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今年も終わろうとしています。本の感想の前に、この間のお休みのお詫びとお知らせを先ずしたい。私的なことで、しばらくの間、PCの前に座る時間(特に夜中)がほとんどなくなりました。それが一ヶ月になるのか、三ヶ月になるのか全く分りません。しばらくは記事製作が極端に減ると思いますが、ご了承ください。連歌はします。もちろん。それから、完全休業はいたしません。楽天でのやり取りが、今までもこれからも、貴重な息抜きになるからです。来年もよろしくお願いします。本当は今年の映画の総括やらなんや、しなくちゃならないのだけど、時間が取れませんでした。総括といえば、今年はひとつの大きな闘いがありました。参院選。あの闘い、カネも情報も、自民党の方が有利だったはず。けれども、野党が勝った。悪法の度重なる強行採決、カネをめぐる違法と嘘とごまかし、とくに5000万件の中に浮いた年金、長い不況と格差拡大が、与党にいつもの方程式を許さなかった。不安倍増は政権を投げ出し、福田小川のアクロバット「連合」も許さなかった。「ブログに力はあるか」で私はブログのTB機能を活かし、有志による無差別TBチラシ作戦を決行してはどうかと提起してみました。実際にやってみました。一二の強い反発もありましたし、みんなの意見を聞いたところ、やはり迷惑TBと捕らえられる危険性の方が高いという意見も多く、きちんとした総括はしていませんでしたが、結局あれは取りやめました。少しあせりすぎていたのかもしれません。けれども、政治ブログの存在は評価はしつつも、それ以外の圧倒的に多くのブログへ繋がろうとする努力をするべきだという問題意識は変わりません。後二年半の改憲「解禁」までにいろいろと試行錯誤をしていくべきだろうと思います。今回の参院選で「小さな人間」たちは「大きな人間」たちに一矢を報いました。まるでベトナム人民がアメリカ帝国に勝ったときのように。歴史はそのようにジグザグに進みます。さて、今年の最後の書評は「水滸伝 折戟の章」北方謙三 集英社文庫この梁山泊も圧倒的に不利な軍勢で大国宋と劇裂な戦闘をしたのがこの巻です。20万対4万。宋軍の全面攻撃に梁山泊は奇策で対抗する。指揮をするのは新しく軍師に迎え入れられた宣賛。彼のいちかばちかの戦闘は成功を収める。しかし、政府軍はまだ50万の禁軍が手付かず。敵はまだ圧倒的に巨大だ。怪我で身体が思うように動かなくて、自分を苛めていた単廷珪は林冲との稽古で「死域」にはいる。「林冲も無茶をする。死域に入れなかったらおまえは死んでいた。俺もそこまでやる度胸は無かったよ。死域に入れると林冲はどこかで感じ取ったのだろう。死域に入ってから一刻、おまえは林冲と互角に近い動きをしていたぞ。」「俺はまだ闘える。そう思う。間違いなく戦で暴れられる。」単廷珪は改めて林冲らしい活の入れ方に感謝する。熱いものがこみ上げてくる。自分には、同志がいる。死んでも生き返らせてくれる同志がいる。
2007年12月31日
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今年の正月にして好評だった「連歌」をまた正月に始めたいと思います。2日の朝から始めます。ぜひとも皆さん、ちょっと寄って、歌をひねって置いていってください。連歌とはどういうものかは、去年の出来上がりを観れば一目瞭然なのですが、私が575の初句をつけたら、それに77で繋げてもらってまた575の句を置いてもらって77と繋げていくものです。どこまで繋げるか、嫌好法師さんによると、36句が一応の目安と言うことらしいので、そこまで行きたいと思います。途中で障害をおくと面白くなるそうなのですが、どこへどういう障害を置けばいいのかわかりません。(まだ連歌というものがわかっていない^_^;)皆さんの意見を聞きたいと思います。何人か楽しみにしてくださる方が居るそうです。私も楽しみ(^^)
2007年12月27日
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「交響詩篇エウレカセブン」ずっと気になっていたアニメDVDを四巻まとめてみる。あと9巻ほど残っているらしいのだけど、今のところの感想を述べてみる。あらすじ等はHPで。このアニメで特異だと思った部分。主人公の少年が巻き込まれて戦争に加担していくというのは、ガンダムと同じ構造である。しかし三巻目の第九話「ペーパームーン・サンシャイン」をみて、今のアニメってこんなところまで来ているのか、とびっくりした。人型戦闘ロボットの操縦者ヒロインのエウレカとゲリラ戦闘機月光号のリーダー・ホランドは、数年前まで軍の特殊部隊の主要戦闘員であり、なんと!エウレカが一般市民を虐殺する場面が二度もある。そのとき、死体の下でうずくまっていた3人の幼子を見つけたときにエウレカたちの反政府組織への転進が始まり、軍と対峙していくのではある。主人公であるレントン少年はその事実を知った後も、初恋の人であるエウレカにしつこく聞きだす。「それでも仕方なかったんだろう?」それに対してエウレカは答えるのである。「わかっていない! わたしたちは今でも戦争をしている。 私たちのしているのはゲームでもなんでもない。 気づいていないかもしれないけど‥‥‥ レントン‥‥‥それに君も加担しているんだよ」これは日曜の朝7時から始まるアニメだった。小学生、中学生が見る時間帯である。すごいことだ。私は偶然この回だけをテレビで見た。その後の展開を一二度見ただけで結局話がどうなったのか分らずじまいだった。今回はじめから見てびっくりしたのは、このアニメの世界(星)の説明が、ほとんどされていないのだ。トラパーと言う高濃度の空気の波がときおり寄せて、それに乗ってサーフィンよろしくロボットも空を翔る設定らしいのであるが、そのような基本的なことがほとんど説明されていないのである。それなのに、番組として成り立つところがまたびっくりする。おそらく子供たちは「アニメージュ」などで基本的な知識を補填しながら、学校で知識交換をしながら観ていたのだろう。今までのところでは、戦争とは?命とは?自由とは?そんな深いところまで描いているかのような思わせぶりはしているけれども、どうも表面をなぞっているだけのようにも思える。ただ、中学生にとってはもしこれがはじめて見る「戦争」ならば、「考えるきっかけ」にはなるのかもしれない。結末のつけ方を見守りたい。
2007年12月26日
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「どうして私が選ばれたの?」監督・製作総指揮 : キャサリン・ハードウィック 出演 : ケイシャ・キャッスル=ヒューズ 、 オスカー・アイザック 、 ショーレ・アグダシュール 、 キアラン・ハインズ 、 ヒアム・アッバス オリーブ畑での受胎告知や、ナザレからベツレヘムに至る険しい旅、ヘロデ王の幼児殺し、馬小屋での出産、三賢人や羊飼いらが集まっての祝福。まるで教会の教科書のような映画ではあるが、楽しめた。イエスキリストの降誕は25日の深夜であった。と、いうわけで、25日の午前0時20分この記事をアップします。この映画の良い点は、夫婦の絆がだんだんと深まっていくところ。神のお告げは夫のヨセフにもあった。ヨセフの献身。自分の腹は減っても妻とロバには食事を与える。男が見ても納得性のある正しい(正しすぎる)夫婦のあり方ではある。マリアはしだいと夫を信頼する。神はマリアのみを選んだのではない。ヨセフも選んだのだということが分かる。この視点は非常に新鮮だった。もう一つ良い点は私の趣味ですが、西暦0年のエルサレムの民族描写を見ることができたこと。確かに当時中東は世界の先進地域ローマ帝国のもとにあったので、貨幣経済の発達、土木技術の発達は、日本列島北九州の漢委奴國王(西暦57年)の時代とは比べ物にならない。エルサレムの都のCGのなんと壮大なことよ。あれがまさしく都市国家である。吉野ヶ里が都市国家だという人がいるが、それは違う。中央集権国家の成立する5~6Cまで待たないと日本列島に都市は実現しないのである。(それは決して日本列島が世界と伍して質的に遅れていいたことは意味しない)けれども、一つ村での動物の皮のなめし、酒造りの共同作業など、あるいは旅をすることの危険性は、おそらく日本の古代にも共通していただろうと思う。キリストの母となったマリアは呟く。「支配者はその権力の座からふるい落とされるだろう。貧しきものは尊くされるだろう。」主の使命をそのように説明して映画は終わる。神よ、まさに今がその「とき」です。最後の映像は、冬によく見ることができる雲と光のシンフォニーだった。またの名を「天使の梯子」あるいは「ヤコブの梯子」ともいう。(写真をほかから借りてきました)
2007年12月24日
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昔とっておいた画像が活きるときが来ました。20日の朝日の記事で内閣支持31%に急落、不支持48% 本社世論調査というものがありましたが、その時のグラフと、今年の2月20日に取り込んだ同じ朝日のグラフを比べてみます。 比べて見てわかったをメモしてみる。不支持率が逆転したのが、安倍内閣よりも一か月以上早い。安倍氏は最初は人気があったのだから当たり前かもしれないが、しかしこの「落ちるスピード」は注目すべきだろう。この落ち角度がどれだけ維持されるかわからないが、このまま落ちれば、来年一月ぐらいでピークに達することは充分に考えられる。それはつまり衆議院選挙が三月にあれば、その真っただ中ということである。だから三月ではなく、五月になってという一部報道はあながち嘘ではないかもしれない。自民党は、必ず何かの手段を打ってくるだろう。もはや拉致問題は使えないはずだ。気になるのは、経団連が春闘でベア容認の発言をしたことである。真の不況脱出のためには不正規労働者の賃金底上げが必要であることは明らかなので、これは歓迎するところである。けれどもそれが選挙の与党イメージ改善に使われないように、労働者側は今からしっかりと本当に必要な賃金はいくらなのかしっかりと論議する必要があるだろう。その額は一万二万のベアではないはずである。三万以上のベア要求は、生活実感からいえば十分根拠があるだろう。経団連は春から大インフレがあるだろうと見ているはずだ。そのための煙幕でもあるだろう。けれども、それで万一弱い者の賃金が置き去りにされて格差が拡大するようなことがあれば、その時は許してはおけない。あとは民主党のスキャンダルだろうけど、それも十分にあり得ることだと思ってしまう自分が悲しい。
2007年12月24日
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「ワーキングプアは自己責任だ」などとのたまっておられる輩(敬語がむちゃくちゃ、で、以下の乱れも許してね)は、基本的には保守主義の人たちとは重ならないのだろうと推測しています。だから、天皇誕生日に天皇が次のようなことを言ってもあまり心に響かない人たちなのだろうと思っています。天皇陛下会見全文(上)(朝日)社会格差の問題については、格差が少ない方が望ましいことですが、自由競争によりある程度の格差がでることは避けられないとしても、その場合、健康の面などで弱い立場にある人々が取り残されてしまうことなく、社会に参加していく環境をつくることが大切です。 また、心の中に人に対する差別感を持つことがないような教育が行われることが必要と思います別に天皇として画期的なことを言われているわけではないでしょう。戦後立つ位置はずーと変わらなかった。変わったのは、日本の政治が変わったのである。新自由主義の風に吹かれて流行の言葉を言う人は、やがては波に乗り遅れるか、1日明けたら見事に新しい仮面をかぶるか、将来のことは分らないけれども、いまのところはやはり理論的に反論しておかなくてはならないのでしょう。Tomorrow is Another Happyの水葉さんが見事に整理してくれていた。彼らの論理を三つに整理して見事に反論している。1)不正受給が多いから、受給額を減らして、生活保護のうまみをなくすべき2)自分もこんなに生活を切り詰めているのだから、生活保護受給者ももっと生活を切り詰めるべき3)生活保護受給者は、自己責任。そんな人たちの面倒を手厚く見る必要はない反論内容は記事を見てもらうとして、なるほど、なるほど、としか言いようがない。記事をリンクさせてもらって、私もいざと言うとき困らないようにしたいと思う。
2007年12月23日
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12月13日に「朝日ベストテン映画祭」の入選作が発表された。そのうち洋画は一位「長江哀歌」二位「孔雀我が家の風景」三位「ゾディアック」で、邦画は一位「天然コケッコー」二位「河童のクゥと夏休み」三位「それでもボクはやってない」だった。この映画祭は数ある映画祭のなかで最も早い時期のもの。毎日映画コンクールやキネ旬、ブルーリボン賞などはまだ納得性があるが、日本アカデミー賞だけは毎年納得していないであろう、多くの映画ファンにとり、この朝日のは評論家の選考ではあるが、まあまあ納得性があるものである。悔しかったのは、私がぼろくそにけなした「長江哀歌」が一位になったことではない。日本映画十本のうち私が鑑賞したのは、上位二位三位だけで、あと八本は全て未鑑賞だったことだ。今年は去年より少しだけ忙しくて、少しだけ見る本数が減った。そのギリギリのところで、観るのを諦めた作品が上位に来ているのが悔しい。特に日本映画は山下淳弘監督のが二本も入っていて、コケッコーはまだDVDがレンタルしていなかったので借りれなかったが、四位の「松ヶ根乱射事件」をDVDで見た。うん、なるぼど、傑作ではないが、心に残る作品だった。納得した。監督: 山下敦弘出演: 新井浩文 / 山中崇 / 木村祐一 / 川越美和 / 三浦友和 / キムラ緑子 / 烏丸せつこ / 西尾まり / 安藤玉恵 / 康すおん / 光石研 / でんでん舞台は90年代初頭頃。とある田舎町・松ヶ根で警察官をしている光太郎は、事件という事件のない退屈なこの町にウンザリしていた。実家は畜産業を営んでいるのだが、ぐうたらな父親・豊道は近くの床屋に居候中。そんな所へ流れ者のカップル、みゆきと祐二が松ヶ根にやってきた。何か訳ありっぽいこの二人の出現をきっかけに、ひき逃げ、金塊騒動、ゆすり、床屋の娘の妊娠と、平穏な町の平和に波風が立ち始めるのだった。(goo映画より)最初、「多少脚色していますが、基本的には全て私が見聞きした「実話」です」と言う意味のキャンプションがはいる。日本映画には珍しいことではある。田舎の日常をずーと撮る。いちおうひき逃げ、金塊騒動、ゆすり、床屋の娘の妊娠‥‥‥と事件は起きているので、緊張は続くけども、内容はいたって田舎の日常である。このビミョーなバランス感覚が素晴らしい。いつ、誰が乱射「殺人」事件を起こすのか、と緊張しながら見ていた。誰が起こしても不思議ではない。誰もが普通に暮らしているけど、誰もが普通ではない。だからラストの乱射事件はシュールだった。なるほど、これがあるから四位に選ばれたのかな、とも思った。「ゆれる」で田舎の町で田舎に嫌気が差ししている嫡男を演じた香川照之を思い出した。あの映画もそうだったが、高度経済成長期の昔の田舎の現実と現代のそこそこの町になっている田舎の現実は違うのだ。現代は既に東京に出て行っても夢がないことは知っている。けれども、田舎にも夢がない。街の誰もが知り合いで、少々の犯罪はかばいあう。逃げ場がない田舎と言うのは都会とはまた違った苦しさがあるのかもしれない。
2007年12月23日
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今年の大仏次郎論壇賞には朴裕河(パク・ユハ)世宗大副教授の「和解のために」に決まった。「和解のために」(平凡社 朴裕河著 佐藤久訳)今日の朝日に彼女の受賞記念論文「日韓の平和共有のために」が載っている。この本において、彼女は敢えて火中の栗を拾い、慰安婦問題をはじめ、教科書問題、靖国問題、独島(竹島)問題について考察したという。なぜなら「日韓の間において最も難しい問題であるだけでなく、それらが別々の問題に見えて実は近代国家が生んだ問題として緊密に連携しているという認識」があったからだそうだ。たとえは慰安婦問題では、日本をこのように批判する。「「新しい教科書を作る会」が慰安婦問題をなお否定しているのは、それが次世代に日本人の「誇り」を傷つける問題だという認識からである。しかし、「誇り」を単に国家の偉大さにおいてのみ見出そうとする限り、その誇りは他者も共有しうる普遍的なものにはならないだろう。たとえば、責任を取ることからも私たちは誇りを見出すことが出来る。慰安婦問題では、たとえ一部の人たちが「自発的」に行なったとしてもそれは植民地構造が引き起こしたことである以上、日本がその責任を免れることはできない。」「現代の若者にも戦争責任はある」と加藤周一は言います。戦争責任を取らない政府を選び続けている以上、私たちにも責任はあるのです。と、私も言い切ることが私の(かすかな)「ほこり」でもあるのです。一方、バク氏は韓国国民への批判的視点も鋭いものがあります。「しかし一方、現代韓国はいわゆる「右派」的思考が「敗戦」をめぐる複合的文脈から生まれたものであることを見ようとせず、彼らと絶えず対峙してきた戦後日本のいわゆる「良心的」動きも十分に評価することはなかった。日本による植民地構造の構築を無力に許し、たとえ「自発的」でないにしても加担してきた韓国民もまた、痛みを負うことになった人々に対する責任から全く自由でありえるわけではない」この視点‥‥‥特に「日本による植民地構造の構築を無力に許し、たとえ「自発的」でないにしても加担してきた」と言うところは新鮮だった。独裁政権の下、間接的に日本の保守政権の存続をアジアの政治力学の元、許してきたのは確かではあろう。そんなこんなの詳しい歴史的検証をこの本でして居るようだ。大仏次郎賞受賞の「民主と愛国」(小熊英二)もまだ読書中なのだが、この本も一応積んどくことにしようと思う。「平和共存」とは言わずに「平和共有」と言ったところに、朴氏の想いがよく出ている。
2007年12月22日
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ここんところ、あまりいい作品に恵まれなかったせいもあって、一時間四十分できっちりたった一人残ったニュウヨークの景色を存分に見せるこの映画には、退屈しなかった。監督 : フランシス・ローレンス 出演 : ウィル・スミス 、 アリーシー・ブラガ 、 ダッシュ・ミホックけれども、しかしである。三年間一人でいて、一番現実的な手段であるラジオ放送もきちんとしていて、誰とも連絡が取れなかったという設定には明らかに無理がある。犬が空気感染していなかったのも疑問。後の設定まあ、OK。家を総電化重装備に作り替えている所なんかは、あり得る話だと思ったし、そうか舗装された道路は何もしなかったら草が生えるんだと感心したり、映像は面白かった。話はあまりにもありきたり。題名からほぼ話の構造も見えるし。「私は伝説」。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(『ヨハネ伝』第12章24節)ってな言葉は出てこなかったけど、最後は信仰に戻ったのは、いかにもアメリカらしい映画。
2007年12月21日
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いろいろと忙しくて記事制作が遅れている。(書きたい本や映画はいっぱいたまりつつあるのだけど。あっ、韓国旅行記早く完結しなくちゃ。)とりあえず今朝Under the Sun のコラムに載せた文章をそのまま流用する。「再出発日記」的愛読書大賞○○大賞というのが、今回のテーマだそうです。miyauさんがmusicを選んだので、私は本か映画かということになる。役割分担で言うと映画になるのだろうが、残念ながら本のほうを選ばせてほしい。「再出発日記」的愛読書大賞である。なぜなら、映画のほうはまだいろいろと迷っているけれども、本のほうは今年のナンバーワンはこれで揺るがないからである。それは北方謙三著「水滸伝」(集英社文庫)である。全19巻で、現在15巻まで刊行されている。いわずと知れた中国の三大古典の北方版である。宋の時代末期、腐敗する国に不満を持つ百数十人の好漢たちが、梁山泊に結集し、かんぜんと挑み敗れる物語である。北方版は古典をいったん解体し、経済、軍事、諜報、文化面でリアルな、そしてキャラクターたちも実に生き生きとまったく新しい革命小説に変えてしまった。実はこのコラムでも一度登場させている。今年一月のコラム、初夢「為政者の理屈」のなかで、梁山泊の敵である宋の国のブレーン集団青蓮寺の論理を検証している。それはそのまま現代の為政者の論理と重なるだろうと思ったからである。この本からはいろいろなものをもらった。いろいろな刺激をもらった。最大なものは、この Under the Sun に連なること、「国に不満を持つ者たちのネットワークつくりはいかに行い、いかに実行するか」ということだ。不満を持つ好漢、英雄たちは、全国に数多くいるだろう。図らずもこの Under the Sunの賛同者も111人を数えた。「水滸伝」の英雄たちと拮抗している。ただ、この本を読んでのイメージとして、 Under the Sunはそのまま梁山泊の英雄とは重ならない。それぞれのキャラクターに不満がある、というわけではない。何が足りないか、というと第一には「替天行道」という檄文がない。あらゆる立場の人たちが、心を動かし、その元に志を一にして闘おうという「綱領」がない。第二には頭領がいない。ネットワークの主役はネットに入っている人たちだけではない、と私は思っているが、それをふくめ頭領が不在だ。その二つさえそろえば、軍師にしろ、一騎当千の騎馬隊にしろ、オルガナイザー、将軍、隊長たち、文官、医師、兵站等々は自然と揃うだろうと思う。そのとき、インターネットは大きな武器になる。本当の軍師さえいれば、梁山泊がたった四万の軍隊で20万の軍隊と五分に渡り合ったように、 戦略を全国公開しても、必ず五分で渡り合える。(たぶん)いや、そうではない、「水滸伝」ではこのように描かれているように、あなたの感想はここで間違っている、などという感想のやり取りが誰かとできないかなあ、などということを夢想しながら、私の責を終えたいと思う。
2007年12月19日
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「ダックコール」(ハヤカワ文庫 稲見一良)野鳥と猟に関する小説の短編集である。第四回山本周五郎賞受賞作。この中のとくに「密猟志願」を読みながら夢想に耽った。映画になればいいと思った。経理畑一筋、不正とは全く無縁の世界で生きてきた初老の男がいる。ガンで余命半年といわれながら二度の手術に耐え、余生を送っているときに「密猟」に魅了される。男らしさ、五感のすべてを使う仕事、獲る、奪う、そして盗むという毒の「こ惑」!!彼は仕事を辞めていたので、金と時間は有り余るほどあったが、川べりで猟をするという技術はなかった。そんなとき、まるで男が夢見た理想の姿を具現化したような少年に出会う。男は少年から密猟の技術を学ぶ。男と少年の奇妙な友情。やがて二人は、一世一代、痛快な「密猟」を思いつく‥‥‥。男は緒方拳が演じてほしい。少年はだれも見たことがない、戦後ガードレール下でたくましく生きていたような子供を発掘してほしい。ほかの登場人物では、密猟の舞台の強欲な地主に往年の悪役スターを。男と少年の理解者で、老人施設の老女に岸恵子。舞台はできたら、作者も住んでいたという花見川オールロケ。きちんと監修者を配置して、猟の描写と美味しそうなカモ料理はリアルに。最後の大密猟は空撮も駆使しながら思いきりスリリングに撮る。男と少年と老女の勝利のディナーは桜の舞う川べりを選ぶ。ラストは原作とは少し変える。原作でも少年の住んでいる家は明かされていない。いつもローラースケートでトラックなどの後ろにくっつき、隣町から来ていたという。大密猟の後いっこうに現れない少年に業をいやし、男は少年が一言漏らした言葉を頼りに隣町に行ってみる。その家は廃屋になっていて、家族は海難事故で全員死んだということが分かる。少年は二度と現れることはなかった。男はつうに去られてしまった「夕鶴」の与ひょうのように嘆き悲しむ。そのご、病院の検査結果で男にガン再発の知らせがやってくる。胸の癌の影だといわれる画像を見て、男はニヤリと呟く。「 見つけた」そこには、最初の猟の時に取り逃がしたカモの姿があった。
2007年12月17日
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江戸時代、文化年間、松平老中の時代が終わり、水野老中のころ、幾人かの若者が壮大な夢を見る。 -朝廷、水戸、島津が連合して蝦夷の地に独立国家をつくりたい。 当時は伊能忠敬がやっと正確な日本全体の海岸線地図を作ったばかりだった。蝦夷地の地図つくりはほぼ間宮林蔵の手によるところが大きかったという。蝦夷地は広大な土地であった。そしてロシアとの貿易が見込まれた。朝廷の武士野比秀麿、水戸藩士狩野信平、そして薩摩の実質藩主島津重豪はそれぞれの思惑で、単独樺太探検を行い蝦夷地を知り尽くしている間宮林蔵に近づく。 「林蔵の貌」(上)(下)(集英社文庫 北方謙三)この四人は時代とともにしだいと変貌していく。独立国家という夢をひたすら追い、蝦夷地に住み着きアイヌたちの信頼を勝ち取りつつあった狩野は、島津の裏切りに遭い蝦夷の白い大地で林蔵の腕のなか死んで逝く。権謀術数に明け暮れる野比は労咳に倒れる。ひとり間宮林蔵は、亡き仲間たちの無念を晴らすためか、島津重豪に対する壮大な復讐を始める。それにシーボルト事件も絡んでいく。月一回の「水滸伝」を待てない好漢に捧ぐ、という集英社文庫の帯に誘われて買って読んだのであるが、これは確かに「水滸伝」の先駆形ともいえると思った。北方「水滸伝」もいうなれば、梁山泊中心とした土地に自分たちの国家を作ろうとして、大国に挑んでいったという物語にも取れる。そして猪突猛進型の晁蓋(この物語では狩野信平)が倒れ、次いで慎重型の宋江(野比秀麿に当る)が倒れて終わる物語である。理想と挫折、そこから生まれる男の生き様、それが「北方謙三の世界」なのかもしれない。さらにいえば、北海道独立国家構想は幻に終わった「カムイ伝第一部」の初期構想にも重なるのだが、話がややこしくなるので今回は割愛。さらにいえば、狩野信平の死に方は昨日書いたチェ・ゲバラと重なる。北方「水滸伝」はキューバ革命の移し代えだということは本人が言っていることである。つまりキューバは奇跡的に生き残った梁山泊、晁蓋はチェ・ゲバラ、宋江はカストロである。面白いのは、「水滸伝」は敗北の革命だが、キューバの場合は成功しているということだ。ただし、中南米という視点では、この30数年間は敗北であった。もしかしたら、今北方謙三が書いている「揚令伝」は、現代の中南米革命を意識しているのかもしれない。梁山泊の好漢たちは地方に飛び火し、それぞれの砦から反米の狼煙を上げている。それが中南米の到達点である。もちろん「揚令伝」は未読なので、私の推測なのだが。物語も、現実も、未来は視えない。
2007年12月15日
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「ゲバラ日記」(角川文庫)はなかなか前に進めなかった。有名な本なので、これを読めば晩年のゲバラの思想は分るのかと思っていた。しかし、書いているのは延々とボリビアのジャングルをゲリラとして進むゲバラたちの日常なのだ。巻末の高橋正による「ゲバラ小伝」によって、ヤットこの日記の位置が分ってくる。チェ・ゲバラ。1928年、アルゼンチンの中産階級の家庭に生まれる。医師を志すが、南米諸国を旅するなかで革命の必要性を痛感。メキシコで出会ったカストロとともにキューバ革命を牽引し、成功に導く。その後、ラテン・アメリカ全体の革命のためにキューバを去り、ボリビアでの活動を続けたが、1967年10月9日、政府軍に捕らえられて殺害される。この本は、1966年11月から67年にかけてほぼ一年間毎日つけたゲバラの日記の全文である。タダひたすらジャングルを進む。時に戦闘がある。どうやら、そのようなゲリラ活動を進める中で、ボリビア住民の支持を勝ち取り、都市部ではなく、地方から革命勢力を育てようとしたらしい。けれども、ボリビアの革命勢力との齟齬、仲間の脱落、或いは戦死、ジャングルでの過酷な活動による病気、飢え、裏切り等により、ついにボリビア軍隊によりゲバラを捕らえられたらしい。日記は政府軍の陽動作戦を疑う記述、「標高2000メートル。」と10月7日に書いて終わる。このゲリラの活動方針が正しかったのかどうかは私には判断できない。いや、間違っていたとしても、キューバでの大臣の地位をかなぐり捨て、あくまでも初心のラテンアメリカ全体の革命のために身を投げたチェのことを悪く言う人間はほとんどいないようだ。月末に必ず行動の「月間分析」を書いている。時々父親や娘の誕生日の一言のみが書かれている。ジャングルでの活動は本当に苦しかったようだ。ゲバラ自身も喘息でくるんでいたが、隊員たちもさまざまな病気を患った。飢えでついに子馬を潰したりした。ゲバラの死後、南米は約30年間、富むものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなった。そしてやっと最近になって、ラテンアメリカのアメリカからの独立が現実的なものになってきた。反米政権が次々と実現し、ボリビアさえも、06年に親キューバの左派モラリス政権が誕生する。大統領が、日本の憲法を真似て戦争放棄を盛り込もうとしているということは既に述べた。最近、ラテンアメリカの輝ける星チャベス大統領の初の黒星の報道があった。、チャベス改憲案、小差で否決 「終身大統領」阻まれ打撃この報道を読んで、ラテンアメリカの革命は着実に進んでいるという印象を受けた。この報道では、まるで今回の改憲案の中心は「終身大統領制」にあるかのような書き方であるが、本質は違う。と思う。改憲案の中心的課題は、国の制度を「社会主義国にする」と言うことだった。それはまだ時期早々である、と国民がきちんと意思を表明できたのである。民主主義の着実な進歩だろう。それに終身大統領制を目指したのではない。多選を認めようとしただけで、チャベスが大統領に不適だとすれば落選させればすむことなのである。映画「モーターサイクルダイアリーズ」で若きチェ・ゲバラはハンセン病患者の前で宣言する。「はっきりしない見せかけの国籍によってアメリカ(ラテンアメリカ諸国)が分けられているのは、全くうわべだけのことだと、この旅のあとでは前よりももっとはっきりと、考えています。」ラテンアメリカの統一を夢見、その没後40年たった今年、中南米はその夢に向かって確実に進んでいる。
2007年12月14日
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水滸伝(14(爪牙の章))宋江の頭領としての悩みは深い。兆蓋亡き後、必然的に一人頭領として戦略的な最終決断は彼の元に集まる。本当にその資格が自分にあるのか、と悩む。仕方ない、みんながそれを望んでいるのだ。多くの才能ある人間たちの命を預かる、そして悩む。盧俊義ではないが「いいぞ、それでいい。ますます頭領らしくなってきた」テロを担ってきた中心人物の一人ハン端が死んだ。相手の敵があまりにも強く、いわば返り討ちにあったのではあるが、そのおかげで自分を死ぬまでの数日を一瞬ではなくて、逐一見つめることができる。私はハン端のテロという行為(この水滸伝では公孫勝の独断専行ということになっている)を認めない。しかし、その善悪ということに対して作者はいまのところ判断を行っていないように思える。ただ、「死」の意味を追い続けてきたハン端にはある意味最高の死に方を与える。自分の死ぬ瞬間を誰にも知らせることなく、一人ゆっくり知るのである。 また夜が来た。はらわたは、毀れ続けている。はらり、となにかが落ちた。はらわたからの音が、大きくはっきり聞こえた。 ここだろう、とハン端は思った。この部分は、作者のみごとな「思いやり」ではある。また、テロを担って三巻目でハン端が死んだことで、作者の姿勢は見えたのかもしれない。物語は佳境を越えつつある。今回、初めてひとつの戦いの決着は次巻に持ち越された。それぞれの想いもしだいと深まっていく。いくつかの恋も、深まっていく。
2007年12月12日
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朝日新聞の12月8日付け別すり別冊「 be」の「 Between」という記事で 「 テーマ:悪役」で記事を書いていました。読者アンケートをもとに作った記事です。本当はそのままコピーは良くないのですが、朝日アスパラクラブ会員しか入り込めない記事なので、コピーさせてもらいます。悪役は必要か posted by (C)くま≪クリックすると大きくなります≫メディアの品性にも疑念 「おぬしも悪よのお」「いえいえ、お代官様ほどでは」でおなじみの悪役は元来、この世の闇の奥に黒い毒トカゲのように身を潜ませながら善なるものにつばを吐き、背徳や不正の糸を引く存在であるはずです。 今年の後半、希代の3悪人のようにメディアに糾弾された大相撲の朝青龍、ボクシングの亀田ファミリー、女優の沢尻エリカは「悪役」の称号にも値しない、尊大と勘違いの度が過ぎただけの人たちといえるかもしれません。 ことさらに彼らを「悪役」に仕立てあげ、しつこく責めたてるバッシング報道は、逆に視聴者や読者に不快の念を催させていたのではないかと思い、beモニターの意見を聞いてみました。 バッシング報道を肯定する意見が、やり過ぎだと否定する意見を上回りましたが、それぞれ4割前後で、ほぼ拮抗(きっこう)していました。 否定派は「悪役をつくり出した張本人はメディアそのもの。さんざん持ち上げて、ちやほやすれば、尊大になるのは当たり前」(千葉、39歳女性)、「リポーターのしつこい取材攻勢や思わせぶりな演出、過剰な表現は不愉快きわまりない」(神奈川、70歳男性)、「追及すべき巨悪に及び腰で、安易な取材対象に群がる」(北海道、42歳女性)など、多くの人がメディアの品性に容赦なく疑念をぶつけています。 肯定派は「マスメディアを利用してのしあがった者は、マスメディアによって裁かれるのが必然」(香川、44歳女性)などという暗黙の亀田ファミリー批判が目につきました。「不当に悪役に仕立て上げられたのは誰か」という質問でも、わずかな差でしたが、亀田ファミリーと答えた人が最少でした。ファミリーの傍若無人なふるまいに反感が渦巻いていたようです。 ファミリーの父親は、次男の反則謝罪会見でも逆ギレぎみで記者をにらみ返していました。あのふてぶてしさと、表舞台から退場させられたことで、かえって悪役としてのハクがつき、その称号に近づいたといえるでしょう。(担当 保科龍朗) 私が怖いのは、「マスメディアを利用してのしあがった者は、マスメディアによって裁かれるのが必然」という意見です。それに乗って、まるで自分がマスメディアの一部分であるかのように「裁く側」に簡単に乗るという現象です。マスメディアに対して無批判に乗る、ということに際限なく危ういものを感じてしまいます。本来今回の問題は、保科記者の書いているように、「悪役は元来、この世の闇の奥に黒い毒トカゲのように身を潜ませながら善なるものにつばを吐き、背徳や不正の糸を引く存在であるはずです。 今年の後半、希代の3悪人のようにメディアに糾弾された大相撲の朝青龍、ボクシングの亀田ファミリー、女優の沢尻エリカは「悪役」の称号にも値しない、尊大と勘違いの度が過ぎただけの人たちといえるかもしれません。 」というだけのものだったと、私も思います。本来は、関係者の間で、ひっそりとしかし厳しく処遇されていれば済む問題でした。ちょっとだけ普通でない人たちが突然ちやほやされ、突然次の日にはバッシングの対象になる、そういう風潮を作っているのは、マスメディアの責任です。「追及すべき巨悪に及び腰で、安易な取材対象に群がる」という北海道の女性の言う通りです。「悪い奴ほどよく眠る」。私がこの問題を繰り返し取り上げるのは、「笑顔のファシズム」はまさにこういうところからやってくるに違いないと思っているからです。
2007年12月11日
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「あぶない、あぶない」監督 : 森田芳光 脚本 : 菊島隆三、小国秀雄、黒澤明出演 : 織田裕二 、 豊川悦司 、 松山ケンイチ 、 鈴木杏 、 村川絵梨 、 佐々木蔵之介 、 風間杜夫 、 西岡徳馬 、 小林稔侍 、 中村玉緒 、 藤田まこと 案外楽しめた、脚本がよいし役者も好演している、と言う巷の声を聞きますが、私は失望しました。いったい監督は何のためにこの映画を作ったのでしょうか。二時間そこそこ楽しみを持たせるために作ったのでしょうか。それならば、オリジナルで勝負して欲しかった。心に残る映画を作りたかったのだったら、これではダメだ。織田裕二は、そこそこ努力して、そこそこ役造りをしたようだ。殺陣もしっかりやっていた。しかし、この映画の肝は、椿三十郎なる素浪人が、頭もよく、腕も立つのに、最後の最後で室戸半兵衛のように出世の道を選ばなかった、その対比にある。見かけは全く違う二人であるが、城代の奥方だけは、三十郎の本質を見抜く。「あなたはギラギラした抜き身の刀の様ですね」。そして椿は室戸を評して呟く。「あいつは俺だ。」だから、三十郎の「抜き身の刀」である部分をきちんと見せて二人の類似点を強調することが、結果的に二人の運命を分けたところは何なのかを観客にわからすことになる。殺陣の場面など、それを髣髴させる場面は確かにあった。しかし、それ以外のほとんどの場面で織田裕二は自分の癖をかなぐり捨てて三船敏郎の語尾を強調する言い方をそのまま真似て見せる。あれは三船がしたから似合っていたのであって、織田裕二がしても全然似合わない。しかし、一方ではいつもの織田裕二の演技ならば、「ギラギラした」部分は出せなかっただろう。監督は織田裕二を選んだ時点で、彼に三船の真似をさせてはいけなかった。難しいが、現代の「ギラギラ」とは何かを極めた上で、全く新しい椿三十郎を作らなくてはいけなかった。この映画が、60~70点程度の単なる娯楽作に終わったゆえんである。そしてそれは私にとっては、黒澤映画に対する侮辱でしかない。失望した、と言った所以である。鞘に納まった刀である城代は最初事件の本質をこのように言っていた。「あぶない、あぶない。本当の黒幕はもっと奥まったところに居るものだ。」それを真似て私はこの作品について言いたい。「あぶない、あぶない。本当の面白さはもっと奥まったところに居るものだ。」
2007年12月10日
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今日は月一回の映画サークルの望年会でした。久し振りの仲間と思いっきり映画のことを記はなして楽しいときをすごしました。今月のテーマ作品は「長江哀歌」「続三丁目の夕日」「題名のない子守唄」。記事にもあるように、前二つはわりと厳しい評価がされているのですが、みんなの意見もそうであって、特に三丁目の方は私より厳しい意見が相次いで、少しほっとしたような‥‥‥。望年会の余興で、一番映画に詳しいかたから映画検定問題が20問出されたのですが、私は20問中15問しか出来ませんでした。出来なかった5問を下に載せます。昔からこのようにきちんと復習をしていたら、もっといい学校には入れたのに(^_^;)●ハリウッドで一番ギャラの高い女優の番付けが発表になり、二位はアンジェリーナジョリーだった。僅差で一位になったのは?1.二コール・キッドマン、2.リース・ウィざースプーン、3.キャメロン・ディアス●アンジェリーナ・ジョリーが少女時代になりたかった職業は?1.葬儀屋、2.モデル、3.ジャーナリスト●ブラピが昨年一月にアンジェリーナジョリーにプレゼントした指輪の値段は?1.4800ドル、2.48ドル、3.1万480ドル●次のうち歴史の一番古いのは?1.アカデミー賞、2.キネマ旬報ベストテン、3.ヴェネチア映画祭●下関市で唯一の映画館下関スカラ座が10月で閉館したが、ある映画監督が支配人となり存続させている。その人は?1.佐々部清、2.大林宣彦、3.奥田瑛二思えば、一番上の問題以外は、引っ掛け問題だった。一番ありそうにない答えを選べばよかったのだ。答は上から、2、1、2、2、3である。
2007年12月09日
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今年の韓国旅行記の最終日はまだ書いていないのですが、実は釜山でV-CDを買いました。三個10000W(約1200円)で安いのです。その中の一枚に2000年の韓国映画の傑作「私にも妻がいたらいいのに」がありました。もちろん韓国語オンリーです。私にも妻がいたらいいのに(DVD) ◆20%OFF!原題は「ナド アネガ イッスミョン チョゲッタ」。日本語と文法が同じなので、ハングルがよくわからなくてもなんとなくわかりますよね。映画では、このせりふがまずは男のほうから、次には女のほうから出てきます。非常によく練られた恋愛映画です。主演は、私がともに韓国俳優NO.1に推すおふたり。ソル・ギョングとチョン・ドヨンさまです。その演技派が、今回はなんともごく普通の銀行員と学習塾教師の役を演じているところがすごい。ふたりとも『普通』に見事になりきっています。V-CDはDVDと違い、片面が1時間でいっぱいなので、たいていは二枚組みです。しかも、リモコンで操作できないので、機械に入れると、エンドレスでずーと再生しっぱなしになります。それがハングル学習には有効で、寝る前のミュージックとして数日流してみました。前に一回見ているので、筋はわかるのですが、やはり微妙なところがわからずに、今回新たにDVDをレンタルしてみてみました。『愛は勘違いで成り立つ』昨日思いつきで書いたことですが、まさにそれを証明するような映画です。けれども『恋愛はあいてをおもいやるあいで成り立つ』ことも描いています。新たな『愛の法則』です。雨宿り、傘、ビデオ、鉢植え、飴、コイン、手品、そのような小道具を見事に活かしながら、じっくりと二人の心理を描写します。ときどき見事に経過を省略して、集中してみないと突発に事態が変わったかのような印象を受けます。今回じっくり見させてもらって改めてすごい映画だし、二人とも監督の要請に見事にこたえていると思いました。ナドアネガイッスミョンチョゲッタ。
2007年12月08日
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米原万里先生は、たとえ革命が成功して、あらゆる人間が社会的にも法的にも経済的にも平等な社会が到来しようとも、なぜかやたら持てる男女「フルジョワジー」となぜかもてない男女「フラレタリアート」の不平等は残ると予言する。「フラレタリアート」たる私ですが、「人類のサンプル」としてすでに失格の烙印を押されている(かもしれない)私ですが、いつかやってくる(かもしれない)「革命」(奇跡ともいう)のために日々頑張りたいと思います。それはそれとして、「米原万里の「愛の法則」」(集英社新書)をやっと読みました。「愛は勘違いで成立する」とはどなたかが言ったかもしれませんが、私も最近つくづくそう思います。「あの娘はもしかしたら俺に気があるのだろうか」という幸せな勘違いをする能力を持った男が結局愛を手に入れるわけです。「国際化も勘違いで成立する」と私はこの本を読んでそうおもいました。「日本人が言っている国際化は、国際的な基準に自分たちが合わせていくという意味です。アメリカ人が言うグローバリゼーションは、自分たちの基準を世界に普遍させるということです。自分たちは変わらないということです。自分たちは正当であり、正義であり、自分たちが憲法である。これを世界各国に強要していくことがグローバリゼーションなのです。」日本とアメリカの見事な勘違いは、じつに60年近い幸せな結婚生活を実現しました。さらに言えば、「愛は盲目である」「国際化も盲目である」。「これは日本人の伝統的な習性で、その時々の最強の国が、イコール世界になってしまう傾向があります。」「基本的に軍事力と経済力だけを見て、文化を見ません。」むかしは中国。今はアメリカ。愛は盲目だから、ずーと「日本は英語経由のフィルターをかけて交流してきたのに、それを何とも思わなかった。これはかなり異常なことなんですけど、この異常事態を異常と思わなかったということこそが、異常だと私は思います。」イスラエル語もドイツ語も、フランス語も中国語も、ハングルも、全て英語を通じて聞いてしまう、映画「ミッドナイトイーグル」で、日本に核兵器を持ち込み、決定的な危機に陥れても、日本の首相はアメリカの悪口の「わ」も言わないのは、そもそも「アメリカの悪口」と言う「言葉」自体が無かったためでしょう。わが同志フラレタリアートの寅さんが甥の満男の恋愛を温かく見守り、やがて結局ゴクミと結婚できたように、日本という国の成長を見守っていき、やがて真の幸せを得るようなるのを見たい私なのでした。
2007年12月06日
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Ribonさんより雑誌「世界」10月号に小田実の遺稿が載っている、と教えられていたのだけど、店にいったときには既に次の号が出ていて、見ることが出来なかった。今回やっと図書館に行くことが出来て、この重要な遺稿に目を通すことが出来た。この9ページに満たない小論は、小田実が岩波新書に書き下ろそうとしていた「世直し・再考」の序章に当たる部分である。1972年の岩波新書「世直しの倫理と論理」の増補改訂を計画していたのだが、その計画の途中から全面書き下ろしに変わったのだという。この部分はまだ胃ガンが発見される前の文章、自分としては当然「世直し」の最前線に立つ意欲満々だっただろう。この序章だけでも、それはよく伝わる。文章そのものは、図書館で読むか、やがて出版されるであろう遺稿集で読んでいただくとして、私の印象に残った部分を紹介したい。小田実は市民を「小さな人間」だと位置づける。その「小さな人間」が「大きな人間」に対して反逆、勝利する瞬間を幾つか想起する。そのひとつが「1945年のイギリス国政選挙で、大半が「小さな人間」のイギリス市民が、それまでイギリスを強力、強引に引きずって世界大戦での勝利に導いたチャーチル首相の保守党を斥けて労働党を政権の座につけたことです。」と言う。世界史に疎い私は知らなかったのだが、ポツダム宣言の主役の一人であるチャーチルは実は1945年の段階で歴史の表舞台から身を引いていたのである。映画の「シッコ」を見た方なら、思い出すと思う。アメリカの現在とイギリスの現在を大きく分けているのは、国民皆保険の制度である。イギリスはそれを大戦後の皆飢えに苦しんでいたときに実現していて、出てきたイギリス国民はそれを非常に誇りに思っていたのだ。「小さな人間」の勝利の前例はそのように幾つかある。しかし、小さな人間はなかなか立ち上がらない。それはこのブログを読んでいる多くの人が感じていることなのではないか、と思う。小田実はそれに対して、このような重要なことを書いていた。彼のべ平連の経験では、「日本の運動も、アメリカの運動も、決して当初から派手に大きく盛り上がったものではありませんでしたし、中だるみの時期もあって、わずか十数人ほどしかデモ行進に来なかったこともよくありました。」「その1966年2月と言う時点では、彼らのベトナム戦争を「いくらなんでもひどすぎる」事態だとする認識は、まだアメリカ社会全体に広がっていなくて、彼らはまだまだ少数者、その意味では「前衛」でした。しかし彼らの「いくらなんでもひどすぎる」認識は、ついに社会全体に広がり、わずか3年後の1969年11月15日には全米各地で参加者の数万人、数十万人規模の集会、デモ行進が行われるほどのものになっていました。」「ひどすぎる」から「いくらなんでもひどすぎる」に社会全体が移ったときに、小さな人間」は勝利する。と、小田実は言うのだ。もちろん、ベトナム戦争の条件とイラク戦争の条件は違う。現代の日本の政治はさらに違う。だから方程式のように、ここまでの状態になれば、「小さな人間」は勝利する、とはいえないかもしれない。けれども、文学者として小田実は「いくらなんでもひどすぎる」という言い方で、ひとつの未来を見せてくれた。今現在、いろんなところで、働く現場で、ネットカフェで、米軍基地建設予定地で、薬害現場で、「小さな人間」が「いくらなんでもひどすぎる」と呟いている。呟く現実は確実にある。その声をいかに大きくするか、ほんの少しでもブログが役に立てばいいと思う。
2007年12月05日
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今日は望年会で、「水滸伝」やら、小田実やら、いろいろ書きたいことがあったのですが、とても書ける状態ではありません。また明日にします。それにしても、ずーと400台だったアクセスが、今日に限って700台に急騰したのは、「彼ら」のか危機意識の表れなのか。そうだったらいいのですが。
2007年12月04日
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尾崎 放哉(おざき ほうさい、1885年- 1926年)の最新句集を読んだ。「尾崎 放哉句集」(岩波文庫 池内紀編)96年に、師匠の井泉水の物置小屋で発見された添削前の200種ばかりの句も、新たに選ばれている。尾崎放哉(ウィキより)1902年 - 鳥取県立第一中学校卒業 第一高等学校(一高)文科に入学 1909年 - 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業 通信社に入社 1911年 - 東洋生命保険株式会社に就職 契約課に所属 1914年 - 東洋生命保険大阪支店次長として赴任 1915年 - 東京本社に帰任する「層雲」に寄稿 1921年 - 契約課課長を罷免される この年の暮れ頃東洋生命保険を退職する 1922年 - 新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任 1923年 - 「層雲」への寄稿を再開する 罷免される 満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記「無量寿仏」を口述筆記する 一燈園へ 1924年3月 - 知恩院塔頭常称院の寺男となる 6月 - 知恩院塔頭常称院から須磨寺大師堂へ入る 1925年5月 - 福井県小浜常高寺の寺男となる 7月 - 常高寺を去る 8月 - 小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵に入る 1926年4月7日 - 南郷庵に死す 死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル 戒名大空放哉 居士 まさにエリートの挫折を絵に描いたような人生。酒を飲んで暴れたらしいが、何が彼をそうさせたのかは私は知らない。現代ならば、うつ病の治療をしながら、滅んでいくタイプだろうが、大正末期の彼は自由律の俳句を作りながら、最後の三年で文学史に残る俳人になる。編者の池内紀より新たに知ったことが二つ。ひとつは放哉の名の由来。彼は東京大学に入学した年、従妹の沢芳衛に結婚を申し込んだが、親類が医学的理由で反対する。放哉は「芳衛」への思慕を「放つ」意味から名付けたらしい。彼の「挫折」の大きなひとつだろう。晩年放哉は、一日十句、半年で1800句を作り、そのまま井泉水に送っていた。井泉水は俳句の世界の約束事により、その中の数句を選び、ときには添削をして同人誌に載せた。その俳句が放哉の死後有名になったのである。けれども、添削は例えばこのように行われていたことが今回わかる。有名なこんな句がある。口あけぬ蜆死んでいるこれは元の句はこうである。口あけぬ蜆淋しやつまり、抒情句がとたんに厳しい死の造型になったのである。しかしこれは決して共作ではない、俳句世界の約束事からも放哉のオリジナル性は変わらないと池内は言う。20年ほど前、私は小豆島南郷院を訪ねたことがある。小さな記念館として、死んだときのままその小さな庵は残されていた。海が少し見える小さい窓一つもつ今でも笠岡の神島などにも残っているし、全国的にもあるが、小豆島にも四国と同じように八十八ヶ所巡りの寺或いは庵があり、そのお遍路を待ってあがるわずかな収入で、少しの焼き米と焼き豆を食する生活。当然放哉は衰弱する。しかし彼はそのことを期待していたのである。「安定シテ死ヌ事ガ出来ル」エリートの挫折。壊れた心はどのように死に近づいていくかを、ひとつの典型として放哉の句に読むことが出来るような気がする。20年前、帰りのフェリーの中で涙が止まらなかった。放哉が哀れでならなかった。わがからだ焚火にうらおもてあぶる淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見るひげがのびた顔を火鉢の上にのつけるハンケチがまだ落ちて居る戻り道であつた豆を煮つめる自分の一日だつた鼠にジャガ芋を食べられ寝て居た蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残つているアノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道線香が折れる音も立てないわが肩につかまつて居る人に眼ががない入れものが無い両手で受ける机の足が一本短い咳をしても一人墓のうらに廻るカタリコトリ夜の風がは入つて居る
2007年12月03日
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合宿で一晩留守にしていた間に、岩国の一万人集会一万一千人で見事成功したようです。よかった。これで、岩国は住民の意思を三度も示したことになる。国とアメリカの言いなりになる議会または政府はこのことを本当に真摯に受け止めて欲しい。司馬遼の「街道をゆく」を初めて読みました。「韓のくに紀行」朝日新聞社古本屋で買ったのです。実は「街道をゆく」シリーズはおろか、司馬遼太郎の本を文庫本以外で買ったのはこれが初めて。読んだのは、「国盗り物語」「空海の風景」以来だろうか。中学生のとき、図書館で借りて読み、その「天才史観」に辟易し、長じて加藤周一が批判し、藤沢周平が避けているのを知って、さらに読む気がしなくなった。しかし司馬遼太郎亡き後、街道シリーズはますます隆盛を極め、NHKテレビは番組を編成し、関連本は世に広まった。その中で、韓国紀行のことは、韓国旅行記を書いている間にチョコチョコと聞こえてきた。そして今回買ってみて、ページをめくっているうちに驚いた。ここに書かれているのは、現在でも決して観光地ばかりではない。それでも、偶然にも私が行ってきたところばかりなのである。釜山の倭館、金海、慶州、友鹿村、扶余。慶州、扶余は観光地なので、比較的初期の頃に行き、金海、友鹿村は去年の韓国旅行のときに行った。決してこの本を読んだからではない。けれどもこの本の影響はいろんな所に浸透していて、卑しくも韓国の歴史に興味あるものは、この本を避けて通れないのだということが今回よくわかった。良くも悪くも彼の博識ぶりは尊敬以外の何者でもない。釜山の倭館については、まだ書かれていない。今年の旅の最後のところで言及します。さらに驚いたのは、彼が韓国に行ったのは、せいぜい80年代のことだと思っていたのだが、なんと1971年のことなのである。非常に優秀な通訳がついたということもあるのだが、司馬遼太郎の韓国の旅する視点、歴史観は私の今のそれとはほとんど変わらない。途中まで全くその頃の韓国の姿だとは思わなかった。ただ、友鹿村に行ったときにこんな文章を書いている。「急速な資本主義的発展をとげたソウルと、なお李朝的停滞の中にある農村との間には、500年か1000年の開きがあるように思われる。ソウルでは地下鉄を作るという計画が進められているというのに、農村では一般に電灯もないのである。」ここで初めてえっ、と思った。大邸郊外のここは田舎ではあるが、電灯は来ていた。そこで初めて奥付けを見たのである。そういう意味では、34年前に行ったならば、500年前の韓国の姿を見ることが出来たのに、と思う。そういえば、映画「夏物語」もほぼ同じ時期の韓国の田舎の物語だったが、電灯は来ていなかったけ。そのようにして思えば、この30年の田舎での近代化は目覚しいものがあったのかもしれない。司馬遼太郎は未だに好きではないが、この本だけは韓国歴史旅行をする人は一度目を通しておいたほうがいいと思う。
2007年12月02日
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「それと‥‥‥俺たちは軍隊ではない、自衛隊だ。」監督 : 成島出 原作 : 高嶋哲夫 脚本 : 長谷川康夫 、 飯田健三郎 出演 : 大沢たかお 、 竹内結子 、 玉木宏 、 吉田栄作 、 袴田吉彦 、 大森南朋 、 石黒賢 、 藤竜也 日本アルプスに米軍のステルス爆撃機(ミッドナイト・イーグル)が墜落した。その積荷にはとんでもないものが‥‥‥。日本政府は「ふってわいた危機」に、国民が知らないようにひそかに、吹雪のアルプス山中においてテロを企てた「某国」工作員たちと闘うのであるが‥‥‥。それに、元戦場カメラマン役の大沢たかおや、雑誌記者の竹内結子 、 玉木宏が絡んでくる。と言うような話。竹内結子は複雑な表情が出来るようになった。あとはいい映画に出会うだけだね。自衛官役の吉田栄作も渋い演技をする。(以下重要なネタバレに繋がる話あり)その吉田栄作が自分の誇りをかけて言う言葉が冒頭の一言。確かに、彼が果たしたのは専守防衛の仕事ではある。と、いうような設定になっている。そういう「政治的」なことに気を使いすぎる脚本なので、結果的に荒唐無稽な話になった。たくさんの突っ込みどころはあるのだが、一番気になった点をひとつだけあげる。それは、この話の発端は米軍が日常的にレーダーに映らないステルスに核兵器を搭載して某国(北朝鮮であるのは明らかであるが、ついに一言もセリフに入らず)上空を行ったりきたりしているのを「逆恨み」して、某国工作員が横田基地のステルスに爆薬を仕掛け墜落させて、日本に核爆発を起こさせようとした話である。日本の首相はそういうステルスの事情を全く知らなかったらしい。おいおい、某国はもしテロが成功しても、それは日本に対して戦争を仕掛ける、と言うことなんですよ。子供のけんかじゃないんだから、どうしてそんな無責任なことが某国が出来る、と発想するのだろう。しかも一個中隊の本格武装集団がやすやすと日本に入り込めるという設定はいかがなものか。首相は一人悩む姿を演じて見せたり、独りで責任をとると言うようなせりふを言わせたりして見せたり、「泣き」を強調しているが、作品としては、最も責任のあるアメリカに対する批判的な視点がまったくない。これではこの話はいったい何を言いたいのか、全く分らない。この作品、日米同時公開らしい。アメリカの国民の失笑が目に見えるようだ。米国政府は充分に知っていただろうが、日本というのはこれほどまでに御しやすい国なのか、と宣伝にいっているようなものだ。みっともない。昨日の記事にも書いたが、「アメリカの先制攻撃戦略に沿った日米軍事一体化計画の具体的な姿」をこの事件を発端にして浮かび上がらせる作品だったら、作品としても成功しただろうし、アメリカ国民にもかえって好印象をもたれるのではないか。このような国際的大事件を浪花節で終わらす邦画の伝統はもうそろそろ止めにして欲しいものだ。
2007年12月01日
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