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早期英語教育の弊害(3/3)《3》 人間は赤ん坊のときから小学6年・中学2年(思春期)までに感情が育つものであるらしい。 その大事な時期に、秀才になった人間は感情が育たないように教育されてしまう。その最たるものが算数であり、早期の英語教育になっている。 たとえば、みなさんがサッカーに関心があるとして。 2002年の日韓W杯に出場したカメルーンの選手の名前を、全部覚えろと言われたら、どうします? TVドラマ「HERO」(木村拓哉、松たか子主演)で、そういう場面があった。木村拓哉演じる検事が、松たか子にその選手名を全部言わせるシーンがあった。 カメルーン選手一人ひとりに、よほどの縁故でもないかぎり、全員の名前を覚えようという気にはなるまい。普通はどうでもいいからだ。感情が湧かない。当時、カメルーン代表が合宿した大分県の村びとならば、現実の実体ある選手に関心も湧き、友情も育って名前を覚えただろうが…。そうなるのは感情が起きるからだ。 無理に名前を覚えろと言われたら、まずはそうした面倒だなとか嫌だなとかの感情を抑えて、無味乾燥なものとして暗記するよう努力するだろう。暗記できたとしても、3ヶ月したら忘れてしまう。 それがなんとスラスラ出来てしまい、忘れないのが、天下の秀才なのだ。 それは感情が育っていないから出来るのである。感情がまともに育っていれば、関係ない、一生縁もないカメルーンの選手の名前など知ったことではない。覚えたくもない。 ドラマ「HERO」の木村拓哉は検事役であったが、検事とは普通は天下の大秀才がさらに勉強してなるものだから、ドラマの場面の設定ではキムタクがカメルーン選手は何でも知っている設定であったけれど、実際の検事で趣味がサッカーなら、ああいうややこしい名前(たとえばHenri Patrick Mboma Dem アンリ・パトリック・エムボマ・デム)を全部覚えるような離れ業は楽々できそうである。 感情抜きに、あるいはあまりない感情で記憶できてしまう恐ろしいアタマ、それが判事や検事などになる。だから警察がでっち上げる自白調書だけで誰でも有罪にして、冤罪が起きる。 受験勉強では現実を五感器官全部を通してではなく、目だけつかって文字だけで覚える。知識を強烈に吸い込む。人生、ココロ豊かになることが大事なのに、大人になって感性薄い人間になってしまう。 その歪んだ認識を起死回生、立て直すことができるのがわが流派の空手、ということになるのだが、次善の策として若者を徴兵して軍隊に入れてシゴクことであるが、アホどもが軍国主義復活だ、などと騒ぐから実現不可能だ。 本来は対象の構造に見合うように、像の形成過程を経て育たなければならない。それが教育だ。 一歳児には一歳児の教育がなされる。きちんと目的意識的に。 ところが幼児期の算数や英語の学習は、像の形成がデタラメ、しかも感情が薄く、そのうえ過剰である。たしかに子どもは、強いれば覚えはするだろうが、メチャクチャである。 本来の人間があるべき、対象の構造に見合うように像の形成過程がなされるのは、社会関係で決まる。社会が創ってくれる。 そうした社会関係で創られる認識にも二重構造がある。それは大人になったときにいかなる像が必要かであり、もう一つは一歳児なら一歳児の、中学生なら中学生の、家庭や友人関係という社会関係で必要な像である。 大人になったときに必要な像とは、例えば困難に立ち向かう勇気とか、弱者や異性に優しいココロとか、挫折に負けない闘魂だとか、そういう像であろう。そういう像がしっかりと中学生なら中学生の時点で現実または実体で教育されていなければならないのである。大人になってから学べばいい、では遅い。 また中学生なら中学生の家庭や友人関係で必要な像とは、いわずもがな、同級生への友情とか感情豊かにする文学とかで創る像である。 そういうしっかりした像を形成するには、像が厚みを持ったものにならなければならない。 師弟愛とか友情とかであれば人間関係が深まり、像に厚みが出てくる。像の厚みが五感情として育っていくべきものである。 ところが、今はそういう教育環境にない。テレビは毎日流れている。マンガ雑誌は毎週流れてくる。テレビゲームもひっきりなしに新発売だ。薄い知識ばかりが感情の深まりもないまま、蓄積されていく。それも過剰に。 昔は、子どもが読む雑誌といっても月刊だったから、同じマンガや小説をくり返し読んだものであった。とりわけ戦前の「少年倶楽部」では。その同じもののくり返しで像が厚みを帯び、量質転化してその人間の深い教養となっていく。 そういう過程が今の子どもたちは持てていない。 したがって、いわゆる公●式なる算数の上達法がどれほどまずいか、である。あれは次々に問題を解いていくものだそうだ。同じ問題をあきるほどくり返すならいいのに、次々に数字を変えて、それ応用、また応用、もっともっと応用を、とやってしまう。 英語でもおそらくそうだ。 「This is a pen」とやったら、つぎは目的語を入れ替えて「cat」にし、「desk」にし…とやって応用していく。だから像が深まらないし、深まらない像を駆使するようなアタマになってしまうのだ。 幼児早期英語教育もそうなっているだろう。 幼いときから、こうやって、像が薄っぺらになる教育をせっせとやる。そして子どもは薄っぺらな像を創るアタマにと量質転化していく。だからじっくり恋愛でも友情でも育てていくことができない。ちょっと嫌なことがあると、即別れる。会社にも定着できずに転々と職を変える。癒されることばかり望んで、自分から難局を克服していこうという闘志がわいてこない。 …とこうなる。で、引きこもったり欝になったりして同情を引こうとする。 今後はこういう人間がますます増えるだろう。なぜなら幼児期から英語教育を本格化させるからというのが、一つの理由である。ブログ心に青雲より転載終
2015.02.01
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早期英語教育の弊害(2/3)《2》 認識は、脳細胞が外界の反映で(赤ん坊のときは主に母親からの反映で)創っていく(創られていく)ものである。 赤ん坊から幼児にかけて、そういう言語修得の基礎は、日本語を母語とする母親から、感情を込めて反映し、修得していくものである。ただ単に、われわれは機械装置からCDでも聞くようにして日本語を学んだのではない。 ところがだ。英語はそうではない。日本の幼児にとっては、何の感情も伴わない言語である。あるいは妙な日本人的感情を持たない「へんな外人」がしゃべる言葉である。これは外人を差別しているのではない。 考えても見られたい。われわれは母親から赤ん坊のときに「これはワンワンよ」とか「イヌよ」とか言葉をかけられながら教わったのだが、母親が「ワンワンよ」と教えてくれるときに、「かわいいわね」とか「撫でると喜ぶよ」とか「いっしょに楽しく遊ぼうね」といった快の感情と直接に教わっているのである。 あるいは何か嫌なとか、怖いとかいうことについても、母親がやさしくフォローして、そういう嫌なことも学ばなければならないが、それを上手におさめるココロの働かせ方をも感情的に納得しながら覚えていくのである。 換言すれば、反映の仕方すら学ばないと人間になれない。 しかし、英語はそうではない。 外人教師が(日本人教師でもいいが)、「This is a dog!」と叫び、それをオウム返しに話させて覚えるのが基本である。あるいはイヌの絵が描かれたカードを見せられ「What is this?」なんて怒鳴られて、答えさせられるのだ。 母親の教え方とは雲泥の差がある。小学校の教師だって、日本人なのだから母親と同じ日本人としての感情で、言葉やさまざまな知識を教えてくれる。外人はそうではないのだ。言ってみれば、ロボットに教わるようなものである。 いったい、赤ん坊のときから人間の手でなくロボットに育てられたら、人間はまともに大人になるのか? 想像するだけで答えは出るだろう。 外人教師にだって感情はあるぞ、子どもが楽しく授業を受けられるようにしているぞ、と反論する向きもあろうが、これはそういうことではない。たしかに外人にも感情はあるだろうが、日本人ではない、ということが大事なのだ。 たとえば鮭は親が川を遡上して産卵し、生まれた稚魚はしばらく川で育ったあとで、大海に出ていくではないか。幼児期には川で育つ必要がある。だから日本人がいずれ国際社会に出ていくとしても、まずは言語の修得と日本人としての感情を直接に(切り離すことなく)学ぶ必要があるのである。 幼児期に英語を修得させようとすることは、生まれたばかりの鮭の稚魚をどうせいずれ大海に出るのだからと、海に放流するようなものである。 サケならもしかしてそれでも適応するかもしれないが(むろんあり得ない)、人間の教育は親がその民族の感情で育てなければならないものである。人間は動物ではなく、認識的実在だからであり、認識は必ず感情像(好きとか嫌いとかの感情をともなった像)になるからである。 子どものときに英語をやって、その(希薄な?)言語で感情を覚えさせてはいけない。 また、認識の働きとは対象をわれわれの感覚器官に反映して、それが像として描かれる。この像を認識というのだ。認識は像である。 像が五感器官を通して反映し、形成される。すなわち実体があって反映されるのが正常だ。 ところが天下の秀才ほど、実体抜きの反映を好んでやり、またそれが技化している。 それが3つのときから早くも英会話だの足し算だのをやらせた成果なのだ。実際の像を反映せずに、ニセモノの像を反映するのが大秀才だ。幼児のときからそれで出来れば褒められるものだから、幼児は大喜びで、実体の像を反映しないで、ひたすら暗記する実力をつけることに快感を覚えてしまう。 誰だって、幼いながらも「ドッグ」「キャット」などと言えば褒められると分かれば、その期待に応えようとしてしまうだろう。それが幼稚園や小学校でやっている「点数をとらせること至上主義」だ。 母親が実際に手で触れさせたりしてイヌやネコを、「かわいいね」と教えながら分からせた言葉は本物になるが、英語はそうではない。 これこそが、アタマの中でウソの像を創る作業なのだ。実物で、良い感情とともに、あるいは社会性のなかで、本物の像を創らなければならないのに、アタマの中でウソが創られる。 先にも述べたが、ここで「良い感情」とは言ったが、人間には嫌な感情も怖い感情も起きるのだから、それを親はしっかりと本物の像として教えなければならないし、そういう嫌な感情をどう鎮めていくか、忘れていくかなども教わらなければならない。 一次方程式なんてものは、われわれが学校で教わるときに、何か現実の、実体の、像があるか? あるわけがない。本当はその一次方程式も実体を数式化したものだが、もはや実体とは相対的に独立してしまったものを、われわれは計算問題として解かされる。 英語も同じことだ。われわれは英語国民ではない。周囲は(生活は)日本語なのだ。それを現実として、実体として、子どもはまず学習しなければならない、言語とは実体を反映したもので、しかも感情をともなっていると学習する過程が必須であり、そうでなければまともな人間に育たないのである。 子どもが始めからアメリカで育ち、アメリカ人として生きていくのなら結構であろう。日本にいることをただちに止めて、アメリカに移住したほうがいい。 幼児期から英語を習わせるから、家庭で親子の会話がなくなりもするのだ。子どもは親と距離を置くようになる。当たり前だ、日本人としての感情がまともに育っていないからだ。親のほうは幼児期から日本文化と日本語のなかで感情を創ってきた人間なのに、子どもは中途半端。これでは齟齬が生じる。 その親子の間隙を埋めるには、親が子どもに降りていって、感情を育てなおすしかあるまいが、そんなことをやる親はめったにいない。生活に忙しくて、子どもにかまっていられないし、面倒だから時間があればテレビにかじりついているだけ。子どもは独りでテレビゲームに熱中する。あるいは勉強に熱中する。親は、子どもが問題を起こさないし、おとなしくていいや、などと放っておく。 そこからしだいにココロの歪みが進行する。やがて鬱になったり、ココロの病になったりする。 そういう子が、せっかく一流の大学に入ったはいいけれど、一人立ちして現実に対応しなければならない時期になって、愕然とするのである。人に挨拶ができない。友だちの冷やかしに傷ついてしまう、仲間に入れない、失恋すると立ち直れない…とこういう事態になるのである。 これが早期英語教育のあわれな結末とも言えないこともないのだ。 だから、どうせ英語が必要になるんだから、早くから学習させてしまえという、文科省の木っ端役人や教師ども、教育評論家どもがいかにドアホか分かるであろう。(3)へ
2015.02.01
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予想した通り、幼児、子供向けの英語教室 のCMや吊り広告が目につくようになりましね。 転載しておきます。早期英語教育の弊害(1/3)《1》 小学校から英語が学ばれている。小学校では“必修科目”らしい。なかには幼稚園でも英語を教えるところがあるとか。念がいったことにアメリカ人やカナダ人などが講師として赴任している。 この愚劣な流れは止めたいものだが、世はメクラ千人、どうにもなるまい。 なぜ、幼児期からの英語教育がいけないかが今回のテーマである。 ほとんどの人は中学から英語を学んだが、修得に苦労しただろうと思う。例えばこんな意見があるだろう。 英語は好きで勉強したのだが、発音がネイティブのようにはいかなかった。 転校して来た帰国子女がペラペラと英語を話すのをうらやましく感じていた。 街で外人に道を尋ねられたが、自分の英語が通じなかった。 海外旅行に行ったら、現地の人が米英人でなくてもちゃんとしゃべる。自分の英語は通じない。あれでコンプレックスを抱いた。 外国語教育は、早ければ早いほど良いと言うではないか、自分の子には英語で苦労させたくないから、小学校、いや幼稚園からでも英語を習わせるのは大賛成だ。 語学は慣れだ。たとえ子どものときからやって良い点がとれないとしても、小学校から親しんでいれば、語学アレルギーにはならずに済むのでは? …と、こういう意見が多かろう。有識者とか教育評論家とかも、幼児期の英語教育がのぞましいと言っているし、と。 いかにも、幼児期から英語を習わせれば、ここに挙げたようなメリットはあるだろう。単に英語ができる、話せる、書けるようになるのならば、だ。 英語ができるようになって何が悪い。これからは国際社会に日本人も出ていく機会が増える。英語くらいできなければ就職の機会だって狭まるんだから、いいじゃないか。そう反論されるであろう。 私は何も英語教育が不要だとか、英語ができなくてもいいと言うつもりはない。問題は英語の早期教育にある。だから以前のように英語は中学からで良い、とする立場である。 「英語ができるようになるのだからいいじゃないか論」は、人間の教育全体からものごとを見る視座が欠けている。これはアホなサヨク人権派が主張する“早期性器教育”にも共通する。どうせやるんだから早く教えるべきだ、というアレである。 「ものみな時あり」とは樋口一葉の金言だというが、そのとおりであった。何でも修得には時期がある。 ノーベル物理学賞の小柴昌俊が以前、朝日新聞にエッセイを書いていた。「幼児期は早期教育に躍起になる親が多いけれど、幼児期はしつけが大切で、記憶力が良くなるのは小学校高学年からなので、その時期に外国語や数学などをどんどん吸収したらいい」と。それに対して幼児の早期教育を提唱する塾などでは「大半のお子さんは教室で早期教育を学ぶほどIQが伸びている」と言う。 どちらも情けないほどの低レベル。小柴のほうがややまともではあるが、「しつけ」しか言えない低度でしかない。 早期の二カ国語(日本語と英語)教育はやってはいけないものである。 これはわが流派の最高指導者がよく説かれることだ。それを紹介しながら、如何に早期外国語教育がまずいかを説きたい。 人間は誕生したときは白紙である。観念論者はすでに何か才能とか運命とかを持って生まれてくるとか、胎内で教育されるんだなどとバカなことを言うが、唯物論では、赤ん坊はいわば白紙で生まれてくる。その生まれた瞬間(瞬後)から、反映が始まり、刻々と認識が形成されていくのである。 この真実を世界で初めて解いたのが、海保静子著『育児の認識学』(現代社)である。今後、世界中の認識を学ぶ者や心理学者と称する者が、彼女の学説を抜きには論文が書けない状態になったのである。 海保静子著『育児の認識学』を読まずして現今、大学で心理学を教えているヤツはまあ詐欺の類いである。 さて、人間は赤ん坊のときから運動神経も、ココロとアタマの発展も、いわば“経験主義”であり、母と子の相互浸透的教育の賜物として創られていく。 人間は記憶していることは直せる可能性はあるが、3歳までのことは記憶がない。三島由紀夫が「俺は産湯をつかったときの記憶がある」なんて言っても、それはウソである。後から思いついた像でしかないものを本人が勝手に赤ん坊のときの記憶と勘違いしているだけだ。 三歳までのことは記憶にはない。三歳までは像が固まっていないから記憶はできないのである。 しかし、とわが流派の最高指導者は説かれる、残るのは感情である、と。何かをした、何かを言われたという記憶は3歳までは残らないけれど、「なんかわからないが、嫌いだなあ」という形で、感情は後のちまで残る。 例えば3歳以下のときに川で溺れそうになったことがあるとすると、大人になって、その事件の記憶はないが、川がなんとなく怖いとか近づきたくないという感情になるであろう。 自分で、なぜだかわからないがアレが嫌い、とか、理屈じゃなくてこれが好き、なんていうものがあるだろう。 そういうのを観念論者は、前世の記憶だとか、生まれながらの性格などと勘違いするのだ。 さて、話を早期幼児教育で英語を学習させる害に戻そう。 子どものときに英語を学習するということは、その言語で感情を覚えさせることである。 日本語は「私はネコが好きです」と言う。英語では「I like a cat」であるが、日本語に“直訳”すれば「私 好き ネコ」となるのである。これが彼ら毛唐の認識の流れ、形成過程であって、それが言語化されて表出される。 日本語は膠着言語などという人もいるが、いわゆる「テニヲハ」があり、英語にはない。支那語にもない。つまり英米人や支那人は、「テニヲハ」抜きの認識でしゃべっている。よく支那人を揶揄的に真似して「ワタシ コレ 嫌イ アルヨ」などと喋っているが、ああいう認識だから、よくよく日本語を勉強しないと、彼らは「テニヲハ」の認識が育たないのである。 英語も同じで、支那人風に揶揄的に言えば「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」と言っているのだ、奴らは。 それがどうした、それは民族の伝統なんだから、人は人でまずいことはなかろう、という人もいるだろう。たしかによそ様はそれでいい。知ったことか。 けれど、どうです? あなた。もし日本語をこれから「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」とか「「私 好き ネコ」とかにしろと言われたとしよう。あなたの感情は納得しますか? あなたはこれから日本語もそうやって喋りなさい、と言われたら、感情的に反発するでしょう? それはあなたが、日本語を良いもの、楽しいもの、仲良くなれるもの、言えば要求が満たされるもの、というような快の感情で、母親から見事に教育されてきたからである。そういう言語に関する感情は1歳以前から母親に優しく抱かれながら「さあ、おっぱいよ」とか「おお、かわいいわね」とか、日本語で心地よく語りかけられ、遊びを通して文字を覚えてきた過去があったからである。(2)へ
2015.02.01
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