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ザ・ブリリアント・グリーン Stand By Meもう我慢できない!!早くカミングアウトして楽になりたい!!!・・・ボクは、ブリグリ・フリークである。特にヴォーカルの川瀬智子には、デビューした10年前からゾッコンなのである。何しろ、初恋の君にクリソツである。前にも言ったけど、見れば見るほどかつての君に瓜二つだよ(・・・誰に言ってるんだ?)。世界最高の美人は、先日惜しまれつつお亡くなりになった山口小夜子さんだったが、この世で一番キュートな芸能人といえば、Tommyである。内向性と裏腹の擬態ではあろうが、そのツンツンとタカビーな個性、生意気な発言なども、いちいちキュンキュン男心をくすぐる。・・・あふれまくる才能、才気。しかも上品。もう勘弁してくれ~。しかし、いい年こいたオヂサンが口に出せることじゃないだろうと、これまで鉄壁防御、堅忍不抜、臥薪嘗胆で堅く沈黙を守ってきたのである。とりわけ、ここしばらくというもの、愛しのTommyが、アイドルというかアイドルパロディ冗談路線というか、少女趣味の極致である Tommy Feburuary6 と Heavenly6 という、摩訶不思議の国アリス街道を驀進していたため、ますますもって彼女(たち)について語ることはタブーとなっていたのである。今、ブリグリの再結成復活によって、大手を振ってレビューできる。私はウレスイ(もっとも、事実上は、Tommyソロ展開時も、サウンドはブリグリの二人が深くコミットしていた。)そこで、今度の新曲だが、いい!Tommyソロ路線でやるだけやったプリンセスは、重厚なブリティッシュ風味ロックにご帰還だ。実生活で夫である、リーダーでアレンジメントを仕切っているベースの奥田俊作が、いつも立ち位置右後ろでノリノリで弾いてるのも、実にいい風情である。なにしろブリティッシュ系ロックは、リズム系、ことにベースが要であることは、ビートルズ以来の万古不易の法則である。そこに川瀬のアンニュイなVo.が気持ちよく乗っかっている。歌詞は、どこかで聴いたような言葉の寄せ集めだが、そんなこたどうでもいい!って感じ
2007.08.27
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2007.08.23
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福田和也 大丈夫な日本名著だと思う。・・・というより、最も重要(モースト・インポータント)な本だと思う。生きた問題提起と解答が書かれている。この国の将来を心配する貴兄、また、この国でこれからどう生きていくべきか迷っているあなたにとって、必読書といっていいだろう。現在、日本人の多くは自信を喪失しかけている。いちいち具体例を列挙しなくても、この同時代に生きていれば、共通感覚として誰もが感じている不安だと思うが、日本を取り巻くあらゆる分野で、内憂外患の嵐が渦巻いており、出口が見えない。この国は、そして、この国に生きている僕たちの未来は大丈夫なのか?慶応大学教授・福田和也氏は、「ダイジョウブイ」だと言明する。むろん、無条件に、ではない。いくつかの条件はある。では、どこをどうすれば大丈夫なのか?歴史や哲学・文学に対する該博な知識を背景に、まず文芸評論で売り出したが、今や政治、経済、社会、etc.あらゆる領域に、研ぎ澄まされた言説で切り込む「戦う知識人」である。氏の名前を雑誌の広告などで見ない日はないほどだ。まさに福田氏の慶応の先輩に当たり、戦後知識人の旗頭であった江藤淳氏の全盛時代を彷彿とさせ、衣鉢を継ぐ人物である。一見、けっこうごっついコワモテな顔をしているが、テレビ(たまにNHK総合・教育などに出演している)などで拝見すると、きわめて温厚で穏やかな紳士である。新書版とはいえ、中身は非常に濃く、けっこう速読の僕としては珍しく(夏バテのせいもあるが)、読み通すのに実に半月も掛かってしまった。それだけ、熟読玩味、読書百遍に値する内容である。その濃い中身を、ここで簡略に要約するなど、土台無理な話であることはご了解願いたい。きわめて粗っぽい要約で、骨子だけ書くと、以下のごとし。――近代は行き詰まっている。ついに終焉の時を迎えた。近代とは、「無限」への信仰である。しかし今、皆が気づき出したように、地球環境は有限である。人間精神も有限である。「右肩下がり」の時代が世界に到来した。近代は終わりつつあり、また、近代に引導を渡さなければ人類の未来はない。アメリカの日没の兆しも見え始めた。9.11は、その象徴的な事件であった。かつて七つの海を支配したイギリスの覇権(パックス・ブリタニカ)は海を渡ってアメリカに移ったわけだが、その大英帝国の落日は米国において再現される。パックス・アメリカーナの終わりの始まりである。これは、日本の自立のモメンタム(契機)になる可能性がある。安全保障などは、国民の腹の据え方一つであり、自分の安全は自分で守るという覚悟を決めれば、ほとんど解決する。今や愛国主義だけで辛うじて持っている中国が行き詰まることは明らかだ。現在の中国は、「明(みん)」の末期に酷似してきた。遠からず、大きな破局は訪れる。中国に対しては鎖国政策でいい。中国にかまうな。少なくとも距離を取れ。これは歴史の教訓であり、確実に言えることである。日本が中国にコミット(関与)して、いい結果がもたらされた験しはない。経済界も考え直すべきである。煮え湯を飲まされるのが関の山である。これは、外務省主流派の、いわゆる「チャイナ・スクール」一派や、親中派の朝日新聞の論調などとは著しく異なり、180度真逆ともいえるが、もちろんそっちが間違っているのである。マルクス・レーニン主義をはじめとする近代思想は破産し、新しい思想はもう生まれない。しかし、思想が死に絶えたわけではない。歴史という思想が横たわっている。歴史の縦糸を基に構築される「垂直論理」から見ると、近代とは「現在」という座標軸しかない「水平論理」の時代である。「垂直論理」と「持続可能性」は分かちがたい関係にある。日本人は、かつて「持続」という価値観を大切にしてきた。持続のためにこそ、大胆な自己変革も成就させてきた。その伝統は、今も滅びたわけではない。それを改めて思い出せばいい。それを体現するものは今なお数多いが、その価値観の総本山は、言うまでもなく皇室である。江戸時代の先進性を思い見よ。まさに江戸期の日本は「環境先進国」であった。少子化の進行などで、日本の人口の減少は緩やかに進み、2050年に1億を割り、2100年に6400万に半減すると見られるが、これは憂うべきことではない。6000万人というのは、石油輸入が完全に途絶しても、国内で食料が自給できる水準だという。むしろ悦ばしいことである。そして、結語。 「そのとき、われわれ日本人は、毎年クルマを買い換えるのとは異なる豊かさを、生活文化や自分らしい人生、ゆるやかで濃密な時間、といった豊かさを、ひょっとしたら、取り戻しているかもわかりません。 大量生産、大量消費、大量移動の社会、エントロピーの高い社会にはなかった“退屈さ”をしのぐために、仲間で集まって句をひねり、評し合いなどをしながら。」・・・この「句をひねり」のところを、「短歌をひねり」に直せば、ほぼ同感である読むべき本である。
2007.08.22
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リズム時計は、当地・栃木の、陶器で知られるモノ作りの町・益子に大きな工場があり、知人も勤めています(現在、彼は中国広東省の先進都市・深セン〔土へんに川〕の海外子会社に出向しています)。デザイン感覚にすぐれ、夢があふれるモノ作りの、独特の社風で知られています。わが家でも、少し旧型ですが、リズム時計の「となりのトトロ」の掛け時計を愛用しています。小トトロが出てきて時を告げると、子供たちは大喜びです。(なお、シチズンと販売面の提携関係にあるため、“CITIZEN”のロゴマークのものを含みます。) 村上康成クロック ぺろくまくん(深緑) リズム時計 キツツキの動作で木製ベルが鳴ります。毎朝の楽しいお目覚めを。 イタリア製陶器枠時計 ザッカレラZ169 リズム時計 宮崎駿・スタジオジブリアニメの名作をお部屋に。【30%OFF】ねこバス となりのトトロ掛時計 リズム時計 ボブ・サップ 目覚まし時計 リズム時計工業【掛時計】となりのトトロ 4MH769-M06 ミッフィー掛時計
2007.08.14
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最近はイタリア料理、フランス料理はもとより、タイ、インド、ベトナム料理などなどのレストランが(当地でも)そこかしこに林立する嬉しい時代になったが、ロシア料理店は割と珍しい。これはもう、ただ単に、馴染みが薄いというだけじゃなかろうか。料理名のロシア語も、確かに覚えにくく、舌を噛みそうだもんね実際に食べてみれば、ロシアの大地に根っこを張った、ロシアのおっかさんの家庭料理という感じで、素朴で好ましく、おいしくて楽しく、心温まる。おまけに、ヘルシーだと思う。フランス料理なんか、明らかに宮廷料理の流れを汲み、洗練されているが、庶民的というには程遠い。カロリーも高いし。そこへいくとロシア料理は、本当に庶民的である(お値段の方は、必ずしも庶民的とはいい切れない場合もあるが)。僕と妻は、ロシア料理が大好きである。ここ数年は、3歳5か月になった三つ子三人娘の子育てに大わらわで、食べ歩くどころの騒ぎじゃないのだが、それ以前は、時々車を走らせて、地元栃木・市貝(いちかい)町の「梨美奈(りびな)」や、茨城・水戸の「キエフ」によく行った。特に「キエフ」は、当地・栃木からは遠いっちゃ遠いのだが、水戸偕楽園に梅を見に行ったり、大洗・阿字ヶ浦海岸に遊びに行った帰りに必ず寄ってたので、けっこうそこそこ通ったと思う。いつ行っても、落ち着いた素晴らしい雰囲気で、心温まるディナーを堪能できる。ついでに言えば、少し前までは、たぶん日本共産党関係者あたりと思われるインテリ系の客の溜まり場といった感もあり、“来たるべき連合政権”とかについてボソボソ語り合ってたりして、一種独特な特殊個別的雰囲気も楽しめたりした・・・今はもう、そんなことないだろうけどロシアというのは、明らかにわが国固有の領土である北方四島を不法占拠している怪しからん国ではあるが、料理は美味い。現プーチン政権は、年々歳々強権的なこわもてを強め、国内マスメディアへの圧力を強めたり自由な言論を弾圧したりしている怪しからん政権であるが、プーチン大統領がなかなかの男前であり、ロシア人の間で人気があるのは否めない。それはともかく、本当にロシア料理は、美味くてホッカホッカだよおっかさん。本格的な料理のほとんどは、実際にレストランに行って食べてもらうしかないが、楽天市場でも、その代表選手であるボルシチやピロシキが手軽に入手できるようである。残念ながら、筆者がよく知っている「梨美奈」や「キエフ」ではないが、写真や説明文などから推して、ちゃんとした立派なロシア料理であると断定して間違いないだろう。お値段もお手頃。ぜひ皆さんも、ロシア料理の素朴でやさしい味わいをお試し下さい。 ピロシキの店マルメッコ ピロシキ8個セット お好きなピロシキを8個選んで下さい♪ 組み合わせは自由です♪ 岩手・北上 ロシア料理専門店トロイカ ボルシチ 同上 チーズケーキ ボルシチ(シチュー、レトルト)
2007.08.12
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フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟亀山郁夫(東京外国語大学教授、まもなく学長)訳光文社古典新訳文庫(全5巻)世界文学の最高峰であり、人間精神の到達地点である。近現代文学・思想に与えた影響は、∞(リミットレス)。ひとかどの男子であれば、絶対に読んでおかなければならない本である(・・・女子でもいいよ)。奇しくも、今日は広島原爆忌であるが、ある意味深いところで、このように人間が悪魔たりうるという蓋然性も、本書の中で予言されているといっていいだろう。ただ、あまりにも凄すぎて、まとまったレビューめいたものなんて、とても軽々には書けない。こう暑くちゃ、夏バテで身も心もヘロヘロだし。・・・追々、加筆できればしておきますとにかく、このブログの読者の皆さんはぜひ読んでほしい。生涯最高の読書体験になることは、折り紙付きである。なお、現時点で一つはっきりと言えることは、長年親しんだ米川正夫訳(岩波文庫版)に比べて、平仮名が多すぎる。漢字が少なすぎる。訳文が生き生きとしすぎている。・・・要するに、読みやすすぎる。そこが、大いに不満だ
2007.08.06
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木製玩具 まゆ玉ころころこの手のおもちゃって、今でもあるんだね~。1列が2列になっただけで、昔とほとんど変わりない。とっても懐かしい。ただ、繭玉は、・・・やっぱしプラスチックか~時代のしからしむるところだね。僕らが子供の頃、縁日(当地では、正月11日の「初市(達磨市)」など)で買ってもらった時は、まぎれもなく本物の蚕(かいこ)の繭だった。中には、蚕蛾の蛹(さなぎ)が入っていて、コロコロ動いた。ちなみに昔の縁日は、普段あんまり見かけないような街の輝きと、ヤクザなおじさんがウロウロしているような雰囲気の異空間で、それだけでもワクワクした。球体と違って生き物みたいに変わった動きをするのが面白い。何といっても、この動きがミソだね。今思えば、栃木県・群馬県(野州・上州)の南部地域の養蚕農家の農閑期の手仕事だったのだろうか。子供心にも、心のこもった、すばらしい手作りの民芸品であると思っていたものだ。・・・しかし、言えば言うほど、中年男の詮無い繰り言である。ま、しょ~がないやね。現在でもレプリカがあるというだけで、オヂサンは感激ダス。皆さんも、ご家族で遊んでミソ~。
2007.08.06
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佐野元春 COYOTEう~む、これはすごいかも知んない。むろん、一般受けする軽快なポップ・チューンとは、お世辞にも言えないだろう。だが、やや地味ながらゆったりとスケールの大きい曲調に、佐野一流のさりげなく洗練された発音(エロキューション)のデフォルメ、あるいはデストーション(歪み)がナチュラルに乗って、徐々に高揚してゆくのを静かに聴いていると、じわじわ~っと魂に沁みてくるのを感じる。・・・と言っても、「コヨーテ、海へ」一曲を、きのうNHK-FMで聴いただけだけど。幸い録音していたので、この7分を超える長大な曲を、感動のあまり今朝まで15回ぐらい繰り返し聴いてしまった。どっちみちアルバムを買うことになりそうだが、この曲のシングルカットも望みたい。アマゾンのレビューを覗いても、皆さん気合入りまくりだ。(アマゾンの記事にリンクしようとしたら、楽天以外のアフィリエイトになるので、表示できないらしい。うまく出来てるね~楽天ブログ。・・・仕方がないので、少々引用する。)「時は流れ、僕は今34歳。それなりに歳を重ねてきた。そして気づく。やはり元春は凄い。 今だからこそ、前作「THE SUN」、そして今作「Coyote」は深く染み入る。 「THE SUN」はある種元春自身がもう一度自分自身を深く見つめ、対峙した内省的な傑作アルバムだった。今作は、さらに外へと意識が向かっている。若い頃の声はここにはないけれど、今の声に癒されるリスナーも決して少なくないはずだ。 若いミュージシャンを迎えて、実に伸びやかに強度のあるロックを鳴らしつつも、バラードが、本当にリアルで、切ない。 陳腐な言い方だけど、あえて日本のボブ・ディランは彼だと断言させてもらおう。 30歳すぎて「折れた翼」、「呼吸」、「コヨーテ、海へ」を聴いて、何も感じない人はロックを語る資格はないと思う。 そして、きっと気づくだろう。僕らは大人になったと。」・・・ああそうか、ボブ・ディランか。僕はむしろ、このサウンドからピンク・フロイドやジョン・レノンを連想したけれども。これも、あながち的外れではないと思う。しかも、一見佐野に最もふさわしくないと思われる形容詞、「エレガント」さもどこかにまとっている。いや、よく考えると、意外と若いころから押しまくりの猪突猛進ロックンロールではなく、ある種の洗練された内省的なテイストを、常に持ち味として秘めていたような気もする。言語表現に興味を持っている者として、歌詞も、すばらしいの“一語一会”。特に、リフレインで繰り返される「勝利ある」と“Show real”の踏韻の妙は、圧倒的。ザブトン10枚。まあ、“Show real”は、どう見ても文法的には無理であり、正しくは“Show the real(リアルなものを見せよ)”か、“Show reality”と言うべきであろうが、サブカルチャーのJ-POPの歌詞としては、悠々受忍限度、セーフであろう。・・・ただし、活字の詩歌においては、こういった文法的な「いろは、てにをは」の誤りは致命傷で、鼻先で笑われ知性を疑われるから、要注意。「まだまだ世の中捨てたもんじゃないぜと思わせる唯一の存在が佐野元春!ある意味頑固職人。 自己の持つ純粋さを保ちつつ成長するには時として世間と戦わなきゃいけない。 佐野の歌詞は"暗闇の向こうに"とか"輝き失わぬように"といったものが多い。 生きていく為にはお金よりもなによりもまず前向きになろうとする意志そのものだというメッセージなんだと勝手に私は解釈している。 どんなに傷ついたとしても一貫として前を見続け走り続ける佐野の姿は感動的だ。 今作は過去のどの作品とも違う2007年今の力強さがそこにある! 」全く同感。・・・僕としては、特に付け加えることはありません〔「コヨーテ、海へ」の楽曲としての総合評価:91点〕
2007.07.12
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一流の男、二流の男酒と子供の菓子を買いに行った、近所のセブンイレブンの本棚で目に付いて、思わず買ってしまった。この著者の書いたものは、すでにけっこう読んでいるし、これから全部読破したいと思っているぐらいだが、これまで損したという感じがした験(ため)しはない。その意味では、絶対に近い信頼がある。この本も、期待に違(たが)わない。非常に面白くて、1時間半ぐらいで一気に読了してしまった。全編これ、胸のすくような、竹を割ったような“辛口暴論”である弱肉強食の格差社会を全肯定、男尊女卑は当然の前提として、男は一人で闘って勝ち抜けということが、著者一流の、研ぎ澄まされた明晰な文体で、熱く語られる。国に頼らず、会社に頼らず、女に頼らず、もちろん親にも友人にも頼らず、ただ一つ己(おのれ)の才能と努力とプロ意識のみを恃(たの)んで、女子供に尊敬される強い男=成功者になれと説く。結果として、それら全ては後からついてくる。著者によれば、女は、闘う男を癒す存在であるべきであり、男と張り合うフェミ女などは、無駄に進化した有害無益な存在であるから、美人であってもゆめゆめ近づいてはならない。この本に限らず、著者の本のほとんどは、このような論旨がかなり思い切った激しい舌鋒で展開されており、現代女性にありがちなタイプの多くが、“撲滅”すべき“主敵”として描かれているから、過激派フェミニズム・ジェンダーフリー陣営などからは、ウェブ上でしばしば脅迫に近いような攻撃を受けているという。・・・お気の毒ではあるが、自業自得の面もあるよね タメ口のフェミ女の攻勢にタジタジの、元気と自信を喪失した近頃の若い男たちには、特にお薦めしたい。読んで直ちに“一流の男”への道を踏み出せるかどうかはともかく、少なくともカラ元気ぐらいは確かに出る。・・・間違いない タイトルはいささか耳障りで刺激的だが、売れなきゃしょうがないから、まあいいいんじゃないすか~。編集者が考えたんだろうが、パンチが効いていて、まあ上手いとも言える。余談だが、「吾輩は猫である」も、漱石の初稿では「猫伝」と、すっきりしていたというか素っ気なかったのを、「ホトトギス」の“編集長”格だった俳人の高浜虚子が「吾輩は猫である」と直した、というか名づけたそうだ。タイトルの歴史的名作と言えるだろう。この著者は、こう見えて非常に遅筆だという。勢いに任せて書き殴っているのではなく、十分に考え抜き計算し尽くして書かれていることがよく分かる洗練された筆致であり、決して野卑な感じはしない。心臓神経症という重い病気に苦しみ、死線を彷徨(さまよ)いながら今日の成功を勝ち取った著者ならではの、凄味の利いたシャープな文章に魅了される。・・・イケてる。(僕くまんパパは、著者の意見に全面的に賛成というわけではないよ。タメ口も、OKで~す。)オフィシャルブログ「里中李生の 辛口じゃないよ」里中李生オフィシャルウェブサイト「赤ちゃんポスト」についての里中氏のご意見は、かなり同感です。
2007.05.21
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宇多田ヒカル;Flavor Of Life失恋や愛の喪失は、いつの世も詩人の栄養源だ。すごい、深い、癒される、の三拍子揃った名曲。ご存知の通り、私はいい音楽を聴くと、それを肴にあ~でもないこ~でもないと屁理屈をこねくりまわすのが好きなのだが、今回の場合感動が深すぎて、今のところ冷静に分析やレビューめいたことなど、とても書けない。タイトルからは、“Power of love(愛の力)”というありふれた言い回しが思い浮かぶ。愛が失われて、“Flavor Of Life(人生の香り)”だけが残ったのか。一切の小細工を弄していないこともあって、最初に聴いた時は、宇多田にしてはちょっと地味めな曲かな? と思ったが、「地味」が「滋味」に感じられるまでに、さほどの時間は掛からなかった。感情が乗りまくり、音楽の女神ムーサイ(ミューズ)が憑依(のりうつ)ったような完璧な歌唱に、改めて彼女の凄さを思い知る。強いて類例を探せば、完璧な歌唱力で知られた全盛期のバーブラ・ストライザンドがこんな感じだったろうか。今でいうとマライア・キャリーとか。Bメロディでは、平原綾香も裸足で逃げ出すドスの効いた低音。宇多田の声としては初めて聴いたと思う。ゾクっとくるほど凄い。しかも、歌い方に、どことなく蓮っ葉な、“夜の新宿裏通り”の母・藤圭子の面影が漂う、・・・と言ってはうがちすぎかな。表向きは、恋の渦中にある若い女の子の揺れ動く感情と心理を謳い上げているが、周知の通りの、私生活上の大きな変化と不即不離(付かず離れず)の、謎めいた歌詞に圧倒される。憂愁の中にあっても、宇多田持ち前の楽天的な感覚と強い女の姿勢が表明される。万葉集の「ますらおぶり」と、新古今和歌集の「たおやめぶり」がリミックスされたような感じか。近松門左衛門の芸談としてよく知られる“芸能の真髄”、「虚実皮膜」の境地に、彼女は軽々と開眼しているように見える。これを、24歳の女性が書いて歌っているとは、にわかに信じられないほどの見事な作品ではないか。平成の歌姫は、昭和の大歌手・美空ひばりを超えつつある。彼女が現代日本を代表するアーティストであることが、改めて再確認された。〔楽曲としての総合評価:91点〕
2007.03.13
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実はひそかに愛読しているが、人に言うのはためらわれるという本や著者が、誰しもあるだろう。・・・といっても、エロ本のたぐいの話ではない。僕にとっては、さしずめ中谷彰宏の本がそれに当たる。若い女性ならともかく、いい大人の男が読んでいるなどとは、気恥ずかしくてとても人さまには言えない。なにしろ、OLの教祖である。役者までやっているイケメンである。都会のバーかラウンジで美人に囲まれているのが似合う色男である。普通の中年男から見ると、あの石田純一の同類である(笑)。どうせ、いい加減なウンチクを並べて若い女を誑(たぶら)かそうとしてるのだろう、ぐらいに思う男も多いだろう(・・・ちょっと、ヒドく言い過ぎか)。・・・だが、試しに2~3冊を虚心坦懐に読んでみると、書くものはなかなか悪くない。コピーライターの経験もあるせいか、文章も巧い。しかも、あの真面目なPHP文庫に多数の著書が収録されている。一般人でも、「尊敬する人物」を聞かれたり書かされたりする機会はなんぼでもあるが、そういう場合僕らの世代だと、「松下幸之助と書いとけば間違いない」と両親や大人に言われたものだ。それほど立派な偉人・松下幸之助が創設に深く関与したPHPなどの常連として物を書いており、それらがPHP文庫などに多数まとめられている。やはり、タダモノではない。例えば、PHPではないが、道楽のススメ ちなみに、現在最新の原稿であろう、「PHP2月号スペシャル・運を強くする、味方にする習慣」に掲載された中谷氏の文章「まず、列に並んでから考える人が、運を味方にできる」を読んで、あいかわらず上手いな、と感心した。――新装開店のレストランに大行列ができている。あなたならどうするか。中谷氏によれば、「とりあえず並ぶ」のが正解だという。迷ったら、とりあえず並んでみて、それから考えればいいのだそうだ。なるほど、と思う。以下少し引用してみようか。「『なんかあそこに列があるから並んでみよう』と来てしまう人がいます。その人は自分が何がやりたいか、まだわかっていません。何がやりたいかがわからなくても列に並んでしまった人のほうが、夢を持っているけれども、何も始めていない人よりは勝ちです。行動を起こしているからです。その人に対して『あの人は夢をもっていないけれども、私は夢を持っているから』というのは、ひきこもって何もしないのと同じです。『私は、こんなにすばらしいことを考えている』と思っても、それを口に出さない人は、アイデアを持っていない人と同じです。行動に出ていないのです。」なるほど、とさらに思う。そして、「まず、恥ずかしいことを体験することです。(中略)・・・こんなことは誰でも思いつくから、先にやらないと負けるという危機感を持てばいいのです。」などと続く。むろん、「レストランの行列」の話は、もののたとえである。僕なんかはもともとグルメ指向があんまりないし、この齢になればいろんな場面で山海の珍味からキャビア、フォアグラ、トリュフ、エスカルゴまで、たいがいの物は口にしたことがある。いまさら行列してまで何か食いたいとは思わない。行列が出来ていれば、その横っちょのそば屋あたりで、もりそばかカツどんでも食べられれば満足だ。・・・ではあるが、なかなか上手いもののたとえである。言っている中身は、むしろ陳腐だとすら思う。松下電器提供「水戸黄門」のテーマソングみたいだとも思う。だが、文章がうまい。洗練されている。見事にデオドラント(脱臭)されて垢抜けた現代文になっている。中谷氏の書くものは、いずれもことほどさように口当たりがよく、すらすら読める。しかし、案外バカにしたものでない人生訓が満ち溢れていて、読んでいると元気が出る。膨大な著書があるが、人生論・成功論エッセイのたぐいでは、どれを読んでも同じようなことが書いてあるともいえる。が、文章が上手いので、けっこう飽きない。新鮮である。曰く、とにかく考えていないで行動せよ。自分が動いていないと、見えるものも見えなくなる。周回遅れなのに、まだ早過ぎる、などと思ってしまう。四の五の言っている間に声を挙げて、人ごみの中から一歩抜け出せ。なにげに、けっこうキツイことも書いている。例えば「人は誰でも作家になれる」(PHP文庫、絶版らしい)には、おおよそ次のようなことが書いてある。モノ書きになりたいのであれば、まず書いて書いて書きまくれ。原稿用紙は何枚と数えるのではなく、kg(キログラム)単位で数えよ。何十キログラム書いたかが勝負であり、もちろんそれを机の上に置いておくだけじゃだめで、全て出版社に持ち込む。そのためには、とにかく完成(完結)させること。最後まで(あるいは少なくとも大部分)書いてないのでは判断のしようがない。目の前で編集者に読んでもらうのは、まさに真剣勝負の果し合いである。文筆・文学の世界でも(あるいは、それゆえになおさら)、とかく作品を仕上げてもいないのに、口(自己宣伝)だけは達者な者が多いという。すばらしいあらすじが出来ていても、作品を完成させてみなければ(行動してみなければ)話にならない。すでにコピーライターとして実績があった中谷氏にして、苦節3年だったという。出してはダメ、出してはダメの、壮絶でいつ果てるとも知れない繰り返しだった。編集者に殺意すら持ったという。・・・だが、勘違いしてはならない。編集者は意地悪や新兵イビリがしたいワケではない(そういう癖のある人も皆無ではないかも知れないが)。むしろあらゆる出版社は、ものになりそうな作家、金になりそうな作家を、必死で鉦を叩いて探しているのだ。自分が発掘した作家が売れれば、その編集者にとっても大手柄で鼻高々だ。「ダメ出し」されるのは、むしろ見どころがあると、その才能を買われているからである。多くの作家において、処女作が最も優れているといわれ、大抵それを超えることができないという現象は、処女作にはこれほどの苦闘と苦悩と、涙と怨念がこもっているからだ。真剣味が違う。しかし、念願叶って売れたあかつきには、怨念で微熱さえ発し、そのため暖かいのでその上で猫がよく眠りこけてしまうという“ボツ原稿の山”が、再び生きてくるのだという。それは必死で考えたアイデアの宝庫だからである。その中には、すでに、その作家のすべてがある。以上の記述は、かなり僕流に意訳・要約してしまったものだが、けっこういいこと言ってると思う。軟派な外見と裏腹の、けっこう硬派な体育会系の論理の展開だ。運(ツキ)を呼び込むためには、努力も必要ということか。・・・そうなのである。いわば当たり前のことが書いてあるのである。が、書き方がうまいから、文章それ自体も楽しめるし、納得させられるのである。成功哲学、成功の秘訣めいた本は数多いが、その前提というべき実践的心構えの部分で、中谷氏の本は読みやすくて面白くてためになる。俺も(私も)やれるかも、という気にさせられるところが、何度も言うが上手い。人気があるわけですね。
2007.01.31
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男は女のどこを見るべきか男にとって、女は永遠の謎である。これは万古不易の真実である。知り合って日が浅い表向きの付き合いや、ラブラブかつお互いにカッコつけて本音を隠している恋愛初期段階ならいざ知らず、ある程度以上深まった親密な仲、あるいは年月を経た夫婦ともなれば、女性の考え方や言動・振る舞いが、我々男どもと本質的なところで根源的に違っていることを、誰しも悟らずにはいられないだろう。それを詩的に表現すれば、“巫女的”とでもいうか、神秘的というか、動物的勘というか、男の持つ単純明快・公明正大な青天白日の論理性・分かりやすさからは対極にある、非論理的ではあるがグサっと肺腑を抉る、“魂に近いところ”で動いているように見えるのである。それは、場合によっては、“悪魔的”ですらある。確かに、一般的に論理的整合性では男の脳は優位であるといっていいだろう。だから、一見女がバカに見えることも多い。が、それでナメてかかったら、取り返しの付かない結果を招くであろう。今なお“社会的弱者”であることを余儀なくされている女性は、すでに幼稚園児の頃から、相手の弱点を見極める特訓を積んでいるというのだ。男が逆立ちしても及ばない“女のカン”である。・・・女性が好きで好きでたまらない僕も、身に覚えがあるのである。(この一行、削除する可能性があります。)こういうことは、一人前の男なら、薄々、あるいはかなりの程度まで経験的に知っていることではある。だが、ここまで体系的に解き明かした本も珍しいのではないか。そんな女の本質に少しでも肉薄してみたいキミに、この本は、稀に見る隠れ名著である。ゾっとするほど女の本質・エッセンスが解剖されている。一言でいうと、「恋愛・結婚は、男の人生の一部に過ぎないが、女の人生にとっては全てである」という言い古された格言を、現在までの精神分析学(深層心理)的知見を総動員して徹底的に分析した本である、と言っていいだろう。女性にとって「愛」は、人生の全てを賭けた闘いである以上、あらゆる戦略(ストラテジー)と方法論(メソドロジー)と戦術(タクティクス)が駆使される。“孫子の兵法”も真っ青である。しかも、ここが大事なのだが、論理でなく感情が優位な女性は、そうしたことを無意識的に、すなわち自分で意識しないで貫徹できるのだという。思い当たる。ゾっとする。ホラー映画よりコワイ。しかし心理学などの難しい専門用語はほとんど使わず、非常にこなれた言葉で、しかしクドイぐらいに粘り強く追求しているのが、名著である前著「女は男のどこを見ているか」でも示された著者の真骨頂である。不幸な女性(例えば、いわゆる「ダメンズ・ウォーカー」)は、自分をだましてでも不幸を求める、という、信じられない心理的メカニズムも納得できる形で解き明かされる。そして、周囲を巻き添えにする。例えば、暴力(ドメスティック・ヴァイオレンス)をふるう夫は最低ではあるが、そうなる前にすでに妻の「言葉の暴力」によって数倍傷つけられている、という鋭い指摘などは、正鵠を射ているように思う。暴力夫の心も、ズタボロにダメージを受けている。東京・新宿渋谷バラバラ遺体遺棄・殺人事件が直ちに思い浮かぶ。こういう女に引っかかったら、男の人生も“百年の不作”となること、請け合いであろう。柄の悪い言葉ではあるが、いわゆる「さげまん」か。また、近頃いい女が少なくなったとお嘆きの貴兄にも、目からウロコであることは間違いない。やはり、というべきか、それは親の責任であるという。女は、父親で決まる、ということも、この著者はこの本でもほかの著書でも力説している。恋愛中の男、結婚を意識している男、結婚している男、要するにほとんど全ての成人男子必読の名著といっていいのではないか。すぐ古本屋へ、急げ。納豆と同様、在庫僅少である。〔書物としての総合評価:86点〕
2007.01.14
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人は見た目が9割ヘボ短歌は暮れのうちに詠んじゃったし、新春詠も数首詠んだし、子育てに忙殺されて自宅と会社とスーパー以外はどこにも行かず、代り映えのしない「つらたのしい」(糸井重里)日常が続いており、散文の方もこのところいささかネタ切れの自覚症状があるが、かたや2万アクセスも超えたし、アクセス狙いで“アクセク”することもないかと鷹揚に構えている。細木数子の“六星占術”によると、僕は“水星人のマイナス(-)”らしいので、毎年冬の3ヶ月は、1年間のサイクルの中の“大殺界”らしい(このほかに12年間で循環するサイクルもあるらしい)。水星のマイナスはちょうど季節感と殺界が一致しており、大殺界に動くのは“冬にTシャツで外に出るようなもの”という戒めが割とすんなり腑に落ちる。・・・むろん、100%信じてるワケもなく、話半分に聞いてるけどね。ただ、水星人というのは強靭な意志とカリスマ性で大金持ちになれるとか書いてあるので、この点は120%当たってもらいたい。さて、この「人は見た目が9割」という本、キャッチーなタイトルもあって大ベストセラーになっているようだが、少なくとも僕は意外とつまらなかった。ただ、これは僕が言葉によるコミュニケーションに過度に依存しているせいかも知れない。・・・アフィリエイトの設定をしといて、けなすのもどうかと思うけどね。いわゆる「ノンバーバル(非言語的)コミュニケーション」に関するシンプルな教科書を目指したという趣旨の記述があり、そういう意味では確かにまずまず要領よくまとまっており、著者の携わっている演劇やマンガの表現の具体例は説得力に富み、なかなか読ませる。若い人のこの分野への入門書としては最適であろう。・・・が、どうも食い足りない。そこそこ面白いが、そこそこつまらない。当方の年の功・亀の甲か、大部分の記述が、どこかで聞いたことがあるような、すでにあらまし知っていることを改めて整理しただけみたいな気がするのだ。なんか、30年ぐらい前に、評論家として売り出し中だった竹村健一さんがおんなじようなことを言ってた記憶もある。当時は「ボディ・ランゲージ」、「スキンシップ」という新語として流行語になり、今は普通名詞になったが、要はだいたい同じことだと思う。主として演劇・マンガなどの表現論に終始するのも、イマイチちょっと関係ないかな、という感じで、実はもう少し筆者の生業であるファッション関連小売業に役立つ情報を期待していたのだが、その面ではほとんど全く肩透かしを食らった感がある。僕は、決して他人や人の著書をけなすのは好きではないが、正直ちょっと期待はずれでした。
2007.01.07
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きのうなにげなくFMラジオを聴いていたら、突然炎のごとく、この曲がかかった。ぶっ飛んだ。脳内に、β(ベータ)エンドルフィン(神経伝達物質。快感物質・脳内麻薬ともいわれる)がドバっと分泌された。これはすごいわ。マスターピ-スではないか。まさに彼女の到達した一つの頂点じゃないかと思った。少なくとも僕が長年求めてきたサウンドは、ここに確乎として存在していた。現在までの最新アルバムULTRA BLUEの中の一曲である。ウェブで調べた限りでは、シングルカットされてないらしい。アルバム収録のその他の多くの曲はシングルCDで持っているが、このアルバムも買わないわけにはいかないなと思った。正直、商売上手だなとも思うし、悔しいがやむを得ない。間違いなく、僕にとって最高の音楽だからだ。〔楽曲としての総合評価:96点〕
2006.11.25
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宇多田ヒカル;ぼくはくまう~む、・・・悪くない。なかなかの名曲ではないか。耳に付いて離れなくなってしまった。ちょっと褒めすぎてしまうかも知れないので、その点割り引いて読んでもらいたい。今、2歳8ヶ月になったウチの三人娘たちは大喜びだ。お風呂の中でも歌っている。・・・だが、他愛もない現代わらべうた、と一笑に付すには、このサウンドは深い。陶酔と感動さえ誘われる。全体的に長調(メージャー・コード)であり、ハ長調(Cメージャー)でいえばC、F、G7などのきわめてありふれた和声(コード)進行であるのに、宇多田ヒカル持ち前のメランコリー(憂愁)が全編に漂ってしまう。一聴して、淡々として起伏も少なく、地味なサウンドでありながら、じわじわと心に染み込んでくる。まさにピュアな魂のアートになっている、と言っていいだろう。すごいアレンジャー的才能だと思う。どことなく、ちょっとビートルズ/ジョン・レノンっぽさも感じてしまう。そういえば、ジョンの遺作アルバムとなった「ダブル・ファンタジー」の中で、まだ幼かった息子ショーン・レノンにプレゼントした真情溢るる名曲「ビューティフル・ボーイ」に曲調・メロディライン・アレンジもちょっと似ているような気もする。タイトル「ぼくはくま」も、ジョンのビートルズ時代の最高傑作の一つと言われる「アイ・アム・ザ・ウォルラス(ぼくはセイウチ)」の影響を受けたと見ていいだろう。またエンディングは同じく「マジカル・ミステリー・ツアー」に収められた、ジョンの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」へのオマージュとみてよかろう。名曲「誰かの願いがかなうころ」が「イマジン」の影響下にあることも自明だと思うし、宇多田って、けっこうジョン・レノン・フリークなんだな~と、好感を持ってしまう。・・・むろんこれは、パクったとかそういう低次元の話ではなく、彼女の中で見事に昇華されていて賞賛に値する。大塚愛さま、こういう風にやんないと。なお、長調なのに深い哀愁に覆われるというのは、例えばクラシックでいうと、パブロ・カザルスの弓によるJ・Sバッハ「無伴奏チェロ組曲」の歴史的名演などが頭に浮かぶが、宇多田もいわばこういった資質を持っているのだろう。日本のわらべうたの文脈で捉えてみても、例えば不朽の名曲「夕やけこやけ」は長調であるのに、今思い出しただけでもややウルウルしてくるような哀愁の塊である。秋にふさわしい。やっぱり日本人は「もののあはれ」民族なのだろう。そんなよけいなことまで想起させてしまう力作である。“くまんパパ”を標榜する僕としては、ぜひ十八番のレパートリーに加えなくては。ところで、J-POPシーンをリードしつづける冒険者・宇多田が、今こういう試みをするのは何故だろう?平井堅が「大きな古時計」で新たな地平を見出したようなものだろうか。あれはあれで、すばらしいブレイクスルーであり、大成功だった。それもあると思うが、もしかするともっとリアルな理由、“ご懐妊の兆候”でもあるのだろうか?現在の本名・紀里谷光という若奥様としては、十分ありうることだよね。もしそうなら、それはそれでとってもおめでたいことですね。〔楽曲としての総合評価:74点〕
2006.11.21
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My Little Lover;り・ぼんマイラバ AKKOが帰還した。少し齢を重ねて、ますます美しく洗練された落ち着きを身につけて。小悪魔だったAKKOが、いい意味で“奥様は魔女”になったって感じ。子育て休暇でしばらくのご無沙汰でしたが、2年5か月ぶりの待望の新曲、ついに登場!曲調は、センシティヴで心優しい都会派ポップ・小林武史節全開のハッピーチューン。このタイトル「り・ぼん」とは、Reborn(生まれ変わり、復活)かな~?・・・と僕はニランでます。ご存知の通り、旦那・小林武史は、ミスチル、レミオロメン、Salyu、Bank Band、綾瀬はるかのプロデュースで八面六臂の大活躍中。筆者とは、ほぼ同世代。よく体が持つね~。・・・しかし、子育てでお休み中だった愛する妻AKKOのことも、夢にも忘れていなかった。清楚な歌姫Salyuにばかりかまけていたワケではなかった!!寝る間も惜しんで、ニューシングルに加え、いつのまにかニューアルバムまでレコーディングしていた!!!スゴすぎるパワーだ。〔楽曲としての総合評価:76点〕
2006.11.14
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二人のプラットホームは、どんな場所にでも現れる。 Salyu;プラットホーム11月1日にリリースされた。清冽で静謐でスケールの大きなバラードだ。Bank band with Salyuの「to U」や、先日の「name」など、今年メージャーシ-ンでブレイクし、その超絶の歌唱力を広く知られるに至ったSalyuにしても、作詞作曲・プロデュースの小林武史にしても、悠々としたゆとりと揺るぎない自信が感じられ、それがそのままゆったりと伸びやかでノスタルジックな美しい曲調に反映されている。このようにして、ずっと僕たちだけのマイナーな存在だったSalyuも、時代のディーヴァとして光の中へ飛翔しはじめた。大きな祝福を捧げつつ、一抹の寂しさも禁じえない古くからのファンの贅沢な嘆きは、よくあることではあるが。秘密戦隊アレンジャー歴が長く、小技もけっこう得意な老練・小林選手が、この曲では猪口才なアレンジの小細工を全くといっていいほど弄さず、正統派クラシック音楽の逸品を聴いているような優雅な充実感を覚える。聴こえるか聴こえないかに抑えられたオーケストレーションを従えて、ほとんどSalyuのヴォーカルとピアノとギターだけのシンプルな陣容で紡ぎ出されるサウンドは、あにはからんや、むしろゴージャスささえ漂わせ、気品――高貴な香りといってもいい――を全編に湛えている。歌い出しのAメロは、名曲「彗星」にちょっと似ており、クールで洗練されていて、それでいて温かい、毎度お馴染みの“コバタケ節”全開。流麗なBメロの展開を経てサビに入ると、かつて聴いたことがないような独創的なメロディラインが朗々と歌われる。近頃これほど美しいメロディに接したことはないので、めまいすら覚えた(働きすぎで、少しこちらの体調が優れないせいもあるが)。タイアップ映画の主題曲という性格が、いい方向に作用している。骨の髄からロマンティストの小林武史が、Salyuという魔法のパレットを駆使して思う存分描き出した至福の境地。感動と陶酔のあまり、歌詞についてはまだ十分に熟読吟味してないので、追って若干加筆することとするが、いつもながら研ぎ澄まされた日本語表現であり、かなりいい。おそらく大人どうしの恋愛であろう。しかも遠い昔に知り合った人――同級生か何か――との再会であろうか。また、もう少し大きなもの、人間と人間のコミュニケーションについて歌っているようにも思える。地下鉄のプラットホ-ムというありふれた場所が、銀河鉄道の始発駅のように、生と冒険と物語の出発点になる。なお、僕にとっては割とどうでもいいのだが、深夜の地下鉄の一駅を借り切って撮影したと思われるプロモーションビデオクリップ(PV)の映像は、初期のSalyuのそれに先祖がえりしたみたいな異形(いぎょう)なイメージに溢れ、いい意味でふざけていて、面白くもゲゲッ!である。確かめてないが、たぶん同じディレクターであろう。けっこういいセンスしてるんだ、これが。地下鉄車内で、オカマとかデブ女とかパンク小僧とかゴスロリ少女とか凶暴な目つきをしたオタクとか、澁澤龍彦系やシブヤ系やアンダーグラウンド系など、都市の内なる辺境の狂気を感じさせる群像が引きも切らず出現してくるさまは、グロテスコエロティシズムを垣間見せ、椎名林檎のインチキくさい世界よりよほど説得力ある演劇性と虚飾性を醸し出している。これらは、はっきりいって僕の趣味ではないが、その中で“掃き溜めの鶴”的にたたずむSalyuが、処女懐胎を大天使ガブリエルに告知される寸前の聖母マリア(新約聖書・路加伝福音書、レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」)のごとく凛として清楚であり、なおさら、いっそう、ますます、めっちゃいとおしい。〔楽曲としての総合評価:91点〕――なお、椎名林檎のファンの方からブーイングをいただきました。ごもっともです。ただ、椎名は、あの一種のインチキくささ、パロディ性・パスティーシュ性(意図的知的模倣性)が持ち味です。それはそれで魅力的なワケです。言葉足らずでした。
2006.11.06
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村上春樹 アフターダーク量からいうと長めの中編小説といったところなのであろうが、大長編「ねじまき鳥クロニクル」を読破した後では、短編ぐらいに感じられ、軽々と読めてしまった。妙なものですね。都市の繁華街の一夜の、深夜から朝までの物語である。いつものように、いくつかの物語が同時進行的に展開され、交互に示されてゆく。それらは一見バラバラのようでありながら、深いところでシンクロニシティの中にある。村上春樹十八番(おはこ)の技法である。それぞれの時空のドラマが、くっきりとした像を結びつつ、互いを際立たせ合っているさまは、ニコラーエワの弾くJ.S.バッハ「平均率クラビーア曲集」の対位法のように鮮やかに効果を上げている。i) 少女と青年のボーイ・ミーツ・ガール的な青春ラブストーリー。ii) 少女と女子プロレスラー上がりのラブホテルの女マネジャーとの出会いと対話。iii) 少女の姉でモデルなどをしている美女をめぐる、静物画(スティル・ライフ)的で不気味な“記述”。以上の3要素のパラレルワールド(平行世界)が交互に現れてくる。深夜の「デニーズ」で、高橋テツヤは、高校の同級生で現役モデルの美女・浅井エリの内気な妹で外語大生のマリと出会う。テツヤは法学部の学生だが、ジャズのトロンボーンに夢中。今夜も近くのビルの地下室で、バンド仲間と徹夜で練習だ。マリはここで一晩明かすつもりだった。この第一挿話は、恋愛小説(と恋愛?)の名手として知られた初期の村上を思い出させる軽やかな筆致で、ぐいぐい盛り上げてゆく。二人とも心の奥底に哀しみを抱えており、彼女は一夜の“プチ家出”みたいな気分。また、テツヤの場合はもう少し深刻でトラウマティック(心的外傷的)である。思わず二人の行方に幸あれと祈りつつ読んでしまう。ほのぼのとしてハートウォーミングな展開だ。このエピソードだけでも、優に一つの爽やかな短編青春恋愛小説になっているが、以下の挿話が組み合わされることで、より重層的な味わいが生まれてくる。・・・そのテツヤを通して、少女は近くのラブホテルの女子プロレスラー上がりの巨漢の女マネージャー・カオルと出会う。きっかけとなったのは、そのラブホで起こった中国人娼婦への凄まじい暴力事件。マリは、その語学力を買われて、俄か仕立ての通訳を頼まれる。その美しい不幸な娼婦は、マリと同じ19歳だった。彼女らを取り仕切る中国人マフィアは犯人への制裁を誓う。このあたりのハードボイルドな味わいもさすが。そんなに年輩でもないし、むろん知的でもないが、すでに人生の酸いも甘いも噛み分けたカオルの、上品とはいえないが心優しき言葉がすばらしい。その子分のような従業員のコムギとコオロギがいわばお笑い系コメディリリーフだが、ときどきいいことを言ったりする。村上作品では、本当に登場人物の誰もが生きていて、呼吸している。犯人の男は、家族のいる、一見満ち足りたIT企業のサラリーマンである。残業を終え、セブンイレブンでタカナシ牛乳を買って家に帰る。中国人マフィアの制裁の手が迫っていることなど知る由もなく・・・。そして、マリがいつも比較され、「おまえは器量が悪いから、せめてお勉強ができなくてはだめよ」と言われて育ち、うらやんでいる美女の姉・エリは、昏々と眠っている。“眠れる美女”のように眠っている。そこに、唐突に「視点」なるものが登場し、彼女の寝姿と部屋をなめ回すように観察し始める。この部分のスタティック(静的)に延々と続く記述は、谷川俊太郎の詩の代表作の一つ「定義」における、例えば円錐形の物体についての、精密を極めつつどこか虚しい記述を連想させる。一種の覗き見(ピーピング・トム)趣味的な、エロティックといえばいえなくもない設定だが、次第にそれが、美しさを見つめられるだけの彼女の絶対的な孤独と空虚を示し始めていることに、読者は気づかずにはいられない。そして彼女は眠ったまま、テレビ画面を通過して“そちら”の世界へと行くが、そこは、ここにもまして閉塞的で無機的な広いビルの一室であり、よく見ると、ラブホテルで暴力事件を起こした犯人の男が勤務しているIT企業のオフィスである。そこにじっと座って、彼女を見つめている男は誰なのか?・・・もしかすると、神なのか?なお、和田誠によるハードカバー版の表紙の装丁は、どうもピンとこないというか、内容にそぐわないような気がする。表紙のクールな感じと、心温まるような内容が、シンクロナイズというかコレスポンデンスしていないと思う。なんか勘違いしてるように思われてならない。〔書物としての総合評価(装丁を除く):81点〕ハードカバー(単行本)版、p.244
2006.10.07
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今年(まもなく10月中に発表)の受賞はともかくとしても、“ノーベル文学賞当確作家”といわれる村上春樹の主要作品を、物置から塵を払って出してきて、夜な夜なウンウンうなって精読中。数日前の記事で「村上文学を読め」という趣旨を偉そうに申し上げた手前、僕自身がちゃんと読んだ上で、それなりの“読書感想文”ぐらい書かなければ無責任というもの。・・・嗚呼、何という責任感あふれる、美しい無償の行為であろうか。仕事のことを除けば、当分ほかのことに振り向ける精神的余裕はありません。ブログ書き込みも、しばらくご容赦下さいませ。さて、いきなりあの長大な、これまでの村上氏の代表作とされる現代日本文学の最高峰「ねじまき鳥クロニクル第1部、第2部、第3部」にチャレンジしております。頭が疲れるごとに、合間合間に気晴らしに氏の短編小説を読んだりしてますので、ますますワケが分からなくなるとともに、長引いております吉野家の“美味い、早い、安い”の三拍子になぞらえれば、“上手い、深い、面白い”。・・・ただし、“ムヅカシイ”を加えた四拍子ざんす。 ううむ、でぃふぃかると とぅー あんだーすたんど。しかし、思ったよりもはるかに、ワクワクゾクゾク面白いのは本当です。しかしすごいな~、現代のアンニュイな日々のディテイルの抜群に上手い描写から、あの一連の「昭和戦争」の発端となったソ満国境(現・中露国境)の「ノモンハン」の死屍累々の光景へ、時代を引き受けた作家の想像力の翼の飛翔と逍遥。すばらしい。もうしばらくしたら、僕もこの“旅”から帰還し、土産話の一つもしたためることにします。・・・が、それがいつになるのか、見当もつかない。
2006.10.01
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放送禁止歌昨夜、村上春樹作品のレビューを書こうと久しぶりに書斎(物置)を漁っていたら、この本が目に付いてしまい、一気に読了してしまった(笑)。この子よう泣く 守りをば虐(いじ)る守りも一日やせるやらどしたいこりゃ きこえたかかつて僕らが思春期の入り口に差し掛かったころ、「赤い鳥」というフォークソングユニットが出現した。その飛びぬけて美しいハーモニーに、僕は即座にとりこになった。彼らはやがて“ニューミュージック”といわれたシティポップス・トリオの「ハイファイセット」と、シンプルな正統派フォークデュオの「紙ふうせん」に分裂してそれぞれ活躍したが、赤い鳥としては、「翼をください」と「竹田の子守唄」という二つの大ヒット曲を残した。「翼をください」は、サッカー日本代表チームへの“自然発生的公式応援歌”(?)となったことは記憶に新しいが、これに優るとも劣らない「竹田の子守唄」の方は、彼らの資質が十二分に生かされ、研ぎ澄まされた完成度を持つ名曲だった。僕はこの曲の歌詞で、日本語の文語文の美しさに痺れた記憶がある。それにもかかわらず、この曲がテレビ・ラジオで流されることは、長い間全くなかった。・・・そういえば、あの曲はずいぶん長いこと聴いてないな、と時折疑問が頭をよぎっていたが、1999年5月、フジテレビで放送されたドキュメンタリー「放送禁止歌」と、これに先立って内容を伝えた「週刊文春」によって疑問は氷解した。この曲が大ヒットしてしばらくした1980年ごろ、詳しい経緯は闇に包まれているが、事実上の“放送禁止歌”になっていたのだ。 正式には、日本民間放送連盟(民放連)が1959年(昭和34年)に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」で定められた「要注意歌謡曲」という“ガイドライン(目安、指標)であり、本来は罰則など拘束力はなく、また、すでに廃止されたという。この制度が存続している間、改定が繰り返されてきたが、古い資料は残っていないという(取材に対し、テレビ局関係者が匿名を条件にするなど、非常にナーヴァスになっている様子も、迫真力を以って迫ってくる)。これがいつしか一人歩きし、事実上放送関係者のタブーとなり、NHKも事実上ほぼ同様の取り扱いをしているという。 著者が入手した、昭和58年11月改定の(廃止前の最後の)「放送音楽などの取り扱い内規・一覧表」では、Aランク「放送しない」、Bランク「旋律は使用してもよい」、Cランク「不適当な個所を削除または改訂すればよい」などと、「ガイドラインであり拘束力はない」としている割には非常に詳しく区分されているのに驚く。本書では詳しくは解説されていないが、原由子「I LOVE YOUはひとりごと」はAランク、ピンクレディー「S・O・S」はCランクだという。そのほか、岡林信康「手紙」、「チューリップのアップリケ」、「ヘライデ」、「くそくらえ節」、フォーク・クルセイダース「イムジン河」、高倉健「網走番外地」、丸山(美輪)明宏「ヨイトマケの歌」、高田渡「生活の柄」、「自衛隊に入ろう」、泉谷しげる「戦争小唄」、「黒いカバン」、民謡「五木の子守唄」、わらべうた「かごめかごめ」、「通りゃんせ」なども事実上の放送禁止となっている(「・・・いた」と過去形になったと言い切れるだろうか?)。なお、今や演歌の大御所・北島三郎の昭和37年のデビュー曲「ブンガチャ節」(星野哲郎作詞、船村徹採譜)も、歌詞が猥褻だという理由で放送禁止になったが、却って宣伝になり、第2弾「なみだ船」のヒットにつながったという。なぎら健壱「悲惨な戦い」も似たところがある。この曲に日本相撲協会がクレームをつけたというのは伝説に過ぎず、むしろ歌詞の中の「NHK」という言葉が逆鱗に触れたのではないかとも囁かれている。なお、USEN(旧・大阪有線放送)ではこの曲のライブ版のみ流しており、そこでは“イヌHK”と発音しているという。このライブ版は、当時喫茶店かどこかで笑いながら確かに聴いたが、そこまでは気が付かなかった(笑)。北島三郎といえば、大ヒット曲、“♪親の血を引く兄弟よりも~”の「兄弟仁義」も、テレビ・ラジオでまず流れることはない。この本は、困難を極めたその取材過程と、多くの“放送禁止歌”の歌詞全文、それが指定された経緯などについて、上記番組のディレクターが詳細に綴った名著である。音楽や詩詞に興味があるものは必読といえる。感動的なルポルタージュだ。「竹田の子守唄」の原曲を追って、京都府下の同和地区・竹田に分け入っていくラストは圧巻で、推理小説を読んでいるようなサスペンスさえあり、掲載されているこの歌の原詞全文は涙なくして読めない。かつて洪水があれば真っ先に水没し、伝染病が蔓延する劣悪な低湿地だった(現在は改良)竹田の場所は、太閤・豊臣秀吉(実際はその能吏の石田三成あたり?)が定めたものだという。久世の大根めし 吉祥の菜めしまたも竹田のもんば飯どしたいこりゃ きこえたか(もんば:おから)なお、「赤い鳥」ヴァージョンの“2番”の歌詞「盆が来たとて何うれしかろ/帷子(かたびら)はなし帯はなし」は、フォーク歌手・高石ともやが愛知県の民謡から抜粋して入れたもので、原詞にはないなど、考証も仔細を極めている。デーブ・スペクターに聞くアメリカの事情も面白い。さすがに放送局やスタッフの独立性は強く、日本のような一律の“放送禁止曲”はないというが、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の、ロック史上に輝く名曲「雨を見たかい? Have You Ever Seen the Rain?」は事実上放送禁止に近いという。僕はこの曲1曲を聴きたいがためにCCRのベスト版を買ったぐらいだ。案の定、ほかの曲はほとんど下らなかった(笑)。僕もかねてより、「僕は知りたい。晴れた日に降り注ぐ雨を、君は見たことがあるかい? I want to know / Have you ever seen the rain / Comin' down in the sunny day?」という、一見平明な歌詞には、何かワケがあるんだろうなとは思っていたが、これはベトナム戦争で降り注いだナパーム弾(ガソリンなどが入っており、着弾地点周辺は焼け野原になる)のことだという。映画「地獄の黙示録」の戦闘場面で森を焼き払った、アレである。また、イギリスBBCは、フォークランド紛争、湾岸戦争、9.11同時多発テロなどの“有事”のたびに、一時的ながらジョン・レノンの名曲「イマジン」を放送禁止にしたという。理由は明確ではないが、勝手に憶測を逞しゅうすれば、この曲(歌詞)の持つラディカルな思想性が、予期せぬ反応を呼ぶことを恐れたのか、あるいは味方に厭戦気分をもたらすことを杞憂したか、そんなところだろうか。この本が発行されて以降、妻・原由子も放送禁止を食らったことのあるサザン桑田が、「ヨイトマケの歌」を放送で公に歌ったりして、わずかに反応はあったが、全体の状況としてはほとんど変化はない。紙ふうせんは、「竹田の子守唄」を持ち歌として、原詞により近い形で大事にライブで歌いついでいるそうだが、放送では相変わらず幻のままである。
2006.09.30
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共同通信配信記事によると、イギリスのブックメーカー(賭け屋)が予想した、作家・村上春樹の今年のノーベル文学賞受賞の下馬評オッズは34倍で、まだ「穴」扱いだが、18位につけているという。まあ、今年の受賞の当否はともかく、村上が「夏目漱石以来もっとも重要な作家」(文芸評論家・福田和也慶大教授)と見なされ、現代日本文学の最高峰であり、いずれノーベル文学賞に輝くことは、あらゆる玄人筋に当然視されており、一致した見方である。現代日本人である僕らが、その真価に一番無知なのかも知れないが、灯台もと暗し、同時代人というのは得てしてこんなものである。それにしても、世界文学の頂点ということは、オリンピックでいえば金メダル。とてつもなく凄いことである。現代日本の作家には珍しく、カート・ヴォネガットやレイモンド・カーヴァー、サリンジャーなどアメリカ現代文学の強い影響下に出発した村上氏は、それゆえに“反米左翼色”の強かった当時の文壇から異端視され、芥川賞にはスルー/シカトされ、よしもとばなななどなどとともに、“大文学賞処女”として知られる。そのため逆に、彼らをノミネートの評価すらできなかった芥川賞などの権威が揺らいだとさえ言われている。見方によっては、痛快な出来事ともいえる。・・・というわけで、恋人・友人に尊敬の目で見られたいキミ、村上氏がノーベル賞を獲ってしまう前に、村上文学を読んでおこう。特に、相手が、いわゆる“文系女子”だった場合、読んでなければ致命的だ?騒然たる話題になってしまってからでは、もう遅いこれまでの代表作とされるのは、「ねじまき鳥クロニクル 第1、2、3部」、近作の「海辺のカフカ 上、下」、「アフターダーク」などであるが、タイトルをちらりと見ただけで薄々お分かりだろうが、正直言って相当手ごわいことは保証する。現代という時代のカオス(混沌)を、そのまま鷲づかみに、時に象徴的に、丸ごと捉えようとする意志が胸に迫るが、文体は比較的平明であるものの、意図が読めなかったり、何が書かれているのか分からなかったり(笑)、読む側にもそれなりの気合と覚悟が要求される。 〔画像は文庫版、テキストリンクは単行本にリンクしています〕あの親しみやすいトッチャン坊やみたいな顔に似合わず、村上氏の内面の海は想像以上に豊かで深い。ついていくのはなかなか大変である。子供のころから本食い虫で、同級生の女の子たちなどには常に憧れのまなざしで見られ、少々の難解・晦渋さごときには慌てず騒がずたじろがない僕が言うのだから間違いない!?・・・ムヅカシイ。やはり、メジャーデビューとなった若書きの「風の歌を聴け」、ビートルズの曲からタイトルを取った「ノルウェイの森」あたりから入るのが無難だと思う。これらは比較的読みやすい青春・恋愛小説だ。それぞれの作品の内容面については、ざっと読み返してから、加筆します。
2006.09.29
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SALYU NAME私は、音楽プロデューサー小林武史氏と歌姫(ディーヴァ)Salyuのフリーク・崇拝者・狂信者なので、若干評価が甘くなっているのは否定できません。実りの秋を迎えて、J-POP今年最高の収穫の登場だ。スピリチュアリティとナチュラリティを強く感じさせる創造者・小林武史と、現代日本に降誕したエーデルワイス、セイレーン Salyuの優美にして緩急自在の超絶のヴォーカルの結合が、一青(ひとと)ヨウ【穴かんむりに幼】の優れた現代詩ともいうべき歌詞を得て、また一つの音楽の奇蹟を現出させた。サウンドは、My Little Lover以来の、小林氏十八番の“コバタケ節”全開。悠々としてルーズでリラクゼイション感があり、ゆったりとしたグルーブ(昂揚)感を持つミドルテンポのロックバラード仕立てになっている。それでいて自由自在に飛翔するメロディラインと、ときおり挿入される複雑な和声(コード)進行と絶妙な不協和音のスパイスの陰翳を加えて、洗練され研ぎ澄まされた完成度を示している。迫力はあるが、ちょっとバランスを崩して上げすぎかと思われたドラムスの音量は、サビの部分で完全に融け入って、計算され尽くしたものであることが分かる。秘密戦隊アレンジャー歴数十年のキャリアは伊達ではない。ますます冴え渡るSalyuのヴォーカルは、J-POPシーンに綺羅星のごとく犇(ひし)めく歌姫たちの上に晧々と照りわたる望月(もちづき)のように美しく、聴く者を眩(まば)ゆい妙なる響きで抱擁する。一青ヨウによる歌詞は、女性のプリミティヴなエロスを湛えた、いわばその中であらゆる生命が誕生し育まれる一つの湖のような小さな宇宙を想わせ、メージャーシーンでやっとブレイクした感のあるSalyuにふさわしい花やかさのある詩になっている。プロモーション・ビデオクリップ(PV)の映像によれば、この詞は、妊娠と出産と生命の誕生がコンセプトになっているらしい。コンセプト(概念)concept という言葉が、孕(はら)む・妊娠するconceive の過去分詞(「胚胎したもの」)を語源とすることを思い起こさずにはいられない。一青ヨウが小林武史と組んで作詞するようになってから、明らかに詞のテクスチャー(質感)が変わった。「さざ波雲見て驚いた学者」だの、「パパから言われた内緒話それはね/あたしの身体にすごく大事な場所があるということ」など、お嬢様系かつファンタスティックでエロティックなフレーズは、これまでの My Little Lover や Salyu の歌詞、すなわち小林氏の辞書には(微妙に)なかった種類のボキャブラリーである。優れた表現者のアレンジメントなどのサポートをする中で、自らも高めてきた小林氏の新戦略であり、それは成功している。それがさらに、Salyuの清楚で品のいい、素直で気立てのいい、ふくよかでエレガントな、それでいて時にある種の狂気(いわばドストエフスキー的意味での“無垢としての白痴”)を感じさせる個性に、見事にハマッている。・・・ただ、個人的には、小林氏が自身で書いた詞の方が、ナチュラルでどことなくアマチュアっぽいヘタウマさがあって、僕は好きかも知れない。それにしても、「(あたしの体の)6個所以上のステキな場所」って、例えばどこだろうか?創造力と妄想力を喚起し、掻き立てまくる見事な現代詩だ。ところで、PVの最後に新生児の母親役でワンシーンだけ登場するスッピン魂の女性は、もしかして小泉今日子さまだろうか。かつて小林は小泉の楽曲のアレンジをやっていた仲だから、ありえない話ではない。歳を重ねてますますナチュラルで美しい今日子姫、とてもよく似合っている。〔楽曲としての総合評価:93点〕小泉今日子についての拙作短歌集 昨日 今日 東京Salyuオフィシャルウェブサイト Salyu.jpこのレビューは、音楽ファンサイト Oops! Music Communityに転載します。
2006.09.25
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Daniel Powter ; Free Loopカナダ出身の超大型新人シンガー&ソングライター、ダニエル・パウターの大ヒットしたデビューシングル「BAD DAY~ついてない日の応援歌」に続く、デビューアルバム“ダニエル・パウター DANIEL POWTER”からの第2弾シングルカット。今回も、歯切れのいいピアノを主体とした美しいサウンドに乗せて、彼の爽やかなボーカルがライトなロックバラードに炸裂している。30代でやっと売れたという遅咲きの花らしく、本当に味がある。苦節10数年(?)の間に溜めこんだタンスの引き出しも、まだまだ出しきれないぐらいあるだろう。今後ますます楽しみだ。私はスペースシャワーTVの録画(歌詞なし)で見ているので、活字の歌詞は入手していない。早口もあって、私の乏しいヒヤリング能力ではほとんど聴き取れないが、やはり人生の哀歓を歌っているように思われる。すでに「BAD DAY」の歌詞がそうだったが、明るく軽やかな曲調とは裏腹に、けっこう深くて小難しい詞になっているような気もする。英文でいいから、どこかに歌詞カードがないか検索してみて、見つかればまた下手な翻訳を試みてみたい。〔楽曲としての総合評価:82点〕
2006.09.24
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フラガール(本)僕の記憶では、日本初のヘルスセンターであった、創業期の「常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)」が登場した映画がすでにある。「喜劇・一発勝負」(1967年・昭和42年松竹、山田洋次監督、ハナ肇主演)である。すでに音楽の山本直純をはじめ、スタッフやキャストの一部も寅さんシリーズを支えた「山田組」が確立されていた。「常磐ハワイアンセンター」の開業が昭和41年だそうだから、何と翌年というすばやさである。「男はつらいよ」シリーズ開始直前で、若くて生きがいい喜劇監督だった山田洋次のブラックユーモア溢れる痛快作である。ネット上で批評を見ると、「全く救いがないドラマ」という評もあるが、少なくとも僕は大いに笑って楽しめた。と言っても、「常磐ハワイアンセンター」創業の実話がそのまま描かれたワケではなく、親子関係をモチーフにした人間喜劇であった。「常磐ハワイアンセンター」は、「男は一発勝負だ」が口癖のハナ肇演ずる大ボラ吹き男が、まんまと成功して築き上げた「ヘルスセンター」として登場するに過ぎないが、周りから白い目で見られ、気狂い扱いされながら一つの全く新しいことを成し遂げるという創業の苦労と悲哀は、笑いの中にひしひしと伝わってきた。今回の「常磐ハワイアンセンター」創業秘話である映画「フラガール」は、前評判も高く、あらすじや事前の各種批評を読んでいるだけでもウルウルしてくるぐらいだ。ダンスの先生役の松雪泰子の“タカビー”な個性もバッチリハマっているようだ。映画「フラガール」オフィシャルウェブサイト
2006.09.24
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「オタク」って、いったい何なんだ? 戦闘美少女の精神分析画像は単行本、テキストリンクは文庫版にリンクしています。オタクって、いったい何なのか?オタクたちの聖地・秋葉原を発信基地とする、あの独特のカルチャーは、いまや“coolな(カッコイイ)現代日本文化”の代表として世界に認知されている。その文化は、ジャパニメーションといわれるアニメーション文化と深くリンクし絡み合いながら発達してきた。さきほどお昼時、TBS系の「王様のブランチ」を見てたら、堺正章・孫悟空、夏目雅子・三蔵法師の「西遊記」(日テレver.)特集をやってて、懐かしかった。西田敏行の猪八戒も、今思えばスゴイよね。僕ら、現在40代の人間は、子供の頃は“実写”の“男性のヒーロー”と“聖母のように優しい女性”を見て育った。むろんすでにアニメーションはあったが、明らかに一段低いものとみなしていた。また、男女のキャラクターは、アニメでも同様であった。・・・もっともこの本によると、「パーマン」に出てきた「パー子」も、戦闘美少女の系譜の中でしっかりと押さえられている。う~む、鋭い。今でも、アニメには乗り切れない。周りがみんな褒めるので宮崎駿作品はあらかた見たし、多少は良かったのもあるが、ほとんどは社交辞令で感動したフリはしながらも、ほとんど興味の外にある。確かに、「千と千尋の神隠し」の和風を基調とした幻想世界は良かった。「魔女の宅急便」の国籍不明ながらヨーロッパのステキな部分をかき集めてごっちゃにしたみたいな閉所恐怖症のない世界もすばらしかった。もちろん「となりのトトロ」の、僕らの世代が生まれたころの田舎の風景と幻想は、たまらなく懐かしいデジャヴ(既知感)だった。・・・なんだ、けっこう好きなんじゃねーか。ただ、アニメには光と形と色彩の乱舞はあるが、空気がない。画面に風が吹いてない。また、優れたアニメであればあるほど、作者の強烈な自我が迫ってきて、書物ならば一休みしてコーヒーブレイクもできるが、映画館やテレビOAではそれもままならない。ゆえに息苦しい。ビデオで見るほどの興味は薄い。現在の日本のアニメの美少女たちは戦闘してしまう。今日土曜日の朝9時からはテレビ東京(JOTX)系で「おとぎ銃士 赤ずきん」とかというのをやっていて、子供たちは喜んでみているが、何と赤頭巾ちゃんや白雪姫までがワグナー「ニーベルングの指輪」のワルキューレの乙女たちみたいなコスチュームを身にまとって命がけで戦ってしまう。・・・こりゃ、考えてみれば奇観ですだ。アメリカ(ハリウッド)でも戦うヒロインはいるが、ワンダーウーマン、チャーリーズ・エンジェルズ、et cetra、いずれも成熟した大人の女性の設定である。これが日本ではロリータになる。確かに、“綾波レイ”は何歳ぐらいの設定だったのか知らないが、ちょっと可愛いと思わないでもなかった。・・・が、あの長大な「新世紀エヴァンゲリオン」を見通す気にはとてもなれない。しかも、人造人間だったんだって? ゲゲッ!・・・である。新約聖書の福音書(エヴァンゲル)でも読んでる方がマシだ。どこまでも、普通の大人の成熟したオンナから闘争ならぬ“逃走論”なワケだね。そんなこんなで、オタクという“人種”(この用法では、放送禁止用語)は、理解の限界効用の外だったが、どこから発生し、どういう感覚を持っているのかには、かねてより興味があった。・・・が、なにぶん、社会的に「オタク」という言葉が認知されたのは、あのおぞましくも気持ち悪い「宮崎勤事件」であったことは、やはりまぎれもない事実である。オタクをめぐっては“二人の宮崎”がいるワケだ。いささか近寄りがたいものがある。こういう分析に関しては、心理学・精神医学からアプローチするのが、現代の王道である。とりわけ、深層心理学を齧ったことがあるものなら、アニマ(男性が潜在意識・下意識・無意識に抱く理想の女性像)を探るのが早道であることはすぐに分かることだ。こうしたアプローチにおいて最適任者であり、「(社会的)ひきこもり」の名付け親(ゴッドファーザー)として知られる気鋭の精神医学者で評論家の斎藤環氏が渾身の力で書き下ろした大著であり、「オタク通史」でもある。著者自身、オタク文化にどっぷりと濃厚に漬かってきた“事情通”であるらしいことが透けて見えて、面白い。私は単行本上梓の時点で読み、その個別具体的な記述と分析の面白さに巻を置く能(あた)わず、であった。・・・かといってオタクたちに共感できたかと問われれば、それはのままではある。だが、本書が第一級の書物であることは疑いないと言っていいだろう。〔書物としての総合評価:83点〕
2006.09.23
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「いい人」は成功者になれない!王様文庫著者:里中李生 出版社:三笠書房 サイズ:文庫/218p発行年月:2005年03月ISBN:4837962807 本体価格 505円 (税込 530 円) 送料別人生いかに生くべきか。僕も男の端くれであるせいか、とりわけ男の人生論みたいのは(さほど興味がないつもりだったが)、思い返せばけっこう読んできてしまっている。前回ご紹介した諸富氏の著書は、誠実で真面目だが慎重でやや煮えきらないところがある、多少要領の悪い旧友といった感じで、一生付き合えて折々読み返したくなる穏やかな効能の漢方薬みたいなものだろうか。比べて、こちら里中李生氏の書き下ろしは、またなんとも強烈な即効性のある劇薬である。若くて元気な男にはバッチリ利きそうだが、すでに無力感に打ちひしがれている男には毒気が強すぎて鬱病になってしまうかも知れない。一読、スカッとする。全編、“竹を割ったような暴論”である。「勝ち組・負け組」の格差社会を全肯定、というか、自明のデフォルト(初期設定)として、今は貧乏・不遇でもいいから這いあがってみろという主張は、よくも悪くも単純明解だが、心臓神経症という重い病に長年苦しんだ末、それを克服して成功した著者の苦闘が、本書に重みを与えている。現代という時代に対する怒(いか)りも、ひしひしと伝わってくる。また、男尊女卑といわれても構わないとばかり、女はバカでも優しいのがいいというような、フェミニストが聞けば目を剥きそうな主張も堂々と展開されているし、現にオフィシャルウェブサイトなどでは攻撃を受けているという。・・・とはいえ、何も「悪い男」になれ、と言っているわけではなく、男の本音とともに、生き方の指南書として大筋真っ当なことが書いてあると読める。文章が上手いのも見逃せない。研ぎ澄まされた文体は、かなり苦心して編み出したもので、非常に遅筆だという。読みやすけれども、ナメてはいけない重さがある。例えば著者が政治・宗教組織にでも入っていたら、一流のアジテーター(煽動者)になれていただろうなんて思う。ただ、「成功者」の実例としてホリエモンを挙げてしまっているのは、この鋭い著者にして“弘法も筆の誤り”、ご愛嬌ではある。〔書物としての総合評価:73点〕
2006.09.22
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諸富祥彦 さみしい男意識の拡大などを追究するトランスパーソナル心理学の権威で、現在トップランナーの臨床心理学者・諸富祥彦千葉大助教授が、逼塞した現代日本の、元気のない男たちのさみしい精神状況を、透徹した知のメスで仮借なくリアルに抉り込む。先日ご紹介した、小谷野敦「もてない男」と、かなり重なり合うテーマなのだが、本書のテクスチャー(風合い)・読後感は天と地ほども異なる。「もてない男」が、ずいぶんユーモラスな、“贅沢な悩み”であったことが、改めて再認識される。なお、文中で「もてない男」にも言及、評価しており、いわばリンクしている。この本を読んでいると、危機感という以前に、暗澹たる絶望感で一杯になる。友人知人や周囲の男たちを見渡しても、現代日本の精神状況は、確かに異常事態といっても大げさではないと思う。リアリティを大切にする大人の貴兄に。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。基本的な心の構えとして楽天的であることはとても大切だと思うが、時には悲観的思考に触れることも、大人の嗜みというもの。読書という形で、時には精神的に落ちるとこまで落ちてみるのも、“心のごはん”です。秋の夜長に、“絶望”を肴にウヰスキイのオンザロックでもチビチビやるのは、ある意味究極の心の贅沢かも知れません。いやホント。・・・そして、この暗闇の中に、かすかな希望の光はほのめき出す。おとといの夜と昨夜、睡眠時間を削って急遽読み返してみた。その結果、やはり著者らしく誠実な本だと思った。ただ、率直に言って、状況の現状分析の犀利さに比べ、解答というか処方箋の部分は少し抽象的であり、わずかに口ごもりがちであり、やや食い足りないとも思った。ただ、確かに数学の問題を解くのとは違う。明解な答えがあろうはずもなかろう。この辺は、よく言えば、根拠もなく物事を一刀両断しない“学者的良心”なのであろうが、悪くいうとインテリの弱さも垣間見られる。私はこの著者の本はかなり読んでおり、「〈むなしさ〉の心理学」、「生きていくことの意味」、「トランスパーソナル心理学入門」などいずれも名著であり、日本人には珍しくいい意味の粘着性があって、一つのテーマを粘り強く考え抜いてゆく思考の強靭さは、言うなれば“ドストエフスキー的”ですらあるとも思われ、絶大な信頼を置くとともに深く尊敬している。それでいてヴィヴィッドな若々しさをもつ今風の文体は非常に読み易く、楽しい。わけても、著者・諸富祥彦氏が1997年に発表し鮮烈なメージャーデビューを果たした(?)「〈むなしさ〉の心理学」は、すでに著者の問題意識と思索の核心部分が出揃っており、10年に一冊ともいうべき名著であった。この夏話題になったドラマ「結婚できない男」が他人事だと笑えない“最後の大物”であった私は、「〈むなしさ〉の心理学」の初版本を読んで結婚できた。より正確に言えば、結婚する踏ん切りがついた。・・・これ、マジです。今は3人もの子宝に恵まれ、子育てに嬉しい悲鳴の毎日である。後になって、「○子ちゃんが、『○○君(私の本名)と結婚すれば良かった』と言っていたよ」とか、いろいろ聞こえてきた。それならそうと、早く言ってくれれば善処したのに~。ともあれ、諸富氏は、私から見て歳はやや下だが、一生の恩人レベルの哲人・大賢人である。ただ、そういう基礎的認識の上に立った“応用編”である本書では、現代日本の暗澹たる状況を眼前に、立ちすくんでいる誠実な魂の戸惑いと、激しく、しかし静かな怒りが全編に満ち溢れている。事実、本書のエピローグ(結語)では、男たちよ、もっと立ちすくめるだけ立ちすくめ、怒れ、闘争心を持てと言っている。英雄待望論が勃興していることも示される。結論部分で、アカデミズムに身を置く著者はやや煮えきらないが、私なりの解釈・感想で勝手に敷衍すると、例えば(すでに没落しつつあると言われるが)身勝手、自堕落で一方的な主張を押しつけてくるジェンダーフリー・過激派フェミニズムという名の、ルサンチマン(怨念)にのみ基づく破壊勢力などは、さしずめ主敵であろうか。特に上野千鶴子・東大教授を首魁とする過激な一派などの言っていることは、とても正気の沙汰とは思えない。私も男女共同参画社会の理念については賛成であるが、この問題を真面目に考えたい人たちからも浮き上がっているように思われる。この問題については、「なぜフェミニズムは没落したのか」に詳しい。きわめて具体的でメチャクチャ面白い本であるが、フェミニズム陣営内の内ゲバという側面もあり、未だに全体像が掴めない私なのである。また、私は女性には嫌われたくないので、この問題に深入りして失言することを恐れます。小泉純一郎政権の登場も、こうしたコンテクストの流れの中で捉えられるように思う。細木数子氏の異様なまでの人気ぶりも、フェミニズム的言説状況への、保守派からの強烈な反作用であるとも見られる。 諸富祥彦 さみしい男いま、日本の男たちは、本当に元気がない。中年男の多くは、家庭ではうっとうしがられ、会社では上司と部下の板ばさみに遭い、どこにも自分の居場所を持てずにいる。若い男たちにしても何事につけ消極的で、女を口説くことすらできない。いったい、日本の男に何が起きたのか?なぜ、かくも「さみしい」のか?本書は、「さみしい男」から抜け出す道を探り、これからの男たちの生きる指針を提示する。 【目次】はじめに―あなたのまわりの“さみしい男”第1章 さみしい男たち第2章 働きたくない男第3章 「働かないシンドローム」の積極的な意味第4章 家庭に“居場所”がない男第5章 コミュニケーションできない男第6章 恋愛しない男第7章 セックスしない男〔書籍としての総合評価:83点〕
2006.09.22
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タバスコ・チポートレイ・ペパーソースTABASCO® CHIPOTLE™ PEPPER SAUCEアメリカで大ブーム!本格スモーク風味、ついに日本上陸!!150mLボトル×12本価格 7,200円 (税込) 送料込最近(普通の赤い)タバスコを買ったら、小さいチラシが入っていて、スモーク風味のタバスコだという。辛いもの好きであり、けっこう新しもの好きでもある私は、さっそくそれとなくスーパーの棚を見て回っているのだが、こちら地元・宇都宮市では全く発見できない!以下、商品説明文だそうです。これでやっと、アフィリエイトらしくなった(?)〔商品説明〕 Chipotle・チポートレイと発音します。真っ赤に熟したハラペーニョペパーをペカンなどの硬木の煙でじっくり燻してはじめて香り豊かなチポートレイペパーに生まれ変わります。そんな古代アステカ族の人々が考案した伝統的製法をいかしたチポートレイペパーをたっぷり使った本物のスモーク味。これまでに無いスモークの味わいと辛味の絶妙なバランス。辛さだけでなく、ソースとしてのバランスを最大限に考えたソースだからこそ、ステーキ・焼肉・バーベキューなどの肉料理の美味しさを新発見できます。業務用はもちろん、辛党のお友達を集めて共同購入はいかがですか?
2006.09.19
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おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな 芭蕉 もてない男 ――恋愛論を超えてちくま新書著者:小谷野敦 出版社:筑摩書房 サイズ:新書/199p発行年月:1999年01月ISBN:4480057862 本体価格 680円 (税込 714 円) 送料別帰ってきたもてない男 ――女性嫌悪を超えてちくま新書著者:小谷野敦 出版社:筑摩書房 サイズ:新書/215p発行年月:2005年07月ISBN:4480062467 本体価格 700円 (税込 735 円) 送料別東大大学院修了の学術博士、現代日本の若手論客を代表する気鋭の知識人・評論家であるから、文筆家としてのファンや、学者仲間の女友達はいるらしいが、恋愛の対象としては全く相手にされず、モテない男である著者(かといってアブノーマルでもないらしい。ただ、身のほど知らずの面食い・美女好きであるという)の、ルサンチマン(怨念)に溢れた“反・恋愛論”。著者によれば、ほとんどの現代人は、“恋愛教”という新興宗教に洗脳されているという。さすが文学評論を業とするだけあって、恋愛、結婚はもとより、妾/愛人、そしてオナニーの歴史(?)をめぐる考察など、これまで誰も手を着けなかったニッチ(隙間)な分野の分析は驚くばかりの精緻を極め、例えば「源氏物語」は、かつて「オナニーのおかず」だったという指摘など、目からウロコで口アングリの鋭さである。天才的な筆致の文才によって、ちりばめられた自虐的ギャグに抱腹絶倒させられつつ、人生と男女の仲について深く考えさせられる好著。・・・子供には毒か?見方によっては、私怨が“思想”に転化する(例えばマルクス主義みたいな)ザマを自ら演じて見せ、嘲弄した??読後感に残る侘(わ)び寂(さ)びは、もののあはれの逆説的源氏物語か???〔総合評価:79点〕
2006.09.19
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この記事を15日に書きこんだところ、大変大きな反響があり、少々ビックリしました。また、初めてアフィリエイト(インターネット上での物品販売の仲介・紹介による手数料報酬システム)でのポイント(収入)もつきました。こういう分野に皆さん興味があるんだなと痛感しましたので、加筆修正・推敲の上、ここに再録します。私はこういうジャンルに昔から興味があり、わりあい得意分野と自認していますので、今後も追い追いご紹介してまいります。なお、私には書店経営の旧い友人がおり、書籍の利幅が極めて薄いことはかねてより聞いていますので、本のアフィリエイトで儲けることなどは、土台無理であろうと承知しています。自分の好きな本を紹介でき、喜んでいただければ結構です。・・・うう、美しい無償の行為だ~、ニャハハ~。一人でできる催眠入門 自信がつく、ストレスが消える、健康になるカッパ・ブックス著者:門前進(早稲田大学教授) 出版社:光文社 サイズ:新書/208p発行年月:1997年03月ISBN:4334005829 本体価格 781円 (税込 820 円) 送料別 これは名著です。私はこの本に書かれた方法はずいぶん前にマスターし、今も時々やっていますが、リラックスして自己催眠状態に入った時の気持ちいいこと、時間の経つのを忘れます。法悦といっても大げさではありません。眠れない夜など、待ってましたとばかりやってます。ストレス解消に、自己の下意識(潜在意識)を含めた内面の凝視に、確かにいい。私は、10代の頃からこういう方面に関心があり、精神分析学を拓いた元祖のフロイト、それを批判的に発展させた元弟子のユング、これらの分野の日本での第一人者・河合隼雄、秋山ちえ子氏の著書などを手始めに、心理学、性格論、精神医学、自律訓練法などの書物をずいぶん読んできました。河合隼雄氏を尊敬するあまり、自分の娘の一人の名には「隼」の字を使ったぐらいです。ただ当時は、今から思えば高価で堅苦しい文体の学問的大著が多く、読むだけでも大変で、よしんばそこに書かれたことは了解できても、自分の人生やライフスタイルへの応用・実践となるとなかなか難しく、隔靴掻痒の感を免れませんでした。’90年代半ばになって、書籍出版の世界では新書ブームが起きました。諸学問の尖端分野でも、それまでのアカデミックで精緻な大著は敬遠され、もっと一般大衆・しろうとが簡単に読めてリアルに実践できるエッセンス・「さわり」の部分だけ要約した本が欲しいというニーズがかつてなく昂まり、出版革命とまでいわれました。その流れは現在も続いており、口述筆記のカジュアルな文体が評判となった「バカの壁」、「国家の品格」など、いずれも廉価な新書版の名著が続々登場していることは記憶に新しいところです。この本もそうした全般的な流れの中で現われた好著で、精神分析・深層心理・潜在意識などの学問的集積、理論的な説明などはごく簡単に触れるにとどめ、内容のほとんどを、とても分かりやすく易しい文体で、自己催眠の実践のライトニング(啓蒙)に費やしています。この本に出会った時、それまでの膨大な読書は一体何だったんだと、やや悔しささえ感じました。それほどアマチュアにとっては、簡明で具体的な記述の、この分野の決定版的な本だと言えます。――あらゆるストレス性の疾病は、非言語的で、いわば“ワガママな”下意識(「無意識」ともいう)と、これをコントロールし、ややもすると抑圧しがちな意識(超自我super-ego)の分裂・乖離によるものであることは、最近はかなり知られるようになってきました。こうした状態では各種の神経症・対人恐怖症・赤面症や自律神経失調症はもとより、免疫力が弱まることにより、心身症として各種の病気にかかりやすくなります。胃潰瘍・神経性の下痢などはよく知られていますが、ガンでさえこの範疇に入るとする説も最近では有力です。また病気にとどまらず、例えばドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)をふるう夫や妻・子供、また社会問題ともなっている引きこもりの青年、摂食障害(拒食症)の女の子の一部の内面には、非常に強い恐怖があるといわれます。もちろん今どき、生命の危機といった状況はめったにありませんが、その代わりに、人格・プライドの危機ということがあるようです。非常に弱く、傷つきやすい脆い内面を持っているパーソナリティが、こうした悪循環に陥りやすいとされているのです。引きこもりがほとんど男性、拒食症がほとんど女性であるのは、それぞれの性の発達・成熟への、無意識的な(下意識の)拒否反応であると言えます。催眠状態では、下意識の扉を開け、その声に耳を傾け、表の意識との再統合を図ることができます。・・・私の書き方が下手なため、この本にはエラく難しいことが書いてあるように受けとめられてしまうかも知れませんが、実際はとても簡単で、両腕を用いる精神の弛緩(リラックス)から自分をトランス状態に導入するコツさえ覚えれば、あとは難なく軽い瞑想状態に入れます。僕なりの一つのコツとしては、自分の心(下意識)に向かって、言葉を使わないことです。イメージ・自己身体感覚(ある種の快感)だけに集中すると、スッと入れます。その状態で、びゅんびゅんスキーをしたり、爽やかな野原の具体的なイメージを思い浮かべたりします。私は、自己流のアレンジで、田舎の広い道でガンガンオートバイを飛ばしているイメージなども想像しています。その中で、下意識は開放され、場合によっては解放されてゆき、自分が思うがままに、なるがままに生きているという実感(心理学術語では「エロス」)が回復されてきます。僕なりの解釈では、こういうのはまさに仏教でいう曼荼羅(マンダラ)の観相や、弘法大師空海が修行の取っ掛かりにしたと伝えられる真言密教の記憶術(ちょっと正確な用語を忘れた)などとも、一脈通じるものだと思います。あらゆる宗教の核心部分にこういうメソード(方法)があることは疑いありません。ただ、私はいわゆる“スピリチュアルな世界”に関しては、早大・大槻教授を支持します。それは外部にあるのではなく、あくまで人間の内部(脳)の現象であると確信しています。だからこそ、科学的(非宗教的)なアプローチが可能になるワケです。・・・もちろん、この本の方法論のレベルでは、イチローやゴジラ松井に向かって、「私も草野球をやってるんですよ」というようなもので、月とスッポンの差はありますから、これぐらいで有頂天になってはいけません。修行と悟りの分野がいかにスゴくて深遠で広大無辺かは、ひそかに畏敬し申し上げている内藤湖南さんのブログ「アヴァンギャルド精神世界」をご覧になれば分かるでしょう。しかしあなたは、この本を手にすれば、高次の精神への扉の鍵を手にすることは間違いありません。いわば、「キー・オブ・ライフ」(スティーヴィ・ワンダー)です。さらに進んで、潜在能力や創造性の開発などには、本格的には「禅(禅定)」などの修行や、これをヨーロッパで科学的体系化した「自律訓練法」などをマスターしなければなりませんが、それは現実問題としてかなり大変なことです。この本は、そうしたスピリチュアルなメソドロジー(方法論)のライトな入門編として、とても簡単に入れて、けっこうそこそこ深いところまで行けます。早大教授といえば、世間的には押しも押されもせぬ地位あるインテリジェンス。しかし著者・門前進氏の青年時代も、人一倍悩み多きものだった。厳格すぎる両親に育てられ、自己を見失う苦しみ、それへの反抗。・・・そうした魂の苦闘の赤裸々な自伝的告白も簡単ながら率直に記され、それからの突破口として発見した自己催眠・瞑想を勧める筆致は説得力に富み、共感をもって読めます。もちろん、変な新興宗教団体などとは無縁です。秋の夜長の読書と実践に最適。ストレス社会に生きる現代人必読の、納得の一冊。〔書物としての総合評価:86点〕
2006.09.19
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綾瀬はるか 交差点days綾瀬はるかというタレントについては何も知らないが、何気なくラジオで一聴した瞬間、・・・うん?これは何か違うぞ、と心の琴線に引っかかりまくり、調べてみたら、やっぱし、巨匠・小林武史プロデュース作品でした。僕自身の耳の確かさにも拍手、パチパチ。Bank Band,Salyu,Mr.Children,レミオロメンを同時進行、加えて子育てで活動休止中なのかも知れないがモデル系美女妻 AKKOとの夫婦共稼ぎユニット My Little Lover と、八面六臂で大活躍の小林選手、僕らとほぼ同年輩の、まさに中年の星。その才能と色男ぶり、ウラヤマシすぎるぞサウンド、アレンジメントは、肩の力が抜けつつ爽やかでアクースティック、ライト・ポップ仕立ての中に、相変わらず彼一流の夢幻的な気分が悠然と醸成されている。むろん、完成度は高い。歌唱も、うますぎないところが、うまい。一青ヨウによる歌詞のクオリア(質感)もすばらしい。凡百のラブソングとは明らかに一味違う。
2006.09.16
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CITROËN C4 クーペ&ハッチバックまさかこれを僕のアフィリエイト経由で買おうという酔狂な人もいないであろうから、アフィリエイト扱いは単なるシャレですが、・・・うーむ、見れば見るほどすばらしい車だ。完璧なデザイン、と僕には見える。これこそ僕が長年求めていた車だ。メルセデスを例に挙げるまでもなく、ドイツ車といえば重厚な存在感と質実剛健な性能と造りで知られ、対照的にフランス車といえば、瀟洒で粋な遊び心のあるデザインで、ゲルマン民族とラテン民族の感性と国柄の差異を如実に示してきた。中でもシトロエンは、伝説的名車2CVのころから異彩を放ってきたが、この新型車にもその伝統は引き継がれている。ライバルといえば、デザイン感覚・価格面も含め、どうしても同じフランスのルノーやプジョーということになろうが、ルノーはビミョーに好みでなく、プジョーはちょっとスポーティ指向に走りすぎたか、若向きなデザインに過ぎ、一定以上の年齢では乗るのにいささか照れるのに比べ、こちらは落ち着きと暖かみを感じさせ、好ましい。加えて僕の場合、車の中からどうしても青天井が見たいというわがままな嗜癖がある。巨(おお)きなパノラマルーフが絶対条件である。その点、このC4は日産ラフェスタ、プジョー307SWと並び、世界最大級のパノラミックルーフ(オプション)が用意され、悠(はる)かな青空をこころゆくまで堪能できる。お金貯めて買おうっと。
2006.09.16
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池田澄子句集現代俳句文庫29著者:池田澄子 出版社:ふらんす堂 サイズ:単行本/102p発行年月:1995年06月ISBN:4894021153 本体価格 1,200円 (税込 1,260 円) 送料込 いつしか人に生まれていたわ あなたも?葉桜や生きていて腑におちぬ日の春風に此処はいやだとおもって居る主婦の夏指が氷にくっついてじゃんけんで負けて蛍に生まれたの屠蘇散や夫は他人なので好き躊躇ためらいなく世界に誇りうる cool な日本文化の粋、俳句。たった十七文字にして、完璧で稠密な詩のフォーマット、魔法のパレット、小宇宙。その現代俳句の世界を疾走する天才女流俳人の歩みを、このコンパクトな一冊で鷲づかみ。巻末には現代詩の巨人・谷川俊太郎と「ネンテンさん」こと俳句の巨匠・坪内稔典の解説付き。これは一つのコラボレーションだ。〔書物としての総合評価:86点〕
2006.09.10
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ガイガー計数器(カウンター)といえば、放射能測定器として有名だが、こちらのガイガーは、某国で秘密開発された早熟な核弾頭ミサイルだ。この17歳はスゴイわ。南沙織の「十七歳」とは大違いだ(・・・ふ、古い!)。すでにウェブ上では、ビリー・ジョエルの再来とか、ジョン・メイヤーに並び称される才能とか、ベン・フォールズっぽいとか、Gael Garcia Bernalを薄くした感じだとか、一部聞き慣れない名前も含め評判が飛び交っているが(笑)、僕の知る限りなるほどと思う。ただ、40代のオヂサンにとって、もっと分かりやすい喩えでいうと、このサウンドは、1968年に名盤「ブックエンド」を出したあたりの全盛期のサイモン&ガーファンクル(S&G)に、同じく力作「ホワイトアルバム(通称)」を出した円熟期のビートルズを掛け合わせたような、・・・といった方が分かりやすいし、これ、案外当たらずといえども遠からず、正鵠を射ているように思う。――出だしはS&Gみたいな静謐なフォーク調サウンドで弾き語り風に始まり、聴き入っていると、伏線として潜在していた3拍子が突然炎のように巨姿を現わし、激しいロック調のサビになる。ビートルズで言うと、3拍子系のサビはジョン・レノンが好んで用い、ポールのベースとリンゴのドラムスが分厚い重層感を加え、ジョージの泣きのリードギターが炸裂する構造だったわけだが、Teddy Geigerのこの作品も、独学だというドラムスなど、リズム系楽器のサビのグル-ヴ(高揚)感が素晴らしい。甘いマスクの顔に似合わずなかなかのド迫力と完成された技量は、ある種の「恐さ」さえ感じさせるせいか、ウェブ上では特に女の子の評判が悪いようである(笑)。・・・これは本物だね。ティーンの女の子のアイドル的人気だけではなく、大人が堪能できる実力で、成人男性のファンも付きそうだ。ただ、歌詞は、聴き取れた限り、多少凝ったラブソングといった程度で、それほど大したことは歌ってないように思う。この辺が今後の課題か。ワタクシくまんパパ Daddy Bear は、言うまでもなく Teddy Bear の親戚ですから、この Teddy君にも親しみがあるのである。・・・何のこっちゃ?ちょいとキザさと生意気さを漂わせる前途有為で才能あふれるハンサムな少年は、多くの女性たちの憧れのまなざしと多くの男性たちの嫉妬のまなざしを肥やしに、これからますます大輪の花を咲かせてほしいざんす。 この曲はシングルカットされてないみたいです。このレビューは、Oops! Music Communityに転載します。
2006.08.28
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。先ほど、初めて聴いた。癒された。きわだって特別なアレンジがほどこされているわけではない。美しいメロディが、恬淡とした典雅な伴奏に乗って伸びやかに歌われる。たゆたいながら、まどろみながら、ゆったりとした光芒と清々しい香りをほのかに発しつつ、たおやかに連綿と紡ぎ出されてくる優しさに、僕たちはじわじわと、ひたひたと、馥郁と、包み込まれるように魅了されてしまう。なんと言おうか、例えが適切かどうか分からないが、あの烈しかったベートーヴェンの魂が、聴覚をほとんど失いながら晩年に到達した、静謐な弦楽四重奏曲群の境地のようだ。白鳥の歌とは、こういうことを言うのだろうか。2006.7.16付けの読売新聞によると、あの有名な「浜辺の歌」は、作曲者の成田為三氏(1893-1945)が、ラブレターの中で同窓の女性に捧げた恋歌だったという。贈られた矢田部正子さん(1900-1989、旧姓・倉辻)は、「私には決まった人がいます。」と返信し、成田氏はあえなくフラれ、撃沈した。矢田部正子さんは、この事実を夫で声楽家の矢田部剄吉氏に最後まで話さなかったが、夫の死後、養子で声楽家の鈴木義弘さん(70)に明かし、このほど鈴木さんがコンサートで公にしたという。なるほどな、と思う。小林武史の創り出す音楽にも、いわば常に、そこはかとなくこんな風なニュアンスがつきまとっていて、恋しい、ゆかしい、という感情が、聴くものの心にも湧き上がってくる。小林武史とミスターチルドレン・桜井和寿のユニットBank Bandに、現代のセイレーン、エーデルワイス Salyu がフィーチャリングされたコラボレーションで、またひとつのささやかな神話が降誕した。「to U」という表記には、もちろん意味があるだろう。「U」は、“you”であると同時に、おそらく“universe”であろう。“utopia”も少し入っているかも知れない。小林氏とほぼ同世代の僕には、ジョン・レノンの手になるビートルズの傑作「Across the Universe」が思い起こされる。これは当時彼らがヒンドゥーイズムとともに一歩足を踏み入れていたチベット仏教の世界を詩的に謳い上げたたもので、ビートルズ自体の白鳥の歌になった。多少なりとも神秘性とライトな宗教的境地を感じさせる小林氏の指向性とも合致する。さらに今回の作品のエンディングの音を聴いて、あ、これは“YES”かな?とも思った。小林氏の、サウンドによる暗喩であろうか。インテリジェントなブリティッシュロックバンドだったYESは、プログレッシヴの名でロックを小難しくした張本人でもあるが、すでに'70年代前半の時点で、歴史的名盤「こわれもの Fragile」(アルバム名)や、「全体保持 Total mass retain」(アルバム「危機 Close to the edge」の中の曲名)など、人間と地球環境の濃密な相互連関と脆弱性、そしてそれを保持しぬく意志を示し、歌詞としても、サウンドの表現でも、ポピュラー音楽がエコロジカルな視座による主張を打ち出す嚆矢となった。――こういうのを、マセガキなティーンエイジャーとして聴いて育った僕らは、筋金入りの環境保護指向者といえる。当時のそうした言説と、現在いわれる“LOHAS”ムーブメントとの関係は、ウェゲナーの「大陸移動説」と現代の「プレート・テクトロニクス理論」の関係のようなものだ。理論的に精緻にはなったが、本質的に同じものである。TBS系全国ネット(JNN)の看板番組「NEWS23」のテーマソングという、超一級だがやや色付きのタイアップを得て、小林武史と桜井和寿による歌詞、特に桜井のパートは、わずかに肩の力が入りすぎた生硬な表現が散見される憾みもある。しかし、とりわけ Salyu が歌うファースト・パートは、小林氏十八番(おはこ)の優しく語りかけるような文体と、普遍的なLOHASな感覚と、「もののあはれ」をまといつつ、相変わらず分かったような分からないようなケムにまかれる感じが、イメージ喚起力に盈ち、いつもながら見事である。たとえば、モネの睡蓮の絵みたいな、イメージのニルバーナ(涅槃郷)である。7分を超える大作だが、詩的内的ドラマの展開に、一瞬たりとも退屈しない。焦り、頑張り、悩み苦しみ、傷ついた人に、「もっと人を好きに、もっと今が好きになれるから、あわてなくても、頑張らなくてもいいよ」と呼びかける、穏やかなメッセージを運ぶ抒情的な名編。遠くにいるあなたに/今言えるのはそれだけ。Salyuの大ファンなので、ホメすぎてます(笑)。2006年7月16日
2006.07.27
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。遅ればせながらやっと聴いた。その結果、稀に見る傑作であり、至高だと感じた。この曲の作詞作曲編曲プロデュースをしている小林武史の作品群は、一般的に言えば当たりはずれがあると言うべきなのであろうが、どういうわけか出す曲出す曲が筆者の心の琴線には触れまくり、ツボにハマリまくり、痒いところに手が届くというか、こんな感じのサウンドが聴きたいなあと漠然と思っている願いが、次々と叶えられる魔法のようなミュージシャンなのである。この曲も全く奇蹟のようにすばらしい。意表を突いているといえるほどのゆったりとしたテンポに乗せて、アンニュイとデカダンスとソフィスティケイション溢れる小林武史の内的宇宙が惜しみなく開陳される。ほかの多くの曲同様、瞑想的というか治癒的というか、イメージ喚起力に満ちたサウンドと歌詞である。僕はこれらを「コバタケ節」と名づけたい(笑)。たぶんこれを、テンポが遅すぎ、トロくて退屈と感じる人もいるだろうと思う。以上は僕の主観に過ぎない。ただし確信に近い主観ではある。小林氏は僕とほぼ同世代であり、もう若くはない。すでに音楽通好みの洗練された感覚で多くの自作品、編曲作品を残し、功なり名遂げたといっていい立場である。その揺るぎない座標軸から繰り出される最近の作品、特にSalyuに提供している作品群は、肩の力がすっかり抜けて、ある種の枯淡の境地・・・というと言葉が違うかも知れないが、いわば平明にして深遠、写実にして象徴、みたいな、松尾芭蕉のいう「軽み、細み」に達している、といっても当たらずといえども遠からず、であろう。かすかなユーモア/諧謔味すら感じられ、プロモーション・ビデオクリップ(PV)では映像でその辺も強調されていて楽しい。Salyuのヴォーカルは、毎度決まり文句のように書いてるが、超絶的なまでに美しく、特にこの曲では小林氏の期待に見事に応えている。2005年12月5日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。春の夜の夢の浮橋とだえして峰に分かるる横雲の空 (新古今和歌集38)大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (同40)見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ (同363)靡かじなあまの藻塩火焚きそめて煙は空にくゆりわぶとも (同1082) 和歌史上の最高峰と言われる、藤原定家の作品群であるが、作詞、作曲、編曲のプロデューサー・小林武史の作風に、これと似た通奏低音を聴く思いがするのは僕だけだろうか?・・・僕だけだろうな(笑)。 「小林武史史」的に言えば、「風に乗る船」は、十八番(おはこ)の手の込んだ失恋の歌(ロストラヴソング)であると同時に、もう15年も経ってしまったが、出世作となった小泉今日子「あなたに会えてよかった」の壮大な変奏曲(ヴァリアシオン)という感じもする。 この曲は小泉今日子が現在の文才につながる作詞家としての才能を開花させるとともに、小林武史の作編曲者としての評価が定まった記念碑的名品。今聴いてさえなかなかのものであるが、当時の耳で聴いた時は、ずば抜けて洗練されたサウンドだった。 また自ら率いる夫婦共稼ぎのユニット「My Little Lover」のデビュー曲「Hello Again~昔からある場所」や、サザンオールスターズ中期の「世に万葉の花が咲くなり」など和風趣味の時代に培われた、桑田佳佑とのいい意味の相互交流・依存関係、原由子に提供したレトロで甘美なサウンドなどにも同様に、「失われた時空」への研ぎ澄まされた感性の冴えがほとばしっていた。 一人の表現者の主要なモティーフというのは変わらないものである。箪笥の引出しもそうそうないワケで。 加えて小林氏の異色なところは、ラヴソングでありながら、自己治療・治癒・回復、「魂の救済・再生」的なモティーフを絶えず目的意識的に追求しているところである。 「神は死んだ」(ニーチェ)時代にあって、瞑想的でありつづけ、失われた楽園/調和、空虚/うつろさの中から脱出し、飛翔しようとする意志が、作品には散りばめられている。 小林氏と僕はほぼ同世代であり、才能は月とスッポンながら、おそらく聴いてきたもの、見てきたもの、愛してきたものはだいたい同じようなものであろうと察せられ、この辺のいわく言い難いニュアンスは肌で分かる。 コマーシャリズムの要請をこなしつつ、特にSalyuに提供している楽曲では、アーティスティックなものをかなり自由に表出しているように見える。歌詞を額面通り読めば、「京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり」と似たような世界だと思うが、手練のシェフが料理すると、こうなるということだ。 歌詞の「あなた」も、深読みをすれば、失われた神的概念かも知れないのだ。それは、「自分の苦悩を計るためのメジャー」に過ぎないと、ジョン・レノンは歌った(「神」)。 神に代わる新たな補助線はありうるのか?それは僕らの世代を中心としつつ、普遍的に問われる問である。 僕も下手な短歌など詠むのでいくばくか知っているが、表現行為にはある種の超越的な精神状態・トランス状態に入ることが不可欠である。小林氏は、このトランス状態そのものを音楽作品として呈出できる異能を持っているように思える。 瞑想的な死と再生・タナトスとエロスの通過儀礼の中で、詩的言語と音のイメージの種を播き散らし、その想像力で聴くものの魂を救済さえしてしまう。これは幻想といえば幻想であるが、価値ある幻想であり、人生の意味でさえありうる。そのまなざしは対自然的・エコロジカルな方向へ注がれる。 根源的にクリティカル(批評的)でありクリニカル(臨床的)である。・・・このダジャレ、座布団2枚である。 小細工を弄さない、適度にグルーヴィーな曲調は青空のように爽やかなスケール感があり、相変わらずベースとリードギターのアレンジが達者である。ゆったりとしたベースラインと洗練された高揚・グルーヴ感に、ますます冴えるSalyuの伸びやかな緩急自在の超絶的ヴォーカルが絡み合って、極上のサウンドの宇宙が醸し出される。至高。 ・・・このレビュー、あとで読みかえしたら、ちょっとほめすぎでした。前作「彗星」にはやや及ばない。2005年11月7日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。僕はこれを聴いてもいないし買ってもいないのですが、買った方によると、・・・だそうです。想定内ではあるが、最悪の事態かも知れない。さもありなん、とも思う。「landmark」なんて、ありがちなタイトルを見たときから、なんかヤーな感じはしていたザンス。僕が謝ることもないのですが、これまでSalyuのシングルを極めて高く評価してきたものとして、ミスリードの道義的責任を感じちゃいます。小林武史って人は、水もしたたるいい男で、女房(マイリトルラバー・AKKO)はスレンダーなモデル系美女、これまでやることなすこと(ホームランとは言わないが)クリーンヒットの連続で、言わばイチローみたいなJ-POP界の3割打者。これでナルシストになるなという方が無理かもしれない。「自己愛・自己顕示欲」というのが、芸術・芸能分野では非常に大事な資質であることは僕などが説明する必要もないだろうが、一歩間違うと、鼻持ちならないスノビズム(気障ったらしさ)と、果てしのない「自分いぢり」になっちゃう。ミスチルには確かにその弊害を感じるね。・・・しかしベテラン小林選手ともあろうものが、そういう苦情を言わせちゃいかんよね。まことに遺憾に存じます。2005年10月9日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。 おそれいりました。――何というやすらぎ。超越的なhorizon。 小林武史の研ぎ澄まされた感性の楽曲と、現代のセイレーン Salyu の伸びやかな超絶のヴォーカルがあいまって、24時間浸っていたい、音のnowhere land、シャングリラ・桃源郷・xanaduが現出している。J-POP、今年最高の達成の一つ。至高supreme。 歌詞は、小泉今日子やマイリトルラバー以来小林氏十八番の、手の込んだロストラヴソングにして深遠を漂わせる、洗練された現代詩。おそらく思春期か青春時代に彗星のように現れて消えた恋人への追憶と、神秘的な愛の結合・・・のようなものを美しく結晶させている。 「Valon-1」の時もそうだったが、一見おちゃらけたビデオ・クリップ(PV)に、他の音楽関連サイトでブーイングが噴出しているが、僕は不覚にも感涙を禁じえなかった。「明るく楽しい東宝映画」のサラリーマン喜劇を思わせるシチュエーションのパロディーが笑わせつつ泣かせる出色の出来。Salyuに導かれて、あのハゲチャビンの「部長」(好演!)と一緒に、少年に帰ろう。2005年5月19日
2006.07.26
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Bank Band with Salyu の新曲"to U"が大きな反響を呼んでおり、Mr.Childrenの桜井和寿とともに、相変わらず見事なヴォーカルを披露している天才的若手実力派女性歌手Salyu(サリュ)も大ブレイクの予感がする。彼女は、すでに音楽ファンの間ではその“超絶的”歌唱力に定評がある。そこで、これまでに Oops!Music Community(ライブドア系音楽ファンサイト)/「クマゴロー」マイページに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。 [Valon]J-POP、今年最高の収穫の一つ。鬼才・小林武史の魔術。いっぺんに新進女性ヴォーカリストSalyuのトリコになった。セイレーン、エーデルワイスの幻の歌声か。この底知れない大器を生かせるのは小林武史氏しかいない。今後も支えてやってほしい。一見意味不明のタイトルは、コラボレートしているリップスライムのイルマリの母国フィンランドのフィン語で、「光の中へ」の意味だという。英和、仏和、伊和、独和、西和、羅和、エスペラント語辞典を引っくり返して調べて、損した(笑)。なお、我が家では赤ちゃんの子守唄として使用、可愛い愛娘もジワ~っと涙を溜めて感動して聞いてます。いやホント。音楽的感性は血筋だろうか。 ・・・単なる親バカですから。残念!(笑)。 2004年12月13日「Valon-1」は、“Valon ネイキッド Naked ヴァージョン”といっていいだろう。「Valon」のラップを外し、よりシンプルで力強く、ゆったりしたルーズ感のあるロック・バラードになっている。「Valon」は、“リリイ・シュシュ”として一部では知られつつも、ほぼインディーズシーンのマイナーな存在に近かったSalyuを売り出すために、Ilmariのラップを加え、きわめて稠密(ソリッド)なヒップホップ系のポップな創りになっており、これはこれで悪くないどころかすばらしい収穫だったが、作曲者・小林氏の本意ではなかったのだろう。こちらは、本来の着想と意図がありありと聴き取れて、小細工のない通好みのアレンジになっている。ただし、どちらにしても、主役はあくまで、明らかにSalyuのヴォーカルであり、その存在感と説得力は並ぶものがないといっていいだろう。・・・しかも、この上なく可愛い。われわれは、一つの奇跡を目にしているのだろう。
2006.07.26
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先ほど、初めて聴いた。癒された。きわだって特別なアレンジがほどこされているわけではない。美しいメロディが、恬淡とした典雅な伴奏に乗って伸びやかに歌われる。たゆたいながら、まどろみながら、ゆったりとした光芒と清々しい香りをほのかに発しつつ、たおやかに連綿と紡ぎ出されてくる優しさに、僕たちはじわじわと、ひたひたと、馥郁と、包み込まれるように魅了されてしまう。なんと言おうか、例えが適切かどうか分からないが、あの烈しかったベートーヴェンの魂が、聴覚をほとんど失いながら晩年に到達した、静謐な弦楽四重奏曲群の境地のようだ。白鳥の歌とは、こういうことを言うのだろうか。2006.7.16付けの読売新聞によると、あの有名な「浜辺の歌」は、作曲者の成田為三氏(1893-1945)が、ラブレターの中で同窓の女性に捧げた恋歌だったという。贈られた矢田部正子さん(1900-1989、旧姓・倉辻)は、「私には決まった人がいます。」と返信し、成田氏はあえなくフラれ、撃沈した。矢田部正子さんは、この事実を夫で声楽家の矢田部剄吉氏に最後まで話さなかったが、夫の死後、養子で声楽家の鈴木義弘さん(70)に明かし、このほど鈴木さんがコンサートで公にしたという。なるほどな、と思う。小林武史の創り出す音楽にも、いわば常に、そこはかとなくこんな風なニュアンスがつきまとっていて、恋しい、ゆかしい、という感情が、聴くものの心にも湧き上がってくる。小林武史とミスターチルドレン・桜井和寿のユニットBank Bandに、現代のセイレーン、エーデルワイス Salyu がフィーチャリングされたコラボレーションで、またひとつのささやかな神話が降誕した。「to U」という表記には、もちろん意味があるだろう。「U」は、“you”であると同時に、おそらく“universe”であろう。小林氏とほぼ同年輩の僕には、ジョン・レノンの手になるビートルズの傑作「Across the Universe」が思い起こされる。これは当時彼らがヒンドゥーイズムとともに一歩足を踏み入れていたチベット仏教の世界を詩的に謳い上げたたもので、ビートルズ自体の白鳥の歌になった。多少なりとも神秘性とライトな宗教的境地を感じさせる小林氏の指向性とも合致する。さらに今回の作品のエンディングの音を聴いて、あ、これは“YES”かな?とも思った。小林氏の、サウンドによる暗喩であろうか。インテリジェントなブリティッシュロックバンドだったYESは、プログレッシヴの名でロックを小難しくした張本人でもあるが、すでに'70年代前半の時点で、歴史的名盤「こわれもの Fragile」(アルバム名)や、「全体保持 Total mass retain」(アルバム「危機 Close to the edge」の中の曲名)など、人間と地球環境の濃密な相互連関と脆弱性、そしてそれを保持しぬく意志を示し、歌詞としても、サウンドの表現でも、ポピュラー音楽がエコロジカルな視座による主張を打ち出す嚆矢となった。――こういうのを、マセガキなティーンエイジャーとして聴いて育った僕らは、筋金入りの環境保護指向者といえる。当時のそうした言説と、現在いわれる“LOHAS”ムーブメントとの関係は、ウェゲナーの「大陸移動説」と現代の「プレート・テクトロニクス理論」の関係のようなものだ。理論的に精緻にはなったが、本質的に同じものである。TBS系全国ネット(JNN)の看板番組「NEWS23」のテーマソングという、超一級だがやや色付きのタイアップを得て、小林武史と桜井和寿による歌詞は、珍しく、わずかに肩の力が入りすぎた生硬な表現が散見される憾みもある。しかし、とりわけ Salyu が歌うファースト・パートは、小林氏十八番(おはこ)の優しく語りかけるような文体と、普遍的なLOHASな感覚と、「もののあはれ」をまといつつ、相変わらず分かったような分からないようなケムにまかれる感じが、イメージ喚起力に盈ち、いつもながら見事である。たとえば、モネの睡蓮の絵みたいな、イメージのニルバーナ(涅槃郷)である。焦り、頑張り、悩み苦しみ、傷ついた人に、「もっと人を好きに、もっと今が好きになれるから、あわてなくても、頑張らなくてもいいよ」と呼びかける、穏やかなメッセージを運ぶ抒情的な名編。 Salyuの大ファンなので、またまたホメすぎてます(笑)。このログは、Oops! Music Community(ライブドア系音楽ファンサイト)に転載します。
2006.07.16
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これはつまり、’00s(ノーティーズ)の「飾りじゃないのよ涙は」かも知れない。「君」と一つになって「完璧な空」を見るとき、「あたし泣いたりするんじゃないかと感じてる」のだろう。それまでは、「君の胸で泣かない/君に胸焦がさない」わけである。・・・いやに胸が強調されているけれども(笑)。(僕はオッパイ星人ではないよ。)「午前0時に家を抜け出して」、ショットバーかどこかで「ギムレット」を飲んで少し目を覚ましたりするチョイ不良(ワル)ムスメでありながら、ある種の操(みさお)があるとも言える。ちなみに「みさお」の語源は「御青」であり、永久(とわ)に変わらぬ蒼穹の青さをいう言葉であるから、まさしくパーフェクト・スカイである。私のアクロバティックにして牽強付会なまでの連想能力で強引に繋がった(笑)。「君」への溢れる愛を胸に宿しながら、夏の浜辺でカモシカのような脚でダンスしたりしても、簡単には言いなりにはならない。おもねらない。相手を焦らして「ちょっと危険なかけひき」を弄したり(他の男の影をちらりと匂わせたり?)もする才覚もある、コケティッシュで小悪魔でクレバーな人物像の女性である。うむ、なるほど、これはなかなかいい女ではないか。そんなヤツ、ジッサイにはおらへんで、とも思うが・・・。こういう完璧な紺碧の空のイメージは、僕などにとっても、確かにかつて見たことがある何かを思い起こさせてくれる。ポップ・ミュージックに現われたものとしては、何と言っても、直ちにビートルズの名曲「ビコーズ」が思い出される。ジョン・レノンによって書かれた歌詞“Because the sky is blue,it makes me cry.”の深く蒼い空の色が色褪せることは、未来永劫ないだろう。さらに言うと、もうあしかけ3世紀ということになろうか、19世紀末フランスの象徴主義(サンボリスム symbolisme)の詩人たちの作品にも現われていた。ポール・ヴァレリの「若きパルク」辺りの頭上に輝いていたのも、同じ青空ではなかったか。象徴派の総帥ステファヌ・マラルメには、そのものズバリ、「蒼空」という作品もある。アントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」を見守っていたのも、完璧にして広大無辺、永遠にして無関心な青空だった。宇宙空間というのとは違う、いわば天動説的な素朴実在な青空は、それ自体われわれの憧憬をいざなってやまないのだ。話がそれたが、これは資生堂のCFとのタイアップという極上の商業主義的環境の中で醸成された、プロフェッショナルな作品である。作詞作曲・編曲・歌唱の全てがスタイリッシュできっちりとしたプロの技を示している、職人芸的J-POPの佳品と言える。BONNIE PINKって、生き馬の目を抜くJ-POPシーンでは少し地味目な存在だけど、本当に才能に溢れていると思う(ただ、ブラス系の音が個人的にはあまり好きではないのだが、それはまあ、置いとく。)このログは、Oops!Music Communityに転載します。
2006.07.07
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一聴して、沁みた。小田急線の電車から見る桜にあなたを思い出す、という歌詞は、電車から見るだけになった、揺れる柳の道にあなたを思い出すという、荒井由実の歴史的名曲「卒業写真」に似てるな、なんて思っていたら、なんと彼らのメジャーデビューのアルバムに、その「卒業写真」のカヴァーも収録されているのだった。十分に確信犯であり、今この時の「卒業写真」を生み出そうとする意気込みが感じられる。歌詞もメロディーもアレンジもなかなか洗練されていて、インディーズ(セミプロ)シーンではすでに3枚ものアルバムを出しているという実力のほどがうかがえる。大型新人ユニットの登場といえよう。ユニット名「いきものがかり」も実にいいセンスだ。僕なんか思わず、イエスの名盤「こわれもの」を連想してしまった。同級生のメンバー二人がピカピカの小学校1年生だった時の学級委員「生き物係」に由来するらしいが、こうしてグループ名として呈出されると、けっこう深い寓意性を伴って聞こえるから不思議なものだ。微妙にしろうとっぽいが力強い歌唱が、ニャンともキュートで、胸キュンな一曲である。全然関係ないが、日産の軽自動車モコの新型は大ヒットらしい。なるほど、「愛したいほどスタイリッシュ」である。今注文して、納車は7月だという。景気のいい話ではある。
2006.04.02
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思はず、旧仮名づかひで書きたくなつてしまつた。リリイスされてから間もなく一年が経つ。この曲にふさはしい季節が近づいた。切なくも美しい珠玉のバラードである。たぶんこの世では添ひ遂げられなかつた「私」と「あなた」の恋物語である。川江美奈子の見事な歌詞からは、きつぱりと「夏」が捨象されてゐる。桜色舞ふころ/私はひとり/あなたへの想ひを/かみしめたまま想ひをかみしめたまま、どうなつちやうんだらう。死んぢやうんだらうか?さうだとしても、それでよかつたのかも知れない。花吹雪の舞ひ散る中で、私にはあなたを想ひつづけながら息絶える自由と至福があるのである。西行だね。願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 西行(山家集)東洋思想の四季観と人生観によれば、人は玄冬(~15歳)、青春(~30歳)、朱夏(~45歳)、白秋(~60歳)を生きて、60歳の還暦で再び生まれ変はる。赤いちやんちやんこで赤ちやんになるわけだ。それぞれを象徴する想像上の動物(四神)は、玄武(亀)、青龍、朱雀(すざく)、白虎(びやくこ)。それぞれ北、東、南、西に当たる。高松塚古墳の内部に描かれてゐるのがそれである。また、皇太子を東宮(とうぐう、はるのみや)と呼ぶのもさういふ意味である。さらに、大相撲櫓(やぐら)の四隅に垂れ下がっている、赤房・青房・白房・黒房というのも、これを表象したものである。・・・などと、またしてもつまらぬ知つたかぶりをしてしまつたが、この歌は、そのやうな人の四季/時空を歌つているやうにも聞こえる。桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける 紀貫之(古今和歌集89)文部省唱歌風の清潔感溢れるピアノのイントロで始まるサウンドは分厚く、強調(エンハンス)されたベースの音色が重厚にして甘美、スタティック(静謐)でソリッド(稠密)な音の宇宙のプレゼンス(現前)を実現してゐる。あくまで独断だが、僕の中では稀に見る完全音楽作品であり、シンガー/ヴォーカリスト中島美嘉の頂点を密やかに刻んだ逸品である。このレビューは、http://oops-music.com/ に転載します。
2006.03.26
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一作一作が本当に楽しみな宇多田ヒカルの新作は、一見やさしい風合い・テイストのハッピーチューンである。曲調も歌詞もPVの映像も、そこはかとなく既知感(デジャヴ)を漂わせ、パロディーがかったパスティーシュ(遊戯的模倣)感を軽やかに操りながら、前向きに挑戦する者を鼓舞しつつ、伸びやかに嬉々として舞われる、歌の千金の舞である。このところ、一つの重要な持ち味であるカウチポテトチックなひきこもり的メランコリー(憂愁)に沈潜していた彼女が、久しぶりに陽だまりの庭から春の日の当たる坂道に姿を現わした。日食神話のアマテラスオオミカミが天の岩戸から出てきたような感じか。どうりでヒカルわけだ。それでいて、彼女の中に流れる女性と母性と表現者の血が、単純に楽天的でノーテンキなバラ色の未来絵図の絵空事を描くことを許さない。歌詞は、日常会話的表現を巧緻に織り込みながら、相変わらずのリアルさ溢れるユーモアの連発であり、主知的・構成的な現代詩である。彼女は、螺旋状に旋回しながら光に向って上昇してゆくヒバリのようだ。絶望と希望。鬱と躁。憂愁と昂揚。死と生。少年と少女。少女と女。男前と女っぽさ。生意気と素直。ラピスラズリとピンキッシュ。それらの間(あわい)を自在に翔けめぐって。――少年はいつまでも いつまでも片思い/情熱に情熱にお値段つけられない/お父さん Keep trying,tryingには爆笑しましたよ。シニシズム(皮肉)とシンクロニシティ(共感)。これってまさか、オレのことかとゲーテ言い。その反面、さりげなく歌われる歌詞、――月夜の願い 美しいものだけれど/標的になって 泥に飛び込んで/ Lady,レッツゴー――は、やっぱり宇多田である。パセティックである。悲愴な覚悟である。チャイコフスキーである。詩的表現において、直接的な時事詠ほど野暮で空虚なものはないが、この詩はその陥穽に陥ることを巧妙に避けつつ、高次の現代日本の状況論になっていることは見て取りやすいところである。「コッカコームイン」なんて言葉がこれほど生き生きと昇華されたコンテクストの中に置かれた例を知らない。珍しく、彼女の自家薬籠中の畢生のテーマ「ロストラヴ」から距離を置いたことも注目される。このアトモスフィアは、名曲「traveling」に近く、その達者な変奏曲とも言えようが、こういう前向きな歌になると、コスプレっぽくなるのが彼女の癖らしい。メイド風ウェイトレス、女子高生、婦人警官、バーのママ、けっこう無理なく似合ってます(笑)。イントロからの甘美で神秘的なトーン・クラスターは、すぐれたプログレッシヴ・ロックに脈々と流れてきた響きであり、それ自体が一つのノスタルジックで治療的な作用をもたらす、マジカル・ミステリー・サウンドである。それで思い当たったが、ビートルズ「マジカル・ミステリー・ツアー」をリアルタイムで聴いた人は、どう思っただろうか。凄いことは間違いないが、どう評価すればいいのか、途方に暮れたことであろう。宇多田のこの新作にも、同じことが言える。おりしも、Monkey Majikの「Around The World」がこの曲とヒットチャート1,2位を競っているが、ある意味好対照である。そちらは、ひたすらノーテンキでゴキゲンなノリである。聴いて取れるすべての要素が、ゴダイゴ、ビージーズをはじめ’70~’80年代の洋楽ポップミュージックの快楽のごった煮(ポ・ト・フー)であり、どこかで聴いたことのあるサウンドであるが、キレが良くソリッドで、一流である。このタイトルにしても、オリヴィア・ニュートン・ジョンが音楽の女神ミューズを演じたロック・ミュージカル「ザナドゥ」に同名の曲があったように思う。POP職人芸である。ギターのリフの音色がにゃんとも心地いい。――水戸・偕楽園の「梅まつり」に行くついでに足を伸ばして、早春の大洗海岸の道路をブッとばしながらガンガン鳴らしたら快感だと思う。・・・が、それだけである。後に何も残らない。後腐れがなくていいかもしれない。ゆきずりの、ひと夜限りのうたかたの恋みたいなものである。これはこれで音楽のお気楽な愉しみである。その関連でいえば、今を去ること30有余年、人気絶頂のアイドル歌手かつコメディアンだった堺マチャアキが孫悟空を演じた、元祖「西遊記」は良かった。猪八戒には、今年は徳川家康になっている、当時売り出し中の新進気鋭の新劇俳優・西田敏行。ものすごくカンのいいコミカルな演技に、当時中学生だった筆者でさえ瞠目させられた。音楽は、ゴダイゴのミッキー吉野のセンスとタケカワユキヒデの英語詞がそれまでのドラマBGMの常識を引っくり返し、一世を風靡した。NHKのニュース、報道、お知らせなどのテーマ曲・BGMは、それまでクラシック調だったが、’70年代初頭のこの時期、一斉にポップス・ロック調に変わった。ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」も、確かNHKの何かのキャンペーンソングだったと記憶している。革命的な変化であり、時代の変わり目を鮮烈に感じた。そして、嗚呼・・・、三蔵法師は、大輪の薔薇、あるいは紅の花椿のまま世を去った、同い年の夏目雅子さまであった。話が逸れたが、こちらは聴いたあとにズシンと何か、煮凝(にこご)りのような、澱(おり)のような、粕(かす)のような、ゼリー状のもの(?)が心に残る。宇多田ヒカルの魂から発信された霊気であろうか。聴く者の感覚、人生観に作用する、モンキー・マジックならぬヒッキー・マジックである。・・・ザブトン1枚。荒川静香選手のフリースタイル4分間の完璧な金メダル演技と、宇多田ヒカル選手の4分50秒のパーペキな表現とどっちが上かと問われれば、どっこいどっこいの勝負である、と言えるのではないか。この稿は、「Oops!Music Community」に転載します。http://oops-music.com
2006.03.05
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ハートウォーミングであり、爽やかな風が吹き抜ける、見事な作品。最近たまたまこの曲を聴き返す機会があり、「Oops!」の当該項目をチェックしてみたら、何の評価もなされていないのに愕然とした。及ばずながら/遅れ馳せながら/恥ずかしながら一言する。昨年の「涙」、「さくら」など決定的な傑作で、’06年弥生3月現在「巨匠」の地位にあると見られている彼らの、原点に近い出世作といえよう。寡聞にして僕はこの曲で初めて彼らを知った。しばらくは頭の中で何十回もプレイバックしていた。感動の余り、川柳や短歌が次々と出来た。http://utanookeiko.seesaa.net/それ以来この曲は、密かな心の宝物である。にゃんともストレートな、というか、臆面もない、というべきか、男同士のピュアな友情である。聴くたびに照れまくり、聴くたびに泣かされる。彼らも出て熱演しているPV(プロモーション・ビデオクリップ)に従えば、元サッカー少年同士の設定である。むろんノーマルである、念のため(笑)。流麗で洗練されたオーケストレーションを絡ませて、爽快だが淡々としたピアノとリズムセクションのリフレインが繰り返される中、研ぎ澄まされたライム(詩)が延々とラップされてゆく。ラップは、時にアクロバティックなほど達者だが、シャウトしたりすることは全くなく、抑制された稠密な表現を堆積させながら、じわじわ、じわじわと感情の昂ぶりをいざなってゆく。聴いている側も、ラッパーの側も、もうこれ以上抑えきれないと思う瞬間、感情の迸(ほとばし)りが爆発するかのように、唯一のメロディーのモティーフが現われ、高らかに歌われる。こちらはもう、滂沱の涙となる。時間性の芸術・音楽の醍醐味であり、これがあるから音楽中毒は病膏肓に入って、草津の湯でも不治である。例えばJ.Sバッハ「マタイ受難曲」の最後のクライマックスの天上の響きである。ビートルズ「ヘイ・ジュード」の「better,better,better,better・・・」で前半から後半部に移る瞬間である。一種の「至高体験」であり、法悦である。この時、大脳生理学的には脳神経シナプス回路では、神経伝達物質(脳内ホルモン)のドーパミン(面白がり感動物質)、セロトニン(沈静物質)、βエンドルフィン(快感物質)などがドバっと分泌されているわけである。エクスタシーを感じるのは当然である。なお、この状態が脳の若返り・回春に効果があるというのは、ご承知の通り、近年の定説的知見になりつつあると言って差し支えない。彼らは、この音楽表現の一種の様式美を自然に会得しているのであろう。リーダーは天才というべきである。この様式美への指向から、「花鳥風月」的な発想も生まれるのであろう。それにしても、PVの映像によれば、この曲では、今は一流のサッカー選手になりながら怪我をして故郷に一時帰り、サッカー少年だったころを懐古する河原、「涙」では、お笑い芸人をめざす若者二人の熱く、激しい情熱の葛藤、「さくら」では、映画監督を目指しながら挫折し、今は建設会社のしがない営業マンの青年(萩原聖人)の前に現われて去っていった、桜の精のような美少女とのつかの間の恋が、会社の屋上に飛んできた一片の桜の花びらによって脳裏に甦る。ヒップホップやラップの現代的な装いに潜ませた、男の人生の隠れ浪花節がここにある。日本人のゲノム/DNAなんだな~、これが。実は、K君という元サッカー小僧であり、今は映画監督・プロデューサーであり、時には映画俳優である同級生がいるのだが、彼の心象風景そのものではないかとも思ったりする。ところで、その「さくら」のPVで、主人公の映画青年が恋するスレンダーな絶世の美少女役のモデルさん(?)は、最近資生堂「マシェリ」のCMにも出ている。http://www.shiseido.co.jp/macherie/ぜひ売れてほしい。蔭ながら応援している(笑)。このログは「Oops!Music Community]に転載します。http://oops-music.com/top/
2006.03.03
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