見知らん街ガイド_『パリ時代』と神戸生活日記

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神戸男

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クラッセで買い物する主婦@ Re:神戸御影の富玉稲荷社(07/03) こんにちは。偶然こちらのブログを拝見し…
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リュウちゃん6796 @ Re:東京パンデミック。違った!、オリンピックだ!。(06/26) 初めまして、 奈良の法隆寺の傍に住んでい…
2021.04.20
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カテゴリ: 日々の出来事
神戸に住んで67年。生まれは名古屋。
幼い頃の記憶はそんなにないが、生まれたのは昭和25年2月。いわゆる早生まれなので学校は昭和24年組と同じで、その前年が戦後のベビーラッシュの年。中学に進学した年の新入生のクラスは18クラスあった。
その年の新入生の約3分の1は暑い夏を照り返しのキツイ校庭に建てられたプレハブの臨時校舎で過ごすことになった。若い数字のクラスは木造2階建てのオンボロ校舎が割り当てられたが校庭のプレハブに比べたら快適だったと言えた。1年上級の昭和23年組は何と21クラスあり、しかも1クラス50人越えの人口密度だった。
 少し話しが飛んでしまったので今一度幼少期に話を戻すことにする。
 姉は昭和23年生まれで町内に同い年が8人もいて、名古屋から引っ越した翌年が小学校入学。幼馴染みがいなかったものの通っていた小学校もマンモス校で転校生扱いされず自然と学校に馴染めた様だった。
 私は神戸に来て幼稚園に入園し、お袋が商売を始めた住所に籍をおいたのでいわゆる越境入学で近所の同い年の子供達とは違う小学校に通った為に親しい友達が町内にいなかった。ただ一人、5歳の時からの幼友達がいた。何と今年で66年間の付き合いとなる。ところが一度として同級生どころか同窓生にもなった事がなかった。小・中学時代を学校は違ったが仲良く過ごし、彼は大阪にある高校・大学に進み、私と言えば早々に高校をドロップアウトして家業見習いを始めていた。
その頃、巷でボウリングが流行り始め、とりあえず働き出したので小金を持っていたこともあってドップリとのめり込み、マイボールにマイシューズを持っていそいそとボウリング場に通いつめていた。
そんなある日、家の前でバッタリとその幼馴染みに出会す。と、何と彼は学ランに坊主頭、ボウリングバックを持っていた。
「ボウリングやってんの?」

「へえ〜、今度一緒に行こか?」
「それやったらウチの大学の練習に来えへんか?大阪やけどレーンは時間貸しやし、学割効くし安上がりや。でも、寝屋川(大阪)やけどな」
「行く行く。そやけどクラブの上級生は大丈夫か?」
「大丈夫や。ウチの大学は今んところ2年生が最上級生やからそんなにうるさないねん。一辺頼んでみるわ」
て事で、高校時代はたまに顔を合わすと挨拶する程度の付き合いしかなかったのに、4年振りにボウリングが縁で付き合いが復活した。
 彼は短大に通っていて、2年生を2回やり、ボウリングに没頭した2回目の2年生の時の関西学連春のリーグ戦で団体戦はコテンパンに打ちのめされたもののダブルスでは2部校ながら予選1位に躍り出て、門真ボウルのセンターレーンで学友とともにダブルス決勝に挑んだ。当日対戦したのは後にプロボウラーになったT氏の近畿大学チーム。名前も知られていない大学のチームが予選トップとあってセンターレーンのギャラリーは膨れ上がり、それに圧倒されてか決勝の成績は散々。が、何とか関西学連リーグダブルス3位の快挙を成し遂げた。
大学卒業後、彼はデザイン専門学校に進み、卒業後神戸新聞社系の広告制作会社に就職した。
私はというと、17歳の時から写真にのめり込んでいて、22歳の時に親父の仕事が芳しくないこともあって親父から「他の仕事を探せ」と言われ、折角だから写真を活かした仕事をと考え写真を撮らせてくれる印刷会社に就職することになる。
結局写真を撮る仕事といってもスーパーや市場のチラシ用の写真。まぁ、写真学校も出ていないし、そんなものかなぁと思いつつも何とかしなければと思い、一発勝負と印刷会社を辞めてカメラマンになる為の行動を起こした。アルバイトをしながら小金を貯め、写真を撮って歩いた。作品を貯めていつかカメラマンになる為の就職活動をしようと思っていた。
今から考えるとなんて浅知恵なんだろうと思う。今の時代なら『写真』の概念も『写真撮影』の概念もデジタルになって変わってしまい、フィルム現像やカメラの基本操作等知らなくても写真は撮れる。でも今から50年も前にカメラマンになろうとしたら、少なくても写真学校を出て学校に来る求人に応募するか、写場で丁稚奉公でもしなければカメラマンへの道程は遠いものだった。ただ、私にとって幸せだったのは共にボウリングに打ち興じた幼馴染みの存在だった。
 ある日、彼と喫茶店にいた。

すると彼が言った。
「ウチの会社の写真の部長に聞いたろか?」
「えっ!?」
「ウチの会社広告制作会社やからカメラマンが4人とアシスタントが1人いてるけど、そのアシスタントがカメラマンと一緒に車の撮影で大阪のスタジオに行ったら、会社の中の暗室や写真の仕事が手薄になるって部長が言うてた。アシスタントならアルバイトで雇ってくれるかも知れへんから聞いたるわ」と言ってくれた。
結局、彼の口利きで写真部長に合い「取り敢えず来てみるか」の言葉で、私のカメラマンへの道が開た。

「そんな事あったかなぁ」という。
「いや、まがりなりにもカメラマンに成れたのはお前が部長に掛け合ってくれたからや。感謝してるで」
「そうやったかなぁ。でもな実はあん時カメラマンのTさんが『彼は写真学校出てるんか?出てないんやったらカメラマンとして本雇いには成られへんで』って言われててなぁ」と申し訳なさそうに言った。
「いや、それでもとにかくカメラマンとして門戸を開いてくれたんはお前のお陰や。感謝してる」。
45年越しに感謝の気持ちを伝えることが出来た。
 彼のお陰でカメラマンになれ、私の仕事が安定して来た頃に彼は制作会社を辞めて母校のデザイン専門学校の教師となった。そして彼の誘いで神戸のデザイン専門学校と大阪のビジネススクールで写真講師の仕事を紹介して貰い、25年間講師を勤めた。今思い起こせば人生の節々で彼のお世話になっていたのだ。
71歳になって、初めて彼に感謝の気持ちを伝えた。
それとて彼は「そんな昔の話し。忘れた」と笑い飛ばしていたが‥‥感謝している。
 もう66年の付き合いになる。
今、交流のある幼少期からの友人は彼1人。3日に開けずLINEで言葉を交わす。
彼は酎ハイを片手に嫁の目を脱れて出先の公園からLINEしてくる。何のかのといっても他人ながらお互いの長い人生を知っている唯一無二の友人だ。
私が心臓で倒れ救急搬送されたことも知っている彼のLINEでの第一声は、何時も
「どや?元気か?」
 有難い。唯一無二の幼馴染みであり、大切な親友だ。
何時までも元気でいてください。
 何時までも元気で居よう。お互いに。





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Last updated  2021.04.20 03:54:58
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