董卓亡き後、貂蝉は都を追われた呂布と共に、各地を転々と流浪していった。しかし、それは貂蝉にとって幸福の日々だったのかもしれない。かつては連環の計のために偽りの愛を演じていた彼女だったが、呂布の一途な情熱に触れるうち、その凍てついた心はいつしか本物の愛へと変わっていったのである。
だが、最強を誇った呂布も、ついに下邳(かひ)の城で追い詰められる。軍師・陳宮は、窮地を脱する最後の策として「呂布が城の外に陣を張り、城内と連携して敵軍を挟撃する」という献策をした。呂布はこれに従おうとするが、貂蝉は涙ながらに訴えた。
「殿、私を置いていかないでください。独り残されるのは、死ぬよりも寂しく存じます……」
彼女の言葉に、呂布の心は激しく揺れ動いた。軍師の策を捨て、彼女の側で最期まで戦うことを選んだのである。
いかに無双の猛将といえど、籠城の果てに城は陥落し、呂布と貂蝉は捕らわれの身となった。
敵軍の将・曹操は、呂布の武勇を惜しみつつも、禍根を断つために処刑を言い渡した。そして傍らに立つ貂蝉を見て、ある案を思い浮かべる。それは、自分が惚れ込んでいる豪傑・関羽に貂蝉を与え、彼を心服させるための「贈り物」にしようというものであった。
(呂布は得られずとも、関羽を繋ぎ止められるのなら、これに勝る戦果はない)
曹操は関羽を呼び寄せ、貂蝉を与えようと言葉をかけた。関羽は一瞥してその絶世の美貌に感嘆したが、同時に彼女の瞳の奥にある「覚悟」を見抜いた。関羽は曹操に静かに言った。
「それがしに預けていただけるのなら、承ります。ついては、呂布殿の最期もそれがしにお任せ願いたい」
曹操はその真意を察し、不敵に笑って頷いた。
(さすがは関羽雲長。まことの漢よな)
断頭の場にひざまずく呂布。関羽は貂蝉を呼び、その隣に静かにひざまずかせた。
「おお……貂蝉」
「殿……独りは嫌にございます」
「関羽殿、かたじけない……」
二人の間に言葉は多くはいらなかった。
関羽は冬の空を見上げて呟いた。
「それがしも、我が君に万一のことがあれば、迷わず共に逝く道を選ぶであろう。……案ずるな」
静かに目を閉じる二人。関羽はゆっくりと愛刀・青龍偃月刀を構えた。
一瞬の出来事であった。戦場では空気を震わせるほどの豪刀が、光の如き速さで、音もなく一閃した。
その神速の刃は、痛みすら感じさせなかったに違いない。
愛に殉じ、命を昇華させた二人の顔には、夜明けの月のような、穏やかで幸せな笑みが満ちていた。
その後、主を失った呂布の愛馬・赤兎馬(せきとば)は、曹操の手によって関羽へと賜られた。
一日に千里を駆けるというこの名馬は、主を失った悲しみからか、誰が近づいても激しくいななき、その手を寄せ付けようとはしなかった。
しかし、関羽が静かに歩み寄り、その紅(くれない)のたてがみを撫でると、赤兎馬は不思議なほど従順に頭を垂れたのである。関羽の瞳の中に、最期の瞬間に自分が見た「主たちへの慈悲」を感じ取ったのかもしれない。
赤兎馬は関羽を背に乗せると、天に向かって一度だけ高く、澄んだ声でいなないた。
それは、かつての主である呂布と、その傍らで微笑んでいた貂蝉への、惜別の挨拶のようでもあった。
気性の激しい名馬が示したその涙ぐましいまでの忠節に、居並ぶ将兵たちも言葉を失い、ただ遠い空を見上げるばかりであった。