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21日目 9月18日(月)台風(テプン)過ぐ半島よりもさらに北台風は去った。TVではさすがに台風の報道をトップでしている。(韓国のテレビは気象報道がわりとおざなりなのだ)13号台風といわずに「台風”サンサン”北上」というテロップ。 朝飯はバリエーションを持とうとして「歩き方」に出ていた天安コムタンでお粥を食べる。しかし、値段のわりにはイマイチ。反響のあった昨日の蜆スープ定食の店構えも載せておきます。9時過ぎに国際ターミナルに行くと、発券は10時過ぎだという。待つ。ともかくも券が買えてよかった。6時までフリー!昨日が嘘のような晴れだ!学生運動はどこへ釜山大学に行く。ここの博物館に行くためだ。展示物は少ないが、より学術的な展示内容だった。旧石器時代から三国時代までの遺物が展示されている。 ついでに学内を散策する。バスの停留所がいたるところにある広い国立大学である。特異なのは学内に大きな川が流れていて、市民にも公園として開放されているということだ。韓国の公共物における自然の多さには感心する。意外に思ったのは、学生手作りの看板はおろか、チラシもひとつも存在しない、ということだ。一応ぐるっと回ったのだが、ひとつもなかった。70年代、80年代の民主化闘争は学生の活躍が大きかったはずだ。いくら国立だからといっても、この「綺麗」「静かさ」は異様であるとともに残念だ。学内ではスピーカーから学生の好みそうな音楽が流れている。大学で音楽を流すとは!! 学生街を歩く大学近くの学生街を歩いて嬉しいのは、食べ物が安いこと。2000~4000W代の食べ物が軒を連ねている。昼のランチで飯盒定食が1000W安くなって3000Wになるという看板があった。おかず部分には豚キムチ炒めと目玉焼き、ご飯がのっており、飯盒の中にはラーメンが入っていた。店の構えからして、この店の売りは「郷愁」らしい。写真を撮らせてくれなかったので、店構えを写します。街を歩いてみて気がついたこと。書店が少ない。あと韓国全体でそうなのだが、電気屋が全くない。大きなスーパーでしか、家庭電器を売っているのを見たことがない。反対にいうと、日本はそれほどに電気屋と書店が多い国なのかもしれない。 東莱温泉歩いて温泉場まで行く。足湯が出来る無料の公園があるので、入ろうとすると怒られてしまった。どうやら先ずは足を洗う場所があるらしい。とうとう最後まで簡単な日常語も出来なかった。写真の溝みたいなところに温泉が流れていて、そこに足をなんと20人ほどつけていた。共同浴場に入る。二時間以上ゆっくりする。旅の疲れをこれで洗い流すことが出来ただろうか。スーパーで少しだけお土産を買う。気がついたら乗船時間にギリギリ。さあ、明日起きたなら日本だ!6,000(朝おかゆ)1,300(地下鉄)1,000(コインロッカー)3,950(電池)85,000(釜山→下関)6,000(港料)14,800(DVD)3,000(飯盒ランチ)4,000(温泉入場料)1,000(肩たたき)1,100(地下鉄)2,000(おみやげ)11,130(おみやげ)1,400(おみやげ)2,000(タクシー)1,300(つまみ)450円(アサヒビール)
2007年08月31日
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20日目 9月17日(日)朝、モーテルの受付の老人と話をする。70代だろうか。実に流暢な日本語を話す。美味しい朝飯朝食は近くの店で蜆のスープの定食。釜山という都会なのに、思いもかけず、副菜は八皿も出てきて、ご飯も五穀米、蜆スープは中味だけが入っている大きな丼、そして非常に美味しいサバの味噌煮。こんな店にぶち当たると、旅をしてよかった、と思う。 韓国の日本語学習は世界一西面(ソミョン)に行って、語学学習用の韓国映画のDVDと教材を探す。この旅で韓国語はしっかりやろうと思った。(と、このときには思っていた。)映画の字幕にハングルを出して、反復練習するのは効果があるらしい。と、複数の人に聞いた。韓国は、日本と違い、観光案内所が充実している。この旅で私が至る所にバスで行けたのも、彼女たちが親切に教えてくれたからである。彼女たちの半数以上は(主要観光名所の八割以上は)日本語が堪能である。「どうやって勉強したんですか」「いや、へたです。二ヶ月間勉強しました。」そういう答えを聞いて自己嫌悪に陥ったことがある。彼女たちは基本的なことを学んだあとは、日々実践しているから上手になるはずだ、と自分を慰める。韓国は日本語学習者が世界一多い国だそうだ。ソウルの教保文庫の外国語コーナーに行くと日本の韓国語コーナーの貧弱さが恥ずかしくなる。日本は大きな本屋でもハングルコーナーはひとつのスペースがあればいいほう。韓国では日本語コーナーに三つの棚がある。嫌韓、反日、勝手にやっておくれ、と私は常々思っているが、まず相手のことを知る努力では日本は確実に韓国に負けているだろう。日本はその努力のほとんどをアメリカに向けている。アメリカだけが世界ではない。台風の中貝塚を見る昼から影島区にある東三洞貝塚展示館に行く。釜山は新石器時代(日本の縄文時代)の遺跡がたくさんある。日本は縄文時代、国という意識はなかったから、頻繁に北九州と南韓半島と交流している。この貝塚で面白いのは、ほかの韓国の博物館で見かけることのなかった土偶が展示されているところだ。熊の土偶は日本でもよく見かける。小さくてかわいい。いまだかつて見たことのない土偶で、貝をくりぬいて顔の形にしたものがあった。---土偶は文字を持たない昔の人の精神の世界を垣間見ることの出来る貴重な遺物である。このような貝の土偶、ここ以外にも例があるのか、知りたいものだ。 この展示館の周りは港町。晴れていれば、風光明美、面白い家もたくさんあるのだが、ちょうどこのときは台風が一番韓国に接近していたときであった。午前中とは一変、外は暴風雨になっていた。早々に街の方に帰った。濡れ鼠異国の港ひとりぼち苦労してやっと港に電話で連絡をとっても、全然要領を得ない。出来たら切符を取っておきたいと思い、中央駅から歩いて国際ターミナルに行ってみる。傘などは役に立たない。ずぶぬれになる。けれども、ターミナルに職員はいなかった。結局その日にチケットの予約は出来なかった。そのとき午後五時。外は暴風。ヌートリアのように濡れて座る。駅までのたった数百メートルのためにタクシーを使う。 地下道のロッテリアでバーガーセットを頼む。少し風雨が止んだので、南浦の中華店でギョーザと焼き飯を食べる。本当は映画を見ようと思っていたが、やめる。やっとのことでモーテルにたどり着き、身体を暖めた。40,000(宿泊代)5,500(蜆スープ定食)3,000(電話カード)1,100(地下鉄)17,600(DVD)25,000(本)5,800(ピザハット昼食)1,000(バス)3,000(資料館の本)1,000(バス)10,000(V-CD)1,800(タクシー)4,600(ロッテリアハンバーガーセット)8,000(ギョーザと焼き飯)
2007年08月30日
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19日目 9月16日(土)紫山公園朝、ハスクに荷物を置いて悟桐島(オトンド)へ歩いていく。近くのザサン公園から麗水(ヨス)周りの島々や海を眺める。 旅の途中で自分を見つめるもう旅も終わろうとしている。本当はこの公園の芝生に寝転び、一日海を眺めてすごすのも悪くないのだが、この旅でそういうことができたのは、済州島の最終日、火山そばの秘密の花園で過ごした一時間のみだった。今日の場合は宿においてきた荷物が気になって仕方ない。そしてそうでないときなどは「せっかく来たのだから見たいところは全部見よう」とつい欲張ってしまう。-----結局これがオレの性(さが)なのだ。好奇心だけは旺盛で、見たり読んだりするのが大好きで、通り過ぎるだけでわかった気になってしまう。そして何も一つもものに出来ないでいる。ゆっくりとひとつのところに腰を落ち着けて一生をかけて一つのことをやり遂げることが出来ないのが、自分の性なのだ。----落ち着いた人生にあこがれるな。けれども決して分かったと思うな。----この旅でひとつ分かったことなのかもしれない。そんなことをこんな景色を見ながら思っていた。昼食は麗水駅近くのキムパブ店でナクチ(たこ)ビビンバにした。このチェーン店で初めて美味しいスープとキムチに会えた。韓国を旅して気がついたことを二つ。韓国では朝に細い道で出会ったときや、山の上でであったときに「アンニョンハセヨ」と挨拶しても、決して誰も返事を返してこない。日本では見知らぬ者通しでもとりあえず「おはようございます」と挨拶をするものだ。韓国の人が見知らぬものに不親切なわけではないということは、今まで散々書いてきた。もうひとつ、若者の携帯は普及率は100%ぐらい。スライド式の携帯の普及率は95%ぐらい。おそらくこの2~3年でこの形が普及して来ている。スピードがあまりにも速い。 釜山行きのバスに乗る。旅のお供のお菓子。高速の休憩所。日本とあまり変わらない。げっ、台風で足止め3時に釜山のバスターミナルに着く。中央駅まで地下鉄で行き、国際旅客ターミナルにとりあえず行って見る。釜山の地図を貰って明日の博多行きのチケットを買おうとすると、なんと台風が接近しているということで今日も明日も欠航。あさって以降は明日にならないと分からない。おやおやこんなにいい天気なのに。一挙に手もちの現金が少ないのが心細くなった。カード使用が必須になる。今までは宿代をケチっていたけど、カード使用が最優先になるので、旅人宿などは絶対に泊まれない。これから三日間は旅の疲れを癒すことに集中しようと決める。人間らしい生活モーテルは南浦とと中央駅の中間に位置するモーテルに決めた。実はサーマノン(4万W)をサムマノン(3万W)と聞き間違え、即決したのだが、入ってみると、広くて綺麗で、設備は整っていて、「なんか‥‥‥人間らしい生活ってこんなのかな‥‥‥」と、ふと思ったりした。夕食は近くの有名店でテジカルビを食べる。副菜が美味しい。やはりお金を使うっていいことだなと思う。焼酎を飲みながら、明日の計画などを練っていると、いつの間にか一時間以上粘っていた。ミアネ、アジェンマ。夜、久しぶりにPCバンでブログ更新が出来る。3,000(悟桐島入場料)850(バス)4,000(ナクチビビンバ)850(バス)1,200(お菓子)600(コーヒー)17,600(麗水→釜山)1,300(地下鉄)40,000(宿代)5,000(テジクッパ)1,500(焼酎)
2007年08月29日
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18日目 9月15日(土)共生園まで朝の散歩午前中は荷物をモーテルに置いて、周りを散歩した。木浦の海岸線を30分ほど行くと、日韓合作映画「愛の黙示録」で有名になった共生園がある。戦前、韓国人牧師と結婚した田内千鶴子が、朝鮮戦争で夫と死別しても孤児院を守ったところである。行ってみて驚く。まるで小さな村のようにさまざまな施設のある大きな孤児院(?)になっていた。うしろに儒達山をかかえ、前に穏やかな島が浮かぶ海。田内は案外幸せだったのではないか、とふと思う。 木浦は日本風の家が多く残っていることで有名だ。確かに屋根の形は日本風だけれども、壁は韓国風が多い。木造も少ない。けれどもちょっとした角や路地にはびっくりする。程よい郷愁を誘うところが多いからだ。映画「ラブストーリー」でもいろいろな場所が使われていたらしいが、私も監督なら使いたいところがそこかしこにあった。 儒達山に登る儒達山に登る途中、車道でリスを見つけた。韓国の街中でリスを見つけるのはこれで二回目。それほどありふれた動物なのか。自然史博物館でさえ、標本が置いてなかった。案外簡単に儒達山(ユタルサン)に登る。(きつかったけど)木浦の街並みや遠くの島々を一望に見る。 海岸線を歩いて小さな店で電池を買ったとき、山の上の写真屋のおっちゃんと話したとき、山の上の説明ボランティアと話をしたとき、ある同じ質問があった。歳と仕事は聞かれなかった。韓国人は相手が目上の人かどうかで話す態度が変わるので、それはいの一番に聞かれると教えられていたのだが、今回の旅でそれを聞かれたのは1~2回。その代わりいつも「日本人」と確認すると、「日本のどこから来た?」と聞いてくるのである。約80%の人が聞いてくる。歳や仕事を聞かないのは、私との上下関係を確認する必要がないからだろう。「日本の岡山から来た。」それが彼らにはとても重要なことなのだろうか。確かに韓国の人にとっては本貫(出生地)は大切なことだ。けれども、単なる旅行者のことを知るのに大切なこととは私は思えない。後にフェリーで一緒になった韓国の人にその疑問をぶつけてみた。やはり気になる、とのこと。基本的に韓国の人は出生地でその人がどういう人物なのか測る癖がついているのだそうだ。韓国のすしはサイテー!昼飯に駅前で初めて日本料理を食べる。たいそうな店構えのすし屋である。にぎり12個が7000W。珍しく副菜は出てこない。うどんスープとコウコのみ。バカな味だった。回転寿司の方がまだましなものを出す。頼んですぐに出てきたので作り置きなのだろう、刺身の肉厚は薄く、鮮度は全くない、シャリが乾きかけている。港町なので少しは期待した私が馬鹿だった。バスを待つ間、コイ焼き(4個で1000W!!)のかわいい顔を見ながら自らを慰める。こちらは美味しかった。 地球的視点で考えた自然史博物館は思ったよりよかった。広い館内を使って、アンモナイト恐竜から身近な動物まで、思いっきり展示物を多くしている。映像も効果的に使っている。つい地球の過去と未来について考える。それはこんなことだ。---地球表面の高い高い山や深い深い海なんて、せいぜい地球という惑星の表面の皺に過ぎない。かつては巨大な恐竜たちがさまざまな能力を持ちながら、地表をのし歩いていた。彼らは詳しいことは判らないが、環境の変化に対応しきれず滅んでしまう。その後、地球に住めるところが多くなってきて、環境が良好になったときに、どうして恐竜が復活しなかったのだろう。なぜ地球はその主人公に哺乳類を選んだのだろう。何度も何度も同じ間違いをしたっていいじゃあないか。----とりあえず哺乳類は地球に満ち溢れる。彼らは環境変化に強い。しかもそこから出てきたホモサピエンスという種は環境を変える能力までもっていた。地球は次の種族は環境のせいで滅びることはないようだ、とひと心地する。ところが人類と言う奴は、火を持ち、クーラーを持ち、たった数十年間の間に地球の表面温度を上げるというようなことまでした。これほどの急は「想定外」だった。はたしてこの地球の新しい主人公は、過去の教訓を生かすために生まれてきたのだろうか‥‥‥地球は疑問に思う。今日のお宿は麗水博物館を出ると、雨が本格的に降り出した。麗水(ヨス)行きのバスに乗る。チャンフン市街バスセンターではバスの運転手同士がお互い足蹴にしながらじゃれあっていた。周りの人たちはそれをニコニコしながら見ている。チング(友達)としての感情の表し方。それを受け入れる周りの人たち。日本とは遠くはなれたひとコマ。 麗水につく。「歩き方」には全ての市内バスは繁華街に行くと書いていたが、心配でたまらない。停留場で中学生に「駅行きはどれ?」と聞く。「全てのバスはその近くに行くので歩いていけばいい」と言ったように思えた。そうは聞いても本当につくまで心配でたまらなかった。彼に見送られてバスに乗る。お互い心配そうである。御免なさい、ちゃんと駅前に着きました。ともかく宿を決めたい。路地裏には旅人宿みたいな雰囲気が漂っていたけど、看板には「ハスク」(下宿?やる宿?)と書いている。オバちゃんは「眠るだけなら一万Wだよ」と言う。まあいいや、ここに決める。きっちり売春宿でした。もう慣れたものである。疲れていたので、ご褒美として夕食は奮発した。海鮮ビビンバとビール。なんと宿代より高くついたが、カードで払えるからよしとする。今は少なくなってきた現金がなくなることの方が怖い。850(バス)400(コーヒー)1000(アイスクリーム)700(儒達山入山料)2,400(電池)850(バス)7,000(すし)1,000(こい焼き)3,000(自然史博物館入場料)1,500(ジュース)4,100(タクシー)16,500(木浦→麗水)12,000(夕食)10,000(宿代)
2007年08月28日
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去年の「釣りバカ」はぼろくそに書いた。まるで石川県の観光映画になっているみたいだったからだ。その記事を松竹の部長が見て「どこから金が出ようと松竹らしい映画を作ってやろうじゃないか」と発奮したらしい。今度は岡山県で、フィルムコミッションの強い要望で「釣りバカ」が実現した。(もちろん半分は冗談です)監督 : 朝原雄三 出演 : 西田敏行 、三国連太郎、壇れい、高嶋政伸、星由里子地元岡山だから、見る目が甘くなっているわけではない。いやあ、昔の寅さん映画のようだった。地元の人間でも倉敷市の海蔵寺の境内からあのような素晴らしい港町が眺められるとは知らない。確かに自治体からお金が出ている以上、少しは岡山の宣伝もしているけれども、石川のようにあからさまではなかったと私は思うのだが、どうだろうか。嬉しかったのは、三国連太郎が元気だったことだ。最近のやせ細りようで心配していたのだが、今回は出ずっぱりだ。海に出て、ちゃんと釣りもしている。浜ちゃんには悪かったが、今回はスーさんが全ていいところをとっていってしまった。その分はじけるような大笑いがなかったのは残念。まあ、観客層は中年以上が多い。夫婦や友達同士で来ているので、くすくす笑いぐらいでいいのではないだろうか。鯉太郎もなかなかいい味を出すようになった。結局スーさんが社長業を譲ったのはたこ社長ではなくて、集団指導体制のひとりなので、鈴木一之介は会長になったけれども、今までと構造は変わらない。最後は日本のエーゲ海牛窓で大団円。松竹喜劇らしいひと時をお楽しみください。
2007年08月27日
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古代吉備文化財センター主催の発掘調査報告会に行ってきた。この前行ったのは2年前。(「日本の平和のルーツは弥生時代・吉備にあり 」)そのときも大きい会場で手を上げて質問をしたのであるが、今年も質問をした。今回一番面白かったのは、弥生遺跡の大旦(おおだん)遺跡ではなく、5C~7Cの総社市の窪木(くぼき)遺跡。報告者は松尾桂子さんといって中堅の考古学者風。ほかの報告者が「貯蔵穴(ちょぞうけつ)」とか「官窯的(かんようてき)な性格」とか専門用語を使いながら説明している中で、ひとりパワーポイントを縦横に使い、発掘地図を色分けしたり、アニメのようにイラストを加工したり工夫をしていて、専門用語には必ず説明を加えながら、しかもポイントを抑えて短時間で終わらせた。ちょっとマイラブ。こんな人岡山にいたっけ。イントネーションは関西系のようだった。しかし面白かったのは、報告の仕方ではない、内容だ。この遺跡は古墳時代の集落なのだが、歩いて30分くらいのところに、日本最古の製鉄遺跡千引きカナクロ谷(6C後半)があり、5C当時では日本最大の大きさだった造山古墳がある。つまりこの団地から通勤出来る距離にある。この遺跡は5Cから竪穴住居が建ち始め、6C後半で最盛期を迎え、掘立柱建物に変わり、7Cで家が少なくなるという。だとすると、ここにある集落は造山の王とカナクロ谷製鉄遺跡と連動していることになるのではないか。しかも住居からは5C後半に作られたという鉄ヤスと鉄の三つ股グワが出土している。カナクロ谷より前の鉄製品ではないか。支配者の権威のための遺物ではなく、生活用具だ。ここの住人はその鉄をどこで作ったのか。自ら製鉄したのではないか。‥‥‥報告で聞いたことを元に主にそのようなことを会場で手を上げて質問した。そうすると松尾桂子さんは「この鍬がどのように作られたか、私も知りたいぐらいです。判る術はありません。確かにカナクロ谷と連動していた可能性はありますが、それよりも私は6C後半の製鉄遺跡で鉄加工もしていたここからすぐの窪木薬師遺跡との連動を考えています。」とのことでした。私の質問の本当の目的はカナクロ谷よりも前に誰も知らない最古の製鉄遺跡があったのではないか、と言うことであった。松尾さんの回答で、とりあえず、5Cにこの土地で製鉄が始まっていたかもしれない可能性は残ったということになります。私的にはそれで満足。学問的にはどうでも、想像する幅が残ったので。私の一番の関心は、あくまで弥生時代3Cの倭国大乱から大和政権に移る「平和革命」の解明(上の二年前の記事参照)なのですが、最近は5C~6Cにかけて大和と吉備の日本列島の主導権争いがどのように推移したかにも関心が行っています。写真はそのあと県立博物館に行って(本当はいけないのだけど)写した楯築遺跡の弧帯石のレプリカである。日本を代表する弥生遺跡の遺物。石の表面をまるで粘土のように削って特別の模様や謎の人の顔が彫られている。この模様が特殊器台の模様と同じ。特殊器台が全国に広まる埴輪の原型であったことを指摘すれば、この石の重要性を理解してくれると思う。日本重要文化財。国立博物館にも同様なレプリカが展示されている。
2007年08月26日
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薔薇豪城さんの今日の記事を読みながらひとつ作った短歌です。いつまでも国がやさしくしないから7月10日はおにぎりの日
2007年08月25日
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「アリランの歌」よりソウル鐘路駅の近くにタプコル公園という小さな公園がある。そこは1919年3.1独立運動の発祥の地らしく、独立宣言の石碑と園内周囲には12枚の石のレリーフがあり、独立宣言を出す民衆、日本の憲兵に取り押さえられるさま、突然現れるジャンヌダルクのような少女、その結末などが描かれている。私はこの公園に行ったことで3.1が韓国内で重要な日であったことを知ったのだが、一方ではこのレリーフの印象せいで独立運動を始めたけど、すぐに日本に弾圧されてソウルだけの小さな運動であったのだ、と勘違いしていた。この本を読むまでは。そのとき、平壌郊外に住んでいた14歳のキム・サン少年は、その朝中学校の先生が教室で「この日朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和的なでも行動が行われよう」と演説するのを聞き、「学生たちは叫び、歓喜の涙が頬を伝わった」と書く。実際平壌でもデモ行進は行われた。「何千というほかの学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。」「何百万と言う朝鮮人が、3月1日には食を忘れたと思う。」そしてすぐに弾圧はやってくる。「通りでかたまって賛美歌や国家独立の歌をうたっているキリスト教徒の女たちを日本の兵隊が射撃するところを何度か見た。彼らは銃剣で襲い掛かりさえし、多くの負傷者が病院に運ばれて死んだ。」日本は30万を逮捕したが、死刑にはしなかったという。5万が懲役判決を受けたという。反日のためではなく、朝鮮独立のための運動なのだから、法律的に死刑には出来なかったのだ。「死刑は殺人の場合以外適用できないから、日本人は逮捕する代わりに民衆を街頭で殺した。--うまい手だ。」鎮圧期間のうちに七千近い朝鮮人が殺された。キム・サンの言う数字は根拠のあるものだと思う。関東大震災で殺された朝鮮人の数字も確かめたが、現代の歴史で検証された韓国よりの歴史書の数字とほぼ同じなのである。つまりキム・サンは希望的観測や憶測で数字を述べているのではなく、きちんと検証された数字を頭の中に取り入れているということなのだ。実際日韓歴史共通教材の「日韓交流の歴史」(明石書店)を紐解くと憲兵隊の資料である朝鮮人死亡者500人と言う数字と「韓国独立運動の血史」(パクウンシク著)の7500人が併記されているが、キム・サン少年自身がソウルでなく平壌で殺人を目撃したとなると、とうてい500人と言う数字ではないぐらいは明らかである。このひとつからも、日本からの朝鮮独立運動は全土的、平和的性格を持っていたことがわかるし、それを明治政府は明確に武力弾圧したのである。そして平和的行動が潰えたあとに伊藤博文へのテロがあったのである。キム・サン自身もこのあとのキリスト教徒の平和行動に疑問を投げかけている。「平等の地歩を求める平穏な訴えに対する日本の非妥協的な反応が、朝鮮の青年を凶暴な個人行動やテロリズムへは知らせる結果をもたらした。」1919年の直後キム・サンは東京へ苦学をしに行く。「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難場所だった。自国にはいい大学がないし、日本の大学にはその頃は自由な雰囲気があり、戦後の知的興奮に満ちていた」と言う。もちろん戦後とは第一次大戦後という意味であろう。日本は大正デモクラシーの真っ最中だった。彼は日本の共産主義運動をこのように分析する。「中国では反植民地闘争が行なわれているために共産主義運動ですら民族主義的傾向が非常に強いが、日本の共産主義運動にはこの傾向が全くない。中国人がするように朝鮮人その他の外国の同志を差別することがなくて、実に国際的な気質を持っている。」私はこれは日本の共産主義運動の特質をよくつかんだものだと思う。彼は半年ほど日本で勉強した後、革命に近いのはソビエトだと思い、出来るだけ近づこうと、満州に渡る。そのあと上海に渡ってマルクスやレーニンの著作を読み、クーデターやテロの無益さを理解し、「科学的大衆行動の重要さ」を理解する。彼は中国共産党に入党し、アジア的規模で革命を目指す。このあと、死線をさまよう「広州コミューン」の立ち上げと壊滅、女性とのロマンス、投獄されたときの取調官との駆け引き、等々、下手なミステリ冒険小説では味わえない知的興奮があるのであるが、それは読んでからのお楽しみとさせてもらう。
2007年08月25日
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今日の記事はUnder The Sunに投稿したコラムを転載することでお許し願いたい。ちなみにこのUTSはTBセンターです。メンバーで無いとTBできないと言うことではありません。ぜひ皆さんしてやってくださいね。「夏休み」というキーワードで思いつく言葉は三つです。「冒険」と「恋」と「宿題」。 しかし、前者二つは貧しい体験やら、とても言えない体験しか持っていない。小学生のとき、自転車で半日かけて山の方向に行けるところまで行ったのが唯一といっていい冒険だったかもしれない。恋は・・・燃えるような恋をしたかった(涙)とだけいっておきます。で、あと残る宿題でいろいろと思い出してみた。当然印象的なのは、小学校の時の宿題。 夏休みの後半は、自由研究や読書感想文など「大型宿題」の季節である。私はたいていこの時期に絵を描くようにしていた。小学校二年くらいから一度描いてみたいなあ、と思っていたものに、自宅の二階の窓から見える一本の大木があった。距離は直線で一キロほど離れているだろうか。我が家の辻墓がある里山の中腹にこんもり茂った、トトロの木のような大木があった。二階の窓からそろりと屋根の上に上がり、そこからの景色を眺めるのが大好きだった私はいつかあの木を描いてみたいとずーと思っていた。今は到底あの屋根には上れない。当時三十数キロあった私の体重は今ではその倍以上になっているからである。屋根の上に上がるのは、子どもの特権のひとつではある。屋根の上からは、見慣れた人たちが住む近所の家が俯瞰して見え、普通は見ることの出来ない遠くの景色が見え、里山から時おり涼しい風が吹いた。小学校三年の夏、そしておそらく四年の夏、私は二回大木の絵を描くのに挫折した。私が描きたかったのは、一本の木から無数に枝分かれしているその木の構造だったのである。冬になるとさらによく分かるが、一本の木から大きな枝が幾つか分かれ、そこから無数の枝分かれがしてあるのに、なぜか一本の木の印象は統一された形になっている。そこが面白かった。だから枝をかかなければ意味が無い。しかも夏は緑の葉まである。現在の私ではそもそも目が翳んであの一本の枝まで見ることが出来ない。小さい頃だから見えた新鮮な一本の木であった。けれども実際に描くとなると、どうしても枝の一つ一つ目を奪われ、しかも全体像どころか、枝と枝の関係まで描くのも出来なかった。写真のように見たままを描かないと、思ったようにかけないという思い込みが小学生の私にはあった。つまり、実際あの木を描くのは無理な相談だった。小学校五年の夏、学校が企画した絵画教室に通った。地域の工場の油にまみれた工作機械を30人ぐらいで描いて、どこかの先生が指導するという教室だった。そこで私は水彩画の重ね塗りの技法を学んだ。けれども工作機械の形はいかにも簡単で、私には興味はもてなかった。重ね塗りをすると思ったような色は出たけれども、油でギトギトになった鉄を薄暗いところで描くので、暗い色になって好きではなかった。けれどもまじめな私は先生の言うとおりに重ね塗りをしていった。これで出来上がった絵を提出すると宿題が済んだことになったのも魅力だった。その絵のことを忘れていたころ、私は朝の全校集会で名前を呼ばれ、校長先生から一枚の表彰状を貰った。あの絵が県の絵画展で準特選になったというのである。結局その表彰状が私の生涯で一番大きな表彰状になった。今なら合点が行く。あの先生はこの絵画展の審査員のひとりだったのだ。さて、私はいまだあの「夏休みの宿題」を持ち越している。実物の木では無いけれども、私の周りにある「小さな枝の一本一本」を描くことと「大木の全体像」を描く事。そしてさらには「その背景の里山」を描くこと。県の絵画展などいう茶番には出品しないけれども、私の生涯の宿題になっていると思っている。今年のお盆、里山の辻墓に家族で参った帰りに父親がその大木を案内してくれた。私は知らなかったのであるが、その大木はエゴノキといい、私の村の一族の鎮守の木であったのだ。「この木の中は空洞になって、良く遊んだものだ。ここの木に登って数メートル下に落っこちて奇跡的に怪我ひとつ負わなかった事もあったなあ」今年に限って父はなぜかそんな昔話をした。つい数年前から父が音頭を取り、お祭が再開したらしい。
2007年08月23日
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「アリランの歌」(岩波文庫 ニム・ウェールズ、キム・サン著)1937年の夏の初め、アメリカの女性ジャーナリスト、ニム・ウェールズ(「中国の赤い星」のエドガー・スノーの妻)は、延安でひとりの朝鮮人に会う。魯迅図書館で英文書籍借り出し人の名簿を繰った時に、ひとりの突出した濫読家を見つけたのだ。金山(キム・サン)と名乗る彼は知性あふれる青年であったが、写真を見る限りではひどく痩せており一種の老師の風貌さえたたえている。(32歳だという!)ウェールズは彼が軍政大学の教師と言うのは仮の姿で中国共産党員であることを見抜き、伝記を書かせてほしいと頼む。そんなときに盧溝橋事件が勃発する。その7月7日ウェールズは「日本と中国の全面戦争が始まるのか、まだ妥協と和平の道があるのか」道が見えないまま、キム・サンに聞く。「戦争は避けられません。とうとう来たのだと思います。今度の事件で戦争にならなくても、次かその次の機会には始まります。日本は経済的帝国主義の緩慢なプランを実施するだけの資金的余裕がないから、軍隊を使って強盗式戦術を取り、軍事行政両面での徹底した強奪をやらねばならない。財政面が弱いので、中国と経済的な提携関係を築くことは出来ない、中国を安全に搾取しようと思ったら、先ずその力を潰しておかなくてはならないというわけです。」彼はいうなれば、無名の知識人の一人に過ぎない。その彼が、当時のアジア情勢についてはおそらく世界最高水準の客観情勢を語っているのだ。当時の蒋介石の中国国民政府と中国共産党は敵対関係にあった。しかし彼は明確に日本と蒋介石が手を結ぶことは無いと分析していた。「中国と日本はどうなっていくでしょうね。」「二つに一つです。日本が中国全土を占領して大勝利になるか、全てをなくして滅びるか。華北で小さな軍事行動を起こしても中国を目覚めさせるだけのことで、大衆行動が始まれば、日本はたちまち呑み込まれてしまう。だから日本の軍隊は、中国が総動員をかける力のないうちに大きな賭けを打ってしまおうとしています。もし日本が負ければ、国内の革命は必至です。そうすれば日本は朝鮮・中国と同盟を結んで、巨大な民主革命連合を作り、世界の政治勢力の中心は、ソビエト連邦を戦略的中心とする極東陣営に移るでしょう。イギリスはそのことに気づいています。」この本を通読すると、彼の視野の広さ、知識の正確さには納得をする。もちろん敗戦後の日本の運命は違っていた。日本の革命勢力の過大評価と、米国の過小評価があったと思われる。面白いのは、実際に日本は盧溝橋事件のあと短期決戦で勝負をつけようとしており、それに対する国民政府の蒋介石は充分に迎え撃つ戦略を持っていたのであるが、一介のの共産党員であるキム・サンですらそれに近い戦略を持っていたということだ。ただ一国、日本の知性が総動員されていたはずの大参謀本部はその認識を持つに至らなかった。充分に短期決戦で中国に勝てると踏んで戦争を起こし、勝てないとさらに踏み込み、そしてずるずると泥沼に入っていくのである。(このあたりの詳しいことは「日中戦争」の感想でまた書く)やがてキム・サン(これは偽名である。ついに彼はウェールズにも明かす事はなかった。)は、自らの波乱万丈の半生を語りだす。読んだらわかるがまさに波乱万丈である。彼は驚異的な記憶力で全てを語る。彼は多年にわたって暗号を用いた日記をつけており、それは定期的に破棄されたけれども、出来事を記憶するための良い手がかりとなってとこの細部まで思い出すのに苦労はしなかったようだ。話は1919年の朝鮮3.1独立運動、そして日本へ、そして満州へと移る。たった14歳の少年は革命を求めて旅をする。上海に移り、中国共産党に入党。二度の監獄体験、仲間の裏切り、幾つかの女性とのロマンス、‥‥‥その人生は出来ることなら読んでほしい。いつかでいいから。本は逃げはしない。タダ、私は少し、つまみ食いをして彼が見た1910年代の朝鮮、日本、1920-30年代の満州、中国を紹介したい。(次回)
2007年08月22日
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昨日の「ボルベール」では「女はこわい」と書いた私ですが、今日の「怪談」では、「女は怖い」といわせていただきます。昨日も書きましたが、「慾と愛憎さえ絡まなければ、女は女を裏切らない」反対に言えば、慾と愛憎、特に愛憎が入ってくると、いやあ怖い、恐ろしい。けれども、もっと恐ろしいのは「因果」なのでございます‥‥‥。監督 : 中田秀夫 原作 : 三遊亭円朝 出演 : 尾上菊之助 、 黒木瞳 、 井上真央 、 麻生久美子 、 木村多江 以下、私は決して粗筋は書かないが、読みようによっては決定的なネタバレになっているところあり。そういうのが嫌な方は以下は読まないように。原作の「真景累ヶ淵」はまるでオペラである。誰もがその題名や、豊志賀、新吉の名前くらいは聞いたことがあるのだが、誰も全体像を知らない。ましてや円朝の語りを全部聞こうとなると、一晩かかる。でも映画を見て一番思ったのは、これを落語家の本格語りで最初から最後まで聞いてみたいということだ。なるほど、これは確かに古典だ。日本的だ。どこの国もまねできない。原作は読んだことがないので、この映画にかぎって美点を拾ってみる。ひとつは呪いの仕掛けが非常に間接的であるということ。呪いの本体(宋悦)は最初に出てきたきりあとあと決して登場してこない、と言うことである。眉間の傷と鎌、そして累ヶ淵が最初から最後まで出てくる。映像ではほとんどの方は見えなかったかもしれないが、あの鎌の後ろにはほのかに宋悦の顔が‥‥‥、やはり見えませんでした。もうひとつ、「親の因果が子に報い」を絵に描いたような展開。まあ確かに浮気心の罪はあるのだけど、それでああいう風になったのではない。不幸は決して新吉や豊志賀のせいではない。超自然的な「因果」があるのである。もちろんキリスト教的な「罪」の意識とは無縁である。新吉は最後の最後まで罪の意識を持たずに死んでいっただろう。人は不幸が何故やってくるのか理由は知らない。この怪談を聞く私たちはその不幸(呪い)の源は貧乏侍の新佐江門が金貸し宋悦に金を返すのがいやで切り捨てたためだと知っている。「そうかこうやって不幸はやってくるのか」怪談を聞いた観客たちはそのように納得して小屋を出て、ふと自分の人生を思い、心胆寒からしめるのである。中田監督はそれに「愛のスパイス」や「大仰な立ち回り」をくっつけて、世界市場に売れる作品を作った。そのために真の怪談の色は薄れてはいる。私なら最後はこのように終わらす。新吉の子供は跡取り息子として大事に育てられた。ある日、池の傍で商売をする豊志賀の妹のお園に出会う。事故があってその子供の眉間の古傷から血が出てくる。その傷を介抱しながらお園の瞳は妖しく光るのであった。
2007年08月21日
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「女を殺す男は醜いが、男を殺す女は美しい」ということを誰が言ったか、というと私がでっち上げました。すみません。監督 : ペドロ・アルモドバル 出演 : ペネロペ・クルス 、 カルメン・マウラ 、 ロラ・ドゥエニャス 、 ブランカ・ポルティージョ 、 チュス・ランプレアヴェ 女は、という言い方をすると反発する人もいるとは思うが、女はいったん腹が据わると、まるで掃除や引越しをするみたいに死体を片付けるし、結果的に絶妙な嘘をつく。もちろん警察が動き出したならば、すぐにばれる嘘ではあるが、彼女にはそもそも動機がないのでおそらくばれないだろう。信頼関係もあるし。隣の男性に血のついた首筋を見られても、「女にはいろいろあるのよ」といって納得させてしまう!!男なら、計画殺人かプロの暗殺者でない限りは、あんなどうどうとした嘘はつけない。犯罪映画ではあるが、決してサスペンスでもなければ、罪と罰の物語でもない。スペインの原色の夏、ペネロペ・クルスが時に母親、時に娘、時に女を絶妙に演じる。女は女の悲しみを知っているのだろう。慾と愛憎さえ絡まなければ、女は女を裏切らない。男の監督はそれをおそらく知ったのだろう。男にとって新鮮な女を描いている。後味は悪くない。月並みな言葉が残る。「女はこわい」(このこわいは、「饅頭こわい」のこわいです。)
2007年08月20日
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最初のカタール米軍基地を襲う場面は、日本の怪獣映画を思い出してどきどきした。日本の映画のような気がしてならなかった。エイリアンはやってくるが、いいエイリアンと悪いエイリアンと分かれているところなんか、日本のマンガ雑誌と構造が似ている。大変楽しめました。子供だましだけど。監督・製作総指揮 : マイケル・ベイ 製作総指揮 : スティーブン・スピルバーグ 出演 : シャイア・ラブーフ 、 タイリース・ギブソン 、 ジョシュ・デュアメル 、 アンソニー・アンダーソン 、 ミーガン・フォックス
2007年08月19日
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私の記事がきっかけで品川正治さんの本を読んで、大感激したとコメントを頂いていたじゅんさんが、私のリクエストに応えていただいてブログを始められた。おかげで紹介しやすくなった。今は私に対するコメントをそのまま記事にしているけど、まとめて読むと「若いほとばしるような」気持ちが伝わってくる。そこで書いているが、なんと「ひとり九条の会」を立ち上げたという。一人からでもやれることはあると思う。それは自分にあった自分に出来ることを見つける以外にない。職場に「九条の会」を立ち上げました。って、私一人。ひとり九条の会。準備会もなし。いいんだ。まずは自分のため。発信する。小道具そろえた。品川正次著「財界人からの直言」20冊岩田行雄著「検証・憲法九条の誕生」20冊九条の会リーフレット100枚に、ポスター。あっちこっち、ポスターも貼ったぞ。憲法前文を写したプリント。徹夜で書き写した特大サイズで、「九条の会」アピール。壁紙を満開の花がらにしてやった。待合にズラッと並べる。待ち時間2時間は長いだろ?どうやら職場は病院らしい。こんなことが出来る権限を持っているんだろうか。その呼びかけ文書、最初は固い文を書いていたらしいが、「参謀」のアドバイスで「自分の言葉」に変えたらしい。これがなかなかいい。待ち時間二時間と言うから、多分受診者はじゅんさんと顔見知りなのだろう。じゅんさんの人柄がわかる。「情」がわかる言葉です。薔薇豪城さんは「二人九条の会」を作って、参議院候補者にアンケートを送ったし、現在6000の数の九条の会ですが、三万になれば世の中変わると、憲法共同センターの「参謀」川村俊夫も言っていた。「兎の子竹の子のように全国で九条の会をつくろう」と川村氏は言っている。じゅんさんの九条の会呼びかけ文わたし達の今の生活があるのは、九条のあるお陰です。生活は、九条が守っています。もし、九条がなくなったら、それこそ大変です。知ってますか?軍では、便器一個が200万えん!軍にお金使い出したら、医療費も、生活費も、教育費も、消えてしまいます。この数年、ダンダンそうなったでしょ?お年より無料だったのが、2割になり、(一部3割になった!)サラリーマンのひとだって、3割。これ以上、軍にかね使こたら、病気になっても病院にも行かれへん。戦前にもどった日には、モッと大変です。軍隊が海外に出て行ったかて、恨みを買うだけです。アジアで2000万人殺して、今でも恨まれてます。イラクでもそう、何の利益もありません。あんたら行け、言われて行ったら、命まで失うことになる。そやのに行け、言うヤツは、ゼッタイ自分では行けへん。自衛隊行け、いうて、ケシカケて、九条つぶそう言う人こそが、国賊です。わたしの情では、こうだ。病気や、怪我、直そうおもたら、わたしら手間と労力を、毎日、毎日、何年もかけてやる。ちょっとの病気でも、直すん、どんだけ大変か。なのに、戦争やられたら、爆弾一発で、そんな苦労は吹き飛ぶ。どんなに夜も寝んで修理したかて、追いつかへん。なおしても、なおしても、後から後から壊されたら、ヤッテられヘン。壊すのは、簡単や。一発で壊れる。全精力つぎ込んで、何年掛けて直しても、この程度や。だから、反対するねん。produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2007年08月19日
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「さるのつぶやき」さんから品川正治さんの記事が日経新聞に載ったというTBを頂いた。読んでみると、日経の記事は一生懸命書いてはいるが、なにせ短いので誤解を与えかねない文章にはなっている。書いていることは今までこのブログでも書いてきたことと大同小異。タダ、日本の勤め人の多くが読んでいる日経読者と品川さんの主張がどこで接点を持ちえるのか、考える上では興味深い記事であった。護憲の闘いは当然のことながら日経読者の大半を味方に引き入れなければならない闘いでもある。以下記事の紹介。「平和後退」に危機感元兵士・経済人の品川正治さん全国行脚不戦誓い、「敗戦」でなく「終戦」(日経新聞 2007.08.15.夕刊) 日本興亜損害保険(旧日本火災)の社長・会長を務め、現在は経済同友会終身幹事の品川正治さん(83)は、中国戦線で兵士の目線から戦争を見た数少ない経済人だ。迫撃砲で四発被弾し、一発は今も右ひざに残る。 品川さんは出版、講演、対談とあらゆる方法でメッセージを発し続ける。きっかけは、小泉純一郎前首相による米イラク戦争支持。「国民的議論もないまま、どこまでエスカレートするのか」。戦後日本が築き上げた平和が後退する、との危機感から「八十二歳で八十二回講演」を目標に掲げ、全国行脚した。 学生時代、戦時国家の国民としてどう死ぬのが正しいのかを常に考え、「死ぬ前にどうしても読みたい」と哲学者カントの著書を持ち歩いた。「戦争は天災のようなものと思っていた。しかし、戦争を起こすのも人間。止めるのも人間」 一九四四年に従軍し、中国大陸で終戦を迎えた。捕虜収容所で「敗戦」なのか「終戦」なのか大論争になった。品川さんは一つの文章をしたためた。「未来永劫(えいごう)、戦争はしない決意の表明として『終戦』と呼ぼう」と書いた。 愛国心を重視するよう教育基本法が改正された。自民党と経済団体は改憲で足並みをそろえている。憲法改正に向け国民投票法も制定された。政府の有識者懇談会が集団的自衛権を巡る議論を進めるなか、品川さんは現役経済人として、平和憲法を守ることを明言。「政府にもの申すことができなくなる」と、位階勲等を受けていない。 品川さんは「貧困や疫病など二十一世紀の課題には、平和憲法を持つ日本こそ貢献できる」と信じる。品川さんはますます意気軒高だ。先ずは記事で重要なのは見出しだ。「敗戦」ではなく「終戦」と言うのは、全く誤解を与える見出しだ。「敗戦」派の主張は負けを認めたうえですぐさま国力を蓄えて強兵をしようと言う捕虜兵士の考えなのだが、この記事ではわからない。けれども反戦派と反対のことをいっているぞ、とおやっと思わせる工夫はしている。「平和後退」に危機感と言うのが、結局日経読者と品川正二さんを結ぶ最大の書き方なのかもしれない、と思った。「きっかけは、小泉純一郎前首相による米イラク戦争支持。「国民的議論もないまま、どこまでエスカレートするのか」。戦後日本が築き上げた平和が後退する」と言うこの部分を日経新聞記者は読者が納得するところだと思って書いたのだろう。だとすれば、この部分はもっと宣伝するべきところなのかもしれない。議論もなしの後退どこの会社でもこれでは社員は納得しない。
2007年08月16日
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ribon5235さんが我がブログの300001番目を踏んでくれた。それを記念し、彼女からリクエストとを貰い、三題話を書きたいと思う。とはいっても、彼女の要望は「KUMAさんご自身のことが知りたいのですが。」である。困った。けれども要望には応えないとけいない。コメントにも書きましたが、私自身のことは今まであまり書かないことにしていました。これは「私の美意識」です。けれどもたくさんの読者がいることだし、いつまでも謎の人物エックスではいられないと思い、自らの平凡さをさらけ出すべきだと思い、思い切って書きます。三題は「私の歴史」「影響された本」「趣味」ということにしておきます。「私の歴史」とはいっても、あまりプライベートなことは詳細にはかけない。10年ごとに記述してみます。1960年。日米安保条約の改訂で国会だけではない、日本中が騒然としていた頃、水島工業団地の労働者の二男として生まれる。1970年。「人類の進歩と調和」の大阪万博があった。その頃、家の近くの寄り合いで、市議会議員候補が来て、水島の煤煙公害について話したのをなぜか覚えている。あとで私はひどく心配になって兄にこう話した。「ねえ、まだこの家の周りは公害地帯じゃないけど、やがてはここもそうなるんだって。そうなったら、引越しをして北の方に移らないといけないのかなあ。」水島公害訴訟はそのあと30年近く経ってやっと勝利する。そのことに私は最初から最後まで関係はしていない。ならば何故そのことを書くのかと言うと、一方で薔薇色の未来を讃える万博があり、一方で世界(我が家)を破壊する公害がある。そのように10歳の私にとって未来は二つの貌を持っていたし、そのことを自覚していたということを書きたかったからである。話が長くなった。あとは端折る。1980年。私はとある西日本の元国立二期校の大学にいた。そこで新聞会という自治会組織の体裁を持った大学新聞のサークルに入る。(要は新入生から自治会費をぼったくって、財政は気にせず新聞を作っていた。今は消滅しているらしい。)ここが人生の分かれ目だったのかもしれない。後で述べる。1990年。肉親や親類の死に次々と出遭ったのがこの頃。(祖母、母親、叔父、伯母)一方世界は大きくページをめくった。日本も大きく変わるが、日本自らは変えていないというのは1945年のときと同じ。2000年。労働組合の中執は10年以上していた。財界の経営戦略は次々と実を結び、職場には不況による閉塞感と労働強化が蔓延していた。プライベートでも主観的に大きな出来事があり、二年腑抜けの生活を送る。退職を考え始める。2005年。4月、退職をする。扶養家族がいなかったから決断できたことではある。5月ブログ「再出発日記」を始める。職は次回で三回目の転職になる。賃金はともかくも、自分に対して不本意な仕事はしていないので、今のところは満足。「影響を受けた本」新聞会時代、人生に大きな影響を受けた三冊の本に出会った。一冊は本多勝一「事実とは何か」。これについてはすでに書いた。私の旅行記や、多数の記事で「主観的事実」のみを書いて主観的感情を書かない(ことが多い)のは、この本の影響と新聞会で鍛えられたためである。もう一冊は「ものの見方考え方」(文理書院 高橋庄治著)である。有名ではないと思う。けれども大学に入ると先ずは直面する切実な問題に応える本である。それは「あなたは唯物論の立場に立つのか。観念論の立場に立つのか。」つまり「宗教を信じるか否か。」という問いに誠実に取り組んだ本だった。私はこの本をじっくりと読み、唯物論の立場に立った。しかしそれは真実を知ったということではない。それは決意であり、覚悟なのだ。ものの見方の基礎をどこに置くか、それが定まったことは私にとっては大きかった。もちろん時々ぶれはある。観念論で考えていたなあ、と言うことはある。そのときは反省するしかない。もう一冊は「日本文学史序説」(筑摩書房 加藤周一)である。この頃、ちょうど下巻が刊行された。この前知人から私のブログでの映画評の感想をメールで頂いた。「内容よりもくまさんの文章の癖が目に留まりました。加藤周一節なのです。これは褒め言葉ですよ。」もちろん本望だ。一方ではいつかは加藤を超えてやる、という気持ちもある。加藤についてはこれから何度も書くと思う。「趣味」について。映画と本と旅、考古学が私の趣味です。その詳細はブログ全体がそうです。終わり。‥‥‥と言うのでは色気がない。で、あと少しだけ。これらの趣味は一見ばらばらのようだけど、私の中では地下茎できちんと繋がっている。どのように繋がっているか。実は全ての趣味のベクトルは平和に向かっているのです。趣味で得たことの全ては、平和な世界の設計図を作るための伝説であり、知識であり、世界であり、歴史であるのです。未来は二つの貌を持っている。出来ることなら薔薇色の未来に住みたいものだ。それは待っていれば来るというものではないということだけは確かである。
2007年08月15日
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全ては如月ミキのために。監督 : 佐藤祐市 原作・脚本 : 古沢良太 出演 : 小栗旬 、 ユースケ・サンタマリア 、 小出恵介 、 塚地武雅 、 香川照之 二転三転四転ぐらいまでの展開ならほぼ予想することが出来た。新聞評などの予備知識があったからである。(朝日の映画評はある意味、最悪のネタ晴らしだった。何しろあの文章を読む限りではこの作品は○○で終わっているとしか思えないからである。)たいてい私は「意外な展開」の直前ぐらいには気がついて大いに受けていたのだが、五転のときに、隣のおじさんがぼそっと私より先に真相を呟いたのがショックだった。この赤の他人の隣のおじさんとは、同じところで大いに受けるところもあったのであるが、基本的にはビミョーに受ける場面がずれていて、なんか妙な親近感と同時に対抗心を沸かせていたのである。あとで思えば、これが"おたく"というもののビミョーな心理なのかもしれない。初めて小栗旬をいい役者だと感じた。香川照之が素晴らしいのは言うまでもない。その後六転七転八転九転までいきかけて終わる。"おたく"といえば、変質者か犯罪者だとでも思っているような方にはぜひ観ていただきたい。見事な"おたく"賛歌映画である。今年のコメディ映画(とあえていう)の大傑作ではある。追加如月ミキをやった役者のブログを見つけた。http://www.rams.jp/kana/cgi/blog/映画を見たあと、このブログの天然B級アイドルそのままを読むと、おおー!となった。
2007年08月14日
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「どうして原爆は落ちたんじゃ!」「違うよ‥‥‥原爆は落ちたんじゃなくて、落とされたんよ。」監督・脚本 : 佐々部清 原作 : こうの史代 出演 : 田中麗奈 、 麻生久美子 、 吉沢悠 、 中越典子 、 伊崎充則 、 金井勇太 、 藤村志保 、 堺正章 8月5日、広島市商店街の中にあるシネサロン2で「夕凪の街桜の国」を観た。広島では全国に先駆けて先行上映している。19:00日曜日の最終回。客の入りは20人ほど。約二割の入りだろうか。ご当地広島、この時期にしては思ったより少ない。以前「父と暮らせば」をやはりこの時期に広島で見たときには満員だった。何故満員ではないのか。理由は二つあると思われる。ひとつは被爆死を淡々と描いているため、とりわけ涙を誘うようには作られていないために大衆受けは出来ないということ。広島の問題を日常的に捉えるという原作を尊重しているためで、好感がもてる。旧大田川沿いにあったという原爆スラム。銭湯ではケロイドにただれた人が通う。誰もが見てみぬふりをする。自らもケロイドを持ちながら、日常的な会話をする母子の姿が哀しい。ひとつはそれでも三代にわたる原爆症の恐怖、理不尽を描くのが原作の持ち味だったはずだ。しかし映画にその「理不尽」は現れない。原爆症の恐怖も世間の理不尽も、マンガならコマとコマの間からひたひたと迫ってくるのに、映画では迫ってこない。淡々と描きすぎているのだ。ここは淡々と描くべきところではない。広島の観客はもっとも厳しい観客である。広島の観客に刃を突きつけるような映像がほしかった。しかし職人監督の佐々部清は真面目に一生懸命作っていると思う。それは評価していい。この記事の冒頭の言葉は、原爆症に苦しむ皆実に対して弟が見かねて天を恨むつもりで言った言葉であるが、姉はそれについて原爆の本質を一言で言う。あるいは皆実に恋人が言う一言にもぐっと来る。ケロイドを持った地蔵のそばに立っていた木は戦後大木に育っていた。その場面は原爆ドームより北に歩いて空鞘橋を渡ったところにある木がそれである。ちようど座りやすいこぶが出来ていて、映画を見た次の日にしばらくそこで本を読んだ。水上タクシーが川べりを流れ、皆実の生まれ変わりのような痩せた雀が傍を寄り添った。この映画を見た日、原水禁大会の青年集会である青年が訴えた。「私たちは一昨年被爆60周年と言うことで証言者活動をし、参加者に一定の感動を与えました。しかし、60周年はあっても70周年はない。被爆者は次々と高齢化しており、体調的にも次があるとは思えない。単に「継承」といっていてはダメだ。継承を深化させなくては。私たちにはもう時間はあまりない。」この20年は被爆者が次々と現れる20年だった。子供の結婚就職のために黙っていた被爆者がもう言ってもいいだろう、ということで言葉を発し始めたのである。しかし一分一秒を争う。国は今からでも原爆訴訟で認定された「被爆者が原爆症である」という決定に対する上告を取り下げるべきである。追記この記事に関していえば、上に書いたことは独りよがりな記事でした。お詫びします。この下のコメント欄を、特に広島市民がこの映画を見た感想を書いているコメントをお読みください。この映画の思いは、実にストレートに伝わっているようです。
2007年08月13日
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8月6日、朝起きると雷雨だった。この日の強い雨は十数年ぶりだという。何故この年なのか。やはり久間発言や「靖国」派首相の登場が起こしたのか、それともこれから暑くなる日に打ち水をしたのか。怒雨か慈雨か。祈念式典の一時間前にはすっかり止んでいた。会場は式典を囲んでものすごい人。少しづつ回りこんでやっとベストに近いポジションである式典の南側に入り込む。市役所の職員だろうか、真面目な顔をして警備。ご苦労様です。8:15黙祷。市長の「広島宣言」、子供たちの「平和への誓い」、首相の「あいさつ」(新聞には決意表明と書いているところがあるが、パンフには確かにこう書いている。)についてはいろんな人が言及しているのでここでは省略。何千という鳩が一斉に飛ぶ。しばらく公園の周りをまとまって旋回し、やがてめいめいに家路に向かった。この日は用心のためにコンビニで傘を買って一日中持ち歩いたがとうとう一度も差さずに帰路の電車に置き忘れた。 式典パンフの中には金色の折り紙が入っていて、「平和への祈りをこめて折鶴を折ってみませんか」と日英語併記の説明書も入っていた。式典が終わるといろんなところで立ち止まり、いろんな人が折鶴を折りだす。意外なのは、老人の男性が奥さんに教えてもらいながら折っている場面が多かったこと。外国の方は時間をかけて一生懸命に折る。そのうちの二組を写真で紹介しました。私も折りました。一回目があまりにも不細工だったので、結局三回チャレンジしましたが、満足なものは出来ませんでした。 中学生、高校生、若者が一斉にアンケート聞き取りを始めていた。外国人に突撃。おばあちゃんには被爆体験なのだろうか。 慰霊碑には銘々が一本の花を持ち、長い行列が出来ていた。平和の子の像の隣では、佐々木禎子の物語の紙芝居をしていた。橋の上ではチャーリーがきゅうちゃんを持って「憲法九条って知っている?」。高校生は一万人署名運動。その他いろんな署名が展開されていた。 この写真は何を写しているのだと思います?雀です。最初は5日昼の平和公園内で。次は6日昼前、「夕凪の街桜の国」のロケで使われた旧大田川の川沿いの一本の大木の下で。私にとっては初めての経験なのだが、どちらも痩せていて力がなかったのか、近づいても全然逃げないのである。まさか原爆症?ご飯粒などをあげたりすると、一生懸命食べていました。油の揚げ物はダメですね(^_^;) 午後から原水協の世界大会に参加。途中、秋葉広島市長がやってきて特別報告をした。「広島宣言」では言い切れなかったことを、ストレス発散でここで言い切ったという感じがした。「(しょうがない発言は)どんな理由があろうとも決して許されるものではありません」「核兵器廃絶は環境問題や貧困の解消と比べると、もっとも簡単な課題です。なぜならば、世界中のほとんどの人が核兵器をなくしたいと考えている。核兵器を必要としているのは、一部指導者の時代遅れの考えを持った人たちだけだからです。」これですっかり秋葉マイラブです(^^)。中国新聞を捜していると、「閣僚全員が被爆の実相を学ぶとともに、核兵器廃絶に努力することを求めて政府に要望した。」 という記事(7/5)があった。久間発言に対しても市長としてきちんと態度表明をしています。集会が終わって帰る途中、面白いデモ行進に逢った。女の人三人が高下駄をはいて先頭近くを歩いている。まるで巨人がデモを先導しているように見えて、よく目立つ。一人の人と手を繋いではいたが、立派に歩いていた。相当練習したのだろうか。このアイディアちっょと頂きたい。女性が乗っているところがいいですね。
2007年08月11日
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皆さんのサポートのおかげで今日2007-08-09 09:35:22めでたく30万アクセスを達成することが出来ました。と、いうわけで花火。(昨晩の岡山納涼花火)決して文章書くのが、得意なわけではなく、皆さんご存知の通り、文法的におかしいところや、変換間違い誤記はしょっちゅうだし、事実誤認も時々あります。改めて申し訳ありませんでした。ただ、文章を書くのは好きなんだろうと思います。それから、書きたいことが山ほどある。手塚治虫じやないけど、書くネタならバーゲンセールをするほどある。一方で、ものすごい遅筆なんです。(本当です)だから半年以上温めて腐りかけているネタなんかもあります。中江兆民ネタや加藤周一ネタ安倍首相の所信表明演説ネタなんか腐りかけているし、去年の韓国旅行ネタは早く完結しなくちゃ。それでも書けているのは、この半年前くらいからなぜか毎日500アクセス前後に増えて、それが励みになっているからです。コメントやTBをしてくださった方、本当に有難うございます。この機に、時々コメントを頂く方に(たくさん頂く方も)楽天リンクを貼らしていただきます。いって挨拶することはありませんが、よろしくお願いします。約束通り、30万アクセスを踏んだ方には三題話をプレゼントしたいと思います。踏んだ方はぜひともこれから24時間以内に名乗り出て下さい。もし居なかったら、300001番をふんだribon5235さんに自動的に権利が引き継がれます。よろしくお願いします。ちょっと初めてデザイン変えてみました。(熊つながりです)文字が見難い等の意見があったらお願いします。今日は忙しいので、ヒロシマの最終話は明日。
2007年08月09日
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被爆したアオギリがあった。横山秀夫が書いた沼田鈴子の伝記「平和の芽」で彼女が「私のように原爆でこんなにも傷ついて、けれども傷口を包み込むように成長を続けている。」と励まされたまさにその木です。確かにケロイドのようになった傷を表皮が包み込むようにしている。次の写真。公園の南口の辺りに平和記念ポストがあった。なんと昭和27年設置。郵政職員たちの亡くなった仲間をしのびながらの祈りのポストである。 久しぶりに平和資料館に入る。リニューアルオープンしてから二回目の入館。旧資料館と比べると約二倍の展示になり、前半は一般的な核兵器と広島の町の説明。旧市街が精密に復元されている。この資料館は外国の博物館のように、フラッシュのみが禁止されていて、カメラはOKになっている。この辺りも国際的である。全体的に世界に発信しようとする意図が良く見える。後半は一挙に被爆の実相に移る。熱、風、そして放射能。「夕凪の街桜の国」で主人公の女友達が初めてこの資料館を見てはいてしまうのもよくわかる。 外国の人たちも多い。ボランティアの英語説明員も多い。外国の夫婦がぴったり寄り添って展示物を見ていた。最後の展示は「祈り」がテーマ。世界的に有名な佐々木禎子の展示。葬儀のときに友達の配ったという禎子が折った折鶴が展示されていた。色紙ではない。模様のついた小さな紙に折っているのだ。美しい。そして小さいくてよく折れたな、と感心する。 そのあと青年集会で、前記事にしたきゅうちゃんという「折りはと」をきっかけにして九条を訴えて全国を自転車で回っているチャールズ・ワードさんに会う。彼は時間を見つけてはきゅうちゃんを折っていた。彼のホームページはここ。私たちは普通署名などで道を歩く人に憲法九条って知っていますか?と聞いても、無視されてそそくさと去っていってしまうのが99%だと思う。彼の場合はそれの確立が非常に低いらしい。なぜか。まずはきゅうちゃんを見せるのだそうだ。そして言う。実際に道端でやっているのを見せてもらったが、普通の女の人が立ち止まってなんと話を聞きだすのである。「なんで“きゅうちゃん”っていうか知ってる?それは日本の憲法9条の“9”からつけられた名前なんだよ。じゃあ、憲法9条はどんなこと言ってるか知ってる?それは“日本は永久に戦争をしないって誓ってそれを世界に宣言した”ことについて言っているんだよ。でも、その憲法9条が変わっちゃうかもしれないって知ってた?ほんとだよ。保守派って呼ばれる人たちがそれを変えたいって思ってるんだ。でも、もしそれが本当に変わってしまったら、日本は“アメリカといっしょに”戦争に参加してもいいってことになっちゃうんだ。それについてどう思う?」先ずは相手に興味を持ってもらう。そのためのきゅうちゃんなのである。折鶴に似ているが、羽がばたばた羽ばたくところが特徴ではある。話を聞くのは、彼がイケメンの外国人だらだと思ってはいけない。彼の言から学ぶところは多いはずだ。彼はいまや憲法九条を訴えることだけで生活をしている。一個100円のきゅうちゃんセットを売ることでなんと生活出来ているらしい。びっくり栗丸。くわしくはここさて、青年集会ではほかには名古屋の南医療生協の「ピーススマイル2007」の経験も聞いた。去年は10万の折鶴で巨大なタペストリーを作ったらしいが、今年は2007人の笑顔をデジタルカメラで撮ってそれを写真にあるような横断幕に貼り付けた。デジタル加工してアイロンで布に貼ると割りと簡単に出来るらしい。一人ひとりの人間の「数」を実感してもらおうという取り組みらしい。これも頂くことが出来るアイディアではある。 白い夾竹桃が資料館の南に咲いていた。その南に広島高等女学校原爆慰霊碑がある。建物疎開作業中ここで676人が死んだらしい。慰霊碑を作ったのがまだ占領期間中だったということで、碑中央の少女が持つ箱には「原爆」と言う文字が使えずエネルギーを現す「E=MC(Cの文字は二乗)」が書かれてある。 商店街を歩く。小学生の絵画のタペストリーが飾られている。いかにも平和の街らしい飾りだ。商店街を行くデモ行進があった。ずーと歌を歌っている。キリスト教徒の行進であった。
2007年08月08日
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原水禁世界大会国際会議のことについてはすでに書いた。びっくりしたのは、国際会議の持ち方である。トランシーバーが全ての席に用意されていて、チャンネルが二つあり、日本語と英語の同時通訳が聞けるようになっている。それど、用意されている発言はほぼ全てペーパーが用意されている。日本語と英語の両方である。よって、非常に効率よく、会議が進むし、それぞれの発言の理解も高い。しかし、ここで発言をあまり紹介しない。この記事の目的はビジュアル性を目的としているからである。タダ、浅井基文さんの発言はいつもながら鋭いと思いました。発言の中で分析していましたが、HPのコラムを紹介することでその内容を紹介したい。久間防衛相の原爆投下容認発言の重大性それとアメリカの原爆投下責任を正面から問い直そうである。そこでこのように浅井氏は述べている。「久間氏は将来においても、目的如何によっては核兵器の使用が認められる場合がある、と認識しているということです。」「私は、日本政府の核に関する二重基準の政策(アメリカの「核の傘」に入りながら、非核三原則をいう矛盾を極める政策)を許してきた日本国民の一大覚醒を求めます。」もうひとり発言で紹介しておきたいのは、写真に通訳者と一緒に登壇している韓国原爆被害者協会のジョ・チャングンさんです。現在在韓被爆者は2650名登録されているが、そのうち被爆者手帳がもらえずにいる人が232名いるそうだ。ジョさんも手帳をもらう手続くに自費で日本に来たそうだが、申請にかかった時間はたったの5分。そのために払った旅費は10万二泊三日の時間が必要であった。該当公務員がどうして韓国に出張するという形で、対面確認を行い、手続きをしてくれないのか。と訴えています。また、医療費補助も13万と言う上限がある。自己負担を強いられている手帳保持者が少なからずあるという。 会場から歩いて10分のところに平和公園がある。公園の中西側に「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」がある。川のむこうに建っていたのを近年公園内に移設したらしい。当時、二万人の韓国人が犠牲になったという。その碑のすぐそばには、原爆供養塔がある。数万柱の遺骨がこの中に眠っている。親戚なのだろうか。4日の昼であったのだが、初老の夫婦が熱心に拝んでいた。 少し足を延ばして大田川の西側、本川小学校平和資料館に行ってみる。爆心地から380メートルしか離れていなかった小学校。10名の教師、400名の児童の命が一瞬にして奪われた。わずかに残った校舎(これでも三階建てだったらしい)が資料館として開放されている。もうひとつの写真はやっと家が建ち始めた頃の小学校での遊戯風景。児童の手足は痩せていて、服もぼろぼろである。けれども楽しそうだ。遠くに原爆ドームが見える。 その原爆ドーム。真夏の光を浴びて黒く立ち上がる。ドームから川をわたる正面にレストハウスがあるが、これも知られざる被爆遺跡。10年ほど前に老朽化して取り壊す話があったが、市民運動の盛り上がりで中止になった。いかに素敵な市長を抱えていても、行政はそのようにすぐに「整理」にかかる。市民は常に監視していないと、とんでもないことになるという例。 広島平和記念資料館の近くに「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」と言うものがある。国立とはついているが、中味は全くの空っぽ。丸い円形状の建物の地下に空っぽの空間がある。追悼の場所らしい。遺族者の名前は備え付けのパソコンで調べる。全く電子で名前を残そうという発想自体がついていけない。一方、その次の碑は灰燼に帰した天神長の生き残った人たちが戦後まもなく作った碑である。石の中に、家族ごとに一人ひとりの名前が記されている。名前は石に刻まれて初めて意思として残るのかもしれない。住人たちが作った碑の銘文も名文である。読むことが出来るように少し大きくして載せる。
2007年08月07日
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早朝、広島平和公園に降った強い雨は、原爆に遭い死んだ人たちを慰める慈雨だったのか。それとも「しようがない」発言に怒り再び戦争が出来る国造りをすすめる首相の来広にNOを突き付ける拳の雨だったのか。ゆっくりと祈念式典を見させて頂きました。祈念式典パンフのなかに一枚づつ折り紙があって、外国の方が教えられながら、老人も奥さんに教えてもらいながら、若い人が立ち止まり一心不乱に折っている姿が印象的でした。資料館で禎子の折り鶴をみました。なんて小さい!なんて綺麗な!
2007年08月06日
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ホテルの一階のフリーパソコンを使っているので時間がありません。昨日今日の国際会議で、印象に残ったことなどを羅列します。写真を交えた補足的な報告や、広島の風景や、その他もろもろのことは又帰ってから書きたいと思いますが、印象の強い時に書くほうが案外本質的なこともかけそうな気がします。と、言うわけでコメントに対する返事やTB返しは後でということになります。ご了承ください。国際会議の課題原水禁世界大会の国際会議にはじめて参加しました。日本平和大会と比べ物にならないほど、多くの国が参加していて、びっくりしました。19カ国、33団体、5国際団体、計107名も参加しているのです。(韓国が多い。38名。)A Nuciear Weapon-Free ,Peaceful and Just World(核兵器のない平和で公正な世界を)をメインテーマにしています。何回も出てくる話題は、不調に終わった2005年のNPT再検討会議の轍を踏まない様、今度の2010年の再検討会議で『核兵器廃絶』を具体化できるよう、参加団体の意思統一を図っているようです。もう一つは日本の憲法九条を守る戦いを参加団体全員の課題にするということです。沢田昭二主催者挨拶の中「日本の憲法九条を守る戦いは、アメリカの世界戦略に沿った危険な「世界における日米軍事同盟」の形成を許さないたたかいです。同時に、諸国民相互の構成と信義を深め合い、有効と協力を強めあうことによよって自らの安全を確保することを世界に広げる運動でもあります。憲法九条を守ることは、アジアはもちろん、平和な世界を実現する重要な鍵になります。」といい、盛大な拍手を浴びました。アメリカ等大国の横暴、二重基準にたいするたたかいは参加団体起用通の課題でもあるのです。運動の作り方どうしたら、それと戦っていけるか、各国団体が色々述べたのですが、私は国際平和ビューロー会長のトマス・マグヌスンの言葉が大変印象に残りました。彼は成果を得るのは基本的に三つのことが必要だといいます。事実をきちんと伝えること。世論の支持が必要であること。戦略を持つということです。特に世論。「世論の動員にいつも十分成功しているとはいえません。」「大衆の叫びは嵐のようだ。しかし誰も嵐を恐れる必要はない。」「権力を持ち、核政策を擁護する男女にとって本当に恐ろしいのは、やむことのない風である。」「私たちは、大国に、核兵器保有国に、国連に、又この問題の議論が可能なあらゆる機関に、メッセージを伝えなければいけません。」「わたしたちは、貿易風や季節風、南西風のように吹き続け、核廃絶を要求しなければなりません。そして大衆世論は私たちに味方するでしょう。」戦略は何か。DC方式を採用したらどうか。Dは『多様性Diversity』Cは『集中Concentration』です。多様性のある活動をするということ。参加団体は皆いろんな活動を抱えた多様性のある団体です。そしてこの三年間に集中的に世界サミットを開催する。これは対人地雷禁止条約が実現した時の戦略らしい。この世論の動かし方、戦略の持ち方、いずれも他のことでも使えそうだ。韓国九条の会もう一つ面白かったのは、韓国の平和団体の報告である。今年5月ソウル大学で「反戦反核平和・東アジア国際会議」が開かれたらしい。日本からも100名近く参加し、大きな進展があった。ソウルでは根強く、核兵器容認の空気がある。日本の広島長崎の核の実相はほとんど知られていない。そういう意味では貴重な会議だったらしい。これを機に会議参加の勧告活動家を中心に「日本の平和憲法を九条を東アジアの憲法に!」を掲げる「日本平和憲法をともに守る韓国市民の会」(略称「韓国九条の会」)が発足したらしい。大変面白い。HP見ても良くわからなかった。後でゆっくり見てみたい。と、言うことで時間が来ました。印象に残ったのは、今のところこんなところです。
2007年08月04日
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昨日は怒涛の映画評三件(「魔笛」「憑神」「ツォツィ」)をアップした。そんなに急いでどこに行く。今日はこれから原水爆禁止世界大会の国際会議と広島大会に行ってくるので、帰ってくるのが、6日になります。それで急いでいました。とりあえず劇場で見た作品はこれで全部アップしたぞ。途中でもしかしたら携帯で速報をするかもしれないけど、実は気になることがひとつある。この四日間の間に30万アクセスを達成するかもしれないということ。ピッタシかんかん賞(古い!)には、例のごとく三題話をプレゼントしたいのだけど、その日に自宅にいないと確認できないかもしれない。あと約2000アクセスだから大丈夫だとは思うのだけど。出来ることなら、30万踏んだ人は自ら名乗り出てください。お願いします。予想では、30万アクセス達成は7日深夜です‥‥‥と書いて(急いでいのですが)でかけようとしたら、まだ4000近くあるのに気がついた。何を勘違いしていたのだろう。大丈夫です。しばらくは達成はありません。
2007年08月03日
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"不良"(ツォツィ)と呼ばれる少年(19歳くらいか?)が、おそらく初めての殺人を犯す。南アフリカの首都の郊外。少年が本物のマフィアになろうとする直後に「赤ん坊」に出会う。後はご想像の通り。監督・脚本 : ギャヴィン・フッド 原作 : アソル・フガード 出演 : プレスリー・チュエニヤハエ 、 ZOLA 、 テリー・ペート この映画のいいところはそのような話の筋ではない。この映画では最近のアフリカ映画のように「雄大なアフリカの自然」は出てこない。東京によく似たネオン街と、その直ぐ近くに広大に広がるスラム街。そのスラム街の直ぐそばにある孤児たちのすむ土管の家。いろんな立場の人たちが、ツォツィと赤ん坊を軸に、いやおうなく結びつく。白人の刑事、黒人の富裕層、鉱山で障害者になった物乞いの老人、仕立てで生計を取る赤ん坊を抱える寡婦、チンピラ、貧しくて学業をあきらめた青年。結局、南アフリカのひとつの「現実」を、それでも平和で裕福な日本の一地方都市に居ながらにして見ることが出来る。この映画の一番の価値はここだろう。
2007年08月02日
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活動写真として映画が始まる。白黒の雨が流れる映像からしだいらカラー映像に切り替わって話が始まる。つまりこの作品はリアル性を放棄し、語り部によってひと時の娯楽と教訓を伝えようとしてるのだ、と宣言をしているのである。現在の貧困にきちんと相対して逃げるな、精一杯生きろ、とおっしゃっている。そのメッセージ自体はいい。監督 : 降旗康男 原作 : 浅田次郎 撮影 : 木村大作 出演 : 妻夫木聡 、 夏木マリ 、 赤井英和 、 香川照之 、 西田敏行 タダ、私は原作者が嫌いだ。「鉄道員」の降旗康男だから万が一を思って見に行ったのだが、ダメだった。私はこの原作者のファンタジーを借りた説教くささが大嫌いだ。なんか、頭の上からこんなテーマですよ、といわれているような気がする。残念なことに邦画を見ていると、この人の原作が多すぎる。去年でも「椿山課長の四日間」「地下鉄に乗って」がある。この人の作品で唯一良かったのは、「鉄道員(ぽっぽや)」と邦画ではなく韓国版「ラブレター」の「パイラン」だけだ。両作とも結局主演男優に助けられていた。高倉健とチェ・ミンスクである。二人の存在感があまりにも凄かったために、いわゆるあざといはずの泣かせの場面があざとく見えなかった。それ以外は全ダメ。そしてこの作品も例外ではなかった。もう二度とこの人の原作の作品は見ないぞ、と心に誓うのであった。
2007年08月02日
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モーツァルトの「魔笛」のオープニングの曲に合わせ、俯瞰映像から個別の映像へ、やがて俯瞰映像へ移っていくオープニングが素晴らしい。太陽の光から春の野原、スミレに移り、その花を摘んだ男の手が塹壕に入る。時代と場所は第一次世界大戦のある戦場だと分かる。塹壕を走り回る兵士、塹壕の端で将軍が車から降り戦闘の合図をする。雲の合間から旧式の戦闘機が姿を現し、俯瞰映像に、そして戦場では一人一人の兵士の突撃場面へ。人が次々と倒れていく。監督・脚本 : ケネス・ブラナー 音楽 : ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 出演 : ジョセフ・カイザー 、 エイミー・カーソン 、 ルネ・バーベ 、 リューボフ・ペドロヴァ 、 ベンジャミン・デイ・デイビス 二時間弱。オペラ「魔笛」をほぼ丸々聴くことになる。(すみません。音楽はからしき知らないので全て聞いたのかどうかは不明。)なによりもモーツァルトのこの曲が素晴らしい。なかなかこの曲の全体像を聴くことが無いので、「そうか、この有名な旋律はこのように繋がっているのか」と感心することしきり。構成には感心するところと退屈なところがあった。うまいこと、戦争映画にこの「魔笛」を移し変えているところもあった。一方、じっくり歌を聴かせたいと言う意図なのか、背景もあまり変わらず、ひとりの歌をずーと画面に載せている場面もあった。歌自体が素晴らしいのかどうか、よく分からないのでそこは退屈。ミュージカル映画とは違う。オペラという曲重視の演劇に映画をくっつけたこの試み、とりあえずほとんど退屈はしなかったので成功しているのではないか。決定版というほどではないかもしれない。次回作に傑作が待っている、ということで楽しみは増えたかも。映画は戦争と平和という問題を真ん中において、最後は平和をたたえる、という風に終わるのではある。うーむ、意図はよく分かるし、タミーノは「平和のためよりも愛のために僕は行く」と答える所なんかなかなか意味深ではあるのだが、最後の試練の洪水があまりにも局地的な試練であってイマイチだったりしてのめりこめない。モーツァルトに「戦争と平和」を託そうという試み自体が無理なのではないかと思う。モーツァルトはそんな男ではない。人間の「自由」を主題としたところで光り輝く人なのではないかと思う。それを証拠に魅力的だったパートは、夜の女王の場面だったり、パパゲーノとパパゲーナの小鳥のような求愛場面だったりする。
2007年08月02日
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キャスト トニー・レオン 金城武 スー・チー シュー・ジンレイ 監督 アンドリュー・ラウこれは明らかに香港版ハードボイルドだろう。過去の事件が元で刑事をやめてしまった酔いどれ私立探偵に、昔の仲間が絡み仕事が舞い込む。事件は解決する。けれども探偵はそれを喜ばない。映画にするには、二人の演技合戦が見もので無ければならない。しかし火花を散らすような演技合戦にはならなかった。トニーレオンの無表情は仕方ない。ふと見せる人間味も出来るだけ抑えている。あれはあれでひとつのやり方だろうと思う。金城武にはがっかりした。ストーリーに食われてしまって語り部以外の何者でもない。それではハードボイルドにならない。音響は必要以上に強弱を強調しすぎ。ドラマ性をそれで高めようとしている。あざとい。映像が素晴らしかったぶん残念だ。ハリウッドがリメイク権を買った。これに関しては賛成したい。なんといってもハードボイルドを生んだ土地でもう一度作ってもらいたい。
2007年08月01日
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「父ちゃん、おれ人間の友達が出来てしまったダヨ」「河童のクゥと夏休み」監督・脚本 : 原恵一 原作 : 木暮正夫 声の出演 : 田中直樹 、 西田尚美 、 なぎら健壱 、 ゴリ(ガレッジセール) 、 冨澤風斗 「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」の原恵一監督の作品だと聞き、何はともあれ、見てみた。上手い。脚本が大事なこととアニメの出来ること、両方を良く知っている。やはり泣かされた。決してメロドラマの涙ではない。大切なことを気づかせてくれた感謝の涙なのである。ファンタジーのひとつのアプローチの仕方だろうと思う。河童の存在意外は、全て人間社会の反応がリアル。家族の反応。学校の友達の反応。マスコミの反応。テレビを見た人たちの反応。まるでどこかで見た景色。そうだ、「ど根性大根」とか「たまちゃん」とか、どうして日本ではマスコミの反応や視聴者の反応はこうもステレオタイプなのか。これ以外はありえないのかよ。と、思うくらいみんな同じ反応をする。そんなこともこの映画を見た子供たちは気がついてほしい。気がついたら、もうこんなバカ番組は見ないようにしてほしい。映像は素晴らしかった。背景のリアルさ。色処理の美しさ。動画の的確さ。顔の表情の細やかさ。そして河童が川を泳ぐときのスピード感。どれもとてつも無くずば抜けてはいないけれど、日本アニメの技術の到達点を示している。家族で見てもいいし、ひとりで見に行って思いっきり泣いてもいい。日本にはまだ、妖怪の棲める隙間のような世界が、少しだけ残っている。空間的にも、心の中にも。そんなことに気づかせてくれる映画である。
2007年08月01日
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