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楽譜の右上が、ふいにめくれた。
譜面台から顔を上げると、窓のカーテンが大きく膨らんでいた。午後の風が音楽室を横切り、わたしの髪の先と赤いネクタイを揺らす。開けたときは、こんなに風が入るとは思わなかった。
「……ちょっと待って」
誰もいない部屋で、楽譜に向かって言う。端を譜面台の留め具に挟み直すと、紙はおとなしくなった。
黒板には、今日の目標が残っている。
『音と心をつなげる。』
合奏の前に先生が書いた言葉だ。みんなが帰ったあとも消されずにいて、さっきから視界の隅に入る。わたしはアルトサックスのキーに指を置き、見ないふりをした。
心をつなげる、なんて、いまのわたしには難しい。
次の演奏会で吹く曲には、短いソロがある。たった数小節。昨日、部員たちの前で初めて吹いたとき、音は外さなかった。息も最後まで続いた。それなのに、吹き終えたあと、自分の中に何も残っていない気がした。
「きれいに吹けてたよ」
隣の子はそう言ってくれた。わたしは嬉しくて、「ありがとう」と答えた。
「でも、ちょっと緊張してた?」
続けて聞かれた言葉にも、「うん」と笑った。本当は、緊張していたのかどうかも分からなかった。間違えないことに夢中で、自分がどんな音を出しているか、聴く余裕がなかったから。
譜面の上には、わたしが書き込んだ小さな印が並んでいる。息を吸う場所。強くするところ。音を伸ばす長さ。昨日のあと、さらに鉛筆で付け足したら、五線が少し窮屈になった。
譜面台の前に立ち、マウスピースをくわえる。
木の床には窓枠の影が斜めに伸びていた。外はまぶしいほど青く、白い雲がゆっくり動いている。室内には古い木と楽譜の紙の匂いがあり、近くの棚でメトロノームが規則正しく鳴っていた。
カチ、カチ、カチ。
音を出す。最初の一音は、よく響いた。
次も、その次も、楽譜どおりだった。指は間違えない。けれどソロの終わりまでたどり着くと、わたしはまた首をかしげた。
「合ってるのになあ」
サックスを少し下ろす。ネックストラップが首の後ろに食い込み、金色の管が午後の光を細く跳ね返した。
もう一度吹く。今度は音の強さを気にする。もう一度。今度は拍を数える。吹くたびに気になるところが増え、楽譜の余白にも、これ以上書く場所がなくなりそうだった。
メトロノームを止めると、風の音がした。
カーテンが窓際でふわりと持ち上がり、かすかな音を立てて降りる。その向こうから、葉の擦れ合う音が聞こえる。さっきまで自分の音でいっぱいだった部屋に、外の気配が戻ってきた。
わたしは譜面の書き込みを眺めた。
どれも必要なことだと思う。練習してきた時間を無駄にしたくないし、聴いてくれる人に、ちゃんとした演奏を届けたい。
でも、昨日からずっと、音を出す前に考えているのは「失敗したらどうしよう」ばかりだ。
間違えないために息をするうちに、わたしは好きな音まで止めていた。
そう気づくと、少し悔しかった。
わたしはこの曲が好きだ。最初に聴いたとき、ソロのところで急に景色が開けるように感じた。誰かが静かな場所から一歩踏み出すみたいな旋律だった。吹いてみたい、と最初に思ったのは、その景色に自分も立ちたかったからだ。
楽譜を譜面台から外し、隣の棚に置く。
覚えたばかりの曲だ。途中で迷うかもしれない。それでも一回だけ、窓の外を見ながら吹いてみたかった。
風が入ってきて、髪が頬に触れた。
「一回だけね」
自分に言い訳するようにつぶやいて、サックスを構える。
息を吸う。胸いっぱいではなく、いつもの呼吸より少し深く。金属のキーは指先にひんやりとしていて、マウスピースにはもう、わたしの体温が移っている。
最初の音を出した。
窓際を風が通り、ネクタイが横に流れる。わたしは指で追い払わず、そのまま次の音へ進んだ。
三つ目の音が、少し揺れた。
いつもなら、そこで吹き直している。でも今日は止まらなかった。揺れた音のあとにも旋律がある。息を送り続けると、次の音は思っていたより素直に出た。
窓の外の雲が動く。カーテンの白が視界の端で揺れる。吹いているあいだ、わたしは拍を数えなくなったわけではない。ただ、その拍の間にも、風や自分の呼吸があることに気づいた。
最後の音を伸ばす。
少しだけ細くなり、静かに消えた。
上手に吹けたかどうか、すぐには分からない。音楽室には誰もいなくて、感想も返ってこない。わたしはサックスを下ろしたまま、窓の青を見つめた。
それでも、もう一度吹きたいと思った。
昨日は終わるたびに、間違いを探していた。いまは、さっき揺れた三つ目の音を、次にはどう吹こうかと考えている。同じことのようで、少し違う。
棚の楽譜を譜面台へ戻す。鉛筆で埋めた余白の片隅に、まだ白い場所があった。わたしはそこへ小さく、「風」と書いた。
誰かに見られたら、意味を聞かれるかもしれない。そのときは、うまく説明できないと思う。自分でもまだ、言葉にするより、もう一度吹くほうが早い。
黒板の文字へ目をやる。
『音と心をつなげる。』
さっきより少しだけ、分かる気がした。心は、楽譜の外から無理に付け足すものじゃないのかもしれない。窓のそばで気持ちよく息を吸った、その続きに音がある。
カーテンがまた膨らむ。わたしの髪とネクタイも、同じ方へ揺れた。
うまく吹ける日を待たなくても、好きな音は今日、ここから始められる。
わたしは譜面の最初に目を戻し、風が通り過ぎるのを待たずに、もう一度息を吸った。
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