中高年の生涯学習

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2022.10.16
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​前回、森下典子さんの「 日日是好日 」を紹介した。非常にわかりやすい茶道入門書だった。今回はやはり茶道の本の古典、岡倉天心の「茶の本」に挑戦する。 元々は英語の本 である。天心は日本文化を外国の人に紹介するため、「茶道」を具体例として英語で書いた。欧米人には「茶の本」は知られていたが、英語で書かれたため、日本人には知られていなかった。「The Book of Tea(茶の本)」が出たのが1906年、23年遅れて、1929年に岩波文庫に入った。訳者は村岡博である。​
ここでは岩波文庫の村岡訳を読んでいくが、この日本語がむずかしい。一読では理解不能だろう。サブテキストとして、天心の英文に対訳をつけた講談社のバイリンガルブックスの「対訳茶の本」を参考書にする。浅野晃という文芸評論家が日本語にしている。現代人には、こちらの方が理解しやすいだろう。
​先にも書いたが「茶の本」は、単純な茶道の入門書ではない。欧米人にむけて日本文化を紹介するものである。似たものに新渡戸稲造の「武士道」等がある。ここでは全7章の主要ポイントを紹介する。これは、あくまでも 私的なもので正解ではない ことをお断りしておく。本ブログ読者が「茶の本」を読むときの参考にしていただければ幸いである。​
まず岡倉天心とは何者か。天心は1862年(文久2)横浜で生まれた。開港記念館の近くに碑が建っている。自宅の角の蔵で生まれたので角蔵と名付けられた。天心はそのことを嫌い大学に通う頃、覚三と名を改めた。母が急逝した後、横浜の長延寺に預けられた。長延寺は開港時、オランダ領事館になっていた。住職の玄導和尚から漢学の基礎を習った。「大学」、「論語」、「中庸」、「孟子」がテキストだった。それ以前に7歳ごろから山下町の高島学校でジョンバクドという宣教師から英語を習っていた。西洋人を顧客とする店の必要性から父親が勧めた。英語と漢学という組み合わせが後の天心の思想を作った。その他に南画、漢詩、琴も身につけた。そして茶道は正阿弥から学んだ。
​​廃藩置県後、天心の店石川屋は店を閉じた。1875年(明治8)、天心は開成学校、後の東京大学に入学する。ここで アーネスト・フェノロサ と出会う。フェノロサは日本の芸術に興味を持っていた。天心は大学卒業後、文部省に就職する。文部省在任時、日本の古社寺の仏像の保存の仕事に従事する。ここでの大きな仕事は法隆寺夢殿の秘仏とされていた 救世観音の扉を開けさせた ことだ。(評伝に大岡信「岡倉天心」(朝日新聞社)、松本清張「岡倉天心」(新潮社)などがある。天心の評伝は、家族の書いたものがメインになるが、ここでは大岡版と清張版を紹介しておく。清張は天心のブラックな面に焦点を当てる。天心酔心者にとっては気味の悪いものであるが、偉人といわれる人物の“ダメ”なところを暴露する。清張ならではの視点)。​​
「茶の本」は全7章に構成されている。第1章「人情の碗」は「茶は薬用として始まり後飲料となる。」から始まる。15世紀に日本はこれを審美的宗教、すなわち茶道にまで高めた。「審美」とは森鴎外の訳語で、現在で言えば美学のことだろう。茶道はアジアの儀式だが、西洋人も喫茶の習慣は受け入れてしまった。茶道の要諦は「不完全なもの」を崇拝することであり、「美を見出さんがために美を隠す術である」と意味深長な表現をしている。これは主体の側が積極的に参加して「完全」を目指し、「美を掘り起こす」べきということかもしれない。
​第2章「茶の諸流」では、茶の気高い味を出すには 名人が必要 と打ち出す。8世紀中葉の陸羽をもって茶道の鼻祖とする。彼の著作「茶経」で茶道を組織立てた。宋代に抹茶が流行した。茶の葉を臼で挽いて細かい粉にし、湯に入れて竹製の小箒でまぜる。茶は風流な遊びではなく、自性領解(本来の自己とはなにかの追及か)の一つの方法になった。これが禅の儀式に取り入れられ、15世紀に日本の茶の湯になった。また茶道は 道教の仮の姿 でもあった。​
​第3章「道教と禅道」。道教とは、儒教、仏教と並ぶ中国の古い宗教である。道教の始祖老子は茶の沿革と関連がある。ここで天心は、自分の英文の著作が日本語に翻訳されるだろうと意識した文章がある。「翻訳は常に反逆であって、よい翻訳であっても、錦の裏を見るに過ぎない」と言っている。英文で書かれたものを日本語にするのは、錦の を見ることはできない、と言ってる。「道教がアジア人の生活に対してなした主な貢献は美学の領域である。シナの歴史家は道教のことを「処世術」と呼んでいる。…人生の術はわれらの環境に対して絶えず按排するにある。道教は浮世をこんなものとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なってこの憂き世の中にも美を見出そうと努めている。」​
分かりずらい文章だが、この「按排」を「対訳茶の本」で英文を見てみると「Adjustment」となっている。英和辞典で調べると「調整、順応」という意味である。人生とは適応していく術ということを言ってるようだ。「物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わずに他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である」。このことを老子は「虚」という隠喩で説明した。禅は道教の教えを強調している。茶道の理想は禅から出た。
第4章「茶室」。茶室は単なる茅屋にすぎない。数寄屋は「好き家」であり、「空き屋」である。故意に何かを仕上げずに、想像の働きによって完成させる。茶室の広さは15世紀の紹鴎によって定められた。茶室は本体の他に、水屋(茶器をそろえておく場所)、待合(まちあい、客が茶室に入る前に待っている場所)、露地(茶室と待合を連絡する小道)からなっている。露地は黙想の第一段階、すなわち自己照明に達する通路を意味する。高さ三尺の入口、にじり口は人に謙譲を教え込む装置だ。茶室は空虚そのもので、その不完全さは心の中で完全さを求める人によってのみ「真の美」を見出される。
第5章「芸術鑑賞」。ここでは伯牙という琴の名手の話から、芸術鑑賞の極意を説明する。芸術鑑賞必要な心の交通は互譲の精神による。小堀遠州は「偉大な絵画に接するには王侯に接するごとく、身を低うして息を殺し一言一句も聞き漏らさじと待っていなければならない。」と言った。
第6章「花」。「原始時代の人はその恋人に花輪をささげると、それによって獣性を脱した。粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要なものの微妙な用途を認めたとき、彼は芸術の国に入ったのである。」花や木に対して日本人の美意識と西洋人のそれとの違いを指摘する。茶や花の宗匠は宗教的な尊敬を以て花を見ている。花道が生まれたのは15世紀で相阿弥が大家の一人だった。池坊の家元専能も門人の一人だった。
​第7章「茶の宗匠」。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、芸術から生きた力を生み出す人々のみに可能なのである。着物の恰好、色彩、身体の均衡や歩行の様子など全て芸術的人格の表現である。最後に 利休と秀吉の関係 に及び、利休の清浄無垢な死に装束で「茶の本」は終わる。​
若松英輔の「岡倉天心『茶の本』を読む」(岩波現代文庫)は、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ、内村鑑三、井筒俊彦、九鬼周造との接点を探りながら「茶の本」の東洋に美の本質に迫っている。興味ある方は、この本でさらに追及を。





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最終更新日  2022.10.16 10:03:46コメント(0) | コメントを書く


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