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以前UPした事がある絵だけど何だか懐かしいのでもう一度UP。水族館以外で、しかもそんな所でエイを見るなんて思っていなかったから画像もブレブレだけど勘弁。 古い絵で申し訳ない。2020年4月の絵。動画もあるけど何度やっても画像がUP出来ないので断念。 爺ィのブログなんてそんなもんさ。
2025.09.19
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なのにいつも地元の昔話し。で、少しパリの話を‥‥つったって約50年ほど昔の話だけどね。 初めてパリに行ったのは1976年。そら見ろ!。ほぼ50年前だ。神戸から東京へ。まだ成田空港なんて姿もない頃、羽田空港からパキスタン航空に乗ってパリを目指す。なぜパキスタン航空なのかつて言うと一番値段が安かったから。確か1年オープン(有効期間が1年あって出発日だけ決めて帰りは期間内にってチケット)の帰路はストップオーバーできるチケットが17万3千円だったと思う。 パキスタン航空だから当然南回りで行きは東京→カラチ(パキスタン)、カラチでヨーロッパ便に乗り換えてドバイ→フランクフルト→パリ、終点はロンドン。オープンチケットの良いところはカラチまでは途中寄港した都市で降りる(滞在)出来ないけど、カラチから先はすべてストップオーバー付き。だからドバイを除いてフランクフルト、パリ、ロンドンまで全て寄り道。帰路はパキスタンから羽田までもマニラ、バンコック、香港と寄り道して帰って来られるという豪華絢爛の空の旅。まっ、お金が続けばの話しだけどね。航路は2種類あって中途寄稿できる国に違いはあるけど料金は同じ。一度、違う経由地の便を選んだけどダマスカスとかバングラディシュに興味がなかったから出来るだけ同じ航路を選んでいた。他にも北回りやシベリア鉄道なんて選択肢もあって、北回りは大韓航空とアエロフロートが最安値だったけど南回りに比べると割高だった。北極圏を飛ぶルートなら直行便で15時間程度、ヨーロッパ圏の国の航空会社、例えばルフトハンザならドイツを飛び越してフランスに直接行けないのでフランクフルトで乗り換えてパリに。大韓航空ならソウルで乗り換えてパリに向かうことになる。どうせお金掛けて行くんだから色んな国に寄ってみたい時間とお金がたっぷりある人には南回りは良いと思うよ。しんどいけど。パリまで約30時間だもんね。 初めてパリに出掛けたのは1972年。8日間のツアーで羽田発ルフトハンザ航空でドイツ経由パリへ。モンパルナス・タワーのホテル・シェラトン・パリがエッフェル塔を除いて初めての高層建造物だと言われた時代。それまでは『パリで一番眺めがいいのはエッフェル塔。何故ならエッフェル塔が見えないから』って言われていたのが『パリで一番眺めがいいのはモンパルナス・タワー。何故なら‥‥』。フランス人て皮肉好きだもんね。『リド』へ行って『ムーラン・ルージぇ』へ行ってミシュランの三つ星から二つに星を落とされ「それなら掲載するな!」と言ったとか言われてた某有名レストランに行って、ルーブル行って、セーヌ川でバトー・ムッシュに乗って、オ・プランタンで買い物して‥‥無駄な金使ったと思う。で、数年後。次からは1年オープンの格安航空券を買って出来るだけ長く滞在するパリ旅行に出掛ける。なんて書くと『このドアホ!何処の何もんじゃ!!』って事になるよね。略歴を書くと元々は家業の時計商を継いだもののカメラマンになりたくて気が付けば20代。『カメラマンになるには写真学校を出てなくちゃ』って言われた時代にただのアマチュア。『写真が好きな人』って求人の広告につい乗ってしまい印刷会社に就職するも写真なんて撮らして貰えず印刷の版作り。まぁ、写真と言えば製版カメラで撮るんだから写真っちゃぁ写真なんだけど。 50年前の大学出初任給が8万円強の時代に、残業したおして毎月手取り13〜14万円。しっかり金貯めて将来はカメラマン目指してポートフォリオ作りにパリを目指した。甘いね。ドラ焼きのアンコより甘々。まぁ、夢見る夢夫君だったんだね。写真業界の事なんか何も知らんから仕方ないけどね。 で、ホテルの予約もなしに飛んでいってオルリー空港について、空港でカタコトの英語でホテルの予約取ってタクシーでパリ市内へ。着いたところがパリ5区、セーヌ河岸の安ホテル。セーヌ挟んで川向こうはクルーゾー警部のパリ警視庁。右向けば川向こうにノートルダム寺院。左向けばカルチェラタンのサン・ミッシェル橋。そんなロケーションでパリ住まいが始まった。ついでだから安ホテルの屋根裏部屋からの眺めとホテルの写真をUPしとくね。 話しは長いよ〜。 無駄に長いよ〜。サン・ミッシェル河岸15番地 ホテル・デ・スエデ屋根裏部屋からノートル・ダム寺院がこのホテルは二つ星NN。NNは改築したよって意味らしく、建てられてから三百年以上経ってるらしくエレベーターもない。屋根裏部屋は四部屋あってノートル・ダム自身が見えるのは17号室だけで18・19・20号室は屋根と煙突しか見えない。あと、パリの空は見られるけどね。部屋代はベッドと小さな机、洗面台、トイレはついてないけどビデはついてる。男には関係ないけどね。それで一泊26フラン50サンチーム(約1,325円位)。食事に比べたら宿泊代は安いと思った。それでも毎日部屋を掃除してくれるメイドさんに1〜2フランのチップを枕の上に置いておくのがルールらしく、積もり積もると痛いよね。今のフランスはフランではなくユーロ。1ユーロは2025/09/10現在172.5円だそうな。物価も高そうだね。昔、メトロは一律2FR(100円)で何処まで行ってもクルクル回っても同じだった。ただし確か時間制限があったと思う。2025年に値上げしたパリのメトロは2.5ユーロになったらしいけどメトロ、R・E・R、トラム、バスとパリと近郊の交通機関は決められた時間内なら乗り換えても均一料金だとか。それでも約431円は高いかも。今はパソコンやスマホでいくらでも情報が手に入るけど、当時は『地球の歩き方』とか『地球は狭いわよ』なんて個人著か、パリでは『OVNI』なんてフリーペーパーが限られた情報源。それらの本が空港のゴミ箱に大量に捨てられていたなんて話が実しやかに語られていたような‥‥わしゃ知らんけど。最後に写真を一枚あげておくね。『サモトラケのニケ』ルーブル美術館で一番最初に目に飛び込んでくる石像。アメリカ人がニケ(NIKE)をナイキと呼んだのがブランド名になった。 またいつか講釈垂れてみよっと。
2025.09.10
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7月も後半。昨日、北海道の気温が40度近くニュースになっていた。爺ィの生息する神戸は不思議に夏場の気温が隣接する大阪に比べ2〜3度低い。冬場は少し気温が高い。六甲山系を背に、山風、浜風は吹くものの瀬戸内海に面した気候は穏やかだ。と言っても目の前は大阪湾だけどね。 歳をとると生活に変化がなくて平々凡々と過ごしているから、この日記のこともつい忘れてしまう。出来るだけこまめに更新しようと思いながら、そやっ?、そやっ!と気が付けば4ヶ月も放ったらかし。そりゃ誰も見てくれんわなぁ‥まっ、ボチボチ書いていきま。 すぐ忘れそうやけど‥‥。
2025.07.24
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2月の半ばに 誕生日を迎え、めでたいとは思っていないけどめでたく75歳になった。永いね 。七十五年だもんね。考えてみれば生まれた年は太平洋戦争が終わって5年後。それでも戦後のベビーブームには含まれていない生まれ年。小学校に上がる頃には『戦後は終わった』って言われていたけどね。1960年の『日米新安全保障条約』の時は学校で意味も分からず「安保反対!」って叫びながらテレビで見たデモ隊を真似て校庭を隊列組んで練り歩いていたね。なんも分かってなかったんだね。 中学3年生の時、内閣総理大臣佐藤栄作氏が日本国国民である事を身分保証したパスポートならぬ紙の身分証明書を持って、今はなき「関西汽船」で中•高校生の少年団員と引率の先生方総勢12名は航海訓練を目的とし復帰前の「南西諸島•沖縄」へ出掛けた。航海訓練は名目だけで正真正銘の物見遊山だったけどね。 現地通貨は米ドル。お小遣いは20米ドルまでと団から決められ、聖徳太子7枚と板垣退助2枚の計7,200円と身分証明書を持って銀行へ両替に出掛けた。令和6年の消費者物価指数が4.6倍だから7,200円は33,120円。旅費の15,000円はなんと69,000円。計102,120円!!。今更ながら親父がよく出してくれたものだ。感謝!!。 で、航海中に関西汽船の計らいで操舵室や機関室等を見学しお座なりながら航海訓練も終えて、無事真夏の沖縄は那覇港に上陸した。 沖縄の現地滞在は4日間。沖縄は思っていた以上に暑く、まだ車にクーラーなど無い時代だからマイクロバスの窓は全開で宿舎に向かう。国道沿いの米軍キャンプやハイツは芝が一面に敷き詰められ、その向こうのコバルトブルーの海に波がキラキラと輝いて見えた。いいなぁ、ハワイもこんなかなぁ。 1961年、寿屋(サントリー)の『トリスを飲んでハワイに行こう』というキャンペーンがあった。1等(100名)の賞品が『ハワイ旅行積立預金証書』で当時海外旅行は自由化されていなかったから、自由化になったらハワイに連れて行くよって約束手形。1964年4月に海外旅行が自由化されて4月18日にめでたく当選者はハワイに旅立ったけど出掛けたのはたった4人。えっ?。100人じゃないの??。実は大半の当選者は「ハワイ旅行or現金40万円」の選択肢があって‥そりゃそうだよね。4.6倍してみたら‥‥ね。 で、我々の航海訓練はと言うと、海外旅行自由化に伴って実施された所謂ひとつのイベントに過ぎなかったわけ。 沖縄での日程は南部観光。北部観光。国際通りとデパート『リウボウ』での買い物。当時の『リウボウ』は那覇市内で民間の建物としては最も高く4階建て(現在は10階建て)。4日間のうち遊び呆けて3日間を過ごし、最終日。航海訓練(名目だけどね)の主目的となった那覇高校と首里高校との交換会が開かれた。 那覇高校•首里高校共に生徒会会長、副会長等、両校の生徒代表がズラリと出席し、日米地位協定や沖縄復帰問題、島民の就職や生活等、切実な話題が次々飛び出し、物見遊山とは程遠い空気に一同身の置き場がなかった。何んも考えずに沖縄に出掛け、同じ年代の彼らが真剣に考え、悩み続けている事に気付かず、共感も出来ず、ただウロが来て背筋を正して聞き入るだけが精一杯だった。情けなかった。 戦後は終わったって?。何処がだよ? 翌年、本土(変な言い方だね)の大学に入学した那覇高校の卒業生から長い手紙を貰った。本土での生活を知ったが為に沖縄が置かれている現実が前にも増して辛いと書かれていた。 60年も前の話し。でも、本土に復帰したとはいえ沖縄は相変わらず地位協定に占領されているんだよね。 日本国内に米軍基地は何ヶ所あるか?。日米安保条約に基づき、専用施設、共同使用、一時使用施設合わせると130ヶ所。一方、自衛隊の基地は160ヶ所。 この数字、なんか変だよね。でも日本は軍隊を持たない国だから守ってもらってるんだろうね。 そんなもんかねぇ‥。 いつもの事ながら、爺ィの世迷言‥ご容赦あれ。
2025.03.13
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昔、海外で柿はなんて呼ばれているのか調べた事がある。その時は確か「KAKIS」って表記し「カキス」って呼ぶって書かれていたと思ったが、最近ネットで調べてみると「KAKI」と表記され「カキ」と呼ばれるとあった。まっ、美味しければどっちでもいいけどね。ついでだけど英語の「Persimmon」はアメリカの先住民の干し果物を表した言葉が語源で、柿(果実)は本来東洋の果実だったから「Japanese persimmon」と呼ばれ、日本語の「KAKI」と呼ばれる所以は日本の柿が「甘柿(渋もあるけど)」だったから。何でこんなことを書いているかと言うと、日本のブドウの品種「シャインマスカット」の偽物が某国で平然と売られているらしい。しかも箱書きに日本語でそれらしく書かれているとか。当然名前は似て非なる代物。今はその程度で済んでいるようだけど、以前アジアの某国が日本の苺の品種をそっくりパクった事があったが葡萄だってどうなる事やら‥‥。 食パンの話。サンドウィッチ伯爵が発明した(かなり眉唾らしいけど)とされる「サンドウィッチ」は日本でも当たり前のように食されているけど、大きな違いはスライスしたパン(食パン)にあって、日本の食パンは柔らかくてフワフワで、この日本の食パンを使ったサンドウィッチ人気が欧米で高まっている(アンパンも含みパン全般と言える)らしい。 ついでに日本料理の話し。日本料理の評価が高まっているようで平成25年に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されるとたちまち世界的な日本食ブームが訪れ、相まって日本を訪れる外国人観光客が急増し続けている。問題も多いけどね。 日本観光や和食の話ついでに日本のお米の話し。世界的に日本料理がブームとなり、和食の美味しさや味わいの奥深さに魅了される人々が日本を訪れ、観光と共に日本の歴史や文化に触れてくれるのは嬉しい限りだけど、ちょっと心配なのが和食を美味しく頂くためのお米の存在。お米の種類はインディカ米(長粒種)、ジャポニカ米(短粒種)、ジャバニカ米(中粒種)の3種類あって、日本のお米はジャポニカ米(短粒種)。ジャポニカ米は、粒が短く炊くと粘りがあって「スティッキーライス(粘つく米・本来は餅米の意味)の一種と捉えられていて、インディカ米(長粒種)いわゆる外米とはかなり異なる食感で欧米ではあまり人気がなかったが、昨今の和食ブームで日本のお米が注目されているようだ。その炊き方も炊き干し法(炊飯器にまかせっぱなしでいいけど)と湯取り法(知らなくていいと思うけど)の違いはあるけど今や日本の海外向け炊飯器は馬鹿売れらしい。 平成の米騒動の折、そして最近の米不足で店頭に並んだ「カルローズ(カリフォルニア米)」は中粒種で適度な粘りがあり海外の日本料理店などでよく口にするお米だが、来日する外国人観光客が日本の米を口にする事で、この中粒種と短粒種の違いに気付くのは当然の事で、和食を味わえば味わう程に日本の米の美味しさを知ることになる。なんちゃって。早い話が日本の苺やブドウの様に「コシピカリャ」とか「サッサトニシキ」なんて贋物が出回るうちはまだいいとして、しっかりと「コシヒカリ」や「ササニシキ」のドンズバ海外米が出て来ないともいえない。 アメリカでは和牛肉を「WA-GYU」と表記するらしい。日本から輸入した和牛肉は「Japanese wa-gyu」。日本和牛の血統93.75%の和牛や少数ながらアメリカで生産した純血種などの和牛肉は「American wa-gyu」と表記される。ただ、これがいつか全て「WA-GYU」の表記になってしまうのでは‥‥。 いつもの爺ィの世迷言。ご容赦の程‥‥。 付け加えると、蛸の値段が高騰してるって。アフリカのモーリタニアから輸入するんだけど、蛸は「悪魔の魚」って呼ばれていて殆ど他国では食されていなかったのに海外で「たこ焼き」や「お好み焼き」が流行り今まで見向きもしなかった国が買い付け始めたとか。 昔、フランスにいた頃に聞いた話だけど、フランスではマグロの腹身の脂の乗ったところは食べなかったらしい。ある日、サン・ジェルマン市場の魚屋に現れたジャポネが「猫にあげるから」とマグロの腹身を貰って帰ったとか。そのジャポネはたびたび現れ腹身を貰っていたが、時は過ぎ、日本で脂の乗ったマグロの腹身を「大トロ」と言って珍重されると知った魚屋はしっかりと高値の値札を付けた。それっきりジャポネは来なくなったとさ。 ウソッポイ物語だね。
2024.12.13
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パリ時代ってタイトルながらパリの話しは殆ど出て来ない。かなりインチキなブログで申し訳ないけど、パリにいたのは今から約50年前。最後にパリの地を踏んだのは1989年。エッフェル塔が立って100年を祝った年。35年も前の事だからパリの話しはただの昔話しでしかない。 そう言えば今のフランスの貨幣はユーロだけど当時はフランだった。昔話だね。当時は1ドル100円の時代だもんね。今や円の価値は駄々下がり。150円台だもんね。なんて書いたけど固定相場の時代は1ドルが360円だった。60年も前の話しだけど。1964年のケネディーコイン(50セント銀貨)は今4,400円だって。 74年も生きてるんだけど若い頃は50代で死んだっていいやなんて言ってたのに今はもう少し生きていたいなぁなんて‥‥日本人男性の平均寿命が81歳だからあと‥‥平均寿命の意味が曖昧なんだね。年寄りは。でも、まあ、平均年齢は超えたいなぁと考える今日この頃。 何かいい事あるかなぁ?。 そんな事考えるぐらいしかやる事ないもんなぁ。
2024.12.06
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「義」の意味を広辞苑で調べると、人間の行動・思想・道徳で「よい・ただしい」とされる概念とある。「義」ひと文字で「正義」っと事なんだろうね。で、この概念は人によって違いがあると思うので、また、広辞苑で引いてみると「大まかな意味内容」って表現になっていた。結果「概念」てかなりアバウトなもので100人いたら100の概念があると言えるかも。で、ここからが本題。例えば「カスハラ」。問題になっているよね。「パワハラ」。どこかの県知事さんの進退問題にまでなったよね。結果は、まぁ置いておくとして‥‥。で、店員に喰ってかかるお客さんや、自分のしでかした事が解っていないような某県知事さんは何でそんな事が出来るのかって考えてみると「義」は「自分にあるんだ。自分は正しい」と思っているからなんだろうね。「カスハラ」のお客さんは「自分は正しい」と心から思って店員さんに挑んでいるし「パワハラ」の知事さんは「私が省庁に勤めていた頃は‥」と自分なりの「義」を持って知事の職務を果たしていたのだろう。いつもながら爺ぃの勝手な思い込みなので反論・ご意見はご容赦。 先日、以前の仕事仲間にこんな話をした。「夜中に歩いていると大小は別にして交差点にさしかかった。信号は赤。さて、どうする?」一つ目。「夜中だし車も走ってないようだからそのまま渡る」。二つ目。「赤だけど左右を見て安全を確認してから渡る」。三つ目。「夜中だけど赤だから信号が青になるまで待って渡る」。どれが正しい?。答えは三つ目だけど、100人に聞けばそれぞれの概念で答えは分かれると思う。勿論昼間だって人の行動は三つに分かれるだろう。「義」って何だろうね。 例えば、ロシアにはロシアの「義」があって戦争しているし、ウクライナにはウクライナの「義」がある。イスラエルにはイスラエルの「義」がある。「パレスチナ」にも「イラク」にも。「義」って何だろうね。「概念」って何だろうね。 最近、爺ぃは不眠症で結論の出ない事ばかり頭の周りを飛び回っている。アリストパネスじゃないけどね。若い頃は毎日新しい出来事と出逢うから夜寝る時に思い起こすのは楽しい事が殆ど。歳取ると何にも起こらない平々凡々たる毎日だから寝る時に思い起こすのは「昔はよかった15%に思い出したくもない事85%」。そりゃぁ不眠症にもなるね。生きてる証拠だね。そんな証拠って寂しいね。だからもう少し現世に蔓延ってやる!!。と齢74にして爺ぃは思っているけどね。 お粗末!!
2024.12.06
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3月以来。ただの怠け癖だけど。最近はパソコンもスマホも見る事が少なくなった。スマホは毎日歩く時に歩数を記録するアプリを立ち上げる事と、山の様に来るメールを消す為だけに立ち上げている。パソコンはと言えば、スマホさえあればパソコンもタブレットも必要ない気がする。40数年利用してきたAdobeのPhotoshopとLightroom。MicrosoftのWord以外は解約した。まっ、仕事でもなく趣味で使うだけならそれだけあれば十分だけど。本音は、全て無くなるのも寂しい気がして‥‥未練がましいね。 久々に書きたいのはお米の話し。まだまだ品薄が続いているようで、午後にはスーパーの棚は殆ど空状態。辛うじて馬鹿高『コシヒカリ』の10キロ袋があるか、あの懐かしい『カルローズ』が売れ残っているだけ。それとて午後には無くなってしまう。米の国内自供率は揺るぎないものと思っていたが、この「令和の米不足」。日本はどうなるのだろうね。でも、米が無い様でもないんだけどね。 過去に『紙不足』とか『平成の米騒動?』とかを経験しているのに学習しないのか情報は当て所もなくひとり歩きするようだね。パソコンやスマホだけのせいでは無いだろうけど。 米が食べたい‥‥んっ??。でも‥‥しかし‥何となく毎日ご飯を食べてるね。米は売ってないのにパックのご飯やおにぎりはいくらでも売っている。 その米‥‥何処から来たんだろうね?。
2024.09.13
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思い出すのも嫌だが、また転けた。日本の道は目には見えない程度の凸凹が無数にある。若い頃はそんなもので蹴躓く事はなかったし、万一蹴躓いても転ぶところまで行かなかった。オットットッ‥‥で済んだのに。そこから先に足が出て来なくて、出来の悪いデク人形のように派手に転んでゴロゴロ。しかもすぐに起き上がれずひっくり返った亀の如く手足をバタバタ。情けない。なんで転ぶかなぁ。そんな事で。 膝を擦りむき、手首を捻り、足首は捻挫。痛い。何とか起き上がって周りを見て、誰も見ていなかったか確認してから痛さに顔を歪める。やだね。74だもんな。 いつまで生きられるか分からないけど、元気でいたい。 人生七転び八起き。 七回も転んだら膝がもたんぞ。
2024.03.03
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こんな事は想像できなかった。とにかく身体の節々が痛い。まっ、歳だから仕方ないと言えば仕方ないけど。医者から四十肩と言われたのが去年の秋口。初めは右肩だったものが両肩になり、首は回らず、両手首、親指の関節、髪の毛を触るだけで頭皮がピリピリと痛い。歳を取るってこんな事なのか。去年まで余り減らなかった体重が今年に入って毎日減り続けている。目標にしていた65キロを切ってもまだ減り続けている。で、鏡を見ると両腕が極端に細くなっている。胸に筋肉がない。足も細くなった。情けない身体になっていく。慌てて体力作りと少し位見場の良い体づくりを始めている。今更身体作っても何の意味もないかも知れないけど、生きているうちは健康でいたいし‥‥、 話しはゴロッと変わって言葉の話し。最近テレビ見てて思うのが変な日本語が当たり前に使われること。さすがにテレビ局側の人間からは出てこないが、ドラマでは聴いてて首筋が痒くなるような言葉が平気で使われている。確かに言葉はその時代で変化する『生き物』だから変化して当たり前なのかも知れないけど、聴いてて気持ち悪い。まずは『ら抜き言葉』。該当インタビューするとほとんどの人達が『ら抜き言葉』を使う。それが当たり前になっているようでこれが耳障りが悪い。更に、気持ち悪いのが『違くて』『違くない』『好きくない』。以前『ヤバい』って言葉が気になると書いたけど、それも含みで平気でドラマのセリフになっているという事は台本にそう書かれているって事だけど。『ヤバくない?』。 まっ、言葉は『生き物』だからね。 仕方ないか‥‥。
2024.02.20
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今日、74歳になつた。 8年前に倒れ緊急搬送された。重篤な不整脈で36分間心臓が停止。で、奇跡的に蘇生して今生きている。人間て不思議だね。その時はせっかく拾った命だから健康に留意して食べ物にも気を付けて暮らしていたのに、8年も経つと『喉元過ぎれば‥‥』で糖質や脂質や塩分や、気を付けなくちゃいけない物も平気で食べたりしている。ダメなのは判っているのに『これ位はいいだろう』なんて勝手に決め込んで食べている。だから2ヶ月に一度の定期検診をずっと受けている。心臓も、肝臓も、腎臓も数値は『悪い数値ではない』と医者は言ってくれるが、以前と変わらない食生活に戻りつつなる我が身を恥ながら生き永らえている。 暗いね。で、今日。74回目の春を迎えた。やっぱり、どこまで生きていられるか分からないけどもう少し生きていたいと最近思っている。残された日々を『残日録』じゃないけど書き残してみようと思う。 自分の為に。 もう少し長生きする為の原動力になる。かも。
2024.02.14
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こんな話を友人とした。「なぁ、紅茶も日本茶も烏龍茶もみんな同じ葉っぱやて知っとったか?」「そんな話は聞いた事ある。ホントか嘘か知らんけど」いつものように知らんけどで始まった話だが、紅茶も日本茶も烏龍茶も全て同じ葉っぱから出来ていて、日本茶は茶葉の栽培方法や製造方法で緑茶、煎茶、玉露、抹茶、番茶、煎茶や番茶を焙じた焙じ茶や蒸米を加えた玄米茶等に分けられるらしい。 では中国茶や紅茶との区別は?。とあるラジオ番組でこんな話を聞いた。茶葉は学名「カメリアシネンシス」という木の葉っぱで、その葉っぱが発酵していない緑茶等の『不発酵茶』、烏龍茶等の『半発酵茶』、そして紅茶は『発酵茶』と3種類の茶葉に分けられる。更に中国茶には大きく6種類あって『黒茶』酸化発酵の後に微生物を植え付け後発酵させた茶葉。代表的な茶葉はプーアール茶。『紅茶』完全発酵のお茶で発祥地は中国。『青茶』発酵した茶葉に不発酵の緑茶を混ぜた茶葉。烏龍茶、凍頂烏龍、鉄観音等。『黄茶』緑茶を微生物で弱後発酵させた茶葉。『白茶』芽吹いたばかりの産毛の生えた茶葉を発酵させ短時間で発酵を止める弱発酵茶。白牡丹等。『緑茶』蒸して作る日本の緑茶と熱の加え方が違って、日干し、熱風、釜炒り等の製造法がある。 紅茶の茶葉の世界3大産地はダージリン(インド)、ウバ(スリランカ)、キーモン(中国南東部安微省)とされている。他にはアッサム(インド)、ジャワ(インドネシア)等が挙げられる。 産地とお茶の種類に関しては以前旅行社の仕事で台湾に出掛け取材した内容を元にしたので、大きな間違いはないと思けど、間違いがあっても勘弁。で、ラジオの話に戻るけど日本ではその昔、英国産の紅茶が高級とされていた。多分、今でも何んとなく高級感があってお中元やお歳暮の贈り物にイングリッシュ・ティーが選ばれもする。与太話かも知れないが、多分与太話だろうけど、アジアで積み込まれた茶葉が貨物船に積まれ遥々希望峰を廻って英国に着く頃には茶葉が発酵していい紅茶になってるって話し。なんかありそうな話だけどね。で、英国の紅茶の話。 本場?英国では豪華なアフターヌーンティーを楽しむ習慣があるそうだけど、50年前の日本では一部の日本製の紅茶以外は殆ど英国メーカーの紅茶。アフターヌーンティーなんて洒落た習慣はなかったし、ティーポットに茶葉を入れ保温用のミトンのようなカバーを被せて『3分間待つのだぞ!』なんて事もなかった。勿論主流はティーパックだった。一般庶民はね。で、色んな英国製の紅茶が蔓延している日本で、英国の紅茶に一言物申す人の話がラジオから流れてきた。ここからが本題。 英国の正式名は『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国』でイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから成り立ちっている。日本ではその英国から輸入される高級紅茶を有難くいただいているけど、ここで問題があるらしい。実は英国の水は殆ど硬水でそれに合う紅茶が作られていて日本の水(軟水)には合わないと言う。確かに国によって水が違いフランス(パリ)では長年使うと湯沸かしの容器の内側に石灰がこびり着く。こんな水は飲めないとエヴィアン(代表的にだ。ヴィッテルもある)が売れる。貧乏旅行者はそんなこと気にせず鉄管ビールでお茶を飲み、お米も炊いていたけどね。で、本題に戻ると、英国の紅茶を購入するならスコットランドの紅茶を勧めるって話。何故なら、スコットランドの水は軟水なんだって。 曰く『硬水に合わせて作られた紅茶を軟水で飲んで美味いって言っいる奴は味音痴だ!』。 何んだって。知らんけど。 聞いた話だからね。だよ。
2024.01.07
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独居老人の正月なんてまぁ楽しくもない物もない。おせちは作らないし購入もしないからいつも通りの普通の食事。インスタント食品やレトルト食品が豊富にあるおかげで不便はない。 それでも正月だから特別に数の子と棒鱈(惣菜)を買った。 何んでこれが美味しいと思っていたんだろう。 後悔した。 73歳の正月。残念。
2024.01.05
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日本人男性の平均寿命は2023年時点で81.5歳だとか。となると爺ィの残された日々は平均年齢まで生きているとして後8.5年。このブログは残された日々の出来事を綴る『残日録』って事になるかな?。まっ、日々を大切に生きる良い心構えのひとつになるかも知れない。今日、幼稚園に通っていた時からの友人の電話で「〇〇が6年前に亡くなっていたんやて」と教えられた。お互いの共通の友人で近所にずっと住んでいたのに『最近見かけなくなったなぁ』と思っていた。亡くなっていたとは。そんな訃報さえ誰からも聞かされなくなる程、周りから友人や知り合いがいなくなってるって事だろう。寂しい。実に寂しい。 Y君の冥福を祈ろうと思う。 合掌。
2024.01.05
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元日の地震に続いて今日は羽田で日航機と能登半島地震の救援物資を運ぶ海保機が衝突すると言う最悪の航空機事故。今年はどんな年になるんだろう。
2024.01.02
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年明けから地震のニュース。そう言えば神戸の震災も1月だった。昨年の12月末に我が家の電気がダウンしてしまった。我が家というより兄弟で建てた3家族4階建ての建物の電気がダウンしてしまい1週間暗闇で過ごした。昼間はまだ良いとして暖房のない夜間はかなりキツかった。で、神戸の震災を思い出してしまった。あの冬を何とか過ごせたから今回も大丈夫と思っていたけど、70過ぎの老骨にはかなり寒さがこたえた。原因は建築業者の手抜き工事。大元の配電盤の中に雨が入って完全にアウト状態だった。で、元日の地震のニュースが生々しく記憶を蘇らせた。被災された地方の方々が出来るだけ早く復興されん事を心から願っている。 痛切に歳を感じるのは片付けが出来なくなった事。8年前に心臓の手術を受け、退院してから徐々に部屋の中がゴタつき始め、気が付けばゴミ屋敷一歩手前。何とか片付けようとしているのにいつの間にか物が置かれたままになり、宅配の段ボール箱や買い物袋が無造作に積まれ‥‥人ごとのように書いているけどやってるのは書いてる本人だけど。断捨離って難しいね。何年も前に買った服がサイズが合わなくて着られないのに捨てられない。思い出が詰まっているみたいで。若い時はそんなに感じてなかった物への執着が歳取ると異常に強くなる。先日、電子レンジが異音を残して壊れた時に永年の戦友を失ったようで涙が出たって書いたけど、歳取れば取るだけ物への執着は、ただの執着という言葉で表せない何か別の物の様で、しかも固執していくんだろうなと思う。良い事か悪い事か分からないけど‥‥只の片付けられない事への言い訳かもしれない。 最近、時代劇が面白くない。内容とかではなくてヅラが似合わない今風の顔立ちの若手が演じているのを見ると、気になって話が入って来ない。昔、映画が全盛の時代は時代劇専門のような俳優がいて、その俳優が現代劇を演じると違和感があった。それに似たような感覚が若い俳優達が時代劇を演じると違和感を感じる。爺ィの戯言だけどね。で、そんな爺ィが好んで見る時代劇が北大路欣也さんの『三屋清左衛門残日録』だ。御歳80歳。今年2月で81歳だとか。往年のスター達が銀幕から姿を消していく中で、時代劇の中の立ち居振る舞いが素晴らしく見える。残念ながら沢山の作品はない様だが(ちなみに『剣客商売』も面白い。藤田まことさんも演じているが、『てなもんや三度笠』がダブってしまっていけない。年寄りにしか分からんだろうが)放映されるとBRに落として何度も見てしまう。あと何年生きていられるか分からん老骨もこのブログを『残日録』として書き続けようかなぁ。 余談だけど、最近テレビを見ているとスタジオで平気で帽子を被っている男性が目立つ。女性の帽子はヘアースタイルの一部と見做され室内でも脱帽する必要はないれど、男性の帽子はキャップであれ毛糸の帽子であれ何んであれ脱帽が常識。また、警察ドラマの中で帽子を被っていないのに右肘を肩の高さまで上げて手の甲を上に指先を揃えて目の高さまで曲げるシーンがあるが、無帽の時はそんな敬礼はしない。それが気になるのも歳なのかも知れないがとにかく気色悪い。お願いだから無帽時の敬礼と室内で脱帽しない非常識を、是非電波に乗せないでほしい。視聴率の数だけ人が見てるんだから。もうひとつ、仲良く食事する親子連れを取材するのは微笑ましいけど、子供が握り箸なのを見たりすると思わず「子供の握り箸は親の怠慢!!」と叫びたくなる。そんな親子を映さないでほしい。 子供が可哀想だよね。 親のせいだもんね。帽子もだよ。爺ィの戯言だから‥‥聞き流しておくれ。
2024.01.02
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なんか重そうなタイトルだけど中身は軽い話だけどね。1995年の阪神淡路大震災の時の我が家は、鉄筋コンクリートを直打ちして地中に2メートル近く埋め込んだ新築ホヤホヤの4階建てだった。で、震災の被害といえば室内は滅茶苦茶だったが建物は外壁の一部が10センチ程剥がれただけ。片付けるまでは余震も頻繁にあったし近所の建物は殆ど壊滅状態だったので建物内のガレージを開放して近所の人達と何人かで共同生活を送っていた。 何とか普通の生活に戻れた頃に神戸市が区画整理を計画し、殆どの居住者がガラガラポンで新しい住所に移された。我が家は50センチのセットバックと南角が斜めに切り取られ所有する土地を拠出される事になった。住民は猛反対したが建物を建て替える為の保証金で揉めたものの最後は行政に勝てる訳もなく、新しい住所でそれなりの建物を建てる事となった。我が家の査定は、敷地面積は狭くなるものの以前と同程度の建物が建てられるだけの保証も得られ、50センチのセットバックと若干増えた私道負担を飲んで立て替える事ができた。 以前の建物で使っていた家電は殆ど無傷で新しい建物で使い始めたものの、震災後の数ヶ月使えなかった調理器具に変わって役立ってくれたのが電子レンジだった。水道とガスの復旧には時間が掛かったものの電気は思ったより早く復旧したのでキッチンにはガスレンジと一体のコンベックがあったがガスは使えなかったしキッチンは片付けられていない状態で使えなかったからガレージでも調理が出来るように電子レンジを購入した。 それが今回の戦友。考えたら何と28年間も動いてくれていた。キッチンに組み込まれたコンベックは何度か使ったものの、料理の撮影か手の込み入った料理をする時以外は強弱の切り替えと15分の調理タイマーが付いた電子レンジばかりを使っていた。確か一万円もしなかったと覚えている。その電子レンジが2023年10月29日。数秒間の異音を発して、突然、事切れた。 不思議だ。最近涙脆い。色んな事を思い出して涙が出る。 不思議だね。電子レンジが壊れて涙が出るなんて‥‥。 あまり掃除もしてあげてなかったのに、ごめんね。28年間も頑張ってくれてありがとう。 戦友。
2023.10.29
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最近こんな話を聞いた。「『子供にこの味は分かんねぇだろうなぁ‥」って言うけど、ホンマは大人こそ持って生まれた味覚を無茶苦茶に書き直しとうらしいで」。例えば年端もいかんガキに納豆や辛子明太子、塩辛なんぞ喰わしてももろに拒否されるか泣かれるか、取り敢えず喜びはせんてお話し。「そんな事あるかい!!ウチのガキは喜んで食いよるで」って親もいるだろうが、それは本来の味に対する情報が改竄されてノーマルでなくなってるだけの事だとか。子供が親父の「味見するか?」の言葉に喜んで口にした日本酒に思わず顔を歪め、大人達の笑いを誘った経験を持つ現在進行形の酒好きも少なくないと思う。 大人の持つ味覚と子供の味覚の大きな違いは、それまでに食べたり飲んだりしてきた経験値が、生まれ持った味覚を書き換えてきた結果で、甘い食べ物や飲み物を口にしなくなり、苦い、しょっぱい、酸っぱい、辛い、渋い味わいなどに好みが偏ってしまう。多かれ少なかれ個々に味覚の差はなるが、昨今の激辛ブームなんてのは尋常ではない偏向だと思うけどね。 例えばカレーブーム。巷に話題のカレー屋が五万とあり、客はそれぞれ好みの味のカレー屋に行列を作る。個々の味覚は千差万別だから個々の味覚にあった店を探し当て行列を作る。齢73の爺ィがガキの頃はカレーと言えば家庭料理の代表格(ガキに取ってはだ)で人気タレントがCMに出てた固形のルーを人数分入れて云々のカレーがメイン。間違ってもソースボートで出てくるようなカレーではなかった。いつの間にかカレー専門店や全国チェーン展開の店があったりと個々の好みに合った八百万の咖喱が味わえる。でも、子供が食するカレーは甘口のカレーだった。まっ、どんなカレーでも食べたいものを食べればいいし、元々とか、本来、なんて括ることもないんだけどね。ちょっと気になった話し。 二十代半ば。神戸で写真の仕事をなんとかできる様になってガイドブックの料理撮影と取材をしていた頃。台湾料理店で撮影終わりにご店主から「折角だから食べてって」と言われ遠慮することなく席について料理をいただいた。魯肉飯に汁米粉、腸詰とまだ街中の中華料理店では出てこないメニュー達に垂涎気味に喰らい付いた時。ウグッ!と箸が止まった。とんでもないカメムシの匂いが口中に広がる。震えが来た。耐えられん味の衝撃。吐きそうになる!!。頑張って食べた。折角の行為を無にすることはできないと、全部食べた。魯肉飯の上に、汁米粉の中に、腸詰の横に添えられたそれはシャンツァイ(香菜)だった。今でこそタイ料理に欠かせないパクチーでありコリアンダーだと分かるし大好きだけど、その時は『カメムシの匂い』としか判断できなかった。和名は現に『カメムシ草』だそうな。神戸の震災で馴染みの屋台やお店がなくなってしまい本格的な台湾料理を安く味わうことができなくなってしまったが、何十年も掛けて味覚の変遷は未だ続いている。今では健康の為にしないけど『甘味』に対する変遷はほぼなくて未だ甘い物は大好物。若いて頃には『ヒロタ』のシュークリーム20個を15分で食べるって賭けで完食したり、虎屋の丁稚羊羹一本喰いなんて酒飲み(所謂辛党)には到底理解できない事を賭けて連戦連勝していた。今でも神戸本高砂屋の『金鍔(元町通りの店の金鍔だけ表面に刀の鍔模様が入っている)』なら6個ぐらいペロリと食べられる。自慢してる状況じゃないけどね、血糖値高めの糖尿病予備役だから。 御座候(回転焼き。関東では今川焼き)も6個はいけるで!。 好みはさ、人それぞれ。命賭ける程ではないけどさ。
2023.09.10
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最近よく思うことは時代で言葉がどんどん変化していく事がなんとなく気持ち悪い。言葉は時代の鏡って誰かが言っていた。知らんけど‥‥。大阪人だけでなく語尾に『知らんけど』って付けるのは神戸人も同じ。 テレビ番組の中で、一般人にインタビューの為にマイクを向けると低年齢層の反応に『やばい』という言葉が頻繁に出てきて気持ちが悪い。『やばい』って言葉を辞書でひいてみるとその意味は『具合の悪いさま。「不都合」を意味する形容動詞「やば」を形容詞化した語で、元は盗人や香具師などの隠語』とあった。これはNETで検索かけた結果なのでなんとも言えないが、50年も昔にはあまり耳にしなかった言葉だと記憶している。今では「テレビのインタビューだよ」なんて、児童・生徒・学生達にマイクを向けたらほぼ全員が『ヤバッ!』と宣う。斯くいうあっしもかなり言葉が乱れているのであまりつべこべ言いたくないけど‥‥出来れば聞きたくない言葉のひとつだ。そんな言葉が公共の電波から流れてくると思わずチャンネルを変えてしまう。こんな時に使うんだろうね。『◯◯ッ!!』って。 老婆心ながらテレビの食レポで『ウマッ!』しか言えないお笑いタレントのガヤの皆さんもボキャブラリー増やさないと◯◯いよ。あぁいっぺん言ってみてぇ〜!! 以上、本日はこれまで。
2023.09.02
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何やってんだろうね。アッという間に年月は流れ‥‥なんて書いてみたけど、本質はただのお怠け。何にもする事はないんだからせめてブログぐらいは書かないと、と思いつつも書いた次の日にころっと忘れてしまう。高齢者の健忘症。で、真剣に毎日書こうと決めて、今、久しぶりに(3ヶ月ぶり)思い立ったと言う事だ。引き金は、9月12日に入院が決まった事だ。で、次の日に脊柱管狭窄症と椎間板ヘルニアの手術をする。齢73歳にして身体にメスを入れるのが実は少し怖い。人生初手術を65歳で経験したがその時は意識不明で運ばれなんとか意識が戻った途端に重篤な不整脈に襲われ、本人が全く知らないうちに胸を掻っ捌いて冠動脈バイパス手術を受けたらしい。らしいって書いたのは全く記憶にないからで、術後も目が覚めた時には傷口もとうに塞がっていて痛くも痒くもなかったから、なんの恐怖感も緊張感もなかった。でも、今回は自分で手術を決めて、どんな切ったり貼ったりするのかを説明された上での手術だから‥‥。 実はかなりビビっている。 脊柱管狭窄症からの神経痛に苛まれ出して早三年。具合が良くなったり車椅子での生活を余儀なくされた時期もあったりで結構辛かった。最近はほぼ毎日腰から下が痺れた状態が続き歩き出すと右足が痛んだ。100mも行かずに立ち止まり痛みが引いてくれるのを待ってまた歩き出す日々が半年続いた。歳も歳だからと諦めつつも一人暮らしの身としては動けなくなったらどうしようと自問自答する。で、結論は「清水の舞台」からって心境で手術をすることにした。 決まったら気が楽になった。長年出来なかった溢れかえった諸々の雑品の断捨離を毎日している。70年も生きてると所有物にはそれなりの歴史と思い入れがあってなかなか処分できなかったけど、これを機会に綺麗さっぱり見切りをつけ、小綺麗に‥‥片付いたらいいんだけどね。取り敢えずこの2週間が勝負。 頑張らんとね。
2023.09.01
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毎日、ジメジメした日が続く。それでと言う訳ではないけど、70日間更新してなかった。更新するのは爺さんが生きてる証拠。明日からこまめに(出来れば)、頑張って(出来るだけ)更新したいと思う(出来るかどうかは‥‥)。では。
2023.06.30
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最近はやる事も無く、テレビばかり観て暮らしているTV爺ィ。 動くのは買い物がてら出掛けるウォーキングと月2回の医者。更に2ヶ月に一度検診に赤十字病院に行く程度だがそれ程に暇を持て余しながら部屋の中は日々訳の分からぬ物が徐々に増え、片付けられない。何度か終活の断捨離を試みたが何十年も前からある物はそれなりの思い出や思い入れがある物ばかり。側から見れば無用で不要な物かも知れないが、持ち主にすれば『これはな!』と語りたくなる物ばかり。さりとて日々汚部屋に近付きつつある現状を無視も出来ず、少しずつだが市指定のゴミ袋に思い出を入れている。まるで歳とともに薄れていく記憶のようにひとつずつ思い出が葬られていくようだ。そう思うのは本人だけだけど、あとどれ程こんな日々が続くんだろうね。 最近TVを観て思うことは時代劇が少ない事。そう言えば大昔、神戸のテレビ局の番宣写真撮影に京都の撮影所へ出掛けた時(映画じゃないよテレビドラマ。しかも他局制作)に制作サイドの人が「時代劇は金掛かるからね」言っていた。現代物と違って着物、カツラ、背景、全部が特別に用意しなくちゃいけない。撮影出来る場所も限られているから制作費は掛かる。何処ぞの国営放送イヌアッチイケー(?)のような湯水の如く金かけて『大河』なんて金看板上げられるならまだしも、キー局ですら手が出さず、ましてや地方のテレビ局はTV画面の両脇が寸足らずの時代劇しか新放映出来ない状況。しかもそれさえ韓流ドラマに押されて徐々に少なくなっているのが時代劇の末路。スポンサーも爺婆相手のサプリ位しか付かないもんね。まっ、若い方にはアイドルも出ていないし、観た事もないタレントが「てぇへんだ!」って叫んでる時代劇なんてねぇ‥。つまらなく時間の無駄かも。そんな時代劇だが、有料TV局と映画会社のタイアップで作られている物が、往年の銀幕スターが主役のシリーズ化された勧善懲悪時代劇とは違って、数は少ないがこれが中々面白い。 主役は北大路欣也。彼も往年の時代劇俳優だが近年は現代劇でも味のある俳優の一人。ヅラも似合うが時代劇で培われた立居振る舞いが何とも観ていて気持ちがいい。NHKで「何で?」と言いたくなるようなアイドル系タレントの不細工な所作は‥‥。主張率を稼ぐためには本格的な歌手よりも何チャラ46やジャニーズの何チャラKing&何ちゃら達の方が便利使い出来るしミーちゃんハーちゃん達の視聴率も稼げるしベニシロ歌合戦同様に大勢で出れば歌が下手でも怖くない的図式が時代劇にもあるのかも知れないね。 爺ィの独り言ゆえ、ご容赦。
2023.03.19
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短文は続けて2回反映されているけど。長文書いたらどうかな?。以前は問題なく掲載されてたのにね。謎だ!。クソッ!。 悪態をつく爺ィでした。 また書きます。
2023.01.22
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せっかく書いてもエラーばかり。長文だったのに。残念。
2023.01.22
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何回か書き込みをしたけど。エラーばかりで公開できないでいる。しかも消えてしまう。なんでだろうね。
2023.01.22
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何んと4ヶ月も更新していない。4ヶ月の間には色々あったけど取り敢えず神経痛はいつの間にか治ってくれてホッとしている。 最近気になることがあってあまりしたくないのだけれどNETで検索してみたら、その心配事がことごとく当てはまる記述があった。しかもかなりショックな事柄。 まあ、その結果の内容をよく理解していないから驚きが先に立って、心配で夜も眠れない。いやいや、夜あまり眠れないから検索してみたらその結果がこう出た。 『パーキンソン病』。未だ深くは理解してないのだが、症状がことごとく当てはまっている。もう72歳だから今更なんだっていいか。と思いつつも、歳をとると欲が出るのかもう少し生きていたい。 何んの目標もないけどね。 ま、ぼちぼち愚痴でも書き込んでみようかな。なんてね。
2022.10.18
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最近、根気がなくなった感じ。以前から感じていた事だが、何かにつけて中途半端になってしまう。こんな事でいいのかなぁなんて思いつつも、このブログも放ったらかしになって2月から殆ど書き込んでない。老化予防に毎日きっちり書こうと頭では分かっているけど、いざ書くとなると‥‥暗い出来事ばかりが思い浮かんで。そんな毎日だ。 一昨年の8月からズーッと悩ましい存在だった脊柱管狭窄症から来る神経痛は、今年の6月に入って鳴りを潜めた。完全に治ったわけではないし、いつまた痛みが出てくるか分からないけど、取り敢えず騙し騙し毎日6キロ程歩いている。で、今のところは大丈夫みたいだ。ところが問題は神経痛だけではなく、痛みに感けていた独居老人の一人住まいは汚部屋と化し、荷物が散乱した板間は拭き掃除もしないか日々行き来するルートだけを辛うじて残し、ゴミは無いものの床に全くツヤが無い状態。これはいけないと荷物を片し床を拭き、何とか一息つけど、部屋の右側にあった荷物を左側に寄せ、そこを雑巾で一拭き。考えたら何日か前にそこにあった荷物を部屋の反対柄に移しただけの事。そんな事を騙し騙し繰り返していただけだから、片付かない。片付くわけがない。断捨離が出来ぬ爺ィには物が捨てられない。 もう、ほぼ‥‥いや確実に復帰する事のない仕事をいつまでも引き摺ってる。 諦めろ!!。
2022.06.19
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本格的な梅雨の季節には早いが、梅雨になると思い出す事がある。 32歳の時に神戸に腰をすえて仕事を始め、なんとか落ち着いてやっていけそうな目処がたった頃。クライアントの多くは神戸と大阪にあって、後は東京の雑誌社関係の写真とコビーライトの仕事が不定期だがチラホラあった。そのまま飯が食えて行けたらいいけど、フリーランスはいつ仕事がなくなるかわからない。しかも、仕事の上がりが悪いとか、仕事をしくじるとか、明らかにこちらの失態で仕事が無くなるのならまだしも、カメラマンやライターの売り込みも頻繁にあって、仕事の上がりの評価よりも担当者の好みや仕事以外での繋がりなんぞが結構影響して、付き合いが途切れてしまうクライアントもあった。 担当さんが簡単にカメラマンやライターを変えるのは一緒にやってて仕事が楽しいかどうかなんてのも影響して、ある雑誌の仕事を断られた原因はなんと下戸の私が「酒を付き合わない」という理由だとある編集者から聞かされた。 なるほど。それも大切なコミュニケーションなんだ。その担当さんにしたら仕事終わりの打ち上げでいかに楽しく飯を食らい酒を酌み交わすか‥‥重要なんだろうなぁ。酒が飲めるのも芸の内。だよなぁ。 40代に入ると、仕事をいただいていた雑誌がドンドンと変わっていった。あまり若い女性向けの雑誌では記事を書く事はなくなり、お店を1日に何件も取材して回るって仕事も無くなってきていた。ファッションが写真撮影のメインではなかったので、どこかに取材に出かけて旅のルポ的な仕事が増えてきて、日本国内を行ったり来たり。その頃から仕事を頂き出した旅行社が3社程あって、ほとんどがアジア圏。香港、台湾、タイ、韓国、シンガポール、マレーシア、帰国した空港から他社の取材にそのまま出発なんてのもあってパスポートはあっと言う間にページが増冊されて日記帳みたいになってしまっう。個人的な事をメモしても分からないだろうね。 そんなパスポートのおかげでグァム島へ出掛けるのにアメリカのビザが貰えなくなった。大阪の領事館の近くまで出掛けることがあったので、自分でビザの申請書を書いて提出したのだが、担当者がビザを出してくれない。理由はこんなに度々グアムとサイパンに出掛けて来るのは仕事をしているからだろう。観光ビザは出せないから就労ビザを取れという。何度も足を運んで『フリーランスのカメラマンでグアムとサイパンの写真をフォトライブに預けるための撮影』に出掛ると言っても決して認めず「興行ビザか就労ビザを取得しろ」と譲らなかった。確かに何度も出掛けてきてるけど、現地のクライアントから仕事を受けて現地の仕事をしているわけではないから問題はないと思う‥‥。でも、結局は就労ビザがないのに仕事をしていたと判断されて機材を没収されてグアムから追い返されたカメラマンもいるとの事。で、内容を旅行社の担当に話しをすると「わかりました。出発までにまだ時間の猶予はあるようですから、私の方で手配します。明後日には降りるでしょう」と言ってくれた。 取材に出かけるために関西空港近くの前泊していたホテルに約束通り観光ビザが取得されたパスポートが返ってきた。 どんなやりとりで取れたのかわからないけど、ビザには滞在予定の5日間の日付に二重の赤丸が付けられ『5DAYS ONLY』と手書きでデカデカと書かれていた。 こんな事書いてるけど、ウクライナには行った事はないけど彼の地はどうなるんだろうね。『義』と言うものは地域の数だけ、人種の数だけ。民族や国の数、人間の数だけある。だから軽々しく自分勝手な事は言えないが、どう考えてもウクライナの悲劇は『もとKGBの男が独りよがりの「義」を振り翳して行った蛮行』だろう。 しかし待てよ。そう考えるのも極東のクソ爺ィの『自分よがりの見解』でしかないか?辛い夏を迎えそうだね。
2022.05.15
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病院に通って早17ヶ月。一向に良くならないのに業を煮やして漢方医を頼ってみた。第一声が「脊柱管狭窄症なら手術を受けないんですか?」その言葉に無駄な事だったか‥‥と思った。 診察を済ませて「冷えを解消しましょう」という言葉と薬をもらう。家に帰って貰った漢方薬の効能をNETで検索してみた。悪い癖だね。医者に直接聞けば良いものを何となく聞き辛く、薬をもらって「ありがとうございました」と帰ってきた。で、結果的にはあんなに辛く歩くことが苦痛な16ヶ月(漢方医に罹ったのは3月に入ってからの事)が嘘のように日々安らいでいった。 病院の整形外科医の「痛みが続く様だったら手術ですね」の言葉とほぼ効かなかった薬を17ヶ月間飲み続けたのに、漢方医にかかって漢方薬飲み始めたら1週間で痛みがひいて(漢方医の宣伝をしてるんじゃないけど)今日で12日目で、昨日(3月21日)は13.4km歩いた。痛みはない。本当に漢方医を宣伝している訳じゃなくて単に相性が良かっただけかも知れないが‥‥。 3月28日にいつもの整形外科医の診断がある。その前に漢方医を訪ねてこのまま漢方薬で凌いでいけるのか、はたまた漢方医の最初の一言「手術は受けないのですか?」の言葉の意味を探ってみようと思う。手術を受けるとしたら1週間の入院を必要になるらしい。72歳の老骨にメスを入れるのが良いかどうか‥‥今度はしっかりと質問して来ようと思っている。 この歳で手術はちょっとビビるよね。6年前に開胸手術で冠動脈のバイパス手術を受けたけど、その時は病院に着く前に意識不明。覚えていないが昏睡状態から戻ったところで致命的な不整脈で心臓が停止。開胸手術。医者が「よく助かった」と言う程の大手術だったらしいが、手術後、何日か経って目が覚めた時には全く痛みはないし、周りに姉と妹、親しい友人が揃って居たのが「何で?」って感じ。手術の事は全く覚えていなかったから怖さはなかった。今度は意識あるし、手術後にどんな痛みがあるのか想像も出来ない。はっきり言っていい歳こいてビビっている。 やだねぇ〜!!。
2022.03.22
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古いパリの写真をUPしてみようと思う。かなり古いけどね。何てったって初めてパリに出掛けたのが1972年‥‥丁度50年前だから。カビ生えてそうだね。 1976年に再びパリの地を踏んだのはこの街に住んでみたいと思ったから。なけなしの貯金から19万8000円也で1年オープンの往復航空券を買って南廻りでパリに辿り着いた。考えたら4年程前にたった8日間居ただけのパリ。はっきり言って何も分からずやって来たけど、不思議と旅に不安はなかった。 ホテルも予約してなかったのでオルリー空港(当時はシャルル・ド・ゴール空港はまだ無かった)のホテル案内所で安いホテルを探して貰ってたまたま取れたホテルが『ホテル・デ・スエーデ』。初日は旅の疲れ落としにお風呂付きの部屋を頼んだけど、翌日にホテルのマダムに「1ヶ月程滞在したいので安い部屋が欲しい」と頼んで一番安い部屋(長期滞在者用の屋根裏部屋・1泊1,300円程(約50年程前の話しだよ)を充てがわれた。ホテルランクは二つ星のNN。NNは改築して施設を整え二つ星を取ったと言うことで、まだまだ下のランクもあって星のついてないホテルにホステル、ゲストハウスもある様だけど、値段はまちまち。建物は古くランクが二つ星だから4階建てを超えてもエレベーターもなくてサービスステップで屋根裏部屋まで荷物を担いで上がる。1972年に来た時はホテル・シェラトン・モンパルナス。四つ星のLUXで無駄な広さの部屋だったけど、今度の部屋は流石にコンパクト。今、自分がパリの何処にいるのかさえ分からない『ぽっとでの田舎もん』状態でホテルに入ったし、部屋を見て「安いってこんなもんかい」と少し落胆したけど屋根裏部屋から外を見て驚いてしまった。 ホテルの前を川が流れてたのは分かっていたけど、パリにだって川はいっぱいあるだろうから気にしていなかったが、見えた景色は川を挟んで右手にライトアップされた見覚えのある建物。ノートル・ダム大聖殿。じゃあ目の前の川はセーヌ川。対岸はクルーゾー警部のいるパリ警視庁。左手にはパリ市庁舎、少し遠いけどルーブル美術館。「パリだ!」。とにかくここはパリのど真ん中だった。知らなかったけど。明けて二日めの朝。屋根裏部屋の窓から望むノートル・ダム大聖殿。ここはパリ左岸の端っこ。セーヌ川を挟んで目の前はシテ島だ。『ホテル・デ・スエーデ』の屋根裏部屋。1976年当時、日本人でアフロは珍しかったのか税関で止められ何度も写真と見比べられた。パスポートの写真は7:3分けでスーツ姿。まわりの入管も集まって一頻り笑われた。思い出の部屋は四畳半より狭く写真では左上が暗くなっているが天井が屋根の勾配に合わせて斜めになっていた。一泊千三百円強の部屋。こんなもんだろう。手に持っているのはイタリア米。長粒種でパサパサのお米だけど激安。殆ど夜はやってはいけない自炊をしていたが、米の炊ける匂いは独特だからバレてたと思う。パリって建築の高さ制限があって高い建物は建てられない。でもパリを訪れた観光客は高い所に上りたがる(だからお上りさんていうのかどうか‥‥知らんけど・関西人談)。で、シテ島で高いところといったらノートル・ダム大聖殿の南塔。長くて暗い階段をひたすら歩いて登って着いた所は鐘楼(ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートル・ダムのせむし男』がいた所)鐘の中。大きな鐘の前で現代の鐘撞き男が説明してくれるけどフランス語で何言ってんのかさっぱり分からないのにしっかりチップ取られて鐘楼の外の回廊に出ればノートル・ダムのガーゴイルの団体さんが迎えてくれる。これは厳密にはガーゴイルではない。ノートル・ダムの怪物さん達。頭からムシャムシャ喰らいついている様はちょっとグロかも。 パリに約4年間いたけど一度も登ったことがないのが高さ324mのエッフェル塔最上階の第三展望台。地上高276mあってパリで最も高い位置にある展望台だ。別に高所恐怖症でもないけど最上階まで上がるエレベーター料金を含む入場料が、ホテルの一泊料金より高かったのでやめた覚えがある。ちなみに地上から2階までのエレベーターはぜひ乗ってみるべし。なんてったってエッフェル塔の足の部分をエレベーターが斜めに上がっていく。こんなエレベーターは他に類を見ない(当時はね。今じゃ傾斜地を斜めに登るエレベーターは日本にも沢山あるけどね。兵庫県芦屋市には川の下をくぐる為のエレベーターもある)。次に人気の高い‥‥高い所と言うばエトワールの凱旋門の上。ここも自力で上がる。登ってみると結構高いんだよね。パリの左岸に見える高い建物はエッフェル塔(300m)と1972年に建てられたモンパルナス・タワー(210m)。その昔。エッフェル塔完成当時の1889年にパリで流行った与太話に「パリで一番の眺め?。それはエッフェル塔からの眺めさ。なんてったってエッフェル塔が見えん」なんてのがあったそうな。それが1972年にはモンパルナス・タワーになり、1977年にはパリ市の名前の由来となったケルト民族系パリシィ族が紀元前250頃から住み着いた古い歴史のマレ地区(パリ3区・4区)に、赤や青のパイプが走り捲るジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター出来ると、然程の高さは無かったまでもボロクソに言われたらしい。あくまでこれは外観の話だけどね。マレ地区にはね‥‥。エトワールの凱旋門からの眺望。もし上るならおすすめなのがエトワール凱旋門。ただし料金は大人1,700円程(2022年2月12日現在)。しかも284段の階段しかない。でも、高々50mの高さなのに眺望を妨げる建物が一切ないのが気持ちがいい。シャルル・ド・ゴール広場から放射線状に伸びた8本の通りに建つ建物は行儀よく高さを整え、派手な色も形もない。エトワールから伸びる通りの中で最も有名な通り、観光客で賑わうシャンゼリゼ通りにある日本航空の鶴丸でさえ、赤ではなく金色になっていた。 エトワールの凱旋門から東を望めば、シャンゼリゼ通りの先にえるコンコルド広場のオベリスク。チュイルリー公園の先には遠くルーブル宮が望める。 凱旋門からセーヌ左岸(南)を望めばエッフェル塔とモンパルナスタワー。北を見ればモンマルトルの丘にサクレクール寺院。そして西を見ると、シャンゼリゼ通りの延長線上に伸びるグラン・ダルメ通り。その先には高層ビルが乱立するラ・デファンスの新凱旋門(グランダルシュ、フランスでの正式名称は『友愛の大アーチ』、高さ111m35階建ての高層ビル)が見える。ドゴール広場を挟んで近未来都市と中世の歴史遺産を残す古都が共存している。それがパリ。未来都市デファンス。もちろんパリではない。この相反する都市がどう共存していくのか爺ィには見届ける時間は残されていない。でも、ひとついい事があった。半世紀前のパリの街に暮らした事。 何物にも換え難い体験だった。もう、二度と行く事はないだろうけど‥‥ でも、もし行く事が出来たら、リンドバーグの様に夜間飛行の飛行機からパリの街を見下ろし、『翼よ、あれが巴里の灯だ』なんて言ってみたい。もし行く事があれば、ロバート・キャパのように飛行機の窓からパリの街を見下ろして、『Paris‥‥ C'est moi』
2022.02.12
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最近は時計の話ばかりだったから久しぶりにパリの思い出など‥‥。 最初にパリに行ったのは1974年の事。格安のパック旅行があったので「外国行くならパリ」ってなんとなく思っていたので出掛けて行った。宿泊は『モンパルナス・シェラトン(今はない様だが)』。 ジェラール・フィリップが主演したモディリアーニの生涯を描いたフランス映画『モンパルナスの灯』のタイトルでしか知らないモンパルナスに惹かれてパリに出掛けたすっ惚けた話しだが、すっかりど嵌まりしてしまって、1976年4月にパリ5区、サンミッシェル河岸の安ホテル『スエーデ(今は違う名前のホテルになっている。驚くことに4つ星だ)』の屋根裏部屋にいた。 ホテルの環境は最高に良くて窓を開ければ眼下にセーヌ川が流れ、右手にはノートル・ダム橋越しにノートルダム寺院(今は焼けちゃって修復中だよね)、日曜日には寺院の鐘の音が聞こえ、目の前はパリ警視庁だ(クルーゾー警部はいない様だけど)。左手にサン•ミッシェル橋。すなわちカルチェ•ラタンの北の入口。まっすぐ南に下ればソルボンヌ(と言ってもあっちこっちに校舎はあったみたいだけど)。モンパルナスとは随分違った雰囲気だけどカルチェ•ラタンは学生の街。安いレストランもあって貧乏旅行者には有難かった。交通の便も良くて、サン•ミッシェルにはS•N•C•F(フランス国鉄)とメトロ、そしてRER(パリとイル•ド•フランスを結ぶ急行地下鉄)の駅があり、当時はシャルル•ド•ゴール空港は開港前で、郊外のオルリー空港からバスで最寄りのRERの駅で地下鉄(郊外だから地上を走るけどね)に乗り継げばサン•ミッシェル駅までほぼ一本。有難いことに駅はサン•ミッシェル河岸にあったから、常宿になっていたホテル『スエーデ』は目の前。その環境が気に入って76年から78年の春までそのホテルで過ごした。その後にモンパルナスからメトロで一駅のババン駅近くにある1900年代初頭に多くの日本人が逗留したホテル『リベリア(残念ながら今は別の名前になっている)』に移り、78年春から79年春まで過ごし、後にフランス人の友人の紹介でパリ郊外(国鉄で30分程)のピアレーに住むフランス人のお宅に居候をさせていただき80年春までお世話になった。フランスの4月は夜風が冷たく、ドッセ家最初の夜はご主人が部屋にある暖炉に火を入れてくれた。で、今日はその思い出の部屋の写真をUPしたいと思う。パリ郊外のピアレーにあるドォッセ家の間借り部屋と言っても16畳程の広さだった。初日に火を入れてくれた暖炉。暖炉の上にはドゥッセ家の御先祖の写真が掛けられていた。それだけでは少し物足りなく思うのでパリの『オランジュリー美術館』の地下にあるモネの『睡蓮』の絵をUPしておく。チュイルリー庭園のオランジュリー美術館にあるモネの『睡蓮』の壁画。観光客はモネが印象派の画家だから別棟の印象派美術館に壁画があると勘違いすることが多いらしい。斯く言う私も印象紙美術館で睡蓮の壁画を探しまくった一員だった。 小さくてよく分からないけど。モネの睡蓮です。
2022.02.06
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神経痛は日増しに痛くなり今日は歩きに行けなかった。で、最近NETで仕入れた革バンドのブランクにお気に入りのバックルを取り付けた。その写真をUPしようかなとも思ったけど、昨晩撮影した時計の写真があるので今日は時計の話、再び。 今日の時計は『BENRUS(ベンラス)』。所謂アメリカン・ネームと呼ばれる時計メーカーで約100年程前にアメリカで創業し、第二次世界大戦下軍用時計の需要の高まりでアメリカ三大メーカーの一つになった会社。なかでも珍しいデジタルと言うか何と言うか‥‥しかも干支(エト•昔の時計屋さんは文字盤の事をそう呼んでいた)は、色がオリジナルではなくて元々の文字盤は水が入ったのか傷みが酷く深い紺色の塗料で塗り直している。 この『BENRUS』は時計のケースがワンピースと呼ばれる物で、裏蓋がなく、一体化されたケースに機械を入れてガラス(プラスチックの風防)で固定されている。ある意味珍しい防水ケースだけど、竜頭からか風防からか水が入ったらしく干支が悲惨な状態になっていた。それで手を加えて今の色に塗り替えてみた。ケースは10金のG.P(ゴールドプレート・金メッキ)、赤っぽい金色だけどローズ・ゴールドではない。で、いくつか所持している『BENRUS』の中では気に入っていて時々使用している。 こんな色の干支はないよね。でも、最近国産の『CITIZEN・シチズン』が『CAMPANOLA・カンパノラ』とか高級時計路線で『繭色(まゆいろ)』とか『紺瑠璃(こんるり)』とか『鈍緋色(にびひいろ)』とか、伝統的な和色の干支を次々と発表しているのを見て『瑠璃色(ちょっと違うけど)」では「こっちが先じゃ」とほくそ笑んでいる。「そんなぎょうさん時計集めて‥‥腕は二本しかないやろ」なんて口の悪い友人に言われたりもするが、元々、家業の時計屋を継いでた時期もあったからか時計は頗る付きで好き。集めるわけでもなかったがいつの間にかコレクションになっていた。 そんなところで今回も時計のお話し。でした。
2022.02.05
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何度やればいいのか、また繰り返しになってしまった。 やっと治まっていた右足の神経痛がまたまた出てきた。懲りないことだ。痛みが治まった頃に歩いていて気になった事は身体が左右にフラフラと揺れる事だった。体幹が整っていない事は随分前から気になっていたので、少しは鍛えることになるかとスクワットと反復横跳びをすることにした。 スクワットは以前からしていた運動なのでそれに反復横跳びを加えてみたのだが、どうも左右に移動した時に、足を踏ん張る事がいけなかったのか、太腿に少し痛みが出だした。「しまった!」と思った時には既に遅く、また、向こう脛、ふくらはぎ、太腿と痛みが拡がって歩けなくなって来ている。何度同じ失敗を繰り返したら学習するのか。今日も足を引き摺って買い物を済ませた。情けない。で、出来あいの食料を買い込んで料理をさぼった。 古い道具箱を開けて、先日に続き古い時計を引っ張り出す。『ULYSSE NARDIN』。日本ではあまり名前を知られていないが、船舶に積まれる『マリン・クロノグラフ』で古くから知られるスイスの老舗だ。写真の時計は一見ストップウオッチに見えるが、歴とした懐中時計で、文字盤には5•15•25•35•45•55と数字しか刻まれていないが、時計の針は短針・長針・秒針(下段の60秒刻みの小さな針)で構成され、ストップウオッチは、時計の長い秒針と分針(上段の60分を刻む小さな針)で成り立っている。マリン・ウオッチが得意な会社だけに、この懐中時計も旧日本海軍横須賀航空隊の飛行機乗りが使用していた時計らしい。残念なことに機械は綺麗だが長らくメンテナンスされてなくて、ストップウオッチの秒針と分針に少しブレがあるが、コンディションはまずまずで、たまにGパンのベルトにストラップを通して小さなポケットに投げ込んで使っている。 もうすぐ72歳の爺ィには似合いの懐中時計だろう。勿論、ズレ方もね。
2022.02.03
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今日は2022年2月1日。私は十二支を6周して年男。有り難くもない爺ィの老骨虎。牙も虫歯になり今や上下とも入れ歯になってしまった。そんな老ぼれ虎にも歴史はあように、身につけている装飾品にも歴史があるこの時計は、ROREX GMT-MASTERの発売初期のモデル。ただしGMTはその当時アウトリングは赤と青が午前と午後を色分けして表現し24時間の刻みがあったが、初期のものは素材が悪く色落ちし罅が入ってついには割れてしまった。新しいリングを探してみたものの当時のものは既になく、あるとしたらその当時のGMT-MASTERを壊れててもいいのでパーツ取りに手に入れるか、ROLEXに当時のハーツがあるかないか問い合わせてみることだが、あったとしてもハーツ代はかなりの高額だろうし、リングだけ売って貰うってわけにもいかないだろうし、仕方ないから口径の合った他社のリングをはめ込んで誤魔化して使っている。私がリングを無くしたのが1975年の事でまだGMT-MASTER II にモデルチェンジして無かったから、ROLEXの事だから古いパーツも探せば確かにあっただろうが、当時のGMTはかなり人気があって、私が壊した赤・青のベゼルは『ペプシ・コーラ』の販売元「ヘプシコ」のロゴと一緒の色合いから『ペプシ』の愛称で呼ばれ、他の赤黒のベゼルの色分けはコカ・コーラのイメージカラーから『コーク』と呼ばれ、茶黒、茶金のベゼル物はノンアルコールの『ルート・ビア』と呼ばれていたらしい。どの色合いでも厭わなければパーツは見つかっただろうと思うけど、パーツを探して見付けたとしても、竜頭ガードがまだ無い当時のGMTの竜頭交換代金が、オーバーホール込みで当時のセイコー社の主流商品『スポーツマチック5』が両手両足に3個ずつ巻ける程の値段だったから、例えベゼルひとつでもそこそこの時計が買えちゃう程ROLEXの修理代は高かった。だから自分だけ分かってればいいやって殆どパッチ物呼ばわりされながらサイズのあったリングを探し出して嵌め込み『今でも』使っている。因みにリングはタダの数字だし、回転はしない。 1956年製だから私より5歳若い時計。いつまで付き合ってくれるか分からないけど、今更『ROLEX』は買えないから『ROLEX』の歴史の1ページを確かに飾ってきた『GMT-MASTER』のリングパッチ•カスタムモデルを死ぬまでこき使ってやろうと思っている。 どっちが先にクタばるんだろうねぇ?。しぶといからなぁ‥‥ROLEXは。だけど『ROLEX GMT=MASTER』なら壊れても名は残るけど、例え六周り生きた寅年の爺ィではね。何んも残せないんだなぁ。 まぁ、仕方ないか。
2022.02.01
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今日は厄神さん。昔は西宮にある門戸厄神まで出掛けたものだが、今は厄除けの神ともされる「八幡神社」にお参りしている。そんなに信心深くはないが八百万の神さんを信じる日本人の血が何処かで騒ぐようで‥‥。 破魔矢を買って帰り道、ふと空を見上げると2022年1月19日午後8時25分。東の空に十六夜(いざよい)の月。今宵の月は十五夜より月の出が少し遅れるので「十六夜(いざよい)」、『ためらう』と言う意味があるそうな。 最近、月を見ることが多くなった。月の呼び名がこんなにあるのは日本人の心情の表れか感性の豊かさなのか、と言っても現代の日本人がそんなにきめ細やかな感性を持っているのかどうかよく分からないとしても、そんな時々の月の呼び名があって、その由来を聞くと「成程!」と思える我が身が何となく嬉しい。そんな月の呼称は検索に掛ければすぐに出てくるけど、折角調べたから書き出しておく。そんな事など当たり前の様にご存じの方も多いと思うが、ご容赦。旧暦一日の月、新月、朔(さく)旧暦二日の月、二日月(ふつかづき)・繊月(せんげつ)、糸のように細く見える事からの呼び名旧暦三日の月、三日月(みかづき)・眉月(まゆづき)、西洋に月の呼び名があるかどうかは知識不足でわからないが、フランス語でクロワッサンは三日月の事だが、月齢から来ているのではなくて形が三日月形という事だろう。旧暦七〜八日の月、半月、上弦(じょうげん)の月・弦月(げんげつ)・弓張月(ゆみはりづき)・上の弓張り(かみのゆみはり)・玉鉤(ぎょっこう・古代中国で革帯を止めた鉤の形から) 旧暦十三日の月、十三夜月(じゅうさんやづき)・旧暦八月十五日の月見の風習は中国から伝わったものらしく、十五夜の次に美しいとされる十三夜月は、「後(のち)の月」とも呼ばれ十五夜より少し未完ゆえの美しさを表した日本らしい呼称で、十五夜を芋(いも)名月と呼ぶとともに十三夜月は栗(くり)名月、豆(まめ)名月と呼ばれた。旧暦十四日の月、十四夜月(じゅうよんやつき・小望月(こもちづき)旧暦十五日の月、十五夜・満月・望月(もちづき)、但し十五夜の月が必ず満月とは限らないらしい。ここからは日を追って月の出が50分ずつ遅くなるので、旧暦十六日の月、十六夜月(いざよいづき)、いざようの意味は十五夜より少し遅れてためらう(いざよう)ように出る月の呼称で、NETによると南米チリの高地に設置されているアルマ望遠鏡(電波)の内、日本が担当する16台の「アンテナ望遠鏡」は十六台故に「いざよい」と呼ばれているとか。旧暦十七日の月、立待月(たちまちづき)、立って待っているうちに出る月。旧暦十八日の月、居待月(いまちづき)、居間に座ってゆっくりと月の出を待つ旧暦十九日の月、寝待月(ねまちづき)、月の出が遅いので寝て待つ月。臥待月(ふしまちづき)とも。旧暦二十日の月、更待月(ふけまちづき)、月の出を、待って、待って、夜更けまで待ってやっと出る月。旧暦二十二〜二十三日の月、下弦(かげん)の月、下の弓張り(しものゆみはり)は、真夜中に出て昼頃に沈むので青空に浮かぶ昼の月も見られるけど、流石に「成程!」って、いきなり手のひらを拳で打ってみたくなるような粋な名前はないようだ。旧暦二十六日の月、有明月(ありあけづき)、夜明け(有明)の空に月が昇る事から日の出後に月が残る総称とも言われる。旧暦三十日の月、三十日月(みそかづき)、朔(さく)。 日本人て風流だね。昔フランスにいた頃。フランスでも秋口には虫が鳴くけどフランス人にとってはうるさくて気持ちが悪いだけだと教えられた。どうも西洋ではそうらしい。そう言えば、西洋の歌に鈴虫やコオロギや松虫や馬追なんて名前は出てこない。雲の名前も入道雲や筋雲や飛行機雲や鱗雲なんてのも出てこない。蜘蛛はたまに出てくるけどね。派手はケバいバンドの歌なんかにね。そう言えば、昔フランスにいた頃。中学生の頃に同級生が教えてくれたサイモンとガーファンクルの歌の歌詞に、「スカボローの市に行くのですか? パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」って立て続けにハーブの名前が出てくる歌があったけど、その歌に歌われている英国ヨークシャーの港町スカボローに行ったけど、あの歌は夏に開かれていたスカボローのフェア(交易市)の事を歌ったもので、中世の街は見事だったけど、あとははっきり言って何もなかった。交易市も今はないしね。パセリ、セージ、ローズマリー、タイムも見なかったしね。今頃、こぼすヨタ話じゃないけどさ。そう言えば、昔、フランスにいた頃。ごめん。クドくって。未使用の穴あき五円玉に縁起の良い紺・孔雀・藤・黄・赤・茶・金の組紐を穴に通して御守りにして、旅先で縁あって出会った人達に五円玉と組紐の意味を説明してプレゼントしていた。語学が堪能じゃないから日本で頭の良い友人に自分の伝えたい事を英語にしてもらい、それをワープロのない時代だからタイプライターで打って(何故か我が家には昔からタイプライターが2台あったが、誰のものだったのか不明)、B5サイズにコピーをとって五円玉の数だけ持っていった。文章の内容としては、「五円と日本語で書かれた文字の下線は水を表し日本の水産業。稲の穂は農業。真ん中の穴の淵の刻みは歯車で工業。また年号のある面には双葉が林業を表す。この日本のコインは五円といい、良い出逢いが良い御縁(五円と同じ表音)を結ぶ事があるようにと贈る。また五円に付られたストラップは日本伝統の縁起の良い七色の糸で編まれた組紐で我々の出逢いが幸運であり良い御縁である事を願って贈る」って内容。その当時の外貨(フランスのフラン)で日本円が高い時なら1フランは約50円。5円は10サンチーム。当時の国鉄の初乗り料金が大人20円だったと思うから子供も電車に乗れない。それでもこの御縁御守りは結構喜ばれていて、友人になったフランス人が次にフランスに来る時に「50個欲しい」なんて言われたけど、残念ながら次にフランスに出掛けるまでに20年の歳月が経ってしまった。五円玉の模様って中々奥深いものがあるよね。雲や虫や、風や雨や、月の名前も‥‥とにかく表音文字と表意文字の違いかもしれないけど‥‥。 日本語っていいね。日本人に産まれて、よかった。
2022.01.19
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なんて拍子抜けするお間抜けなタイトルだろう。パリの香りもかけらも感じられん。最近は神経痛の話ばかりだったのに今度は肋骨に罅が入ったなどと爺ィの泣き言ばかり書いている。そんなブログで恥ずかしい限り。 新年も明けて10日。成人の日。52年前に済ませた成人式。式典には行かなかったし目出度くもなかった。今年で72歳。干支が6周した。年男。寅年。何んもいい事なしだった。かな?。何もなかったという事はいい事なんだろうけど、火事にあったし、阪神淡路の震災にもあった。それでも大事なく過ごしてきた(その割にはの話し)のは運が良かったんだろうと思う。何と言っても72歳にもなってブログに好き勝手書けるだけの生活が間借りなりにも出来るんだから。上等。感謝!。 明日、病院に行こうと思っている。深い呼吸をしたり、咳をしたりするととても痛い。悔しいけど堪えられない痛みだ。人生で骨が折れるのは4度目。左右の鎖骨と左手の肘、そして今度は肋骨。まだ折れる所まではいってないと思うが確実に罅は入っているようだ。一番辛いのはくしゃみ。実は原因がわからない鼻炎に2ヶ月以上悩まさせていて、鼻水はドバドバ出るは、くしゃみは止まらないは、医者から薬をもらっていて毎朝毎晩鼻にシュワって霧状になった薬を噴霧しているのに効果が見られない。いや、少しは楽になっているけどそこに持ってきて止まらないくしゃみは肋骨が軋むように痛い。 思い起こせば初めて椎間板ヘルニアになって動けなくなった時は、朝、洗面所で前屈みで歯を磨いていた時に一発のくしゃみで崩れ落ち一日動けなかった。この腰痛を西洋では『魔女の一撃』というらしい。椎間板ヘルニアに加え脊柱管狭窄症の神経痛、更に加えて肋骨の痛みは流石に辛い。なるべく背筋を伸ばして脊柱管狭窄症の神経痛に障が無いように腰に手を当てて「ハックション!」。 年の始めの例とて〜。正月からこの痛みかよ‥‥勘弁!。
2022.01.10
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随分、怠け者になったものだ。元々怠け者だったけど最近は特に酷い気がする。なるほど、台所には洗い物がシンクに溜まり、取り入れた洗濯物は畳まずに塊で放置されている。確かにそうしていても不便を感じないし、家の中が汚れていようが誰か尋ねてくるわけでもないし、冬眠中の熊のように寝入っているか、空になった餌鉢をいつまでも舐めている老猫のように生きているだけだから、日記に書くネタもないのだろう。ひとつあるとすれば、8月から痛み続けた神経痛がやっと治まった事。その代わりと言ってはなんだが、三日前に家具の隙間に落ちた物を拾おうと、無理な姿勢で体を歪め思いっ切り体を伸ばしたら、丁度下っ側になった身体の左脇腹のところで「ボキボキッ」って嫌な音がした。打ったとかひねったとかでなくて家具の角に当たっていた所に少し痛みが走った程度だったので放っておいたら、昨日あたりから痛みがひどくなってきている。咳をすると痛いし、くしゃみをしても痛いし、身体は捻れないし‥‥多分、爺ィの事だから肋骨にヒビでも入ったんだろうと思う。 悪いことに連休だ。休み明けに病院に行ってこよう。もう常連さんだね。病院の。 冠動脈バイパス手術を受けてから、来月で丸7年が経つ。もっと身体に気をつけろって神様の啓示かな?。そんなに信心深くもないけど‥‥ね。 そう言えば去年の年末にこんなことがあった。年末ジャンボで1万円が当たった。早速換金して新たに年末ジャンボを10枚買ってお釣りをズボンのポケットに入れてマーケットで買い物をして帰ってきた。『年に一度くらいはいい事もあるね』なんて思いながら、服を部屋着に着替えてふと気がつくと‥‥。宝くじを買ったお釣りの7千円が2千円しかない。「んッ?、5千円は‥」確か現金をそのままポケットに入れたなぁ‥‥買い物した支払いは財布から出したし‥‥しからば、5千円は何処に!。それから大騒ぎ。あっちこって探し宝くじ売り場からの道筋を再度歩き、途方に暮れ、悔しがり、諦め、なんか5千円を無くしてしまうほど負のポイントが溜まってたんだなぁ‥‥と諦めがついた頃。30年ほど前にタイで買ってきて『猫神様』と崇め祭っている背中で両手を組んで踏ん反り返っている猫の木彫りの像の足が、宝くじと5千円札を踏み占めていた。 ボケてんだね。そら、アバラも折れるで。今日は牛バラ肉でも食って早めに休もう。ずぅ〜ッと寝たきりの睦月だね。また。書こう‥‥ボケが進まんうちに。
2022.01.09
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さて、若い方には全く関係ない話。でもないか。とにかく、歳をとると命に関わる問題になってくる。誤嚥。間違って食べ物とか薬の錠剤とか、飴玉とか‥あまりないか‥とにかく異物が気管に入ってしまう。これが結構怖い。咳き込んだり、喉のどこかに何かがある様な感覚があるけど、いくら出そうとしても出てこないしスッキリしない。「まっ、いいか」なんて思っていると堪ものが詰まったままだと命取りになるかも。 最近、薬を飲むのが怖い。朝飲む薬は粉薬が2種類。錠剤が9種類。貼り薬が一枚。昼は錠剤が2種類。夜は錠剤が4種類。あとは寝る前に2種類。いくら飲めばいいんだ!って思うけど、処方を読むと飲まなくてはいけないのだろうと納得する。それだけガタガタの身体。しかし、薬を飲むのが命懸けになってくると、なんだろうなぁ。薬を飲んで何かが喉に詰まる。咳き込む。大きく息を吸って咳をする。何度も。やっと錠剤が飛び出してくる。それはまだラッキーだ。ご飯を食べている最中に何かが気管に入る。小さく咳をして追い出そうとするが出ない。その内、大きく呼吸ができないのに気づく。何かが、大きな何かが詰まっている。落ち着いて少しづづ息を吸う。ゆっくりと。チャンスは一度っきりかも。できる限り吸えるだけの息を吸って。祈る様な気持ちで大きな咳を一つ。ゴホン!!喉からタコさんウインナーの頭の部分が勢いよく飛び出してくる。これで死ぬ事もあるんだなぁ。タコさんウインナーで死んだなんて‥‥ご飯を食べるのも命懸けだ。 どうせならフグ詰まらせい死のうか?。なんてね‥‥なんて詰まらん話だ。
2021.12.09
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最近、寝るのがいつも夜明け前。 習慣になってしまったのか、夜9時頃になると無性に眠くなるのにそれを過ぎると俄然目が冴えてくる。 何やかやと、今しなくてもいい様な事をダラダラやってるうちに日付が替わり、ながらで点けていたテレビも砂嵐(ただし今のテレビでは殆どないが)になって、それをぼんやりと眺めながら歯を磨いて眠りにつく。 結構な時間起きてるから眠くなるかなって思いながらベッドに入るが、毎晩(いや、毎朝か)71年間生きてきて悔やんでも悔やみきれない出来事が走馬灯(一度使ってみたかったフレーズだね)の様に巡り巡る。 そんな時に思い出すのは決して楽しいことではない。それがかえって眠れを妨げる。 何も考えずに眠れたらいいのにね。 で、起き上がって古時計のコレクションを見返す。何度見ても見場も変わり映えもないのに。 寝られないままにカレーを作る事にする。 夏前に入手した東京ナイルレストランのカレーパウダー『インデラ』のシャープ。 8月から続いた神経痛もあって長い間カレー作りを しないでいたが、冷凍庫に入っている牛スジをそろそろ使ってやらなければと思い、久々にカレー作りを楽しむ事にした。 圧力釜で牛スジを煮込みながらじっくりと玉ねぎを炒め、しめじ茸とトマトを細かく刻んで作っておいた自家製の合わせ調味料を冷凍庫から出す。 出来上がったら少し寝かして、馴染ませて、サフランライスを炊いて。 夕方、目が覚めたら、久しぶりにスジ肉のカレーを食べよう。 この歳になると、あまり楽しみもないから。 思いっきり香辛料を効かせてやる。 ひとまずおやすみなさい。 いい夢を。
2021.11.20
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8月初頭から身体を苛み続けていた脊柱管狭窄症からの神経痛は、結局9月一杯続いた。で丸々2ヶ月歩いていなかったけど、10月に入った頃から痛みが徐々に治り始めて日々歩ける時間が増えていた。で、10月に入って突然寒い日が続いたので衣替えをしようと衣類のストッカーを持ち上げた。思いのほか重くて、しまった!!‥やったかな?‥。で、結局再発。今日11月1日現在、またまた足を引きずって歩いている。 やっぱり歳だね。痛い。足が痛い。でも歩けなくなったら独居老人としては大変な事。頑張るしかない。老骨に鞭打って‥‥ないけどね。
2021.11.01
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むか〜し、昔。 まだ、お袋が生きていた頃。お袋はかなりの食い道楽で、身長は160cmもないのに体重は70kg近くあり(計った事はないけど)糖尿病を患いながらも「好きな物を食べるのを我慢するぐらいなら好きなように食べて早く死んだ方がまし」と平然と言い放つ人だった。結局、糖尿病で手が動かなくなったり、目が見えなくなっり病魔と戦い続けながらも東へ西へ、食い道楽を全うした挙げ句、出先の路上で倒れて亡くなった。 お袋は美味しいものを求めて全国ではないにしろ行脚して、神戸に住んでいては知り得ない(今程情報が垂れ流しの時代じゃなかったから)いろんな情報を仕入れてきて、日本中から珍味とか名産とかを手に入れて食していた。それが趣味だったのか宿命だったのかどうか分からないが、今から60年以上前に自分の生まれ故郷である名古屋に亭主も子供もほったらかしで単身赴任し『お好み焼き屋』を始めた。結構流行っていたらしく、今度はその店を他人に任せ神戸に喫茶店を開き、これまた結構流行っていたから2階を改造してお茶漬け屋を始めたが、子供には分からない事情で全ての店をたたみ、但し、これは事業に失敗したとかではなくもっと複雑な大人の事情があっての事だった様だが、高校卒業したばかりの姉から小学校入学したての妹まで五人の子供を残して逐電してしまった。 私が小学校低学年の頃からお袋は家に居ず、住み込みのお手伝いさんに育てられた我が兄弟は、世間のお袋とはそんなものなんだと理解していたので、人生感(そんな事分かってる訳はないが)も生活も全く変わる事なく過ごしていた。5年が経ちある日お袋はヒョイと戻ってくるのだが、その話は重要ではなく、そんなお袋が兄弟姉妹に残した食いしん坊の遺伝子が、その頃には着実に開花しつつあって、決して兄弟姉妹が食通に育ったのはなく、それなりに食には拘りを持っていたというお話し。 自転車を駆って淡路島に渡り鳴門から船で四国に入り讃岐うどんをハシゴしたのは中学3年生の春休み。以後乗物は車に変わり美味いものの噂や何処そこに名物ありと聞くと出掛けて行っては見聞を拡げ、仕事が写真に定まった頃は仕事で地方に出掛ける事の楽しみのひとつが『未見』の料理に出くわす事だった。今思うに、命懸けで喰らおうとは思わないまでもお袋から受け継いだ食い物に特化したDNAは、楽しくも有り難くものだと言える。 中学3年生の時、お袋が伊豆大島から取り寄せた『クサヤ』が忽然と消えてしまうという出来事が我が家で起きた。 ミサゴという鷲ぐらいの大きさの海鷹が、捕った魚の残りを岩陰に隠しこれに海水がかかり自然発酵したものを漁師が見つけ食べたのが『くさや』の発祥だとか。詳しいことは分からないがとにかく臭くて臭くて臭う。でも、飛んでもなく美味い。20代の頃、お世話になっている方の奥さんが珍しい食べ物が大好きだと言うことで、わざわざ取り寄せて進呈した。後日、その方が「折角頂いたものを何だが、嫁が、包みが臭うって。腐っているって捨てたんや」と言われた。 こんなこと言うのも何だがムロアジの干物とは到底思えないほど値段が高い。何てこった。 それからは、くさやの事をよくご存知でない方には進呈しないことにしている。 話は戻って我が家での出来事とは。 我が妹(当時小5)が、くさやを我が物にせんと企み押し入れの中の箪笥の自分の引き出しにくさやを隠してしまった。 その臭いで直ぐにバレた。 以後、妹の服は芳しい香りに包まれ、当分着る事は出来なかったそうな。 お粗末。
2021.09.13
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8月1日に書き込んでなんと40日間、何も書いていなかった。最近ダメだね。根気も覇気もない。これも老害かな。 8月の初旬に脊柱管狭窄症からくる神経痛が右足に出て、一時は車椅子でないと動けない状況になっていた。今は何とか右足を引き摺るようにして歩いているけどとにかく痛い。初めて脊柱管狭窄症と診断されたのは去年の夏。右足のふくらはぎからスネまで何とも言えぬ痛みが走り歩けなくなった。座って居る時や家の中で家事をしている時は何ともないのに、歩き出すと痛みでしゃがみ込みたくなる程だった。そんな痛みが2ヶ月に一度、定期的に襲ってきた。赤十字病院でレントゲンを撮り脊柱管狭窄症と診察され、三十代から付き合ってきた椎間板ヘルニアと合わせると、ヘルニアは背筋をまっすぐ伸ばしていなければ痛み、脊柱管狭窄症は背筋を伸ばしていると痛むという「どないしたらえぇねん!」と悪態を吐きたくなるほどの板挟み(?)をくらう。医者は「ここまで来たら手術だね」と簡単に言ってくれるが、6年前に開胸手術で何とか命を取りとめた我が身としては、これ以上身体に切り傷を増やしたくないのが本音だ。左足から血管を取って石灰化した冠動脈の血管と取っ替えたっていう(見たわけじゃないけど)大手術で助かったのに、命に別状はないにしても痛いのは嫌だし、と言って今の痛みとずっと付き合ってはいたくないし、思案六法の日々を送っている。実のところ、昨日(9月9日)、足を引きずりながら赤十字病院で大腸の内視鏡検査を受け「多分大丈夫でしょ」なんて軽く言われたけどポリープが見つかった。検査してみないと分からないけど癌なんて言われたら歩くどころか、精神的に立ってられないと思う。まぁ一度は死んだ身だし‥‥なんて言っても折角助けて頂いた命だから‥‥何とか折り合いつけて生きていたい。正直なところ。 冠動脈バイパス手術で助けられ退院してから6年が過ぎて、今年71歳になった。そんなに惜しくはないか‥‥なんて思っていた残された余生。70歳を越えた頃から長くはないとしても何となく限られてきた余生を1日でも長く大切に生きたいと思うようになってきていたのに、こんなチマチマした痛みに虐もれるとは…‥。生涯獲得ポイントが足りないのかねぇ。 まだやり残した事はいっぱいあって、富士山に登りたいし、コルベット・スティングレイでL.A.からシカゴまでルート66を走ってみたいし、しまなみ海道を自転車で走りたいし、極夜のオーロラ(しっかり色の付いたやつ)を見上げてみたいし、40年振りにパリで貧乏旅行をしてみたい。やりたい事は未だいっぱいあるのに。元気だった頃は「若い頃に好き勝手したから歳取ったらのんびり過ごすのも…‥」なんて言ってたけど、限りある余生と限りある体力を現実に感じる歳になって「まだ…もう少し…」なんてね。 贅沢かなぁ。
2021.09.10
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あっという間に七月が終わった。 最近、よく考える事がある。運命って何だろう。自分なりに、あぁだこうだ考えてみるが考えが纏まらなくて、考えれば考える程に頭ん中がとっ散らかっていつも最後には「もういいや」って思考を閉ざしている。 こんなことを考え出したのは、季節が夏になり暑い昼間を避けて夜歩く事が多くなってからだが、神戸は六甲山系に沿って細長く開けた海沿いの街。この表現が正しいかどうかは分からないが、JR神戸線に乗って西に向かうと、神戸市に入る摂津本山辺りから右手に山。左手に海が続く。勿論、その間隔が大きく広がる所もあるが、明石市との境まで、海が見え山が連なる風景が続いている。『六甲颪(ろっこうおろし)』はそんな地形が産み出した秋から春まで吹く「季節風」の事で、温度が下りにくい海に向かって冷えやすい山側からとんでもなく冷たい強風が吹く。昔は死人まで出たとか。逆に『浜風』といわれる風は暖まりやすい山に向かって海側から吹く風の事で、神戸に住んでいなくても『甲子園の浜風』として阪神タイガースファンには馴染みの風(甲子園は西宮だけどね)だろう。どちらの風にしても季節を問わず海と山の温度差ができれば吹く風で、暑い夏場でも陽が沈んだ頃から吹き出す六甲山系からの風が何とも心地よく、そんな時間帯に歩きに出掛る。 最近、コロナ禍もあって午後8時にもなると嘘のように人や車の通行量が少なくなり、歩く場所にもよるけど長くて真っ直ぐな通りで前にも後ろにも人が居ないなんてことが度々ある。そんな所で、狭い交差点に差し掛かり信号が赤になったら周りに人はいないし車も通っていないとして‥‥どうする?。本来、人がいなくても車が通ってなくても信号が変わるまで待つ。昼でも夜でも。そんな時に、たまたま通りかかった人が立ち止まる事もなく赤信号を無視して交差点を渡って行くのを見たりすると、目で後を追いつつ「そんな事しとったら罰当たるで」と心の中で呟いてしまう。でも、当たり前のことの様に平気で信号無視しても何んも起こらん人もいれば、たまたま急いでて信号無視したがために事故に遭ってしまう人もいる。その差は何?。運?。運命?。で「運て何?。運命って何?」という疑問にぶち当たってしまった。私見を述べると『運』とか『運命』て事はあまり考えた事がないし信じてもいない。占いも信じないし、今日のラッキーカラーやラッキーアイテム何んて気にした事もない。でも『運』とか『運命』が最近妙に気になって仕方がない。何だろうね。交差点の信号の話しに戻すと、誰もいないし車も来ない。だったら渡っちゃえばと思わないわけではない。でも「イヤイヤ止めとこ。ルールを破ったりすると何かが減っていきそうな気がして…」で、逆によかれと思うことをした時には何かが人生に加算されるっていうか…それが『運』かも知れない。と思っている。で、長々と書いてきてやっと本題に辿り着いた。その事を友人に話すと「それは仏教的な考えやなぁ」と言われた。『運』とか『運命』ってNETで検索をかけるといろんな考え方があるようだがそれらを比べられる程知識もないのでそれはやめるとして、友人が言っていた『仏教的』という言葉が何んとなく理解できた。その解釈さえ正しく理解しているのかも分からないけど要約するとこんな感じとなる。これは私見なので『間違った解釈』だと思ったら笑い飛ばしてほしい。 『運命』には三つの説があって偶然論=運命には何んの原因もないという考え方。仏教では『無因無縁論』というらしい。神の与えたもの=神という大いなる存在に決められたもの。仏教では『自在神化作説』というらしい。決定論または宿命論=運命はすでに決まっている(神の存在なしで)という考え方。仏教では『宿作因説』。ただし、仏教にも色んな宗派があり全てその様に説かれているか分からないけどね。 仏教では「全ての結果には必ず原因がある」という因果の道理を根幹とし『運命』は自分の行いが引き起こした結果であり『自業自得』、『因果応報』という。何んか『自業自得』、『因果応報』って言葉は悪い意味を含んでいるように解釈していたけど『善因善果・悪因悪果・自因自果』の意味で『因』は「行い」、『果』は、善行は「幸い」を生み、悪行は「不幸・災難」を引き起こす。「自らの行いはその結果として自らの運命をもたらす」と説いているらしい。拙い文章は「らしい」ばかりで申し訳ないけど、おおまかにはそういう意味らしい。宗教にあまり興味がないものだから深く考える事もなかったけど、ポツンともらした戯言が『仏教的』って言われると気になってしまって色んなものを調べて辿り着いたのが、仏教には幸福を得るための六つの条件があって『六波羅蜜(ろくはらみつ)』と言うらしい。『六波羅蜜』とは、布施(ふせ)=無形であれ有形であれ、ほどこすこと。持戒(じかい)=つつしむこと。忍辱(にんにく)=しのぶこと。精進(しょうじん)=はげむこと。禅定(ぜんじょう)=心身をしずめること。智慧(ちえ)=まなぶこと。とあり『六波羅蜜』をもって自らを律する事が幸福をもたらすこととなる。と、自分なりに理解した。友人が言った『仏教的』な考え方を正しく理解しているかどうかはわからないけど、有形であれ無形であれ、良い事、正しい行いをすることによって『運が強まる。得が高まる』と考えると、人生に何かが加点されていくように思える。「ルールをしっかり守っていると人生にポイントが加算されるよ」何んて軽いノリの話じゃないけど、やはり『運』は強く『得』は高い方がいい。で、信号無視した人を見て「そんな事しとったら罰当たるで」って思うことは、反省すべき点だろう。とも思っている。 昨日(7月31日)、東京オリンピックの柔道男女混合団体戦で日本はフランスに敗れた。この結果に運が影響したのかどうか…「う〜ん、運がねぇ…」何んて軽々しく言えないよね。みんなよく頑張ったもんね。
2021.08.01
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最近、テレビの料理番組やグルメ番組でよく『えんみ(塩味)』って言葉を聞く。 なんか耳障りが良くない。 「それは『しおみ』やろ!」とテレビに突っ込む。と、友人Aが「チャウチャウ!『しおあじ』や」。 すると横手から友人Bが「うまかったらどっちゃでもえぇやん、そんなもん」と茶々を入れる。 で「しおみ」が正しいか「しおあじ」が正しいのか、はたまた「えんみ」でもどっちゃでも良いのか、賭けをする事となった。 勝者には兵庫県播州赤穂名産、播磨屋の『塩味饅頭(この場合は「しおみ」が正解)』を贈呈。 で早速調べてみたら全員正解ながらどんな番組でどんな状態で使われていたかによっては不正解かも。 これはNETで調べた情報だけど 『しおみ』は料理に含まれた塩の味、つまり塩分を表現。 『しおあじ』は塩でつけた味の事で、塩辛い、しょっぱいなど塩気を感じた表現。 『えんみ』は料理(例えば梅干し)の塩加減、塩の匙加減を表す表現。 て事らしい。 分かったようなイマイチのような‥勝手に解釈した事なので、気になる方はご自身で再検索を。 で、全員痛み分けという事で熱い焙じ茶を飲みながら塩味饅頭を頂いた。 余談だけど焙じ茶も煎茶も緑茶も番茶も元々は同じ茶葉なんだよね。紅茶や烏龍茶等の発酵茶も。 そこで少年A‥元い、友人A曰く 「子供の頃、塩見饅頭不思議やったなぁ。なんで饅頭のくせに塩っ辛ろうて美味いんやて」 「『イカの塩辛』も好きやったんか?」と友人B。 「ちゃうちゃう!。塩辛の辛さと次元が全然ちゃうやろが!」とAが反論。 「あっ、でもな、スイカに塩振って食うとったやろ」と友人B。 「食うとった。塩見饅頭のしお味もスイカの塩もおんなじなんや」と両者何となく納得。 茶を啜った。 ある番組でこんな話しを聞いた。 子供は味覚(五味)に敏感。 五味とは、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の事で、舌にある味蕾(みらい)という器官で感じ取られる味。それ以外にも辛味や渋味などもあって、好き嫌いはあるとして子供の舌はそれらの味に敏感に反応しているらしい。 「大人の味だね」とか「この味は子供には分からないだろう」とかよく聞くけど、実は歳を取る毎に味覚は鈍くなるというか慣れというか、偏向していくだけで、子供の方が的確に五味を感じ取っているらしい。確かに五味に対して年齢や経験で好みの偏りが出てくるものだが、余分な嗜好品や過度な味への偏りが味覚を狂わせているらしくアルコールや喫煙も原因だろう。 台湾の激辛料理がブームの様に扱われているけど、世界中に辛い料理なんて星の数ほどある。 日本で唐辛子を山程振りかけて「辛くないよ」なんていってる人も居て、決して「味覚異常」とは言わないけれどそれはもはや『癖』でしかない。そんな『激辛料理』の特番が放映され、大食い選手権的な番組が作られているのを見ると、2013年にユネスコ(国連教育科学文化機構)によって『無形文化遺産』に取り上げられた『和食』の国でありながら、食品ロス世界第6位、アジア第1位に甘んじ、未だにこんな番組が作り続けられることに違和感と嫌悪感を覚えてならない。 まっ、個人の私感なので反論はご容赦あれ。 フランスに行くまでパンが大嫌いだった。 小学校の学校給食はコッペパン。腹が減るのでやむなくおかずに浸したり、挟んだり。胃袋の隙間を埋める程度のコッペパンだった。実はこのコッペパン(神戸にあった『広島堂』というパン屋のパン。現在はない)が旨いとお袋が言っていて、当時、学校を休むとパンは近所に住む旧友が届けてくれるシステム(?)だったのでコッペパンは必然とお袋の胃袋におさまった。糖尿病が持病ながら「食べる事を我慢する位ならポックリ死んだ方がマシ」何んて軽口を叩いていたお袋だったが豆タンクの様な体型のまま64歳で鬼籍に入った。いち時期、眼も見えなく右腕が動かなくなった事もあったが最期まで食道楽だった。 今、ヨーロッパでアンパンやメロンパン(サンライズ)がブームらしいが、26歳の時(1976年)に何をトチ狂ったのかパリを目指し、寂しい懐だったので食を控えいた頃にそんな有り難いものはなくて、ただ飢えには耐えられず口にしたフランスパンの、何んと美味しかったことか。 あのパンの中でも最上級に嫌いだった硬いパゲットを、巣食っていたサンミッシェルの街中で1番旨いと評判の店を教えてもらい1本1フラン75サンチーム(日本円で約78円)で買って帰り、スーパーで買ったバター(夏場はペケだけど)とジャムをつけてインスタントコーヒーと共に頂いていた。 当時、日本から持って行ったチキンラーメンが1袋35円程だったからバゲットは高級食材だった。 で、パンも好きになり牛乳も好きになり、チーズは青カビのチーズや山羊のチーズまで大好物と化し、辛い物もそこそこいけ、タイのピッキーヌー(激辛の唐辛子・プリッキーヌー)や、タイのパクチーも伊豆諸島のくさやも、結構色んな物を食べてきて「あぁ、味覚が経年劣化で劣っているのか‥」と思いつつも甘い物好きのところは変わってないと密かにほくそ笑んでいる。 若い頃は丁稚羊羹の1本喰い何んてやったし、神戸ヒロタのシュークリーム20個喰いなんてのもやっていたが、今でも一度に大福5個はいける。甘味に対する味覚は狂ってないようだ。何て喜んでみたものの。先刻までの食品ロスや大食い批判は何だったんだろうね。 飛んでもない奴だ。反省しろ。
2021.07.06
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神戸は雨の日が続くばかり。少しでも身体を動かさねばと散歩に出た。毎日雨が続くと鈍った身体を元ら戻すのに一苦労。といっても、この歳での運動能力なんて‥‥と思うが、独居老人としては体が動かなくなったら毎日の生活が覚束無い。で、歩く。とにかく身体を動かさねば。間寛平さんの台詞ではないが「止まるな!。止まったら死ぬぞ!」。若い時はただ笑っていたけど、今じゃ「そだね‥」と共感する。 阪神の御影駅から阪神電鉄高架下に続く御影市場「旨水館」を西に、弓場線の信号を超えて2本目の出口の右手に小さな鳥居が立っている。そこが『富玉稲荷社』。1995年の「阪神淡路大震災」でかなりの被害を受けたらしく境内の神使の狐さんの耳が欠けていたりする。そこで出会うことが出来る不思議な神使を紹介したい。 神使は神の使いとされる特定の動物で、よく眼にする狛犬(想像上の動物)や稲荷神社の狐以外にも八幡神の鳩、日吉大社の猿、春日大社の鹿、他に烏(八咫烏)、蛇、猪、兎、狸、猫等々。神の使いとされる動物は多い。その中で『富玉稲荷社』で出会った神使は一風変わっている。鳥居をくぐり境内に入るとまずは見慣れたお狐の神使が迎えてくれる。そしてその奥にもう一対の神使が。口では説明し難いので写真をあげておく。鳥居は比較的新しく思える。稲荷社の神使といえばお狐さん震災で被害があったのか耳が欠け、両前足と尻尾にも亀裂が残る。そしてその奥にある祠(殿舎)脇の一対の神使が今回の不思議!こんな事を言うと大変失礼かも知れないが「異形の神使」狛犬は想像上の動物で犬とか獅子とかにどこか似ている。と思う。でも、この神使は一体?>以前に一度、境内を掃除されていた方にこの神使のことを尋ねたけど、何も答えは得られなかった。ご存知の方がいたら教えていただきたいと切に思う。今でも週に一度はこの場所を通り、その度に思う。 気になって仕方がない。
2021.07.03
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もう一軒のおすすめ。元町の『ALLIANCE GRAPHIQUE』。 JR「元町駅」西口を出て南に。ウインズ神戸の西側の通りを南に向い、国道2号線に出る一本北側の通り(神戸華僑歴史博物館の北の通り)を西に入ると正面に見えてくるのがカフェバー「ALLIANCE GRAPHIQUE(アリアンス・グラフィック)」。名物のメニューは「フランス人に教えてもらったカレー」という焼きカレー。このお店もランチタイムを外して平日の午後に出掛けるのがおすすめ。何とも言えない居心地の良さがおすすめ。外観もレトロだが店内の雰囲気が最高にいい。入口に止められたフランスの郵政省(?)『P•T•T(ペー•テー・テー)』の黄色いベロ(自転車)が可愛い。南京町に出掛ける事があれば、是非寄って欲しいお店。
2021.07.01
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神戸の中央区海岸通に「E・H・BANK」があった。JRの元町駅から南にメリケン・ロードを真っ直ぐ下がって大丸前を通り過ぎ海岸通りに出た所を左に曲がり、3本目の通りを渡った角が海岸通9番。旧チャータード・バンクの建物をそのままに使ったカフェダイニングバー「E・H・BANK」があった。あったと書いたのは今は閉店されてしまい、近い将来的ホテルになるらしい。 以前は足繁く通っていた。アルコールが飲めないのでもっぱら昼間。しかも昼時を除いて平日の3時か4時頃。この時間帯は空いていて店内ひとりじめの事もしばしば。ゆったりとしたソファー席でのんびりと店内を眺めて何にもしない時間が心地よかった。元町の南京町や旧居留地でも三宮寄りになると結構観光客も多く見掛けるが、平日の午後の「E・H・BANK」は穴場中の穴場だった。そんな居心地の良いお店が無くなってしまったのは残念だが、ホテルとして生まれ変わるのは喜ばしい事だろう。泊まりに行くことはないだろうけどね。 「E・H・BANK」旧居留地、海岸通9番「E・H・BANK」懐かしい「回転ドア」天井が高い吹き抜けの店内遅いランチによくいただいたピッツァ 居心地の良いお店だった。
2021.06.29
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昨日(6月25日)にコロナのワクチンを摂取した。 今のところ注射したところに少し痛みがあるがあとはなんともない。でも、71際の老骨にとってはコロナに感染したら‥‥という恐怖感がないわけではない。特に一度心不全で36分間死んでいた人間にとっては折角助けてもらった命。大切にしたい。 コロナの世界での感染者が5月中旬に約1.8億人。死亡者は390万人。変な例えに使ってしまって申し訳ないけど、2020年のジョージアやモルドバの総人口が約400万人だから丸々ひとつの国が死滅したのと同じ事になる。第二次世界大戦下での米軍将兵の死亡者数約40万人。アメリカでのコロナの死亡者は6月中旬に60万人を超えた。眼に見えない恐怖だ。 全く個人的な意見だけど、そんな中でのオリンピック開催にどんな意義があるのだろうね。 だってひとつの国の人口に匹敵する人達が病気で死んでいる事態を目の当たりにして『スポーツの祭典』はないんじゃないかな。全くの個人的意見だけどね。 某国の選手団(9名だけど)が来日しその内2名が感染者。勿論残りの7名は濃厚接触者。コロナの『水際対策ってなんだったの』って思ってしまう。なのに無観客どころか、招待客、各国関係者、再抽選で選ばれた一般観客を含め2万人の観客(開会式)を入れる。 コロナ変異株のインド株が怖いらしいと連日報道されていて、今度はどんな新種株が出るのかなんて心配している時に、東京コングロマリッド株(?)なんてのが出てきて、東京オリンピック転じて東京パンデミックなんて悲惨な状況にならなければいいけどね。 1964年の東京オリンピックをワクワクしながら見てきた老骨には、冬季は別として二度目の東京オリンピックを楽しみにしていたのに。 どうなるのだろうと心配している。
2021.06.26
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やはり少しドキドキ気味。 取り敢えず早く寝ましょう。
2021.06.24
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おにぎりというと俵形のおにぎりを想像する。おむすびというと三角形おむすびを思い浮かべる。そのふたつに、厳密にどう違いがあるのか分からないが、自分の中では山型の三角おむすびが好きで、作る時は三角おむすびを作っている。おにぎりは単純に『にぎりめし』からの言葉の変化だと思っていたが「鬼を切る」から転じて「鬼切り」とされる説があるようで、鬼退治におにぎりを投げたという民話があるそうな。 もうひとつの『おむすび』は「お結び」という言葉につながり『古事記』に「むすびの神」が登場し、そこから転じて縁を結ぶ縁起の良い言葉という説があるようだ。 随分昔になるが、関西の自動車メーカーの女性オーナー向け冊子の取材をしていた頃、富士山を題材に『富嶽有景』と称し「葛飾北斎」描くところの『富嶽三十六景』巡る企画をたて『富嶽三十六景』を描いただろう場所を巡ろうというドライブガイドだったが、いかんせん、当時とはあまりにも条件が違いすぎて流石に「富士山」が望められる場所が少なくなっていた。その時に伊勢の二見浦で出会った御仁が話してくれたのが『おむすび』の話し。なぜ二見浦での話しになったかというと夫婦岩の間に遠く富士山が見える。らしい。そこで聞いた話しだけに説得力があった。要約するとこんな感じになる。 日本には昔から「八百万(やおよろず)の神」がおり、また『付喪神(つくもがみ)』と称される年月を経た万物が神や精霊になると日本人の信仰心が伝えられる。山を神格化する信仰もそのひとつで、富士山信仰は奈良・平安時代に活発化する火山活動をおさめようと富士山を神格化した木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメノミコト)、別名・浅間大神(あさまのおおみかみ)を祀り信仰を集めたとされる。『おむすび』が「御結び」とされる所以はその形にあり、神格化した山を表す三角形を神の形とし神の力を授かるために供物として供えた。どの節も定かではないが『おむすび』に関してはこの説を信じたい。ちなみに、富士山を神格化して祀られる神社は『富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ・静岡県富士宮市)』で、富士山頂にある社殿は浅間大社奥宮。富士山八合目から上は浅間大社の境内地だ。余談だけど富士山の名の由来にアイヌ語という説があり「高い山」を『フジ』というとか。これまた余談だが60歳になったら富士山に登ろうと思っていたが叶わなかった。またまた余談だが66歳になったらアメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカからイリノイ州シカゴを結ぶ「ルート66」をコルベットで走りたかった。友人を募ったが参加者なしで断念。もう71歳。出来る事ならなんでもいいや。で、今の目論見は、去年コロナで、今年もコロナで出来なかった爺ィの冒険。山陰ルート・やまなみ街道・しまなみ海道・はまかぜ海道、全行程396.8Kmを自転車で走破!。出来るかなぁ?‥出来ねぇだろうなぁ‥‥。いつも通りの夢で終わりそうだ。
2021.06.19
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