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今日は、空がやけに青かった。
いつも通る川沿いの道なのに、見慣れたはずの景色が少しだけ違って見える。
川の向こうには、夏の雲が大きく膨らんでいた。
白くて、眩しくて、触れたらきっと崩れてしまいそうなくらい柔らかそうな雲。
水面では朝の光が細かく跳ねている。
風が吹くたび、街路樹の葉がざわざわと揺れて、木漏れ日が足元を追いかけてきた。
そんな爽やかな朝なのに。
わたしの胸の中だけ、少し重い。
今日から試験が始まる。
そのたった一言で、昨日までの景色と今日の景色が別のものになってしまったみたいだった。
制服のシャツの襟元が、いつもより少し苦しい。
きっと気のせい。
赤いネクタイも、風に揺れているだけなのに、なぜか落ち着かない。
肩に掛けた学生バッグが、妙に重く感じた。
もちろん、中身が急に増えたわけじゃない。
教科書。
ノート。
筆箱。
昨日の夜まで何度も開いた問題集。
それだけ。
それなのに、今日のバッグには、覚えたことも、覚えきれなかったことも、全部詰まっているような気がした。
「……大丈夫」
誰もいないのを確認して、小さく呟く。
すると、川沿いを通り抜ける風に声がさらわれた。
あっけないくらい、簡単に。
やっぱり口に出したくらいでは、大丈夫になんてならないらしい。
少しだけ笑ってしまう。
こういうところが、自分らしいと思う。
緊張しているくせに。
怖いくせに。
平気な顔をしたくなる。
昨日もそうだった。
夕食のあと、自分の部屋に戻って机に向かった。
時計の針が進むたび、
「もう少し」
「ここまでやったら」
「あと一問だけ」
そう言いながら、ノートをめくり続けた。
鉛筆の芯が少し丸くなって。
消しゴムの角がなくなって。
机の上の冷たい麦茶が、いつの間にかぬるくなっていた。
覚えたはずの単語が出てこなくて、
何度も見たはずの公式が、急に知らない記号みたいに見えて。
そのたびに胸の奥がざわついた。
これだけやったのに。
なんで覚えてないんだろう。
そんな言葉が、何度も頭の中に浮かんだ。
頑張った分だけ自信がつくと思っていた。
でも本当は逆なのかもしれない。
勉強すればするほど、
知らないことや、
曖昧なところや、
できていないことが見えてくる。
自信をつけるために始めたはずなのに。
気づけば、できない自分ばかり数えていた。
昨夜、ベッドに入ったあともなかなか眠れなかった。
天井を見ながら、
あの問題、もう一回見たほうがよかったかな。
あの単語、ちゃんと覚えてるかな。
時間、足りるかな。
そんなことばかり考えていた。
試験って、少し不思議だ。
紙の上に印刷された問題に答えるだけなのに。
まるで今までの自分まで採点されるような気持ちになる。
勉強した時間も。
努力した量も。
ちゃんと頑張ったかどうかも。
全部、点数に変えられてしまうような気がして。
でも。
川沿いの道を歩きながら、水面を見る。
太陽の光が反射して、きらきら揺れていた。
同じ光なのに、
波が動くたび、
形はずっと変わっている。
そこで、少しだけ足を緩めた。
昨日の夜、最後に閉じたノートのことを思い出す。
ページの端には、小さな字で書いてあった。
「ここ間違えやすい」
自分で書いた文字。
その下には、何度も消して書き直した跡。
少し汚れていて。
お世辞にも綺麗なノートではない。
でも、それを思い出した瞬間、
なんだか急に愛おしくなった。
分からなくて。
間違えて。
悔しくて。
それでも、ページを閉じなかった自分。
考えてみれば、
今日持って行くのは知識だけじゃない。
間違えた回数も一緒だ。
忘れて、覚え直した回数も。
眠い目をこすった夜も。
「もうやめようかな」と思って、それでもあと十分だけ机に向かった時間も。
全部、ここまで来たわたしの一部だった。
努力って、結果が出たときだけ本物になるんじゃない。答えが分からない夜にも、それはもうちゃんと積み重なっている。
そう思ったら、
バッグの重さが少しだけ変わった気がした。
軽くなったわけじゃない。
ただ、
持っていける重さになった。
橋の向こうから、自転車が一台走ってくる。
制服姿の男の子が、風を切って通り過ぎていった。
そのあとから、少し遅れて蝉の声が聞こえる。
夏の朝。
学校へ向かう道。
試験の日。
世界は思っていたより普通だった。
わたしが緊張していても、
雲は浮かぶ。
川は流れる。
風は吹く。
そのことが、少しありがたかった。
「……そっか」
また小さく声にする。
試験が今日の全部じゃない。
試験の点数が、わたしの全部でもない。
もちろん、良い点は取りたい。
勉強したからには、ちゃんと結果を出したい。
負けず嫌いだから。
そこは多分、簡単には変わらない。
でも。
できなかったらどうしよう、ではなくて。
できるところからやろう。
それくらいなら、
わたしにもできる気がした。
難しい問題が出たら飛ばす。
分かる問題を先に解く。
手が止まったら、一度深呼吸する。
焦ったら、問題文を最初から読み直す。
それでも分からなかったら。
そのときは、そのとき。
「全部解こうとしなくていいんだ」
口にしてみる。
今度の言葉は、風に消えても平気だった。
自分にちゃんと届いたから。
試験になると、なぜか完璧を目指してしまう。
一問間違えただけで全部ダメになったような気がして。
思い出せない問題ひとつで、自分の努力まで否定したくなる。
でもきっと、
一枚の答案用紙で、
何か月分もの自分を測ることなんてできない。
試験は、今日のわたしが出せる答えを書く場所。
それ以上でも、
それ以下でもない。
そう考えると、
少しだけ呼吸が楽になった。
木陰を抜ける。
急に強い日差しが頬に触れた。
眩しくて目を細める。
空を見上げると、大きな入道雲がそこにいた。
真っ白な雲の輪郭が、青い空にくっきり浮かんでいる。
昨日の夜、
あんなに狭く感じた世界が、
朝になるとこんなに広い。
人間の悩みなんて小さい、と言ってしまえば簡単だけど。
わたしはそうは思わない。
小さいから苦しくないわけじゃない。
本人にとっては、ちゃんと大きい。
怖いものは怖い。
不安なものは不安。
だから無理に消さなくてもいい。
緊張したままでも歩ける。
不安を持ったままでも、教室には行ける。
それでいい。
学校が少しずつ近づいてくる。
胸の鼓動はまだ速い。
手のひらも、少し汗ばんでいる。
緊張は、なくなっていない。
でも、それを追い払おうとは思わなくなっていた。
たぶん緊張するのは、
それだけちゃんと頑張ったからだ。
どうでもいいことなら、
こんなに怖くはならない。
そう考えれば、
この落ち着かなさも、
悪いものではない気がする。
「今日の自分を信じる、か……」
昨日、スマホのメモに書いた言葉を思い出す。
少し格好つけすぎたかな、と思った。
でも。
信じるって、
「絶対できる」と思い込むことじゃないのかもしれない。
分からない問題があっても。
焦っても。
間違えても。
それでも最後まで席に座って、
自分なりの答えを書く。
その自分を信じること。
そっちなら、できそうだった。
学校へ続く道の手前で、一度立ち止まる。
川からの風が、ネクタイを大きく揺らした。
わたしはバッグの肩紐を握り直す。
すうっと息を吸う。
夏の草の匂い。
少し湿った川の匂い。
朝の光の温度。
遠くから聞こえる車の音。
全部を一度、身体の中に入れる。
そして、
ゆっくり吐く。
「よし」
誰かに聞かせるためではなく、
自分のために言った。
試験が始まる。
怖い。
緊張する。
できれば逃げたい。
だけど。
ここまで来た。
だったら、
あとは一問ずつでいい。
今日のわたしにできることを、
今日のわたしの速さで。
歩き出す。
足元には、木漏れ日が揺れている。
光と影が交互に続いて、
まるで答え合わせみたいだった。
正解の日もある。
間違える日もある。
うまくいく日も、
悔しい日もある。
でも、どちらも通らなければ前には進めない。
だから今日は、
結果を怖がるより、
ちゃんと最後までやってこよう。
そう思う。
自信があるから挑めるんじゃない。怖くても一歩を出せたとき、その一歩があとから自信になる。
もう学校はすぐそこだ。
青空の下を、
わたしはいつもより少しだけゆっくり歩く。
焦らなくていい。
深呼吸して。
解ける問題から、一つずつ。
昨日までのわたしが積み重ねた時間を、
今日は答案用紙の上に置いてくる。
全部できなくてもいい。
最後まで諦めなければいい。
そう思えたら、
さっきまで重かったバッグが、
少しだけ頼もしく感じられた。
「……行ってきます」
誰もいない川沿いで、小さく呟く。
川の水面が、
朝日にきらりと光った。
まるで、
大丈夫だよ、
と返事をしてくれたみたいだった。
だからわたしは、
もう一度だけ深呼吸して、
試験の待つ学校へ向かって歩き出した。
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