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正岡子規 「暑さかな」連作俳句 下あつき日や肌も脱がれぬ女客傾城けいせいにいつわりのなき暑さかな (手練手管てれんてくだの遊女が嘘でないことをいうのが、暑苦しい)海士あまが家やに干魚ひうをの臭ふあつさかなあつき日や運坐はじまる四畳半 (運坐:句会)此のあたり土蔵の多きあつさかな大仏を見つめかねたる暑さかな気違ひの壁叩きたる暑さかな破やれ垣の隣見えすく暑さかな出立しゅったつの飯いそぎたるあつさかな 病中猶なほ暑し骨と皮とになりてさへ明治26年夏
2007.08.19
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正岡子規 「暑さかな」連作俳句 中昼顔はしぼむ間もなきあつさかな裸身はだかみの壁にひつゝくあつさかな (引っ付く)ひびわれて苔なき庭のあつさかな石原に片足づゝのあつさかな上野から見下ろす町のあつさかな (上野忍ヶ丘、現・上野公園)ぬれ足に河原をありく暑さかな (「歩く」の古語)鍬くわたてゝあたり人なき暑さかな小蒸汽こじょうきの機械をのぞく暑さかな (小さい蒸気機関車)頭陀づだ一つこれさへ暑き浮世かな (頭陀袋、粗末な作りの袋)さはるもの蒲団木枕きまくら皆あつし明治26年夏( )内はくまんパパ註。
2007.08.18
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正岡子規 「暑さかな」連作俳句 上あら壁に西日のほてる暑さかな松陰はどこも銭出すあつさかな (茶店の木蔭のことか)暑さかな八百八町家ばかりぐるりからいとしがらるる暑さかな犬の子の草に寝いねたる暑さかな昼顔の花に皺しわ見るあつさかなやるせなき夕立前のあつさかな雨折々あつさをなぶる山家やまがかな我部屋は茶代も出さぬ暑さかな (旅先の宿のチップ)やせ馬の尻ならべたるあつさかな 岩代日本松にて幾曲りまがりてあつし二本松掛茶屋のほこりに坐るあつさかな熱き夜の寝られぬよその咄かな昼時に酒しひらるるあつさかな (強いられる)店先に車夫汗くさき熱さかな道々に瓜の皮ちるあつさかな馬車うまくるま店先ふさぐあつさかな博奕ばくち打つ間のほの暗き暑さかな夕まぐれ馬叱る町のあつさかな腹痛に寝られぬ夜半よわの暑さかなくたびれを養ひかぬる暑さかな明治26年夏( )内はくまんパパ註。
2007.08.17
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正岡子規真砂まさごなす数なき星の其その中に吾に向ひて光る星ありたらちねの母がなりたる母星ははぼしの子を思もふ光吾を照せり玉水の雫絶えたる檐のきの端はに星かがやきて長雨はれぬ空はかる台うてなの上に登り立つ我をめぐりて星かがやけり天地あめつちに月人男つきひとをとこ照り透とほり星の少女をとめのかくれて見えずひさかたの星の光の清き夜にそことも知らず鷺鳴きわたる草つつみ病やまひの床に寝がへればガラス戸の外とに星一つ見ゆ明治33年(1900)7月註数なき星:無数の星。数限りない星。空はかる台うてな:観天望気をする台、すなわち気象台・天文台の類い。月人男つきひとをとこ:なんのこっちゃ不明。牽牛星(鷲座アルタイル)と織女星(琴座ベガ)の恋路を邪魔する無粋なお邪魔虫の意?そことも知らず:どことも知れず。いずこからか。草つつみ:不明。「山」に掛かる枕詞でもあろうか?さらに考究する。
2007.07.02
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正岡子規もろ人のもろ吐きうつる歌玉といちごの玉とかずを争ふ枇杷びは黄玉きたま覆盆子いちご赤玉あかたま何はあれど光を放つ歌の白玉しらたま歌玉は色々あれど秀真ほづまのは白く左千夫は黒くしありけり格堂かくだうはルビーか巴子はしはトパッツかあるじ麓ふもとは出雲青玉いづもあをだま茂春もしゅん、節たかし、一五坊いちごぼう、不可得ふかとく、四よつの玉飛びてあたりて砕けて散りぬのみこみし団子の玉は歌玉となりて出でけり神わざなるらし明治33年6月3日、岡麓宅にて註この日、東京市内在住の門人・岡麓(おかふもと)宅にて歌の会を開いたらしいが、何を詠んでいるのか、正直今ひとつよく分からない。・・・すんまそんただ、短歌形式の醍醐味の一つである「言葉遊び」の側面が如実に現れていることは確かだ、といって差し支えないだろう。おそらく茶菓などで出された黄色いビワや赤いイチゴの実や白玉の団子を、美しい宝玉に見立てたりしつつ、短歌作品にも擬(なぞら)えている。ある意味、子規の持つ無邪気(イノセント)な面白がり屋の感覚が、素直に出ている。イノセントさ(無垢、純粋さ)は、偉大な芸術家にしばしば見出される資質であろうと思う。香取秀真(ほずま)、伊藤左千夫、長塚節など、のちに日本歌壇をリードした錚々たる弟子の面々の歌風を、色々な玉(宝玉)に擬えて、ユーモアたっぷりに評している。親愛・友愛の情あふるる楽しい連作。なお、五首目は、明らかに源実朝の歴史的名歌「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けてさけて散るかも」(金槐和歌集)の本歌取り。子規は、この悲劇の貴公子の万葉調“ますらおぶり”の和歌を非常に高く評価し、再発見していた。
2007.06.12
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正岡子規ガラス戸の外の月夜をながむれどラムプの影のうつりて見えず照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ浅き夜の月影清み森をなす杉の梢こずゑの高き低き見ゆほととぎす鳴くに首あげガラス戸の外面とのもを見ればよき月夜なり月照す上野の森を見つつあれば家ゆるがして汽車行き返る明治33年6月7日
2007.06.05
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正岡子規ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月映る見ゆガラス戸の外とは月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ紙をもてラムプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ夜よの床に寝ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月ふけわたる小庇こびさしにかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれども見えず明治33年6月7日
2007.06.05
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正岡子規松の葉の細き葉ごとに置く露の千露ちつゆもゆらに玉もこぼれず松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く緑立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下草に落つ松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るももろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし処白玉結ぶ庭中にはなかの松の葉に置く白露の今か落ちんと見れども落ちず松の葉の葉なみにぬける白露は吾子あこが腕輪の玉にかも似る明治33年5月21日
2007.06.04
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正岡子規百花ももはなの千花ちはなを糸につらぬける藤の花房長く垂れたり広庭の松の木末こずゑにさく藤の花もろ向けて夕風吹くも広前の池の水際にしだれたる藤の末花うらばな鬢びんにさやりぬ公達きんだちがうたげの庭の藤波を折りてかざさば地つちに垂れんかも池の辺のさじきに垂るる藤の花見れば長けく折れば短し註この連作は、亀戸辺りの情景を詠んだものらしいが、詳しくは不明。・・・ま。いいか鬢びんにさやりぬ:頭の側面の髪に触った。
2007.05.26
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正岡子規はしきやし少女をとめに似たるくれなゐの牡丹の陰にうつうつ眠る五月八日、福井大火、曙覧あけみ翁遺稿焼失せるよしかぐつちのあらぶる神のあらぶると玉も瓦も共に焼きけり五月十二日、虚子の子来る高浜の浜の真砂の名にしおふみどり子まさ子我になじまず散り落ちし牡丹の花の花びらに君を思ふの歌書き贈る明治33年註曙覧あけみ翁:橘曙覧たちばなのあけみ。幕末、福井の歌人、国学者。子規が再発見し世に送った。近代短歌を準備したものとして高く評価されている。歌風は、平明にしてリアルな万葉調。筆者くまんパパも大好きである。そのうち、秀歌をご紹介したい。虚子:子規の俳句の弟子・高浜虚子。この日、女の赤ちゃんを連れて来たらしい。高浜の姓に因(ちな)んで子沢山を洒落た。
2007.05.22
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正岡子規かな網の鳥籠広みうれしげに飛ぶ鳥見れば我もたぬしむ鳥籠のかたへに置ける鉢に咲く薄紫のをだまきの花草つつみ病みふせるわが枕辺に牡丹の花のい照りかがやく病みふせるわが枕辺に運びくる鉢の牡丹の花ゆれやまずくれなゐの光をはなつ唐草の牡丹の花は花の王おほきみ古鉢に植ゑし牡丹の枝長くよろよろとして一輪開く明治33年註一読して、上手いな~と思う。病の床に臥せった晩年(といっても、まだ33歳!だが・・・)の春の身辺雑記みたいな歌が並んでいるが、話法・語法の巧みさで魅了される。「い照りかがやく」なんてのは、万葉集というよりも、もっと前の「古事記」から引っ張り出してきたような上古語で、大輪の牡丹の花の輝くばかりの美しさが、一語で示される。「花ゆれやまず」なんてのも、なんてことないが、なんとも言えず上手い。「唐草の」(中国産の、外来種の、舶来の草)なんて言い回しも、言われてみれば意味は分かるが、言われないと気がつかない。「花の王おほきみ」:やられたよ! 僕はこないだ、拙作歌集「カリフラワー・レッスン」で、カリフラワーを「野菜の王おほきみ」と詠んだばかりだ。・・・これは決してパクリではなく、独自に見つけた表現のつもりだったが、あるいは以前にこの歌を読んでいて、記憶の底の方に残っていたかも知れない。100年以上も前に詠まれていたとは!!!全体的に、淡々と、平明に平明に(言うなれば「平静に、つまらなそうに」)詠もうとしている感じがうかがわれ、一種の格調につながっている。
2007.05.18
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正岡子規大川の川の堤つつみに咲く花の薄花雲はたなびきにけり桜さく隅田の堤人をしげみ白鬚しらひげまでは行かで帰りぬ雨そそぐ桜の陰のにはたづみよどむ花あり流るる花あり我が宿の山吹咲きて向むかつ家やの一重桜は葉となりにけり年長く病みしわたれば花をこひ上野に行けば花なかりけり花散りて葉いまだ萌えぬ小桜の赤きうてなにふる雨やまず病む我を写す写真に床のへの瓶にさしたる桜写りぬ明治33年註大川:隅田川の異名。というか、むしろ地元では大川と呼ぶ方が普通だった?人をしげみ:人が多いので。混雑しているので。行かで:行かずに。「で」は打ち消しの助動詞。宿:万葉集などの古語的意味では、家の意味。語源は「宿る」と同根であろう。向むかつ家や:「向かいの家」の上古語(古事記時代)的表現。あるいは子規のシャレのめしたナンセンスな擬古的造語か。うてな:台。花の場合、ガクのこと。写真に・・・写り:明治33年(1900)に、既にこの表現があったという、国語学的興味もそそる一首。「写生」は子規が作った言葉であるが、「写真(フォトグラフ)」との関係も興味深い。
2007.05.15
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正岡子規桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂れたり雨にして上野の山をわが越せば幌ほろのすき間よ花の散る見ゆ岡の上に天凌あめしのぎ立つ御仏みほとけの御肩にかかる花の白雲人群るる花の林を行き過ぎて杉の木の間に鳴く鳥聞きこゆ明治33年註上野の岡:忍が岡。現・東京都台東区上野公園。ゆ、よ:「・・・より、から」を示す古語。幌ほろ:人力車のカバーか。
2007.05.15
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正岡子規桜咲く御国みくにしらすと百敷ももしきの千代田の宮に神ながらいます桜さく浜びの宮に外国とつくにの使等つかひら召して大御言おほみことたまふ高砂の新高山にさく花はやまとの花に似て似ざりちふ黄金こがね塗り丹ぬり青ぬる御魂屋みたまやの鳥居うづめて花さきにけり御魂屋の杉の林の影にさく老い朽ち桜花の乏しき明治33年註千代田の宮:皇居。浜びの宮:浜離宮の古語的表現。高砂の新高山:現・台湾の玉山(ぎょくさん)。似ざりちふ:似ていないという。御魂屋みたまや:明治天皇までの歴代天皇陵は京都などにあるので、ここでは何を指して言っているのか、恥ずかしながら不明。・・・東京招魂社(現・靖国神社)の事?
2007.05.15
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正岡子規自作土像 秀真ほつまへ我が顔を鏡に写し其の顔を土にかたどり土の坊主成る我が顔を鏡に写しかたどりし竹の里人さとびと手づくねの像我が顔を見てかたどりし土がたは我が顔に似ずあらね顔に似る渾沌が二つに分かれ天あめとなり土となるその土がた我は土がたに自らつくる我が顔のすこしゆがみて猶なほおもしろし人がたを入れたる缶を携たづさへて秀真がり行く途中気をつけよ明治33年註秀真:香取秀真。金属工芸(金工)作家。歌人。竹の里人:子規の和風の雅号。秀真がり行く:秀真のところへ(使いが)行く。この連作は、自分のささやかな一連の行為について、あれこれ言葉の写生・デッサンをしているような趣きとユーモアがあって、しみじみ面白い。・・・今でいうブログ日記みたいなものですね。
2007.05.04
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正岡子規飼鳥の小鳥の餌ゑにと植ゑおきし庭の小松菜花咲きにけりガラス戸の外面とのもさびしくふる雨に隣の桜ぬれはえて見ゆ左千夫来り夜一時頃去る歌がたり夜はふけにけり立川の君が庵いほりに牛の乳取る頃鼠骨の出獄を祝すくろがねの人屋をいでし君のために筍鮨たけのこずしをつけてうたげす明治33年註左千夫:伊藤左千夫。歌人、作家、牛乳製造販売業。鼠骨:寒川鼠骨。俳人、新聞記者。言論弾圧で収監されていた。一首目、何気なくさらりと詠み下したようでありながら、滋味溢れるなかなかの名歌と思う。子規の俳句の方の傑作「鶏頭の十四五本もありぬべし」を想起させる。僕はこの歌をパクって、次の歌を詠んだことがある。結婚の記念に植ゑし沈丁花ぢんちゃうげ構ひもせぬに今年も咲けり元歌(本歌)がいいので、拙作にしてはけっこう上出来の方かと思う。筍鮨たけのこずしというのは、食べたことはないと思うが、テレビで見たことはあるような気がする、どんなんだろう。質素だが、案外おいしいかも知れない。
2007.05.03
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正岡子規うららかにガラスを照す春の日ににはかに曇り雹ひょう降り来きたるともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん歌をよみにつどひし人の帰る夜半よはを花を催す雨滝の如し詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ明治33年
2007.05.03
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正岡子規の春の歌の途中ですが、ここで、アフィリエイトです 。――「短歌」、「俳句」は、この男から始まった。わずか35年の人生で、たったひとりで「和歌」を「短歌」に革新し、「俳諧発句(ほっく)」を「俳句」と名づけ、日本語表現に近代を刻印した巨人・正岡子規。その、汲めども尽きぬ豊穣な短詩形文学の世界が、このリーズナブルな価格で君のポケットに。詩歌を愛するすべての人に。・・・くまんパパ絶対のおすすめです。 子規歌集 子規句集 墨汁一滴 病牀六尺 仰臥漫録歌よみに与ふる書
2007.04.29
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正岡子規獄中の鼠骨を憶ふ 後人屋ひとやなる君を思へば真昼餉まひるげの肴さかなの上に涙落ちけりある日君わが草の戸をおとづれて人屋に行くと告げて去りけり三みとせ臥ふす我にたぐへてくろがねの人屋にこもる君をあはれむぬば玉のやみの人屋に繋がれし君を思へば鐘鳴りわたる君が居るまがねの窓は狭けれど天地あめつちのごとゆたけくおもほゆ明治33年
2007.04.29
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正岡子規獄中の鼠骨を憶おもふ 前天地あめつちに恥ぢせぬ罪を犯したる君麻縄につながれにけり大御代おほみよのまがねの人屋ひとや広ければ君を容れけり盗人ぬすびととともに御みあがたの大きつかさをあなどりて罪なはれぬと聞けばかしこしくろがねの人屋ひとやの飯いひの黒飯もわが大君のめぐみと思へ豆の事を軍馬グンバといふと人に聞きし人屋の豆のグンバ食ふらむ明治33年註人屋ひとや:「牢獄」の古語的表現。御みあがたの大きつかさ:文字通りには、天領の司という意味であろうが、ここでは山県有朋首相の含みであろう。あなどりて:見下げて。罪なはれぬ:罪に問わない。誅しない。主語は、明治天皇か。――これらの歌自体が筆禍事件になりそうな、子規の激しい怒りの連作である。寒川鼠骨(そこつ、「粗忽者」だったことからつけた筆名という。本名・陽光)は、子規の郷里、愛媛・松山士族の後輩であり、新聞「日本」の後輩記者(大阪朝日新聞から子規が引き抜いた)であり、俳句の弟子でもあり、鼠骨も子規を慕い、すべてにおいて愛すべき弟分であった。鼠骨は、明治33年(1900)3月、「筆禍事件」を起こし、投獄された。鼠骨の署名入りで、新聞「日本」において、公害問題の嚆矢となった栃木・足尾鉱毒事件に絡み、黒い噂の多かった時の総理大臣・山県有朋を猛攻撃、当時存在した「官吏侮辱罪」に問われたもの。今の民主主義、言論・出版・表現の自由の世であれば、当然のジャーナリズムの行動であるが。翌明治34年には、わが栃木の英雄、田中正造衆議院議員による、明治天皇への直訴事件が起きている。鼠骨が、その獄中生活の半月間を描いた、近代日本初の「獄中記(入獄レポート)」が、子規によって「新囚人」と名づけられ、雑誌「ホトトギス」の第三巻七号、八号、九号、第四巻二号に連載されて、当時大評判となった。「ホトトギス」は、明治38年(1905)から、夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」が連載されたことでも知られる“通な”雑誌であった。以後、戦前の新聞記者にとって、逮捕、収監、入獄は、“勲章”のように扱われるようになった。ついでに言えば、巨額の軍費の横領、収賄など、“維新の元勲”の威光を笠に着た山県氏のやりたい放題の強権的な巨悪ぶりは、日本史上でも語り草とされる。目白・椿山荘は山県氏個人の別荘跡である。昔の政治家・官僚は清廉潔白だったなどということを言う人がいるが、言っては悪いが、単に歴史に無知なだけだと思う。
2007.04.29
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正岡子規フランスの人がつくりしビードロの一輪ざしに椿ふさはずなにがしの佐兵衛が鋳たる霰釜あられがまの箱書きしたる山城屋市兵衛つり籠の鶉うづら取らんと飛びかかるあなにく子猫棒くらはせんもののけの栖すむといふなる古家の軒端の柳伐り捨てにけり草枕旅行く君を送り来て橋の柳の下に別れぬ明治33年
2007.04.29
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正岡子規春の夜の衣桁いかうに掛けし錦襴きんらんのぬひの孔雀くじゃくを照すともし火つくり花の牡丹の花を手にもちて踊りつれたる二むら少女をとめ海棠かいだうの花咲く庭の檻をりの内に孔雀の鳥の雌雄めをを飼ひたりくれなゐのとばり垂れたる窓の内に薔薇の香か満ちてひとり寝る少女をとめ美人問へば鸚鵡あうむ答へず鸚鵡問へば美人答へず春の日暮れぬ明治33年
2007.04.28
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正岡子規草枕旅路さぶしくふる雨に菫すみれ咲く野を行きし時の蓑みの蕗ふきの花うゑし小鉢のかたはらに取りみだしたる俳書歌書字書まだ浅き春をこもりしガラス戸に寒き嵐の松を吹く見ゆ明治33年
2007.04.28
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正岡子規春雨ともし火の光に照す窓の外の牡丹にそそぐ春の夜の雨人も来ぬ桜が丘に咲きををる桜の雨に鴉なくなり霜おほひの藁とりすつる芍薬しゃくやくの芽の紅くれなゐに春の雨降る明治33年
2007.04.28
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正岡子規牛牛がひく神田祭の花車花がたもゆらぐ人形ひとがたもゆらぐ親牛の乳をしぼらんと朝行けば飢ゑて人呼ぶ牛の子あはれ古国ふるくにの伊予の二名ふたなに馬はあれど牛がしろかく堅土にして牛むれて帰る夏野の夕ばえのかがやく色をたくみにかきぬスパニアのますらたけりをけだものの牛と闘ふますらたけりを明治33年
2007.04.28
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正岡子規鎌倉懐古よき人の昔住みにし家の跡に青菜花咲く鎌倉の里鎌倉の右の大臣おとどのおくつきに草花咲きて人も詣でず鎌倉にわが来てみれば宮も寺も賤しづの藁屋わらやも梅咲きにけりもののふが太刀たち沈めにし鎌倉の稲村が崎に鴎飛ぶなり明治33年
2007.04.28
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正岡子規春夜くれなゐの緞子どんすの衾ふすま重ね著きて君と語りし春昔なり春の夜の衾しかんと紅梅のさかりの鉢を片よせおきぬ明治33年
2007.04.28
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正岡子規把栗はりつ新婚米なくば共にかつゑん魚あらば片身分けんと此の妹いも此の夫せよき妻を君は娶めとりぬ妻はあれど殊ことにかなひぬ君が妻君に君が庭に植ゑば何花合歓ねむの花夕ゆふべになれば寝る合歓の花をりふしのいさかひこそはありもせめ犬がくはずば猫にやれこそ明治32年註把栗はりつ:福田把栗。僧侶、漢詩人、俳人、日本画家。共にかつゑん:一緒に餓えよう。妹いも:「妻」の古語的表現。なお、古語では「つま」は男女を問わず「配偶者」のこと。夫せ:「夫」の古語的表現。いさかひ:諍い。夫婦喧嘩。
2007.04.28
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正岡子規あらだての草のいほりをゆるがして鉢に栽うゑたる牡丹持て来つおくり物牡丹の花の紅くれなゐに草の庵いほりは光満ちけりこいまろぶ病やまひの床のくるしみのその側かたはらに牡丹咲くなりいちはやく牡丹の花は散りにけり我がいたつきのいまだいえなくに明治32年註あらだての草のいほり:新築の草庵。こいまろぶ:悶え転げる。いたつき:慢性の病。
2007.04.28
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正岡子規三月十三日麓ふもとへ十四日お昼すぎより歌をよみにわたくし内へおいでくだされ四月二十五日秀真へ薄衾うすふすま堅きが上の床ずれのいたやいたやに選歌忘れゐたり足引あしびきの山本君は処しらず歌まはしおきぬ岡君のもとへ青丹よし奈良の仏もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ天平のひだ鎌倉のひだにはあらで写生のひだにもはらよるべし註麓ふもと:弟子だった歌人・岡麓。薄衾うすふすま:「薄い布団」の古語的表現。せんべいぶとん。写生にますはあらじ:デッサンに勝るものはなかろう。写生のひだにもはらよるべし:スケッチした襞(ひだ)に、もっぱら基づくべきだ。
2007.04.28
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正岡子規秀真ほつまに贈る風呂敷の包を解けば驚くまいか土の鋳型の人が出た出たへな土のへなの鋳形のへなへなに置物つくるその置物を飴売あめうりのひだは誠のひだならず誠のひだが美の多きひだ人の衣きぬ仏のひだをつけん事は竹に桜をつげらんが如し第一に線の配合その次も又その次も写生写生なり明治32年秀真:香取秀真。金属工芸作家で、子規の短歌の弟子。
2007.04.25
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正岡子規晴るる日を病の牀とこにすわり居て文ふみ読み居れば文面白きうららかにぬくき日和ぞ野に出でて桃咲くを見ん車やとひ来こあたたかき日を端居はしゐして庭を見る萩の芽長きこと二三寸にさんずん朝晴に花売る人を呼び入れて緋桃ひももを買はず連翹れんげうを買ふカナリヤの囀さへずり高し鳥彼れも人わが如く晴を喜ぶ明治32年
2007.04.25
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正岡子規病牀喜晴臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の晴をよろこぶ朝牀あさどこに手洗ひ居れば窓近く鶯鳴きて今日も晴なりたまたまに障子をあけてながむれば空うららかに鳥飛びわたる夢さめて先づ開き見る新聞の予報に晴れとあるをよろこぶ目をさまし見れば二日の雨晴れてしめりし庭に日の照るうれし明治32年
2007.04.25
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正岡子規杉垣を右に曲りて左せよ桃さくところ先生の家亡き友を埋うづめし墓のかなめ垣かなめ茂りて我老いにけり三月九日秀真ほつまへ明日みゃうにちは君だち来ます天気善くよろしき歌のできる日であれ我が庵いほに人集まりて歌詠めば鉢の菫すみれに日は傾きぬ註秀真ほつま:香取秀真。金属工芸作家。子規の短歌の門人。後に東京美術学校(東京芸大)教授。宮中歌会始召人。君だち:君たち。当時は濁らせたのか、「公達(きんだち)」の洒落か。
2007.04.24
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正岡子規旅にして岡部の小道日は暮れぬ子を思ふ雉きじの声も悲しくところどころにつつじ花咲く小松原岡の日向ひなたにきぎす居る見ゆ霞む日をうてなに上り山を見る山遠くして心はるかなり三条の橋の袂たもとの糸柳しだれて長し擬宝珠ぎぼうしゅの上に明治32年註きぎす:キジ。うてな:台、台地。
2007.04.24
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正岡子規春早き多摩のわたりに舟待てば梅見の人の梅折りて来こし菅原や伊久米伊理毘古伊理毘古いくめいりびこいりびこの陵みささぎこめて立つ霞かも春風に立ちいでて見れば上野かみつけや黒髪山に雪残る見ゆわれ昔をさな遊びに此の道に草摘みし事を今思ひいづ明治32年
2007.04.24
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正岡子規足なへの病やまひいゆてふ伊予いよの湯に飛びても行かな鷺さぎにあらませば足たたば箱根の七湯七夜ななゆななよ寝て水海みづうみの月に舟うけましを足たたば不尽ふじの高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを足たたば二荒ふたらのおくの水海みづうみにひとり隠れて月を見ましを足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪食はましを足たたば蝦夷えぞの栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを足たたば新高山にひたかやまの山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを足たたば大和山城やまとやましろうちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを足たたば黄河の水をかち渡り崋山くわざんの蓮の花剪きらましを明治31年註二荒ふたらのおくの水海みづうみ:栃木・日光中禅寺湖新高山にひたかやま:台湾の最高峰。現・玉山ぎょくさん。大和山城やまとやましろ:奈良・京都。須磨の浦わ:現・神戸港。かち渡る:歩いて渡る。踏破する。この時期すでに、当時としては不治の病であった結核と脊椎カリエスで、子規は「病床六尺」の人となっていた。この後の、明治34年「山吹の花」連作や、俳句の方の「暑さかな」連作などとともに、痛々しさを伴った、今でいう「自虐的ユーモア」さえ感じさせる豪快な連作。
2007.04.23
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子規は、日本に野球が導入された最初期の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に結核で喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、「野球(のぼーる)」という雅号(戯号)を用いたこともある。(ただし、「ベースボール」の訳語として正式に「野球」を用いたのは、これより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めであるとされる。・・・なお、「ベースボール」を仮に直訳すれば「塁球(?)」で、何のこっちゃ分からんから、これはなかなかの名訳と言えるのではないか。)また、「まり投げて見たき広場や春の草」、「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され、正岡子規は2002年、野球殿堂入りを果たした。なお、正岡子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いたのは、中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショート」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」と日本語に訳したのは正岡子規である。この辺は解釈の問題もあるが、子規が「野球用語の父」であることは確かであろう。(以上は、“Wikipedia”「正岡子規・子規と野球」の項を元に、一部加筆修正。)ちなみに、ついでに言えば、「写生」は子規が「デッサン」から訳したとされる。
2007.04.23
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正岡子規久方ひさかたのアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな明治31年註久方ひさかたの:天(あめ、あま)、雨などに掛かる枕詞(まくらことば)。
2007.04.23
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正岡子規神の我に歌をよめとぞのたまひし病ひに死なじ歌に死ぬとも千ちはやぶる神の御代より日の御子みこのいやつぎつぎにしろしめす国たひらかに緑しきたる海の上に桜花咲く八つの島山明治31年
2007.04.23
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竹の里人・正岡子規の明治31年春の歌は、ようやく終わりに近づいてきました。それにしても、この期間だけでも、ご覧の通り、いつ果てるとも知れぬ大量の短歌が詠まれ、残されています。これでさえ、全部ではなく抜粋です。当時としては不治の病と言われた結核と、併発した脊椎カリエスと闘いながら、すさまじい明治男のエネルギーというほかはありませんね。なお、“正岡子規シリーズ”は、さらに続きます 紅梅の花ぞめ産衣うぶぎうち著きせて神田の神に千代をこそ祈れ明治31年
2007.04.20
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正岡子規うらうらと春日さしこむ鳥籠の二尺の空に雲雀ひばり鳴くなり春風の利根のわたりに舟待てば雲雀鳴くなり筵帆むしろほの上に山の端の紫の雲に雲雀鳴く春の曙あけぼの旅ならましを里川に芹摘むをとめ背戸畑に鍬くはとるやもめすべてうれしも里を見て帰りし夜半よはの枕上まくらがみ菜の花咲く野目に見ゆるかも太刀佩はきていくさに行くと梅の花見てし年より病みし我かも明治31年
2007.04.20
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正岡子規餅あげて狸を祭る古榎ふるえのき紙の幟のぼりに春雨ぞふる筵むしろ囲ふ麦の畠の仮小屋に春雨ふりて芝居今日もなしもののけの出るてふ家に人住みて笑ふ声する春の夜の雨筒井筒井筒つつゐづつゐづつは朽ちて古柳柳緑しぬのぞく子もなし畑の中に筵むしろかけたる村芝居菜の花咲けり花道の下もとに岡こえて利根川近し風そよぐ麦の葉末はずゑに白帆行く見ゆ明治31年
2007.04.20
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正岡子規かしこしや賎しづが伏家ふせやの内裏雛だいりびな神酒みき奉たてまつる餅たてまつる七人の娘持ちたる賎しづが家やの雛ひひなすくなく桃の花も無し京の雛江戸の雛と並べおきていづれこひしき桃の下陰売れ残る雛ひひなやものを思うらん十軒店じっけんだなの春の夜の雨遠近をちこちの桃咲きにけり田舎家は草餅搗つきて雛祭るらし東京は春まだ寒き雛祭梅のさかりに桃の花を売るいそのかみ古き都に来て見れば雛祭ひひなまつりの様ぞことなる明治31年
2007.04.20
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正岡子規昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く軒並ぶ賎しづが伏家ふせやの門川かどかはに山吹咲いて蛙かはづ鳴くなり寝静まる里のともし火皆消えて天の川白し竹薮の上に百年ももとせの命にかふるねぎ事をあはれきこしめせ八百万やほよろづの神うぶすなの神の宮居にたてまつる八兵衛が桜あはれ八重なり註鏡の人:子規自身。百年の命にかふるねぎ事:百年の寿命にも換える祈願。具体的な内容は明らかでない。
2007.04.20
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正岡子規日のささぬおどろがもとの花菫はなすみれ薄紫に咲きにけるかな菜の花に日は傾きて夕雲雀ゆふひばりしきりに落つる市川の里笛の音もそことも知らず須磨の浦夢路に似たる春の夜の月七年ななとせの旅より帰る我が宿に妹が声して砧きぬた打つなり潮早き淡路の瀬戸の海狭せまみ重なりあひて白帆行くなり明治31年
2007.04.20
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正岡子規病みて臥ふす窓の橘たちばな花咲きて散りて実になりて猶なほ病みて臥す長安の市の酒屋の桃咲きて李白が鼾いびき日斜ななめなり大臣の桜の宴やはてつらん霞が関を馬車通るなり武蔵野に春風吹けば荒川の戸田の渡わたしに人ぞ群れける露国に行く人におろしやの鷲の巣多き山こえていづくに君は行かんとすらん明治31年
2007.04.19
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正岡子規奈良の町に老いたる鹿のあはれかな恋にはうとく豆腐糟から喰ひに来る縁日の市に買ひ得し早咲の鉢栽桜はちうゑざくら散りぬ歌無し玉くしげ二子の山に風吹けば雲飛びわたる葦あしの水海みづうみ大仏も鐘楼も花にうづもれて人声こもる山の白雲牛かひにいざこと問はん此のほとりに世をのがれたる翁おきなありやと明治31年
2007.04.19
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正岡子規小鮒取る童わらはべ去りて門川かどかはの河骨かうほねの花に目高群れつつ稲妻のひらめく背戸の杉の木に鳴神なるかみ落ちて雨晴れにけり宮嶋にともす燈籠の影落ちて夕汐みちぬ舟出さんとす頭痛する春の夕ゆふべの酔心ゑひごころそぞろありきして傾城けいせいを見る榛はんの木に烏芽を噛む頃なれや雲山を出でて人畑はたをうつ明治31年註背戸:瀬戸。狭い海峡。傾城けいせい:美人。美女。
2007.04.19
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正岡子規の春の歌の途中ですが、ここで、アフィリエイトです 。――「短歌」、「俳句」は、この男から始まった。わずか35年の人生で、たったひとりで「和歌」を「短歌」に革新し、「俳諧発句(ほっく)」を「俳句」と名づけ、日本語表現に近代を刻印した巨人・正岡子規。その、汲めども尽きぬ豊穣な短詩形文学の世界が、このリーズナブルな価格で君のポケットに。詩歌を愛するすべての人に。・・・くまんパパ絶対のおすすめです。 子規歌集 子規句集 墨汁一滴 病牀六尺 仰臥漫録歌よみに与ふる書
2007.04.18
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