真理を求めて

真理を求めて

2004.07.03
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僕が師と仰ぐ三浦つとむさんは、誤謬論の重要性を強調している。特に、独創的な新しい問題に取り組む人間は、最初から成功をもたらすような単純な問題と取り組んでいるのではないから、手探りで一歩ずつ進めながら、失敗や誤謬を正しく評価して軌道修正しながら歩むことが必要だ。

しかし、これまで文部省が進めてきた、知識偏重の教育の弊害だろうか、最初から「正解」がある問題ばかりを解いている学校優等生は、この失敗から学ぶと言うことが出来ない。新しい問題で、自分の頭で考えなければならない問題なのに、どこかに「正解」があるんじゃないかと知識を探しているような学校優等生が多いんじゃないかと思う。

失敗から学ぶことが出来るのは、むしろ学校劣等生の方だろう。僕が尊敬する板倉聖宣さんも学校劣等生だった。東大を卒業した板倉さんを学校劣等生と呼ぶのは形容矛盾かもしれないが、数学の応用問題は良くできたけれど、単純計算はミスばかりをしていたという子供時代を考えると、板倉さんは学校優等生ではなかったと思う。板倉さん自身も語っているのだが、東大へ入ったのも、単にその時代に生まれ合わせたという「運」の問題だったそうだ。

板倉さんは、仮説実験授業を提唱したが、そこでは「予想」の重要性を強調している。「予想」はこれから起こることを考えるのであるから、現実の条件を読み間違えたり・見落としていたりすれば当然失敗することになる。しかし、予想があるからこそ、それを読み間違えたとか・見落としていたとか言うことが分かるのである。予想がなければ、その自覚をすることが出来ないので、読み間違いにも見落としにも気づかないで行ってしまう。

イラクに自衛隊を派遣したとき、宮台氏は、当のイラク人たちが米軍の占領に対して反感を持っているような状況の所に「軍隊」を送れば、現地で今まで活動してきたNGOやNPOのような民間活動家が危険にさらされるとずっとその予想を語っていた。それが国際的常識だと。

このような予想を持っていれば、イラクでの人質拘束事件が起こったことも、軍隊を派遣している国の民間人が危険にさらされている現状を見ても、この予想と関連させて理解すれば、その事実は予想の正しさを示す(証明する)ものだと理解するだろう。

しかし、予想をしなかった人間は、その行為を結果から解釈して、「テロリスト」はとんでもない犯罪を犯す奴らだと言うことしか頭に浮かんでこないかもしれない。しかし、そんなことが頭に浮かんできても、解決の方向は何も考えられない。「テロに屈するな」と叫ぶだけで、どうすれば「屈しない」でいられるかという具体的な方法は何も考えられない。失敗から学ぶことが出来ないからである。

アメリカではマイケル・ムーア監督の新作が、ドキュメンタリー映画史上最大のヒットの記録を作っているらしい。これは、アメリカ人が失敗から学んでいることを意味しているんだろうと僕は感じている。ブッシュの支持率が下がり、大統領選で敗北をすれば、アメリカ人は本当に失敗から学ぶことが出来たんだなと僕は思うだろう。

さて日本ではどうだろうか。来週は参議院選挙があるが、果たして我々日本人は、破滅への道を一歩ずつ歩んでいることをちゃんと自覚しているだろうか。果たして失敗から学んでいるだろうか。失敗を学ぶと言うことは、失敗を失敗として受け止めて、その原因を合理的に受け止めると言うことだ。原因が合理的に分かれば、それの対処も合理的に出来る。



失敗から学ぶというのは学校優等生には出来ない。「正解」のある問題しか解いたことがない人間には出来ないものなのだ。学校優等生の欠点は、試行錯誤が出来ないことだが、優等生であるために、自分の欠点を自覚できないという欠点もあるために、なお失敗から学ぶことが出来なくなる。自分のように頭のいい人間が失敗をするはずがないと思い込んでいるようだ。逆に言えば、失敗する人間はみんなバカに見えてくるのだろう。そうなると、ますます失敗を評価することが出来なくなり、失敗から学ぶことが出来なくなる。

学校優等生でない人は、学校優等生からはずれた人に注目し、その人が具体的に失敗からどのように学んだかというのを見た方がいいだろう。そういう人として、僕はいろいろな人に注目したけれど、仮説実験授業研究会の牧衷さんという人に注目してきた。

牧さんは、50年代の学生運動に関わった人で、その指導的立場にいた人だった。50年代の運動は、牧さんに言わせると次のような雰囲気を持ったものだったらしい。

「その、1950年の4月から6月くらいの間に学生運動がものすごく高揚いたします。当時、私のいた東大教養学部には2000人くらいの学生がいたんですが、5月1日のメーデーに参加したのが10数人だったと思います。5月4日の「5.4運動」の記念デモには確か16人、それから5月16日にもデモをやりました。このときは……あまり正確には覚えていませんが、30~40人が参加したと思います。
 それが6月4日のレッド・パージ反対のデモの時には、駒場だけで800人くらい集まった。これ、常時登校者が1000人くらいだから、800人というと8割方の学生が集まったことになる。
 このように、わずか数週間--1ヶ月もない間にものすごい変化をする。」

このように、牧さんは、運動の初期において輝かしい成功を経験することになる。この成功は、牧さんに、どんなことでも出来るという過信を与えたようだ。その思いが頂点に達したのは、1956年の砂川基地闘争の勝利だったようだ。牧さん自身の言葉でこの気分を伝えると次のような感じになる。

「それで砂川闘争--砂川基地の拡張阻止闘争というのをやるわけです。これは、日本国政府がハッキリ「拡張する」と言ったのを、完全に阻止しちゃった。日本の大衆運動史上まれに見る勝利の闘争であります。こういう大闘争を学生が先頭に立ってやり、そして成功する、というくらい学生運動は力をつけていました。」

運動というのは、まだ起こっていない現実に働きかけて、現実を変えていこうとする営みである。そこには様々の予想が生まれて、その予想のもとに行動すると言うことが必要になってくる。予想をしない運動などは、行き当たりばったりになり、ほとんど失敗する。かなり深く考えて予想をしても失敗は多い。砂川闘争のように成功する例は、本当にまれな例なのである。

運動こそは、創造性を働かせて、失敗から学ばなければ成功しない最たるものなのだ。上のように輝かしい道を歩んでいた牧さんも、やがて大きな失敗に遭遇し挫折することになる。

牧さんの挫折は、「試験ボイコット」という運動にかかわるものだ。レッド・パージというのは、大学から共産党員及びその同調者を追放するという形で牧さんたちの前に現れた。それに反対するために、牧さんたちは、学生に対して「試験ボイコット」を呼びかけた。



「試験ボイコット」の運動は大成功したが、レッド・パージの方は反対声明文にもかかわらずいっこうに中止する気配というものがなかったようだ。これは、ある意味では当然とも言えるもので、「試験ボイコット」の直接の影響は大学側にはあるけれども、政府や占領軍には直接の影響はないのだから、それに動かされなかったとしても仕方がない。

しかし、牧さんたちは、「試験ボイコット」運動が大成功に終わったので、引き続き2回目の「試験ボイコット」運動をしようとしたらしい。それは、論理的に言えば、「レッド・パージ反対のためにやった」のだから、レッド・パージが引っ込められない以上、反対のためにやるべきだという論理になる。

このとき牧さんは、全学連委員長の武井昭夫さんと論争をして勝ってしまい、「試験ボイコット」の方針を提出することになる。しかし、その方針は、学生たちの投票で否決されてしまい、民主的な支持を得なかった。運動家の間では圧倒的に支持された牧さんが、一般の学生には支持されなかったのである。この挫折をどうとらえるかと言うことから牧さんの「運動論」の追求が始まったらしい。1度目は圧倒的な支持を受けたのに、2度目はなぜ支持されなかったのか。何が違うのかと言うことを失敗から学ばなければならないと考えたのだろう。

牧さんが論争に勝ってしまった相手の武井さんは、およそ次のようなことを語っていたらしい。

「君の再試験ボイコットをやらなきゃならんと言う理屈も、やりたい気持ちも十分分かる。僕だって君と同じくらい再試験ボイコットはやりたいんだ。また、君の回ってきたクラスの学生たちがやろうといっているのも本当だろう。だが、それは君の周りの学生だからそうなんだ。それは学生の全部じゃない。君の影響の及ばない学生たちはそうじゃないかもしれないじゃないか。これまで大きな闘争をやって、活動家も学生も疲れている。くたびれているのに、ここでまた大きなエネルギーのいる闘争を無理押しにやろうとしても失敗するだろう。再試験ボイコットをやらなきゃならん、やりたいという気持ちは十分分かるが、それだからといって、それで再試験ボイコットが出来ると結論するのは、希望を持って現実にかえる議論だ。」



牧さんがこの失敗を反省し学ぶことが出来たのは、上の武井さんの言葉(予想)があったからではないかと僕は思う。武井さんの予想がまさに正しかったから、牧さんは、自らの失敗を深く受け止めることが出来たのではないだろうか。武井さんに見えていたことが、なぜ牧さんには見えなかったか、それが牧さんの問題意識の出発点だったようだ。

もし牧さんが、失敗から学ぶことが出来ないで、この挫折をただ解釈するだけだったら、「世の中は自分の思ったとおりにはならないのだ」という苦い思いを抱いて、「だから世の中に合わせるしかない」と考えたかもしれない。学生運動を通り抜けた多くの人々は、たいていはそのように考えて、高度経済成長を支えるモーレツサラリーマンになっていったと僕は感じている。

失敗から学ぶことができた牧さんは、未だに運動に関わり続けているし、現実を鋭く見抜く方法というものを教えてくれる。僕も、自らの人生は失敗の繰り返しだと思うだけに、牧さんのように失敗を正しく受け止めて自分を鍛えていきたいものだと思う。

牧さんの、失敗に対する具体的な学び方を書きたかったが、すでに十分長い文章になったので、それはまたこの次にしよう。人間は失敗からこそ深く学ぶことが出来る。学校優等生でない多くの人間は、優等生にならずにすんで、この資質を失わないでいられることを感謝することにした方がいいと思う。この資質は、一度失ってしまうと、なかなか取り戻すことが難しくなるからだ。





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最終更新日  2004.07.03 10:29:58
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