三介さん
どうもです。
しばしば誤解されることですが、レーニンの頃の党は「鉄の規律」といいながらも、けっして一枚岩などではなく、つねに論争が絶えなかったものですね。そこが彼の模倣者らとまったく違うところです。

ところで、ロシアはどうなるんでしょう。
大与党とはいっても、しょせんは彼の個人的権威と利害関係でつながっているにすぎないようにしか見えませんが。 (2007.12.05 22:42:58)

遠方からの手紙

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2007.12.05
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カテゴリ: 思想・理論

 レーニンが 『なにをなすべきか』 で展開した、いわゆる 「外部注入論」 というものは、今日でははなはだ評判が悪い。中には、この理論は理論を独占したインテリゲンチャによる大衆支配を正当化するものだ、などという見当外れの批判すらあるぐらいだ。しかし、レーニンは本当にそんなことを言ったのだろうか。

 『なにをなすべきか』 という本は、一般に前衛党の組織論を定式化したものとして読まれている。しかし、そこで定式化されている組織論は、政治活動や結社の自由がまったくといっていいほど存在しなかった、帝政ロシアという時代状況と密接に関連しているのであり、そのためにやむを得ず、彼の主張は、いささか上意下達という性格の強い秘密主義的で厳格な組織という形を取らざるを得なかったのだ。

 したがって、この本の中で同時に提起されている、「外部注入論」 の問題と民主集中制という 「組織論」 の問題とは、別個の問題として分けなければならない。一般に、通俗的なレーニン批判者は、この二つをいっしょくたにすることで、レーニンを権威主義的で独裁志向の強い権力亡者として描いているのだ。

 さて、そもそも 「外部注入論」 と呼ばれているこの論理は、ドイツ社会民主党の理論家であったカウツキーから受け継がれたものであって、上の本でも、レーニンは次のようなカウツキーの一文を引用している。

社会主義的意識は、プロレタリアート的階級闘争の必然の、直接の結果であるかのように見える。だが、これは間違いである。・・・
 この両者は、一方が他方から生れるものではなく、並行的に成立するものであり、またそれぞれ違った前提条件のうえに成立するのである。近代の社会主義的意識は、ただ深遠な科学的洞察をもととして始めて成立しうるものである。・・・
 ところで、科学の担い手は、プロレタリアートではなく、ブルジョア・インテリゲンチャである。近代社会主義も、やはりこの層の個々の成員の頭脳に生まれ、彼らによってまずはじめに知能のすぐれたプロレタリアたちに伝えられ、ついで、これらのプロレタリアが、事情の許すところで、プロレタリアートの階級闘争のなかにそれを持ち込むのである。
 だから、社会主義的意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない。


 つまり、ここで問題になっていることは、「社会主義的な意識」 は自然発生的なプロレタリアートの闘争から、直接には成長し得ないということのみであり、したがってインテリゲンチャか労働者かということが、本質的な対立であるわけではない。

 考えてみれば、インテリゲンチャにとっても、カウツキーのいう 「社会主義的意識」 なるものは、ある日突然天から降ってきたわけではない。つまり、その点ではインテリゲンチャが属する中産階級であろうと労働者であろうと、同じことである。

 ただ、当時のヨーロッパ、とりわけロシアのように、社会全体の教育水準がきわめて低い国では、普通の労働者にはそのような 「科学的洞察」、すなわち知識や理論に触れる機会がなかなかなかったため、そのような役割はインテリゲンチャに限定されていたというだけのことなのだ。

 実際、レーニンはこうも言っている。

 もちろんこれは、労働者がこれをつくりあげる仕事に参加しないということではない。ただ彼らが参加するばあいには、労働者としてではなく、社会主義の理論家として、つまりプルードンやワイトリングのような人間として参加するのである。
 いいかえれば、彼らが、多少ともその時代の知識を持っていて、この知識を前進させることができるときにだけ、またそのかぎりでだけ、参加するのである。


 レーニンが言っていることは、つまりはこういうことだ。

 すなわち、労働者が (あるいは一般に差別されている人、抑圧されている人などであってもよい) 理論や政治という舞台に参加する場合には、自分たちが直接の当事者として巻き込まれている 「現場」 からいったん離れて、直接の当事者としてではない、より一般的で客観的な立場へと移行することが必要だということだ。

 ここでのレーニンの論理は、社会の中で自分は不当に差別されている、抑圧されているなどと感じている人たちがしばしば陥りやすい誤り、すなわち、おれたちこそが問題を正しく認識しているのだ、といった類の、悪しき 「当事者主義」 とでもいうべき素朴な論理とは明確に異なっている。

 つまり、レーニンがここで言っていることは、労働者に対して、現場での不満をただぶちまけるだけの 「こども」 ではなく、社会全体を客観的かつ冷静に広く見渡すことのできる 「おとな」 になれということなのである。たんに問題の指摘に留まらず、問題の解決を志向するならば、こういうことはいつの時代でも必要な条件である。 

 カウツキーやレーニンが考えていたような 「社会主義的意識」は、おそらく現代の社会に対して、そのままの形では通用しないだろう。また、このようなレーニンの要求は、現実に対して、いささか過大な要求なのかもしれない。しかし、このようなレーニンの問題の立て方自体は、けっして古びていないし、普遍的な一般性を持っているように思う。

 おお、今日はひさしぶりに、思いっきり左巻きのことを書いてしまった。






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Last updated  2007.12.05 18:14:43
コメント(10) | コメントを書く


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左に巻いたお菓子だって  
UBSGW さん
お邪魔します、UBSGWです。

格差論やら世代論にも通じるテーマに関して久々にまっとうな論を読ませてもらった気がしています。
「あなたのような恵まれた人には分からない!」「おめぇら青いんだよ」にはうんざりしていたところです。
>「現場」 からいったん離れて、直接の当事者としてではない、より一般的で客観的な立場へと移行することが必要
この一文、「いったん」のところに強勢を置いて読みました。こうした習慣は知的な理解・考察には不可欠なのではないかと…私も思います。

左巻きでも右巻きでも味さえ良ければ良いのがソフトクリーム、バウムクーヘン…etc。
「おれは右巻き(左巻き)のしか食わん!」って人間こそ別の意味で”巻いて”しまっているのだと思いまっす。 (2007.12.05 08:04:38)

Re:左に巻いたお菓子だって(12/05)  
かつ7416  さん
UBSGWさん
どうもどうも。
お気付きでしょうが、ここでの「こども」と「おとな」という言葉は、いうまでもなく内田先生からの盗用であります。
私は、内田先生という人は、若き日の「情熱」をけっして失っていない稀有の人だと見ております。
実際、そろそろ八木某氏あたりから、「おちゃらけた言葉でひそかに若者らの洗脳をはかっている、某女子大教授」といった攻撃を受けるのでは、と本気で心配しているくらいであります。 (2007.12.05 14:20:46)

なになす  
薩摩長州 さん
「なになす」はとても示唆に富んだ重要文献ですね。
かつさまに同意です。それにしても、かなり左ですね。 (2007.12.05 21:39:55)

Re:なになす(12/05)  
かつ7416  さん
薩摩長州さん
最大の問題は、レーニンが指摘した階級意識=闘争の即自的レベルと対自的レベルの差異が、「前衛」と「大衆」の対立として理解され図式化されたことでしょう。
そのため、「前衛」を自称して「大衆」を蔑視する、奇妙なレーニン主義者ばかりがあちこちに跋扈する始末になってしまいました。
これはレーニンにとっても、残念なことです。
(2007.12.05 22:02:14)

護民官レーニンと法の独裁を云うプーチンと  
三介 さん
今晩は、カツさん、久々に会心のレーニン論を読ませていただき感激してます。
パリ・コンミューンの民主主義的「良心」がプロシア等の帝国に踏み潰された上での、「鉄の規律」ですからね。
その後の経験を骨肉化していく努力、まあ地道にしていくだけです。救世主など求めず。 (2007.12.05 22:18:00)

Re:護民官レーニンと法の独裁を云うプーチンと(12/05)  
かつ7416  さん

Re:レーニンについてのちょっとした思い付き(12/05)  
薔薇豪城  さん
 先日の新聞に、大沢真幸さんが、書いていましたが、ミシェル、フーコーが「社会は防衛しなければならない」で、書いているように、近代ヨーロッパでは、政治を一種の戦争、と考える伝統があるんだそうです。排除された人たちが、自己主張、自己組織をするにはどうしたらいいのか?暴力的手段に訴える戦争状態?
 大沢真幸さんは、西部邁みたいな右派的な処方が無意味とすれば、「逆にまったく左派的な処方を推薦したい。たとえば「ソビエト」はどうだろうか。労働者=消費者による、局地的で直接民主制的な評議会こそは、排除されたものたちの自己主張と自己組織の手段になるのではないか。」
 と、言ってます。社会が発展した今だからこそ、レーニンくんの主張は結構いいかも。と、思った次第です。 (2007.12.06 20:13:47)

Re[1]:レーニンについてのちょっとした思い付き(12/05)  
かつ7416  さん
薔薇豪城さん
池澤さんがメルマガでも書いていたように、フランスには一定の直接行動を社会的抗議の様式として容認する風土がありますね。
そこには、民衆や少数者の権利がそのような行動をとおして実現されてきたという長い歴史があるのでしょうが、そこのところが上から与えられた日本の「民主主義」との大きな違いです。
赤木君の「論文」についても言えることですが、自分で声をあげ、自分で行動するという意識の弱さが、かの小泉ブームを支えた一因だったのでしょう。 (2007.12.06 21:18:32)

教育論  
まろ0301  さん
 レーニンの教育に関する論文を見ていますと、この人はホントにモノが見えている人だなと思います。自分たちが置かれている状態、時代的制約、その中で最大限何ができるのか・・ということも。
 なによりも、「人間」が分かっている人だなと思います。
 ローザルクセンブルグに彼の党組織論などを批判されたとき、「そんな事は言われないでもわかってるんだよ。でも、ロシアではそういうわけにはいかないんだよ」と言いたかったんでしょうね。
 ソ連には、マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの諸著作から縦横に引用して、どのような「理論」でも即座に創り上げてしまうという「専門家」がいたそうですが、そういった連中が流した害毒から早く自由にならねば。
 レーニン解説本ではなく、レーニンの本自体を読まねばなりませんね。 (2007.12.06 22:04:38)

Re:教育論(12/05)  
かつ7416  さん
まろ0301さん
かつて国民文庫で多数出ていたレーニンの著作も、最近はほとんど絶版か品切れの状態のようですね。
たまに古本屋などで、安値で並んでいるのを見ると、時代の流れを感じさせられてしまいます。

デマゴギッシュな安易な約束などで、大衆の人気を集めるようなことは一切しなかったことも、彼の偉いところです。 (2007.12.06 22:59:11)

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