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紀子は小中高生の学習教材の販売や学習塾を開いている会社に、長い間勤務している。 小学生のための学習塾の講師の仕事が主で、子どもたちに勉強を教える楽しさを江利によく話した。そういう時の紀子は生き生きとして、聞いている江利まで明るい気持ちになったものだ。 その紀子が、仕事の話になったとたん意気消沈しているように見える。 江利は言葉を失い、そのまま黙って座っていた。 紀子はしばらくして、大きなため息を一つつくと、言葉を選びながら最近のことを話し始めた。「長い間一緒に働いていた人が、仕事を辞めたの。二人同時にね・・・・。一人はだんなさんが実家を継ぐために引っ越さなくてはならなくなったため。もう一人は親の介護のため。しょうがないよね、私たちはそういう年になってしまったんだから。」 紀子はそこまで言うと、立ち上がり紅茶を煎れ、空色のカップを江利の前に置いた。「淋しい気持ちはあったけれど、それはそれで避けられないことなんだから、それぞれの道でがんばろうって言い合ったんだけれど・・・・・、彼女たちがいない職場は何だか調子が違うのよね。今までなら、スムーズにできていたことができなかったり、話がこんがらがったり・・・・、会話がかみ合わなかったり、常識を疑いたくなる行動がやけに目についたり・・・・。何だかそんなことばっかり続いて、急に仕事の意欲がなくなっちゃたのよね。」 肩を落としてぼそぼそ話す紀子に、江利は驚く。「こんなこと考えるなんてね・・・・・・。」
2009.08.07
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「紀子さん、何かあったんですか?」 江利は紀子の家では、いつも台所で話す。 この日もいつもの椅子に座って、紀子が出してくれたお茶を飲みながら聞いた。 紀子はきょとんとした顔をし、「何が?」 と言った。「あ、いえ・・・・、ちょっと紀子さんの服装がいつもと違うので・・・・・。」「ああ、このエプロン姿のこと? 失礼しちゃうわね、私だってエプロンして台所の掃除くらいするわよ。」 紀子は笑顔になり、「でも、台所ってなかなかきれいにならないね・・・。まあ、普段さぼっているから、当たり前なんだけれどね。家事優等生の江利さんには考えられないことだね。」と言った。「そんなことはないです。私の家は物がないので、散らかりようがないんです。」「まあ、家事も才能だからね・・・・。私はダメだわ~~。」「紀子さんは家事より自分の仕事をバリバリする人だと思っているので、今日のエプロン姿が意外でした。失礼しました。」 江利はいつものように、自分が思ったことをそのまま言ったのだ。しかし、江利のその言葉を聞いたとたん、紀子の様子が変わった。体の力が一気に抜けてしまったように、江利には思えた。 紀子はしばらく黙っていたが、お茶を一口飲むと、「そうなのよね・・・・。そうだったんだけれどね~~~。」 紀子はそう言うと、また黙った。 江利はその様子に戸惑い、黙ったまま紀子を見る。
2009.08.06
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紀子の家の勝手口は、開けっ放しになっていた。 良の伝言を紀子に電話で伝えることもできたのだが、江利は久しぶりに紀子に会いたくなりやってきたのだった。紀子は平日は仕事をしているので、土曜日を選んだ。 江利は家の中をそっとのぞき、こんにちは、と声をかけた。すると、台所の奥でうずくまっている人影がゆっくり立ち上がった。「まあ、江利さんじゃない・・・・。いらっしゃい。」 江利に向けられた笑顔はいつもの紀子だが、服装が違う。エプロン姿の紀子を、江利は初めて見た。それにどうやら紀子は台所の掃除をしていたようだ。掃除をしている紀子を見るのも初めてのことだった。紀子は自他共に認める家事嫌いなのだ。 三年前の六月、江利は良と一緒にこの高階家に仕事にやってきた。 最初、江利は紀子のことをとっつきにくい人かな、と思ったのだが、すぐにそうではないと思い、親しく話すようになった。 紀子は仕事をしている良を見て、凛々しい姿だねえ・・・・、としみじみとつぶやいた。 その言葉は江利の心の一番奥にそっと入り、それからずっと大切にしまわれているのだった。
2009.08.04
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江利より三才年上の良も早起きだ。毎日五時半には起きる。 結婚してから今日まで、江利は一度も良を起こしたことがない。良は目覚まし時計なしで、自分で決めた時間に起きることができる特技がある。 江利は感心し、何故そんなことができるのかと聞くと、良はへへへ、と照れ笑いをし、まあ、誰にも一つはとりえがあるさ、と言った。その時の良の笑顔を、江利はとても可愛らしく思い、何度でも見たいと思ったのだった。 良は笑顔は可愛いが、普段は口数が少なく、おはようとかただいまとかの挨拶以外はほとんど、おお、という返事だけですます。見かけが一昔前のお侍のような風貌なので、初対面の人には怖がられることが多い。 良は朝ごはんをしっかり食べると、行ってきます、と言い玄関にむかった。そして、靴をはきながら、「紀子さんに、近いうちに伺いたいと電話をしておいて。」と言った。 江利は、うん、分かった、と答え、久しぶりにまた紀子に会えることを嬉しく思った。 紀子の家に行くときは、またお弁当を持って行こう。 良に庭の剪定を三年前から定期的に頼んでいる紀子は、江利の手作り弁当を大喜びして食べる江利の年の離れた友人でもあった。 さあ、今日もがんばるぞ、と江利が思ったとたん、奥の部屋から大きな声がした。「おかあさ~ん、良平がおねしょしているよ~。早く来て。」 長男の良太の声だった。江利が急いで子どもたちのところへ行くと、まもなく二才になる次男の良平が、にこにこ笑っていた。
2009.08.03
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江利はいつも午前五時には目覚める。 夢もみず熟睡するので、目覚めの気分はとても良い。子どもの頃からずっとそうだ。高校生の時、級友に一度も夢をみたことがないと言ったら、驚かれてしまったことがある。 庭師をしている平中良と結婚して、良の横で眠るようになってから、ますます眠りが深くなったような気がする、と江利は思う。 起きたらすぐに朝食の用意にかかる。そして、同時に今日一日の食事の献立を考え、できる下ごしらえを手早くする。 毎朝のこの時間が、江利にとって幸せなひと時の一つだ。 近所からもらったもぎたてのトマト、茄子、かぼちゃなどがある。江利の頭の中に、様々な献立が浮かぶ。 江利は子どもの頃から、料理が得意だった。 幼くして両親を亡くした江利は、叔父夫婦に育てられた。叔父夫婦は自営業だったので毎日忙しくしていた。江利はそんな叔父夫婦のために家事をがんばり、そのことで叔父夫婦に喜ばれることが何よりも嬉しかった。 テレビなどで料理研究家という人たちを見ると、その仕事に憧れた。 高校を卒業して食品関係の会社に就職したが、良と結婚して良の仕事を手伝うために、退職した。 江利はそのことを良に告げた時のことをよく思い出す。 良は江利をまっすぐ見つめ、自分の夢を諦めることはない、江利が料理の勉強を本格的にしたかったら、したらよい。お金は俺が何とかする、と言った。 あの頃、二人とも本当に貧しかった。良は庭師として働き始めた時だった。 江利はその時思ったのだ。自分が料理の勉強をしたいと言えば、良はどんなことをしてでも応援してくれるだろうと。 あの日からもう十年たったのだ。 よくがんばったよね、と江利は自分を誉め、そして一人でくすくすと笑う。 その時、おはよう、と声がして、良が起きてくる。 五時半だ、と江利は思う。 良は毎日五時半に目覚めるのだった。
2009.08.02
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少し厚めのその紙の隅をそっとめくり、切り目にそってはがしていく。 カレンダーをめくる朝がきた。 江利はこの時間が、とても好きだった。 紙を破らないように注意するのにはわけがある。小学校三年生になる長男の良太が、このカレンダーをとても気に入っているのだった。表に描かれている白くまやアシカのイラストも可愛いが、裏には切り取ると封筒になるように工夫もされている。 ゆっくりはがしていくと、新しい月が現れた。 八月の始まり。 江利は八月のカレンダーをじっと見る。 ライオンの親子やフラミンゴが笑っている。良太がまた喜びそうだと思い、嬉しくなる。 八月の最初の日の空は、青く澄み渡っていた。
2009.08.01
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こんばんは。 蒸し暑い夕暮れです。 久しぶりにPCに向かい、ちょっと緊張しています。 しばらく休んでいましたが、その間訪問してくださった方々、コメントをくださった方々、本当にありがとうございます。 また書き始めようと思います。 今回は二十回くらいにしたいと思っています。 お時間があったらまた読んでください。 八月一日からスタートします。 それでは、また。
2009.07.28
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しばらく休みます、と言いながら、今朝庭の紫陽花の花が咲いているのを見たら、また書きたくなってしまいました。 昨日はまだつぼみだったのに、突然咲いていました。白と水色の優しい色の紫陽花です。 これからどんどん咲いていくでしょう。楽しみです。 庭木も日に日に繁ってきて、そろそろ剪定をしなければなりません。 こんな時、私が初めて書いた「贈り物」の登場人物、平中良と江利という庭師の夫婦を思います。 この作品はその後リメイクしたのですが、私の物語を読んでくれている友人が、あの庭師さんにはモデルがいるの? もしいるのなら教えて、私の家にきてほしいから、と言ってくれました。 その時は本当に嬉しかったです。物語を読んで、ああ、こんな人がいたらいいな、とか、いるよね、こんな人、とか思ってもらえることが、私の夢なのです。 無口で涙もろい平中良と料理上手で働き者の江利、今頃どうしているでしょう。きっと二人仲良くしっかり働いていることでしょう。 それではそろそろ夕食の用意をします。 読んでくださった方々、コメントをくださった方々、本当にありがとうございます。 それでは、また。
2009.06.08
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六月最初の土曜日の朝、皆様いかがお過ごしですか。 あっという間に時間が過ぎてしまいました。「蜃気楼」の次の物語を書こうと思いながら、なかなか決まらずにおりました。 そして、今思うことはしばらく休もうかな、ということです。 物語を書き始めて三年が過ぎていきました。この間、書いた物語はどれも私にとって大切なものです。 今はしばらく休んで、またいつの日にか書き始めます。それがいつになるのか、今はよく分からないのですが、また皆様に楽しんでもらえる物語を書きたいと思います。 ブログはこのままにしておきます。 皆様のところにも遊びにいかせてもらいます。
2009.06.06
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シートベルト着用のアナウンスが流れ、飛行機はゆっくりと動き始める。 僕はシートに身を委ねた。 夜空に向かって、新天地に向かって、離陸が始まる。 この瞬間が僕はとても好きだ。 理生の住む街が、どんどん小さくなる。 理生はまだ研究室にいるのだろうか。 僕は思う。 理生はすぐにでも、僕の所に来るのではないか、と。 尚人、この指輪、私の指にぴったりだよ、と言って。 まばゆい理生の笑顔。 待っていたよ、と僕は言う。 理生、ここで一緒に暮らそう。いつまでも一緒に暮らそう。 その時、突然、 ある言葉が僕の胸に浮かぶ。 蜃気楼・・・・。 蜃気楼? 今、僕が考えたことこそが、蜃気楼・・・・? いや、いい・・・・。 今はもう考えることをやめよう。 僕は自分でできることは全部やったのだから。 確かなことがある。 僕はこれからも、自分の研究の道を一歩ずつ歩く。 そして、理生を誰よりも大切に思っている。 その気持ちは変わることはないだろう。 もうそれで、充分だった。 しばらく、眠ろう。 僕は目をつむった。 理生、おやすみ。 僕は、そっと呟いた。 蜃気楼 「完」 読んでくださって、本当にありがとうございました。
2009.05.11
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「理生がいつか言ってただろ、嬉しいことがあってはしゃいでいると、その後に必ず嫌なことがあるって。その時、俺、言ったよな、生きていればいろいろなことがある。だから自分の気持ちに素直に生きればいいと・・・・・。まあ、当たり前といえば当たり前のことだよな。」 僕はそこまで言うと、大きく息をして、理生の隣の椅子に座った。「俺がこの研究室に戻って来た時、理生が言った言葉、覚えているか? 軟弱者が戻ってきたって言ったよな。そんなんだ、俺は軟弱者だ・・・・。でもな、軟弱者でも考えることはできる。俺はこの数日、本当にじっくり考えたんだ。」 僕が一気にこう言うと、理生は顔を上げ、僕を見た。 深い色をした理生のいつもの目が、僕を見つめる。「理生、この世の出来事は変わっていく。でも、もしかしたら変わらないものもあるかもしれない。」 理生は指輪を小箱からそっと出し、手のひらにのせた。「理生は俺といて楽しかったか?俺は楽しかった。だから・・・・、だから、これからもずっと理生といたい。」 理生は黙ったまま、僕を見つめ続ける。「だから、この指輪は、俺からのプロポーズ、ということだ。もちろん、今すぐ返事してくれなんて思ってはいない。ゆっくり考えてほしい。」 僕はまた大きく息をする。「俺はずっと待っている。理生がこの研究室で俺を待っていてくれたように、今度は俺が理生を待つから。」 理生は、手の平の上に置いていた指輪を、小箱の中にしまい、その小箱を両手でそっと包み込むようにした。 僕はアメリカでの住所を書いた紙を渡し、「来たくなったらいつでも連絡して。待っている。」と言った。そして、言い残したことはないか考えたが、言おうと思ったことは全て言い終えた、と思い、ほっとため息をついた。「じゃあ、行くよ。理生、元気で。」 そう言い立ち去ろうとする僕に、尚人、と理生が言った。「雪乃さんがもしここにいたら、私のこと好きになってくれると思う?」 突然の質問に僕は一瞬考えたが、「ああ、彼女はお前さんのつっけんどんに聞こえる喋り方に初めはびっくりするかもしれないけれど、でも、すぐにお前さんのこと好きになると思うよ。」と言った。 すると理生は、うん、と小さくうなづき、明日は見送りには行かない、気をつけてね、と小声で言い、少し笑った。その笑顔は、白い小さな花がそっと咲いたように僕には見えた。 僕は、ああ、と言うと、研究室を出た。 夜空は多くの星で輝いていた。 さあ、出発だ、と僕は自分に言い聞かせた。
2009.05.10
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「尚人、どうしたの?」 僕にやっと気づいた理生は、心底驚いた、という表情をして僕を見た。「こんな所にいて大丈夫なの? 明日、出発なんでしょ?」 僕は黙ったまま理生のところに歩いていき、ポケットから取り出したものを理生に差し出した。 理生は不思議そうな顔をしたが、僕が差し出した小さな包みを受け取った。「開けてみて。」 僕がそう言うと、理生は少しの間黙っていたが、ゆっくり紙包み開け始めた。 静かな研究室に紙包みを開ける音が響く。 小箱のふたが開き、僕が苦労して選んだ指輪が、薄暗い研究室の中で小さな光を放った。 その指輪を、理生は黙ったまま見ていた。
2009.05.10
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アメリカへ出発する前日、僕は会長の墓参りに出かけた。 海が一望できる小高い丘に、会長の墓はある。 会長、お久しぶりです。すっかりご無沙汰しています。いかがお過ごしですか。 僕は墓の前で、会長に話しかける。 今は亡き人に向かって、いかがお過ごしですか、というのも全くおかしいのだが、僕にはこの言葉しか思いつかないのだった。 僕は会長の何に魅かれて、院へ進むことをやめ会長の下で働く決意をしたのか、本当のところ自分でもよく分からないのだ。だから、前世で縁があったのかもしれないなどと、つい思ってしまう。 しかし、先日、理生が話してくれた詩の一つのフレーズが、その答を僕に示してくれた。 君はいつも一人だ。 涙を見せない君の瞳には苦い光のようなものがあって、ぼくは好きだ。 そうなんだ・・・・、会長、あなたこそ、この詩にふさわしい人だ。 あなたはいつも冷静で、どんな人にでも誠実に接しておられましたが、あなたはいつも一人でしたね。そして、何事も人のせいにせず、きちんと立ち向かっておられましたね。 僕はあなたのそういうところに魅かれたです。 会長、僕はまた新しい道を歩くことになりました。 がんばってきます。 でも、その前にしなければならないことがあります。 きちんと自分の気持ちを伝えてきます。 見ていてください。 いつも僕の仕事ぶりを見守ってくださったように、僕を見ていてください。 墓参りを終え、研究室のドアを開けた時、時計の針は夜の九時を回っていた。 研究室にはパソコンに一人向かう、理生の姿があった。 その生真面目な横顔を僕はしばらく見ていた。 理生が僕に気づいてくれるまで、僕は理生を見ていようと思った。
2009.05.09
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アメリカへ出発する日まで、あと一週間しかなかった。 慌しさの中で、僕は理生のことを考えた。何度も何度も・・・・。 大学に入学して初めて会った頃の理生は、固い表情をしていた。生真面目で、不器用な感じだったな。 大学の仲間で飲み会があるとき、なかなかみんなの中に入ってこれない人がいると、理生はさりげなくその人の横にいって静かに話をしていた。 僕が研究にゆきづまっている時、自分の仕事をするように振る舞いながら、さりげなく僕の研究を手伝ってくれた。 理生と過ごした日々が、次々と浮かんでくる。 それは、少しも不思議なことではない。 理生は誰よりも僕の傍にいてくれたのだから・・・・・。 僕は荷造りの手を止め、窓を開けた。 五月の風が部屋に流れ込み、夜空には星が輝いていた。 理生、僕は君に言わなければならないことがある。 旅立ちの時までに、君に言っておかなければならないことがある。 理生、僕の声が聞こえるか・・・・。
2009.05.07
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あの夜の理生の涙の意味を、僕は聞かなければならないと思ったのだが、それはかなわないまま、時間はあっという間に過ぎていった。 あの夜、一筋の涙を流した理生は、すぐにいつもの理生に戻り、よく飲みよく食べ、とっても美味しかった、ごちそう様、と快活に言うと、足早に去って行ったのだった。 理生とゆっくり話したいと思うのに、そうできなかったのは、研究室の作業が非常に忙しくなったのだった。理生は教授の出張に同行することが多くなり、顔を見ない日が何日も続いた。 そして、いつの間にか五月になり、つつじの花が街を彩るようになった。 そんなある日のこと、いつものように研究室にいた僕は、突然教授に呼び出された。 白髪の温厚な表情をした教授は、僕にアメリカの大学に留学をしないか、と話し始めた。 君の研究が充分にできる大学で、むこうの大学も君を歓迎している、よいチャンスだと思うと、教授は笑顔で静かに話した。 あまりに突然の話だった。僕は一瞬、今は亡くなった会長が僕のために話をつけていてくれたのか、と思ったが、それは僕の考え過ぎのようだった。 その大学は僕の憧れの研究機関であった。僕は迷うことなくその話を受けることにした。そして、理生にすぐ話さなければならない、と思い、理生の姿を探した。「アメリカ留学のことでしょ? 教授から聞いたよ。よかったね。」 理生は僕の顔を見るなり、すぐにそう言った。 理生、と言いかける僕に、「教授の出張の準備があるの。ゆっくり話せなくてごめんね。すぐに出発するんでしょ。体に気をつけてね。」 理生はそう言った。僕の目をまっすぐ見て、笑顔で。 そして、黙って研究室から出て行った。
2009.05.06
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理生が言った言葉に、僕は思わずおっと体を引いた。 もしかして、それは褒め言葉か? 理生に褒められたことなど一度もないので、思わず緊張する。「尚人は人に上手に合わせているように見えるけれど、でも最後は自分で決めるよね。」「そうだなあ・・・・。それはあるかもしれない。でもなあ・・・、どうなんだろう。あらためて考えてみると、自分のことはよく分からないなあ・・・。」 会長の人柄に惹かれて10年間も会社員をした自分は、本当は依存心が人より強いのかもしれない。「理生こそ誰にも頼らず、いつもちゃんとやっているじゃないか。」「それは、わたしが我儘だからだよ。」 理生はそう言うと、照れたような表情をし、それからグラス一気に空けた。「理生は理生らしく、これからもやっていけばいいさ。」 僕がそう言うと、理生はうんと、言い、「尚人も尚人らしくこれからも生きていくんだよね。そして、またどこかに行っちゃうんだ・・・・・。」 ど、どういうことだ、理生、何を言ってるんだ?「そんなことあるわけないだろ。今の研究室に入れてもらえたのだって例外中の例外だったんだぞ。このままがんばるに決まっているだろ。」「ううん、私には分かる。十年前みたいに尚人はまたどっかにいっちゃう。」 僕を見ずに理生はそう言った。 驚いてその横顔を見つめる僕の目に、理生の涙が映った。
2009.05.05
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「理生、それでその男性と蜃気楼がどうつながるんだ? 俺はそこのところはさっぱりわからんぞ。」 理生がいつまでも黙っているので、僕はとうとう自分から聞いた。「その男性があっという間に理生の前から消えたからか?理生の思い出の中で、その男性が蜃気楼のように現れるということか?」 僕は自分の声が、少し苛立っていることを感じたが、そのことを弁解する気持ちはなかった。「尚人、どうしたの? 酔っ払らっちゃった?」 全然酔ってねえぞ。もう少し分かりやすく話せよな、いつものお前のように。「深い意味はないの。ただね、時々自分の気持ちが沈んだり、自分のしていることに意味が見出せなくなった時に、その男の人の後姿を思い浮かべるの。そして、ああ、あの人は、何があっても、どんな結果になっても、決して人のせいにはしないだろう、どんな時でも自分の清算表をもって生きていくんだろうなあって、そんなことを思うの。」「ふうん・・・・、それで、そう思って理生はまた元気になるのか?」「まあね、またやっていこうと思うかな・・・・。」 理生はこういう風にして、今まで生きてきたのか、と僕はまるで初めてのことのように思う。「まあ、しかし、その詩の、君はいつも一人だというフレーズはかっこいいな。誰にも依存せず、誰にも甘えることなく、きりっと生きている感じだな。」 僕がそう言うと、理生は僕の顔をまじまじと見て、「尚人はまさにそんな感じだよ。」といつもの口調で言った。
2009.05.03
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僕はビル・エバンスの奏でる調べに耳を傾けながら、理生をそっと見た。 すると、理生は僕の視線に気づき、照れたような顔をした。「その人は何だか外国から来た人のように見えた。顔は日本人なのに、大学にいる男の人とは雰囲気が違うような気がした・・・・。」 それからまた話すことをやめた理生に、僕は話を続けるように言った。 早く話せよな~、という気持ちだった。「お金を返したいので、申し訳ないけれど明日またここに来てほしいって、その人が言ったのね。自分は朝からここにいるから、君の都合のいい時に来てもらったらいいって、その人言うんだよ。私、思わず笑っちゃったよ。」 変人か?と僕は言いそうになった。「私、いいです、私が勝手にやったことなのだから、気にしないでくださいって、言って、何だか慌ててそこを立ち去ったの。」「それでどうしたんだ。行ったのか?」「うん、あんまり真面目な顔だったから、行ったのよね。」「いたか?」「私、結構早く行ったのに、その人はそこにいた。」 理生は、その男性からお金を返してもらうと、これからどこかに行くんですか、と聞いた。すると、外国に行こうと思っている、と言い、足早に去って行った。「たったそれだけのことなの。」「それがお前は忘れられないんだろ。」「うん・・・・、その人の後姿を私、じっと見ていた。その後姿に誰も寄せ付けないものを感じたの。どう言えばいいか・・・、上手く言えないんだけれど・・・・。そしてね、その時本で読んだ詩を、突然思い出した。」「詩?」「うん、詩の題は忘れたんだけれど、こんな風に始まる詩なの。君はいつも一人だ。涙を見せたことのない君の瞳には苦い光のようなものがあって僕は好きだ。」 そこまで言うと、理生は頬杖をつき、また黙った。 僕も黙ることにした。 ビル・エバンスのピアノが、流れ続けていた。 *文中の詩は、田村隆一さんの詩、「細い線」の中から引用させて もらいました。
2009.05.02
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理生は僕が飲んでいるソルティー・ドッグを注文すると、話し始めた。「もう、ほんとに昔のことなんだけれどね・・・・。大学に入って初めての夏休みが始まった暑い日だった。冷たいものが飲みたくなって大学の中にある自動販売機がある所にいったら、そこに日に焼けた背の高い男の人が立っていたの。じっと自動販売機を見つめていて、途方にくれたような顔が子どもみたいで、ちょっと笑いそうになった。」 理生はそこまで話すと、ほんとにくすっと笑った。それから目の前に置かれたソルティー・ドッグを一口飲むと、美味しい、と呟いた。「その男の人はお金を持っていないんだな、でも、今とっても喉が渇いていて、どうしても何か飲みたいんだなって、私は思って、その男の人に、よかったら使ってください、ってお金を差し出したの。」 「その人は驚いた顔をしたけれど、ありがとう、と言ってお金を受け取ると、すぐに缶コーヒーを取り出して飲み始めた。ごくごくって、喉の音が私に聞こえるほど一気に飲むと、あ~美味しい、ありがとうって言って、にっこり笑った。」 理生はそれからまた黙った。 理生の心は、すっかりその夏の日に戻っているようだった。 僕はビル・エバンスをリクエストして、理生が話し始めるのを待った。
2009.04.29
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しかし、僕の心配は無用だった。 理生は少しも酔っていなかった。「この間テレビで蜃気楼のことやっていて、それを見ていたら思い出したことがあったの。」「ふうん・・・・、その十四年前のことを思い出したのか?」「うん。」 理生はこっくりとうなづく。その仕草はちょっと子どもみたいで可愛い。 理生はそれからウイスキーの水割りを注文して、黙ったまま飲み続けた。 思い出の中に一人いるようだった。 僕はソルティードッグを注文して、流れる音楽に耳を傾けた。 今夜はとことん理生につきあおうと、思った。
2009.04.25
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蜃気楼・・・・・? 理生が突然、突拍子もないことを言い出すのにはもう慣れているはずなのに、いきなり、蜃気楼という言葉に僕は食べることをやめ、理生の顔を見た。「ど、どうしたんだよ、急に蜃気楼なんて言い出して・・・・。」「うん、まあ、深い意味はないんだけれど・・・。」「蜃気楼って映画なんかで出てくるものだろう?砂漠の真ん中に、突然湖があらわれて、へとへとになっている旅人が、信じられない顔をして喜ぶんだよな。」「尚人、蜃気楼、見たことある?」「ない。」「ふう~ん、やっぱりね。」 理生はそれっきり何も言わない。 な、何なんだ・・・・。ちゃんと説明しろよ。 僕がそう言おうとすると、理生は僕の顔を真正面からじっと見た。 僕は言葉を飲み込む。「昔ね・・・・、昔っていっても私が大学生になった年のことだから、今から14年前のことなんだけれど・・・・。」 理生はそこまで言ってまた黙る。 何なんだ、ほんとに・・・。理生、酔っぱらったのか? しっかりしてくれ。 僕の思いなどおかまいないで、理生は僕を見続ける。
2009.04.12
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よく考えてみれば僕から理生を飲みに誘ったのは初めてのことだった。あの夜、理生は僕の誘いを喜んだが、結局その夜は飲みにいくことはできなかった。 そして、その翌日から研究室での作業が猛烈に忙しくなり、僕は理生とゆっくり話もできない日が続いた。 あっという間に四月も十日になっていた。 僕はやっと理生を僕のお気に入りの店に案内することができた。 その店は海沿いの目立たない場所にあったが、出される料理はどれも新鮮で、盛り付けも工夫があり、美しい。「花音」というこの店を僕に教えてくれたのは、母親だ。 いつもの友人と食事に出かけた母は、とても素敵なお店を見つけた、と言って僕にこの店のことを教えてくれたのだった。 調理人さんたちがそりゃあきりりとしていてね、感動したわ・・・・。どこかの誰かさんのようにぼんやりした顔はしてないわよ。ほんとに、あなたもいつになったらしゃきっとしてくれるのやら・・・・・。 母はいつも余計なことを付け加えるのだが、それでもこの店を教えてくれたことは感謝している。 僕達がその店を訪れたのは金曜日の夜だったので、店内は満席だったが、落ち着いた雰囲気は変わることはなかった。 理生は僕が注文する料理を黙々と食べ、飲んだ。特に梅酒が気に入ったようで、飲む度に、う~ん、満足、と呟いた。 そして、二人で満腹になるまで食べた頃、理生が僕に言った。「尚人は蜃気楼を見たことある?」
2009.04.10
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研究室の窓から、月の光の中に桜の花が浮かんで見えた。 僕は理生のリクエストに応じて、慎重にコーヒーを煎れた。 そのコーヒーを、理生は香を味わいながらゆっくり飲み始めた。「アイツがいなくなって正直、ほっとしたんだけれど、でも、何なのだろう・・・、アイツがいた時は、今日みたいな揉め事はなかったよね。」 ぼんやりした表情で、理生はそう言った。 理生の言いたいことは、僕にもよく分かる。「そうだな・・・・、そう思えば、Mにもいいところがあったということか?」「いいところ、というより、アイツはアイツなりにこの研究室を仕切っていたのかもしれないね・・・・・。」 そうかもしれない、と僕は思った。「まあ、あんまり心配することはないよ。ここは、研究をする場所なんだしね。」 理生はマグカップを両手で包み込むようにして、そう言った。 その時僕は、理生は近いうちにこの研究室を辞めるのではないかと思った。だが、その思いは言葉にならないまま、僕の心にしまい込まれた。「理生、飲みに行くか?」 僕がそう言うと、理生の顔がぱっと輝いた。「珍しいね・・・・。尚人がそんなこと言うなんて・・・・。ははあ、さては、また雪乃さんを思い出したんだ・・・・。ちょっと淋しくなった?」 何を言ってるんだか・・・・。 僕は何か言わなくてはと思いながら、でも何も言わなかった。 窓の外の桜の花が、風に吹かれ夜空に舞っていた。
2009.04.04
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4月になったというのに、明け方や夜はストーブが必要なこともあった。花冷えという言葉があるが、なかなかしゃれた表現だ。 僕は今のこの季節が苦手だ。 命の息吹をあちらこちらで感じるこの時期が、何故苦手なのか自分でもよく分からないのだが、苦手な気持ちはどうしようもない。 新しい准教授が着任してから、研究室の雰囲気がこれまでとは変化してきた。 研究室のメンバーが、よく言えば自由、闊達に振舞うようになっていた。しかし、それは見方を変えれば、自分勝手、自分中心の言動が増えてきたともいえるのだった。 つい昨日も、院生の数人がささいなことで言い合いを始めた。 その口調は、すぐにヒート、アップしていき、最後は完全なののしり合いだった。 うんざりした空気が流れる研究室の中で、理生一人がいつもと変わらず行動していた。そのマイ・ペースぶりには見慣れているとはいえ、あらためて感心する。 その夜、二人だけになった研究室で、僕はそのことを理生に話した。感心した気持ちを僕にしてはとても素直に伝えたつもりだったのに、理生の表情は変わらず、返ってきた言葉は尚人、コーヒーが飲みたい、という一言だった。
2009.04.02
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理生は、そのウエイトレスがもしかしたら辞めさせられているのではないか、と心配していたので、彼女の姿を見たときは本当にほっとした、と言った。 それから、理生はその彼女と時々会って一緒にお茶を飲む時間をつくったのだった。「目のきれいな人でね・・・・。私をまっすぐ見て話すのよ。好きな人がいて、その人と結婚するためにお金を貯めているって、嬉しそうに話してくれた。だから、彼女が結婚をすることになった時、お祝いにバッグをあげたの。ピンク色の可愛いものを選んでプレゼントしたら、彼女はとっても喜んでくれてね・・・・。物があんなに人を幸せにすることがあるんだって私、初めて思った。」 衣服とかアクセサリーなどにほとんど興味を示さない理生にとって、それは新鮮な驚きだったに違いない。 僕はその話を聞きながら、会長のことを思い出していた。 仕事上の付き合いで、会長名で僕は企業や個人によく贈り物をしていた。会長は僕がどんな物を贈るかということには、何も口出しをしなかった。 しかし、沢崎君、贈り物を頼みます、と言うことがたまにあった。それは個人宛であったり企業にだったりしたが、会長はそう言う時は必ず、会長室から窓の外に目を向けていた。 会長がそういう時は、贈り先の個人や企業ともう付き合いをしない、という決意をしたということだった。「尚人、どうしたの? ぼんやりして。」 理生の声で、僕は現実に戻る。 いや、何でもない、と言い、僕はまたおむすびを食べ始める。 帰り道、僕は、理生に言った。 生きていればいいことも悪いことも悲しいことも惨めなこともある。だから、嬉しい時には笑えばいい、はしゃげばいい、浮かれればいい、無理して自分の気持ちを抑えることはない。 理生はしばらく黙っていたが、僕を見ると、うん、と小さな声で言い、笑った。 僕達はゆっくり歩いた。 近くで鶯の鳴き声がした。
2009.03.31
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3月最後の日曜日、僕と理生はまたK公園の海が見渡せる丘にいた。 初めて理生とK公園に行った日の翌日から、僕達の研究室はまた慌しくなった。 Kの後任の准教授が着任し、新たな体制がスタートしたからだった。後任の准教授はKのような出世志向はあまりないようであったが、非常に几帳面な性格だった。 理生は新しい状況の中で、研究が始められるようにてきぱきと段取りをした。 それは、いままでも理生と何の変わりもない姿だった。髪を切ったことを除いて。 Kが理生ときまずい関係になっても、彼女を研究室においていたわけが僕にはよく分かる。理生ほど段取り良く行動する人間は、他にはいないのだ。 僕は十年間の秘書生活で有能な人間を数多く見てきたが、それでも理生ほど無駄なく仕事を進める人間はいなかった。 そんな慌しい日々を送りながら、昨日の夕方、理生が、明日、またK公園に行かないかと言ったのだった。 K公園はいつにも増して家族連れで賑わっていたが、僕達がいる丘の周辺は閑散としていた。それは僕達にとって好都合なことだった。 理生は僕が着いた時にはもう来ていて、一人椅子に座り海を見ていた。 そして、僕を見ると、今日はおむすびを作ってきた、と言った。 理生手作りのおむすびは、少々形がいびつではあったが、塩味の加減はなかなかよかった。「子どもの頃からね、嬉しいことがあってついはしゃいだりするとその後、必ずといっていいほど悲しいことや惨めなことがあるのね・・・・。何故だか分からないけれど、そうなってしまうの。それで、いつの頃からか嬉しいことがあっても、それを顔に出さないようになってしまった・・・・。」 理生はおむすびを頬張りながら突然話し始めた。 初めて聞く話だった。「でも、アイツと初めて会った時はそのことをすっかり忘れて、今から思うと本当に恥ずかしいくらい浮かれてしまっていた。だから、やっぱりあんな嫌なことがあったのよね。」 僕は黙って聞いていた。「でもね、いいこともあったよ。ほら、走ってきた子どもをよけようとして私たちのテーブルにワインをこぼしてしまったウエイトレスのこと、話したでしょ。あの人と友達になったの。」 僕は思わずおむすびを食べることをやめ、理生の横顔を見た。 理生に女友達がいるという話は初めてだった。 「彼女は何も悪いことはないのに、あのことでもしも辛い目にあっていたら申し訳ないと思ってね、心配だったの。アイツがあんなに怒ってしまっていたし・・・。それでしばらくして、私、もう一度あのホテルに行ったの。」 理生は海を見ながら話し続ける。 僕はその横顔から目が離せなくなっていた。
2009.03.29
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理生は歩く速さを少しずつゆるめていき、のんびりと周りを見回しながら歩くようになった。 満開のこぶしの花が、青空にその白さを際立たせていた。「梅の花もいいけれど、やっぱり春は桜だよね。」 あらっ、菜の花も咲いている、たんぽぽも、と言いながら、理生は歩く。 僕達は道の途中の小高い丘で一休みすることにした。 木製の椅子が置いてあり、そこに座ると海が一望できる。「あら~、ここからこんなに海がよく見えるんだ、知らなかった、こんないい所があったんだねえ~~。」 理生は大きく背伸びをすると、ああ~と声を出してあくびをした。「俺にMのことを話してすっきりしたのか? お前、何だか感じが変わったぞ。」 僕のその言葉に、理生は驚いたような顔をした。「何言ってんのよ、そんなことあるはずないでしょ・・・。アイツのことはあの夜で、すっぱり気持ちは切れているよ。尚人、そんなこと考えていたんだ。」 理生は笑い、僕も笑った。「海、きれいだね~~。」 理生の言う通りだった。 初春の海はどこまでも青く続いていた。 水平線の向こうには何があるのか・・・・、僕はそんなことを考えていた。「また、一緒に歩いてくれる?」 理生が小声でそう言った。「いいよ、おまえさんの言う通り、運動不足の解消にはもってこいだ。」 僕はそう答えた。
2009.03.28
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K公園は僕の家から車で三十分ほどの所にある。 観覧車などの遊具やサルやフラミンゴなどもいて、一年中家族連れで賑わう場所だ。園内はかなり広く、白鳥や鯉が泳ぐ池もあり、ハイキングコースもつくられている。 理生はきっと池の周りを歩くつもりなのだろう。 まあ、それもいいか、確かに最近運動不足だし、と僕は思った。 指定された場所に行くと、理生の姿はまだなかった。 待っていると言ったのにどこへ行っているのか、と僕はやや不満な気持ちをかかえ、辺りを見回した。 その時、尚人、と僕を呼ぶ声がした。 声がした方を見た僕は、自分の目を疑った。 そこにはショート・ヘアで化粧をした理生がいたからだ。「驚いた?」 ゆっくり近づいた僕に、理生は笑いながら言う。よく見たら、ピアスまでしている。「錯乱したわけではないから心配しないでね。」 理生はそう言うと、さっさと歩き始めた。 Kのことを僕に話したことが、理生の気持ちに何か変化をもたらしたのだろうか・・・・。 Kとのことは、理生にとって、僕が想像する以上に大きな意味をもっているのかもしれなかった。「実家で何をしてたんだ?」 早足で歩く理生の歩幅に合わせながら、僕は聞いた。「何にもしなかった。毎日ぼんやりして、両親のひんしゅくをかっていました。」 理生の横顔は明るい。 僕はそれだけでほっとする。「理生、その髪型、おまえさんによく似合っているよ。」 僕がそう言うと、理生は僕を見上げ、にこっと笑った。
2009.03.27
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早いもので三月もあと少しとなった。 暖冬のせいか、桜の花も咲き始めている。 何故か、時間の流れをはやく感じてしまう。 理生からは、何も連絡はなかった。まるで僕のことなどすっかり忘れてしまったようだ。 時々メールを送ってみようかと思うのだが、結局それはしなかった。 今朝は最悪の目覚めだった。 僕は夢の中で、電話を受けていた。 沢崎さん、何をしているのですか。早く出社してください。会議が始まります。 電話の向こうで誰かが僕を呼ぶ。 何を言ってるんだ、僕はもう会社は辞めたんだ・・・・・。 僕がいくらそう言っても、相手は早く出社してください、と繰り返すばかり。 僕はだんだん不安になる。 目が覚めた時、僕はしばらく現実に戻れなかった。 一体、何をしているのだ・・・・・。 唯一の話し相手、理生の不在が、僕にこんな夢をみさせるのだろうか・・・・。 僕は起きると、久しぶりにトーストを焼き、スクランブル・エッグと野菜サラダを作り、そしてミルク・ティーを用意した。 そして、一人、ゆっくり食べ始めた。 それらを全て食べ終えた時、携帯が鳴った。 理生だった。 尚人、お久しぶり。元気だった? ねっ、今日は散歩しよう。尚人、運動不足だからね。K公園で待ってます。早く来てね。 理生は一気にそう言うと、電話を切った。 やれやれ、何て勝手な奴だ。
2009.03.23
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急に冷え込んだり暖かくなったり、不安定な日々が続いた。 グランドホテルで一緒に食事をした次の日に、理生はしばらく実家に帰ってくると言った。 僕はその間中、毎日研究室に通い、自分の研究を進めた。 一人でいることには何の問題もなかったが、それでも理生がいないと何だか気が抜けた気分になることも事実だった。 グランドホテルを出る時に、理生は、ワインをご馳走様と言った。 結局、ワイン代だけは僕が払ったのだった。 理生はいつ帰ってくるのだろう。 研究室の窓から、桃の花が見えた。 今日は桜餅でも買って帰ろうかと、僕はぼんやり考えていた。
2009.03.17
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「音もなく降り続く雪、テーブルの上の深紅の薔薇、彼の顔を照らすローソクの灯火、静かに流れるジャズの調べ、次々に運ばれてくるお料理・・・・、あの日、彼が注文してくれたワインは本当に美味しかった。 彼は自分の研究が順調に進んでいるのは君のおかげだ、感謝している、と言って微笑んだ。そして、ウエイターが私の前に、とっても可愛いクリスマスケーキを運んできた。彼が特別に私のために注文してくれたことはすぐに分かった。サンタさんがね、お姫様に小さな箱を渡そうとしているのよ。お姫様はとびっきりの笑顔をしていた・・・・。 それから、彼は、姿勢を正すような仕草をすると、君に話がある、と改まった口調で言った。 その時ね、小さな男の子が私たちのテーブルに向かって全速力で走ってきたの。そして、ちょうど私たちの横を通りかかったウエイトレスが、その男の子をとっさによけようとして、バランスを崩してしまったの。 彼女が運んでいた赤いワインは、あっという間に私たちのテーブルの上に撒き散らされてしまった。 私たちのテーブルの上は、ワイングラスの破片やワインで見る影もなくなってしまった。 すぐにお店の人達がやってきて、謝ったり片付けたりしてくれたけれど、可哀想なのはウエイトレスだよね。彼女は何も悪くないんだもの。彼女は呆然自失という風で、おろおろしていた。まだ、働き始めて間もないという感じだった。 私は、彼が、お店の人にちゃんと言ってくれるだろうと思っていた。彼女には何の過失もないこと、こんなことになったけれど、私たちは大丈夫だということをね。」「しかし、Mは何も言わなかった?」「言わないならまだましだよ。アイツの目は怒りに燃え、体はわなわな震えていた。そして、泣きながら私たちに謝るウエイトレスにむかって、チッと舌打ちをすると、この田舎者が、とそれは恐ろしい声で言ったの。大きな声ではなかったけれど、あの声、私、今でも忘れられない。」 それから理生は、黙々とステーキ肉を食べ続けた。 僕は、その時、Mのことを考えていた。 二度と会いたくない嫌な奴だったが、彼は彼なりに理生を愛していたのだろう。あの日、彼は、理生に結婚を申し込むつもりだったのかもしれない。「ふかふかのベッドとモーニングコーヒーは消滅したわけだ。」 僕がそう言うと、理生は、うんと頷き、にっこり笑った。 僕はウエイターに頼み、ワインリストを持ってきてもらった。そして、理生が美味しいと言うようなワインを注文した。 車は明日までホテルの駐車場に置いておくことにした。 目の前に置かれたワインを見て、理生は驚いた顔をしたが、すぐに、ありがと、と言った。「過ぎし日のクリスマス・イブの理生に乾杯。」 そのワインは、不思議な味がしたが、理生は、美味しい、と小さく呟いた。
2009.03.15
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それまでどことなく沈みがちだった理生が、急に得意げになって話したことは、僕が研究室に入るということが決まったと同時に、ある企業から大学に多額の寄付金があったという話がまたたく間に広まったということだった。 寄付者は、会長の村木浩一郎だった。 僕は会長から何も知らされていなかったが、そのことを教授から告げられた時、会長が僕への餞別として寄付したことはすぐに想像できた。しかし、会長がそのことを僕に何も言わないということは、僕も会長に礼など言う必要はないということだった。 会長は必要なことは必ず言葉にする人間だった。 その時、研究室の実質的なボスであったMにとって、突然の僕の出現が好ましくなかったのはすぐに想像できることだった。だから、初対面で僕に先制パンチを食らわせておかなければならなかったのだろう。寄付金ごときで、お前に大きな顔はさせない、と。 僕は思う、Mは何と器の小さい男なのだろう、と。 僕が、上司だった人間の寄付金を看板にして行動する人間かどうか、少し観察すればよかったのだ。言葉は悪いが、僕を研究チームに取り込み、僕を利用して会長から再び寄付を募ることもできたのだ。 研究にお金は切り離せない。今はどの研究室も資金難に苦しんでいる。 会長の寄付金は何のしがらみもない、研究に自由に使えるお金だ。 このお金を研究に生かし、その結果人々の幸せに少しでも貢献できれば、こんな喜ばしいことはない。まさに、お金の有効利用なのに・・・・・。 まあ、今さらMの了見の狭さに驚くことはない。それに、Mは、もう僕にとって何の縁もない人間なのだから、あれこれ考えることはないのだった。「理生、お前さあ、Mのことでもっと話したいことがあるんだろう。会長の寄付金のことなんかもういいからさ、早く話してしまいな。」 僕は自分の言葉が崩れていることを感じていたが、これは秘書をしていた頃の、まあ、何と言うか、成果のようなものだった。 理生は、僕の言葉で、頬をさっと赤らめた。「それで、お前はあの夜、Mととびきり素敵な夜を過ごしたのか? ふかふかのベッド、モーニングコーヒー付でさ。」 理生は、フォークとナイフを静かに皿の上に置くと、「そうなのよ、そうなることをあの時、私は期待していたのよ。」と言った。「でもね・・・・・。」 そう言って僕を見つめる理生の目は、またいつもの理生に戻っていた。
2009.03.14
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Mこと、宮本准教授が理生の気持ちを惹きつけたことは、僕にも分かるような気がする。 彼は才気に溢れ、将来を約束され、人当たりが良かった。僕以外には。「彼が研究室に初めて現れた時、何だか部屋中が明るくなったような気がしたの。私の気持ちも華やいで・・・・。だから、しばらくして彼に食事に誘われた時は嬉しかった。」「食事に誘われた場所がここだったんだろう?」 僕がそう言うと、理生は目をぱっと開き、僕を見た。 「どうしたの、尚人・・・・。どうして分かったの?」「僕の勘は鋭いんだ。誰よりもね。」 理生はくすっと笑い、目の前に置かれたステーキを切り分け始めた。「クリスマスイブの夜だった。夜の海に雪が降って、とっても綺麗だった。彼は優しくて、私はうっとりして彼を見ていたのよ。信じられる?」「信じられない。」 僕は即答した。「そうだよね・・・・。あの時の自分は別人のような気がする。」 それから僕達はしばらくステーキ肉を食べることに没頭した。 めったに味あうことのできない肉の味だ。「彼は尚人にそっけなくしてたでしょ?何故だか分かる?」「分からない。知りたいとも思わない。」「まあ、そう言わないで私の話を聞きなさいね。」 理生は妙に自慢げにそう言った。
2009.03.13
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料理が運ばれてきて、僕達はノン・アルコールの飲み物で乾杯をした。「今日は、遠慮なく食べてね。」 理生の機嫌はとても良い。 考えてみれば、理生とはラーメン屋にはよく行ったが、こうしてホテルのレストランで向き合って食事をするのは始めてだ。 楽しそうに食事をする理生を見ながら、僕はわけもなくほほえましい気持ちになっていたが今日は言わなければならないことがあることに気がついた。「あのさあ、この間、失恋しただろう、なんて言って悪かった。謝るよ。」 理生はフォークを動かしていた手を止め、僕をじっと見た。「心にもないこと言わないの。尚人は理由もなくあれこれいう人ではないことは、分かっているよ。」 僕は黙ったまま、水を一口飲む。 かすかにミントの味がする。「もう三年前になるかなあ・・・・。彼が研究室にきた時に、私、何だか胸がときめいちゃったのよね・・・・・。」 理生は、今日、宮本准教授のことを、アイツと言わず彼と言った。「何故だろうって今でも思う。私、煮詰まっていたのかなあ・・・・。研究は何とか続けていたんだけれど、最初の頃の熱意は失っていたような気がする。」 理生はそう言うと、ガラスの皿に盛られたサラダを一口食べた。
2009.03.11
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S町のグランドホテルは、県内では一番新しく豪華といわれていた。 僕は久しぶりにスーツを着て、ネクタイをしめた。秘書時代には当たり前のこの格好が、今はとても新鮮に思える。 車庫に向かって歩いている時、すぐ近くでうぐいすの鳴き声がした。 その鳴き声は、僕をとても幸せな気持ちにした。 今日は、理生の話をゆっくり聞こう、と僕は思った。 ホテルに着いた時、理生はまだ来ていなかった。案内された予約席からは、海が一望できた。おだやかな、初春を感じさせる海を見ながら、理生の相手は、僕がMと、理生がアイツと呼ぶ、宮本准教授のことだろうと、僕は思った。 僕が研究室に戻った時、実質的に研究室を仕切っていたのは宮本准教授だった。自他共に認める実力者である彼は、僕が挨拶をした時に、何とも表現しがたい顔をして、残念ながら君の役割はここにはないからそのつもりで、と言い切った。そして、まあ、僕の助手の手助けくらいはあるかな、と言い、ニヤッと笑った。 それは僕に自分の力を見せ付けるものだっただろうが、僕にはなんのダメージにならなかった。長い秘書生活で実に様々な人間に会ってきた僕にとって、Mは何の魅力もない人間であることがすぐに分かったからだ。 Mは研究室の人間には威圧的な態度をとったが、理生に対してはその態度が微妙に違っていた。妙に気遣うような機嫌をとるような、その態度は、傍で見る僕にとってはなかなか興味深いものであった。「ごめん、待たしちゃったかな。」 僕の目の前に、理生がいた。 白いざっくりしたセーターにジーパン姿はいつもと変わらないが、今日は長い黒髪をゴムで結ばず、眼鏡もかけていなかった。「ごめんね。ちょっと出掛けに手間取っちゃって。」 髪を伸ばしたままにし、眼鏡をはずしただけで、こんなにも変わって見えるものなのか?「何よ、そんな顔して。コンタクトにしただけだよ。」 理生は椅子に座ると、「お腹、すいた~。」と、顔をしかめた。 いつもの理生だった。
2009.03.08
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3月になって初めての土曜日の朝は、冷え込んだ曇り空だった。 会社勤めの頃は、秘書という仕事がら土日の休日返上もあったが、それでも土曜日の朝というのは嬉しかったことを思いながら、今日はどこにも出かけず家にいようと決めた。 居間のソファーに寝っころがっていると、母が呆れかえった顔をして僕を見た。いい若い者がそんなにゴロゴロしていてどうするのか、とその目は語っていたが、僕は何も言わないことに決めた。 今年還暦を迎えた母は、ますます元気に活発になっているように僕には見える。 どうしてそんなに元気なのか? その質問は、やはり聞かないことにしようと思い、僕は眠ったふりをすることにした。 何をする気も起こらないまま、時間だけはどんどん過ぎていく。 しゃかりきになって働いていても、こうしてだらだらしていても、時間だけは同じに過ぎていくのだ、そんな当たり前のことを、僕は初めて見つけた真実のように感じ、そして一人で笑う。 今日の昼ご飯をどうするか、これが僕の目の前の課題だった。 母は、ごろごろする息子のために昼食の準備などせず、友人達との会合にいそいそと出かけてしまっていた。 冷蔵庫の中には何かあるだろうと思っている時に、メールの着信音が鳴った。 理生からだった。 尚人、何していますか? よく考えたら、尚人の復帰祝いをまだしていなかったことに、昨夜気がつきました。 それで、急ですが、今日の昼食を私が御馳走します。 S町のグランドホテル、12時、来れますか? 待ってます。もう予約したからね~~。 四日前に研究室で、僕が理生に、君も失恋したんじゃないか、と言った時の、彼女の怒りに満ちた、悔しそうな表情を思い起こした。 あの日、理生は僕を睨んだ後、何も言うことなくパンを食べ、その後は読書に没頭した。自分のことを僕に何も言うことはなかった。 僕の復帰祝いと言いながら、今日、そのことを言うつもりなんだな、と僕は確信した。 面白い、あの勝気な理生が、どんな顔をして話すのか、ちょっと興味深いことだ。 ありがとう。 喜んでお誘いを受けます。 メールを返信して、僕はやっとソファーから起き上がった。
2009.03.07
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理生はしばらくそのお雛様を見ていたが、よしっ、今からひな祭りをしようと言うと、自分の机の引き出しから、パンやビスケットを持ってきて僕の前に置いた。「ね、あのお雛様、ここに持ってきてもいい?」 僕がうなずくと、理生はそっとお雛様を持ち、パンの傍に置いた。「さ、食べて、食べて。」 食べて、と言われても、もう少しひな祭りにふさわしい上品なものは出てこないのか・・・。 理生はどうしてこんなにパンが好きなのか・・・・・? 不満な僕にはまるで気をとめず、理生はパンにかぶりつく。「尚人、失恋の傷はなかなか癒されないだろうけれど、元気を出しなさいよ。」 パンを口一杯ほおばった人には言われたくないセリフだ。「彼女の名前をよく覚えていたなあ。」 僕はこの研究室に戻ってまもなく、理生に雪乃のことを話したことがあるのだが、それは一回きりのことだったし、その日から理生はそのことについて一度も言うことはなかったのだ。「私の記憶のいいことは知ってるでしょ?」「失礼、そうでした。しかし、僕は彼女のことはもう引きずってはいないからな、そのことはちゃんと言っとくぞ。」「はいはい、分かりました。」「理生も人のことは言えないんじゃないか?」「どういうこと?」「君も失恋したでしょっていうこと。」 僕はパンを一口食べ、理生をじっと見た。 理生はこれ以上ないほど嫌そうな顔をし、僕を睨んだ。
2009.03.05
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昨日とはうって変わって冷え込んだ朝、僕はいつもの時間に目覚めた。 自慢ではないが、僕は寝つきも目覚めもとても快調だ。あっという間に眠ってしまうし、目覚めと共に即行動に移れる。10年間の秘書生活の賜物だ。 研究室は春休みに入っていたが、僕は今日も行く予定にしていた。理生もきっと来るだろう。 家を出る前に、僕は棚から小さな箱を取り出した。中にはお雛様が入っている。 兄の二番目の子どもが女の子だと分かったとき、両親は大喜びした。兄と僕の男だけの兄弟なので、両親はお雛様を飾って楽しむことができなかったのだ。 長年の夢がかなった母は、僕に車を運転させお雛様を買いに行った。義姉の実家からもお雛様は届くことになっていたが、母は自分達でも買ったのだった。 その日、きらびやかなお雛様がたくさん飾られているその店で、僕は素朴な表情をしたそのお雛様を見つけたのだった。 研究室に着いた時、理生はソファーに座って何やら熱心に本を読んでいた。 僕は、箱からお雛様を出すと、中庭に面した棚の上に置いた。 古い棚の上に置かれたそのお雛様は、優しげな顔をして僕を見ている。「わっ、どうしたの?」 理生が近づいてくる。「尚人が持ってきたの?」「ああ。」「へえ~~、どうしたの・・・・。」 理生は、かわいいねえ、と言いながらそのお雛様を見ていたが、僕を見て、にっと笑った。「尚人、このお雛様、雪乃さんという人に似ているんじゃない?」 僕は理生をしげしげと見る。 理生、僕は君のその勘の鋭さには、ほんと、心から脱帽するよ・・・・。 そうなのだ、そのお雛様は、僕が求婚して、そして、断られた雪乃という人に、とてもよく似ていたのだった。
2009.03.03
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僕の目の前で頬杖をつき、あらぬ方向を見ている女性、理生は僕と同期でこの研究室に入った。そして僕は院には進まず、不思議な縁で、ある会社の会長秘書になり、そこで10年間過ごした。理生はそのまま研究室に残り、今に至る。 僕達は10年間、お互いに連絡を取り合うことはなかったが、僕がまたここに戻って来た時理生は以前と少しも変わっていないように、僕には思えた。 ほとんど化粧をしない顔、白衣の下のジーパン、ぶっきらぼうと思える物言い・・・・。 そして、僕を見るときのまっすぐな視線。「尚人~~~~。美味しい~~~~。ありがとね。」「どうしたんだよ、理生らしくもない。そんなに言わなくてもコーヒーぐらいいれてやるよ。」 すると、理生は、こくんとうなづく。その姿は幼い子どものようで、僕は笑いを抑えるのに苦労する。「静かな研究室だね~~~。」「ここ最近が異常事態だったからなあ。」 この研究室を仕切っていた宮本准教授は、望みがかないアメリカへと旅立って行った。「尚人はお酒を飲んで、我を忘れるほど酔ったことってある?」「ない。」「そうだろうね~~。」「理生はどうなんだ?」「私はあるわよ。でもね、昨夜はどんなに飲んでも、頭の中のある一点がしんと醒めきっていたの。どうすごいでしょ。この話、聞きたい?」 僕は即座に聞きたくない、と言った。 あの宮本准教授にかかわった話なのはわかりきっていた。 僕は彼のことなど、考えたくもなかったのだ。「コーヒー、もう一杯いれてやろうか。」 僕は立ち上がりながら言った。 理生はうん、とうなずき、僕にカップを差し出した。 研究室には誰も来なかった。 理生はまだぼんやりしていた。 いつもとは全く違う理生がそこにいた。
2009.03.02
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目が覚めた時、ベッドの傍にあるデジタル時計は、8時きっかりをしめしていた。 窓からは明るい朝の光が差し込み、小鳥の鳴き声も聞こえた。 なかなか、気分の良い朝だ。 僕は着替えると、階下に降り、コーヒーをいれる準備を始めた。 両親は二日前から旅行に出ており、僕しかいない家は何の物音もしなかった。 3月は、こうして始まった。 家を出ると、青く澄んだ空が広がり、春の訪れを知らせていた。 近くの学校で卒業式でもあるのか、着飾った親子が談笑しながら歩いて行く。 研究室に着いた時、午前10時を過ぎていた。 僕はいつものようにすぐ掃除にとりかかる。 研究室はごみがたまり、机の上にはほこりが見える。 僕は、ジャズのCDをかけ、ごみを集め、机の上をふいた。 10分後、研究室の隅にある小さな仮眠室のドアが開き、ファア~~~、よーく寝たわ~と大きな声がした。 その声の主は、掃除に励む僕を見ると、「朝もはよからごくろーさん、尚人君、君は研究室の鏡じゃ。」と言い、そして盛大なあくびをした。「尚人、私、コーヒーが飲みたい。お願い、ほら、いつか煎れてくれたあの、ブレンドソフトとかいう美味しいのがいいな、ね、お願いっ。」 ぼさぼさの髪、よれよれの服、昨夜、宮本准教授の送別会で飲んだまま、研究室の仮眠室で寝たに違いなかった。 人にものを頼む時は、もうちょっと身なりをちゃんとするのじゃ。 僕はそう怒鳴りたい気持ちをぐっと抑える。「尚人~~~、あいつ、やっと行ってくれたわ~~~、ああ、なんて嬉しい朝でしょう。」 うっとりとした顔でそう言うと、「春休みになったのよね~~~。」と僕を見てにっこり笑った。 その笑顔は、まあ、しょうがない、コーヒーいれてやろうか、と僕に思わせるなかなか素敵な笑顔だった。
2009.03.01
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こんばんは。 今日はかなり元気になりましたので、仕事帰りに買い物をしてきました。といっても、ドーナツを買っただけのことなのですが、楽しい時間でした。 さて、新作を3月1日からスタートさせることに決めました。 皆様、お時間があったらまた読んでくださいね。 がんばって書きます。 毎日更新を目標にします。 今夜も早めに休むことにします。 皆様もお体にはくれぐれもお気をつけください。
2009.02.26
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皆様、いかがお過ごしですか。 私を悩ませている風邪は、だいぶ回復してきました。今週は仕事も早めに切り上げ、のんびり過ごしています。 さて、物語を考える時、題名と登場人物の名前を決めることに、時間がかかってしまうことがあります。 最初に書いた「贈り物」は、題名も主人公の庭師夫婦、平中良、江利の名前もあっという間に決まったのですが、四作目の頃からあれこれ考えて、なかなか決まらないようになりました。 今回、康平の名前は、遠方に住む友人に、「若くて働き者の男性の名前を考えてください。」とメールを打ち、そうして、康平の名前が決まりました。 沢崎は、冷静だけれどあたたかみがある男性、という風に考えていたら、原りょうさんの作品を思い出しました。(すみません、りょう、という漢字が見つかりませんでした。) 原さんの作品の登場人物に、沢崎という私立探偵がいます。でも、この人は、自己紹介をする時に、「渡辺探偵事務所の沢崎です。」としかいつも言いませんので、フル・ネームが分かりません。もし、どなたかご存知でしたら教えてください。私は、この沢崎探偵のファンですので、この沢崎という姓を勝手にもらってしまいました。 自分の思い入れが深い人物は、名前を決めるのに時間がかかりますが、楽しい時間でもあります。 題名もピタッとこないと、書き始めることができません。実は、今も題名で苦労しています。自分が物語を書くようになって、書店に並ぶ数々の本のタイトルを、感心して眺めています。 こんな感じで、あれこれ迷っていますが、三月からまた書き始めようと思っています。 皆様、またお時間があったら、読んでくださいね。 がんばります。 それでは、今夜も早めに休むことにします。 読んでくださって、ありがとうございました。
2009.02.25
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こんばんは。 皆様、お元気でお過ごしでしょうか? 私は、土、日の二日間、風邪でダウンしていました。実は、10日前に風邪をひいて、それはあまり大したことはなく、もう回復していたと思っていたのですが、またぶりかえしたようです。今年の風邪は、長引くのでしょうか? 今日は何とか仕事をしました。 今週は、あまり無理をしないでのんびりすることにします。 皆様も、風邪にはくれぐれもお気をつけください。 さて、次回作のことを書きます。 私は、最初と真ん中と終わりの場面が自分の中でできたら書き始めるのですが、今回はまだそれらがきちんと私の中でできません。 もう長編はやめて、20回くらいの物語にしたいとは思っているのですが・・・・・。 以前、「福寿草」「夏の光の中で」という物語を書いた後で、それぞれの登場人物を再登場させた「風花」という物語を書いたことがあります。あの時も楽しかったなあ、と今、なつかしく思っています。 次回作はもうしばらく考えます。 また読んでもらえると、嬉しいです。 それでは、また。
2009.02.23
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こんばんは。 金曜日の夜を皆様、いかがお過ごしですか。 私は明日は休日ですが、明日もお仕事、という方もいらっしゃるでしょう。 さて、沢崎尚人のことですが、こんな男性が現実にいるかというと、やはりいないでしょう。しかし、物語の中ではどんな人物も描くことができます。これが、物語を書く楽しみの一つでもあります。 沢崎が雪乃に関心をもち、魅かれていったのには、二つの出来事があるのですが、これは書きませんでした。 沢崎みたいな人に結婚を申し込まれたら、ほとんどの女性は受けるでしょうか? 雪乃は、沢崎に好意をもちながら、結婚にまでいけませんでした。この辺の雪乃の気持ちをもっと書きたかったなあと、今思っています。 沢崎が雪乃に手紙を書く場面で、またまた、以前、これと同じようなことがあったなあ、と思いました。 三作目に書いた「福寿草」という物語に登場した、大島圭一郎が高階紀子という年上の女性に手紙を書くのですが、沢崎は、この大島圭一郎と似ているところがあります。 雪乃が沢崎に自分の気持ちを伝えるところや、沢崎が会長と最後に会うところなど、沢崎の手紙から、いろいろと想像してもらえると嬉しいです。 それでは、今夜はここまでにします。 明日は次回作について書きたいと思います。 もしも、お時間があったらまた読んでください。 それでは、また。
2009.02.20
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皆様、いかがお過ごしですか。 今日は仕事に追われ、帰宅が遅くなってしまいました。 春の気配を感じることもありますが、急に冷え込んだりと、まだまだ油断できません。 「深い眠り」を書いているときに感じたことを書きます。 働き者の康平が登場して、雪乃と親しく話をするようになった頃、こんな二人の会話を以前書いたことがあるなあ、と思いました。そして、それが、四作目の「夏の光の中で」のひな子と洋平のことだと思い出し、その物語をなつかしく思い出しました。 「夏の光の中で」は、今回と同じく100回完結にしたものです。 ひな子と洋平は同級生で、最後は今回と同じように、二人のハッピーエンドにしました。 ひな子は両親がいないけれど、祖父母に可愛がられて育った甘えん坊、洋平は家族の生き方に反発して家を出て、一人で自活する若者で、今回の二人とは少々状況は異なるのですが、会話の感じはよく似ています。 どうしても自分の書き方というか、好みというか、そういうものが出てしまいます。 これからは、もう少し視野を広げていきたいなあと思います。 長い物語を書いていると、脇役のような人達に、愛着がわいてしまうこともあります。 今回では、雪乃に部屋を貸した静香、ラーメン店の店主夫婦、沢崎の研究室にいる北川理生などがそうです。情に欠ける松井部長も書くたびに面白い存在になっていました。 次回作はできたら、一回を1500字くらいでまとめたいです。今回は最後に書きたいことがたまってしまって、3000字を超えてしまいましたが、ちょっと長すぎますね。 明日は、沢崎について書きたいと思います。 お時間があったらまた読んでください。 それでは、今夜は早めに休みます。 皆様、お風邪などひかれませんように。 お休みなさい。
2009.02.19
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こんばんは。 皆様、いかがお過ごしですか。 昨夜、「深い眠り」を書き終えました。 とうとう100回になってしまいました。長い間、読んでくださって本当にありがとうございました。 書き終えてほっとしていますが、少し淋しさもあります。 「深い眠り」の話は、一人の女性が祖母のお墓にお参りした時、隣のお墓が草だらけで、思わずそのお墓もきれいにし、そこにやってきた初老の男性が自分の身の上を話す、その男性が会社の会長だった、という二つの場面を浮かび、書き始めました。 ところが、雪乃と会長が出会うところまでが、ずい分長い時間がたってしまいました。 雪乃の会社の部長や春香、菜摘達の様子を書いていたら、あれもこれもといろんなシーンが浮かんできて、書いているときはとても楽しかったです。 最初は、雪乃が沢崎のプロポーズを受けて、ハッピーエンドの予定だったのですが、だんだん何だか違うなあ、と思い始め、康平の登場となりました。沢崎さん、ごめんなさい、という思いです。 書き終えて、次の作品をあれこれ考えています。 皆様、お時間があったら、また読んでください。 がんばります。 「深い眠り」を書きながら、いろいろ考えたことがあります。 明日、そのことを書きます。よかったら、読んでください。 それでは皆様、お風邪などひかれませんように。
2009.02.18
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どこかで自分を呼ぶ声がする。 雪乃はその声の主を探すが、周りは霧がかかったようにぼんやりしている。 耳を澄ますと、雪乃と呼ぶ声は祖母のそれとよく似ている。 おばあちゃん・・・・・。 雪乃は祖母を呼ぶ。 雪乃、幸せになるんだよ。 その声は、雪乃にはっきり届く。 雪乃を包んでいた霧のようなものが晴れ、あたりが明るくなる。 広々とした花畑に向こう側に、小さな女の子を抱いた背の高い男性が、雪乃を見つめている。 会長さん・・・・・、美砂ちゃん・・・・・・ 雪乃は必死で二人のもとに駆け寄ろうとするが、足が動かない。 会長は笑顔で雪乃を見つめ、美砂は雪乃に向かって小さな手を振っている。 美砂ちゃん、よかったね・・・・・、お父さんに抱っこしてもらえたね・・・・。 涙で、二人の姿がくもっていく・・・・・・。「雪乃、大丈夫?」 その声で雪乃は目覚め、目の前にいる康平に気づいた。「どうした?泣いてるぞ・・・・・。怖い夢でもみたの?」 ううん、と雪乃は首を振り、「お仕事、お疲れ様。先に眠っちゃってごめんね。」と言った。「そんなこと気にするな。雪乃だって一日中働いているんだから、睡眠はしっかりとらなくちゃな。」 雪乃は、ありがと、と小声で言った。「ああ、そうだ、母さんから電話があって、もう二、三日、山田さんの家に泊まらせてもらうって。だから、店のことは無理しなくてもいいって言ってたぞ。明日は、臨時休業にする?」「ううん、大丈夫。私もだいぶ慣れてきたし、美味しいって言ってくださるお客さんもいるんだよ。」「ふうん、そりゃあよかったなあ。」「うん、それにね、山中の奥さんが手伝いに来てくれることになったの。だから大丈夫だよ。」 康平はうんうん、とうなづき、雪乃の傍に体を横たえた。「お義兄さんのお見舞いに行かなくちゃな。」「そうだね、お兄さんね、びっくりするほど元気になってるって、お義姉さんが教えてくれたよ。」「よかったなあ・・・・。じゃあ、今度の休みには、お義兄さんのお見舞いと会長さんのお墓参りをしよう。」「会長さん、とっても喜んでくれると思う。康平君、ありがと。」「礼なんて言うなよな。でも、俺ら、ほんとにたくさんの人に助けてもらったなあ・・。」「ほんとだね・・・・・。お礼しなくちゃね。」「俺ら、今は何の力もないけれど、これから時間がかかっても少しずつ返ししていこう。」「うん、私もがんばる。」「よしっ、それじゃあ、今度の休みは、まあ何というか、第一回目の新婚旅行だな。」「ええ~、第一回目の新婚旅行ってどういうこと?第二回目もあるの?」「おお、もちろん。二回目どころか、十回目、二十回目もあるぞ。」「キャー、素敵。楽しみ~~~。」「よしよし、しっかり楽しみにしていてください。」 雪乃はくすくす笑いながら、康平の胸に頬を重ねる。 夏の枯れ草の匂いがする康平の胸の中で、雪乃はそっと目を閉じる。 そして、 雪乃は、深い眠りに導かれていく。 「完」
2009.02.17
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北川理生と僕は一緒に研究室に入り、彼女は、僕にとって一番の共同研究者でした。 長い髪を黒いゴムでまとめ、黒縁の眼鏡をかけ、化粧はほとんどせず、いつも白衣姿です。 愛想笑いやお世辞には全く無縁で、思ったことをそのまま言うので、敵も多いのですが、信頼されることもあるという、あまりお目にかかることのできないタイプの女性です。 彼女は僕が、研究室を辞めて秘書になると言った時、ぽかんとしてしばらく言葉を失っていました。そして、ふうん、そんなことを考えたんだ、と言って、それからは何も言いませんでした。 その彼女に研究室で再会した時、僕はタイム・スリップしたような妙な感じになりました。何故なら、彼女は全くといっていいほど、変わっていなかったのです。 彼女は僕を見るなり、軟弱者が帰ってきた、と言って、少し笑いました。それから僕に作業の手伝いをするように、あれこれと指示をしたのです。 僕の研究室生活はこうして再開したのですが、彼女がいてくれたおかげで、色々なことがスムーズに進んだことは認めざるをえません。 僕は彼女といることに心地良さを覚えるようになりました。彼女とは何の気負いもなく話せたのです。 しかし、そんな時間がしばらく過ぎたある日、僕は、雪乃さんを失った淋しさを、北川理生という女性で埋め合わせているのではないかと、思ったのでした。それは、許されないことでした。 僕は彼女に、雪乃さんのことを話そうと決心しました。 大きな実験が一段落した夜、僕は雪乃さんのことを話しました。 それは、思っていたより長い話になりました。 彼女は黙って聞いていました。 僕が全てを話し終えても、黙っていました。そして、視線を窓のほうに向けると、 尚人と結婚すれば何の不自由もない生活ができるのに、今時、そんな人もいるんだね、とぽつんと言いました。 それから、自分の机の引き出しの中から、アンパンの袋を取り出すと、大きな音を立てて袋を破り、パンにかぶりついたのです。驚いた僕が彼女を見ると、彼女は涙をこぼしながらパンを食べ続けていました。 アンパンを食べ終わると、今度はジャムパンを食べました。それから、せんべいも食べ、ペットボトルの水を飲みました。こぼれる涙をふきもせずに、彼女は食べ、飲み続けました。 どのくらい時間がたったのでしょう。 驚く僕に、さあ、実験のまとめをするよ、と彼女は言い、何もなかったように立ち上がると実験室に歩き始めました。 彼女はあの夜以来、雪乃さんのことは何も言いません。 僕達は今も、一緒に実験をしたり、時々ドライブをしたり、彼女の好きなプラネタリウムに行ったりしています。 僕達がこれからどうなるのか、正直なところよく分からないのです。でも、もうしばらく今のままでいいのかな、とも思います。 雪乃さん、僕はこんな風に過ごしています。 僕の話を聞いてくれてありがとう。 もう雪乃さんにこうして手紙を書くことはないでしょう。 雪乃さん、いつまでも元気でいてください。 そして、幸せでいてください。 雪乃さんに出会えて、僕は幸せでした。
2009.02.16
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良子が後一ヶ月間、里中惣菜店をがんばって続ける、と言ってから二週間たったある日の午後、忙しく働く雪乃のもとに一人の訪問者があった。 その男性は、戸惑う雪乃に、麻生法律事務所の麻生隆と申します。今日は、村木浩一郎氏の依頼で参りました、と言い、雪乃に分厚い包みを渡した。 その中には封書や文書が多く入っていた。封書の一つに、里中雪乃様と記されたものがあり、差出人は、沢崎尚人だった。 雪乃様 お元気でお過ごしのことと思います。 雪乃さんにお知らせしなければならないことがあります。 会長が一昨日、亡くなりました。心臓の病でした。 自宅で眠るようになくなったということです。 会長は、私が秘書になる前から心臓に持病があり、定期健診を受けておりました。無理をしなければ、日常の暮らしには何も支障がないようなものでした。ですから、一ヶ月前に会長が入院したと聞いても、私はあまり動揺しませんでした。その後、すぐに退院して、自宅療養をすることになったと知らされて、安堵したものです。 一週間前、私は会長宅を訪問しました。 会長は庭が一望できる部屋で、籐椅子に座っていました。私を見ると、やあ、と言い、右手を少し上げました。それは、会長職にいた頃、そのままのものでした。 会長は私の近況を聞き、そのことをしばらく話した後、実は、君に相談したいことがある、と言いました。 それからのことが、麻生弁護士が雪乃さんの所に届けているものの話でした。 会長は雪乃さんの結婚を心から祝福した一人です。 雪乃さんが結婚して少したってから、会長は雪乃さんが働く里中惣菜店にそっと行ってみたのだと、私に話してくれました。雪乃さんが元気に働いている様子を見て、本当に安堵したようです。 しかし、会長には一つ、心配事がありました。 雪乃さんから聞いた話の中で、里中家が経済的に苦しんでいるのではないかと思ったのです。しかし、いくら心配だからといって、里中家の経済状態を勝手に調べることは、あまりに非常識なことです。 会長はこのことでかなり思い悩みましたが、自分の顧問弁護士の麻生さんに依頼し、里中家の状態を調べたのでした。 会長はこの無礼をどうぞ許していただきたいと、申しておりました。 麻生弁護士の報告で詳しいことが分かってから、会長は里中家の窮状を何とか援助できないかと、いろいろ考えていました。 しかし、会長と雪乃さんに不思議な絆があり、会長が雪乃さんに心から感謝しているからといえ、会長と里中家には何もつながりはなく、それに、会長が自分の思いのみで里中家に援助することが、雪乃さんと里中家の方々にわだかまりを生んでしまうかもしれないと、いうことも、会長の大きな心配事の一つでした。 しかし、会長は自分が心臓発作で倒れ、自分の余命がいくばくもないと感じた時から、里中家への援助を決めたのでした。 それから、会長は麻生弁護士に全てを依頼し、雪乃さんと里中家の方々に自分の気持ちをしたためました。 会長は私に全てを話し終え、これで大丈夫だろうかと聞きました。 私は大丈夫です、と答えました。雪乃さんも里中家の方々も、会長の気持ちをそのままに受け取ってくださるでしょうと、言いました。 すると、会長は心から安心したように微笑み、雪乃さんに私の気持ちを書いておきましたが、君からも伝えてください、と言いました。 私は、分かりました、と言い、おいとまを告げました。すると、会長は、ありがとう、と言い、私に右手を差し出しました。 私はその手を握り、また来ます、どうぞ、お大事に、と言うと、会長は私を見つめ、また会いましょう、と言ったのです。 私は葬儀には参列しませんでした。 私にとっては、一週間前のあの日が、会長との別れの日でした。それに、私と会長は、また会えるのだ、という不思議な確信があるのです。 長い手紙になりました。 雪乃さん、今回のことは全て麻生弁護士に託してあります。麻生弁護士は、非常に有能な弁護士です。彼に何でも聞いてください。 今、深夜の二時です。物音一つしない静かな夜です。 会長は今、どこにいるのでしょうか。人は死後、四十九日は魂がこの世にとどまると聞いたことがありますが、会長はもう娘さんのもとにいっているでしょう。そして、娘さんを自分の腕の中にしっかり抱きしめていることでしょう。 雪乃さん、どうぞ元気でいてください。 こうして、あなたに手紙を書いていると、いろいろなことを聞いてもらいたくなります。 もし、迷惑でなかったら、もう少し私の手紙を読んでもらえませんか。 今、研究室で一緒に研究をしている、北川理生という女性のことをあなたにきいてほしいのです。
2009.02.15
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七月に入り、気温も日に日に上昇してきた。 汗を拭きながら一日の仕事を追え、雪乃は康平、義母の良子と三人で夕食をとっていた。 夕食は良子が献立を考えてくれているのだが、今夜はいつもより料理の品数が多かった。「康平、雪乃さん、いつも本当にお疲れ様。ありがとうね。」 突然、良子が話し始めた。 康平が驚いて、ビールを飲むことをやめ、良子を見る。「どうしたんだよ、母さん、突然あらたまっちゃって・・・・。びっくりするだろ。」 良子は何も言わず、下を向いた。 いつも快活な良子らしくない。 雪乃が初めてこの家を訪れた日、良子は驚き、そして体中で喜びを表し、雪乃を歓待した。結婚して同居してからも、良子はいつも明るく、どんなに忙しくても弱音を吐いたことはなかった。その良子が、別人のように沈んでいる。「母さん、どうしたんだよ。いつもの母さんらしくないよ。ほら、ビール、飲んで、飲んで。」 康平が差し出したビールをコップにつぐと、良子はそれをぐいと飲み干し、それから二人を見た。「あのね・・・・、例の借金のことなんだけれど・・・・、やっぱりもうどうしようもなくなって・・・・・・。」 康平の顔が曇る。「そんなら、ここ、とうとう売るのか?」 良子はまた下を向いた。 雪乃はあまりの驚きに、何も言えずに良子と康平を見ていた。 この家の借金のことは知っていたが、この家を手放さなければならぬほど大変だとは思ってもいなかった。今のように一生懸命働けば、何とかなるものだと、雪乃は自分でそう考えていたのだった。「お義母さん・・・・・。」 良子に何か言わなければならないと思うのだが、言葉が見つからない。 「雪乃さん、新婚さんなのに、雪乃さんには苦労のかけっぱなしで本当にすまないと思っています。」 良子はそう言うと、エプロンで涙をぬぐった。「でも、ここを売ったら少し余裕もできるから、そうしたら康平と二人でどこか良いアパートを探して住んでもらおうと思っているので・・・・・。」「お義母さん・・・・・・。」「そ、そんなこと言って、母さんはどうするんだよ。」「私は何とでもなるよ。」 良子はいつもの笑顔になった。「前から言おうと思ってたんだけれど、ほら、だいぶ前にここで働いてもらっていた山田人がいたでしょ。あの人が、今一人暮らしで、母さんにしばらく遊びにこないかって言ってくれていて、そうさせてもらおうかなって思っている。その後のことは、またゆっくり考えるよ・・・・・。」 良子の笑顔は消え、また下を向いた。 良子は長年働き続けたこの店がなくなるところを見たくないのだと、雪乃は思った。 今は、良子の思う通りにさせてあげた方がいいかもしれない。「あと、一ヶ月、がんばるよ。」 良子はいつもの元気な口調で言った。「後、一ヶ月、母さん、一生懸命やるからね。だから、康平、雪乃さん、よろしくお願いします。」 良子は、二人に頭を下げた。「母さん、何水臭いこと言ってるんだよ。みんなでがんばるのは当たり前のことだろ。」「そうですよ。お義母さん、私もがんばります。何でもどんどん言いつけてくださいね。」 良子はまた涙をエプロンで拭い、「よしっ、今夜はじゃんじゃん飲もう。」と大きな声で言った。
2009.02.14
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