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ダッハウ強制収容所の解放から 75 年
今年は戦後 75 年。近年、世界各国で右派ポピュリズム(大衆迎合主義)が勢いを増し、「自国第一主義」の席巻する状況が散見されます。 2 度の世界大戦の間の期間(戦間期)に時代の様相が近づいていると危惧されます。戦間期の教訓から何を学ぶべきか――。 1 月中旬、歴史と向き合うドイツを現地で取材しました。 3 日後に解放 75 周年を迎える「ダッハウ強制収容所」についてルポします。(記事・写真=樹下智記者)
人間狂気を伝える展示
ドイツ南部バイエルン州とミュンヘンから北西に約 20 ㌔。ミュンヘン中央駅から、電車とバスを乗り継いで 1 時間足らずでダッハウ強制収容所に到着する。
平日にもかかわらず大勢の見学者が訪れていた。学校の授業だろうか、多くのドイツ人中高生も見かけた。
入口からしばらく歩くと、強制収容所の正門に差し掛かる。そこでは、抑留者がどのように連れてこられ、国家社会主義ドイツ労働党(ナチスまたはナチ党)の親衛隊( SS )による辱めを受けたかを、ガイドが悲痛な面持ちで説明してくれた。
抑留者をあざ笑うかのような「働けば自由になる」と記された鉄格子の正門を通ると、大きな点呼広場が広がる。向って左手が抑留棟のあった場所。現存する建物は生存者の意志で新たに摸された 2 棟のみである。
右手には、当時から使われていた調理場・シャワー室などの施設と、規律違反の兵や特別囚人用の監獄が、ほぼそのままで残されている。
正門の内側は、電気の流れる鉄条網で囲まれ、逃げようとした抑留者は監視塔から容赦なく射殺された。高圧電流で命を落とした人もいた。
現存する施設には、ドイツが、なぜアドルフ・ヒトラーのナチス独裁政権を誕生させてしまったのか、ダッハウ強制収容所がどのように解説され、運用されていたのかが、パネル展示で詳細に説明されていた。
死に至るまでの強制労働と、言語に絶する拷問。人体実感も行われた。それらを追体験できる展示内容を前にして、見学者は皆、人間の狂気がなせる業に言葉を失っていた。
世界恐慌でナチスが台頭
今回、ミュンヘン大学ンホルスト・メラー、名誉教授(現代史研究所の前所長)が取材に応じてくれた。第 1 次世界大戦の敗戦後、最も民主的といわれた憲法を持つワイマール共和政のドイツが、なぜ独裁者ヒトラーに牛耳られてしまったかを次のように説明する。
「短期的な要因として、 1929 年に起った世界恐慌によってドイツ経済が破壊されたことが挙げられます。 32 年 2 月には失業者が 3 割を超え、反民主主義の政党が躍進しました。ヒトラー率いるナチ党は、 30 年 9 月までは得票率わずか 2.6 %でしたが、 32 年 11 には 33.1 %で第 1 党となったのです」「長期的な要因は、ワイマール共和政が常に不安定だったことです。わずか 14 年間で 21 の政権が次々と変わっていったのですから。社会階級やイデオロギーで分かれた小さな政党が乱立し、政党間の妥協・同意が得にくい状況でした。敗戦による膨大な賠償も長期的な要因の一つです」ダッハウ強制収容所の展示でも、世界恐慌による貿易額の急落と反比例するかのように、ナチ党の支持率が急上昇したデータが示されていた。
1933 年 1 月、ナチ党と保守政党の連立政権であるヒトラー内閣が発足。ヒトラーの排外主義を看過し、利用しようとした保守政党は、やがて実験を奪われ、ヒトラーは独裁体制を確立した。過激な共産主義から国を守るという名目で、左派の政治家が次々と逮捕され、言論の自由など基本的な人権が抑圧されていった。
なぜ人々は反対しなかったのか。東京大学の石田勇治教授は著書『ヒトラーとナチス・ドイツ』(講談社現代新書)の中で、「その一つの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、『非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない』とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。(中略)当局に拘束された者は多いとはいえ、国民全体から見ればごく少数に過ぎなかったのだ」と分析する。
この独裁化の過程の中で、 33 年 3 月、ダッハウ強制収容所は開設された。ダッハウは最も古い強制所のひとつで、ここに策定された規則が、のちに各地の強制収容所のモデルとなっていった。
東証は、政治犯の再教育のための施設とされ、新聞各紙も「新しい矯正施設」と好意的に報道した。対外的に好印象を与えるため、性文に至るまでの最初の入り口には花も飾られた。メディアに提供する写真も全て親衛隊がコントロールした。ナチスの巧妙な情報操作は、「ごく少数」の悲劇から国民の目をそらせたのだ。
隣接するガス室と焼却場
実は、鉄条網に囲まれた抑留棟は、強制収容所の広大な敷地の一部にしかすぎない。他にも親衛隊の宿泊施設や訓練場、レジャー施設まであった。
親衛隊員は、ここで暴力に慣れ、いかに残虐になれるかの〝訓練〟をした。失敗すれば自分が牢につながれる。哲学者ハンナ・アーレントは主著『全体主義の起源』(大久保和郎・大島かおり訳、みすず書房)で、収容所の真の恐ろしさは「人間の尊厳を破壊するために人間の肉体をきわめて冷徹に、まったく計算づくで体系的に破壊する方法を取られたということ」であり、そこが「完全に正常な人間が押しも押させぬ SS (新鋭)隊員に鍛えあげられる練成の場となった」と述べる。収容所内の数々の展示物語る親衛隊の残虐行為に、人間の心はこうやって失われ、ここまで壊れてしまうのかということを、目の当たりにさせられた。
ダッハウ強制収容所は、解放されるまでの 12 年間で、ユダヤ人ら約 20 万人が送り込まれ、 3 万人以上が犠牲になったとされる。
抑留棟群に隣接する場所に、死体焼却場がある。ここは大量虐殺のために使用された証拠はないが、ガス室があった。脱衣所から、「シャワー室」と表記されたガス室へと続き、そのすぐ隣に死体を燃やす焼却炉が 4 基ある。
まるで流れ作業のように、いかに効率よく死滅させるかが考えられた施設に立ち入り、人間はここまで悪に染まるのかと打ちのめされる思いがした。傍らで、こらえきれず涙を流す見学者もいた。
ドイツの中学生は、必ずどこかの強制収容所に訪れるという、警官や軍人も研修を行う。戦後ドイツは、自らの負の歴史と徹底的に向き合ってきた。
だが昨今、首都ベルリンのホロコースト記念碑を「恥の記念碑」だと言ってはばからない政治家が幹部を務める右派ポピュリズム政党が、ドイツで躍進している。また作年、ユダヤ人の礼拝所を銃で襲撃しようとしたが扉の施錠されていたため失敗し、代わりに周囲の人々を殺傷した事件が起り、ドイツ社会を根幹から揺るがした。
ドイツの過去と現在は、戦後 75 年の世界に何を示唆するのか。さらなる取材を続けるため、ナチスの〝聖地〟だったニュルンベルクへ向かった。(〈下〉につづく)
【歴史紀行「ドイツの過去と今 上 」】聖教新聞 2020.4.26
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