え、立ち向かっていくことが重要だと思うのです。その上で、〝意味がある〟と捉えていくには、周囲とのつながり、支えがとても大切です。大聖人は「ふがいない者でも、助けるものが強ければ倒れない。少し弱い者でも独りであれば、悪い道では倒れてしまう」(同1478㌻、通解)と御教示されて、人を支える善知識、つまり、よき先輩や良き友人、よき師匠が大事だと言われています。このつながりの重要性を、医療の場合でも実感します。治療の選択肢を選んでいただく時、かつては家族のつながりが強く、家族と話し合う中で、選択することができたのだと思いますが、今では、家族とも疎遠で周囲とのつながりも薄く、相談する人がいなくて、一人で悶々と抱え込んでしまう方を見かけるからです。 励ましの絆こそ力こうした現実の中で、学会を見た時、ここに希望があると感じます。学会員は、たとえ病気になっても、〝今がまさに宿命転換の時。今からスタートだ〟〝自分の闘病の姿を通して同じ病で苦しむ人を励ますために、あえてここに生まれてきたのだ〟と意味を見いだし、前を向いて生き抜いています。自他供の幸福のために生き抜く学会員は、普段から地域の中のネットワークを大切にし、周囲の友が病気になれば、自分の病は二の次に、その友のために題目を送り、励ましを送っています。こうした前を向く哲学、励ましの絆は、病に負けない力になり、悔いのない人生を歩む力になると確信します。感染症が世界中に広がり、「病」を誰もが身近に感じる今こそ、仏法の哲学や学会の存在が求められている時だと思います。 【危機の時代を生きる■創価学会ドクター部編■】聖教新聞2021.7.3
August 13, 2022
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人が「何を食べるか」は地球環境の未来に直結インタビュー米ジョンズ・ポプキンス大学公衆衛生大学院ジェシカ・ファンゾ特別教授極度の貧困が急増——コロナ危機による世界の貧困人口の久蔵が危惧されています。 国際食糧政策研究所の報告書によると、1日1.9㌦未満で生活する貧困層はコロナ前より20%増加。およそ1億4000万人以上が、新たに極度の貧困に陥る可能性があると推定されました。他の研究所では、コロナ禍の影響で、来年までに消耗症(重度の栄養失調)の子どもが930万人も増えると予測されています。世界全体の食料供給量が減ったわけではありません。ロックダウン(都市封鎖)など感染抑止のための厳しい措置による経済的損失で、食料を買えない世帯が増えているのです。とりわけ子どもは食糧不足の景況を受けやすく、栄養失調で死に至る危険性が高い。途上国でコロナ禍のダメージが最も深刻なのは、貧困世帯、特にこどもを育てる家庭です。 ——今月開催された先進7カ国(G7)首脳会議では10億分のワクチン支援が発表されました。途上国へのワクチン支援が進めは、状況は改善されるのでしょうか。 残念ながら、富裕国がワクチンを買い占め、自国で摂取を優先したため、途上国は後回しにされてきました。特にサハラ砂漠以南のアフリカの状況は悲劇的です。これまでマラリアやエイズなど他の感染症に苦しみ、紛争や気候変動によって悪化していた貧困が、コロナ禍によってさらに加速しているからです。おそらく、こうした国々でワクチン接種が進むには、数年かかるでしょう。ワクチンによってコロナを抑え込み、社会が正常化しても、経済が回復するには時間がかかります。国連食糧農業機関(FAO)は毎年、世界の貧困について報告書を発表していますが、ここ数年間は貧困層がさらに増加していくでしょう。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)、気候変動(Climate change)、紛争(Conhlict)の三つの「C」の嵐によって、途上国の食料不安が悪化の一途をたどるの間違いはありません。唯一の改善策は、各国政府の力強い行動で、将来の感染症を阻止し、気候変動を緩和し、紛争を解決していくことです。そのために強力な多国間協力が必須ですが、どれも極めて難しい。悲劇的ですが、これが現状です。とりわけ気候変動については、私たちに残された時間はあまりにも限られています。 栄養格差が露呈——FHOは食料安全保障を〝活動的・健康的な生活に必要な食事と食品の好みを満たす、十分かつ安全で栄養価の高い食料に、すべての人々が物理的・社会的・経済的に常時アクセスできる状況〟と定義しています。コロナ危機の前から、世界の食料安全保障は悪化していたのでしょうか。 1990年から2015年の25年間で、極度の貧困歴は20億人から7億人まで減少しましたが、それが後の4年間で、飢餓に苦しむ人々が8000万人から1億3500万人へと70%も増加しました。主な理由は、紛争と気候変動です。ここに現在、コロナ危機が追い打ちをかけています。貧困の根絶は食料安全保障の柱の一つですが、問題はそれだけではありません。「健康な生活のために必要な食事」という意味では、さまざまな形の栄養不良や肥満の問題も、食料安全保障において取り組むべき重要な課題です。近年、肥満はほぼすべての国で増加しており、カロリー摂取はできても健康的な食事を取れない人々が、全世界で30億人に上るといわれています。栄養価のある生鮮食品は値段が高く、保存のきく加工食品や穀物は安価です。そのため、所得水準など生活環境の差によって栄養格差が生まれています。つまり、全人類の約半数に迫る人々が、経済格差が主な理由で、果物、野菜、魚など栄養価の高い食事を十分に取れず、健康リスクを負っているのです。新型コロナウイルスは、こうした栄養不足の健康リスクも浮き彫りにしました。バランスよく栄養を取っていない肥満体質のコロナ患者が、より高い重症化リスクを抱えることは多くの研究で示されています。 ——具体的な例は? 米国では、パンデミックによる黒人、中南米系の死亡率が白人よりも高く、医療へのアクセスなど、さまざまな要因が指摘されています。肥満もその一つです。黒人が多く住む地域では、生鮮食品を安く買える店が少ない。「食品砂漠」の問題が深刻です。こうした構造的人種差別、経済格差によって、肥満人口の比率も白人より高い。コロナによる人種間の死亡率の差は、健康リスクを高める栄養格差も露呈しました。栄養不足人口が多くなるほど、経済的にもコストが大きくなります。今回のパンデミックで、食料安全保障が個人と社会全体にとって、いかに重要であるかが、改めて確認されました。これを国際社会への警鐘と受け止め、コロナ禍という危機の時代を乗り越えた先に、すべての人が健康的な食料を享受できる、より良い食料システム(食料の生産、加工、輸送及び消費に関わる一連の活動)を再構築していくべきです。 ワンヘルスの視点 ——教授は、新型コロナウイルスが動物由来の感染症とされていることから、人間、動物、生態系の三つの健康を一つに見なす「ワンヘルス(一つの健康)」の取り組みが、さらに重要になると指摘しています。 たった2世紀前まで、全世界の耕作に適した土地のうち、わずか5%しか農地として使われていませんでした。人類は今、地表の約40%を農用地として使用しています。人口爆発と動物性食品への強い需要が、主な原因です。結果として、人間、家畜、野生動物の間で、新しいウイルスが伝染するようになりました。動植物の絶滅のスピードは、人類が存在する前より100倍から1000倍も速くなっているといわれています。生物多様性が失われ、トウモロコシ、コメ、ムギ、ダイズ、ニワトリ、ウシといった同種の食料システムに変わっています。生物多様性の消失によって、人類は地球温暖化や動物由来感染症などのリスクに直面するようになりました。人間、動物、生態系の健康は、互いに強く結びついています。人間の食料システムが気候変動と環境にどう影響し、その結果として変化する生態系がウイルスの拡散にどう関係するのか、同時に知る必要があります。こうした、公衆衛生や環境学、生物学を横断する学際的な「ワンヘルス」のアプローチを追求しなければ、将来、動物由来の感染症を防ぐことはできません。公衆衛生の問題は、環境問題でもあるのです。新型コロナウイルスがもたらした甚大な人的、経済的、社会的な損失を教訓とし、国際公衆衛生を強化するためにも、気候変動の緩和、持続可能な開発、飢餓の終焉、生態系と海洋環境の回復力向上といった課題への対処に、各国政府が協働していくべきです。 ——ファンゾ教授の専門分野の一つは、「公平で、倫理的で、持続可能な食生活と食料システム」です。 人間の健康のために、環境や動物をただ犠牲にし続けるだけでいいのか——。難しい倫理的問題ですが、地球資源を次代に残し、動物福祉を守りながら、人間の権利を確保するために、どうバランスを取っていくのかが最適なのか、常に問い続けなければなりません。日々の食生活は、環境に何らかの負荷を与えます。「きょうの食事が、動物や環境、地震と家族の健康、そして自身の住む地域社会にどう影響するのか」と考えるのが、まず実践できることではないでしょうか。国連の気候変動枠組条約締約国会議(COP)では、エネルギー問題に議論の大半を割きますが、地球全体の温室ガス効果ガスの実に3割が、人類の食料システムから排出されています。私たち一人一人が何を食べるかを選ぶことは、気候変動の緩和に直結するのです。 誇るべき和食文化 ——「持続可能な食生活」を実現するためには、具体的にどういった食品を選べばいいでしょうか。 植物性食品の方が環境への負荷が少ないといわれますので、動物性食品を少なめにして、野菜や果物をもっと多く食べられるといいですね。日本人は大豆や海鮮食品を多く食べる印象を受けますが、とても健康的で、持続可能な食生活でしょう。同じ海鮮食品でも、特に貝類や海藻が健康的で持続可能な栄養源です。また食生活に、住んでいる環境の特性が生かされている点でも、日本は世界の模範です。住む場所が変われば、食生活も変わる。地域の特産品を大事にし、地産地消を心がけるのは、持続可能な食料システムに貢献している。放送された加工食品ばかり食べている米国人とは違います。日本人の皆さんには、自国の伝統的な食文化に誇りを持ち、大事にし続けてほしいと願います。 ——国連の「持続可能な開発目標(SDGS)」の目標2には、食料安全保障と栄養改善の実現も掲げられています。本年9月には「国連食料システムサミット」が開催されます。 SDGS達成のロードマップ(行程表)に、食料安全保障をしっかり位置付ける歴史的な会議になるでしょう。食料システムの気候変動への影響を再認識する上でも、極めて重要です。しかし、COPと違って、各国政府に対し、説明責任を求めるようにはならないのではないかと懸念しています。サミットで国際協力の方途が議論されても、実行されなければ意味はありません。少く両システム改善のための途上国支援など、具体的な行動を約し、履行する仕組みを構築しなければなりません。 ——日本でも近年、SDGS達成への機運が高まり、一昨年には「食品ロス削減推進法(略称)」が施行されました。 今年の年末に、「東京栄養サミット」が行われると聞いています(栄養不良の経穴に向けた国際協力を推進するための国際会議。東京五輪・パラリンピックに合わせて、日本政府後援で開催)。日本が、食品ロスといった食料システムの国内的課題に取り組むだけでなく、栄養不良といった食料システムの国際的課題でもリーダーシップを発揮していることに、大きな期待を寄せています。日本は、東日本大震災をはじめ危機的な状況に直面した時に、どう乗り越えていけばいいのかというレジリエンス(困難を乗り越える力)を世界に示してきました。パンデミックによって貧困層が急増する中で、コロナ禍から「より良い」食料システムを再構築する挑戦においても、国際社会は日本から学べるのではないでしょうか。危機の時代こそ、国際社会が協力していくべき時であり、また協力できるチャンスでもあります。2008年、世界の食料価格の高騰によって途上国で暴動が発生し、危機的状況に陥った際、G20(主要20カ国)が結束して、世界農業食糧安全保障プログラムを立ち上げました。結果、16億㌦が投資され、1300万人もの食料不安を改善するために、こうした取り組みをさらに強化していく必要があります。コロナ後の国際社会のあり方について議論が重ねられていますが、食料安全保障なくして安定した世界秩序はあり得ません。コロナ禍を真の意味で克服するためにも、各国政府、市民社会、民間企業が今こそ力を合わせて、全ての人が安全で栄養のある食料にアクセスでき、かつ持続可能な、国際食料システムの構築を目指すべきです。 【危機の時代を生きる】聖教新聞2021.6.29
August 8, 2022
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