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文治五年、閏(うるう)四月。奥州・平泉。
暦の上では既に 初夏 を迎え、衣川の周囲には眩しいほどの新緑が広がっている。しかし、衣川館(ころもがわのたち)を包む空気は、逃れようのない死の予感に凍てついていた。
郷御前は、 数えで四歳 になる娘を膝に抱き、ひとつの覚悟を心に刻んでいた。
外からは、怒号と重い鉄の音が響いてくる。夫・源義経の兄である頼朝の命を受けた藤原泰衡(やすひら)の軍勢数千が、館を幾重にも取り囲んでいた。
もはや、北の果てへ逃げ延びる道は絶たれている。
「……郷よ、おぬしには申し訳ないと心から思う」
襖が開き、源義経が姿を現した。かつて京を沸かせた英雄ではあるが、いまや手元に残る兵は十数名。この状況を打開するにはあまりに無勢であった。
すでに付き従った家来達も、その多くが外で盾となり、先立っている。
郷御前は、夫を見上げ、静かに微笑んだ。
「いつでも、お供いたします。吉野で別れたあのお方(静御前)に嫉妬したこともございましたが……最期に隣にいられるのは、この郷にございますれば」
義経は痛ましげに目を伏せ、郷の細い肩を引き寄せた。
静御前は、義経にとって最愛の女であったかもしれない。だが、すべてを失い、追われる身となった義経を最後まで支え、北の果てまで付き従ったのは正妻である郷御前であった。
それが彼女の誇りであり、心を支える柱となっていた。
「すまぬ、郷。兄の命で我に嫁ぎ、そして、その兄の命でこのようなことに……。もっとはやく、おぬしだけでも逃がしてやるべきだったのだ」
「お戯れを。河越の娘が、夫を見捨てて生き恥をさらすとでもお思いですか」
郷御前の言葉に迷いはなかった。父・重頼は既に鎌倉の手で亡くなられ、彼女にとってこの世に繋ぎ止める絆は、目の前の夫と腕の中の娘だけであった。
「殿……ひとつ、最期のお願いがございまする」
「なんじゃ? 言ってみよ」
郷御前は、潤んだ瞳で義経を真っ直ぐに見つめた。
「今一度だけ、その腕の中へ。殿の温もりを、この身に刻みとうございまする」
「……わかった。案ぜるな、郷」
義経は、静かに郷御前を抱き寄せた。
分厚い鎧越しではあったが、その腕の力強さと暖かさが伝わると、彼女の心を苛んでいた孤独は消え去った。正妻でありながら、どこか遠い影のように自分を感じてきた寂しさが霧散し、心はかつてないほど晴れやかに澄み渡っていく。
郷御前は、夫の頬にそっと己の顔を寄せ、慈しむように最期の口付けを交わした。その温もりを分かち合ったとき、彼女の胸に未練はひとかけらも残ってはいなかった。
外では、ついに敵勢が館の回廊へと踏み込む音が響く。義経は震える手で、白銀に光る愛刀を引き抜いた。
「……郷よ」
「はい。……せめてあの世では、戦も、誰を羨むこともない静かな場所へ」
郷御前は三歳の娘を、壊れ物を扱うように強く抱きしめ、静かに目を閉じた。
義経の刃が、幼い命と郷御前の胸を一点に貫く。
薄れゆく意識の淵で、彼女は夫と娘と共に逝ける喜びを噛み締めていた。
(ああ、これでようやく……誰にも邪魔されぬ、私達だけの世界へ……)
義経もまた、愛する妻子をその手で葬った後、持仏堂に火を放った。猛火の中で彼は自らの腹を十文字に切り裂き、武士としての壮絶な最期を遂げた。
初夏の風に煽られ、衣川の館は紅蓮の炎に包まれていく。
その熱波は三人の家族を包み込み、悲劇も誇りもすべてを灰へと変えていった。
見上げる空からは、燃えかすの灰が、まるで季節外れの雪のように美しく舞い落ちる。
郷御前は、最期まで「正妻」としての矜持を守り抜き、愛する夫と共に奥州の空へと昇華していったのである。