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大坂に花開いた女性画家たち
大坂中之島芸術館 学芸員 小川 知子
島成園、木谷千種、生田花朝……
活力と熱意にあふれ、華やかに
多くの国や地域と同様に、日本でも古来、芸術という職業は男性のものであった。手仕事として創作に関わるものは多かったが、女性という性別ゆえに本格的な絵画を治める機会は限られ、後世に名を遺す女性はごく一部だった。芸術家の親族(妻や娘)でもない限り、女性が芸術の道へ進むには困難な時代が長く続いたのである。
そうしたなか、上村松園(一八七五-一九四九)が道を切り拓き、池田蕉園(一八八六-一九一七)なども続いて、明治末頃から助成日本画家の活躍が注目され始める。そして大正元年(一九一二)、大阪から島成園(一八九二-一九七〇)が二十歳の若さで文部省Ⓑ述展覧会(文展)に入選した。先輩格だった京都の村上松園と東京の池田蕉園に、大阪の島成園が加わり、雅号にいずれも「園」の字が就く女性がそろったことで「三都の三園」と並び称されるようになる。毎年開かれる文展に向けて誰が何を描くのか、新聞や雑誌でも盛んに写真入りで紹介され、今日でいう俳優やタレントのように取りざたされた。
島成園の文展人選で沸き立ったのが大阪だった。若くて無名な女性であっても絵筆ひとつで才能を認められる可能性に発奮して、画家として名をあげる若い女性が次々と登場したのである。木谷千種(一八四〇―一九四九)をはじめ、成園と同世代の女性が二十代前半で文展に相次いで入選し、女性だけのグループ展を開催するなど、大正デモクラシーの時代を生きる新しい女性像を示した。彼女からの門下生からも官展に入選する画家が続々と誕生し、大正時代の大阪は、日本じゅうで最も多くの女性画家が活躍する都市として知られるようになったのである。
浮世絵の流れをくむ美人画などの人物店に加えて、江戸時代から盛んだった文人画(南画)を描く女性も大阪には数多くいた。跡見学園の創始者で画家だった跡見花蹊(一八四〇-一九二六)と、帝室技芸員として名声を博した野口小頻(一八四七-一九一七)は、いずれも大阪出身である。河邉青欄(一八六八-一九三一)は近代大阪を代表する女性南画家で、多くのパトロンに恵まれた。郷土大坂の歴史風俗を描き続けてきた生田花朝(一八八九-一九七八)は大正十五年、女性として初めて帝展で特選となる快挙を遂げて、大阪の女性画家の存在感をさらに強めた。
大坂中之島美術館で開催中の「決定版! 女性画家たちの大阪」は近代大阪ゆかりの助成日本画家五十九名による珠玉の作品群を紹介する、かつてない規模と稀有なテーマの天来会である。二十六歳の島成園による自画像《無題》をはじめ、大阪の女性たちは人間としての内面に迫る女性像を描いたことでも知られる。多くの女性画家は結婚を機に制作から遠ざかり、封建的な社会通念や世界大戦を乗り越えて画業を貫いたものは少ない。それでも彼女たちが確かに当時の美術界の一員であったことは、展示された作品群からも一目瞭然である。女性アーチストの先駆けだけだった彼女たちの創作に込められた想いとパワーを是非ご覧いただきたい。
(おがわ・ともこ)
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