全8件 (8件中 1-8件目)
1
本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である慈はサンスクリット語の「マイトリー 」に由来、「ミトラ 」から造られた抽象名詞で、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味であるなぜこれが大切なのか観ている世界は、わたしだから
2021.07.29
コメント(0)
「いま」から逃れようとあがくことがなくなると、「在ること」の喜びが、行動すべてにあふれはじめます。意識を「いま」に向けると、「心が安らかだ」「自分が存在している」「自分がぴったりと静止している」と感じます。
2021.07.29
コメント(0)
延命十句観音経観世音南無仏与仏有因与仏有縁仏法僧縁常楽我浄朝念観世音暮念観世音念念従心起 念念不離心前略朝に観世音菩薩を念じる夕に観世音菩薩を念じるこの念は心から生起するものでありこの念は心から離れるものではない
2021.07.28
コメント(0)
仏 法 僧 戒 捨 天 死 身至 安般 寂止仏 仏(釈迦)を念じる(意識する、心にとどめる)これは 念仏につながる 南無阿弥陀仏へ法 仏の教えを念ずる(意識する、心にとどめる)これは 題目につながる 南無妙法連華経へ僧 僧を念ずる(意識する、心にとどめる)これは 例えば 南無大師遍照金剛へ (大師とは弘法大師)身至 身体を念ずる(身体を意識する、心にとどめる)これについては、中部経典119経に詳しく記載がある安般 (アーナーパーナ)吸う息、吐く息を念ずる(意識する、心にとどめる)など 実は現代でも一般に行われているが..........
2021.07.18
コメント(0)
見ているものはだれ見ているものは何者?
2021.07.09
コメント(0)
苦しみながら 苦しんでいない自分あり悲しみながら 悲しんでいない自分あり得意でありながら 得意でない自分あり酔いながら 酔っていない自分ありそんな 何んともない自分に はっきり覚めてそれに深まるなかに 安らう自分あり内山興正
2021.07.07
コメント(0)
みつめても みつめても みきわめきれない その深さ明るく透きとおっているのに み据えられない その奥行き雲たちを思いのまま飛ばせながら ゆきづまらない その広さ地上一切までも やわらかく包んでゆるしている その大ほらかさ有と無と分かれる以前のすがたで 蒼穹はある有るかぎりの在るものもすべてみな 蒼穹のごとくにあるのではないのかこの私自身までもふくめて内山興正大空が語りかける 興正法句詩抄 1985/8/1
2021.07.06
コメント(0)
世界のどこにあってもただわたしだけが尊いのだ世界にはわたししかいない
2021.07.01
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1