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遊びをせんとや 生れけむ戯れせんとや 生れけん遊ぶ子供の声きけば我が身さえこそ ゆるがるれ 後白河天皇といえば、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、父親は鳥羽天皇、もともとその四番目の皇子という気楽な立場だったので、若い頃は遊蕩三昧の日々を送っていたという。慈円という坊さんが鎌倉初期に書いた 『愚管抄』 にも、彼が父の鳥羽天皇から、あいつは遊んでばかりで、とても天皇になれる器ではないと思われていた、というような一節がある。 この天皇が、当時、遊女や白拍子など一般庶民の間に流行っていた、「今様」 と呼ばれていた歌謡にこっていたというのは有名な話で、天皇の位をおり出家して法皇となっていた後年、ちょうど鎌倉幕府が成立するかしないかのころに、『梁塵秘抄』 という今様を集めた書物を自ら編纂している。 Wikipediaによれば、今様とは今で言う 『現代流行歌』 といった意味だそうだ。吉本隆明は 『初期歌謡論』 の中で、「『新古今和歌集』 の歌は、とぼけた心酔者がいうほどけんらんたる和歌の世界などではない。いわゆる大衆曲謡に浸透されて俗化し崩壊寸前においこまれていた危機の詩集である」 と書いているが、そういった伝統が重んじられる上流社会にも浸透していった雑芸の代表が、後白河が熱中した今様ということになる。 若い頃のその熱中ぶりときたら、とにかく朝から晩まで一日中歌いどおしで、声が出なくなったことも三度ある。おかげで喉が腫れて湯水を飲むのもつらかったとか、一晩中歌いっぱなしで、朝になったのも気付かず、日が高くなってもまだ歌っていたなどというのだから、尋常ではない。親父殿から、「即位ノ御器量ニハアラズ」 と呆れられたのももっともな話だ。 そういう伝統や伝統的価値観の崩壊というのは、信仰の世界でも同様で、平家は清盛にはむかった奈良の東大寺や興福寺など、「南都」 の大寺院を軒並みに焼き払っている。さすがに、後に信長が比叡山でおこなった皆殺しほどではなかったろうが、これが王朝貴族らに与えた衝撃には、同じようなものがあっただろう。 堀田善衛の 『定家名月記私抄』 によれば、藤原定家はその日記 「明月記」 で、この事件について 「官軍(平氏の軍のこと)南京ニ入リ、堂塔僧坊等ヲ焼クト云々。東大興福ノ両寺、己ニ煙ト化スト云々。弾指スベシ弾指スベシ」 と書きしるしたそうだし、藤原兼実の日記 「玉葉」 には、「世ノタメ民ノタメ 仏法王法滅尽シ了ルカ、凡ソ言語ノ及ブ所ニアラズ」 とあるという。 現世の生を終えたら、次は極楽浄土に生まれたいという浄土信仰が、貴族の間に広がったのは末法思想によるものだが、やがてその教えは、とにかく 「南無阿弥陀仏」 とただ一心に唱えよという法然の教えとなり、中には 「とく死なばや」 などと、物騒なことをいう者も出てくる。一遍などは、身分の上下や男女の区別なく、大勢の信者を引き連れて、踊りながら各地で布教を行った。 こういった状況は、天台座主であった慈円のような、頭コチコチの伝統主義者の目には、きわめて由々しき事態として映っていたのだろう。法然と彼の教団について、「ただ阿弥陀仏とだけ唱えていればよい、ほかに修行などいらぬなどといって、なにも分かっていない愚か者や無知な入道や尼に喜ばれて、大いに盛んとなり広がっている」 などと憤慨している。 慈円は、安楽房という法然の弟子が 「女犯を好んでも、魚や鳥を食べても、阿弥陀仏はすこしも咎めたりはしない」 と説教していたとも書いている。実際、この安楽房という坊さんは、後鳥羽上皇が寵愛する女官との密通という嫌疑により斬首刑に処せられ、さらに法然や親鸞も京都から追放される憂き目にあった。ちなみに、後鳥羽上皇は後白河の孫にあたる。 伝統に挑戦するような新しい教えとかが広まると、正統派を自認する伝統主義者の側から 「異端」 だの 「淫祠邪教」 といったレッテルが貼られるのは、世の東西を問わず、よくあることで、この事件もまた、伝統的勢力の側による誣告が影響した可能性が高い。だが、少なくとも、彼らの眼には、新興の念仏教団が現代の怪しげな 「新興宗教」 のように、なにやらいかがわしいものと映っていたのは事実だろう。 そういったものが、最初から 「無知蒙昧」 な下々の民の間に広がるのはしかたないとしても、それが仏典なども読み、それなりに教養もあるはずの宮中にまで浸透してくるとなると、伝統や文化の守護者を自認していたであろう慈円のような人にとっては、たんに宮廷の保護を受けてきた既得権益者としての利害というだけでなく、まことに世も末というべき 「文化の乱れ」 であり、上流階級としての 「品格」 が問われる事態でもあったのだろう。 若い頃は、「即位の器量にあらず」 と父親からも見放されていたような後白河が天皇になれたのは、先に即位した異母弟の近衛天皇がはやく死んだためだが、親父様からたいして期待されていなかったのは、このときも同様で、後白河をとばして、まだ小さいその息子(のちの二条天皇)を即位させるという案もあったらしい。 しかし、それはあんまりだろうということで、とりあえず中継ぎとして即位することになったのだが、院政をしいて実権を握っていた鳥羽上皇がなくなると、とたんに宮中のいろんな対立が噴き出し、まずは兄の崇徳上皇との間で保元の乱が勃発する。その後、平治の乱から源氏の挙兵、さらに同じ源氏の義仲と頼朝の争い、次は義経と頼朝、頼朝による奥州藤原氏討伐と、次から次へと戦乱が続く。 その中での後白河の行動は、つねにその場しのぎをやっていただけの無定見と見る人もいれば、武士の台頭という大きな歴史的変動の中で、なんとか諸勢力のバランスをとって、朝廷の力を保とうとできる限りの努力をしたと評価する人もいる。ちなみに、頼朝は後白河のことを 「日本国第一の大天狗」 と評したそうだ。 とはいえ、「諸行無常」 という言葉のとおり、次々と諸勢力が勃興しては滅びていく中で、天皇退位後も、子や孫にあたる二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代に及んで院政をしき、後鳥羽をのぞく四人の夭折した天皇より永らえて、65歳まで生き続けたのは、当時としては十分に天寿をまっとうしたと言えるだろう。舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)舞はぬものならば馬の子や牛の子に蹴させてん踏みわらせてんまことに美しく舞うたらば華の園まで遊ばせん
2010.02.18
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「節分」 とは、ほんらい春・夏・秋・冬の季節の分かれ目のことであり、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日を指す。いまでも正月のことを新春と呼ぶ習慣が残っているように、もとは春が新年のはじまりであって、旧正月と暦上の冬と春の区切りである節分はほぼ同時期になる。 ただし、立春が太陽の運行に基づいているのに対し、旧暦は基本的に月の運行に基づいているから、正月と立春の関係はかならずしも一定しない。ときには、年が明ける前に立春を迎えて春になることもあり、そこから、明治に短歌革新を掲げた正岡子規により、「実に呆れ返つた無趣味の歌」 などとぼろくそにいわれた、古今和歌集巻頭のこんな歌も生まれている。としのうちに 春はきにけり ひととせをこぞとや いはむ ことしとや いはむ たしかに、この歌の意味は、年のうちに春が来てしまった、それじゃいったい今日から正月までは、去年になるのか、今年になるのか、どっちなんだ、というたわいもないものだが、「実に呆れ返った無趣味の歌」 とはいささか手厳しい。なお、この歌の作者は在原元方といって、伊勢物語の主人公でもある在原業平の孫にあたる。 「節分」 といえば当然豆まきであり、したがって鬼の話ということになるのだが、大正15年に三田史学会で行われた講演をもとにした、折口信夫の小文 「鬼の話」 は、次のように始まっている。 「おに」 という語にも、昔から諸説があって、今は外来語だとするのが最も勢力があるが、おに は正確に 「鬼」 でなければならないという用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うている。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ (神)と、おに (鬼)と、たま (霊)と、もの との四つが、代表的なものであったから、これらについて、総括的に述べたいと思うのである。 ここで彼が言っている、おにを 「外来語だとする」 説というのが、具体的にどういうものを指すのかは知らない。ただ、すなおに考えるなら、中国から入ってきた 「鬼」 という漢字に 「おに」 という読みがあてられたということは、漢字導入より前に 「おに」 なる言葉があったということになるだろう。ただし、それは、漢字で表された中国の鬼とまったく同じというわけではあるまい。 「魏志倭人伝」 には、卑弥呼について 「鬼道を事とし能く衆を惑わす」 とある。「鬼神を敬してこれを遠ざく」 とは孔子の言葉であり、「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く」 とは、『史記』にある趙高の言葉だが、中国での鬼とは、もともと死霊のことを指す。「怪力乱神を語らず」 と孔子は語ったが、儒教とはもともと祭祀の礼からはじまったそうだから、孔子とて、そのような存在まで否定したわけではない。 ついでにいうと、プラトンの 『ソクラテスの弁明』 によれば、彼は少年のころから 「ダイモンの声」 を聞いていたそうで、田中美知太郎はこの 「ダイモン」 を鬼神と訳している。ソクラテスの罪状は、神を認めず青年を惑わしたというものだが、ダイモンの声をつね日頃聞いている自分が神を認めぬはずがないではないかと論じて、ソクラテスは自己の無罪を主張したということだ。 さて、日本の文献で 「鬼」 という文字が最初に登場するのは、奈良時代に編纂された 「出雲国風土記」 らしい。これには、古老の話として 「昔ある人、ここに山田をつくりて守りき。そのとき目一つの鬼きたりて田作る人の男を食らひき」 という話が残されている。これ以降、鬼は人を襲い人を食らう恐ろしい存在として、様々な史書や説話に登場する。 なかでも有名なのは、源頼光が四天王の一人、渡辺綱に片腕を切り落とされ、のちに綱の養母に化けて腕を取り戻しにきたという、大江山の鬼の話だろう。もうひとつは桃太郎の鬼退治だが、こちらは、崇神天皇によって今の岡山に派遣された四道将軍のひとり、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が、吉備の鬼ノ城を拠点とした温羅という名の鬼を退治したという伝説に基づくという説が有力のようだ。 この吉備津彦命とは、七代目の天皇である孝霊天皇の皇子ということになっており、したがって、奈良の箸墓古墳に埋葬されているとされ、一部の学者によって卑弥呼ではないかとも言われている、倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)の弟ということになる。 こういった鬼についての、『鬼の研究』 という本での歌人の馬場あき子による分類を借りると、日本の鬼はおおよそ次のように分類できる。 (1) 最古の原像である、日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊) (2) 道教や仏教を取り入れた修験道成立にともなう山伏系の鬼(天狗も) (3) 邪鬼、夜叉、羅刹、地獄の鬼などの仏教系の鬼 (4) 放逐者や賎民、盗賊などの「無用者の系譜」 から鬼となったもの (5) 怨恨・憤怒・雪辱など、さまざまな情念をエネルギーとして鬼となったもの 秋田のなまはげのように、新年の民俗行事に登場する素朴な鬼は、おそらく最も古い(1)にあたるだろう。いっぽう節分での鬼退治は平安のころ、中国伝来の宮中行事から始まったそうで、もとは新年の祝福に来ていた(1)の鬼が、その影響を受けて(2)や(3)の鬼に変化したもののようにも思える。 かりにそうだとすると、かつては新年に歓待されていた鬼が、いまや子供にすら豆を投げつけられて追い払われるようになったわけで、ずいぶんと落ちぶれたものだ。最後は、上で冒頭を引用した折口信夫の 「鬼の話」 の結語から。 まれびと なる鬼が来た時には、できる限りの歓待をして、悦んで帰って行ってもらう。この場合、神あるいは鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。すなわち、村々にとっては、良い神であるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、ふたたび、戻って来ないようにするのだ。こうした神の観念、鬼の考えが、天狗にも同様に変化していったのは、田楽に見えるところである。 なお、現代で鬼を比喩に用いるとすると、「土俵の鬼」 とか 「将棋の鬼」 などとなる。「土俵の鬼」 とは初代若乃花(つまり、このたびめでたく協会理事に当選した貴乃花の叔父)であり、「将棋の鬼」 とは大山康晴のライバルだった升田幸三のことだが、このような鬼という言葉からは、ただ強いだけでなく、勝負にすべてをかけ、それ以外のことはいっさい顧みないという、いささか狂気じみたものすら感じられる。 このような表現は上の(5)の応用のようなもので、その強さとは、もちろん相手を圧倒する攻撃を主とした剛の強さであり、したがっていったん受けにまわると、あっけなく敗れてしまうというイメージも伴う。ただし、実際のところ、この二人がどうだったのかまでは、残念ながらほとんど知らない。
2010.02.02
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