PR
Calendar
Comments
Keyword Search

頬に、何かが触れていた。
やわらかくて、あたたかくて、それなのに絶妙にくすぐったい。
夢の中では、それを風だと思っていた。
春の終わりみたいな、少しぬるい風。
だから、もう少しだけ眠っていようと思った。
けれど。
「……ん?」
もう一度、頬を撫でられる。
今度は、鼻の先まで。
ふわっ。
ふわふわっ。
「……ネネ?」
片目だけ開けると、朝の光の向こうに白い影があった。
わたしの顔のすぐそば。
七歳になる白猫のネネが、何食わぬ顔で立っている。
そして、わたしの頬に巻きついているのは――。
「……しっぽじゃん」
犯人は、それだった。
カーテンの隙間から入り込んだ朝日が、白い毛を透かしている。
毛先の一本一本が金色に光っていて、寝起きのぼんやりした目には少しまぶしい。
部屋の中には、洗いたてのシーツの匂い。
窓の向こうから聞こえる、遠くの車の音。
どこかの家のベランダで鳴いている鳥。
まだ今日が本格的に始まる前の、静かな時間。
そんなもの全部よりも近くで、
ぱたん。
ネネのしっぽが、またわたしの頬を撫でた。
「……わざとでしょ」
返事はない。
猫だから当然なのだけれど。
でも、耳だけがぴくっと動いた。
絶対に聞こえている。
わたしは枕に顔を半分埋めたまま、スマホへ手を伸ばした。
画面には、少し前に止めたらしい目覚ましの表示。
記憶がない。
きっと寝ぼけながら止めたのだ。
目覚まし時計なら、わたしは強い。
鳴った瞬間に止めることもできるし、二度寝するための言い訳だっていくらでも思いつく。
あと五分。
今日はまだ大丈夫。
昨日ちょっと遅かったから。
そんなふうに、自分にはびっくりするくらい甘くなれる。
なのに。
「ネネさん……あと五分」
白い顔を見上げる。
ネネは目を細めていた。
お願いを聞いてくれる顔ではない。
「三分」
無視。
「……一分」
やっぱり無視。
そういうところ、本当に頑固。
もっとも、それを言ったらわたしも人のことは言えない。
昔から、決めたことを途中で変えるのが苦手だった。
一度「大丈夫」と言ったら、少しくらい苦しくても大丈夫な顔をする。
一度「やる」と言ったら、できない自分を認めたくなくて意地になる。
昨日だってそうだった。
授業で分からなかった問題。
家に帰ってから何度もノートを開いた。
式を書いて、消して。
また書いて。
答えを見れば済むのに、
「もうちょっとで分かりそう」
そう思っているうちに、時計はずいぶん遅い時間を指していた。
分からないまま眠るのが、なんだか負けみたいで。
結局、答えにはたどり着けなかった。
閉じたノートだけが机の上に残っている。
朝の光の中で見ると、昨夜よりずっと薄っぺらく見えた。
なのに、その数ページに負けた気がしていた自分だけが、妙に大げさに思える。
わたしは小さく息を吐いた。
「昨日さ……全然できなかったんだよ」
もちろん、ネネに言っている。
でもたぶん半分は、自分に言っていた。
ネネは何も答えない。
ただ、わたしのそばで少し体勢を変える。
布団が沈んだ。
その重みが、不思議なくらい安心する。
「なんで分かんないんだろって思って」
ぱたん。
また、しっぽ。
「ちょっと落ち込んだ」
ぱたん。
「……聞いてる?」
ネネはこちらを見ない。
昔からそうだ。
わたしが泣いていても、心配そうに覗き込んできたりはしない。
慰めるように鳴くこともない。
少し離れたところに座って、
知らん顔をしている。
でも、気づけばそばにいる。
子猫だった頃からずっと。
嬉しいときも。
悔しいときも。
何も言いたくないときも。
わたしの人生のいろんな朝を、この子はたぶん覚えている。
あるいは、全部忘れているのかもしれない。
猫だから。
それでもいい。
言葉にしなくても、そこにいてくれるものがある。
それだけで、人は案外ちゃんと朝を迎えられる。
ネネのしっぽが、また頬を撫でた。
今度は逃げなかった。
目を閉じたまま、その柔らかさを受け入れる。
くすぐったい。
でも、あたたかい。
その感触に、昨日の悔しさまで少しずつほどけていく気がした。
ふと思う。
できなかった昨日は、できない自分の証明じゃない。今日もう一度やってみる理由になる。
そんなことを、昨夜のわたしに言ってもきっと聞かなかっただろう。
悔しい真ん中にいるときって、前向きな言葉ほど遠く聞こえるから。
だから、朝まで待てばよかったのかもしれない。
夜のわたしに答えを出させなくてもよかった。
眠って。
朝になって。
猫のしっぽに起こされて。
それから考えればいい。
人生には、そういう問題もあるのだと思う。
わたしはゆっくり身体を起こそうとした。
するとネネが一歩近づいてきた。
「……起きるよ」
一歩。
「起きますって」
さらに一歩。
そして。
頬に、ふわり。
今度はしっぽではなく、ネネの身体そのものが押しつけられた。
思わず笑ってしまった。
「重いって」
ネネは知らん顔。
でも、喉の奥から小さな音がする。
ごろごろ。
ごろごろ。
ベッドの上に響くほどではない。
耳を澄ませないと聞こえないくらいの、小さな音。
その音を聞いた瞬間、
ああ、たぶん今日は大丈夫だと思った。
何の根拠もない。
昨日できなかった問題が急に解ける保証もないし、今日だってきっと失敗くらいする。
思い通りにならないこともある。
落ち込むかもしれない。
それでも。
朝はもう来ている。
カーテン越しの光は少しずつ強くなり、部屋の白いシーツを淡い橙色に染めていた。
ネネの毛は朝日に照らされて、ところどころふわふわと輝いている。
わたしは、その背中をそっと撫でた。
「あの問題、もう一回やってみようかな」
ネネの耳が動いた。
「まあ、分かんなかったら聞けばいいか」
また、耳が動く。
「……それもアリだよね」
ずっと、自分でできることが格好いいと思っていた。
誰かに聞くより、自分で答えを見つけたかった。
頼るのは負けではないと知っているのに、いざ自分のことになると、素直になれない。
でも。
分からないって言えることも、
きっと前へ進む方法のひとつだ。
今日、学校へ行ったら聞いてみよう。
先生でもいい。
友達でもいい。
「ここが分からない」
たったそれだけ。
それを言うだけなのに、昨日までは少し怖かった。
決めてしまえば、思ったより簡単だった。
ネネがベッドの端に座り直す。
役目を終えたみたいな顔をしている。
「もしかして、それ言わせるために起こした?」
もちろん返事はない。
「違うか」
わたしは笑った。
たぶん、お腹が空いているだけだ。
きっと朝ごはん。
猫の世界は潔い。
昨日の失敗なんて持ち越さないし、
明日の不安なんて前借りしない。
眠ければ眠る。
お腹が空けば起こす。
甘えたいときだけ近づいて、
満足したらさっさと離れていく。
そんな生き方は、人間には少し難しい。
でも、少しくらい真似してみてもいいのかもしれない。
ベッドから足を下ろす。
床の冷たさが、眠っていた身体を目覚めさせる。
振り返ると、ネネはもう枕の近くで丸くなり始めていた。
「え」
わたしは思わず声を出す。
「起こしておいて、自分は寝るの?」
ネネは目を閉じる。
「ずるい」
返事はない。
窓から入る風がカーテンを揺らした。
朝の匂いがする。
洗濯物。
草木。
遠くのパン屋からなのか、ほんの少し甘い香りまで混ざっている気がした。
さっきまで眠りの続きを探していた部屋なのに、
もうそこには今日が始まっていた。
ネネの白いしっぽが、布団の上で一度だけ揺れる。
まるで、
行ってらっしゃい、
と言われたみたいだった。
「はいはい」
小さく答える。
制服に着替える前に、机のノートを開いてみよう。
昨日止まったところを、もう一度だけ。
解けなくてもいい。
今日はちゃんと、「分からない」と言えるから。
そう思えただけで、
昨日よりほんの少しだけ前へ進んだ気がした。
人生を変えるような朝なんて、きっとそう何度も来ない。
大きな決意も、
劇的な出来事も、
特別な言葉もない。
ただ猫のしっぽが頬に触れて、
眠っていたわたしを起こしただけ。
それだけなのに。
幸せって、何かがうまくいった日にだけあるんじゃなくて、「もう一回やってみよう」と思えた朝にも、ちゃんとある。
ベッドを見る。
ネネはもう、完全に夢の中だった。
「……おやすみ」
そう囁いて、
わたしは朝の光の中へ立ち上がった。
今日もたぶん、完璧じゃない。
だからこそ、
ちょっとだけ楽しみだった。
#青春小説
#日菜子の日常
#猫のいる暮らし
#朝の小さな幸せ
#AIイラスト
【クーポンで41%OFF】送料無料 楽天1位 丸いまな板 耐熱 エラストマー まな板 かまぼこ型 D型 抗菌 丸型 柔軟性 洗いやすい 食洗機対応 滑らない 両面利用可 おしゃれ 母の日 ブラック グレー ベージュ
価格:1,996円~(税込、送料無料)
(2026/9/27時点)
来年の約束は、花火のあとで 2026/10/15
溶けてしまう夏を、ひとくち 2026/10/15
何もしなかった日の、あたたかさ 2026/10/15