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April 19, 2025
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カテゴリ: 抜き書き

百年へて祇園の市民権

嵐山の桜が、散りいそいでいる。洛西から市中に入り、六波羅蜜寺のあたりから建仁寺のほこりっぽい境内を通りぬけたが、市中ではすでに桜は葉ばかりになっていた。祇園を通り、先日火事がいったというお茶屋の焼けあとを見物した。

京のひとは火の用心にきびしい。ことに祇園町の出火はまれで、今度の火事は昭和に入ってはじめてである。

東京ならば日常茶飯事の事件が、京都ではこの話はもちきりだった。こんど焼けたお茶屋のうちの一軒は、店をはじめて百年以上だという。

「百年以上」

ということに、私は感心した。が、これは的はずれだった。そのあと、友人と落ちあうために知りあいのお茶屋へゆき、おかみをつかまえてそれを感心すると、くすっと笑われた。「うちも百年以上どすえ」という。百年以上などは祇園ではざらなのである。

「うちも百年以上どす」

とその座にいた老妓がいった。さらどころか最小限百年は経たないと祇園町の市民権が確立しないのかもしれず、この長寧にあっては百年などはいばれたものではなさそうである。今日ではつづくということがあたりまえであり、正義であり、派手な商いをして続かなくなることが不思議なのである。

おかみは、言う。「四代前か、ちょうどあのサワギどした」。あのサワギとは、幕末の騒乱のことである。

「そらもう、なんぼでもお金が入ってきたそうどすえ」という。おかみが聞きつたえている範囲では、志士は即金勘定だったという。長州とか薩摩とかいう歴とした大藩の場合は、御用のお茶屋がある。藩の外交官である周旋方、公用方と呼ばれている連中はむろん社用族であり、つけであったろうが、小藩の者や浪士はイチゲンサンであり、イチゲンサンでも花の都にのぼった以上、かれらのいう「解語の花」と遊びたい。もともと祇園はイチゲンサンをあげないのだが、そういう点でも、かれらにはひがみがあったのであろう。「あげへんと刀を抜かはるのどす」。だから「こわいいっぽうであげる、あとは、

——何々をよべ。

である。その名指しの芸者が来ないと、かれらは当然ながら逆上する。長州の座敷におるのか、薩摩の座敷におるのか、一橋の座敷におるのか、という次第で、抜刀する、白刃をさかさまに畳に突きさす、「よべ」と叫ぶ。「家の者はみな押し入れにかくれて、すきまからそっと」と、おかみはいう。

とにかく使いが芸者のところへ何度も走り、「命を助けると思うて来とくれやす」と頼み入るのである。あとの金払いはきれいだったという。ところがその白刃志士が翌朝近所で斬り斃されていたという。名もわからず、どこの藩の者かもわからない。お茶屋のほうとしてはそういう詮索よりもとにかくかかわり合いをおそれて、うちのお客やおへんと口をぬぐっていざるをえなかったであろう。祇園では四、五代つづいた家なら、かならず同種類のはなしがつたわっている。

京の人気は長州に集まった

とにかく初版が祇園町でつかった遊興費というのはばく大なものだったらしい。渋沢栄一翁は若いころ、一橋家の京における公用方であった。毎日祇園で他藩との連絡という名目で会合があり、それに出席して酒を飲むことだけが仕事だった。「いくら若くても体がもたなかった」と渋沢翁は語っている。一橋家は、幕府の代弁藩である。その反対勢力である長州藩は幕府側諸藩をひっくるめても及ばぬほど祇園で金をつかった。なぜそれほどの金が長州の金庫にあったかということについては、いずれ山口県の項を書くときに触れねばならないが、いずれにしても長州藩が幕末において祇園でおとした金は大きかったであろう。こういうこともあって、祇園は挙げて反幕勤王化した。

幾松や君尾といった名 妓だけが勤王芸者であったかのように後世のドラマの作り手たちは思いがちである。そのほうが彼女らの侠気を悲壮美に仕立てやすいのだが、どうもありようは、祇園町ぜんたいの気分がそういうものであったらしい。

金があってきれいに使って、男ぶりがよくて(長州人に多い、と明治初期にきた英国人チュンバレンも書いている)、そのうえ国のために命をすてようという男どもを芸者たるものが好かぬというほうが不思議である。さらにこの長州藩の藩としての浪費が、長州藩という像を、実像以上の巨大なものとして世間に印象させた。「長州さまが天下をとるのではないか」という実感を京の者はもったであろう。

その長州藩が文久三年夏の政変で京を追われ、とくに元治元年以降は長州人と見れば新選組が所かまわず斬りたおすという凄惨な反動期をむかえるが、そのときでさえ京都人は長州を捨てず、その潜伏者を命がけでかくまった。桂小五郎ならずともそのようにして救われた実例がおびただしく、幕府がこれに手こずり、「長州人をかくまうべからず」ということについて、三条大橋のたもとの制札場に長文の説論文を掲げたほどであった。

その長州藩が鳥羽伏見の前後、薩摩藩の手引きによって京によびもどされたが、伏見街道からダンブクロ姿の長州兵が京に入ってくるのを市民はあらそって見物し、その隊列が曳いている荷駄に〈一文字三星〉の定紋が入っているのをみて沿道はみな涙を流したという。京都人の侠気というものであり、長州藩の成功の一つはそれを得たことにあったであろう。

【歴史を紀行する】司馬遼太郎著/文春文庫






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Last updated  April 19, 2025 05:00:18 PM コメントを書く


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