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文学日記(22)「今昔物語」福永武彦訳「日本霊異記」より300年後の12世紀初めに成立。欠損はあって未完成だが、天竺震旦本朝の3部構成、壮大な意図で作られたはずだが、作者の名前も意図も不明。最後に無理やり仏教説話にこじつけているので、仏教関係者のはず。しかし、内容は無常観と淫蕩か漂い、不可解さもある。芥川が世間に知らしめ古典と変えたが、この物語が芥川を作家にした面もある。霊異記と比べれば気品があり、文章の構成力も増している。福永訳の選択には、芥川の入れた七つの話は出てこない。また、谷崎潤一郎は「少将滋幹の母」、堀辰雄は「曠野」、福永は「風のかたみ」を此処から想を得て小説を書いている。実際現代でも、何処かのエンタメ小説に出てきそうな話もある。天皇の母を鬼の霊力でもって邪淫する場面は、少なからずショックである(「天狗に狂った染殿の后の話」)。安珍清姫の道成寺のタネ本も此処にあったし(「女の執念が凝って蛇となる話」)、「異端の術で瓜を盗まれる話」は、中国で有名な説話の見事な和風になっているのだが、本朝話に載っている所を見ると、作者はそのことを知らなかったのかもしれない。「高陽川の狐が滝口をだます話」は、仏教説話にさえなっていない。1度騙した青年が少し情けをかけてくれて、2度目は騙しさえしなかったのに殺されそうになった。「人を騙そうとしたために、可哀想にひどい目にあった狐である」とつい作者もまとめてみせる。この狐に当時の庶民の女の姿が見えるのは、私だけだろうか。
2018年08月18日
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文学日記(21)「日本霊異記」(伊藤比呂美訳)訳者あとがきで、伊藤比呂美さんはこの書に惚れ込んだ理由をこう記す。「なにしろエロい。グロい。生き死にの基本に立ち戻ったような話ばかりである。しかしそこには信仰がある。今のわれわれが持て余しているような我なんてない。とても清々しい。しかも文章が素朴で直裁で、飾りなんか全くない。性や性行いについても否定もためらいも隠し立てもない。素朴で素直で単純で正直で明るく猟奇的である。」(469p)何しろ雄略天皇のセックスをたまたま見た小姓に向かい、天皇は場を取り繕うために「雷神を連れて来い」という話もある(15p)。これが、奈良県飛鳥の里に今もある「雷の岡」の謂れだというのだから、かなり有名な話なのであるが、実際の場所の立て看には「セックス」の話は一切ない。現代って、なんてツマラナイ。9世紀初めに成立した日本最古の仏教説話集。奈良薬師寺の僧・景戒の筆。行基の大ファン。どうやら本気で行基は菩薩の生まれ変わりと信じていたようだ。彼の信じる仏教は、普通に読めば因果応報、現世利益なのであるが、本人は現世利益とは思っていなかったのだろうな、とも思える。でも、その「俗っ気」がとっても貴重で、彼の採取した話はホントに俗世間が多い。行間に当時の庶民の飾らない本音が垣間見えてとても興味深い。子育てをほっぽらかして男と寝てばかりいて死して苦しむ母親を、成人した子供たちが許して仏を作る話がある。「でも、私たちは恨みになんて思ってやしません。そんな母でも、私たちには慈しみの母でした。」(49p)あゝ人間ってそうだろな、と思うのである。
2018年08月17日
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「死處」山本周五郎 講談社文庫77年ぶりに発見された未発表作(表題)を巻末に、その10ヶ月後に発表された同音異曲「城を守る者」を冒頭に、その他「石ころ」「夏草戦記」等、全て第二次世界大戦の戦中に発表された「戦国武士道物語」8篇を収める。山本周五郎の戦記ものは、もしかしたら初めて読んだ気がする。時はまだ真珠湾攻撃の勢いを駆って、世の中の戦記ものは信長、秀吉、家康を始めとして有名な英雄を主人公にした物語が多かった頃。しかし、此処に綴られる人物たちは、その下で働いた無名の者たちばかりである。「どれほど多くのもののふが夏草の下にうもれたことだろう。その人々は名も遺らず、伝記も伝わらない、かつてあったかたちはあとかたもなく消えてしまう、だがそのたましいは消えはしない、われらの血のなかに生きている、われらの血のつづくかぎり生きているのだ。」(96p「夏草戦記」より)ほとんどの読者は、戦争を体験、或いは身近に聴き知っている者ばかりだったろう。その者たちに向かい、1番心に響く言葉を周五郎は書いた。この部分だけ、周五郎はひらがなをおおくつかい、ぶんを「。」で止めなかった。まさに、無名のひとたちにかたりかけたのである。「死處」は、最前線に出て勇猛果敢に死を賭して戦うことだけが死處ではない、他に選ぶ死處はあることを語った話である。しかし編集部に渡していた原稿が掲載される前に、雑誌が紙不足のために休刊して仕舞う。周五郎は原稿の返却を言わなかった。その不器用さは、ここに出てくる多くの登場人物たちの行動と似ている。そして、同じモチーフを使いながらもう一度別の作品を書く。私は「城を守る者」の方が完成度も、テーマ的にも優れていると思う。戦後に吉川英治は一時筆を絶った。有名人だけを主人公に据え、忠義を追い求め、従軍作家にもなった吉川英治は、「新平家物語」を書くまでは再出発することができなかった。山本周五郎にそういう中断はなかった。蓋(けだ)し、周五郎再評価、宜哉(むべなるかな)。2018年8月読了
2018年08月07日
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「パレートの誤算」柚月裕子 祥伝社文庫生活保護係のケースワーカーを主人公にした、本格的な生活保護ミステリーである。映画「虎狼の血」が面白かったので読んだのであるが、舞台津川市は、明らかに広島県呉市をモデルにした映画(呉原市)と同じ場所と思われる。山陽方言圏の私としては、親しみのある内容(作者の出身は岩手県らしい)。生活保護受給者の何人かを知っている私としては、興味あるテーマであり、どのように料理したのかを見守ったという感じ。結果は、大枠では正しいが、部分的には「この作者もそうか」とがっかりした、という感じ。ミステリー部分は、大枠では予想通りに進んだので、ここでは述べない。テーマ部分について書く。書いても別に面白さは減少しないと思う。最後にある登場人物が言う。「たしかに生保のあり方には、問題が多い。不正受給やら貧困ビジネスが、あとを絶たない。でも、生保という行政の制度があったから、育つことができた子供がいたことは確かだ。さまさまな理由で、自分の力で生きていけない人は、いつの時代にも必ずいる。そういう人を救うために生保は、必要な制度だ。言うなれば、生保は自分の力で生きていけない人のー社会的弱者と呼ばれている人たちの最後の命綱だ。その命綱を、悪用する奴らを俺は許せない」(420p)そのことに異論は一切ない。しかし、作者はかなり生保について調べているはずなのに、私でさえ知っていることに言及しない。ここに出てくるケースワーカー(専門家)の言葉を借りて反論しないばかりか、彼ら自身がそのように認識しているかの如く、ミスリードするように物語を構成している。曰く。(1)生保の金を受け取ったその足で、パチンコに並んだりする者がいる。と書いているが、パチンコ依存症だった場合は、アルコール依存症と同じ「病気」であることの認識がない。(2)テーマ的に「不正受給」について延々と書いているが、あることを書いていないから普通に読んだら不正受給は全体の1割から2割はいる印象を受ける。実際は、1%にも満たないし、そのほとんどは家族の子供のバイトの申告漏れ等の制度無理解によるものが多いのである。(3)生保受給者に同情してお金を立て替える場面を美談的に描いているが、規則的にもやってはいけないことであるが、受給者の自立を促すということでも「絶対やってはいけない」悪影響しか及ばさないことである。建前は正しいけど、本音の所で、この作者生保制度のことをホントにわかっているのか?わかってないだろうなあ。
2018年08月06日
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「不滅のあなたへ(6-7)」大今良時 講談社コミックス去年に5巻まで一気読みして、完結した時にまた取り上げたい、と書いたが、週刊少年マンガ連載には珍しく密度の濃い展開をしているので、方針転換、年に一度ぐらいは取り上げたいと思う。前回は、ファンタジーの世界観の構築がきちんと出来ていて素晴らしいこと、不死のモノが主人公ではあるが、文明史観はなくあくまでも「人間とは何か」に関心がいっていることを指摘した。それは一巻目を除いて五巻まではあまり時間軸が移動しなかったからなのだが、ジャナンダ島が終わった後に一挙に40年、そのあと大きく数十年の時間が移ったので、単に人間性だけに的を絞った物語でもなさそうだ。ただし、文明史観や国家の問題は、まだ立ち現れてはいない。本来ならばジャナンダ島も何処かの国に属しているはずであり、殺人大会で代表を決めるのはおかしいはずなのだが、ファンタジーなので見過ごしていた。6巻目からはなんと国の王子が登場する。少し趣を変えるかもしれない。「この世界を保存する」ために、フシを作り、ノッカーの位置を感知出来、まるで外宇宙から情報のみ送りつけているような「観察者」。観察者の計画を阻止するための、観察者とは裏表の存在「ノッカー」。フシが獲得したものを奪い、弱体化させるために設計された。学習能力を持ち、必ずフシの居場所を掴め、やがてはハヤセの1部の中にも入り込んで、フシ教みたいな組織も作る、変な生き物。この二つの「存在」が、謎のまま物語を展開させる。この謎はなんなのだろうか?6巻の180p、観察者とピオランの会話から、どうもこの星は地球とは成り立ちが大きく違うぞという予感がある。そもそも星なのかどうかもわからない。壮大な「仕掛け」にもうしばらく酔ってみたい。
2018年08月05日
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「プリニウス(4-6)」ヤマザキマリ とり・みき 新潮社前回取り上げてから2年近く経った。いつの間にかその間に3巻も進んでいた。言うまでもなく、プリニウス「博物誌」から想を得た一世紀ローマ時代の博物記録なのだ。いろんな発見があるので、この辺りで記録する。以下の箇条書きは、素っ気ない書き方をしているけど、素っ気ないマンガでは決してない。緻密な描写は驚嘆に値するし、誠実な描き方に2人のローマ愛を感じるのである。4巻目。・ポンペイ噴火の17年前に起きたポンペイ大地震の描写が、素晴らしい。水道の枯渇、深海魚の打ち上げ、赤い月、大量の羊の死骸、鳥の大群、そして起こる大地震。大地震は62年に起きたそうだが、詳細な記録が残る文化が既に確立していることの凄さ。・キリスト教の微かな伝説化が始まっており、1部ユダヤ人は、その教えを持つことで迫害されていた。・ネロは、無知の皇帝で、2人目の妻のポッパエアの陰謀で起きたようになっている。5巻目。・マケドニアで採れた磁石。雌の磁石は赤みがかかって強く、青いのは雄で弱いそうな。・エチオピアでは言葉を持っていない未開民族がいて、胸に顔があったり、足が紐のようになっている。事実と嘘を取り混ぜた話が横行している。・ネアポリスの港(ナポリ湾北岸)の現代的なこと。6巻目。・「博物誌」からの1部抜粋、「生命のないものを模倣する動物」「ウミウサギという毒をもつ海洋物」・元カルタゴの土地のキャベツ。・砂漠ではラクダの糞を燃料に使う。これは現代的な知恵。出版社からのコメント【プリニウスとは?】古代ローマの時代を生きた実在の人物。本名、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(A.D.23~79年)。史上もっとも有名な博物学者。「寛容・進取・博学」と古代ローマの精神を一身に体現する男でもある。その並外れた好奇心で、天文・地理、動植物の生態、絵画・彫刻など、森羅万象を網羅した百科全書『博物誌』を書き遺す。ヨーロッパで『博物誌』は「古典中の古典」として知られ、後世の知識人たちにさまざまな影響を与えた。【合作について】コンビ名は、「とりマリ」。大まかな2人の役割は、ヤマザキマリがネームと人物画、とり・みきが背景・仕上げを担当。毎回、ストーリーについて議論しながらネームを起こし、まずはヤマザキマリが人物を中心に描画。それを受けてとり・みきが背景などを描き、往年の特撮映画のように2人の絵を〝合成″して仕上げてゆく――。 これまでも「原作者+漫画家」のコンビは数多く存在したが、「とり・マリ」は珍しい漫画家同士のコンビ。お互いの長所を活かした、まことに贅沢なコラボレーションを楽しむことができる。
2018年08月04日
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「輝ける闇」開高健事前に解説や煽り文を見ると、この小説はベトナム戦争を描いているかのようで、実は酷く内省小説なのだ(「人間の闇を探った」)という評価なので、そういうものだと思いながら読み進めると、当たり前だが、そういうテーマはあるにせよ、描いているのは、今までに読んだことのない詳細な「ベトナム戦争小説」だった。サイゴン近郊の対ベトコン最前線基地の描写は、「地獄の黙示録」で描かれた川沿いに点々と映った米兵基地の内実のように思えたし、サイゴン市内の戦争に膿んだ市民や記者や知識人の描写は、高野秀行「恋するソマリア」の内実をホントにシリアス化した文章、或いは北方謙三「岳飛伝」の小梁山の800年後の姿のようにさえも思えた。池澤夏樹の指摘する凝りに凝った文体は、私も感じ、感嘆したが、ここでは繰り返さない。主人公が恋人の素娥(トーガ)に何も言わずに戦線に戻る理由は、なかなか分かりにくい。しかし、その分かりにくさが、小説なのだろうとも思う。軍国少年だった主人公が、途中中断した死に赴く自らの主体を取り戻すのが理由なのだろうか?わからない。もっとも、マーク・トゥーエンの小説を延々解説したくだりを読み飛ばすような読み方しかできなかったわたしが、一発でわかるはずもないのではあるが。年譜をみると、安保反対集会やベ平連にも参加、一方でアイヒマン裁判傍聴、徳島ラジオ商殺人事件裁判、東京オリンピック、等々のノンフィクションを手がけ、その延長の最後の頂点にベトナム戦争があったことがわかる。まるでこの小説のようだ。体裁は社会派、内実は内省派。掘れば、もっと面白いのかもしれない。しかしわたしは、此処で撤退する。2018年7月読了
2018年07月15日
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第六章「野望」(9巻-)。どうして酒井雅楽頭が新興勢力である堀田一族を目の敵にするのか?また権力に執着するのか?その一端が述べられる。それは、祖父の代の名門の没落と過去の栄光を「没後の憂愁と怒りを聞きながら育っていった」ためと書いている。この歪んだ信条は、正に成長期の親の教育問題に原因があるとでもいいたげである。ここには、もはや江戸幕藩体制の矛盾の発露としての陰謀構造は描かれない。しかし、その後「しかし、忠清の妄執といっていい権力追求の動機は、そんななまやさしいものではなかったのである。それは物語が進むにつれて次第と明らかとなっていくだろう。」(9巻28p)とも述べている。果たしてきちんと説明してくれているのか、どうか。せっかく新しい人生を選ぼうとして訪れた九十九里浜の生活は、佐渡守の追っ手をくらますために、竜之進とカムイが死んだと見せかけることになった。この辺りの「仕掛け」は、昔取った杵柄でお手の物という感じがする。しかし、それは2人を銚子に向かわせるための「作為」のような気もしないではない。銚子の外川浦の港作り、引いては街作りに、竜之進は大きく心動かされる。新しい街には希望がある、そう思うのは、封建主義の矛盾と戦ってきた彼らしくはないように思うのだが、如何なものだろうか?一方、カムイも今だ自分のことを夢を持たずに「何処かの浜に流れ着いて朽ち果てていくのが宿命」と達観している。彼らに夢ができるのが、このカムイ伝のテーマだとしたら、なんかずっと夢はつかめそうでない気がするのだが。さて、ここで突然正助が登場する。紀州の黒鍬衆の庄左衛門としての登場は、やはり日置は紀州ということなのか?しかし、佐渡守の移動の速さを見ると、福島辺りとも思えるのだが、うーむ。しかしあまりにも突然の登場である。第二部をいったん止めるためのサービスの為とはいえ、あまりにも設定を無視しすぎると、当時の読者からはあまり評判は良くなかった気がする。でも、よく考えれば、死んだと見せかけて、生きていた、というのは白土三平の何時ものやり口ではないか。私は納得している。熊沢蕃山が龍の化石を発見する場面(9巻156p)は、その後の相次ぐ考古学的発見のことを考えると予言めいたものさえ思える。また、恐竜の蕃山に言う戒めは(178p)、未だに、いや大震災を数度経た今、更に増して我々に突きつけるだろう。河村瑞軒や崎山治郎右衛門という実在人物のお陰で、正助は助かったことになっている。実際江戸幕藩体制の元では、彼らは「死んだことになって」いないと日置を離れることはできなかった。正助がいきていて、日置ではみんな正助のことをすまなく思っていることの理由はそれでつくだろう。また、正助の夢は、黒鍬衆としての土木事業に従事し「新天地」をいたるところに作れば、非人たちも住むところが出来るかもしれない、という。印旛沼の開拓に正助はこれから手を付ける。このあと、「カムイ伝」は2年ほどの休載を作る。あれは作品構想のためだと思っていたが、今考えると、岡本鉄二の病が悪化したのかもしれない。だとすると、ここで正助がつぶやいた「新天地」構想だけが、この大河ドラマの決着点だったのかもしれない。今となっては思う。影衆と黒鍬衆が結びつけば、封建体制の下でも「新天地」は可能だったのではないか?しかし、この後、その構想の可能性は深く沈殿する。わたしのこの想いは単なる幻想なのだろうか。全体をみながら、考えなくてはならない。ともかく私の漫画評も、ここでしばらくお休みにする。
2018年07月09日
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第四章「念者」(4巻ー6巻)。ここから一挙に舞台は、江戸になる。第二部が、日置から離れた物語であることを、結局強く印象つける章になった。由井正雪の乱、別木庄左衛門の変と、歴史的事実を紹介して、竜之進を巻き込んだ牢人の乱から話を始め、2人の歴史的な人物が登場する。1人は堀田正俊 。登場において、なんとその生涯の解説までしている。五代将軍の大老までなるのが決まっているので、この登場時には一万石の大名に過ぎない。「最後は非業の死を遂げる」とまで解説されているのであるが、反対に言えば、大老になるまでは死なないと宣言された。わたしはこの登場時、単なる脇役に過ぎないと思ったのだが、其の後重要な役を得るのだ。「佐渡守」そしてこの「念者」で、影の主役は錦丹波である。しかも、支配被支配をめぐる話ではなく、戦国時代が終わり50数年、泰平の世に、生き方を模索して、娘は鞘香では死んだこととなり、嫡男の息子は非行に走ってなかなか治らない。恐ろしいほどに彼は子供のために尽くす。それがお家のためということもあるが、やることは時には常軌を逸しているので、正に「教育問題」が、この章の大きなテーマになっていることがわかるのである。そして老中酒井雅楽頭。ちょっと名前が出ただけであるが、この人物がニ部においての最大の悪役となる。そして新たな世代の中心人物、宮城音弥と錦丹波の息子の源之助が表舞台に踊り出すのである。しかし、源之助は心から挫折し、音弥は小姓として出世の階段を登る手前で次の章に移るだろう。第五章「無宿溜(スラム)」(6巻-8巻)。なぜ第五章がこの題名なのかは、途中に判明する。竜之進は、日置で助けた日州との出会いで、江戸のまちづくりの人夫の杖突(現場監督)として、新たな仕事を始めていた。しかし、牢人の身分から変わるというだけで、これが彼の人生というわけでも無い。ただ彼がこのスラム街に興味を持ったのは工事現場監督が好きなわけではなく、おそらくどんどん人口が増えて「新しい街」が出て行くことに、何かの刺激をもらったからに違いない。「第三の道を探している」。読者の私には見当も着かない。此処にきて酒井雅楽頭忠清がきちんと登場した。佐渡守が酒井雅楽頭の参謀的役割をしていることも判明。竜之進があれほど活躍しても、まだ正体に気がついていないのは少しどうかと思うが、忍びの使い方はなかなかである。彼らが(1)何処で結びつき(2)野望は何か(3)その動機は何か。白土三平は解明することを約束している(8巻155p)。これもどうやら未完に終わっている。「異変」の節において、スラム街で医師の道無とサブ(カムイ)の叩く太鼓が古代の血を呼び起こす。白土三平がなぜここで、この重要な「山丈」を出さなくてはならなかったのか?この小さな共同体が白土三平の目指しているものなのか。山丈の「オォー、カムイー」という叫びは、何に対して叫んだものなのか。我々は、慎重に見定めなくてならない。よって、答は保留したい。この場で、サブ(カムイ)、竜之進、音弥、堀田正俊、道無、アヤメ、房州、日州が揃っていたことは、記憶しておかねばならない。んただ、言っておかねばならないのは、第一部において、山丈の登場はいつも作品のテーマに係る場合だった(カムイの登場、白狼カムイの登場、日置大一揆)。このスラム街はこのあと、酒井らの陰謀によって潰されるのではあるが、その後も彼らは浪人や非人、放浪する民として漁業や土木工事などに全国に散らばることになる。この時点まではこれらが何らかの役割を果たすことになっていたのではないか。それと、影衆の役割も不気味である。
2018年07月08日
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第ニ章は「谷地湯」(2巻-3巻)。長編の序章らしく、サル社会からゆっくりと人間社会にシフトする。谷あいの湯治場の宿の番人喜太郎が、ふと大量の金塊を手にすれば、小心者らしく金塊溜めを計画し、疑心暗鬼で殺人も犯す。しかし、それよりももっと狡猾な人間が登場する。日置藩の隣の猿投沢領一万石、佐渡守である。彼は隣の望月藩七万石(実高10万石)領主の弟であるが、弟ということだけで小藩に甘んじているのを不満としているようだ。手近に忍者を飼い、後に分かるが幕閣の水野忠清とも友好関係、或いは懐刀的な役割を持っている。「能力あるものは、手段を選ばず出世するべきだ」という価値観を持っている。80年代、90年代の日本の一つの課題ではあるだろう(原稿完成日付は1988年10月)。ここで、初めて日置領、猿投沢領、望月領の地図が登場する。それによると、日置と望月の国境に五代木の港があり、望月から流れた川は日置に通じているのである。一つわかるのは、太平洋側に国があるということだ。(2巻252p)第三章「佐渡守」(3巻-4巻)。ここから本格的に人間世界に舞台を移す。佐渡守の望みは書付のエピソードで明らか。望月藩を我が物にするということだ。そのために、望月の小姓組頭の団織部之助の殺害を試みる。しかし、その話は一旦切れてそれ以上は展開しない。第三章は、ずっとあの日置大一揆を治めた錦丹波とその娘鞘香と農民の娘加代を中心に話が進むのである。久しぶりの笹一角(草加竜之進)も登場して、カムイ伝ファンはドキドキしたと思うが、もはやかつての主人公(カムイ伝には正助、竜之進、カムイと3人の主人公がいた)竜之進に仇を討つ敵はいない。また、自ら藩主になって理想の政治を行うのは1度失敗している。自らの役割を見つけることの出来ぬ、単なる「黒子」としか役割を持てないのである。岡本鉄二の画は、この頃縦横無尽に描かれている。農民の生活描写も、第1部よりも遥かに細密になっている。返す返すも、彼の早逝が悔やまれる。この章で、草加竜之進の1部における活躍、また「傷魂(きず)踊り」の節に絡めて、正助たち農民の経過、また「舌を切られた正助に怒り、農民たちがなぶり殺しにしてしまった」という「伝説」を紹介する。それは既に非人たちの「踊り」と祭り化しており、かなりの歳月が経ったことを示している。更に言えば、「影衆」の存在も明らかにされる。竹間沢の庄屋、そして苔丸が影衆として、五百棲(いらず)ケ原に大量の米を隠匿しているということも、明らかにされるが、第二部において再び大一揆は起きないので、このエピソードは今のところ不発に終わっている。しかし、実はこの部分はかなり重要な部分なのではないか?とわたしは思っている。第二部は、既に第一部の「志」は無くなったという評価が多く見られるのだが、わたしはこの時まで、第二次日置大一揆を想定していたのではないかと思っている。なぜならば、「影衆」とは、白土三平における「柳生武芸帳」の革命集団、「風魔」の労組集団、に継ぐ、白土三平における「世直し」の「手段」だからである。これについては、また後で書く。ここで、鞘香と加代を中心に描かれているが、この2人が第二部で再び登場することはむつかしかった。いったいどういう未来が構想されていたのか?これも残念という他は無い。
2018年07月07日
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カムイ伝第二部は何処に行くのかひとつ断っておかなくてはならないことがある。私は上記のテーマを掲げた。もう何年も一度は書かなくてはならないと思っていたからである。しかし、何処に行くのか、と書いたからといって、中断している「カムイ伝」が再開するとは一ミリも思っていないのである。もう10年ほど前に「カムイ外伝」の映画化がされた折に、白土三平は何の気まぐれか、外伝を再開すると、銘打った。待ちに待った中編「イコナ」を見て、私はカムイ伝の終わりを知ることになった。話もキレがわるくなっているが、それよりも画がどうしようもない所まで悪化していた。デッサンの狂い、線のみだれ、粗雑な背景。作画に「岡本鉄二」の名前も無かった。赤目プロは瓦解していた。もう幻想を抱いてはならない。「カムイ伝」は第二部で、永遠に中断したのである。ならば、第二部はいったい何を描いて、何処に行こうとしていたのか。短い評論は幾つかある。しかし、全22巻にもなろうとしている、その全貌をキチンと批評した文を、寡聞にして私は読んだことがない。私には荷が重い課題であると、十分承知しつつも、やがて訪れるであろうXデーを機に、一気に華やかに展開されるであろう白土三平評論の先鞭をつけておくのは、その後の評論に何か資するかもしれない、と思い、やってみることにした。やり方としては、底本を小学館のゴールデンコミックスに取りつつも、巻数毎の批評とはせずに、章毎の批評したい。よって、最初は第一巻と二巻に跨って展開された「猿山」について述べる。第二部はなんと明確に「明暦2年(1656年)」という、元号から始まる。「カムイ外伝」第12巻「剣風」のラストが、1654年だった(柳生の解説文章から類推)。第二部は律儀に外伝の終わった直後から始まったと見ていいのかもしれない。第一部が架空の藩の日置藩としたせいもあり、幕藩体制が固まりつつある時代だとはわかっていたが、明確な年代までは遂にはわからなかった。最初にこの言葉から始めたのは、白土三平の第二部への意図が、明確に歴史的事件と絡めてこの長編を作ろうとしていることがわかる。もちろん第一章「猿山」は人間世界の歴史とは、とりあえず無縁性が高い自然社会なので、明暦2年の言葉が活きるのはまだまだずっと後の話になる。ただ、日置7万石が改易となりその城がずいぶんとボロボロになっているので、日置大一揆から少なくとも5年以上は経っている。となると、第一部の年代もハッキリする(おそらく日置大一揆は慶安の時代)ということになる。白土三平にとっては、自然と相対することは人生そのものだ。カムイ伝は、個人と社会そして歴史との関係を描いた壮大な絵巻物であるが、それと同じ比重で、人間と自然との関係をも描こうとした。猿は自然の中でも、最も人間に近い動物であり、動物の中でも明確に「猿社会」を確立して、階層化も進んでいる。猿から見た人間、人間から見た猿。第二部がそこから始めたのは、今回明確に歴史的事件を扱うと共に、明確に人間と自然との関係、そして違いを扱う、作者の決意表明なのではないか。猿の序列社会は一見人間社会と似ているように思える。この一巻は、その類似性を見せているのではないか。もちろん、白土三平。単なるサル社会を延々300ページ以上にも渡って見せるはずがない。そこにはタテガミとカミナリの個人的歴史を想像させる遂には明らかにされなかったドラマと、定住だけではない、「放浪の世界」もサル世界にはあるはずだと、という白土三平の「思い」も見せるだろう(後で調べると、日本ザルはオスは放浪ザルがけっこういるらしい)。
2018年07月06日
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「太陽の塔」森見登美彦 新潮文庫作者のデビュー作である。京都の大学生たちの歯牙ない失恋状態を延々と描写している。或る種の者たちにすれば、聖書のように箴言に満ちた文章であっただろう。わたしは、この書を紐解きながら或る先輩の事をずっと思い出していた。彼は「世のフラレタリアートよ、決起せよ」と叫んだ。職場の寮で賄いの叔母さんが作ってくれているカレーとご飯を、常にモリモリと盛り、そのことによって世の中の搾取を挽回する計画を立てた。タヌキのような大きな腹を見せながら、顔を突き合わせる度にわたしに党に入れと誘った。わたしは客観的にもその資格があることは認めながらも、その度に断った。党に入ると碌なことはない。岡山市表町商店街で月一回の支部会と称して穴蔵でロックを飲み干す企ての共謀正犯になるどころか、独りその前に女性グループに声をかけなければならないという新入党員鉄の掟なるものを強制させられる。という噂を聞いた。バレンタイン革命なるものを目指しているという噂も聞いた。幾歳月が過ぎ、先輩はとおに職場を辞し、人には言えぬあれもこれもした後に、2年前のバレンタイン・イブの日の凍れる道端で行き倒れになった。危なかったところを生還して、なんと未だにわたしに毎日の如くフラレタリアートの党に加入せよと電話してきている。もちろん、わたしは断っている。よって、この作品の登場人物たちがクリスマスファシズムに抗して「ええじゃないか騒動」を共謀する、その未来も充分に予想出来たのである。「幸福が有限の資源だとすれば、君の不幸は余剰を一つ産みだした」
2018年07月04日
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「古事記外伝ーイズモ・クロニクルー」多羅尾整治 幻冬舎ルネッサンス荒神谷博物館でこの書を見つけて、後で取り寄せた。島根を舞台にした数少ない古代小説ということで置いていたのだろうとは思う。「外伝」とついているように、主にはスサノオを辰韓(紀元前2世紀 - 356年)よりやって来た製鉄職人集団の2代目に設定し、スサノオ(スサの森の王)のオロチ退治(オロチ衆との戦い)、出雲の国造り(日向から大和まで)、大国主への代譲り、大国主の国譲りまでを描き、作者の考える文献解釈を試みている。この時代を描く例があまりにも少ないので、このような長編は出来るだけ読みたいと思っているのだが、結果的には最後まで読むこと能わなかった。小説は、基本的に一つのウソを付くために九つのホントを描かなくてはならない、とわたしは思っている。この小説は大袈裟に言えばその反対、一つのホント、九つのウソだった。以下、良かった処を少し述べて突っ込みどころの1部分を述べる。(良い)・子を作ることを、人々の中の大きな目的にしている。・地域のムラを「・・の森」という呼び名で、区分けする。・時間と距離を歩数でカウント。しかし、当時一千以上を数える能力があったかどうかは大きな疑問。二万四千歩(四時間)六千歩(四キロ)・八重垣の描写「巨木を支柱にして、枝を払った小径木と竹でつくられた、人の高さの倍はある壁。」落とし穴とかの工夫。(突っ込み処)・青銅器材料を日本国内で調達している。成分分析ではほぼ外国産のはず。製鉄に関しては、この時代(おそらく弥生末期)から300年間は出雲はおろか、日本国内でも「製鉄」は実現していない。・砂鉄は鎌倉時代以降に吉田地区で作られた製鉄技術であり、当時ではまだその技術は確立していなかったはず。砂鉄が採れるから製鉄も出来ていたはず、というのは事実を無視した暴論である。・酒をオロチ衆が知らなかったということは、あり得ない。酒はどの時代でも特別な飲み物だった。・皆殺しの戦争を迷いながら実行する。それは、復讐を恐れる近代的な発想に依っている。古代は、違う論理があったはずだが、それは構築されない(そもそも古代の神が全然具体化されていない)。「最も力の強いクニの王が全てのクニを制すれば、争いはなくなります」(71p)これは近代の戦争論理であり、しかも過ちではあるが、作者は無批判にその論理を受け入れる。それは戦争を人間の本能と捉えているからだろう。結果平和を実現するために、戦争に明け暮れる小説になってしまった。・フツシの都造りは安来で行われた。あまりにも意外。同時期、それよりも隔絶した墓を作った出雲の西谷墳墓が無視されているのは如何なものか。・青銅器祭祀の終りが描かれない。よって、荒神谷遺跡等の大量埋納も描かれない。青銅器職人としては無視出来ない出来事だったはず。まだまだもっとあると思うけど、省略する。2018年6月読了
2018年07月02日
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「過ぎ去りし王国の城」宮部みゆき 角川文庫表紙の「王国の城」は、実は絵ではない。ということに気がついたのは、物語を半分近く読んだ時だった。目次の前に「装画 れなれな(イラスト資料提供 PPS通信社)」とある。これだけならば、「凄い絵だ。確かに、こんな絵ならば物語にあるような不思議なことが起きてもアリかも」と思ったかもしれない。資料提供は、物語通りに何処かの世界遺産のお城の写真を提供して貰ったのだろう。そんなことにまで気を使わざるを得ないほどに重要な絵なのである。ところが、その後に「撮影 帆刈一哉」と続く。「えっ︎写真だったのか?」まるで写真絵画のように見えた椅子や机は、ホンモノの教室だったのだ。だとすると、これは流行りの黒板アートというヤツか。物語に出てくる件の絵は黒板アートではない。でも、物語のテーマにちゃんとあっている。教室の風景も物語のテーマの中で重要な意味を持つだろう。また、心を込めて描いた絵に感動するということも、この絵の「意味」にこだわることも、物語のテーマに深く関係する。だから、この物語を紹介するに当たっては、この表紙の絵(写真)のことを、ただいろいろと呟けばそれで足りる。あまりにも淋しくて、つまらない絵と思ったならば、貴方はこの物語の登場人物にはなれない。尾垣くんも城田さんも、パクさんも、写真からでも十分絵にアクセス出来る感受性を持っていた。宮部みゆきの小説自体が、作品世界にすっかり自分を溶け込ませる体験を提供する。だから別の言葉で言えば、宮部みゆきの小説世界に入ることが出来た人は、この絵に出会ったとき、彼らのような体験も可能かもしれない。小説の愉しみ方は、正にそういうことなのだろう。とも思う。話は、キチンとファンタジーの王道を経て着地する。パクさんの名前は、2ヶ月前に亡くなった高畑勲のあだ名から採ったのだろう(あだ名の付け方がまるきり同じだ)。私の頭の中では、常に(壮年の頃の)高畑勲アバターがずっと活躍していた。2018年6月読了
2018年06月29日
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「君死ニタマフ事ナカレ」(1)-(4)原作ヨコオタロウ 作画森山大輔 ビッグガンコミックス一巻目の発行は2015年10月24日。集団的自衛権の容認が閣議決定された後である。そういう時代の「カナリア」として、こういう作品が出ていたのだということは予測できる。だから評価も、幻滅もしない。このマンガを四巻まで読んでいって思ったことを以下に羅列する。(1)超能力が開発された近未来日本は、青少年のみに発現するその能力を、「紛争地帯にNGO派遣する」と称して、実際は軍事派遣することにした。それで実際は48名中、生還したのは5名のみ。2巻目の途中までのこの冒頭部分は、超能力部分を除けば、そのまま現代自衛隊の実態になるだろう。問題にしたいのは、そういう現代日本への告発マンガではない。ということである。主人公の少女は言うのである。「この派遣の理不尽さも、この国のだらしない大人達にも愛想がつきてる。でも‥やらなきゃいけない。誰かが」つまり、武力行使を担う軍隊は必要である事を、(4巻までは)全ての登場人物が認めているのである。こういう舞台設定をしても、こういう時代認識しか描けない。派手な戦闘場面が続くのである。これが、ゲームで育ち、超就職氷河期に成人して、戦争法や秘密保護法が成立した現代の若者の、問題意識なのだろうか?(2)始まって2ページ目に、戦闘で頭をぶち抜かれる女学生の描写がある。二色カラーだ。紅い脳漿がズルズル見えるショッキングな場面から始まる。青年誌に連載されていることもあって、主人公たちは、かなりダークな背景も見せる。戦闘とはこういうことなんだよね、と意識して書いていると思う。しかし、やはり上滑りしているような気がしてならない。厳しい言い方かもしれないが、ホラー映画のノリで書いてはいないか?ホントに自分の人生を歪められ、殺されるということを認識しているのか?若者が権力に翻弄されて人殺しを始める、という物語から4巻目ぐらいになると「バイオハザード」の様相を呈して来た。なんだかなあな、という気がする。(3)後ろ扉の編集者の書くあらすじには「少年少女ダーク戦場アクション」と書いている。原作者の意図は、これからを見ないと断定できないが、少なくとも編集者の意図はこの辺りなんだろうと思う。そのような浅い意図で、こうも「戦闘」で人が死んでいく話を作って欲しくはないなと私は正直に思う。(4)ところで、与謝野晶子の詩を題名に持ってきた意味はまだ全然わからない。2018年5月読了
2018年06月06日
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「風魔」白土三平「忍者旋風シリーズ」の最終章第3部である。ちなみに、白土三平から階級闘争を学ぼうというのは無駄である。白土三平のマンガは教科書ではない。その意味では、闘争を指導する力はない。しかし、白土三平に思想性がないかどうかは、保留しなくてはならない。ある人物の思想性を問う時に、私はふたつの条件があると思う。(1)首尾一貫とした主張があるか(2)社会に大きな影響力をもっているかだから、学者や哲学者だけが「思想家」と言われるわけにはならないのである。むしろ、文学者にも思想性はあると言われている。また、いくら社会的影響力をもっていたとしても、清水幾太郎や竹中平蔵を思想家とは、私は呼ばない。文学の役割は何か。それは加藤周一に言わせると「価値観の変換を促す」ということである。もし、60年代に大きな影響力を持った白土三平のマンガに、その力があったとすれば、白土三平の思想は、(私は首尾一貫とした主張があると思っているので)思想性があると言っていいだろう。風魔一族は「全国の忍びの生活と権利を守るための」組織(忍び集団)であり、すべての忍びの個人や集団は、風魔に届けを出すことになっているらしい。言うまでも無く、これは50年代から60年代にかけての労働組合運動のカリカルチャ化である。もっとも、日本の労組は一つの職業を横断する方式の労働組合を遂に作ること能わず、会社個々で独立してしまった。言うなれば、ここにはあるべき労組運動の姿を見せているようにも思う。公儀隠密の半蔵の風魔切り崩しと戦うなかで、スパイや様々な陰謀が飛び交うのが、この本の内容だ。この中で、公儀隠密側の犬山半蔵は、偽風魔を作り上げ、そのもの達が風魔らしからぬ所業をすることで、風魔としての信頼を失脚させる作戦をとった。このモデルは戦後間も無く起きた下山事件その他の事件だろう。真田忍群や四貫目たちは「もはや風魔は忍びをまもる結社では無くなっていることじゃ」「われら仲違いしてるどころでは無いぞ」「全国の忍びに回状を回し風魔を糾弾しようぞ」(260p)と風魔を見限りそうになる。実際の日本でも、これらによって労働組合運動は様々に分裂し、さらに国民の支持も失った。日本の支配層は、それを利用してきた。マンガはそのような当時の情勢に対するアンチテーゼを打ち出す。風魔たちは、実は最初から対策をとっていて大逆転を示すのである。そういう見事なドラマトゥルギーが読者に受け入れられれば、世の中に「価値観の転換」は起きたかもしれない。ただ、少年雑誌にそこまでの力を期待することは、そもそも客観的に無理。よって、青年誌を舞台に白土三平はカムイ伝を始めたのかもしれない。しかし、ドラマは別の要素もあった。最後の最後で、支配層の優秀なコマだった忍犬シジマが、主人の半蔵を裏切るのである。上司のあまりものブラック振りに反旗を翻したのである。そして、そのあとにそれを知らなかった風魔一族によって念のために殺される「ラスト」。これは、さすがの白土三平と言わざるを得ない。これによって、この作品は、読んだ日本人がこの作品の中の「労働組合運動や階級闘争の話は覚えていなくても」(←なぜならば現実日本を見るとリアルではないから)決して忘れることの出来ない作品に変貌した。あれから50年経った現在、忍者旋風シリーズを通しての実際の主人公は風魔小太郎なのに、彼よりも遥かに有名なのは忍犬シジマになってしまっている。日本人の判官贔屓という「思想性」は、それほどまでに強いのである。
2018年06月05日
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「真田剣流 忍者旋風シリーズ」全二巻 白土三平 1964年の白土三平自身の作品紹介(単行本化の前書きと思われる)があるので、それを読んで頂けたらこの作品の概要もわかると思う。(略)真田剣流とは、一体いかなるものか?‥そして、その陰にひそめられた謎ーそれをめぐって起こる死闘の渦に巻き込まれ、次々に登場する有名無名の忍者、剣客、大名、商人。全編を通じ、真田剣流をみきわめようとする野性の少女。おなじみ真田幸村をはじめ、猿飛、霧隠、穴山小助らの真田忍群。ならびに後年剣聖とまで仰がれた宮本武蔵をはじめ、武蔵をも凌ぐといわれた二階堂流松山主水、さらに、おそるべき陰流の柳生一族、地位奪還を謀る二代目服部半蔵‥これらのいりみだれるなか、小太郎はじめ風魔一族は、いかなる活躍をするのか、はたまた真田剣流はどのようにして解明されていくのか‥。これらの登場人物がうまく絡み合い、面白く展開されてゆく‥。楽しく読んでいただけたら、幸いです。1964年10月。忍者旋風シリーズは、1959年から1966年まで『少年ブック』に連載されたもので、これはその第二部にあたる。小学館文庫本の時には、読んでいなかったので初読みである。この連載の前に終わっている『忍者武芸帳』やこの作品の直後から連載された『カムイ伝』と比べてあまり注目されていないが、今回読んでみて、白土三平の思想を紐解く時にとても重要な作品だと思った。ひとつは、貸本時代からの白土三平忍者モノの作品の集大成的な作品だということ。(1)白土三平忍者のオールスター登場作品である。白土三平自身の上の解説に出てくる人間以外にも、美少女桔梗や子供のコッパ、四貫目、小法師、猿飛忍群の大猿大助、赤猿、石猿佐助等々の仕組み、風魔一族のワタリに似た後継候補も出てくる。天海和尚の子飼いの忍者はカムイ伝でカムイと共に抜ける忍者に似ているし、それと対決する宿毛のカズラはカムイ伝の非人の男に似ている。このあと登場することがない人物は丑三の術の仕掛人の暗夜軒と百官ぐらいと思える。(2)途中何度も挿入される「忍法解説シリーズ」は、おそらく当時の雑誌の途中にかこみ記事的に挿入されていた広告を利用したものだと思えるが、とっても懐かしい。なぜか(弍)では急に出なくなる。しかし忍法を科学的に(と思える風に)解説するのは、全編通じて貫徹されている。(3)「最初に述べたように、この物語には、主人公らしきものはなかった。したがってこの丑三の術の正体が、判明したときに、この物語も終わるわけである。」(弍の260p)このような「術そのもの」が作品のテーマとするのは、「赤目」をはじめ、白土三平の作品の特徴的な作劇であり、他の作者には無い特徴であるが、ここまで長編でこれをするのは初めてかもしれない。ひとつは、階級闘争的な物語であると同時に、歴史の事実に取材した物語の先駆けだということ。(1)歴史の事実があって、それを忍者物語に上手くいかしている。それは大阪冬の陣の直前(慶長16年から19年のたった4年間)に浅野長政、真田昌幸、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長等の豊臣方の有力武将が次々と亡くなっていること。これを白土三平は呪いの術で不明死に見せかける丑三の術で殺したのだとしたのである。歴史への関与は、名作カムイ伝に繋がるだろう。(2)しかし、「忍者武芸帳」で見せた階級闘争は、この作品で影を潜めたのかもしれない。ここでは、既に「革命」は描かれない。しかし、一方で非常に革新的な「組織」が描かれる。それは「忍者の労働組合」である。風魔一族の正体はそれだった。組織対立から離れて中立性を持ち、同時に影響力を持つ。これは日本でまだ実現されていない、全国労組横断のナショナルセンターだ。「わしら風魔一族は全国の忍者の個人集団の権利と生活をまもるためにある」しかも「公儀隠密伊賀忍のストライキ」の時に、服部半蔵はストライキ破りを図ったらしく、「しかしおぬしらに大金を払っていたのはこのわしじゃ」と半蔵に言われても「それは忍組合費の1部として受けていた」「組合の掟を破っりたるものすでに忍の資格はない」と断じる。「権利と生活」という言葉自体が近代の発想であるが、当時は「それこそが白土三平だ」という雰囲気もあっただろう。私としては、近世て革命を目指すよりも、かなりリアリスティックな設定だと思う。こういう組織の実現は、おそらく白土三平のカムイ伝にはない、理想の社会の姿と思える。しかし、この風魔一族が次の「風魔」を除いて、発展することはなかった。ヨーロッパ形式のこのナショナルセンターは、遂に日本では実現しなかった。それは、昭和40年代から明らかになった民社党含めた労組の右傾化、左右の分裂、そして労組員比率の限りない低下で、追求のしようがなくなったことに原因があり、作品世界には原因がない。むしろその穴埋めを『カムイ伝』に託したのかもしれないが、途中で無理だと判明したのかもしれない。しかし、それを展開するのは、この漫画評論の任務ではない。
2018年06月04日
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「白のショートショート」山口タオ「このたびは新刊見本プレゼントにご応募いただき、誠にありがとうございました。厳正なる抽選の結果、あなた様が当選されましたので、賞品をお送りいたします。おめでとうございます!」という添え書きとともに白っぽい本が送られてきた。夫がそれを見て不思議がっている。「おかしいなあ、そんな本のプレゼントに応募した記憶がないぞ」「いいじゃないの、くれるっていうんだから貰っておけば」妻はいたってお気軽に考える性質である。「いや、これはもしかしたら国際的な陰謀組織によるメッセージかもしれない。24もの短編があるのが怪しい。この題字の1番上の文字をつなげて行くと、ある言葉が浮き上がるとか」「ばへね、たよかきつふは、おなかあしすかほごおたぞは」妻が読み上げる。「ほれほれ、まるで和歌みたいじゃないか!」「意味は?」妻が聞いてくる。「わからない。だから、これから調べてみよう」それから夫は、大学院文学科に入り直し、古代文字の研究を始めた。そうすると、この歌の意味が解明される前に、幾つもの新発見古代文字を発見し、退職後の老年世代が羨む遅咲きの准教授になったのである。「それで意味はわかった?」妻は再度聞いた。「わかったよ」夫は自信満々に答えた。「まあね、つまらない梅雨は、とっても面白い本読むに限る。‥‥つまり、本は愉しんだ者勝ちって意味だよ」どうやらかなり強引な解釈だったらしく、誤魔化すように夫は呵呵と笑った。講談社さま、プレゼントありがとうございました。とっても愉しませて貰いました!
2018年06月02日
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文学日記(19)「みずから動くもの(自然=機械=人間)」日野啓三 渦巻は不思議な魅力をもっている。海岸の砂浜でふと手に取る小さくて平凡な貝殻が、正確な渦を巻いている驚き。(略)アンドロイド星雲の壮大華麗な渦巻。私たちも渦巻状の銀河星雲の外側に近い腕の一部にいる。渦巻を引き伸ばしたような螺旋形の二本の高分子の連なり、遺伝子。(略)真っ赤な夕空に渦巻くカラスの群れ。その下には多分何かの死体がある。とぐろを巻く蛇(私は蛇年だ)。(略)私には旋毛がふたつある。(略)渦はみずからつくり出される。ということはみずからをつくり出す、ということでもある。みずから、みずからをつくり出す。これが人工機械との質的な違いだ。人工機械は製品をつくり出すが、みずからをつくり出さない。他の機械によってつくられたものである。それに対して天然の機械は、設計者も製作者も仕上げ工も検査係もなく、みずから出現し、みずからみずからを維持する。自己産出、自己形成、自己維持ーそれが天然の機械の質であり、自然=宇宙という巨大な自己運動機械の在り方である。つくられたのではなくつくるもの。それはかつて神(造物主)と名づけられたが、いまわれわれはそれを自然と呼ぶ。(202-204p)「向こう側」の先には、世界の謎があった。神と言い、自然と言い、諸星大二郎は愛読者だったんではないか?というような記述が続く。最初の向こう側にベトコンがいたので、てっきり20世紀世界情勢の謎を突き詰めていくと思っていた。ところが、どうもその後の仕事は都会生活から発展させた仕事に移ったようだ。その意味でも諸星との類似性がある。もっとも彼は古代にいったが、日野啓三は主に宇宙や科学に向かった。その後のSF映画に使われたようなアイディアがたくさん散りばめられている。この文学全集を手に取らなかったら、決して出会わなかった作家。出会えて良かった。2018年5月25日読了
2018年05月25日
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文学日記(18)「空白のある白い町」日野啓三日野啓三という名前は初めて知った。芥川賞作家であることはおろか、開高健と同時代のベトナム戦争を取材した元ジャーナリストだということも初めて知った。文学は人間を描き、世界を描くものだと私は思っている。だから戦争を描くことも多い。人間だけが戦争をするからである。なぜ、人間だけがするのか?日野啓三はその問いに答えようとしているのだろうか。いや、それよりももっと先のそういう人間とは何なのか?そのことにこだわっているようだ。ずっと昔『広場』において、特派員としてホーチミンの街中で公開処刑を見てしまったものとして、どうしようもない「からっぽ」の中に、「どんな物や人よりも濃密な何か」を見てしまう。という自分を描いている。人間だけがそういう「空白」を意識してしまうのだ。そんな自分を描く小説群を、私は初めて知ったかもしれない。2018年5月23日読了
2018年05月23日
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文学日記(17)「向う側」日野啓三2004年に1度、ベトナム・ホーチミンに旅行したことがある。そのときベトコン体験ツアーという日帰りのバスに乗車して郊外のベトコン基地に向かった。既にベトナムでは高度経済成長は始まっていたが田舎は多く、バスは長い幹線道路を通り過ぎると、一時間ほどで長閑な田んぼ風景になり、やがて平地のジャングルに入っていった。そこでは土地の至るところに、小さなベトナム人だけが入れるトンネル入口の「穴」があり、蟻 の巣のような抵抗基地が広がっていた。この短編では、こちら側(米国・南ベトナム)の街(サイゴン現在はホーチミン市)から、おそらくあの幹線道路の雑多な街のひとつに降りて、向う側に行く迄が描かれている。60年代当時の街は、向う側の景色が見える者にとっては恐ろしく危険な場所に見えたのだな、と思った。消えたジャーナリストに何があったのか?主人公にこれから何が起きるのか?一切わからないまま、短編は終わる。全集の見事な導入部ではある。『ふしぎな球』のふしぎな少年は、「そのうちどんなに呼んでも戻ってこられないところ、私たちには全く理解できないようなところへ、この子はすっと行ってしまうだろう、という悲しみが鋭く胸を刺しました」(79p)といわれる。それは、おそらく「向う側」と同じようなところだと思う。『牧師館』(96p)の主人公の思索は、61歳の時に肝臓癌が見つかった時のことを反映しているとは思われるが、果たして日野啓三が実際に牧師館にたどり着いたのかとうかはわからない。作品自体も、都会の生活から自然の生活へ、向う側に行く直前で終わっている。2018年5月2日読了
2018年05月21日
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「鮪立の海」熊谷達也 文藝春秋仙河海シリーズ第8作。この前作7作目「浜の甚兵衛」を読んだのは、去年の2月だった。そこでこのシリーズのことを知り、怒涛のように読み繋いできて、遂に今のところの最新作に辿り着いた。前作は昭和4年の仙河海大火災で終わっていたが、今回はその3年後から始まっている。主人公は、3.11時の雑誌「文藝界」(笑)編集長菊田守の父親にあたる菊田守一である。もう1人の主人公は、甚兵衛の忘れ形見、遠藤征治郎である。いや、今回の主人公はそれよりも漁業の町、仙河海そのものだったのかもしれない。ここに至って、仙河海本来の漁業に携わる登場人物たちが全員揃った感がする。それに遂にシリーズ全体の主人公と言っても良い早坂希の母親の名前が出てきた。なるほど、こんな風に繋がっているのか、とちょっと嬉しくなる。甚兵衛の仕事は確かに仙河海の歴史の一断面だったのかもしれない。しかし沖買船にしても、ラッコ猟にしても、漁業の町の本質ではない気がする。ほとんどの漁師の歴史は、やはり菊田惣吉や川島洋太郎、そしてカツオ船仕込み問屋の金子辰之などの地道な仕事をする人たちの歴史だろう。それにしても、近代仙河海で大事件だった三陸大津波や2度の大火災を経ても、その後を生きた若者たちは、まるで意識の上では無かったの如くに生きている。菊田守一にしても、この作品でものすごい体験をしているのに、その後の人生の中で、戦中の体験があまり人間性に影響を与えていない。これは、おそらく熊谷達也自身の性格なのだろう。物足りないようでもあり、そんなものなのかもしれないとも思う。そういうのを見ていると、3.11あとの仙河海の将来もわかる気がするのである。民間船の「特設監視艇隊」という戦時偽装があったことを初めて知った。ほとんど丸裸で民間人を戦中に投げ出すようなものであり、戦争の非人間性を思わせるものである。現代日本の有事法制では、既に民間活用は法制化されているが、この時期の実態は、もっと発掘されるべきものなのかもしれない。この中で菊田守一は、30名の乗組員の中でたった1人生き延びる。その守一が、3.11の最中、施設からの移動途中で低体温症で亡くなったのだから、ホントに激動の人生だったことになるだろう。このあとシリーズは、昭和40年ごろからおそらく平成に移る頃までを扱い、最後に3.11後の仙河海を扱って終わるのではないかと(私はかってに)想像する。覚えに、今回登場した人物と、人物関係並びに物語最終章の時、昭和33年現在の歳(推定、まちがっていたらごめんなさい)を記す。菊田守一(34)菊田多喜子(36)真喜子(37)菊田惣一(戦死)菊田惣吉(守一の父)みつゑ(守一の母)菊田安吉(守一の祖父)菊田タキ(守一の祖母)守(0)留三郎(69)金子辰之(34)金子辰巳(辰之の父辰蔵の息子)孝夫(34蒲鉾屋息子)寛ニ(戦死)小野寺保(75)三浦芳雄(戦死)真知子(30釜石出身)早坂めぐみ(3)遠藤征治郎(32)美和子(24)川島洋太郎(30代)賢太郎(父)賢吾(祖父80代)川島武洋(中学生)川島武春(小学生)甚兵衛(昭和23死亡)清子(29旧姓大幡)五十嵐克己(49甲板長)千田隆弘(船長)直之(20)光雄(20)2018年5月読了
2018年05月19日
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「ひねもすのたり日記(1)」ちばてつや 小学館手塚治虫文化賞特別賞を獲ったのを知って取り寄せたのではある。受賞理由に功労賞的な文句も入っていたが、やはり受賞した理由の1番は、18年ぶりの新作に審査員一同が驚いたからだろう。4ページの連載なので、マンガエッセイみたいな内容なのだが、本人自ら「私はストーリー漫画家だ」というだけあって、世のエッセイマンガとは一線を画している。時々幕間みたいに脱線を入れながら、見事な半生の記を描いていた。アシスタントは、最低必要な人数に絞っているのだろう、ちば本人が画面の隅々に気を配っているのがよく分かる。あらゆる登場人物の表情が、心の中まで聞こえそうに微妙に描き分けられているのである。18年のブランクなんて信じられない。むしろ、このペースで描くことによって、ちばてつや最後の代表作になりつつあるのではないか。家族6人1人も欠けずに満州から帰ることができたのは、確かに奇跡と言っていいのだろう。(幼い作者に見えていなかったので)画面の上には描かれていないが、両親の苦労は如何ばかりだっただろうか。一方、ちばてつやの見る世界は、子どもらしいのんきな世界が続いていたので、ラスト近く、千葉の九十九里浜のおばあちゃんの「あんのこったやーっ」の叫び声に、その見事な表情に、殺られてしまった。たまたま向かい合わせに座る喫茶店で読んでいたのだが、ボロボロボロボロ泣けてしまって、ものすごく恥ずかしかった。おそらく1年半に一冊の割合で刊行されると思うので、ゆっくりと付き合って行きたい。2018年5月読了
2018年05月14日
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「いぬやしき」全10巻 奥浩哉 講談社コミックス映画を観たので読ませてもらった。大筋では、最後の2巻だけを残してほぼ映画で描かれている。異星人によって地球を滅ぼすほどのパワーを持った究極の機械兵器サイボーグになった2人の葛藤と対決と終わりの物語を、きっちり10巻でまとめた。余命がない人を助けたり、人を虫けらのように殺す時にだけ(生きていた時の記憶や思考力は完全にコピーされているらしいが)人間であると自覚できる彼らの、極端な行動が描かれる。映画では、実写になってテンポも良かって役者の演技力もあった分、荒唐無稽さは減ったが、マンガで見るとやはり(設定自体の荒唐無稽さは置いておくとして)彼らの行動があまりにも後先考え無さ過ぎる。人間としてなんとか存在しておきたかったら、あんなことこんなこと絶対しないでしょ。獅子神くんは未成年だったから考えが幼いと実写の時は思っていたけど、あそこまでスーパーコンピュータ的な思考ができるのならば、様々なシチュエーション考察はできるわけで、ちょっと現実味がない。究極の力を持った時に、世界を破壊するのか?助けるのか?幼い思考ならばいざ知らず、(決してヒーロー的思考でもメシア的思考でもなく)少し知恵があれば、少しづつ助けてアイデンティティを保ちつつ、ひっそりと暮らすのが、誰でも考える道だと思う。それだとドラマにならないから、こんな話になっちゃったんだ、というのならば、それこそ自分勝手なストーリーであろう。しかしものすごく緻密な絵なのに、10巻を1時間半で読めるというエンタメ性は、確かに凄いと思う。「ガンツ」の作者らしいが、もうお金も持っていると思うので、しばらく時間をとってこの絵でどこまで心理描写ができるか試してみたらどうだろうか?2018年5月読了
2018年05月13日
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「揺らぐ街」熊谷達也 光文社仙河海シリーズ第6作目。3.11に向けて描かれた群像劇は、ここで一旦止まって、このあと明治時代(「浜の甚兵衛」)へ時間軸を移すことになるので、どうなのだろうか、ちょっとまとめ的な意味も持たせたのだろうか。私の予測はそうではない。これがまとめならば、少しさみしい。今回は、思い切り作者の周りの世界を描いたようだ。今回は、シリーズで唯一最初から最後まで3.11後の時間軸になっている。しかし、視点は東京から見た仙河海になっている。シリーズ最後の本で、また現代に戻る予感がある。主な登場人物は3人。東京出身東京在住の編集者、但し川島聡太の元カノ山下亜依子(38)、神奈川出身東京在住作家の桜城葵(37)、仙河海出身仙台在住の元作家の武山洋嗣(28)。年齢は3.11現在。主人公は亜依子だが、語り部的な位置。モデルがいるのかどうかはわからない。しかし、真の主人公といえるあと2人にはモデルがいる。桜城葵と武山洋嗣は、どちらも作者の分身である。葵はN賞(直木賞であることは明らか)作家でコンスタントに物語を紡いできたが、3.11のあと、新作が作れなくなり、仙河海にボランティアに通っていて、新たな境地を見つける。武山は、押し切られる形で作家カムバックをしたが、出来上がったのは仙河海市をモデルにした仙賀崎シリーズだった。熊谷達也本人は、葵よりも気仙沼に関係しているし、武山のように生まれた土地ということもない。だから2人の葛藤は、ふたつとも作者の葛藤だったということになるだろう。亜依子の編集者としての仕事描写は、身近な人物なだけに作者も困ったのではないか?作品の中では、亜依子をモデルにした葵の小説つくりは頓挫してしまったが、本当はこの作品、実在モデルがいるのではないか?仙河海シリーズも6冊目である。だとすれば、ここで書かれている、震災文学は売れないという悩みはホンモノなのかもしれない。それは気負ってこのシリーズを始めた作者自身の戸惑いも見せているのかもしれない。でもね、こういう「ワインズバーグ・オハイオ」形式の群像劇は売れなくても残ってゆくと、私は思う。新たに分かった人間関係をメモ。・武山の家は唐島にあった。代々牡蠣漁師。・川島の父親は遠洋マグロ船漁労長だった。・菊田守一(遠洋マグロ船漁労長)の息子は「文藝界」編集長、菊田守。守の祖父はカツオの一本釣り。2018年5月読了
2018年05月09日
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「大和路・信濃路」堀辰雄 新潮文庫ただ、或はこういう日本の古い歌物語だの、或はこういう西洋の輓近の詩だのを前にしながら、文学というものの本来のすがたをしばしば見なおしてみたりする事は、あまりに複雑多岐になっている今日の文学の真っ只中に身を置いている自分のごときものにとっては、時として、大いに必要なことではないかと考えているからに他なりません。少なくとも、僕はそういう古代の素朴な文学を発生せしめ、しかも同時に近代の最も厳粛な文学作品の底にも一条の地下水となって流れているところの、人々に魂の平安をもたらす、何かレクイエム的な、心にしみいるようなものが、一切の良き文学の底には厳としてあるべきだと信じております。(74p「伊勢物語など」より)昭和7年から18年にかけてのエッセイを順番に載せている。この前読んだ「かげろふの日記」の背景を成す堀辰雄の信条であり、加藤・福永・中村などの東大の学生たちとの交流が始まる前と最中の彼の心持ちが書かれている。池澤夏樹の解説でこの本の存在を知って紐解いた。折口「死者の書」を読んで、自分にも何か古代小説が書けないかと思って大和路に向かい、やがて倉敷の大原美術館のエル・グレコの「受胎告知」を観に行く堀辰雄。思った以上に「死者の書」に影響を受けていたことにびっくりした。大和路を歩きながらの堀の思い、古代人のレクイエムを小説化したい、をひしひしと感じる。しかしどうやら、戦争と病気がそれを現実のものにしなかったらしい。ただし、「曠野」はまだ読んでいないので、いつか読みたい。昭和10年辺りの大和路と、現代のそれは、かなり隔たりがあるには違いない。それでも比較的むかしの面影を保っているのがこの地域だと思う。堀辰雄の歩いた道筋をいつか歩いてみる旅というのも面白いだろう、そして彼が果たせなかった小説構想を想像するのも面白いだろう、と思った。
2018年05月06日
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「火星に住むつもりかい?」伊坂幸太郎 光文社文庫相変わらず、伊坂幸太郎の作品に対して「伏線回収」だの「正義への相対性」などの感想を書いているレビューが多い。「平和警察というリアル感のない設定」に文句をいう感想もある。一方、私は物語が始まって直ぐに奥付を見た。単行本発刊が2015年2月。秘密保護法は執筆構想時に法案通過したはずだ(2013年末)。共謀罪法はまだ与党幹部の机の中に眠っている時だった。私は改めて伊坂幸太郎の時代に対する感度の良さに舌を巻いた。レビュアーは他人事のように読んでいる人が多いが、「平和警察」の魔女狩りの仕組みは、間違いなく(2017年に成立した)現代の共謀罪法でも多くの部分は「理論的には可能」である。あの法律で刑法の原則は大きく変わった。犯罪を犯す前から逮捕することが可能になったのである。そして、密告をすれば共謀から逃れることができる仕組みまである(この作品はそこ迄酷くはなっていない笑)。この作品でも、「平和警察」の「本格始動」を防ごうとする人々が出現しては潰されていくが、その時に自分は公開処刑を愉しむ立場にいるのか?防ぐ立場にいるのか?を、今現在の日本を観て、考えこまないといけない作品である。ーあなたは火星に住むつもりかい?物語の登場人物に突きつけられたのではない。あなたに、突きつけられた言葉である。
2018年05月05日
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「学問のすすめ まんがで読破」原作福沢諭吉 企画・漫画 バラエティ・アートワークス10年前発行の文庫本である。名作や怪作を次々と漫画文庫本にしていることを最近知った。どれほどのクオリティなのか、試しに読んでみた。「学問のすすめ」は有名な本ではあるが、実は原作はかなり読みこなすのがむつかしい。ただし、むつかしいのは文体ではない。福沢は、そういう意味では町人も読める文章を目指していたから、読むことはできる。だからこそ、異例の300万部というベストセラーになったのであろう。しかし、内容は思想・理屈を平易に語ろうとしてかえって失敗していると(35年前ほどに読んだ時に)私は思ったものである。むつかしいことを、やさしく語り過ぎたのだ。それで、コレを読んでみてビックリ。実は8割は「福翁自伝 青春編」だった。しかも、かなり熟(こな)れている。この分量で生き生きと人物紹介ができているという意味であって、漫画作品としては、もっと展開しないとダメなところは多い。それで肝心の「学問のすすめ」であるが、文章の要約と言わざるを得ない。でも、まるきり知らない人には、特に「人はみな平等、頑張れば学問は身を助ける」という単純な内容と思っている人には、「新しい権利意識と、新しい実学を基にした産業国家観に基づいた個人の自立を求めた」福沢の主張が、ヒシヒシと伝わるだろう。どこに強弱があり、何処に問題があるかは、やはり原典に触れないとわからない。このシリーズの試し読みの結果。他の作品にも手を出すべきかどうかは、保留にさせて欲しい。もう一、二冊ほどは読まないとわからない。2018年4月読了
2018年04月28日
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「きみを死なせないための物語(1ー3巻)」吟鳥子 作画協力・中澤泉汰 秋田書店ボニータコミックス表面的にはハードSF。しかし実態は、古典的な宮廷物語。しかも、とてもよく出来た恋愛譚。「このマンガがすごい女の子編」7位ということで、まだまだ終わりが見えないこの作品を読んだのだが、とっても私の好みでした。「第二巻裏表紙解説より」人類が地球に住めなくなった未来。長命な新人類"ネオテニィ"の一員であるアラタ、ターラ、シーザー、ルイの四人組は、かつて"緑人(ダフネー)症"という奇病をめぐり、ある"喪失"を経験した。16年後、大人へと成長した彼らの現在とは‥?そして、きみの"物語"の幕がついに開くー!彼らは長い間地球の周りを回る人口衛星で暮らしている。あらすじを書くと長々しくなるので、詳しくはネットで調べてください。そして、私がコレを"宮廷物語"だというのは、人口を一定に保つ等の理屈をつけて、彼らの行動は、密室空間で厳しく監視、並びに友人恋人結婚までもが規定されている社会だということ。その中で、ネオニティなどの階級差があること。物語の核心は、それでも、喪われた地球の姿や、喪われた「愛」とか「恋」とかの感情の表し方なのである。これらが、宮廷の中で歌垣などの決まり事で周囲に見守れながら、ドロドロの愛憎劇を繰り返していた宮廷貴族の物語と被る、その中でいく十をも意味を込めた歌集並びに普遍的な心理小説・恋愛物語を作った日本の伝統にも被る気がしたからである。物語を牽引する「謎」は三つ。1.抜群の記憶力を持つアラタのみに地球脱出前の図書館級の「禁書」が頭の中に入っているという仕掛けがいつ活きてくるのか。2.未だ生きているという最初の長寿人類(まるでポーの一族のキング・ポーみたい)の"そういちろう"はどのタイミングで出現するのか。3.視覚と臭覚が混ざる「共感覚」を持つアラタが緑人症の中に観る地球の幻影は、何を意味するのか。「謎」を解いていく過程で、物語の奥に隠されている「愛の謎」が解かれていくのを願うばかりです。2018年4月読了
2018年04月27日
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文学日記(15)「百人一首 」小池昌代訳百人一首を訳するに当たって、現代訳にこだわるあまりに詩篇の体裁を採ったように思えた。正直、成功しているようには思えなかった。もちろん詩篇となれば、大幅に文字を増やすことは可能だ。または、順番を変えて、大きく変更も出来た。しかし、どうしても説明的な詩が多い。やはり井伏鱒二のような「意訳」まで行かないと「詩」への変換は無理なのかもしれない。百首なので、枚数が多いわりにはサクサク読める。ほとんど秀歌だとは思うが、訳・解説を読んで発見があったのは16首、訳を素晴らしいと思ったのはたった1首である。発見は第3、7、8、15、18、28、33、39、40、41、50、53、56、60、65、66、86、94、99首。そして以下は第86首の秀訳である。嘆けと月は言ったかい?(いいや)わたしの物思いは月のせいかい?(いいや)けれど何もかも月のせいにしてわが涙は 流れ落ちるそうさ、それでいい月が悪いこれは誰の歌でしょうか?そうです。西行法師です。嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな2018年4月読了
2018年04月24日
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『希望の海 仙河海叙景』熊谷達也 集英社震災に遭った気仙沼市をモデルに、架空の市の仙河海市に暮らす人々を描いたシリーズの5番めの上梓。震災1日前までを扱った7篇の短編と震災後を扱った2篇の短編から為る。題名に初めて「仙河海叙景」という言葉を使った。作者本人が佐藤泰志の『海炭市叙景』を読んで言葉を失っていた自分が「書けるかもしれない」と思ってシリーズを始めた、と告白している。よって、今迄5冊シリーズを読んできて、この短編集が1番力が入っていたと思う。反対にいえば、他のシリーズが、ここから派生した説明版にさえ思える。実際は書いた順番から言っても違うのだろうけど。この後「揺らぐ街」を上梓して、明治時代まで時間軸を遡る。何処かで「10冊まで書けば何か意味のある仕事になっているかも」と言っていたらしいから、それも予定に入っているのだろう。人物は100人以上に登るらしい。実際そのぐらいまでいかないと、ひとつの街は描けないだろう。この本だけでも登場人物は多い。よって覚書。登場人物の名前と年齢を記していないと、過去と未来において、どのような関係があるかわからなくなる。年齢は2011年3月段階の歳(推測もあるので間違いはあるかもしれない)。早坂希(35)早坂めぐみ(希の母)遠藤遼司(45)昆野笑子(35)佐藤真哉(35)結衣(若い)小野悟志(29)小野香苗(29)小野瑠維(子)小野隆志(35)村上美樹(35)菅原優人(高2)匠(高2)小野寺靖行(35)菅原幸子(中3)菅原貴之(50)菅原多香子(53)吉大(33)マスター(元文学青年)小川啓道(33)俊也(33)晴樹(31)菊田清子(81)菊田守一(86)菊田守(長男)美砂子(次女)菊田玲奈(23)真知子(守一の訳あり)村上昴樹(小4)瑛士(小4)侑実(先生)瑞希(小4)尚毅(小4)潤(小4)葉月(小4)村岡倫敏(50)小山千尋(26)村岡陸(25)渉(中3)村岡の父(81)祖父(農業・海苔)村岡晃子(53)晃子の父(仙台市役所職員)晃子の祖父(石巻で牡蠣養殖)村岡ひなた(19)翔平(中3 瑞希の兄)川島聡太(35)上村奈津子(35)2018年4月読了
2018年04月15日
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「ラプラスの魔女」東野圭吾 角川文庫2018年3月14日、理論物理学者ホーキング博士が亡くなった。その影響で、私は4月7日に「ホーキング、宇宙を語る」(ハヤカワ文庫)を読んだ。その中で、何度もラプラスという名前が出てくる。曰く。「フランスの科学者ラプラス侯爵は19世紀のはじめに、宇宙は完全に決定論的であると論じた。(略)ラプラスはそこからさらに進んで、人間の行動を含めたすべてのことを支配する同じような法則があると想定したのである。」(87p)その文章を読んで、映画好きの私は、5月公開予定の「ラプラスの魔女」の文庫本が本屋にあることを思い出し、本書を手に取った。一気読みしたのが、4月9日である。だから、少し科学史に詳しい人間ならば、「ラプラスの魔女」という題名だけで、本書の内容の40%ほどは推理ではなく、予測がつくだろう。それでも読ませて愉しい時間を過ごさせるのが、東野圭吾のエライ処だろうと思う。映画化では青井役であろう櫻井翔がなぜ主人公になっているのか、本書を読むと違和感がある。まあお陰で「魔女」は広瀬すず以外ではイメージ出来ないぐらいにはなった。作者はもしかして彼女をイメージして本書を書いたのか?もちろん、小説は途中で必要なデータを小出ししてくるので、本書の半分で本書の全てを予測するのは不可能である。ただ、以下のことは指摘しておかねばならない。本書はこれで完全ではなく、「未来」において必ず続編が作られなければならない「予測」が成り立つ。ホーキング博士は、先の引用に続けてこのように書いている。「不確定性原理は、完全に決定論的な科学理論、宇宙モデルというラプラスの夢の終わりを告げるものだった。宇宙の状態ですら精密に測定出来ないのであるから、未来のできごとが正確に予測できるわけがない!」(89p)「ラプラスの決定論は二つの点で不完全であった。法則をどう選び出したらいいのか述べていないし、宇宙の最初の配置も示していない」(239p)このことの決着は、本書ではまだ描かれていないからである。もっとも、私の「予測」も、もちろん決定ではない。2018年4月9日読了
2018年04月10日
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「私の一冊 24人の目利きが選ぶ講談社文芸文庫」講談社文芸文庫編講談社文芸文庫が1988年に創刊されて、今年は30周年らしい。無料の記念誌が置いてあったので読んで見た。表紙の「鯨」は特別らしい。文庫のシンボルマークの鯨は、「水面下の大きさ、知性と優しさ」を象徴するために「尾」しか出していないらしいが、今回1度だけ出した顔を再登場させたらしい。プレミア出るかな(笑)。講談社文芸文庫は、絶版になったような文芸本を再販するもの。よって、普通の文庫本よりも高い。その価値を知る者だけが、読む文庫本である。価値はあるかもしれないが、実は「誰にとっても」あるわけではない。それは、ここに出されたラインナップを見てもわかる。冒頭の村上春樹は「鉄仮面」(ボアゴベ)を推す。簡易版を読んだ人はいるかもしれない。私はディカプリオ主演の映画を観た。でもこの推薦文を読んでも、分厚い上下本を読む気にはならない。村上春樹自身がその荒唐無稽さを強調していて、それを愛してるからだ。ちょっと心惹かれたのは、川端康成の自殺で未完成になった「たんぽぽ」。目の前にいる相手の体が見えなくなる「人体欠視症」を娘に持つ母親と娘の恋人の問答らしい。田中慎弥は「永遠の欠落に支えられた作品」と書いているが、老醜作家の妄想かもしれない。未完成なので、それを証明する手段もない。読む価値はないと思うのだが、心は惹かれるのである。阿川佐和子が吉行淳之介の対談集「やわらかい話」の対談に同席してみたかった、と書いている。お父さん阿川弘之の友だちなので、吉行淳之介自身は旧知の人らしい。その気持ちはよくわかる。一冊だけ、読みたいと思ったのは、「ワインズバーグ・オハイオ」(アンダソン)である。一つの架空の町の様々な人たちの連作短編らしい。主人公を変えて、他の短編にも同じ人が登場する。そういうオムニバス形式小説の嚆矢らしい。最近では伊坂幸太郎が有名だ。昔の山本周五郎「青べか物語」も、この作品に影響されて作られたと聞くから、かなり前の作品らしい。「小説を書くなら、本書のような小説を書きたいと、高校生のころからずっと思っていた。小説家になった今も、思っている。」(27p)と川上弘美が書いている。私も、もし小説を書くならば、そんな小説を書きたい。2018年4月読了
2018年04月08日
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「文学日記」(12)「人間の威厳について(「ヒロシマノート」より)」大江健三郎広島は人類全体の最も鋭く露出した傷のようなものだ。そこに人間の恢復の希望と腐敗の危険との二つの芽の露頭がある。もし、われわれ日本人がそれをしなければ、この唯一の地にほの見える恢復の兆しは朽ちはててしまう。そしてわれわれの真の頽廃がはじまるだろう。(484p)1964年10月の記録。この章が、おそらく大江健三郎「ヒロシマノート」の根幹のようなものなのだろうと信じさせる緊張感に包まれている。重要な子供時代の父子の会話もここで語られている。また、引用文章の「広島」を「フクシマ」に言葉を入れ替えても、殆どの文章がそのまま使えるという、人類考察に関する「普遍性」が、ここにはある。
2018年03月31日
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文学日記(11)「治療塔」大江健三郎1990年に発表された「治療塔」は、近未来のSF小説である。人類は核戦争と原発事故とエイズによって滅亡の危機に瀕して、選ばれた百万人が地球の資源と不合格の人間を犠牲にして「新しい地球」に旅立った。残された人類は、滅亡せずに文明度を少し低くすることで生き延びる。10年して百万人は帰還してくる。「治療塔」によって若返った者として。二つの人類の対立、被支配と抵抗が水面下で進む中で、リッチャンと朔ちゃんは結ばれる。純粋なSF小説としてはいろんな齟齬があるように思える。もちろんすべてを描く必要はないが、地球規模の動きを証明するために、描くべき仕掛が少なすぎ。90年段階の世界情勢を反映して、ソヴィエトがまだ存在して、エイズは未だ不治の病になっていて、インターネットは存在しない。カタストロフが近づいたのは2000年ごろだろうか。おそらく小説世界は2020年ごろのお話のはずだから、文明に対する考察は今読むと違和感がある。それでも、核戦争と原発事故は、未だに世界カタストロフの要因であるし、南北格差や難民問題も、現代の問題である。小説世界と現在との大きな枠組みは変わらない。その中で、描かれる「人間としての希望」。ずいぶんわかりにくいし、全面的に同意は出来ないが、面白い実験小説だと思う。
2018年03月30日
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「羊と鋼の森」宮下奈都 文春文庫本屋大賞を獲ったときに、文庫になるのはしばらく先だろうから手に入れることの出来た文庫本「スコーレNo.4」をとりあえず読んだ。宮下奈都初読み。普通の少女が、家族や従兄弟や仕事の先輩に刺激をもらいながら、生涯の仕事と伴侶を得る話。王子様も出てくるし、主人公の隠れた才能も開花する。筋書きだけならば、少女マンガにもなりそうな話だったけど、文体が簡潔で、とっても文学していた。今回の主人公の目指す理想「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少し甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」に近い。なるほど、こういう作家なんだと思った。今回、満を持して現代エンタメ書物の最高峰の賞をとった作品を読んでみて、その変貌に驚いた。たどり着いた「出来」は95点ぐらいだろうか(←エラソーだけど、素人読者の特権です)。主人公は、マンガのように凄い才能を開花させたわけではない。王子様ならぬお姫様も出てこない。なんらかのコンクールで優勝するとかの目立ったクライマックスもない。それでも、「スコーレ」よりも、さらに登場人物や環境を魅力的に、美しく現実的に、きびしく深く掘り下げて作っていた。ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう。(26p)ピアノを小説と言い換えれば、それはそのまま作者の願いだろう。もちろん、これは見事なお仕事小説である。先輩がこんなにも丁寧に教えてくれて、主人公がこんなにも好きなことに没頭できる仕事に就く幸運は、わたしにはなかったけれども、何処か「懐かしい」と感じるのは、それに近い経験が少しだけ私にも昔あったからだ。どのページをめくっても、詩のような文章が並ぶ。原民喜の理想に近づいているのかもしれない。行間に多くのことを語っているのもその現れではある。ただし、主人公の外村くんも気がついていると思うが、有る程度合格点を出したあとに、板鳥さんの域に達するのは、近いようで、おそらく遥かに遠い。板鳥さんは「こつこつ、こつこつです」というだろうけど。蛇足だけど、作者は目指していないかもしれないけど、このままの文体でそれまでの本屋大賞「鹿の王」や「村上海賊の娘」みたいなファンタジーや歴史物を描くのはむつかしいだろう。この文体で、果たして何処まで「世界は広がるのか」、またしばらくして彼女の作品を読んでみたいと思う。2018年3月25日読了
2018年03月28日
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「ストップ‼︎ ひばりくん」全四巻 江口寿史 ジャンプコミックスネットカフェのいい処は幾つかあって、一つは月に1回やってくる半額デーの時に思いっきりタダ飯とコーヒーをがぶがぶ飲みながら、好きなマンガが8時間も読めることこれに尽きます(←1つしかないのかよ)。あ、いや、まだあるとすれば、昔の名作を改めて読み直すこともできる。この作品などは、84年に楽屋落ちで無理やり最終巻を迎えさせた後も、完全版やら文庫版やらコンプリートエディションやらで、新たな最終回を何回か繰り返している。要は繰り返し発刊される古典の部類に入っている。今回改めて読んでみて、一巻目から4巻目まで、ほとんど絵柄が変わっていないのに先ずびっくりした。いや、ハッキリ言うと、その後の35年間、ほとんど変わっていなくて、しかも「新しい」のである。ひばりくん最初の登場の画像があったので、引っ付けて置く。江口寿史は、可愛い女の子を、或いはごついむきむきの男の造形を、ほとんどデザインの域まで高めたパイオニアになった。また、それをギャグに転用することも、彼が始めた。同時に彼は、もう一つの伝説を作った。締切が守れなくて、何度も落としたのである。結局、人気絶頂期に「そのために」打ち切りになった。ジャンプコミックス版には、後の完全版には決して載っていない、表紙裏側の作者の「言葉」があってとっても貴重である。せっかくの文書なので、全四巻、一巻目からそれをここに再録したい。「白いワニ」やら何やら、全て締め切りに苦しんだ作者の「言い訳」で統一されていて、とってもみっともなくて、面白い。お客様。たいへんおまたせいたしました。ご注文の『ストップ‼︎ひばりくん!』第1巻でごさいます。料理長が調理中、白いワニに襲われたため、できあがりがたいへん遅れてしまいました。もうしわけこざいません。そのかわり、ともうしましてはなんでございますが、盛りだくさんの内容になっております。さあ、さめないうちにどうぞ。当店自慢の味を、ごゆっくり、ご賞味くださいませ。前から、わたしの漫画家としての「根性」のなさは定評のあるところなのですが、この「ひばりくん!」にいたっては、6ヶ月描いて、3ヶ月休む。というのがローテーション化しつつあって、実にもう、読者の皆様には、申し訳ないというか、穴があったらのぞきたい、とゆうわけなのですが、それでもなお、読みつづけるぞ‼︎ と力強く叫んでくださる人が、わたしは大好きです‼︎ おまたせ。第2巻。夏が好きで好きでこまっています。夏が近づくにつれ、気分は舞い上がり、ゴハンはうまいし、ビールはいけるし、音楽は気持ちいーし、ほとんどパァになってニコニコしながら歩いているので、まわりの人に気味わるがられます。仕事もねな楽しーんですよ。夏は。ただ、カンヅメとか徹夜とかモカとかリポビタンとかはしたくない‼︎ 夏は〆切りの顔は見たくないっ!あっちいけ、しっしっ‼︎甘えにも負けず、風邪にも負けず、酒にも、遊びの誘いにも負けぬ強固な意志を持ち、うそはなく、決してあせらず、いつも余裕で仕事をする。1日に下書き4枚とネームと少しのペン入れをし、あらゆる仕事を、印税を勘定に入れずに、しめきりを守り、いい作品をかき、そして落とさず、みんなに漫画家よばわりされ、クイズ番組に出演する。そおゆう者に、わたしはなりたい。2018年3月読了
2018年03月24日
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「ゴールデンカムイ10~12巻」野田サトル 集英社昨年の今頃9巻まで読んで「おそらくあと5-8巻は続くだろう。終わった時に、もう一度論じたい」と感想を書いたばかりなのに、あれから3巻しか出ていないのに、なぜまた取り上げるかというと、マンガ大賞を獲ったのに、今年は「このマンガがすごいオトコ編」並びに手塚治虫文化賞候補等々に選ばれていて、全然勢いを失っていないこと。それからラジオや好きな雑誌で、ずっと話題にされっ放しだからである。8巻ぐらいから、メンバーが単純な三つ巴ではなく時々シャッフルするようになった。お宝に向かって、当時の小樽、岩見沢、月形、旭川、夕張、釧路、屈斜路湖等々、正に北海道をすべて踏破する大パラノマを見せ、更には豊富な(縄文人に最も近い遺伝子を持つという)アイヌの文化を豊富に見せながら、物語を紡いでいて、とっても面白い。クンネエチレンケ(海亀)の鍋の美味しそうなこと。10巻の最後、日露戦争で、人の心を殺していたことを杉元はアシリパに告白する。11巻目でアシリパは「人間を含め、全ての者はカムイと呼ぶことができる。しかしいつもカムイと呼ぶ者は限られている。人間ができない事、役立つものや、厄災をもたらすものなどがカムイと呼ばれる。」「でも決して人間よりもものすごく偉い存在ではなくて、私たちと対等と考えている。」「私たちはカムイを丁重に送りかえし、人間の世界はいいところだと他のカムイにも伝えてもらわなきゃならない。ひどい扱いをすれば、そのカムイは下りてこなくなる」と言う。12巻目でアシリパは杉元に向かって、「魂が抜けるのは、この世で役目を終えたから」「杉元が傷を負っても死なないのは、この世での役目がまだ残っているということだ」と「喝破」した。私は、意図的に台詞を継いだけど、案外このマンガのテーマを当てたのかもしれない。もうすぐ網走にたどり着く。クライマックスまであと数巻だ。2018年3月読了
2018年03月23日
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文学日記(10)「人生の親戚」大江健三郎池澤夏樹個人編集日本文学全集第一期7回配本は、大江健三郎1人に本を充てている。大江健三郎に関しては、嫌悪感は「あまり」ない。むしろ、9条の会呼びかけ人の「生き残り」として今やひとり頑張ってくれているのだから、好きな作家だ、みんな読んで!と言いたいところなのだが、苦手な作家だ、という方が近いかもしれない。初めて読んだのは1977年、高校生の時だ。大江健三郎はその時、芥川賞作家の代表格みたいな人だったから、あの頃は今よりももっと芥川賞は権威があって、読んでおくべき教養書みたいな位置づけだったので、1番手っ取り早い新潮文庫を手にとった。ただし、鮮明に覚えているのは、受賞作品「飼育」ではなく、大学病院の死体処理のアルバイトに従事する「死者の奢り」である。ともかく、何処が面白いのかわからなかった。次に読んだのは、1982年3月、わたしは大学新聞の取材で、ヨーロッパの何十万人という反核集会に呼応して日本でも真似するように起こった広島集会に行っていた。そこで大江健三郎が何やらスピーチしていたのだが、人ごみに押されて結局聞くことができなかった。そのため、わたしは何かを取り戻すために、当時本屋に必ず並んでいた岩波書店箱版の「ヒロシマノート」を読んだ。意味はわかった。しかしあまりにもわかりにくくわかりにくく書いている印象が残った。後に、本多勝一が句読点が不適切で1文が長すぎる悪文の見本のように紹介していて、我が意を得たりと思ったものである。そんなこんなで、それ以降、わたしは大江健三郎の作品には、極力近づかないようにして来た。今回実に35年ぶりに読んで、なんか仲直りをしたような気分がする。解説では、池澤夏樹がこの作家に大いに影響を受けたと告白している。大江文学の特徴は、大江の文体とは違ってセンテンスも短くて読みやすいので、その解説を参照してほしい。そこに書いていないわたしの感想をあえて言う。一つは、驚いたことに、中上健次とまた違った意味で、古事記以来繰り返されて来た日本文学の構造がここにも繰り返されている。ヒロイン(ヒーロー)は、大きな厄災を迎えて、大いなる旅に出る。一つは、本来「性」は隠されているが、物語においては、堂々と明るく描かれる。一つは、会話文は「」で分かち書きがされない。センテンスの中に紛れ込んで、時々だれが話しているのかもわからなくなる。物語は、物、語るのである。とっても興味深い。(「人生の親戚」は1989年新潮社刊行)2018年3月読了
2018年03月21日
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「不滅のあなたへ 1ー5巻」大今良時 少年マガジンコミックス「このマンガがすごい2018」オトコ編第3位。5巻まで一気見。私の偏見ではあるが、オトコ編の中ではこれがベストワン。「聲の形」の作者が、ここまでガラリと世界を変え、世界を作って、新しいモノに挑戦していることが素晴らしい。ファンタジーの王道である地図や言語の創成。食べ物、住居、衣服の創作。少年マンガの王道である「主人公が人間として成長してゆく物語」を、まさに「何者でもない球形」から始めるという大胆さ。最初石器時代を思わせる氷原、次に核戦争後の氷の世界を思わせる荒野を見せて、まさか「火の鳥」みたいな何十万年にも渡る大河歴史モノになるかと思いきや、どうやらせめて中世ヨーロッパぐらいの文明はあるらしい世界であることがわかる。最初思ったほどに一挙に年数を飛び越えたりはしない。不滅というのは不死身という意味でここは作られている様だ。話の中心は、文明史観ではなくて、あくまでも「人間とは何か」に移ってきている。世界観の構築は、一生懸命作っているので、十分見ることができる。この作者がまだ若い女の子だということが信じられない。世の中はいつの間にか変わっているんだな。連載が終わった時に、また一括して書評したい。
2018年02月23日
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「キャプテンサンダーボルト(下)」阿部和重 伊坂幸太郎 文春文庫私の推理はこうだ。最初の数章は、相葉を伊坂、井ノ原を阿部が担当した。プロットは決めておいたが、結論と細かいところは全然決めていなくて、2人のキャラが確立した辺りから、いろいろシャッフルしてきた。ボーナストラックは、上巻が伊坂、下巻が阿部である。とはいえ、おそらく4-5年ぐらいは回答は明らかにされないだろう。明らかにされるタイミングがあるとすれば、映画化のときだ。実際、これほど映画化に向いた原作はない。原作自体が既に話題性満杯だし、作者本人たちはモデルにしていないと言っているらしいが、プロデューサーが頑張って、相葉を相葉雅紀、井ノ原を井ノ原快彦に演ってもらったら、ヒット間違いなしだろう。ついでに村上病に関連して、村上春樹のちょい出があれば決定的である。これは、見事なバディ映画であるのと同時に、「ゴールデンスランバー」を彷彿させる、ノンストップエンタメ作品でもある。2018年2月11日読了
2018年02月14日
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「キャプテンサンダーボルト(上)」阿部和重 伊坂幸太郎 文春文庫内容(「BOOK」データベースより)ゴシキヌマの水をよこせ―突如として謎の外国人テロリストに狙われることになった相葉時之は、逃げ込んだ映画館で旧友・井ノ原悠と再会。小学校時代の悪友コンビの決死の逃亡が始まる。破壊をまき散らしながら追ってくる敵が狙う水の正体は。話題の一気読みエンタメ大作、遂に文庫化。本編開始一時間前を描く掌編も収録!読むスピードに興が乗ってくるまで、時間がかかった。多分、かわりばんごに原稿を書いているのだろうし、最後の辺りは文体も統一している雰囲気はあるけど、それでもテンポか違ってなんかダメだったのである。相葉は伊坂が担当して、井ノ原は(この作家のことは知らないけど)阿部さんが担当している節がある。それでも上巻最後の辺りはテンポよくなったのだから、これから期待できる。と言ったところで、まだ下巻は買っていないことに気がついた。この行き当たりばったり、相葉みたいだな。2018年1月17日読了
2018年02月13日
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「健康で文化的な最低限度の生活(6)」柏木ハル子 小学館コミックス「あなたは自分で払っていないからわかっていないかもしれませんが、そこにいくらかかっていると思います?ICU入って入院して…前回の入院も合わせたら、軽く100万は超えてますよ」(アルコール中毒緊急入院時の医者の言葉)「今回の入院だっていくらかかってんの?10万、20万じゃきかないでしょ…?あんな奴のためにそんな金をかける意味あんの?」(アルコール医療専門医院への転院手続きを終えた後のケースワーカーの呟き)私は、「あんな奴」のためにお金をかける制度が生活保護制度だと思っている。「あんな奴」だからこそ、とも思っている。労働環境を改善して、滑り台社会を改善すれば、かけるお金も減るだろう。むしろ生活保護しか(実際はもう少しあるかもしれないが)、受け止める網がないのが問題だとも思っている。アルコール中毒は、病気である。そのことさえ知らない人がまだ多くいる。私はアルコール依存症の人のことはよく知らないが、(対処法は大きく違うけれども)パチンコ依存症の人は2人知っている。その害悪について、毎日の様に「パチンコに問題はない」(第一の否認)と「パチンコ以外には問題はない」(第二の否認)の間を繰り返す人のことを知っている。そういえば、日常的に周りが「いけないよ、いけないよ」と言い、その男もヘラヘラ笑いながらそれを受け止める。そんなこんなが何年も続いても一向に治りそうもないことも知っている。でも最近は安定してきた。そんな「症状」のことを知っている。だから、治療は一般の治療とは違うことも知っている。それでもケースワーカーの中の一部でさえ、お金の使い方に理不尽さを覚えるのが現代日本である(一方では5兆円以上の「防衛費」に不満は言わない)。私は生活保護パッシングをする人は、みんな「無知」だと思っている。このマンガが1人でも多くの無知の人に届くことを祈る。
2018年02月09日
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「死者の書」折口信夫いろいろとわからない語句や展開もあるけど、詰まりながらも、なんとか最後まで読み通した。誤解していたのは、古代の黄泉の国描写が半分くらいあるのかと思いきや、それはほとんどなかったこと。有名な「した、した、した」という擬音が、もっと全編を覆っているのかと思っていた。むしろ、発表当時としては、非常に先進的、もしかしたら現代でもまだここまでの水準に達していないほど考証のしっかりした奈良時代小説になっていた。地の文自体が、古代人の目線になっていて、例えば「片破れ月が、上がってきた。それがかえって、あるいている道の辺の凄さを、照し出した」「月が中天来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり白んできた」(218p)というような言葉の選び方は、もう誰も到達できぬ高さである。しかしこれは民俗学ではない。純粋に小説だろう。
2018年01月26日
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「王様ゲーム 起源」(1-6巻) 山田J太 金沢伸明原作メールで王様ゲームとして「理不尽な命令が届く」。その恐怖の連鎖が始まる前の起源を捻り出した、ゲーム世代の現代の若者の貧弱なしかし王道的な発想が作った物語。リングシリーズの貞子と同じように、「起源」を1977年の夜鳴村という閉鎖的な村に舞台を求める。ちょっと目新しいのは、とりあえずの「万能的な殺しの方法」を「人の意思を忖度して、実行させるウィルス」に求めたこと。それだけで6巻分のマンガを作れるし、他にもシリーズをつくれるのだから、安いものだと思う。こういう人の命を自由に操るゲームマンガが売れると云う世の中は、なんとかならないものか。2018年1月読了
2018年01月23日
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「サトコとナダ」ユペチカ 監修西森マリー 星海社アメリカでのルームシェア。ルームメイトはムスリムの服を来たサウジアラビアの女の子だった。Web漫画の単行本化を初めて見た。四コママンガではあるのだけど、一コマが横長なのである。なるほど、スマホで見るからね。マンガで見せる異文化交流マンガエッセイ。この前東京に旅した時に驚いたのは、当たり前のようにニカブやチャドルを来たムスリム女性が街を歩いていたこと。ナダは、ヒジャブで髪を隠しているけど「綺麗だから隠すのよ。隠れているから手入れは念入り」という意識である。また、見合い結婚を少しも疑問を持っていない。1日5回のお祈り、年30日の断食月も当然だと思っている。そういう文化的ギャップがあるけど、若い女の子の感性は、あまり変わっていない処が面白い。甘いものに目がなくて、おしゃれに余念が無い。アメリカでは、日本のような多神教は、却って少数派だということも新鮮である(Facebookには宗教を聞く項目がある)。マンガは、森羅万象を見せるツールである。こういうマンガも面白い。「このマンガがすごい2018」オンナ編第3位。
2018年01月21日
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「傘寿まり子」(1ー5巻)おざわゆき 講談社宝島社の「このマンガがすごい」オンナ編6位に選ばれていたので、まとめて読んで見た。80歳といえば、私の両親の世代、介護が現実味を帯びて、周りにはそんな話ばかりが目立つけど、一方ではいまだに現役バリバリで頑張っているお医者さんや地域の世話役等々もおられることを私は知っている。東京となれば、このまり子さんのように、小説家として現役として残っている人もいるだろう。まり子さんは4世代住宅に住んでいたが、居場所がなくなって家出してしまう。年金と原稿料があるから、なんとかなるだろうと考えていたけど、さにあらず、保証人もなしに老人に貸す不動産屋はいないのである。ネットカフェや友人男性との同棲、雑誌の打ち切り、友人女性と同居、ネット雑誌のへの模索など、時々息切れをしながらまり子さんは、新しい地平を切り開いてゆく。「あとかたの街」で、母親の青春期をモデルにリアルな空襲マンガを描いた作者。今度は現代を舞台にやはり母親同世代をリアルに描く。ふんわりとしたキャラを、しっかりとした取材で同時に描く作者の立ち位置は同じ。既に前作の刊行冊数を超えることになった。愉しみな作品が増えた。
2018年01月20日
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「悲嘆の門(下)」宮部みゆき 新潮文庫「英雄の書」より遥かに面白かった。 というような〈言葉〉を、作者は欲していたのかもしれない。いや、ホントに面白かった。前回が物語と言葉をめぐる概念の「思想書」だとしたら、今回はその思想に影響を受けた人々の「実践の書」であり、人々に普及するための「物語」でもあるだろう。 前回は少し難解だったかもしれない。今回はエンタメに振り切ろう。 そう作者が考えて、それを実践したようにも思えた。たいへん面白い物語を紡いだ作者に言いたい。やはり貴女(あなた)が一番物語を〈渇望〉している。その証拠に、こんな物語世界を実現させても、まだ満足していないでしょ?この30年間で紡いだ貴女の〈物語〉を、ガラの眼で見ればどんな形をしているんだろ。貴女が心配だ。この巨大な〈物語〉に、貴女は潰されることはないのだろうか。「あれからいろいろ考えたよ。それで 思うんだ。ガラが君に教え、君がいろいろ経験してきて思う、その〈言葉〉と〈言葉の残滓〉のことをね、昔から人は、こう呼んできたんじゃないかねえ」業、と。「人の業だよ。生きていく上で、人がどうしようもなく積んで残してゆくものだ。それ自体に善悪はない。ただ、その働きが悪事を引き起こすこともある」(376p)作者とは全く関係ないけれども、年末年始にかけて、今年も様々な事件が起きた。言葉を操って自殺願望者を引き寄せ連続殺人をした男に影響を受けたのか、その模倣犯が未遂で捕まった。自殺願望者たちが道行の結果1人だけ生き残った。またこの小説の中にもあるように、親族同士の諍いの末に幾つもの殺人が起きた。第三者の私たちにとり、小説世界の殺人も、ニュースとして見聞きする殺人も、「情報としては等価だ。ーこれって、〈物語〉じゃないか。」(195p)と、孝太郎同様、私も思う。だから、貴女は最後に〈メッセージ〉を残したのだろう。物語の行き着く先は、そうでないとならないのだと。「ここが〈輪〉だ。物語が続き、命が巡り、祈りが届き、嘆きが響く。ー〈輪〉の小さき子よ、生きなさい。」(386p)
2018年01月17日
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「悲嘆の門(中)」宮部みゆき 新潮文庫「復讐から導き出されるものは絶望だけだ。この二つの精霊(すだま)は一対のものであり、憤怒の子であり、嘆きの親なのだから」闇のように黒い瞳が孝太郎の瞳を覘き込む。孝太郎がこれまでの人生で見たことのない深淵の闇。光をも包み込む闇。それでいて冷たくはない。恐怖を与えない。傷ついて泣く子供を抱き、外の世界から隠して慰める闇。もう一度ガラは問うた。「それでも、おまえはその女の仇を討ちたいのか」孝太郎も身を起こし、その場に正座した。「そうだよ。だって、これはただの復讐じゃない。正義の裁きだ。これ以上犠牲者を出さないように、この領域を守るための正しい行いなんだ」ガラは孝太郎から目を離さずにかぶりを振る。「復讐と裁きは違う。似て非なるものだ。人と、人の形に似せて造られたものが異なるように」(185p)ダメだよ、孝太郎くん。ガラの言う通りだ。復讐と裁きは違う。でも孝太郎は肯んじ得ない。仇討ちに一段落ついても、もう止まらない。孝太郎よ、それが「業」だ。自ら「物語」を作っているのだ、と私は思う。嫌な予感がする。「おまえは後悔する」と何度も何度も予言されている。それが何か。幾つかフラグは立っているが、私にはわからない。下巻を読むのは正月明けになる。2017年12月26日読了
2017年12月26日
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文学日記(4)「雲のゆき来」中村真一郎江戸時代の漢詩人元政上人の生涯と作品を辿りながら、若い国際女優の楊(ヤン)とその父を巡る旅をすることになった「私」の小説である。この本の中では、1番長い。私はさらっと読んだ。元政上人を巡る文章は、ほとんど学術論文の如しであり、キチンと読めば面白いのに違いないと思うのだが、途中からほぼほぼスルーした。楊女史とのやり取りも、冒頭と比べるとかなり読みやすいが、かなり飛ばし読みした。それでも読み終えるのに、5時間ほどかかった。面白かった。「私」は、なぜ藤原惺窩や林羅山や伊藤仁斎や石川丈山ではなく、ほぼ無名に近い元政上人に心惹かれたのか。当代の「世界」である中国を日本人でありながら、自らのものにし、「異なる伝統の調和を実現」し「美しい精神の舞踏」を舞った知識人として、自分を見たということが一つ。もう一つは「私的体験」として、元政上人の生涯が中村真一郎と女性との関係との合わせ鏡になったのではないか?という推測(池澤夏樹)がなされている。池澤夏樹は「若かったぼくがこの作品に知識人として生きる覚悟を教えられ勇気づけられた」(476p)と告白している。父の福永武彦からその教示を受けないのは分かる。また、池澤夏樹は加藤周一も選ばなかった。中村真一郎を選んだ処に彼の「矜恃」を見る。私はこの作品に、もう一つの「合わせ鏡」を見た。「うまく作られた小説家」である中村真一郎と、「うまく作られた評論家」である加藤周一という合わせ鏡。不幸を描く小説家、展望を語る評論家。しかし、世界を観るレンズは、この小説を読んで思うが、同じ精度を持っていた。加藤周一が当初目指した小説は、このような内容だったのではないか?しかし、加藤は遂にこんなに「うまく」は小説を書けなかった。1966年作品。「死の影の下に」五部作、「頼山陽とその時代」、「神聖家族」、「四十奏」四部作等々旺盛な創作活動の知の方向は、加藤とは違っていたが、方法論はかなり似通っていた予感がある。しかし、それを検証するのは、まだ20年ほど先にしたい。2017年12月20日読了
2017年12月20日
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