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黄色の色を見ると明らかにその色があるけれど視覚の成り立ちを考えるとそのセンサーである網膜には、赤、青、緑の3つのセンサーしか存在しておらず黄色というものは、無い事になります。しかし明らかに黄色のいろは存在していますこれはなぜかというと、この黄色というか今観ているものは全て視覚野という頭脳の中に作り出されたある意味現実では無いものなのです。黄色の色がなぜあるかと言えば、この3つセンサーの電気信号から脳内で合成して構成されたものです。まさか目の前の黄色が実在していないとは、到底思えませんがじつはこうなっています。このことは、全ての周りの世界に言えることであり、作り出されたものこの世界は幻想であるとか、夢であるとか言われるのは、じつはある意味間違ってはいないと言うことがわかります。しかしとはいえこの世界で生きて行かざるを得ず、これを理解することはとても困難です。またはたして理解したとしても叩かれたら、痛い!!! わけですから存在、実在とは?しかし、この問題はもっと根深い事を作り出すことになる。
2021.09.26
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四天王寺の記述によると崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が仏教の受容をめぐって合戦が起こり当時16歳の聖徳太子は物部守屋討伐軍に従われました。このとき聖徳太子は白膠木(ぬるで)の木で作った四天王像を頭に挿し、この乱に勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立すると祈願されて建てられたのが四天王寺であるとありました。四天王像を頭に刺しと言うことは、4つの像を頭に刺したと言うことだと思います。四天王に囲まれたと言うことは、日本書紀の記述には、頭に刺しという記述はなく聖徳太子の絵巻物においてよく見られる、四天王の像をつくりそれを4つならべて念じている情景とは異なります。四天王寺には四天王像に囲われた中には、救世観音
2021.09.23
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スッタニパータ 第5章 彼岸に至る道 第1119(詩句)よりつねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。 ダンマパダ(発句経) 第170偈世の中は泡沫うたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
2021.09.22
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ゼロという数字は7世紀のインドの数学者・ブラーマグプタという人でその著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』のなかで数としての0(ゼロ)の概念を記しています。意外かもしれませんが、それまでは1とか2とかはあったのですが、ゼロはなかったと言われています。
2021.09.13
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気づくと言うことは、常に今にいるようになるそうなるとなんというか 時間が無くなってくる時間の間隔とは常に比較することから生じているそれをやめるというか出来なくなるように持っていくと時間が無いというかおそらくすごいスピードで時間は過ぎているのだろうが非常に 次次次というようにそしてそれを観ているものは、そう その本質からしてそれは時間を持たないからこんな不思議なことを感じる
2021.09.07
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