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オランダ生活40年、オランダ日本人社会の主のような、俺の友人が亡くなった。60歳だった。訃報は日本滞在中にメールで知った。オランダに戻った翌日、告別式に参列した。娘さんで始まった、会社友人、ゴルフ友人等々からの送る言葉で、生前の彼の人柄を偲ぶことができた。酒・たばこ・カラオケ・ゴルフ好きで、いつも笑顔が絶えず多くの人から愛されていた。日頃から高血圧で心臓が弱かった。昨年、1か月ほど病院に入院していたことがあった。ゴルフの最中に倒れ、病院に運ばれ、そこで息を引き取った。最終ホールのグリーンへの手前で倒れた。その日は途中でもつらく、休み休みゴルフを続けたようだ。一緒に回っていた人たちも、途中でやめようとアドバイスしたようだが、何とか最終ホールを終えたかったようだ。
Nov 24, 2012
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会うたびに、何かひとつふたつできなくなっていく親の姿を見るのはつらい。さっき、日本から戻ってきた。今年の6月に俺は両親と会ったが、その後、母は道で転んで手を骨折し入院した。そして若干の痴呆症になった。父も同時期に病気で入院した。弟、妹からの電話で両親がますます老いていく様子を聞いていた。俺が両親に電話しても、長話はしなくなった。以前は俺の声をいつまでも聞きたかった母はすぐ電話を切るようになった。母は要介護状態になり、送り迎えがあるデイサービスに週3回通っている。この前までは自分がボランテイアで出かけていたところだ。健康マージャンやしりとりをしているようだ。父は要介護から要支援に戻ったが、足腰は一段と弱くなった。そんな状態の親に今すぐにでも会いたかった。そして、日本出張が決まった。11月9日から21日までだった。東京では実家に泊まり、名古屋・京都・大阪・神戸と多忙な日程をこなした。そんな多忙の中も、何とか土日含め、数日を両親と過ごすことができた。いつもの寿司屋へ行くと、母はあら汁を飲んだ後、いつもの貝類を食べていた。親の不要な洋服・ふとん等を整理し、リサイクルセンターに運んだ。最後の日の朝、来年の再会を誓った。両親は朝早くタクシーに乗った俺にいつまでも手を振って見送ってくれた。
Nov 22, 2012
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アムステルダムマラソン頃から風邪を引き、咳が止まらずたんがつまり、2週間も調子が悪い。公私ともに多忙な毎日が続き、体を酷使しているため、風邪はゆっくりとしか回復しない。今週は益々多忙。月・水曜日は会食。木曜日は例のツアー参加。金曜日は聴取者参加テレビ番組収録に参加。これは有名人が指揮者となり、俺の友人が務めるコンサートの演奏をうまく指揮した人が勝ち残っていく番組だ。そして、土曜日は雨の中のゴルフ。しかも場所は家から200数十キロあるオランダの北、フローニンゲンのそば。何でこんな時にゴルフかと、この時期のオランダが雨が多いのは誰もが知っているはずだ。どうも大使の都合だったようだ。しかし、その大使は突然の異動で日本へ帰国。新大使は数日前にオランダへ到着したばかりで、参加できず。大使館から俺もよく知っている他の人が参加した。そんな多忙で疲労困憊の中、木曜日の宮城県山元町被災地からやってきた農家の人等のオランダ先進農業見学個別ツアーではとってもうれしいことがあった。昨年3月11日の地震・津波の翌日から被災地へ行き、ボランテイア活動を行い、種々情報を集め、インターネットサイトを立ち上げていた青年がそのツアーに参加していたのだ。彼は山元町出身で東京に出て、企業を立ち上げて成功していた。そんなとき、あの地震・津波が起こったのだ。俺は全くニュースで入ってこなかった山元町が心配だった。そのとき見つけたのが彼のインターネットサイトだった。会社から帰るとそのサイトをチエックすることが俺の日課となった。被災地の動画、身元調査掲示板等もあり、情報が少しずつ入ってきた。そんな彼と会った。本当にうれしかった。彼は俺に会社のパンフレットをくれた。奥さんと1歳半の子供を東京に残し、自分は山元町でまた会社を立ち上げた。被災地で先進的な農業で、ビニールハウスでイチゴ、トマト等をつくる。そんな会社だ。彼が中心となるボードの他に、アドバイザリーボード、イチゴグループとして、ダイエットグループ・プロセッシンググループ、マーケテインググループ。その他に、研究・開発チーム、生産チーム、販売・配送チーム、バックオフイスチームを設けた。まさにオランダの先進的農業と同じだ。いや、それより進んでいるかも知れない。彼は先進農業を既に始めていたのだ。そんな彼も個別ツアーの最後には、他の若者たちと一緒にアムステルダムの夜の町に消えて行った。被災地からの参加者のもう一人も会社を立ち上げ、大規模ビニールハウス農園で同じようにイチゴをつくっている。以前、ストロベリーラインと言われたあの地区の「仙台イチゴ」だ。しかし、その人は山元にこだわり、「山元イチゴ」と名前を変えた。山元町の強ーい、深ーい思いがあったのだ。
Nov 4, 2012
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俺のオランダでの友人が仕掛けた。オランダ政府とオランダ園芸産業促進団体に働きかけ、日本の農業関係者をオランダに呼び、オランダの先端技術を取り入れた、技術革新の進んだ農業を見学する「オランダ園芸農業視察ツアー」が実施された。オランダ農産品生産地、大学研究センター、園芸産業見本市等を見学した。このツアーに日本から、県庁、農業関係企業、大学関係者、農業の人たちが参加した。最終日はツアー参加者はフリーだったが、友人が被災地の人含んだ有志の人向けに個別ツアーをプランした。その参加者の中に、俺の田舎の宮城県山元町被災地の人たちがいた。その人は俺の田舎の被災者と同じ名前で田舎のことを良く知っていた。俺と遠い親戚かも知れない。この個別ツアーはすべてボランテイアだ。これに俺も一役かった。農産品生産地を再度訪問し、さらに細かく研究し質問し、日本へ戻ってからの宮城県被災地でのオランダの革新的な農業導入に役立てるのだ。オランダは大農業産地だ。パブリカ、トマト、イチゴ生産現場、先進農業技術を見学した。オートメーション化も進み、現場はまるで工場だ。水耕ビニールハウスでトマト、イチゴ等の栽培だ。オランダでは農業は大きな産業だ。会社組織になっていて、しっかりした経営管理を行っている。ツアー参加者の目は生き生きとし、輝いていた。
Nov 2, 2012
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