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ある政治的変革の最終的な結果として、たとえば近代資本主義的な経済体制が成立したから、その政治的変動が市民革命だと結論付けるのは、単なる結果解釈に過ぎない。歴史の解釈がそれだけの結果解釈ですむのなら、その途中の具体的な政治過程を一つ一つ細かく検証していく作業は理論的な意味のない無駄な作業であり、せいぜい暇な好事家にでも任せておけばいいこということになる。 いや、そもそも歴史というものは、どの一部をとって見ても、なんらかの単一の結果=目的を目指して進む、統一的な過程などではない。その中には様々な意思や利害に基づいた多様な力が存在しており、そのような力のひしめき合いの結果として、最終的にある結果が生み出されるのだと言った方がいいだろう。 明治維新について言うならば、これによって最終的にある程度近代的な社会が成立したことは言うまでもない。そのことの「革命性」自体を否定する人は、たぶん一人もいないと思う。しかし、そこへいたる過程を細かく見ていけば、欧米の圧力の下で日本が生きていくためには、指導者たちの主観的な意思や好みがどうであれ、欧米に手本を取った「近代化」を選択せざるを得なかったということなど様々な要因があるわけで、単純な結果解釈だけですむ話ではない。 フランス革命が市民革命であったことは、その担い手が新興市民階級であったことからも明らかである。では、日本の場合はどうだったのか。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允などの当時の指導者は、確かに欧米の事情にも詳しく進取の精神にもあふれた人達であった。また、一部には武士ではなく、町人や農民の出身者がいたことも事実だろう。だが、幕末から維新にかけての変動を担った指導者らを、総体として市民階級の政治的代表者と呼ぶことは到底できないことだ。 明治維新をどう捉えるのかについては、戦前の労農派と講座派による「日本資本主義論争」以来、様々な議論が行われてきた。大雑把に言えば、労農派は維新をブルジョア革命として捉え、講座派はそれを否定し「絶対主義的天皇制の成立」とする立場であったと言えるだろう。 論争というもののつねで、この論争も結局結論が出たわけではない。当然、どちらの主張にも間違いや行き過ぎはあっただろうし、とくに講座派の側の主張が、市民革命という概念についてフランス革命のような個別の事例をあまりに理念化しすぎていたために、最終的には日本の近代化そのものを否定しかねないような教条的で硬直したものになってしまった感は否めない。 しかし、明治維新が「市民革命」ではないとした講座派の側には、日本の歴史の解釈をヨーロッパの歴史的発展の中から取り出された一般的な原理の機械的適用や、単純な結果解釈だけで片付けるのではなく、日本という固有の社会の歴史的発展の特殊性を、実際の歴史に沿って具体的に明らかにしようという問題意識があったのであり、そのことは現在でも高く評価されるべきだと思う。 論理的理論的なつじつまが合うことは、もちろん合わないよりもいいことである。しかし、だからといってそのことだけを至上価値にすれば、理論は現実とかけ離れたただの「空理空論」になってしまう。そのような「理論」と「現実」の剥離を、丸山はかつて「理論信仰」と「実感信仰」の対立という言葉で表現したのではなかっただろうか。 歴史を含めた人間的社会は、生命のない無機的世界のようには一筋縄ではいかないものだ。だからといって、人間的社会を扱う研究者は、数式や理論ですっきり割り切れる自然科学の世界をうらやむ必要もないし、「おれたちのやっていることは科学じゃないのだ」みたいな変な劣等感を持つ必要もないだろう。 単純な理論だけでは割り切れないところに、人間的社会の特性があるのであり、またそこにこそ自然科学とは異なった社会科学の醍醐味と面白さというのもあるのだと思う。
2007.01.31
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「唯物論」 とはなにかというと、神や精霊、幽霊のような、物質的な基盤を持たない 「存在」 の存在を認めない思想的立場ということになるだろう。 単純に 「唯物論」 といったときは、それ以上の意味は持たない。だから、一言で唯物論といっても、原始的で素朴なものから、発展し洗練されたものまで、いろいろある。言い換えれば、その中には、優れた 「観念論」 よりも思想としての価値が劣る、話にならないくだらないものもあるということだ。 ある思想が 「唯物論」 という立場を標榜していたとしても、そのことだけでそれが価値の高い優れた思想だということにはならない。ちょっとずれるかもしれないが、それは 「進歩的」「革新的」 であることを標榜している作家の小説が、「保守的」「反動的」 である作家の小説よりもつねに優れているとは限らないというのと、同じようなことだ。それとこれとは、まったく別の問題なのである。 しかし、科学というものが、基本的に唯物論の立場に立つことは言うまでもない。生命の誕生やその進化、銀河系や太陽系、地球の誕生、物質の生成といった問題を解明するときに、自分の研究が行き詰ったからといって、芝居の最後に出てくる 「機械仕掛けの神様」 かなにかのように、「それは神様の意思なのでーす」 みたいなことを言い出す科学者がまともな科学者だと思う人は、たぶんいないと思う。もちろん、そのことは、その科学者が個人としては敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒などであったりすることとは、いちおう別の問題だ。 マルクスによれば、労働の産物である 「商品」 が体現する価値の本質は、その商品の生産のために支出され、その商品に対象化された 「労働」 である。パソコンであれ机であれ、目に見える 「商品」 は物質としてみれば、単に鉄や木、プラスチック、ガラスといった素材の組み合わせにしか過ぎない。どんなに倍率の高い顕微鏡で出来上がった 「商品」 を検査してみたところで、その商品の生産に支出された 「労働」 なるものを発見することはできない。 だから、マルクスが言う 「価値の本質」 というものは、なんらかの 「物質的な実体」 などではない。(いちおう断っておくが、ここで問題にしているのはマルクスの 「労働価値説」 の当否ではなく、その論理的な構造である) 三浦つとむの言う言語の本質にしてもそうだ。今は、いちいち彼の著書を参照する暇がないので記憶だけで言うが、彼が捉えた言語の本質は、「言語規範」 (三浦の場合、いわゆる文法だけでなく、社会的に共通して承認されている 「語彙」 (要するに辞書などで説明されている言葉の意味のこと) も、具体的な個人がなにかを表現する場合に依拠する約束事として、「言語規範」 と呼ばれる) を媒介とした 「表現」 ということだ。この表現の中身は、その個人の認識であったり意思であったりするが、いずれにしても 「物質的な実体」 などではない。 ただ、そのような表現は人間自身の身体 (手話などの身振り言語の場合)、紙の上の墨やインク、発光装置による光 (文字言語の場合)、空気の振動 (音声言語の場合)といった物理的な媒体を必ず必要とする。ある人間の認識や意思がそのまま空中をびゅーと飛んでいって、別の人間の頭の中へすとんと入るといったことはありえないし、手と手をつないだり目と目で見つめあったり、おでことおでこをくっつけたりしても、たぶんそういうことは不可能だろう (いちおう、普通の人の場合)。 人間の認識や意思は、まずその人間の脳髄という物質的な存在のなかで成立し、次に必ずなんらかの物質的な媒体に表現として対象化されたあと、別の人間によってその人間自身が社会と共有している 「言語規範」 を媒介として認識されるということになる。 ただし、三浦が言う社会的な 「言語規範」 (言語についての社会的な意識) というものは、憲法や法律のように成文化され、実定的に固定化されたものではない。 普通、人は自分が幼いときから身に付けた言語を使うときにいちいち辞書で確認したりはしないし、同じ単語や表現の場合でも、その意味は個人が育った環境やイデオロギー的立場などによって微妙に異なっている (とくに、「人権」 や 「平和」、「愛国心」 などという、具体性のない抽象的な言葉の場合には、そのような隔たりはきわめて大きくなってくる)。 このような 「言語規範」 はいわば暗黙の了解によって成立しているに過ぎないから、当然きわめて流動的であり、ある言葉の意味が、いつのまにかまったく反対のものになっていた、なんてことも珍しくはない。使われなくなった言葉はやがて消えていくし、それと反対に新しい言葉も次々登場してくる。それに、ある人によって言葉で表現された内容を別の人が正しく認識できるかどうかは、当然のことだが、受け取る側の言語や論理、思考の能力によっても左右される。 そういうわけで、言語を媒介とした人間のコミュニケーションにはいつの時代にも 「誤解」 がつきものということになり、また、そのことを逆手にとって、「失言」 を非難されると「それは誤解だー」 みたいな弁明で言い抜けようとする大臣も出てくるわけだが、三浦つとむが解明した 「言語の本質」 というものも、以上のようにけっして 「物質的な実体」 などではない。ただ、それはなんらかの 「物質的な存在」 によって担われなければ存在し得ないというだけのことだ。その意味で、彼の言語論は、「言語の本質」 を 「物質的な実体」 に求めるものではないにもかかわらず、唯物論的なのだ。 前にもちょっと書いたが、「現象論」-「実体論」-「本質論」 という武谷三男の 「三段階論」 では、「本質論」 は 「実体論」 の先に置かれている。単なる物理的な実体に関する議論は、いまだ 「本質論」 ではない。「実体論」 からさらに、そこで解明された実体同士の法則的な関係の追求まで進まなければならない、というのが彼の主張なのだ。だが、このような 「実体」 のさきに 「本質」 を求めよという主張は、ヘーゲルかぶれの 「観念論」 だとして、当時の党公認の主流的な理論家や権威ある自称唯物論哲学者などから激しく批判され攻撃された。 しかし、単なる 「物質的な実体」 そのものを見つけ出して、「これが本質だ」、「はい、それまーでよ」 というのは、原始的で素朴な唯物論の立場であり、三浦つとむの言葉を借りれば、「客観主義的に偏向した」「俗流唯物論」、「タダモノ論」 の立場に過ぎない。そのことは、価値をめぐるマルクスの議論からも明らかだろう。 「唯物論か観念論か」 みたいな問題が、なにも今の時代にことさら問われなければならない大問題だなどとアナクロなことを言うつもりはないが、原理的に言う限りでは、唯物論の立場からは、意思や認識、表現、表象、経験などといった主観的な問題や観念的な問題を扱えないなどということはけっしてないはずである。
2007.01.29
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社会学者、宮台真司氏によれば、宗教とは次のように定義されるらしい。 前提を欠いた偶発性は予期外れの衝撃を収拾不能にし、意味あるものには意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定にします。前提を欠いた偶発性は何らかの形で受け入れ可能なものに意味加工される必要があります。そうした機能を果たす社会的装置が宗教です。 この定義をもっと簡単に言い直せば、要するに治りようのない病気とか避けようのない事故などの、理由もなく自分に責任もない不幸にあった人間が、「なんかよう分からんけど、これは神様の意思なんや。自分のようなちっぽけな人間には理解できない、神様のふかーい思し召しなんや」 みたいにして、自分を納得させる装置が宗教なんだということだろう。 氏によれば、彼自身によるこの宗教の定義は、これまでの次のような定義に含まれる難問を乗り越えたものだそうだ。■第一は、聖俗二元図式を用いて、聖なるものや聖なる体験を宗教と呼ぶ定義。社会学者デュルケームや甥の人類学者モースが用いました。しかし聖なるものとは何かを巡ってこの定義は困難に陥ります。宗教定義の困難を聖なるものの定義の困難に移転しただけです。■聖なるものを非日常的体験やトランス状態によって──日常的体験やシラフ状態との差異によって──定義するのが経験に即します。でもそうすると、ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます。■第二は、究極性や最高性を宗教的なものと見做す定義です。様々な価値には前提被前提関係がありますが、前提とされるものを遡及し続ければ究極価値や最高価値が見つかるので、それを宗教と呼ぶ。先の定義が体験に即するのに対し、これは論理に即したものです。■しかしこの定義にも、先の定義同様、日常的に宗教と呼ばないものが含まれます。ケルゼン流の概念法学で把握された憲法は定義に合致するし、俗に言う「科学万能主義」の世界観も定義に合致しますが、私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います。 以上、宮台氏による「宗教システムとはなにか(上)」より いきなり、結論を言うのもなんだが、私はこの人による宗教の定義を読んで、「なんだ、つまんねー」 としか思えなかった。 宮台氏が依拠する 「社会システム論」 というのは、社会を様々な機能を担ったサブシステムの集合と見るもののようだ。この理論の当否についてはいずれ考えてみたいが、要するに氏は宗教も社会を構成する一つのシステムと捉え、その機能を上のように定義したということだろう。 話はずいぶんとぶが、かつてソビエトではスターリンによる 「大粛清」 なるものがあった。 この粛清は、1934年のキーロフ暗殺事件をきっかけに始まったもので、最初はスターリンに対するかつての反対派(トロツキーの支持者など)を対象にしていたが、やがてスターリン自身の忠実な部下たちにまで及んでいく(いわゆるトカゲの尻尾きりみたいな話)。 実際、スターリンの手足となって一生懸命粛清を実行したエジョフという男も、あまりに熱心すぎて社会を混乱させたために 「スパイ活動、国家に対する反逆、スターリン暗殺計画」 などという滅茶苦茶な容疑で逮捕され、銃殺されている。 なんで、こういう話を持ち出したのかというと、それはこういうことだ。 「偉大なる指導者」 スターリンを神のように信奉している者が、ある日突然逮捕されシベリアに送られたとする。「革命の英雄」 スターリンを二心なく崇拝しているこの男にとって、そのような現実はまさしく晴天の霹靂であり、不条理そのものである。まるで神と悪魔の賭けに巻き込まれた旧約聖書のヨブのような話だが、はたして、彼はこの 「前提を欠いた偶発性」 にどのように対処し、どのようにして 「受け入れ可能なものに意味加工」 するだろうか。 答えは簡単だ。 自分には罪はない、偉大なる同志スターリンにももちろん罪はない。悪いのは、偉大な指導者の周りにいるやつらだ(君側の奸といいます)。スターリン同志は、本当のことを知らされていないのだ。きっと騙されているのだ。 こうして、彼は自分を慰め、なんとかしてこの物語によって 「前提を欠いた偶発性」 を 「受け入れ可能なものに意味加工」 して心の平安を保つことで、何年にも及ぶ苦難に満ちた収容所生活を耐え忍ぶというわけだ。たとえ話のようだが、こういう話はソルジェニーツィンの 『収容所群島』 などを読めば、実際にいくつでも見つけることができるだろう。 すると、宮台氏の定義によれば、この彼の 「スターリン崇拝」 は宗教だということになるのだろうか。 いやいや、それこそ 「私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います」 というのと同じような話になるだろう。 とりあえず、宗教というものを一言で定義するとすれば、私は 「天上の世界」 についての意識だと思う。 宮台氏の宗教についての定義は、どう見ても宗教について一番肝心なところを逃している。いや、むしろもっとも困難な問題をことさら回避しているとしか、私には思えないのだ。しかし、どこかの諺によれば、「ドアから追い出した泥棒は窓から入ってくる」 という(ちょっと違うかも)。 もちろん、宮台氏は社会学者であって宗教学者ではない。だから、そのような問題についての解明を求めるのは、「木によりて魚を求める」 ようなことなのかもしれない。だが、少なくとも氏が批判している宗教に関する過去の定義は、「宗教とはなにか」 という難問に正面から答えようとしている。 「機能主義的論理はなぜつまらないか」 というお題の意味は、そういうことだ。追記: 宗教を 「聖なるもの」 とする従来の定義に対する、「ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます」 という氏の批判も、いささか的外れだと思う。 そもそも、ここで問題になっているのは、宗教においては、たとえば 「聖地」 であったり 「聖なる山」、「聖なる森」、「聖なる石」、お釈迦様やキリストなどが残したとされる 「聖なる遺物」 のような一定の対象が 「聖なるもの」 として社会的に共通して認識されており、宗教に関わるものは神聖なものとされているということだろう。これは社会的に共通して成立している(近代以前においては、宗教は基本的に共同体と一致している)意識の問題であり、したがって、当然に社会学の対象となりうるし、またならなければならない。 だから、ここで聖テレジアだとかパウロだとか、あるいはスウェーデンボルグとかブレイクのような特別な人だとか、でなくとも特別に厳しい修行の結果でしか得られないようないわゆる「 神秘体験」 を持ち出してきて、そんなものは了解不能だみたいな批判を行うのは筋違いであり、ためにする批判のように思える。 実際、ほとんどの宗教の場合、ごく普通の一般信者は特別な 「神秘体験」 などなくても、宗教や宗教にまつわる様々な事物を 「聖なるもの」 として信仰しているのだから。
2007.01.26
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デモクリトスは、BC5世紀から4世紀にかけて生きていた人と言われています。一方、エピクロスはほぼ彼と入れ違いに生まれたようで、BC4世紀から3世紀にかけての人だと思われます。 一般にデモクリトスは古代原子論の父と言われており、エピクロスはそれから何代か隔てた、彼の思想の継承者だということになります。 マルクスが指摘した「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異」ということは、古くから論じられていることで、たとえばローマ時代の哲学者キケロは次のように言っています。 「エピクロスは、もしも原子がみずからの重さのために落下すると、原子のこの運動は確定された必然的なものとなり、人間の力が及ばなくなることを見抜いた。そこでエピクロスは、この必然性から逃れる手段を見つけたが、これはデモクリトスも気付かなかったことだ。エピクロスは、原子はその重さと重量のために上から落下するが、わずかに逸れるというのである。こんなことを口にするのは、言いたいことをきちんと主張できないよりも、もっと恥ずかしいことだ」 『神々の本性について』 これに対して、エピクロスを支持するローマの詩人ルクレティウスのほうは、次のように言っています。 逸れる習慣がなければ 原子の衝突も起こらず、打撃も起こらず (自然は)なにも生み出さなかっただろう 『事物の本性について』 このルクレティウスの詩は、原始的な宇宙の生成に関する現代の理論とそっくりのように思えますね。 もともとストア学派というのは「必然性」を重んじる立場だし、エピクロスは神様の存在こそ否定しなかったものの、「神様は神様、人間は人間。神々なんて、おれたち人間には関係ないね」みたいなことを言った人だから、後期ストア派のキケロが彼に厳しいのは仕方がないでしょう。ただ、エピクロスの原子の「逸れ」が必然性を破るものだというキケロの指摘は間違っていないし、逆にエピクロスの原子論を支持する側もそこを評価しているわけです。 デモクリトスの自然哲学が必然的な運動を原理としているのに対して、エピクロスは次のように言っています。 「必然性がすべてのものを支配する女王であるという主張もある。しかしじつは必然性などというものは存在しない。偶然に生まれるものがあるし、人間の恣意によって生まれるものもあるだけだ。必然は人間の手に負えないものであり、偶然は定まらないものだ。自然学者は宿命なるものを唱えるが、その奴隷になるくらいなら神々についての物語を信じているほうがましだ。神話を信じていれば、まだ神々を敬うことで願いが聞き届けられるという希望がある。ところが宿命なるものを信じてしまうと、過酷な必然性しか残らない。多くの人々が神の働きだと信じているものは、じつは偶然の働きなのである」 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』より このような、宿命という必然性を否定するエピクロスの立場こそが、22歳の青年マルクスが熱烈に支持したものです。 彼は、エピクロスの自然哲学の原理を次のようにまとめています。 しかし、実は自己意識の絶対性と自由こそが、エピクロスの哲学の原理なのである。ただし、自己意識は、その個別性の形式でしか捉えられていないのだが。 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』 この当時のマルクスは、ヘーゲル哲学の解体によって生まれたいわゆる青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の中のバウアー(バウエル)派に属しており、言葉遣いはヘーゲル哲学そのものですが、自己意識という概念は人間の主体性、あるいは主体的な人間といった意味になると思います。 ここで指摘された「個別性の形式でしか捉えられていない」自己意識が、次にフォイエルバッハの「類的存在」という思想を学ぶことにより、普遍的な立場へと進んでいくのだと思います。 この時期のマルクスは完全に観念論の圏内にいます。そのため、この彼の論文は、従来好事家的な人の興味の対象にしかなっていませんでした。せいぜい、物好きな人によって、ここに後の唯物史観の萌芽があるとか、あそこに階級闘争論のつぼみがあるとか言われる程度の話です。 しかし、偉大な思想の発展とは、かつて吉本隆明が指摘したように、その思想を一貫して貫いている原理の問題なのだろうと思います。そして、その原理とは、この場合一言で言えば「必然の王国」から「自由の王国」へということになるのだと思います。このマルクスの「学位論文」をコレクションに採録して広く読めるようにした編集者は、さすがであります。 最後に、エピクロスの言葉をいくつか紹介することにします。 「それらのアトムの中には、(A)相互にかなりの距離を隔てて運動しているものもあれば、(B)その場所(合成物のなか)で振動を続けているものある」 「世界は無限に数多くあり、そのあるものは、われわれのこの世界に類似しているが、他のものは、類似していないのである」 「われわれが声を出すときに、われわれの内部に生じる衝撃が、呼気に似た流れを作り上げるところの、ある種の粒子たちをただちに押し出すのであり、そしてそのことがわれわれに聞こえるという状態をもたらすのだと考えるべきである」 「さらにまた、もろもろのアトムは、それらに衝突するものが何もなくて、空虚の中を運ばれていくときには、必ず等しい速さで運動するものでなければならない」 エピクロスだけに限りませんが、このような古代ギリシアの哲学者の思想は、科学か哲学かというような、煩瑣であまり意味があるとは思えない議論を超えた、人間の思惟、すなわち理論的理性の力というものの強さとすばらしさを教えてくれているように思います。 なお、文中の引用の多くは、ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)に拠っています。
2007.01.25
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つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。 この頃、つくづくあきれているのであるが、所謂 「老大家」 たちが、国語の乱脈をなげいているらしい。キザである。いい気なものだ。国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。 あやまればいいのに、すみませんとあやまればいいのに。もとの姿のままで死ぬまで同じところに居据ろうとしている。 これは、太宰治が戦後に 「小説の神様」 志賀直哉を相手取って書いた、激烈な批判「如是我聞」の一節です。太宰は、本当は楽しくて面白い 「うそ話」 を書く才能を持っていた人のように思います。 さて、次はなんでしょうか。 日本の敗れたるはよし 農地の改革せられたるはよし 社会主義的改革も行わるるがよし わが祖国は敗れたれば 敗れたる負い目を悉く肩に荷うはよし わが国民はよく負荷に耐え 試練をくぐりてなお力あり 屈辱を嘗めしはよし 抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし されど,ただ一つ,ただ一つ いかなる強制,いかなる弾圧 いかなる死の脅迫ありとも 陛下は人間なりと仰せらるべからざりし (中略) などてすめろぎは人となりたまいし。 などてすめろぎは人となりたまいし。 などてすめろぎは人となりたまいし。 これも激烈ですね。言うまでもなく、これは三島由紀夫が神がかり状態で一晩で書き上げたという 「英霊の声」 の一節です。 三島由紀夫についてはあまりいい読者ではありません。いいと思ったのは 「仮面の告白」 と 「金閣寺」、それに 「豊饒の海」 四部作のうち 「春の海」 と 「奔馬」 くらいです。 三島は作品では自分をあまり語らなかった人ですが、私はどちらかというと作品よりもこの人自身に興味があります。たしか三島の葬儀で、武田泰淳が 「もう頑張らなくていいんだよ」 みたいなことを言っていたような。 彼は若くして文壇に登場したことでよく天才の代表のように言われますが、実はつねに勉強と努力を怠らなかった刻苦奮闘型の人ですね。小説を書くときも、一日何時間かけて何枚書くかをノルマにしていたという律儀な人だったそうで。その意志の強さは、病弱でひょろひょろしていた体を、ボディービルやボクシング、剣道で筋肉隆々に鍛え上げたことにも現れています (こんなことは、私のような意志薄弱で安きに流れがちな人間にはとても真似できません)。 小説を書くとき、彼は最後の結末の文章まできちんと考えてから書き始めたそうです。彼の小説には、たいていなにか作り物めいたところがあって、「憂国」 や 「英霊の声」 のような作品は別にしても、そこが今ひとつ好きになれなかった理由でしょうか。 深沢七郎や野坂昭如を発掘したのも彼で、その点には自分と正反対の人でも認める鑑賞力の高さを感じますが、自分とは違って刻苦奮闘のあとなど微塵も感じさせず、しかも破天荒で野放図な小説を書けるそのような人こそが本当の天才だと、彼はたぶん内心羨みながら思っていたのだろうと思います。 太宰も三島も、自分の才能と時代との間にずれがあったところに 「悲劇」 が生まれたような気がします。 さて、ここで浮かんだのが 「批判とはねじれた愛の表現である」 という命題であります。 ことわざにもありますね。「可愛さあまって憎さ百倍」 と。 ただし、これは必ずしも一般化はできませんが。
2007.01.23
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内田樹氏の 「さよならマルクス」 という記事に対して、池田信夫 (有名なエコノミストだそうですが、詳しいことは知りません) という人が次のような批判を行っている。 たしかにマルクスは児童労働の悲惨な状況を描いたが、「競争原理から子供を守れ」 などと主張したことはない。それどころか、彼は次のように書いているのだ: この [ロバート・オーウェンの] 教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもある。(『資本論』第1巻 原著p.508) さらに、池田氏は 「(マルクスは)後年の 『ゴータ綱領批判』 では、もっとはっきり書いている」 という。 児童労働の全般的な禁止を実行することは ―― もし可能であるとしても ―― 反動的であろう。というのは、いろいろの年齢段階に応じて労働時間を厳格に規制し、また児童の保護の為にその他の予防措置をするなら、生産的労働と教育とを早期に結合する事は、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つであるからである。 (以上、池田氏のブログ記事 「マルクスにさよならをいう前に」 から) いまさら指摘するのもあほらしい話だが、オーウェンの主張にしてもマルクスの主張にしても、そこで言われている 「労働」 は、個々の人間の身体的人格的な発達にも欠かせない人間の本源的活動としての労働なのであって、利潤追求のための安い労働力として利用される 「児童労働」 や、強制的半強制的な苦役としての労働とは全然別の話である。それは、彼が引用している文章からも明らかなのだが、池田氏自身はそんなことにも気付いていないようだ。 そのような違いを抜きにして、マルクスが 「競争原理」 のもとでの児童労働を容認したかのような引用を行うのは、これはもう恣意的引用としか言いようがない。 池田氏は、「公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ」 と、一見ラジカルそうなことを言う。この言葉に付け加えるなら、公教育は雇用している児童からの収奪しか考えない利己的な個別資本の立場を超えた、「労働力商品」 の持続的な再生産という総資本の立場と、社会の存続という国家的な見地から導入されたものということができるだろう。 「歴史的には(途上国では今でも)子供は労働力である」 「学校だけが、社会のルールから保護された楽園であるはずもない」 だって? そりゃあ、そうだろう。そんなことは、誰でも知っていることだ。で、だからどうしようというのだ。誰でも知っている程度のことを、さも自分しか知らないことのようにごたいそうに持ち出すのは、失礼ながら、かえって自分自身の無知と非常識をさらけ出すものだと思う。 池田氏は、「運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう」 と、皮肉のつもりなのか、どこかで聞きこんだらしいことを言ったあとに、「マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない」 と、結論付けているが、これもまた著しく曖昧で意味不明な言葉だ。 もし、池田氏が「マルクスは競争一般を否定したこともないし、画一的な平等を実現すべきだと主張したこともない」というつもりであったのなら、それはそうだ。 しかし、マルクスが一貫して批判したことは、人間が 「競争原理」 なるものの奴隷になっているという状況であり、社会が 「持つもの」 と 「持たざるもの」 に分裂し対立しているという事実ではなかっただろうか。そんなことは、いちいち引用する必要もない常識だ。 もしも池田氏が 「マルクスは競争原理を否定したこともない」 などという言葉 (そもそも、池田氏の言う 「競争原理」な るものの意味が不明確なのだ。運動会のような子供同士の無邪気な 「競争」 と、市場原理のもとで人間に押し付けられる社会的な 「競争」 とを、同じ 「競争原理」 という言葉で同列に論じようというのではお話にならない) でもって、読者に対してマルクスはすべての競争を容認していたかのように印象付けようとしているのなら、それはまったくの嘘であり、論理的な詐術というものだ。 「『さよなら』をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか」と、池田氏は言っている。 別に私は内田氏のファンでも 「良き読者」 でもない。内田氏の文章で手元にあるのは、ちくま文庫版の加藤典洋氏の 「敗戦後論」 に書かれた解説ぐらいなものである。それも、二度目に読み返したときに、最後の解説をあらためて開いて初めて気がついた程度にすぎない。 だから、内田氏のマルクスの読み方を弁護するつもりもないのだが(もちろん、そんな必要もないだろうが)、そもそも池田氏は今の時代にもマルクスはもっと読まれるべきだと言いたいのだろうか。いやいや、どうもそういうわけでもないらしい。 結局、この人は 「自分のほうがマルクスを正しく引用できますよー」 と自慢したいだけなのだろうか。しかし、「正しく引用できること」 は、必ずしもその内容を正しく理解できているということは意味しないのだ。それにしても、なんとも奇怪な 「マルクスの読み方」 である。
2007.01.21
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人間に尊厳というものがあるとすれば、それは人間がある意味で互いに理解不能であり、したがってまたなにをしでかすか根本のところでは分からない不可思議な存在であるということと同義ではないだろうか。 子どもの自殺、動機なき殺人、そういった一見不可思議な事件が起こるたびに、原因はなんだったのか、予兆はなかったのか、責任は誰にあるのかといった議論が繰り返される。 そういった議論がすべて無益だとは言わない。たぶん、なにか予兆はあったのかもしれない。そういった予兆を正しく認識できれば、確かに事件を防止することは可能かもしれない。しかし、多くの場合、予兆が予兆であったことは、事件が起きてからはじめて分かるものだ。 生徒を指導する技術(私は大学卒業後、20年間中小零細塾で小中学生を教えていました)、部下を指導する技術、犯罪者を矯正する技術、アルコールや薬物の中毒者を矯正する技術、精神的なトラウマを抱えた人を治療する技術 私は心理学については、フロイトやユングといった古典的な著作をいくつか読んだことがあるに過ぎない。だから、たぶん最新の心理学の成果に基づいたであろう、上のような技術の一つ一つについて論じる資格はない。その中には、たぶん現実に必要とされ、また実際に役立っているものもあるのだろう。 しかし、このような人間を対象とする技術の中には、人を錯誤に陥らせて瞞着する技術(大は政府による世論誘導、企業による誇大な宣伝広告から、小はちんけな詐欺師まで)、ごく普通の若者を上官の命令によって躊躇なく引き金を引ける兵士に育てあげる技術、捕虜を心理的に追い込んで自白を強要する技術、そういったものも含まれる。 実際、アメリカなどの先進国ではこういったことのために、人間の心理やコミュニケーションに関する研究者らが政府によって動員され、その成果が具体的に応用されているというような話もよく聞くではないか。 たとえば、デーブ・グロスマンという人が書いた 「戦争における 『人殺し』 の心理学」 という本(ちくま学芸文庫)には、次のようなことが書いてある(この本の著者はアメリカ陸軍で職業軍人を長く務めた人だそうです。この本の題名は恐ろしげですが、内容は非常に示唆に富んだ洞察力の高い著作です)。 これから見てゆくように、現代的な訓練または条件付けの技術を応用すれば、威嚇したい(引用者ー 実際の殺傷行為ではなく、単なる威嚇に止めておきたいという意味です)という人間の性向をある程度克服できる。事実、戦争の歴史は訓練法の歴史といってよいほどだ。兵士の訓練法は、同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服するために発達してきたのである。 現代戦においては、訓練および殺人能力におけるこの心理的・技術的な優位性が、つねに決定的な要因として働いている。 ということは、文明化され啓蒙された兵士とは、要するに 「同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服」 した兵士だということになるだろう。啓蒙には野蛮が、進歩には退歩がつねに寄り添っているというのは、そういう意味だ。こういった訓練が現実に有効であることは、一兵卒から中佐にまでのぼりつめ、陸軍士官学校の教授を務めた人の言うことだから間違いあるまい。 だから、人間を対象にした技術に一定の有効性があることは否定できない。 また、そのような技術が技術それ自体としてだけでなく、場合によっては社会や当該の個人にとっても有用な場合があることも否定できないだろう。 しかし、このような人間を対象とする技術というものの根底にあるのは、なんなのだろうか。技術とは対象=客体を操作可能なものと見て、そのために体系化された主体的=客体的な働きかけを行うものということができるだろう(武谷三男の言葉を借りれば、「客観的法則性の意識的適用」 ということになる)。そのような科学的で技術主義的な発想が、近代文明の発展を可能にしてきたことは言うまでもない。 だが、そのような技術的発想は、はたしてそのまま人間にも適用できるものなのだろうか。人間を操作主体と操作客体とに分割し対立させるような発想自体には、なにも問題ないのだろうか。単に、そのような技術も悪用せずに、正しい目的のために上手く使いこなせばいいということなのだろうか。 私は、そこではたと考え込んでしまうのだ。 人間が肉体的心理的な技術によって、ああにでもこうにでも作り変えることのできる操作可能な対象であり、またその行為がなんらかの観察によって客観的に予見可能なのだとしたら、人間は結局生命のない死んだ事物と同じだということになりはしないだろうか。 人間は、はたしてここをこうすればこうなる、あそこをああすればああなる、というような単純な存在なのだろうか。 もしそうだとすれば、人間の自由だとか尊厳だとかいう言葉は、すべて中身のないただの作り話だということになりはしないだろうか。人間は、実験室の中で科学者や研究者によって様々な行動や反応を測定されている、哀れな動物たちと同じだということなのだろうか。 以上、なんの結論もでない取り留めのない話でした。
2007.01.18
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マルクスの座右の銘というと「すべてを疑え」ということになっているが、これはたしか晩年のマルクスが娘たちに「お父さんの大好きな言葉は?」と聞かれたときに答えた言葉だということを何かの本で読んだような覚えがある。 いうまでもなく、「すべてを疑え」ということは「いかなる権威も自明のものとして受け入れるな」ということと同義である。 「日本語はどういう言語か」や「レーニンから疑え」、「認識と言語の理論」などの著作で知られる三浦つとむ(1911~1989)という人は、たしか小学校しか出ていない人だ。たぶん戦前の左翼文化運動の末端と関係を結びながら、独学でマルクスを学んだのだろう。ガリ版の筆耕を職業としながら、研究を続けていたということだ。 彼が先達として尊敬しているディーツゲンという人は、エンゲルスによって 「この唯物論的弁証法は、……われわれが発見したばかりでなく、そのほかになお、われわれとは独立に、またヘーゲルからさえも独立に、一人のドイツの労働者ディーツゲンによっても発見された」(フォイエルバッハ論)と賞賛された人だが、その彼もまたなめし革職人として生計を立てていた独学の人であった。 三浦つとむの研究の内容についてはいろいろなサイトで紹介されているので、ここではとくに論じない。とにかく、彼は戦後すぐに登場すると同時に、戦前の姿そのままで再登場した旧唯研理論を客観主義的偏向とする批判を展開しだした。やがて、彼の批判は国内の理論家や学者だけでなく、レーニンやスターリンの国家論や真理論の誤りにまで及ぶようになった。 彼が批判した相手には、たとえば東大教授の哲学者であった出隆などがいるが(たしかそうだったような)、いずれも旧制高等学校やかつての帝国大学を卒業したインテリばかりであった。 小学校しか出ていない男が、天下の東大教授(彼は丸山真男の政治学も批判しています)や帝大を卒業したご立派な理論家を批判したり、ましてやレーニン、スターリンまで間違っているなどと言い出すとは(フルシチョフによるスターリン批判よりも前のことです)、いったいなにごとか。この男、ちょっとどこかおかしいのではないか。 たぶん、当時の彼に対する大方の評価というものは、そういうものであったに違いない。 今でも、彼の主張はアカデミズムではまだまだ無視に近いようだ。それでも、彼の著作は、彼が彼が批判した相手の、レーニンやスターリンなどの当時の権威によりすがっただけの中身のない著作よりもはるかに長生きしている。 私は、このような人たちには遠くおよばない存在である(いまさら、言うまでもないことでした)。しかし「すべてを疑え」と言ったって、アインシュタインの相対性理論は正しいかどうかとか、宇宙誕生に関するビッグバン理論は正しいかなんてことを言っているわけではない。そんな話は私の理解を遠く越えた話だし、それにそんなに関心を持っているわけではない(いわゆる「啓蒙書」の類はたまに読みますが) だが、自分が本当に関心を持ち追求してみたいと思う問題については、このような先達を模範として「すべてを疑え」ということをモットーとしたいと思っている。もちろん、この疑うべき「すべて」の中には、自分自身も含まれている。 私は別に体系的な勉強などをやっているわけではないし、そんなものを目指すつもりもない。そのときそのときの思いつきで、あっちこっちときままに飛んでいく糸の切れたたこみたいなものだ。だが、少なくとも何かについて語るときには、そういう姿勢を守りたいと思っている。 「真理を求める」ということは、そういうことだと私は思っている。
2007.01.17
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エピクロスは、原子が空虚の中を三つの方法で動くと考えている。まず原子は直線的に落下する。次に原子は直線からそれて動く。第三の運動は、多数の原子の反発によって生じる。最初と最後の運動については、デモクリトスもエピクロスも同じように考える。エピクロスがデモクリトスと異なるのは、原子の直線からそれる動き(デクリナティオン)を想定しているところにある。 これは、マルクスが22歳のときにイエーナ大学に提出した、「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」という学位論文の一節です。引用は、筑摩書房の「マルクスコレクション I」に基づいています。訳しているのは中山元さんです。 エピクロスは一般に「快楽主義」の哲学者と言われていますが、彼の言う快楽とは酒池肉林のごとき肉体的快楽ではなく、現実のわずらわしさから解放された精神的な快楽=幸福のことを言います(こういうことは、高校で「倫理社会」を学んだ人にとってはもちろん常識の範囲でしょうが)。 彼はそのような状態のことを「アタラクシア」と呼んでいます。 一方、エピクロス派と対比されるストア学派のほうでは(ストイシズムとかストイックとかの語源です)、激情から解放された精神の平安を理想として「アパティア」と呼んでいます。これはアパシー(apathy)という言葉の語源で、現代では三無主義(無関心、無感動、あとひとつはなんでしたっけ? 無表情? おっと、違いました。今調べたら、「無気力」「無関心」「無責任」の三つだそうです)を連想させる、否定的な言葉になっていますね。 両者とも、ギリシア世界がアレクサンドロスの遠征によってポリスというちんまりとした市民共同体の集合から世界帝国=ヘレニズム世界の単なる一部に変貌したことを受けています。 ソクラテスが若者を惑わしたと言う罪で告発され有罪を宣告されたときに、「悪法も法である」と言って逃亡も脱獄も拒否し毒を飲んだ話は有名ですね。しかし、この言葉の背後にあるのは、小規模な市民共同体であるポリスを理想とし、そのようなポリスによる決定を正邪を問わず守ることは、市民としての自分の義務であるという彼の考えでしょう。ですから、本来この言葉は、市民共同体による直接統治というポリスのあり方と結び付けて解釈されるべきなのだろうと思います。また、この言葉は「悪法」に対する批判や抵抗を封じるものでもありません。ソクラテスは自分の無実をあらゆる機会を使って積極的に主張したうえで、最終的な決定を自身もその一部である共同体の意思として受け入れているのですから。 このような市民共同体が世界帝国の中に溶解し、公共生活への市民の参加が閉ざされたところに成立したのが、「アタラクシア」や「アパティア」を理想とし、個人的な徳や精神の平穏を重視するエピクロス主義やストア主義だということになります。 ストア主義のほうがローマ世界に受け継がれて、セネカ(暴君ネロの家庭教師を務め、のちにこの教え子から自殺を命じられた人です。安倍晋三現首相の家庭教師だった平沢勝栄さんの運命も、ちょっと気になるところですが)や哲人皇帝と呼ばれるマルクス・アウレリウス(五賢帝の一人でもあります)を生んだのに対して、エピクロス派のほうは、詩の形式でエピクロス哲学を説いた「物の本質について」を書いたルクレティウスぐらいしか後継者はいません。まあ、そのことがエピキュリアン=快楽主義者という後生の誤解を生んだ原因の一つなのでしょう。 さて、なんでこんなことを書いているのでしょう。 実を言うと、「M17星雲の光と影」さんの「平方根の法則」(2006.09.28)に書かれていた、福岡伸一さんのブラウン運動に関する説明に触発されたからです。M17星雲さんは(勝手に略してすみません)、次のように書かれています(勝手に引用してすみません)。こういう微粒子の運動する様を観察すると、すべての粒子が同じ方向へ動いているわけではないことがわかる。中には重力に逆らって上に向かって動いたり、多数派とは逆の方向に、すなわち濃度の低い方から高い方へと移動している粒子も観察される。しかし、統計学的に処理すると、そのような「はぐれもの」粒子の頻度は「平方根の法則(ルートnの法則)」に従うそうである。たとえば100個の粒子が運動するとき、10個程度の粒子は平均的な動きから外れたふるまいをする。これは統計学から純粋に抽出される法則だそうだ。 で、この部分を読んで、それってエピクロスが2000年前に言った「原子の直線からそれる動き」とぴったしじゃないって、思ったのです。 エンゲルスは「最初の素朴な見方は、概して後の時代の形而上学的な見方よりも正しい」(たぶん「反デューリング論」あたりでしょう)と言っています。実際、地球球体説も地動説も、すでにこの時代に提出されているのですからね。これはすごいことです。
2007.01.16
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「自由とは必然性の洞察である」 とは、エンゲルスが書いた 『反デューリング論』 にあるヘーゲルをもとねたにした言葉だが、昔から評判が悪い。 なになに、とすると必然性を洞察してその必然性に従うことに自由が存在するというわけか。 というわけで、かつて 「未来はプロレタリアートのものである」 ということが素朴に信じられた時代には、早合点したインテリはあわてて 「プロレタリアートの立場」 なるものに移行し、やがて弾圧という現実の壁にぶち当たると、またあわててもとの道に引き返した。ほんでもって、戦争が終わると 「革命の必然性」 とやらで、またもやくるりと身を翻す。 社会の情勢が変わるたびに右を向いたり左を向いたりと、なんとも忙しいことだ。 そんなふうに時代の必然性とやらを洞察して、つねにその方向に身を処すというようなやり方を見せ付けられては、ヘーゲルの言葉が胡散臭く思われても仕方がない。 自由とはいうまでもなく人間の主体性を前提にする。自分の主体性なしに、風見鶏のようにあっちにふらふら、こっちにふらふらしておいて、「君々、自由とは必然性の洞察なのだよ」 なんてことを偉そうに言っていちゃあ、それはただの無責任じゃないのと言い返されてもしょうがない。 で、エンゲルスもヘーゲルさんも、本当にそんないい加減な人だったのかしら? まずは、エンゲルスの言葉から 「意志の自由とは、事柄についての知識を持って決定をおこなう能力をさすものにほかならない」 次はヘーゲルさん これと反対の見方は、自分の身にふりかかることを、他人や恵まれぬ事情やのせいにする見方である。これは再び不自由の立場であり、不満のもとである。自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。 「小論理学」より ヘーゲルさんの言葉はいささか誤解を招きそうだが、ここで彼が言っているのは要するに、事態をきちんと把握しきちんと予測した上で行動した場合は、その結果がどうであろうと自分でちゃんと引き受けなさい、あとになって、こんなはずじゃなかったみたいな泣き言をいうもんじゃありませんよということだろう。 つまり、たとえばアメリカを相手にした前の戦争みたいに、どう考えたって勝てるはずもない戦争を 「ひょっとしたら勝てるかも」 なんて甘い予測やいい加減な期待でおっぱじめるのは一見すると自由な行為のように見えるけど、本当は自由じゃないのですよということだ。何故なら、そんな甘い予測や期待でもって始めた行為は、当然ながら 「鉄の必然性」 によって強烈なしっぺ返しを受けるからだ。 エンゲルスはこうも言っている。 他方、無知に基づく不確実さは、異なった相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、自らの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象に自ら支配されていることを証明するのである。『反デューリング論』 だから、二人とも 「必然性を洞察したら、ただその必然性に身を任せなさい、それが自由なんですよ」 なんて阿呆なことを言っているわけじゃない。無知の中には自由は存在しないという、きわめて当たり前のことを言っているだけなのだ。 世の中には、ときには負けると分かっていても戦わずにいられない場合もある(ちょっとかっこつけすぎ?)。その場合、「敗北」 という必然性を認識して、「戦いなんてやめちゃおうよ、どうせやるだけ無駄だしー疲れるだけだしー」 なんてことは、自由な行為とは誰も言わない。 なにも玉砕をすすめはしないけど、これはただの日和見主義だ。もちろん、敗北の必然性に目をふさぎ、きっと勝てるよ、何とかなるよ、なんて甘い幻想にひたってええ加減に戦いを始めることが自由な行為ではないことは、上で言ったとおりだ。 でも、敗北の 「必然性」 をはっきりと認識した上でそれでも始める戦いは、立派に自由な行為といえると思うのです。歴史の中には、強大なローマ軍に歯向かったスパルタクスや、騎兵隊に立ち向かったスー族のように、そういった負け戦を覚悟してなおかつ立ち上がった、多くの無名の人達がいますね。堀田善衛が描いた島原の乱だってそうでしょう。西郷だって負け戦を承知で、あえて担がれたんだし。 彼らのことを、歴史の必然性を知らなかった愚か者として上のほうから見て笑うことはたやすいことです。しかし、それは人間が作ってきた歴史そのものに唾を吐きかけることと同じです。ナチスに占領されたフランスから脱出する途中、山の中で死んだベンヤミンは言ってます。歴史は勝利者のパレードじゃありませんよってね (違ったかな?)。 うーん、最後はまたまたアジテーションになっちゃいました。
2007.01.14
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父と子の相克というのは、ツルゲーネフの 『父と子』 とか志賀直哉の 『和解』 など、多くの近代文学のテーマになっている。青森の大地主の家に生まれた太宰治もまた、父親が亡くなってからも、父という存在に反抗し続けた人だと言っていい。しかし、その一方でそのような反抗が、しばしば 「甘え」 の一つの形態であることも否定できないだろう。 いささか奇矯な比喩かもしれないが、親に死なれるということは時間という見えない敵、しかも人間にはけっして勝ち目のない敵との戦いの中で、始めは隊列の後方にいたはずなのに、気がつくといつの間にか前方の部隊がすべて倒され、戦いの最前線に立たされているといった感覚で表されるような気がする。 もちろん若くして親に死なれた人にとっては、それ以上に現実的な困難が存在するのだろうが、そのような感覚は、たぶん親の死をいくつで迎えても変わりないだろう。 私の父は旧制高等学校といわゆる帝国大学をでた人で、困った意味での 「エリート意識」 が終生抜けない人だった。そのまた父はもともと田舎の神官の家の出で、旧制中学校の教師となり、校長まで務めた人だったそうだ (小学生のころに亡くなったので、いくらかの記憶はある)。 祖母のほうは小学校の教師だったそうだから、丸山の定義で言えば、インテリと亜インテリの境目あたりに位置するということになるのだろうか。だが、ほんとうはそんなことはどうだっていいのだ。 何事も自分が一番という意識が強烈な人で、人付き合いはけっしてうまいほうではなかったから、学歴こそ高くても、現実社会では必ずしも上手く立ち回れるほうではなかったろう。 「寮歌祭」 などという回顧趣味のじいさんたちの集まりには、はかまに下駄、破れ帽子という時代遅れの格好で必ず参加し、晩年はなぜかベートーベンの 「第九」 合唱に凝りだして日本中はおろかウィーンまで遠征し、さらには右翼イデオローグを自認して、南京虐殺や朝鮮人の強制連行、慰安婦の存在に異を唱える活動を始めたりと、まあ一言で言えば、「天下国家」 を論じるのが三度の飯より好きだという困った人だったのだ。 当たり前のことだが、子どもは親の人生のせいぜい半分しか知らないものだ。私は父が38歳のときの子で、しかも大学卒業と同時に勘当同然で家を出たので、たぶん三分の一ぐらいしか知ってはいない。 父親への反感のようなものが芽生えだしたのは、たぶん高校のころからだったように思う。高校時代は勉強をほとんど放棄して文学にのめりこみ、大学に入ってからはいっぱしの活動家を気取って九州くんだりから狭山だ三里塚だと、東京や成田の集会までわざわざ出かけたものだ。 年老いた父が私のことを、こいつは学生時代ノンセクトラジカルで大学の玄関のガラスドアを割ったことがあるなどとなにやら自慢げに人に紹介しているのを横で聞いて、あきれてしまったものだが、俗気と反俗気が奇妙に入り混じった人だったのだなと思う。 うちの同居人に言わせると、最近私は父に似てきたそうだ。そう言われると、父に比べると一見おとなしそうで協調性がありそうに見えるが、腹の中ではやはり自分が一番だと思っている。 それに、知識をひけらかすことや大言壮語が好きなところ、やたらと人に論争を吹っかけたがるところなどは、やはり父に似ているのかもしれないと思うようになった。いや、そのようなところを父のように表面には出さずに、腹の中に隠している分だけ、私のほうが厄介なのかもしれない。 戦争で父が送られたのは、激戦地のビルマだったそうだ。そこで最後はマラリアに罹り、イギリス軍の野戦病院に入れられて九死に一生を得たというような話を、自費出版した本に書いている。そこでの生と死は文字どおり紙一重の差しかなかったのだろう。 だが戦後一サラリーマンとして生きてきたはずの父が、なぜ七十を過ぎてから、年賀状では西暦の代わりに皇紀を記し、憲法改正や 「自虐」 史観批判の運動に携わるようになったのかは、今でも謎のままだ。
2007.01.13
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ずいぶん古い話だが、物理学者の武谷三男が 「武谷三段階論」 というのを提唱したことがある(もちろん、私の生まれる前のことです)。これは自然科学における理論の発展を現象論-実体論-本質論の三段階で捉えるもので、たとえば次のように説明されている。 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、(中略) これを現象論的段階と名づける。 第二に現象が起こるべき実態的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こるということを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれはpost hocという言葉で特徴付けられるもので、これは概念論の言葉でいえば特殊的判断といえるものである。(中略)fur sichの段階でその法則は実体との対応に形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名づける。 第三の段階においては、認識はこの実体的段階を媒介として本質に深まる。これはさきにニュートンの例において示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。(中略)an und fur sichの段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。 武谷三男著作集 「弁証法の諸問題」 より 以上は戦争中の1942年に発表された 「ニュートン力学の形成について」 という武谷の論文から引用したものだが、ここで彼はニュートン力学の成立にいたる理論発展の歴史を、天動説の支持者ではあったが正確で膨大な天体観測の資料を残したティコ・ブラーエを 「現象論的段階」 に、彼の資料を整理して惑星運行の法則を発見したケプラーを 「実体論的段階」 に、そして万有引力の法則という形で惑星運動の根拠を解明したニュートンの理論を 「本質論的段階」 と呼んだのである。 武谷によれば、この三段階という発展は一回限りのものではなく、「この三つの段階を繰り返して進む」 すなわち一つの環の本質論は次の環から見れば一つの現象論として次の環が進むというぐあいである」 ということだ。 高校時代、物理はまったく苦手だったので、力学の発達について論じる資格などはまったくないのだが、科学的 (学問的) な認識は、現象の記述からその背後に隠れている一般的な構造や法則の認識に向かうという意味では、以上の武谷の主張は理解しうると思う。 この武谷の主張は観念論者ヘーゲルの概念論を参照したためもあってか、戦後復活した旧唯研系の党主流の理論家から、同じ武谷の技術論 (技術とは客観的法則性の意識的適用である) とともに観念論であるとして、いっせいに攻撃を受けた。 だが、その一方で三浦つとむや田中吉六 (岩波文庫版 『経哲手稿』 の翻訳者)、黒田寛一 (トロツキストに移行する前) らによって支持され、哲学者の梅本克己の問題提起によって始まったいわゆる 「主体性論争」 の論題の一つとしても取り上げられた。ただし、この武谷三段階論が現在どのような評価を受けているのかは、専門的な研究者ではないので分からない。 ただ、秀さんによる 「抽象化」 についての主張を読んでいるうちにこのことを思い出したのだ。社会的事象であれ、自然的事象であれ、個々の事象は他の事象による様々な影響等を受けているから、当該の事象についての認識を進めるためには、とりあえず他の事象による影響のような非本質的な部分を除去しなければならない (たとえば、落下法則の認識における空気抵抗の除去など)。 この場合は、対象の認識の障害になる特殊性を除去することであり、たんに捨象することだ (このような特殊性は、とりあえず 「特殊なものの特殊性」 と呼ぶことにする。言語で言えば、たとえば日本語や英語などでの品詞の分類がそうだろう。英語の前置詞や冠詞は日本語にはないし、日本語の助詞は英語にはない。そのかわり、そのような語の役割は、それぞれ別の語や形式で担われる)。 現実に存在するのは、いうまでもなく個々の特殊な事物である。簡単にいえば柿やリンゴは存在するが、果物一般なるものは存在しない。同じように、実際に存在するのは日本語や英語といった個別の特殊な言語であって、抽象的な言語一般なるものは存在しない。 しかし、現実に裸のままでは存在しないものの、言語一般の 「本質」 というものを考えることはできるだろう。実際、英語にも日本語にも一般的に共通するなにかが存在していなければ、翻訳も通訳も不可能だということになる。つまり、日本語とか英語とかの特殊な言語にも、当然のことながら言語としての一般性が存在するはずだ。 これを、上で言った 「特殊なものの特殊性」 に対比して、「特殊なものの一般性」 と呼ぼうと思う。ようするに、特殊性と一般性は外的に対立しているのではなく、特殊性の中に一般性が潜み、また一般性は特殊性を貫くという形で存在しているということだ。ヘーゲルの言う 「特殊性」 と 「一般性」 とは、一般にそういう意味である。 このように、個々に存在する特殊なものからその中に潜む 「一般性」 を抽出することが、論理的な抽象という働きなのではないだろうか。これは、「特殊なものの特殊性」 を捨象することとは違う。捨象とは余分なものを切り捨てることだが、論理的な抽象とは個々の特殊な対象の中に潜む 「一般性」 を抽出することであって、一定の問題意識に合わない部分を、余計なものだとして、そのかぎりで恣意的に切り捨てることとはまったく違う別のことだ。 ヘーゲルが 「止揚(揚棄)」 と呼んだのは、このような思惟の働きのことなのではないだろうか (ここで 『小論理学』 を引用したいところですが、ややこしいのでやめておく)。 自然科学と社会科学とでは、法則性の認識などでは当然大きな違いが出てくるだろう(このへんも、新カント派のリッケルトの 『文化科学と自然科学』 以来、いろいろ論争があるのでしょうが、よう知らんのでおいときます)。しかし、たとえ科学ではなくとも学問と名がつく以上、個別事物の認識で終わるはずがない。いや、そもそも人間の認識はつねに一定の論理的抽象を経なければ可能ではないだろう。もちろん表現についても、同じことだ。 人間の頭脳は鏡ではないのだから、対象をそのまま映すなんてことはありえない。つねに何らかのレベルで、対象に潜む 「一般性」 を抽出するということをやっているはずである。もちろん、一定の問題意識に合わせて対象の一定の側面に焦点を合わせ、他の側面についてはとりあえず ( ) に入れておくということは、認識を進めていくうえでの手順としてはありうるだろう。 ただし、そのようにして得られた認識は、そもそも一面的な限定されたものだ。たとえば、宗教というものをその社会的機能に着目して解明するというやり方は、別に否定しない。しかし、そのようにして得られた認識は、「宗教とは何か」 という一番の問いを ( ) に入れとりあえず棚上げにすることで得られた認識であって、本来の問いにはちっとも答えていないような気がする。
2007.01.10
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人間の生存に必要な労働時間が、技術的発展によって一貫して短縮されてきたことは誰もが認める事実だ。電子ジャーや電気洗濯機はもちろん、水道すらなかった時代には、一家の主婦は誰よりも早起きして井戸から水を汲み、お湯を沸かし、お米をといでご飯をたき、お味噌汁を作って家族の朝食の用意をしたものだろう(もちろん、今でも世界には、一本の薪を集めるため、一杯の水を飲むために何キロも歩かねばならないような社会が現実に存在します)。 「資本論」に描かれたような時代には、労働者の12時間を越える労働は当たり前だった(もちろん、生産が急激に拡張していて、労働者の権利よりも企業の利潤の方が優先されているような地域では今でもそうでしょう)。19世紀にイギリスの労働者らが人間らしい生活を求めて労働時間の短縮を要求したとき、工場主らは、そんなことをしたら自分たちは破産すると騒ぎ立てたものである。 民衆の生活水準が上がるということは、生きていくうえでの最低限の生活に必要な財貨を超える財やサービスが必要になるということだ。人々はラジオが発明されればラジオが、テレビが発明されればテレビが欲しくなる。技術の発展によって新しい製品が発明され、そのような製品がやがて大量生産によって社会全体に普及する。そのこと自身は誰にも止められない。家庭におけるラジオやテレビの存在は、当然ながら今ではこの国の憲法25条で定められた「文化的で最低限度の生活」という範疇の一部である。それはいうまでもなく当然であり、正当なことだ。 文化的な生活とは、当然それまでになかったような新らしい便利な道具などを所有することを意味する。人々の生活水準が上がり、それに応じて需要が高まれば、それまでには必要なかった財をそれまでよりも大量に生産することが必要になる。だから、技術的発展による必要労働時間の短縮は、必ずしも労働者にすべて還元されるものではない。とはいえ、技術の発展は、そのような新たな需要の創出による労働時間の延長をはるかに上回るものだ。だからこそ、少なくとも「先進国」においては一定の労働時間の短縮が実現されてきた。 しかし、現実はそんなに簡単なものではない。経営者は金を出して人を雇っているわけだから、当然なるだけ多く働かせて財やサービスを生産させたいと思う。それに、人を使うということは人を支配するということだ。休みを取っている労働者は、当然その間彼の支配を免れているわけで、支配欲が強いタイプの経営者にとってはこれは耐えがたいことに違いない(こういう家父長タイプの経営者って、日本には多いんじゃないですか。だから、慰安旅行だとか忘年会、新年会だとか口実をつけては、従業員の休みの過ごし方にまで口を出してくるのでしょう)。 本当をいえば、今の社会生活の維持に必要な労働時間はずっと少なくてすむはずだ。しかし、それでは困るから人為的に欲望を刺激して、需要を作り出し、それを理由にさらに労働者をこき使う。また、労賃や生産費の低い発展途上国との競争を理由にして、低賃金長時間の労働を強いる。しかし、世界の人口の圧倒的多数を占める中国やアジア諸国が豊かになることは当然のことだ。彼らにはその権利がある。世界の人口のわずか0.2%を占めるに過ぎないこの国が世界有数の経済大国を誇っているということは、本当はおかしなことなのだ。 競争や市場原理によって価格が低下し、消費者に最適な価格の財やサービスが提供されるようになると、一部の政治家や学者は言っている。しかし、巨額の遺産を親から相続したような人や莫大な利益を株で得たような人を除けば、世の中にはたんなる消費者なんていやしない。大多数の人が、なんらかの形で生産に携わり、それによって所得を得ているのだ。だから、そういう競争や市場原理は巡り巡って自分自身に降りかかってくる(今はまだ、タクシーやトラックの運転手、大企業の下請工場のような、社会の一部に限られているように見えますが)。要するに競争や市場原理によって最終的に浪費され廃棄されるのは、「労働力商品」である人間自身なのだ。 今までわき目もふらずに働いてきた人が、人生は働くことだけじゃないということに目覚めることはいいことだ。それは、応援したいと思う。しかし、この国では余暇だって、網の目のように張り巡らされた資本の手から逃れることはそう簡単じゃない(というか、不可能か?)。 この国が市民社会として「成熟社会」であるということは確かだろう。しかし、歌の文句じゃないけれど、「表があれば裏もある」というものだ。進歩には退化が、そしてまた啓蒙にはつねに野蛮がよりそっている。ナチズムという野蛮を目撃したアドルノとホルクハイマーはそう考えたが、ファシズム敗退後の世界ははたして彼らのテーゼを現実によって反駁しているだろうか。 最後に一言。 成熟した柿はやがて腐って落ちます。熟成したワインはやがて苦い酢になり、熟成した肉は腐臭を放つようになります。 さて、そうすると成熟した社会はやがてどうなるのでしょうか(これはもちろん私にも分かりません)。 反省:今日はいささかアジテーションをやっちゃいました。
2007.01.08
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現代では昭和30年代すら、すでにノスタルジーの対象になっているらしい。当時を実際に知る人にとっては 「懐かしい」 時代なのだろうし、知らない人にとってはなにやら珍しさのようなものがあるのだろうか。どちらにしても、ノスタルジーというものは現代を映す鏡のようなものだ。 「貧しくとも、家族の情愛と人の優しさが残っていた時代」 というのは、こういうノスタルジーを語るときの常套句だが、たんに技術水準が低く物が少なかったということだけでなく、社会の中の相対的に貧しい人々が今より多かったということは間違いないだろう。 たとえば、この時代に活発化した新興宗教の信者には、貧困や夫の暴力、飲酒、浮気に悩む主婦、あるいは子供の障害や病気に悩む母親などが多かったと指摘されている。実際、私の家もある神道系の宗教 (高橋和巳の 「邪宗門」 のモデルになった大本教の流れを汲む) に入信していたのだが、その理由は私が双子の未熟児で生まれて、病弱だったせいだったそうだ。そのころに通わされていた布教所は、繁華街の裏通りにあるちょっと大きめの民家のような建物だったが、当時の記憶をたどると、たしかに上のような指摘は当たっていると思う。 それにくらべると、現在の比較的若い層を中心とした新新宗教の入信者の動機は、ずいぶん違っているようだ。それはなんとはなしの不安感であったり、自己のアイデンティティに関する悩みであったりする。そのような悩みは、昔なら 「暇人の贅沢な悩み」 として一笑に付されたようなものだろう。 もちろん、今でも貧困という問題は存在している。しかし、高度成長と 「一億総中流化」 をへた現代の貧困という問題が、かつてのような日本の社会と経済の後進性によるものでないことは明らかだ。なんといったって、現在の日本は世界有数の経済大国なのだから。「啓蒙」 ということについても、同じようなことが言えるだろう。 以前に、若者の大学進学率が50%を超えるような社会ではもはや 「啓蒙」 というものは成立しないのではないかと書いた。それは、現代ではすでに啓蒙が完成し、すべての「迷妄」 がこの社会から追放されたという意味ではもちろんない。人間は白紙で生まれてくる以上、つねに教育は必要であり、もしも完全に教育制度が崩壊してしまったら、社会はただちに本当の野蛮状態に戻ってしまうだろう。しかし、いま問題にしていることはそういうことではない。「開明的な知識人」 による 「暗愚な大衆」 への啓蒙という図式が成立しない以上、そのような戦略も無効になっているのではないかということだ。 丸山真男は東大での 「日本ファシズムの思想と運動」 という講演で、集まった東大生らを前に、「まず皆さん方は第一類型 (本物のインテリをさすー引用者) に入るでしょう」 といったが、いまの時代に東大生だからインテリだなどという図式をそのとおりだと思う人がどれだけいるだろうか。一流大学を出ているからインテリなわけでもないし、外国語ができるからインテリなわけでもない。もちろん、金儲けがうまいからインテリだというわけでもない。また、医者や弁護士、大学教授であるからといって、彼らがすべてインテリだと断言できるだろうか。 確かに、そのような人々はそれぞれの分野について一般人よりもはるかに高度な専門知識や技能を持っているだろう。しかし、そんなことは当然のことであって、それはそれだけのことだ。「インテリゲンチャ」 という言葉が持っていた意味は、本来そういうものではなかった。 いずれにしても、社会階層あるいは社会的類型としての 「知識人」 と 「大衆」 という図式はすでに無効だろう。 たとえば、現代における 「迷妄」 の典型としては、オウム真理教の事件をあげることができる。この事件では、事件に関連した者を含めて、信者の中に高学歴の優秀な若者が大勢いたことが波紋を呼んだ。そこには、もちろん彼らを意図的にターゲットにした教団の戦略があったのだろうが、いずれにしてもこの教団を支えた若者たちが、かつてのような土俗的迷信の類にからみ取られた 「低学歴」 の貧困層でなかったことは確かだろう。 つまり、現代の 「迷妄」 は、いまだ啓蒙されていない社会の後進的な部分の問題ではなく、すでに啓蒙された社会そのものの内部から生まれているのではないだろうか。であれば、なおさらのこと、「知識人」 による 「大衆」 への啓蒙などという戦略は有効性を持たないだろう。 もちろん、たとえばインチキ科学の類などに、それは違うよと粘り強くいい続けることは必要だろう。しかし、そのようなインチキ科学やトンデモ学説がテレビや出版物に溢れ、人気を集める原因は、たぶんたんなる無知なのではないと思う。
2007.01.07
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Der Tod scheint als ein harter Sieg der Gattung uber das bestimmte Individuum und ihrer Einheit zu widersprechen; aber das bestimmte Individuum ist nur ein bestimmtes Gattungswesen, als solches sterblich. これは、Karl Marx の "Okonomisch-philosophische Manuskripte"(経済学哲学草稿)の一節です。第三手稿の「私的所有と共産主義」の中に含まれています。ドイツ語は苦手なので、英訳を探してみました。Death seems to be a harsh victory of the species over the particular individual and to contradict their unity. But the particular individual is only a particular species-being, and as such mortal.http://www.marxists.org/archive/marx/works/1844/epm/index.htm から これを日本語にすると、次のようになります。死は特定の個人に対する類の無情な勝利であり、類と個人の統一に反するように見える。しかし、特定の個人とは特定の類的存在に過ぎず、そのようなものとして死すべきものである。 Gattung は一般に 「類」 と訳されていますが、英訳での Species(スペシーズ)を見れば分かるように本来はたんに生物学でいう 「種」 のことを意味します。 この文は、同じ 『経哲手稿』 の中にある 「人間は類的存在である」 という規定を前提にしています。 ネコやイヌは、自分がネコとかイヌとかいう類(種)であることを意識していません。しかし、人間は自分がヒトという類(種)であることを意識しています。 こういうと、たぶんサルなんかは群れをつくって暮らしているじゃないかと反論されるかもしれません。それはそのとおりです。しかし、いずれにしても、人間と他の動物の間に絶対的な区別はありません。まして人間に最も近いサルであれば、人間との間に一定の共通性があるのは当然のことです。 人間のほかにも、サルのように群れを作って生活する動物のことを、生態学では 「社会的動物」 といいます。しかし、同じように 「社会的動物」 といっても、人間の社会性とサルの社会性の間には、たんなる規模や複雑さの違いを超えた大きな違いがあります。 サルの社会性は 「群れ」 という直接の形態でしか存在しません。群れを追放されたサルは、たんなる孤立したサルに過ぎません。しかし、人間の社会性=共同性(言い換えるなら、人間は種的(類的)存在であるということ)には、もっと大きな広がりと深さがあります。 原始的な社会ならばともかくとして、人間の社会性はむしろサルのような直接の 「群れ」 という形式を越えたところにあるといっていいでしょう。孤島に流れ着いたロビンソン・クルーソーは、難破した船から様々な道具を持ち出すことから島での生活を始めました。 また、彼自身が、イギリスという社会で実践的な教育を受けた人間です。クルーソーはもちろん虚構の人物ですが、ルバング島で30年近く生き延びた小野田さんの場合でも同じことです。 つまり、人間はたった一人の個人であっても、同時にたんなる個人を越えた 「共同」 的な存在だということです。それだけではありません。人間は、その場にいない人や、すでに死んでしまった人のことを、考えたり思い出したりします。 また、自分の子供や、自分が死んだあとに生まれてくる未来の子供たちのために、よりよい社会を作ることを願い、そのような努力をすることもあります。 そこには、生者と死者、さらにいまだ生まれざる者とのあいだの共同性が存在するといってもいいでしょう。「人間は類的存在である」 という規定には、そこまでの射程があると思います。 マルクスはいうまでもなく唯物論者です。天国やあの世などというものは信じていません。しかし、だからといって、人間は死んでしまったらそれで終わりさ、なんてニヒルでせつな的なことを言ってはいません。死は特定の個人に対する類の無情な勝利であり、類と個人の統一に反するように見える。 人は死んだ後も、生きている人たちの記憶の中に残ります。ある人が生きていた記憶と痕跡は、必ず社会の中になんらかの形で残されます(もっとも記憶には良いものも悪いものもありますが)。 であるからこそ、マルクスは上のような見方を、たんなる仮象として退けているのだと思います。
2007.01.06
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ギリシア悲劇を読んでいて気付かされるのは、兄弟と姉妹の関係の強さだ。たとえば、アンティゴネ-は国王である叔父の禁令を無視して、死んだ兄ポリュネイケスを命がけで埋葬しようとする。その理由は、彼が自分の兄であるということだけだ。たとえ、その兄が敵国の兵を率いて攻めてきた祖国への反逆者であっても、兄であることに変わりはない。彼女の主張はそういうことだ。 また、同じソフォクレスの作である 「エレクトラ」 では、エレクトラは父親(トロイ戦争でのギリシア軍の総大将アガメムノン)が母とその情夫に殺されたとき、幼かった弟のオレステネスを逃がし、以来父親の仇をうつため、憎い母とその情夫のもとで弟の帰還を何年も待ち続ける。 この劇と 「ハムレット」 との類似性はよく指摘されるが、オレステスが自分が死んだうわさを流させて、それを信じ込んだエレクトラが悲しむところには 「ロミオとジュリエット」 を思わせるところもある。まあ、とにかく最後には、帰還した弟と力を合わせて父親の仇(母親とその情夫)をうつことで劇は終わる。 こういう兄弟と姉妹の関係の強さは、古代の日本にもあったのだろう。天照と須佐乃男は姉と弟だし、「魏志倭人伝」 によれば邪馬台国は女王卑弥呼とその弟によって統治されていたという。また、古事記にはサホヒコとサホヒメの話がある。 兄のサホヒコから 「お前は夫である天皇と兄である自分と、どっちを愛しているか」 と問われた妹のサホヒメは、「兄ちゃんのほうを愛してる」 と答える。それで、兄は妹に小刀を渡して夫の天皇を刺すよう命じるのだが、いざとなるとやっぱり夫である天皇もいとしくて刺せない。結局天皇にすべてを話すのだが、最後にはサホヒメは夫より兄の方を選んで兄のところに逃げ、攻めてきた軍勢に、天皇との間に生まれた子供だけを渡して、兄と一緒に死んでしまう (こういう話、嶽本野ばらなんかに書かせると、面白そう)。 ついでに言うと、柳田国男には 『妹の力』 という著書があるし、森鴎外が小説にした 「山椒太夫」 の安寿と厨子王も姉弟だ。折口信夫とかを読んだら、こういう話はまだまだいっぱい出てくるだろう。 昔、歴史学者の石母田正とかが、日本の歴史における 「英雄時代」 なんてものを提唱したことがあったが、古代ギリシアと古代の日本にはいろんな点で類似している。多神教であることはいうまでもないが、死んでしまえば国家への忠誠者と反逆者の区別などない、どっちも同じ自分の兄だというアンティゴネ-の主張には、A級戦犯の靖国合祀を合理化する人たちが持ち出す、「死ねばみんな神様になる」 という日本古来の神道の思想とやらを思い出させるところがある。 もちろん、だからといって、古代の日本はギリシアの植民地だったなんていうトンデモ学説を主張したいわけではない。たぶん、こういう類似はたとえばネイティブアメリカンなんかとの間にもあると思う。要するに、原始=古代社会というものはどこも同じようなものだということだ。 「歴史法則」 などというと、顔をしかめる人もいるかもしれない。昔のように 「五段階発展説」 みたいなドグマを振り回して、どこの民族の歴史も、アジア的ー古代奴隷制ー中世封建制ー近代資本制 という同じ段階をたどり、最後には 「鉄の必然性」 でもって社会主義に到達するのだみたいな話は、もちろんでたらめだ。 しかし、歴史の法則性をすべて否定するのも行き過ぎというものだろう。経験的な学問では、どんな法則も先験的に成立するわけではない。「歴史は科学だ」 と肩肘張って主張する気もないが、ドグマ化せずに 「導きの糸」 として利用すればいいんのではあるまいか。
2007.01.04
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養老さんの文章について、もうひとつ気になるところがあります。 それは、「マルクスが『歴史科学の法則は客観的だ、一つの正しい歴史があるのだ』云々と、背筋が寒くなるようなインチキを言ったあたりからおかしなことになったのである」という箇所です。 養老さんは社会科学者でもマルクス研究者でもありませんから、別段「批判」するというような筋合いのものではないんですが、ちょっと一言だけ。 養老さんは、たぶん年代的にみて、学生時代とかにどっかの党が出していた入門書なんかの類を読まされて、これはあかんと思ったくちなのだと思います。かつてはこういう理解が一般的であり、さんざんに猛威を振るったのは事実です。ただし、マルクス自身がそんなことを言ったというのは、ちょっと違うと思います。 こういう理解は、例えば「マルクスの葬送にあたって」というマルクスの墓の前での演説で、エンゲルスが「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したように、マルクスは人類史の発展法則を発見しました」と言ったことなんかに根拠があるのだと思います。しかし、マルクス自身はそういういささか乱暴なことを言ったことはないだろうと思います。実際、「経済学批判」の「序言」の中の社会の「実在的土台」と「法律的および政治的上部構造」、さらに「社会的諸意識形態」の関係を述べた、いわゆる<唯物史観>の定式について、マルクスは「研究のための導きの糸」としか表現していません。 また、晩年にロシアの女性革命家ザスーリッチに宛てた手紙の中では、ザスーリッチの「ロシアの資本主義化は必然的か」という質問に対して、「だから、この運動(資本主義的生産様式の創出のこと)の「歴史的宿命性」ほ、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです」と答えて、自分の研究がそのままロシアに適用できるかどうかについては明確に留保しています。つまり、マルクスは、自分がいつでもどこでも通用する単一の「歴史法則」を発見したなどとは言っていないのです。 歴史の法則性をどこまで認めるかについては、いろいろ議論があると思います。しかし、なんらかの法則性があることは否定できないでしょう。でなければ、歴史は単なる偶然の集積であって、読み物としては面白いかもしれないけど、そこから何かを学ぶことなどできないし、その必要もないということになります。 しかし、いずれにしても具体的な人間の行為がなければ歴史は存在しません。ですから、「歴史の法則」といったって、それは人間の外に存在するわけではありません。ただし、人間が自分たちの行為について無知であったりすると、その結果はあたかも客観的な物理法則のように人間自身にかえってきます(ちょうど、「郵政選挙」での投票行動の結果のように)。 また、マルクスが自分がいつでもどこでも通用する単一の「歴史法則」を発見したなどと思っていたのなら、いい年した晩年になってまで、インドやロシアの共同体、土地所有の形態などについて一生懸命研究する必要などなかったことになります。「資本論」だって膨大な草稿ばかりの未完で終わらず、ちょちょいのちょいで書き上げられていたでしょう。 単なる年代記ではない、具体的で詳細な歴史研究は、いうまでもなく一次資料に依拠します。そのような資料は、当然ながら最初から出来合いで与えられているわけではありません。新しい画期的な資料が発見されたり、あるいはそれまでの研究が依拠していた古い資料の誤りが見つかったりすれば、そのたびに歴史研究はやり直される必要があるでしょう。そんなことは、マルクスにとっては当たり前のことで、だからこそ彼は最後まで研究をやめなかったのだと思います。 マルクスの理論を出来合いのものとしてうけとめ、それをあらゆる病気に通用する「万能薬」のように振り回すしか能のない弟子どもに対して、マルクスが「こんな連中がマルクス主義者なら、おれはマルクス主義者じゃない」と嘆いたというのも有名な話ですね。
2007.01.03
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浩瀚堂さんという方が、宮台氏の亜インテリ論は丸山の誤読だと指摘している(参照) (参照)。宮台氏の亜インテリ論が丸山のそれとは違うという意味では、この指摘は正しいと思う。 浩瀚堂さんも指摘しているが、丸山のいう 「亜インテリ」 とは 「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、ないし自作農上層、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層」 を指している。 これを現在の社会に合わせて修正するなら、小地主を削除し、かわりに農協や漁協、町内会や自治会、PTAの役員などを付け加えれば、いいだろう。 丸山自身の説明を引用すれば、彼らは 「自分の属する仕事場、あるいは商店、あるいは役場、農業会、学校等、地方的な小集団において指導的地位を占めている。日本の社会の家父長的な構成によって、こういう人たちこそは、そのグループのメンバー(中略)に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の 『大衆』 の思想と人格を統制している」 ということだ。 つまり、簡単にいえば丸山は、多少の政治的関心を持つと同時に、比較的規模の小さい集団を率いることによって、その集団の構成員に対して、直接に人格的な影響力と支配を行使できる存在を 「亜インテリ」 と呼んだのだ。 とすれば、これが宮台氏の言う 「論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者」とか、「東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず『煮え湯を飲まされる』存在」 とは、意味が違うのは明らかだろう。とくに、後者などは、単に同じ学者・研究者の中の相対的な区別に過ぎず、論点がまったくずれている。 丸山の 「亜インテリ」 論の本来の意味は、単に彼らが本物のインテリではないということにあるのではない。むしろ、彼らが大学教授や文化人、ジャーナリストなどの丸山のいう本物のインテリ(都市の新中間層)と違い、直接自分の配下を持ち、彼らに対して影響力を行使できる 「小天皇的」 (丸山)存在であるということ。また、それによって現実の世論形成に対し、全体として大きな影響力を持っているというところにあったのだ。 ところが、宮台氏は学者として一流か、それとも二流、三流かというふうに問題を設定している。これは、浩瀚堂さんが指摘したとおり、明らかに宮台氏の 「誤読」 である。 上にあげたような階層が、戦後も草の根保守として、一貫して保守党の支配を支えてきたことは周知の事実だろう。しかし、すでに21世紀にはいっている現在、彼らははたして丸山が60年前に指摘したような 「小天皇的権威」 を持っているだろうか。その答は、むろん否である。 農村は崩壊し、大資本の圧迫によってどこの地方でも商店街はさびれ、小工場は海外からの安い製品の流入によって倒産寸前である。地域における学校教師の権威も、ほとんどないに等しい。かつては地域を束ねてきた名門とか名家とかいわれる存在にしたって、昔のように、町や村のみんなに、選挙のときは XXXX に入れろ、などと命令する権威は持っていないだろう。 その結果、起きたのが、昨今の選挙のたびに、あっちこっちと揺れ動く、都市を中心とした大量の浮動層(票)という現象であり、彼らをターゲットにした、小泉流劇場型政治の登場というわけだ。 前に、戦前の日本(経済)社会の二重構造というのを指摘し、「丸山の亜インテリという範疇は、資本制社会に一般的に存在する 『旧中間層』 に戦前の日本社会の特殊性を加味したものだ」 といった。彼らは、戦前においてはたしかに経済的地位に比べて強い世論形成力=政治的影響力を持っていたかもしれない。 しかし、いまやその地位は政治的にも経済的にもはるかに弱化している。したがって、本来の丸山の 「亜インテリ論」 は、多少の修正を施したところで、もはや通用しないし、意味を持たないのではないだろうか。 以上のようなことは、明敏な社会観察者である宮台氏が知らぬわけはない。最後にやや邪推めいたことをつけ加えるが、そのことを踏まえたうえで、宮台氏は 「亜インテリ」 という用語の曖昧さを利用し、彼なりの戦略に基づいて故意にずらして使用しているのではないか、という気すらする。
2007.01.02
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秀さんのエントリーに対抗しようというわけではないのだが、下の文章はちょっと気になった。 『そもそも「歴史(history)」とは「イストワール」「ヒズ・ストーリー」つまりは「物語」であって、極めて個人的な営みであろう。そこには主観しかなく、客観などありはしない。中国、韓国が主張する「正しい歴史認識」などあるはずがない。人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。それをマルクスが「歴史科学の法則は客観的だ、一つの正しい歴史があるのだ」云々と、背筋が寒くなるようなインチキを言ったあたりからおかしなことになったのである。』(2006年1月号文藝春秋「司馬遼太郎さんの予言」P98) これは、もともと「なみふくくん」という方から秀さんに送られたトラックバックで引用されていた文なので、ここで取り上げるのはいささか気が引けるのだが、もともとは養老孟司さんが雑誌に発表した文だということで「なみふくくん」にも了解してもらいたい(ぺこり)。 「歴史」という言葉の語源が「物語」であるのはそのとおりなのだが、問題はそのあと、つまり「きわめて個人的な営みであろう」という部分だ。全文を読んでいるわけではないので、的外れになるかもしれないが、でもこれは違うように思う。むしろ歴史はもちろんのこと、「物語」にしたって共同的なものであり、共同性を前提にするものだと思うのだ。 紙に文字で記された物語を個人が自室に引きこもって読むという習慣が、広く一般に広まったのは、 洋の東西を問わずたかだかここ数百年のことだろう。いささか想像をたくましくすれば、一日の厳しい労働が終わったあとにしわだらけで白髪の長老が一族の若者らを焚き火のまわりに集めて、「むかしむかし~」みたいにして語りだし、それが代々語り継がれていったというのが、物語というものの始まりなのだと思う。そういう光景は、活版印刷によって読書の習慣が一般に広がるまでは、どこの家庭でも見られたのだろう。それに、たとえ個人の読書であっても、言葉というものがそもそも共同的なもののはずだ。 養老さんとすれば、国家が「歴史認識」を独占することを批判したかったのだろう。それは理解できる。しかし、だからといって、「歴史(認識)」は「個人的な営み」だということにはならない。そもそも、国家によって表現されているのは、マルクスの言葉を借りれば「幻想的な共同性」にすぎない。近代の国民国家には共同性を独占しようとする傾向があり、その結果、最悪の場合には歴史の偽造もにいたるのだろうが(革命史の中からトロツキーを抹殺したスターリンや、抗日神話を作り上げた金日成・正日親子のような)、現実の共同性というものはけっしてすべてが国家の枠内に納まるものではないだろう。 一族や家族の歴史、都市や村落の歴史、いずれにしたって歴史というものは共同的なものだ。国家や政治という概念は、社会よりも狭いものだ。共同性がすなわち国家とイコールなわけではない。だから、旧ソ連や現在の北朝鮮のような国家による歴史の独占を批判するために、歴史認識をなにも「個人的な営み」にまで引き戻す必要はないと思う。 安倍首相が「歴史認識」を問われた国会での答弁で、「そのようなことに答弁することは、学問や思想の自由が保障されているわが国ではふさわしくない」というようなことを述べていた。これは、理屈としては筋が通っているように思える。しかし、実際には閣僚や政治家による靖国参拝のような行為にも、一つの歴史観が表現されているのだ。国家には、様々な形で歴史を独占することによって、生きた歴史をイデオロギー的な神話=物語に退行させようとする傾向がある。それは、歴史を持ち出すことが支配の正統性を裏書きする最も簡単な手段だからだ。 養老さんは、共同性や共同的なるものがあまり好きではないのかもしれない。しかし、人間の共同性が好き嫌いで抹消できる問題ではないことも明らかだろう。政治家やイデオローグが、神話化された歴史に訴えることでナショナリズムを煽り立てるという光景は、いつの時代でもどこの国でも見られるものだ。そのような国家=政治に対して、「個人的な営み」としての歴史を対置することは現実的にもあまり意味があるとは思えない。現実の生きた共同性というものには様々なレベルやふくらみがある。だから、けっして一枚岩の硬直した解釈しか許さないようなものではないと思うのだ。
2007.01.02
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「大衆社会」だって? そんなもの、社会学の入門書にも出てくる言葉じゃないか。そんな文句が聞こえてきそうだ。まったく、そのとおりだ。 だがだとすると、奇妙なのは 「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが、ない」 とか、「日本では 『知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ』 と誰もが思っているのです」 という宮台の言葉だ。 「知識人に対するリスペクト」 などというものは、私にはまったくの時代錯誤にしか思えない。しかも、日本と欧州を比較するという方法は、「日本には<近代的個>が確立していない」 といった類の、欧州に追いつき追い越せといわんばかりに欧州に対する日本の後進性を言い立てた、かつての近代主義者(丸山がその典型だ)の 懐かしいメロディー」 の再現のように聞こえる。現代社会について鋭敏な感性を持つ宮台がこのようなことを言うのは、いささか不可解な感じがする。 さて、前回の続きだ。「凡庸な大衆」 に対する批判というのは、あまり評判がよくない。エリート主義、貴族主義、反民主主義的だとか。あるいはニーチェがナチスのお気に入りであったように、大衆を批判したオルテガもフランコの独裁に道を開いたのではないかとか。 しかし、オルテガの主張は、「大衆の反乱」 こそがファシズムの登場を招いたということだ。つまり、彼は1930年代にヨーロッパを覆うようになったファシズムの支配に警鐘を鳴らしているのであって、その逆ではない。それにマルクスの思想もそうだったように、ある思想の信奉者と称する者らは、えてしてオリジナルな思想から自分に都合のいいところだけを我田引水的につまみ食いし、都合がいいように捻じ曲げ解釈してしまうものだ。これは、どんな思想にもつきまとう宿命のようなものだ。現実的な政治の動向と、彼らが掲げるイデオロギー的看板とは、たいていの場合、あまり関係はない。 それに、「思い上がった凡庸な個人」 に対する批判というのは、けっしてエリート主義的な保守派だけの専売特許ではない。 『フォルヴェルツ』(ドイツ社会民主党の当時の機関紙)の批評家たるエックシュタインは、事態において真に問題たる点につき、すべての 「専門家」 のうち最も理解少なき人である。彼は、労働者新聞の増加につれて生まれたジャーナリストの一人であって、この連中はいつでもなんについてでも、- 日本の親族法や近代的生物学や、社会主義史や、認識論や、人類学や、文化史や、国民経済学や、戦術問題や、人がまさに必要とするなんについてでも書くことができるのだ。 「資本蓄積再論」より これは、マルクスの再生産論を検討した 「資本蓄積論」 に対する批判への反論の一節であり、著者は(ロシア領)ポーランドで生まれドイツで活動した革命家、ローザ・ルクセンブルクである。彼女は、レーニンの前衛党論を少数者による官僚的な独裁だと批判したことで有名だが、ここで批判されている 「いつでもなんについてでも、- 日本の親族法や近代的生物学や、社会主義史や、認識論や、人類学や、文化史や、国民経済学や、戦術問題や、人がまさに必要とするなんについてでも書くことができる」 というような人間こそ、オルテガのいう 「大衆」 というものなのだ。 このような 「いつでもなんについてでも」 書いたりしゃべったりできる人間、 それはいじめ問題から外交や政治問題まで、ありとあらゆることについてしゃべりまくる現代の 「評論家」 や 「コメンテータ」 と称する種族にぴったりの言葉である。
2007.01.01
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