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2024.05.22
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中将姫は13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。と伝承にあります。

この内侍という職種は、一般には後宮に仕える女官という事ですが
女性神官という意味もあるようです。
厳島神社の内侍という職種は、女性神官である巫女を表しています。
また、斎宮や斎王に仕える女性もそのように呼ばれている事から
その伝承から見ても、そのような方だったのでは無いかと思います。

13歳の時は、父である藤原豊成は政変で失脚しており、難波に隠棲したとあります。
それが9歳の時ですからそれから4年も宮中に中将姫があったのは、特にこの女性が
重要な能力を有するつまり神仏に交感できる特殊能力をゆうする巫女の能力を

それが、それを仲立ちする中将という名前の本来の意味だからです。

また母と言われている藤原百能については、生みの母か継母になるのかは
確かではありませんが、その父は藤原麻呂であり、その生母は当麻氏である
と言う記述があります。

古代においては婚姻の形態は、妻問い婚であり女性のところに男性が
通ってくることから、母方の親族の影響が非常に強くなります。

つまりここで当麻寺(当麻氏の氏寺)という強い結びつきがあらわれます。

おそらく中将姫が殺されかかったという伝承は、この13歳以降に起こった事を
感じます。たぐいまれの無い能力を有しておられる姫を守るために、母の出身である
当麻氏の氏寺に頼った様に思われて仕方ありません。

なぜこの曼荼羅が、この当麻寺にあるのかは、このような背景があるのではないでしょうか


763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)当麻曼荼羅の下部にこの制作年号がある。
763年 16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞し尼僧となっている    
    鑑真和上亡くなる 75歳
    安史の乱終わる しかし一時吐蕃による長安占領など、唐朝の威信は大きく下がる
764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗)

    この政変で淳仁天皇は失脚して淡路に流されるその後死去暗殺との話もある

藤原仲麻呂派であった淳仁天皇は、中将姫を後宮に取り込むことで、有力氏族である当麻氏
の勢力を引き込もうとしたように感じます。
ですから、中将姫は政変に巻き込まれない為にも出家をしたようにも捉えられるのです。
この恵美押勝の一族はこの乱によって多くが処刑されたとあります。
権力争いではいとも簡単に人の命が奪われていく時代です。
こんな時代なので、中将姫が殺されかかったのもあり得る話では無いでしょうか

また中将姫を守る意味からも、出家してそれから逃れた様にも思えます。





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Last updated  2024.06.05 11:48:46
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