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「風の万里 黎明の空(上)」小野不由美 新潮文庫 「月の影 影の海」の直後、戴冠したばかりの景国王陽子の戸惑いから始まり、元芳国公主(皇女)祥瓊や、明治時代末の日本から十二国に流れ着いた少女鈴の紆余曲折、3人を同時並行で描くことで、十二国で生きることがどういうことなのかを重層的に見せる巻となっている。 祥瓊も鈴も、それぞれ3年間や100年間で身分の激変があり、「世界」を知る契機があったのに、自らの不幸を嘆くばかりで、張清じゃないけどほとんど「ガキ」だ。そして陽子ははじめての王様の仕事で王様ブルーになって市井に隠遁するなど、「月の影 影の月」とは種類の違う暗い展開になっている。 また、「この世界」の様子もだいぶわかって来た。少なくとも千年以上は続いているこの世界が、何故に日本のように産業の発達がないのか、その秘密も少し推測できるようになった。例えば、人や馬や牛、新種の作物でさえも、それは「生命のなる木(天帝の意思?)」の気まぐれにまかされていて数が調整されているからだ。また、王朝の交代や天災によって、人口や経済は一気に後退する。経済によってモノが産まれるのではなく、意思によって産まれるのである。そんなこんなで産業の発達は著しく阻害されている。人々はそのことに何の疑問も持っていない。だって、世界はそうなっているから。だったら、完全に閉じて、百年のうちに何度も外の世界(日本や中国)から人を招き入れなかったら良いのに、などと私などは思う。そこには深遠な天帝の意思があるのか、それともないのか、他所のファンはともかく、私などはそういうことが気にかかるのではある。 しかし、泰麒や陽子が流れ着くこの時代、あまりにも王朝の交代が激しく、日本からの招来が多い。それは何故なのか?おそらくシリーズを通じて最大の謎になるだろうと思う。 祥瓊や鈴の、あまりにも自分勝手で「ガキのような」思考には辟易した。下巻では、それが反転するのかしないのか、まぁそれも読みどころだろうと思う。 明らかになった年表的事項もあるが、それは下巻で記入する。下巻を紐解くのはおそらくお正月だ。
2019年12月27日
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「カムイ伝第二部(不知火)(〜17)」 第8章「不知火」(14ー17巻) 竜之進「松造、拙者は(略)人の運命(さだめ)とは、一瞬先は闇とみて生きてきた。おぬしより拙者の方が先に逝くかもしれぬ」 松造「そんなことは承知の上でさあ。(略)人はなにも長生きするだけが能じゃねえ。ただ死ぬときには、おれは生きたんだってことを納得できる生きざまを(息子の小助に)教えてやってほしいだけでごぜえやす」(第14巻206p) 案外、この死生観がカムイ伝第二部の最大のテーマかもしれぬ。冗談です。 泥棒集団不知火一族のアヤメ奪還のために、タブテや五つ、竜之進、草鬼、日州、宮城音弥、カムイそして将来の老中堀田正俊までが活躍する。アヤメの奪還が何故重要かと言えば、逮捕・処刑の黒幕が酒井忠清だからというその一点に過ぎず、ここまで約3巻かけて描くのには、ずっと違和感があった。ただ、本当の狙いは別にあったのではないかと、今回再再読して思うようになった。ほぼ一巻かけて23年前の島原の乱が詳細に描かれる(アヤメの父親・道無の過去を描くため)。隠れキリスタン弾圧を機にした大きな「乱」であった。もちろん、差別される者に寄り添う姿勢は、正伝の中で一貫している。それは「カムイ伝」第一部第二部を貫くテーマでもある。しかしそれだけではない。実は島原の乱は、幕末を除いては、江戸時代に起きた唯一の幕藩体制を揺るがす「大戦争」だったのである。第二部が歴史的年代に拘った一つの狙いが、この島原の乱を描くことにあったのだとしたら、実は合点が行く。これは、カムイ伝が本来はたどりつくべき「戦争」、そして敗北に終わるべき戦争だったのではないか?つまりカムイ伝本来のテーマの前哨戦を描いたというわけだ。この時、反抗者だけでは無く、反乱を収めようとして失敗した一次二次の責任者は全て惨めな最後を迎えている。アヤメを逮捕する立場にある石谷奉行も島原の乱に参加していた。歴史的には他の責任をとって(この作品ではアヤメ処刑失敗の責任を取って)終わっている。こういう複雑な支配構造がカムイ伝本来の構想と結びついていたのかもしれない。ただ、この時点では物語全体から見れば島原の乱を無理やり挿入しているように思える。この大河物語が完結して、この伏線が生きたならば又違っていたのだが。 それと、事件の終息を告げる石谷十蔵町奉行辞職の件が1659年と書いている。この「不知火」の章のきっかけは、佐倉事件の終わりに竜之進が罠をかけられたことによる。佐倉事件は1660年なので、これは明らかに矛盾である。史実だとしても、それを実際書いてはいけなかった。明らかなミスを犠牲にしてまでも、石谷の辞職を「歴史的事実」だったと描く必要があったということなのだろう。 「カムイ伝第二部はどこに行くのか」ここで一旦切ります。長い長編もあと三章を残すのみとなっている。
2019年12月22日
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「カムイ伝第二部(佐倉十一万石)」(〜14)白土三平 小学館 第7章「佐倉十一万石」(12-14巻) 酒井雅楽頭の「野望」に関して、宮城音弥の推測を語る場面がある。「堀田家の排除だけならば、こんな回りくどいやり方はしない。将軍を鬱の病で除くことを通じて、自分の天下を狙ったのではないか」。「野望」の正体の一つの結論だが、おそらくそんな簡単にはわかるものではない。この巻では、酒井忠清の思惑通り、堀田上野介の無断佐倉帰り(史実)が行われる。 音弥が将軍家綱を、気鬱の病から救う少し前の話に時制は戻り、上総の椿湖干拓に従事する正助、竜の進、熊沢蕃山たちがカムイとまた一旦別れることになる顛末も描く。 つまり、カムイが追忍(?)と相対する顛末である。裏の裏の裏をかく描写は、緊迫感に満ちていてエンタメとして素晴らしかった。なんと!あのカムイの必殺技霞斬り、飯綱落としがあっさりと破られる。そして「カムイ外伝(スガルの島)」で作り出された十文字霞くずしさえも、この謎の男の前に破れて終う。その相手は謎のままという展開。この時、カムイは絶体絶命のピンチに陥る。ここまでのピンチは、カムイ伝中最も過酷だったと言っていいだろう。白土三平が長い間温めていた展開だったことは間違いない。画の描写もすごい。 カムイ外伝・正伝からの人物の名前が次々と出てくる。搦の手風、百日のウツセ、棒心、伝次、名張の五ツ。その過程で、謎の男から「抜けるばかりが抜忍ではなかろうが。初心を忘れおってからに」という伝言。正に外伝ではなく、正伝としての展開である。そしてカムイにこんなことを言える人物は、正助以外では1人しかいない。このあと、カムイは「野望」の章の宮城音弥のところに行き、音弥が徳川家綱の気鬱の病を癒すのを助けるのである。カムイの目的は、ただ宮城音弥を助けたかった、だけではない。ましてや、家綱に恩を売りたかったわけではないことは明らかである。 また、熊沢蕃山の思想の一端も紹介している。いわゆる、革命を経ずに日本国を豊にする方策である(参勤交代制度廃止論‥‥これも史実)。第二部が教育論を漫画化しただけという一部の論評は、しかし不十分ではある。正助も黒鍬衆の拡大によって、少しでも人々の移動を自由にし、身分制撤廃への道につなげようとする夢を語る。実現・非実現性は一旦置いておく。もちろん、ここでは大きくは展開されてはいない。ひとつ驚いたのは、千葉県佐倉にまで日置大一揆を謀った「影衆」が組織されていたということである。この広がりは、まるで戦前の共産党組織のようだ。これは、非常に恐ろしいことだ。いざという時には、一挙に「日本中の百姓・非人が動く」可能性があるということだ。ただし、これも未完のためか、展開されなかった。そして最後は酒井忠清の堀田上野介への企みを潰すことで終わるのである(万治三年1660年9月堀田上野介の佐倉帰城事件)。←ひとつ驚くことがある。第二部が始まったのは、1656年である。なんと、14巻かけて、4年しか経っていなかったのである。 それにしても、湖の中の食物連鎖の描写は、構成は白土三平自身がやったにもせよ、岡本鉄二の画は素晴らしい。この弟の死はいつから始まったのだろうか。残念でならない。
2019年12月21日
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「カムイ伝第二部 -12」「野望」白土三平 小学館コミックス 第6章「野望」(9-12巻) 世に名作「カムイ伝」の評価を下げたという評価のある第二部全22巻、いつかは取り上げなくてはならないと思っていたために前回は9巻まで6回に分けて、章ごとに批評していった(2018年7月)。その続きを書く。今回は大長編となった「野望」の章の途中で、2年間も中断して再開し、そのまま始まった「野望」の章を最後まで見てゆく。 四代将軍家綱が大きくクローズアップされるのは第10巻だ。物語はいよいよ歴史上の人物や出来事が出現する反面、物語の中の主要登場人物はどんどん宮城音弥(草加竜之進によって命を助けられ、浪人武士の出ながら小姓から将軍教育係まで出世している)の方にシフトしていく。既に物語のテーマは第一部の階級闘争から遠く離れている。音弥は、将軍への個人教授でこのように教える。 「高貴に生まれてもそれなりの苦しみがあり、私どものように貧なる生まれにても楽しき時もございます」 「それぞれの宿命をいかに生きるか、その生き様によって、この世は地獄ともなれば極楽ともなると‥‥」 「仰せの通りかと存じまする。故にすべての庶民は、百姓も漁民も皆必ず死ななければならぬ生を生きるべく、懸命に命をかけて生きておりまする。したがって楽しむ時には、精一杯楽しみます。なれど、己の運命(さだめ)をのりこえるには、勇気なければ耐えられませぬ」 音弥は、その時のために武術の稽古も必要と話をするわけだが、ここに至るとまるで「教育論」である。支配階級の頂点に位置する将軍と庶民を、ある意味では同等の者として描いている。まあ、音弥の言っていることはその通りなんだけど、芸術論を活かして、武も極める過程は少し出来過ぎの感もなくはない。 しばらく休みを取った後に、白土さんはなんか物語の構想を此処で大きく変えた、又は諦めたのだろうか。最終巻で結論を述べたい。 此処で正助の息子一太郎が、サエサに騙されて忍びの世界に入っている。忍びの世界をヤクザの世界に置き換えれば、サエサの心変わりも一太郎の不良化もガッテンのいくことである。ここでカムイは甥のために、いっぺんに教育するのではなく、おいおいと見守る方針を立てたようだ。それが果たしてうまくいくのか、私などは疑問である。 酒井と「影の参謀、猿投沢城主、望月佐渡守」との密謀は、四巻かけて半分くらい明らかになった。酒井雅楽頭の独裁への野望はどのように画策されて、どのように潰れるのか?現代の眼から見たらどう見えるのか?果たしてそこまで、話は行くのか?見守りたい。
2019年12月20日
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「創世のタイガ(〜6)」森恒二 講談社コミックス 人類学ゼミの卒業旅行でオーストラリアを旅している途中、男女7人はタイムスリップしてネアンデルタール人とホモサピエンスが同時に生息していた時代に行ってしまう。何故なのか、どうなるのか、ということは最終巻に明らかになるかもしれないが、漫画の目的はそこにはない。大型獣や最も警戒しなくてはならない人類のいる中で、体力や時代のスキルに劣っていると思われる現代の若者が、この3万年前(私の推測)の旧石器時代に果たして生き残ることができるのか、という問いかけの漫画なのだ。現在出ている6巻まで一気読みした。 ただ彼らには、人類学専攻で普通の学生以上に高い知識がある。また、主人公タイガは格闘技の技術と工夫と勇気があった。 ネアンデルタール人とホモサピエンスは当然のように「組織的に」殺し合っている。これには私は、とっても違和感がある(cf.『絶滅の人類史』を読めばその根拠を書いている)。このように描くのは、「戦争」がないと歴史が進まないと勘違いしている現代人の悪弊だと思う。何しろ彼らが殺しあう動機をこの作品は一切語っていないのである。しかし、ここでいくら言っても物語はそのように進んでいるので、とりあえず受け入れて読み進めていった。いいところもある。日本の古代ファンの私が見ても、とっても面白い所が多いからだ。 大型獣をも倒せる石槍の作り方、皮のなめし方、土に書く地図、共同体の中の長老の存在、簡単な信仰、狩の仕方、生き血で塩分を摂る方法、塩がまだ作られていなかった頃の保存法(いぶし肉)、そして組織的な狩によるマンモスハンター、「創世の」という題名の意味がどんどん明らかになってくる最新巻だった。
2019年12月17日
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「東の海神 西の滄海 十二国記3」小野不由美 新潮文庫 このファンタジー世界の秘密に関して、冒頭にとんでもないことが書いてあった。冒頭なので、ネタバレとして扱わない。以下に記す。 世界の果てに虚海と呼ばれる海がある。この海の東と西に、二つの国があった。常には交わることなく隔絶された二国には、共に一つの伝説がある。 ー海上遥か彼方には、幻の国がある、と。 そこは選ばれた者だけが訪ねることのできる至福の国、豊穣の約束された土地、富は泉のように湧き、老いもなく死もなく、どんな苦しみも存在しない。一方の国ではこれを蓬莱と呼び、もう一方の国ではこれを常世(とこよ)と呼んだ。(12p) もちろん、蓬莱とは日本のことである。では、常世は何を示すのか。十二国の世界そのものを示すのである。十二国とはあの世、或いは天国のことだったのか?でも、さぁこれで「十二国記」の秘密はバレた!と思ってはいけない。日本をそんな国だと言っている端から真実ではないことは明らかだからである。「常世」の起源はいつ頃だろうか。民俗学的には日本全国にその伝説はあり、特にニライカナイ伝説が有名だ。考古学的には宗教遺跡は遺らないのでわかりにくいが、仏教以前と考える方が自然かな。だとすると、古墳・弥生時代となる。蓬莱はどうか。紀元前91年ごろに完成した司馬遷『史記』の中に、秦の時代(BC3世記)の『徐福伝説』の中で出てくる。神仙思想のひとつ。かなり古い。でも、弥生時代と重なる。他にも検討すべき言葉はあるが、長くなるのでここまで。 閑話休題。この巻で、時代は一挙に500年前に飛ぶ。雁(えん)国王、延王尚隆と延麒六太の始まりのお話である。 ここでは、理想の政治体型についての議論が戦わされる。とは言っても、十二国は、天帝の意思を代弁して麒麟が王を選ぶ。王は理想の政治を行うことになっている。王は不老不死だし、そのまま理想が続くと思いきや、昏君になることがあり得る。そうなると、麒麟は病み、失道に陥る。そのまま麒麟が斃れれば、王もまた斃れる仕組みである。今回の敵役、元州の斡由は「それならば、民の信任厚い私に元州だけでも全権をお任せください」と武力と脅迫を持って迫るというわけだ。手段はよくないが、理屈は一見通っているかのように見える。 王が不老不死のまま、必ず理想の国つくりを行えば、こういうことにはならない。でも、どうやら千年続いた国はないようなので、最初よくても、最初から悪くても、王は必ず失道するのだろう。「名君による独裁国家か、民主主義による腐敗か」という議論は、『銀河英雄伝説』からこの方ずっと読者を悩ましてはいるが、この世界は、一応「名君による独裁国家」を制度化した世界のようだ。天帝(の使い麒麟)が選ぶのは、必ず「人間」だ。人間はいつかはダメになる。それを見越しての制度化である。これがホントの理想国家なのか?天国なのか?昏君になったときの民の不幸は目を覆いたくなるようなものだ。数十年であれ、民にそんな想いをさせて良いものか。超人ではない延王尚隆は、20年や30年では民を幸せにはできない。元州の斡由が出てくる所以である。延王尚隆は果たしてどうするのか? (実質この世界の天帝たる)小野不由美の手腕が問われる。 それにしても、「ある人物」は、「己の失敗を認めることができない」「自分が完璧だと信じたい。傷を隠すためならばなんでもする」という風に描かれた。最近、現実のある一国の責任者の中にそういう人物がいたことを思い出した。 最後に、ここまでで分かったことを年表に落とす。斡由の乱の帰趨は次巻の時に付け加えます。 年代推測は綿密な考証をしている長文コラム 「COLLUM」(https://proto.harisen.jp/koramu/komatsu-metsubou.htm)をそのまま参考にさせてもらいました。泰麒の項の記載も若干修正しました。 1467年 六太1歳応仁の乱で罹災する。 1470年 六太4歳麒麟となる。 1477年 延麒六太京都を彷徨う 1479年 瀬戸内海賊村上氏により海辺領主小松氏滅亡 (大化元年) 六太、小松尚隆を延王とする 1500年(大化21年)斡由の乱 X元年 泰麒 胎果として日本に流される X8年 景麒 景国に降りる X9年末 景麒 商家の娘である景王を見つける X10年 泰麒 2月蓬山に戻る 泰麒 泰王見つける X11年 泰麒 4月日本に戻る X14年 5月景国王亡くなる。 X15年(1992年?)1月陽子日本より来たる 8月陽子景国王となる X17年 泰麒 9月戴国に戻る
2019年12月10日
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「響 小説家になる方法」柳本光晴 小学館コミック 「響」が完結した。前巻まで読んだ時、もう明らかに「仕舞い」に掛かっているのが見え見えで、流石に破天荒の天才を描いた作品も、作者は天才ではないので、セオリー通りに終わるかなと思った。で、セオリー通りに終わった。 マンガ大賞受賞作は、一応目を通そう。ということで読み始めた最初の頃の作品なので、気にはなる。「小説家になる方法」ではなく、「文芸畑に天才が現れた時には何が起きるか」という話。冒頭文芸誌の編集者が「何か今までのセオリーをぶち壊すような作家が現れたらジリ貧の文芸誌の未来は変わるのに(例えば太宰治みたいな)」という意味のことを呟く。「太宰治」には同意出来ないが、その言葉に期待して読みつないで来た。しかし残念ながら普通の「天才系」マンガだった。 編集者の斜め上をいく話を描いたら面白いのでそのまま通したら映画化までして成功したという典型。一度も、直木賞芥川賞同時受賞の作品の「文章そのもの」は出ないで終わった(←当たり前だわな)。周りの大人の右往左往を比較的リアルに描いて、現代日本のマスコミが如何に青少年の個性を潰すのか、ということを見事に見せたということだけが、この作品の価値だと思う。
2019年12月01日
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「恋のゴンドラ」東野圭吾 実業之日本社文庫 東野圭吾は、スノーボードやスキーが趣味なのは読んだだけでもよくわかるが、それをテーマにして描くと筆が滑るのか、軽く滑ってゆく傾向がある。スノーボードと恋を絡めた連作短編集である。 初出は全てスノーボード専門雑誌「Snow Boarder」等の特別付録としてらしいから、軽い読み物として書かれているのは仕方ない。しかし気に入らない。 「Snow Boarder」に掲載された5篇だけに限っていうと、いわゆるブックエンド方式。「ゴンドラ」「リフト」「プロポーズ大作戦」がプロローグにあたるとしたら、「プロポーズ大作戦リベンジ」「ゴンドラリベンジ」はエピローグ。と見事な構成になっている。気に入らないのは、登場人物達の若者描写が、どうも薄っぺらくて楽しめない。オチは、これしか無いオチなんだけど、どうして桃美はこれで「お終い」だと思うのか。広太と、特に水城の浮気性も、東野圭吾は断罪していない。主人公格なので、そういう書き方だと東野圭吾自身の品格も疑われる。 何故か『白銀ジャック』『疾風ロンド』の根津さんも出演するサービス精神も発揮しているだけに残念。
2019年11月30日
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「風の海 迷宮の岸 十二国記2」小野不由美 新潮文庫 十二国記シリーズを、この期、初めて読んで、しかもアニメも全く観たことない自分です。epi.1(『月の影 影の海』)、 epi.0(『魔性の子』)、そしてこのepi.2の順に読んだ者だけが味わえるドキドキ感と、そしてラストの意外感を、私めは味わさせていただき、大変嬉しく思っています。 よって、この巻の大きなネタバレは書かない。でも、文末に主に0、1を通して分かった事を年表にした。ので、それを嫌う方はこれ以降読まないように。 epi.0において「ホラー」だった世界は、epi.2においては、「天上の理」の世界に書き換えられる。この表裏をひっくり返す驚きは、0、2と読んで行くのが面白いので、この読み方を私は推薦します。こういうのは読書の喜びですね。一方1は「天下の理」の世界でした。 このシリーズを、私は「歴史書」として読んで行こうと思っている。よってキャラで読む読み方はしない。「泰麒が可愛い、愛しい」とも思わない。泰麒は麒麟として想定内の成長を遂げた。気になるのは、天上の世界の「不気味さ」である。出てくる人物は、みんな普通の人間だ。不老不死になろうとも、人間として理解出来ないわけではない。しかし、黄海の周りに聳える天上世界は、どうも冷たい。謎がある。例えば、何故突然泰麒は「胎果のまま流されなくてはならなかったのか」そのことの説明も、シリーズラストまで引っ張るつもりかもしれない。 だから私は、世のシリーズファンとは違う向き合い方をするだろうと思う。ただ、傲濫の件はちょっと血がたぎりました。泰麒の絶望感は私も感じていて、景麒の回りくどい説明にはすっかりやられました。また、ラストはてっきりあの場面に結び付くのだと思っていたので中途半端に終わったのは意外(ごめん、未読の人には何が何やらわからないと思います)。 epi.0の「白汕子、傲濫」等の幾つかの伏線回収が行われました。そういう楽しみはある。 年表は、仮に高里こと泰麒が、蓬莱山より胎果のまま日本に流された年をX元年として数えました。数え方が間違って1年ぐらいの誤差はあるかもしれないし、月もあまり自信がない。しかし、作ってみて気がついたことがあります。 (1)X15年-18年あたりが日本の90年代にあたることは、間違い無いと思う。携帯の描写が存在しないからである。その他、マスコミ、テレビ等々の描写はある。 (2)0において高里が呟いた言葉のうち、「角端、孔子、ムルゲン、ロライマ、ギアナ」の言葉の意味が未だ不明だ。「角端」は0でも言っていた「私の麒麟の角がない」ということに対応しているのかもしれない。「孔子」は、高里が日本で論語を読んでいたはずがない。0において何故レン麟がこんなにもが泰麒を助けようとするのかも不明だ。よって回収されていない伏線はまだ多い。果たして回収されるのか、もわからない。注目したい。 (3)著者は90年代のうちにシリーズを終わらせようとした節がある。それは今年の新作がブック紹介を見ると未だX18年あたりらしいということでそう思うのである。少なくとも新作発表が、2019年まで持ち越したのは想定外だった可能性が出てきた。 X元年 泰麒 胎果として日本に流される X8年 景麒 景国に降りる X9年末 景麒 商家の娘である景王を見つける X10年 泰麒 2月蓬山に戻る X11年 泰麒 4月日本に戻る X14年 5月景国王亡くなる。 X15年(1992年?)1月陽子日本より来たる 8月陽子景国王となる X18年 泰麒 9月戴国に戻る
2019年11月29日
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「カゲロボ」木皿泉 新潮社 そんなとき、突然、「なに見ているのよッ」と声をかけられたのだった。チカダには、不機嫌そうな顔でにらんでいるその女子が、生々しく思えた。ようやく生きている者に出会えたと思った。しかし、それでもまだ本物かどうか確信を持てなかった。オレをだまそうとそうとしているのではないか。やっぱりすべては、映画のようにスクリーンに映った幻のようなものではないか。チカダは、そのまやかしのスクリーンを切り裂いて、その向こうにある本当の世界を見たかったのだ。切りつけるというより、目の前にあるホットケーキのような太股に線を引くようにカッターナイフを走らせただけだった。(197p) 今朝、14歳の少年が小さな女の子をカッターで切りつけたというニュースを見た。「誰でもいいから殺すつもりだった」と言っているらしい。この「あせ」という短編とのつながりは一切ない。けど、この近未来を描いているような不思議な短編集は、今朝のニュースを見たあと「つながっている」と思った。 読む前は、リード文を読んで近未来の監視国家を描いた小説かと予想していたが、違っていた。近未来ではない、もっと広く、そして深刻な「現代」の「傷ついた人たち」を描いていた。 全ての短編に通じているのは、何故か日常の中に変なロボットが存在している「らしい」ということが描かれていることだけだ。それは、大抵は一つの回答のない問題を解くための「1本の補助線」である。いじめにしても、社会福祉にしても、運命にしても、それはいつもそれ「らしい」けど、よくわからないものだ。 カッターの少年のホントの「心」はわからない。けれども、チカダのようなお父さんが居れば良いな、と思った。 2019年11月14日読了
2019年11月15日
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「魔性の子 十二国記」小野不由美 新潮文庫 恐ろしいと思う。 物語の内容が、ではない。あの菊池秀行氏でさえ解説はホラー小説として評価していることが、である。91年の8月に書いていて、十二国記シリーズが始まる前の記述なのだから仕方ないのではある。私とて、第一部を読まずに、このエピソード0から読み始めたら、同じような感想を持っただろう。ただただ、理不尽な異世界からの厄災はホラーでしかない(映画の『来る』もこんな感じだった)。学園の中で、「異端の少年」は初めは小さないじめに遭い、その度に祟りのような厄災が起きる。周りの扱いは無視・忌避そして恐れ、攻撃、追従へと移ってゆく。やがてマスコミという巨大な暴力装置が発動し、それらに対する大厄災が起きる。ホラーというよりも、日本人特有の「荒ぶる神」に対する感情を扱った「神話」のような気がする、というような感想を第一部を読んでいなかったならば持っただろう。少し切り口は違ったがホラーエンタメを描いてきた菊池氏にとってはあの解説は当然であった。 ところが、本質は違ったのだ。今や十二国の地図さえ知ってるいる私は、この厄災の意味が半分以上は推察がつくようになっている。シリーズ全部を読んでいるファンたちには尚更だろう。これほどまでの死者が出たことの原因を私は知っている。そんな風に、あたかも「神の視点」を持つようになった自分が恐ろしいと思う。(物凄く不謹慎なので書くのを憚られるのだけど、仮の発想として今回の台風19号の大厄災の本当の意味をもし知っていたとしたら、貴方は『とても恐ろしい』と思いませんか?) 冒頭と終わりに八世紀唐の人、王維の阿倍仲麻呂との惜別の詩が捧げられている。「滄海の東の果てのことはよくわからない」「音信はもう届かないだろう」という詩なので、2つの可能性を考えた。一つは十二国の始まりが唐の時代だったという可能性だが、これは熟考した結果「無い」と思う。ひとつは、「東」を無視すれば、正にラストのある主要人物の気持ちそのものを代弁しているだろう。それはそれで、とても哀しい感情である。
2019年11月02日
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「麦本三歩は焼売が好き」住野よる 幻冬社電子書籍 短編一本分、200円。高いのか安いのか。Amazonの溜まったポイントで読んだから、懐は痛まなかった。てなことじゃなくて、価値があったのか無かったのか。 「麦本三歩が好きなもの」を好きな読者を前提にして書かれた一編であることは確かで、断じて初めての読者が読もうものならば図書館の人間関係が全くわからないで置いてけぼりにされる。前回の本の時に(決して責めているんじゃない、むしろ当然の権利だと思うんだけど)「三歩って何か苦手なタイプかも」と思った読者にとっても、三歩の新しい面が見えるわけでもなく、むしろ3年目にして初めて後輩が入ってきてくるのを知るや否や「んぬぇ?」と叫ぶわけだから、更に嫌いになること請け合いです。 で、もはや孫娘のように三歩を愛でて、シブコこと渋野日向子がいくらボギーをたくさん叩いて崩れても応援し続けるファンのように、私は三歩を「推し」続けます。 うん。200円は高くも安くもない。初めての電子書籍購入、無事に買えてホッとしました。
2019年10月29日
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「ミステリと言う勿れ」田村由美 小学館フラワーコミックス 「このマンガがすごい!オンナ編」「マンガ大賞」第2位。いやあ、なかなか良くできている。女性マンガには珍しい上質のミステリでもあるけど、ドラマ「俺の話は長い」系の随筆マンガでもある。いや、どちらかというと哲学マンガでもある。2巻目で、最近小学校の教師が授業で出して物議を醸した「トロッコ問題(5人を助けるために1人を殺すことになったら、どちらを選ぶか)」が出てきた時にはそう思った。 「僕は常々思っているんですが」という決め台詞ならぬ、話をややこしくする台詞があって、これはまさしくテレビドラマ向きだ。どうしてテレビドラマ部門がこの原作に未だ手をつけていないのか不思議でならない。探偵でもなく、刑事でもない大学生の整(ととのう)くんがひたすら喋って事件を解決するお話。 作者の名前が、田村由美さんで、カタカナじゃなくて、なんかものすごく安心する。というところで推理を働かせて調べてみたら案の定、というかそれ以上というか、35年超の大ベテランでした(代表作「7SEEDS」「巴がゆく!」)。おそらく50代か60代だと思うけど、非常にみずみずしい感覚を持っていて、エンタメマンガの雄だと思う。というか、名前も知らなかった。ホントに失礼!すみません。現在5巻まで出ている。
2019年10月27日
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「4分間のマリーゴールド」キリエ 小学館 長期連載中のマンガのドラマ化が多い中で、きちんと(たった)三巻で完結しているこのマンガをドラマ化したことに敬意を表したい。 人の死に際が見える主人公は、最愛の義姉の死を救うことが出来るのか?という物語。ドラマを見ると、原作通りには進行してはいないが、大筋のところは原作通りにするだろうと予測する。そうしないと、このマンガの意味はないからだ。 終わりから始まった、きちんと構成された、今どき珍しい作品だと思う。 因みに、「4分間」の意味は1巻目の最後の章で言及されている。それをどのように料理していくのか、脚本の力が試される。 それにしても、最近の漫画家の名前は、またもや全てカタカナだ。国際化を目指しているとは到底思えない。私的には違和感しか無い。 (作品紹介) すべてをかけて沙羅を救う! 義姉・沙羅との結婚を決めたみこと。 最愛の人と愛し合う、今この瞬間の幸せを噛みしめる沙羅とは対照的に、沙羅の死の運命を受け止め方を、自分に問いかけるみこと。 死は絶望なのか。いずれ来る死に対して、自分は何ができるのか。 そして、運命の瞬間が訪れる・・・ 「命」と「死」と向き合う救命士の祈るような愛の物語、堂々完結。
2019年10月26日
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「月の影 影の海 十二国記(下)」小野不由美 新潮文庫 下巻に取り掛かって数十ページで「面白くなかったらシリーズは撤退する」という方針は、あっさり「シリーズ読破する」にとって変わった。上巻のゆっくりとした展開は、秀才のネズミ半獣・楽俊の登場によって急速に変わった。「世界」の全体像はうっすらと立ち現れた。以降怒涛の展開に至る。すみません、「陽子が実は麒麟の生まれ変わり」という私の事前認識は間違いでした。それぐらい私は、このシリーズのことを知らなかったと思って許していただきたい(「許す」と言われても貴方様にお仕えはしませんが^^)。下巻は久しぶりに1日で読み切った。 理想国家論に「民主主義か、名君による独裁か」という議論がある(cf.「銀河英雄伝説」)。この世界の構造は、とりあえず各々の弱点を克服したものように感じた。それでもやはり綻びがあるらしい。まぁそうだろうな、とも思う。 キャンベルの英雄理論に則して考察するに、陽子は未だ「究極の恵み」と「英雄の帰還」まで至らない。倭国(日本)に戻ることが「帰還」とは私は思わない。「帰還」には長い歳月が必要だと私は予測する。しかも、倭国と十二国との時間軸が同時に進んでいるっぽい。この作品が描かれて、未だ完結していないのはその辺りに秘密があるのではないかと、ふと思った。私の予測が当たっているかどうかは、このシリーズを読み終わって又考察してみようと思う。 また、私の大胆な考察を(未だ第一部しか読んでいないのに)もう一つ披露する(←何の与太話かと笑って貰っても良い)。十二国の地図が下巻で披露された。先ず思ったのは、これは宇宙の自然が造る姿だろうか、ということだ。その規模がいくら巨大だとしても、千年以上の歴史があろうとも、この世界は人造物である可能性が高いと思う。一応メモとして、此処に書いておきたい。 もし気に入ってシリーズを読み始めたら、当初は月2冊ぐらいのテンポで楽しみながら読み切ろうと思っていた。困ったことになった。そんなテンポに我慢できるだろうか。
2019年10月25日
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「月の影 影の海 十二国記(上)」小野不由美 新潮文庫 本屋がスペシャルセールを組んでいる今、どうしようかと迷っていたこのシリーズに手をつけてみることにした。ファンタジーは好きだ。上橋菜穂子の小説は全て読むことにしている。宮部みゆきもそうだ。『指輪物語』を読んだ時から、壮大な世界を構築して語られたお話は大好きではある。けれども長いので、全部読むのはそれなりの見極めが必要だ。 (上・下)が面白くなかったら撤退しようと思っている。 壮大な「自分探し」の話ならば、要らない。ファンタジーではなく他でやってくれ、と思う。ファンタジーでしか、描けないものがあるからだ。人はこの宇宙の全てを把握することは無理だ。だから、小説は「世界」の一部分しか描けない。でも、人はそういう小説を読んで少しずつ自分と世界との関係を測ってゆくのだろう。そういう小説に、素晴らしいものも勿論たくさんある。一方、ファンタジーはこの「宇宙把握不可能性」の不具合を解消しようとしたものだ。作家1人で「世界」を作ってしまう。だから、個人はその世界と「丸ごと」対峙する。ファンタジーの中では、宇宙の究極の謎を解き明かすことも、それに対して個人が究極の選択をすることも可能なのである。 さて、上巻を読んでの感想である(今ごろかよ!)。私は陽子が実は麒麟(どういうものかはまだ知らない)の生まれ変わりだというぐらいの不確かな事前知識だけを持っている。まだ上巻が終わったばかりのこの時点では、八方美人で何者でもなかった陽子の「自分探し」と見えなくもない。しかし、興味深いことがある。 ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』では、「英雄の誕生」は古今東西以下のようにパターンがあるという。「冒険への召命」「召命拒否」「自然を超越した力の助け」「最初の境界を越える」「クジラの腹の中」「試練の道」「女神との遭遇」「誘惑する女」「父親との一体化」「神格化」「究極の恵み」やがて「英雄の帰還」へと移って行くというのだ(もちろん、クジラとか女や父親は他に替わり得る)。そういう意味では、現在陽子は「試練への道」「誘惑する女」の最中にぴったり当てはまる。 だとすると、『指輪物語』に通じる壮大な世界が待ち構えていてもおかしくはない。下巻を読み進めたい。
2019年10月22日
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「月の満ち欠け」佐藤正午 岩波文庫的 これは読もうと決めていた。『図書10月号』の「こぼればなし」に、「岩波文庫的」という名称を使ったことの顛末を書いていたからである。初めての岩波書店の直木賞受賞作を、発行後2年半経っただけで「長い時間の評価に耐えた古典を収録する叢書に、みずみずしいこの作品を収録するのは尚早」ということで、「いたずら心で」で使ったらしい。(何故「的」の言葉を選んだのかというのはさて置き)そういう仕掛けは大好きなので、話のタネに読んで置こうと思っていた。ところが、予想以上に岩波書店はこの文庫本の発刊に力を入れていた。本屋で手に取ると、帯に『選考委員を唸らせた熟練の業が、「岩波文庫的」に颯爽と登場。』と岩波文庫的に難しい漢字を多用して煽っていたのだ。だけでなく、中に作者ミニインタビューの特別チラシまで入れているし、普段解説を書かないのに例外的に伊坂幸太郎が解説を書いていると思ったら、なんと『解説はお断りします』という編集者宛メール文をそのまま載せて解説の替わりにするというアクロバット式の解説を書いていた。 読んだ。とーっても面白かった。アクロバット式の小説「的」な仕掛けが随所にある。 メインの話は、小山内さんという還暦過ぎの男が、青森から東京駅に出向いて、ある人に会ってまた帰っていく間の2時間と少しのお話である。その間に登場人物たちの過去が次第に明らかになってくゆく。倒叙方式のサスペンスにもなるし、SFファンタジーにもなるが、そういうわかりやすい結末は排除している。「熟練の業」で余韻残る「お話」を作っていたのだ。
2019年10月22日
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「春と修羅」宮沢賢治 「蜜蜂と遠雷(下)」の感想を書くにあたって、ふと思いついたのが、宮沢賢治の詩「春と修羅」のパロディで書けないか、ということだった。作中で新曲「春と修羅」を演奏したのだから相応しいだろうと思ったからだ。 もちろん、賢治の科学と感性に支えられた奇跡の語彙に敵うはずもないし、何よりも彼の志にたどり着くはずもない。お遊びであり、やってみると、恐ろしく恥ずかしいものが出来上がった。言いたいのはそのことではなくて、やってみてわかったことがある。 「春と修羅」の一部抜粋 いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾しはぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ (風景はなみだにゆすれ ) 砕ける雲の眼路をかぎり れいろうの天の海には 聖玻璃の風が行き交ひ Z Y P R E S S E N春のいちれつ くろぐろと光素を吸ひ その暗い脚並からは 天山の雪の稜さへひかるの (かげろふの波と白い偏光 ) まことのことばはうしなはれ あの詩及びにこの詩集は、単なる「詩」ではなかったということだ。私は単に賢治がリズムをもって詩を作っていたのだと思っていた。違う。賢治は「言葉によって」ひとつひとつ「曲」を作っていたのだ。賢治の中は、明確に世界を鳴らしていた。(と思う。私には曲調まではわからない) 特に「春と修羅」はそうだし、「小岩井農場」は明らかに交響曲だし、「永訣の朝」に始まる三部作、ならびに「オホーツク挽歌」シリーズはレクイエムやそれを超える交響詩だし、「真空溶媒」や「原体剣舞連」などは、もう音符付き曲が出来上がっている気もする。オペラもある。 賢治の住み込んだ花巻の「野原ノ松ノ林ノ䕃ノ小サナ萓ブキノ小屋」には、当時では珍しいレコードが豊富にあり、賢治は毎日のように聞き、それを全く新しい言葉にしたのだ。資産家の息子だからできたのだと言われればそのとおりかもしれない。でも、そこから紡がれた詩は、言葉の神様に愛されたのだ。私は40数年前中学生のとき、写真付き賢治詩集を買って貰って擦り切れるほど読んだ。そのおかげか知らないけれども、思春期の間、その純粋性、理想家、知性に当てられて、ぐれることなく理想家或いは夢想家に育った。文学が人を変える力を持っているかどうかは知らない。けれども、成長期に出逢うそういう本は大きい。 その詩の多くは、意味が全てはわからない。だからいい。人生の大きな謎として、ずっと胸にしまいながら生きていける。 わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体 ) 「序」の冒頭のことば
2019年10月20日
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「蜜蜂と遠雷(下)」恩田陸 幻冬舎文庫 どこまでも 満ちてくる月の光 寄せる、うねる 寄せる、泡立つ 飛べる どこまでも飛べる (フライ・トゥー・ザ・ムーン) 音楽は何処から来たんだろう 太古では ものがたるために そして感じたことを あらわすために 物語はほかに代わり 感じたことは 朗々とした唄へ 今は音楽は 小さな箱の中で 鳴らされているだけ でも作り足りない 箱はいっぱいにならない (音楽を広いところへ連れ出せ) 音楽をもとのところへ 人は生まれた時から 音楽を浴び続ける (世界は音楽で溢れてる) 静かに始まり さざなみが 寄せては返す 波は高まり 咆哮する (音楽を広いところへ連れ出せ) 音楽は宇宙の秩序 叩く、叩く 叩く、叩くー叩く 森を通り抜ける風 いつか新しいクラッシックを この手で (音楽を広いところへ連れ出せ) 一瞬は永遠 永遠は一瞬 風間塵 世界は広い 栄伝亜夜 音楽の神様 マサル 野望の人 高島明石 修羅の人 (音楽を広いところへ連れ出せ) 貴方が世界を鳴らすのよ
2019年10月19日
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「刑事の子」宮部みゆき 光文社文庫 宮部みゆきの文庫本は、エッセイとアンソロジーと絵本とボツコニアンシリーズを除けば、全て読んでいるという自負を持っていた。だから、読書サイトの著書一覧で検索しているときに、未だ読んだことのないこの題名を見つけた時には、悔しいというよりか不思議だった。ーーいつ見落としたんだろう? それで図書館で予約して読み始めたのであるが、表紙を開けた途端に了解した。『東京下町殺人暮色』を改題していたのである。94年に文庫本が出たときに、あの頃は速攻で買って読んでいるはずだ。読み始めて微かな記憶はあったが、大まかな所は流石に全て忘れていて、問題なかった。こんなことがないと、昔読んだ本の再読なんて滅多にしない。 初出は90年、長編第3作目、著者最初の書き下ろし、舞台はバブル真っ盛りの89年末、著者のホームグラウンドの江東区だ。刑事は中年のいぶし銀を出していて、中学一年の息子は正義感が強くて純粋で賢い。初期の宮部みゆきの鉄板だ。最近は、宮部が描く高校生は純粋とは言えなくなることが多くなった。刑事は主役級では登場しない。きっかけは『模倣犯』だった。この作品と同じで、女性の連続殺人事件が起きて、テレビが追って世間を騒がす構造だった。しかし、本作で簡単に扱われている殺人者の描写を徹底的に描いたお陰で、宮部みゆき本人の精神もかなりやられたようだ。でも、犯人描写を避けてはもう現代サスペンスは描けない。著者が杉村三郎シリーズを始めた所以である。 その最初のきっかけを作ったのが、この作品の冒頭、荒川河川敷の公園にバラバラ死体のビニール袋詰がたどり着いたことだったのである。 著者の作品の中で東京大空襲がサブテーマとして扱われた最初でもある。と今になってわかる。いや、もしかしたらメインテーマだったかもしれない。 80pに、順少年が、隅田川河口に建設中の高層マンションを「下町を見下ろす巨大な監視塔」と感じるところがある。(冗談抜きに、いつかは本当に監視塔みたいなものを作って、犯罪を防がなくちゃならない時代がくるかもしれないな)と呟く。それから30年後の今、ひとつの監視塔ではなく、無数の監視機によってその予想は実現しているけれども、犯罪は一向になくならない。宮部みゆきが人の心の闇を描き続ける所以でもあるだろう。
2019年10月16日
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「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ 早川書房 ノーベル文学賞受賞記念講演を読んで、3冊だけ限定でカズオ・イシグロの作品を読むことにした。作者の27歳時のデビュー作である。作者は幼少時に英国に渡る(まるで万里子や景子のよう)。血は純粋日本人で、その彼が純粋の英語で、長崎の話を書いている。 噂に聞く「わたしを離さないで」と同じ構造なのか、最初は日常風景が延々と続く。縁側、ざぶとん、うどん屋さん、三和土、等々と何処から調べたのか、1950年代地方都市郊外の日本の姿が詳細に描写される。ところが、何か謎を孕んでいる不穏な空気が常にある。 今はイギリスにいる主人公悦子は、おそらく80年代の初めに長女の景子を亡くす。その時に思い出したのが、長崎の暮らしである。まるで「失われた時を求めて」のように(記念講演で影響を受けたことを告白していた)、悦子にとっての過去が現代のように映し出される。 主な登場人物、悦子さんと佐知子さんと万里子ちゃん、3人とも何らかのものを抱えて生きている。それが何なのか、延々と続く会話の中で推測するしかない。私は3人のいずれかが被曝したと途中までは予測していた。 幾つかは、日本語として不自然な語句がある(日本の嫁はいくら心の中でも、舅のことを「緒方さん」とは呼ばない、あ、でも回想の中の語句なのだからその方が自然なのか?)。その他いろいろ。そういうのが、いかにも80年代初めの英国文学青年から見た戦後間もない日本の風景のようで、新鮮だ。長崎弁は一切出てこない。 第二部で、彼女たちはロープウェイで稲作山に登り、復興途中の長崎市内を見下ろす。表紙の絵かもしれない。そこで悦子と佐知子は希望を語るのである。どうも彼女たちの鬱屈は被曝ではないようだ。でも、ナガサキが彼女たちに薄暗い緊張感を与えているのは確かだ。 結局、悦子が歩んで来た人生は現代の次女からは「正しかったのよ」と言われ、過去の思い出からはホントにそうだったのかと悦子を苛む。最後のあたりで、それが読み取れる。非常に計算された、賢い作家なのだろうという印象を受けた。あと2冊、我慢して読んでみよう。
2019年10月02日
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「昨日がなければ明日もない」宮部みゆき 文藝春秋社 杉村さんは犯罪を呼び込んでしまう「体質」を逆用して探偵業を始めた。杉村さんの願いは、「相談」が「犯罪」になってしまう前に食い止めることだ。その点で、杉村さんは正しく、杉村さんほどに適する人はいない。 と、私は思っていた。 「絶対零度」は、まだ慰められる部分がないわけでもない。蛎殻オフィスの所長からも、杉村さんが「もっと早くに介入できていたらと後悔が多いです」と愚痴をこぼしたことに「それは無理です。全世界を1人で背負おうとするようなものだ」と評価する。「それもそうですかね」と杉村さんも自分で自分を慰めた。 もう一つの(短編はあと2つだけど、そのうちのひとつ)事件に関しては、杉村さんは「私立探偵の形をした石になって、私はただ立ちすくんでいた」と終わる。いろんな意味で、杉村さんは深く後悔することと思う。 でもね、杉村さん。 人の心は、ましてや犯罪という結果に至るまでの心の闇は、日常からダダ漏れになるタイプの小人と、私たちを含め日常はなんとかやり過ごし普通ならば人生を大過無く過ごすけど小さな人物よりもはるかに広い池にかなり大物を、黒も白も飼っているタイプの人と、あるものだと私は思います。作家の宮部みゆきさんは、ずっとそんな様々な人の闇を描いてきました。その闇は、時には時空を超える物語にさえなりました。石になる必要はありません、大丈夫ですよ。やっていけます。がんばれ。 ひとつ気になるのは、中学1年生の漣(さざなみ)さんの明日だ。悪い条件ばかりが彼女の上にはある。けれども、人は変わり得る、良くも悪くも。いつか、その顛末を物語の中に紡いで欲しい、宮部みゆきさん。 でももうひとつ気になるのは、杉村さんの物語が未だに2012年の5月に留まっていること。杉村さんの愛娘桃子ちゃんは、この時点で11歳である可能性が高いので今は19歳になっているはずだ。人生の岐路に立っているだろうか。その間、杉村さんは桃子ちゃんのために自分の命を顧みずに飛び込まないとも限らない大事件が、必ず起きるだろうと私は予測する。その時は短編ではなくて大長編になるだろうけれども、杉村さんの超人的な人の良さと洞察力は、その時のためにもう少し磨いて欲しい。私としてはきっと出てくるそのパートのために、あともう2〜3冊は欲しい。というのはファンのわがままかな。
2019年09月28日
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「モンスーン」ピョン・ヘヨン 姜信子訳 白水社 「ユジンさんには幼稚な質問を沢山しました。なぜ台風の進路の正確な予測は不可能なのか、風向きはいつ変わるのか、といったことです。気温差や自転が風を起こすのだということは常識的にわかっています。しかし、モンスーンのようなものの場合ですよ、あのように規模の大きな風は、いつ風向きを変えるのか、その瞬間をあらかじめ知ることはできないのか、といったことを理解するのが難しかったのです。それについてはご存知ですか?」(23p) 妻の上司であり科学館館長であるこの男は、もしかしたら赤ん坊が偶然の事故で亡くなった日に妻と会っていたかもしれない。カウンターで何も無かったように話しかけるこの男に、夫のテオは怒りの衝動を起こしかける。もっとも、それだけの話である。この短編「モンスーン」が韓国の文学賞を獲ったのは、妻の不倫も明らかにせぬまま物語を終える構造が、セマウル号事件が起きたばかりの韓国の人々の琴線にふれたからかもしれない。しかしそれだけではない。 私は仕事の関係で、雨雲レーダーをよくチェックする。直後の1時間の間に雨が降るかどうかを確認するのに、これは95%ぐらいは信頼がおけると思っている。同僚は黒雲が低く立ち込める空模様を見て「雨が降りそう」と不安がっているが、私は降らないことを知っている、バカだなぁと優越感にふける。人は、雨が降り始めるまで予想も出来ない人、経験値で予測できる人、私のように神の視点(ツール)で予測出来る人にわかれているのではないかと思ったりする。しかし、3時間後には雨雲レーダーはゴッソリその前の予想を変える。現代の科学は、2時間過ぎれば風の向きを予測出来ない。でも、確率的には、天候は人類が未来を予測できる分野としては最も進んだ分野だろう。 偶然の事故を人は予測できない。 けれども人は、その原因を探って、人を責めたり自分を責めたりする。その心の動きを作者は恐ろしいといっているようだ。 私は、それを認めながらまた別の感想も持った。 韓国社会は、まるで日本のパラレルワールドみたいだ。小説で読むと特に感じる。いろんなところが我々と同じようで、少しづつ何処か違う。団体観光は遺跡や産業団地になんかは行かない。もっとも韓国における遺跡は古代だけを意味しない。バスに押し売りも入ってこない(「観光バスに乗られますか?」)。日本には蚕のサナギのカンヅメは普通に商店に置いていない(「夜の求愛」)。日本ではタクシーの一斉ストライキなどは存在しない(「訳者あとがき」)。韓国旅行の時には感じないのに、小説を読むと感じるのは、当たり前のように、それが日本語で書かれているからに他ならない。少し怖い。
2019年09月20日
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『「坊ちゃん」の時代』関川夏央 谷口ジロー アクションコミックス 思うところがあって、再読した。再読、再々読、再々再読に耐え得る漫画は少ない。その数少ない作品のひとつ。その度にもちろん発見がある。 ほぼ20年ぶりに読んだ。その間、私も経験をつんできた。p66の明治38年東京の街並みの風景。千駄木の漱石邸から東京帝国大学まで2キロほど歩いて通ったらしいが、私も2年前たまたま歩いて踏破した。確かに歩いて通えないことはない距離だ。約10人の群衆の中に1人洋装の紳士(漱石)、あとは車夫の2人、和服の侠客1人、和服の婦人3人、屋台の親父、和服の子供2人。本瓦の二階建て土蔵造の商家、後ろに晩鐘が見える。谷口ジローの誠実な仕事は驚くばかりだ。この時は際物扱いの連載だった。ここまで丁寧に描く必要はどこにも無かったのである。編集者も原作者も全5巻の長編になることなど考えもしていなかった。第2回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。 この20年間に、私は本郷区丸山福山町の元樋口一葉が居たという長屋のあった階段を眺めたことがある。本書には、その同じ風景に、漱石と森鴎外、そして森田草平、平塚明子(らいてう)を配している。もちろん創作ではあるが、そんなこともあってもいいではないか、と思わせるのが「画」の力である。 漱石は、「坊ちゃん」のモデルとなったという車夫(坊ちゃん)と侠客(山嵐)、警視庁警視(赤シャツ)を思いつき、森田草平(うらなり)、山縣有朋(校長)、桂太郎(野だいこ)、平塚らいてう(マドンナ)などをモデルにして坊ちゃんを創作した、と関川は創作した。そうすることで、「坊ちゃん」が単なる痛快活劇ではなく、鬱々たる気持ちに居た漱石から見た明治の姿だったのだと世に問うた。思うに名作である。 赤シャツと野だいこは中学校すなわち日本そのものを牛耳りつづけるだろう。 坊ちゃんも山嵐も敗れたのだーしかし 坊ちゃんには帰るべきところがあった それは清のいる家、すなわち反近代の精神のありかであった (p238) 名作は1巻目までだった覚えがある。そのあとは、力作だが、冗長になった。
2019年09月10日
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「蜜蜂と遠雷(上)」恩田陸 幻冬舎文庫 「おたくの業界(クラシックピアノの世界)とうちの業界(文芸業界)は似てるよね」と、開始早々、芳ヶ江国際ピアノコンクール審査員の三枝子の友人、ミステリ作家真弓は言った。コンクールの乱立と新人賞の乱立、どちらも斜陽産業、普段は地味にこもって練習したり、原稿を書いたりしている。 「コストが違うわよ」三枝子は反駁する。ピアノは金がかかるのだ。 でも、「世界中何処に行っても、音楽は通じる」そこは、作家は羨ましそうに三枝子に云う。おそらくこれきりの登場だったと思うが、真弓は作者の分身である。 そう!だから恩田陸という作家は言葉を使って「言葉の壁を越えて、感動を共有する」場面をつくるという無謀な試みに足を踏み入れたのかもしれない。言葉にならない感動を、言葉を使って表現する。でも考えれば、それは古(いにしえ)から文学が試みてきたことでもある。 ーーー結局、誰もが「あの瞬間」を求めている。いったん「あの瞬間」を味わってしまったら、その歓びから逃れることはできない。(25p) 風間塵、栄伝亜夜、高島明石、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。4人の紡ぐ音が非凡なこと、そして個性的なことは、読むだけで明確にわかった。 でも、それがホントはどんな音なのか、ましてや「あの瞬間」を私は味わう事が出来るのか?筋金入りの音オンチの私は全然イメージできなかった。でも、努力はしようと思う。幸いにも、図書館ウェブサイトの提供で「蜂蜜と遠雷」関連の曲集を見つけた。下巻に取り組むまでに、ちょっと練習してみようと思う。
2019年09月06日
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「麦本三歩の好きなもの」住野よる 幻冬社 初、住野よる。 ふむふむ。まるで孫娘を愛でるように読ませていただいた。孫、居ないけど。 私は、ずっと前から、一生懸命頑張る女の子のお話が大好きだ。だからナタリー・ポートマンは「レオン」以来一貫して全作観ているし、AKBは何人か推しメンはいる(いた)し、「村上海賊の娘」は、そのキャラだけで一気に読んでしまった。序でに言えば、現在は同郷のゴルファー渋野日向子にメロメロである。あ、いや、三歩と全然キャラ違う、ってわかっております。でも、私から観たら皆んな同じに見える。少女が果敢に世界に向かって、前を向いている。 「その見方、甘すぎるんじゃないの?」と"おかしな先輩"は言うかもしれない。三歩はまるで少女マンガから抜け出てきたような「ドジな女の子」であり(まぁそれだけじゃない所がこの作者のキモかもしんないけど)、三歩を愛すべきキャラだとするのは買い被りだと言うのだ。確かに三歩を彼女にしたら、毎日が心配で堪らなくなるかもしれない。でも孫娘ならば、生きてくれているだけで嬉しい。 前の彼氏とは、どんないきさつで別れたのか?三歩の名前の由来は?聞けば教えてくれるんだろう。あわわ、と戸惑いながら。でも、それは次に会う楽しみにとっとこ。
2019年08月24日
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「ポーの一族 ユニコーン(1)」萩尾望都 小学館 「ポーの一族」への40年以上に渡る想いや予想は、文庫本「ポーの一族3」にあらかた書いてしまった。予想通り、この(1)には、予想以上のことは幾つかしかなかった。もちろん、バリーという新キャラについてはまるきり予測できなかった。しかし、彼は「解」を導くための補助線みたいなものだ。 最大の予想外は、アランが生きているかもしれないということだ。悲しいけれど、これでシリーズが終わるだろう、という私の予想は変わらない。これからのことを、大胆に予想してもいいけど、それは自分の胸に秘めておく方が粋というものかもしれない。 「VOL1わたしに触れるな」は、過去作品のようにコマ枠を破って人や言葉や夢や時が溢れ出ていた初期の萩尾望都から比べると、まるできちんとし過ぎた舞台劇みたいで気に入らない読者が出てくるのは、ましてや顔つきもかなり昔と違うし、当たり前だと思う。けれども、このきちっとした構想を背景にしたセリフのひとつひとつは、やはり初期の萩尾望都の特徴でもあるのだ。1巻目を最後まで読んで、もう一度VOL1を読み返すと、あら不思議、8割方意味がわかるだろう。わからないところが、次巻の核心部分だとも予想できるだろう。次巻が楽しみだ。
2019年08月12日
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「ポーの一族3」萩尾望都 小学館文庫 「ポーの一族」の新作が刊行された。噂によると、最終編『エディス』の 正当な続編らしい。それで急遽これを取り寄せた。そうせざるを得なかった。読む前に、ファンとして私の40年間のあれこれの妄想を、もう一度整理しておきたかったからだ。 以前、前回の『春の夢』連載開始時に復刻版『小鳥の巣』を紐解き、こう書いた(16.6.25記入)。 「現在キリアンがドイツで生きているならば、おそらく71歳。ドイツ統一のために闘って来たのではないかと(勝手に)想像する。」 「キリアンは微かにマチアスに噛まれて仕舞う。萩尾望都はついつい書いて仕舞った。『パンパネラの血は、キリアンの体内に深く沈んで存在した。それは潜在的な因子として子孫に受けつがれてゆき‥それはもっとのちの話となる』この記述があるがために、「ポーの一族」ファンたちは、一生「続編」を待ち望む「呪い」をかけられてしまった。もちろん、私にも。その呪いは未だ解けていない。」 つまり現代は、ポーの一族が再び現れるならば、キリアンの14歳の孫の前に出現しても可能な時代になっているのだ(晩婚化が進んでいるからちょうどいいだろう)。ちなみに『小鳥の巣』はシリーズの中でも屈指の傑作である。 その妄想を膨らますために、1976年当時の『エディス』を読んだわけだ。この時点で、アランはエディスを助けるために消滅してしまったことになっている(ロンドンでの事件)。「消滅」するのである。マチアスは肉体どころか靴さえも消滅してしまった。だとすれば、他の次元に移るとした方が正しいのかもしれない。この本には、そのほかに1966年にエドガー研究家のオービンが関係者を集めた『ランプトンは語る』も収録。時系列の歴史を解説した便利な本になっている。しかし、最初に読むべき本ではない。文庫本なのであまりにも画が小さいのだ。あれから40数年。オービンは当然、エドガーについての総括的な一書をしたためているはず。エディスは50歳後半だ。テオの血液研究はどうなったのだろうか。66年当時に血液保存技術はないだろうから、成果も出ずに終わった可能性が高い。 『春の夢』(2017年刊行)も、当然この「続編」のために準備されているはずだ。改めて読み直す。ポーの一族の間の中のいろんなランクと、消滅への危機感を持ったクロエのような人物がいることが明らかにされている。ポーとはまた別系統の異能種のいることも明らかになった。「ポーの一族」とは何なのか?それが最終的に明らかにされるのが、最終章になるはずだ。それを意図して始めたのが『春の夢』だろうと、今なら想像できる。 『春の夢』の中にいくつもヒントがある。ファルカは言う「(アランがすぐ眠るのは)"気"のヒフが薄いんだよ。すぐシューシュー漏れちまう」。吸血鬼とは実は病原菌とかの生物が中に入ってなる病気ではなかった。気はエナジーとルビを振る。だとすれば、バンパネラの正体は、エネルギーだ、ということになる。ファルカは瞬間移動が出来る。だとすれば、バンパネラの存在は、異次元の存在なのかもしれない。それから、大老ポーが老ハンナを仲間にしたのは、8世紀だ。一体何があったのか。一方、ファルカはウクライナ・ポーランドの「紅いルーシー」という一族。800年(600年かもしれない)も生きている。さらにルチオというギリシャ系の一族さえいる。紀元からいると言われる「さまよえる者」がホントだとしたら、本当の起源は2000年前から居るのかもしれない。 しかし、バンパネラの正体だけならば種明かしに過ぎない。エドガーの約240年間にわたる、魂の遍歴の意味を明らかにするのが、最終章の役割のはずだ。 それにしても、本当に終わるのだろうか?今、あらゆる情報は今回が「ポーの一族最終章」だと囁いている。知りたいのと、知りたくないのと、半々だ。「カムイ伝」「火の鳥」と未完に終わった名作を抱えて、私たちは長編漫画の夢の中を生きてきた。その正当な継承者である萩尾望都が「終わらす」と言うのならば、やはり私たちはそれを真正面から受け止めなくてはならないのかもしれない。襟を正そう。そして、新章を紐解こう。
2019年08月11日
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「健康で文化的な最低限度の生活8」柏木ハルコ 小学館 読んだ漫画を全てレビューしていたらきりがないので、私は漫画の場合は時々まとめて書評を書く。しかし、この漫画だけは全巻感想を書いている(序でに購入さえしている)。漫画として飛び抜けて素晴らしいわけではない。しかし、一巻一巻きちんと対峙しないと、ここで描かれている事に対して申し訳ないと思うからである。そう思わせるだけの「取材」を柏木ハルコはしているのだ。 今回は「子供の貧困完結編」である。間違ってはならないが、このシリーズはノンフィクションではない。しかし、フィクションだから描ける真実があると思う。最初取りつく島がないように見えた佐野さんも、DVを受けて二児の母として、恋人にも逃げられ自暴自棄になっていたと判明。そう言う複雑な状況を2巻かけてゆっくりと見せている。恋人との間にできた赤ちゃんを産むのか産まないのか、栗橋さんがどう対応するのかが、この本のクライマックスだった。主人公義経えみるだと、この複雑な状況をさばけなかったかもしれない。 それと同時に不正受給問題で登場した欣也くんのその後も描かれる。貧困の子供は、はたして大学や専門学校に行けないのか? 『現在、7人に1人の子どもが貧困状態にあると言われている。子どもの貧困は子ども本人には全く責任がない。では誰の責任か?父親か?母親か?』『両親が離婚し、母子家庭になる。父親が養育費を払わない。母親は子育てのため正規の職に就けず、不安定な仕事を掛け持ちする。教育には金がかかり、公的な支援は不十分なまま』という栗橋さんの呟きの後ろで、よく見ないとわからないが「子どもがいるひとり親世帯の相対的貧困率」や「教育支出の対GDP比(公費負担及び私費負担の合計)」等々のデータが載っている。西欧や南米諸国と比べて、日本は最下位だ。チェコやチリよりも、日本は劣っているのだ。もちろん、佐野さんの元夫は酷い男だったと思う。欣也くんは進学したいけど、なかなか学力が追いつかない。しかし、それを含めて「支援」するのが国の責任だと、私は思う。戦闘機に一機100億円以上も払い、さらに百数十機も買いますよと大盤振る舞いするよりも、こちらにお金をかけるべきだ。その方が未来の国家に向けて、よっぽど「戦略的」だと私は思う。
2019年08月09日
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「死にがいを求めて生きているの」朝井リョウ 中央公論新社 初、朝井リョウ。物心ついた頃からゲームやSNSがあって、ゆとり教育やら同調圧力があるのを当たり前の社会だと思って生きてきた世代の、それでも対立と和解をどう解決して行くのか、探って行く物語。のように思えた。納得できなかった。以下、なぜかを述べる。 「俺は、死ぬまでの時間に役割が欲しいだけなんだよ。死ぬまでの時間を、生きていい時間にしたいだけなんだ。自分のためにも誰かのためにもやりたいことなんてないんだから、その時々で立ち向かう相手を捏造し続けるしかない」(398p) 「自分のためにも誰かのためにもやりたいことなんてない」なんて、平成生まれのこの子は、どうしてそんな風に自分のことを思ってしまうんだろう。どうして、いつも誰かにどう見られるかが、何かの基準になるのだろう?こんなに若いのに、何を焦っているんだろう?丁寧にその心理を幼少の頃から辿っているはずなのに、やはり私にはピンとこない。 組み体操のピラミッド存続問題やRAVERSや大学寮存続問題、無人島仙人問題など、現実にあった問題からモチーフを「強引に」自分のテーマに引き入れる書き方は、感心しなかった。揶揄はしていないが、あの事柄をある程度知っている人にとっては、揶揄されていると怒るかもしれないような書き方もあった。安藤くんじゃないけど、この作者に対しても「こうやって喋って満足するだけのおままごとはもう、終わり」にしよう、と言いたくなる書き方もあった。朝井リョウは何を焦っているんだろう? 自分に求められている「役割」を過剰に意識し過ぎているんじゃないか?こんな風にホントにあったことをなぞるならば、表層だけを見るんじゃなくて、「核」の部分を描いて欲しい。その表現、作者は、その部分で1番もがいているのかもしれない。そこは伝わってくる。でも、まだ足りない。決定的に何かが足りない。人気作家だけど、こんな感じならば、認めるわけにはいかない。
2019年08月07日
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「将軍」芥川龍之介 おそろしいはなしです。 青空文庫で、20分ぐらいで読めます。 伏せ字だらけ、芥川だけでなく、なにやらいろんな方の怨念が棲んでいそうな文章です。 大正10年の発表。N将軍と書いていますが、誰が読んでも日露戦争を勝利に導き、明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典について書いたと分かる小説です。 日露戦役での将軍の白襷隊への激励、戦時に間諜を発見する将軍、慰問団劇にクレームをつける将軍、亡くなった後に青年が持つ違和感の四章で成っています。 乃木の殉死については、漱石も(「こころ」)鴎外も(「阿部一族」)それなりに反応を示した大事件でありました。「なんか嫌な感じ」と文豪たちは思ったのだと、私は解釈しています。 乃木希典は、決して自ら「死んで神様になりたい」と言ったことはないと思います。芥川も、この作品で一言もそういうことは書いていません。ただ、最後の青年の違和感と、この作品の5年前に「乃木神社」が建てられ、実は現代まで綿々と「格式ある神社」として続いているという事実を知るにつけ、なんかこの日本という国が、私はおそろしいのです。 最後に第2章「間諜」の一節。 将軍に従った軍参謀の一人、──穂積中佐は鞍の上に、春寒の曠野を眺めて行った。が、遠い枯木立や、路ばたに倒れた石敢当も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。 「私は勲章に埋った人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない。……」
2019年08月04日
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「桃太郎」芥川龍之介 おそろしいはなしです。 芥川龍之介の書いた変わり種「桃太郎譚」。青空文庫で10分ぐらいで読めます。 黄泉比良坂でイザナギが追っ手を防ぐために撃った桃は1万年に1度成るというもの。その桃は核に赤ん坊を孕んでいたそうな。 そこから産まれた桃太郎。現在人口に膾炙している彼とは真反対、ニートの食いつぶし、サイコパス紛いになって、平和に暮らしている鬼ヶ島へ侵略戦争を仕掛けるというお話です。 降参した鬼が桃太郎に、どうして私たちを征伐に来たんですか?と尋ねた時に桃太郎はこう答えています。 「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」 「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」 「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。──どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」 見事な二段論法。まるでどこかの国の首相のようなはぐらかし答弁です。これをどこかの国のパロディとみるのか、どこかの会社のパロディとみるのか、単なるギャグとみるのか、は貴方次第。芥川龍之介はこれを書いた3年後に自殺しているのですが。 大正13年、「サンデー毎日」初出。
2019年08月03日
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「絵物語 古事記」富安陽子・文 山村浩二・絵 三浦佑之・監修 偕成社 世に「現代語訳古事記」は多い。易しく書かれた絵本もかなり出ている。しかし、原文の形を残したままに、絵本形式の古事記は、ほとんど例がないのではないかと思う。 古事記は、粗筋も大切だが、細部にこそ命がある。もっと言えば、リズムや比喩表現が大切なのだが、この本にそこまで求めるのは無理だ。そのかわり、この本ならではの絵画表現が、大人にも数々の発見を持たらすのではないか?と思う。 私は古事記初心者なので、簡単なことに感心する。例えば長い矛で「コオロコオロとかきまぜ」て生まれたオノゴロ島は、いったい何処なんだろと思ったのと同時に、矛の形は明らかに弥生後期にしか出現しない形態で、古事記作者の視点は作成時の700年ぐらい前にしか遡れないのだな、と独りごちた。本当は皇紀で言えば、1300年以上は遡るはずだ。 涙や雫から次々と生まれ出ずる神々の姿は、原文ではイメージが湧きにくいけど、絵で見ると、あゝなんて簡単に神々が出てくるのか、と思ってしまう。神が神を産んで、綿々と繋がって、天皇に成って行くことを「説明」している。この本の大きな特徴だ。 イザナミは火の神カグツチを産んだ火傷がもとに亡くなるのだが、イザナギは怒りに任せてカグツチの首をちょん切ってしまう。その剣の滴る血から戦さや水の神など、災いと生産の神々が次々と産まれる。小さな事件は、次の来たるべき社会の転換点になったことを示していると思う。絵を見ると、まだ子供のような神なのである。小さく産んで大きく育つ。そうやって、日本人は神々(社会)と向き合ってきたのかもしれない。 何年か前、出雲の国で黄泉比良坂(よもつひらさか)と言われる森の中を訪ねたことがある。死の国の住人になったイザナミを閉じ込めた岩も見た。真偽はどうであれ、1300年近くそういう伝説を伝える人々のエネルギーに圧倒された。絵の中の最後の彼女の姿、子供が見たら夢の中に出てくるかな。 ヤマタノオロチは、ずっとキングギドラみたいな姿を想像していたけど、原文をきちんと読めば「ズルズルと体をひきずり」やってくるのだ。絵を見て初めて知った。巨大な大蛇が8匹同時にズルズルやってくるのは、確かに気持ち悪い。 等々、書き出すとキリがないのでここまで。大人が読んでも、大人が読んでこそ、面白い絵本でした。
2019年08月02日
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「きつねのはなし」森見登美彦 新潮文庫 京都には魔物が棲んでいます。それはこの本の話ではなく、この前京都に旅した私の実感です。 「ついこの間の戦(いくさ)」と住民が言えば、それは74年前のことではなく、ましてや外国との戦さのことではなく、600年前の応仁の乱のことだと言うのだから、時間の概念が違うのです。だから、秀吉が築いた都をぐるりと周らす堤を築くために掘られた溝に捨てられた無縁地蔵を、未だに住民が懇ろに供養しているのが、平気でそこら彼処にあるのです。 さて、はなからいつもの森見登美彦と雰囲気が違うこの短編集、21世紀の現代に延々と続いている吉田神社の節分祭に、主人公の男が魔物と取り引きをして得たものは、それはもうホントは何だったのでしょうか?ナツメさんは本当は何者だったのでしょうか?(「きつねのはなし」) 千年の都に張り巡らされた神秘的な糸が、それはもう、不思議な音を立てています。私はウソと信じながら迷い込み、迷宮の壮大な門の前で引き返した気がします。(「果実の中の龍」) (「魔」)という名の短編であるのにも関わらず、これはジュブナイル・青春ストーリーとも言っていいような短編。でも、ある一点を除いて。それが、この本の一頁から最後に至るまで棲みついている魔物のひとつであるから。 吉備国の弥生時代には、龍の信仰が確かにあり、何かうねうねとした奇怪な模様が壺に書かれています。やがてその模様が、古墳時代の大王の代替わりの際に使われる壺の特殊器台の模様に変わって行くのに、更に数百年の年月を要したとのことです。すみません、物語とは全く違う話を最後に書いてしまいました。(「水神」) 決して怖くはないのです。ただただおそろしい。
2019年07月31日
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「違国日記」マシタトモコ 祥伝社 現在4巻目まで出ているようだけど、1巻目を読んだ段階であまり大きな進展はないタイプの話のようなので、1巻目だけの感想を書く。というのは、気に入ったから。「このマンガがすごい!オンナ編」第4位。 田汲朝(15歳)は、交通事故で亡くなった両親の母親の方の妹と一緒に住むことになる。妹は高代槙生(35歳)小説家である。1話目は、突然朝が高校3年で出てくるが、2人の日常生活を描いているので、おそらくこの物語は、その3年間の「日常」を描くことなんだろうな、と見通しを立てた。2話目からは、朝を引き取る時の中学生の頃に戻る。 なにが面白いのか。人見知りの一人暮らしの女性の小説家が、女の子を引き取って、初めて「人間」と暮らし始める。その1つ1つがやはり発見の連続。朝の視点と槙生の視点。人間とはいえ、まだ犬ころを拾ったような感覚が槙生にはある。 槙生は小説家なので、言葉を大切にする。朝に日記を勧める。「この先誰があなたに何を言って、誰が何を言わなかったか。あなたが今、何を感じて何を感じていないのか。たとえ二度と開かなくても、いつか悲しくなったとき、それがあなたの灯台になる」。よくわかる。 私も中学生から高校生にかけてずっとつけていた日記があった。数年前にそれを見つけて、何か文章を書こうとしたら、それ以降一度も開けることがなかった。「そうだ、日記は灯台なんだ」まだ私には、必要ないのかもしれない。このマンガが完結した時に、また改めて感想を書きます。 どうでもいい話なんだけど、どうして最近のマンガ家は全部カタカナの名前が多いんだろう(コナリミサト、ヤマザキマリ等々)。そんなにもデジタル化(or記号化)したいんだろうか。
2019年07月30日
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「凪のお暇」(1ー5巻)コナリミサト 秋田書店 5巻まで出ている。「このマンガがすごい!オンナ編」第3位。今度、黒木華さん主演でドラマ化される。ということで、その直前に読んだ。映画の黒木華も好きだけど、ドラマの黒木華は「重版出来」や「獣になれない私たち」等々、役になりきっていて好きなのだ。ちなみに、「お暇」は「おひま」ではなく「おいとま」と読む。空気を無駄に読みすぎて、メンヘラになる直前に退職した凪という女の子の話。元カレや隣の距離が近すぎるイケメンに依存体質になりメンヘラになる直前の卒業とか、「人との距離の取り方」が様々に描かれる。5巻目になっても、まだ退職して3ヶ月ちょっとしか経っていないので、彼女はほんのすこしモラトリアムしているだけなのである。現代の若者は大変だ。若者たちが、いかに社会の中で対人関係に悩みもがいているのか、よくわかる話になっている。漫画の中で、様々に描かれる節約生活は、『きのう、なに食べた?』の提案レシピの再現になるだろうか?テレビではどう描かれるだろうか?、黒木華には何の心配もない。問題は、高橋一生(我聞)と中村倫也(ゴン)、市川実日子(坂本龍子)、凪の母親(片平なぎさ)がみんなミスキャストに思えることである。脚本も、良いと感じたことが一回もない大島里美。心配だ。(7.18記入)(追記)7.19のテレビドラマ第1話を観た。やはり高橋一生と中村倫也2人が入れ替わったらいいのに、と思ったり、「空気」の描き方が違和感ありありだったり、でイマイチだった。
2019年07月23日
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「東京の子」藤井太洋 角川書店 2023年の東京が舞台、近未来小説である。背景には、移民問題、特区における労基法問題等々、現代の様々な問題が出てきているが、その1番のテーマは奨学金問題かもしれない。ヒロインは言う。『借金をたてにして働かせるのは人身売買よ』。これらの設定に興味を持って紐解いた。オリンピック有明会場跡地の巨大なポリテクセンターで、偽戸籍の子仮部は、行方不明になったベトナム女性を探し始める。最後まで読んで、作中でいろいろ匂わせている「ホントらしさ」は、信頼出来ないものになった。決定的なのは、政府が三橋社長に示したある「約束」とその後の三橋の対応である。あの約束が実現するような社会ならば、デモがあんなに大きくなるような事はなかっただろう。三橋の言うことは、小説の中だけのファンタジーである。作者は承知でウソを書いたのか、それともそう言うファンタジーを信じているのか。どうも後者のような気がする。作者自身が東京の「子供」のように感じる。どこかの経営者に丸め込まれたような理屈が、最後まで大手を振るっているのだ。始末に負えない。その他、オリンピックからたった2-3年で此処までの異世界が出来上がるとか矛盾もたくさんある。また、「首都青年ユニオン」という胡散臭い団体が出てくるが、現存していて地道に頑張ってきて「派遣切り」「ブラック企業」という言葉を社会的認知まで持ってきた立役者である「首都圏青年ユニオン」を揶揄する命名は許せない。
2019年07月16日
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「蜘蛛の糸・杜子春」芥川龍之介 新潮文庫「お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終を、じっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました」(「蜘蛛の糸」13p)文章として1番洗練されていたのは、やはり「蜘蛛の糸」であると思う。鈴木三重吉に頼まれて初めて書いた芥川の童話集である。研究によって、元ネタが判明し、更にはトルストイも同様の話を紹介していることが判明した。芥川の凄いのは、その2つとも最後に小難しい教訓をつらつら述べているのに、芥川はラストをお釈迦様の顔でさらりと流したことである。私が20世紀最大の知識人と評価している加藤周一の「青春ノート」を覗き込むと、青年加藤は芥川に影響を受け、かつそれを如何に超えるか苦心していた。よって、単なる短編小説家と思っていた私の芥川龍之介評価は変わりつつある。確かに芥川の知識は、当時の日本の知識人の水準を遥かに超えていたと思う。この小さな童話集だけに絞っても、インド、中国、日本古代の知られざる典籍が元になっていて、更に短編小説の手法はヨーロッパ文学が基になっている 。それでも彼は自殺せざるを得なかった。大きな課題が、加藤周一の前に立ちはだかっていたとしても不思議はないと思うのである。 「アグニの神」は、在り来たりなジュブナイル・ストーリーなのだが、驚くことにその発端は「いったい日米戦争はいつあるか」という占い師への問いかけだった。日米開戦の16年前の記述である。約40数年振りの再読。320円で、お釣り調整のために買ったのだが、下手な現代小説よりも考えるところがあった。
2019年07月15日
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「三鬼」宮部みゆき 角川文庫「人は語りたがる。善いことも、悪いことも」。そうだ。だから、江戸時代に井戸端会議があって、現代にSNSがある。しかし、三島屋の〈黒白の間〉は特別だ。現代ならば、どこかに厳重にパスワードで守った告白の部屋を置くようなものだ。そしてどの時代にも、そんな秘密の物語も「ホントにあったことのように」伝えてくれる語り部のような人がいるものである。現代では、例えば宮部みゆきという。今年の宮部みゆきの「夏の文庫本」は、これ一冊で打ち止めのような雰囲気だ。仕方ない、仕方ないと思いながら読み終わってしまった。今回も、私の人生の何処かで、いつか出会った者たちや、これから出会いそうな者たちが現れては消えていった。「迷いの旅籠」のような、懐かしい人たちには、夢の中で何度も出会った気がするし、「食客ひだる神」は子供のころ仲良しだった気がするし、「三鬼」の怖い話は、私の遠い遠い祖先の話のような気もする。「おくらさま」ではおちかさんの若い将来を願い、あの若者と同様の言葉を送りたい。とは言っても、百物語、未だ78話が残っている。現代の語り部宮部みゆきさん、人生百歳時代、まだまだですよ。
2019年07月09日
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「海神記3」諸星大二郎 潮出版社第五章「豊玉姫」は、スペクタクル場面が相次いだ。非常に激しい戦闘を行う。90年代の諸星大二郎は「西遊妖猿伝」でも、かなりスペクタクル巨編を作るようになった。2000年代は一転して箱庭のような世界を作っていく。出雲大社を彷彿させる一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)や、盟神探湯(くかたち)神事などがイキイキと描かれる。どちらにせよ、海神記の世界では、わたつみの言葉(言霊)が、世界を導いていくのである。私は、ここまでの激しい戦闘は有り得ないと思っていた。闘いでなくとも、もっとほかの要因と結果的に宣託によって、人々を動かすことができるはずだと、思っていた。その私の思いを汲んだように、穴門の闘いの後に、海神のミケツを保護するオオタラシ姫は嵐の中で「海神よ、怒りを鎮めたまえ。何故、行く先々で戦を起こし大勢の海人や土地の人々を死なせなければならないのですか。常世はそうしなければ到達できない所なのでしょうか」と問う。そして最期の誓約(うけい)で、オオタラシは「戦あるときは海神の荒魂を戴き、戦なきときは日の神の恩頼を戴き」と宣う。正に、縄文と弥生の神の合同のような気がする。そしてオオタラシは言う。「海神は戦をせずとも常世に行ける道を示してくださった」。私は、これも倭国大乱から倭国統一に至る道筋の1つだと思っている。諸星大二郎に賛成だ。しかし、それでも著者の結論は出ていない。この本はこれで第2部が終わる。著者の構想は、この後吉備国を通り、大和にたどり着くという。七支刀が結果大和に保護されていた歴史がある限り、それは必然なのだろう。しかし二十数年間それは描かれないままだ。邪馬台国がどうなったか、百済や新羅との同盟関係はどうなっているのか?作者は「それは興味の範囲外だ」とは言っているらしい。しかし、第3部では、必ず「倭国の精神的統一」が描かれるだろう。私は何年でも待つ。
2019年07月07日
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「海神記2」諸星大二郎 潮出版社第2部第1章「神懸かり」では「誓約(うけい)」が描写される。矛を持った巫女が、軍事的な同盟・協定を、巫女の言葉として宣託する。風俗が違う南洋族の海人族も、渡来人の一族も、その点では従うのである。第2章では「漢倭奴国王」の金印埋蔵の場面から、本格的な戦争場面に移る。しっかりと鎧をまとった百済の将軍、むなかたの国の隣国「岡」を攻め取った奴国。穴門(現在の関門海峡)の豊浦宮では、鰐(サメ)の頭を鎧にした審神者がいる。または、鵜を自分の魂として憑依する巫女もいる。学術的根拠もあるが、ほとんどは諸星大二郎の想像だ。この創造力に驚嘆する。海神(わたつみ)は海童とも呼び、少童とも呼ぶ。わたつみに率いられて、西海の海人たちは常世を目指す。常世とはいったい何なのか?明らかにせぬまま、韓の日矛と七支刀の2つの宝剣が、登場人物たちを東に導くだろう。こういう世界は、200年前の弥生時代とほとんど地続きだ。私の好きな世界だ。
2019年07月06日
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「海神記 1巻 」諸星大二郎 考古学ファンとして、諸星ファンとして、ドキドキしながら読んだ。約40年前に書かれた本とは思えなかった。ダイナミックな古代の「仮説」として、ここまで具体的かつ総合的に描かれた「倭国」の姿は、小説でも映画でも、もちろん研究書でも未だ現れていない。 コトバンクによるとこう説明している。「諸星大二郎による漫画作品。4世紀後半の日本を舞台に、良い漁場を求めて移動する海人たちの姿を描く。『週刊ヤングジャンプ』1981年4月23日号~7月9日号に第1部を連載。潮出版社希望コミックス全3巻。1990年、『月刊コミックトム』にて第2部の連載を開始するも、未完のまま終了。」 実は90年に雑誌形態で第1部が出ていて、私は長いこと所持していた(紛失)。ともかく「暗黒神話」のようなファンタジーを期待していたので、それとあまりにもテイストが違って戸惑った覚えがある。末盧国などが出てくるので、ずっと「魏志倭人伝」の世界、つまり邪馬台国時代の話かと思っていた。それよりも200年後の4世紀後半の話なのである。この後に私は考古学の門を叩いたので、今回は見方が180度変わった。 全体の物語評価は、別の巻に譲るとして、絵としての評価をしておきたい。当時の学術研究を活かしながらも、おそらく著者の想像を駆使してかなり大胆な絵を描いている。海人が使う舟はくり抜き船ではあるが、隼人族の操る舟は準構造船だ。そして百済の将軍が乗る構造船さえ現れる。海人や隼人は顔に刺青を施し、装飾古墳に採用されている模様を船にも全体的に施している(南洋民族)。また、海の戦闘で、個人用の盾付き漕ぎ舟を描いている。海神(わたつみ)信仰も、火の国と隼人の国では微妙に違う。時には海神は祖霊信仰と対立する。海の彼方に常世(とこよ)があるという信仰は共通している。一方、伊都国には、渡来人が支配する日矛族がいる。太陽神を崇める彼らは全く違う宗教がある。彼らと大和政権の関係は未だ未詳だ。これらの関係をここまでビジュアルとして見せてくれている素材は、寡聞にして私は知らない。 未だ倭国は、混沌として日本国の形さえ為していない。とってもドキドキする(書いてみて、わかりやすく書いたつもりだったのに、かなり専門用語がならんで一般人にちんぷんかんぷんかと思う。以下続く2巻も私の覚えのために書いているので、もちろんスルーしてください)。
2019年07月05日
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「町田くんの世界(全7巻)」安藤ゆき 集英社コミックス全7巻完結。ほしよりこ「逢沢りく」と違って、絵柄は極めてオーソドックスな少女マンガ。ボーイミーツガールに至るまでの、ゆっくりとした学園ものなのだが、これがなんと玄人受けする第20回(2016年)手塚治虫文化賞新生賞を受賞している。何故か。りくと同じように、主人公の町田くんは一歩間違えれば極めて危険な人物として描かれているからである。成績も中以下で運動神経もない町田くんは、老若男女を問わず周りからは愛される。町田くんはちょっと知り合ったおばあさんに「あなたに恋をあげることはできません。でも、愛ならあげられます。愛は知っているんです」と臆面もなく言うことのできる危険な少年だからである。詐欺師が言えば天才的な「人たらし」だけれども、町田くんは有言実行の高校生だ。本気で、全力で、不器用だけど一生懸命に、周りの人すべてを家族を愛するように愛するのである。だから、始末に負えない。愛とはなんだろ。ホントに優しいとはなんだろ。愛と恋はどう違うんだろ。ホントはとっても難しいこの課題、この「天然人たらし」を通じて、7巻かけて描ききっている。2015-2018年別冊マーガレット連載。因みに、石井裕也監督作品「町田くんの世界」は失敗作だった。
2019年07月02日
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「逢沢りく(全2巻)」ほしよりこ 文藝春秋社 まるで芥川賞作家の小説のような、単館系映画の作品ような雰囲気を持っているが、流暢な文体も無ければ、凝った映像と編集もないマンガで、コレを表現出来たことに驚いた。 仮面夫婦の両親のもと、感情を無くした14歳の美少女りくを気持ち悪くなった母親が、大阪の親戚に一時的に預けるという話。ある意味母親が1番のモンスター。りくは合わせ鏡に過ぎない。 第19回(2015年)手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。島本和彦『アオイホノオ』、松井優征『暗殺教室』、荒川弘『銀の匙 Silver Spoon』、大今良時『聲の形』、漫画・近藤ようこ/原作・津原泰水『五色の船』、コージィ城倉『チェイサー』、岸本斉史『NARUTO-ナルト-』、洞田創『平成うろ覺え草紙』を抑えての受賞だ。どんな傑作なのか見てみたかった。どうやら私と同様、審査員はまるきりの変化球にきりきり舞いしたようだ。見たことのない異作だった。 本来のペン描きを捨てて、鉛筆描き一つに絞った世界観。それは、小学生や中学生が漫画を描き始めて、最初にノートに始めたあの手触りである。そういう意味では、私も未だに持っているノートがある(少年の頃はマンガ家志望だった)。稚拙だけど、1番本気の魂が入った作品になる。 もちろん、ほしよりこは大人だから、逢沢りくから見た世界だけではなく、次第とお父さんやお母さんから見た残酷な世界観をも描き、反対に大阪のコテコテの世界も対になるように描く。「号泣必至」と宣伝文は書くが、途中で涙を忘れたりくのように、私の涙はなぜか出て来ない。自由自在に涙を出すことができていたりくは「大人ってとんでもないウソつきなんだから」と、5歳の時ちゃんに繰り返し云う。私の涙が出ないのは感動しなかった「印」じゃない。りくが途中で出せなくなったのも、心が動かなかったわけじゃなくて、反対に心が動かされてそれを表現する手段が見つからなかったためだと、誰でもわかるように、世界を作っていた。 人間は嘘をつく動物だと知っているりくは、いつの日か愛情表現でウソ(ギャグ)を言い合っている関西弁を自由自在に操れるようになると思う。
2019年06月28日
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「海の見える理髪店」萩原浩 集英社文庫 2005年に「神様からひと言」を読んだ時に、直木賞候補作家として周りに公言していた。まさか、それから10数年かかるとは思わなかった。まあ、考えるとそういう作家は多い(北村薫とか)。やっと文庫化したので読ませてもらった。 表題作は、文脈から計算すると85歳という老齢の理髪店主の、殆どが独り語りで構成される短編である。店主はコミュケーションも仕事のうちだと云う。休みの日は一日中落語を聞きに行っていたという床屋店主の父親の背中を見て、昭和30年代にやっと独り立ちした。落語よろしく、こういう構成ならばまさかあのオチじゃないよね、と思って読んでいくと正にそのオチだった。でも、落語を聞いたように満足感がある。正に職人技である。随所に置いている小道具が素晴らしい。 解説は斎藤美奈子女史だった。彼女は荻原浩と同じ大学で同学年だったらしい。荻原が広告研究会、斎藤女史は新聞会、2つの会は一見似ているようで実は水と油の性格、お互い見識は無かった。でも同じ時代の空気(バブルの中で仕事を邁進して、はじけた後に現在の職業に就く)を吸っていたので、荻原浩の職人技的な短編料理をよく理解し見事に解説していた。因みに、彼らから3年遅れて私も大学に入学した。入ったのは新聞会である。
2019年06月24日
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「静かな雨」宮下奈都 文芸春秋社この一年で人気作家のデビュー作を立て続けに読んだ(高野秀行「幻獣ムベンベを追え」上橋菜穂子「精霊の木」メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」藤沢周平「無用の隠密」)。デビュー作には、作家の全てが備わっている、ということは、その度に思ったことである。2004年に文学界新人賞佳作に選ばれた本作も然りである。宮下奈都の作品は未だ3作目だけど、「静かな雨」「スコーレNo.4」「羊と鋼の森」と見事に洗練されてきたのが、これを読んでわかる。ボーイミーツガールものを装いながら冒頭こそは平凡な描写だったが、こよみと行助との会話のところで、おや、普通の恋愛譚とは違うと思った。行助はこよみから「(あなたの瞳の半分は)あきらめの色」と言われて、少年の頃の気持ちを思い出すのである。地球が高速で自転していると学んで少年は寝込んでしまう。でも、「(秒速463キロで突き進んでいる)地球が回るのを止めることはできない」「あきらめるしかない」と思ったら高熱もおさまったらしい。私は宮崎駿「風立ちぬ」にも出てきた良寛の「天上大風」の語句を思い出した。途中でこよみさんが1日しか記憶がもたない女性になってしまうけど、それは難病ものにしたいわけではなく、2人の会話に変化をつけたいだけだった気がする。ある日、記憶力をなくした数学者を描いた本のエピソードが出てくる。調べると小川洋子「博士の愛した数式」は、この中編が書かれた一年前の発行だ。第1回本屋大賞にまでなって仕舞う著作を読んで、テーマもストーリーも全然違うけど、雰囲気がよく似た物語を書いた著者が、12年後に本屋大賞を獲るとは本人は想像していただろうか。
2019年06月22日
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「マンガのDNA」手塚治虫文化賞20周年記念MOOK 朝日新聞出版社「手塚治虫文化賞20周年記念MOOK」であり、25人もの受賞作家が、手塚治虫関係で描き下ろしマンガを描いているという豪華な一冊。個人的に面白かったのは、山岸涼子が手塚治虫本人に押しかけ持ち込みをした顛末の一遍。「神聖喜劇」とアトムのコラボ的な短編を描いたのぞゑのぶひさ。「テルマエロマエ」の後日談を、手塚治虫家のお風呂場面で描いたヤマザキマリ。小学館マンガ賞受賞パーティーで「(締切に追われて)糸の切れた操り人形のようなおじきをした」手塚治虫に終に言葉を交わすことなく終わった村上もとか。松本大洋の小学校時の事実と思えるが、見事にリアルな独立短編になっている「5時間目のブラック・ジャック」。山科けいすけが手塚を超えようとして火の鳥の生き血を飲むのだが、結局超えられないというオチの「火の鳥2016」。短編なのに、長編を読んだ気になる原泰久の「鉄腕アトム」。業田良家が「平成編火の鳥」を描いて、それなりに面白いオチを描いたのだが、手塚治虫本人が「つまらん!僕が描く」と乗り出して、業田が「手塚先生、締め切りが過ぎてます」と言うオチ。知らない作家だったのだが、詩情豊かに核戦争後の地球を描く、今日マチ子「ウランの子」。本のウンチクでギャグを構成する「バーナード嬢曰く」の「火の鳥編」で、久しぶりに笑わせてもらった施川ゆうき。私は数あるマンガ賞の中でも、この手塚治虫文化賞が最高峰だと思っている。それでも6割が未読の受賞作だった。どうも知らない作家が多すぎると思ったら、出てきていたのは第11回から20回までの受賞作家のみ(第10回までは既にアエラムックとして出版済み)。人生の中で私が最もマンガから離れていた15年間と被る。しかも、この賞はわりとマイナーな作家が多いので尚更。今回の副題「マンガの神様の意思を継ぐ者たち」は、そういう意味で妥当である。よしながふみ「大奥」、伊藤悠「シュトヘル」、業田良家「機械仕掛けの愛」、今日マチ子「アノネ、」「みつあみの神様」、ほしよりこ「逢沢りく」は読んでおくべきだと思った。鳥山明を育てた鳥嶋和彦の編集者論は傾聴に値する。但し「手塚治虫の後継者は浦沢直樹、ちばてつやの後継者は森川ジョージ」と言う説には同意出来ない。その他、このムックには受賞者一人一人に短い批評が付くが、概ね妥当だと思えた。値段にしては、発行後3年経っているけどお得な一冊。山岸涼子が手塚治虫本人に押しかけ持ち込みをした顛末の一遍松本大洋の小学校時の事実と思えるが、見事にリアルな独立短編になっている「5時間目のブラック・ジャック」。短編なのに、長編を読んだ気になる原泰久の「鉄腕アトム」。
2019年06月15日
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「無用の隠密 未刊行初期短編」藤沢周平 文春文庫藤沢周平が『オール讀物』新人賞を獲得するおよそ9年前、無名の中間小説誌に書いていた短編15編が発掘された。藤沢周平の真のデビュー作だろう。びっくりするのは、一作毎に明らかに上手くなっていくのである。それで、あえて最初の連作二編について詳しく感想を述べる。藤沢周平にしては拙いその作品に、後世の時代小説を塗り替えた作家の原石が見えるからである。「暗闇風の陣」(S37.11)と「如月伊十郎」(S38.3)。隠れ切支丹の事件に臨む公儀隠密如月の活躍を描く。この題名の付け方は、きっと黒澤明「用心棒(S36)」「椿三十郎(S37)」に影響を受けていると推察する。内容もテーマも全く違うが、飄々とした如月のキャラはどことなく黒澤明の浪人キャラと被る。藤沢周平が切支丹ものを描いたのはこの時だけだった。また隠密や不良剣士、忍者が暗躍する世界は、当時の流行りではあるが、我々の知っている藤沢周平ではない。藤沢周平は読者の喜ぶエンタメから始めたのである。ストーリーは、粗さが目立ち成功しているとは思えない。唯一活き活きと描けたのは、元結いの亭主、実は泥棒の新吉という庶民だった。また、時々見せる透明度溢れる情景描写に、原石を私は見た。その後、「霧の壁」のようにムショ帰りの使用人がお嬢さんを助けて去って行く高倉健映画のような構造の小説もあるにはあるし、読者を意識してほとんどの短編に濡れ場を用意してはいるが、総じて男女の哀歓を詩情豊かに描く藤沢周平の世界を、特に15編の終わりの頃には確立してしまう。忘れてはならないのは、これらが描かれた時期と並行して、長女展子さんの誕生、妻悦子さんのガンの発覚、手術、再発、死亡という人生の激動が起きていることである。子供をあやしながら描き、病室で描き、締切に追われて安易な結末を描きながらも、悦子さんが「小説掲載を喜んでいた」ことを励みに、藤沢周平はいっとき生き甲斐を見出していたのかもしれない。最初の十五編で、藤沢周平はここまでの高みに登った。私には、ほとんど奇跡のように思える。2019年6月14日読了
2019年06月14日
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「フランケンシュタイン」シェリー 小林章夫訳 光文社古典新訳文庫今年の1月に映画「メアリーの総て」を観て、俄然読む気になった本作をやっと読んだ。本当の題名は「フランケンシュタインーあるいは現代のプロメテウス」である。神話で人類を創ったプロメテウスをなぞり、今から約200年前に人造人間を造ったフランケンシュタイン博士の悲劇と、名前のない人造人間の悲劇を描く。巷間に有名なストーリーは、後々の映画によって広まったものだ。一般イメージを忘れて人造人間を単に「怪物」とだけで読んでいくと、まるで感覚を持ち、知恵をつけ、文学を理解し、愛と憎しみに揺れる「近代的自我」に目覚めた19世紀英国人の精神史をなぞっているようにも読めるし、科学文明批判のようにも見える。女性差別は出てこないが、凡ゆる差別されるものに寄り添った悲劇のようにも見える。また、夫のシェリーについて旅した見聞を生かしたヨーロッパ旅行記のようにも見える。様々な要素を、それこそ古い映画の中のフランケンシュタインの容貌のように「継ぎ接ぎ」しながら、二重入れ子状態の小説構造を持って描く。解説子の言うように、クローン人間が現実的になった現代、更にいろいろな読まれ方が可能だろう。この長編小説を仕上げた若干19歳の才媛の存在は、確かにビックリ以外の何者でもないだろう。一方で、人造人間の成長部分は大変面白いのだけど、そこに至るまでの導入部と、物語の閉め方は、現代の我々から見ると退屈である。ただ、あの当時に手紙形式や告白形式が流行っていたのだとしたら、若い彼女に作品の完璧を求めるのは酷なのかもしれない。アニメの名作「人造人間ベム」は、虚心坦懐に原作を読んだ人が、もし人造人間が望んだように伴侶と息子を手に入れたならばどんな物語になっただろうか?と想像して作られたのではないかと、私は推察した。
2019年06月07日
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「MIX(既刊14巻まで)」あだち充 小学館「あの」明青高校が、30数年ぶりに甲子園を目指すという漫画を、あだち充が描いているのは知っていた。どうせ上杉達也と浅倉南の息子が出てくるのだろうと無視を決め込んでいたのだが、最近無料で電子書籍を見ることを覚えて、試し読みをしてみたら、そんな単純な話じゃなくて、血の繋がっていない立花兄弟が甲子園を目指し、みゆき等歴代ヒロインそっくりの可愛い女の子2人も出てきて、じっくり高校野球青年群像を描く話になっていた。という話になりそうなところで、無料お試しが終わったので、続きは買うのはやめて、某所で最新の14巻まで一気に読んだ。勢南高校の西村が息子と共に出てきたり、元・須見工野球部が出てきたり、13巻からは原田正平が記憶喪失で出てきたり、完全「タッチ」の続編となっていた。何度も盛り上がりかけた所で、和也のような悲劇が襲いそうな場面を作ってみたりしている。あだち充は、絵柄に似合わない癖のある漫画を描く男なのだ。明らかに「タッチ(ヒーローの交代)」というテーマではなく「ミックス(名作と現代のコラボ)」というお話になっている。まだまだ主人公たちは高校二年生になったばかり。ゆっくり進んでいるので、あと6年ぐらいは続きそう。あだち充は、そう言うことを平気でやる男である。おそらく、最終回は、明青が甲子園出場を決めて、浅倉南が顔を出す所で終わる、と私は見ている。でも、予想を外すのをとことん楽しんでるのが、これまでの14巻だったからなあ。
2019年05月25日
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