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2016.01.05
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カテゴリ: 江戸珍臭奇譚 
シジュウカラ.jpg



 お菊の堪忍袋の緒が切れたのはいうまでもない。手鏡を叩き付け、台所のふかし芋を三本食べ、箪笥から、持参金として持ってきた三十両を懐に入れて、駿河屋の店を飛び出した。
 何処ぞといくあてもなかったのだが、何かを振り切るように江戸城を背にして歩いた。日本橋の町屋を抜け、八丁堀の同心屋敷を過ぎ、とにかく歩いた。大川に架かる大きな橋があり、人々が忙しそうに行きかっていた。永代橋であった。大川の向こう側には、まだ足を踏み入れたことがなかった。
「渡ろう!渡ってしまおう!」渡れば何かが吹っ切れるそんな思いがした。
 橋の一番高いところで躊躇いが足を止めた。橋からは江戸の町並みが見渡せた。江戸城の北側が旗本屋敷だろうか、そこに父上母上がいて、私のことを心配しているのだろうか。里心がおきた、が、もう、帰らない、私は、帰れない。
 そして今までの自分と別れを告げるように、早足で橋を渡った。そこが深川という場所で、江戸の内ではあったが、お菊には今まで暮らした江戸とは別の世界のように見えた。これからどうしようという当てもなく、日が暮れて、西方から空が鼠色に暗く塗られてきたが、なぜか不安な気持ちにはならず、
心は晴れ晴れとしてもいた。みんな捨てて、新しい自分になるんだという、希望のようなものが心を包んでいた。

 あんなところに人が住んでいるのだろうかと思えるようなごみごみとして、屋根に石を乗せた長屋が橋の下に見えた。ここが深川というところなのか。お菊が産まれ育った駿河台あたりは、武家屋敷と寺と坂道で人影もまばら、まして盛り場の騒音も聞こえない。
 大川には帆を上げて、船が行きかっていたし、海と川がぶつかるあたりには廻船が碇をおろし、小舟が忙しそうに行きかっていた。褌一丁で、ほっかぶり、褐色に日焼けして、筋肉隆々のたくましい男の裸の姿も初めて見る光景だった。こんな男は今まで見たことはなかった。私は籠の鳥だったんだわ。橋の下の船着き場にお穢船が係留されていて、そこへ、糞尿の入った肥桶が積み込まれていた。

「あらっ、こんなときに、どうしましょう」だが。お菊の心配を無視するかのように、糞は胃から腸へどんどん下って肛門を開けようとしていた。
こうなったらしかたがない、お菊は橋の下の葦の河原にしゃがみ込み、着物を捲って「ぶっー」と放ってから尻を下げた。
「痛い!!!」折れた葦がしりに刺さった。出すものを出すと、その痛みに、もんどりうって転がった。しばらくそのまま動けない。しばらく唸っていると、葦の茂みを分けて、にゅきっと目玉がふたつ現れた。
「どっ、どうした、だっ、だいじょうぶか」と、声をかけてきた。
 慌てて。、着物の裾を直して、声のほうに目をやると、ぼそっーとして、半纏を広げて、越中褌をつけた若い男が立っていた。
「そなた、私の大事なものを見たね、そなたは誰だ、名を名乗れ、うむっ、そなた臭うね、厠の臭いがする」
「おっおら、でくというんだ、いっ、痛がってるから、こっ声をかけた」
 日に焼けて、ぼんくらな顔をしていたが、悪そうな男には見えなかった。

 行く当てもなく、尋ねる人もいない、今夜寝るところもない、地理もよくわからない。お菊はこの『でく』という男に今日のねぐらを頼んでみることにした。
「あっ、あるよ、はっ、橋から見える、あっ、あそこの長屋なら空いてる家がある」
 さっき眺めた、ごちゃごちゃして、屋根に石の積んである今にも崩れそうな長屋のことらしい。どうせ、今までの自分を捨てる覚悟をしていたんだ。この際、落ちるところまで落ちてみようと半ばやけくそになって、でくに連れられて、宗兵衛長屋の大家がいる自身番屋に着いた。自身番屋には大家の宗兵衛が茶を飲み、囲碁狂いの見廻り同心真壁平四朗と、手習い師匠の柳井文吾が囲碁を指していた。

 頻便のお菊にとって厠の隣はは好都合であった。お菊は懐から一両小判をを出した。
「なにもわかりません、よろしくおひきたてのほどお願いします」
「うへええ、こんな銭久しく見たこともねえ、おめえさんお武家さんのお内儀かい?」
 そこにいた、みんながあっけにとられていた。見廻り同心真壁平四朗と、手習い師匠の柳井文吾が顔を見合わせた。見廻り同心真壁平四朗はちと気にはなったが、縋るようなお菊の目に危険な臭いはないと思い、
「まあ、宗兵衛、何か訳もあるんだろうが、ここは詮索せずに、その銭を預かって、おめえが請け人になって、いろいろ面倒見てやりな」

「へいっ、合点承知の助でござんす、心配しねえで、おまかせくだせえ、姉さん」
 への字と呼ばれた男は平次という名だが、仕事もせずにぶらぶらしていて、店賃も払えず大家の宗兵衛や長屋の連中に面倒をみてもらっている怠け者だある。だが、いつもにこにこしていて、喧嘩もしたことのないお人好しなのである。
お人好し過ぎて世間と折り合いがつけなったのかもしれない。大家の宗兵衛はお菊が太った女だったので、これなら、厠にもたんまりと糞がたまりそうだと、にんまり笑った。

(つづく)

作:朽木一空

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最終更新日  2016.01.05 11:47:06
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