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権力を直視すること
権力の乱用を警戒しないというのは怠慢である。本書においては〝思考( idea )〟〝慣例( institution )〟〝権力( power )〟という三つを基準に議論を進めることで、現在のさまざまな状況を理解していきたいと思う。
〝権力〟は他のふたつとは違って単独では存在しえないが、これは〝思考〟や〝慣例〟に備わる力や可能性を表現するものだ。しかし私が敢えて権力を検証するのは、そのふるまいゆえである。
権力はいまそこにあったかと思えば、突然に消滅し(東ヨーロッパ諸国に対しソ連政府がどれほどの権力をふるっていたかを考えてみてほしい。ある瞬間、それは確固たる様相を呈していたのに、ベルリンの壁の崩壊後、すっかり消えてなくなってしまった)、また堕落することもある。そして最後に挙げた堕落という特性こそが、〝罠〟の構築に重要な役割を果たすのだ。
〝権力〟という概念なしに、なぜ物事が改善されたり、悪化したりするのかを理解することはできない。大半の人は権力について語りたがらないものだが、このことを研究する等の政治学者さえも、この課題を不快に感じるらしい。社会学者は権力を研究対象として扱おうとはしないし、経済学者たちも権力などという要素ははなから無視して、そのモデルにとり入れようともしない。
これほどまでに人々に蔑まれているのは、権力が計測不能な、厄介で気まぐれな現象だからなのだろう。もし計測できないのなら、「科学」と称して知的領域内に位置付けることはできない。
計測不能という計測にどうにか対処しようと、社会学者たちは、権力の「影響力」について議論し、執筆することにし、この「影響力」を権力とよんだ。彼らがこうしたのは、影響力ならば計測できるからだ。もちろん影響力にまつわるものだが、権力と同一ではない。
研究者たちが権力のあつかいに不安を覚えるもう一つの理由は、権力という観点に立って物事を見ようとすれば、既存の政府に対して懐疑的、否定的にならざるを得なくなるからである。人間活動における権力という画面に目を向ければ、往々にして、そこに潜む腐敗した実態が見えてしまうのである。
つまり〝権力〟を直視するということは、賞賛に値する行為である。ところが、これから述べるアメリカやヨーロッパで展開する事態の中では、このことがまったく無視されてきたのだった。
これまでの欧米諸国の政治経済活動のなかで続けられてきた〝慣例〟は、すっかり腐敗してしまった。それはもはや民主的な支配が利かないほどの、そしてこれまでなら当たり前とされてきた文明の存続が危ぶまれるほどの腐敗ぶりである。
これまで良好に機能していたはずなのになぜこんなことになったのか、という肝心な点であるわけだが、それは政治機能が高く、権力の腐敗を許すまいと立ち上がれたはずの人々が、無関心や無気力、あるいは単なる怠慢を理由に、それをしなかったからだ。
アメリカやヨーロッパは生活の質の点でも、将来への見通しにおいても、黒人の希望や気体を持つ大きく裏切るようなレベルへと転落してしまった。これらの諸国は第二次世界大戦以来もっとも深刻な危機に見舞われている。
財政緊縮熱という災禍が広まったために、景気は委縮し、失業者の数は大幅に増えた。学校を出ても若者が就職できる見込みは少なくなり、その両親の仕事として安定しているとは言いがたい。アメリカでは中産階級からごくひと握りの大富豪へと、富がいまだかつてないほど大幅に移動した。
これほど状況が悪化したのは。それを解決するための権力を手に入れた人々が、事態に対処しようともせず。失政を重ねたからに他ならない。要するに、本来、権力を握るべきでない人々の手に、確固たる権力が渡ってしまったということだ。
日本は大西洋の両岸に起きたような事態にまだ見舞われていない。しかしそのエリートが、苦境に陥った欧米諸国の余波を警戒しようともせず、いまだに失われた過去の世界に生きていることを考えれば、やはり危険な状態にあると言える。
一〇年ほど前、日本がかかわり続けた国アメリカはもはや存在しない。言い換えるならば、それほどまでにアメリカという国家は急激な変貌を遂げ、かつてのアメリカではなくなってしまった、ということだ。
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