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今年になって、ようやく二本目の記事になる。なにしろ、いろいろ忙しくてそれどころではなかったのだ。しかし、その間もイスラエルによるガザ攻撃は続き、パレスチナ側の死者は1,000名に達しようとしている。むろん、その大部分は非武装の民間人であり、中には国連が運営していた学校が、そこから迫撃砲が撃たれたとの名目で攻撃されたという報道もある。(参照) むろん、戦場においても過誤はつきものだ。部隊間での連絡の行き違いによって、目標を間違えることだってあるだろう。誤って味方を攻撃するというようなことすら、どんな戦争でもありうることだ。しかし、ガザのように人口が密集し、広い避難場所も頑丈なシェルターもないような地域を攻撃すれば、民間人に被害が及ぶのは分かりきったことだ。それで、「イスラエルは、ハマスのテロリストと民間人を識別して作戦を遂行している」 などと言われても、いったい誰が信じるのだろうか。それこそ、閻魔様に舌を抜かれても文句は言えまい。 事態は、イスラエルとハマスの 「交戦」 でも 「軍事衝突」 でもない。パレスチナ側にできることは、近代兵器で武装した圧倒的なイスラエル軍に対する、ほんのわずかな抵抗でしかない。であれば、「停戦」 を実現すべき主たる責任は、言うまでもなくイスラエルのほうにあるだろう。そもそも、問題の発端は、住民の意思によって選出されたハマス主導の政府の正当性を一方的に否認し、経済封鎖によって彼らを追い詰めたイスラエルの行動にある。 イスラエルは、ガザ攻撃の口実としてハマスの 「ロケット攻撃」 を取り上げ、これが自国にとっての 「脅威」 であるかのように宣伝している。しかし、これはイスラエル側の恒常的な暴力に比べれば、ほとんど象徴的な示威という程度のものだ。イスラエルは確かに大きな国ではない。だが、ガザに比べれば遥かに広い国土を擁している。ならば、わずか数十キロの射程しかない攻撃を避けることなど、国境付近の村から撤退しさえすればすむはずだろう。 この攻撃に対して、イスラエルのユダヤ系市民の間では90%を超える支持があるという。しかし、イスラエル国内に住んでいるのはユダヤ系だけではない。イスラエル建国後も、国内に留まったパレスチナ系住民も20%程度いる。また、ユダヤ系市民の中にも、軍事力のみに頼った手法に対して批判的な人もいる。この調査がいかなる手法によったものかは分からないが、世論調査にはサンプリングによる偏りがつき物だけに、この数字にどれだけの根拠があるのかは疑問の残るところだ。(参照) イスラエルとアメリカは、武力闘争を放棄しないハマスに対して 「イスラエルの生存権」 の承認を求めている。だが、誰が見ても、イスラエルの生存自体を脅かす力など、彼らにあるはずがない。それは、まるでライオンがウサギに 「俺の生存権を認めろ」 と迫っているような話である。これほど、滑稽な話がほかにあるだろうか。現実に 「生存権」 を一貫して脅かされてきたのは、パレスチナのほうであってイスラエルのほうではない。 そもそも、国境付近の住民ではない大多数のイスラエル市民にとっての脅威は、むしろ国内や占領地内における 「自爆テロ」 のほうだろう。しかし、そのような 「テロ」 は、ハマスを一時的に弱体化させたところでなくなるわけはない。最終的な和解によって共存する道を探り、パレスチナ人に対しても平和で安定した生活を保障する以外に、「テロ」 の脅威を取り除く道はないということは、あまりに自明なことではあるまいか。 イスラエルの行動は、イスラム諸国においても様々な非難を生んでいる。それは、イスラム世界における 「世俗国家」 であるトルコやエジプトにおいても同様であり、そのような親米的イスラム諸国においては、イスラエルへの非難は、その同盟国であるアメリカに追随する自国政府への非難へも容易に転化するだろう。ナセルの後を継いだあと、親米路線に転じてイスラエルとの 「和平」 に応じたサダトが 「イスラム原理主義」 者に暗殺されたのも、そう遠い話ではない。 イスラエルは、たしかに中東における 「議会制民主国家」 かもしれない。しかし、その民主主義はユダヤ系住民にのみ許された内輪の民主主義というものだ。たしかに、パレスチナ系住民もまったくの無権利ではない。しかし、「ユダヤ人の国家」 ということを法的な 「国是」 にしている以上、非ユダヤ系住民が 「二流市民」 でしかないことは自明の理である。 彼ら非ユダヤ系住民は、兵役を 「免除」 されているという。だが、それは彼らが法的に 「第五列」 扱いされているということを意味するに過ぎない。恒常的な戦時体制下にある国家において、兵役の免除とは 「特権」 ではなく、むしろ社会的に与えられたただの 「恥辱」 であり 「罰」 にすぎない。 そもそも、国籍を有する国民一般とは区別された 「ユダヤ人」 とはなにを意味するのか。国家とは国民によって構成された組織である。フランスはフランス人の国家であるというとき、フランス人とはフランス国籍を有するすべての者を意味する。アルジェ出身のアラブ系であろうと、セネガル出身の黒人系であろうと、フランス国籍を取れば、法的に言う限りすべて平等なフランス人である。 しかし、国民をその出自や民族性、宗教によって差別する国家は、言うまでもなく近代的な意味での 「民主国家」 ではない。それはかつての南アフリカのような少数派による多数派支配であろうと、その逆であろうと同じことだ。いや、そもそも現在のイスラエルにおける多数派としてのユダヤ人そのものが、「建国」 以来の様々な政策によって達成された人為的な結果なのではないか。 歴史を振り返るならば、ユダヤ人を最も激しく迫害したのは、イスラムではなくキリスト教世界のほうである。かの十字軍が攻撃したのは、イスラム教徒だけではない。ユダヤ教徒や、さらには 「異端」 と目された欧州内部の同じキリスト教徒もまた、攻撃の的にされていたのだ。スペインのイザベラといえば、コロンブスへの援助でも有名だが、彼女が半島からイスラムを放逐して最初にやったことは、王国から改宗を拒否したユダヤ人を追放することであり、その彼らを受け入れたのは北アフリカや東方のイスラム国家であった。 むろん、現に互いの間に 「対立」 と 「敵意」 という状況が存在する以上、大昔の過去を振り返ること自体にはたいした意味はない。しかし、問題の本質がイスラムとユダヤの宗教的対立でもなければ、アラブとユダヤの長い歴史的な対立でもないことは、押さえておくべきことだ。 民族主義を伴う、近代における多民族的 「帝国」 の解体は、つねに昨日まで共存していた民族同士の敵対を生んできた。それは第一次大戦後のトルコやオーストリアの解体でも、近くはユーゴの解体やソビエトの解体でも同じことだ。だが、こぼれた水や壊れた甕を元に戻すことは不可能であるにしても、いったん解体した共存という枠組みを、より広い枠の中に取り込んで回復することは決して不可能なことではないだろう。 他者を暴力で支配する者は、自らもまた自由ではありえない。恒常的な戦時体制下での他民族への暴力的支配は、いずれ自民族の内部へ侵入し疫病のように蔓延していくものだ。暴力によって他者を黙らせようとする者は、つねにその報復に怯えざるをえない。そのような自らの暴力が生み出した 「報復」 という亡霊に怯える者らは、やがて自らの内部に、味方の 「団結」 を損ない、敵に内通する 「第五列」 が潜んでいるのではないかという恐れに悩まされ、いたるところにその姿を見るようになるだろう。 世界で最も民主的と言われた憲法を有していたワイマール共和国下で、外相を務めたラーテナウの暗殺など、数え切れないほどのテロを実行し、あるいはカップ一揆などの暴動に参加して、ヒトラー政権への道を開いた元兵士や軍人らもまた、その多くが旧植民地などでの支配によって暴力の味を覚えた者らだった。ともに 「不倶戴天」 の敵同士でありながらも、「和平」 を推進しようとしたラビンが国内のユダヤ過激派によって暗殺されたのも、彼らにとってはけっして遠い昔話ではないはずだ。 小児 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更ここに云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?芥川龍之介 『侏儒の言葉』 より
2009.01.13
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とうとう2009年になってしまった。もっとも、そうは言っても、時間に明確な区切りがあるわけではなし、地球が太陽の周りをぐるっと一周したというだけのことだが。 報道によると、今年の正月は例年より1秒長くなっていたらしい。なんでも1日の午前8時59分59秒の次に、8時59分60秒というのが挿入されていたとのことだ。1秒などと言われても、瞬きする間に過ぎてしまうようなものだが、外国通貨だの証券だのの取引をしている人にとっては、その1秒が損得の分かれ目になりかねないそうだ。 そういう人にとって欠かせないものといえば、精度の高い時計ということになるだろう。そういう時計のことを、一般にクロノメータというそうだが、その語源はギリシア神話に出てくる時の神 「クロノス」 にある。また 「クロノロジ」 と言えば、年表や年代記のことを意味する。 スペインの有名な画家ゴヤの晩年の作に、「我が子を食らうサトゥルヌス」 という絵がある。サトゥルヌスというのは、ギリシア神話のクロノスに当たるローマの神だが、将来自分の子に殺されるという予言を怖れたクロノスが、生まれてくるわが子を次々と呑みこんだという話をモチーフにしている。 クロノスの妻が最後に産んだ子がかのゼウスであり、その 「どうかこの子ばかりは」 という願いを聞いた両親である天と地、すなわちウラノスとガイアによって、赤ん坊のゼウスは遠い所へ隠され、クロノスは代わりに産着に包んだ石を呑まされる。ところが 大いなるクロノスは これらの子供たちを呑みこんでしまわれたのであるその子供たちが 聖い母胎から膝へ生れ落ちる片端から。おのれ以外の 栄えある天の末の神々のたれかが不死の神々の間で、王者の特権を獲ることがないようにと図って。というのも 彼は 大地と星ちりばえる天から聴いていたのだおのれの息子によって いつの日か 打ち倒される定めになっているのをヘシオドス 『神統記』 より ところが、ヘシオドスによれば、このクロノスにも実は、同じようにその父に仇をなした過去があったのだ。クロノスの父とは天を意味するウラノスであるが、ウラノスもまたおのれの子を憎み、光の当たらぬ大地の奥底に生まれた端から押し込め、隠していたのだった。それを怨んだ妻ガイアは夫に隠れてひそかに大きな鎌を研ぎ、子供らを集めてこう語りかける。わたしと、かの不埒な父から生まれた子供たちよ お前たちが私の言うことに従ってくれるならわたしたちはお前たちの父の非道な仕業に復讐してやることができるのです。それというのもあのひとが先に恥知らずな所業をたくらんだのですから それを聞いた子供らの中から、末子のクロノスが進み出て母の願いを聞き入れ、一役買うことになる。すなわち、クロノスは母親の寝所に隠れて、父ウラノスが来るのを待ちうけ、親父殿がことに及ぼうとするところでとび出して、その大事なところを母に渡された鎌でちょん切ってしまうのである。 つまり、ウラノスとクロノス、そしてクロノスとゼウスの物語は見事に相似形をなしており、おのが子を怖れた父ウラノスと同様にクロノスもまた子を恐れ、ウラノスが末子のクロノスによって倒されたように、彼もまたおのれの末子であるゼウスに倒されるという結末になる。 この話は一口で言うと 「因果はめぐる」 ということになるだろうが、おそらく時間は、ぐるぐると円環的にめぐるということを象徴した話なのだろう。実朝を暗殺した公暁は事件の黒幕という疑いもある北条に消され、大内氏を倒した陶晴賢は毛利に亡ぼされる。信長を討った光秀もまた山崎で秀吉に討たれる。 かのオイディプスもまた、「お前はおのれの子供によって亡き者にされる」 とのアポロンの神託を怖れた父によって捨てられるのだが、殺してくるよう命じられた家来の情けによって命は助けられ、めぐりめぐって別の王家で育てられることになる。 白雪姫もまた、「白雪姫はあなたより千倍も美しい」 との鏡の言葉に嫉妬した王妃(グリムの初版では継母ではなく実母ということだ)によって、森へと連れ出されるのだが、やはり同様に哀れに思った狩人により命を助けられ、小人らとともに森の中で暮らすことになる。 さて 「エディプス・コンプレックス」 理論で有名なフロイトは、『トーテムとタブー』 の中でこんなことを書いている。 ある日のこと、追放された兄弟たちが連合し、父親を打ち殺して食べてしまい、そこで父親群に終止符をうつのである。彼らは団結して、個々の人にとって不可能だったことをあえて行って、それを実現したのである。 (中略) たしかに暴力的な父は、兄弟集団のだれにも羨まれ、かつ恐れられた模範であった。そこで彼らは、それを食いつくす行為において、父との一体化を遂行して、おのおのが父の強さの一部を自分のものとしたのである。 人類の最初の祭りかもしれないトーテム饗宴とは、この重大な犯罪行為の反復であり、記念祭であろう。そしてこの行為とともに社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まったのである。 いうまでもなく、このようなフロイトの主張はとうてい 「歴史的事実」 としての確認などできるものではない。また人間の 「社会形成」 に関する理論としてみれば、一種の社会契約論と言えなくもないが、説明があまりに空想的で心理主義に偏向しているのも確かだろう。 たしかに古い神話や伝承には、しばしば 「怖ろしい父」 や 「怖ろしい母」 といった形象が登場してくる。神話の場合には、そのような形象はおそらく人間の上にのしかかる、様々な抵抗しがたい力が擬人化されたものなのだろう。とはいえ、そういう怖ろしい力が 「怖ろしい父」 といった姿で表されたということには、それなりの根拠というのもあるのかもしれない。 第二次大戦中のヒトラーによる 「絶滅政策」 を生き延びた人々は、パレスチナへの「帰還」によって、2,000年ぶりに自前の国家を建設した。しかし、それはすでにそこに住んでいた人々を暴力で追い払い、彼らから土地と家を奪うことによる 「建国」 でもあった。 「建国」 前には、パレスチナ全体の1割にも満たない土地しか所有していなかったユダヤ人入植者による、パレスチナ全域の制圧によって実現したイスラエル 「建国」 は、現実にはパレスチナ人に対する旧ユーゴの内戦と同様の 「民族浄化」 によるものだ。当時の記録を読めば、イスラエルの 「建国」 が、単なる自衛を超えた 「テロ」 の力を借りたものであることは疑いようがない。 彼らの 「テロ」 と、その後のパレスチナ人による 「テロ」 との違いがあるとすれば、彼らのテロは 「国家建設」 という目的を果たし、その結果 「建国」 のための 「英雄的行為」 として正当化され認知されているということでしかあるまい。 かつて東欧の狭い 「ゲットー」 の中に押し込められていた人々の末裔は、いままた高い壁でパレスチナ人の居住区を取り囲み、新たな 「ゲットー」 を建設しようとしている。ただし、これは 「因果はめぐる」 という話ではない。 わずか360 平方キロという一都市ほどの広さしかない土地を軍事的に制圧するのは、むろん赤子の手をひねるよりも簡単なことだろう。だが、自国の周りに、自らの手で敵意と憎悪の壁をうず高く積み重ねていくのは、最悪の愚策でしかあるまい。それは、ゴヤが描いたサトゥルヌスのように、自らの手で自らの未来を食い尽くすことでしかないだろう。
2009.01.04
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