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あと気がついた点は、光輪の形成だとおもいます。これはヨーガで言われるチャクラと対応していると思います。光輪は、頭上にあります。白毫相は額に、光輪を体の中心にも心臓に、
2024.08.31
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なぜこのような事が起こるか調べてきました。まず必要な事は瞑想が必要な事です。というか集中することが必要なのです。これはその前に地面がゆがむ様な状態であったことからよくわかります。あとよく言われるのは、心の浄化が必要であるという点です。これも、思考を止めるとでも言うような方法が曲がりなりにもとれるようになってきたことだとおもいます。この症状は相当問題起こすようなことが書いてありましたが、うなづけるとこがあります。これも観音様に守られてきたように想います。観音経とのであいは半世紀を超えています。何かあれば、南無観世音(観音に帰依する)と唱えなさいと教えられてきました。クンダリニーでは帰依するという事が大切であると書いてありました。
2024.08.31
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この現象は、オーガズムと呼ばれる現象ではないかと思えます。以下のwikiに書かれていた症状とよく一致します。ただそこには、性的なものは全くありません。正座してお経を読んでいるのですからゆだねているという感覚など、非常に納得がいきます。しいていうなら、時間が長く連続的なものですから女性の得る感覚に近いものです。男性は、強烈で非常に快い、神経と筋肉の脈動する多幸感を感じる。(これは全くその通りでした。)オーガズムの接近と共にこれらは速度・強度を増してゆき、最後には数秒間持続する快感の「高原」、すなわちオーガズムへと至る。(その様に移行するのですが、性的な感覚ものは全く無く全身でお尻のしたから、湧き上がる様に感じるので、それが女性の得るものに近い感覚では無いかとおもえるのです。)全身の骨格筋の収縮、過度呼吸、心悸亢進、および骨盤まわりの筋肉のリズミカルな収縮を伴い強い快感を生んだ後に弛緩状態に至る。他方で、心理学的には解放の頂点の主観的経験が見られる。またオーガズムは、一面では、喜びを感じ、ゆだねるという心理的な経験であり、その時、心はもっぱら自分の個人的な体験だけに向けられているものである。(その感覚が男性ではその部分だけですが、女性では全身に及ぼされるので、それに近い感覚ではないかとおもえるのです。)オーガズムは不随意もしくは自律的な大脳辺縁系により支配されており、性器と肛門を取り囲む下部骨盤筋群の高速な筋収縮のサイクルを伴う。(これは男性の感じる性的な感覚と酷似していて、それが長時間続いているという状態です。)オーガズムの間には脳波のパターンにはっきりとした変化が現れ、このことはオーガズムの反応における辺縁系の重要性を示している。男性と女性の脳はオーガズムの間には類似した変化を見せ、脳活動のスキャンは大脳皮質の大部分での一時的な代謝活動の低下と辺縁系での代謝活動の無変化もしくは増大を示すオランダのフローニンゲン大学医療センターの研究者たちは、オーガズムの感覚と、骨盤を中心とし肛門で計測される周波数8-13Hzで発生する筋肉の収縮との相関関係を示した。収縮のこの特有の周波数の存在により、これらの諸筋肉の随意の収縮と自然発生的な不随意の収縮とを区別することができ、これは興奮を計量するに過ぎない心拍数などのような他の測定基準よりも正確にオーガズムと相関していると彼らは論じている。「究極において主観的な経験であるところのオーガズムと強い相関を持つ客観的かつ定量的な尺度としては初めてのもの」を見出したと主張している。8-13Hzで発生する収縮の尺度はオーガズムに特有なのだという。こう言う記述もあります。ポジトロン断層法(PET)でスキャンしオーガズムのそれぞれの状態における脳の変化が観察・比較された。行動調節、恐怖、不安と結び付いている脳の領域が停止するという男女共通の変化が観測された。(これは全く同意できるところです。広がる、受け入れる、ゆだねている、恐怖とか不安などは起こりえない状態であったと思います。ありがたいという多幸感でしょう)こうした変化に関して、Holstegeはロンドン・タイムスでのインタビューで「これは、あらゆる恐怖や不安を非活性化すること、忘れることがオーガズムを得るために最も重要で、必要条件でさえあるのかもしれないということを意味します」(瞑想自体に、思考を停止させることでこれを非活性化する作用をもっていますので、うなずけます。)
2024.08.28
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終わった後この現象は何なのかという思いがありました。全く経験がなかったからです。ただそれは覚えています。全身が包まれるやさしさと快感に覆われていたことです。調べていくと、これはクンダリニーと呼ばれるモノでは無いかと思えるのです。そのときは、見えている石畳が、歩きながらうねるように見えているほどの集中状態であることを覚えています。クンダリニーをおこした人がそのあと起こすクンダリニー症候群というような、不快な症状は全くありません。ただその優しさとでもいうものに、ただただもったいないと言う思いであったことを覚えているのです。
2024.08.27
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クンダリニーについて以前このような事がありました。観音経(観世音菩薩普門品第25、法華経)を読誦しているときのことです。正座をしていました。その途中から、丁度お尻の下の会陰と呼ばれる場所から、花びらが広がるように湧き上がり全身を包むように振動とでもいうものが現れたのです。これは性的な感覚にちかいもので、それが無限に連続した感触が全身に沸き起こるものでした。これはこの経が終わるまで続きました。その始まりは、無数の経巻や観音様の像が海にしずんでいくおもいがでたのです。今読んでいるこの経がここに来るまで、どれだけのものが失われ海に沈んでいったのだろうかそれととともにどれだけの人が亡くなっていったのだろうかとそれが始まりでした。沈みゆくものを優しく、ほんとに優しく観ているものがあるのです。慈悲としか言い表せないものでした。
2024.08.27
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瞑想を行う習慣を続けていくと安静時心拍数が3.4/分低下、血圧も低下する研究結果が出ています。平均心拍数を60/分とすると5%くらい低下していることを示しています。心拍数が10/分上がると、死亡率が9%上がるという研究もあります。また心臓の心拍数は、生物の寿命につながっているので、低下していると言うことは瞑想は長寿をもたらすのではないかと思えます。心拍数は上限があり、多くなっている状態を続けていくと、寿命を縮めてしまうからです。血圧も同様で、血圧の低い人は長寿であることが知られています。高血圧は平均余命を短くする要因として知られており、日本人の死亡原因としても大きな存在です。ある研究では、40歳からの平均余命を比較した結果、高血圧の人は非高血圧の人よりも男性で2.2年、女性で2.9年短かったことが示されています。また、重篤な高血圧ほど平均余命の短縮が大きい傾向もみられます。高血圧になると、脳卒中や心筋梗塞、大動脈解離、心不全などの心臓や血管の病気を発症するリスクが高くなります。収縮期の血圧が20mmHg上がるごとに、死に至るリスクも2倍ずつ上昇するとされています。
2024.08.26
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『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)は、大乗仏教の経典。サンスクリット本は散逸していて存在そのものが未定である。チベット語訳と数種の漢訳経典が現存する。紀元前後に成立した最初期の大乗仏典のひとつであり、浄土経典の先駆と考えられる。精神統一によって仏の姿を現前に見ることを説く。内容般舟三昧(はんじゅざんまい)とは、心を集中することによって諸仏を眼前に見ることが出来る境地のことである。「十方現在仏悉在前立定(現在の仏がことごとく前に立つ精神集中)」の意で、その略語たる現在三昧を音写して般舟三昧と言う。また、諸仏現前三昧ないし仏立三昧とも意訳される。現存する仏典の中では、阿弥陀仏およびその極楽浄土 について言及のある最古の文献であり、三昧によって極楽浄土の阿弥陀仏を現前に見ることが述べられている。この経典の「行品」に見られる空の思想 は般若経典に通じるものであり、この点でも空観を説くことが比較的少ない後世の浄土経典と趣を異にする。このことから言えることは、実際に阿弥陀様を観ることが、会うことができるその方法が述べられているのです。全ては光りが、鍵であり、それには空観(からっぽな心で観る、頭にながれる邪魔なおしゃべり思考を止める必要があります。)その方法は書いてきました。神仏の存在を、大乗仏教がなにを伝えようとしてきたのか先達が何度も言い残されている様に、いつもずっとそばにおられるはずなのです。ジルボルトテイラーが言うキャラ4
2024.08.25
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BC六世紀 アケメネス朝ペルシャ支配この時代アケメネス朝のペルシャ人はゾロアスター教を信奉しているBC六世紀 お釈迦様が活躍された時代 この時期この地域までは伝来していないBC四世紀 アレキサンダー大王がこの地に到達した。BC三世紀中頃 アレキサンダーが残したギリシャ人の王国 グレコバクトリア王国が北部を支配BC265年頃(三世紀中頃)マウリヤ朝の最大領域で、アフガニスタンにインドの勢力が及ぶこの頃にこの地に、仏教が伝来したものと考えられる、この後ギリシャ人の王国が優勢となっていくBC二世紀 インドグリーク王朝(ギリシャ人王国、メナンドロス1世(経典にあるミリンダ王)の時最大となるインド北西部まで勢力を得るその直後から、北部より遊牧民サカ族や匈奴に追われた月氏の侵入が始まり、ギリシャ人の王国は崩壊する。AD一世紀 サカ族によるインドスキタイ王国が、インド北西部一帯を支配するが直後、インドパルティア王国が侵入して制圧されるこのときの王ゴンドファルネスが、キリスト教の聖トマスのインド伝導の伝承に現れるAD二世紀 このインドパルティア王国も、クシャーン朝によって、滅ぼされるカニシカ王即位AD144年~ (二世紀後半)阿弥陀仏 AD148年にはすでに安世高が無量寿経を漢訳する伝承 (二世紀後半)阿弥陀仏 AD179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』(二世紀後半)AD286年(三世紀後半) 正法華経の訳出 光世音(観音菩薩)中国で訳出が起こった100年位前には、阿弥陀様や観音様が現れたと考えています。その場所は、ゾロアスター教、バラモン教、ギリシャの神々、キリスト教などが混合したこの地域では無いかとおもえるのです。
2024.08.24
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あるとき世尊は舎衛城の祇樹給 孤独園に住された。そのとき 夜更けにある天が一面を輝かせて現れ、「我が師よ、あなたはどのように 暴流を渡ったのですか」と尋ねた。世尊は「友よ、住せず、求めず、世間における執着を超えて渡った」と答えられた。天は「実に久しぶり に般涅槃したバラモンを見た。住せず、求めず、世間の執着を超えて渡った者を 」と誦した。その神は師は是認されたのだ と言った。そして自分の師によって是認されたとき、その天は世尊を右遶してそこに没した天相応にはこのような記述がいくつも続いているのです。これが何を顕わしているのか、輝く人だから立派な人間がたずねてきたという解説もありました。ただの作られたお話だと記述もありましたがこれはどう見ても、作られた話では無い様に思えるのです。
2024.08.23
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これらの仏様は、経典などの記述からおそらく二世紀に現れたことが予想出来ます。そしてその出現場所は、西域などの乾燥地帯を思い起こすのです。またそれは時代とともに、アフガニスタンなどを根拠地にしたクシャーン朝の前期の時代と重なる部分があります。インド大陸北西部分、アフガニスタンはあの有翼光輪のアケメネス朝ペルシャやアレキサンダーの領域でもあり、またゾロアスター教の発祥の地に近い場所です。おそらくはそれらの神々の発祥の場所ではないかと思えます。これは前も書きました聖トマスの伝承からも、キリスト教にも大きな影響を与えた場所に思えます。
2024.08.22
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中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ(avalokitasvara)となっており、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvaraがもっとも古形であり、ローケーシュ・チャンドラはこの表記が原形であったとしている『法華経』の初期の漢訳である 竺法護訳『正法華経』(286年)では、観音は17の姿を現すとされ、その全てが男性である。ところが鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(406年。現在、最も普及している法華経)では観音は「三十三身」を現すとされ、そのうち7つが女性の姿である。
2024.08.18
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碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。wikiより
2024.08.17
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腹式の呼吸をすると、おなかの膨らみ縮みを観るとありましたがおそらくそれよりも、背中の下部、お尻の骨盤底筋の部分を意識するべきではないかに思い至りました。こころと身体の問題だけで無く、色々と意味があることに思い至りました。胸式呼吸では、この骨盤底筋が動いていない状態なので、筋肉の柔軟性がとれなくなります。つまり、これは呼吸によって、内部の筋肉を動かそうつまり鍛えることが出来ると思います。インナーマッスルにアクセスする方法は、この呼吸であるのではないかと言うことなのです。
2024.08.09
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呼吸においておなかの膨らみ縮みに気をつけていくと、ほんとに心が静かになります。いぜん腹式呼吸をしたことはありましたが、その様な結果という理解に至りませんでした。これは思考をある程度は意識せずとも減らしていけたから、それに気づくことができたようです。やはり覚即(かくそく)という訓練が為になっています。こころをそこに置く、おきつづける事が必要だからだろうと思います。
2024.08.03
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九条兼実が拝した法然上人の姿法然が兼実の邸宅である月輪殿(つきのわどの)に赴き、数時間の法談を交わした後、帰路に着いた法然上人が池の上の橋を渡り始めると、地面を離れ、虚空に蓮華を踏み、頭の後ろに光が現じたという。それを目にしたのは兼実一人だけであったという(『四十八巻伝』八、聖典六・八七)。兼実が法然を仏のごとく敬ったことを表す諸伝の一場面である。義山は、本話を「今大師の影像ようぞうに後に円光御足に蓮華を営造こと是より起れりとぞ申侍る」そのような図が残されている。これも今まで述べたことからも、兼実に実際に現れた物であるとわかるのです。月輪殿ですか、なるほどです。
2024.08.02
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