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佃煮と家康武庫川女子大学教授 丸山 健夫徳川家康が川を渡れず困っていた。場所は、今の大阪市西淀川区を流れる神崎川の周辺。時代は、関ケ原の戦いよりもずっと前、家康がまだ秀吉の傘下にいる頃のお話だ。その地域は河川が入り込み、洪水ごとに流路が変わるほどのデルタ地帯。土砂が運ばれ、川中に多くの島もできた。古代には難波八十島と呼ばれたそうだ。家康の前に助っ人が現れる。現在の西淀川区佃の佃村の漁師たちであった。この渡しの援助が縁となる。その後、家康は、秀吉から江戸の領地を与えられると、佃村の漁師たちを呼び寄せた。江戸は佃村のような海岸沿いの湿地帯。彼らの優れた漁業技術が、新しい領地の食の確保に役立つと考えられたのだろう。家康には、やはり先見の明があった。佃村の人々は江戸で家康の期待通りに活躍した。まずは隅田川の河口に漁業基地となる佃島を造成した。今の東京都中央区佃の場所である。故郷の名をつけた佃島とその漁は、名所として錦絵にも描かれる。また、幕府に納入して余った魚を市中で売り、日本橋に魚河岸を開いた。関東大震災後の築地、現在の豊洲へと続く東京の魚市場の基盤は、佃村の人々によって築かれた。そして何といっても、有名なのが佃煮だ。つまり佃煮の佃は大阪の佃がネーミングの起源である。だが漁師たちは江戸が来る前に佃煮があったかが問題となる。大阪か東京か。発祥の地が変わってくる。江戸に来てからだ。いや、江戸の商人が開発し名前を拝借したなどと、そのルーツの所説は尽きない。美味しければ、どうでもいいか。久しぶりに、熱いごはんに佃煮を載せ、ちょっとかための小さな魚をじっくり味わいながら、そんな歴史の謎に想いを馳せる。 【すなどけい】公明新聞2021.8.13
October 12, 2022
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アフリカ出身のサムライ 弥介(弥助)歴史家・作家 加来 耕三腕力を認められ信長に仕えて数奇な人生をたどる〝本能寺の変〟のおり、織田信長—信忠父子を弑逆した叛臣・明智光秀のもとに、つれてこられた一人の黒人がいた。名を弥介(弥助とも)といい、出身はポルトガル領の東アフリカ(フランソワ・ソリエ著『日本教会史』)で、むろん、光秀も弥介をよく知っていた。本来は信長の従者であったが、弥介は信長のお伴で本能寺に宿泊していながら、光秀が責めかかるやそのことを、信忠のもとに知らせるべく、二条御所へ駆けつけ、そのまま籠城戦に参加したのであった。 「——相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったのでこれを渡した」(「一五八二年の日本年報追加」・『イエズス会日本年報』所収)弥介を捕らえた、との報告を受けた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本寺ではない故これを殺さず、インドのバードレ(イエズス会の司祭)の聖堂に置け」(同上)と命じ、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが天正九年三月十一日(西暦一五八一年四月十四日)に本部へ送った年報に出ている。この年の二月二十三日、イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ)が、個の折も宿舎として本能寺に、信長を訪ねたおり、一人の黒人を連れていた。これは信長の要望であったようだ。既に京の都では、黒人を見物するため、負傷者や死人までが出る騒ぎとなっていた。初対面の信長は、容易に黒い肌を信じられず、帯から上の衣服を脱がせ、洗わせたという。そのことは宣教師ロレンソ・メシアが記した書簡にもあり、『信長公記」(太田牛一著)には、「歳の齢廿六、七と見えたり、惣の身(体中)の黒き事牛のごとく。彼男すくやか(健やか)に器量なり。しかも強力十の人に勝れり」とあった。「——信長自身も観て驚き、生来の黒人で墨を塗ったものではないことを容易に信ぜず、縷々これを観、少し日本語を解したので彼と話して飽くことなく、また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた」(前出「一五八二年の日本年報追加」より)信長は二月から三月にかけて行われた、武田勝頼の甲州への侵攻作戦にも、弥介を従えていた。弥介を見た信長の盟友徳川家康の家臣・松平家忠は、「身ハすミ(墨)こコトク、タケハ六尺二分(約一メートル八十二センチ)、名ハ弥介」と日記に書き留めている。ところがフロイスの『日本史』に、弥介のその後は語られていない。キリスト教を布教しながら、奴隷を売り買いしていたことを、フロイスは知られたくななったかもしれない。弥介の消息はようとして知れないが、本人にとって満足のいく生涯であったことを、切に祈りたい。※文中、引用文に現代の通念から見て差別的な表現が見られますが、時代背景を考慮し、そのままとした。 かく・こうぞう 一九五八年、大阪市生まれ。奈良大学卒。近著に『戦国武将学』(松柏社)、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』(日経BP)、『幕末維新の師弟学』(淡交社)など。 【文化】公明新聞2021.8.11
October 8, 2022
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震災くぐり抜けた歴史に学ぶ名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之減災への道連載を通し、関東大震災(1923年9月)をくぐり抜けたことをキーワードにして、建物には固有の歴史があることを感じていただけたと思う。しかし博物館明治村の建物は特別で、この間、日本では多くの建物が震災で命を絶たれたのも事実である。前回紹介したフランス人建築家レスカースは、日本の木造建物の耐震上の問題点を、①土台を欠く②屋根の重量が過大③小屋組に斜材を欠く④壁に筋かいがない⑤障子の壁(水平力に弱い)と指摘している。明治初期以降、日本人によって洋風建築が建てられたが、外観は洋風でも内部の構造は江戸期の伝統木造を踏襲するもので、彼の指摘する耐震上の問題点はクリアされることはなかった。明治24年(1891年)の濃尾地震を契機に、国を挙げて耐震設計の研究を進めることになり、西洋のすぐれた考えを学び、自ら実証した日本人エリートによって、耐震化への構法の提案がなされたが、江戸期以来の木造工法を伝承する大工の棟梁たちには受け入れられなかった。その解決は昭和25年(1950年)制定の建築基準法まで待たなければならなかった。長年の懸案だった筋かいを入れるなどした耐震壁の量を規定し、すべての建物に適用することを義務付けたのが同法である。表は、明治期以降にわが国を襲った地震で死者数(関連死は含まない)の多い順に20の地震を選び作成した。表では主な被害原因を震動(建物倒壊)と津波に分けて分類した。地震災害による被害は震動の被害に含めた。家屋が倒壊すると初期消火ができず延焼火災になることが多いからである。さらにほぼ中間年の昭和25年以降の地震には網を掛けて区別した。震動による被害は昭和25年以降では兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の一つにすぎず、これは建築基準法とそれ以降の改正で住宅の耐震化が進み、住宅が全壊し人の命を奪うことが少なくなったことを表している。ル波を主な被害原因とする地震は全部で8あり、その数は昭和25年の前後で数に変化はない。津波非難は建物の耐震化と異なり、人々に強制力のある法律をもって規定できないからである。明治村の建物は、耐震基準が整備される前に、それぞれの工夫によって震災をくぐり抜けてきたものだ。我々もこれらの建物に見習い減災への道を真剣に考える必要がありそうである。 【復興へのまなざし㉜=完 建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.11.17
November 11, 2021
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西郷從道邸㊦名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 130年以上も前の耐震設計西郷從道邸の1階は見学可能だが、2階は見学制限箇所となっているので、建物ガイドに参加しないとは入れない。建物ガイドの集合時間をぜひ確かめてほしい。内部に入ると、調度品の素晴らしさはもちろん、2階のベランダからの眺めや手すりの細工模様を太陽の光で床に映る美しさなどさまざまな見どころがあるが、何といっても私が最も感動したのは、優雅な回り階段である。フランスから直輸入したものだということで、この階段に合わせて邸宅が造られたのではないかと思われるほどである。おそらく西郷從道もお気に入りの階段だったのだろう。われわれが現在、このように美しい洋館を鑑賞できるのも、建てられた130年以上も前にそれなりの耐震設計が施されていたからではないかと考えられる。『明治村建造物移築工事報告書』(1978年)によれば、洋館の建設にあたっては、フランス人の建築家J・レスカースと棟梁の鈴木孝太郎が関与したとされている。レスカースは明治5年(1872年)に官営生野鉱山の建設に従事し、また、ドイツ公使館や三菱関係の建築設計を担当し、明治21年ごろは建築設計事務所を開設していた。横浜の英字新聞ジャパンガゼット紙やフランス土木学会の紀要に日本建築の耐震性についての論文を発表し、屋根構造の強化と軽量化などを提案している。報告書に基づき、西郷從道邸に施された耐震設計要素を具体的に示すと以下の通りである。① 小屋組で比較的細かい部材を合理的に組み合わせ、屋根には金属板を葺いて軽量化を測っている。② 建物の四隅や要所には通柱を建てている。③ 1階の壁には高さ1㍍まで煉瓦を充填して、建物の浮き上がりを防いでいる。このほかにも、移築工事中の写真を見ると、小屋根組は洋風で斜材が入り、筋かいを確認することができる。ただし、③については、耐震性をどこまで向上させるか定かな実験データはなく、返って煉瓦が湿気を含み、これに接する木部を腐食させていたため、移築に際しては一部にその技法を残して他の部分は煉瓦積みを取りやめ、アンカーボルト締めにするという変更がなされたと書かれている。次回、最終回は明治期に初めて導入された耐震設計の考え方をいかにして我々が住む一般住宅に広げていったのか、その苦難の歴史と成果を取り上げることにする。 【復興へのまなざし㉛建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.11.3
October 25, 2021
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接客の場としての本格的洋館名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之西郷從道邸㊤本連載も30回を迎え、大詰めにさしかかってきた。最後に紹介する建物はそれにふさわしい建物で、思わず中に入りたくなる優雅な洋館である。その建物は西郷從道(「じゅうどう」が正しい読み方との話もある)邸で博物館明治村1丁目8番地にある。もとは東京のJR渋谷駅の南西約1㌔の上目黒(現在の目黒区青葉台2丁目)にある西郷山と呼ばれる小高い丘にあった。西郷と言えば西郷隆盛を思い浮かべる方も多いと思う。また、隆盛ゆかりの地は、上野のお山や鹿児島の城山など、山の付くところ多いことから無理もないが、この西郷山は隆盛の15歳年下の弟である西郷從道ゆかりの場所である。統治一帯は幕末には豊後竹田の藩主中川家の下屋敷であったが、維新後は高畑某の所有となり、明治7年(1874年)に従動が、その前年に征韓論に破れて下野した隆盛の再挙上京に備えて買い受けたものとも伝えられている。從道は明治2年から度々海外に視察に出掛け、隆盛が敗れた明治10年の西南戦争後も、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢にい続けた人物である。そのため「西郷山」と呼ばれるほどの広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたものと思われる。洋館が建っていた場所は、現在の菅刈公園の敷地に対応し、庭園の一部が復元されている。洋館の建設年代は明治10年代といわれている。大正12年(1923年)9月の関東大震災では建物本体の被害はほとんどなかったと考えられる。西郷山の地は震災当時、荏原郡目黒町に属していた。目黒町(大正11年以前は目黒村)の住家全壊率は0.05%と低く、震度は5度と推定されている。さらに駒カム見ると、目黒町のうち西郷從道邸がある上目黒は洪積地盤上にあり震度5弱、これに対して中目黒や下目黒は震度5強との評価もある。目黒町の被害は、目黒川流域の沖積低地や湿潤な葦原があったとされる中目黒や下目黒に多いことも指摘され、上目黒の被害は総じて少なかった。このような立地条件に加えて、西郷從道邸には当時としては他に類を見ない耐震設計がなされていたという。次回は、西郷從道邸に施されていた耐震設計の内容について紹介する。博物館明治村にある西郷從道邸 【復興へのまなざし㉚建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.10.20
October 9, 2021
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補強金物が耐震に効果名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之西園寺公望別邸「坐漁荘」㊦昭和4年(1929年)に行われた耐震補強とはどのようなものだったのか。坐漁荘にある説明晩には「見えないところでシッカリ!」と題して、「床下や壁の内側などの隠れた部分には、振止めと呼ばれる、明治時代に洋館建築とともに伝わった構法や、関東大震災後に発案された薄い鉄板の筋違金物による補強といった、耐震性に配慮した先進的な取り組みも見られます」と書かれている。その仕組みを見たいと思う人は、博物館明治村を訪れた折には内部に入って見学することをお勧めする。ただし建物の内部は見学制限箇所となっているため、建物ガイドに参加しないとは入れない。入る際には坐漁荘前に掲示されている建物ガイドの集合時間を確かめてほしい。集合時間に集まって建物に入ると、学芸スタッフの説明が始まるが、耐震補強の説明は飛ばされることがある。説明晩にあった「薄い鉄板の筋違金物」は、1階座敷の縁側廊下の壁に、一部分壁の内側の筋かいが見られるように工夫されている箇所がある。平成24年(2012年)から26年にかけての調査によって、1階床組の土台と柱、土台相互の仕口(つなぎめのこと)にも補強金物があることが分かってきた。使用されている筋違金物や仕口補強金物は、それぞれ関東大震災の大正14年(1925年)と同じ13年に実用新案が出願された建築金物であることも分かり、昭和4年の増改築時に整備されたことはほぼ間違いないということだ。博物館明治村では、構造実験を通じてこれらの補強が耐震性を高めるためで有効なものであることも確認している。増改築後、昭和5年11月に北伊豆地震が発生しているが、『「坐漁荘」修理工事報告書』には、「伊豆地震により坐漁荘小修理」(昭和10年)という記録が東京朝日新聞にあるという。昭和19年12月には東南海自身が発生し、興津町(現・静岡市)では住家全壊32戸、半壊150戸、全壊率1.6%、震度は6弱相当と推定されているが、坐漁荘が被災した記録はない。報道管制は敷かれた戦時中の出来事で詳細は定かではないが、建物の状況から考えて、大きな被害が出た形跡は確認できない。関東大震災の耐震補強の効果が表れたということかもしれない。 【復興へのまなざし㉙建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.9.28
September 11, 2021
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震災後、耐震化のための改修へ名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 西園寺公望別邸「坐漁荘」㊤前回紹介した幸田露伴邸「蝸牛庵」のア向かいにある立派なお屋敷が西園寺公望別邸「坐(ざ)漁(ぎょ)荘(そう)」である(博物館明治村3丁目27番地)。この建物は、東京近郊で関東大震災(1923年9月)に遭遇した4棟の木造住宅には入らないが、震災の影響を受けたといえる建物である。本シリーズの冒頭でも述べたように関東ダン震災の被害は、当時の日本の名目GNP(国民総生産)比の36.7%にもなり、国民が1年間に生み出す富の3分の1が一瞬にして失われるものだった。その影響は全国におよび、国民すべてが地震の恐ろしさに震え上がったに違いない。このため、被災地から離れた場所にあり、被害など直接の影響は少なくとも、震災を恐れて、耐震や耐火のための改修が行われた建物があっても不思議ではない。坐漁荘もその一つである。この建物は、西園寺公望が政治の第一線から退いた後に、駿河湾奥の興津の海岸に建てた別荘である。西園寺公望は各国公使、各大臣を歴任し、明治39年(1906年)には伊藤博文の後を受け、政友会を率いて内閣を組織した。その後、我が国の元勲と呼ばれるにいたった人物である。建物は旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に玄関、台所、2階建て座敷等の屋根が幾重にも重なるものである。木造桟瓦葺で軒先に軽い銅板をめぐらした純和風建物である。現在、2回の座敷の表紙を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池が見渡せる。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山が、左手に伊豆半島が遠望された。関東大震災の影響は多少あったようで、博物館明治村の『西園寺公望別邸「坐漁荘」修理工事報告書』には、関東大震災直後に修理されていたという東京朝日新聞の記事が掲載されている。なお、建物があった興津町(現・静岡市)では、震災による住家の全壊や半壊の被害の報告はない。また被害報告のある静岡県庵原郡の富士川町(現・富士市)や由比町(現・静岡市)でも全壊はなく、その際の修理は大したものではなかったと推察される。一方、震災から6年が過ぎた昭和4年(1929年)には、海に面した座敷の横に洋間、その奥には化粧室等が増築された。平成24年(2012年)から26年にかけての修理工事に伴う調査によって、昭和4年の工事が母屋部分も含む大規模な改修工事だったことが分かってきた。先の報告書はその際に出されたものである。その時同時に母屋の耐震補強が行われたようである。 【復興へのまなざし㉘建物が語る災害の実装】聖教新聞2020.9.1
August 9, 2021
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庭園都市だった江戸のまち東京農業大学 造園科学科 教授 服部 勉江戸のまちは緑豊かな庭園都市。「武士の都」と言われたように大名屋敷(上・中・下・抱)などの武家地が約50%を占めており、庶民の土地は約15%の17㎢に約50万人、実に人口密度は約3万人/㎢と現在の東京23区平均(約1.5万人/㎢)の2倍の「過密」状態という特異な都市構造の上に存在していた。現在、「公園」と言えば、行政=官が造ってくれるものと誰もが信じて疑わない。事実、江戸幕府でも八代将軍徳川吉宗は、「墨堤」(墨田区)、飛鳥山(北区)、御殿山(品川区)、小金井には「桜」を、中野には「桃」を植栽した。これらの場所はいずれも日本橋を起点として約2里(8㎞)と、江戸の外線部に計画的に、庶民が半日で行って楽しめる「緑の空間」を創出している。その背景には「米将軍」と揶揄され、「享保の飢饉」などに伴う一揆や打ちこわしといった政治・経済問題に苦しんだ吉宗が英断した、庶民に対する「花」による行政アピールだったといえる。しかし、庶民にとっては、抑圧された社会生活の中で大いに花見を楽しんだことは言うまでもなく、その様子は浮世絵などに多く登場している。 身近な緑の名所を発見し、楽しむ人々 こうした場所が造った官立の名所よりもむしろ多いのが、庶民や寺社が造った「名所」である。『江戸名所花暦』、『江戸名所図会』といった当時の案内本は、印刷技術の発達とともに庶民にまで普及していた。単に花を植えた名所ではない。品種改良に心血を注ぎ、時には俳人などの文化人を招き、句会や月見などイベントの企画も盛んに行う。当然「ひと」が集まれば「カネ」も集まる。「花」じゃまさにビジネスチャンスでもあった。◇『江戸名所図会』より「高田馬場」国立国会図書館所蔵 今も駅名として知られる「高田馬場」。『江戸名所図会』では武士の調練用の馬場となっており、弓道の的も見て取れる。築山のような土居には、松が植えられ、馬場と往来との空間分離には無粋な作や塀を設けずに松並木として効果的な空間演出を醸している。更に、右下の茶屋には軒から園大乗に藤棚が設(しつら)えられており、茶屋で一服する人たちの日よけと共に往来を行く人たちの目を楽しませる多機能な「みどりの環境」にもなっている。『江戸名所図会』の中の、落合の蛍、現在で言えば新宿区下落合二丁目あたりだろうか。墨摺りの木版画のため絵に色彩は創造するしかないものの、田んぼの中を蛍が飛び回り、老いも若きも竹や団扇を振りかざし、「蛍狩り」を楽しんでいる。生産第一、品質確保のための農薬や化学物質などの使用が、このような風景を日本各地から消滅させたことは誰もが認識している。江戸の昔であれば、生産の場が時には名所にも変貌する。単一主義ではなく多機能な空間構成が江戸のまちの特徴のひとつでもある。江戸庶民にとって農民の生産活動は、現代の都市人の見る田舎の風景と同様、客観的な身近な観光対象となっていたのかもしれない。「観光」の「光」とはキラッと輝く地域の良さ。歩いて行ける身近な地域の名所を再発見することは、観光の本質ともいえる。(はっとり・つとむ) 【文化】公明新聞2020.8.19
July 23, 2021
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かつての向島の風情を伝える名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之幸田露伴邸蝸牛庵博物館明治村にある明治時代に建てられた木造住宅のうち4棟は東京近郊で関東大震災に遭遇している。その一つが幸田露伴邸「蝸牛庵」である。この建物は、明治初年に隅田川のほとり、向島に建てられたもので、当初は豪商の寮(別荘)だったらしい。その後、酒類を扱う甲州屋雨宮家の持ち家だったものを、幸田露伴が借家した。露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えている。この家では、明治30年(1897年)から約10年間を過ごし、明治41年には、200㍍ほど離れた場所に家を新築し引っ越している。明治村の蝸牛庵は、桜の名所でもある入鹿桜を眺める場所に遭って、かつての向島の風情を建物と共に今に伝える貴重な場所となっている。露伴の次女だった作家の幸田文は明治37年に先の蝸牛庵で生まれた。関東大震災には自宅で遭遇しているが、大正12年(1923年)のことで、引っ越した蝸牛庵でのことである。その時の様子を「渋くれ顔のころ」と題する随筆に書き記している(『幸田文全集』第18巻)。「大正十二年九月一日は関東大震災の日なのだが、その日私は満十九歳だった。つまり誕生(日)だったのである。晩には赤いごはんでもたこうという心づもりをしていたのだが、そんなことどころか、十一時五十分、ひどい揺れで縁ばたから庭へゆすりおとされ、やっと木立につかまった時には、もうあたりの様相が一変していた。自分のうちの屋根も隣近所の屋根も、みんな瓦をこぼして禿げ禿げになり、そこに明るい天日がさしていて、目にはそういう大変を見ているのに、こわいことが身がふるえるとかいうことはなくて、なにかしばらくは、あっけらかんとした思いがあった。印象ふかい誕生日だった」9月1日が誕生日だった時の驚きである。明治村の蝸牛庵もすぐ近くにあり、この程度の被害だったのであろう。露伴は震災の翌年、向島の蝸牛庵を引き払い、文京区小石川の蝸牛庵へ転居している。現在その場所は「露伴児童遊園」となっている。そこにある説明晩によれば、引っ越しの理由は、震災で井戸水が濁って使えなくなったからということだ。公共水道が完備していない当時、井戸水の異変は死活問題だったと思われる。なお、先の蝸牛庵が明治村に移設されたのは昭和47年(1972年)のことである。 【復興への眼差し「建物が語る災害の真相」㉗】聖教新聞2020.8.18
July 22, 2021
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被災者救護支えた〝生き証人〟名古屋大学減災連携研究センター 武村 雅之 日本赤十字社中央病院病棟㊦『大正十二年関東大震災日本赤十字社救護誌』をもとに震災(1923年9月1日)時の日石の活動をまとめると、救護した被災者総数は56万人余(延べ約207万人)、全国から動員された日石の救護員は3561人、そのうち救護活動中に死亡した人は6人である。中央病院では地震直後、中軽傷者の一部は屋外に出、ほかは職員の指示により看護婦らに助けられて屋外の空き地に。病室勤務の看護婦は病患者の保護に努めた。幸いけが人はなく、「入院患者無事」の啓示を正門に張った。一方、産院では在院者の救助搬出に力を尽くし、院外の雑木林中に避難救出した。分娩直後の者6人。重篤の併発症がある者4人、産室に入りまさに分娩するものが2人いたが、搬出し林冲において無事分娩を遂げさせた。震災傷病者については、外来診療所玄関前に天幕を張って来院者に対して応急処置を施し、余震がやや沈静化した後は、診療所内で治療し、重傷者は病室に収容した。その後、東京方面に開設していた救護所(最終的には51カ所に上る)に多数に重症患者がいることが分かり、官憲や民間からの自動車の貸与を受けて9月4日に患者収容班を編成した。加えて救護所や個々の判断で、患者が運び込まれ、病院は戦場のような光景を呈したという。このため、収容部屋は入室人員制限を行い、やむを得ない場合と認めたもののほかは一時面会を遮断した。病室の不足に対しては病室以外の諸室等を整理して収容力の増強を図り、次いで隣接する育児院の一部を一次分院として使用させてもらい、10月中旬ごろまでに構内に臨時病舎を建設した。地震火災の被害がなかった渋谷、広尾、品川等の方面には、一時、親戚知己を頼って避難してくる罹災民が数万人を超え、参院でも往診外来診療を請うものが増加し、さらに罹災地の救護所などから妊産婦の送致を受けるなどで多忙を極めた。西院などでも9月29日に木造平屋建ての収容室を増設したがすぐに満員となった。設備の復旧状況は電気やガスなどが9月9日以降であったが、水道だけは9月4日に開通した。第20回、21回9で紹介した、ゐのくち式渦巻ポンプのおかげである。日本赤十字社中央病院は、関東大震災では最前線で被災者の救護にあたり、博物館明治村に移設されている病棟はそれらの活動を支えてきた生き証人である。そのことを胸に刻みつつ見学すると、厳粛な気持ちになる。 【復興へのまなざし25建物が語る災害の実装】聖教新聞2020.7.29
July 2, 2021
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自然災害に世界で初めて対応名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之日本赤十字社中央病院病棟㊤博物館明治村のほぼ中央、市電寝小屋駅のすぐ近くの4丁目35番地にある木造平屋建ての建物が日本赤十字社中央病院病棟である。入口を入ると木製の大きなレリーフが迎えてくれる。日本赤十字社の社章となっている桐と竹の枝に鳳凰がデザインされた「桐竹鳳凰」が描かれたものである。日本赤十字社の始まりは、明治10年(1877年)の西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社であるとされる。明治19年に日本政府がジュネーブ条約に加盟、翌年に日本赤十字社と名を改めた。その際に、当時の社長の差の常民が、初代名誉総裁を務めた昭憲皇太后(明治天皇の御后)に拝謁し、その際に頂いたのが正倉院の宝物中にもあるという皇室ゆかりの「桐竹鳳凰」の紋章であった。もともと、病院は博愛社病院として東京市麹町区飯田町(現代の千代田区飯田橋)にあったが、日本赤十字社に社名が変更したのに伴い、日本赤十字社病院と改称、その折に皇室から渋谷の御料地の一部と建設費10万円が下賜され、明治24年に病院を現在地の渋谷区広尾(当時は東京府南豊島渋谷村)に新築移転した。その際、建築された病院本館は広大壮麗で偉観を放つものだった。その本館屋上の装飾として置かれていたのがこのレリーフである。なお、日本赤十字社中央病院と改称するようになるのは昭和16年(1941年)のことである。日赤が誕生した翌年の明治21年7月に福島県磐梯山の噴火が発生した。その際、国際紛争解決に向けた人道組織だった赤十字社を自然災害にも活用すべく政府に願い出て、戦時以外の活動が実現。救護班を現地に派遣し救護活動を行った。日赤は、その翌年に日本赤十字社看護婦養成規則を制定し、看護婦を養成することを決め、明治23年に1期生10人が入学、翌年に発生した濃尾震災では、1期生の10人と従来いた看護婦10人が救護班に加わり、医師と共に救護活動に当たった。その写真は館内に展示されている。その後、日清戦争(明治27-28年)、日露戦争(明治37-38年)、第1次大戦(大正3-7年)に救護班を派遣し、提唱12年(1923年)の関東大震災を迎えることになった。その間、大正11年に日本赤十字社産院が解説されている。日本赤十字社は事前災害への対応を世界で初めて行った赤十字社なのである。 【復興へのまなざし―建物が語る災害の実相23】聖教新聞2020.7.7
May 30, 2021
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反骨精神が被災者を救護名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之北里研究所博物館明治村の市電京都七条駅から3丁目の坂をしばらく上ると左側に八角形の尖塔を頂く木造2階建ての洋風の建物が見える。北里研究所本館・医学館である。北里柴三郎が大正4年(1915年)に芝区白金三光町138番地(現在の港区白金5丁目)に立てた本館である。北里柴三郎は、明治18年(1885年)に衛生学術調査のため政府からドイツ留学の辞令を受け、ロベルト・コッホ教授の下で、学び、貴重な数々の研究業績をあげた。明治25年、帰国した北里は、福沢諭吉らの支援を得て芝区芝公園5号3番地にわが国最初の伝染病研究所(私立伝染病研究所)を開設して所長となり、さらに明治26年には、福沢の私有地である芝区白金三光町128番地に、わが国最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(養生園)を設立した。その後、伝染病研究所は国に寄付され、明治39年には白金三光町(現在の港区白金台4丁目)に移転し、北里は引き続き所長を務めていた。ところが、大正3年には入り、政府は行政整理のため伝染病研究所の所管を内務省から文部省に移して東京帝国大学医学部の下に置くことに決した。これに対し、北里は、伝染病研究所は単なる研究機関にとどまることなく、国の伝染病対策、公衆衛生施策の審議機関であるべきで、文部省では一体的、機動的に即応することも難しいとし、これを不服として、創立以来22年間育ててきた伝染病研究所を去ることにし、同時に養生園の隣地に北里研究所を創立したのである。新研究所発足後直ちに着工されたのが明治村にある本館で、大正4年に竣工した。関東大震災が発生する8年前のことであった。『北里研究所50年誌』によれば、北里研究所では震災による被害はほとんどなく、被災者の救護に尽力し、養生園にあった百畳敷の娯楽室に被災者を収容した。一方、『震災予防調査会報告』100号内上によれば、伝染病研究所の建物の被災は大きく、2階建て煉瓦造の本館(明治38年建築)は各所に亀裂が入った。このため、本館は昭和12年(1937年)に鉄骨鉄筋コンクリート3階建てに建て替えられた。北里柴三郎の反骨精神から生まれた北里研究所は、現在も学校法人北里研究所や慶応義塾大学医学部が協力して北里大学を開学させた。一方、伝染病研究所は現在、東京大学医科学研究所なら付属病院にとなっている。 【復興へのまなざし22 建物が語る災害の真相】聖教新聞2020.6.2
April 6, 2021
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断水の危機感から自費で提供名古屋大学 減災連携防災センター 武村 雅之ゐのくち式渦巻ポンプ㊦東京の水道が完成して23年が過ぎた大正10年(1921年)12月8日に茨城県の竜ケ崎付近で地震が発生した。この地震で杉並区の代田橋付近で玉川上水から新宿の淀橋浄水場に分水する新水路の一部が決壊し付近一帯で大氾濫を起し、3日間にわたって東京市全市で断水するという事態が発生した。その前年に現在の品川区に株式会社は荏原製作所を設立していた畠山一清は、この断水を目の当たりにして、一本の揚水(新水路)に依存する状況に危機感を抱き、市長に呼び設備の必要性を進言した。しかし、訳書は資金不足を立てに動こうとしない。業を煮やした畠山は、自費で分水後の玉川上水(ここでは旧玉川上水と呼ぶ)から直接淀橋浄水場に水を揚げるべく「ゐのくち式渦巻ポンプ」8台を提供して、いざという時のための予備設備を造ったのである。果せるかな、大正12年9月1日の関東大震災で、またも新水路は、代田橋に近い第14号橋(笹塚付近)と新宿よりの第3号暗渠付近(幡ケ谷付近)の2カ所で堤防決壊などの大被害となり、他にも各所で被害が乗じて通水不能に陥った。ここで活躍したのが、代田橋より下流の旧玉川上水である。折から唯一送電可能であった猪苗代水力電気会社の電力を用いて畠山によるポンプを起動、淀橋浄水場に水を入れた。これによって9月3日午後5時に、それまで上水地に残留していた水で細々と排水していた状況が解消された。「ゐのくち式渦巻ポンプ」畠山一清の行動力が東京市民の水を守ったのである。新水路の応急復旧により、ようやく全水路で通水を開始できたのは9月13日のことである。その後、新水路は地震に弱い東京市水道のがんともいわれ、それを廃し甲州街道の拡幅工事に伴い水路を暗渠化した。通水は昭和12年(1937年)7月のことである。なお、新水路跡は現在道路となり、「水道道路」と呼ばれている。また旧玉川上水には遊歩道が築かれ、流れにそって都民の憩いの場となっている。博物館明治村にある「ゐのくち式渦巻ポンプ」は明治45年(1912年)に国友機械製作所で造られたもので、荏原製作所から寄贈されたものである。現地説明板によれば、昭和40年代まで千葉県桁沼揚水機場で用いられたもので、関東大震災の際に活躍したものかどうか分からないが、少なくとも同型のポンプが東京市民の命を守ったことに間違いない。 【復興へのまなざし21建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.5.5
March 1, 2021
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ナチ党大会のニュルンベルク第三帝国の〝聖地〟としてかつて神聖ローマ帝国の皇帝が城をかまえた、ドイツを代表する古都ニュルンベルク。ナチスは1933年から38年の5年間、ここで党大会を開き、プロパガンダ(政治的宣伝)のための集会や軍事パレードを催した。党大会のために造られた大会行動は今、資料センター「ドク・ツェントルム」になっている。常設展「魅惑と恐怖」では、ナチスがどのように権力を把握し、大衆を先導していったのか、そして党大会への模様とその後の惨劇について、詳細に説明されていた。ヒトラーは自らの支配体制を、神聖ローマ帝国(962~1806年)、ドイツ帝国(1871~1918年)に続く、「第三帝国」と称した。神聖ローマ帝国の帝国議会が開かれていたニュルンベルクを、ヒトラーは「帝国党大会の年」と宣言した。ユダヤ人から市民権を奪った、あの悪名高い「ニュルンベルク法」も、35年の党大会期間中に、ニュルンベルクに特別招集された国会で制定された。常設展は、党大会から第2次世界大戦、ホロコーストへ続くナチスの蛮行について説明した後、平和と人道に対する罪が裁かれた「ニュルンベルク裁判」に関する展示・映像で幕を閉じる。映像には、裁判の様子とともに強制収容所での記録も写されていた。いずれガス室で殺される、いたいけない少年たちの姿に、胸がえぐられた。アウシュビッツ強制収容所では、同時に2000人を殺害するガス室が四つあったという。働けない高齢者、母と子も、次々と入れられた。阿鼻叫喚は10分から20分で静まり、同じ囚人の手で死体焼却所へ運ばれる。ユダヤ人を計画的に、いかに効率よく絶滅させるかを目指したホロコーストは、600万もの尊い命をあまりにも残酷に奪った。人類が犯した最大の罪の人るであり、人間生命の魔性の極地であることは間違いない。資料センターをあとにし、ニュルンベルク・フェルト裁判所に向かった。通常の裁判がない日は、あの国際軍事裁判が行われた「600号陪審法廷」に入れる。1945年11月に始まり、ナチ党のナンバー2だったヘルマン・ゲーリングをはじめ22人の戦犯がここで裁かれた。ナチスの罪と徹底して対決してきた戦後ドイツはここから始まったのだろうか。「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」――統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領が敗戦40周年の演説で述べた言葉を、法廷を見学し思い起こした。SGI会長の池田大作先生は同大統領と91年6月に会見した際、長編詩を贈ってたたえている。「己が民族の古傷あえて直視し/切々と訴える平和の固い決意」「その決意の波動は万波とうねり/国の内から外へと/民衆の心を浸していった」 反ユダヤ主義との戦い今年の1月23日、アウシュビッツ強制収容所の解放75周年を前にエルサレムのホロコースト記念館で行われた追悼式典で、シュタインマイヤー独大統領はこう述べた。「邪悪な精神は、人々を欺く新たな装いで出現します。反ユダヤ主義、人種差別、権威主義といった思想が、未来への答え、現代への諸問題への新たな解決策であると提示しているのです。私たちドイツ人が歴史からきっちり学んだと言いたいですが、憎しみが広がるなかで、そういうことはできません」続いて、ユダヤ人の子どもたちが校庭でつばをかけられた事件や、ユダヤ人礼拝所の襲撃未遂事件について触れ、断固たる決意を世界に披瀝した。「歴史的責任を果たさなければ、ドイツはドイツであることができません。私たちは反ユダヤ主義と闘います! 国家主義という害毒に抵抗します!」在独30年のジャーナリスト・熊谷徹氏は、「この演説は、民主主義を守るには過去を記憶するだけでなく、積極的に悪と戦いう必要があるという『戦闘宣言』である」と、著書『欧州分裂クライシス』(NHK出版新書)で説明する。熊谷氏はドイツでの極右思想の広がりが、ソーシャルメディアの普及によって国粋的なメッセージが氾濫し、これまで排外主義を中心に秘めていた少数派市民の、精神的な歯止めが利かなくなってきていることによると分析している。右派ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」は、極右団体には指定されていないが、ナチスの罪を矮小化する党幹部もいるため警戒されている。同党は2015年の難民危機をきっかけに反政権票をとりまとめ、連邦議会で第3党に躍進した。ミュンヘン大学のホルスト・メラー名誉教授は取材に対して、「(裏を返せば)85%の人がAfDを師事しなかったということになります。1932年と33年の総選挙において、ナチ党と共産党という極右・極左政党が5割以上を得票した戦間期の状況とは全く違います」としながら、次のように述べた。現在と戦間期のポピュリズム政党に共通するのは、自分たちこそ人民の味方であり、既存の政党が国民を代表していないと訴え、政治・経済・社会のすべての問題の責任を押し付け、スケープゴート(いけにえ)として激しく攻撃する点です。そうした批判は決して建設的ではなく、むしろ破壊的です。敵か味方かを単純に分ける『友/敵』思考は、戦間期に極端化しましたが、現在の世界でも、その傾向が強まっています。ドイツにおいてでもそうです」 戦間期の教訓を今こそミュンヘン大学に赴いた際、同大学の学生が中心となった反ナチスの「白バラ抵抗運動」の記念館を訪れた。正門に入ると真正面に記念の展示室がある。犠牲となった学生たちの慰霊碑には、白いバラがたむけられていた。学生たちは命をかけてナチスの悪を糾弾するビラを配った。抵抗運動の中心者として処刑されたハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄妹の生涯は、数々の書籍や映画となり、ドイツの良心として語り継がれている。多くの学校が「ショル兄妹」の名を冠しているという。創価大学の創立者の池田先生はかつて学生へのスピーチの中で、この「白バラ抵抗運動」について語った。「学生たちは権力の魔性に殺された。しかし、歴史は今、彼らの凱歌を高らかに奏でている。最後には必ず正義が勝つ」そして、軍国主義と戦い獄死した創価教育の父・牧口常三郎先生の言葉を贈っている。「もの事にまちがっていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」21世紀の女学生だったゾフィーは、処刑の前日、自らの起訴状の裏側に一言、こう記した。「Freiheit(フライハイト)」―自由、と。自由と民主主義は、決して所与のものではない。権力の魔性との間断なき戦いを通して、勝ち取らなければならない。「ごく少数」の悲劇への無関心が、人間生命の魔性を跋扈させ、、知らぬ間にみずからの自由を剥奪する。戦後75年を経て、世界は再び、分断の時代を迎えようとしている。「友/敵」思考に陥りやすい人間生命の脆弱性を直視し、「連帯は善」「分断は悪」との生命の関連性に根ざした合意形成への努力が、いやまして求められているのではないか。未曽有の危機に直面するな今こそ、戦間期の教訓は生かされねばならない。 【歴史紀行「ドイツの過去と今」下】聖教新聞2020.4.27
February 16, 2021
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ダッハウ強制収容所の解放から75年今年は戦後75年。近年、世界各国で右派ポピュリズム(大衆迎合主義)が勢いを増し、「自国第一主義」の席巻する状況が散見されます。2度の世界大戦の間の期間(戦間期)に時代の様相が近づいていると危惧されます。戦間期の教訓から何を学ぶべきか――。1月中旬、歴史と向き合うドイツを現地で取材しました。3日後に解放75周年を迎える「ダッハウ強制収容所」についてルポします。(記事・写真=樹下智記者) 人間狂気を伝える展示ドイツ南部バイエルン州とミュンヘンから北西に約20㌔。ミュンヘン中央駅から、電車とバスを乗り継いで1時間足らずでダッハウ強制収容所に到着する。平日にもかかわらず大勢の見学者が訪れていた。学校の授業だろうか、多くのドイツ人中高生も見かけた。入口からしばらく歩くと、強制収容所の正門に差し掛かる。そこでは、抑留者がどのように連れてこられ、国家社会主義ドイツ労働党(ナチスまたはナチ党)の親衛隊(SS)による辱めを受けたかを、ガイドが悲痛な面持ちで説明してくれた。抑留者をあざ笑うかのような「働けば自由になる」と記された鉄格子の正門を通ると、大きな点呼広場が広がる。向って左手が抑留棟のあった場所。現存する建物は生存者の意志で新たに摸された2棟のみである。右手には、当時から使われていた調理場・シャワー室などの施設と、規律違反の兵や特別囚人用の監獄が、ほぼそのままで残されている。正門の内側は、電気の流れる鉄条網で囲まれ、逃げようとした抑留者は監視塔から容赦なく射殺された。高圧電流で命を落とした人もいた。現存する施設には、ドイツが、なぜアドルフ・ヒトラーのナチス独裁政権を誕生させてしまったのか、ダッハウ強制収容所がどのように解説され、運用されていたのかが、パネル展示で詳細に説明されていた。死に至るまでの強制労働と、言語に絶する拷問。人体実感も行われた。それらを追体験できる展示内容を前にして、見学者は皆、人間の狂気がなせる業に言葉を失っていた。 世界恐慌でナチスが台頭今回、ミュンヘン大学ンホルスト・メラー、名誉教授(現代史研究所の前所長)が取材に応じてくれた。第1次世界大戦の敗戦後、最も民主的といわれた憲法を持つワイマール共和政のドイツが、なぜ独裁者ヒトラーに牛耳られてしまったかを次のように説明する。「短期的な要因として、1929年に起った世界恐慌によってドイツ経済が破壊されたことが挙げられます。32年2月には失業者が3割を超え、反民主主義の政党が躍進しました。ヒトラー率いるナチ党は、30年9月までは得票率わずか2.6%でしたが、32年11には33.1%で第1党となったのです」「長期的な要因は、ワイマール共和政が常に不安定だったことです。わずか14年間で21の政権が次々と変わっていったのですから。社会階級やイデオロギーで分かれた小さな政党が乱立し、政党間の妥協・同意が得にくい状況でした。敗戦による膨大な賠償も長期的な要因の一つです」ダッハウ強制収容所の展示でも、世界恐慌による貿易額の急落と反比例するかのように、ナチ党の支持率が急上昇したデータが示されていた。1933年1月、ナチ党と保守政党の連立政権であるヒトラー内閣が発足。ヒトラーの排外主義を看過し、利用しようとした保守政党は、やがて実験を奪われ、ヒトラーは独裁体制を確立した。過激な共産主義から国を守るという名目で、左派の政治家が次々と逮捕され、言論の自由など基本的な人権が抑圧されていった。なぜ人々は反対しなかったのか。東京大学の石田勇治教授は著書『ヒトラーとナチス・ドイツ』(講談社現代新書)の中で、「その一つの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、『非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない』とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。(中略)当局に拘束された者は多いとはいえ、国民全体から見ればごく少数に過ぎなかったのだ」と分析する。この独裁化の過程の中で、33年3月、ダッハウ強制収容所は開設された。ダッハウは最も古い強制所のひとつで、ここに策定された規則が、のちに各地の強制収容所のモデルとなっていった。東証は、政治犯の再教育のための施設とされ、新聞各紙も「新しい矯正施設」と好意的に報道した。対外的に好印象を与えるため、性文に至るまでの最初の入り口には花も飾られた。メディアに提供する写真も全て親衛隊がコントロールした。ナチスの巧妙な情報操作は、「ごく少数」の悲劇から国民の目をそらせたのだ。 隣接するガス室と焼却場実は、鉄条網に囲まれた抑留棟は、強制収容所の広大な敷地の一部にしかすぎない。他にも親衛隊の宿泊施設や訓練場、レジャー施設まであった。親衛隊員は、ここで暴力に慣れ、いかに残虐になれるかの〝訓練〟をした。失敗すれば自分が牢につながれる。哲学者ハンナ・アーレントは主著『全体主義の起源』(大久保和郎・大島かおり訳、みすず書房)で、収容所の真の恐ろしさは「人間の尊厳を破壊するために人間の肉体をきわめて冷徹に、まったく計算づくで体系的に破壊する方法を取られたということ」であり、そこが「完全に正常な人間が押しも押させぬSS(新鋭)隊員に鍛えあげられる練成の場となった」と述べる。収容所内の数々の展示物語る親衛隊の残虐行為に、人間の心はこうやって失われ、ここまで壊れてしまうのかということを、目の当たりにさせられた。ダッハウ強制収容所は、解放されるまでの12年間で、ユダヤ人ら約20万人が送り込まれ、3万人以上が犠牲になったとされる。抑留棟群に隣接する場所に、死体焼却場がある。ここは大量虐殺のために使用された証拠はないが、ガス室があった。脱衣所から、「シャワー室」と表記されたガス室へと続き、そのすぐ隣に死体を燃やす焼却炉が4基ある。まるで流れ作業のように、いかに効率よく死滅させるかが考えられた施設に立ち入り、人間はここまで悪に染まるのかと打ちのめされる思いがした。傍らで、こらえきれず涙を流す見学者もいた。ドイツの中学生は、必ずどこかの強制収容所に訪れるという、警官や軍人も研修を行う。戦後ドイツは、自らの負の歴史と徹底的に向き合ってきた。だが昨今、首都ベルリンのホロコースト記念碑を「恥の記念碑」だと言ってはばからない政治家が幹部を務める右派ポピュリズム政党が、ドイツで躍進している。また作年、ユダヤ人の礼拝所を銃で襲撃しようとしたが扉の施錠されていたため失敗し、代わりに周囲の人々を殺傷した事件が起り、ドイツ社会を根幹から揺るがした。ドイツの過去と現在は、戦後75年の世界に何を示唆するのか。さらなる取材を続けるため、ナチスの〝聖地〟だったニュルンベルクへ向かった。(〈下〉につづく) 【歴史紀行「ドイツの過去と今上」】聖教新聞2020.4.26
February 13, 2021
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東京市民を水道不足から守る名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 ゐのくち色渦巻ポンプ㊤博物館明治村の4丁目44番地にある鉄道寮新橋工場・機械館の建物については第14回で紹介したが、内部は明治の機械類の展示場となっている。そのうち18回で紹介した「ブリューナ・エンジン」は、近年、富岡製糸場が世界遺産に登録されてから、同製糸場の操糸機の原動力となった蒸気機関であることで注目を集めている。その前の通路の左手突き当たりに、かたつむりのような形をした機会が展示されている。これが「ゐのくち式渦巻ポンプ」である。この機械は、関東大震災の際の水道復旧に大きな役割を果たし、東京市民を水不足から守ったというエピソードをもっている。それを語る前に、今回は東京市民の水道の歴史について簡単に説明しておきたい。江戸の上水の起りは天正18年(1590年)に徳川家康が井の頭池からの流水を引いたことに始まるといわれている。後の神田上水である。その後も市街地が広がり用水が不足したので、多摩川の羽村(現在の東京都羽村市)から水を引く玉川上水が承応3年(1654年)に造られた。これらはいずれも自然の流水を引いて、街の地下に木管などを張り巡らせて配水する水道であった。時代劇によく出てくる、江戸の長屋に備えられた水汲みの井戸状のものは、実は地下水をくみ上げる井戸ではなく、木管から水道水をくみ上げる装置なのである。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、近代設備の上水(水道水)で産湯を使ったことを自慢して「神田の水で産湯を使い……」「多摩川の水で産湯を使い……」などと啖呵を切っていた。しかし、この自慢の水道も、衛生学的には疑問がいっぱいで、生温かく、雨が続くと濁り、ドジョウも泳いでいたというので、明治維新後、政府は伝染病の蔓延を防ぐためにも早期の近代水道の敷設が必要と考えた。ところが、多額の工事費用の問題などもあり、負担の増大と水道技術への不信を抱く住民からの反対もあって、近代の水道の建設は明治26年(1893年)になってやっと始まった。工事の内容は、玉川上水を利用して現在の新宿駅西口に淀橋浄水場を造り、そこへ水を引いて濾過し、東京市内各地に鉄製の水道管を巡らして配水するというものであった。その際、代田橋付近で玉川上水から分水して新水路を造り、淀橋浄水場へ真っすぐに水を引くことにしたのである。通水は明治31年のことであった。 【復興へのまなざし⑳建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.4.21
February 2, 2021
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品川燈台㊦名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 国の重要文化財として幕末から明治にかけて、開国さらには近代化の試練として東京湾とその周辺に建設された4基の洋式燈台に、次の試練が訪れるのは約50年後のことである。大正12年(1923年)9月1日に関東大震災がそれらを襲ったのである。4基とは、品川沖の第2台場に建てられた品川燈台、三浦半島東端の観音崎燈台、同西端の城ヶ崎燈台、そして房総半島先端の野島埼燈台である。4基のうち、城ヶ崎燈台と野島埼燈台は関東大震災で倒壊し、観音崎燈台は倒壊しなかったが、各所に亀裂を生じ北方へ5度傾斜し、点灯は不可能になった。これに対して、品川燈台では木造官舎は倒壊したが、燈台は基礎部分が0.6㍍沈下し、燈塔に亀裂が入ったものの、燈火は消滅しなかった。崎の3燈台の位置は関東地震の震源域の直上であるのに対し、品川燈台のあった第2台場の位置はそれから外れていて、揺れがやや弱かったことも一因であると考えられる。被害を受けたが倒壊しなかった観音崎燈台は、関東地震の際にはすでに2代目であった。初代の燈台は煉瓦造の四角い洋館建てで、品川燈台同様に横須賀製鉄所で焼かれた煉瓦が使われていたが、燈台の形はかなり違ったものであった。建設から50年余りを経た大正11年4月26日に浦賀水道を震源とするマグニチュード(M)6.8の地震が起こり、被害を受けた。地震で被災した初代に代わり鉄筋コンクリート造の2代目燈台が大正12年3月15日に竣工したが、それからわずか半年後の関東大震災により再び被害が出た。それを受けて、大正14年6月1日地、2代目を改築して、現在の燈台が3代目として竣工した。現在、敷地内には資料展示室があり、初代の模型などが陳列されている。また、燈台の玄関には3代目のプレート、さらには、玄関を入り口には2代目のプレートがあり、震災の歴史が刻まれている。以上から分かるように、4基の洋式燈台のうち、幕末から明治にかけて、開国の試練に直面した徳川幕府や近代化の試練に直面した明治政府が、何とか自力で日本を守ろうとしたことを直接伝えられる貴重な歴史遺産は、品川燈台のみである。現在、品川燈台が国の重要文化財になっている意味も理解できる。 【復興へのまなざし⑲建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.4.7
January 12, 2021
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横須賀製鉄所と産業の近代化名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 品川燈台㊥博物館明治村では、品川燈台に隣接して三重県鳥羽市にあった菅島付属官舎があるが、そのなかに品川燈台に使われていた煉瓦が展示されている。それには「ヨコスカ製銕(鉄)所」と刻印されている。一方、燈室の砲金製(銅と錫の合金)の枠やガラスはすべてフランス製で、頂上の方位を示す頭文字にもフランス語が用いられている。横須賀製鉄所は、幕末、徳川幕府が海軍力増強のためにフランスに支援を求めて造った官営造船所で、慶応元年(1865年)に鍬入れが行われた。幕府は、「鉄を加工する場所」という意味で、施設を横須賀製鉄所と名付けて建設を始めた。指導に当たったのは、後に横須賀製鉄所首長となるフランス人技術者のフランソワ・レオンス・ヴェルニーである。その後、すぐ幕府から明治政府へ政権が移行するが、横須賀製鉄所の建設は引き継がれ、明治4年(1871年)に第1号ドックが完成し、名称も横須賀造船所と改名した。このドックは今も在日米海軍横須賀基地で稼働している。その間に初代庁舎が明治5年に竣工した。煉瓦造り平屋建てで、同時期に絶った品川燈台や観音埼灯台と同様に、横須賀製鉄所製造の国産煉瓦が使われた。その後、横須賀造船所は海軍省の管轄となり、横須賀海軍工廠と呼ばれるようになるのは明治36年からである。この初代庁舎は大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、その煉瓦を利用して記念に建てられた海軍工廠庁舎沿革碑が在日米海軍横須賀基地内の下士官(CPO)クラブ前に今も立っている。一方、明治の産業の近代化を支えた富岡製糸場でも、導入した機械はすべてフランス製で、技術指導に当たったフランス人のポール・ブリューナ・エンジンと呼ばれる富岡製糸場で使われていた操糸機の原動力となった蒸気機関(明治初年ごろ製造)が保存されている。明治政府は、幕末に薩摩藩や長州藩と友好関係にあった英国を模範として近代化を進めたが、同時に、日本人技術者の教育も含め、フランスの支援の下に生まれた横須賀製鉄所が日本の近代化に大きな役割を果たしたことが分かる。 【復興へのまなざし⑱建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.3.19
December 20, 2020
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鉄路、駅舎復旧の後方支援を名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之新橋工場㊦関東大震災による鉄道省関連の被害は、建物・工作物の直接被害が2273万円(1100億円)、さらに、応急復旧費や復興に要する経費と液金の欠損を合算すると、2億1402万8000円(約1兆700億円)にのぼったという。汐留派出所(旧新橋工場)の被害は、「建物、機械、材料その他関係書類とも全部焼失したから、直ちに実地踏査を為し、機械類は修繕再用を得る見込みのものが多いが建造物は全然新築しなければならない状態であった」(『国有鉄道震災誌』1927年)。このため、戦災後、汐留派出所は廃止となり、工場の機能は完全に大井工場に移った。一方、大井工場の被害とはいうと、建物の全壊や半壊などはなく、火災に巻き込まれることもなかった。その中で二つの御料車庫は比較的大きな被害を受けたが、第10回で述べたように他の御料車は皆無事であった。職員は1人が負傷したにとどまり、幸い死者はなかった。現場では地震と同時に家族の安否を気遣う技工が多く、家族の安全を確認した上は再び帰場することを条件に、求めに応じて帰宅を許したようである。ただし幹部は居残って被害個所の調査と震後の災害予防に従事した。博物館明治村に移築された旧新橋工場の建物が、大井工場で地震によってどのような被害を受けたかについての詳細は分からないが、屋根トラス、窓ガラス、屋根のスレートなどにかなりの被害が出たのは間違いなさそうである。ただし主要骨組には大きな被害はなく集前後に継続使用されたものと思われる。なお、『百年史(『日本国有鉄道大井工場』)(1973年)によれば、国鉄(現・JR)の鉄路や駅矢の甚大な被害に対して、大井工場では特別作業班を設けて連日応援作業に従事した。例えば、東海道線の相模川橋梁の復旧工事や東京駅で倒壊したプラットホームの片付復旧工事、さらには各所で脱線転覆した機関車のどの車両の引き起こした作業などである。被害が比較的軽微であった明治村の二つの建物も、その際の候補支援に活躍した。また鉄道が次第に復旧するとともに鉄道工場本来の仕事に戻り、鉄道局新橋工場は昭和41年(1966年)に、鉄道寮新橋工場は昭和43年に、役割を終え明治村に移設された。それぞれ78年と97年の現役生活であった。大井工場は、その後、昭和62年の分割民営化に伴って、JR東日本の鉄道工場(東京総合車両センター)となり、現在も役割を果たしている。 【復興へのまなざし⑮建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.2.20
November 4, 2020
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日蓮のインテリジェンス佐藤●十三世紀の鎌倉時代に活躍した日蓮は、傑出した宗教人でした。自分の土地と国の安全を、宗教人は明確に意識します。日蓮はほかの宗教人にはない国際的な広い視野があったため、蒙古の襲来(一二七四年と八一年)を正確に予測し、時の国主に元寇を報告しました。グローバルな予測に基づいて、安全保障上の警告を発したのです。 安部●日蓮は北方から情報が正確に入っていたようです。 佐藤●明らかにそう思います。日蓮は単なる宗教家にとどまらず、インテリジェンス・オフィサー(情報収集・分析の専門家)としての傑出した能力を備えていたのです。だからこそキリスト教徒の内村鑑三は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹の四人に日蓮を加え、著書『代表的日本人』と綴ったのでしょう。 安部●日蓮が書き記した言葉は非常に素晴らしいですよね。迷いがない。的確である。よくこれだけ的確な言葉を次々と述べていけるものだと感心します。人の苦悩に優しいというのかな。民衆と接するときに、ともかく非常に優しい。日蓮自身、漁師村で生まれた一人の民衆です。 佐藤●日蓮は小湊(現在の千葉県鴨川市小湊)で生まれました。 安部●彼の気質の中には、親鸞のような京都人のキャラクターとは全然違ったものが感じられます。 佐藤●歴史についてこうして語り合うと、時空を超えて縦横無尽に何でも語れるところが面白いのです。歴史について考察を深めるときに、結局のところ話はどこに収斂(しゅうれん)するのか。「人」であり「人間性」です。 安部●そう思います。 佐藤●歴史小説という文学形態は、亡くなった歴史上の人物のリアリティを知るための格好の教材です。二〇二〇年を迎えた今、歴史観を磨くことがなぜ必要なのでしょう。人に強くなれるからです。歴史をよくわかる人は、人の気持ちの襞(ひだ)まで分け入るように洞察できます。人の気持ちを洞察できるようになれば、歴史への関心はいっそう高まります。 安部●本当におっしゃる通りです。歴史から真摯に学び、確固たる歴史観や人間観をもっていなければ、権力者のウソにすぐ騙(だま)されてしまいます。あるいはデマやフェイクニュース、排他的な民族差別を繰り広げるヘイトスピーチに、簡単にだまされてしまうのです。 【対談ブレない歴史の磨き方】安部龍太郎 佐藤優/潮2,020年2月号
October 17, 2020
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震災の反省が戦後の窮地救う名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 人助け橋㊦関東大震災前、隅田川(派川含む)には河口から上流にかけて、相生、永代、新大橋、両国、厩、吾妻、白髭、千住の8橋が架かっていた。このうち震災後も継続使用できたのは新大橋である。震災前の橋は木造が多く、一応鉄橋であった永代、厩、吾妻などの橋も橋面は木造に過ぎず、その他の諸大橋も単に交通に便する点にのみ留意され耐震耐火には考慮が払われていなかったため、大震災に遭遇するとたちまちにして焼け落ち、傾き、破損して交通に絶えなくなった。このため猛火に追われた市民は、避難路が確保できず橋の袂で亡くなる者が多数出たという。事実、当時の警察による調べでは、永代橋で669人、あずま橋で186人、厩橋で141人、両国橋で76人、相生橋で33人の死者が確認され、隅田川以外の中小河川の橋梁も入れると、横川橋で1020人、伊予橋で697人、枕橋で527人などの被害が記録されている。その反省の上に立ち、帝都復興事業では、「上述の如く火災に依る被害の莫大なりし点に鑑み耐火構造について最も意を注ぐと共に、地震に対しても頑丈堅固にして恒久的ならしめる事、交通の便益を増進せしめ都市の美観を害(そこな)わざる事等の諸点に留意し、清時代の要求に回らした」8『帝都復興史』1930年)と述べている。その結果、帝都復興事業で昭和初期までに、実に576橋が新しく架け替えもしくは創架され、隅田川でも上記の橋の付け替えとともに、新しく清州、蔵前、駒形、言問の4橋が創架された。近年、相生橋が架け替えられたが、他はすべて現在も現役で活躍している。いずれの橋も昭和20年(1945年)3月の東京大空襲などの洗礼を受けたが、耐火耐震構造が功を奏して人々の窮地を救ったことは言うまでもない。まさに「人助け橋」となったのである。さらに「美観」を意識した設計が今でも街に潤いを与え続けていることも指摘しておきたい。具体的には、「壮麗ではあるが浮華軽薄なる装飾を避けて見飽きのせぬ明るい感じを出すことに意を用い、親柱、欄干等の意匠についてもなるべく目障りにならぬ様且つ空の眺望を妨げざる様細心の注意が払われている」と謳っている。とかく利便性と人目を引くことを優先しがちな最近の構造物が都市の警官に落ち着きを失わせているのとは対照的である。震災後の旧を要する局面において、これほど丁寧なものづくりができたのはなぜか。当時の人々の見識の高さに頭が下がる思いである。 【復興へのまなざし⑬建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.2.6
October 10, 2020
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現代に対する警告も残す名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 人助け橋㊥新大橋は、関東大震災の際になぜ多くの人々の命を救うことができたのか。現在、中央区側に橋の袂には、震災時の様子を伝える大きな石碑が立っている。石碑の上部には「避難記念」とあり、震災当時の新大橋での様子や石碑建立の由来がびっしりと書かれている。新大橋で何が起こったかが書かれた部分を抜き書きすると、以下のようになる。「新大橋の上難を避くる数万の大衆の九死に一生を保ち得たるは実に神人一致の力と申すべきか……大衆は橋上に御遷座あらせられたる水天宮及小網違(すいてんぐうおよびこあみい)稲荷(いなり)神社、玄治店橘(げんやだなたちばな)神社の御霊代を伏し拝み神助を熱祷したり又警官在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐れある荷物を悉く河中に投せしむ中に貴重の物とて泣きて拒みしも万人の命には替え難しとて敏捷(びんしょう)果断なる動作は寔(まこと)に時宜を得たる処置なりき」人々を火災から守る上で橋全体が鋼鉄製であったことも幸いしたが、碑文にもあるように、人々が大八車などに満載して運びこんだ家財道具を警察官の機転で、すべて川に投げ込んだことが功を奏したといえる。前回紹介した江戸時代の高札で「荷車は一切引き渡るな」とした延長戦のようでもあり興味深い。警官の行為は、人々の反感をかったことと思われるが、その先頭に立ったのは、非番でそこを通りかかった当時の深川区西平野警察署の橋本巡査部長であった。一巡査の起点から始まった行為が、中央区側の橋の袂にあった久松警察署新大橋西詰派出所の警官らの協力を得て、1万有余の避難民の命はおろか、水天宮などの三つの神社の御神体も救った。記念碑によれば、地震後ここで九死に一生を得た人々が「大震火災新大橋避難記念会」を組織し、毎年当日に水天宮で報祭の祭典を行い、同橋上に集まって当時を追走してきたが、10周年になるので、比を建て永久に記念することにすることにしたとある。昭和8年(1933年)のことである。火災の中、可燃物を運ぶことの問題は江戸時代から指摘されていたという。家財道具を満載して大八車で運ぶのは、今日で言えば自動車で非難することに当たりはしないか。震災後に火災を調査した東京帝国大学の中村清二教授は、「同じ失敗を何度となく経験しても吾々は一向賢明にならなかったのである、大八車が自動車に変わることはあろうけれども」と、現代に対する警告ともとれる言葉を残している。 【復興へのまなざし[12]建物が語る震災の実相】聖教新聞2020.1.16
September 13, 2020
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江戸時代からの町のシンボル名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 人助け橋㊤博物館明治村5丁目の川崎銀行本店や内閣文庫が建つ高台から下を見ると、隅田川新大橋(55番地)が見える。私が博物館明治村で関東大震災の調査をしようと思ったきっかけとなった橋である(本紙2019年9月5日付)。関東大震災のために多くの犠牲者を出した隅田川に架かる橋のうち、唯一火災に負けず健全な姿で1万人余りの人々の命を救ったとされる橋の中央区側の一部である。橋名板(きょうめいばん)には漢字で「新大橋」と書かれている。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)のことである。新大橋と言っても歴史は古く、隅田川では3番目に古い橋で、最初に掛けられた大橋、「大橋」と呼ばれた領国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられた。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。「初雪やかけかゝりたる橋の上」「有り難やいたゞいて踏む橋の霜」以来、新大橋は破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。財政が窮地に立った享保年間に、幕府は橋の維持管理を諦め、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方がすべて負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。維持のために、橋詰で市場を開いたり、寄付などを集めたりする行為が禁止され、さらに橋が傷まないようにと、橋の袂(たもと)に以下のような意味の高札が掲げられたといわれている。「昼夜に限らず渡るものは休んだりせず、商人も物乞いもとどまるな、荷車は一切引き渡るな」。自界に触れるが、人助け橋のルーツはこの辺りにもありそうである。その後、明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年に、完全な鉄橋として新しい新大橋が誕生した。これが、現在明治村にある橋である。この橋は昭和52年(1977年)に架け替えられたが、江東区側の橋の橋名板は地元の八名川小学校に大切に保管されている。こちらはひらがな(変体仮名)で「しんおほはし」(右から)と書かれている。江戸時代からの歴史を見ても分かるように新大橋は今も昔もシンボルである。 【復興へのまなざし⑪建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.1.9
September 1, 2020
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御料車名古屋大学減災連携研究センター 武村 雅之御料車とは、皇族が鉄道で旅行する時に使用される皇室専用の鉄道車両(客舎)のうち、皇族が乗車される車両のことである。博物館明治村の正門を入ってすぐの鉄道局新橋工場の中に2両の御料車展示されている。右写真が昭憲皇太后御料車(5号御料車)で製造年は明治35年(1902年)、左が明治天皇御料車(6号御料車)で製造年は明治43年である。昭憲皇后は明治天皇の皇后さまである。どちらの御料車でも車内の中央左側に天皇陛下または皇后陛下の御座所が設置されている。室内の幅は6号御料車方がやや狭い。これは天皇陛下の御座所の後ろ側に通路が設けられているためである。お付きの方々が陛下の前を横切ることのないようにとの配慮からである。天井には西陣織の蜀江(しょっこう)錦(にしき)が張られ、御座所には金糸の刺繍(ししゅう)、周りには七宝(しっぽう)装飾(そうしょく)や螺鈿(らでん)装飾など日本の伝統工芸技術の粋(すい)を集めたものとなっている。これに対し、5号御料車の室内は帝室技芸員の橋本雅邦(がほう)や川端玉(ぎょく)章(しょう)による天井画など柔らかい印象の装飾画が施されている。御料車は関東大震災時、現在の品川区にある大井工場内に保管されていた。『国有鉄道震災誌』によれば、工場内で最も大きな被害を受けた建物は御料車庫で、次のように書かれている。「御料車庫二棟は煉瓦壁に甚だしく亀裂を生じた」「自身が今少し強くあったら或いは崩壊の役にあったかも知れなかった」幸い御料車については、10号、11号御料車に軽微な被害が出ただけであった。また、当時、12号御料車が摂政宮(せっしょうのみや)(のちの昭和天皇)の御乗用として製造中で、ほぼ完成して塗装に回されようとしていたところであった。12号御料車は、関東大震災による治安の悪化に対する心配から御座所の両側に3㍉厚の鉄板を張るなどの設計変更がなされ、大正13年(1924年)1月に完成した。ここを訪れた人から「両陛下は同じ列車で御旅行されなかったのか」という疑問の声をよく聞く。筆者の知る当時の有名な地震学者は、家族旅行の際、当人は一等者(今のグリーン車)、妻子は二等車(今の普通車)に乗っていたというから、そのような時代だったのだろう。もっとも、両陛下の場合は両方とも特別車だったのだが。 【復興へのまなざし❿建物が語る災害の実相】聖教新聞2019.12.19
August 12, 2020
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地震時の学校のあるべき姿が名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之学習院長官舎博物館明治村1丁目のほぼ中央に木造建ての学習院長官舎がある。学習院は明治10年(1877年)に華族の子弟の教育を目的につくられた学校で、明治23年から四谷尾張町(現在のJR四ツ谷駅前の新宿区四谷中学校の辺り)にあった。ところが、明治27年6月20日にいわゆる明治東京地震(M7.0)が発生し大きな被害を受けた。復興に当たり、四谷校地は市街地に接し、さらに鉄道の敷設(明治27年10月、四ツ谷駅開業)によって喧噪の地となることから、郊外への移転の話が浮上した。このため初等科のみ四谷に新築し(現在の校地)中等科以上は目白(北豊島郡高田村)への移転が決まった。日清、日露の戦争の影響もあり移転が完了したのは明治41年であった。目白移転の前年に10代目院長に就任したのが、陸軍大将の乃木(のぎ)希(まれ)典(すけ)である。明治村の院長官舎はその移転のよく年に建てられたものである。大正12年(1923年)の関東大震災の記録は、『開校五十年記念 学習院史』の「大震災記事」に詳しい。それによれば、目白の被害は大きく、寄宿舎のうち第一寮、第二寮は大破し、図書館の書庫の3階も破壊された。その他ほとんどの建物が傾斜したり、壁が落ちたりした。また、官舎はいずれもが多少の被害を受けないものはなかったと書かれており、院長官舎にも何らかの被害があったようである。さらに地震直後に火災も発生した。そのような中で、地震直後から被害を受けたメジロ付近の住民およそ100人が校内に避難してきて、各自が持ちこんだテントや蚊帳を張って生活を送った。また門前を通過する下町方面からの多くの避難者に対し休憩所や救護所を設け、校医による傷病者への応急手当も行われた。一方、四谷の初等科ではさらに罹災者が多く、最大で約2000人を収容し、9月末日まで救護活動が続けられた。その間、初等科の生徒に対し教育の一端として救援事業を奨励。一般学生から学用品や文具等の寄付を募り、10月28日に6年生に職員が付き添い、東京横浜両市の罹災児童にこれを配布した。地震時の学校のあるべき姿の一端を見るようで、院長官舎の震災史をひもとくことによって、現在の学校にも通じる事例を知ることができる。 【復興へのまなざし➒建物が語る震災の実相】聖教新聞2019.12.5
July 19, 2020
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赤坂離宮㊦名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之燭台のもとで内閣親任式震災時に赤坂離宮にお住まいだった摂政宮(後の昭和天皇)の動静について見てみよう。関東大震災(1923年)が発生した際、摂政宮は宮城(皇居)に参内されていた。侍従職「日誌」によれば「午前十一時五十八分、破壊的の激烈なる大地震あり、摂政殿下正殿前の内庭に御避難遊ばさる、宮内高等官、内田臨時総理大臣以下内庭にて御機嫌奉伺、午後零時四十分引続吹上御苑広芝(観瀑亭の誤り)に御避難遊ばされ、午后三時三十分同所御発還御(かんぎょ)」とある。内田臨時内閣総理大臣というのは、内田康(こう)哉(さい)のことで、加藤友三郎総理大臣がこの年の8月24日に急逝したために外務大臣であった内田が臨時に総理大臣を務めていたものである。地震の翌日9月2日に山本権兵衛内閣が成立する。摂政宮は、地震後午後1時前に皇居内の吹上御苑に避難されとこと、午後3時30分に赤坂離宮に帰還されたことが分かる。宮内庁の資料によれば、赤坂離宮に戻られた摂政宮は、直後は邸内の広芝御茶屋とその付近の街頭・電気が復旧したのは同月5日のことで、それまでは摂政宮もろうそくで過ごされていた。その間、2日の夜に広芝御茶屋に金屏風を立て燭台の灯りのもとで山本権兵衛内閣の親任式が行われた。その様子は和田英作画伯による「震災内閣親任式之図」と題される油彩画で見ることができる。摂政宮は、7日には安全が確認された離宮本館に移られた。その後、摂政宮は12日に「帝都復興に関する詔書」を出されて国民に東京を復興する決意を示され、15日、18日には東京の被災地を、さらに10月10日には横浜、横須賀を行啓された。いずれの場合も出門、還啓は赤坂離宮である。その様子は、墨田区の横網町講演にある東京都復興記念館に残された徳永柳(りゅう)洲(しゅう)画伯の絵に描かれている。摂政宮は、昭和天皇として即位されてからも帝都復興事業が完成する昭和5年(1930年)に東京市中を行幸された。その様子は昭和10年に東京市によって建立された上野公園の行幸記念碑や平成元年(1989年)に近衛歩兵第一連隊会によって建立された北の丸公園(旧代官町)の弥生廟隣地の御野立所記念碑に刻まれている。 【復興へのまなざし❽建物が語る災害の真相】聖教新聞2019.11.28
July 8, 2020
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2度の震災にも難を逃れる名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之赤坂離宮㊤博物館明治村1丁目近衛局本部付属舎の隣に赤坂離宮正門哨舎と呼ばれる小さな建物がある。哨舎とは警戒や見張りをする兵が詰めている小屋のことで、東京・四谷の赤坂迎賓館の正門前にも同様のものがある。現在迎賓館となっている赤坂離宮本館は、明治32年(1899年)に着工し約10年の歳月をかけて明治42年に完成した。片山東熊による設計で近代国家となった日本の象徴として、文字通りの明治時代におけるわが国建築界の総力を結集したモニュメントである。この建物は当初、東宮御所として造営されたが、時の皇太子殿下(後の大正天皇)はほとんど宮殿をお使いにならなかった。東京御所として役割を果たすようになるのは、昭和天皇が皇太子として摂政宮となられた後の大正12年(1923年)8月から、正式に皇位を委譲された昭和3年(28年)の御大典の頃までである。昭和天皇は赤坂離宮に住まわれてすぐに関東大震災(23年9月)に遭遇されることになる。関東大震災による離宮本館の被害はほとんどなかった。屋根を支える骨組みは鉄骨造、壁は外部が石造、内部が煉瓦造、床はコンクリート造、地下1階、地上2階である。地震対策に特に意を用いており、あらかじめ地質調査を徹底的に行い、埋土層、軟弱層を避けて建物位置を決め、さらに基礎設置位置を掘り下げ、補強材として英国産の鉄道レールを使用する等、基礎工事が十分になされている。さらに、壁の中には縦横に鉄骨を入れ、床も同じく鉄材を用いた耐火構造とし、小屋組みには鉄骨トラス(三角形を単位とする構造形式)が組まれ、屋根は銅板葺である。壁の占める面積は建築面積の約3割にもおよび、壁は最も暑いところで1.8㍍もあり、薄いところでも56㌢もある。赤坂迎賓館は現在、賓客がない時期を選んで一般に公開されている。本官の内部に入ると大きなシャンデリアがいくつもあるが、天井裏から独立した鉄骨で組まれているということで、案内係の話では、東日本大震災の際も大きく揺れたが落ちることはなかった。関東大震災でも難を逃れたものと思われる。(㊦に続く) 【復興へのまなざし「建物が語る災害の実相」❼】聖教新聞2019.11.21
June 30, 2020
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宮殿の消失、罹災者の救護に名古屋大学 災害連携研究センター 武村 雅之博物館明治村の正門を入り、1丁目地区を真っすぐ右へ進むと近衛局本部付属舎と呼ばれる建物がある。明治5年(1872年)創設の宮城警備に当たる近衛兵を擁する組織の建物である。ただし、近衛兵は毎年3分の1が交代し奥向き諸門の配置は不適当で、内廷の守衛を担当する宮内省との間の意思疎通に問題があった。このため明治19年に、宮内省に守門・消防などをつかさどる主(との)殿寮(もりょう)が設けられ、皇宮警察書(明治31年から皇宮警察部)が誕生した。これによって皇宮警察官が主門警備を担当することになった。ところが、近衛局も依然国軍の精兵として皇宮の守護に当たった。このような両者の複雑な関係は皇宮警察の庁舎にも繁栄されていたようで、この建物も明治20年に皇宮警察の庁舎の一部として、皇居坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(明治22年、近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成している。その後、明治43年に近衛師団司令部が代官町(現在の千代田区北の丸公園内)の新潮社に移転したので、皇宮警察部庁舎として使うことになった。従って、明治村にある建物は、関東大震災(1923年)当時は皇宮警察部庁舎の付属舎であった。自身による皇宮警察部庁舎の被害は、内外の壁が剥落して室内の器物も全て転倒した。皇宮警察部では地震発生と同時に、賢所(かしこどころ)、宮殿、宮内省など各所に急派して火気を消し止め、警戒に当たった。また、皇宮のみならず東宮仮御所があった霞が関離宮をはじめ高輪御所や青山御所、さらには有栖川など宮(みや)邸(てい)からの要請に応えるべく、でき得る限りの消火活動に当たった。一方、宮城前広場には震災当日(9月1日)の午後4時ごろから罹災者が集まり、その数は一時30万人に達した。また神田方面からは火災に追われた罹災者が平川門付近にあふれたため午後6時ごろに平川門を開き、二の丸主馬寮(馬車・牧場・輸送に関する事務を行う部署)の広場(現在の東御苑)に1万8000人を収容した。宮内省所管の地域内に避難した罹災者に対しては、宮内省が炊き出しや医療救護に当たったが、保健衛生の面から、疫病の発生を防止するため各門入門者には手足の消毒を励行させた。一方、傷病者の救護だけでなく混乱時における産科、小児科患者の救療を心配された貞明皇后(大正天皇の御后(おきさき))のおぼしめしにより、宮内省巡回救護班が編成され、東京市をはじめ横浜方面の医療救護活動に従事した。 【復興へのまなざし「建物が語る災害の実相」❻】聖教新聞2019.11.7
June 17, 2020
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図書整理には2年半の歳月が名古屋大学減災連携研究センター 武村 雅之 内閣文庫内閣文庫は現在の国立公文書館の前進で、明治44年(1911年)に北の丸公園に現在の国立公文書館ができるまで60年間の歴史を歩んできた。その蔵書は、旧徳川幕府ゆかりの書籍を中心とし、さらに明治政府が集めた古文書・洋書を加えて、わが国の中世から近代までの文化、中国の明、清時代の文化に関する貴重な内容であった。庁舎は2階建ての事務棟(本庁舎)とその背後に立つ3階建ての書庫棟からなり、博物館明治村に移築されているのは、このうちの本庁舎部分である。正面中央の4本円中と巨大なペディメント(正面上部に設けられる山形の部分)は、古代ギリシャ・ローマの神殿建築を連想させる本格的なデザインである。庁舎は関東大震災の発生時、火災は免れたが書庫の3階が大破した。震災発生の翌月(1923年10月)にまとめられた「震災被害物品一覧」によれば、地震のために図書3万611冊、本箱等備品約200個が破損した。但し書きとして「破損した図書の数は未だ明瞭ならず依って概算」と添えられている。この他に、各省等に貸し出し中の図書2万4000冊余りが焼失、また明治37年3月に学術資料として東京帝国大学に移管された旧幕評定ショ記録7600冊余りと附属得ず1500枚余りも火災で失われた。大破した書庫の修理は大正15年(1926年)3月に完了した。この間、大正14年3月と5月に延べ920人余りの作業員によって書庫内の整理および図書の搬入作業が行われた。また、昭和5、6年の不況の折の東京市の失業対策事業の一環として大卒生を使い、他に4,5人の大卒生を2、3年雇い、図書整理をやったという証言もある。復旧には相当の時間を要したことが分かる。東京市内のその他の図書館を見ると、まず東京帝国大学の図書館は先に述べたように火災で多くの蔵書を失った。これに対して世界各国の大学および学者から補充の意味で多数の図書が寄贈された。また、東京私立図書館(現在の徒立図書館)では、日比谷図書館(本館)は延焼を免れ無事であったが、市内に散在する文館12館を失った。罹災後、バラックの仮建物に無事だった本館の図書を供出し、市内6万カ所に速やかに臨時図書閲覧所を設け、講談などの慰安書の他に新聞雑誌を置き、途絶えた情報提供を行うとともに、焼失した官庁の統計資料、各種名簿復元のため特別調査室を設置して協力した。これらの活動は国内外で広く注目を集め高く評価された。 【復興へのまなざし❺「建物が語る災害の実相」】聖教新聞2019.10.17
May 16, 2020
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名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 帝国ホテル㊦ 駐日ウッズ米国大使は関東大震災の惨状に深く同情し、発災翌日の大正12年(1923年)9月2日に本国に無線電信を発し、早急な罹災救助の必要性を伝えた。 それを受けて米国は官民を挙げて義援金や救護材料等の寄付募集に努力し、政府はフィリピン副総督で陸軍少将のフランク・R・マッコイ氏に対し、米国救援団長県赤十字代表として日本に急行すべき旨を伝命した。 同少将は直ちに運送船メリット号、メーグス号およびソム号3隻に天幕病院の資材ならびにこれに属する医療機器、薬品、包帯材料および食糧品など膨大な救護材料を満載し、さらにソム号には病院の建設経営に必要となる人員を搭乗させて急きょ出帆の準備をさせた。 自らは先立って幕領の万尊帝差異化を従えて9月12日に東京へ入り、帝国ホテル内で米国救援団の事務に従事した。 ライトが設計した帝国ホテル本館の建物は、その出発点で震災に遭い、それに辛くも耐えて、被災者救援に大きな役割を果たしたのである。考えようによっては華々しい船出といえるかもしれない。 ところが、そこで受けた傷は終生癒えることはなかった。戦後の昭和27年(52年)に米国の接収が解けて、帝国ホテルの営業が再開されてからは、建物の耐久性に限界が見えてきた。建物の亀裂の拡大、不同沈下の信仰、雨漏りに加えて大谷石の落下の危険性。地震や大雨のたびにホテルの当事者は神経をすり減らす毎日だったという。 このためホテル側は、昭和39年の東京オリンピックに際し、建て替えを目指した。ところがライトの設計であるが故に、建築界が強く反対して断念。その後、帝国ホテルはこの建物で営業継続は無理との社長談話を発表、昭和45年の大阪万博を目指して建て替える旨を示した。 相変わらず反対江音はあったが、今回は政府も仲介に入り、一部(中央玄関)を明治村に移すことで、取り壊すことに決着した。 現在、博物館明治村に立つ帝国ホテルの中央玄関の2回には喫茶コーナーがある。ライトによるざん新な設計をゆっくり堪能するとともに、この建物がたどった数奇な運命に思いを馳せてみてはいかがだろうか。 【復興へのまなざし「建物が語る災害の実相」3】聖教新聞2019.10.3
April 25, 2020
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なぜ日本がアジアで唯一、早くからヨーロッパ型の近代国家に移行することができたのか。政治体制の面から論じるなら、有能な人材を政府、行政に集め、その体制を刷新することができた点が挙げられよう。それは清朝が軍閥の割拠もあって旧来の政治秩序から転換できず、朝鮮が堅牢な階級社会の中で人事、制度の刷新に踏み切れなかったことと対比をなしている。 手放しで喜べない側面もある。政府、行政が優位となる構造が生まれたことで、近代化にも関わらず政治構造はトップダウン型となった。人材は中央に集められ、地方では人材の枯渇がはじまっていく。何より民主主義の基本となるはずのグラスツールの民意形成が遅々として進まない状況が生じることとなる。それは官僚国家の道であった。 【日本史の論点】中央公論編集部編
April 20, 2020
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呉座勇二 中世武士の心性、価値観は、知られているようで意外と知られていない。世間一般に普及している武士像は、江戸時代の武士から生み出されたものだからである。 江戸時代に佐賀藩鍋島家に仕えた山元常朝の談話を記した「葉隠」には、江戸時代の武士の一側面がよく示されている。同書は「武士と云ふは死ぬ事と見つけたり」の名言で知られ、武士道のバイブルと評される。しかし、その過激な一節とは裏腹に、平和な時代に生きる武士への処世術指南書という性格が強い。 「葉隠」の最大の特徴は、主君への絶対的忠誠の強調である。「御懇にあらふも、御情けあらふも、御存じなさるまひと、それには曽(かつ)て構わず、常住御恩の忝(かたじけな)き事を骨髄に徹し、涙を流して大切に存じ奉る分也」「無二無三に主人を大切に思へば、それにて澄むこと也」と記されている。 主君に厚遇されようと冷遇されようと、主君の御恩に感謝し、主君を大切に思えというのだ。しかも、同書は、主君に諫言しても受け入れられない時は主君の味方をすべきだとまで説いている。 この主張は同書が著された江戸時代中期の価値観が反映されたものである。戦乱が絶えて主従関係が安定化し、武士がサラリーマンのようになっていたからこそ、主君への絶対の忠義が要請されるようになった。この泰平の世における武士の倫理を、戦国時代以前に遡及することはできない。 たとえば室町―戦国時代に成立したと推測される書物「世鏡抄」には「複数の主人に仕えている者や、よそから移住してきた侍は、万一の時は懸命に戦い、主人からの恩賞に注目せよ。年の間に恩賞が与えられなければ、別の主人に仕えよ」という処世訓が見える。 主人からどんなに理不尽に扱われようと、ひたすら主人に忠義を尽くすといった「武士道」的観念とは無縁のドライな契約関係といえよう。 ◇◇◇ こんな話もある。源頼朝の家臣に畠山重忠という猛将がいた。一の谷の戦いの「鵯越の逆落とし」で愛馬を背負って坂を下ったという伝説(「源平盛衰記」)が作られるほど怪力だったらしい。 鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」によると、ある時、重忠の家臣が不正を犯し罰せられた。重忠も謹慎処分を受け、さらに「『家臣が勝手にやったことで何も知らなかった自分まで処罰されるのはおかしい』と憤った重忠が謀反を企てている」とのうわさが流れていた。 鎌倉に召喚され、頼朝側近の梶原景時から取り調べを受けた重忠は、うろたえるどころか「謀反を起すと思われるのは、むしろ武士にとって名誉(眉目)なことだ。しかし俺は頼朝さまに忠誠を誓ったので謀反は起こさない」と言ってのけた。 誓約書を出せという景時の要求も、「俺は今までウソをついたことは一度もない。その俺が謀反の気持ちはないといったのだから、それで充分だろう」と突っぱねた。頼朝は、重忠の言葉を信じ、沙汰やみになったという。 中世武士の価値観では、不当な扱いを受けても唯々諾々と主君に従う武士は、単なる腰抜けにすぎない。仕えるに値しない主君には謀反を起こすことも辞さない独立心と自尊心の強い武士(くせ者という)でなければ、合戦の役に立たないのである。 (国際日本文化研究センター助教・日本中世史) 【名ぜりふで読み解く日本史】京都新聞2019.9.18
April 8, 2020
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名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 帝国ホテル㊤ 博物館明治村の北口から入ると、すぐにSL東京駅があり、そこを通り過ぎて坂を下ると、正面に帝国ホテル中央玄関(5丁目67番地)が見えてくる。今では明治村を代表する建物になっているが、明治村に至るまでの経緯はそれほど平坦なものではなかった。 帝国ホテルは20世紀建築界の巨匠とうたわれた米国の建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、4年間の大工事の後に完成したレンガ型枠鉄筋コンクリート造りの複雑な構造をした3階建て(地下1階)の大きな建物であった。 その落成披露式は大正12年(1923年)9月1日、まさに関東大震災の当日に行われようとしていた。もちろん子規は中心になり、周りの建物がほとんど消失する中で、帝国ホテルの建物は幸い倒壊や延焼は免れた。建物全体の被害の様子が描かれた当時の学術調査報告(災害予防調査会報告100号丙下)を見ると意外なことが分かる。そこには震災前、つまり落成前すでに後部大宴会場の部分が約50センチ沈下し、その他の建物各部にも不同沈下が見られていたと書かれているのである。 帝国ホテルは現在と同じく日比谷公園と向き合った場所にあった。ここはもともと新橋付近から日々や入江と呼ばれる海が侵入していた場所で、徳川幕府が成立した慶長年間に埋め立てられた場所だったが、それに対応した基礎工事が十分でなかった可能性がある。同じく日比谷入江跡にあった辰野金吾設計の東京駅舎(大正3年竣工)が無傷だったのとは対照的である。 しかしながら、震災による被害はエキスパンション部分(建物と建物の繋ぎ目)に集中。このことが建物各部を致命的な損傷に至らしめるのを防いだようである。これに加え、基礎が不完全であったことが、かえって建物に地震力を伝えにくくし、倒壊を免れたと考えられるかもしれない。 建物は地震の翌日から罹災した各報道機関、各国の在日大使館、主要企業団体の臨時事務所に充てられた。中でも米国からの援助を受ける窓口として役割は大きかったようで、日本赤十字社は9月18日に米国救護団と本社の臨時救護部との連絡を保持するために、帝国ホテル内に臨時救援部出張所を設け、活動した。 (㊦に続く) 【復興へのまなざし「建物が語る災害の実相」2】聖教新聞2019.9.19
April 7, 2020
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中国文明は、人々の人間観や世界観にどのような特徴をもたらしたでしょうか。浅学(せんがく)を省(かえり)みずに言えば、私は「個別を通して普遍を見る」という言葉に要約できるのではないかと思うのであります。(中略) それは、ある種のプリズムを通して物事を見るのではなく、現実そのものに目を向け、そこから普遍的な法則性を探りだそうとする姿勢であります。私の親しく交際していた英国の歴史家トインビーは、晩年、中国が世界史の今後の軸になるだろうとの予感を持っていました。彼はその最大の理由として「長い中国史の流れの中で中国民族が身につけてきた世界精神」を挙げております。 キリスト教にはきわめて批判的な彼は、中国史に蓄積されてきた精神的遺産の中に、侵略的色彩の強いヨーロッパの普遍主義とは違った、ある種の世界精神の萌芽(ほうが)を感じとっていたに違いないと思うのであります。 だからといって私は、中国数千年の歴史をそのまま美化しようとするつもりはありません。分裂あり、内乱、侵入あり、度重なる洪水や旱魃(かんばつ)で、民衆が塗炭の苦しみをなめたことも数知れません。(中略) その上で、なおかつ精神的遺産と申し上げたいのであります。長い間に培われた精神の原質ともいうべきものは、そう簡単に変わるものではないし、また、すべてを変えるのが得策ともいえないでしょう。むしろそうした原質を、よい方向、建設的な方向へ磨きあげていくことこそ、中国のみならず、アジアや世界の今後に、多大な貢献がなされるに違いないからであります。 【知性の架け橋「中国 北京大学」1980年4月22日(第1回)】聖教新聞2019.5.13
December 11, 2019
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作家 安部竜太郎 我々が泊っている西安君楽城堡酒店の近くの南門から成安(長安)城に入り、右に折れてしばらく進むと西安碑林博物館がある。 灯台の石碑を収蔵するために一〇八七年(北宋時代)に作られた西安碑林を母体とするもので、「中国最大の石造の書庫」と呼ばれている。 一〇〇〇基ほどの石碑や、北魏、隋、唐時代の墓誌三〇〇点ほどが展示されていて、通路を歩くだけでその重みに圧倒されるが、なかでも有名なのが、「大秦景教流行中国碑」である。 大秦とはローマ、景教とはキリスト教ネストリウス派のことだ。ネストリウス派は四三一年に東ローマ帝国で行われた会議によって異端として禁止されたために、西アジア、中央アジアに教線を伸ばし、六三五年に唐の長安に達して景教と呼ばれるようになった。 そして七八一年にこの流行碑を景教の大秦寺に建て、景教の教義や中国に伝来した歴史を明示したが、9世紀半ばに即位した武宗は道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧した。 そのために景教も弾圧され、多くの大秦寺が破壊され、石碑も土の中に埋められた。それ以後地中に眠ることおよそ八〇〇年。明代末の一六二三年(一六二五説もあり)に発見されたのである。 私がこの碑に強い興味を覚えるのは、景教は、長安で仏教化した景教が、北伝仏教(新羅系統)として日本に伝わり、聖徳太子に強い影響を与えたのではないかと考えているからだ。 太子の名前である厩(うまや)戸(どの)皇子(みこ)は、母親が馬屋の前に通りかかった時に生まれたことに由来するというが、何となく馬屋で生まれたキリストの伝承を受け継いでいる感じがする。 それに太子が開いた四天王寺には四箇院(敬(きょう)田(でん)院、施(せ)薬(やく)院、療病(りょうびょう)院、悲(ひ)田(でん)院)があり、病人や老人などの救済にあたったが、この社会福祉の精神はキリスト教の教会とよく似ている。 太子ゆかりの深い広隆寺がある太秦は大秦という表記とよく似ているし、寺を創建した秦氏は渡来系の氏族である。太子に仕えた秦河勝が新羅系統仏教を信奉し、百済系統の仏教を信奉する蘇我氏と一線を画していたことも、太子と北伝仏教のつながりをうかがわせる。 景教と聖徳太子の関わりは、久米邦武(一八三九~一九三一)や佐伯好郎(一八七一~一九六五)がすでに論じているが、歴史学会では今でも異端、奇説として無視されているようである。 しかし、ちょっと待ったのヒゲじい(NHK「ダーウィンが来た」より)である。二年前に『平城京』(角川書店)を書くための取材で奈良を訪れた時、私はある博学の方から、「高松塚古墳の女性の装束はソグド人のものだ」と教えていただいたことがある。 もしそれが事実なら、すでにこの頃にソグド人が渡来したか、その文化が伝わっていたことの証拠である。それは中央アジアからモンゴルの草原地帯をとおるステップロードによって、そうした交流が行われていたことを意味する。 そのルートに乗って秦氏が渡来し、故国ローマを示す大秦の字をとってはたしと名乗ったとしても不思議ではないと思うのである。 さらにヒゲじいこと私は、景教の影響を受けて浄土教が生まれたという説を熱烈に支持している。 というのは私の実家は浄土真宗の信徒で、幼いころから父や母から教義の素朴な伝授を受けて育ったが、原罪、阿弥陀如来を頼った他力本願、懺悔による浄化などの考え方がキリスト教とそっくりなのだ。 どうしてこんなことが起こったのか、信仰や文化も極めればおのずと似てくるものか。などと思ったりしたものだが、浄土真宗の母体となった浄土教が、景教の影響を受けて成立したとすれば、この謎はすっきりと説ける。 両者の類似性に驚いたのは、若きヒゲじいばかりではなかった。はるばるヨーロッパから日本にキリスト教を伝えに着たイエズス会の宣教師たちは、一向宗の教義を知ってキリスト教徒あまりに似ているのに驚き、この宗派がある限り日本にキリスト教が広まる可能性はないと思った。 そこで織田信長に接近し、一向一揆を徹底的に弾圧するよう仕向けた。そんな説も歴史のこぼれ話の中には落ちていたのである。 【シルクロード「仏の道」紀行】潮2018年9月号
February 20, 2019
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舞踊演出家 村 尚也 『今昔物語集』第二十二には、藤原氏の説話が年代順に記されているが、鎌足の次男・不比等については優れた才能と出世のみで、逸話らしきものは語られていない。私がなぜそれを気にするかというと、古典芸能では藤原不比等が有名なエピソードに関わっていることが少なくないからである。 まず珠取伝説—―—―唐の高宗から賜った三つの宝のうち、面(めん)向(こう)不背(ふはい)の玉を竜宮に奪われてしまう。珠玉の中にある観音が、どの角度からも見る人に顔を向けているという宝だ。それを取り戻すため、不比等は身をやつして讃岐の志度(しど)浦(のうら)の海女と三年間契(ちぎ)る。ある日、不比等は妻となった海女に事実を告げ、二人の間にできた子(後の房前(ふさざき))が成人した後、官に就ける事を約して、海底の竜宮へ玉奪還を依頼する。死を覚悟して、乳の下をかき切って玉を隠し戻って来た海女は絶命する。この物語は、能の『海士(あま)(流派により海人など)や地(じ)唄(うた)舞(まい)『珠取』(海女)』などで人気がある。 第二は紀州道成寺の縁起。海中から潜(かつ)ぎ上げた千手観音を小さな祠(ほこら)に祀(まつ)る海女の宮子(みやこ)。この女性の髪が長く美しいことから藤原不比等は宮子を自分の養女とし、ついに文武天皇の妃にする。そして宮子がひそかに念じていた千手観音のために道成寺が創建される。 第三は浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの『妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)』。ここでは烏帽子(えぼし)折(おり)に身をやつし、杉酒屋のお三輪や橘(たちばな)姫(ひめ)との恋もようの最中、ついには蘇我入鹿(そがのいるか)討伐へと物語を牽引していく。蘇我入鹿は乙巳(いっし)の変(大化の改新)で滅ぼされた張本人だが、父の名は蘇我蝦夷(えみし)、祖父は馬子と名はいずれも後の為政者たちによって貶(おとし)められ命名された匂(にお)いがする。それに比べ「ふひと」は史の意味だからまさに歴史を作った人の自負が見え隠れする。あるいは「不人」と取れば、超人にも非道とも読むのは私だけだろうか。 【言葉の遠近法】公明新聞2018.8.8
January 13, 2019
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武庫川女子大学教授 丸山 健夫 ペリーといえば黒船だ。持参したアメリカ大統領の国書が日本を開国へと導いた。しかしペリー来航で、彼の側つまりアメリカサイドの事情を知る人は少ない。 まずひとつ。ペリーは、実はピンチヒッターだった。当時の大統領フィルモアが、日本遠征を最初に託したのはオーリックという人物だ。アメリカが救助した日本人漂流民十七名と引き換えに、日本を開国させる作戦だった。ところが本国を出航し香港まで来て、いよいよ日本へというときに、彼は「解任」命令を受ける。途中まで同乗させた外交官にウケが悪く、それが大統領の耳に届いたのだ。その代打がペリーだった。 ペリーは、軍事力と科学技術の進歩を日本に見せつけ開国させる作戦に変更。その切り札が蒸気軍艦、黒船だった。当時、蒸気で走る軍艦は、西洋社会でも最先端技術の結晶。まともに動く蒸気の黒船は、アメリカの海軍でも数隻ほどしかなかった。彼はそのほとんどを日本に結集させようとしたなにしろペリーは「蒸気海軍の父」といわれ、海軍への蒸気船導入の中心人物だった。来日したミシシーッピー号も、彼自身が建造に深くかかわったアメリカ初の外洋用蒸気軍艦だ。 そして、もうひとつ。ペリーは一隻でも多くしかも最新鋭でと、建造中だったスクリュー式の新型船の完成を待った。ところが待つうち大統領選挙。結果はまさかの「政権交代」。大統領の任期は残り四ヶ月。ペリーは選挙後、大慌てで日本に向けて出航する。日本までの道のり、約八ヶ月。鎖国の扉を開くキーとなったアメリカ大統領の国書。その国書を幕府がうやうやしく受け取ったとき、署名の主はすでにアメリカ大統領ではなかった。 【すなどけい】公明新聞2018.5.18
October 20, 2018
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世界は宗教戦争の巷だが、この国にその風景はない。信長・秀吉時代に武家勢力=天下人が強大化。宗教勢力が折り合って共存を図ったからである。先日、長崎県は南蛮貿易で有名な平戸に行き、面白い資料に出会った。人間文化研究機関「平戸オランダ商館文書」調査研究プロジェクトで松浦資料博物館を訪れ、坂為左衛門『壺(こ)陽録(ようろく)(三光譜録)』(一七五八年)という資料をみつけた。そのなかの秀吉の薩摩征伐時(天正十五〔一七五八〕年)の記述に驚いた。「薩摩は強敵で秀吉公も攻めあぐみ永滞陣になった。しかし秀吉公は御知略をもって、京の西門跡」(本願寺)を呼び下し、御門主を馬に乗せ、日月の御旗をささせ秀吉の千手に進ませた。それで案のごとく、薩州をはじめ敵陣は忽ち『本願寺の御門跡に弓を引くことはできない』と、薩摩の屋形(豪族)は物の具(武器)を抜き捨て降参して出てきたので、軍兵どもも甲を脱ぎ、弦を外して、弓箭(きゅうせん)(戦闘)に及ばず、大坂方の御利運(勝利)と成った。薩摩の領内は昔から真宗のみ多くあったが、(島津氏は秀吉に降伏後)『武を捨てる宗旨だから』と、数百の一向寺を残らず廃止し、切支丹の類に準じ、禁止令を出した」秀吉の薩摩征伐に本願寺は協力を惜しまなかったらしい。本願寺は秀吉に「日月の御旗」をささせられ、軍の先頭を錦の御旗よろしく進らせられたとある。しかし秀吉軍に同行したのは門主・顕如ではなく子の教如であろう。一次資料で同行か確認できるのは教如だ。「関白(秀吉)様が九州に御動座(出陣)につき御見舞として新御所様(教如)が御下向なされた」(『顕如上人伝』所載書状)とある。『陰徳太平記』にも「殿下(秀吉)が六条門跡(本願寺)を同道したのは門徒らが九州に充満しているので本願寺より触れさせ早く味方にして兵糧等の便宜を得ようとの謀(はかりごと)だ」とあり、宣教師フロイス『日本史』にも、大坂の仏僧(本願寺)が秀吉に同行し下関に滞在したとある。秀吉の薩摩征伐に本願寺おそらく教如が少なくとも下関までは同行。錦の御旗になっていたことがわかる。本願寺は本能寺の変で信長が死ぬと秀吉に接近。秀吉が権力を確立するため柴田勝家と戦ったときには柴田の背後「加賀で一揆を催し御忠節」を尽くすと秀吉に約束した(天正十一年四月八日付秀吉書状)。以来、本願寺は秀吉の戦場に次期門主・教如を陣中見舞いに派遣。富山の佐々成正を秀吉が征伐した時も「秀吉より御異見(御指示)ゆえ」教如が直接金沢まで行って秀吉を支援している(『貝塚御座所日記』)。秀吉が北陸のライバルだった柴田・佐々を制圧した天下人になれたのは、この地に信者が多く絶大な影響力を誇る本願寺との連携があった。本願寺は秀吉への戦争協力の見返りに大坂天満での本願寺の維持を許された。秀吉自身が寺の縄打ち(場所決め)を行い、本願寺は籠城できぬよう塀や堀のない寺にすること(フロイス『日本史』)で秀吉と折り合った。最初のキリスト教制限令である伴天連追放令は、秀吉が本願寺と薩摩征伐をやっていた最中に出されている。これには「キリスト教は一向宗よりたちが悪い」との秀吉の認識が色濃く出ている。のちに日本最大の教団になる本願寺と、権力に弾圧されるキリスト教の運命はここで大きく分かれた。こんな話をしていると、博物館の方が「秀吉の伴天連追放令はうちにあります」と原本を出してきてくれた。私は日本の宗教情勢を決めたその一枚の紙をまじまじとみつめた。【日本史の内幕】磯田道史著/中公新書
April 14, 2018
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幕末から明治にかけて来日した外国人にとって、日本は驚きの国だった。気さくで陽気で幸せそうな人々、雑草一つないほど手入れされた耕地。美しい自然景観は多くの欧米人をうならせた。庶民の生活も開放的だった。家屋は開けっぴろげで、無人の店も持ち逃げする客はいない。ある外国人は宿屋に時計と金を預けて数日間出かけたが、戻ってみると、出発時と同様、蓋のないお盆の上にそのまま残っていた。近代史家・渡辺京二氏の著書「逝きし世の面影」からは、明るく勤勉で善良な当時の日本人の姿が伝わってくる。子どもを大切にし、男たちが町中で幼児を抱いて一緒に遊んでいる姿も外国人の目には印象深く映ったらしい。日本はその後、近代化を急速に進めて欧米と肩を並べ、敗戦を経て短期間で先進国となった。一方、風景は幕末の人が卒倒しそうなほど大きく変貌した。人々の心の中の変化は、計り知れない。渡辺氏が「古き日本の死」と表現するように、明治以前の時間はもう戻らない。ただ、当時の暮らしや生き方には妙に懐かしさも感じさせられる。物がなくても世の中を信用して生きていけた時代への憧れだろうか。今年は明治維新から150年。近代化とともに日本人が忘れてきたものはないだろうか。じっくり考えてみたい。【凡語】京都新聞2018.1.1
April 13, 2018
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歴史学者 藤野 豊読者から届けられた声連載が始まってから、読書の皆さんからの数多くの反響が届いている。拙稿に深い関心をもって読まれている方がいることを自覚し、筆者として心が引き締まる思いである。小学生の頃、先生に引率されて「にあんちゃん」の映画を見たという方は「元気だけれど、もの悲しい印象」をもたれたが、「在日コリアンの子どもたちの話とは理解できませんでした」と書かれていた。私自身、戦後の炭鉱の歴史に手を染めるまでは、「にあんちゃん」の主人公が在日コリアンであることを知らなかった。今、映画「にあんちゃん」はDVD化され販売されている。拙稿を読まれた上で、もう一度、映像をご覧になって、子どもたちの声に耳を傾けていただければと思う。また、筑豊の炭鉱に生まれ育った72歳の女性の方からもお手紙をいただいた。その内容は衝撃的なものであった。冒頭、「私自身が10歳位の頃、人身売買を受け、米のかわりに子守に出され、学校にも行けずに、毎日他人の赤ちゃんを背に農家の家の周囲を歩きまわっていました」と書かれていた。人身売買され、学校にも行けなかったという経験をあえて書かれたことの重みに対し、私は返す言葉を失った。さらに、「小学校6年生の時、卒業式にも出られず、住居だった板一枚の小さな穴から、小学校へ行く同級生を見ていました」とも書かれていた。この方が、小学校6年生の頃というと、私は小学校に通う2年前であろうか。小学校に行くことを当たり前と思っていたが、炭鉱ではそれが当たり前ではなかったのである。その一方で、6年生の時の担任の先生が雪の降る大みそかにお餅を20個ほど持って来てくれたエピソードも記されていた。炭鉱の子どもたちのことを忘れない教師がいたことに、私は希望を見いだした。確かに炭鉱の貧しい子どもたちの教育に情熱を傾ける教師たちがいた。今に至る人権教育の先駆者たちである。この方が、過去の体験をあえて書かれたのは「今のうちに現実を伝えなければ」との思いであるからであると綴られている。この思いに、私は今度もお応えしなければと、改めて研究への責務を感じさせられた。炭鉱に関わる失業や貧困の問題は決して過去の歴史の1こまではない。現在においても、ワーキング・プアという言葉が存在する。読者の皆さんの声を聞かせていただき、現在を見据えた歴史学研究の意義を、改めて痛感した。ご意見を寄せていただいた方々に心よりお礼を述べたい。 聖教新聞2017.10.5
December 13, 2017
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歴史学者 藤野 豊 2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」として長崎県の鷹島炭鉱、端島炭鉱(軍艦島)、福岡県の三池炭鉱宮原抗、熊本県の三池炭鉱万田坑がユネスコの世界文化遺産に登録された。その5ヵ月前、私は万田坑を訪れていた。炭鉱の施設がよく保存されていて、明治期の大きな巻き上げ機もそのまま残されていた。かつて万田坑で働いていた方々がガイドを務め、個々の施設の説明をしてくださった。世界遺産への登録の期待が万田坑全体にみなぎっていた。荒尾駅から万田坑まで乗ったタクシーの運転手も、早く登録してほしいと語っていた。世界遺産になれば、観光客も増えるだろう。同じことは、宮原抗が在る福岡県大牟田市でも感じていた。大牟田市石炭産業科学館の前には、「めざせ 世界遺産! 三池炭鉱関連の近代化遺産を世界遺産に!」と大書した看板が掲げられていた。“炭鉱遺産でまちおこし”の熱気が伝わってきた。また、筑豊では世界記憶遺産に登録された山本作兵衛の炭鉱画が大きな観光資源となっている。三井伊田抗の跡地につくられた田川市石炭・歴史博物館では山本作兵衛コレクションを常時展示しているし、隣接するショップでは、炭鉱画をパッケージに描いた菓子も販売されている。炭鉱の歴史は過去の遺産として記憶され、現代の観光資源として復活した。しかし、それだけでいいのだろうか。かつて長崎県の高島炭鉱では、労働者への虐待が常態化し、1888年、雑誌「日本人」にその実態が暴露され、社会に大きな衝撃を与えた。炭鉱には、囚人労働、朝鮮人強制連行、事故による膨大な労働者の犠牲、そして、戦後の合理化政策による失業と、多くの負の歴史がある。そうしたことも含めて記憶し、施設を保存しなければ、歴史の全体像は見えてこない。「明治日本の産業革命遺産」という日本人の誇り得る歴史の遺産としてのみ炭鉱を記憶していいのだろうか。アウシュビッツ・ビルケナウの強制収容所や広島の原爆ドームが、人類の負の遺産として世界遺産に登録されたように、炭鉱遺産も負の遺産としても記憶すべきではないか。今年の2月の終わり、「軍艦島」を訪れた。長崎港から乗った船はほぼ満席であった。軍艦島は長崎市の重要な観光スポットになっている。池島炭鉱で暮らしていた女性がガイドを務め、島の炭鉱の生活ぶりを語ってくれた。炭鉱が在ったことを忘れないでという彼女の話を聴きながら、私は、炭鉱の戦後史を追い続けることへの思いを新たにした。 【炭鉱のまちを歩く[20]=完】聖教新聞2017.9.28
December 7, 2017
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作家 葉室 麟 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代を体表する三英傑が尾張、三河という日本列島の中央部に生まれたことは偶然ではないと思っている。戦国時代は西へ向かうか、東へ進むかという日本史の岐路だったからだ。たとえば東の戦国大名をあげれば、小田原の北条氏がいる。早雲以来のこの家は、かつて鎌倉幕府の執権として京の朝廷に対し、地方の武家勢力の独立を保障した北条政権に倣おうとした節がある。また、西国大名の雄、毛利氏は勘合貿易を盛んに行った大内氏の領土を引き継いで海外交易への意欲を抱き、港を求めて九州へ進出し、京で天下政権を樹立しようという考えを持たなかった。信長は東国と西国をにらみつつ、中部から近畿地方を制覇すると、異常な独裁的性格から天下政権(中央集権国家)を目指した。その際、戦国期にわが国に影響を及ぼしたグローバリズムの象徴というべき鉄砲を多用した。このため、鉄砲の火薬を海外から手に入れなければならない必然と海を超えてくる文化への好奇心から西国への進出を図った。信長が本能寺の変で斃死すると、跡を継いだ秀吉は、信長の構想であるアジアに開かれた海洋交易国家を実現しようと朝鮮に出兵する。秀喜の老齢と朝鮮での民衆の抗戦、さらに明国の支援により構想はとん挫した。その後も海洋国家としての日本という夢想は歴史の地下水脈として受け継がれる。だが、とりあえずこの夢に蓋をしたのは徳川家康だった。家康は秀吉によって江戸に移封され、思わぬ形で東国大名になった。さらに、秀吉没後の権力争いでは石田三成と反三成派の対立という豊臣家の内紛を巧みに利用したが、肝心の天下分け目の関ケ原合戦ではこのことが裏目に出た。徳川の主力軍が信濃の真田昌幸が籠る上田城攻めに手間取り、関ケ原合戦に間に合わなかった。このため、福島正則や黒田長政ら豊臣家大名が主力として戦った。戦勝後はこれらの大名に重く報いるしかなく、西国は豊臣家の大名がひしめいた。家康は天下政権を江戸で開き、先例を鎌倉幕府に求めた。家康にしてみれば、京で政権を立てることにあこがれはあっただろうが、はなやかさを好まない性格が幸いしたのか、東国でのどこか古めかしい天下政権で満足したようだ。しかし、このことによって日本史は大きく方向転換した。しかし、このことによって日本史は大きく方向転換した。アジアを目指す重商主義の海洋国家ではなく、内政の充実に重きを置く重農主義の地方分権国家となったのだ。そのことが国民の性格にも影響を与えたのかもしれない。グローバリズムにさらされる現代においてわれわれが自分の中に信長や秀吉、あるいは家康を感じて戸惑うのはそのためだ。いま三英傑のうち誰の時代なのだろうか。(はむろ・りん) 【文化】公明新聞2017.9.22
November 25, 2017
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歴史学者 藤野 豊 かつて炭鉱が在ったまちを歩く中、そこに大きな格差があることを痛感した。山口県の宇部市で沖ノ山炭鉱を経営していた宇部興産は、現在では大手の総合化学メーカーとして発展し、東京に本社を置くとともに、宇部をはじめ全国各地、さらには海外に工場や関連企業を展開している。宇部のまちを歩く限り、炭鉱が消えて衰退したという印象は全くない。かつて炭鉱が在ったことを後世に残そうと開設された石炭記念館は広い公園の中に在り、炭鉱の失業問題という過去は消し去られていた。一方、北海道の夕張市には立派な夕張市石炭博物館が在り、炭鉱の労働を疑似体験できる設備も在った。しかし、人影はまばらであり、周辺の観光施設でも、広い駐車場に止まっている車は1台のみであった。夜、町に出たが、営業している店が少ない。ようやく入った店は広い店内なのに、客は1人であった。カウンターに座り、店主に「今日はお客が少ないね。シーズンオフなの」と話し掛けると、店主は「夕張はいつもオフですよ」と笑っていた。夕張は「エネルギー革命」という国策に翻弄された。しかし、その中で映画祭を実施したり、さまざまな町おこしに市民が取り組んでいることも学んだ。また、福島県のいわき市では、炭鉱から湧き出た温泉を活用して、常磐炭礦がリゾートホテルを開発。日本のハワイとして宣伝し、映画「フラガール」の舞台ともなった。いわき市は恐竜の化石が発見されたことでも知られ、いわき市石炭・化石館が開設され、炭鉱と恐竜の化石がセットになって観光客を集めている。このいわき市には、もう一つ炭鉱資料館が在る。それが、みろく沢炭鉱資料館である。同館は個人が解説したもので、入館料もいらない。かつて、みろく沢炭鉱が在った場所の一角に雑然と炭鉱で使った道具や写真が展示されている。資料館の付近には、たぬき掘りの跡も在った。人1人が潜れる穴を掘って採炭するやり方で、事故も多かった。零細な炭鉱では戦後もこうした危険な採炭が行われていた。このみろく沢では地表に単層が露出している。私は、単層が露出した地べたに座り、この地下でかつて石炭が掘られていたことに胸が高まり、「高度成長ではない戦後日本の歴史を炭鉱から明らかにしていこう」と心を決めた記憶がある。そのような思いを持って、その後、私は筑豊に足しげく通うことになった。そして、そこで、より一層、炭鉱合理化政策と失業問題という現実に直面したのである。 【炭鉱のまちを歩く[19]】聖教新聞2017.9.21
November 23, 2017
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歴史学者 藤野 豊 炭鉱合理化政策による失業は大手の三池炭鉱にも及んだ。1959年1月、三井鉱山が労働組合に6000人の希望退職を募ったことに端を発し、12月、会社側は1278人の指名解雇を労働組合に通告。これに対し、労働組合は無期限ストライキに突入した。この争議は、安保改定反対闘争とも結び付き総労働体総資本の対決と評された。しかし、長引くストライキの中で、60年3月、組合は分裂。結局、指名解雇者は退職し、11月11日、ストライキは終わり、三池労組は敗北した。この争議で、労組に絶大な影響を与えたのが、九州大学の教授で社会党左派の社会主義協議会の中心であった向坂逸郎である。向坂は、三池で「向坂教室」と呼ばれる学習会を主催し、多くの労組活動家を育成した。向坂は三池争議のシンボルとなった。私は、熊谷博子が監督したドキュメント映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」を見ていたとき、かつて三池炭鉱主婦協議会の副会長として活動した女性の発言にハッとした。それは「あの争議の結末のみじめさはね、九大の向坂学級のせいだと思いますよ。あの人が机の上で勉強したことをね、三池をモルモットにしたんじゃないかって」という発言であった。熊谷は、この発言について、「これまで多くの人が感じてはいても怖くて言えなかったことを、ズバッと言ったのだと思った」と述べている(『むかし原発 いま炭鉱』中央公論社、2012年)。私が、この発言にハッとしたのは、それが私の抱いていた疑問と同じだったからである。選挙で多数の議席を取るという平和的手段により労働者階級の独裁国家をつくろうという向坂の夢の第一歩が三池争議だったのではないか。争議に敗れた三池の労働者は失業に追い込まれたが、争議を指導した向坂はマルクス主義経済学の泰斗として以後も学界に君臨し続けた。実践で敗れた理論への再検討もなされず、向坂は神格化された。しかし、ハッとした理由はもう一つある。この発言が私への鋭い問いともなっていたからである。私は、これまで被差別部落やハンセン病患者への差別の歴史についても研究してきた。その中で、国、マスメディア、人権運動の団体にも意見を述べてきたが、私の言動にも、差別されてきた当事者の方々を自らの歴史理論の「モルモット」にするようなことがあったのではないか。向坂への批判は、そのまま私への批判となるのではないか。私にとり、この女性の発言は重かった。 【炭鉱のまちを歩く[18]】聖教新聞2017.9.14
November 17, 2017
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歴史学者 藤野 豊 私は、黒い羽根運動の資料を求めて炭鉱の在ったまちを訪ね歩いている。筑豊では、膨大な資料とであった。行政文書も残り、西日本新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の全国版はもちろん、各紙の地域版やフクニチ、筑豊タイムスなど、新聞には驚くほど報道されていた。黒い羽根運動本部の会長は福岡県知事・鵜崎多一。以下、役員には県議会議長、町村会会長や県幹部、小学校、中学校、高等学校の各校長会会長、県内労働組合幹部、県内福祉団体代表らが名を連ね、まさに、官民一体となった運動であったことが分かる。この運動は福岡県内を中心に展開されたが、寄付者は全国に及び、寄付金だけではなく、食料や衣類などの現物も多数寄せられた。オーストラリア政府からはソーセージが、カナダ政府からは豚肉の缶詰が送られた。私が想像していた以上に大きな運動であったことに驚いた。さらに運動の一環として、1959年12月、九州大学医学部では筑豊の炭鉱で巡回診療を実施し、「黒い羽根診療班」と大書したバスが炭鉱を巡った。医薬品は薬品会社から寄付を受けた。では、他の地域ではどうであったのか。炭鉱合理化政策の影響は全国の炭鉱で発生していたからである。調べ出すと、長崎でも運動が広まっていたことが分かった。長崎県黒い羽根運動本部がまとめた『ヤマの子ら』は、寄付を受けた長崎の炭鉱の子どもたちの感謝の文集である。しかし、他の地域では期待したほど資料は見つからなかった。福岡県いわき市を訪れて地元新聞などを調査したが、常磐炭田では、筑豊の仲間を助けようと炭鉱労働者が寄付に応じていた。常磐は助ける側であり、助けられる側ではなかった。宇部でも同様であった。また、同じ福岡県でも、大手炭鉱中の大手といえる三井三池炭鉱の在る大牟田市では、運動はあまり活発ではなかったことも分かった。黒い羽根はあくまでも筑豊の炭鉱失業者を救済する運動であり、救済対象となったのは筑豊のほかは長崎県の炭鉱くらいであったのか。また、この運動により世論は喚起され、結果、炭鉱離職者臨時措置法を生み出す一因ともなったが、この法律はどれほどの効果があったのか。さらに、黒い羽根運動は60年をもって終わったとされるが、それ以降も黒い羽根の文字が新聞に散見される。いつまで続いたのか。また、私の黒い羽根をたどる旅は道半ばである。 【炭鉱のまちを歩く[17]】聖教新聞2017.9.7
November 12, 2017
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歴史学者 藤野 豊 小学1年生の時、学校で黒い羽根を配られた記憶がある。担任の先生が「筑豊のお友だちのために協力しましょう」と言って、協同募金の赤い羽根と同じだが、色は黒い羽根をクラス全員に配り、私たちは各自10円ずつ払った。しかし、この黒い羽根の記憶を後輩に話しても誰も覚えていない。私の小学校は横浜市にあった。青森県で当時、小学校の先生をしていた方に伺っても、黒い羽根を児童に配った記憶はないという。私が、小学1年生というと、1959年である。黒い羽根は、この年だけのことだったのだろうか。そして、実践した地域にも差があったのだろうか。59年、日本経済は岩戸景気の渦中にあった。しかし、炭鉱合理化政策の下で、閉山に追い込まれた中小炭鉱の労働者にとっては、それどころではなかった。また、そうした閉山した炭鉱を抱えた自治体にとって、税収入の減少、生活保護費などの増加で財政が逼迫していた。契機に乗れた人々と景気から見捨てられた人々との格差があらわになっていたときである。黒い羽根運動は、こうした中で始められた。黒い羽根運動とは、赤い羽根運動を模したもので、中小炭砿、とりわけ最も影響が大きかった福岡県の筑豊地域の炭鉱の失業者家庭を救済することを目的にしていた。この運動を始めたのは、福岡県の女性たちであった。黒い羽根運動本部がまとめた『黒い羽根運動報告書』によれば、運動の日誌の冒頭に、59年8月9日、福岡県内に住む女性らが中心になり炭鉱離職者助け合い運動が提唱されたと記されている。これが黒い羽根運動の始まりである。そして、同月23日に東京で、彼女らは全国から集まった母親たちに、炭鉱の失業者家庭では「子供たちは、一山十円のトマトを買っては、朝、昼、晩と三回にわけてうえをしのいでいる」と筑豊の中小炭鉱の窮状を訴え、黒い羽根運動に取り組むように求めたのである。運動には、福岡県などの地元自治体、労働組合等も参加し、一つ5円~10円の黒い羽根の売上金や寄付金で、炭鉱失業者の家庭に食料、衣料、学用品などを供給した。そして、それにより、高度経済成長下に無視されかけていた中小炭鉱の失業問題に世論の関心は高まった。 【炭鉱のまちを歩く[16]】聖教新聞2017.8.31
November 1, 2017
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劇作家 山崎 正和 戦後民主主義の子「国家はいじらしい存在」 ≪私が(中国・満州の)小学校に入った年は、まだ黒い制服だった。しかし二年目(一九四一年四月)からは、戦闘帽とカーキ色の制服に変わります。そういう変化が、私が七歳のときに起こっている≫(17頁)≪いまあらためて私は自分を『戦後民主主義の子』だったなと思っています≫(339頁)◇私は少年時代、軍国主義が高まる京都で苛烈ないじめに遭い、満州ではソ連軍による無知蒙昧な占領を経験し、日本の引き揚げてからは食糧難に見舞われた。息の詰まるような生活を経て、やっと空気を吸い込んだのが戦後だった。自分の成長というか、意識ある一人の人間としての成長期を戦後の霧の中で過ごした。まずその意味で、自分を戦後民主主義の子なのだと思っている。また、手探りながら、私たちの世代で戦後民主主義を体験的につくったということもある。一つの例を挙げれば、男女共学は、私が中学生の時に実験的に導入された。中学生ほどの年齢で、男女が席を並べて勉強するなどということは、日本の歴史上、初めてのことだった。ことほどさように、中学3年から大学院の終わりくらいまでの私の青春は、前人未到の世界を自分で切り開いている感じだった。いわば戦後民主主義の形成に文字通り巻き込まれた。◇≪「じゃあ、お前たちは何をやったんだ」と問われたら、少なくとも民主主義は守ったといえる。世代全体が暗黙の協力をして、まず軍国主義の復活を防いだ、そのうえで日本を北朝鮮にもしなかった≫(336頁)◇世代論というものは難しいものだが、あえて私を昭和1桁世代と位置付けるならば、上の方には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らがいる。この人たちが戦後をつくりはじめ、その途中から私たちが参加した。これを明治時代に置き換えると、吉田茂らは吉田松陰、私は森鴎外と似た立場になる。明治第1世代と同じような体験をしたわけだ。鷗外が生まれた時、国家はまだ小さかったのだ。そのためか、普通、若者にとって国家は、忠実に恐れ崇める存在であるか、抵抗すべき的であるかに分かれるのだが、鷗外は国家を巨大な力と感じてなかった。この国家観は私にも共通している。むしろ国は、自分が力を尽くして守ってあげないといけない、哀れな子どもに思えた。だから、私の言う戦後民主主義の子というのは、別に反体制の意味ではない。国家を敬うものでもなく、畏れるのでもなく、愛すべき、いじらしい存在だと見て、形のないものに形を与える。そうした感覚を持つ人ということだ。 「不機嫌の時代」共産党活動で紛らわす ≪私は『不機嫌』だった。当時はそこまでの分析をしていませんが、アモルファス(amorphous)な、形にならない感情が迫ってきているんですね≫(53頁)◇京都の学校に編入するまで、私は満州の居留民団立の中学校に通っていて、詰め込み教育を受けていた。結果的に大変な英才教育を施されたわけで、そのためか、日本に帰ってくると、学校の授業がばかばかしいほど易しく感じた。それで退屈して、青春時代の内的葛藤というか、モヤモヤした気持ちを解消したいのだが、その方法は教わっていない。解消法はそれぞれ違ったものであろうけれども、私の場合は共産党の活動だった。私は15歳で共産党員になった。では、共産党に感銘を受けていたのかというと、実は共産主義がおかしいことは、その段階ですでに分かっていた。早い話、共産党によると、共産主義社会の移行は「歴史の必然」らしい。必然とは「必ずそうなる」という意味だ。ならば、革命は自然に起きるはずだ。別に党に入って努力する必要はない。これは明らかにおかしい。にもかかわらず、なぜ共産党だったのか。これが青春時代の摩訶不思議なところで、背中がかゆくてひっかくような思い。形にならないウジウジとした感じ。「不機嫌の時代」とも言い換えられる。それをぶち破るために、自分でも決して好きではない共産党の運動をしていた。要するにしんどいことをやって気を紛らわせていた、それだけのことだった。しかし、共産党が想像を絶する暴力集団になったこともあり、大学に入る少し前から、私は共産党や左翼には幻滅しきっていた。それでも、しばらくは周りの友人への「義理」で共産党員を続けていたが、共産党が武装路線を放棄して山村工作隊の友人が帰ってきたので、私はさっさと辞めた。辞めた連中は皆、元気がなかった。ある男は本当に自殺しそうな顔をしていて、私が「明日からは何でも自分の頭で考えるんだよ」と言ったら、「そうだよなあ」とため息をついていた。こんなこともあった。私の同級生だった男が共産党の「人民裁判」の結果、死刑の判決を受けた。で、“五山の送り火”で知られる京都東部の大文字山で、木の幹に縛り付けられ、焼き殺されそうになった。幸い、命は取り留めたが、精神に異常を来たしてしまった。これもまた、私が共産党を嫌悪するゆえんの一つでもある。 「『戦後』の結実」日本式「小国寡民」めざせ ≪私の生きた時代はまだ終わっていない、完全には過去になりきっていないという感じかな≫(399頁)◇日本は、人口が1億そこそこで、国土はアジアのほんの一角に過ぎない。資源といえばほとんどゼロに近い。その中で、経済は世界3位、失業率は3%未満、そして徴兵制度がない。貧富の差はどうか。グローバル経済によって拡大したことは否定できないが、米国や中国に比べれば、うんとましだ。犯罪率は世界最低水準。そんな国は他に見当たらない。何もかもうまくいっているなどと言うつもりは全くないが、戦後は良い結実を見たといえるのではないか。ただ、このままずっと続いていけるかどうかは分からないし、むしろ困難の方がはっきりと見えている。まずは、人口減少、高齢化、これをどう乗り越えるか。それと関連して、莫大な国債残高をどうするか。私は何とか「小国寡民」でバランスが取れると思っている。無論、日本は人口も経済規模も小国ではないわけで、厳密な意味での「小国寡民」はあり得ない。京都大学名誉教授の白石隆さんが「日本は大国になっても超大国になるべきではないし、なれもしない」といった趣旨のことをかかれておられるが、そのような意味での「小国寡民」だ。従って、人口約1000万人のスウェーデンのような極端な小国ではなく、何とか努力して人口は1億に近いところで保つ。国土は絶対に拡張せず、国際情勢に対応した抑止力を持つにしても、必要以上に強くなろうとは考えない。もちろん、核は持たない。 「高学歴低学力」「知的立国」つくる教育こそ ≪いま私が感じている日本の教育上の課題は、頂点を押し上げることではなくて、底辺を押し上げることです≫(326頁)◇これからの日本は、願わくは知的立国をめざしたい。知性にはいろいろな意味がある。人間の品格としての知性を国民が持つのは大事なことで、たとえ役に立たなくても、知性は必要だ。一方で、役に立つ知性、いわば経済を発展させる技術も大事だといえよう。では、それをどうやって実現するか。まず基本的に重要なのは教育投資だ。日本の場合、それしかないと言ってもいいかもしれない。ただし、平等に勉学の機会を与えればいいわけではない。人間は多様だから、多様な能力を、ある制度の下で一元化してしまうのは社会のためにならないし、個人にとっても不幸だ。世界を見渡してもまねできる人がいないような技術を持つ日本の職人は、現場のたたき上げでその技術を身に付けた。こういう人をわざわざ大学の工学部に入れる必要はないだろう。今、ほとんど勉強しないで大学へ進学し、分数の足し算もできない学生が少なからずいる。今は少子化時代だから、高校や大学には質を問わなければ全員が入学できる。すると何が起こるか。ニートを大量生産することになってしまう。これはまずい。従って具体的には、現在の義務教育を100%身に付けてもらう取り組みが重要だと考える。国語であれ英語であれ、中学までの学力を完璧に身に付ければ、社会人として最優秀だ。それ以上、勉強したいという意欲と、その能力を持っている人には援助を強めてもいいのではないだろうか。誰も彼も一辺倒に進学していたら、中身の伴わない「高学歴低学力」ばかりになってしまう。もう一つ、東日本大震災を機に改めて浮上した大災害への対応がある。今この瞬間に南海トラフで、東海、東南海、南海地震が同時発生したら、日本は生きられるか。こればかりは予想がつかないが、ここでも重要なのは先行投資だろう。安全対策を万全にしていくしかないだろう。そういう努力がまるで無効になるほど天災は強くないということだ。 公明新聞2017.8.15 時代の位相と展望<中> 知識人たちの戦後 ≪戦後、今度は繰り返しで、マルクス主義が一気に伸びました。すると学者たちは(中略)大量に左翼になってしまう。(中略)私たちの世代になって、やっと政府に関わることへのアレルギーが少し薄れたんですね≫(336頁)◇1960年代末から70年代にかけての佐藤内閣時代、政府に政策アイディアを助言する知識人グループが生まれた。メンバーは高坂正尭(せいたか)、京極純一、梅棹忠夫、永井陽之助ら新進気鋭の知識人で、私もその中に加わっていた。中心にいて取りまとめていたのが、高い志を持って新聞記者を辞め、主相秘書官のポストにあった楠田實(みのる)氏。「楠田研究会」と呼ばれたこの国際関係懇談会での議論が、やがて沖縄返還や学園紛争の終息などにつながった。その前にも、池田内閣で主相秘書官を務めた伊藤昌哉氏がいたが、彼もジャーナリスト出身だった。官僚出身でも政治家出身でもない人間が官邸の中枢ポジションを占め、力を振るうことができたのはあの時代だけだろう。今では、戦後民主主義というものの形が非常に精緻に作り上げられてしまったがゆえに難しい。逆に言うと、私たちの時は穴だらけだったということだ。◇≪今では(中略)優秀な学者が政治に参加するという風土がほぼ確定したと思います。(中略)その意味でわれわれは戦後世代の開拓民だったと思います≫(336頁)◇ただ、この楠田研究会を先駆けとして、大平内閣でも有識者からなる研究会がつくられ、知識人が政治に参加する流れが広がっていった。今では、良くも悪くも審議会政治が常態化している。思えば、英米系つまりアングロサクソン系の国は、学者と政治の関係が伝統的にいい。英国では18世紀の経済学者アダム・スミスの時代から学者が政治家になり、米国では学者が憲法をつくるなど深く政治に関わってきた。その伝統を象徴するものとして、米国には「ベスト・アンド・ブライテスト」があり、英国には「フェビアン協会」がある。これに比べ、ドイツの近代化を見ると、知識人はある意味、反政治主義で政治というもの事態を軽蔑している。トーマス・マンが『非政治的人間の考察』という本を書いているのが象徴的だ。実は、戦前の日本では、学者たちはドイツに留学すると反政治主義を覚えて帰ってきた。このためドイツの影響を強く受け、学者はお高くとまって後ろに下がるべき存在となってしまった。これが一転、戦後になると左翼化という揺り戻しを経て米国型になる。それで佐藤政権における学者の政治参加が楠田研究会となって実を結び、今の各審議会に至っている。私自身もその後、小渕政権時代の「『21世紀日本の構想』懇談会」や、小泉政権下の「追悼・平和施設懇談会」などに参加し、2007年からは中央教育審議会の会長を務めた。記憶に新しいのが、天皇陛下の退位を巡って設置された有識者会議(座長=今井敬経経団連会長、座長代理=御厨貴東京大学名誉教授)だ。非常に微妙な、つまり一代限りの退位を認め、基本的な皇室典範の改定は行わないが、特例法は典範と一体を成すこととした。こうした事例を通しても分かる通り、知識人の知恵と工夫が政治に反映され、成果を生んでいることは確かだろう。 公明新聞2017.8.22
October 19, 2017
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歴史学者 藤野 豊 土門拳というと、私は奈良の古寺や仏像の静粛な写真を思い起こす。しかし、土門拳には激しい怒りの写真もあった。1959年、すでに、写真家としての地位を確立していた土門のもとに、筑豊をテーマにした写真集の依頼が寄せられた。依頼したのはパトリア書店というと出版社である。これを受けて、土門は撮影を開始し、『筑豊の子どもたち』(パトリア書店、1960年)をつくり、さらに『るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊の子どもたち』(研光社、同)を刊行した。どちらも、あえてザラ紙に印刷し週刊誌の体裁にした。定価は100円であった。そこには虐げられた人々、貧しい人々と共に国の炭鉱合理化政策と戦おうとする土門の怒りが込められていた。『筑豊のこどもたち』は10万部を突破したというと。「著者のことば」で、土門は「日本各地の炭田地帯には、いま炭鉱離職者の大集団がいる。貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起こさないのか不思議なくらいだった。それがマケ犬の忍従なのか、いわゆる日本人のネバリ強さなのか、ぼくにはわからない。長い圧迫の歴史が、かれらのエネルギーをどこかに閉じこめてしまったかに見える」と述べている。国策により生活を破壊されたのもかかわらず、暴動も起こさず忍従する炭鉱失業者の秘められたエネルギーを、土門は子どもたちの表情に求めたのである。反響は大きかった。東宝が映画化に踏み切る。監督は当初、広沢栄が予定されていたが、当方と意見が合わず、川内清一郎に代わった。土門も映画化に全面的に協力した。原作が写真集であるので、映画は完全な創作となった。閉山された筑豊の小さな炭鉱が舞台となり、失業し、希望を失った加東大介演じる江藤新吾とその子の武らを軸にストーリーつくられた。撮影にはセットを使わず、全て田川市近郊の東洋炭鉱でロケが行われた。ライトも使わず、ニュース映画用のカメラを使用し、出演者はメーキャップもしなかった。あえて、ドキュメンタリー風の映画に仕立てたのである。撮影には筑豊の炭鉱労使双方が協力した。映画では、筑豊を訪れた代議士が、秘書に「石炭産業はもう救いようがないよね、まあ、せいぜいあと五年か」「それが歴史というもんだ。世の中が進歩するにはそのくらいの犠牲はつきものだよ」と語るシーンがある。この言葉に、土門拳の怒り、内川清一郎の怒りが凝縮されていたのであろう。 【炭鉱のまちを歩く[15]】聖教新聞2017.8.10
October 10, 2017
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歴史学者 藤野 豊 私は、小学6年生の時、近所の短大生のお姉さんから、これを読んでごらんと1冊の本をもらった。それが安本末子の『にあんちゃん 十歳の少女の日記』(光文社、1958年)であった。しかし、その時はあまり興味を覚えず、読んだのか、読まなかったのかさえ記憶が定かではない。しかし、半世紀を経てその本と向き合うことになった。『にあんちゃん』は、10歳の少女、安本末子の1953年1月22日~54年9月3日の日記をまとめたもので、佐賀県東松浦郡入野村(現・唐津市)にある杵島炭鉱が経営する大鶴鉱業所の炭労住宅に生まれ育った在日コリアンの4人のきょうだい、すなわち、喜一(20歳)、良子(16歳)、高一(12歳)、末子の生活の記録である。「にあんちゃん」とは末子にとって2番目の兄、高一のことである。4人はすでに母を失い、父も失う。『にあんちゃん』は父の死の記述から始まる。少女の日記とはいえ、そこには両親を失った子どもたちの苦労、炭鉱の臨時雇いとして働く喜一の解雇ときょうだいの離散、在日コリアンへの民族差別といった厳しい現実が淡々と記されていた。この本は半年間で36万部が発行されるベストセラーになり、NHKラジオでもドラマ化され、韓国でも翻訳出版された。なぜ、この本が売れたのか。安本には、炭労合理化政策を批判することが、在日コリアンへの差別を告発するとかいう意図はなかった。そこに込められたのは、逆境の中でも、きょうだい4人の絆を信じて幸せに生きたいという願いのみであった。教育委員会は逆境に負けず生きる子どもたちの記録として評価し、日教組は別に資本主義への批判の書として評価し、校長も組合の教師もこの本を児童、生徒に勧めた。そして、59年、気鋭の監督、今村昌平が、『にあんちゃん』を映画化する。喜一は長門裕之が演じたが、ほかの3人の子役は一般公募した。良子を演じた松代嘉代は、これを機にプロの女優の道を歩む。映画では、石炭鉱業合理化臨時措置法の下で閉山に追い込まれる炭鉱の子どもたちに焦点が当てられ、炭鉱合理化への痛烈な批判、そして在日コリアンへの差別の怒りが込められていた。そのため文部省の教育映画選定には漏れてしまった。しかし、映画化された『にあんちゃん』は炭鉱合理化政策への社会の関心を高める結果をもたらした。映画化された炭鉱合理化の犠牲となる子どもたちの姿は、原作を超えていた。 【炭鉱のまちを歩く[14]】聖教新聞2017.8.3
October 1, 2017
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歴史学者 藤野 豊 私が炭鉱の歴史を調べるようになったきっかけが、戦後の人身売買の研究であったことは、連載の冒頭に記した。戦前、戦後を通じて人身売買は買売春と表裏一体のものとして存在した。石炭鉱業合理化臨時措置法の下で中小炭鉱の閉山が激化していた1956年、一つの法律が国会で成立した。それは売春防止法である。この法律は、売春そのものを禁止するのではなく、いわゆる管理売春を取り締まることを主たる目的とするもので、58年4月1日から完全施行された。この日から法律上は、日本には管理売春は存在しないことになるが、それがタテマエに過ぎないことは、現状を見れば理解できよう。閉山された炭鉱の女性たちが、人身売買業者の犠牲となり、売春街に売られていくことも止まなかった。55年7月20日、石炭鉱業合理化臨時措置法案を審議していた衆議院商工委員会の公聴会で、全国石炭鉱業労働組合常磐地方本部執行委員長の齋藤茂雄は、すでに常磐炭田では中小炭鉱の休廃山が続出しており、失業家庭の妻や子どもの人身売買が社会問題化している事実を指摘し、政府に対し、炭鉱の失業対策を「机上のプラン」としてではなく、炭鉱失業者に恒久的な定職を斡旋するという考え方を持つべきだと訴えた。また、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員の渡邊家次も、法律の施行は、人身売買や学校に弁当を持っていけない子どもたちを生み出すと厳しく批判した。それだけではない。法案に賛成する大手炭鉱の常磐炭砿株式会社社長の大越新も「ただいま新聞にも出ますように、あの地区から炭鉱従業者の子女あるいは人妻、そういった方々が京浜その他に人身売買されてくるというのが、非常に数多く報道されておるわけであります」「なお一そう常磐は、数は少ないとはいいながら、この失業対策に十分な御考慮を一つお願いしたいと思うのでございます」と、政府に失業対策の充実を求めた。常磐炭田における人身売買の横行は労使双方において重大な問題と認識されていたのである。こうしたことは常磐地方だけのことではなかった。7月1日、福島県議会が政府への「要請書」を可決。「石炭鉱業を始めとする関連産業の8万にのぼる失業者をかかえ、人身売買、自殺者等累増し、これが対策に苦慮しておる」現状を訴え、「失業対策の明確化」「欠食児童、不就学児童対策の明確化」を求めていた。この法の下での中小炭鉱の閉山は女性や子どもに大きな犠牲を払う結果をもたらした。 【炭鉱のまちを歩く[13]】聖教新聞2017.7.27
September 21, 2017
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